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  [No.368] 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28

「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」の末尾

「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。


「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」



「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。

(注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)

ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。

この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。

確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。

取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。

云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)

況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。

況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。

(注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)

前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。

(注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)

これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。

(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

(注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)

(注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)

従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。

ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。

前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。


「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
(氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。

唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
但し、「影の抑止力」を持った。
ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。

当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」

以上の関係式が出来る事に成る。

(注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
「清和源氏の満仲−頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
上記の関係式を捨てたのである。)

「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。

(注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)

従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。

そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」

(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。

つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
“「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
「主君−家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君−家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。

「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。

従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。

そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

(注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)

この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。

(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。

(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)

故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。

この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に“「後家」”もである。

(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)

「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)

そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。

この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。

唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。

それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。

(注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)

「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。


注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
(言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)

そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。

奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。

恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。

注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
これを要約すると、次の様に成る。

1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
9「水司」は「水回り」の仕事、
10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
12「縫司」は「衣服回り」の仕事

以上と成る。

この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。

この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。

(注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)

上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。

元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。

ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。

この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。

注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。

時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」

∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」

以上の論理が成り立つと観ている。

更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。

故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。

この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。

> 「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


  [No.369] Re:「青木氏の伝統 49-1」−「青木氏の歴史観−22-1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/22(Mon) 10:41:57

> > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」の末尾。

> 注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
> 故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
> そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
> そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
> これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
>
> 時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
> 内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
>
> ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
>
> 以上の論理が成り立つと観ている。
>
> 更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
> この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
> 云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
> 当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
> この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
>
> 故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
>
> この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
> 故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
> これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
> これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
>



「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−22」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

然し、ここで、先ずは一つ疑問がある。
それは、“この「後家の表現」を「青木氏族」が使っていたという事を、又、何処でその資料と成る物が世間に漏れたのであろうかである。”これが「疑問−1」である。

この疑問に触れて観る。
そもそも、これは上記した様に「青木氏族」の「四家の中だけの制度」であり、この事は当時の「ある書物の記録」(不記載とする)として記述されている。
この「後家の処置」は、元より、「青木氏族」としては知られたくない一種の「隠れ蓑の策」であった筈なのだ。
確かに、「光仁期(770年)」から「仁明期(847年)」の「約80年間程度」は、少なくとも「直系尊属の氏族」として前段でも論じたが「政争」に巻き込まれない様に「青木氏の氏是」を護って何とか遠ざかろうとしていた。
従って、「四掟の血縁」に依ってこの「政争」に引き込まれる可能性が高まるが、これを避けようとすればこの「後家の隠れ蓑の策」は是非に必要であった。
期間的に観てこの“「後家の隠れ蓑の策」”を使用するとした場合の期間を、検証すると長く観ても「天皇家とその周りの族の政治的混乱期」が続いた「清和期(960年代頃)」までの間の事であろう。

前段でも論じたが、歴史的には「清和源氏(経基―満仲)」そのものがその「張本人の一人」であった。
この時、歴史的に「秀郷一門(青木氏族の秀郷流青木氏を含む 960年頃)」が敵視され大きく影響を受けた。
注釈として、「関東での政争・将門の乱等」と「瀬戸内の純友の乱」が代表的である。
この様に、二つの「青木氏族」はこれらの「政争」から何とか逃れようとしたのである。
故に「関東の秀郷流青木氏」、「讃岐の秀郷流青木氏」は逃れられなかった事に成り巻き込まれた。

この「政争」に“何が起こったか”と云うと、取り分け、秀郷一門の「青木氏族」と成った「主要五氏」に対しては、「円融天皇の補完策(960年頃)」により「特別優遇」され「最高の位階や官位」を次々と与えられた。
然し、「清和源氏(経基―満仲)」にはこの特別優遇は無かった。(羨望と嫉妬)
それが故に、この「青木氏族」の「弱者の女性」(位階を持っている)は、「他の氏族」から「絶好の婚姻策の相手」と定められて“「政争の具」”と成って巻き込まれる事と成って行った。
この時、この結果、矢張り、光仁期の「五家五流青木氏」と同じく、この“「政争の具」”に使われる事を嫌って、上記の様に「女系の妻嫁制度」をより充実させてより確立させている縁戚の「伊勢や信濃の青木氏(救済策)」に逃げ込む事が多く成った。

ところが、未だ「伊勢の秀郷流青木氏」を除き「他の主要な青木氏族」にはこの制度は未完であった。
それには、「嫁家先制度」に関わらない場合には、「女(むすめ)」として入る事、将又、即座に「入妻」として入る事の二つは、「掟」の上では困難であった。
そこで、どうしたかと云えば、“「隠れ蓑の策」”として造り上げていた“「後家制度」”で隠れて、その制度の中で何とか“「青木氏族」”として生きようとしたのであった。

これは「源氏族の様な朝臣族」に執つては「羨望」と云うか、寧ろ「嫉妬」に近いものがあって、更にこれを「政争の具」と云うものにして引きずり込ませ様とする「煩わしい環境」の中にあった。
高い位階と官位を与えられる同じ賜姓朝臣族でありながらも、彼らは「嵯峨期の詔勅」で冷遇されていたのである。
だから当然と云えば当然なのだが。況してその「補完役」までも自分たちを超えて厚遇されていたのだ。

この為に「伊勢、信濃の青木氏」と血縁関係の深かった「位階の持つ嫁家先(四掟)」の「秀郷一門の主要五氏の青木氏族(青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏)」は、「戦乱や政争」に明け暮れていた事から空かさずに「女系での子孫存続」に懸けて大いに救済を伊勢らに求めてきた。

(注釈 この事は、「青木氏の資料」は元より「佐々木氏の資料」にも、「純友の乱の研究記録」の一環として、「讃岐秀郷流青木氏等の青木氏族」の行でこの「混乱の様」が記載されている。
これは「秀郷流青木氏116氏24地域の分布」にも大きく影響を与えていた様である。
それは「現地孫の増加」と「家紋分布の変化」に顕著に観られる。)

事程左様に、「光仁期(770年頃)」から始まった「緊急策」であった「後家制度」は、90年間を経て「女系の妻嫁制度」に組み込まれた。
そして他の関係する「青木氏族」からも積極的に利用される“「正式な隠れ蓑策」”に替わって行った。
この経緯が「疑問−1の答え」である。
つまり、この様な環境から「秀郷一門」へと間口が広がりそれが更に一族一門に広がったと云う事に成る。
これが元で先ずは広まったのである。

ところが、この「疑問−1」にも「疑問−2」が伴う。

この「正式な隠れ蓑策」に付いて、「朝廷や摂関家などの権力者」が、この公然と行われる「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(第一段階 770年頃〜870年頃の100年間 更には第二段階960年代頃の100年間まで)に、“何故に政治的な権力や圧力を行使しなかったのかと云う疑問の「疑問−2」が湧く。

当然に何時の世も世の中の周囲では起こる”「反動」”であり“出る杭は打たれる”が世の例えである。

少なくとも、取り分け、「政治、政争」の中心にいて「利害」が伴った「北家で藤原摂関家」が、台頭する「秀郷流青木氏族」等に対して同じ「北家」でも少なくとも「口を出した筈」である。

(注釈 そのひとつの証明に成る事がある。
現実に「北家の摂関家」は衰退気味の中で「下がり藤紋」から「下がる」は忌み嫌うと云う事で「上り藤紋」に「総紋の家紋」を変えた。
この「先祖伝来の下がり藤紋」を急に替えるという処に意味を持つ。
然し、秀郷一門はこれに追随せずに「下がり藤紋」を貫いた。
これにも証拠と成る意味を持つ。)

必要以上に「宗家の勢力」より大きく成る事を「四家」で構成していた内の同じ藤原一族でも「南家藤原氏も西家も」の様に潰されて勢力拡大を嫌った筈である。
当然に「皇族賜姓臣下族の青木氏」に対しても、然し、記録上では「口出し」は全く無かった。

何故なのかである。
それは、次の「六つ事」にあったと考えられる。

「光仁天皇の尊属」であった事。
「朝廷の大献納者」であった事。
「抑止力の大氏族」であった事。
「経済力の大氏族」であった事。
「不入不倫の権の公的な保持者」であった事。
「摂関家藤原氏」を遥かに超える「身分、冠位、位階の氏」であった事。

他にも、前段でも論じたが、嵯峨期に「皇親族と賜姓族」を外されたにも関わらず「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処、賜姓五役)」を務めた。
更には、「商い」を通じて「献納」の際に「天皇」に「巷の情報提供」をする“「戦略処(青木氏の表現)」“と云う「秘密裏の務め(令外官)」をも実行していた事が判っている。

これらの務めは、前段の通り、元からの「施基皇子の役目(「撰善言司」)」でもあった事から、「青木氏族」がこれらを“「戦略処」”の言葉として捉えていた事が「青木氏の資料」に記載されて遺されている。
これは「日本書紀の記載」の「施基皇子の編纂」の“「撰善言司」(「撰善言集」)”の「司」の「範疇(役目)」がそれに当たるだろう。
歴史的にも証明できる。
これ等の事も大いに働いて「疑問2」の答えとしては、「表向き」には簡単には「口出し」が出来なかったと観ている。

「疑問2」の「口出しの出来ない理由」に対して、「疑問1」はだから「裏向き」を使って「讒言」で「政争」に巻き込んだと云う事であろう。


そこで話が変わるが、そもそも、上記の「司・(つかさ)」に就いて「青木氏の歴史観(「撰善言司」)」として知って置く必要があるので先に特記する。
これが「口出しの記録」が遺らなかった事を理解する事に役立つ
その「言司」に込められている意味の“「司」”とは、これを咀嚼すると現在で云う「司の意味」と大部違っている。
つまり、当時の“「司」”とは、“「朝廷(天皇)の一つのプロジェクトの役目」“を云う定義で、その「権能」は「天皇から与えられる令外官的意味合い」を持っていたものと考えられる。

最低限、「室町期頃」までは、取り分け、記録から観るところでは少なくとも「鎌倉期の頃」までは「司」とは、「朝廷の仕事を務める下級の役人」の事を云っていた。
それ故に、更に後には、「朝廷」、或いは、「幕府」より依頼されて「ある物」を専門的(令外官=司=匠)に作り、納品する「庶民の匠(たくみ)」の事も指す様に成ったと考える。

これを「青木氏の歴史観」から観ると、筆者は“「朝廷(幕府)」の本来の「司の使用」”は「日本書紀」にも記載がある様に「施基皇子」の“「撰善言司」”の頃が始まりでは無いかと観ている。

この前提は奈良期頃から始まった「渡来人」に依って興した“「経済システム」”にあったと考えられる。
それは現在の様な「市場経済」ではなかった。
歴史を考える場合はこの前提を知って理解を深めるべきである。

その「古代の経済」は、何度も前段で論じているが“「部経済」“と呼ばれるものであった。
それは“「全ての物造り」”の者は「朝廷の管理下」に置かれ、そこで造られた一切の物は先ず朝廷に納められ、「必要量」を収納し、「余剰品」を庶民に放出すると云うシステムであった。

この「役目」を「朝廷の令外官」が担っていたのだが、つまり、これを「賜姓五役の一環」として共に「令外官の役目」として「皇親族の施基皇子とその子孫(青木氏)」が果たしていた。
ここに大きな意味がある。
この「各種の物造部の頭」の事を「匠(たくみ)」として呼称し「朝廷の末端の役人」として扱われていた。
この「匠頭の役人」が「朝廷内の呼称」として「司」(役目・役人)と成った。
つまり、「・・部司」(かきべのつかさ)である。
つまり、この「司」は「物造り部の頭」の事である。

(注釈 「青木氏の資料」によれば「物造りの人」を「部人(かきと)・部民(べみん)」)と書かれている。
これらを「匠司」を束ねていたのが「上級役人・官僚」の「造(みやつこ)」である。
「伴」、即ち、「束ねるの意」の「伴(とも)」に「造」で「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていたのである。
但し、「大豪族等の者」にも一部これを認め分けて「部曲(かきべ)、又は、部民」(かきべ)と呼んだ。

(注釈 そこで当然に、「青木氏」に執っては「民に放出する役目の立場」として全国の「伴造」を配下にして、これを「総合的に総括する立場」としても独自に”「青木氏部」”をも保有していた。
従って、「総合的に総括する立場」を使って「光仁期」から「仁明期」までの「青木氏出自系の天皇」はその本来の「諱号」は「伴・とも」に関わるものを名乗った。
故に、この経緯から、この時から元の支配下にあった「官僚の伴氏」は「大伴氏」と変名した事は歴史の有名な史実である。
平安初期は「諱号」により「伴氏」から「大伴氏」に、この「諱号」の影響が無くなった平安後期には地域的には「大伴氏」から「伴氏」に官僚の諡号姓名を変名した経緯がある。)

(注釈 この「部司(かきべのつかさ)」に繋がる後の朝廷官僚、即ち、「五大官僚族」としてこの「伴造」の「伴氏」は「物造り」の「立場の重要性」から朝廷内にその勢力を拡大させ力を得て、そしてその部が盛んであった九州各地に配置された。
九州各地に「大伴氏とその末裔族」が多い所以はここにある。
前段でも論じた様にここが「渡来人の定住地」である。
従って、多くの子孫の官僚族を九州各地に遺しているのだ。
この子孫が名乗った者の多くの地名(例・鹿児島の市来・市来氏)が遺されている。
九州全域に「物造りの匠(たくみ・つかさ)」と呼ばれる「司(つかさ)」が多い所以なのである。
これがこの「匠司」から「たくみ」が「つかさ」と呼ばれ、「司」の「つかさ」が「たくみ」と呼ばれる所以はここから来ている。)

(注釈 「青木氏」に神明社等の建造物を建造し管理維持する為に独自に「青木氏部」を持つていた事に成っているが、筆者はこれら「朝廷が抱える全ての部人」を青木氏部と呼んでいたのでは観ている。
それは、これらの「部人の統括」は元より「その物の処理」まで任されていたのだから「全体呼称」を「青木氏部」と呼称していたと考えている。
その証拠に市場放出権を任されこれを以て余剰品を一手に「商い」までに発展させられる「権利」を朝廷は認めているのであるから、その「総括権」から「青木氏部」としていたと考えられる。
これが嵯峨期から「単独の青木氏」の「青木氏部」と替わって行って約60年後に独立して行った事に成ろう。
何故ならば「60年と云う猶予期間」があるのは「祖先神の神明社」は依然として「青木氏」に委ねられているのであるからだ。
天皇家に「祖先神の神明社の維持」のそんな力は無かった筈である。嵯峨期の詔勅が徹底する程に青木氏には影響は直ぐには来ていなかった事が云える。)

この「部人(かきと)・部民(べみん)」の殆どは「後漢の阿多倍王」に引きつられて来た「職能集団の200万人の渡来人」である。
薩摩の「阿多」や「大隅」などがそれに当たる。
これが、本来の「司の語意」であり、「匠の語意」であるのだ。

ところが、この「部の経済」は「市場経済」が発達し「鎌倉期頃」から次第に崩壊し、一部の物を「専売品」として定め、後は全てを「民が営む市場」に放出し始めたのである。
そこに「貨幣経済」(中国から貨幣を輸入する)が浸透し、室町期中期には完全な「市場経済」へと移り始めたのである。

重要な事は立体的に観察すれば、「青木氏」も連動して「市場放出権」や「伴造」を支配下に治めたことから「商い」は拡大した事で「疑問1と疑問2に打ち勝つ力」を持ったのである。

(注釈 これに連れて次第に匠と司の語意の変化が起こった。)

前段でも何度も論じている様に、「嵯峨期」から、「皇親族や令外官や賜姓族」から外れた後も、注釈の通りで「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処の実務)」と「賜姓五役」の「影の務め」を矢張り果たしていた事も解っている。

それ故に、「疑問−2」の答えとしては、「周囲の勢力」は、上記の「六つの事」は勿論の事、「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(770年頃〜870年頃)に対して、“何故に「政治的な権力」を行使しなかったのかと云う疑問には、天皇家も摂関家にしても“一切何も言えなかった”ではないかと云う事であろう。

依って、「司の役目」としても秘密裏に「令外官」を続けていた事を示す証拠等とも考えられる。
寧ろ、戦略的には「表向き」は兎も角も「裏」では積極的に利用していたと考えられる。

この“「匠司」”は“「言司」”と共に正確な知識の上に「青木氏の歴史観」として歴史の史実確定の上での見逃してはならない言葉なのである。

(注釈 「青木氏の伊勢と信濃」は、「皇族賜姓朝臣族」、「伊勢(伊勢王)」の「冠位」は永代浄大一位、「信濃(信濃王)」は浄高二位 伊勢の官位は永代正二位、唯、信濃の官位は従四位上であった。
何れも「皇族の四世族内の王位」に与えられる「冠位と官位と位階」である。
これは「大化の改新」で「王位の範囲」を「第六世族」から「第四世族内」に改められた事から来ている。
「伊勢」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇」を出した事から、同時に「敏達天皇の春日真人族の四世族(天智天皇)」の「同族、同門、同宗、同位」であった事から、「賜姓臣下族朝臣族」から、再び、「真人族」と成り得て、独自の「志紀真人族」を形成するまでの事と成る。
そして、遂には再び「最上級の冠位位階の氏族」と成った。
故に、「天皇」に「面会」が許され、且つ、「意見」までを述べる立場に永久に成っていた。)

この事を考えれば「疑問1と疑問2の答え」は鎌倉期には最早「無駄な抵抗」と成り得ていた事であろう。

(注釈 祖父の口伝では、祖父や曾祖父・先祖代々にはこれに関係する慣習が引き継がれ、「徳川時代の紀州藩藩主との接見」でも藩主より何時も上座に位置したと聞いている。
従って、「令外官」として「献納時の挨拶」では「巷の情報」を「天皇に対する提供」する事は異議なく可能であった。
これも前段でも別の面で論じたが、この「永代の冠位位階」を持ちながらも「朝廷の衰退」で、「慣習慣例仕来り」と成った「江戸期末」までは「将軍家」、「大正期」までは「紀州徳川氏」にも「上座」で面会が出来た事が「記録と口伝」と、又、実際に扱いを受けた「祖父の話」も聞けている。)

(注釈 筆者の祖父は、明治から大正期まで「紀州徳川氏の茶道や南画や歌や禅の師匠、況や「素養指導」を務めた。筆者も一部確認している。)


そこで話を初めの「後家制度」に戻して。
この様な“「普通の立場」”でなかった「背景」があった為に、要するに「摂関家」を始めとして他の氏族は“「口出し」”は「表向き」には出来なかったと考えられる。
従って、その結果から「公然とした隠れ蓑策」の「後家制度」と成り得ていた。
そして、後にこれが「秀郷一門」から「表」に出て広まったという事に成ろう。
「関東の秀郷一門」は挙って江戸初期に「徳川家の御家人」として、又、「官僚族」として活躍した事で「一般の姓族の武士」にまでに広まりを見せた事に由来しているのである。

其の内に、「他の氏族」にも、これは「都合の良い策」として、「後家」は一般化して行って、これが範囲を広げて、何時しか「多くの意味合い」を持つ「庶民手段」に成ったと考えられる。
故に、昭和中期頃まで使われたのであろう。
そもそも、「嵯峨期の詔勅禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用は禁じたが、この「後家」だけは早期に広まっている。
これは他家に都合の良い策であった事が由縁と云える。

注釈として、然し、庶民まで使われる様に成った事には、これらの「史実の事」を知り得ていた「青木氏族」の「伊勢、信濃の青木氏」も「秀郷流青木氏」も驚いていたと考えられる。
「世情の安定期」に入った「江戸期」には取り分け使われた。
これは、矢張り、「女系の妻嫁制度」の制度に付随するそのものの「隠れ蓑策」は別にしている。
「享保の改革」を実行する為に「吉宗に同行した伊勢青木氏」と、「幕府の家臣」と成っていた「武蔵の秀郷流青木氏」の“「二つの力の影響」”が世間に一度により広がりを見せたものでふろう。
取り分けに「武家諸法度」を護る為にも「武士の社会」に「都合が良く」、この“「影響」“を「社会慣習」として捉えて印象強く与えたと考えられる。
昭和期まで続いたのはその証明である。
逆に云えば、「便利な慣習」であったのであろう。
これは「後家の呼称」の多さを観れば判る。
「後家と云う言葉」を使う事に依って、それまでに無かった「社会慣習の区切り」が付けられたという事であろう。

広まりを論理的に観れば、伝わった当初は、それほどに“「差別的な悪い意味」”では用いられてはいなかったのであろう。
これは「江戸社会」が「享保の前後の頃」から社会は「安定期」に入り、「姓」から伸し上がった者にも「歴史や伝統」がそれなりに生まれ“「武士のお家感覚」”が広まった事に依るだろう。
これは、つまり、更に、「黒印状」に依って社会に「権威に依る差別化」が起こり、それを容認する「武家諸法度」が制定された事が起因し、「姓の武士」にも「氏族」と同じ様に“「家感覚」”が起った事に成るだろう。
この「家感覚」が起これば今度は必然的に「武士の家の慣習化」が起こりそれは複雑化する。
ここに、「青木氏族」等の「後の家」の「上記の便利な慣習」が真似られて用いられたと成る。

これは、明らかに他の「姓族」には無い「青木氏族」ならではの完全な「青木氏の歴史観」である。
注釈として、この時期には「大括り」には「青木氏族」である「近江佐々木氏」も遂には耐えきれず「姓化」が起こり「氏族」は「伊勢と信濃青木氏」のみと成っていた。
故に、「後家の伝統」の「青木氏の歴史観」である事さえも忘れ去られたのである。

(注釈 「近江佐々木氏の青木氏の研究」の中にはこの「後家の現状」の行が記述されている。
念の為に、これは「近江佐々木氏」も「青木氏族」であった事を説いている事に成る。
筆者は「青木氏族」であると考えている。
但し、全国に広まった「近江の宇多佐々木氏」は異なる。)

この「後家の言葉」の“「広がり」“が、最初は、「特定の身分を持つ階級」に使われた事から、その”「便利さ」“であったからだと考えられる。
「便利さ」を例えれば、「行ず後家」、「戻り後家」、「遺り後家」、「添え後家」、「妾け後家」、「隠し後家」、「不義後家」、・・・「後家倒し」、「酌婦後家」、「擦鉢後家」等、
以上、最早、全ての「女の人生縁」に繋がる事に宛がわれている。

この用語は、矢張り、関西に多く、北に向かうに従いその語意は限定されて使われて行く面白い傾向にある。
それは、何をか況や「伊勢から始まった言葉」であったからであろう。


さて、この事に付いて「青木氏の歴史観」として元に戻って少し詳しく「内部の事」を論じてみる。

当然に、「位階」などを持つ「入り先」も、この「四六の古式概念」に基づく「妻嫁制度」ではその「掟」に従わざるを得なかった。
又、古来の「古式の慣習仕来り掟」を持つ「入り先(高位の武家貴族)」である以上は、況してや、「神経を最大に働かせる血縁(公家階級)」に於いては、「大きな差異」は「伊勢」や「信濃」とはそんなに無かったであろう。
当然に歳を得た「熟女」は「嫁(行ず後家)」に出さないであろうし、「青木氏」も「入り嫁」としては受け付けなかったであろう。
ここが、双方に執って「妻嫁制度の掟」を納得させる為の「住職神職の腕の見せ所」であったであろう。

今から考えれば、これは「女の人権を無視した事」には成る。
然し、「子孫存続と云う大前提」を達成するには、「四六の古式概念」の基で執った「妻嫁制度」「嫁家制度」では「当然の仕儀」と成り得ていた。
それは「氏家制度」の中では社会と異なる特異な制度であった。

そこで、資料を見て行くと「面白い掟」の「伝統」の様なものが出て来る。

先ずこの事から論じる。
例えば、“嫁ぐ際に、その準備を誰がしていたのか”と云う事なのだが、これにも「女性の性」を抑え込んだ「掟」があった。

当然に、「嫁ぐ準備」は、「女(むすめ)」に対して「口出し厳禁の掟」と「養育平等の掟」と成ってはいる。
これが、その「母元」と「女(むすめ)」に執っては「見栄の性」としては気に成る事ではある。
これを、「平等」に扱う事を前提に「養育所の住職」に任していた。
“「養育の一切」”と“「出と入りの手配」”の「下計画」を当然に「福家」が決定していた。
これに対して「住職」が「実務」を務めていたが、「福家と母元」は「女(むすめ)」の事には「口出し厳禁」であった。


そこで「面白いもの」があって、これに触れて置く。

これも「女系の妻嫁制度」を「適正に守る方法」で確立されたものであろう事が判る。
何故ならば、これを司る「執事の差配」が「何らかの間違い」を興した場合、常に「6のパラメータ」であれば良いが、この「4のパラメータ」が狂い「3の領域」に入ったとすると、「血縁の弊害」を興す可能性が否定できなかった。

この時、「執事」は、常にこの「6のパラメータ」にあるかを確認して、「妻嫁制度と嫁家先制度」を管理していた。
従って、これで行くと、上記した「三つの血縁源」から「入妻」として入る「女」が「3のパラメータ」に成らないか先ず「確認注意する事」に成る。

(注釈 「出と入り」の「女系譜」、又は「女過去帳」の様な「一覧表」を作っていた可能性がある。
それでなくては「管理」は到底無理であろう。
故に、「女墓」が出来ている所以であろう。
この一覧表は明治35年の災禍で消失した。存在した事は確認できる。)

どう云う事かと云うと、解りやすい例が直近で起こっていたのである。
それは、上記した「冠位と位階」を持つ「近江佐々木氏(地名から賜姓)」は、「施基皇子」の弟(兄とする説もある)の「川島皇子」の出自であり、「佐々木郷(奈良期は斎々木の地名)」の「川島皇子(色夫古女)」は、「施基皇子(越道郎女)の息子の「白壁王(後の光仁天皇)」は「叔父」にあたる。(パラメータ1)
その「叔父の家」に、「光仁天皇の女(むすめ)」の「能登王女」が、「川島皇子の男子」の「市原王」に嫁す。(パラメータ1)

ここで「いとこの三親等の血縁」に成る。
且つ、この「市原王」は「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
既に、ここで「近江佐々木氏」では大きな「トランスポータ」が蓄積された。(青木氏族の所以)

ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「能登王女」の「女(むすめ)」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入った。

(注釈 「能登王女」も共に伊勢に戻る。これは要するに前段でも論じた様に「後家」として戻った事に成る。
正しくは離縁して娘を引き連れて戻った事に成る。
「能登王女」も「青木氏の四家」の叔父に嫁した形を採っている。)

この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等の血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポータ」が蓄積される。(パラメータ2)

処が、更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもある。
既に、「曾孫」のここに更に「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「名張王女」”が嫁したのである。
この段階で、その“「名張王女」”の「近江佐々木氏」の「女(むすめ)」に「血縁弊害」が必ず起こっていた筈である。

つまりは「血縁弊害」の起こらなかった「女(むすめ)」が、再び、「伊勢青木氏に嫁した事」に成る。
これは可成り大きな「トランスポータ」が「伊勢青木氏の四家」にも蓄積されていた事は否めない。
女系で継承される「ミトコンドリヤの基本遺伝子」が元に戻ったと云う事である。
「女同士の近親婚」は生理上あり得ないので、これをどの様に考えていいか良く判らない。
この時期では、未だ、この様に相互に「女(むすめ)」の「交換の血縁」は常態化していた。

従って、この時の「執事の差配」は、この「嗣子」と「佐々木氏に嫁した能登王女」の「女(むすめ)」との「入妻」は既に絶対に避けなければならない事に成っていた筈である。(パラメータ3)
これは「女系」で引き継がれるこの「人の遺伝子」は、それも「二重」に元に戻って仕舞う事に成る。
これは最早、「近江佐々木氏=伊勢青木氏」と成って仕舞った事を意味する。(青木氏族である。)
況して、この「嗣子」が、当時の「相互血縁の仕来り」で「近江佐々木氏の女」(むすめ・いらつめ)の「入妻の男子」であった場合は「トランスポータの血縁弊害」は最悪と成る。

(注釈 不詳だが、あった可能性が充分にあった筈。)

これでは「男子」が母親から引き継いだ同じ「人の遺伝子(潜在性遺伝子)」が同じ家内で血縁すると云う「最悪の現象」が起こる。

(注釈 「人の遺伝子」は直接に女系に繋がれる。)

更に殆ど訳の分からない「近親婚」に近い事が起こる事に成る。
確実に、この時、「伊勢」にも「近江」にも「血縁弊害」が何かが起こっていた事に成る。
だから、一方でこの時期の「政治没」や「生誕不詳」や「消息不明」の記録が実に多い事の一つであろう。
故に、そしてそれは、「青木氏族」や「佐々木氏族」の「掟」のみならず「弊害子・嬰児」は「普通の仕来り」を超えた事として「抹殺される事」が「位階」の持つ「貴族社会」での「社会の掟」と成っていたのであった。

従って、この事があって、“「良い子孫存続」”の為の「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「伊勢青木氏」は、この時の経験を生かして「最悪の血縁」が生まれると云うどの様な「人の遺伝子」を持ち得ているか判らない「男子継承方法」を避けた。
そして、「人の遺伝子」を明確に引き継いでいる「女系」で管理して、「最悪の血縁」を避け「良い子孫存続」の方法をこの時に採ったと考えられる。

この時、「青木氏」には「女性」による「人の遺伝子」を引き継いでいるという「漠然として概念」に到達していたと観られる。
当然にこの当時では、「遺伝子と云う概念」は無かったが、“「経験」”から「女性の持つ特異性」を感じ執っていたのであろう。

それの経験とは、筆者は、「男女の両性」にあって「男性」のものが機能していないと云う事に気が付き、その次の「四つ事実」に着目していたと考えている。

大部前の前段でも論じたが、男性には「へそ」と「ちち」と「子宮」と「生殖器の一部」は保持しながらもそれが“機能していない”と云う現実に気づいたと云う事である。
当時、「子宮」の位置には未だ「男性」にも「親指程」のものが「なごり」として機能せずに遺されていた事が人類学の研究で判っている。
「交配の進む民族」にはこれが「進化の過程」で無く成ったとされ、未だアフリカや交配の進まない山岳民族に現在も観られる。

その「生殖器の一部」とは、「女性の膣」の「子宮の入り口」に“「ちんこう」”と云うものが現在人にもある。
これは「子宮の入り口」を閉めているもので同形の機能を持つ。
そもそも、「男性の生殖器」は「女性の生殖器」の単に外部に突き出たものに過ぎない。
この「進化の過程」で女性にある恥骨が男性には消滅した。
又、女性に無く男性に在る「喉仏」もこれを物語る一つである。
これらを「総合した能力」から「女性」が「人の継承の源」である事を外見から見抜いていた事に成ろう。

(注釈 人間で無くても虫や小動物の雌からの分離で雄が出来て生殖を行いその後死滅や母体に戻る等の変異を起こす。
これでも解る。
中には余談で海中や小動物に「ブルーの光」を雌に強く当て続けると雄に替わる等の事も解っている。)

(注釈 昭和の中頃まで、“娘は母親似、息子の娘は祖母似“と云う「言い伝え」があった。
つまり、「息子の娘」には、「祖母似(息子方・潜在型)」と「母親似(直系型)」の「二つの系統」が起こり引き継がれると云う事であるから、相当前にこの真実を既に分かっていた事を示す。
つまり、上記でも示す様に外見でもこれは現在の「ミトコンドリヤの遺伝子」の摂理を既に云い充てていた事に成る。)
 
即ち、前段でも論じている「女系の妻嫁制度」では、他の氏族とは異なり、上記の「社会の掟」に従うのではなく、この外見上の経験則の経緯からも最低でも“「パラメータ3」(四の法則)”に成る様に改善を加えて行ったのである。
そして、常時は「パラーメータ4」(「パラメータ5」)に成る様に「女系の妻嫁制度」を改めたのである。

この「血縁制度」は「氏族の命運」を左右する要素であって、それ故に、“「四の法則」”に従う必要があった。
かと云って、平安期は当然の事として、鎌倉期も未だ難しい状況下にあった。
「下剋上や戦乱」と云う中での室町期中期頃までは“「六の法則」”は、「三つの発祥源の役務」を崩す前提に成るので、先ず執れなかったというのが現実であった筈である。
執れ始めたとしても、「江戸初期過ぎの安定期」に入った頃からの話と成っていた事に成る。
唯、「パラメータ5」の「六の法則」を取り入れたかは別問題であろう。

(注釈 「青木氏の四六の古式概念」は、「資料」より読み取ると、「始り点」(原点)を「影響の出ない点」としてそれを「−」として計算、「パラメータ」は、影響の出る「開始点」を「1」として計算する。
数理学上は「パラメータ」は原点を「0」としている。
この原点を「0」とする処に「古代浄土宗」と「神明社の融合」の「宗教的概念」があった様である。)

この時、この「天皇家や公家族や氏族内」で起こるこの「血縁弊害の現象」を観て、「青木氏の執事」は、「四の古式概念」で防いでいた事が資料より読み取れる。
そして、防ぐ為にはその“「発生源の範囲」”を確実にする事により改善したとされる。

それが、如何なる理由があろうとも、「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式を導き出し確立させて行った事に成る。
「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式で、経験則で「パラメータ4」(五の法則)で差配すれば、「血縁弊害」は完全に解消される事に成ったのである。

(注釈 但し、これには一つの「特別な掟・前提」があった。それが“「嬰児」”と呼ばれる掟である。)

この「嬰児の掟」(別記)を護る事が大前提とした。
従って、この「関係式」を維持するには、相当に“「執事の管理に依る差配」“が左右したと考えられる。


ところが、上記の例に観られる様に、「パラメータ2」の内で「嫁家制度」を未だ敷いている「位階」の持つ「三つの血縁源(近江佐々木氏等)」があった。
ここから入る「伊勢の妻嫁制度」の限りに於いては、「福家と四家制度(4+4*4=20)」のこの「関係式」を敷いたとしても、「人の遺伝子の弊害」を持ち込まれる可能性は未だあった。
これには“「四掟を基準とする付き合い」”を続ける限りは防ぎきれないものが絶対に起こる。

さてそこで、考えたのが、「人の遺伝子」を直接引き継ぐ“「女(むすめ)」の範囲」を広げる事”にあった。
このシステムでは、「人の遺伝子」の“「種と量」“が「氏族内に増える事」に成る。

(注釈 男系の場合は、息子が引き継ぐ母親から「人の遺伝子」は隠れていて「息子の娘」にどの様に出るかは判らないし、娘を二代続きで生まれなかった場合は、「母系の人の遺伝子」は消える事に成る。
つまり「血縁濃度」は高く成る。
「重要な事」は論理的にも「男系嗣子の交配」は上記した様に「潜在型」である以上は外見からは管理する事は出来ない。
娘が二代続きで生まれなかった場合の確立弊害の防止は男系では出来ない。
その点では「女系」で管理すれば「直接型」であるので外見からは管理は可能である。)

これは前段や上記で何度も論じている事である。
「氏人からの血縁源の導入」と、それを補完する「女(むすめ)」の「養育制度」との二つであれば、例え「嫁家先制度の相手」が「位階の持つ三つの血縁源」であっても問題なく出来る。
それは「女(むすめ)」の範囲を広げた「女」を差し向ければ、どんな事があっても「パラメータ3(四の法則)」、或いは、「パラメータ4(五の法則)の数式論」は完全にクリヤー出来る。

何故ならば、この「三つの血縁源」から、再び、仮に「伊勢青木氏」に入ったとして、広がっている範囲で云えば次の様に成る。

それは既に、「パラメータ2」(三の法則)で嫁いでも、そこから、更に、「三つの発祥源」の「女(むすめ)」を「入妻」として迎えても、この過程では更に「パラメータ2」が加わり、最低でも、「バラメータ4」(五の法則)に成り得る。

直接、「自分の子供」の「女(むすめ)」を差し向ける事は、「名張王女の例の場合」でも「曾孫域」(パラメータ4)であったので、現実として、これを踏襲するとすれば、例え、「氏人との血縁性」があったとしても可能に成り、恐らくは、「パラメータ5」(六の法則)に成ったであろう。

それが「玄孫(「夜叉孫域」)」の「女(むすめ)」とも成れば、確実に「パラメータ5」(六の法則)に成る。血縁弊害の可能性は極めて低く成る。

つまり、恐らくは「女(むすめ)」の範囲を「玄孫」までとしたのは、「相手との血縁状況」が、何らかの「近い血縁」が結ばれる運びに成った可能性がある。そこで仮にあっても、「一つの方法」として「玄孫」を「嫁家先制度」に組入れておけば解決する事と成ると判断した事に成る。

では、そこでこの「嫁家先の相手」は、「何処の氏族」かと云う事に成る。相手次第だ。
これが、あり得るとしてら「伊勢秀郷流青木氏」か「秀郷一門の伊勢の伊藤氏(伊勢藤氏)」の範囲と成り得るだろう。

注釈として、 「信濃青木氏」は、既に「四掟の範囲」を超えた殆ど「同族(四親等内親族・直系尊属)」に等しく、「伊勢青木氏」と同じとして考える必要があった。
「信濃青木氏=伊勢青木氏」の関係式である。
上記の「近江佐々木氏の事」を考えれば、最早、その隙間は無く「伊勢青木氏」で論じる場合でも、それは何もかも「伊勢青木氏=信濃青木氏」と成るに等しい。
現実に「系譜」を観れば、又、「口伝」でも明治9年まで現実にそうであった。

然し乍ら、当然に「信濃青木氏との血縁」は、「伊豆の融合青木氏」に観られる様に、「他の青木氏族」とは異なり頻繁に行われていた。

では、だとするとこの「青木氏族の組み合わせ」の「信濃伊豆」との「血縁の弊害」はどうしていたのかである。

それが出来ていたのは、「伊勢青木氏=信濃青木氏」である事より、其処には、最早、“「位階」”と云う「バリヤー」の存在を超えていたもの何かの事があったからである。

この「位階」が、「四掟」が、「嫁家制度」の「バリヤー」が、存在しない氏族はどの様であったかである。
全く同様の「四家制度」と「女系に依る妻嫁制度」、や「後家制度」、「多気の里、神職、住職、物忌、支女、斎院、斎宮、」等の制度一切も、「伊勢青木氏=信濃青木氏」であると云う事に成っていた。
依って、「同じルートの中」にあった。

これを解決できるキーは「氏人の郷士の血縁源」であった筈である。
最早、「氏人―氏上」、「御師」も同じと成ると、「女(むすめ)の制度」も同じであれば、必然的に“「信濃の小県郡の郷士衆との繋がり」”も双方が血縁で結ばれていた事に成り得る。
これが血縁の弊害防止の策と成し得ていたとする答えである。


これを検証する。

注釈として、江戸期初期前は、「小県郡の青木村」は「六郷」に依って構成されていた。
後段でも詳細に論じる。

そうすると、「伊勢」の「女(むすめ)」を「信濃」に、「信濃」の「女(むすめ)」を「伊勢」にという事が興る。
「伊勢」の「女(むすめ)」の「氏人の郷士」の「自由な血縁源」と、「信濃「女(むすめ)」の「氏人」と成っている「限られた郷士」の「自由な血縁源」が交互に、「伊勢と信濃の青木氏」に入る「仕組み」と成り得ていた事に成る。

そもそも「信濃青木氏」の「氏人の郷士」は「小県郡青木村の郷士数」に限られていた。
「信濃」にも、初期には「移動する国衆」も含めて変動する中でも「500以上」はあったとされる。
ところが当初の平安期の頃と比べると「氏人の郷士衆」は1/10程度に激変化した。

注釈として、平安期末期頃までは、
現在の地名で云えば次の様に成る。

長野市 1郡
大町市 3郡
小県郡 2郡
上田市 1郡

以上の四か所の7郡までを「郷氏」としての「勢力圏」として治めていた。

「信濃国」は「10郡 67郷」にて構成されていて、当時としてはこの内の「4郡程度」を勢力圏にあった事に成り相当な勢力を保持していた事に成る。

昔は1郡に「平均50郷士」が存在し得る限界数であって、これ以上は面積的な事からも無理の様であったらしい。
この事から、当初は「200程度の郷士数」を支配下に治めての「巨大な郷氏」であったと考えられる。
然し、記録から実際はこの時の「氏人」と成り得た「郷士数」は「100に満たない数」であったと考えられる。

江戸期初期に成ってこの「勢力の支配地」は「殖産可能な肥沃な土地」であった事から「江戸幕府」に依って「幕府の財政確保」の観点から「幕領地」として接収された。
従って、この経緯から最終は住む域が分断された事に依って次第に衰退し「小県郡域の一郡域(青木村)」と成った。
「郷士数も50以下」と成ったのである。

然し、「信濃青木氏」は「接収の結果」として、この元の「聖域の4郡の連携域」では「7郷が確実な村範囲」として広く「地権」が認められていた。
結果として、この「地権域」まで含めると「合計12郷域」までにも分布している事に成った。

下段に論じる様に、ここに江戸期初期の主に享保期には「大変な出来事」が起こった。

(注釈 伊勢青木氏と吉宗との関係はこれで最悪と成った。)

この事に就いては小県郡の青木村の「青木村歴史館」にも記録が遺されているし、公に成っている研究論文にも詳細に論じられている。

さて、この上記の「注釈の範囲」に於いて、それが「玄孫(パラメータ4・五の法則)の範囲」として血縁すれば、既に、「玄孫域」では「パラメータ4」を超えている事に成り得る。

故に、「伊勢=信濃間の血縁」は、「玄孫の更なる目的」として先ずは「玄孫域を原則」と定めていた根拠に成る。
これが「郷士数」と「玄孫域」の「二つの防止策」で先ずは「血縁の弊害」を防いでいたのである。

この「玄孫域」を用いる疑問は、「研究の過程」で資料から読み解けた範囲である。

「資料」には、四度も「玄孫」の「女(むすめ)」が相互に時期は多少異なるが、「出と入」が起こっていた。
「伝統−40の末尾」に記した下記の「女(むすめ)」の範囲は、「玄孫域外」の次の域と成る。

5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

以上は、資料から散見できる範囲では、何らかの“「特別な事情」”により養育した事が考えられる。

この「5〜7の範囲」の「女(むすめ)」が実際の「嫁家先制度」に乗せたかは定かではない。
然し、あった事は事実であろう。
因みに、「筆者の父」の従弟は「伊勢郷士」の出自であり、別の従兄は「信濃郷士」である。


そこで、検証の問題なのはこの“「特別な事情」“とは何であったかは定かではない。
唯、これは「青木氏側の事情」と云うよりは、「室町期末期の混乱期」の、前段での「伊賀の件」の様な「氏人の家」に「氏存続」の“「特別な事件」”が起こった事が主な事も一つとして考えられる。

「伊勢=信濃間の血縁」は上記した様に「玄孫域」で解決出来ているので、それ以上と云う事に成ると、論理的に「信濃」や「伊豆」と「秀郷流青木氏」の「伊勢や近江や武蔵」の「関係性の深い青木氏族」のところに「特別な事件」があった事と成る。
故に、「青木氏の資料」には確たるものとして多く散見できないのであろう。

それらの事が原因して「伊勢内」では、
先ず考えられる「一つ目」は、「青木氏の四家」では無く“「氏人の家の断絶や跡目」”が途切れて保護した等の事であろう。
考えられる「二つ目」としては、上記した様に江戸期初期の前後に「信濃の小県郡」等は「富裕な土地」として「幕府殖産地政策」の一環としてとして「幕府領」として接収されたがこの事に依るものであろう。

この二つの事に依って上記した様に、「信濃青木氏」が「4郡の連携域」が「7郷」から「12郷域」の5域に分散させられた。
そして、「自由な絆の血縁」が制限される結果と成った所以であろう。

この「5域」に対しては「地権」、つまり、「庄屋(郷氏)」が認められたかは定かではないが、「青木村付近」で興した「五つの大一揆」から観て「庄屋」ではなかった事が考えられる。
一揆の首謀者は全て村を藩から派遣された「組頭」であるからだ。

筆者の見解では、一揆の事も含めてこの「5地域の青木氏」を「家紋等や伝統」などで調べた範囲では広く認められていなかったと観ている。

「上田藩」に下げ渡された段階までは、「殖産の指導(和紙と養蚕と酒造り)」と云う範囲で認めてられていたが、「幕領地」から藩領に成った時点の頃から家紋が変化している。
「和紙と酒造り」は「7郷」でも主と成って殖産していたので「変化の境目」が出難い。

殖産をさせる為に分断された「青木氏の者」が「真田藩、上田藩、小諸藩、岩村田藩」の「四藩」に本来あり得ない筈の家臣化しているのである。
つまり、家臣化、即ち「姓の血縁化」が起こった事に成る。
この事は「庄屋」では無く成っていた事に成る。

故に、そうすると突き詰めるとした場合、信濃では分断されたことで「血縁」が「5、6、7の事」と成ったと考えられる。

(注釈 その後、「幕府の殖産政策」が「青木氏等の努力」で大量の生産態勢が立ち上がった事を契機に幕府は「上田藩」に下げ渡し、管理させて「殖産利益」をフィードバックさせていた。)

この時、「地権のあった土地」を奪われ、当然に貧した「信濃青木氏の氏人」の子孫を遺す為に、「伊勢の福家」は「7郷以外」の「女(むすめ)」を「伊勢の妻嫁制度」の「女(むすめ)」として引き取り、「伊勢」に保護したという事が充分に考えられる。
「信濃」は相当に貧していた。(全国唯一一か所に集中して五大一揆が頻発している。)
それが、農民では無く「組頭の武士」である。
これは大きな意味を持つ。
藩から派遣され「藩に味方する武士」が「一揆の首謀者」である。
如何に藩の治世が悪かったかは判る。
言い換えれば、「青木氏の氏族」は如何に貧していた事かを物語る。

(注釈 「正規な資料」が遺されていないが、その「経緯」が遺されていてその経緯からも充分に判る。
「幕領地としての接収」と「国衆の侵入」が大きい。)

「幕領地の接収根拠」は「4郡12郷」は「天領地」であった事が「接収の理由」と成っている。
江戸初期に全国の天領地の多くが幕領地として接収された。
「伊勢」も「青木氏の旧領地」と鎌倉期の「本領安堵地の地権」は江戸期でも認められたが、その「他の本領地」は「接収」と成り例外では無かった。
唯、前段でも何度も論じたが、「紀州藩との殖産共同体」や「勘定方指導」や「貸付金」や「朝廷への献納金」や「伊勢神宮の協賛」や「徳川氏との血縁族の四日市殿」や「莫大な財力」の等があった。
これで、「本領地地権を接収する事」は“却ってこの「ツケ」が自分に振り返って来る事”から幕府に「紀州藩」は働きかけたのである。
そもそも、「紀州藩の家臣」の殆どは、「伊勢青木氏」との血縁関係にある「伊勢藤氏」と「伊勢の秀郷流青木氏」等で占められていた事の経緯がある。
これが良い方向に動いたのである。
然し、周囲との手前から「接収無し」とは行かず「中伊勢域の接収」を形式上で行われた。
結果としては、その「管理元は紀州藩」と成り、「青木氏の財力」に依って結果として「殖産地・地権」として利用している事から実質は同じであった。

唯、ここに「山田奉行所管轄の幕府役所」が置かれていた事は事実であり、後にこれが「伊勢青木氏と揉める事」と成ったが、家康の“「伊勢の事お構いなし」”の「お定め書」で優位に立った。
つまり、「信濃」にはこの経緯が起こらなかった。

結局の処は、この「根本」は「伊勢」は奈良期からの「日本書紀」に書かれている「天智天皇の不入不倫の権」が伊勢では大きく左右したと考えられる。

これは「女系の妻嫁制度」のそのものの為に執られた範囲たけではないだろう。

この「5〜7の範囲の事」は、「執事」が専門的に判り得たとしても幾ら何でもそもそも「正式な記録」の中にこの様な事(「特別な事情」)は遺し得ないであろう。

注釈として 検証するとして論理的に「女(むすめ)」での「子孫の拡大力」と、男での「子孫の拡大力」はその比ではない。
前段の「人の遺伝論理」の通りで、「男性5」に対して「女性1」=「人の数1」であるが、「女性5」に対して「男性1」=「人の数5人」の以上と成り得る。

そもそも「人の形態」では、この摂理は「男性」は「女性の分離体」としてで出来ている所以でもある。
因みに、みみずは、雌が主体で、生殖時、メスが体を二つに分離し、雄を作り、生殖後は、その雄は再び雌に変化する。
この様に、「生物」に依りその生殖構造は異なる。

故に、注釈の通り、「5〜7の範囲の処置」は、「子孫拡大」には“「女(むすめ)」”を保護する所以であって、「女系の妻嫁制度」もその所以の一つでもあった。

そもそも、この「5〜7の範囲の事(特別な事情)」は、平安期から江戸期初期頃までの時代とは云え、そこまで解る範囲であったのかが疑問である。
然し、そこは伊勢も信濃も「執事の差配処」であったらしい。

(注釈 現在ではこの範囲は全く他人の範囲であって、精々、田舎では「口伝の範囲」であろう。
然し、平安期では「伝達手段」が低いにも関わらず少なくとも「5〜7の範囲の事」は「執事の範囲」では把握できていた事が「旧領地の家人の家の資料」の中に散見できる。
然し、それが「女(むすめ)」の範囲として「常時の範囲」では無かったであろう。)

そもそも、「時代の経緯」としては、平安期では上記の「尾張王女の例」の通り、確実には「伊勢の範囲」では「子域」、「孫域」、或いは、「曾孫域の範囲」で行われていた。
「玄孫域」は、「信濃」を除いては、当に、「5〜7の範囲の処置・「特別な事情域」」の事と成り得ていたのである。
それが、鎌倉期、室町期と時代の変化が進むに連れて、「玄孫域」までが、「通常の仕来り掟の範囲」として「女系の妻嫁制度」として採用される様に成ったのである。
当然に、「嫁家先」も、この「時代の経緯の環境」の中(四掟)にあった事は云うまでもない。
ところが「時代の経緯の環境」は、当初からの「5〜7の範囲」とは成らなかった。

然し、平安期では、「玄孫域」は、未だ“「特別な事情域」“で、室町期末期や江戸期初期では、それが変化して「5〜7の範囲」が“「特別な事情域」”と成ったとする経緯である。

当時は、「系譜」を「氏人の家」にも、当然に「青木氏」(菩提寺)にも備えてあって、それを突き合わせれば「容易な事」であり、全く問題は無かった。
「幼名、俗名、戒名、通名」などを読み込み書き記し、観るだけで大方は解る。
これはその証拠としてその「出自」等を読み込んだ「曼陀羅絵」や「過去帳」や「女墓」が出来る所以でもある。

(注釈 江戸期は、一般の系譜は何度も論じてはいるが「搾取偏纂の系譜」で信用は出来ない。)

唯、「玄孫」は筆者の代でも何とか確認できて知り得ていた。
故に、「玄孫域」では「専門に扱う住職の執事」は、「50の郷士の中の事」の域では、全て記憶の中にあって、即座に答えられ判断され全く問題は無かったと考えられる。


何故ならば、「伊勢青木氏」の「女系の妻嫁制度の権威」を、例え「女(むすめ)」の事に成るとしても、「位階」の持たない「伊勢郷士」の「氏人の男子の血筋」の入った「女(むすめ)」が嫁す事を容認したかである。
と成れば、「嫁家先の彼ら」はそれをそもそも「許容するか」である。
どんな理由で許容するかである。

その答えは、“「権威」”に関わらず、「伊勢」や「信濃」に“「根付いた範囲の氏族」と成り得る“と判断していたからに外ならない。
それは、郷士族であったとしても“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」”に他ならない。
伊勢も信濃もである。

“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」を”言い換えると、次の様な経緯と成る。

論理的には「女系の妻嫁制度」には、“「人の遺伝子」を引き継ぐという概念”があった。
これに対して、「四掟」で限定された「嫁家先」では、少なくとも“「ある程度の理解」(「1千年と云う歴史」の「血縁の力」)”を示していた事が云える。

そうで無ければ、「一方的な押し付け」と成り、幾ら「女系の妻嫁制度」を敷いているかと云って「押し付け」を可能ならしめるレベル状況では無かった筈である。
従って、その「理解の前提」は、上記の「外観差異の生態的な認識」の下にあって容認していた事に成ろう。

現実に、「四日市殿(秀郷流青木氏との融合族青木氏族)」が「四家外」に誕生している事がその証拠と成ろう。
又、幾つかの資料に依れば、この時の「四家の継承者の嗣子」には、「京の位階の低い公家」より「入妻」を配置している。

(注釈 公家の名は避ける。位階があったが、従五位下で「妻嫁制度と嫁家先」の「血縁頻度」は低い。
然し、光仁期から明治期初期まで三度もこの「公家族」と血縁をしている。
この「公家」の一つは、筆者の父方祖母の家で、その血縁の最後と成るのはこの祖母は血縁の三年後に明治33年災禍で死亡と成る。)

(注釈 「桓武期」から「嵯峨期」に掛けて「出自先の青木氏」の「取り扱い」に対して親子で政争と成る激しい論争が起こった。
然し、この時、「桓武天皇」の「青木氏賜姓」の「存続論」と、「嵯峨天皇」の「青木氏」を「賜姓族」から外す「除外論」が対立した。
この「論争の争点」の一つがこの「女系の妻嫁制度」にあった。

つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
“否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。

然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
結局は、「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
子孫が政争で絶えるとしたのである。

歴史的に後勘として観れば、これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
解決策の一つはこの「令外官」にあった。
「皇親族」を外されたのであるのだから「令外官」でない筈である。
然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は出自を前提としている事から外せない。
依って、「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。

此処には確かに歴史的に観れば「表」では「脱落家の氏族」であった。
そこでこれを160年後(円融天皇)は、「補完役の秀郷流青木氏」の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。

つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているを認識していたのである。
況や、これが唯一と成つた「氏族」の故であろう。
:

「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」


  [No.370] Re:「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/05/15(Wed) 10:07:04

> 「青木氏の伝統 49−1」−「青木氏の歴史観−22−1」の末尾。


> つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
> “否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
> これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
> 結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。
>
> 然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
> 結局は、二世族として「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
> この「醜い政争」で子孫が政争で絶えるとしたのである。
>
> 歴史的に後勘として観れば、この懸念は充分にあり得た。
> これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
> 解決策の一つはこの「令外官」にあった。
> 「皇親族」を外されたのであるのだから慣習仕来りの論理的には令外官」でない筈である。
> 然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は、出自を前提としている限り変わらないのだからこの事から外せない。
> 依って、難しい所ではあるが「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
> つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。
>
> 此処には確かに歴史的に観れば「表」では皇親族から外れたのであるから「脱落家の氏族」であった。
> ところが、そこでこれを160年後(円融天皇)には、「補完役の秀郷流青木氏」の出現の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。
>
> つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているのを「円融天皇」は認識していた事に成るのである。
> 況や、これが後に唯一と成った”「氏族」”の故であろう。



「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


さて、この「時の事」を血縁で観ると、その時の「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は止むを得ない「時の差配」であった。
つまり、「政争」から逃れる為に「四掟の純潔性」からシフトして、「パラメータの差2」で「血縁性を薄める事」で「出自族」から逃れようとしたのである。
これは「賜姓五役」の一部を緩めた事をも意味する。
「女系の妻嫁制度」は、「純潔性の男系制度を敷いている天皇家」との決別を意味した。

「青木氏族」に執っては「象徴」でもあり「権威」でもある“「賜姓五役」の一部を緩めた事”と云う事は、勇断でこれは「皇別族」の「四六の古式概念の仕来り」の「ぎりぎりの所」であった。
然し、「女系制度」を執ったとしてもこの時(血縁的には仁明期頃)までは「ぎりぎりの所」であるとするが、ところが「血縁弊害の限界」の「パラメータ3」(四の法則)に対する「確固たる自信」は未だ無かったと観られる。
結果としては、これを進めるには「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は「ぎりぎりの所」の外側の「外れる処」では未だ無かった事に成る。

従って、通常は、「パラメータ2」(三の法則)以下では、「仁明期頃」までは確実に行われていた。
然し、「女系」にすればすべてが解決するとは成らず、「女系」で観れば同時に「経験」に「改善」が加えられ乍ら、結果として現実には「パラメータ3」の「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)までの間を採った処と成り得ていた事にある。
それを叶えたのは「女系」だけでは無く「独特の妻嫁制度」にあった。

この間を詳しく観れば「パラメータ3」「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)に成るまでの間には、つまり、この「160年程度」の間は「過渡期であった事」を意味する。

ここで、この「過渡期であった事」から超えて、「経験則の160年後」は初めて「青木氏」としての本当の「四六の古式概念」は成立させて行ったのである。

「慣習仕来り掟」は当然の事として、つまり、「氏族存続の前提」の「血縁」に関しても「正常な概念」と成り得て行ったと考えられる。
それまでは、「パラメータ3」「四の法則」が「血縁弊害が起こらないとする限界経験値」と充分には成り得ていなかった事に成る。
これは「記録」から読み取れば、その間に“「嬰児の発生」”があった可能性が充分にあったからだ。

(注釈 そもそもここで「氏族」に課せられた「重要な慣習」があった。
それは”「嬰児」と云う習慣”である。
これは「習慣」と云うよりは寧ろ「掟」であった。
これは記録に乗せない習慣であった。
「奇形児等の弊害」の「嬰児の処置」には「決められた掟(作法)」があった。
「奇形児」とは成らずとも「精神障害の弊害児」が成長期に判ればこれも同様の処置が成された。
「嬰児」とは、「血縁弊害」に依って「障害のある稚児」が生まれた瞬間から「濡れタオル」で窒息させて、直ちに無かった事として始末する掟であった。
当時は血縁弊害に関わらず「死産」も多かったのである。
これは「氏族」に課せられた「絶対的な掟」であった。
「奈良期・平安期の天皇家」にはこの掟を破った為に後に問題が起こった史実が多くある。
その一つが我々の「青木氏族」に関わる始祖にあった。
始祖の「施基皇子」はその為に第六位でありながらも皇子順位は第七位と成り、その後に障害児の死亡に基づきに第六位に戻つた。)

「注釈の掟」の通りそうなると、「パラメータ3」「四の法則」では未だ駄目であり、「パラメータ3」「四の法則」では無くて「パラメータ5」(六の法則)が「正常な経験値」であった事に成る。
「パラメータ3」「四の法則」では医学的な論理的判断では問題がない筈なのだが、後勘から観れば「遺伝子学的な領域」であった事に成る。
「パラメータ2」「三の法則」までの環境の中から「パラメータ3」「四の法則」に移る過程では一つ起こる遺伝子的問題がある。
それは「血液型」と「隔世遺伝の法則」で「パラメータ3」「四の法則」でも出て来ると云うことである。
「パラメータ3」「四の法則」の環境が続く中では「パラメータ3」「四の法則」のこの「血縁弊害の現象」は起こらないと云う保障の事に成らないと云う事に成る。
それを解消できた期間が、「160年間と云う事」に成る。

つまり「160年」が「経験則」で獲得したと云う事である。
医学的には「隔世遺伝」が消滅して起こらないと云う事に成る。
その「時期の経緯(仁明期頃 「始祖施基皇子」より約100年後)」までは「安全な法則」に直ぐに切り替えられたとは判断できない。
従って、この時の「猛烈な経験」を得て「鎌倉期から室町期初期」に掛けて、「パラメータ2」から「パラメータ3」(四の法則)の「限界経験値」の方向へと切り替えられて行ったと考えられる。
当然に、「養育制度」の「女(むすめ)」の範囲もこれに従ったと考えられる。
恐らくは、「室町期初期から室町期中頃」まではその方向性が充分にあった。
としても、より「良い方向」の完全に「パラメータ4」、又は「パラメータ5」(六の法則)に切り替えられたかは疑問で、それは無理であったであろうと考える。

(注釈 「青木氏族の歴史的経緯」から観て「パラメータ3」「四の法則」は「ある程度の血縁弊害」が何とか除かれた時期の「限界経験値」であった筈である。
そして「パラメータ5」(六の法則)は「血縁弊害」の起こる時期の「限界経験値」と成っていた筈である。
その様に掴んでいたと考えられる。)

実質は別としても、資料から読み取る範囲では研究から来る状況判断として、筆者は「彼らの概念」としては”中間の「パラメータ4」(下記4)では無かったか”と云う印象を持っている。

「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)
以上の関係式から、従って、詳しくは次の様に成っていたと考えられる。

「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)

以上の範囲で留まっていたと観ている。
(伝統―40に記載 追記)

つまり次の範囲で区切られるのだ。

通常の範囲
1 子、
2 孫・
3 曽孫(ひまご)
4 玄孫(やしゃご)

特別の範囲
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

注釈の通りの「概念」としては次の様に成る。

「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)=1〜4

「通常の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける様に「概念」が働いた事と成る。

当面は「血縁弊害の管理」を厳しくして行けば以上の関係式でも良い事に成る。

「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)=5〜7

従って、問題が興れば「特別の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける為にも「血縁の概念」を変えようと働いた事と成る。

然し、実体は期間がかかっている事から観るとこの逆から努力するもなかなか逃れられなかった様であったらしい。
つまり、“「女系の妻嫁制度の改善」”が「確立する過程」までは「以上のプロセスの例」に物語るものが大きいと考えられるのだ。

つまり、「三つの血縁源の効果」が発揮するまでは、所謂、「氏族」が完全に構築できるまでは「大変な事」であった事が伺える。

実は、それを物語る証拠の一端が遺されているので論じて置く。
それに触れて置くと明らかに上記の「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来る事にも成る。

「青木氏族」(伊勢や信濃等)は、その為にも、これらの事の「知識」を“「女の得本(「血縁弊害の原理を獲得した事」)」”として纏めて持たせていた。

「三つの血縁源」に対しての「嫁家先」にも嫁ぐ「女(むすめ)」を通じて「同じ範囲の概念」である様に指導し教育し導いて行ったのである。
それには、これら全てを明記した「確たる内容の物」、つまり、“「女の得本」”が編集されていた事が判っているのだ。

「青木氏族」を健全に保つ上でも、考えると「光仁期から仁明期の立場」は非常に重要であった事に成る。
これらを「本」にまでして纏められたのは「他の青木氏族」には経験し得なかった「知識」であった筈で無理であっただろう。
前段から論じている様な「確たる制度を敷いていた事」からこそ得られた「知識や概念」を集約出来たのである。

(注釈 筆者は「商い」を通じて「貿易」も影響していたと観ている。又、500社から得られる神明社から全国の情報もあったと観ている。
そもそも「施基皇子の撰善言司」の家柄である。)

恐らくは、故に「嫁家先」には、この“「女(むすめ)の教育」”を受けた「嫁の立場(家の慣習仕来り掟に於いて)」は相当なものであったと予想される。
何故ならば、当然に、その「嫁家先」には、一族の「祖母(パラメータ2)」か「曾祖母(パラメータ3)」が存在し、古い彼女等は、元は「伊勢や信濃」の「女(むすめ)」であった筈である。
「嫁家先の四家の範囲」に「大きな影響の基盤」が出来つつあったと考えられる。

つまり、それには「経験則」か「何らかの医学的知識」を獲得して「影響」を与えたのは“「女の得本」”であったと説いている。

参考として、後勘から観ればそれはかなり綿密でそうとうな「医学的知識」を獲得している。
それを「養育時の作法の本」として使われ、且つ、嫁ぐ時の“「女の得本」”の所持品でもあった事も解っている。

実はこの“「女の得本」”は何とこの「現在の医学的立場」からも間違ってはいないのだ。
(下記に解いてみる。)
当然に「嫁家先」から「女」が嫁ぐ際には、恐らくは、この経験を積み重ねた「伊勢青木氏」の「女の得本」なるものの「写し」を持たした筈であろう。
又、それを熟知する「侍女」が付き従っていた筈である。
取り分け、「伊勢」とは血縁関係が深かった「信濃青木氏」も記録は消えているが同然であった事は間違いは無い。

とすると、「位階や四掟」を敷く「他の嫁家先(血縁源)」にも確実に広がって行った事が充分にある。
且つ、これが「女系の妻嫁制度」の「広がり」へと繋がって行ったとも考えられる。
少なくとも「最低限の基幹の制度」が広がった可能性がある。

そもそも、その「嫁家先」も「位階」を持つ故に何もないという事にはならない。
それは「嫁家先」が「位階」等を持つ以上は、何らかの「最低限の家の維持する確たる制度」を朝廷から「義務」として求められた事に成る。

それで無くては「朝廷の格式」に拘る「位階官位」は与えないと云う逆の事も云える。
何らかの「最低限の家の維持する確たる制度(氏族)」を持たなければ、朝廷から「位階」等は与えられないと云う事に成る。
現実にはそうであった。

それが制度として確立させたのが後段で論じるが”「縛り」と云う厳しい掟”があったのだ。
多くは「光仁期から嵯峨期」の間に定められたものである。
「朝臣族」とは云え「源氏族」はこの「縛り」に耐えられず「低い位階」のものであった。
この「縛り」を無視して与えればそれは「位階の権威」を下げる事に他ならないからである。
「朝廷の権威」が低下する所以とも成る。

(注釈 但し、江戸期には遂には{権威}では無く背に腹は代えられず{金銭}で与えて仕舞った。下記)

寧ろ、「女系の妻嫁制度」を執りながらも、「官位と位階」は元々は「福家と四家」は永代に持っているが、「福家」は「氏人の位階」を獲得する為には積極的にこの「女の得本」を求めた。
その為に「妻嫁制度」に依って「血縁をより深くする戦略」に出たと考えられる。
依って、「家内の慣習仕来り掟」はこれに従った所以と成る。
つまり、「伊勢や信濃」からこれ等のものが“広がった”と云う前提に成る。

然し、「近江」を始めとして「美濃も甲斐」も平安末期には朝廷から求められる格式ある「家内の慣習仕来り掟・縛り」を捨てて姓化して源氏化して行ったのである。
結局、ここで彼らの血縁に関わる「伝統」は消えた。

因みに、これらを始めとした“「青木氏の伝統」”は勿論の事、「青木氏の氏是」、「浄土密教の考え方」、「嫁家先の関係」、「冠位位階等」の事が「女の得本」のこれには纏められて書かれていた。
取り分け、”「密教」”であるが故に、「青木氏の捉え方」で「般若経の語句」の「意味の解説」なども書かれていた。
故に、これらを習得した「女(むすめ)」の「嫁家先」も「四掟の同宗」で無くてはならない事に成ったのだ。

例えば、ここには嫁ぐ身の「女(むすめ)」の「「女の心得」として重視しなければならない事が書かれていた。
因みに、「色即是空」とは、「女」として陥り易い”「拘りの性」”に付いて、“決して拘るな”と説いている事や、「色不異空、空不異色」は「彼世(空)、現世(色)」は“同じ”と敢えて説いている。
つまり、“極楽は在るとは思うな“と、「無」である事こそが「極楽」であると、「大日如来信仰の密教説」を説いている。
何故、説いたかと云えば、「血縁弊害の一助」にしようとしたと考えられる。(医学的に説いた理由は下記)

(注釈 下記で論じるが、これ等の教えは「四掟」に依って起こり得る「血縁弊害の軽度の精神疾患」と、「女系」であるが故の「強く成る性」を抑える為の「戒め」でもあった事も考えられる。)

これら「青木氏の密教概念」の「伝統」は、当時の「顕教の考え方(観音信仰)」とは著しく異なっていた。
故に、後の統治者の家康は、この独自性を持つ「密教」を完全に禁止し全て「顕教・顕教令」とした事に成る。

事程左様に、この「本の詳細」に至ると、又、それには、「血縁時の最たる証拠」となる「初夜の作法」の事までも書かれている。
当に「女系」であるが故の「女の得本」である。
本論に記される範囲でも下記の通りである。

風呂を浴びる事、
その時、体毛を剃る事、
湯殿女に処女検査を受ける事、
初夜時の白襦袢は洗わず「福家(寺)」に送り届ける事、
現在と違い暖房設備がない事からその体位が重要で妊娠するに必要とするその作法等の事、
生理の25日型、28日型の事、
月と関わる事、生理前の6日前の行為の事、
男性の3日の欲情生理の事、
生理道具や行為の道具の事等・・・等

以上の「青木氏の「女(むすめ)」の掟(作法)」が書かれていた。
(もう少し他面に渡り相当に詳しく概念として書かれているが、卑猥になるので記述しない。)

現実に、これらは江戸期の大奥や大大名家にも伝わったものであろう。
これは「性欲の括り」では無く「血縁」に繋がる「生殖の知るべき正式な作法」としてのものでもあった。
現実には現在でも通用する程に“「女の得本」”は相当に「人の摂理」を把握していたものである。
江戸期の大名家のそれは「青木氏の妻嫁制度」の一部の「古来の作法」が広まってそれを真似たものであろう。


さて、「女(むすめ)」の“「女の心」の持様を表した「得本」”からは論を戻して。
以上、実は更にこの“「女の得本」”で「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来るのだ。

そこで先にこの「同族血縁の弊害」とはどんな「論理的な理屈」で発生しているのかである。
これを説く。
これを先に論じる事で合わせて“「女の得本」の「目的」や「すごさ」が判るので”解明して置く。

注釈として、そもそも、現在医学では、結論として「同族血縁の弊害(奇形は除く)」は、これを「同族血縁」を繰り返す事に依り「脳」に次の様な問題を起こす。

それは基本的に「脳の自立」を保っている「ドーパミン」と「セロトニン」の「ホルモンバランス」が崩れる事にある。
そして、この「バランス」を保つ為に多く成りやすい「セロトニン」を食う“「トランスポータ」”と云う細胞があってこれが働く。
ところが、「同族血縁を繰り返す事」に依って、この「トランスポータ」がその「子孫の脳」に不必要に大量に蓄積される。
そうするとこの結果として、遺伝的に「セロトニン」が一度脳に放出されたものがこの“「トランスポータ」”に多く食われる事に依って「脳内」で低く成り、「ドーパミン」との「バランス」が崩れた状態が遺伝的に恒常的に起こる。
そして、実際には「脳内」には潜在する「セロトニン」と「ドーパミン」が増えてはいないが、「脳内の再取り込み」のところで「バランス」が恒常的に崩れた事に依って「ドーパミン」が増えた形の状態と同じパターンが起こる。

つまり、この「アンバランス」が「パニック症(不安)」や「躁鬱性症」、「自閉症」の「精神障害」等の「精神障害」を引き起こす事が判っている。
これを現在では「SSRI」と云う。
「自閉スペクトクル症候群」と云う色々な面倒な症状が出る。

取り分け、高齢化に依らずともある「事象範囲」でも起こるのだが、「年齢化の進行」により歳をとり「自立神経」に「低下の症状」が出始めるとこの現象が益々出る。
そうすると「交感神経」のみが低下して「副交感神経」との間に「隔離現象」が起こって仕舞う。
そうすると「スペクトクル・脳の神経連鎖反応」が起こる。

例えば、たった「三粒の雨」に濡れたとすると、其の事に依って「副交感神経」が過敏になり過ぎ、私は「風邪をひく−熱が出る−咳が出る−死ぬ」と云う風に連想する。
そうすると、「自立の副交感神経」である筈が過敏に反応して、「風邪」では無いのに実際に「熱(最大38度位 不安定)」を出し、「咳」を出し、「震える」と云う風に連鎖して行くのである。
この様な事が「弊害」として起こる。

これを医学的に一時的に直すには、唯一つある。
そもそもこれは「副交感神経」の「過剰反応体質」から来ているので病理現象ではない。
そこで、神経が過剰反応している事から来ているので先ずは”「安心させる事」”が「唯一の方法」で最も効果的で、無反応の「栄養剤等の点滴」を施し「安心させる事」や「医者の癒し」等の処置で全ての症状は10分程度で治まる。
「風邪の病理」ではないので薬は「ショック現象」を興すので与えられない。

つまり、”医者と云う専門家に依って看て貰っているのだ”として自分を脳内で安心させる結果と成る。
そうすると「過剰に反応した副交感神経」が”死なないんだ”として今度は逆に働き安心して直ぐに落ち着く。
ここで、ところが入院をさせたとすると、”あぁ、自分はそんなに悪いのだ”として、更に興奮状態のスペクトクルが起こる。

この「トランスポータの蓄積量」にも依り「症状に大きな強弱」があるが、何事にもこの様な現象が興す。
手の付けられない強いものもあり恒常的で完全な精神病と成る事もある。
「同族血縁の弊害」の多くはこの「パターン」が多いのである。
昔はこれを「精神が衰弱した」と判断していたものであろう。

(注釈 青木氏では「女(むすめ)」の過程で成長して判る場合は「女(むすめ)」の養育過程で見抜く事が必要になる。
然し、その前の過程で「掟」として選抜していたらしい。)

普通は「自律神経の低下」で「交感神経」も「副交感神経」も同率で低下して「認知機能」の全体が低下するのが普通で8割程度であるらしい。
例えば、同率で低下すると何が起こるかである。
「肺炎」を起こしてもこの「脳の認知機能の低下」で今度は逆に「熱」も出ないという事にも成る。

然し、この「トランスポータの蓄積」の場合は、「脳内」に取り入れた事に依って「副交感神経」が強く働きすぎ、”考えられない様な神経質”に成る。
中にはこの事で「脳の攪乱状態」を起こし「大声」を挙げたり、「不可解な行動」を採る事も起こる極めて取り扱いが難しい。

(注釈 「トランスポータの蓄積」はこの「血縁蓄積」だけでは無く、上記の状態が続くと、「トランスポータ」では無くその「ストレス」が脳に蓄積され、結果として「恒常的なストレス」にも大きく左右している事がある事も解っている。
最近は同族血縁は少ないのに若者にも軽度の症状が多いと考えられている。)

昔では「血縁障害(血縁の弊害)」の殆どは、このパターンの精神病や高濃度の場合は「亜子」が生まれる事も起こっていた。
現代医学から観れば、その「家柄のストレス」も代々に渡り引き継がれるので「血縁弊害の問題」だけでは無くても起こっていたのである。

(注釈 当時は「亜子」もこの「症状の延長」と観られていたが、最近の医学では亜子の場合は「卵子の老化(35最以上)」が原因と云う事が判っている。
然し、「青木氏」では同じと観ていたらしいが、前段でも論じたが「女(むすめ)」の年齢が18歳以下であった事から、この現象は少なかった事が判る。)

そこで、従って「トランスポータの蓄積量」の「低下対策」は、その「血縁源を増やす事」が必要と成る。
これで必然的に低下するのだが、この様な病理であるので、「遺伝子的な欠陥」では無く「一種の血縁障害の病気」と云える。
然し、「同族血縁する」と蔓延的に蓄積が起こるので結果としてなかなか消えないので「遺伝的欠陥」と見做されやすいのである。

これは「同族血縁の濃度」に大きく左右されるが、唯、一度、起こると「人遺伝子(女系継承原理)」として潜在して引き継がれる事に成る。
つまり、「血縁濃度を下げる事」で隔世的に無くなる論理である。
隔世であるので世代を跨るような上記の様な長時間が掛かるのだ。

上記の「青木氏の血縁弊害」は「青木氏族の初期」はこの論理の病理に悩まされていた事が判るのである。
「正常な血縁範囲」の血縁でありながらも「パラメータ3(四の法則)」でも無くせなかった時期はこの上記の原理に従い次第に減少しながらも長く続いた事に成る。
「(パラメータ4(五の法則)」で始めて完全に消えた理屈は上記の摂理に依っていたからである。
従って、「トランスポータの蓄積」の元が「(パラメータ4(五の法則)」で霧消した事に成る事は理解できる。
隔世であるが故にこれが最低で「160年と云う期間」を要した事に成る。
一代を「約25年」とすると最低でも「6代〜7代」を要した事に成るだろう。

故に、「女の得本」は各所から情報を獲得して、それを基に恐らくは医学的な合理性を感覚的に把握して、これを取りまとめたものであろう。
これに近い事を説いて「女の得本」で「弊害」に対応したのである。
これ等の事は「神明社か菩提寺」の「執事役」が纏めていた事が判る。

最終は「6代〜7代」を経て「女系」に依る「三つの血縁源の対策」からのその効果で遂に消えたと云う理屈に成るのである。

これは、現代の遺伝学では「人の遺伝子情報」は「女子」は直接的に直接遺伝し、「男子」は潜在的に隔世的遺伝する。

そこで、後勘から観ると、この論理で「女系の妻嫁制度」で成功したのだが、更に「男性」では果たしてどうであったのかを検証する。

そこには先ず「人遺伝子(女系継承原理)」は「男系の場合」は母親から引き継いだ「潜在的人遺伝子」は「隔世遺伝的・潜在的」に引き継がれる。
然し、「隔世遺伝」である為に「二代続き」で「女子」が生まれなければ「女系の持つ遺伝子」は遺伝学的には遺らないで消え去る。

これを「三親等から四親等の同族血縁」を繰り返すと、この範囲で三世代以上繰り返すと「トランスポータ」が蓄積されて徐々に「精神障害」が発症して来ると云われている。
古来は血縁は二親等もあった。

「男性の男系」ではこの「トランスポータ」の蓄積が「女系継承原理の人遺伝子」で潜在的である為に「血縁弊害の現象」を読み切れず改善出来ない事に成る。

従って、上記の遺伝原理に従い上記の数理論でも検証した通り「女系」で無くては成らないのである。

故に、近代学的にも「四六の古式概念」の上記の「青木氏の女系の妻嫁制度の策」で採った「青木氏」の「パラメータ3」(四の法則概念)が「血縁の弊害」を防止する事が出来る「限界値」であった事と成り得るのだ。
後勘的に観ればこの原理を「青木氏族」は知ってか知らずかこの方向に向けていた事に成るのだ。

依って、「不明な隔世遺伝的要素」を持つ「男の嗣子」を「四家の範囲」で固定して外に出さず、「女子」をある範囲で区切り、「出と入」を監視すれば「血縁弊害」の「持ち込み」は防げる事に成る。
何故ならば、この「三つの血縁源の監視」でその「血縁弊害」が「其のルート」の「表(女子)」に出ているからである。

「三つの血縁源」の中で「一つの氏族」を構成している「氏人の血縁源」は、要するに「女(むすめ)」で「氏族内管理(掟)」されているから「弊害(嬰児などで)」は排除出来ている事に成る。
この課題は「氏人の血縁源」から“絶対に男子を入れない事”である。

そこでその「難しさ」は、“四家の範囲で男子を調達する事”が出来るかである。

つまり、それが況やその「出来る範囲」が”「四家制度」”であるとしているのだ。
「青木氏の範囲」での「四家の男子の数」を「20人」として確保するとしているのだ。
そうするとこれには「妻の数と質」が前提と成る。


これをできるかどうか検証して観る。
前段でも何度も論じている事ではあるが、この「20人」を確保するには「妻」を「四人(実質3人)」としていれば「嗣子20人」は確保できるとしたのである。

[(福家1)・4+(四家4)・4]・3=60人の妻 と成る。
{60・(4〜2)}・50%(産)≒60〜120(子) の子供が生まれる。
この内、出産男子:50%≒ 30〜60人 と成る。
世継ぎまでの生存率≒50% 15〜30人≒23人 と成る。
計算バスアス10%最低≒6人 とすると
故に「20人」は確保できる事に成る。

実に適正であった事が云える。

「計算バスアス10%」が時系列で変化したと変化と成るだろう。

「青木氏」が、これ程の事を読み切れていたのは、この「医学的根拠(遺伝学)・経験則」を何らかの方法で見抜いていた事に成る。
どんな方法で知識を獲得していたかは判らないが、筆者は「貿易」とそれを「神明社」が解釈していたと観ている。

次はこの「見抜き」は果たしてどの様にして獲得したのかである。
それは恐らくは、「女(むすめ)」から養育時に教わった「外観上の男女の性の差異」の「人の生態摂理」で引き継がれていたと観ている。

元々、この事が「女の得本」に記されていたからでもある。
これが広がった「重要な原因」でもあって、「青木氏族が一つの慣習仕来り掟」に依って「血縁関係」が構築された原因でもある。
この逆はあり得なかっただろう。
「青木氏族の血縁弊害」の出ない「氏族」を周囲は凝視していたと観られる。

{光仁期−仁明期の経験>「女系の妻嫁制度」={女の心得本>嫁家先制度}  1
「弊害原因」<「慣習仕来り掟」>血縁関係  2
1+2=「青木氏族」

故に、 「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

この関係式を見抜いていたと云う事である。

以上の関係式が先ずは成立していたと考えられ、これを時系列的に時代に合わせて上手く使い分けていた事に成る。

この「通常範囲」と「特別範囲」を差配する事で上記の「青木氏族の関係式」は成り立っていた。

ところがこれでは「四家の範囲」では成り立つが、然し、「氏人を含めた氏族管理の範囲」では弊害は起こり充分ではない筈である。

その答えは、上記の検証の通りある範囲の”「氏人の伊勢郷士数」”が必要に成っていた事に成るだろう。

この「伊勢青木氏の例の考察」から観ても、「最大時の伊勢の50郷士」としても、この関係式の成立ではぎりぎりに成り立っていた事に成る。

「伊勢の青木氏」の「本領安堵の地権域」が、「遠祖地の南紀」までの範囲である事(a)
そして、その地域には、必ず、「家人や氏人」の「四家の絆青木氏」を含めて定住していた事(b)
恐らくは、この「元の郷士の数」の「50の郷士」まで、つまり、隈なく「伊勢の全域」まで「何らかの形での縁組」が出来上がっていた事(c)
これが1000年以上(江戸初期)で築きあげられていた事(d)
そして、「氏族」として及んでいた事(e)

以上の5つが働いていた事が充分に理解できる。

恐らくは最低限、「信濃」までは同然であった。

{「四家20」+「50郷士」}・X=「伊勢青木氏族」

{光仁期−仁明期の経験>女系の妻嫁制度}={女の得本>嫁家先制度} 1
弊害原因<慣習仕来り掟>血縁関係 2

二つの関係式の「1+2」=「青木氏族」 が「青木氏族」である事に成る。

故に、「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

これらの関係式で「パラメータ3(四の法則)」でも後半には少なくともほぼ完全に成立していた事に成る。

更に検証して観る。

単位年を「100年」として、「四家20家」で養育する「女(むすめ)」の数が「玄孫域」までとする。
例えば、男子/女子≒50%として、子=10〜12、孫域=5〜6、曾孫域=2〜3、玄孫域=1〜2とするならば、「玄孫域」で「15年単位の区切り」で観れると次の様に成る。

最低で「19の縁組」 最多で「23の縁組」 

これを「1000年」とすると、これの比例として「10倍」が嫁す。

(注釈 計算を容易にする為に「毎年の血縁」を一つの「区切り」として観る。)

そうすると、最低で「190の縁組」、最多で「230の縁組」が起こる。

「郷士数 50」では、最低で「3回周りの縁組」、最多で「5回周りの血縁」
以上の「血縁回り」が起こる事に成る。

「血縁回数」=3〜5回周り

以上と成る。

これで「原士」を含めて「伊勢郷士」が、完全に「青木氏の氏人化した事」は証明出来る。

「奈良期から平安初期」には「信濃や甲斐や美濃や近江」も同様の理屈がほぼ成り立っていただろう。

「伊勢王」として遙任してから「施基皇子(716年 四家形成期)」から「子孫拡大」を見せたとして次の様に成る。

「一回目の縁組」は、上記の検証の通り「最低で19、最多で23」として、「郷士との縁組(家人差配頭)」はこれの1/3〜1/5とすると次の様に成る。

「4〜8との血縁組」が“「780年頃」”に既に起こっていた

以上と考えられる。

この「4〜8の傾向」が、「15年単位(女子の血縁年齢)」で区切るとして「累計的」に増えていく事に成る。

「100年の単位」で、「単純比例」では、「28〜56」(一周り)と成る。

現実にはこれが次第に「累計的増加(1.3)」として観れば、次の様に成る。

「37〜73」=AVE55/50と成る。

「施基皇子没後の100年後」の“「816年頃」“には、“「氏人」”が完全に構築され「氏族としての条件」は完全に成立していた事に成る。

この「816年頃」は、何と「嵯峨天皇期の頃(嵯峨期詔勅)」で、丁度、「新撰姓氏禄」が出された時期でもある。

全く「青木氏の歴史観」と「数理計算」とは、「伊勢」では完全に符号一致する。

何度も云うが、この時期では「信濃、近江、甲斐、美濃」でもまだ全く同じ事が何とか起こっていた事に成る。
問題はこの後からである。

唯、「信濃」に於いて「郷士数」が「伊勢の5倍から9倍位」はあったとされている。
「新撰姓氏禄」に記載されている「原士(e)と郷士(d)〜(f)」とすると、次のように成っている。

(注釈 「伊勢の郷士数」は「不入不倫の権」で流入する事は無く少なかった。)

但し、鎌倉期から勃興を始め室町期に発祥を興した「姓族(イ)」や、「移動する国衆」等や「姓族から郷士と成った者(ロ)」等を除く。

(a)真人(48)、朝臣(101)
(b)宿祢(98)、忌寸(50)
(c)臣(66)、連(258)
(d)首( 93)、造(80)
(e)公(63)、直(42)
(f)史(28)、村主(20)、県主(12)

(a−1)の「真人族48」は「青木氏等数氏」を遺して全て下剋上で淘汰され滅亡した。
(a−2)の「朝臣族101」も殆ど淘汰滅亡したが、「傍系族」が地方に姓族化して土豪化して生き残る。

この記録から観て「郷士か原士」と成った「族階順表」は次の様に成る。

(b)=148
(c)=324
(d)=173
(e)=105
(f)=60

合計=810

この「810」が、「近江、美濃、信濃、甲斐」の「平安期の主要天領地」であったこの「四地域」に分布した事に成る。

矢張り、「日本書紀」にもよく活躍して出て来る様に「臣と連」(c 324)が多い。

これには歴史的に其れなりの理由があり、「臣と連」(c 324)は「中級官僚族」である。

この「族階順表」から更に検証する。

A 関西域と中部域の郷士予想数

国数=13/66とする。
当時、「天領地」は「810の約65%」が関西と中部域に集中していた。
810・0.65/13=41 郷士数/国

そうすると「平安初期の四地域」には、 正規な41の郷士数/国 と成る。

これに(a−2)の「101(朝臣族)」のBが加わる事に成る。


B 天領地に赴任族で姓族化した傍系族。

(a−2)の「101の朝臣族・傍系姓族」/4=25/国
41+25=66 正規な郷士数/国(近江 信濃 美濃 甲斐) と成る。

「平安期初期」には、矢張り、「主要天領地」では次の様に成る。

「伊勢」とほぼ同じ程度の「原士と郷士数(50〜66):(A+B)」

以上であった事が云える。

(注釈 重要 「伊勢」は、結局は室町期に北畠氏や織田氏等に侵されて乱れるが、結局は「元来の原士や郷士数」は変化しなかった事に成る。
「伊勢」は言い換えれば護られた事に成る。
「信濃」は国衆などに浸食されるが抑止力効果で所領地権域の1/4程度は護った。後段で論じる)

時系列として、平安期末期には、然し、「近江と美濃」は滅亡し、「甲斐」も大打撃を受ける。

(注釈 取り分け「近江」は「美濃」まで逃げた事が近江の全てを失った。)

これに鎌倉期から次第に増え室町期中期より「勃興の姓(イ)と(ロ)」が加わる。

然し、この「勃興の姓(イ)と(ロ)」は「新撰姓氏禄」に記載される正規な「原士や郷士」では無い為にこの計算には入らない。

(注釈 「正規」とは朝廷が認める族 「族階順表」の記載)

従って、「(a)〜(f)に記載されている族」が一族化して一部は「郷氏」に、多くは「郷士」に成り得ている。
依って、その「ルーツの位階や官位」は、「勃興の姓」の「武士の時代」に成っても「郷士>武士」であって彼らは「誇り」を持っていた。

江戸期には、従って、「勃興の姓(下記のイ)と(下記のロ)」の「姓族(第二の姓)」はこれを卑下して、この「郷士>武士の関係」を「郷士<武士」の関係に変えようと醜い論争が起こった。

基本的には重要な歴史観としてはこの「族階順表」からも読み取れる。

「(a−2)〜(f)の900」に近い「全国の郷士」は、そもそも「奈良期から平安期」の“「官僚族」”であって基本的には“「武士族」”ではない。

要するに、「官僚の務め」を全うする為に「武力」を行使していた“「官僚族」”である。
つまり、「補完役の秀郷流青木氏(初期)」の様に、地方の「押領使の令外官(警察や軍隊や治安)」の役務を果たしていた族である。
判りやすく云えば、「藤原氏や大蔵氏の傍系族の下位の官僚族」である。

“「官僚族」”の「位階」は「従四位下の以上の官僚族」である。
「最高官僚族」では「大蔵氏」の「錦の御旗族(大蔵氏・内蔵氏・安倍氏)」でもあるくらいである。
「源氏」と云えど「上記の縛り」から外れた限りでは位階・格式は数段で下位である。

(注釈 この様な意味で清和源氏分家の河内源氏系の頼朝が「摂津源氏の本家」でない限り幕府を開く資格は無かった。
そこで、平家討伐の「以仁王の宣下」を「頼政」は頼朝に通達は出していなかった事が公に史実として最近に証明され判明した。
「新宮次郎」がこの「宣下」を各地に通達したが、頼朝は受け取っていたとされていたが、これは幕府を開く為の「後付けの口実」であった事が判明した。
そもそも「縛り」を放棄している「姓化した河内源氏」には「以仁王の宣下」は権威上から出さなかったこ事が証明されたのである。
「以仁王の宣下」の「権威」に付いては「賛否両論」で、頼朝は軽く観た可能性が高い。)

因みに例えば、「九州鹿児島の本土末端」に派遣されて、その後、「島津家の郷士」と成った「市来氏」等も元はこの「朝廷の六大官僚族」の一つである。

歴史的に現在まで正式に「錦の御旗」を唯一与えられた「大宰府大監」で「九州全域の自治統治」を任された「阿多倍王」の末裔「大蔵氏」の「大蔵種材の末裔説」でもある。
殆どは九州では元は「大蔵氏系の官僚族の末裔」が「郷士化」したものである。
然し、この「大蔵氏」の彼らの「高位の官僚族は「郷士」とは成ら無かった。
例えば、「青木氏と関係」のある「伴造」から「九州全土に広がった豪族」と成った「大伴氏」もこの「派遣の官僚族」である。

この事前知識を前提に、元に戻して検証を続ける。

取り分け、前段で論じた様に「信濃と近江」では、奈良期までは「血縁関係」が相互間で起こっていた事から“「伊勢」と連動していた事”が資料からも判る。
又、この「族階順表」からも伺える。

この状況が、「100年単位」を一つの区切りとしてで観れば、江戸期初期まで「比例的」に血縁は10回繰り返されていた事に成る。

「比例的増加(2)」の「37〜73」=(AVE55/50)・10回≒550

以上と成りこの数は現実にはあり得ない。

但し、「平安初期からと江戸期初期」までは、前段でも論じた様に、「血縁の相手の数」が数倍に異なる故に比例計算は先ず論外で出来ない。

上記の「1000年での数理計算」の“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”では納得できる。
この間の「郷士数の変動などの歴史的経緯」の「変動値20%〜30%」を勘案して観ると次の様に成る。

550・「1/2〜1/3倍」=270〜180=3〜5

以上として成立する。

「室町期の下剋上と戦乱」に巻き込まれた元々「対抗する力の弱い官僚族・押領使等の令外官」であった「郷士の960」は、例えば、次の様に成った。

「真人族」の「(a−1)の48」は、1/5(≒5氏)程度に成った。
「朝臣族」の「(a−2)の101」は、「豪族の家臣(≒68士)」に成った。

(68士は滅亡して殆どが「傍系族」の姓化した。)

「郷士」に成ったとされる「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」は、「秀郷一門の庇護」を受けた。
その存在はその「主要地域の24地域」に観られる。

これはその「家紋分析」より凡そ確認出来ている。

イ 「郷士数」は(68士・1/3)≒「33士程度」と成った。(氏人族と成っている。)
ロ 「家紋分析」以外に「郷士」に成った「士・原士含む」には、「諡号の姓」を名乗っている。(「当時の地名」を使っている。)

この「イとロ」が彼らの「官僚族の判別できる特徴」である。

この「二つの特徴(家臣化と郷士化)・イとロ」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」が系統的に明確に読み取れるのだ。

この「読み取り」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り末裔 101」の内の「郷士の氏族化」は、次の様に成った。

“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”/(50士〜55士)

以上と成った。


平安期から比べれば、要するにこの「氏族・(50士〜55士)」の数は激減している。
然し、これが江戸期初期、又はその直前では恐らくこの範囲にあった事が頷ける。

(注釈 但し、上記の計算の「氏族化の変動値」は、これから「10%〜15%」と計算している。
前段の検証でも「一国・6〜7郡」の中で住める「郷士の数」も「50前後」とした。一致した。)

(注釈 前段でも論じたが、つまり、当時は、「天智天皇の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」が住んでいた「神・神木」に関わる「佐々木郷(「斎斎の木」)」を以って賜姓したと「日本書紀」に在る。
又、「日本書紀」や「嵯峨天皇の詔勅の禁令」等の古書にも、「青木氏」の様な“「神木名」”を使った「皇族の朝臣族」が在ると記されている。
「青木氏の氏名」は「あおきの木」の葉は常緑で、木も浄木地で育ち緑で、実は血を表す赤で、奈良期は「柏の木」と共に最高級の「神木」とされていた。
「青木氏」は更にこの「神木の柏の木」も「神明社の象徴紋」として与えられた事が「日本書紀や三代格書」などにもと記されている。)

(注釈 従って、これらの「三つの族」の「諡号の姓化」には「神地名」と「神木名」と共に使用を禁じている。
「嵯峨期の詔勅の禁令」は「奈良期からの慣習」を追認して禁じたものである。
「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」は、「真人朝臣族」以外の族には、「地名の姓名」と共に、その「慣習仕来り掟」をも一切を使用を禁じている。
当然に、「48氏以外の朝臣族」、即ち「賜姓源氏」も含めて使用を禁じられているのだ。)

そこで、「嵯峨期」まで「上記の注釈の様な乱用」が無秩序にあった事から「新撰姓氏禄」では、それまでの「血縁」が無秩序に入り乱れて区別が付か無くなっていた。
この「状態の子孫拡大」を改善して国体の基礎として「正常な秩序ある判別性」を持たす為に次の事を行った。

これがそれまで無かった「910の族」の社会環境に”「縛り」”と呼ばれた「格式制度」を確立させたのである。

先ず、上記の「(a)〜(f)」を「12−6」に分類した事である。(縛り 1)

その上で、更に「真人族48氏」を除く「911氏」に付きこれを次の「3つの族」に分けた。(縛り 2)

(a)真人(48)、朝臣(101)
(b)宿祢(98)、忌寸(50)

(c)臣(66)、連(258)
(d)首( 93)、造(80)

(e)公(63)、直(42)
(f)史(28)、村主(20)、県主(12)

この「3つの族」は更に次の様に区分けした。(縛り 3)
(「皇別族」は含まず)

「朝臣族」
「神別族」
「蕃別族」

以上の3つに区別して「血縁性の確立(縛り 1〜3)」を押し立てたのである。

そして、更に、この時、この「区分け」を明確にする為に次の区分けを定めた。(縛り 4)

「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」の範疇にある族の全てに対しても縛りを掛けた。
(縛り 5)

「皇別族・皇族別48氏での判別」も、次の三つに分けるとした。(縛り 6)

「直系族別」 (判り易く云えば主家族 : 卑属と尊属に分ける)
「尊属族別」 (判り易く云えば親戚族 : 卑属と尊属に分ける)
「傍系族別」 (判り易く云えば縁者族 : 卑属と尊属に分ける)

以上、「3つ」が「6つ」に成り、この関係で「子孫」を区分けしては拡がらせる事を定めた。

この「六つの縛り」に依って「格式化」を促したのである。

これが更に「子孫拡大」に伴って{「2の2乗」*3}の法則で広がる。
然し、”拡がり過ぎる”と元の{「2の2乗」*3}の「元の状態」に戻させた。

つまり、この「一族管理」が出来る範囲の限度の「縛り」を設けたのである。

これが「総家−宗家−本家」の「区分けの原則」として戻されたのである。

「族内の一切の決め事」が「総家」が認めなければ、「宗家」が認めなければ、「本家」が認めなければの「認可制度」を確立させたのであった。
上え上えと”何事にもお伺いを立てる掟”である。

その「区切りの範囲」を「分家」と云う言葉で区切ったのである。

(注釈 青木氏は姓を持たない為にこの「総家−宗家−本家」が無く当然に「分家」は無い。)

つまり、この「分家の言葉」には大きな「格式の違い差」を持たせたのである。

極端に云うと、「総家−宗家−本家」までが”「家」”と云う範囲であった。

「氏族である秀郷流藤原氏一門・361氏」は、この「仕来り」を「家紋と家号」に表す程に徹底して強調した。
故に、「秀郷流一門一族」の「位置づけ」は「家紋と家名」で現在でも見抜けるのである。
当に、この「縛りの効果」であるが、「秀郷流藤原氏一門・361氏」はこれ等のことが評価されて「特別な縛りを護る氏族」として認められていたのだ。
「家紋や家号」からも「総家−宗家−本家」の位置づけが格段と違う。
逆に云えば、「秀郷流藤原氏一門・361氏」は常に比較対象と成るが、この「縛り」に従わなかった「源氏族」はこれが全く無いのだ。
ただ「単なる賜姓族」であると云うだけで、そこには格式を示す他のものは無いのだ。

(注釈 理解を深める為に「縛り」の例として次の事がある。
そもそも「源氏族」が「笹竜胆と白旗」を象徴としているが、何処に朝廷より与えられたとする記録があるのか、そんな記録はないのである。
在るのは「光仁天皇」に於ける「皇別の青木氏との繋がり」からの搾取に他ならないのだ。
そもそも、”「八幡宮社」”と”「八幡大菩薩」”の守護神と菩提寺を有する「源氏」が「笹竜胆である事・(神明社)」は無く、且つ、この事は同時に「密教浄土宗原理主義派」の印の「白旗」とも矛盾している。
14もあった「法然後の浄土宗の派別」から「宗派争い」が起こり「最小派の白旗組」の「密教浄土宗原理主義派・青木氏派」を”「浄土宗」”とすると突然に決めたのは「室町幕府」である。
「源氏」は「鎌倉期・1221年」までであり、且つ、「縛り」を無視した族であり、「顕教の浄土宗」である「源氏」が「白旗」である筈が論理的に無いのだ。
従って、「白旗」でない限りは「笹竜胆」でもない事に成る。
「白旗と笹竜胆」は一対のものであり逆の事も云える。
更には「賜姓紋」として与えられた「笹竜胆」であるとするならば、「青木氏」から観れば曾孫域の「嵯峨源氏だけの出自元」が「伊勢青木氏」であったとする事だけで精々云えるかも知れないのである。
従って、「嵯峨源氏の範囲」であれば何とか理解は出来るが、「嵯峨源氏」でさえも結局は「縛り」を護らなかったのである。
更に、これも一対としての「笹竜胆紋」に添えられた「賜姓守護像・ステイタス像」、つまり「鞍作止利作の大日如来坐像」を持つているのかという事に成る。無いのだ。
そもそも「如来信仰」は「青木氏等の密教」であり、「源氏」は「阿弥陀信仰の顕教」である。
前段でも何度も論じたが根本域に違いがあるのだ。
念の為に再記するが、「如来信仰」は彼世から「人に悟り」を求める密教で、「阿弥陀信仰」は釈迦を現世に下ろして「人に教え」を伝える「顕教」である。
「皇祖神の子神の祖先神の神明社」では無く、「八幡菩薩」で「八幡の神教」と「菩薩の仏教」を合わせた「信仰体」である限り、そもそもこれらはあり得ないのである。
上記した「以仁王の宣下」の事も含めて、これ等の矛盾を隠すために明らかに「頼朝の権威後付け」であった事に成る。
「摂津源氏」ならば未だしも「繋がり」は多少認められるが、要するに頼朝らはそもそも上記の「分家」である。
故に、この様に「歴史」とは、「権威の為の後付けの搾取」が多く横行し、よく調べないで公的な記録とされているのが現状で根本的な間違いを起こすのである。
「青木氏の研究」から観ると、この「頼朝の笹竜胆紋」は「搾取の矛盾」があり過ぎるのだ。
つまり、この朝廷が定めた「縛り」が無ければ問題はないが、論じている「史実の縛り」から観ればである。
故に、「摂津源氏の四家族の頼政」等は、”事を興す大義”を何とか造り上げる為にも「伊勢と信濃」に「子孫」を送り込んだとも執れるのだ。
これならば、「笹竜胆も白旗」も頷ける。
確かに前段で論じた様に”子孫を遺すと云う大義”もあったであろうが、この事も大きかったと観ている。
「正三位」がこれを証明し、「分家の頼朝」に”「宣下を出していなかった」”とする史実も理解できる。)

この「注釈の様」に「嵯峨期」までは無制限に無統制に成っていたものを「縛り」で統制しようとしたのである。
無制限は「天皇家の形態」が崩れる事に成り兼ねないからである。
つまり、思わずも「孝謙天皇の白羽の矢」から発している所以を以て「秩序ある国体」を造ろうとしたのである。
ところが皮肉にもその期待する結果はその後も嵯峨源氏や河内清和源氏の「自らの子孫」がこれを破った事であるのだ。

この様な事を無くす為にもこの「八つの縛り」を掛けて「血縁の範囲の明確化」をして「族の拡大を防ぐ制度」が確立する様にしたのである。(縛り 7)
「子孫の無秩序な拡大」がこの様な事を生み国体は乱れるとしたのである。

この「真人族の区分けの原則」も、「総家−宗家−本家」を「四家制度」にして採用して「分家・支流化・姓化」を食い止めて「格式の確立」を求めた。
「青木氏」では「四掟の原則と四家制度と女系妻嫁制度」に枠を固め「氏族」で統制した。
従って、「尊属族別」から「傍系族別」へと移行して行く過程を無くして「四家の範囲」で留めて行く原則とした。(縛り 8)

当然に、「朝臣族」「神別族」「蕃別族」の「3つの族」の910族もこの「血縁原則」のこれに従う事に成った。

これで「青木氏」では「血縁関係の乱れた原則」を統一したのである。
これが本来の「新撰姓氏禄の政治的な目的」であった筈である。
然し、「清和源氏の二代目満仲」がこれを壊して朝廷から蟄居を命じられたのである。
その「分家の頼信」の河内源氏も意地に成って徹底的に無視した。
「11流ある源氏」もこれに追随した。
結果としては、生きて行く為に「八つの縛り」を守り切れず「近江美濃甲斐の三流の青木氏族」も破ったのである。

前段でも論じた様に、「天皇三代」に渡り確立しようとしたが、然し、これ程に「910の諡号姓族」からも「猛烈な反発」を受けた。

つまり、所謂、この「八つの縛り」、これが“「氏家制度」”の始まりである。

(注釈 後にこの「氏家制度」が確立し始めて、江戸期で完成して世は「安定期」と成ったのである。
「第二の姓」がこれを成し遂げたとするは皮肉な事ではある。)

「910の諡号の姓族」に対して“「総家−宗家−本家」”を中心とした制度を確立させ、何はともあれその元と成る「血縁制度」を確立して、「血縁弊害」を無くし「良い子孫の国体」を造ろうとしたのである。

(注釈 最終は「氏」は「縛り」に耐えられず消え、限られた数氏に成った。
然し、「家」は810〜906の範囲で出来た。)

唯、そこでこの「縛り」の範囲で遺った「真人族48氏」には更に“「特別の義務」”を押し付けた。

「縛り1〜8」までは、勿論の事、更にこれを護らない以上は、“「真人族」とは認めない”と云う「厳しい縛り」である。

次の3義務である。

1 「四掟」の「縛り 9」である。
2 「氏族(姓化しない)」を形成する事の「縛り 10」である。
3 基準とする「位階と官位と格式」を授かる事の「縛り 11」である。

以上、3つを課せた。

「真人族48氏」は焦った。
そもそも、世間性の無い「真人族」である。

前段でも論じた様に、平安末期までに、鎌倉期では一時保護した事により増えたが、これで「真人族」は激減した。
「室町期の下剋上や戦乱?1333年頃から」では影も無く消えた。

然し、「青木氏族」は生き遺ったのである。

次にそれは何故なのかである。

何度も論じる処の“「商いの経済力 1」”とこれを使った“「抑止力 2」”と“「補完役の出現 3」”である。
当然に朝廷が示す「縛り」を護った。

(注釈 「補完役」そのものがこの「縛りに対する補完」でもあった。)

当然に、以上の上記の「3つの課題条件」は元より、上記の「血縁の縛りの制度」にも適応した。

そこで何が興ったかである。

「滅亡する事」は解っている「皇子皇女」は、「真人族に成る事」を避けて、「皇族賜姓朝臣族の五家五流青木氏」に流れ込んだのである。
これが「伊勢域」から始まった「青木氏族の所以」でもある。
これも「青木氏」を彼らの「逃げ込み口」にする「補完役の意味・960年頃 平安期の中頃まで」でもあった。
「伊勢と信濃」は「皇女」のみにして「血縁の弊害」を概観より取り除いた。
但し、何度も云うが、常に比較対象とされる「賜姓源氏・最終1008年・花山」はこの「全ての縛りや課題の条件」に適合できなかった。

(注釈 ここで、唯、興味深い事があるのだ。
故に、「新撰姓氏禄・815年」にはそもそも「嵯峨源氏・814年」が、この時、「嵯峨源氏」は「真人族48氏の中」には入れられなかった。
これはどういう意味か、賜姓して発祥させたにも、既に、定めた「縛り」を遵守されなかったと云う意味かである。
この「嵯峨詔勅」は814年である。
それまでは桓武期までは”「一世皇子制の賜姓」”であったものを、「賜姓青木氏」に真似て「賜姓源氏」と云う「氏名」を限定賜姓して「名誉」を与えるがその代わりに「経済的保護」をしないとする制度に替えた。
つまり、「桓武期の賜姓・一世での身分保障」と「嵯峨期の賜姓・否保障」と比べれば始めから”勝手にせよ”という事で突き放している事に成る。
故に、「縛り」には当初から彼らは守る意思が無かった事に成る。
だから、「新撰姓氏禄・815年」には載せなかった事に成る。
とするならば、「河内源氏」の「分家の頼朝」の「権威の後付け搾取」や「青木氏の家紋や旗の象徴搾取」は理解できる。)

唯、然し、「摂津源氏の3代目源頼光−7代目頼政」は「四家制度や四掟制度」を何とか敷きこの課題をある程度護る姿勢を示しているのだ。
「皇族の者」が「家臣の家臣」に成ると云う前代未聞の事の「仕来り破り」して逆道して、「北家藤原氏の道長に臣従して保身したのであった。
この事から「桓武期の賜姓・一世での身分保障」の制度を護ったという事にも成る。
変を起こす程の政争にも成った「桓武論説」と「嵯峨論説」の「桓武論説側」に着いたという事に成った。

この様な苦労をしてある時期まで「四家と四掟」を構築した為に「真人族並み・正三位」(「氏族」は形成できなかったが)に扱われたのだ。
そして、破格の「3天領地の守護代」を務め、朝廷より「伊豆の所領」までも正式に与えられた。
つまり、「河内源氏の武力による奪取」では無かった。
「嵯峨期の詔勅」は所領を与えないものであったにも拘わらず所領を与えられた。

(注釈 この事に乗じて朝廷は荒廃した神社の建て直しを摂津源氏に命じた。
ところが、なんだかんだと言い逃れして実行しなかった。
あまりの追及に「一社の改築・改修」をして逃げようとしたが出来ず、見放された事が史実として遺されている。
一国の所領の力では無理な事であった。)

ところが「頼信系河内源氏」は敢えて始めからこの「一切の縛り」に従わなかった。
一族が「姓化する事」は一見して血縁弊害が低下する様に見えるが、そうでは無かった。
寧ろ、「一族の結束力」を強化する為により近い血縁を繰り返して弊害を生んだ事が資料から読み取れる。

(注釈 寧ろ、逆らって姓化して武装化して奪取して領地を拡大させた 
故に朝廷から観れば河内源氏は何ら「第二の姓」と変わらないのである。
寧ろ、「810の官僚族」の方が当時は「権威性」はあると考えられていた。
「朝臣族」であるとは云え、後の徳川幕府と何ら変わらない事になるのである。
それ故に「分家」でもあり「権威と象徴」が欲しかったと考えられるのである。
朝廷が「縛りの制」を敷いた事は彼らは充分に知っていた筈であり、この為にも「後付け搾取」をやってのけたと云う事なのである。)
故に、「頼政の正三位」に比べて「真人族」では無く「朝臣族」に留まり「位階も官位」も低いのである。)


注釈として、この“「縛り」”の為に「賜姓源氏族の子孫拡大」は限定された。
「真人族の朝臣族」には組み入れられず、殆どは「傍系族別」に部類される事に成って仕舞った所以でもあるのだ。
従って、「賜姓源氏と名乗る族」の殆どは、本来はこの「傍系族別」以上は歴史論理的に起こり得ないのである。
 (世間の風評資料と記録は殆どは搾取偏纂)

「禁令と区別(縛り)」でこの結果として以上に分ける事が出来るとして、これに更に次の様な事が興った。

血縁の経緯から必然的に「(b)〜(f) 810」が次の様に成った。

「室町期の豪族」の「支配下に入り生き延びた武士」 姓化
「氏族」と共生する「誇り高い伝統を護り得た氏人」  郷士

この「二つに成り得た族」が興ったのである。

この「二つの間 810」には更に結果として“「格式を示す姓名」”に「違い」が起こったのである。

どんなに誇張搾取しても「禁令の差」と「格式の判別」と「縛りの判別」や「姓名の違い」で判別できると云う事なのである。

唯、ところが「真人族を入れた959」のこれ等に関わらない“「新たな姓族(新興族・第二の姓)」”が室町期に勃興した。
それが「第二の姓」であるのだが、これで「縛り」などの「社会の秩序」は大きく変わって仕舞った。
この為に「室町期中期頃」からは“「格式を示す姓名」”が遺り得てもこの「禁令」と上記の「身分格式制」が元より完全に無視された。
この「第二の姓」の「新興族の比率」が急激に逆転し、その比が室町期の中程(1500年頃)から急激に増し、遂には短期間(140年)でその「勢い」は室町期末期には8割以上までを占める事と成った。

筆者の調査で検証して観ると次の様に成る。
「武士(上級下級含む)」は「約130万人・士族」であった。
(明治3年苗字令の士族を基準に計算 徒士と家族含む)

130万/4人≒30万 4%(戦闘員)

「第二の姓」/「第一の姓(910族)」≒8:2
「第一の姓(910族)」は「6万人(家族含まず)」いた事に成る。

30万・0.8=24万 3.2%
24万/140年≒1714人/年

「増える事の無い姓」が庶民から毎年「2000程度(人、家、族」が「実質の士族」・「第二の姓」に成って増えて行く事に成る。
(軍は大半は「荷駄兵等の農民」や「傭兵」であるのでこれは除く) 

「室町期中期(1500年頃)」を境には、「第一の姓(910族)」を一挙に追い越し、既に、毎年4倍化して行った事に成る。

これでは、「縛り」も何もあったものではない。
これに合わした新制度を新たに構築しなければ社会は安定はしない事は充分に解る。
上記の「イとロ」の「第一の姓(910族)」の立場も殆ど無く成っていた事に成るだろう。
「苦しい環境」であった事に成る。
取り分け、「信濃」は苦しい環境にあった事が判る。

これが「第二の姓(24万」の上記の「氏家制度」を模倣し踏襲した江戸期の「武家諸法度」である。

(重要な注釈 歴史的に関係する令として出されたものを観てみると、「元和、寛永,寛文、天和、宝永、享保」の6令を以て出されている。
これが追加集約されて「武家諸法度」として確立し大名に一定の秩序を課した。
その内容を観て観ると、主に「元和」がその「縛りの趣旨」に近く「幕府許可制」で「幕府の思惑」で統制した。
「嵯峨期」の様な「縛り条件」を確定して明示せずにそれを参考に判断して許可を出した。
「幕府思惑」に外れた場合は「取り潰し」で厳しく処理した。
「裁量権」を強化して「複雑な血縁関係」を「柔軟」に対処したのである。
実は朝廷と繋がりを強く持った「豊臣政権」でも同じような事が模倣されていた。
これは「血縁の許可制」に重点を置いている事から「縛り」に近いものである。
矢張り、「血縁濃度」が高く成りやすい「一族の結束力強化」に懸念して「国体の在り様」が考えられていた事に成る。
当初は主に一万石以上の「大名」に対しての掟であった。
それは上記した様な血縁弊害から「痴呆の指導者」が出来る事で族内外で戦乱・混乱が起こり易く成る事を懸念していたのである。
特に「元和の令文」を読み取ると、「7つ縛り」の散文形式には成っているがこの内容が組み込まれている。
これを観ると、明らかにこの「監視の元」をこの「縛り」を見本にしたのである。
そして、「第一の諡号の姓」ではなく「第二の姓」の「氏家制度・血絵統制」として確立したのである。
享保期以降には「大名」に限らず「5000石程度の家」、つまり「第二の姓」の「家」が構成できる限界と観ていた。
彼等にもこの制度を適用して統制したし、後にはこの概念が末端の武士にも引き継がれて行った。
江戸中期以降には「縛りの変形」が要するに遂には「天下の宝刀」として怖がられたのである。)


(注釈 江戸時代に「西の政権・権威を与える朝廷」は金銭で「官位官職」を「幕府の推薦」で「武家(5000石程度以上の家)・第二の姓」に与えた。
然し、与えた「官位官職」を調べると一応これにはそれなりの朝廷側の「基準」があった。
「第二の姓」が「武家の証」を造り出す為に「搾取偏纂」で「第一の諡号姓・910」の「武家の系譜」を求めた。
そして、この搾取での「福家の証」として発行されたもので「国印状」を取得した。
この国印状で得られた「搾取の武家」でも良いから、先ずはこれの前提で上記の「縛り1」「縛り2」「縛り3」の基準で与えたのである。
「大名格の高位」の場合に依っては、更に「縛り4」「縛り5」「縛り6」)に適合しているかで「官位官職のレベル」の「振り分け」をして与えていた事が判る。
従って、「大名格の高位」の場合は「系譜の搾取」にボロが出ない様に絶妙に行わなくてはならなかった。
推して知るべしで、この「搾取系譜」が数代経過すると「尾ひれ」が着いて証拠も無いのに本物と思い込まれて行くのが歴史である。
「新撰姓氏禄」の中に全く時代の異なる、且つ、「慣習仕来り掟」の合わない「矛盾の第二の姓名」が記載されているのはこの事から来ているのだ。
「後付け」の最たる見本である。
この現象は「青木氏」にもあって、「上記の縛りの理屈」からも「青木氏」は「姓」を出さない「氏族」なのに「姓化した甲斐」では横行しているのだ。)

何事も多勢に無勢の論理から「嵯峨期」からの「禁令」と「身分格式制(縛り)」は上記の検証速度で崩壊して行ったのである。
壊したのは確かにその意思の無い“「新たな姓族(新興族)」”ではあるが、「縛り」を無視した「河内の源氏族」も自ら壊した張本人であろう。
「第二の姓」の「勃興の兆し」もあったのにこれに気づかずに「自分で自分の首を絞めた所以」と成ろう。

(注釈 「摂津の嵯峨源氏」も最終は耐えられず「清和源氏」の「初期の武力集団」に組み込まれた。)

然し、ここで云いたい事は、この様な環境の中でも「青木氏族」の中には依然として「青木氏の氏是」を護りながら「禁令」と「身分格式」は大変な苦労の末に「伝統と云う形」で、且つ「氏族と云う形」で維持していたのである。
求めない「身分格式」がありながらも現代的な”「共生共存共栄の伝統」”で生き抜いたのである。
明治9年まで続いた「青木氏」が主導した「伊勢騒動」はその「典型」では無いかと観られる。

(注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。

「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


  [No.371] Re:「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/06/19(Wed) 14:35:58

> 「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」の末尾。

(注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。


「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


「氏族」として、「福家(氏上)」として、「四家」として、“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”を興していた「郷士の氏人」としての関係は、「完全な相互関係(共生共存共栄)」が確立していた事がこの事でも判るし、前段でも論じた種々の内容でも証明される。

(注釈 筆者が幼児期にこの「南紀の縁者の何軒かの家」を父に連れられて旅した事がある。
その時に、何が何だかよくは判らなかったが、未だ“「福家の・・・の若様」”とか呼ばれた「薄らいだ記憶」がある。
この時、「伊勢北部の伊藤氏本家」の「縁者」で、“格式ある様な家構えの家”に泊まった記憶もある。「家人」であった「南紀の周参見の家」にも泊まった記憶もある。
更には、「南紀湯川の家人」であった大きな旅館業を営む家にも何度か訪れた記憶がある。
又、「南勢の尾鷲」の父が育った「加納氏出の祖母」が住んでいた家にも薄らいだ記憶として幼少時に訪れた事がある。
この様に「南勢の遠祖地」との関係は父の代まで続いていた。)

北部から遠く紀州南部域に定住していた「伊勢青木氏」と関係していた「郷士筋の末裔の家」(氏人)であった事から、この事は「昭和の20年頃」までは、未だ「50」とは云わずとも「20位の郷士との親交」が未だあった事が云える。

「北伊勢に本家」があった「伊勢藤氏」の「伊藤の分家」の「南紀勢」の“「旅記憶」”が未だ筆者にあった等の事からすると、「伊勢郷士衆」と共に「伊勢北域」の「櫛田川付近」の「郷士の射和商人」等との「親交」は充分にあった事が、「数字の考察」以外にも記憶で証明できる。

この“「親交」”とは、そもそも「氏家制度」のある程度の「古い習慣」が未だ遺っていた地域であり、この事は“「縁組」”を半ば意味する。
この事からも、正式な譜系が消失して無く成ったとしても「血縁の有無」は多少とも証明できるだろう。

上記でも論じたが、「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、資料で分かる範囲としては「伊勢域」では「18程度の郷士」(「氏人」は除く)の名が遺されている。

「青木氏」と「経済的契約」に於いては「大小の郷士」で組織されていた。
これらは全体で次の様に成る。
「伊勢全域」から「南紀」−「伊賀甲賀域」―「員弁桑名域」―「美濃域」―「木曽域」―「諏訪域」―「信濃小県域(後段で詳細に論じる)」―「小諸域」
以上の「縦の線」で結ばれていたことが判っている。

注釈として、前段でも論じたが「戦国時代で潰された豪族」を山岳部に「避難村」を形成させて、「経済的契約」に基づき支援をした。
これに対して、彼らは「抑止力、荷駄の搬送と保護、他のシンジケート」の「横との関係」に従事した。

筆者は、この「縦の線の関係」を持っていた「伊勢−信濃シンジケート」は、実は、奈良期から平安期に「青木氏族」と血縁を含む何らかの関係を持ったと観られる(a−1 48氏)(a−2 101氏)、或いは(b 148氏)であったと考えている。
そして、その「直系族別と尊属族別と傍系族別」の「原士や郷士」であった可能性があると観ている。

前段でも論じた「伊賀原士衆」や「甲賀原士衆」との関係の様に、だから、「山岳部の民」と成り得ていたとしても「900年以上」の「経済的契約の関係」だけでは無かった”「特殊な行動」”を執ったのであろう。
実は、その論処は、「真人族48氏」の内の「敏達天皇の四世族内」の「同祖同門同宗同位」で「春日王系の皇子族」の「真人族の末裔」の多くは、前段でも論じた様に「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだ歴史的史実がある。
「孝徳天皇との軋轢」や「斉明天皇重祚」や「壬申の乱」や「吉野の盟約」等で皇族内を含めて「政争」が起こった事で、彼らは「四掟の元先」の「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだのだ。
それが「平安期の仁明期頃(青木氏出自の直系尊属の終)」まで起こった。
又、これに関連する「(a−1)と(a−2)の910族」は、この庇護下に逃げ込んで生き延びようとしたのだ。
中には、少数であるが「讃岐、安芸、淡路」等にも逃げ込んで土着したとする記録もある。

前段で論じた様に「五家五流青木氏」以外の「(a−1)」は「郷氏、又は郷士」に、土着化した(a−2)は「郷士」と成って生き延びたとする史実がある。
本流論では無いが、これが室町期初期の「下剋上と戦乱」で激減し、その都度、「血縁性」が低いが一部は「青木氏族」に救われたとする資料もある。
(江戸初期の搾取偏纂か)
「近江佐々木氏の研究記録」には一部は少数であるが密かに「伊勢信濃のシンジケート」の組織に加わり、その「経済的な保護下」で生き延びたとする真偽性が低いが記録もある。

前段でも論じている様に、「五家五流青木氏族」内の「四家」に「初期の皇子皇女」に入った者等は、間違いなく「(a−1)の48氏」中の一つ「敏達天皇の春日王系」の「同祖同門同宗同位の四世族内」にあった「末裔」という事に成る。
何故に彼らは「青木氏」の「家人化」しなかったかと云えば、(a−1)(a−2)であったからである。
唯、結局は平安末期に「近江と美濃(源氏化)」は滅亡し、その地の「郷士 (a−1)(a−2)の族」は共に消えた。
「甲斐」も衰退しその地の「郷士(a−1)(a−2)の族」の殆どは消えた。

又、「伊勢青木氏」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇(聖武天皇 井上内親王)」を輩出し、追尊で「志紀真人族」に戻った。
血縁関係をより深めていた「信濃」と共に、そして「拡大する経済力」と共に、この地の「氏人の郷士」と共に、「(a−1)(a−2)」の「影の郷士のシンジケート」と共に上記した「縦の線上」で存在し拡大させたのである。

これが、筆者が考える「伊勢−信濃の縦の線」に出来た「シンジケート説」の経緯である。
前段でも論じたが、疎遠であった「甲斐」で「(a−1)(a−2)の郷士説」を証明する事件があった。
「武田氏」を滅ぼした「信長の甲斐視察」である。
つまり、「象徴権威」を嫌う「信長事件」である。

因みに、「(a−1)(a−2)末裔」の“「古式伝統」”を守っていた源氏化した「甲斐の一郷氏」が「白衣着用と白馬乗馬での殴打事件」である。
実は、別の面から観れば、前段でも論じたが「源氏化と姓化」していた「甲斐」がそれほどの伝統を守っていなかったのに、何故、“「古式伝統」”を態々「信長」に見せたのかが疑問なのである。
取り分け、「甲斐」は殆ど「信長の先祖が持つ格式」と「甲斐の源氏化と姓化の格式」には差異は無いのである。

それはそもそも「信長」も元を正しく辿れば「平家傍系族」である事は解っている。
一般化している“「象徴権威」を嫌う信長”と云う説の公説で説いているが、「青木氏の歴史観」から観ると「甲斐の源氏化と姓化の格式」と差異が無ければ、この説は崩れる。
この説の「甲斐の源氏化と姓化の格式」の前提は「上位の格式の源氏」であると云う事から来ている。
この「源氏化と姓化」をし更に「郷士化」した「甲斐の源氏」は果たして「格式ある源氏」であるかのと云う事である。

前段で論じた様に「格式」を保障する「縛り」から逃避したそもそも「河内源氏の傍系族」である。
「甲斐の格式」の前提は、そもそも「五家五流の賜姓青木氏」であったとする前提であり、「後付けの源氏説」で論じれば違うという事に成る。
寧ろ、「出自先」を辿れば「信長の方」が搾取偏纂が多少はあったとしても「揚羽蝶紋で木瓜紋」である事の方が搾取は少なく、且つ判り易い。

公説は「青木氏」から観れば「信長」の方が上である。
況して、「摂津源氏」と違い”「縛り」”から外れた唯の豪族の「姓化の傍系源氏」では無いかと云う認識があっての事であったと観ている。
その意味ですれば「織田家」の方が「桓武平家」と云う正統性があると云う自負が在ったと観ている。
つまり、”格式は上だ”とすればここで”白馬から引きずり下ろす”が常道と成る。
故に、「甲斐青木氏の態度」を必要以上に誇張する態度に感情を高ぶらせたと観ている。

(注釈 話は逸れるが、{格式の論}として参考に論ずる。
又、南北朝で活躍した「楠木正成」も実はこの「(b〜e)の影の郷士説」と云われている。
何れ存在は認められるとしても、「彼等との何らかの関係」を証明する記録は「大阪府南河内郡千早赤坂村」の「楠木正成」が「影」であった事は史実であり、この限りでは否定は出来ない。
実はこれを解く鍵はこの“「楠木」の姓”にあるのだ。
別論なので詳細は論じないが、紀州一帯でのこの「楠木姓」は実に多い。
これは「熊野宮司六氏の支配下」にあった「熊野神社に由来する土豪」が使う姓である。
そして、「900年頃以降」からこの子孫は拡大した。
その「土豪」は前段で論じた「b〜eの810の中」の「第一の姓」の「宿禰族等の上位の官僚族」に従った「低位の官僚族・家臣」の派遣子孫である。
900年頃以降に此の「現地孫の末裔」が土着し、「熊野神社の神姓」を名乗ったものである。
要するに「熊野神社族」である。
この「熊野シンジケート」が「伊勢シンジケート」や「雑賀根来の紀州シンジケート」との連携であった事が判っている。
「熊野シンジケート」はそもそも紀伊山脈に逃げ込んだ「平家の落人族(史実)」である。)

(注釈 紀州では「高野村」、「大峰村」、「有馬村」、「龍神村」、「十津川村」、「北山村」等は有名な史実である。
「楠木姓」と共にこの「村の土豪姓」も多い。
後に彼らは「シンジケート忍者」と成って「紀州徳川氏の媒臣」と成って「伊賀」と共に働いた。史実
前段でも論じたがそれが「熊野神社」と連携して生き延びたのである。
「青木氏に関わる伊勢紀州一帯の研究」からは紀伊半島では「一般的に成っている説」とは異なる。
「影の郷士説・シンジケート」は「彼等の実際の戦歴(シンジケート戦術)」の史実で証明できる。
「ジンジケート」とはこの様な経緯から興る)

そこで、前段でも論じたが、筆者は、「郷士」には次の様に分類されると考えている。(原士も含む)

(a−1)に依って「土地の郷氏又は郷士」と成り得た族で、僅かながらも「氏人関係」が成立している。
(a−2)に依ってある地域の「影の郷士」と成り得た族で、「氏人関係」が充分に成立し得なかった。

何れも、後に郷士やシンジケートと成り得た「(a−2)」は系譜上では次の様に成る。
1 元は祖「敏達天皇」の孫「芽淳王」と、同孫「舒明天皇」は「異母弟:(母のロ)」
2 「敏達天皇」の妃「春日老女子:イ」の「第二皇子(異母:ロ)」が「春日皇子(王)」
3 「舒明天皇」の子で「妻不詳」の子が「宮処王」、即ち、「春日皇子(王)」

以上、「(a−2)」の「始祖」と考えられるのは以上の「3系」であると考えられている。
ここで、これは「伊賀との関係性」を考察する上で「重要な事」に成る事があるのでそれを先に論じる。

先ず、この系譜では難解であるが、「敏達天皇」の「妻のロ」が「舒明天皇の妻(妻のロ)」と成った。
従って、系譜では「舒明天皇の子」と成る。(妊娠期で何れの実子かは判らない。)
即ち、この系譜の「天皇家の純血の慣習」は、「后(母)」を除いて「妃嬪妾」が“「次の天皇の妻」として引き継がれる事”が通例であった。

(これは「純潔性の保持」の「天皇家の当時の「財産的仕来り」であった。)

この場合は多くは慣例に依るが、この場合は“「妻不詳」”と記されている。(記録上の当時の仕来りであった)
この様な場合、「医学的進歩」が無かった時期では、“「妊娠期」”が何時であったかが問題と成り、且つ、未だ「比丘尼制度」が充分に整っていなかった時代では「比丘尼」として「天皇家」から外れる仕来りは無かったしその概念も無かった。

(注釈 後に「比丘尼制度」でこの「仕来り」を上記の「財産的純血性の保持の「仕来り」は廃止した。
矢張り、「血縁弊害」が大きく響いたと考えられる。)

従って、当時としては官僚が行う事務的処理は「不詳の記載」は「当然の事」であって、「子」であったり「孫」であったり「兄弟」であったり、時には「親」と成り得る事もあった。

後勘としては、この古き時代の「記録の不足する事」を勘案すると、「記録一致」を証明する「複数記録」が無い限り、どの説を採るかに依って変わり「多説」が起こる所以でもある。

(注釈 その意味で”「比丘尼の概念」”を獲得する事は重要と成る。
そもそも、「比丘尼の概念」は「仏教伝来」によるもので、「公的」に扱われたその時期は「欽明天皇期頃」である。
唯、「日本書紀・720年」には“「天皇信仏法尊神道」”と記載がある。
“天皇は「仏法」を信じ「神道」を尊ぶ”と記載されている。
この頃には徐々に浸透している事が判る。
つまり、これは「敏達天皇」の前に成るが私的には「仏教」は「職能集団の渡来人」の「密教」として伝来している。
この経緯からすると、「尼僧の概念」が確立したのは「仏教概念」が確立した「平安期795年」に入ってからであるので、「仏教の戒律」から「妻のロの様な慣習」は直ぐに見直された。
然し、未だこの奈良期では「普通の事」であった。
ところが「尼僧」が「比丘尼の概念」に到達するのは「後の事」である。
直ぐに概念化したのでは無かったのであり「尼僧=比丘尼僧」では無かったのである。
この返還の「経過過程」では、「比丘尼」は「巫女」と同様に「神社の役務」を務めていたのである。)

「敏達天皇の孫」の「芽淳王(後勘の渡来人の阿多倍王はこの別娘を妾に迎える)」から観ると、「舒明天皇」と「異母弟」である。
この「芽淳王の女(吉備姫王)」が「舒明天皇(斉明天皇)の后」と成り、「天智天皇」が産まれるのである。
つまり「異母弟」の娘が「異母兄の后」と成って、「天智天皇」が産まれた事に成る。
「異母」とは云いながらも「姪」を嫁にした禁じ手の「二親等血縁」である。
これには当時の「皇族内の血縁の概念」があった事に成る。
それは“「女の財産」”と“「異母」”である。
父から譲りうけた「女の財産」は継嗣の「女の財産」であると云う「基本概念」である。
これを前提に「血縁弊害を無くす事」が出来る「親等」では無く、無くす事の出来ない“「異母」であれば問題は無い”と云う「基準概念」である。
もっと云えば、「血縁弊害」より「純血優先」であった事に成る。
「純血優先」にしても「優先」とはそもそも「血縁弊害の理屈」が判っていて「優先」と云う考え方に成るので、「血縁に依る弊害」は判っていなかった事に論理的に成ろう。

現在から観れば、この「基本概念」は“異常ではないか”と考えられるが、未だその様な概念は殆ど無かったのであろう。
それより、“「純血で系統を維持させる」”のが「正統であった事」と、「血縁弊害の出る原因」が判らない以上は「人間の生殖行為」では「血縁弊害が出る事」は「当然の出来事」と考えられていた様である。

そもそも、その「基本概念」を変えさせたのが「仏教の概念」が「天皇家(720年前後)」に浸透した事であろう。

前段でも論じたが、「仏教伝来」は「公伝(538年頃)」を境に「公伝前(513年頃)/3説」と「公伝後(571年頃/3説)」に分けられる。

概念の経緯は「蕃神・神道」から「仏神・仏道」へと「概念」が変わって行くのである。

「800年頃(平安期初期・天台宗・浄土宗・真言宗)」に「3つの仏道」が出来て「蕃神・神道の力」=「仏神・仏道の力」へと移動して行き浸透する。
この「800年頃」を境に人々は「仏神・仏道」を概念の中に取り入れて云って、例えば「血縁の概念」も大きく変わって行ったのである。

その大きなきっかけが、上記の”「比丘尼」”である。
つまり、「血縁の元と成る女性」の「概念の変化」であった。

これは前段でも論じたが、行き成り「比丘尼の概念」に移った訳では無い。
「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の経過期間に沿っているのである。
「約290年程度の経過期間」があった事に成る。

「800年頃」に“「比丘尼」”で「約290年程度の経過を経ながら次第に上記の「女の財産」は「倫理悪」として、「血縁弊害」も「道義悪」としの概念へ変化して行ったのである。
この「比丘尼の概念」が「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の「両方の経過」の中にあったからこそ「概念の変化」が起こったのである。
そして、「比丘尼が女」であったからである。
そもそも、「概念の変化」と云うが長年に渡る染み着いた「人間の思考基準」であるからこそ簡単には変わるものでは無い。
それが、この“「二つの条件」”が伴い何と「約290年程度」で変わったのである。
現在でも「日本文化の概念」が未だ延々と続いている事を思えば短期間である。

さて、この「800年頃」を考えて頂きたい。
「青木氏の光仁期」の後の「桓武期」である。
この期を境に「青木氏」も同時に大きく変化した事を前段でも論じた。
取り分け、「四家。四掟。女系の妻嫁制度」等の多くの制度を敷いて「氏族の尊厳」を守りながらも「皇族」と完全決別した。

つまり、「皇族」も「概念の変化」をさせた時期、つまり、「仏教の概念」、「純血性の血縁の概念」とそれに対する「比丘尼の概念」に変換した時期でもあるのだ。
「出自元」が同じでありながらも、「青木氏の決別概念」と「皇族の概念変化」があったからこそ、その差が広まつたし、決別出来た事が「青木氏の氏是」にも成った筆者は分析している。
故に、「800年頃」に「賜姓五役」や「令外官の役目」からも決別して行く過程を観えたからこそ「影の役目」は成し得たと考えられる。
近づいていればそれこそ「墓穴」である。
「決別」を「氏族の目標(氏是)」であるのなら幾ら何でも本来は何もしない筈であろうし、余計なそんな事はしなかったと観られる。
それだけに「青木氏の氏是」であったのかも知れない。


次の問題に移る。
先ず、それらを判断するに必要とする知識として前段でも何度も論じている事ではあるが、下記の「注釈」で改めて記する。

(注釈 「春日皇子(王)」は、「異母弟の舒明天皇の皇子」であるとすると、「芽淳王」とは「異母弟」に成る。
つまり、「従兄」であって、「芽淳王」の「女の吉備姫王」と「春日王の父の舒明天皇」が婚姻する事で「春日皇子」は「芽淳王の義嗣」と成り得た。
「春日皇子(宮処王)」の実母「妻のロ」が「芽淳王」に絡んだかは確定は出来ないが、あり得るとした説も観られる。
そうすると、ここで「義詞子説」と「義兄弟説」が生まれる。
ところが「芽淳王の子説」は、「義嗣」では無く、「妻のロ」が絡んでいたとして「子」と明記している。
然し、これは”「妊娠期」”を証明できない限り確定は無理である。)

(注釈 この一方で、「芽淳王の別の女(四世族内の王女)」と「阿多倍王」とが婚姻し上記の妃(妾の説もある)の正式な三子を産む。
これが半国割譲で「伊賀」に住み着いた「阿多倍王」の「嬪妾」が”子供を産す”の記載に結び付く。
人数不詳で、 坂上氏、大蔵氏、内蔵氏の賜姓三氏外に 伊賀に平国香を生むの。記載に成る。
この「子供の子(孫・貞盛かその子の維衡か不明)」が「高野新笠」であり、「白壁王(光仁天皇)の妃」と成り、その子「山部王」が「桓武天皇」と成る。
この「桓武天皇の孫説」の「平高望―国香―貞盛・維衡」と成るが、「高望王(平高望?高尊王)」から時代考証が入り乱れている。)

(注釈 「国香の父」の「高望の名」は「阿多倍王」に与えられた「追尊名」を名乗ったとする説もある。)
「伊賀」に居た「阿多倍王」は、別名では「高尊王、平望王、高望王」の三名を持つ。
後漢名の「阿多倍王」は、伊賀で100歳近い長寿であったし、「桓武天皇」は「曾祖父」に当たる「阿多倍王」に、記録では「伊賀」に行幸して追尊して「日本の王位」として「平望王」等の王位を与え、「平姓・たいら」を賜姓したとある。
正式には「追尊」である事から「平姓・たいら」は「宇多天皇の賜姓」とされる説が生まれる。
「長寿・95歳以上」であった事、
「妃嬪妾」の「上記の入り組んだ慣習」である事
「孫や曾孫」と云っても現在の「累代性の概念」の中には無い事
当時の平均寿命が55歳の事を勘案すると、追尊時にはぎりぎりで生存していた事
以上が通説と成ろう。
筆者は前段からもこの説を採って論じている。)

(注釈 始祖と成る「春日王」には同名の王が「二世族の王」と「四世族の王」と二人いるので注意、
他に「施基皇子の春日王皇子」があるが、これは上記の「2の春日皇子」の「四世族の青木氏」である事から名づけられた。)

(注釈 「芽淳王のルーツ」の「伊賀の平姓・たいら」と「春日皇子・王」の「四世族の青木氏」の関係から観ると、「芽淳王」と「高野新笠」と「桓武天皇」の「三つの要素」で由縁があった事に成る。
故に、この由縁を以て「以仁王の乱」の「青木京綱」から「伊賀」に求めた「宗綱らの助命嘆願」は聞き入れられたと考えている。)

(注釈 この「桓武平氏・たいら」の「清盛」は、「伊賀」から播磨に一族全て移動するが、「遺された者」等が「伊賀原士」と成って「伊賀郷士衆」を形成した。
そして、遂には「伊勢郷士衆」に組み入れられた。
そのご血縁して「伊賀青木氏」(甲賀青木氏含む・家人)まで輩出した。)

上記の「注釈」から考証すると次の疑問が出る。
それでは、“彼らは一体誰達だったのか”と云う疑問が湧く。

その「桓武平氏」が去った後の伊賀に「遺された者等の系譜」は何なのかである。

この「重要な点」の解く鍵は、「高野新笠・桓武天皇の実母」の里から“「伊賀青木氏」”が発祥しているという事である。

仮に、「桓武平氏」との「伊勢青木氏との血縁族・伊賀青木氏」は、当然に「桓武天皇の母」の伊賀の「高野新笠」の「由縁」を以て間違いなく起こるであろう。
然し、「伊勢青木氏」が「女系の妻嫁制度」を執る以上は、「男系の青木氏」で無い限りはこの「伊賀青木氏」も「平氏」として播磨に移る筈である。

では、「移らない者」としての説はあり得るのかである。
検証して観る。それの答えは、“ある”と成る。

日本書紀に依れば「九州全土」を無戦で平定後に「薩摩大隅」にいた「阿多倍王」に対して、「朝廷の軍船団」が「薩摩での数度の戦い」で敗戦した。
そこで「朝廷仲裁」が成り立ち、阿多倍王は「呼び出し」に応じたとある。
そもそも、「薩摩大隅」から「伊賀」に移り、都に遙任して、「芽淳王の女」を娶り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の「3氏」を発祥させた。
その後に「伊賀の里」に戻り移るが、「妃嬪妾」を娶り、平氏以外に「子孫」を設けている。
この「平氏・たいらの母」と成った「妃」以外に、そこで考証としては「複数の伊賀の嬪妾」は、「伊勢青木氏の女」や「伊勢郷士の女」であった筈である。
これが前段でも論じた様に「青木氏の家人制度」に依って発祥した「伊賀青木氏」であると成る。

そうすると、前段で論じた「女系の妻嫁制度」で観れば、「伊勢青木氏」からは「伊賀の阿多倍」の別和名「高尊王、平望王、高望王」は位階の「王位」を授かった。
そうすると「白壁王−桓武系」に相当するので、「四掟」に適合する事と成る。
従って、「嬪妾」は「妃族」の「平氏・清盛系」とは根本的に「伊賀青木氏」は「族系」が異なる事に成る。
故に、「播磨」に行かずにその子孫は「伊賀」に残留する事に成り得たと観られる。

(注釈 これが「伊勢青木氏」と血縁に依る連携をして「伊賀郷士の青木氏(伊賀原士)」として播磨以後に発祥する事に成ったのである。
つまり、「四家外」の「伊賀の青木氏(甲賀青木氏もある)」という事に成る。
前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」より「伊賀郷士」に「女(むすめ)」が嫁ぎ、そこで「優秀な外孫嗣子」に「青木氏」を別に興させ、「家人」として受け入れる制度を使った。
そして「伊賀」を「氏族」として組み入れられたものである筈。)

(注釈A 上記した「春日皇子(560年頃)の族系」が、始めて「天武期の八色の姓制(684年)」で、年数からすると「120年後」に“「春日真人族」”を形成する事に成るのだ。
然し、ところがその間に「春日真人族」を形成したとする当時の記録は何処にも無い。
実質は、記録から「160年後」に「施基皇子(天智天皇の皇子)」に依ってこの「春日真人族」が発祥させた事と成る。
「天智天皇」はこのぎりぎりの「敏達天皇系」の「第四世族の春日真人族・2」であった事に成る。
恐らくは、既に、「四世族」から外れた「臣下族の朝臣族・賜姓青木氏」と成り得ていたにも関わらず、実質的には直前で絶えている。
この「春日真人族・2」を「元皇子」であった「施基皇子族」と云う形で形式上で興させたという事で成り得る。
筆者はこれは「孝謙天皇の策(白羽の矢)」であったと観ている。)

(注釈B、その後、この策で「孝謙天皇の白羽の矢」でこの「発祥の理屈」を造り上げて「光仁天皇(二代目の春日真人族の白壁王・朝臣族に)」が誕生したと成ったと観られる。
何故ならば「発祥の理屈」は、「大化の改新」の「定め」から外れる為に、これを無視する訳に行かず、既に「臣下族の朝臣族」と成り得ていた事に対する「定め」の「苦しい引き上げ策」を打ち出して於いてその上で「白羽の矢」と成ったと成るだろう。
更に「54年後(214年後)」に“「追尊」”で、この形式上(孝謙天皇の策)の「春日真人族」から新たに独自の追尊の“「志紀真人族」”を造り出して「正当化した事」に成ったと云う経緯と成ろう。
故に、追尊の「志紀真人族」と成った「青木氏の氏族」に「所属する者」等は、「八色の姓」に依って「真人族」以外の「姓」、つまり、別に「諡号の姓族」を発祥させてはならないと云う「皇族の掟」に組み込まれて仕舞ったのである。)

(注釈C 更に、この「二つの追尊(「春日宮天皇」と「志紀真人族」)」に依っての「天皇家の系に載った志紀真人族」に成って仕舞ったのである。
この事に依り、その「子孫」は本来はあり得ない「賜姓族」として授かっていた「青木氏(天智天皇)」だけが名乗れる所以と成って仕舞ったのである。
従って、同時に、これまで一時期まで「五地域」に散っていた「名の持たない皇族朝臣族(a−1 48氏)」であった者や、一時は「源氏(賜姓族ではない源氏)」に成った者等も「源氏」を外しても一斉に集結して「五家五流」に雪崩込み「青木氏」を「諡号」として公然として名乗って広まった経緯である。
「嵯峨期以降」の「源氏」には「賜姓の有無」の「源氏」がある事に注意。 
「11家/26家」と成っていて殆どは無賜姓である。この内15人が「五家五流」に流れ込んだとする経緯である。

(注釈D 記録に依れば「嵯峨期前」(施基皇子期)では「約240人と云われる皇子皇女」が当然の事として「五家五流」に流れ込んだとある。
「皇子族」は「近江美濃甲斐」(源氏化・姓化の原因)に、「皇女族」は「伊勢と信濃」(女系制が原因)に流れ込んだのである。
その後もこの傾向が続いた。)

以上の注釈に付いて「氏族の制度」以外に、「伊勢信濃」には前段でも論じたが次の理由があった。

市場放出権での経済力
都に近い地理的な優位性
「不入不倫の権」で護られての安全性
「祖先神の神明社」の救済策
「伊勢神宮」の膝下
「斎王や祭司」などに成った後の「館の救済策」(元々の役目)

以上の理由で流れ込んだ。但し、取り分け、「皇女」が一番多かったと考えられる。
この事は「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の研究記録」から判る。

但し、「伊勢」では「四家」に入れずに僅かに入った「皇子等」は「500程度」の「神明社の宮司・家人」に成った事も書かれている。
この読み取り記録から完全に「皇女族」だけでは無かった様である。
唯、「扱い方」が違った事があるのだ。
つまり、「伊勢と信濃」は「源氏化するような扱い方」では無かった様である。
これが「第二の象徴紋」の「神木の神紋」の”「柏紋の使用」”を許されている所以なのである。
この「扱い方の所以」は「青木氏の守護神」の「神明社の神職」は「柏紋の青木氏」であった事に依るだろう。
要するに「賜姓五役の役目」がその全ての立場にあった事が理由であろう。

「皇子の逃避先」は「日本書紀」や「他の歴史書の三古書」から観て「美濃」が多かったと観ている。
「信濃」は伊勢と同制度にあった事から「皇子」は多くは無理で有ったと観ている。
最近、記録から判った事であるが、「信濃」は「不入不倫の権」に近い侵してはならない「広大な神明社の聖域」を持っていた事が判っている。
西は「現在の青木村域」から東は「佐久域」までの「東西距離25k 幅は45k」の面積の「聖域」のものであった事が判っている。
これは平安期は「五大天領地」の一つであった事に依ると考えられる。
そこの「聖域地」として、つまり、これを「神明社域の聖域」として「信濃青木氏」が護っていた事に依るものであろう。
「江戸期の享保期」まであった事が判っている。
(後段で論じる)

(注釈E 「近江」はそもそもその力が無かったし、「甲斐」は独自性が強く山間部と云う事もあって「皇女」は少なくとも嫌った事が判っている。
然し、「皇子」は「醜い政争」から逃げると云う意味では都合は良かった筈である。
何にしても男女の「救済策」は伊勢が整っていた。)

(注釈FE 前段でも何度も論じているが、復習として、尚、念の為に歴史の知識として知る必要のある事は、何らかの資料に「志紀真人族」から「姓発祥」があるとするは、それは、室町期末期か江戸初期の「系譜への継ぎ合わせ」での搾取偏纂に他ならないのである。
この時代に横行した「プロの搾取偏纂者(神職や住職の復職として)」に依る仕業である。)

(注釈G 復習として、そもそも、“「姓」”とは、“「身分の区分秩序を分離する単位」”の事。
その「複数化した単位」を更に“「諡号(縛りの条件付帯)」”を使って判り易くした。
この「諡号」が「区別の名」と成り得て“「固有名」“として使われたのが、要するに”「姓名」“である。
その”「固有名」“を持つ族を”「姓族・(第一の姓)」“と称する事と成った。
従って、「真人族48氏以外」の「朝臣族等の七色(色で身分階級を区別)」は、「固有名の諡号」を持つ事を公然と許されて“「第一姓族」”が正式に誕生した。)

これらの「注釈」を前提として、そして、“「身分の区分秩序」”の「第一の諡号」の「真人族」を構成した中で「朝廷」が示す一定の「特定条件」を叶えた者を「真人族」と認定した。
「朝廷の認定」を受けたこれを「諡号」して“「氏族」”と定めたのである。
これが“「我々の青木氏族」”なのである。
其れの「特定条件・縛」が前段までに論じているものである。
簡単に云えば、「真人族系」の「青木氏の氏族」である事から「氏名」以外にはその他の「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持たない論理と成るのだ。
もつと云えば、この理屈からすれば「朝臣族系」の「特定条件」と「認可」を叶えた「氏族」は「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持っても良い事に成る。

その典型が、例えば“「藤原氏の四家」”であり、遺った北家主流は「25流137家」と、「青木氏族」と関わった「秀郷流 8流361家」に成るのだ。
この様に「藤原氏の氏族名」と、その「氏族」の内の「判別用の姓名」を特別に持つ事が出来るのだ。

つまり、唯、ここには「真人族系の青木氏の氏族」と「朝臣族系の藤原氏の氏族」には全く違う点が一つある。
「真人族系の青木氏の氏族」は「氏人との構成族である事」である。
つまり、「郷士族との構成族」である事である。要するに「絆族」である。
「郷士族との構成」は、“その数を限定し増やさない”で「女系で血縁構成する族」であり、「血縁性」は「数度の血縁」で繰り返す族でありながら、氏人は「独自の姓名」を持つ構成族である。
この限定される中での血縁である為に「血縁性は高まる形態」と成る。
況や、「主家(福家と四家)」と「氏の人(家人・氏人)」との関係である。
つまり、当に、「氏の中の人」である。所謂、「共存・共生・共栄」の族である。

「朝臣族系の藤原氏の氏族」は「血縁性の薄れる一族」を最大限に増やし、更にその「主流族」に更に「薄い血縁性で繋がる支流族」の「姓族」との「二つの構成族」の「枝葉形態」で構成する。
この「支流族」は「独自の姓名」を持つ「構成族」ではあるが、「男系の主流族」には拘束されない。
この「支流族(男系・女系を問わず)」は、従って、「拘束性の低い事」から「他の族との血縁族」とも成り得る。
要するに「傘下族」と云える。
この「笠の人」は「他人の笠に入る事」もあると云う事に成る。
この「笠の人」が「氏族の氏人」と云う事に成る。

「真人族系」と「朝臣族系」とには「氏の人」となる「独自の姓名」には意味が違う事に成る。
「家人の姓名」と「族人の姓名」には「氏族の構成力」が異なるのである。

この「二つの種類」の“「特定条件」”の「氏人−氏上が物語る特定の血縁」で結ばれて固められた族を”「氏族」”と云う。
この「真人族系」と「朝臣族系」の「関係の氏の人」が、「(a)、(a−1)、(a−2)」の「何れの郷士」もこの中に入る。
これが「氏族」として朝廷より「特別条件」として認められた「重要な要素」なのである。

要するに、「時代の経緯」に依って、「真人族の衰退族」や「皇族系に分別される官僚族(位階族)」の「郷士」と成った「氏人族」である。
況や、(a)、(a−1)の多くは「真人族系」に入った。
そして、(a−2)以下の地方に多く分散していた「官僚族」は「官僚族」であった「朝臣族系」に入った。
物理的に立場的にも“入った”と云うよりは入り易かったのである。

この地方に分散していない「氏族、氏人と成り得る族」の殆どは、先ずはその系の基が「真人族(48氏)であった事」を前提とした。
そして、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族」にのみが氏族に入り得たのである。
唯、この事から、「真人族(48氏)(a)」の全てが成り得たという事には成らない。
「真人族」となった「皇子の者」等でさえも、「力」が無ければ、「諡号」、つまり、“「一人立ち」”が出来ない限りは、「権威と象徴」だけでは「氏族」は成し得ない。
当然に、「朝臣族」以下の「皇別系」の「諡号の姓」の保持も尚更に無理であり、且つ、「賜姓」を授からなければ尚難しい。
故に、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族・氏の人」に入るしか無かったのである。

上記の「青木氏の諡号」を、「真人族系」と「朝臣族系」の「二つの青木氏」の各地に散っていた彼らは、「注釈A〜Gの経緯」により公然とその根拠付けられた。
この事で、「青木氏を名乗る事」が出来たと云う事に成る。

「日本書紀」によれば、天智期以降から桓武期までには、多くが「青木氏外の賜姓」を受けているが、現実に平安期末期までに生き延びて「諡号」を獲得した「姓」は、「新撰姓氏禄」から観れば、1/20にも満たないし皆無に近いのである。
「室町期」では、最早、皆無であり、全てを捨てて奈良や京の都付近域の土地(土豪)に根付いたか、絶えたかである。

況して、「平安期末期」では、「新撰姓氏禄」に記載されている「真人族」が、「族」として「諡号の姓」を守った「族系」は、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」を除いて、次の通りである。

「天智皇子族系」の「近江佐々木氏系族の2族」
「天武皇子族系の7族」
「春日族系の2族」

以上と成っている。

合わせて、「11族」で、「青木氏族」を加えると「16族」と成っている。

(注釈 「春日真人族系四世族の五家五流の青木氏族」は、「近江佐々木氏」と同じく本流では「天智皇子族系」と云える。
然し、上記に論じた様に、「初期の段階」で「賜姓五役の役目」を与えられた。
多くの「真人の皇子」を「族内」に抱え込んで「五家五流の青木氏族」が形成されているので、 「大括り」の「春日真人族」としている。)

さて、詳細にはこれから観ると、「新撰姓氏禄」の「真人族48氏」は、実際は“「16氏/48氏」”=1/3 と云う事に成る。

つまり、残りの”「32氏」”は、「五家五流の青木氏族」に入ったか、衰退し土地に根付いて「郷士」に成ったか絶えたかに依る。

そこで、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」に入った「真人皇子の数」は、確定は出来ないが、論理的には次の様に成る。

「伊勢青木氏に入った数」の内、「四家」そのものに入った数は、「5〜7人程度」と読み取れる。
後は前段でも論じたが、「伊勢郷士」として関わった数が「11氏」であろう。
合わせて、最大でも「伊勢」では、前段でも論じたが、その「賜姓五役の役目柄」で基本的な数としては「18氏」と成る。

そうすると、「伊勢外の四家四流」には、1家で3〜4人程度として、゜12〜16氏/32氏」と成る。
「平安末期」では、「近江と美濃」と、「甲斐」が滅亡したので、「信濃の3〜4氏」だけと成る。


「真人族」は、「公表の記録」には全国に散ったと成っているが、彼らの「皇子」の生い立ちから全国に散る事は先ずない。
そもそも、そんな力は無かった筈である。
論理的に欠ける。
精々、奈良や京を中心にして近畿か中部域である。
現実に「新撰姓氏禄」も「近畿か中部域」として限定しているのはこの事から来ている筈で歴史的に証明される。

「坂東に移動したとする説」は間違いである。
当時、「坂東」は「流人や罪人の配流地」であった事から、自ら進んでそんな地には行かない。
間違いなく「新撰姓氏禄」から外れた「地方の土豪」の「家の格式」を高める為の「後付けの搾取偏纂」である。

(注釈 同じ「真人族の位階等」を持つ特定の「氏族」で、態々、「逃避の受け口」が、あればそこに入るが世の常である。
「青木氏」から観れば、「坂東に散ったとする説」は、殆どは、この「真人名の系譜」を使った「搾取偏纂の説」にする為に過ぎないと観ている。
そもそも、「多治彦王説」と「島王説」があるのだが、これを名乗っている「関東の豪族・武蔵七党系等」がある。
ところが、これには矛盾がある。
それは、「・・彦」とは「彦・ひこ」は「神道の諡仕来り」で10歳程度の「少年期」の命名に使われる。
未だ「彦の少年」が子供を造れる能力の無い者に使われる。
従って、3〜5年では子孫を現地には遺せないのである。
然し、「軽罪」を得て3年後に未だ少年だとして都に返されるのだ。
この「多治彦王」は正式な記録では3年後に罪を許されて都に戻っているのだ。
例え、「子供」であっても「現地孫」と成り「子孫」とは公的記録ではカウントされない仕来りでもある。
これを「嵯峨期の詔勅」に従って30年後に子孫だとして系を造り上げているのだ。
矛盾が多い。)

これが、室町期初期には、「賜姓臣下朝臣族」と成った「真人族」では、「伊勢と信濃青木氏」を除いた族は最早無い事に成る。
「皇子皇女の朝臣族」の「逃げ込み先」として存在していた「近江佐々木氏」は、「近江青木氏」と共に「平家」に敗退し少ない傍系を遺して滅亡に近く衰退した。

(注釈 「近江佐々木氏の研究記録」には「青木氏の逃げ込み策」の「人数やその形態」まで論じていながら「自らの族」にこの「皇子皇女の逃げ込み策」の記録の記載は無い。
これには明確な原因があって後に論じる事になるが、「近江の環境に依る財力」の低さにあった。
「伊勢青木氏」と「額田部氏」の連携で派遣して干拓灌漑工事で彼等を救済した。後に論じる。)

ここで、更に付け加えて論じたいのは、この「新撰姓氏禄」に記載された「48の真人族」である。
これを今は「正しい」の前提として論じてはいるが、実はこの「48の真人族」の中に、「飛鳥王朝初期の天皇の真人族」だとする族数が何と「9族」も記載されている。
況して、「真人の姓の諡号」は、そもそも、「684年制定」で、この「神代時代」のこの主張する「真人族」は、「450年頃の事」で、「235年後に真人族だと名乗った事」である。
つまり、「235年後」に“どの様な根拠でその「天皇系譜の真人族」だ“と云っているのかは甚だ疑問である。
そんな「日本書紀」よりも相当古い「神代の時代の系譜」を示す資料があったら示すべきだ。
これは、「新撰姓氏禄」が「紛失した時期」を利用しての「自らの出自」をよく見せる為の「大胆な系譜搾取偏纂」の「始末の所以」であろう。
従って、「嵯峨天皇期」に編集されていた「真人族数」は少なくとも「41氏以下」と成ろう。

そして、更には上記した様に、この「41氏」の中には「室町期の第二の姓」が「真人族」だとして侵入している事は確実である。
「810の第一の姓族」には入らないその数は調べても少なく観ても「4姓」、多くて「11姓」が散見できる。
厳密にはもっと多いと観られ「後付け」である事は明白である。
この差し引き「30〜37氏の真人族」は、「歴史的な考察」から充分に論理的には理解はできるが、まだ完全に納得は出来ない。

筆者は、もっと少ないと観ていて、「近江佐々木氏の研究録」による数は、男子では「17皇子(20以下 皇女で15)」と記載されていて筆者も同じ意見である。
何故ならば、大化期から嵯峨期までに朝廷が「41氏の真人族(家族を入れると200〜250人)」を養えるのであれば、「嵯峨天皇の詔勅禁令(類聚三代格にも記載)」を出す事は無かった筈である。
大化改新期でも「六世族」を「四世族内」に狭めて「皇子範囲と数」や「王族範囲と数」を態々、限定したりしなかった筈である。

(注釈 これを記載している「類聚三代格」は、そもそも、「律令の書」である。疑問である。
その「律令の書」の中に「皇子の範囲と数と経費の事」の「詔勅」を記載するはそもそも「範囲外の事」である。
何か変である。
これは「世間の評価」に対する「時代性の変化」を敏感に反映して恣意的に手を加えられたとも考えられる。
それだけに、「皇子の範囲と数と経費の事」を減らしたいとする「天皇家の当時の意思」が大きかった事を示している。
「嵯峨天皇」が「詔勅」で現実に書いてもいる「48」を、「41や31」にしたところで「内蔵の財政」にはそもそも何の意味も持たない。
少なくとも半分以下にしなければ、その「天皇家の当時の意思」は解決したとは成らないであろう。
現に、「春日真人族」から「志紀真人族」に替わった「青木氏」さえもが、「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」と「真人の賜姓元族」が廃止されて外れているではないか。
何をか況やである。
そもそも「嵯峨天皇の出自元」であるのにも関わらず外したのである。
それだけの財政改革をしたのである。
だとしたら、「真人族 48(a−1)」の数字は多すぎる。
当然に、「朝臣族 101(a−2)」の数字も極端に多すぎる。)

(注釈 公表の“「皇子皇女(皇子17皇女15)」を「朝臣族」や「源氏族」にした”ところで「政務」に付ければ「大蔵内蔵の財政の負担」は変わらないではないか。
故に、「天皇家」が出来る唯一の「変える方法」はそれは次の一つである。
「出自元」を含めて「天領地」を守護領としている「五家五流(自活)」に入れる事であった筈だ。
つまり、上記で論じた「青木氏に吸収される機能」に入れる以外に無かつた筈である。
又、その為の「五家五流青木氏」に「嵯峨天皇」は、「政争の変」を起こしてまでも「桓武天皇との妥協案」の模索の上でそもそもしたのではないのか。
何度も云うが「近江佐々木氏の研究記録」は、故にその考証から“「皇子皇女(皇子17皇女15)」は「五家五流」に入った”としているのである。
但し、筆者は「伊勢」では「少数皇子説」は「家人」と成ったと観ている。
そもそも、「伊勢」では「四家制度や妻嫁制度等」を敷いていた事は、充分に「出自元」であるので知っていた筈である。
「出自元」でありながらも入り難い事に成ろう。
故に、「出自元」を根本して入った者は、“「家人覚悟」”で来ている筈であるし、「伊勢」も敢えて「家人制度」を敷いたと観ている。)

注釈からすると、殆どの皇子は「美濃と甲斐」に入って滅亡したと考えている。

そこで「出自元」ではない「美濃や甲斐」に入った理由は、次の事にある。

「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」までは「出自元」ではある事は認める。
然し、「縛り」を護らずに「源氏族化」して行った為に、「伊勢と信濃」には入り辛く、結局は「美濃と甲斐」に救いを求めた事に成ろう。
その結果として、「美濃と甲斐の青木氏」は、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれた所以でもあるのだ。
故に、「以仁王の乱」から「源氏族化した美濃と甲斐」は「清和源氏主体の戦い」に参加した所以でもあるのだ。
これが理由と成る。
そもそも決して我々「青木氏族」は「源氏族」ではないのだ。

本来、「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」 +「文徳系」+「光孝系」の「前の皇子族の集団」の「青木氏族」である。
「源氏族と称する集団」は嵯峨期からである事は云うまでない。

(注釈 下記に改めて検証するが、この「真人族の皇子皇女82」と「新撰姓氏禄の真人族48」との差の主因が、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれるはここにあると考えられる。
逆に云えば、「出自元」であって「前の皇子族」であっても、論理的にはそもそも「伊勢源氏と信濃源氏」はあり得ないのである。
将又、「光仁天皇」と「追尊の春日宮天皇」の「主家」と成っていたのであるからだ。
この「青木氏族」から観れば、論理的に「源氏族」は「分家族(分家の持つ意味が重要)」である。)

(注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)

(注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
そして11流も発祥している。
これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


「青木氏の伝統 51」−「青木氏の歴史観−24」に続く。


  [No.372] Re:「青木氏の伝統 51−1」−「青木氏の歴史観−24−1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/07/18(Thu) 14:46:08

> 「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」の末尾。


> (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
> 結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
> 従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
> この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
> 「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
> 故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
> 「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
> 故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
> そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
> この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
> 要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
> 然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
> それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
> 然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)
>
> (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
> そして11流も発祥している。
> これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
> 故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
> この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
> もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
> 「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」

さて、前段の注釈を前提として、「真人族48氏」を基に論じてきた。
前段でも論じた通り果たして、“これが正しいのか”と云う疑問があるのだ。
上記した「真人族の数の疑問」である。
そこで問題と成るのは「真人族の定義」である。
当時は「大化改新からの定義」が世情では乱れていた。
その為にこの定義を明確にして「身分格式」をはっきりさせようとした。
その最初が孝謙天皇期であるが、孝謙天皇期と云うよりは「藤原氏の孫」の「淳仁天皇期の事」である。
天皇家に男系継承者が絶えた事を見計らって「外孫王」を「天皇」に仕立てて「政権の奪取」を図った。
そうすれば「天皇家」は「藤原氏」と成ると見込んだのである。
その為にこの「定義」を「藤原氏」に有利に成る様に「姓氏の範囲」を統制する「族系図」を作成しようとしたのである。

その策は成功したかの様に観えた。
然し、女性の「孝謙上皇」はこれに気づき「淳仁天皇」を廃帝にし淡路島に流し、再び「孝謙上皇」は重祚して「称徳天皇」として即位し実権を握った。
この時の「族系図の編者」等は政争の恐ろしさを恐れてこの「系図の作成」に途中から放棄して族系図そのものを不明にした。

この「孝謙天皇」は今後の「藤原氏の策」に警戒して、この「乱れた定義」を「本系の天智天皇系」に戻そうとした。
この事で定義は安定すると見込んだのである。
ところが、「天武系」は聖武期には男系は断絶していたので、更に一代遡り「敏達天皇春日王系真人四世族」に戻せば本流に戻ると見込んだ。
ところがこの「天智系」は「二人系列・川島皇子系と施基皇子」を遺す事と成っていた。
その一つの「伊勢の施基皇子・716年9月没」も既に賜姓臣下して下俗していた。
ところが「近江の川島皇子・691年没」には「天智系」でありながら「天武系」に近づき過ぎ、又、「天武崩御後の政争」で「密告者の汚名」と「人格的批判」があり、「称徳天皇770年没」は堅い意思から避けたとされる。
それは「施基皇子の中立性の生き方」に賛同していたと観られている。
当に、この「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は前段から論じている様に「人格的評価」も高く「青木氏の生き方(氏是)」に一致している。
「孝謙天皇・称徳天皇764即位」では、下俗し「商い」もしていたにも関わらず「皇子の末裔」に「孝謙天皇・称徳天皇の見方」に拘り「白羽の矢・765年頃」を放ったのである。
既に「施基皇子没後の48〜50年後の事」である。
当時としては、「一世代の寿命期間」でもあり「下俗」して相当後の「二世代か三世代」に入っていた事になる。
もっと云えば「四世代目」が生まれていた事が判っている。
この「白羽の矢」はこの「二世代目」に当てたのである。
この時の事は前段でも論じている。
当然に、この時、「天武系の自らの血筋」を「天智系に入れると云う策」を執った。
それは「姉の井上内親王・717年〜775年」を「施基皇子の末裔(青木氏・白壁王・実質の四男)」の「妃・745年」にする事であった。
但し、この「井上内親王」は727年〜744年の「17年間」は「伊勢神宮の斎王」であった。
それを退下させて帰京させての「血縁策」であった。
兎も角も、「施基皇子没後」の前段でも論じている「女系妻嫁制度等の体制・四家制度」を次々と強化している「最中の事」であった。
社会には「藤原勢力の意」を汲んで、この下俗した「施基皇子の末裔・伊勢青木氏」に対しての批判が高まるのを恐れたのである。
「社会」では「最早50年後の氏」と云うのは「民間人の何物」でも無かったし、「高位族の禁じ手」の「商い」もしている当に「民間人」に観えていた筈である。
この策は明らかに「下俗」と「商い」に対する「世情批判」を躱す目的があった。
兎も角も、これで「政争」を抑え込もうとしたのである。

「白壁王・光仁天皇」は、この「藤原氏の力の低下」と依然として「族の定義の安定」が定まらず政争が続いていた。
そして、矢張り、「族系図」を定めて「定義の確定」を施そうとした。
この時はその「偏纂の目的」は「淳仁期」、つまり「藤原氏系」の「外孫王」を「正統化する目的」に比べてやや異なっていた。

今度は下俗していた50年後の「施基皇子族系」を「正統化する目的」で纏められようとしていた。
然し、又、この「族系図」は「編者等の反発」により矢張り失敗するのである。
この事から観ると「世情」は「青木氏」に対して完全には肯定的ではなかった事に成る。
正統な「井上内親王・717年〜775年」が「青木氏」に入ったとしても充分に認めていなかった事に成る。

その主因は次の事が考えられる。

1 「貴族」が「商い」をすると云う「禁じ手」が大きく働いていたのでは無いかと考えられる。
2 「50年〜54年と云う期間」が「施基皇子の記憶」に戻せなかった事も考えられる。
3 「世情の感覚」は「施基皇子」では無く「郷氏の青木氏と云う感覚」の方が強く働いた事もあり得る。
4 「族系図」の「最高位が青木氏である事」で「定義の確定」は成らなかったのかも知れない。

「1〜4の事」を勘案すると、それ故に、「追尊の春日宮天皇」の策を打ち出したのであろう。

この「追尊」に付いて幾つかの説があるので触れて置く。
その内の「主な二つ」に付いてである。
抑々、「追尊」とは“亡父に対して贈る尊の号”であると定義されていて利用されていた。

(注釈 念の為に「光仁期以前の過去(淳仁天皇期)」には「一人の追尊天皇の事例(父の舎人親王)」があり、桓武期には実弟の「相良親王」があるだけである。平安期以降は准が着けられて追尊である事を明確にした。)

「施基皇子没後716年」に「追尊」と成っている説もあるが、この説では「白壁王・709年〜775年」は54年後に「天皇770年即位・61歳」に成っていて論理的に「追尊」に成る事は無い。

仮に「追尊期」が「716年没」とすると、この期間は「元明天皇・715年10月〜724年3月期」の以外には無いのである。
「元明天皇」との間には「追尊の定義」に関わる事は何も無く、当に「追尊する程の高いもの」は無くそもそも「無縁」であるし、既に「臣下している者」でもある。
定義の「追尊の権利を持つ天皇」としては「光仁天皇」だけであり「父を追尊した説」が正しい。
恐らくは、この「716年追尊説」は「称徳天皇・764即位」時の「白羽の矢」の「根拠付」の「後付け説」である事が明白である。
この前に「注釈の通り」の「追尊の舎人親王の事」があってこれを後付けで利用したと考えられる。
この「後付け説」で以て「伊勢系列」に繋がる様にした「江戸初期の搾取偏纂の可能性」が高く、大体予想が着く。

「追尊」から戻して、「世の族系の定義」を質す為に「族系図偏纂」に取り組んだ三度目は「嵯峨天皇」であるが、前段でも論じた通りである。
「族系図」は「編者等の反発」も同じようにあったが、その内容に対して周囲が反発をした。
「族系図」に依って身分格式が定まる事への反発であった。
然し、一策を講じて強引に押し通した。

この為に過去の二度とは違う処で造り始めていたのが“「族系の縛り策」”であった。
この「族系の縛り策」でも、“「皇位継承」に問題を興すのではないか”と云う「光仁期」と同様に「疑念」が出た。
これが「政争の元」と成ったのである。
この様に「族系図」の実現の為に三度挑戦された。
これが「嵯峨期」の最終の「新撰姓氏禄」の基になるものであった。
つまり、それが「皇位継承の定義」が原因であった。
当時の政権は「孝謙天皇期」までは、“男系継承者が絶えた”とする主因と観ていたのは「皇位継承の定義」であってその基の議論と成っていた。
何方かと云うと「族系図」では無く、引き継がれてきた「大化期の改新の定義」に在ったと観ていたのである。

それを検証して観る。

そこで先ず「皇位継承の成す為の数」としては、そもそも「内蔵の財力」であった。
「皇位継承族者」を「存在させる範囲」としてその財力で出来るとしても「半分程度(家族 100人)」の「20氏の真人姓諡号」の程度の範囲であったろう。

現実に最終的に「11流の賜姓源氏」も結局はこの「縛り」に耐えられず「姓」に成ったそもそもの族であろう。
依って、「近江佐々木氏の研究記録」も正しいと観ている。

故に、当時としては、「編集」に当たって「三代天皇」の「編者等」そのものから「その矛盾(縛り)」を突かれた事も「反対の一つ」であったのであろう。
つまり、「数と質の範囲」に「天皇家の誇張」の問題が興った。
「純仁期の記録」では世間だけでは無く「表向きの理由」として「編集者に選ばれた者」等から、“これでは編集しても意味が無い”と訴えたとする記録が遺されている。

(注釈 故に、「三回」ともに編者に指名されながら「編集途中」の侭で放置された等の事が起こった。この「三回の放棄」は上記の通りに夫々理由が多少異なっていた。)

これは、つまり「嵯峨源氏」が生まれる前から「族系」の「縛り等に対する矛盾」が潜んでいた事に成る。
「嵯峨天皇」はこの為にもこの「縛りをより強化した事」と成ったと観られる。
それが遂には「詔勅の結果」とも成ったと観られる。

(注釈 これ等が記されているこの「類聚三代格」にしても「新撰姓氏禄」にしてもこの後に弄られた書である事に留意する必要がある。
つまり、「公表されている記録」が全て史実とは限らないからでその当時の政治環境に大きく忖度されている事が多いのである。)

筆者は「淳仁天皇、光仁天皇、嵯峨天皇」、取り分け、「嵯峨天皇」はこの「皇子皇女の数と質等の矛盾」に対して「皇族の反発」や「世間の反発」等に忖度して「数や質の格式身分」を合わしたのではないかと観ている。

つまり、そもそもの共通点は「天皇家の血縁範囲(真人族の範囲)」を「縛り」で改めなくては「数と質」は変わらず「継承は不可能」であるとしているのである。
「編者の理由」は論理的で現実的であったと考えられる。

これを検証して観る。
「文徳系13」+「光孝系40」=「皇族15」
「嵯峨系9」+「淳和系9」+「仁明系9」=「皇族27」

以上から「842年没の嵯峨天皇」の間までには「正式な数」として“「42人の皇族」”が生まれた事に成る。

そうすると「新撰姓氏禄」の(a−1)の「真人族48」にはこの「皇族42」が少なくとも含まれている事に成る。
然し、この「5人の天皇」には公式に全て“「源氏族」”を「皇子皇女」に関わらず「賜姓」か「無賜姓」かで「朝臣の姓」で臣下させている。
従って、「(a−1)の真人族」は、計算上ではこの段階で(48−42)=「6人」だけと成っていた事に成る。

「光仁系13」+「桓武系22」+「平城系5」=「皇族40」
以上と成る。

「施基皇子の後」にでも「真人族の皇子皇女の数」は「82(42+40)」であったと史実として記されている。
然し、「新撰姓氏禄」は「真人族48氏」なのである。

「大化改新」で「施基皇子の前」は「第四世族内の第四位」までを「真人族の皇子皇女」としての「縛り」を掛けていた。それ以外の「第六世族」までは「王」、順次起こる「第七世族」は「王位」は無く成り、無位無冠で「坂東(坂東八平氏・ひら族)」に配置される。
従って、この「仕来り」から「天智天皇」からの「真人族」で「子孫」を遺していたのは次の通りである。

「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」

但し、「天智天皇の皇子」は「4人」であるが、2人は没で「施基皇子と川島皇子」は「賜姓臣下族」として「真人族」から外れた。

3回の「新撰姓氏禄の編集」に選ばれた編者から観れば、要するに“これは明らかに多い”と観たと考えられ「継承者」は絶えて“「質」も低下した”と判断していたと観たのであろう。

従って、結局は、この「真人族48」の中には上記の「5人」が含まれている事に成る。
然し、「文武」で絶え「女系」が続き、又、子供の「聖武天皇(文武の子)」から「皇子の真人族」は「女系」と成り絶えているので、継承のカウントはこの期では0である。

故に、ここでも検証の結果は、(82−48)=34(皇子皇女)が少なくとも「真人族の受け入れ口」であった「五家五流」に入っている事に成る。

この「34の内」、「青木氏の直系尊属」であった(「文徳系」+「光孝系」)+「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」)は、「賜姓の有無」は別として何れも「賜姓5源氏族」と成ってはいる。
つまり、「(34−5)=29」が「真人族」であった事に成る。

然し、これも「(a−2)の清和源氏」に組み込まれた「嵯峨源氏(縛りから外れた)」を除いて子孫を遺していない。

(注釈 殆どは傍系支流か搾取偏纂である。)

又、この「賜姓5源氏族」は「縛り」から外れているために「真人族」でもない。
もっと云えば、「縛り」から外れていて「格式」は低く成り、本来は唯の「武力集団」に過ぎず「朝臣族」の定義の中にでもない。

ここでも、従って、殆どはこの「真人皇女族の34」であって、これが「五家五流」に入っている事に成る。
「青木氏と近江佐々木氏の資料論文(皇子17皇子15の説)」は正しくその通りに検証されている。

念の為に「青木氏の歴史観」として、「平安期の応仁の乱(1467−1477)」の前までには「近江、美濃、甲斐」は滅亡しているので、ここでも「真人皇女族の最大で34(最低で28)」は「伊勢と信濃」に遺ったと云う事に成るのだ。

故に、「新撰姓氏禄」の「(a−1)真人族48」は、計算が合わず少なくともこの時は上記の「真人族 6」以上には無かった筈である。

そこで仮にあったとすれば、理屈上は何も「孝謙天皇の白羽の矢」は、「臣下族、朝臣族」に成って仕舞っている「施基皇子の子孫」に、飛んで来なかった事に成る。
その「48」もあるのであれば、「真人族48」の所に「白羽の矢」を飛ばす事にすればよかった事に成り、これは矛盾する。

又、伊勢に「白羽の矢・770年」を向ける前に、この時期は「川島皇子族(近江佐々木氏)・657年〜691年」とは、「春日王皇子四世族」と「安貴王の孫族」を共通とするほどの「完全な同族」であった。
だとすると、こちらに「白羽の矢」を向けても良かった筈である。
矛盾する。

(注釈 他に「川島皇子族(近江佐々木氏)」には、追尊王の「名張王女や尾張王女」等も伊勢から嫁している。)

抑々、この理屈からすれば「真人族48」も有るのなら「聖武天皇」の後の女性の「孝謙天皇」が即位しなかった事にも成るだろう。
つまり、この「論理矛盾している「(a−1)真人族48」はおかしいのである。
これが「3回ともの編者の反抗」と成った所以の一つであろう。

他の「三史書」も同様であろうし、要するにこれを認めた天皇家に対する「忖度書」である事に成る。

(注釈 但し、“「第二姓族」”は、これらの「諡号の規則(格式)」に一切関わりの無い「身分秩序の単位」の単なる「名」として室町期中期に発祥したものである。
この「応仁の乱」を契機に「(a−1)(a−2)の族・第一の姓」は衰退し、「第二姓族」が生まれるきっかけと成った。
それが「安芸地方域」に発祥した「渡来系海部氏」が記録に遺る最初の「第二姓族」であるとされる。

(注釈 逆にこれが契機に「末裔子孫」を引き出し「美濃」を再興させた。)

では、この様に“明白な真人族の無い史実”もありながら、又、「編者の反発」も受けながらも、何故、「(a−1)真人族48」と成って仕舞っていたのであろうか。

これも「疑問」であるので検証して観る。

基本は、次の通りである。
一つは、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の扱い論争」にベースがあった。
二つは、「第1回目編集」は主に「質」に対する反発が興った。
三つは、「第2回目編集」は主に「質と数」に対する反発が興った。
四つは、「第3回目編集」は主に「数」に対する反発が興った。

「第1回目編集(淳仁天皇)」では、次の通りである。
「絶えた朝臣族」を補う方法を「藤原氏の外孫王」に基本軸を求めて「真人族」を構築しようとした。
それには「数と質」には問題が無かった。
然し、ルート外での「藤原王朝」が出来る事に成る。
「指名された編者等」はこれを放置し、遂には問題を噴出させると云う行為(政争)に出た。
ところがこの議論に気づいた「孝謙天皇(上皇)」は、「外孫王の淳仁天皇」を「淡路廃帝」とした。
そして、「政争の後」に自らが「称徳天皇764即位」と成って実施実権を再び握り、上記の「白羽の矢」で事は治まった。

「第2回目編集(光仁天皇)」では、「第1回目編集」で纏まらなかった事を“「青木氏の追尊王」”を巻き込んだ「光仁天皇族・50年後」で「真人族」を構築しようとした。
「白羽の矢」で急に「光仁天皇」と成った為に周囲を固めるその「真人族」は無かった。
既に、「臣下族」で一族は治まっていた。

(注釈 「皇親族」として「紙屋院の令外官」の「商い」に力を注いでいた。
出自元と成った「伊勢青木氏の四世族」までは何とか逃げようとした。
「白壁王等」も必死に成って闇愚を装い「白羽の矢」から、その後の「追尊扱い」からも逃げようとしたことが判っている。
「白壁王」は「王位」と成っているが、賜姓を受け臣下した「施基皇子の子」は「大化期の規則」でそもそも王位では無い。
それを四家全体の「三世族」までもが追尊で「王位」と成っているのである。)

そこで、注釈の通りにこの「出自元(青木氏)」を追尊し再び格上げして、「大化改新の規則」に従い「第四世族」の一部まで無理に「王位」を与えて「真人族」を構築したのである。

「皇女」では正式には4/5人である。
然し、実質は「妾子」を入れて「二世族9人」と「三世族まで13人」は「追尊族」、つまり「青木氏の女(むすめ)」であり、「皇族」では決してない。

この様に「彼女等」に依って「真人族」を構築したが、「孝謙天皇」の姉の「井上内親王の反発(光仁天皇の后)・聖武天皇の子」を受けて「青木氏・実家」に殆ど逃げ込んできた。
つまり、この様に「内示の真人族」の内容に「数と質」に問題が興って反発が興った。
この為に編者は編集をサボタージュして放置した。

「第3回目編集(嵯峨天皇)」では、「第1回目編集」と「第2回目編集」で纏まらなかった事を「光仁期から仁明期」と「嵯峨天皇の目(光仁天皇の孫・施基皇子の曾孫 生存中であった)」の届く「文徳と光孝系」までを組み込んで、要するに「嵯峨一族」を以て「真人族48」とした事に成る。
この事に「編者の抵抗」を受けたが強引に「縛りの策」の一つとして発行した。

この時、「祖父の光仁期」では「青木氏」を組み入れたのに、「嵯峨期」出は入れなかった。
この所以は上記の「基本の論争」にあったからである。
つまり、この時、「嵯峨天皇」は「政治路線の事」で「父兄」との間で激しい政争を起こしていた。

それが次の事であった。
「桓武説(平城天皇派)」と「嵯峨説」で「薬子の変(現在は薬子は間違いと訂正)」を起こした。

「桓武説」で「真人族」を構築すれば「青木氏」がベースに成る事から、上記の検証から「真人族48氏」は成立していた事は確実である。
「五家五流青木氏(天智期からの皇子皇女族の集約系)」で「真人族(敏達天皇第四世族春日皇子系一門)」は確実に確立する。
「孝謙天皇の白羽の矢」も「天智系春日皇子系真人族」の「四世族」で繋がり「大化期の規則」にも従う事に成り、何の問題も無く成る。

(注釈 「四掟一門の近江佐々木氏」も含む 要するに「青木氏族」で構築する考え方であった。)

然し、「嵯峨天皇」は我節を曲げずこの説を執らなかったのである。
「幸い血筋(嵯峨天皇系)」としては、その後は「青木氏外の文徳と光孝」で「天皇家」は「男系」で繋がった事に依り、「青木氏族等の反発」を受けながらもこの議論は消えた。

つまり、「桓武説と嵯峨説の争い」は消え、「新撰姓氏禄の論争」も消えて治まったのである。
この時を境に更に「氏族としての制度改革」を進め「青木氏族(伊勢と信濃)」も上記に論じている様に「女系」で二度と「白羽の矢」を受けない様に「天皇家との乖離策」で一線を敷いたのである。

(注釈 「青木氏」から云えば、つまり「血縁的」に云えば「光孝系」であるが、その前の「女系的」に「仁明天皇」で直系的な尊属は終わっている。
「女系」に依らずとも「男系の天皇家との血筋」は切れた事に成る。
「青木氏(伊勢と信濃)」は、この時、既に「女系」に切り替えているので、既に論外と成っている。
「追尊の影響」を受けた「信濃青木氏」も「女系」を採りながらこれで乖離は可能に成った。
これも「商い」を含む「同じ路線を採る事」で「伊勢と信濃の結びつき」が更に強く成った原因である。)

「筆者」も「近江佐々木氏の研究記録」も、“「桓武天皇説」の手前で、「論争の集結」を狙って「嵯峨天皇」は「折衷案」として最悪の場合は、「苦し紛れの真人族48(実質6)」で逃げようとした“と観ているのである。
故に「矛盾」が出るのである。然し、「伊勢と信濃の青木氏族」では期待していなかった。
「近江、美濃、甲斐」は「縛り」を護らないのに「源氏化」で「天皇家」に近づこうとしたのである。
つまり、「伊勢と信濃」は「女系」で「天皇家」から絶対的に離れて行き魅力は無かったので、彼等の「三氏の青木氏」は、“「氏の権威と象徴の力」を獲得する為に「源氏化」で近づこうとした”と云えるのである。
然し、「三氏の青木氏」の実体は「縛り」から離れていたのである。

これらは上記の検証の通りで証明できるのである。

そこで、そもそも「桓武天皇説(兼平城天皇説)」とはどの様なものであったのかである。
それは次の通りである。

始祖の「施基皇子」は、「没716年」でその「二世族の子」は「女7人 男9人」を遺し、「白壁王」を除き先ずは「四家」を形成し「四掟」を設けた。
これが「氏族」に統一した基本概念の「四六の概念の設置」である。

前段でも論じたが、「春日皇子系の真人族」は、青木氏の資料から次の通りである。
「春日王(745年没)」
「湯原王」
「榎井王」
「桑原王」(生没不詳)
以上の「四家」で先ずは構成していた。

これに次の二人が四家の下に加わっていた。
「壱志濃王」
「光仁天皇」(白壁王)
以上の「6人」とである。

(注釈 歳の順位から「四男」の「61歳の白壁」は、「四家」から外れている事から「白羽の矢」が当たった事に成るだろう。
「青木氏との鍔迫り合い」が在った事に成るだろう。
本来なら、「伊勢の四家の四人」に「白羽の矢」は行くであろう。
又、「近江や美濃や甲斐」にも「白羽の矢」が向けられても不思議では無い。
近江は「始祖川島皇子」で天智系あるが問題があった。
「美濃」は「始祖三野王」で天智系では無いし。「甲斐王」も天智系では無い。
「日本書紀」等にも盛んに出て来る「三野王」は冠位が「浄広肆位」である事から「皇子並み」である。
とすると「天武系」と成るが不詳で、可成り「有能な妾子」であった事が伺える。)

ところが、後にこれに「三世族」が加わっていた。
「鴨王」
「神王」
以上の二人(父母不詳)であったとされている。

更にこれに妾子と観られる「1人・不明」があり、更に同じくこれに「4人」が続くとある。
計5人と成る。

合わせて「男子合計13人」が「青木氏の四家の継承者」が居たとしている(青木氏の資料)。

「青木氏の四家」を形成していた上記の「春日王(745年没)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)と、「「壱志濃王」「鴨王」「神王」「不詳王」の「四人の二・三世族」は、議論の分かれるところではあるが、最早、この時には「春日真人族系四世族」からは当に外れていた。
「七世族」か「八世族」に成るだろう。

つまり、「皇族」の中から外れている「青木氏」の「氏族」である事から、「生没等の記録」はそもそも「公」には無く、あるは「伊勢青木氏の記録」だけと成り、他の「四家四流青木氏」も同じ扱いと成ったと観られる。

上記に論じた様に公的に成っている系譜には次の四説がある。
A 敏達天皇−春日皇子−舒明天皇の敏達天皇の子供説
B 敏達天皇−・−舒明天皇−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
C 敏達天皇―・―芽淳王−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
D 敏達天皇―・―芽淳王=春日皇子の敏達天皇の孫説

これでは「施基皇子(伊勢王)」は、「敏達天皇」からは「五世族」である。
然し、「春日皇子の真人族」としてはでは「四世族」に入る。
「大化改新」に依って「天智天皇」から観て、「四世族内の皇子」の「近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」も「天智天皇二世族の施基皇子」と同様に「春日皇子の真人族」として扱われたと古書にある。

注釈として、これには「二つの事由」があった。
この様に「皇位系諸族」から外れていた。

イ 然し、「多くの皇子皇女(34)」が「五家五流青木氏」に入った事に依り「春日皇子の真人族」として扱われた事が云える。

ロ 「五家五流の相互間の血縁」にてその差が無く成り、「天智天皇四世族内」として認められた事が云える。

以上の「二つの事由」があった。

唯、問題は、「春日王(745年没・施基皇子の子)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)の「伊勢青木氏の四人」は「敏達天皇」の「春日皇子の真人族」からは原則外れる。

然し、「春日皇子の春日真人族」からは「青木氏」は次の様に成る。
上記のA〜Dは次の様に成る。
A−五世族
B−四世族
C−四世族
D−五世族

(注釈 前段でも論じたが、実質、「春日皇子の真人族」としての「奈良期の継承族」は、直接に「身分保障(a)」も無く、且つ、「生活の保障(b)」の得られない事だし、元より「生活力(c)」等が無いから、「賜姓臣籍降下」せずに其の侭に全て「五家五流青木氏」に入り、依って彼らはこの(a)〜(c)が基本的に無い事から「三世族扱い」とされた。
然し、この奈良期の時は未だこれも“「賜姓五役の務め」”であった。当然の務めであった。)

然し、平安期では、「17皇子15皇女 32(検証 34)」が降下したが,全ての「皇女」は「青木氏」に,そして「17の皇子」の多くは「賜姓源姓」を求めたが、叶わず「姓」を遺せずに没落して「近江美濃甲斐」を頼った。これが「源氏化の元」に成る。

(注釈 この「没落皇子」を使って「系譜継合わせ」に依る「搾取編纂」に多く使われた。
又、「没落皇子」の名を「姓」にして「搾取偏纂」にも使われた。
この「二つパターン」がネット上の説明の「姓」に良く出て来る。
そして、「酷いもの」では「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」には、何と室町期の時代の異なるこの「姓名(第二の姓)」が記載されている。
そもそも、その理由は「新撰姓氏禄」の存在は、一時不明の時期があり、その為にあり得ない事を書き添えられた形跡があるのである。現在も内部は不明
現在も全てが網羅されていず「出自元」である事から「伊勢青木氏」では遺された資料より関係する様な「行」を読み取って研究して論じている。)

恐らくは、あるとすれば元は「神明社関係」のどこかに“「関係する資料・写本」”があった筈であるが、筆者もそれを基に調べていた。
「神明社」は「江戸初期」に全社を幕府に引き渡し、その後に「幕府の財政不足」から著しく荒廃している。
この時に「神明社」から「何処か」に持って行かれた可能性が高い。

そもそも、一般に判らない筈の「没落皇子」の名を「姓」にして江戸初期の「国印状の取得」の為に利用され「搾取偏纂」にも使われた位である。
筆者は「青木氏」の「神明社」にしか与えていない「神職の柏紋」を「神紋」としている「神明社」から流失していると観ている。
何故ならば、“「関係する資料・写本」”は「神紋」を与えられた「格式の高い神職」にしか扱えないものであった筈である。
それも「古く格式高い神明社」と成り、且つ、「伊勢域」と「信濃域」と奈良期初期からある神明社(武蔵)の「三つ域」である筈である。
且つ、その「神明社」は「大きな聖域」を持っていた「天領地の神明社」と云う事に成る。
元より「伊勢」では、「江戸初期」には無かった事が、「幕府引き渡し」で資料より「相当な騒動」が幕府とあった事から解っている。

「派遣された官僚(山田奉行所)」との間で「争いと裁判」までした事が書かれている。
結局は「一切合切引き渡し」であった事が書かれている。
“「関係する資料・写本」”はこの時に「引き取る事」が出来なかったのである。
この時の「争い」で前段でも論じたが「家康のお定め書」が伊勢に出された位であった。
これで「立場」は保たれたが、「一切合切引き渡しの裁定」は変わらなかったとあるのである。

後は前段で論じている様に、又、「青木氏の掲示板」に論じている様に「信濃」と「武蔵」の“「四社の神明社」”で何れも奈良期からの代々の高格式の柏紋神職であった。
ここに“「関係する資料・写本」”があったと考えられる。
ここも「伊勢」と同然以上の「一切合切引き渡し」であったらしい事が判っている。

「信濃」では相当に厳しいもので「幕府不満」が高かったらしく、「伊勢」は裁判で終わったが「信濃」では「一揆(宗教性の無い郷士階級らの騒動)」を起こしているのだ。
だとすると、幕府膝下の「武蔵の神明社・四社」から「旗本家臣」等に「国印状」の為に「ある官僚」が漏らしたと未だ証拠は無いが筆者は観ている。

(注釈 伝統36を参照 「甲斐の時光系青木氏」の「分家の次男の柳沢の青木氏」の「柳沢吉保」か、抑々、彼は「武蔵四社の内」の最も古い一つを「守護神」であるとして「自費」で修復している。
二度に渡り移封している地に「神明社」を創建修復しているのである。)


この事から「紛失」は江戸初期と観られる。
従って、このはっきりしている「搾取偏纂」なので、正しく世に出て来る見込みは無いだろう。

前段でも論じたが、もともと、「淳仁天皇」、「光仁天皇」の二代でも「編集化失敗」に終わる。
これを更に「未完成」の侭で「嵯峨天皇」は、「縛り策の一環」を目的としていた事からも嵯峨期の「偏纂者の反対」を押し切って慌てて世に出した記録である。
ここの不備を不明期に狙われたのである。

これらの事(賜姓朝臣の姓化)が「類聚三代格の記載の詔勅内容」に“突然に無封降下させた事”が記載されている。
「嵯峨期の詔勅」はそのものは正しいが「内容」に忖度と観られる傾向があり疑問である。
何故ならば、「天皇と成り得た者」でさえ、単族で「諡号」としては何処にも属さない最高位の“「すめら真人族」”を形成し、退位後門跡したとある。

従って、「信頼性の高いBとC説」から観ても、「青木氏」は「春日王系(皇子)の四世族内」の「同祖同門同族同宗同位であった族」と位置付けられている。
前段でも論じたが、A〜Dの何れにしても「光仁期前」では明確に「真人族め50年後」から外れているとして観ていて、その様な「生活(賜姓五役・令外官・市場放出権)」をしていた。
然し、「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」が「生活」を大きく変えてしまった。
「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」は、これに依って前段でも論じた様に、「青木氏の縁戚族」と「皇女の逃亡先」としても公然と可能にさせて仕舞った。
且つ、奈良期では「近江、美濃、信濃、甲斐」も含めて、“「同族」”として「追尊の志紀真人族」の「間連族」に仕立て上げられた。

(注釈 平安期からは、彼らは「伊勢信濃」とは全く別の路線に入り、「近江、美濃、甲斐(「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の確保・男系」が起こり、結局は上記した様に「考え方の違い差」が出て分離して行った。
「近江、美濃、甲斐」に「源氏化と姓化」が起こるという事は、光仁天皇期で50年後、「源氏化」が深刻化した900年頃代から190年頃後には、「青木氏族」に対する「世間の目」が「真人族や賜姓族」としては既に低く成っていた事にも成る。
低く成っていたからこそ「近江、美濃、甲斐」は「過去の栄光」を取り戻そうとして躍起に成っていた事に成る。
「縛り」を護らない人気絶頂の「単なる武力化勢力の河内源氏」に憧れた事に成るのであろう。)

その「伊勢と信濃」は、光仁期から完全に「A〜Dの何れの説」からも既に外れていたのにその「二世族、一部は三世族」までも含めて「追尊の志紀真人族」に巻き込巻き込まれる事に成って仕舞ったのである。

この事から逃れる為に、「近江、美濃、甲斐」とは全く反対の行動を執っていた。
つまり、「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く方針の“「反対策」”である。
況や、“「皇女引入策」”で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。

(重要な注釈 全てを捨てるのでは無く、「朝廷、天皇家」との「完全決別」を目論み乍ら、本来の「賜姓五役」の「令外官役」だけは護ろうとしたと云う事である。
この「氏族としての生きる概念」で考えれば明治期までの「一切の行動」はこれに符号一致する。
筆者は、これを“「共生共存共栄の概念」”と判断している。
「青木氏の氏是」や「家訓10訓」をこの「共生共存共栄の概念」で考えれば外れている事は全くない。恐らくは、「光仁期の混乱期」の時に「信濃」を含む「福家と四家と氏人」等は、一族を一同に集めて協議したと観ている。
この時に再確認し決めたの事が「青木氏の氏是」や「家訓10訓」であった。
そして、「総合的な考え方」として新たに「氏族の生き方」として、この“「共生共存共栄の概念」”であったと観ているのである。
そもそも「皇親族と賜姓族」を外されたとしても、「氏族の伝統」である「本来の消すことの出来ない役目」、即ち、“「賜姓五役」と「令外官役」”も護ろうと合わせて議論されて決められたと云う事である。)

「上記の注釈」から後勘からすると、「伊勢、信濃」と「近江、信濃、甲斐」の「生きる方向」は真逆であった事に成る。


そこで、この「真逆」であるとすると次の事はどの様に解釈するのかである。

然し、平安期の「近江の和紙殖産」の為に手を差し伸べた「額田部氏の干拓灌漑工事」と、「室町期末期の美濃を三河に引き出して復興させた事」の二つは、果たして「共生共存共栄の概念」によるものであったのかである。
筆者は違ったと観ている。
「8割程度」は「商いによる戦略」から来ていると観ている。
大まかには“「過去の繋がり」を利用したと云う事”であって、それが「彼らの利益」にも成るとしていたと観られる。

「美濃」に関しては元々「シンジケート」で繋がっていた事も働いたのが2割であろう。
結果から先に云えば、現実に、「室町期末期」に「徳川氏の国衆」から離れて彼らは「シンジケートの経験」を生かして「大運送業(伊勢と信濃の商いと連携)」を営んで自立している。
(後段で論じる)

「近江」は平安期末期に滅亡している事から「傍系族」を引き出して「伊勢の支店」の「摂津」に定住させたとある。
然し、その「近江の行動」は「傍系」であるが故に、且つ「美濃の様な連携」の中に無かった事で、生き方に落ち着きが無く、過激であって手を焼いた事が判っている。
これ等の「二つの救済策」は、当に、「共生共存共栄の概念」に合致している。


ここで再び検証に戻す。
この結果として、結局は、「初期の(a−1)」は「伊勢」は「18氏・皇女族」、「信濃」では「4氏・皇女族」が「郷士・家人」に入ったと観られる。

(注釈 前段でも論じたが、平安期初期までは「伊勢と信濃」の「避難してきた皇女族」は「女(むすめ)」として先ず入り、その後に「郷士・氏人」に嫁すか、「伊勢の多気の館」などに収容された。
又、先ずは「女(むすめ)」で養育された後に、「四掟」により「公家一門」に嫁している事もあり得る。
その後には、どの「郷士・家人」に入ったかは判らないが、「家人」に成っている「氏人」に入ったと観られる。)

それが、何れでも「子孫拡大」を興し、「伊勢」は「不入不倫の権」で保護された事で最終は減る事は無く、遂には最大の「50士(氏人)の郷士」に成った。
「信濃」では、前段でも何度も論じたが、江戸期まで「時代の変貌」に大きく振り回された。
それでもこの「避難族の4氏・皇女族」が「実質の関係郷士・家人・氏人」に入り、そして、それが拡大して「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」の「氏族」と成ったと云う事である。

つまりは、少なくとも「(a)(a−1)」と、多くしても「(a−2)の一部」が「何れの郷士」もこの中に入る事と成ったものである。
元を質せば、この「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」は上記で論じている様に「(a)(a−1)」で“「真人族の由縁」を持つ”という事には成る。
これが元の所で「血縁根拠」と成り、「信濃」では「郷氏と郷士の関係」が出来上がった事に成る。
「伊勢」とは少し異なるが、「信濃」にはこの形で「氏人と氏上の関係」や「郷氏と郷士の関係」が出来上がったのである。

要するに、上記でも検証した様に「最低でも82以上」の「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」と成ったのである。

(注釈 奈良期から平安中期(仁明期)までの間に、その可能性はあったと観られるが「234程度の皇子皇女」が入ったとする一説もある。
「234と82の違い」は「正式記録と実体との3倍差」であろう。
これは「妾子」や「宮人の子」は実際には「朝廷の古書の記録」には載らない。)

この注釈の事は「青木氏の歴史観」に繋がる事なので論じるが注釈のその証拠がある。

「光仁天皇の族」とされた「正式記録」の中には、「青木氏族の追尊皇女」が記録の上でも「4人」は居る。
そして、更にそれには「妾」にも含まない“「宮人」”の子とする「子女の扱い(数は不明)」で多く含まれている。
つまり、ところが「天智期」からの他の天皇にはこの“「宮人・十二女司」”は含まれていないのである。
「光仁期」では主に「青木氏の三世族」までが「追尊王女」であった事が判っているが、この“「宮人子」”は記録には記載しないのが慣例である。
「大化の規則」では「第四世族〜第六世族の元王女族」、それと「お手付き」の「十二女司」の「女(むすめ)」の身分のその「女」が記録には入らない。(慣例)
つまり、「上記の検証に入らない女」が「234」にも及んでいた事を証明しているのである。
「后妃嬪妾」の子供、つまり「女(むすめ)」と、この記録外の“「宮人」”と記載されている「お手付き」の「女(むすめ)」の子供があるのだ。
数字的には、実質/記録=2.5倍であった事を認識する必要がある。

「五家五流の青木氏族」には「32(34)」では無く、「第四世族内」を前提としていた検証数字 34・2.5=85(82)でも解る。
この差が記録外の“「宮人子」”が入っていた事に成る。

(注釈 立場上は、この記録外の“「宮人子」”は「天皇家内」には居られる事は無い。
当然に「逃避受入口」が必要に成り、それを「伊勢と信濃」が務めていた事に成る。
「古書の一節」にもこの事が記載されている。「中国の古書」にも“「宮人子」”の悲劇が遺されている。)

これを「第六世族」までとした場合は、「二世族」が増えるとすれば凡そは、85(82)・2≒170はあり得る。
更にこれに上記の「妾と宮人」の「皇女扱い」されない“「宮人子」”を入れると、「234」はあり得る。
これが「青木氏の中での実態・皇女数」であったのであろう。

注釈であるが、「逃避受入口」の青木氏では「妾子」と“「宮人子」”は、「青木氏の中の呼称表現」では 、「記載」では「女(むすめ)」であって、「呼称」は「ひぅいさま」であったとされていた所以であろう。
「234皇女」が「氏人を含む青木氏族」の中に入り込み、その「青木氏の女(むすめ)」の「子孫」が「氏族全体に増えた事」による「体質」と成った所以と理解される。
故に、これが「女系による妻嫁制度」の「所以」とも成ったし、これらの「システム」に「氏族全体」が何の疑問も持っていなかった所以でもある。

この様に、“「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」”の論は、結局は故に「女系の妻嫁制度」、「女(むすめ)」の制度を構築したとする「青木氏の資料の一説」に成っている。
取り分け、「伊勢」と「信濃」に執つては「234皇女」は「青木氏に深く関わった皇女事件」であって、その関連しない「別の出来事」では無かった。

(注釈 「皇女」は上記の通りとして、念の為に論じると「皇子の受入れ」は「美濃や甲斐」のそれと大きく異なっていた。
上記で論じた様に、「近江、美濃、甲斐」は積極的な「皇子引入策」では「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く方針・方策であった。
この反対策、況や、「伊勢と信濃」は「皇女引入策」で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。
「伊勢と信濃」の「皇子の受入れ」は、“「神木の柏紋の使用」を許された「神明社の神職」と「菩提寺の住職」で受け入れた“とする資料の説もある。
筆者はこの説に大いに賛成である。
「資料の説」がある位であるので当時は観えぬ処で受け入れたのであろう。
故に、「皇女族(皇子)」が「伊勢と信濃」の全体に組み込まれた組織体、況や「氏族」であったからこそ、「一氏族の血縁族」の「氏人の郷士や家人」までが、「青木氏の氏是や家訓10訓」は勿論の事、「四六の古式概念の制度(共生族の氏族)」等を護り、それが明治期半ばまでの長く護られたのであろう。)

(注釈 明治期に「伊勢と信濃」の「青木氏」に掛けられた“「社会や政治の圧力」”が無ければもっと長く維持していた可能性がある。
明治9年まで続いた「伊勢と信濃の青木氏」を影とした「氏人の伊勢騒動」はそれを顕著に物語る。)

(注釈 この「青木氏族」に向けられた「政治や社会の反動」は強く昭和の初期まで「密教」であった事さえも「敵視の目」で見られたのである。
明治期3年頃まで「献納」で朝廷を支えていたにも関わらず「青木氏」から観れば「天皇家」は「道義」を通さなかったと観える。この時から「献納」は終わったとある。)

そして、更に、そこに、前段でも論じた様に、この「234人の皇女の入籍」を「女(むすめ)」として、又、年齢に依っては「多気の里館」等にも「青木氏」が受け入れた事が判っている。
それが上記で検証した様に、「複数回の女系の妻嫁制度」で「郷士」と繋がり、「氏人と氏上の輪」は更に広がりを見せたのである。
「伊勢と信濃の青木氏」はこの様な「特別条件」を成し得ていた「氏族」で長く形成されていたのである。

(注釈 これを「奈良期末期の朝廷」は、「真人の姓諡号」とは別に、「氏族」として特別に認定したと云う事に成ったのである。)

ここに、平安中期から「補完役」として「秀郷流青木氏」が「真人族」と同じ「冠位位階と賜姓臣下朝臣等」を一切同じとして与えて、この「氏族」と血縁的に結合させ、「青木氏族」の「氏族」として認定したのである。
「神明社」を守護神とし、「賜姓五役と令外官」を護り、この「二つの前提」で、「縛り」を護り「姓化せず源氏化せず」の態勢にいた。
この「伊勢と信濃」の二つに成った「原理主義族」を「天皇」は「補完役」で護ろうとしたのである。

(注釈 「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。)

此処からは、上記の「天皇家」に大きく関わる「234の立場」と「神明社」と「賜姓五役と令外官」を護ろうとしていた「伊勢と信濃の青木氏族」の「原理主義族」と、それを何とか維持させ様とした「補完役・秀郷流青木氏」に付いて論じる。

これには前段でも色々な面から論じたが、要するに「原理主義」であった事に成る。
この「原理主義」を利用しょうとする充分な「朝廷の計算」があった。

敢えてこれに追加するとすれば、この時期は既に“「女系化で進んでいる」”ので「白羽の矢」の役は無く成っている。
とすれば、此処での「原理主義族の補完役」も排除できないのでは無いか。
そもそも、この「原理主義」とは「朝廷・天皇家」に執つては無くてはならない「基本概念」である。
これが崩れれば当然に「原理主義」で成り立っている「朝廷・天皇家」は崩れる。

つまり、「伊勢と信濃」の「皇女引入策」と「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした“「原理主義族」”を一応認めてこれを補完させようとしたとも考えられる。
この「補完役」は寧ろ「朝廷」から接近してきた事に成る。
元々、「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。何も補完役とする必要が青木氏側には無かった筈である。
つまり、従って、「青木氏側」から観て「過去の経緯」からこれには充分な「朝廷の計算」であったと考えられる。

(注釈 「青木氏」の「氏族を形成する制度」や「神明社の社」や「古代浄土密教の概念・白旗派」等の何を執っても全て“「原理主義」”に基づいている。これから外れているものは無い。
「780年頃」の「光仁期」から「円融期」の「960年代の頃」には、「氏族としての制度」が確立し、周囲から観ても完全に「原理主義族」と観られていたと考えられる。
そもそも、何時に成っても「原理主義の原点」の「神明社族」である事は変わらない。)

「神明社族」とは別に、それを物語るものが「青木氏族」だけが帰依する「古代浄土密教の概念・白旗派」であった。
前段でも何度も論じてはいるが、「14もの法然宗派」の中の「超最小派」であって、それも“「原理主義派」”として“「無視される立場」”にあった事が記録として判っている。
つまり、「円融期」の「960年代頃の以降」には、この「原理主義族」は「社会」はその存在さえも認めない風潮の中にあった事が云える。
取り分け、「原理主義族」を貫いている「伊勢と信濃」はその渦中にあったのである。
相当に世情は厳しいものが在ったと考えられる。

前段でも「特異な伝統」と説いたが、これが当に「原理主義族」と結びついているのである。
筆者は「円融期の補完役」の一面には「朝廷の計算」があったにせよこの「原理主義族」を護ろうとしたものがあったと観ているのだ。

ここで「青木氏の総括的な生き方」、況や、敢えて“「原理主義族」“で論じようとした。
この事を理解する事で「青木氏の歴史観」は大きく違って来る筈である。
何時の世も「原理主義」は良し悪しは別として融通性が無い為に排他される。

現実に、「嵯峨期」より「皇女引入策」は、そもそも「青木氏」が皇親族から外された以上は「皇室内」では何処も「救済制度」としての「受入口」は無く成っている。
この現状は「天皇家」では無視できないでは無いか。
それまでは「234人」もの「皇女引入策」であった筈である。
この数は「天皇家」では大変な事であり、それは「莫大な財力」と、その吸収し得る「組織力」に関わっている。
誰でも出来る事で無い。「藤原氏北家」でもその立場からも却って政争の問題が興る。
どんな条件を執っても「青木氏」だけであろう。だからこの事で政争が起こらなかった事が云える。

これは「嵯峨期以降」であっても「234人」程度の「皇女」が出る事は間違いない。
この「救済制度」を急に無く成っては困るのは「天皇家」である筈だ。「青木氏」では無い。
幾ら「賜姓の有無」は別としても「賜姓源氏」で臣下させたとしても「皇女」である。
「皇女」は「自活力」は無く、「皇子の様」に「源氏化」で救済してくれる訳には成らない。
「嵯峨期(820年頃)から円融期(960年頃)までの間の「140年間〜160年間」には「234人」程度の「皇女」が出ていたとすると、その処置に問題が興っていたと考えられる。
しかし、この「140年間〜160年間」はこの「原理主義族」はこれをブロックしていた。

注釈として、「青木氏」での「234人の皇女、王女、宮人」の「扱い差」に於いての記録が相当探したが見つからない。

そこで「青木氏の歴史観」で以て検証して観る。

「氏族」としては「234人の皇女、王女、宮人」を受け入れる以上は、そこに起こり得る支障と成る「仕来り」とも思えるものが無い。
これは「女系の妻嫁制度の概念」の「成り立ちの所以」かとも考えられるがそれにしても変である。
支障があってもおかしくはない筈である。
何処かの資料の一節の「行」に出てもよい筈である。
前段でも論じてきたが、それの答えは、“「女(むすめ)」”の「養育扱い」には“一切差はない”とする「掟」として存在していたではないか。
「光仁期」から「仁明期」までは少なくとも「青木氏の直系尊属・血縁族」である。
そこで、要は「皇女、王女、宮人」は「宮廷内の格式身分差」である。
それがその「尊属ルート」から「青木氏の氏族」に入る以上は論理的には「皇女、王女、宮人」の扱いでは無い。
全ては「青木氏」に執っては「四世族内(最大で六世族内)」の「女、又は「女(むすめ)」までに過ぎない。
つまり、これは言い換えれば、例えば“「子と曾孫」に差をつけるのか”と云う理屈に成る。
当然に、「格式身分差」を着けないであろうし、着けるとしたらそもそも「女系の妻嫁制度」は崩れる。

「施基皇子前後」の事に就いては、「五家五流」では、次の様に成る。
上記の検証で、「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」であった。
この記録に載る「皇女、王女」は出ていない。
そして、そもそもこれは「青木氏」では無く、出自は全て“「藤原氏」”である。

そうすると、「藤原氏」に関わりの無い「宮人(十二女司)」の「女」は、原則、地元(地方)に帰る事に成る。
ところが、この「宮人(十二女司)」の「女」に付いては、実は「伊勢と信濃以外の三家三流」は、積極的に「宮人(十二女司)」に関わっていた可能性があるのだ。
寧ろ、“出していた”とする事が「資料記録」から読み取れるのだ。
従って、「公的記録」に載らない「宮人(十二女司)」の「女」を「伊勢と信濃以外の三家三流」は引き取っていた事に成ろう。

「伊勢と信濃」は、家柄として「永代浄大一位・天皇次位」で「賜姓五役」である以上、皇室には“「皇女、王女」も「宮人(十二女司)」も出していない”と考えられる。

と云うよりは、どの「天皇」よりも「身分、格式、官位、位階」は上位であった為に出さないし出せない。
朝廷側からすると「面倒な氏族」である。
“「原理主義の概念」”が働いていた筈あるし、「天皇家の方」もその様に観ていた筈である。

従って、これを救済する概念の「比丘尼制度」が確立しておらず未だない時代でもあった事から、恐らくは、前段でも論じた様に引き取るとした場合は、「斎王や祭司王」等を多気の「斎王の館」を通して引き取る事に「務め」として成っていた筈である。

(注釈 「比丘尼の仏教戒律」が完全に世間に広まったのは「大乗仏教の宗派・法華経」が広まった同時期と成るので、「最澄や法然の死後」の10世紀半ばであろう。
最低限は、この範囲であった事は納得できるが、この時期では「制度」として造り始めていた「女系の妻嫁制度」には[関わり]は無かったであろう。
「施基皇子没前後」の事に就いては、その「扱い」は単なる「神明社の巫女」の“「比丘尼という女」”に成ろうし、「光仁期」からは、精々、「仁明天皇」、或いは、「仁明天皇の皇子」の「文徳・光孝期 32(34)」までは「神明社比丘尼」から「仏教比丘尼」への過渡期であったであろう。
それ以後は、“「縛り」”があって「三家三流」にも“「源氏化」”で生きようとしていた為に「血縁性の無い者」までも受け入れて生き残りを図ったと考えられる。
これが平安期末にはこの「源氏化策(皇子の受け入れをした)」で「近江、美濃、甲斐」は「氏族」としては連なって共に平家に淘汰されて滅亡した。)

注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安期末の「皇女、王女、宮人」の「受け入れ」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事に成る。
それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
そもそも「受け入れ」をしていれば「原理主義」は崩れる。つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
この事が「生き残り」に繋がったのである。

(注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていて、その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後むからは「斎院」等であって、「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
この事でもその後の「受け入れ」は「234」で終わっており判る。
「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
同様に「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着くし、最近その研究と記録が発見されている。
「信濃の詳細」は今後の研究に成る。伝統46や伝統48等を参照。)


> 「青木氏の伝統 51」−「青木氏の歴史観−24」に続く。