[青木氏氏 研究室トップにもどる] [青木ルーツ掲示板へ]
一括表示

このページのリンクURLです。張り付けてご利用ください。
 
キーワード: 条件: 表示:
 

  [No.388] 「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/01/24(Mon) 07:40:38

「青木氏の伝統 62」−「青木氏の歴史観−35」の末尾
この遠江松井氏に付いての系譜次の通りである。
 宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主  主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年 「駿河青木貞治」は桶狭間に出陣
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に三分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年〜1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―「相模」で「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成す。
「今川氏―松井氏」の「国衆」に成る。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信〜宗恒〜宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年〜1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)

以上が前段末尾である。

「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」

(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
「重要な幾つかの疑問」があり、これが判れば「青木氏族」はより理解され「青木氏の歴史観」と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に「額田青木氏」と同じ様に、この「特殊銃」を与えなかったかの「疑問」が残るが、それは「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは「松平氏の中での位置関係」に従を渡す事に依って起こる“「歪みが生じる事」”に強い懸念の配慮があったと観ている。
これが「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず「旗本との軋轢」を受ける結果と成っていたのであろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「銃弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来る。
「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」はこの抑止力で生き残れているのだ。
尚、「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔が入った事と伝えられている。
これには、そもそも「勝姫」とは「天崇院(1601年 - 1672年)」の事で、 「 徳川秀忠の娘、松平忠直の妻」の「裔」としているが、「勝殿の呼称」で記されていて特定が不明ではあるが、これには明確な不明の理由があった。
然し、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に三つ目が加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋」が「四家」に加わったとされているのだ。
改めて「五家目の融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったとされている「五家目の家」なのだ。
この様に新たに「徳川氏の姓血筋」を入れて安定化を図ったが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」を構築しているのだ。
これが「青木氏族の以後の立場」を保全させたのだ。
「青木氏の安定化」と云うよりは「青木氏の財と格式向上」を徳川側が間違い側がなく狙ったものであろう。
「秀郷流青木氏宗家」を中心として「秀郷流一族一門」が裏で幕府と動いた事であろう。
この「勝姫時期」は「紀州藩初代頼宜との良好な関係」や「紀州藩の殖産への貢献」や「近習番頭と成り出世したと貞治の子の長三郎等」の裏の活躍があったと考えられ、そう云う風に成る条件が揃い過ぎている。
ここで参考として「不明の理由」だが、そもそも「勝の姫の呼称には、「徳川氏の姫の総称の呼称」であって同じ呼称を歴史的に観て6人も使っている史実がありこれは「伝統」であったらしい。
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」のこの「伊勢の四日市・辰野青木氏の融合族の四日市殿」にて一時休息したのもこの事の縁から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられのだ。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流駿河青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、急に“これだけの事”を「好条件」に導き出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「情報獲得の面」でも、「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間に「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」で「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えたのだ。
この時、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「武田軍と協議」の末に「浜松城」に解放されているのだ。
「東の三方ヶ原に踵を変えた理由」には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触」があったのではないか。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官の一族」で「駿河青木氏伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考えると、「松平軍の情報」を詳細に示唆し、始めから「伊川津に戻る事」を示していた事が予想できる。
「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確には判らないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが西向きに陣取った事から駆けつける方向からすると左側でありこの状況証拠から「鶴翼部の左付け根域に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
根拠は無いが「状況証拠」から「東左鶴翼」に居たと推測する。
この隊の少し「東の付け根の位置域」に影の様にして「銃隊が位置した事」から観て、目的は別として「戦況の様子見」ではあった事が先ずは判るし、これを「補完し助ける意味」でも、「軍議情報を得ていた事」からこの隊の少し「東の付け根の位置」にしたのではないかと観ているのだ。
「青木貞治隊」を“一族である”のなら放置する事は先ず100%無いだろう。
いざと云う時には、「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。
現実に「山県軍の別動隊の突然の突撃」でその様に成って仕舞ったのだ。
「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜め方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に「原因」は別として戦死したのだ。
可成り混乱した可能性がある。
「銃隊」はこの混乱で「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成るが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくは、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」を察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れ無かったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から、一族全員が生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の計画」としても開戦より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
そうでなければ戦況の結果から無理であった筈である。
突撃して開戦と成ったが、救出が全部とすると開戦と同時であった事が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
そのタイミングは「山県軍の別動隊の突撃後」の直ぐ後と云う事に成る。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、ただこの時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には確認しておく必要がある事は、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」とすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊」の事は、「二俣城」で「青木貞治」は承知していた筈で、“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、“何時来るか”の「時間の問題」は判らなかったのであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城」の「戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性はある。
但し、この前提は「籠城戦である事」だった。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」で何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平氏の作戦会議」では、「青木貞治」の「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
「密かに決めたと云う事」が周囲から判らず、「冷静さを無くし」に判断されたのであろう。
この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかである。
筆者は偶然にも「貞治と銃隊の両指揮官の戦死」に「疑問イ」を持っているのだ
では、その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」と「副将の松平康安」はどうしたかであるが、「三河戦記」の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつとその前に「責任」を執るべき「二人」は居たのだ。
では、先ず、其れには「軍議」にあって、この「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”の「疑問ロ」である。
「戦記」でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈で、「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、生き残りに聴取して正確な資料を纏めていた筈である。
これを「当時の仕来り」では「家康」に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告書を提出している事に成っている。
つまり、「疑問イとロ」の様にこの「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は詳細経緯として、確かに形の上では「責任を採った事」には成っていて間違は無い様に観えているが、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に「疑問イとロの本当の問題」があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「内部の情報提供時」に「一族の者・200の救出」を城外に放り出された「南下国衆の銃隊」に依頼したが、この「救出の際」に弾幕を張って救い出したが、そうだとしたら「敵の目」を騎馬上から「混乱の中」で自分に“敵の目を引き付けた”と筆者は先ずは観ている事に成るのだが、この考えだとすると、「混乱の状況の時系列」が変だ。
そもそも、他に「青木貞治隊」にも犠牲は出ていた筈だし、「銃撃」をされている「騎馬隊」には相当の犠牲が「銃弾幕」で出ていた筈だ。
果たして“敵の目を引き付けられた”かの疑問が出る。
この場合では、又、騎馬隊と山県軍とが交差する事にも成る。
つまり極めて味方同士で混乱してしまうし、「本体の騎馬隊」は動けなかった筈だ。
そんな戦略は絶対に信玄は執らないであろう。
「山県軍の別動隊の突然の突撃」を観て「騎馬隊」は進軍を待った筈だし、現実には「弾幕」が救出の為に「武田軍の先頭」と「突撃の山県軍」に目がけて前が見えない程に連射されているのだ。
“観ているが精一杯の事”であった筈である。
「青木貞治は有名な将である事」は、「武田軍の本隊」は「二俣城」で承知していて、突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にした上で「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろう。
それ以外に他の隊員の無傷で救い出す事は出来ないだろう。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は隊員と同然に容易であった筈である。
然し、「向後の憂い」を無くし、この事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのかだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻めの責任」を問われる前にその最初に責任を執るべき人間がいたと云う事だ。
然し乍ら、これを「三河旗本衆」に問われたのではないかと云う事だ。
「家臣の主将・中根」と「軍目付・軍監の松平康安」の二人も居たのである。
確かに「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
要するに「軍議」での「庇い合い」であり、「副将の貞治」に押し付けたのだ。
「松平康安・18歳初陣」は、「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康」に反抗したものの裔であり、「軍目付・軍監」して「二俣城」に派遣されていたのであった。
この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の家臣の松井氏の居城」で、縁あって「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下にあった。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無い。
「無いと云う事」は、これは「家康の用人」として、将又「青木貞治の子孫」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず「秀郷流青木氏の資料」が研究にも具する程のものも遺されていない「理由の一つ」としても此処にあるのだ。
一族全員がそっくりと家臣と成った「秀郷流青木氏」には遺せなかったのではないか。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、武蔵の「秀郷流一族一門」を「味方」に着ける為に「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで「味方」に着け、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に慎重に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱い」として「特別な格式」を与えて、「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」の「家人衆旗本」として重用したのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」はこれに猛烈な反発をした。
それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まるのだ。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで「味方」に着けた”に付いての浚っておかなければならない「疑問」があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しで「この状況」を作り込んだか”である。
この「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中で、「互いの結束」に依って身を護っていたのだ。
当然に、今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であった。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たす事が出来た唯一人の人物は、「青木貞治の子の長三郎・御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本に」であったと観ているのだ。
何せ役柄と云う点からもピッタリである。
「本能寺の変頃の伊賀越え」から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄と子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無い。
後勘から観ると、これが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」と成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る「徳川氏の出現」は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を何と「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「人物の旗本」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けていたのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川の先祖」から「徳川」と解明したが、これを「長篠後」に大いに使う結果と成った。
「改姓する事」に依って「今までの三方ヶ原での印象」を「これからの長篠での印象」に変えようとしたのではないか。
この「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その「不満の矛先」を「軍議」では、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに戦記の表現の通りに「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点」を造り出した以上、つまり、その後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方・家人衆旗本」と合わせて「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本」は「怨嗟と嫉妬」から来る「不満の矛先」を簡単に向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたがからは「吉宗」を裏で将軍に「仕立て、且つ、「親代わりの役目」として、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「大久保・本多の旗本」等の旗本から「不満の矛先」は益々向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ちを受ける結果と成った。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」もこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来ず、江戸では遂には「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と、関西を仕切る幕府の「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く傾向は斯くの如しであって、これが「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても先ず間違いは無い。

結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は「紀州藩・伊勢藤氏の青木氏一族が全家臣に成る」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、その「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられそれが先鋭化して行ったのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち続けそれを以て正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は先ず無いのだ。
然し、「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えてはいなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「戒めの家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「その過去と現在」に付いて周囲が必要以上に「意識を高めた行為」であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に執ってはその「教義」から影響してやや「三河者の意識を高めたと云う事」であろう。

さて、話を戻してそこで、更に「詳細経緯」を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「南下国衆の銃隊」は追尾していたのだが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、「詳細経緯」として「青木貞治」は、何故、“追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは先ずは“「何かの連絡網・情報手段」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成る。
それが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。その形跡が資料の隠れた意から伺える。
「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に入っていたのだと云う事だろう。
筆者は、寧ろ、二俣城開城後に「青木貞治隊200」に「兵」として「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられる。
其れは「浜松城に呼び出された時」に「記録」では、訓練を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然にその後の「記録」では「南下国衆銃隊350」と替わっていて行から「荷駄隊50」が加わっていて、これは前段でも「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と説いた。
然し、当然に「青木貞治隊」にも「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り「吉田城」から“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から「副将」として入った「二俣城の時期」と成る。
さて、そもそもその前に論じる事がある。
それは、“何故副将と成り得たか”と云う事である。
「副将」とする為には、当時の慣習から「青木貞治の兵数」を増やし「武蔵の秀郷流一門からの援軍」とした可能性がある。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
「江戸期」では、上記した様に「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
「1家」を5人として360家、この内の「農民の家」は8割として288、残りが「武士の172家」であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出されるのが当時の戦時下の仕組みであった。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度・援軍」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将」に対して「4騎」が着き、「1騎」が「50兵」と云う基準があったので、「200の兵」でやっと「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故に「副将扱い」に成ったのだ。
これで「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「駿河青木貞治」には「兵数」が足りないので何らかの手を打った事に成る。
そこで、「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
そうするとこの「Xは28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り副将にして「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が援軍と云う策を執ったと事を物語っているのだ。
故に、本来なら「軍議」に充分に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が「軍議の命令」を拒否し、何と「城外」に放り出された。
それは国衆の契約条件に反しても「銃」を陣形の前に出して戦う戦法を拒否したのだ。
以上は、「駿河青木貞治」は「軍議の情報」を彼等に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「疎遠・血縁」で無かった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
それには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
「救出が義務」であるとしても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」にも成り得る。
これ等の「内部情報」を獲得するには元を返せばそれには少なくとも「決定権のある副将」である必要があったのだ。
「詳細経緯」としては、この「義務」を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判る。
故に両方の指揮官が「戦死したと云う事」でもあろう。

“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築している可能性もある”と、戦略的に考えて「追尾行動」をしていた「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、「軍議の内容」から“これは危険”と観て、得た「軍議の内部情報」を「銃隊の指揮官」に対して提供出来たのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を主目的として有利に導こうとしていたと云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り前提は異って仕舞ったので、参戦し野戦と成った以上は「青木氏族」には後は「救出してもらう事」しかなかったのだ。
それには、”無事に救い出す”には「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事に成り得り得たのだ。
それが「銃力・弾幕」で「武田軍の本隊の進軍」を一時止めさせてその隙を突いて「救い出す作戦」に切り替えたのだ。そしてその「準備」を始めたのだ。
それには逃げ込む道すじ・場所・タイミング・合図や銃隊の引き上げ時期等詳細な打ち合わせが両者に執って必要であって打ち合わせたのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は1h〜2h経てば「武田軍の本隊」が別動隊を救出に来る事は必然で、この「愚策の鶴翼の陣形」と成れば「銃隊の指揮官」に執ってはこんな危険な事は先ず無かっただろう。

「総崩れに成る事」は戦前でも充分に予想できただろうから救い出すには「一瞬の隙」を作るしか無かったであろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も4者共に慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に問答無用に「救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後に即座に「戦場離脱に迫られていた事」に成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと観ていたのだ。
そうなれば、「山県軍の別動隊」との「西東の挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り、“「危険」”に陥っていたのであった。
この時、ここで「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか守り救出する為」にも、且つ、充分な「様子見の為・場所取り」にも急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
そもそも、「急いだ事」は、「戦い」の「場所取り」では無く最も「物見」によって“救出に適した位置取り”と「離脱場所の位置取りの点」にあったと観られる。
然し、前段でも論じたが「事態」は急変していたのだ。
予想通り、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が「補給拠点築造の使命」で、“北の山際に待機するかも知れない”と観られたし観ていたが、何とこの「補給拠点築造隊」で「挟み撃ちの作戦」に突如出たのだ。
それは、「青木貞治」が位置している前線と松平軍に対してであって、結果として「左鶴翼の付け根部分」に位置取りしていた「南下国衆の銃隊」にも巻き込まれる可能性が充分に出て来たのである。
そこで因みにそもそも、主に「戦い方」には中国から伝わった「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあって、「魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円 他には「決死隊の長滝等」があった。
「武田軍」は「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して陣形を強め「無敵の騎馬隊」と呼ばれていたのだ。
「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に戦力の弱い「補給基地築造隊も含んでいた事」から、これが上手く行けば戦力の弱い「補給基地築造隊」を戦わす事なく護れるので、これを「背後」に廻して一列に並んだ「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」の形に似ていたのだ。
ところが作戦通りに「長蛇陣形」が良かったが前段でも論じた様に思い掛けない事がここで起こり違ったのだ。
突撃と同時に突然に何と強力な銃弾がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方から命中率良く一斉同時に浴びせられたのだ。
寧ろ、逆に「長蛇の陣形」が痣を成した形と成って仕舞ったのだ。
「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であった。
つまり、これでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
筆者は、「救出用の隠れての位置取り」であった「南下国衆の銃隊」が「見え難かった説」を採っている。
つまり、北の山際から観て左斜め鶴翼の付け根部域であった事で「松平軍の影」に成って正確に存在を見分けられ無かったのであろう。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」を目指して東に向かいこの「山県軍の別動隊」も遅れて到着した。
この事で「三方ヶ原の補給基地」を築造後、ここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事はこれで「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も先に奪取するのが「戦略の常道の知識」である。
故に、家康は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功した。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、「援護守備兵であった事で遅れた事」もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った。
「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると、遅れた事の道中で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際での駐留」まで考えていたのではないか。
ところが、ここに到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して北を背景に陣形を組むのが常道である。
この「南北の陣形の向き」であれば何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
そこで「予想していた事と違った事」が起こって、「戦況」を其の侭に観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られたのだ。
そこから「別動隊」であった以上は「状況」に応じて「独自単独」に移る事が出来る。
今度は何と「松平軍」に執っては予想外の“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面・弱点」に本隊よりも先に突撃して行った”のだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、その「行動の判断」は「同時」や「後」は「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成り、且つ、「敵が鶴翼陣形」である以上は著しい混乱を招く事に成る。
これは「得策」では無いとして、先に、最早、“「使命達成」は当面は不可能”と判断した。
そして、「二俣城」からの「移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」である事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」は「一言坂」と「追尾」で承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の本隊」からはそう見えていた筈である。
恐らくは、「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」としてある。
そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“積極攻撃をして来ない事・証イであった。
「一言坂からの追尾」”までと、「堀江城への援軍攻撃」が無かった事・証ロと、「三方ヶ原」に到着して観れば“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とにあった事・証ハなのだ。
「武田軍の本隊」は、この「三つの証」を観て少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取り」にあった事である。
これが「救出目的」であるとは観ていなかった事・証ニが考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」と「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方も、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って先ず「進軍」を止めて、何か弾煙の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」にも累々と「戦死者の山の光景」が目に入ったのだ。
どうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に「三方ヶ原の戦場」に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又弾煙が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって兎に角にも先ずは「東」に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、武士道の通じない生死の「経験のない恐怖」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かって連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実はここの状況は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあった。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起こして突撃した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命もあった事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は、「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「武田軍の本隊」が進軍中に「一言坂の此処」で一時停留しているので、破壊は無いし、確実に「掃討カ所としての確認をすべき拠点」である事は知っていたし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である拠点には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)

(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺りに付いての論」
さて、上記の詳細経緯に至る内容を先に論じて置く。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城の山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢水軍と駿河水軍は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成っていた。
「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している行・商記録共に一致」である。
つまり、これは何を意味しているかである。
「三方ヶ原」から伊川津に戻り「陸運業」に逸早く転身し、「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだし、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に「甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来ていたのだ。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源を持つ事」に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、遂に「熊野水軍の内の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対しも「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」が「織田軍の調略」に落ちたがこれを「掟と財源」で食い止めた。
然し、結局は1組だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然である。
そこで「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「陸運業」と「海運業」にも更に関わる事で、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
伊勢が復興させた「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆」の強味の所以であった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に「水軍」を持ち「それに依る財」を持つ「御側衆」はいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」もいなかったであろう。
身分以上に力を持つ「家臣・関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には“かなわない”とする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」にも経済的に劣らない「身分以上に力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は他にいなかったであろう。
ところがこれが、「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に、「松平氏の強み」とも成っていたのだ
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残った。
そこで「松平氏の力」を検証する。
そうすると、尾張に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依って弱みを突かれて国境の「西三河の浸食・三好域まで」が起こりこれが「2万石」にまで減石されていた常態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、実際は戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずは「旗本程度」を養えると成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた筈だ。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代に女系で繋がっていた事の所以で末端の裔を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受けた。
そして「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それが「裔系の長」が「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めなかったのだ。
この様に資料では「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成る。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、盤田見附に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「伊勢青木氏部」に依って大寺を建立できるまでに成り、それを持てるまでに「子孫」を拡大させている以上は、青木氏等の地名や所縁のものが遺されていると考えられるのが普通で、その割には「青木氏とその類証」が「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうか検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなるその“「福田港」”がある。
ここに少なくとも先ず「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が資料から判っている。
つまり、「福田港の此処」からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む「一門の領域」と成るのだ。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無く現在もである。
全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量に何もかも出現して来る。
つまり、この差であるる
平安期と鎌倉期と室町期初期の三期までは「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期中期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出した「遠州西光寺域の庄」であって、厳しい乱世の中で衰退しながらもここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して伊勢と繋いで生きる力を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成るのだ。
結果として全体は「駿河の青木氏」の「名籍」が存在する所まで引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で起こった事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」に対応した様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」からか「駿河区青木の庄」の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯である。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練をさせてから「30年後〜40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成るのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できる。
問題は失った元の庄を獲得するには、上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外にも無いし、武力による獲得は「青木氏族の氏是」ではない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは元の庄の獲得は無理で、この時期、必然的に「今川氏の国衆と成る事」が先ずは前提と成る。
その前に、「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられて移住したと定説ではある。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
そうするとこの「地頭代職時代」にこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」は松井氏を当然に知り得ていた筈であるし、「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、源平戦で衰退はしたが「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
この「近江青木氏」と「川島皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは血縁の縁で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」と成れば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。

奈良期の古来より「近江」には「伊勢青木氏一族」は「施基皇子の時代」から全く縁が無かった訳ではない。
そもそも「近江の日野等」は、奈良期から「日本書紀等」にも記されている通り「賜姓五役」の一つとして「令外官」として「鉱山探索・鉄の産地・鉄穴役」を命じられたが、その所以あって、そこを「領地」として与えられ「統治」を任されていた事が判っている。
そして周囲には「一色の地名の字名」があって現在もある。
この事に青木氏の歴史観に意味があるのだ。
後には前段で論じた通りその所縁から室町期には堺を通して「火縄銃等の生産」にも関わっていて、「近江国浅井と高島の二郡」の「鉄穴・カンナ地区・鉱山」を「字名」として所領としていたのだ。
ここが最初に発見された「鉄の地」で「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山・琵琶湖の真北端より北東二里の地・現在の西浅井」で発見されたのだ。
この事は「伊勢の資料」や「日本書紀等」にも記されている。
更に需要に応じて「鉱山開発」が朝廷の命で「伊勢の財」を投じて「東近江」でも進み、もう一つは「平安期末期」には「滋賀国湖南の高島鉱山に広がり、「室町期の開発」では「琵琶湖の真南端の東四里の中東域の一帯・甲賀を起点に日野を含む半径15k圏内」の「白水鉱山と雲井鉱と弥栄鉱山と御池鉱山」等までに広がったと成っているのだ。
その様に添書に記されている。
丁度、それを物語るかの様に「近江青木氏」や「甲賀青木氏」や二里ほど北東に離れた「日野の庄」までもこの圏内に含まれているのだ。
これ等の経済圏でその運輸に関する淀川に出る古来からの「中継点の松井の庄」であったのだ。

要するに其の後の経緯としては、「摂津堺の商い」として「中継点」のこの「松井の庄」を経由して淀川を通して「荷駄の運搬等の中継点」として大いに利用されていて、その歴史は奈良期から始まり浅からず江戸期に至っても変わらなかった様だ。
又、「商い」だけに関わらず隣の「蒲生の庄」の「秀郷流蒲生氏郷一族との血縁関係」も持ち、この「松井の庄」は「青木氏族」に執っては欠かす事の出来ない庄であったのだ。
それだけに「駿河青木氏の貞治」は「伊勢での訓練を受けた以上は元より「青木氏一族」として知っていなければならない「松井の庄」であった筈なのだ。
それが青木氏に関わる者であるとすれば「民」であろうが「商人」であろうが「武人」であろうが「万人」が知っていたのだ。
これは当然に秀郷流一門全ても等しく知り得ていた歴史観で忘れてならないものであつたのだ。
この「近江の鉄穴・カンナ地区・鉱山・鎌倉期まで伊勢と共に本領安堵された」が深く「青木氏族」に関わっていた事を知る事は歴史観に大きく左右するのだ。
故に、百々の詰まりは「額田青木氏の銃隊の由縁」もここから来ているのだ。
念の為にこの「巨万の富・献納」は、「紙文化・紙屋院」のみならず、「銃の武器・近江の鉄穴・カンナ地区の発展・殖産業・青木氏部」の「拡大・伴造」を支配していた事もあって、影で朝廷とも繋がり「無限の富・商い」を獲得していたのだ。
その象徴の一つが「松井の庄」であったのではないかと判断する。

他に「商記録」から「商い」として殆どは「貿易で得る事」で賄っていたらしいが、かなり古くから「銃用」ではなく上記する「近江の鉄穴・カンナ」に「鉱山の爆薬」としても「国内産」にも天皇より命じられて取り組んでいた事、つまり、「山部」や「工部」等の「部人」を統率し管理する「専門の官僚族」の「伴造を統率していた事」が史記にもされいる。
その書の記述には「乳母女樫の炭紛と糞尿を乾燥させものを混ぜ合わせて利用した「近江の硝煙開発と製造・703年頃」にも秘密裏に関わっていた事があった事が記され判っている。
前段でも論じたが当初は「宋貿易」で入手していたが、その後の平安期に成って「紙屋院」のとして「墨や硯石等の開発」の殖産に取り組み、「乳母女樫とその炭紛」は「伊勢紀州の特産品」であり、その副産物としての其処から密かに「爆薬用」として近江に運ばれていた事が記されている。
つまり「紙屋院」として墨用に開発したものの「粉」を集めて「近江の鉱山」に運んで「爆薬用」にこれを利用していたとされ、後には「弾薬用」にも転用したものであるとされている。
「額田青木氏のフリントロック式改良銃の弾薬用」に、更にはこの「近江の硝煙製造」にも「伊勢青木氏・伊勢屋」は更に力を入れていた事が判っている。
後の「室町期」にはこの「鉱山の爆薬用」から一部は「火縄銃用」にも用いられていた事が資料から判っていて、「近江の硝煙の道・ゆず街道・山懐静かな里の一角」を「代名詞」の様に使って密かに呼ばれていたのだ。
「青木氏の伊勢屋の貿易」とは別に「室町期の銃用」にはここを別の勢力に抑えられると困る事から密かに床下に隠して生産していたと記録されているのだ。
恐らくはそれだけでは無く硝酸塩発生を促す為に「温度一定」を図っていたと考えられる。
因みに「硝煙の製造法」は、残された一部の資料に依れば次の主に二つの方法が発見されていたらしい。
一つ目は、中国から伝わり古代では原始的で生物の死骸等の50年以上経過した腐敗堆積古土壌から浮き出て来て来た結晶の「硝酸塩」を抽出し、それに「炭粉」を混在させる方法で生産していた要するに「古土法」である。
この中国の記録を貿易で獲得してそれを青木氏の殖産として真似たのではないかと考えられる。
二つ目は、更に上記の方法を強引に起こさせる「培養方法」である。
石灰土に干草や糞尿を交互に重ね合わせて堆積し、発酵させて硝塩土を造り浮き出て来た「硝酸塩」を抽出しそれに「炭粉」を混ぜ合わせる方法である。
三つ目は、室町期に至ると更に「二つ目の方法」を大量生産型に変更した。
「硝石土の土山」を強引に造り出し、発酵後に浮き出る「硝酸塩の結晶」を取り出して、これに「炭粉」を混ぜ合わせて生産していた。
この「根本原理」は「一つ目の方法」にあるが、日本ではこの地質学上から自然堆積層が無く上記の方法で細々と造り出す方法で古来より生産していたのだろう。
「資料」にはそれを思い出すかの様な表現での様に記されている。
参考として「チリ―一帯の石灰層や硝石層の自然堆積層」は国土全体に及んでいて有名である。
因みに記されている資料に依ると、「混ぜる炭紛の品質」にも問題があって発火能力・爆発能力」にも差があって、それは「紀州と伊勢一帯」でしか採れない「固くて炭化精度が良く微粉末」に成る「伯母樫の木」の「備長炭の炭粉」が最良であった事を知り、「令外官の伊勢青木氏の研究」で到達していたのだ。
結論は「炭の内部の結晶構造」が均一で細かい事にあった事が記され、従って、古来より「国内産の爆薬」は「紀州伊勢産」が優れていた事も上記する「近江鉱山」は発展したと成っているのだ。
さて余談と成っているが「額田青木氏」が持つ「銃の爆発力の高さ」は「輸入の弾薬」に比する事なく此処にあったと考えているのだ。
故に、「額田青木氏のフリントロック式改良銃」は銃そのものも然る事乍らこの微細炭紛にもあったらしく、故に外に真似される事が無く「青木氏族の範囲」で留まった所以もここにあったのだ。
その「原始の方法」がこの論じている「近江の鉱山」から始まったのだ。
これを「天皇の命」で手掛けたのだが上記する「令外官」として「伴造」を支配下に置いていた「伊勢青木氏」ではの事であったのだ。
前段でも論じたが、故に一族の代々の諱号は「光仁天皇」より「伴、又は大伴」に纏わるものを号とする事を天皇から許されていた事が判るのだ。
「永代の令外官の所以」であったのであろう。

注釈として、では、この「実作業」を誰が実行したのかである。
他では、多くのプロジェクトに関わった記録があるのだが、この「近江の鉱山開発」に関わったとする明確に記された資料が少ないのが不思議の一つである。
前段でも論じたが、当時の朝廷の「技術職人集団のトップ」に位置して「施基皇子」と仲の良かった「伊勢の額田部氏」、つまり、後に「桓武天皇の遷都計画」に応じ無くて「飛鳥の斑鳩」を追い出されてこれを救って「伊勢の施基皇子」が「桑名」に隠したがその「額田部氏」であったと観られる。
時代性から観ても関わったとすれば何の不思議もない。
最終は、この「額田部氏」は「施基皇子の仲介」でその数々の功績を評価されその名誉を回復し更にはあり得ない程の「特段の出世」をしている。
間違いなく「鉄穴や爆薬の開発」にも大きく関わっていた事が判るし評価されたのであろう。
「額田部神社」を独自に「守護神」として持つ事を許された「技術職人集団」なのである。
前段でも詳細に論じたが、「土木の職能集団・地形地質を観る集団」で、「干拓灌漑、墳墓等」も手掛ける「土木専門技術集団」で、当時としてその技量は「和気氏や結城氏等」よりも優れていたのだ。
「近江の東」に和紙が生産できる様にした「干拓灌漑と土壌改良」などを手掛けた史実も持っている事から、同然にも「伊勢青木氏」が命じられた「近江の鉱山開発」にもその「地形地質の知識」を以て大きく関わったと考えられる。
寧ろ、関わらないと「青木氏」のみならず他の集団も出来なかった「国家大プロジェクト」であったのだ。
少なくとも初期の「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山開発」と、「近江の硝煙開発と製造・703年頃」は青木氏だけでは無理であった筈で、その記録は何処かにあった事が考えられるがその「額田部氏に関連する記録」はその頃の一般は未だ竹簡木簡であった事から記録は消えた事が考えられる。
遺る記録は紙に遺された記録だけに成っていて「青木氏の紙屋院」ならではの記録と成るだろう。
後発の「滋賀国湖南の高島鉱山」では本格的に「額田部氏の活躍時代」に入っているので、その記録は見つかるのではないかと期待しているが未だ確かな記録は無いし、有ってもその存在範囲は「青木氏族などの関係者範囲」に限定されるだろう。
「土木用の爆薬開発」に関しては上記した様に一部であるが遺されているので「額田部氏に関する関わり」が憤怒建設や干拓灌漑の記録はあるので何かの資料の行の中で発見される可能性もある。
当にそもそもその「土木用の爆薬などの高度な知識」は朝廷では「額田部氏」を除いて有していた集団は無かったと考えられるからだ。
それは「青木氏の貿易」との関わりから多少の記録は得られたものであろう。
この様に「伊勢青木氏」は「額田部氏の力」を借りて「鉱山開発」と「硝煙開発」にまでに及んでいたのだ。
話を元に戻して、それだけにこの後の所縁の「松井の庄」を介して「駿河の松井氏」と「駿河の青木氏」は知り得ていて“「歴史のある特別な親近感」”を持ち得ていた事に成るのだ。
そこで、だとすれば、最早、無駄な論として行うが、取り敢えずは「系論」として、仮に「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば戦っていた事には間違いは無いだろうが、敗戦後、一族が浪々の身に成り、それが共に再び“遠州で会った”と云う事に「流れ」として成り得たのであろう。
且つ、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を「松井氏」とは確実に持っていた筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る所縁と成るのだ。
そして、その「国衆と成った証拠」として今川氏の最西端の其処に「氏としての城」の「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺・西光寺」を「再建した事」を意味するのだ。
つまり、この所縁には「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、「水運業で得られる糧」では到底無理で「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その「財源の出処」は「伊勢青木氏」か「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、この所縁の流れとしては「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであって、前段で論じた様に「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」やこの事で起こる「伊豆や信濃との連携が難しく成る事」を防ぐ為にもこれは“「当初からの戦略」であった”と考えられるのだ。
その結果、「盤田見附の西光寺」だけを遺して「神明社」も「春日社」も「清光寺」も影形を全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしてもここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事、又は追い込まれていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜ける為には、再び途切れた「西と東」が繋がれば“「強大な抑止力」が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」や「鉱山等の多くの殖産」で獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。

それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで筆者が感じる処では、「伊勢系列と信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏系青木氏の関与」は、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていたが、「二俣城の浄賢」だけであるのは何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐の五つの青木氏」が「伊勢」では無く「秀郷流青木氏を頼った事」なのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅で名乗った時光系」は「嵯峨天皇派」であって「犬猿の仲でった事」は否めないが「伊勢信濃」には彼等は頼って全く来ていないのだ。
“受け付けなかったと云う事”もあつたかも知れないが、そんな資料や記録の行は無い。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐で衰退し、「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏」は徳川氏に味方し武蔵鉢形に移住させられ、残る「1氏」の「分家養子・安芸」は早めに戦線離脱し、後に安芸松平氏の家臣に成る経緯を辿っているのだ。そして「本家筋2氏」は完全滅亡している。
「諏訪族系青木氏・3氏」に付いては、「武田氏系の1氏」は衰退したが、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置、残りの一部も「越後秀郷流青木氏」を頼り、4流に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期には「甲斐青木氏・正定系と豊定系」とはある程度の関係性は出来たと考えられるが、この敗退した「甲斐青木氏」が、「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「賜姓」は「青木氏」を中止した代わりに「桓武派」と「嵯峨派」の争いで「仲介案」を採って「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子・嫡子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系・准賜姓格式」”として「甲斐」に配置されたがそれでも関係性は基本的に無かったのだ。
極めて疎遠で犬猿の仲であった事は資料からも解る。
上記した様に「青木貞治と主従関係」にあった「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「賜姓扱いの格式」を与えられた「甲斐青木冠者蔵人・源氏族では無い・後に源光系と成る」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは要するに「源氏族」で無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからない。
然し、そもそも遺すだけの力が無かった事も云えるのだ。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は完全否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏」は「9つの縛り」を護らなかった「賜姓源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・嵯峨源氏9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、それ故に頼る事は出来なかった事には成るし、又、決して四掟で受け付けなかったであろう。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「血縁性の有無」は最早これ以上は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前の「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、「源氏賜姓」を止めて「伊勢信濃の母系族」であった「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を「永代・始祖は千國」に賜姓させる事としたのだ。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
これが要するに最終は「賜姓が元の母方系青木氏」に戻したとする「詳細経緯」であるのだ。
その前には「摂関家の藤原氏との戦い・藤原仲麻呂事件・恵美押勝」で翻弄され「孝謙天皇の白羽の矢の事件・伊勢青木氏の施基皇子の四男の白壁王と井上内親王」の問題が起こっていたのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方・女系族である事」で権威格式付けしたのだ。
これが効果を発揮して「円融天皇の思惑通り」に何と「116氏に及んだのだと云う経緯」を持っているのだ。
況や、この経緯があるが故に「四掟前提としている以上」は「甲斐との血縁性は無かった事」には成るのだ。
先ず間違いなく詳細経緯を押し切るだけのものは無かったであろう。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とにはこの「縛り」は適用されなかったのだ。
依って、この「秀郷流内の青木氏族内」の「主要五氏・青木氏永嶋氏長沼氏進藤氏長谷川氏」の範囲での「甲斐青木氏との血縁・源光系と時光系」はあり得る事は否めないのだ。
然し、この血縁は、「二つの四掟で繋がる青木氏族」の中には出て来ないし、伊勢側から其処まで踏み込めず調査は難しいのだ。
従って、前段でも論じたが、厳然とした「噂」があるのにも関わらず「資料・記録」が無い為に判らないのだ。
唯、「諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であって、この「裔系・抱き角紋」が「武田氏の血縁族」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には「何の問題・疑い」も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接、血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても「間接血縁族」として頼れる事は可能であったであろう。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、その仲介を担ったのがそれが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、そこでその基と成った「駿河青木氏を家臣」として抱えてくれた「松井氏」に付いては、“山城の「河内源氏」である”とする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯としてより理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」と主張する根拠には、「山城の何処かの家人・天皇家・公家・賜姓族・皇位族」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているのだ。
“何処かの家人”としているが明記されていない事にも「疑問1」であり、“河内源氏”としているのも「疑問2」である。
しかも当時は、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で「皇族系の氏族としての格式」を認められていなかった「河内源氏」である事に認識はなく「疑問2」は記載している。
認識なく名乗っていたのかも知れないが、間違いなく“「松井」”と「姓名」を名乗っていた事には間違いは無いのかも知れない。
だが、「疑問1」から「傍系卑属系の支流族」であった事には「格式」を前面に押し出す程の家柄では無かった筈であった事だ。
故に、「疑問1」と「疑問2」が欠落して仕舞っていた事に成る。
「一族の伝統」とは支流の一家が忘れていても本家筋の他家は覚えているものでそんな欠落する程のものではそもそも無い。
故にそれが起こるとする可能性のある「傍系卑属系の支流族」であった事に就いて詳しく検証して観る必要がある。
「疑問1」と「疑問2」はそもそも護らなくてはとする「伝統意識」が低く、且つ、「伝統」そのものは違う。
故に、「傍系卑属系の支流族」では起こるであろう。
現に伊勢や信濃では未だに意味しない伝統は浸み着いて忘れ去れずに何らかの形でほそぼそと持ち得ているものだ。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた新撰姓氏禄」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」はそもそも「諡号の姓・第一の姓」を持つが「第二の姓」はそもそも持たないのが掟だ。
これも「伝統の一つ」であり、だから未だ「青木氏」は統一して「青木氏」であるのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」で名乗ったのだ。
唯、例外として「藤原北家秀郷流一門」は361氏と成り、「氏名や諡号や諱号」では一族一門の系統を格式管理できなく成り、「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、前段でも論じたが次の通りであり忘れ去られていないでいる。
第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等
又は、許可を得て「役職名」を名乗る。
結城氏
第二は、「国、又は地域名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
伊勢藤原氏の伊藤氏・加賀藤原氏の加藤氏等 
長沼藤原氏・長沼氏 永嶋藤原氏・永嶋氏等
第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の下に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
第四に、以上の三つより更に「事情」により拡大して派生した氏は同名の「字」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等がある。
当初は先ず「兼光系」と「文行系」の二派に分かれ、其れより更に分流して「文行系利仁流」や「文行系修行流」に大分流した。
「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」と「秀郷流長沼氏」は「兼光系」であり、「長谷川氏」と「進藤氏」は「文行系」であり、「秀郷流青木氏族主要五氏」と呼ばれ血縁性は取り分け高い。
これを以て「氏の総称」を「藤氏」と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏」等として大別した。
これで「系統や格式レベルや血縁関係」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず大氏一族ではあるが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけとしたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」だけには、もう一つの「判別する仕来り」があったのだ。
それは上記で記した、「好名」とは別に「字名・あざな」であった。
天皇より「皇位族の者」が成した「功績」に従って「所領と民」を与えられた。
その「所領と民」は「小字と大字」に分けられそこに「民」が替わり振られ「特別の名」がつけられたのだ。
この様にその「場所」と「民」にはそれを「特定する名」とする「特定の仕来り」があったのだ。
それが、拝領時に「天皇」から「指名される賜姓」とは別に「賜名に値する字名・あざな」があったのだ。
その「字名・あざな」はその功績の都度に別の「字名・あざな」が与えられた。
この「字名・あざな」は其処の「氏人」も「民」も「名誉」とするもので扱われたのである。
何故ならば、当時は「国造」として「民」は「天皇」から与えられたもので「氏族の氏上に所属する仕来り」であって、「民の字名」は「一色の・・・」として「姓・代名詞」にも代わるものであったのだ。
故に、「青木氏の定住する所」には民の為にも必然的に「字名・あざな」を必ず持ったのだ。
その「字名・あざな」にはその「皇位族に関連する賜名」が読み込まれていたので、これで区別していたのだ。
従って、重なる事が起こるので特定する代名詞として一族以外の別人がこの「字名・あざなの慣習」を使う事は許されなかったのだ。
朝廷が認めた氏族に限り許された慣習であった。
言うなれば「賜姓」と共に「一族の賜名」であったのだ。
これを「一族の裔の者が住む土地の代名詞」として使っていたのだ。
当然に近江もである。
例えば「伊勢王の施基皇子」には、主に伊勢では「四つの大字名」が賜名されていた。
例えばよく使われた「字名」では、「一色や色や一志や一円や志基」等があるが、江戸期には「日本全国60カ所」にも及ぶ「一色関係の大字名」があるが、この殆どは「秀郷流青木氏を含む青木氏の定住地」に広がつているのである。
但し、国抜制度があった為に正式な移動定住は考え難く一部に真似たものもあるが、約8割は関係地と認められる。
これは「四掟に基づく女系の妻嫁制度」で全国に定住している「秀郷流青木氏の嫁家先」にもこの「字名」を興した所以でもある。
言い換えれば、「秀郷流青木氏の定住地」には伊勢、又は信濃から嫁いだ「女(むすめ)」がもう一つの同じ「伊勢、信濃の青木氏」を女系の優秀な嗣子に里の青木氏を興させたと云う事にも成るのだ。
つまり、況や、最早、重婚を重ねる事に依る「二つ血筋を完全融合する二つの青木氏」のこれが「60にも成っていた事」を示すものに成る。
よく似たものに「伊豆の青木氏」や「伊勢や信濃の氏人・郷士衆」がある。
筆者は、この「60の数」から観て江戸期には、最早、この「賜名の字名」は「格式名」の前に「完全な代名詞化」を興していたと考えているのだ。
つまり、「判別名に成っていた事」に成るのだ。
現実に「四掟」に基づきながらも「京の公家先」に嫁いだところでは「賜名の字名」は興っていないのだ。
所謂、これは「代名詞化する程の事」では無かった事を意味する。
唯、注釈として説明して置くのは、この「近江」にはこの「始祖の施基皇子」に基づく「賜名の字名」がそれなりの数であるのだ。
これを上記した様に如何見るかである。
この「近江」は、そもそも「施基皇子」の兄の「川島皇子・近江王の始祖地・佐々木氏」の守護地であったのであるが、ところがここに「施基皇子の賜名の字名」があるのだ。
これには「日本書紀」に基づけば次の「三つの説」が挙げられる。
一つは、平安期直前まで「川島の皇子と施基皇子」は当時の「臣下族の習慣」として「相互重婚の唯一の天智一族」であって、其の事から「施基皇子の賜名の字名」が「近江」に遺したのだ。
二つは、その結果として「二つの青木氏」が発祥した。
つまり、「近江青木氏」と「佐々木氏系近江青木氏」である。
この結果として、「施基皇子の賜名の字名」を遺したのである。
三つは、上記した鉱山開発を命じられてそこに「伊勢の青木氏の裔系子孫」を遺した事が云える。
その結果として、二つの鉱山付近に「施基皇子の賜名の字名」を遺したのだ。
ところが「近江佐々木氏の研究資料」には、この「川島皇子の賜名の字名」の事が何故か書かれていないのだ。
そうすると、「近江青木氏」は前段まで論じて来た「五家五流賜姓族の近江青木氏」では無く、一色からから来る現地の子孫、つまり「伊勢の裔系」の「近江青木氏」であった事にも成る。
つまり、「鉄穴から来る一色の大字名説」と成り得る事も考えられるのだ。
「佐々木氏系青木氏」は別としても、将又、「五家説の単独青木氏との両方での存在説であった事も考えられる。
筆者は、「近江佐々木氏の研究資料」からもこの事に就いて散見できないし、「両方での存在説」を今の処採っている。
恐らくは「伊豆」の様に「三つの混在血縁融合」が興っていたと観ているのだ。
「川島皇子の賜名の字名」は間違いなくあった筈であるが今では確認できない。
「日本書紀」に依れば「始祖の施基皇子」と同じく「合計封戸は500戸を授かっている事」から「近江」に「字名の賜名」は持っていた筈であるが、「好字令・713年・諸国郡郷名著好字令」の施行で消えた可能性がある。
それ程に「川島皇子の賜名の字名」は弱かった事にも成る。
唯、「天武天皇の崩御後」の際に「川島皇子の裔系」はその「行動・大津皇子事件」を「持統天皇」に疑われた史実があり、この事で「近江佐々木一族」は、其の後、「不遇の扱い」を受けた史実がある。
其の事から、「川島皇子の賜名の字名」は「賜姓」と共に「近江」で遺せなかった事と、源氏化に依って遺せなかった事が考えられるし、逆に「伊勢信濃」は発展し、その差から、完全な疎遠と成って仕舞った事を示すものと成る。
もともと「近江」の「真砂の不毛の地」は「伊勢」が「額田部氏に依頼しての開拓開墾」であって、その後の開拓開墾は成功し、「楮の生産」で一時「財」を成したが「源氏化」でその財源も失って「字名」も遺し得なかったのだろう。
故に、「佐々木氏の研究資料」には不思議に「字名の記載」がない所以であろう。
従って、先ず遺しえる力は無かった事が確実に云える。
と云う事は、だとすると「近江の遺る字名」は「施基皇子の賜名の字名とその裔系」であった事も云える。
つまり、一つと三つの事に依って遺した事に成る。
つまり、斯くの如しで「施基皇子の賜名の字名」は「松井氏の論説」をも裏付けるものと云えるのである。
と云う事は、これは「摂津」を「起点」として「近江」までにも「伊勢信濃の勢力」は「商い」のみならず「子孫力」でも伸びていた事を示すものだ。
筆者は、「日本書紀」にもある様に、「鉱山力」に強く注目して「銃に関わった事」の以外に「青木氏の歴史観」を広げる為にも「賜名」も研究しているのだ。

この事に就いては前段でも論じているので「本サイトの検索で・字名で検索」されたい。
「嵯峨期の詔勅禁令」でこの「賜姓」は「青木氏」か「ら賜姓族・源氏」に変更した事を論じたが、この時に「青木氏の慣習仕来り掟を真似る事」をも同時に禁じた。
この禁令は鎌倉期より室町期ではこの「禁令・朝廷の権威」が緩み「格式の搾取」が「格式の無い姓族」に依って激しく横行した。
この時にこの「賜名の字名」が「一部の者・地頭等」に依って「格式権威」に使われたのだ。
鎌倉幕府は治めるに必要としたので敢えて使う事を黙認したのだ。
それは「守護職」から変えて未だ馴染みのない「地頭職」を幕府は置いて治めようとした。
朝廷は幕府からの申し出の「地頭職」のこれを当初認めなかったからで、つまり権威の無い役職と成って仕舞ったので敢えて「権威付け」の為に「字名の使用」を強行した。
これには「嵯峨期の禁令があった事・青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」から逆らう事が出来ずにこれを黙認したのだ。
頼朝の地頭制度の最初は「伊勢の伊賀の地頭職」で、次は「三河の西尾の地頭職」であった。
取り分け、三河は「荘園」が多く、「七郡・碧海郡、額田郡、賀茂郡、幡豆郡、宝飫郡、八名郡、渥美郡」 から成り、「豊穣の地」として「荘園支配権の簒奪戦」が起こっていたのだ。
そこで鎌倉幕府はこれを鎮める為にも「地頭職・西尾氏」を始めて送ったのだが周囲を統治するだけの権威は無く効果は無かった。
そこで、この「西尾氏」に「施基皇子の字名」の「一色」を使わさせて権威づけさせて統治させようとしたのだ。
何故ならば、その近くにの「額田端浪の一色」には、三野王に嫁した桑名殿の「浄橋と飽波の裔系・額田青木氏」の一族が住んでいて、「始祖施基皇子の伊勢の字名・不倫の権」の「一色」を「仕来り」に従い名付けて権威化を図り周囲に「デリバリー」をこの地域に構成していたのだ。
これを利用して「西尾の圷」にも「一色の字名」で「伊勢の荘園」であるかの様に見せて従わさせる策に出たのだ。
伊勢の「伊賀地方」も同然で、「惣国地」でもあったここに「鎌倉幕府」は「足利氏・栃木県足利」を送って地頭を最初に置いたのだ。
そして「伊賀青木氏」と同化を図って一色姓を名乗ったが任期が過ぎると早々と現地孫を遺して足利に戻った。
「権威ある字名」はこの様に使われたのだ。
これがもう一つの判別する仕来りであったのだ。

(注釈 「駿河青木氏の青木貞治」の詳細経緯)
前段までに論じた詳細経緯で「青木貞治」は戦乱の中で歴史的に「青木氏族」に大きな影響を与えた人物であった事が云える。
そこで、従って、改めてその経緯を更に辿つて論じてみると、次の様に成っている。
「駿河青木氏の青木貞治」は、先ず「今川氏」の「土着国衆・土豪」と成った。
其の後に、今川氏の「渡り国衆」に成っていた「松井氏」が、そして「勲功」を挙げて遂に「今川氏家臣」と成り、「重臣」とも成った「松井氏・二俣城城主」に対し、「駿河青木氏の青木貞治」は「松井氏の国衆」と成り、「家臣」と成った。
ところが、「今川氏・桶狭間戦死」は衰退し「二俣城の松井氏」も衰退し、分裂した。
ここで「青木貞治の裔系」はその三つに分裂した松井氏の徳川氏側方に着いてこの松井氏は「今川氏から徳川氏」に「今後の命運」を架けた。
結局、優勢を保持した「徳川氏側の国衆」と成り、「松井氏の二俣城」は結局は「徳川氏の物」となった。
この「元二俣城の松井氏」と「遠江駿河土地」と「国衆の所縁」を以て「二俣城の守備隊・家臣中根氏」と成ったのだ。
そこに「駿河秀郷流青木氏」、及び、「武蔵秀郷流一門」の「後押し」で、「兵の支援・100」を受けて「二俣城の副将格・兵200」を獲得した。
「駿河国衆」より「遠江国衆」として成り得て「徳川氏の国衆―二俣城家臣」と成り得たのだ。

先ずこれを前提にすれば、「早期の経緯論」に成り得る。
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
結局はこの経緯から「駿河青木氏の青木貞治」が仕えたのはこの“「松井宗信」”であった事に成る。
だとすると、この直ぐ後の「桶狭間の戦い」で主君の“「松井宗信」”は戦死したが、同じ松井隊にいた「青木貞治隊・兵100」は何とか生き延びた事に成り得る。
そこで疑問・AとBが生まれる。
A 何故、生き延びたのであろうか。
其の後の「{二俣城」では徳川氏の中で子孫拡大どころかそれ以上に確実な地位を固めているのだ。
もう一点は、歴史的時系列では、丁度、この時、「額田青木氏の銃隊」は南下して「三河国衆」に成っている。
B 何故、この時期に「訓練中の額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
但し、この「桶狭間の戦い・1560年」には記録上では未だ「額田青木氏の銃隊」は参戦していないのだ。
国衆に成って4〜5ケ月後の事である。
「駿河青木氏の青木貞治隊」は参戦したのだ。
この「二つの何故の事・A、B」に就いて「手掛かり」と成るの詳細な記録は無い。
特異な青木氏に依る歴史観である為に独自の時系列で追うしかない。
そこでAに付いて、気に成る点がある。
「桶狭間の戦い」の中心と成った付近の「ほぼ南300mの所」に「神明社・伊勢信濃の青木氏の守護神・現存・古跡社」が在った。
そして、ここから「北東7.5k・2里」に「春日社・2社・秀郷流青木氏の守護神・古跡社」が在り、何れも現存する。
この「神明社」と「春日社」は、何れも「二つの賜姓族の青木氏社」として朝廷より「不倫不入の権・朝廷」を得ている「古来の高井神格の伝統」を保持した「最高の社格式」で、室町期はその「拘束力」は弱まったとしても未だ敬われていた。
ここで改めて、「奈良期の伊勢信濃の賜姓青木氏の神明社」と、「円融期の賜姓秀郷流青木氏の春日社」で、「古来奈良期からの伝統的神格概念・社」とは異なる「伝統的神格概念」を緩めた「神社格式」ではないのだ。
故に、一段上の神的社のものとして「神社格式」とは別により特別に敬われていたのだ。
念の為に、簡単に論ずれば「社格式」とは、「神を崇拝する原理主義概念・奈良期の古来概念」であり、「神社格式」とは、「仏教的概念」をある程度含有した「神を崇拝する進歩的概念・平安期」であつた。
「Aの推論」としては、この「神明社」か「春日社」に「青木氏」として逃げ込んだ事で掃討を免れた事が云える。
唯、「信長」はこの「特権」を否定していたが掃討していた家臣等がこの伝統を敬い黙認したとも考えられる。
何れの「社」の「神職」も「四掟の嫁家制度」の「女系で繋がる青木氏・賜姓の同族」である。
この「神職・青木氏」が「社門」で盾に成った可能性がある。
この時、元信・家康は「大樹寺(松平家菩提寺)」に逃れ住職の助けを受けて助かっているのだ。
当時は、「戦場やその近隣の民」は難を逃れる為に「神社や寺」に上記の意味で逃れるのが一般であって、そこに身を変えて逃れたと考えられる。当時はこの高い格式の国幣社格に逃げ込むと兵は一般に手を無理に出さないのが伝統であった。
因みに、何度も論じた事であるが、唯、「秀吉」は「信長」よりもっと厳しくこの習慣を否定したが、流石に攻める事まではしなかったが、然し殆ど「焼き討ち」は掛けたのだ。
「紀州根来寺」などは民や僧兵と共に6000人と云う人を焼き殺した史実はその典型である。
何故ならば、戦乱期はこの様に「逃亡兵」がこの習慣を使って寺社に逃げ込む事が多かったのだ。
他に平安期に平家に追われた日向に配流と成った「源宗綱等他2人」が「以仁王の乱」で敗退し、配流罪で隠れ住んだ「廻村の者」と「薩摩大口村の浄土寺・現存・5人」まで逃げ込んで間一髪で「伊勢青木氏」を名乗り難を逃れた。
伊賀で関係を持っていた“青木氏を攻める事は出来ない”として「九州平氏・平氏の始祖の伊賀平氏の高野新笠・青木氏出自の光仁天皇・白壁王の妃」は再び「日向」に戻った史実があるのだ。
これが「日向青木氏の大口青木氏・現存」である。
この様な史実に、「永代不入不倫の権」を持つ「官幣社の最高社格式社」は乱世とは云ど最小限の処で保護されていたのだ。
又、室町期には「足利幕府」からも改めて「青木氏族」は「律宗族」としても認められ「侵犯」に付いて「特別保護」されていたのだ。
筆者は、そこで、A 何故、生き延びたのであろうか。?では、上記の「北東7.5k・2里の春日社」では無く、「南300mの神明社」に逃げ込んだ説」を採っている。
ここであれば逃れられる。逃げるとしても「北東7.5k・2里の春日社」は遠すぎるし、そこから「遠江」に逃げ帰るには地理的に困難であろう。
「尾張」を避け「三河の国境・現名 みよし」を廻り「三河」の「青木氏の所縁の安全な地等・岡崎から豊橋等」を経由して「遠江の西光寺」まで約100k・1日以上を所要する。
然し、「突発的に起こった襲撃」を躱すには「戦場の地に在る神明社」の方が先ずは「最適な避難所」であった。
況してや、「駿河青木氏・青木貞治」と「伊勢」は母方実家・で血縁族で訓練して興して貰った「第二の里」であり、且つ、この唯一つ残る「神明社の神職」は当然に「伊勢青木氏」であり、身を挺してでも一族を護ったであろう。
其の後、「伊勢」に連絡して「伊賀者」を動かし警護に着けた事もあり得るし、小舟で導き「神明社の傍」にある戦場を流れる「鞍流瀬川と石ケ瀬川」の支流を経由して「境川」を下り「三河湾」に出れば、最短距離と且つ安全に「渥美湾」で「伊勢水軍」か「実家の駿河水軍」が待つ船で助けられ「遠江」に戻れる。
筆者はこれくらいの事は出来たと考えられる。
そのキーポイントが現在・緑区桶狭間に在る「神明社」であったと説く。
ここに逃げ込めば後は何とでも成る。
筆者はこれを突っ込んで寧ろ次の様に考えている。
「桶狭間の戦い」は、1560年6月12日である。
これに「青木貞治隊」は「今川氏の国衆」として「松井宗信隊」に所属し、参戦している。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この戦いの直前の2〜5月頃に「国衆」と成って南下し、其の後、「伊川津の三河国衆・西三河」として定着した事に成る。
この後、ところが松平氏が違約して「東三河隊」に所属させられ、「吉田城守備隊・1565年・武田氏の侵攻予測」と成っている。
「武田氏との第一次吉田城の戦い」は、「守備隊7年後」の1572年の「三方ヶ原の戦い」の1年前の事である。
当然に、この時、既に「伊勢青木氏と伊勢水軍」は約束の通り「渥美湾・2h」に廻船を始めていた。
「桶狭間の前」には、既に「伊勢と伊勢水軍の廻船」は「蒲郡の石切り湾」を拠点にして動いていた。
とすると、「1560年6月の戦い」では、「伊川津の南下国衆と家族を護る事」と、参戦している「駿河青木氏・青木貞治を護る事」の為に、万が一の場合に備えて、「警戒の帯同」の為に「陸・伊賀青木氏・情報」、「三河湾の配置」の為に「海・伊勢水軍・救出」と、綿密に作戦を組んで動かしていたと観ているのだ。
当然に、「駿河水軍」も「伊勢からの指令」で「三河湾」に集合し待機していた事が充分に考えられる。
其れを行うだけの「充分な財力と抑止力」が在るのだから躊躇なく筆者なら絶対にそうしているし、何もしないという事は100%無いだろう。
それが「青木氏族の氏族」の長く生き延びる為の「戦略行動」であって、奈良期から生き抜いてきた「青木氏族」であってこそ、そんな間抜けな「伊勢・福家」では無かったと自負しているのだ。
「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4〜5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。)

「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」に続く。


  [No.389] Re:「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/03/25(Thu) 14:46:40

> 「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」の末尾

> 「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
> 何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
> 「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
> これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
> 前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
> 上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4〜5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
> だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
> その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
> ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
> そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
> 況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
> 要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。


「青木氏の伝統 64−「青木氏の歴史観−37」

(注釈 「前段の当時の慣習の理解」
前段の疑問の、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”に付いて続けて論じる。
つまり、先ず時期が「駿河青木氏・青木貞治の桶狭間の戦いの時期」に合わせている事である。
前段では、これに付いて「額田青木氏の銃隊」の「単独の論としての1560年」を論じた。
然し、前段では論が複雑に成り得て論じるのが難しく分けて論じたが、ここまでは「駿河青木氏・青木貞治の論」を「詳細経緯として論じる事」が出来たとして、故に、ここでは「この二つの因果関係」を「B」として論じる。
先ずその前に何度も論じている事ではあるが、それを正しく理解する為に次の事を先に論じて置く。
つまり、前段で論じた通りそれは「伝統」として「青木氏族の異質な事柄・異質性」が“「生存の大きな枷」”に成っていたとしていた。
その中でも、この「伝統・異質性」に付いては奈良期から室町期までには「慣習仕来り掟」が室町期の戦乱に依っての社会変化と共に徐々に変化した事である。
この「変化の中」で未だ霧消する事なく「根本的なもの」は遺されていたのだ。
この「根本的なもの」には幾つかあって、これを理解しなければ「正しい青木氏の歴史観」は導き出されないのだ。
それは「青木氏族」は、他氏と違って「特異な立場であった事・伝統・異質性」で生き遺るには「苦しい環境」に置かれていたと云う事なのだ。
この「特異な立場であった事・伝統・異質性」について未だ「下克上で姓化・第二の姓」をした「社会一般」は充分に認めていなかった事だ。
その「特異な立場であった事・伝統・異質性」を持ち続けていた事では、代表的なものとしては「足利幕府」が「白旗派の浄土宗・原理主義」を認めた事と共に、“「伊勢と信濃の賜姓青木氏」が「律宗族」”である事をも認めた事であった。
この時代の「特異な立場であった事・伝統・異質性」を含有する認定であった。
それは姓化する社会の方向性に対して、真逆の認定をした事であった。
これを一般社会は驚いたであろうし、どの様に扱うか迷ったのではないか。
これが「社会と青木氏族との間の矛盾」と成って現れたのであろうが、それをここでその視点で論じて置く。
念の為に、その前に前段の論に追加して、“「室町幕府・義満」が「律宗族」として認めたのか、この事に付いて”将又、“「青木氏」が認めさせたか”であるが、これに依って論の結論は大きく変わる。
この史実を両方の資料から読み込む経緯としては次の様に成って行く。
「室町幕府・河内源氏族」には、「各宗派の争い」と「宗内部の派閥争い」が激しく起こっており、且つ、又、武力勢力とも結託して「政治に影響力を及ぼす宗教」と成っていたが、これを鎮めるべく決定を下した事であるとしてこれが「一つの定説論」と成っている。
これが「宗教力の格式論説」である。
「伊勢信濃の青木氏」は、この唯一持ち続けた「特異な立場であった事・伝統・異質性」と、「社会との乖離の解消」と、「一族生き遺り」を成すが為に「朝廷には献納」をし「室町幕府には冥加金」で働き架けをした事が「商記録からの史実」があって、この説に依っての「格式擁立論説」が成り立つているのだ。
当時のこの状況証拠から「以上の二つ」から読み取れるが、何れに於いても「青木氏側」に執っても“利に叶うもの”があって、少なくとも最低、「青木氏側」は “両者に対して合議には及んでいた事”は充分に考えられる。
「青木氏族の歴史観」の側から考えれば、これは「青木氏の再格式擁立論説」と成り得る。
それが奈良期より長期に於いて「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」であったとされるのだ。
「現実の史実」は、室町幕府は自らの「幕府の権威の低下」からも「朝廷」を再び前面に押し出すより「律宗族として宗教力」を使って「幕府の権威低下」を補完しようとしたのだ。
一方で「青木氏族」は「紙の生産と鉄生産、及び各種の殖産」で「巨万の富」を獲得していたのだ。
果たして、室町期に於いて「青木氏側」が「律宗族」と成り得なければ成らないかの「利」に対して「疑問x」がある。
因みにこの「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」に付いてその経緯を改めて下記に詳細を記述する。
恐らくこの「疑問x」は判明するだろ。
「室町幕府」には、「浄土宗14派」の中で「超最小派で白旗派」があっても、「聖聡等」が世に出て何故か興隆させて何時しか短期間で他派と他流を圧倒していた時期があった。
この「白旗派」には、「皇位性」とそれに基づく「宗脈・戒脈相伝の伝統」があるとして、つまり、奈良期から固く護り続けて来た「伝統・9つの縛り」の中に“「五戒の相伝論・律宗論」”があるとして、その「位格式」を前面に押し出しその「位」を以て信頼を勝ち得て他派と他流を圧倒したのだ。
これが要するに“「律宗族」”に繋がるのだ。
これに基づき僧侶でもあった「三代目足利義満」は、これの「白旗派律宗論」を認め、その「皇位性の相伝」の「伝統氏の青木氏」を「律宗族」として認め、これを相伝するも廃れていた「知恩院・1548年」を再興建立を命じたのだ。
これを「1575年」には27年遅れて「正親町天皇」よりこの「再興した知恩院」を以て「正式な浄土宗本寺・足利幕府承認」に伴い「正式承認・追認」を受けたのだ。
これに依って「浄土宗」へ「統一の格式・香衣付与」と「剥奪不可の権限・毀破綸旨の令」を授かったのだ。
況や、「奈良期・天智天皇の勅令」から保持する「伊勢信濃の青木氏への不入不倫の権」を改めて930年後に正式に「朝廷」よりも追認されて与えられた形と成ったのだ。
「家康の江戸幕府」ではこれを更に追認し、幕府に依って正式に確定させる為に「浄土宗諸法度・1615年」が制定されたのだ。
この経緯を経て「知恩院」を「門跡寺院・皇位族・律宗族院の本山」と認定されたのだ。
これを受けて「幕府の格式化」を図る為にも利用され「徳川氏の菩提寺の増上寺」をその「知恩院の格式」を借りてこの「知恩院の下位に置く寺」と定めたのだ。
「利」に対して「疑問x」には、上記の「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」を成すと云う詳細経緯があって、「念願の青木氏族の目的」が遂に再び蘇って達成されると云う事に繋がったのだ。
つまり、「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」は裏を返せば「青木氏族の格式化を蘇させた事」に成ったのだ。
果たして、筆者には“その必要性があったのか”は最早必要であったのかが疑問であって、それに比するものを全てを獲得しているのに何故か伝えられているのだ。
その時の「四家の福家の考え方」を聞かなければ解らないが、戦乱の中での事であるので、それを咀嚼すると、矢張り、残るは「抑止力の強化」にあったのではと考えられる。
得られる「全ての抑止力」を持ったが、残された後の抑止力は唯一つで、それはあやふやと成っていた「過去の格式化」を蘇らせて、「伊勢」と共に「青木氏族」の「不入の権を獲得する目的」が「福家」には在ったと考えられるのだ。
現実にその戦々恐々とした「福家の懸念」は的中したのだ。
それは当初は「戦乱」であって、後にはこれらの考え方を全面否定する「織田信長と秀吉の出現」であった。
「伊勢」が破壊されれば「青木氏族全体」に及ぶ事は必然で、先ず伊勢では官僚の「北畠」が奈良期からの「不入の権」を無視して入り、これを「信長」が潰しその後、「紀州伊勢攻め」が始まり、「秀吉・紀州征伐」が続き、江戸期では「外枠の格式」を外され、最後は「明治維新」で薩摩藩などのゲリラで本体に「焼き討ち・打ち壊し」を仕掛けられたのだ。

さて、そこで“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”の疑問の解決の検証に戻す。
上記の斯くの如しである「特異な立場であった事・伝統・異質性」の「律宗族の所以」を以て、ある程度の“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”を護った「摂津源氏四家・頼光系」の一族の中には、兎も角も「姓族・第二の姓」は無いのだからとして、「摂津源氏・清和源氏系」は「四家構成の氏族」とも云えると云う立場を保全していた。
況や、「准律宗族と云える格式」にあったのだ。
余談だがところが、後世の「河内源氏」はこの「里・摂津の格式」を利用して、こっそりと知らぬ振りして「准律宗族的振る舞い」をした事に成るのだ。
注としてそもそも「新撰姓氏禄」では、「頼信系源氏」は“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”で、「対象族」として編集から「資格的に外されている事」から、当初から「真人族」の中には入れずに、「朝臣族だけの格式」にされて外されていた事に成る。
将又、根本的に「朝臣族」にも加えられていなかった筈である。
この史実は、「満仲蟄居事件」と「嵯峨期の9つの縛り」で明らかに判る。
「新撰姓氏禄」は当初より「朝臣族」は「嵯峨期の9つの縛りの前提」にあった事に成る。
其の後、「賜姓源氏」は「摂津源氏・頼光系」を除き、この「嵯峨期の9つの縛りの前提」を遵守しなかった史実があるのだ。
と云う事は、元より書き換えられたとする説もあったが、この「嵯峨期の新撰姓氏禄・715年」のそのものは、現在は原本が紛失しているが、「1106年・満仲より4代目」で「後の1197年頃・義家期」の頃に「1039年頃に“「朝臣族」”に書き換えられたとする「可能性・書換説定説化」があるする説が今では定説と成っていて、従って、「原本紛失」そのものは室町期説はこの時期前後と云う事になるか。
確かに「時代性」から観てこの説には反論する為の無理がない。
つまり、その大きな根拠は、一時、“「立場格式・名誉回復」”を「河内源氏の義家」が成し、最も復興させたとされるが、それがその時期が「院昇殿を許された時期の白河法皇期」に当たる事に成るだろう。
つまり、「昇殿の格式」を得た事でこれを笠に着た「義家傍若無人期」の行為でもあるだろう。
「昇殿の格式」を得た事は確かに「朝臣族」には返り咲いた事には成る。これを以て「書き換えたとする説」であるし、「書き換えた」としても無理はない事に成り、恐らくは河内源氏としては書き換えたのであろう。
そして要するに、“一族に執って拙いこの原本を隠匿した”との「隠匿説」もが成立するのだ。
其の後の室町期に入って「姓族を書き足した事」が根拠に基づかない脚色段階に入り「完全隠匿の行為」に繋がったのであろう。
他にもこの説を裏付ける証拠がある。
そもそもそれはこの「原本」には本来無いと観される「河内源氏系の卑属族」が、そもそも「時系列の時期」が「異なる一門裔」として追加されている事である。
「嵯峨期の原本」に「室町期の姓」が書かれている事は時系列からあり得ない事であり見破られているのだ。
そもそも「朝臣族」が限定されていた「新撰姓氏禄」であるのに、その満仲期で朝臣族から外された裔系が記載される事そのものが有り得ない事でもあるのだ。
そこで、その前に「律宗族」に成り得てその基と成った「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」の処で論じた「理解の要素」と成り得る「注釈イ」と「注釈ロ」を先に追記する。
これは「鎌倉期」を除いて「奈良期と平安期と室町期」の「三文化の広範」に及んだそのものであって、中々、纏め上げるには難しいが敢えて試みる。
前段でも論じたが歴史観を高める為にも論じる。

・「注釈イ」は、そもそも上記の通り「姓の判断」には、「嵯峨期の新撰姓氏禄」を根拠とする「諡号の姓・第一の姓」と、「諡号族から外れた民」を根拠とする「姓・第二の姓(室町期に発生)」のところの二つがある。
多くはそこを同じ様に混同されている処があるが、実は「奈良期―平安期―鎌倉期―室町期初期頃」までは「諡号の姓」と「諡号無しの姓」が比率を変えながら混在していて、徐々に「諡号無しの姓」が戦乱で戦う者が必要として増加して行くが、処が本来は別々のものであって「使い方・格式」は違っていたのだ。
「910氏程度」の「諡号の姓・第一の姓」を持つ族は、その「出自の格式」を意味するが、一方で「民」などが戦乱期で「武士」に伸し上がり「土豪・国衆」と成り、勝手に名乗ったか、買い取ったか、弱体した「諡号の姓」に入り込んで「血縁」で血筋を獲得したかの「姓」は、この三つの何れかに依って「姓名・第二の姓」を自助努力で獲得したのだ。
この三つが室町期からの「下剋上の第二の姓」であり、又、別に「新撰姓氏禄」にある「第一の姓族」の生き遺った殆どは、「統治用に持ち得ていた武力」を生かして生き残った「官僚族や押領使や弁財使等」であったのだ。
ところが「諡号の姓族」の中でも「新撰姓氏禄」に加えられる程に別格であったこの「摂津源氏・嵯峨源氏との融合族」は、「皇位族の臣下朝臣族としての純血性血縁」を護る為に「四家制度」を一応は構成はしていた。
然し、朝廷が認める「正式な氏族・9つの縛り・五戒相伝・賜姓五役」と云える程の格式相伝も無く、更に「限定された氏人・単独男系血縁族」を持っていなかった事でそれ故に直ぐに消えたのだ。

・注釈ロ 「青木氏族」は臣下した時から皇族内の政争に巻き込まれない様に「女系血縁族・四掟範囲で純血保持」に変換したのであって、先ず「血縁の面」でも「慣習仕来り掟の面」でも故に女系としての統一した「律宗族」と成り得ていたのだ。
「嗣子」は他氏から入らない為に、全て「母の子・嗣子・男子」が「氏の四家の何れかを継ぐ事」で統一して変化しない「伝統・純血性と慣習仕来り掟」は保たれた。
これが確定した伝統の「四家の前提」と成り得て、且つ、「五戒相伝の律宗族」と成り得ていたのだ。
例えば、「伝統の異なる男子」が「青木氏の氏の跡目に入る事」や、「女系が四掟で護られていない事」等で持ち込んだ“「男子の家の伝統」”のみで一時的に統一されたりする事で、その継承毎に「伝統」が混濁して保てない事に成り得る。
ところが、ここが異なり故にこの女系の範囲を限定する為に設けた「四掟」も「律宗族の所以」の大きな一つと成り得ていたのだ。
だから、「臣下朝臣族の立場」にあり乍らも、この何れにも属さない衰退していた「三代目以降・二代目まで公家族」等は、「初代源氏の嵯峨源氏・神野・賀美野に在郷」を京に呼び寄せて融合して「朝廷が認める氏族の格式」を構成していたのだ。
然し、その「格式を保つ手段・条件」として「皇位族としての縛りの最大の禁じ手の一つ・武力保持」を破り、「清和源氏と嵯峨源氏」は身を守るために共に融合して「武力」を持った。
それ故に「源満仲の事件」の様に蟄居されて追放されて“「律宗族の資格」”を失って仕舞ってのだ。
つまり、「嵯峨源氏」も「満仲の清和源氏」もここで「五戒相伝の氏」としての「最も重要な戒の資格」を失い消え失せたのだ。
この事で、この「父満仲の失敗」を取り戻すべく、所謂、この「資格」を取り戻すべく「長男・頼光」は「藤原道長」に近づき各地の国司代を務め「五戒相伝の氏」として再び認められるに至ったのだ。
この時、その「国司代」を務めるべく「禁じ手の武力」は、「道長に命じられた公務」を「果たすべく手段」として認知されて、「五戒相伝の氏」として「四家を構成する事」を許された。
当然に、その為に「四家」に伴い頼光系には「四掟の戒」が課せられたのだ。
この「五戒相伝の資格」は「頼政―仲綱」まで引きがれ頼政は「従三位の公家貴族の資格」まで破格に取得し戻したのだ。
ここで「武力賛成派・三男頼信・河内源氏・縛り無視・姓派」と「武力反対派・嫡子頼光・摂津源氏・ある程度の縛り賛成・氏派」の二派が起こったのだ。
それにより、「二代目満仲・武力派」の賛成派は「公家・武家貴族資格」も消失に及び、朝廷より厳しく排斥され遂には「蟄居刑」を命じられた。
そこでその子の賛成派の「三代目三男の頼信」は、河内に逃げ延びて「武力」で定住地を確保したのだ。
「次男頼親は大和源氏」と成るも荒れて「再三の事件」を起こし遂には土佐に配流と成り、「最も重要な戒の資格」をも失う結果と成ったのだ。
然し、この「河内源氏」は開き直りこの「縛り」の一切を無視し勢力を高める為に尊属卑属に関わらず「姓族・第二の姓」をどんどん作ったのだ。
最後は系譜系統も判らない程になったのだ。
故に、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の保有する「正統な源氏」であるかは疑問なのであって否定される所以と成っているのだ。
つまり、此処で明らかに「律宗族」では無い事に成ったのだ。
上記の通り、この「資格」を有しない事から朝廷から拒否されたので、そこで「鎌倉幕府の樹立」の為に、「准資格有する頼政の跡目」として言い立てたのだ。
依ってこの「五戒相伝の資格・9つの縛り」は鎌倉以後に有名無実と成り以後無視されたのだ。
然し、「室町期」に成って上記した様に「五戒相伝の資格・9つの縛り・四掟」の「伝統」を護る「女系族の青木氏族」に対してのみ「神明社と春日社」、「浄土宗白旗派の清光寺と西光寺・密教原理主義」の「伝統」を長く護る「四掟の氏族」として、又、改めて「賜姓族・賜姓五役」としも守り続けたこれを以て“「律宗族」”としての「格式権威」のこれを復活させたのだ。
この本来、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の無い「足利幕府」は、“「律宗族」”を認める事で自らも正当な格式があるかの様に振る舞ったのだ。
その証拠にこの「戒めの名」、即ち「戒名」は「浄土宗・密教浄土宗・原理主義」の「白旗派・皇位族・高位族が帰依」に帰依する「律宗族」には、「生前に持ち得る資格」として与えられ特別に許され得度としたのだ。
要するに、古来からの“「院殿居士」”の「仕来りの権威化・格式化」であった。
因みに、この「消えた名誉な号の伝統」を蘇させるとして、「院」は「院号」、「殿」は「誉号」、「居」は「戒号」、「士」は「位号」に相当させ白旗派の族に許可したのだ。
つまり、古来より「密教」であった頃より「帰依する皇位族の仕来り」として用いられている「密教浄土宗の戒・戒号」は、次の様であった。
「五戒相伝」の「伝統」を維持している事に依って、「新撰姓氏禄」に記されている「48朝臣族/910の氏族・平安期初期・48/110」の「他氏」と異なり、その「戒」に基づき「生前の格式」として「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」を格式として持つ事と成っていたのだ。
取り分け、「皇位族の伝統」の「五戒相伝」にある様に、この「戒の号」は、「号の格式」が低下して無くなり鎌倉期頃からはある程度の身分階級に一般化してこれを戒めの誉の号を“「戒名」”と後に称される様に成ったのだ。
これが上記する「鎌倉幕府の源氏の所以」で起こった仕儀であったのだ。
この時、「戒の号の習慣」が遺る事は、「頼政系を利用した頼朝系」を疑わせる事に成り、これの印象を排除したい為に、もつと云えばつまりこれの関係者に従わせる為に、「白旗派」に「鎌倉幕府」から強引に圧力が掛かった事が平安期より他派よりも更に衰退に繋がったのだ。
「48の帰依族」から「青木氏等の10程度」の極めて弱小派と成って仕舞い、故に室町期では「律宗族」としたのだ
「奈良期からの原理主義の概念」が衰退し「日蓮宗等の他流派」が逆に隆盛を極め始めたが、「皇位族の伝統」に依って引き継がれて来た「五戒相伝の衰退」も「白旗派」に「鎌倉幕府からの強引な圧力が掛かった事」がこの根本原因であつた事は頷けるのだ。
然し、ここには「大きな矛盾」が潜んでいたのだ。
それは「鎌倉幕府」と云うよりは「頼朝」に矛盾があった。
それは、「頼朝」はこの「白旗」を「軍の旗印」とした事であった。
当然に「白旗」なら「神明社・神教」であり、「浄土宗・仏教」である「神仏分離の享受」であるが、頼朝にはところがここに無理があって違ったのだ。
この上記の「五戒相伝等の矛盾」をかき消すかの様に、その信じる処を「八幡菩薩・仏教」とした。
それは同時に「神明社」では無く「八幡神社・神教」で且つ「神仏習合の享受体」、つまり、「仏教擁護の神」と云う「無理な概念」を造り出したのだ。
ここが正当な伝統を守っていなかった事が「矛盾の大きな違い」として出たのだ。
ここが世間から非難され「鎌倉幕府の基幹の権威」が低下した故と成ったのだ。
「北条氏等の坂東八平氏」、つまり、元皇位族7世族以上は坂東に配置されたその族」で彼等に執ってはこの「矛盾」は「執権制・政権奪取」を敷く上で都合が良かったのだ。

その「根拠」を、論外であるが追記する。
そもそも「清和天皇の即位・859年」に、「南都大安寺の行教」が「宇佐神宮」に参詣し、その時に「御託宣」を受けたとし、「男山に移座し国家を武家で鎮護せん」としたとすると云うのだ。
この「清和天皇の命」で上記した様に「石清水八幡宮の神仏享受体」が創建されたのだ。
この「石清水八幡宮」は、其の後「国家鎮守の神」として崇敬を集め、取り分け「清和天皇の河内源氏・源頼信系の姓族」は崇めたのだ。
「武家社会の許」で「武家の神と仏」として「鎌倉鶴岡八幡宮」はこの「信仰」を集めたのだ。

話は都合よくまとめられているが、要するに「天皇家」はそもそも「皇祖神」であり、「仏教の事」のみならず、況してや「武家を推奨する事」は、自らの天皇家を否定する事に成り、「矛盾の極み」であり、この上記した「矛盾」を克服する為に、その中間の「八幡の神仏享受体」を頼朝は造り上げたのだ。

「欽明天皇と用明天皇」 「飛鳥寺と法隆寺」 「蘇我氏と物部氏」が基点と成って朝廷内で信仰して興つたものであり、上記した様に「庶民の仏教」はずっと後の鎌倉期の事である。
その間の「朝廷の考え方」は矛盾から脱出する為に「詔の発出」に迫られていた。
この様に、“国家として「仏道」にはその必要性を感ずるが、「神道」を根幹とするは変わりは無い”として詔を出して「豪族間の争い仏教派と神道派を鎮めるに躍起に成っていた。
故に、鎌倉期では「八幡神社・神教」と八幡菩薩・仏教」で「神仏習合の享受体」が都合よく河内源氏の幕府に執っては成立したのだ。

此の反対側に居た「五戒相伝の青木氏族」に執っては「社会の流れ」とは反対側に居て難しい立場に置かれていた。
然し、仏教も積極的に取り入れる立場を保っていた事に成る。
寧ろ、これも「青木氏族の自らの矛盾の期」でもあった筈だ。
「伊勢」で「青木氏族」が当に世に引き出される「直前・白羽の矢・孝謙天皇期・聖武天皇期」の時期、つまり、この「東大寺大仏の建立」と「鑑真招来による律宗概念の導入」が原因していたのだ。

「青木氏族」では調べると、この「鑑真律宗の法界の戒律」が、遂には上記したその「朝廷の考え方の影響」を受けて、「神明社と古代密教浄土の仏教」の「古式豊かな神仏融合の原理主義の伝統」を守って来た「青木氏等」にも適用される様に成って仕舞ったのだ。
その結果の影響を受けて「律宗族」と成って仕舞ったと云う経緯である。そうでなければ氏是゛に依って「律宗族の指定」とは成らなかったであろう。
その大きな原因は「守護神の神明社の神職」や「菩提寺密教の清光寺の住職」は「自らの氏の者」が務めるとした「伝統の事」にあったのだ。
故を以て室町期に「律宗族」と再任される結果と成ったのだ。
要するに、“理利に反する”としても「再認される事を拒む根拠」は「青木氏側」には何も無かった事なのだ。
そのターゲットが伊勢信濃に置いていたとしても「秀郷流青木氏」も同然であったろう。
故にその証拠として、この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は依然として「伝統」として頑として保たれていたのだ。
これに付いて本来は反対し圧力を加えて来る筈だが「鎌倉幕府」は何故か黙認した事を意味する。
興味深いのは、社会が替わろうと何故かこの「頑なな伝統」だけは現在でも遺るのであるし、この部分に於いてはこの資料関係を遺している所以であろう。
ここで重要なのは、前段でも論じている事でもあるが、「律」は「全体の行動の戒め」であって、「戒」は「個人の戒」と定義されている事に成っている。
「青木氏の資料」から読み解くと、「律」は「刑の事」であって、「令」は「民の事」と定義して明記している。
とすると、「青木氏族に於ける律宗族」は、「律」である所以である以上は「青木氏族全体」に課せられた「戒」であって、「戒宗族」とは成っていない。
故に氏が定めるところに於いて反すると罰が下る定義である。
要するに「個人の戒」で無かったと云う所以と成り、「青木氏」に課せられた「戒」では無かった事に成るだろう。
つまり、「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」はこの時代に於いても未だ「一族全体が護っていた伝統」と成り得る。
これは「伊勢信濃の青木氏族」と「女系で繋がる秀郷流青木氏」の「二つの青木氏族」に課せられていた「五戒相伝の伝統」であった事を証明するし、これが「格式」と成り前段で論じた論説に符号一致する。
逆に云えば、何れの源氏族にも「五戒相伝の伝統」は適用されていなかった事を意味し、河内源氏系の頼朝等が主張する格式は有していなかった事に成る。
それを「河内源氏系足利氏の幕府」が、「二つの青木氏族」を「律宗族」と認定したのには興味深いものがあるし、「正親町天皇」が70年後の相当遅れて追認したのは歴史的に意味を持ち頷ける。
この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は、「賜姓五役」の任にも通ずる事に成り、「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」と成り得るのだ。
「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」の役務の時系列は同じであり、イがあってロが成り立ち、ロがあってイが成り立つ相関関係にあるのだ。
故に、「足利幕府」と「正親町天皇」の「律宗族認定」は、「五戒相伝の伝統 イ」は兎も角も「賜姓五役の伝統 ロ」をも認めていた事を示すものだ。
もっと云えば、「青木氏族」が「古来より持つ伝統」の全ては「イとロ」に相関して成り立っていると観て居るのだ。
決して「律宗族」の格式認定だけでは無かったのだ。
「大義」はイにあり、「目的」はロにあったと考えられる。
ロに持つ「経済的潤い」に狙いがあった気がする。
幕府や朝廷が「経済的潤い」を受ける以上は「非難される点」を除かねばならない。
この「当然の務め」として「賜姓五役のロ」にあったと考えられる。
「昔の永代の務め」を廃れているのに今に成って「ぶり返して来たと云う事」であろう。
「足利幕府」と「正親町天皇」は、その様に考えていたかは定かではないが、少なくとも「正親町天皇」は思っていた可能性は充分にあり得る。
何故ならば、前段の「殖産の論」の「献納の処」で論じた様に、裏で「賜姓五役」の「令外官」として「紙屋院」に始り「絵画院」・「繪処預」等を務め、「鉱山開発・硝煙開発」等は平安期初期までは「伴造と国造りの統括支配の役」で務めていたとされるからだ。

この時の支配下にあったが「役務名」に付いては詳細では無く「院名不記載」である。
これは恐らくは、敢えて特別に「院号」を与えられず「伴造と国造りの統括支配」の許で“「令外官」”として務めていた事が間違いなく考えられる。
「幕府」は兎も角も「朝廷」には無理がない事が云える。
何故ならば「平安初期」からは「嵯峨期の詔勅禁令」で「皇親族・賜姓族」を外されたが、“「令外官」”で「国造や伴造」を配下にし、且つ、自らも「専門技術を有する青木氏部」を有し、又、当時にその「殖産の専門技術者集団の額田部氏」と連携もしていたのだ。
鉱山開発には額田部氏との連携があったと考えられる。
そして、「途方もない大財源」を必要とする「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」では、朝廷内ではたった「18氏しかない臣下族朝臣族」では果たす事は到底出来ず、これを「青木氏族の独占上」であって務めていた背景があり他の氏は無理であったろう。
そうでなければ「朝廷の大きな財源となる献納金」は獲得は出来ない背景にあった。
幾ら「嵯峨天皇」が「自らの出自元」に反抗してもこの事に関しては無理であったのだ。
「出自元の青木氏」を「皇親族」から「賜姓族」からも外したのには殖産で力の着き過ぎた皇親族を政治の世界から外したかったからであろう。
その証拠に「永代の賜姓五役と令外官」は外していないのだ。
兎も角も」経済力を持つ事」には朝廷は潤うし、自らの首を絞める事にも成り外すわけには行かず、従って否では無く、要するに「青木氏の政治の場」に対する「政治的立場」を排除したかったのではないか。
自分の思う様にしたかったとと云う事であろう。
然し、思う様に一族や青木氏は動いてくれなかったのだ。
桓武派と嵯峨派が生まれて政治的敵対したのだ。
前段でも何度も論じたが、この「殖産状況」は正式には政治体制が変わる明治9年まで続いた事が記録されているが、「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」は基本的には「影の令外官であった事」が「献納」で証明できる。
これに関わった「鉄穴部・鉄安部・かんなべし」を何時、「青木氏部」に加えて、何時、「青木氏部」から何時、「鉱山開発と硝煙開発等の殖産」から手を引いたかは判っていない。次第に低下して行ったのであろう。
然し、「鉄」に関わる以下の状況証拠と大体の時系列から割り出せる。
大倉鉱山の産出量が低下し古く成った時期・1540年
摂津堺店が日野支援を打ち切った時期・1550年
銃の開発が済んだ時期・1557年
薩摩などが日野鍛冶師を雇った時期・1558年
採掘の額田部氏が滋賀より引いた時期・1560年
近江で松井氏と再関係を持った時期・1562年
額田部氏が穂積氏とが疎遠に成った時期・1565年
日野から伊勢青木氏部に鍛冶師が逃げ込んだ時期・1567年
高倉鉱山が盛んに成った時期・1568年
雑賀に伊勢の支店を置いた時期・1569年
雑賀で鉄鉱石輸入で製鉄が盛んに成った時期・1570年
渥美湾の制海権の獲得した時期・1572年
伊川津で殖産を開始した時期・1573年
雑賀根来が信長と秀吉に敵対した時期・1576年
根来衆が雑賀衆と疎遠に成った時期・1577年
信長が近江丹波を獲得した時期・1579年
信長から秀吉政権に移行した時期・1580年
青木氏の伊勢と紀州の殖産が軽工業に移行した時期・1582年
秀吉刀狩りを実行した時期・1588年年
青木氏部が宮大工等の建設業に移行した時期・1590年

以上等の総合的な事柄が左右している「ある一定の時期」には「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」から手を引いている筈で、そもそも「続ける事」がそもそもが困難で「商い」としても得策では無かった時期があった筈だ。
その基準は、次の通りであったろう。
経済的な財力や開発能力の有無には総合的な問題は無かったのである。
第一次的な理由は「殖産」に関わる事
鉱山開発の「意味・目的・理由」が総合的に無くなった時期
鉱山開発の「排他的な続行」が総合的に困難に至った時期
鉱山開発の「政治的な配慮」が総合的に必要と成った時期
第二次的な理由は「鉄」に関わる諸々の事
第三次的な理由は「総合的な理由は幾つか重なった事」であろう。
故に突如辞めたのでは無く「一定の短い期間」を経て引いた事となろう。

これ等の事は「商記録」に最も反映される事柄であるが何故かこれには記録や資料がないのだ。
何なのかは良く判らないのだ。
この「鉱山開発の資産」に付いての「日本書紀などの歴史書での書き方」には記録や資料がないのだ。

686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸を加えられている。
703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と「役務」を与えられる。
704年1月に封100戸を伊勢に加増されている。
714年1月に封200戸を伊勢に加増されている。
持統上皇御葬送の際に「造御竈長官」を務む。
706年9月から10月に架けて「文武天皇の難波行幸」に従う。
707年6月、文武天皇崩御の際、殯宮に供奉する。
708年1月、叙品し、三品を授けられる。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。(判断として重要)
716年8月11日、薨去し、「六人部王」らが葬事の監護に派遣され、この薨伝に「天智天皇第七之皇子」と記されている。
770年11月6日、「光仁天皇」は「春日宮皇子」を「同族同祖同門同宗の四掟」とする「父の施基皇子」を追尊し「春日野天皇」を追尊した。
「三笠山の野辺」に「宮」を営む、とあり「高円山」に葬送したとあるが、「御墓山陵」は別に「田原西陵」と称され、現在の「高円山の東南、奈良市須山町・名張から真西19.5k」にある。
「施基皇子の祭事寺」は現在の「奈良市白毫寺町白毫寺・びゃくごうじ)」に祭寺があり、「名張」から真西23kの線状点にある。

703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と記しているが、「役務」を与えられたとしているだけで「本領で無かった事」も考えられ、この事からこの近江の開発した「二つの鉱山」そのものが「伊勢青木氏」のものでは無かった事も考えられるがどうであつたのかである。
そこでこの前後関係の経緯を判断して“賜る”をどの様に判断したのかである。
その判断する根拠と成る歴史観は何処にあったのかでこの「文章の意」は決まる。
否、寧ろ、此の頃の文章に云えるのだ。
それは、当時の制度レベルにあったのだ。
つまり、当時はこの“鉄穴・鉄安”とは“かんな”と呼称し、要するに“鉄の穴・鉄の安の事”、即ち、“鉱山の事”で、「土地と民」を以て「封と戸」で功績時は恩賞を賜る仕組みであった。
従って、この“鉄穴・鉄安”は、「鉄と民」が「封と戸」に値するのだ。
当時としては全てこの評価基準が「米」に相当して評価する社会で税とし、その「米」を生み出す「民」と合わせて恩賞は与えられた。
とするとこのあたらしい「鉄」はどの様に評価するかは未だ決まっていなかった事に成る。
これから「鉄の社会」に入ろうとしていた時期であったのだ。
つまり「米」>「鉄」であった。
「紙」も木簡や竹簡に頼っていた時期である。
「紙」は「紙屋院の称号」を与えられて「青木氏族」が開発し「特権」を獲得して市場に貢献したのだ。
そして、今度は「鉄・かんな」であったのだ。
当然にそうすると“「鉄穴院・鉄安院」”の様な「特権」が与えられていたかの問題である。
さて、そこで働く「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」が「戸・民」であって、「鉱山・鉄」はそもそも神道の世界では「山・神」であるので「山を売る事」は叶わず、「売るもの」は「鉄」に及び、これは「土地の米」に値する。
要するに、「封戸」は本来は「土地・民」に替えて「米・民」に値するのだ。
「土地」は原則、神、即ち天皇からの「貸借のもの」であったのだ。
つまり、それまでは未だ正式にはこの「鉱山」による仕組みは初めての事で、「鉱山」は、実質は「貸借」のものであって、その代わりを以て「米」、又はこの場合は「鉄」を「税」として換金して治める仕組みとして「施基皇子の裔の青木氏」は取り組んだのだ。
元来、これが「中国の周の斉」から統治手段として採用し、それを始めて「太公望」に依って治められて「封建社会の原理」と成った。
この社会原理が日本に新しく浸透して来た時代であるのだ。
前段で何度も論じている中国著書の「六韜と三略の戦略」は、「呂尚・太公望・、紀元前11世紀頃」に依って採用されたものであるが、丁度、「唐・618〜907年」の「731年」に「呂尚の記念廟」が建立された時代でもある。
この「新しい考え方」が「大化の改新」に依って「皇位族の者・賜姓臣下朝臣族」に限って採用されたのだ。
その中でも未だ「鉄・鉄穴・鉄安」は余り例に観ず新しかったのだ。
取り分け、「近江の大倉鉄穴」は開発時のものであった。
其の後に需要の爆発で「近江の高倉鉄穴・鉄安」が開発されたとする経緯を持っているのだ。
従って、この“近江の鉄穴・鉄安を賜る”の「賜る」の書紀には「意味」が多く「封建社会」に入る「初期の天皇家の処置」と成り、それを「皇位族・皇親族の青木氏」に遣らせる判断は初めての事であったと考えられる。
寧ろ、その様な時代であった事から都合よく「賜姓臣下朝臣族」に遣らせた、又は遣らせる為に「臣下させた事」も考えられる。
最も「信頼於ける身内の者に委ねる事」の判断が強く働いていたと考えられる。
「蘇我氏の失敗などの事」を含めて「近衛兵」も然りであり、この将来を占う「鉄穴・鉄安・かんな」も他に任せる事は出来なかったのであろう。

そこで「鉄穴・鉄安・かんなの役務」を賜ったのか、この文章の直前の686年に「200戸の封民」を、その直後の704年1月にも「封100戸」を伊勢に加増されている。
「封」を与えられているので、功績としてあるので「鉄穴部・鉄安部の民・青木氏部」をも賜った事に成る。
それが前段でも何度も論じているが「国造」として「青木氏部」に属した「鉄穴部・鉄安部」であろう。
後にこの「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」がこれが後に「鍛冶部・かじやべ」と成った事が記されている。
“686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸”とあるが、原文記載の文章の記述を良く観ると“「・・も」”とある。
つまりこれがある以上は、文章の行から、それ以前にも「初めての封戸」が在った事を示している。
この「686年8月」は「天武天皇の崩御後10月1日」の「大津皇子事件10月2日」があった年の10月の翌日に成る。
この年の8月9日 「実妹の持統天皇」に成り「政・まんどころ」を執り主な政務を皇太子に託す。と成っている。
8月14日・16日 32年間断絶していた日本の元号が再開、新元号朱鳥に成る。
686年8月にも「実兄・施基皇子」に「封」を加増され、伊勢に200戸を加増されたが、これは「持統天皇即位」に依り授かるものだ。

さて、「・・も」のものは何なのかである。
つまり、従って、その前の「686年の前」にも記載は無いが“「・・も」”の表現では少なくとも「100戸程度」は受けている筈である。
それには別に気に成る記述があるのだ。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。とある。
気に成るのは以上の記述である。
「施基皇子」の「没・716年8月」の前の1年7月前に上記の「全封戸」が支給されていたという事は、それまで一切の皇子にも支給されていなかった事に成り、事実もそう成っている。
これは「施基皇子」の「没・716年8月」に関わりなく支給されていなかった事に成る。
それも「伊勢王の施基皇子・遙任・国司代三宅連岩床」にのみならず「全皇子の封戸」にである。
従って、「賜姓」に依って「647年」に「伊勢」に「青木氏」を興した。
そこで、“どの様に「糧」を得ていたのか”である。
これが「・・も」に関わっていると観られるのだ。
この時、「国造」から上がって来る全物品を先ず朝廷に納め、「朝廷の余剰品」を市場に下ろし裁き、この「利鞘」を「朝廷」に納める「部経済」であったが、この「役目」を「伊勢王の施基皇子」は一切担っていたのだ。
これに依って「伊勢王の役料」と「市場放出の令外官の役料」に依って「二つの糧」を得ていた事に成る。
「商い」である以上その仕方で可成り大きいものに成っていた筈であり、朝廷からの務めの役料以上であった事は間違いはない。
その延長線上に「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」が下り「開発成功」とその殖産の生産に及んでいたのだ。
結果として、後の「925年頃」に「商いの二足の草鞋策」が朝廷より「施基皇子の裔」に認められる経緯を持っていてそれ程であった事に成る。
「647年伊勢」に「青木氏」を興してから、「686年の前」までの40年間には、評価に値する世の中に果たした何れも「新しい経済システムの確立」であった。
それは「余剰品を市場放出の成功例」と、この「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」の「二つの成功例」の「三つの功績」があり、「686年の前の記録」では記述が無い事が判る。
“715年1月、二品に成る。
この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”の以上の記述に原因していると考えられる。
つまり、この「三つつの功績」に対して715年まで朝廷より保留されていた事に成る。
故に、これらの「二つの功績」を取り纏めて、“二品に成る”とあるのであろう。当時としては最高位である。
念の為に、「701年に制定した大宝律令」と「718年の養老律令」のこの「二品の評価」であるが、没する「1年半前」にはここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得した事に成る。
注・官位は「政務職」、「近衛」、「令外官」の三つに分けられている。
「青木氏族」は「近衛」か「令外官」のどちらかの「品位掌職」に就いていた。
先祖の戒名や襲名名や 諱号や諡号から間違いなく両方に就いていた事が判る。
これは前段や前記でも論じている通り「令外官の二品・正二位」であった事から「内大臣・現在の特命国務大臣」に扱われていた事を示すものである。
そもそも上級では「国司」までが朝廷より「俸給」を受けていたのだ。
従って、この時、「令外官の親王の二品」は、つまり、「諸王の正二位」に相当するが、「最上位から三番目」で「最高の官位とそれに相当する俸給」を功績として得ていた事を示すのだ。
現実には「親王一品の位」は空席にするのが当時の慣習である。
そこで、「施基皇子」は、最終は、“715年1月、二品に成る。”の直ぐ後に、「元明天皇・在707年8月〜715年10月」に依って「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品」を獲得したのだ。その根拠と成るのだ。
そこで「施基皇子」が貢献したその他の功績の経緯を記す。

689年に「撰善言集」を編集した。
701年に作られた「大宝律令」を整備し運用した。
701年に平城京第一次大極殿を復元した
708年7月に「秩父」より「銅の産出」があり、「和同開珎」を鋳造させた。
710年に「藤原京」から「平城京」に遷都した。
710年に「荷役就民の詔」を伊勢国司に出した。
710年に「古事記」を献上させた。
713年は「風土記の編纂」と「好字令・諸国郡郷名著好字令」を詔勅申請した。
715年には六人の参議の協議で「郷里制」を敷いた
以上の事等の整備に努力が成されたとしているのだ。

これらは経済的には「鉄銅の産出」と、社会的には「律令体制」の確立した経緯とが進み、「大化期からの財政不足」で保留にされていた「以下の事」が実行に移されたのだ。
そして直接的には、“「荷役就民の詔」を国司に出した。の令”が以下の記述と成ったのだ。

結果として、センセイにる個人採決の判断では無く、”「律令」で判断する「大宝律令の制度」”に従った事と、「荷役就民の詔」に従った事」とで、今までの慣習を打ち破り過去の保留されていた褒章・功績も一斉に以下の文章に遺る様に施行されたのだ。
“この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”との以上の記述に成ったのだ。
その前には、“708年1月、叙品し、三品を授けられる。”がある。
つまり、それまでの「功績の評価」を纏めて官位で受けているのだ。
この時の功績評価は、次の「イロハの三つ」である。
一つは、「持統天皇」は、645年〜702年崩御 在位690年〜697年である事から、「持統天皇」と「天武天皇の墳墓構築」とに直接責任者・イとして関わったり、707年6月には、「文武天皇崩御」の際には「殯宮」に供奉・ロし、その後、この「三人の天皇の葬儀と墳墓構築」を指揮担当した事・ハを示す。
前段でも論じた様に「孝謙天皇の白羽の矢」で誕生した「父施基皇子」の「四男」の「光仁天皇・后井上内親王」は、この「三つの功績」を評して「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品・令外官一品位」を追認して獲得したのだ。
つまり「追尊天皇」に成り得た人に成る。

参考として、“「・・も」”に就いて前段での検証で論じたが、上記の「封戸」の全ての積領を算出すると伊勢と近江の「大字」は、4又は5の数授説もあるので仮に5とすると、「伊勢王」であった事から、ほぼ「伊勢全域弱の有効な積領」を持っていた事に成る。
故に、これ以上に「有効な積領」の「封戸」を「功績として与える事」は出来なかった事に成り得る。
従って、これをそれに相当する「品位」に換えて「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を追認したと観る事も出来る。
「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を獲得した事で、「伊勢と信濃の濃厚血縁青木氏族」はその格式を背景に前段で論じた”「色々な事」”が出来たと考えられる。
要するに、「室町期の律宗族」に繋がった「永代の賜姓五役」であったのであろう。

次に、「銅の鉱山開発の疑問・秩父」である。
この時は未だ「伊勢青木氏」は「秩父」までその「経済的勢力」は及んでいないし、且つ、「過去の記載の散見」は一切無い処から、「銅の鉱山開発に関わった者」は誰であったのかは確定する記録が無い。
然し、結論はこの「銅の産出」には一切関わっていない事は確かであろう。
では誰なのかである。
そこで余談だがこの検証の為に、前段でも論じたが「青木氏」と深く長く関わった「連」「臣」「宿禰」と大出世した「大和朝廷系の額田部氏」とは違う「渡来人系の別の額田部氏の職能集団・出雲国臣系」が在った事は記録で判っていて、「出雲国」が「大和国」と合体して以降はその集団は「各地の鉱物の開発と生産」にも関わっていた事は判っている。
史実、「出雲国」から唐に船を出してこの「技能集団」を態々招いている記録が遺る。
「大和朝廷系の額田部氏」も元の出自を質せば、この「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団」からの出自であった事も考えられる。
但し、「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団に鍛えられた大和人」とする説もある。
筆者は、前段でも論じたが「日本書紀等の史書」にも明記の記載がある程に、「天武天皇」が「大和人の全ゆる技能者・官僚族含む」が少ない事を嘆いて、“積極的に招いて大和人を鍛える様に”と命じているのだ。
故に、この事で養成された「額田部系の職能集団・土木」のこの「大和人説」を採っているのだ。
更に、何故ならばこの「大和朝廷系の額田部氏」の当時の分家に当たる「穂積氏」と呼称する「分流集団」があり、彼等は共に“稲の専門技術を以て保存管理して連携して働いていた事”が判っているからだ。
つまり、前段でも論じた様に「大和朝廷系の額田部氏」は、記録から主に「米の干拓灌漑工事」や「地質と地形等の技能技術」を駆使して「墳墓建築工事」や少し後に成るが「墨・硯・砥石・岩絵具等の生活用品の開発と採掘工事」や「遷都時の排水工事」や「神社建設などの基礎土木工事」等にも関わっていた史実の事から「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事が判るのだ。
其の後、「桓武天皇の遷都時・784年・794年」に「平城飛鳥」より遷都への同行命令を拒否して事件を起こして罰せられ朝廷から離れて「伊勢青木氏」がこれを桑名で保護し、その後彼等と連携して生き延びているのだ。
依って、恐らくは、このその後の「銅の鉱山開発・708年」〜「遷都事件・787年」の間は「三大官僚土木業」の一つで「武蔵域の土地の結城氏等」が請け負い、787年以降は「出雲国系額田部氏の職能集団・部制度の強化」に依るものでは無いかと推測される。
その証拠に参考として「魏志倭人伝」によると次の事が書かれているのだ。
それは「出雲国」では「稲作農耕」が良く行われ、その祭祀に用いた「銅剣や銅矛盾や銅鐸などの青銅器」が生産され、「弥生人」が持ち込んだその「中国・朝鮮文化」の進んだ文化が華が咲いたと書かれている。
そして「卑弥呼の邪馬台国」は「狗奴国」と争ったと記され、この「狗奴国」がこの「出雲国・疑問」とし、この「出雲国」は「大和国」に“「350年頃」”に滅ぼされたとする説の「滅亡説」と、「古事記」では逆に「国譲り説」が見える。
筆者は定説と成っている「出雲朝廷」の国が「大和朝廷」と融合したとする説を採っている。
争っていればもっと記録が遺されている筈だが無い。
ところが現在では、「関西の発掘調査」では「縄文人の村」と「弥生人の村」はたった「300mも離れていな地域」に「村」が「共生」で構成され、相互に文化の遺跡品が混在していた事が採掘で新しく判ってきているのだ。
ところが逆に、最近の「九州の遺跡調査」では寧ろ「闘争的民族」が住んでいた事が判っている。
この「狗奴国」は「邪馬台国」の西隣の「熊本県」とする説があり、「邪馬台国」に滅ぼされ、この「邪馬台国」は南薩から来た「太平洋民族」と「南アジア民族」の「二漂着民族」と「薩摩原住民族」の「三融合民族」に依って滅ぼされたとし、「邪馬台国」に戦い勝利したが占領せずに引き上げたとする説に成る。
そして「狗奴国・不戦民族」は中国地方を経て「出雲国」で戦い中部地方を経て「蝦夷国・アイヌ民族」にと到達したとしている説がある。
筆者はこの説を採っている。
それは「出雲国=狗奴国の説」では、「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事の歴史的史実や「魏志倭人伝」は成り立たない事に成る。
「出雲国」は「亀甲・こおら」を「神」と崇め、「狗奴国」は「狗・くま」を崇めている。
そもそも「崇めの物体」が異なり、「出雲氏族集団」は室町期まで「亀甲集団」と呼ばれていたのだ。
「崇めの物体」が異なる事は同一の国ではない事に成る。

この事から、この「350年以降」を契機に「出雲国」と「大和国」は“「国譲り」に依って融合して行った”とされているのだが、この「国譲り後」のこの専門知識を有した「銅の鉱山開発」に関する時期は、これより“「704年」”に「大和国系額田部氏・大和人」の工人に依って「鉄」が「近江・大倉・書紀」で発掘されていたが、再び、そのすぐ「後・4年後の関東」で“「708年」”に「出雲国系の額田部氏・出雲人」の工人に依って「銅」が「秩父」で発掘されていた事に成るのだ。
この「額田部氏」に付いては間違いを起こしやすいのだ。
丁度、この708年に「大和朝廷」が「関東」を何とか制圧下に治めた時期であって、当にこの「708年・出羽国・国府の設置」の時期でもあり、その統治下に入った「秩父・武蔵」では要するに「制圧直後・358年後」に「銅鉱山発掘」と成っているのだ。
この経緯では時系列の整合性が採れる
余談ではあるが、従ってこの「語る処事」は、関西では「703年の近江で鉄鉱山開発」を、”統治下に入った関東では当時に「708年に銅鉱山開発」にも直ぐに入った”と云う事に成るのだ。
それだけに、当時は、「鉄」は勿論の事、“銅の必要性も高まっていた事”を示すものだ。
つまり、青木氏が命じられた近江での「大和国系額田部氏・大和人の工人による鉱山開発」は「関東」では無理であり、元より彼等の本職である「上記のイロハの墳墓建築」で「施基皇子」と共に桑名で関わっていたし、従って其処まで「彼等の活動範囲」とその詳細は及んでいなかった事にも成るのだ。
それ故に、中部域から東の関東域では「額田部氏の子孫」は遺していないのだ。穂積氏は中部関東間である。
前段でも論じたが、「施基皇子の伊勢青木氏と共に運命共同体として生きた事・桑名」により当然の事と云えば当然の事ではあるが、江戸期に成っても関東は疎か中部域以北には「彼等の痕跡」は全くない所以なのだ。

話は戻って、上記の“「施基皇子没・716年」の「1年半前」には、ここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得”していた事に成るが、この“「令外官」”としてその後も身内の「嵯峨天皇」に依って「皇親族」を外された立場ではあったが、「令外官の上記の品位」は一度与えられた義理は外れる事は無く、続けて密かに「軍務処」や「学問処」として任命追認され、「社会の状況」を「献納・定期」を機会に「天皇」に伝えていた事を前殿で論じたが、この「密かな役務・令外官・一品」は明治直前まで務めていた事が「青木氏の資料の行」で読み取れる。
それはつまり、この「上記の事」は「献納・朝廷」と「冥加金・幕府」の「裏打ちが在った事」にも成る。
この事から「公家や貴族を含む上層階級」の間では、未だ「青木氏族」に於ける「五戒相伝の伝統」=「賜姓五役の伝統・令外官の親王の一品・最高位」の格式は、この時代に於いても家康が、「伊勢の事お構いなしのお定め書」で認めた事の様に「衆知の事」であった事を意味しいている。
要するに、これが、つまり、「戒」が世間に一般化していた事を示す。
この「格式の号」に代わって、「浄土宗知恩院派の白旗派」では「戒」に「名」を着けられて「・・の号」として持つ事も「格式の一つ」と成り得たのだ。
これが一般化した証拠として「戒名」として「戒による格式」は無くなった事を示すものなのだ。
「朝廷様式」を重んじた「鎌倉期・安定期」では、この“「律宗族の格式呼称」”は、何故か無く成った、又は消えた、消れたが、故に逆に格式を取り戻す樽に「室町期・騒乱期」には、再び「律宗族と呼称しての格式」を再興された所以の一つと成ったのだ。
それには、二つ考えられ、先ず一つは、「北条氏」に執っては「西の文化の発展」は好ましく無く、且つ、「各種の宗派の勃興」で「浄土宗だけの格式化」は好ましく無かったのだ。

以下にその号の詳細を記する。
・1 「院の院号」は、「門跡院」に代表される様に、「退位した天皇」、或いはそれに相当する立場の「者・皇子皇女と皇位族・皇親族」に与えられる「最高格式の号」である。
・2 「殿の誉号」は、「院号」に次ぐ「五戒相伝の族」にあってそれに基づく「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」に与えられる格式である。
「誉号を持つ事」に依って「・・殿」と呼称され其れを表す「殿」を建立できる。
この「殿の語源」は、そもそも「左部首の象形」は「椅子」で、それに右の「股」を組み合わせて要するに「椅子に座っている人」を指し意味する。
つまり、「皇位や天皇の高位の者」であってその人が住む「館」を意味する。
況や、「誉号」を持つ事で「殿・館に住める事・名誉な館」を意味する。
・3 「居の戒号」は、「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」が持つ「慣習仕来り掟」の「伝統」を有した者に「格式号」として与えられるものである。
・4 「士の位号」は、「貴人・皇位族と高位族」の「天皇」より与えられた「身分」を号として表す「格式号」であり、そもそも「天皇」に仕える「侍士・近衛の士」の「格式号」である。
要するに、この四つは全て“「住まいの形」”であり、中でも古来の「士の語源」として、“地上・つまり一に+を立ててこれを杭を立てた様”として使われていた。
後に、この「様」が「戦士階級の身分」を表す「儀器」と成ったのだ。
それ故、「兵士の意味」に用いられる様になったもので元は物を支える「杭」なのだ。

従って、「住居の環境」を「院→殿→居→士」の「形」を「格式化」して順序良く並べたものである事に成る。
「士」の「杭」が集まると「居」に成り、この「居」が多く集まると「殿」に成り、「殿」が多く集まる所を「院」と云う事だ。
つまり、全てがこの“「杭の数」”に由来して「階級格式」は出来ている定義と成っているのだ。
もっと云えば、“「杭の数」”は“「士の数」”に由来している事に成るのだ。
況や、“「士の数」”はその「階級」に成り、この「階級の数」は「格式」に繋がるとしているのだ。
この格式数のそれを以て「号」とするとしているのだ。
この逆の事も然りであり、これが「古代社会の社会定義」である。
更に詳細には、当時の「青木氏の立場格式」を理解するには次の様に成る。
例えば、以上の事は次の様に成る。
・1に付いて、「二つの青木氏族」に執って云えば、「院の号」は「清光院や西光院」である。
「光仁期の桑名殿」の「浄橋や飽浪」に与えられたのは「美濃の清光院」や「伊豆の伊勢信濃青木氏の融合族の清光院」等がある。
「清光寺と西光寺」が「清光院と西光院」と成り得たのはここにあるのだ。
・2に付いて、「施基皇子の冠位の浄大一位」等がある。
・3に付いて、「賜姓族の賜姓五役・令外官」や「皇位臣下朝臣族」に課せられた「9つの縛り」等がある。
・「居の語源」はそもそも「古の古いもの・固い」と「戸・家」との「意味の組み合わせ語」の語源から来ていて、初期は「古・ふるい」の「者や物」に使われていたとされる。
つまり、「古い戒め・伝統・慣習仕来り掟」の「者物・伝統を持つ氏族」と云う事を意味している。
・4に付いて、「官位」の「正一位〜正三位」や「伊勢王や信濃王」の「役職・位」等がある。

この様に「古代密教の浄土概念を持つ教え・導き」を如実に表す「院殿居士」の“「院」”は、「格式の最上位の位置」にしてその“「号」”に値すると云う事に成る。
当然に格式を持った時点で「生前」でも持つ事は当然とされたのだ。
況や「号を持つ事」が出来るそのものがそもそも「高位格式の表れ」であって、誰でもが持てる「号の呼称」では決してなかった。
この所以を以てこの「院」と「号」の「格式呼称様式」は、古くは「皇位族・貴人」にのみに付けられていた事になるのだ。
極めて「墓石・砂岩、又は青石」とその「古き墓所の上記の刻印」の二つを観る事で歴史の隠し得ない「真の由縁」が判るのだ。
この「仕来り・各種の号の呼称」が変化し一般化して平安末期から鎌倉期頃に掛けては「浄土宗に信仰心が篤い事」、且つ、「寺院や地域社会への貢献に優れた人達」にも贈られる様に成ったのだ。
然し、この「一般化した仕来り」をこの“「律宗族」”として改めて格式化して復元したのが室町期であって、この「一般化し変化した慣習」を嫌って「古来からの元の仕来りを維持している極めて少なく成った正統な氏族」に対して、要するに“「律宗族」”として称して改めて区別した事に成るのだ。

但し、現在では最早、上記した「格式や伝統」に対して無関係に「浄土宗に帰依する立場のある人」に贈られて再び「平準化・一般化」したのだ。
所謂、金銭を出せば、「院殿居士・白旗派」以外の「院誉戒位」を与えられる「消えた格式呼称」と成ったのだ。
現在では「院殿居士・白旗派」もこの「伝統の格式」が「白旗派」ではなくても「金銭」で買える状況と成って、要するに最早今では「白旗派」は無くなり忘れ去っているのが現実である。
況や、「院殿居士・白旗派」の「院」のみならず「律宗族」を如実に表現している「呼称の存在」も知る人は最早、「歴史上の事」として無い。
“「白旗派」の「院殿居士」”とその他の“「知恩院」の「院誉戒位」”とには、「・殿居士」の語と「意」が異なる。
「誉」は「ほまれ」であって前提条件として「誉」と成り得る「殿」を持つ事に限定されず、単に「誉・ほまれを持つ事」を許された者に相当する。
「特別の立場・格式」に由来せず限定せずに「誉・ほまれ」は得られる。
要するに一般化したものと成ったのだ。
「戒」とは、要するに「いましめ」であって、そもそもその族に「慣習仕来り掟の伝統」を既に有している事が前提であって、それを元にして「戒め・いましめ」が起こり罰せられたり行動を制したりする事が起こるが、その範囲に無くても「戒」の号は無関係に得られた。
「位」とは「官位の八位」までのものを云うが、次の三つに分けられ更に実務は「職掌」に小分けされていたが、次第に「名目の職掌」と成り、資格外や対象外の者もそれこそ実務の伴わなわない「名誉職」と成り得たし、朝廷も金銭獲得の為に与えた。
その結果、この「位」も「誉・ほまれ」の一つとし「二つの位」が起こったのだ。
言うなれば、「慣習仕来り掟の伝統」の無い「誉」も「戒」も「位」も、「誉」=「戒」=「位」の関係にあって形骸化していたのだ。
参考として次の「三つの官僚機構・大宝律令」から成り立っていた。
「官省職寮司の高官吏・政治」
「坊監暑台府国司の中堅官吏・軍治」
「官所職寮司府使の令外官・経済 特命」
上記の「三つの官僚機構」に依って授与されていた“「知恩院派」の「院誉戒位」”に、「院殿居士」の“「杭の数」”の「原理に由来した階級格式」の「定義」が存在せず成立し得ていなかったのである。
つまりは、この現象は早くも平安期末期から始まり「幕府社会・第二の姓武士」に成って「西の朝廷の縮小された三つの官僚機構」の中では、最早、「慣習仕来り掟の伝統の原理」が働か無く成り基より形骸化していたのだ。
これは「青木氏族」に執ってこれは「重要な歴史観」なのである。

故に、「白旗派の律宗族」を如実に表現している「呼称」に付いて更に論じて観る。
以上が「白旗派・知恩院の相伝・五重相伝/五戒相伝」であるのだ。
ところが、現在においても、「白旗派・知恩院派」が「浄土宗・権威付け」と定められてはいるが、これに納得せず、「浄土宗」には元々「14派」もあって、「流派争い・主導権」が矢張り続き、統一されずこの流派に依ってもこれ以外にも他にも色々な「号の格式」を使っているのだ。
其れを「重要な歴史観」として次に参考として一応追記して置く。
これは「白旗派・院殿居士」であったかの「判別・格式判別」に使えるだろう。
先ず、“「知恩院」の「院誉戒位」”では、流石に「最高格式の院号」の格式には変化は着けていず使わずにいる。

次は「誉号」では、浄土宗僧侶のみにならず、「五重相伝を受けた檀家・信徒」にも他流派でも授与されたが、今日では得度を受けていない人にも与えられる様に成った。
又、取り分け、「浄土宗の主流派・現在でも主流」であった「西山派」では、「授戒・得度」を受けた人には“「空号」”が与えられ、更に“「道号」”も着けられる様に成った。
「名越派」では“「良号」”が与えられている。

「戒名」はそもそも「仏教」に帰依したものに付けられる「忌名・いみな」の名前であって、本来は出家して得度者となった時に与えられていたものだ。
白旗派は帰依する事で得度したと認められ、その院殿居士を生前手も獲得できたのだ。
その前提と成ったのが朝廷から与えられた格式にあってそれが得度を得たとされたのだ。
其れだけの社会への貢献を果たしたと見做されて得度を得たと考えられたのだ。
当に施基皇子の様にである。
故に、後には「出家者」に限らずとも「在家の人々」もその前提に在れば形の上で「仏門」に帰依し「授戒」を受ければ授かるようになっていたのだ。
「授戒」に限らず室町期中期頃から「第二の姓族」が下剋上で勃興し格式を獲得する為に莫大な金銭を以て帰依し一般化して多くの人はこれを使っていたのだ。
莫大な金銭を以て得度したと評価される様に成ったのだ。
この帰依が浄土宗であっても先祖の格式云々に限らず事の次第では死後の忌名としても使っているのだ。
最早、「格式」では無く「金銭」で評価する慣習では、これでは「忌名」とのみならず判別の歴史観としては何の意味も持たない事に成ったのだ。

「位号」たけは、他の流派も使うが「年齢や性別」、「信仰心の篤さ」等によって付与されていたが、中でも「禅定門・男」や「禅定尼・女」のこの「位号」は、そもそも「浄土宗に深く帰依した人」にのみ付けられた「格式称号」ではあった。
然し、「白旗派」の「居士・男」や女性だけが持ち得る“「大姉・女」”に次ぐ格式とされていた。
要するにこれは唯単に格式では無く「信仰者の対象を広める事」で細分化していったのだ。
ところがもともとは上記の通り「五重相伝の受者/五戒相伝の格式保持者」の「格式氏・公家・四掟範囲」に限って与えられていたが、現在ではもともと数少ない「限定的な白旗派以外」には見られなく成っている。
「朝廷」が認めた「正統な氏・18氏/48の存続」が、下剋上で潰され「白旗派」に帰依していた「数氏・青木氏族等・居号」に限られて始末している現在である。
然しそれは、その「格式の有無の存在」は意味をなさなく成っている。
ここで、歴史観として忘れては成らない事は、何度も論じている事ではあるが、この「仏教・古代浄土密教」としての「律宗族の五戒相伝格式付け」の裏には、「神教の皇祖神の子神の祖先神」の数少ない「神明社族」であると云う事が含まれていたのだ。
所謂、その「基盤は神道・祖先神」であって、且つ、「仏道・密教浄土」の「二つの路」も持つと云う「特異な立場」を保持していたと云う所以にあった。
それ故に、この「二つの路」にはこれを保つ為には「戒律と云う厳しい伝統」を頑なに室町期に成っても未だ保持していたと云う事に繋がるのだ。
「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族」の関係式が室町期に成っても成り立っていたのだ。

そもそも、「律宗の族」の「本来の意味」は次の通りである。
「律」の語源は「慣習仕来り掟の伝統の戒」にある。
「宗」の語源は「物事の始まりの塊」を意味するにある。
「律」+「宗」=「慣習仕来り掟の伝統の戒」+「物事の始まりの塊」
以上の関係式が成立するのだ。
つまり、この「二つの組み合わせ語」の意味は、所謂、“「物事の始まりの塊」を「慣習仕来り掟」として、それを「戒めの伝統」として受け継いで行く”の「族」と成り得る。

必ずしも、「宗」とは、今では「仏教」と成り得ているが、確かに「鎌倉期以降」は「仏教」が興隆してその「仏道」もその一つとして成り得たが、「平安期前後」までは、神道も含んでの語意であり決してそうでは無かった。
依って、奈良期以前からの「神道・祖先神・社」は、「仏教」よりも先に概念そのものが「律+宗」と成り得ていたのである。
言わずもがなそれを奈良期から「伝統」として維持して来た代表する「賜姓臣下族の青木氏」は、「神明社の神道」を主軸としながらも、この「古代仏教の白旗派・密教原理主義・即身成仏の大日如来の伝統」を「氏の行動指針」として維持して来たのだ。
この「時期」に付いては前段でも論じたが全ゆる記録や資料から読み取れる範囲では初期は「光仁天皇期」であるだろう。
「光仁天皇期」と云えばその「経緯・孝謙天皇の白羽の矢」からも「仏道の導入」は大仏殿の所以もあって社会的には止むを得ない事由があった事は否めないし、将又、「出自の氏」としても「二足の草鞋策」を敷いている「柔軟な考え方」から考えても頑なに拒む事はしなかったのであろう。
その「証拠」に「伊勢」には「神明社」が「12社」あるが、その時の「名残」としてこの全ての「神明社の後ろ」には「仏道に関ったある地名」が加えられていたのだ。
現在でも幾つか遺されている。
これは「神明社全488社の内の伊勢の神明社」にだけに限る事なのだ。
但し、これが上記した様に「平安期初期」にも「朝廷」は世間から「政治的立場」を質されて、矢張り、“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”と“コメント”を発した所以にある。
この「背景の経緯」には、「聖武天皇の大仏殿建立」に関わっていたのだが、この「姿勢の概念」を引き継いだ「光仁天皇」が、「出自元の青木氏」がそのその「神明社」を守護神としながらも、且つ、「神明社の神道族」で在りながらも、「古代浄土密教の浄土概念・大日如来概念・天智天皇賜姓時の賜物」にも独自に確かに帰依していた。
その後、それを「桓武天皇」や「平城天皇」が慣れ親しんだこの「生活環境の状態」を黙認していたのだ。
この「聖武天皇の大仏殿の件」もあり、更には「孝謙天皇の白羽の矢の事件」の経緯もあり、「ステイタス」とした「賜姓物の三つ」の内の一つの「大日如来坐像」は、「天智天皇の賜姓物の件」もあり、「清光院の建立の件」もあり、最早、ありと全ゆる事が簡単に言い逃れ難い状況に陥っていたのだ。
所謂、「皇親族」であったのだ。
依って、ところがこの事で「出自元の伝統」を「二人の天皇」も追認したかに見えて疑われ、それが「天皇家の疑い」と成って「政争の道具」として持ち込まれたのだ。
この「解決策」は唯一つ、この「疑い・政争の中心」と成っている「伊勢施基皇子系青木氏」を「皇親族・賜姓族から外す事」にあったのだ。
これが藤原氏外の同じ出自元の「桓武天皇派と嵯峨天皇派の争い事件」の「薬子の変」であったのだ。
上記の「天智天皇の賜姓物」に発端し、そこから遂には“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”の“コメント”で解決したのだ。
「青木氏側」では、前段の論調である様に、この時、天皇家に寄り添う事なく、“「四掟・妻嫁制度・嫁家制度等の変革」”で“「女系氏族」”を構築して貫いて完全に矛先を躱し、“「商い」”も営み最早誰から観ても「天皇家」と一線を画して逃れたのだ。
この時が「嵯峨期初期頃」であるのだ。
但し、この時でも秘密裏に動く「永代の賜姓五役であった事」から“「令外官」”だけは頑なに維持していたのだ。
その為にこれが「室町期」にもこの二つの「神道と仏道」の「律宗の族」と成り得ていて、故を以て「室町幕府」と「天皇・朝廷」から追認された由縁と云う事に再び成り得たのだ。その様に持ち込まれた観がある。
「神仏」の「奇異な二つの文化」を何と“「伝統」”として取り入れ「融合」させて来たのだ。
その「全ゆる点に尽きる処」は、「永代の賜姓五役であった事・令外官の概念の伝統」が再び”「律宗族」”と成り得たのである。
“「律宗族」”を維持させしめた根幹は「柔軟な思考力」を兼ね備えた“「商い」”にあったろう。

歴史的に観ても前段の論の通りこれがの信長・秀吉等に敵対され、明治初期には薩摩藩などから「”天皇の格式を脅かす族」として存在する事を否定されて攻撃された。
我々に口伝でも伝えられる程に、「格式存在族」を否定し同調する世間からも「密教である事」さえも「攻撃の言葉」を受けていたと伝えられている。
遂には、現実に各地で何度も「焼き討ちや打ち壊し・記録」を受けながらも「青木氏族」の方から明治35年頃に「自発的解体・分散策に至る事」で事は治まった。
要するに摂津に移す事で伊勢での伝統を消し去ったのだ。
「当時の環境」としては「青木氏族」に執っては、“それなりの利する処あり”として「幕府等との工作」で対処したのであろうが、後勘として筆者の思う処では、この“「律宗族の騒ぎ」”は結果として”何んの野心も無い「青木氏族」に執っては「利する処」は何も無かったと考えるし、寧ろ「害の方」が大きかったと観ている。
唯単に“史実は史実だけ”でありそれ以上の美化論の事は無い。

念の為に、「現在の経済機構」で云うとすれば、「青木氏族」とそれを実行する「商い」の「基本定義」は、“「市場の独占価格・A」を形成する為に「生産から販売・B」までを統制して「グループ化・C」を施して、それ根幹とした「殖産カルテル・D」を基礎にした「自由活動性・E」を制限する「トラスト・F」を構築した「コンツェルン・G」であった”と考えられる。
要するに、これを「自発的解体・分散策に至る事」にしたと云う事だが、結論は“「グループ化・C」だけの部分を解体したという事”に成るだろう。
世間の豪商もその様にした。
百々の詰まりは、「室町幕府と朝廷」が「律宗族・1450年頃・紙文化・」として呼称し直して権威化して近づいたのは、ここで生まれた“「巨万の富」に魅力”があったと後勘の筆者は観ているのだ。
それは前段で論じたが、「鎌倉期の徳政令・永仁129年・武士」と、「室町幕府の徳政令・八回以上・武士」と「江戸期の棄損令・武士」と「明治初期の債権放棄令・民」に影響を受けた事が判っている。

この「青木氏コンツェルン・伊勢屋」が持つ「全ての債券と担保」に対して「政策」に依って「四期の放棄令・徳政令」が発せられ「全債権」は霧消に期したとされているのだ。
取り分け、中でも特徴的なのは「室町期の頻発する徳政令・八回以上」で「室町幕府辞自体」に及ばず「各地の国」に於いても頻発させて「財政」を保とうとしたのだ。
「徳政令幕府」とも云えるこの状況では、「格式の律宗族の再呼称」はこれと控えに担保したとも観ているのだ。
前段でも論じたが、「額田青木氏の三河の南下国衆論」で論じた様に、その論理で云えば、「江戸期の伊勢お墨付き・お定め書」も同じ「裏事情」はここにあったのかも知れない。
「青木氏の資料と記録」に明確に遺るのは、「明治初期22年から28年」に架けて何度も発せられた「法律・28号等に依る債権保放棄の令」である。
更にこれに関わる「担保・土地」の「秩禄処分」と「地租改正」と「累積債務処理」の「放棄令」が出たのだ。

前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。)

> 「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」に続く。


  [No.390] Re:「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/06/25(Fri) 15:08:22

「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」の末尾

> 前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
> これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
> 幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
> 斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
> 筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
> 「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
> 殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
> 当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
> 況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
> 故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
> これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
> これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。


「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」

さて、「律宗族論」を続ける。
この「歴史的な詳細経緯」を青木氏の歴史観を獲得する為にももう少し論じて置く。
「詳細な当時の経緯」であるが、更にこの「律宗族の意」を前提に、世の中に「仏教」が興隆し始め、「皇祖神の神道」を前提としていた「天皇家・孝謙天皇期」までも、のみならず「民」にまで深く浸透していて、この「仏道の概念」を「神道の朝廷」もこれを見逃す事が出来ず「受け入れを認める事」に迫られていたのだ。
その「受け入れ方」で悩み難しかった。
「吉備真備・公家・学者・朝臣・正二位・右大臣」に「聖武天皇の第一皇女・阿倍内親王の個人指導者・家庭教師の役割・母は光明皇后」」を受けて、天皇自らも個人としての心の中で、この「仏道の概念」に傾注していたのだ。

因みに、この「光明皇后」は、「宿禰族の橘の諸兄」の「母・三千代」が「藤原不比等」に後家として嫁し、「光明」を産み、その「光明」は「聖武天皇の皇后・光明皇后」と成り、「阿倍内親王」を産み「女系皇太子」を経て「孝謙天皇」と成る。
そして、この「橘の諸兄の母・三千代の子」から「宿禰の橘青木氏・現存」が同時に出自していて、この「光明皇后」とは「従姉妹関係」に当たり「孝謙天皇の祖母の里先」であって「所縁の深い関係」にあったのだ。
それ故に、「内親王と皇太子の時代」に密かに何度か「伊勢松阪の里」を訪ねたとする記録があり、行動力のある皇太子であったとされ、全ての事に興味を持つ性格の「阿倍内親王・皇女・皇太子」の時にも、何度か“「伊勢松阪を訪ねた」”とする「青木氏の口伝・逸話」の「史実・761年8月29日」もあり、この説としては故に可能性は低いと観られるが「孝謙天皇の白羽の矢」が「伊勢青木氏」に来たとする説もあるのだ。
故に、「姉の井上内親王」が嫁ぐ直前まで務めていた「斎王」であったが、その「斎王の面倒」を「多気郡の斎王館」で看ていたとする「伊勢青木氏」の間にも面識が浅からずあったとされる。
故に、「54歳にも成る白壁」に「伊勢の斎王」も務めたする「井上内親王」を嫁がせたとしている「伊勢の資料の説・逸話説」である位なのだ。
「阿倍内親王」も天皇に成ってからは記録的に初期に一度伊勢行幸があり、その天皇に成る前にも当然に松阪や伊勢神宮を何度も訪ねていた事に成ろう。

この事に関しては何も無しに突然に「姉の井上内親王・母は県犬養広刀自」が嫁したとする事」では、少なくとも無かった事は頷ける。
つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、「孝謙天皇」が「通説の天智系天武系説」に係わらない「女性・感情主観」である限りに於いてこの「里絆説」を重く見ていた可能性があるのだ。
これには否定する要素や疑問は何も無い。
そもそも、「青木氏族」が「二つの神道と仏道・律宗族であった事」が、「伊勢青木氏と天皇家の間」に「感情のそれを遮るもの」は嵯峨期までは何も無かったのでは無いか。
確かにこれは「最もな逸話説」であり、普通であれば全体を占めている「天皇家族の天武系」に傾く筈の処に、「家庭教師でもあって政治の場にもあった吉備真備」も敢えて「反対」をした記録が無いし、逸話的には陣頭に進んでいたのではないか。

それには、それに「相当する格式」が無ければ無理であって、前段で論じた「二つの神道と仏道・律宗族」との「奇異な二つの文化」には、上記したそれぞれの納得させるだけの「独特の格式」”と云うものが「青木氏」には潜んでいたのだ。
そこで「朝廷」は、この「“異なる独特の格式」”が社会に浸透して仕舞って存在する以上は、社会が二分する危険性が潜み、“これにより混乱を招く”として、先ずその「前提」と成るこの「統一した格式を定める必要」に迫られていたのだ。
其れが「伊勢青木氏の裔系の天皇家」であったとすれば、問題は無い。
然し、「川島皇子の後の裔系の近江」を始めとして「天武系」には、「天皇家」であったが所以で「仏道・律宗性を取り入れる事」は出来ず、元々、その「片方の仏道・律宗性」は無かったからであろう。
何故ならば、その「朝廷の採った策・方法」は、「古来からの神道族」と「概念・格式」の異なる新しい「仏道族」との間に「決定的な争い」を起こさせぬ様に、歴史の経緯は先ず融合させようとしていたのだ。
その史実としての根拠には次の様な事が最近発見された。
既に、「仏教導入」に対して「蘇我氏派の賛成派」と「物部氏派の反対派」の二派に分かれて「激しい争い・政争」を起こしていた事は史実なのだ。

ところが念の為に注釈すると、「最近の研究」では両者ともに裏では「神道」を中心としながらも「仏道に帰依すると云う姿勢」を採っていた事の「証拠」が文献や仏像などが大量に発見されているのだ。
然し、「政治の場では違っていた姿勢」を執っていた事が判明していて、現在ではこれが「定説のイ」とされる様に成っている。
「蘇我氏と物部氏の争い」は表向きの事であった事に成る。

故に、その事を考えると、上記した様に「阿倍内親王・孝謙天皇」の「青木氏への白羽の矢の突然の行動」は、「神道族と仏道族の格式の壁が天皇家以外には無く成っていた事」に成るのだから、「賜姓族で皇親族の伊勢青木氏との間」では、「背景・青木氏の逸話の里絆説」としては普通に納得できるのだ。
要するに、前段でも論じた様に、「天武天智系説の通説」<「青木氏財力とその格式の利用説・律宗族」<「孝謙天皇の里絆説」との関係式があるが、「神道族と仏道族の格式の壁」が実質無く成った現在では、「青木氏財力の利用説」=「孝謙天皇の里絆説」の「総合説」に傾いている。

故にこれを解決するが為に、「淳仁天皇の時の策・第一段階」と「光仁天皇の時の策・第二段階」と「嵯峨天皇の時の策・第三段階」の「三度の策」が参考にしながらも執られようとしたが、「神道族と仏道族の格式の壁」に付いては相互に参考にしながらも、「夫々の融合の策」には「大きな違い」があった。
「神道族と仏道族の格式の壁」の「融合の手段」としては次の様な政策を採ろうとしたのだ。
この「三つの策」が嵯峨期には「新撰姓氏禄」として反対を受けながらも強引に世に出された。
この「三つの統一する内容」としては、「朝廷」は全国に分散していた世の中の「氏族に相当する者・認定氏・全910族」の先ず「拾い出し・第一段階」をした。
それを「4つの分類・第二段階」に分けた。
それに「身分と格式」を「第三段階」に分けそれを系統化して与えようとした。
この様に「矛盾」が生じない様に融合させようとしたのだ。
然し、史実は、この「第一段階から第三段階」までその先の結果が「社会に与える利害」を見通せられた事から、どの階級からも「猛反対」を受けたのだ。
そもそも、「選出した編者衆」からも「猛反対」を受け無視どころか纏めようとしていた案文をこの三度共に編集中の案文が隠されてしまうと云う破目に成ったのだ。
これを「約40年弱の間」に行われたのだ。
「三つ共」にその利用しようとする「編集目的」が違うが、結果として「格式を決められると云う事」には同じであり、世の中はそれを嫌ったと云う事に成ろう。
元々は「世情の中で身分格式の社会」でありながらも、それを「書類で正式に決められる事」に反発したのであろう。
そもそも、それまでは「冠位十二階の制」や「八色の姓の制等」で身分格式を決められてはいたが、「格式身分」であって「神道仏道の融合」の自由を規制するものでは無かった。
つまり、既にこの時代に於いても「神道仏道の融合」は「自由であるとする概念」が社会全体に根付いていたのだ。
「重要な事」は「神道」に於いても「仏道」に於いても「宗教概念」は違えどこの事には差異は無かったのだ。
結局は、「前二つの編集」は完全に失敗に終わり、結局、「嵯峨天皇」は「未完成の案文」を編者衆が逃げる中でも強引に社会に出してしまったのだ。
然し、「完全に格式化される事」を嫌う「世の中の反発」を激しく招き、この為に編者等が「雲隠れすると云う事態」が起こり結局は頓挫したのだ。
それが「新撰姓氏禄」であり、その原本すら隠されたのだ。
そもそも、何も「諡号範囲」の「新撰姓禄」でも良かった筈で、そこに「数少ない朝廷認定の氏禄・真人族48氏・全体の1/20」までも態々反対の中で敢えて付け加えたのだ。
其処には初めから「八色の姓の制」などでその「格式の程度」は判っている「真人族」を、何故、付け加えたのかであり、ここには“見逃せない意味”がある。
そしてそこで、「嵯峨天皇」は更に「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に変更して勢力の財力の持った「出自元の伊勢青木氏・祖父の実家」を「単なる皇位系の氏族」にして仕舞ったのだ。
この「嵯峨天皇の行動」は、「青木氏の歴史観」から観れば“何か矛盾している行動”である。
普通であるなら、「神道仏道の融合策」を成し遂げた「出自元」であり、且つ、自ら編集した「新撰姓氏禄」にも「真人族」の「敏達天皇四世族系(春日王裔系)の天智天皇四掟一門族」と指定しながら、「賜姓族」から外して「単なる皇位系氏族」にしたのは矛盾であり、寧ろ、「源氏」を賜姓するにしても、これだけの条件を揃えている「賜姓臣下朝臣族」であるのなら「賜姓源氏」に対して、それに代わる“模範と成る賜姓族だ”と権威着けるべき事であろう。
「政治の場の策」としてはそう成る筈だ。
だから、「桓武天皇・平城天皇派」と「嵯峨天皇派」に「激しい戦いの政争」と成る醜い見っともない「一族争い」が起こったのだ。
「出自元の伊勢と一族の信濃の青木氏」は困ったであろうが、然し、「桓武派」に明確に着いたのだ。
後勘から観ても起こる事はこの程度の事は読み込めるし、事は必然であろうし「後勘の者」としては、「新撰姓氏禄」が「源」と成る「嵯峨天皇の一連の策」はこれは「嵯峨天皇の失政」と観ている。
「賜姓した五家五流の青木氏の模範の存続」を其の侭にして「弘仁五年の詔勅と禁令」の「賜姓源氏」を行い、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高めた方」が「神道仏道の社会の混乱」は免れた筈である。
其の上で、“「9つの縛り」を出すべきであった”のだ。
そうすれば、“「矛盾は生まれなかった」”し、「伊勢信濃青木氏」は朝廷から大きく離れて行かなかった事に成ったのだが、結果として最終は「平家・たいら氏」も潰れたが、自ら進めた「源氏策」を潰す「源平戦」へと繋がって行ったのだ。
最後は、「天智期の大火の改新」で生まれた坂東に配置された「元第七世族の平族・ひら族」が天下を取って仕舞ったが、その後もそれが「河内源氏と坂東八平氏」の「一つの融合裔系の足利氏」の室町期まで続く結果と成ったのだ。
青木氏の歴史観かの後勘から観て「嵯峨天皇」は自分で自分の首を絞めた事に成ったのだ。
つまり、結論として「孝謙天皇」が執った「神道仏道の融合の策」が、結果として「嵯峨天皇の矛盾を孕んだ失政・美化されている」で「成功の方向」には向かなかったのであると「青木氏の歴史観」では説いている。
問題は、「嵯峨天皇の跡目」を継いだ「仁明天皇・ここまでは青木氏の血縁の出自元」は、「嵯峨天皇の子」であり「修正」は無理であろうと思われたが、この修正を敢行したのだ。
「桓武天皇の子」の兄の「淳和天皇・在位10年」がこれを修正しなかった事にある。
故に、その後の「賜姓」は乱れ、正式には11代であるが、賜姓無しの勝手に名乗った源氏族を加えると20位上にも上る事と成り、元々、「9つの縛り」を護らなかったが「賜姓」そのものの意味は無く成るのだ。
たった一つ真面に遺ったのは「清和源氏」だけであり、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高める策」と云う「政治目的」は霧消する事に到ったのであり、「仏道が当たり前の社会」と成って仕舞ったのだ。
「仁明天皇の執政」はこの事に気づいて「証拠」である。
結局は、この「失政の流れ」で「朝廷の力」は弱く成って仕舞い、結果として「神道」は「青木氏・律宗族と呼ばれる」にしか「伝統」されず、「9つの縛りと融合」を護らなかった「鎌倉幕府へと移行する事」に成って、挙句は「融合ところの話」では無く成り、「神道」は社会から消え「第二の姓族が発祥する事」と成ったのだ。
況や、「神道が消える事」は「朝廷が衰退する事」に成り、伊勢と信濃の青木氏が支える神明社だけが遺る結果と成った経緯である。
そして、遂には“「子神の祖先神の神明社・青木氏」”の“「親神の皇祖神の伊勢神宮・天皇家」”の事も忘れ去られる結果と成って仕舞って、江戸期に成って遂には「青木氏」から「祖先神の神明社」を剥奪し、その結果、荒廃した「神明社」が明治期に成って「天皇家の守護神」と、“誤解される結果”と成って「子神と親神」が同一と成って仕舞ったのだ。
そもそも「天皇家」には“「皇祖神」”と云う「天皇家独自の守護神の神」があったのだ。
「青木氏の各地の定住地」には「神明社」が多いのはこの事に依るが、唯、本論の「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の「神道仏道の融合の策」に依って、そのそもそも「出自元」が、“祖先神の神明社であった”とする事から、その血筋を受け継いでいる天皇家とすれば、「皇祖神の伊勢神宮」でありながらも「祖先神の神明社とする事」にはその一理は確かにある。
唯、それにしても「青木氏の血流の血筋とするの根拠」は、遺伝子的には、精々、「光仁天皇」から「仁明天皇」までのものであり、「四代目の六人」とされるし、「祖先神の神明社」と仮にする以上は、同然の「清光寺」も「天皇家の菩提寺」であるとする理屈に成るがそうでは絶対に無い。
「天皇家」は上記する様に「孝謙天皇期」には本論の「律宗の融合策」を執って、一時は「仏道に傾いた時期」も確かにあったが、かと云って「神道」であるから当然の事ではあるが「天皇家の菩提寺」は無い。
現在に於いても「神道」だけでその戒律の中にあり、「天皇家の全ての伝統」は「神道」に限られている。
決して、「孝謙天皇期の融合策」には現在に於いても至っていないのだ。
「祖先神の神明社」であれば「密教の清光寺」なのである。

さて、ここで参考として、「唯、不思議な言い分」があって、“「天皇家」は「神明社」であっても、「祖先神」では無い”とする「明治維新期の言い分」を唱えているのだ。
恐らくは、「維新政府」をリードする薩摩藩などの「政治的な思惑・天系一途の原則」から、上記した「皇祖神の伊勢神宮」がありながらも、これを認めていながらも訳の判らない「矛盾した言い分」が出来上がったのであろう。
「施基皇子の伊勢王と成った存命中」から始まり「光仁天皇期」までには、既に「女系態勢」をほぼ造り上げ、「伊勢衆の氏人」の「氏族関係」を構成し、「藤原北家秀郷流一門」とも「中国の古来の制」を採用して「四掟範囲」に基づき「母方族」として繋がり、後に「北家の秀郷一門と繋がる」として「独特の限られた賜姓臣下族の女系」と成っていたのだ。
これが「施基皇子」が「伊勢王」と成った最初に、「伊勢衆を含む裔系一族」に示した「青木氏の氏是」であるのだ。
故に、「明治期の祖先神の神明社」が、「天皇家の守護神とする説」は飽く迄も「皇祖神の神宮」であって、「女系で繋がる青木氏の神明社」では絶対に無いし、その証に「神明社の神職」の全ては奈良期から引き継いだ「伊勢と信濃青木氏の子孫の裔系」であり、現在の多くもその「裔系」とするは、「明治維新期に造り上げた策」は「矛盾」に満ちているのだ。
江戸期直前まで「伊勢と信濃の青木氏の莫大な財と管理維持の許」で、且つ、「一族の青木氏による神職」で、維持管理されていた「史実」をどの様に解くのかである。
「明治維新の神明社の言い分策」であるとすると、「男系の天皇家」と「女系の青木氏」は「同系」と成って仕舞うでは無いか。
つまり、且つ、「明治維新」に打ち立てた「天皇家に類する格式族の排除」の「天系一途の原則」は矛盾するでは無いか。
「今も遺されている伊勢と信濃と秀郷流の青木氏族」に執っては、この説は「施基皇子からの氏是」に基づくと、現在は最早「守護神の概念」は無いし、「神明社に拘る訳」では無いが、迷惑ない事であり、「歴史の学者」が公的に情報媒体を通じて云う時には、本論を良く読んで「歴史の経緯」を知って“是非訂正して欲しい矛盾説”ではある。
もう一度言う、「祖先神の神明社」では無く「皇祖神の神宮」である。
全国の各地に「68の神宮を有している伊勢神宮」があれば、「・・社では無い事」は直ぐに解る筈だが、「社」であって「宮」では無く、「神社」とは違うのである。
簡単に云うと、「・・社」と「・・神社」とは違うと云う事であり、「神明社」と「神明神社」とは「神明の神概念」が、前者の「・・社」は奈良期初期からの「単なる神概念・融合・神明社」、後者の「・・神社」は「仏道の概念」をある程度取り入れた「神概念・習合・神明神社や八幡神社」で分けられていると云う事である。
故に、「四掟の女系」で「血縁続き」と成った「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」であって、「春日神社」では無いのだ。
「春日神社」は上記の通り「習合概念の影響」を受けた「室町期以降の村各社」なのであり、決して「秀郷流青木氏の守護神」では無いのであり見分けが着く。
「秀郷流一族一門」が建設したかは疑問であるが、その判定は朝廷から受けた正式な「社格式」で判る。
主に江戸期に多く建設されたもので「無格式社と村社格式と郷社格式」では、「利を追求した民間一般財の神社」であり、「秀郷流一族一門の氏族」が独自に「一族の守護神」として建設とした場合は、「国幣社格式又官幣社格式・大中小に分類」では無く、相当に財を有する一門であり、特別に許可を得た「氏社格の別社格式」に当たるであろう。
従って、「伊勢と信濃の青木氏の神明社」と「秀郷流青木氏の春日社」は、「独自の氏社の格式」に当たるが、「光仁天皇期」と「円融天皇期」には「融合の社」としての「社の格式」を特別に「朝廷から神社で無かった事」から「最高格式の准国幣社並みの格式」を与えられていた事が記録から判っている。
つまり、それは「神明社と春日社」が、朝廷が奈良期から求めて来た“「社」”であって“「神社」”ではない「9つの縛りの掟を護る律宗氏族の社であった事」であろう。
上記する「明治維新の騒ぎの矛盾」はこれだけを捕らえたかも知れない。

現実に「紀州・和歌山市」にある「元天皇家の神宮・伊勢への遷宮の前はここに在った」が存在していて、それが現存して広大な地で古式豊かに国祭司されている「日前宮・伊勢の前の宮」であったが、それを「天智天皇」が「伊勢」に移して、「伊勢神宮とした歴史の経緯」を知れば違うという事が直ぐに判るのだが。
「光仁天皇の経緯」から来ているとしても、上記するような直ぐに解る様な多くの矛盾を孕む事が判れば、「青木氏」とは別に「神明社の史実に基づく歴史観」として何でこんな間違いを起こしているのか不思議である。
飽く迄も、「聖武天皇から孝謙天皇期」、更には引き続いて「光仁天皇から嵯峨天皇期」までには、「神道仏道の融合策」を「政治の場の策」で確かに執ろうとしたが現実には頓挫しているのである。
「伊勢と信濃の青木氏」が「神道仏道の融合策」を「伝統」として執って「律宗族」として維持して来たが、だからと云って「祖先神」が「皇祖神」に絶対に成る事は無く、且つ、「神明社」が「神宮」とは成る事ではないし、「施基皇子の時」から「天皇家とは血筋・血流」の完全に異なる「女系族」と成って仕舞っているのだ。
その為に「四掟を定めての女系氏族」としたのだ。

元に戻して、そして、その上で「彼等の賜姓源氏族」に「皇位族である格式」を保たせる為に、つまり「律宗族」にする為の「9つの縛りの掟」を負わせたのだ。
そもそも、「新撰姓氏禄」にして「真人族」や「臣下朝臣族」を付け加えた以上は、「上位の格式」は定まったものであり、「9つの縛りの掟」を負わせる必要は無い筈だ。
必然的にその位置にある以上は「9つの縛りの掟」を護る義務を負う事に成る。
此処で、「新撰姓氏禄」を観てみると、「嵯峨源氏の朝臣族」としての「確定下した記載」は無いのだ。
時系列的に検証しても、「源氏の朝臣族」としては「101氏」の中の唯一つであり、男子は一族内では「好字名」を使っているので「第一代目の四人」である事を示している。
「831年」にこの「四人の朝臣」が「朝臣族嵯峨源氏の賜姓」で臣下と成るが、そもそも「新撰姓氏禄」は「816年」に定められたとするので「時代」が合わない。
この「四人の嵯峨源氏の唯一つの臣下朝臣族」は、故に、「15年後に追加された事」に成るのだ。
唯、「嵯峨天皇の在位」は「809年から823年」であり、「没年」は842年である。
「退位」から「没年」までは「19年間」で「院政」を敷いたが、この「831年から842年」の院政後の何れの年にか書き加えた事に成る。
然し、在位開始から「7年後」に定められたとするとその「記録」は無いし、その前に紛失しているし、結局は「院政後の説」は消える。
要するによくある「後付け追加」であり、論理展開に於いては充分に検証しなければならない事に成る。

尚、参考としてこれも前段でも何度も論じたが、つまり、「嵯峨源氏朝臣族」の唯一つの「皇族賜姓臣下族の氏族」は当初は記されていなかった事に成るのだ。
果たして、「新撰姓氏禄」が紛失していないとしても、「桓武天皇の第7皇子」の「兄の次の淳和天皇(823〜833)」がこれを許すかであり、例え「9年の院政」であったとしても恐らくは無理であろう。
前段の通りに「紛失後の鎌倉期から室町期初期頃」までに書き足された事」は充分に考えられる。
「書き足す事」が出来たとして考えると、それまで誰かが隠し持って保管していた事も考えられる。
そもそも公的に成っている本が、「原本」ではなく研究推論から導き出されたものであろうから深く検証は難しいのだが、“「嵯峨源氏朝臣族の記載」は原本の元から無かった”とする可能性が時系列から導き出せると筆者は観てるのだ。
書き足しているのは「11源氏の内の最初の嵯峨源氏」だけとすると、平安期と成るが、実は書き足されているのはこれだけでは無く、「諸蕃類」に時代性と格式が違うあり得ない"「第二の姓族」"が実に多い事から観て確実に室町期と成るだろう。
合理的な時系列と合理的な青木氏から観た歴史観から先ず間違いは無いだろう。

つまり、そうするとこの検証から、「嵯峨天皇」は、“律宗族の「9つの縛りの掟」を護る義務を必然的に護る”と観ていたが、全く護らなかったのでので、考えられる事としては後から「新撰姓氏禄」から削除したという事になろうか、将又、最初から書いていなかった事に成るが判断は分かれるが、筆者は実は、この“「律宗族の9つの縛りの掟」を定めた”以上は、“これで行ける”と観て、“最初から書いていなかった”事と観ているのだ。
つまり、「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせる様に負わせたのだ。
然し、この「天皇の命」を「賜姓源氏族」は違えた。
何と、それどころか流石に「神明社」で無く「清光寺」では無く、「八幡神社と八幡菩薩の習合」で果たして護ったのだ。
「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせるとかいう以前のこれは完全な「天皇への裏切り」であろう。
然し、何とこの四人にだけは「朝廷・嵯峨天皇」は重役職を与えたのだが、「従三位、参議、右大臣、左大臣と成り、他の者には公卿とも成るのだ。
但し、三世以降は好字の慣例上で貴族や公家としては後世に子孫が伝わらなかった。
つまり、好字慣例だけでは無く流石に見かねた「仁明天皇」は、「嵯峨源氏」が「律宗族の9つの縛りの掟」を護らなかった事から「嵯峨源氏の子孫の存続」さえをも許さなくして仕舞ったし、自らの「仁明源氏」も賜姓しなかったのだ。
「嵯峨源氏」の「子供の仁明天皇」に依って「子孫」が絶えて、その内の「妾子孫の二人」が地方に流れ着いたとして名乗っている「姓名」は「藤原氏の地方裔の姓名」であり「後付け」である事が判るし、これは「満仲の偽策」であった事が判る。
結果は、二代後の「清和天皇」の直前まで「律宗族」を出さなかったのだが、この「清和天皇」は、「賜姓」のあり無しの「12人の源氏」を出した。
然し、この自らの子供では無く、「子供の陽成天皇」が精神異常を来していた為に、その子の「孫の経基王」の「再三の懇願」で、遂に折れて「清和源氏」として「無格式を条件に賜姓」を許したのだ。
これが「嵯峨源氏」より悪かった。

「律宗族の9つの縛りの掟」を護る護らないより「禁手の武器」を持つだけでは無く「周囲」を侵略して「徒党」を組み「武装集団」を形成したのだが、最後には最悪の事態が生まれ「有史来の政権」を朝廷から奪い取ると云う破天荒を遣って退けたのだ。
然し、最早、誰一人、“「仁明天皇」の様に”、「律宗族の9つの縛りの掟」を破らせる行為を止める事は出来なかったのだ。
その意味で、「青木氏の最後の出自血縁」の「仁明天皇」は賢明であった事を後勘としての歴史観で子孫に遺せられる評価が出来る。
「光仁天皇・桓武天皇・平城天皇と桓武天皇の孫の仁明天皇」の「青木氏の血筋を引き出自元と成る5人」は「律宗族」の「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」の礎を築いたのだ。
その意味で「嵯峨天皇」が採ろうとした「律宗族の9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」は評価できるが、「青木氏の賜姓」を外し、「皇親族」からも外し、「令外官」からも外し、「出自元の律宗」を否定し、その「出自元の伊勢信濃青木氏」に圧力を加え、「政争」を超えて「戦い」を伴う「一族争い」を興し、挙句は「殖産と献納金」までを否定した事は、最早、普通ではない。
そして、「源氏」を賜姓しながらも、その「源氏」に「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」を無視され、これを否定した「賜姓源氏策」で重職に着けると云う破天荒を遣って退けたが、つまり、全てを根底から自らが崩す矛盾を興して混乱を招いて仕舞ったのだ。
その「影響」は「実家元で出自元の青木氏の存亡に関わる事」までに及んで最後は「始祖とする天智天皇の思惑」は潰えたのだ。
確かに「嵯峨天皇の策」は錯綜していて矛盾していたが、それを救った子供の「仁明天皇の採った策」は後勘から観て正しかったのだが、結局は朝廷を衰退させ政権をその河内源氏に奪われる「始末の源」と成ったと、「青木氏の歴史観」から美化せずに説いている。
その後の天皇は「青木氏の出自・血縁元」では無く「外孫王の藤原氏系」であるので「青木氏の歴史観」からは検証するのは控える。

然し、「賜姓族青木氏の神明社の概念」と「浄土白旗派仏道の清光寺の融合」の「密教概念」を図ったのだ。
だから、その証拠にどの「11代の天皇」も何れの「11家の源氏族」にも、「融合」と成る為の「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「氏の青木の神木・神道」と「白旗の御印・仏道」と「賜姓物の護り本尊・仏道」の「四つ」を与えなかったのだ。
「9つの縛りの掟」を護らなかった「河内源氏の頼朝」は、摂津源氏の以仁王の乱を起こした“「頼政の跡目を継ぐ」”と云う「大義の名目」で、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「白旗の御印・仏道」の二つだけは兎も角も引き継いだとしたのだ。
ところがここに矛盾が生まれたのだ。
参考として、「11家11流の賜姓源氏」の内のその「何よりの証」が「最も純粋な源氏族である嵯峨源氏」の「残存末裔等・現京都府京都市右京区嵯峨天竜寺地域・実際は資料より北側日本海側の山手に在って密かに農業をして住んでいた事が判っているが、経緯から移動したのではないか」の「家紋」は実は「笹竜胆紋」を家紋としていないのだ。
これはこの「嵯峨源氏」に限らず「残りの末裔」と観られる「9つの源氏」も同然であるのだ。
これは何故かであるが「賜姓と云う朝廷の仕来り」を正式に受けた者には「賜姓五物」と云うものが与えられる。
「賜姓」を受けないで「源氏族を名乗った者」も多いが、この者らは「平安期の混乱期」を生き抜く事は実質は出来なかったので論外とするも、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令が定める仕来り」で「正式賜姓を受けた者の生き残った者」には、この「賜姓五物を与えたとする記録」はそもそも全く無いのだ。
それは、「嵯峨期の詔勅の文面」とそれを「詳細に条件づけた禁令」には、この「賜姓五物を与える事」のみならず、前段でも論じたが「禁令の中」での「青木氏への取扱い」の中に、“「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統」を類してはならない”と記されているのだ。
従って、この事から「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統に係わる事と成り、「賜姓」は、「嵯峨天皇が9つの縛りの条件付きで認めた」とするものの、この「禁令」から「賜姓五物を与える事」は出来なかったのである。
故に、「賜姓五物の一つ・象徴印号」は当然に持つ事は出来無かったのである。
そこで、どうしたかと云えば「賜姓源氏の者」が、この“「象徴印号」を持たない”という事は生きて行く上で出来ないので、「生き残った初期段階の10源氏」は「揚羽蝶紋、下り藤紋、橘紋等」の「皇位族とは女系血縁筋・外孫族・支流卑属」の「宿禰族の高位族紋」を使ったのだ。

それはどういう事かと云えば、「嵯峨期の詔勅」で明記している様に、“「生活の糧」を与えない”としているので、かといってこの「生活の糧」を自ら獲得できないので、先ず考えられる事としてこの殆どは「宿禰族の高位族・公家」に「婿養子」として入り糧を得て、その家の「家紋」を「格式号」としたのかであるか、「鎌倉期」か、将又、「室町期中期の姓勃興期」か、「江戸初期の国印状取得」の「後着け策」が殆どであり,そんなに「伝統」を「400年」もの長く「格式の伝承」を「逃げ惑う戦乱」の中で「正確」に保って生き続けられるものでは無い。
そこに論じている「伊勢と信濃青木氏と秀郷流青木氏」の「違い」が「11源氏」のその差と成って出て来たのだ。
参考として、何度も論じているが筆者の青木氏の歴史観の調査研究では、「殆ど後者」と観ていて、仮に「記録は菩提寺や守護神で祐筆保管しているので「11賜姓源氏」としては無くす事は無いと考えられるが、仮に無くしたとしても、「姓名、家紋、宗派、菩提寺、墓石、過去帳、曼陀羅、密教、発祥地域、家の慣習仕来り掟の伝承、神道の形式、戒名、院号等の五重相伝、定住地・・等」で、それは上記の「嵯峨源氏」の様に、又、「河内源氏・八幡神社八幡菩薩」の様に直ぐに判定が出来るのだ。

故に、「嵯峨源氏の様な家紋が無い事」が起こったのだ。
「賜姓氏名、象徴紋、象徴物、象徴神木(青木と柏)、冠位官位(浄大一位、正一位)などの格式と院号」と、これに伴う「副役物」の「賜姓五役」・「令外官」・「伊勢守護王」・「9つの縛りの掟」、つまり、「嵯峨期の禁令明記」の「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」が加えられた。

現実に、「11賜姓源氏」にこれだけの「賜姓時の特典を与える事」は「天皇家」には最早その「力・財源」は無かったしそれ以後も無かったのだ。
無かったから、「嵯峨期の詔勅」と成り、それに明記する様に“「賜姓源氏をした」”のだから。
然し、元の「賜姓青木氏」には「伝統」で論じている様に「令外官」として「大商い」をし、充分に「糧・殖産等の巨万の富」を蓄えてあった。
賜姓を外されたが「影の令外官」であって外す事は出来ず、且つ、「献納が起こる財源元」を外す事は出来なかったのだ。
その「青木氏の皇親族の力削ぎの限度」は此処まであったのだが、「賜姓」を外された、「令外官」を外された、「皇親族」を外されたの以上は、「天皇家への献納」は最後は当然に停止する以外に無く成ったのだ。
では、「賜姓源氏」がこれを補填する力が在ったのかであり、「武力」は有っても「財力」は無い。
何度も論じているが、ではその彼等の「禁じ手の武力」で「青木氏の商いの財」を奪うか潰すかであるが、ところがその「武力を上回る抑止力」を既に構築していたのだ。
それは「四掟に依る藤原氏の一門とその秀郷流青木氏とその一族一門」が控えていた。
この様にしてこの「賜姓臣下族のリスク」の環境の中で興った「賜姓源氏」の「上記の天皇から賜姓物の授与」が無かった「清和河内源氏」で、「幕府を開いた事」で「格式獲得の格式矛盾」を含んだ「河内源氏の暴走」が興ったのだ。
これが「律宗族論の神道仏道の融合の策」に係わる「笹竜胆の院号論」であり、「青木氏の伝統の矛盾論」である。

この事から「幕府樹立した河内源氏」だけが「笹竜胆紋」としているのは「権威付け」から上記の「摂津源氏頼政の引き継ぎ」を前提とした「樹立大儀である事」である事は明らかで、これは「虚偽の無い朝廷の中での記録」が無い限りはこの事で判る。

「白旗の御印・仏道」は、「密教浄土宗の白旗派の御印」であるのだ
上記した様に、そもそも「密教浄土宗」ではない「八幡神社と八幡菩薩の習合概念」と、「神明社と清光寺の神道仏道の融合概念」とには埋める事の出来ない大矛盾が生まれたのだ。
これで「白旗」は使えない事は、同時に「笹竜胆紋」も使えない事を意味し、この逆の事も云える。
そこで「頼朝」は、立場上、「白旗と笹竜胆の前提」と成る“「9つの縛りの掟」を護らなかったとした「朝廷の反対」”にも拘わらず、これを「頼政の代わり」として「樹立した幕府の権威と大義」の為にも「一つの奇策」を講じたのだ。
それは、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」の「紋の一部を書き換える」と云う「策・類似紋・花柄軸を替える」に出て「朝廷の反対」を“これだと文句は無いだろう”と躱したのだ。
それは、「青木氏が持つ象徴紋の笹竜胆紋」の「竜胆の花と笹」は同じとして「花柄の部分・軸と花の間を換えると云う策」に出たのだ。

「密教浄土宗派の白旗の御印・仏道」に対しては、「浄土密教の皇位族の帰依する宗派」を意味するこの「白旗の扱い」を、“「統一的象徴」として「王党派としての団結」を遂げた事”として言い逃れたのである。
それには「根拠」を見つけて来た。
それは、「日本書紀に記載がある白旗の意味合い」であった。
そもそもこの「白旗の意味」には、「日本の文献」では最も古いのが「降伏の意味」での「素幡・きぬのはた」を「白旗」の通常の書例・イではある。

ところが、別に「日本書紀や風土記等」の「古書」にもある様に、「白旄・中国の慣習」では、「一軍の将軍」が「軍の指揮」を執るのに用いる「白いヤクの尾毛」を「竿の先端に着けた中国の慣習」がある。
この事を利用して、この「旗印」を「王位制」、即ち、「君主制の象徴・ロ」として言い換えたのである。

このイとロの「二つの言い換え」に「朝廷」は流石に怒り狂ったが「日本書紀や風土記等」の「古書」を逆に言い出された事に「朝廷の反論」は詰まり、結局は黙視する以外に無く成ったのだ。
然し、「源平戦での白旗使用」にはこの理屈は通らず、ある程度の「9つの縛りの掟」を護っていた「摂津源氏の四家の頼政の代行」で押し通したのだ。

然し、唯一つ、言い逃れが出来なかった事は、河内源氏の「八幡神社と八幡菩薩の習合の概念」である。
「白旗」は「神明社と密教浄土の融合の概念」である。
全く違う状況の中であるのに直さない通説は「変な話」である。

つまり、上記の事例が後の時期に興ったが、これは、最早、「神道と仏道と云う話」であり、「融合か習合」の話であり、この事から引きつられて「社会}は「格式化の賛成派」と「格式化の反対派」の「二派の権力闘争」にすり替えられていた事を裏付けている。
故に、真実は、「巻き込まれる事」を嫌った両方の編者等は、逸早く命の危険を感じた学者達の編者は、史実の通り「雲隠れした事」と成ったのだ。
「神道と仏道の問題」は、上記したやや後の「源氏行動とその言動」から考えると、「朝廷」としては「伊勢青木氏」と同然の「融合導入の前提にあった事」が云える。

然し、それよりも「本命の問題」は、「導入の基盤造りにあった事」に成る。
上記した様に「導入」には「社会」にそれを受け入れる「基盤の醸成」が必要であって、それには“「独特の二つの格式」”を「統一した格式」に改めて定める必要があった。
然し、これが無い侭に「仏道の浸透」が「皇族内で進んでいた事」に成るのだ。
この侭では、「神道の朝廷」は瓦解するは必定であった状況に陥っていた事に成る。
その証拠に「最近遺跡の発見」で「二つの派閥の領袖・蘇我氏と物部氏の館跡」から、既に裏では帰依していた遺跡が出て来たのである。
つまり最早、「時間の問題」であったろう事に成る。
故に「蘇我氏」に依って「物部氏」が潰され、その後に「天智天皇の乙巳の変」で「蘇我氏」を一掃した事が既に興っていたのだ。
更に、この「仏道の浸透」が進み、「乙巳の変」で力の持った「藤原氏」に何方にしても「天皇家は乗っ取られる事」は必定な状況であった事に成る。
既に「外孫王・藤原氏系」が「淳仁天皇」と成っていた現状では猶予は無かった。
況して、「天皇家・聖武天皇系」には「男子皇位後継者が不在」であり、且つ、其処に朝廷が進んで自らが「仏道の大仏殿建立」であったのだ。
「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に、「藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」が割り込んで入り、「漁夫の利」を得ようとして「三つ巴の攻防戦」が続く破目と成るが「仲麻呂の思惑」は寸前で「自滅」し「危機の難」を逃れたと観える。
「三つ巴」の一つが消え、「二つの危機問題」を解決する模索が続いたと観える。
つまり、その解決手段が「孝謙天皇の白羽の矢」であったと「青木氏の歴史観」から観れば成るだろう。
この「最終の決定過程・吉備真備」に於いて上記した様に「里絆策の感覚・孝謙天皇」は働いたのだ。

実は、この時の「騒ぎの証」として「青木氏の逸話」が遺されている。
其れは、「追尊白壁王」に嫁した「井上内親王」の后は「青木氏の孫裔系・四代目」までに呪いの呪詛をして殺そうとして、「自らの二人の皇子の安寧」を狙ったとした。
当然に「賜姓族」とは云いながらも、最早、「天皇の里」は「殖産化した商いの氏族」と成っていた。
その間では「伊勢青木氏」が面倒を看ていた「伊勢の斎王・井上内親王」であったとは云え、感情的には「天皇家の中で育った井上内親王」であると云う感覚を持つ事は自然である。
感情的に成る以上は、そう云う事に成るであろう事は頷ける。
それだけに「井上内親王」には「殖産家の伊勢青木氏」として映っていたのであろう。
“映る”と云うよりは”知っていた”と云う方が正しいかも知れない。
“自らが取り込まれてしまう”と云う「脅迫概念」に取り込まれてしまっていたのかも知れない。
其れの感情が行き過ぎて“だから子供も護ろうとした”のでは無いか。
青木氏を呪詛する事に到ったのだろう。

注釈乍ら、「青木氏の伝えられている伝説事」と実はこの「井上内親王の奇行」とが違うのだ。

通説の経緯
744年井上内親王27歳に結婚
754年37歳の時に酒人内親王
761年47歳の時に他人親王
764年政争始まる
770年称徳天皇・孝謙天皇は没
770年に他人親王立太子
770年に白壁王が即位、后と成る
772年に光仁天皇を呪詛
772年に酒人内親王は斎王
773年に追尊難波王を呪詛・没
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
775年に二人は没
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
776年まで政務
778年に没・86歳

以上と歴史では通説と成っているが、それに依れば、“「744年までの政変で多くが粛清されて、その「飛び火」が伊勢に及ぶ事を嫌って「四男・54歳・又は六男」の一番若い「白壁」は酒飲んで暗愚を装った”と成っている。
{54歳と云う処に全ての経緯の意味」が籠っている。
当時は平均寿命年齢であるからだ。
然し、781年没(778年没説もある)の84歳の2年前まで政務を執っていたとされる記録が遺る。
とすると、「青木氏に直接及ぶ政争」は「34年間」も続いていた事に成る。
実際には、その後の「仁明天皇期の末期・850年」までの「最低100年~最高106年間」も続いていたのである。
これは「研究」が進んでいる「信濃青木氏」にも「同族血縁していた事」から影響はあったであろうし、「信濃」に於いても更に手に取るような詳しい総合実態がその内に明らかに成る事を期待している。
兎も角も色々な遺されている各地の「資料の読み漁りの行」から、「仁明期から円融期の賜姓・960年・平安期中期」までの「100年間」は、「前期の90年間」とは異なり、凡そは「平和」に成り、“施基皇子」”と云う「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたと観られる。
だから、「円融期の秀郷流青木氏の賜姓」に繋がったとも考えられる。
つまり、「朝廷の院の務め」から「正式に独立した925年の商業化」を「史実」、所謂、「商いの殖産家」で「庶人化していた事」に成るが、但し、「天皇家との間の繋がり」では未だ「献納と云う形」では関係性は維持していたらしい。
況や、逆に「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたから「庶人化した事」に踏み切った事になろう。
然し、そこから「円融期の秀郷流青木氏」が関わる「正式な賜姓」に繋がって行くのであり、遂には更に「100年後の1025年」には「庶人化した事」の証としての「宋貿易等を行う総合商社化」が成されていたのだ。
完全に「過去の院号」に頼らない「庶人化していた事・独立していた事」、つまりは「世間からの印象」は既に完全に近い形で薄れ消えていた事に成る。
此処で「青木氏のその歴史観」から観ると、この幾つかの「歴史観」には「疑問」が残り、これを解決しないと面白おかしくする為に「青木氏の歴史観」は歪められるばかりで、誰も正しく解いてもらえないのだし、歴史とはそう云うものだし、故に「伝統の危うさ」なのであるが「正しい歴史観・伝統」を解析しているのだ。
少なくとも「判る範囲」で、先に「過去の伝統」も踏まえた「状況証拠を集めた推論」でも遺しておく必要があるのだ。

さて、この時期の「青木氏の歴史観」のその「歪められた疑問」について検証して論じる。
論点は次の通りである。
「青木氏だけ」に遺された疑問が次の通りである。

772年に光仁天皇を呪詛
・1 何で呪詛されたのか?
772年に酒人内親王は斎王
・2 何で斎王にされたのか?
773年に追尊難波王を呪詛・没
・3 何で妹が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
・4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
775年に二人は没・自殺
・5 何で名張に移され自殺したのか?
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
・6 何で暗愚を装う必要があるのか?
776年まで健康に政務
・7 何で6の史実に矛盾しているのか?
781年没

1 何で呪詛されたのか?
二人の子を残した后から夫の追尊白壁王を呪詛したのかである。
少なくとも味方と成る筈だ。
744年で結婚、754年と761年に二人の子供、770年で即位・后とすると、16年間と呪詛とするまでの2年間の計18年は正常に生活をしていた事に成る。
それが突然に夫呪詛に到るまでには「ギャプ」があり過ぎる。
「夫呪詛」と成ると、「夫呪詛の殺意」の「相当な理由」が必要であ.る筈であり、その「1年程度の間」に何かが興った事に成る。
その原因が「四家青木氏との間」で存在した、それが「青木氏の一族の人との付き合い・人間関係」に在った事に成ろう。

何故ならば「呪詛」に至るまでに「即位」までしているので、先ずは「井上内親王の実家元の天皇家」、即ち「聖武天皇の第1皇女の格式」である。
その母は「夫人県犬養広刀自・県で身分低い・地方の市長」であるが、一方、「聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子で藤原系」での身分に係わるものはないだろう。
又、「称徳天皇・孝謙天皇崩御」の際に重臣に依って青木氏に嫁す事で協議が行われたと記されている。
この「協議」で幾つかの歴史書では、「天武天皇系の外孫王」を推す吉備真備と、「白壁王」を推す「藤原氏系・南家」で対立し、「藤原氏暗躍」によって「白壁王の立太子」が実現したとする経緯があるも、これは直接に呪詛に繋がらないだろう。
然し、ここで矛盾する事が興っている。
それは、白壁に「白羽の矢」を立てた「孝謙天皇の家庭教師」で要するに「相談人」の「吉備真日」が、「天武天皇系の外孫王」を推すと云う事の「矛盾」が興っているのだ。
千来であれば白壁を推している事に成る筈だ。然し、何と逆で違ったのだ。
と云う事は、「藤原氏に押し切られた形の事」に成るのだが、史実は逆で前段でも論じた様に「天智系に戻す」と云う前提で「白羽の矢」を立てたのだから、“決して押し切られた訳では無い"事に成る。
要するに、「吉備真日の行動」に「裏の意味」があった事に成るだろう。
つまり、“押し切らせて誘導した”と云う事にしたと成る。
史実は、「井上内親王」は斎王の身分ら固執し「白壁に嫁す事」を反対していたのだから。
既に「100年も経った商いの伊勢」も一族の「酒浸り」や「暗愚」を装う事や「逃避り行動」の資料にある様に、又、そもそも「氏是」からも嫌っていたのだ。
だから、“反対して於いて押し切らせて「目的」を達成させる"と云う策の「吉備真日の不思議な行動」と云う事に成ったのだ。
前段でも論じた様に、“これの方が「理と利と系と金の思惑策」が実現する事"に成るからだ。

「押し切らせて実現した」とすると、「天皇家」と「四家青木氏」との間の事と成る。
つまり、「格式の有無」と成ろう。
「天皇家の井上内親王」とは云え、父も「藤原氏系」で母も「藤原氏系一門」と成ると「藤原外孫王」でありながら「県の犬養広刀自・身分低い」と云う事に成る。
「青木氏」は賜姓臣下したとは云え「血筋」と云う点では「施基皇子の四男・六男の説」とすると、「相当な格式身分の差」があった事に成る。
“天皇家から嫁す”とは云え「白壁の母」は妃であり、それも「紀諸人の女橡姫(とちひめ)」で、「天皇家の血筋源の五大血筋の紀族」であり、何れに執っても「格式」は数段上位に位置し、従って、格式社会の中では「二足の草鞋の商人」と云えど卑下していた事に成る。
つまり、「皇位朝臣族・青木氏」と「神別朝臣族・犬養氏」の差に成るし、この「格式差」で卑下していた事が考えられるし、況してや未だこの時期では「財政不足の天皇家」は、100年経っても「永代賜姓五役の名目」で「青木氏」からも「献納・史実」を受けていたのだ。
だから、この「嫌々の即位」までは「青木氏に嫁いだ形」に成っているので、「自らの産んだ酒人王も他人王」ともに「子の格式差」もあって、「白壁」を除いた「他の青木氏の8人の息子」と「7人の娘・実際は30人程度の記録に載らない子供がいた」ので、それを卑下していて「青木氏の中に溶け込む事」が全く出来なかったと考えられる。
青木氏がその見下す態度に出ていたかは上記した様に嫌っていたとしているので無かったと出来る。
「井上内親王の卑下」にあったとしていて、それが歪んで「呪詛]と成ったとしているのだ。

其れが、所謂、対応したのが「四家」であり、「伊勢50衆の氏族」であり、「妻嫁制度」であり、「嫁家制度」であった為に尚、その「青木氏の制度」の中に溶け込む事はバリヤーの様に成って更に相当に無理で出来なかったと考えられる。
況して、その夫が「妃子の四男・六男」であった為に周りに頭が上がらず尚の事であったと観る事が出来る。
それの不満を「夫」に向けたが、夫は振り向かなかったと成るだろうし、次の「2の疑問」の「夫の4人の姉妹達・施基皇子の娘」、つまり、「姉の追尊の海上女王・従三位」、「姉の追尊の難波内親王・二品」、「追尊の衣縫内親王・従四位」、「姉の追尊の坂合部内親王・従四位下」、「姉の追尊の能登内親王・四品」の「全体を仕切る最高格式の二品を持つ難波」にも先ずその矛先を、そしてその「姉妹等」にも更に向けたと、「青木氏の資料」等に遺る様に成ったのではないか。

注・上記の「四男の白壁」が突然に別系で「光仁天皇と成る事」で「青木氏の兄弟姉妹」は、その「格式を合わす為に追尊された者」と、その「父の施基皇子」が「追尊春日宮天皇」と成る事で「子の追尊と成る者とならない者」に分かれ、其れはその「母の血筋差」で分かれたとしている。
その結果として、「伊勢青木氏」に居ながらも「難波」が子の誰よりも「最高位の天皇に継ぐ二品の格式・施基皇子以外には歴史的に二品は無い」を与えられたのだ。
つまり、その「血筋差で父と同格と成った事」に成るのだ。
故に、これが「3の答え」にも成るが、その矛先は、「男女の姉妹に係わらず「青木氏全体」を仕切る追尊の難波内親王・二品」に向けられたのだ。

「天武系」で「藤原氏系の外孫王の子」でその「天皇家」に居たとした「井上内親王・即位後二品」と、この賜姓臣下したとは云え「天智天皇の孫娘の直系難波内親王・二品」とには取り換える事の出来ない「上位の血筋の格式差」が潜在していたのだ。
「賜姓臣下朝臣族の二足の草鞋」を敷き、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度」や「伊勢郷士衆の氏族」の環境の中での「青木氏の生活」では、即位されるまでは女系である以上はその「女系で仕切られている家の差配の頭の難波」から煩く「嫁としての振る舞い」や「氏上や御師の生活」に馴染む様に当然の事として注意されていたのではないか。
其処に「絶えられない矛盾」と「大きなギャップ・自尊心」が生まれ精神状態が鬱に成っていたのであろう。
やっと「26年間」を経た「770年の即位」に依って、それは解消されたかに見えたが、然し、その現実は変わらず即位するも「青木氏には差配力の及ばない四男の白壁」にも「2年後」にその「不満」が向けられたと成るのではないか。

772年に酒人内親王は斎王
2 何で斎王にされたのか?

天皇に成った以上は、娘の酒人は内親王と成り、母親の経緯の通りに斎王に成るだろう。
唯、結果として全ての皇女が斎王に成ると云う事は無く、{白壁」が天皇と成った以上は、「伊勢青木氏」の「白壁の姉妹に当たる二世族の者」、又は、その「三世族の者」も対象に成るし、「信濃青木氏」も「斎王に成り得る事」に成るが、然し、母親の様に「酒人内親王」に向けられたのだ。
そして、「三品」に叙せられたのだ。

要するに「呪詛の事件」の中で、突然の経緯として19歳に達していた事から斎王に指定され、身を清める為に「春日斎宮」に籠もるが2年後に伊勢に戻り、更に1年後に母親が「名張の幽閉先」で「他人皇太子」と共に自殺した。
この為に、再び「伊勢」に戻る。
帰省後に「自殺した他人皇太子」に代わって、「妃の高野新笠の子の山部親王」が「皇太子の座」に着いた。
そして、この事で「酒人内親王」は「斎王」を退位したが、この後に、「異母兄の山部王・桓武天皇の妃・」と成り、7年後の779年に「朝原内親王」を産み、「山部王」は781年即位する。
そして「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”に成る経緯を持つが、この「経緯・イ」が重要である。

そこでこの「経緯・ロ」を「通説」としているが他には、次の説がある。
「伊勢側」が、“「聖武天皇系と血筋」を融合させ様とした”として「光仁天皇や桓武天皇」が合作した、とされる「経緯・ロ」の説と成っている。

参考に。史実とは出来ないが、鎌倉期の「水鏡」に次の事が書かれている。
故に「光仁天皇」が「娘の斎王」と成っていた「酒人内親王の立太子」を検討していたとする「経緯・ハ」の「後付け説の記述」の「記録」があり、史実の云々は別として確定しない「推測の記述」がある。
これが、仮に「経緯のハ」が事実であるとすれば、「桓武天皇」やその周辺にとっては警戒すべき存在でもあった事には成るが、「酒人内親王の上記の経緯・イとロとハ」の通りにこの記述は史実に反する。
この「朝原内親王」も後に「斎王」に成り、「井上内親王・酒人内親王・朝原内親王」と、“親子3代で「斎王」を勤めた”とする「史実」もある事から、「経緯の通説」は違うだろう。
「斎王と云う伝統の習慣」は「伊勢」ではそれ程に次の意味を持っていたのだ。

先ず、「斎王の伝統」の「経緯・イ」である。
次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」である。
更に、「立太子の検討」の「経緯・ハ」である。

「斎王の伝統」の「経緯・イ」であるが、前段でも論じている様に「天智期からの仕来り」で引き継いでいた。
そして、「伊勢や信濃の青木氏」では、多気郡に「斎王館」を建て、これを「多気の館」と名付けて多気郡で多くの女官等を侍らせて面倒を看ていたのだ。
当然に、「斎王に成る皇女」は、一定期間、「清めの館」で身を清め、その後に「斎王」に着くが、これには「斎王に成る事」での政治的な制裁は無い。
何時かは事情により戻る事があり、又、仮に政治的な思惑で「斎王」にされたとしても、その侭に「斎王館」に遺る事もあり得たので、「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”の「記述」には制裁的な意味が無い。
寧ろ、将来は、本人が好むか好まないかは別として「皇族の中での生活」を保証される。
然し、「好まない時」は「伊勢青木氏の斎王館」か「伊勢青木氏の中」に溶け込んで「女(むすめ)」として「四掟と妻嫁制度と嫁家制度」で普通に「女(むすめ)」として生きられるが、現実は、「青木氏出自の桓武天皇」の「子の平城天皇」に嫁したのである。
つまり「経緯・イ」は、この「既成の経緯」を辿るパターであり、「伊勢青木氏」に殊更に覆い被さって来る「災い」は無い経緯である。
例え、皇女から斎王に追いやられたとしても「皇女」に多くを望まなければ「正常」で居続ける事は、寧ろ、無理であり、「斎王」に成る方が安全なのであった。
従って、斎王であった「井上内親王・親」にしろ、斎王の「酒人内親王・子」にしろ、斎王の「朝原内親王・孫」にしろ「第一皇女の斎王」であった方が、「政治に巻き込まれる事」は少なかったのである。
夫々が同時に、「光仁天皇・親」、「桓武天皇・子」、「平城天皇・孫」の一族や同族を超えた「青木氏出自の完全な家族婚」である。
この現象の傍に「伊勢青木氏」は居たのだ。
この例に観る様に、歴史的に「斎王や斎宮等」の多くは何らかの形で「青木氏に入り込んだ」でいたのである。
故に、「伊勢と信濃青木氏」では「皇女等・300人程度」だけの「逃げ込み口」であったのだ。
この前段でも論じている様に「流れに入る入口」であったのだ。
この様に、「青木氏の歴史観」から観た場合、「通説や水鏡説の様な逸話説」はそもそも伝統的に無かったのだ。

次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」であるが、これは逆である。
先ず、「白壁が光仁天皇に成った経緯」では、上記や前段でも論じた様に、全てを物語るのは“「白羽の矢の結果」”である。
そもそも、「天皇家」と云えど、「血筋と家筋と冠位官位品格と財力」等の一切を比べても「伊勢青木氏の全格式」の上では、上記や前段でも論じた様にこの時点では未だ遥かに「上の格式・皇親族」である。
それでも「賜姓臣下朝臣族」と「二足の草鞋策と殖産家」であって「天皇家と関わる事」を「氏是」として禁じ、「伊勢の氏族」と成って「四掟、妻嫁制度、嫁家制度等」の独特の関わらないシステムを採用し、況してや「女系化」していたのだ。
其れを既に繋がっていた「天皇家と繋がる等の説」はその必要性が無く「氏是」で禁じて、当に「研究の怠り」に外ならない。
そもそも「青木氏」に限らず「伊勢の歴史」を知ればこの説は100%出ないし、「日本書紀等の数種の歴史書」を読んでいればこの説は出ない。
面倒であるのでこれ以上はこの説の検証は終わる。

「酒人内親王の立太子の検討」の「経緯・ハ」であるが、770年には「他人親王」が既に「立太子」に成り、772年に「酒人内親王」は「斎王」と成り、773年に「他人親王」は廃位に成っている。
この4年の間、「酒人内親王」は時系列からあり得ないし、仮にそうだとしたら再び「女系の天皇」と成って仕舞う事に成る。
「白羽の矢」が「天皇家女系であった事」で「90年後」には「完全な氏族」を持ち「商い」をし「御師様」の庶人化した「天智系の裔系の者」が「女系を求める事」の事態がそもそもあり得ないし、これは「青木氏の出自元に災いを招く事」は必定で、例え、「白壁の天皇」であろうともそれを許す事はそもそも無かったであろう。
「青木氏の氏是にも悖る事」である事は、「白壁」も痛い程に知っていたであろう。
そもそも「施基皇子・716年没」が没して未だ「54年後の殖産の商いが軌道に載った時期の事」でもある。
全くあり得ない事であるし、この段階では他に皇子が「7人」も居たし、17歳も年上の「737年生まれの山部皇子・高野新笠の子」も居た。
だから敢えて17歳も若い「754年生まれの酒人内親王の女性を立太子にする事」は后の先ず子であったとしても当時の仕来りからは先ず無かった。
現実に、大病を経ても「山部皇子」が「桓武天皇」に成るのだ。

「鎌倉期の水鏡」としては「鎌倉初期の歴史略記」とすれど書き記す程には「史実性」がおかしい。
唯、それにはこの青木氏の事件に関して一つ気に成る事があり追記する。
其れは「伊勢青木氏の出自元・血縁筋」の最後の“「仁明天皇・出自元派」”である。
この事件に近い事が「歴史略記」に留めている事であり、且つ、その内容に関して「伊勢青木氏の歴史観」に“「類似する様な事」”を上記の様に記している事である。
この「編者」が確定し定まらないので、これ以上の追及は困難ではあるが、編期が「1195年頃」としているので「400年程度経過した歴史・逸話の段階」である。
つまり、「鎌倉幕府の樹立」には「9つの縛りを護らなかった頼朝」と「それを認めないとする朝廷」との「悶着」があって、成立後に「略史の水鏡が幕府におもねて書き記した可能性がある。
これは「光仁期以降の天皇家の歴史」は兎も角も、それに伴って秘密裏にする「伊勢青木氏四家の内部のゴタゴタ」が連ねて表に出るという事はあり得るのかである。
仮にあるとすれば、「神明社」か「清光寺」か「女系嫁家先の藤原秀郷流青木氏」か「伊勢郷士衆」か「信濃青木氏」からであろうが、この「編者その者」が編集した訳では無く、「独自の主観」を加えながら「皇円略記・戒話」を更に参考にして「手を加えた書」であると観ていて、それを「平安京付近での編」で書き記しているのだ。
仮に「漏れる」とすれば、「伊勢青木氏」から「嫁に行った近江秀郷流藤原高郷」を里としている「伊勢秀郷流青木氏以外・梵純系」には可能性は低いが、然し、現実には「光仁期から仁明期」まで続いた「青木氏のゴタゴタ話の類似話」が載せられているのだ。
「青木氏」では知られていないとしていても、「天皇家のゴダゴタ」に連れられて「比叡山の表」に「青木氏のゴタゴタ」も「戒め例話・浄土宗の編者・伊勢からの関係者・白旗派の者」として出ていた事も充分にあり得る。
だとすると、実態はそれ程に「隠せない程の騒ぎであった事」に成っていたと筆者は観ている。
何故ならば、「伊勢と信濃青木氏」は「賜姓五役と令外官」を熟し、「9つの縛りの掟」を「氏族の伝統」にし、「五重相伝で神道仏道の融合」を図り、それで「伊勢郷士衆」で「氏族」を形成していた「律宗族」であった。
それがこの様に「恥の失態」を「称徳天皇から嵯峨天皇」までの約100年間の恥事を外に曝け出し続けたのだ。
故に、この編者の「天台宗の皇円」は元は「浄土宗法然の師」でもあるとすれば、「律宗族の戒めの例」として捉えられ事は充分にあったと考えられる。

「伊勢青木氏に伝わる口伝」では、その「自殺した井上の呪い」の様は、「逃げ惑う青木の玄孫域の女達」は、「福家や四家や神明社や清光寺」等に隠れ、又、「尾鷲の旧領地の各地」に散り隠れ、子供が生まれても隠したとされる位であった様だ。
中には、松阪の「追尊難波王等の二世族の娘」は逃げ惑い、又、桑名の「追尊浄橋王や追尊飽浪王」は「美濃の三野王」に嫁したとする程の話もあって、「青木氏の福家」はその為に「一族の氏族」がこの「政争事」に巻き込まれない様にする為に、「女系の伊勢郷士衆」を含む「女(むすめ)」等を「福家の一か所」に集め護り教育を施したとする「実話」が遺っていて、それが後に「四掟の強化や妻嫁制度と嫁家制度」へと発展して行ったとする「青木氏の重要説」もある位であり、恐らくは「学問的な証」は無いが、「感情の根底」にはあったと観ているのだ。
つまりの処は、「施基皇子から200年弱」の「後の事」として、「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に遭遇し、その上に「南家の藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」の「経緯の政争」が絡んで、「青木氏族」は右往左往した事を後世に遺し伝える為のものであったとされるのだ。

そして注釈として、この「伝統のシリーズの筆者の論」も「後世のロマン」として正しく繋して書き記しているのだが、其れと同じくそれを「家人の青木氏祐筆」が書き遺した事が何時か永く語り継がれ、「光仁天皇期の伝統の逸話と口伝」に成ったと観ているのである。
それだけに、既に、「臣下」して「商い」で「糧」を得て生きていた「庶人化・民化・殖産化していた族」に降り注いだ思いがけない「大きな出来事」であった事を物語る。
この「青木氏の中での騒動」は「90年から100年近い後」の「新撰姓氏禄」の”嵯峨期まで続いた”という事では無いか。
普通では耐えられないであろうが、然し、耐え偲んだのだ。
「政争」とは如何に恐ろしいものであったかは判るから、故に既に「賜姓族」でありながらも「庶人化・商民化・殖産化」していた「伊勢青木氏」は逃げ惑ったのだ。

この「青木氏の逸話と口伝」によく似た事が「上記の水鏡」に記載されていて、恐らくはこの事を間接的に指しているとも考えられる。

参考に、それを経緯を要約すると、次の様に成る。
770年の夏、「異母妹の称徳天皇・孝謙天皇」が崩御、その後を受けて、「追尊白壁王」は、8年後に「藤原氏の推挙」によって、「光仁天皇」に即位、この時、この「井上内親王」は「皇后」に成る。
他人王は若年で「皇太子」に、「光仁天皇」は、身の危険を感じて酒乱と成り、馬鹿を装う。
ところが、「光仁天皇即位」を拒んだ上記の立場にいた「吉備真備」は、結局は政界を退く事に成った。
そこで「2年後」に、この「后の井上内親王」は、密かに「巫女・神明社」に、天皇の呪詛をさせたとして、「皇后の位」を剥奪される。
皇太子と成っていた「他戸皇子」も「廃太子」と成る。

これは鎌倉時代期の「歴史書の水鏡」に書かれたものであるが、此処に真実は別として “「后は呪詛し、呪物を井戸に入れさせた イ“と、観ていたかの様にある。
“「光仁天皇の早死」を願い、「我子の東宮」を位につけようと願った ロ”と書かれている。
“「井上内親王」が「光仁天皇の姉の難波内親王・追尊」を「呪詛罪」により、「現奈良県五條市・名張の西」の「館・清蓮寺城付近か」に幽閉された。 ハ”とある。
“奈良に追いやられた時に「難波内親王」は懐妊しており、「五條市・名張付近か」で「男児」を出産した ニ”としている。
“「男児」が「母の怨み」を晴らす為、この「子」が「雷神」と成った ホ”とする。
この辺は神話的である。
以上が「水鏡」の関係する「五節の逸話説」である。
恐らくは、これは「神話的」に書いているが、「青木氏の福家等に伝わる上記の混乱話」が何処からか漏れて、それを神話的に表現して「言い換えたもの」として表したものであろう。

唯、ところが、「伝わる事」と「異なる処」は次の6つの通りである。
1 二人に呪詛したのは逆の井上親王である事。
2 他人親王を東宮にしていたのは白壁も同じである事。
3 呪詛したのは井上内親王である事
4 呪詛して奈良に追い遣られたのは井上内親王である事。
5 「追尊難波内親王・770年」は773年に二品に叙されている事。
6 結婚していない。ニとホは史実と違う。一族が密かに敵を討った事を意味するか 

この様に「水鏡」は史実と逆で違い過ぎるし、従って「皇円の律宗族の戒めの例」であろうとしている。

773年に追尊難波王を呪詛・没
3 何で姉が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?

この件は「上記・下記」した通りであり、その矛先は、「男女姉妹に係わらず「青木氏全体の政所」を仕切る「追尊と成った難波内親王・二品」に向けられたのは確かだ。
兎も角も、何度も論じているが「伊勢郷士衆」を含む「女系の氏族」なのであり、家の中は全て女系で流れて必然的にも「女性」が、「商い」は別として「政所は仕切る家柄」と成っていたのだ。
だとすれば、「追尊難波王が仕切る形」と成っていたし、「男勝りの頭の切れる特段に優秀な女性」であったとする「言い伝え」もある位であるし、確かに先祖を辿るとその血筋が地に流れている様だ。
「天皇家の祖の5大血筋源」の一つの紀族の「紀橡姫の同母姉」であり、「773年没」であり「白壁」とは4歳年〜5歳上であったとされるので、「即位の770年時」は「62〜65歳の独身」であった事に成る。
白壁の4同母姉で「海上女王>坂合部内親王>衣縫内親王・722年没>」であり、年齢も近く高齢で没している。
「追尊海上女王」が最も高齢で「追尊難波内親王」が下であった様だ。
若くして「元気で利発な難波親王」が仕切っていたとされる事は確実である。
「難波の忌名」は「伊勢青木氏の女墓」に「祖の母」として刻まれているが、当時は前段でも論じたが「神道であった事」に成るので、「皇位族の者」には生前中でも刻むと云う習慣があったので、これから観ると「65歳以上であった事・75歳以上の口伝資料もある」に成るだろう。
この事から、果たして「呪殺とする事」が出来るかであり、先ず「呪殺」そのものが科学的に有り得ないし、前段でも論じた様に、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度での関係」を上手く維持する上で難しく極めて忙しく「青木氏の政所」を一族を代表して仕切っていた筈である。
依って、そんな「呪殺等の悪事」を「伊勢郷士衆を含む氏族の周囲」が放って置かないであろうし、現実に、「難波」が死亡した年齢の前後に、何れの姉妹も年齢も近い事や長寿であった事もあり「同母の姉妹」は没しているのだ。
そもそも、これを不吉とした可能性があるのだ。
「二足の草鞋」で「商い殖産を手広く営む青木氏」が、「不吉とする概念」を持ち込む等としていてはそもそも成り立たない。
当時は、全体が「50〜54歳」が「寿命」であったとされていて、少なくとも相当に長寿であった事に成るが、現在でも長寿系にあって、依って、「姉妹」は充分な歳を得て没した事に成る。
仮に、呪詛であったとしてもそんな事を「伊勢青木氏」は四男の白壁に任して置く事は絶対に無い。
この説だと「伊勢青木氏」は無能という事に成り得るではないか。
そうだとしたらここまで生き延びてはいないだろうし「二足の草鞋」は成り立たない。。
現在まで絶える事なく続いている「氏族の氏上の御師族」であるのだ。
其処までの歴史観で以て公的な通説とするには疑問を抱いて欲しいもので、安易さに怒りを感じる。

773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
4 何で廃位して、更には庶人になったのか?

だとすると、通説としている説では「追尊難波内親王を呪殺した事」で罰を受けた事に成っているが、誰が罰を下したかに問題はある。
先ず「廃位させている事」なのだ。
少なくとも皇位に着いた以上は「朝廷の中」で行われるものだ。
然し、天皇の白壁に30年近い付き添った「光仁天皇」の自らの后と皇太子である。
簡単に「ウン」とは云わないであろう。
其れは「自らを否定された事」に成り得る。
それも「追尊難波内親王」と「自らへの天皇呪詛」とされる。
どの様にしてそれを「呪詛=呪殺=殺人」と確定させるかである。
何時の世もこれは確定は無理で、だとしたらそれを押し通すだけの誰か「天皇よりも大きな力」が働いた事に成る。
「天皇の声」は「絶対」であるが、この場合は「我子」までに結果として害を及ぶ事は誰でも判る。
依ってこの「絶対の声」は絶対に出さないであろう。
「白壁の光仁天皇」より「自らを否定された事」に成るとしても、それ以上に現実に「大きい声」はあった筈だ。
それは「普通の経緯で天皇に成った訳」では無いのだから「伊勢青木氏の福家」である事は間違いはない。
そもそもそうでは無い「青木氏独特の絶対権」を持った「神仏道の力までを持つ福家」である。
この「福家制度の大権」が在る以上は、「氏族」を護るにも「白壁」を安定にさせるにも降りかかった「災い」は間違いなく取り除くだろう。
それが、例え「藤原外孫王系の称徳天皇の関係者」であったとしても排除して「白壁」を護ろうとするだろう。
つまり、まあ、今と成っては「藤原外孫王系の勢力」を低く見ていた事を物語る。
場合に依っては「戦いが起こる事」さえもあり得えた。
然し、史実は「南家藤原系」とは戦っていないのだ。
その直前で、“その「藤原仲麻呂」が直前で滅亡した事”が在った事が実行できた原因と考えられる。
この事に就いては「不義理の事」である故に「記録らしきもの」は当然に遺さないであろうが、以上の状況証拠は充分に考えられ、「呪殺的な事」は無かったのであり、要するに「廃位」に追い込んだ上で庶人にして無ければ、「天下の大罪」が「氏族」に降り注ぎ取り除く事の出来ない「汚名」を「後世に遺す事」に成る。
その上で「災い」を取り除いたと観ている。
それが結果として「孫の命を奪う事」に成るとしても「災い排除」を選択したのではないか。
出自元の「朝廷の天皇」が、「上の者」を「廃位」し「庶人化」させる事は出来ないしその権限はない。
「福家」は苦しい選択であったろうが、その意を白壁に裏で伝えたと考えられる。

775年に二人は没・自殺
5 何で名張に移され自殺したのか?

上記の通り「廃位」にし「庶人化」させる事は、生きて行く糧を失い、必然的に自殺する以外には無く成る。
この事は伊勢は承知であったろう。
問題はその「場所」であろう。
それが「「名張であったという事」では無いか。
廃位して庶人にし直ぐに死んだとした場合は殺したとする批判は躱す必要が出る。
これを避ける為にも一族の管轄下の「名張」で匿う形であれば結果としての目的は同じでも「大義の対面」は保たれる。
故に、「3年後」であったのであろう。
従って「牢獄」に入れられていたとする説は当たらない。
そんな事をすれば「伊勢衆」からも世間からも間違いなく不必要な批判を招く事は必定で、そんな手を使う馬鹿はいないであろう。
恐らくは、「名張の清蓮寺か清蓮寺城」であった筈である。
「青木氏の清蓮寺城と清蓮寺の事」を知らない者はこれを「牢獄」としたと観ている。
誰が遣っても「后」「皇太子」であった以上は絶対にそんな馬鹿な措置はしない。
少なくとも「一族内の処置」として「尼僧と成った3年間後」と「名張」で看て一生の寿命までを世話する計画で扱ったのでは無いか。
然し、彼等は「内親王」とし「后」としての「自負心」を捨てずに「将来」を悲観して耐えられなかった事に成る。
然し、結果としてはその様な環境を生きてきた人物がこの「絶望の環境」を耐えられるとは一族の者は当初から考えていなかったであろう。
意味する処はそこにあった事は判る。

776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
6 何でこの時に暗愚を装う必要があるのか?

「酒飲んで暗愚を装うと云う事」は、当初の「白羽の矢」の時にもあったし、「伊勢青木氏」の中では「口伝」や「逸話」で、「白壁」だけでは無く、四世族までの一族男子の全域子孫域まで何らかの形で装うか逃げたかとされているのだ。
「二世族」では「白壁・54歳(正式4男の説と嗣子6男の説)」が、「井上内親王・717年から775年」が「伊勢神宮の斎王」が解け「帰京・744年」したその「27歳の井上内親王」と結婚したとある。
これに対して、中でも二世族では最も「白壁」が一番若かった事もあるが、「玄孫域」でも年齢適任者は大勢いたが殆どは隠れたとしているのである。
女子は一族の一員に加わった「井上内親王の奇行や怨念」を恐れていたらしい。
兎も角も「妻嫁制度」で護られていたらしいが、中には「神明社巫女」や「斎王館の十二官女」や「菩提寺の尼僧」に成って凌いだと青木氏の中では伝わっている。
この様にその「隠れ方」等が「逸話」で伝えられていて奇抜で興味を持つが、何か「精神的なストレスから奇行」に走っていた事が予想できる。
だから、“触らぬ神に祟りなし”で男女ともに感じ、取り分け「男子」はその術が無かった為に「酒飲んで暗愚を装うと云う事等」に成っていたのではないか。
「政変と云う事」には、仮に暗愚を装っても立場がある以上は巻き込まれる事には変わりはない筈で、この説はそもそも「疑問」であり、上記の様に「口伝や逸話で伝わる話」が真実ではないかと考えられる。
「井上内親王の一族内での精神的なストレスからの病的な奇行」が原因していたのではないか。
つまり、「聖武天皇の第一王女の立場」と「伊勢青木氏の伝統」の「格式の差」に納得が行かなかったのでは無いか。
仮に「天皇家の内親王」と云えども、「施基皇子の二世族・天智天皇の三世族で冠位官位官職・永代浄大一位・賜姓五役・皇親族・律宗族・令外官・家筋等」、挙句は「財力」等一切」のどれを執っても劣るものは無く、寧ろ格段に優れていると云う差があった。
「出自元の母」は「夫人県の犬養広刀自」であるとして、「内親王である」としても「県の姓」は地方の低官僚で極めて低位であるが、一方、「白壁等の兄弟姉妹」の多くは「太政大臣紀諸人の娘の紀橡姫・とちひめ」で「施基皇子の妃」である。
参考に上記したがこの「紀氏」は「飛鳥政権構成五王族の一つ」である。
精々あるとするなら、「賜姓臣下朝臣族・敏達天皇第四世族であると云う事」であろう。
「井上内親王」はこの「解決し得ない格式差」に一族の中で「36年間」、共に生活して悶えたのであろう。
「内親王とする自負心」がそれを解決する事が出来なかったのであり、同じ「母・紀橡姫」とする「青木を仕切るやり手の難波」に勝手に奇行を向けたという事であろう。
それを一族から厳しく排斥に近い形で叱責されていた事に成ろう。

776年まで健康に政務
7 何で6の史実に矛盾しているのか?

記録では、史実の記録では没する直前まで健康に光仁天皇は机に向かって政務していたとするのに、6で何で暗愚を装う必要があるのか?は、矛盾の極まりの疑問であり、天皇は矢張り高齢で781年(778年没説もある)に没している。
そもそも、暗愚を装えば政務は正常に執る事等は出来ない。
確かに、上記した様に「青木氏の資料」では、「744年の結婚前後」には確かに「酒に依る暗愚を装っていた事」は幾つかの文章の行で遺されている。
781年に没する突然の3年前にも又遣った云う事か。そんな事はない。
744年結婚、この時、最低説「54歳・青木説」であるとし、776年の32年間+54歳とすると86歳と成るのだ。
故に「酒の暗愚」そのものが不可能であるし、「井上内親王の件」も既に「775年没」で解決しているのだ。
又、86歳で酒を飲まなければならない程度の人格かと成るし、この程度の人格と云う疑問がありそんなことは無いだろう。
「過去の人生を憂いての事」か、だとしても高齢で没するまで「政務・山部王781年譲位」を譲位せずに熟している以上はこれは「疑問」であるし、“今更この歳で”と云う感じがする。
この「通説からの検証」では、「結婚前後の青木氏の騒ぎ」を捉えて面白おかしくしたとしても、そもそもその「時系列」が間違っているのだ。
せめて「青木氏の歴史観」もあると予想できるのだから、「時系列」でも矛盾の出無い様に合わして貰いたいものだ。

筆者のこの「経緯の結論」は、「伊賀の平族の裔孫」の「妃の高野新笠」の子の「山部王との皇位争い」に巻き込まれていたと観ていて、それを770年以降に「青木氏が推す姿勢を採った事」から発生した事では無いかと観ているのだ。
然し、「青木氏」に伝わるこの「高野新笠のルーツ」と通説とされる説とでは少し違うのだ。
それを参考に追記して置く。
「天智期」に渡来し「伊賀の里」に住し「半国割譲」で住んだ「たいら姓」を賜った「阿多倍王」の「裔孫女」で、その「伊賀青木氏との関係」からその「女・新笠」を「白壁の妾」として迎えたとし、「二人の妾子」を宿すとあり、重要な記述は,"光仁期に「妾新笠」は「高野朝臣」を賜る"とする行がある。
「阿多倍王」は前段でも論じた通りであり、歴史の経緯鳩史実は「天智期の史実」と一致するので、依って「伊賀の女(むすめ)」は「白壁の妾新笠」に相当するのだ。
「宮人」は「妾」に一致していて、且つ、「伊賀女」に相当し、この「伊賀の女(むすめ)」は「半国割譲の伊賀住人の阿多倍王の裔」に相当し、「伊賀女」は「新笠」に相当し、この「妾」に相当して、後の「光仁天皇の宮人」に相当する事に成り、「同一人物」である事に成る。
正式に「白壁の妾」は依って“「光仁天皇の790年に宮人」に成る”は一致している。

そこで「通説との問題」は、「始祖」は「百済系渡来人の和氏」であるとしているがここが大きく違う。
「和乙氏・和気氏」、母系は「宿禰の土師氏」としている。
然し、この「和気氏」は「百済武寧王の子孫」とされるが、歴史的に「伊勢の施基皇子の伊賀領を半国割譲し与えた」とする「阿多倍王以外」には他に記録は無い。
つまり、“「和気氏」の「百済武寧王の子孫」”は明らかに間違いである事が判る。
又、「阿多倍王の別名の「伊賀の高見王 高尊王・平望王」の別名を持ち、「桓武天皇」の「祖父の里」として「伊賀を訪れたとする史実」は「和気氏」には無い。
依ってこの「和気氏」は、「結城氏や額田部氏」と共に「朝廷の三大技術集団」であり、この「土木技術系の和気氏」は、史実は「百済系である事」と、この「一族」は「出雲朝廷」とも関係していた史実とで、「伊賀との繋がり」は別にして、その内容には異論が無いし、従って「伊賀」には歴史的に関係していないので、よくある「和気氏の姓」に繋げる「系譜繋の後付け策」であろう。
この「渡来人の和気氏の通説」は、何れにしても「日本書紀」にも明記されている様に「和気氏には伊賀記録」は全く無く、何かの目的から「渡来系の技能集団」で恣意的間違い敢えて起こして欺いているのである。
この様な事が、兎角、「通説」と云うものには付きまとうのだ。
「室町期中期か江戸初期の後付けか明治維新」で実に多いので此処を以上で先ず質して置く。
こう云う事は歴史で実に多いので良く歴史観を検証してからの説の使用とする必要がある。

注釈として同様な例として、此処では「たいら氏・桓武天皇の賜姓族」と「ひら氏・天智天皇期の大化の改新」で「坂東に配置された第7世族裔系」との混同である。
この「坂東のひら族・坂東八平氏と呼ばれる」に対して、賜姓で「たいら族・桓武平氏と呼ばれる」とし、「天智天皇・ひら族」と「桓武天皇・たいら族」は、その「違い」を賜姓時に明確にする為に命名したとする「記述・記録」があるのだ。

「阿多倍王」も「32/66国無戦制覇」した「後漢の技能集団・618年200万人渡来」であり、「日本書紀等の史書」にも「伊勢の伊賀」と「薩摩の隼人と阿多」を「半国割譲」され、「敏達天皇の孫芽淳王の娘」を娶り、「准大臣」に任じられ、「3つの賜姓・坂上氏と大蔵氏と内蔵氏」を受けている史実があるのである。
この「伊賀」に住した「本家の裔系」が、「桓武天皇」から「たいら姓の賜姓」を授かり、その「長寿阿多倍王の裔系」が「長男の国香・935没―子の貞盛・989年没」であり、後の「平清盛・1118〜1191・たいらのきよもり」と繋がるのである。
この「清盛・高尊王より7代目か」は、「1153年」に「伊賀」より「播磨国」を領し、一族は移住したが、この「1153年の段階」で残るは「伊賀青木氏」と「元伊賀族」と「元渡来系族」の「3族」と成っていた。
この3族」を以て通称伊賀者と呼ばれる族である。
従って、「光仁期の段階」では、「妾の新笠」は「618年渡来後の阿多倍王の孫」に当たるが、その人物は時系列より「國香の前」と成り得るので、「長寿阿多倍の異名」として遺るとされる「平望王・高見王・高尊王」と成るのだが、“この「平望王」に「桓武天皇」が土産を持って伊賀に見舞いに行った”とする「史実の記録」があり、「別人」と確定できない。
「阿知使王の子」として「阿多倍王」が「618年」に渡来後に指揮して活動する年齢を15歳とすると、これを「本人」とはするのは年齢的に「人間の寿命」としては無理であり、この「別名・異名」とする「賜姓平望王」と「高見王・高尊王」は「同一とする考え方」は、無理と成る。
そこで「高見王・高尊王」は、その「高齢後の本人別名」として分離すると符号一致する。
筆者はこの「高・・」に着目していていて「高・・を着けたとする根拠」があるのだ。
それは、「白壁}が770年に「光仁天皇」と成った時点で、この「妾の新笠の身分」を引き上げて、この「平望王の父祖」の「高見王・高尊王」の「高」を使って、これを復活させる為に「高野の朝臣姓」を与えたのは史実であるのだ。

唯、別の説もあるので紹介する。
この「高野」は「白羽の矢を立てた孝謙天皇の別名」で、「高野皇女」と呼ばれ「高野朝臣」とした時期が在った事が史実にあり、この高野を新笠に与えたとする説が伊勢にある。
この説は伊勢に執っては重要な意味を持ってくる。
それは、「孝謙天皇」は、「白壁の妃」であった「伊賀の新笠」に、この「高野」を与えた事で、高野新笠と呼称する様に成ったとし、「高野朝臣族」から嫁いだとして格式を引き上げた事に成る。
つまり、この説であると「孝謙天皇」は嫁がせた姉の「井上内親王」を無視した事にも成り、同時に信用していなかった事に成る。
これが後の井上内親王の鬱を招いたとする事にも成る。史実の前後の経緯が一致しているので必ずしも俗説とはならない。
「高見王・高尊王」の「高」は息子の桓武期の後の経緯の事と成るので「高野朝臣説」が正しいと観ている。

「高見王・高尊王」には、既に上記の通り「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を娶り「准大臣」にし,その子に賜姓して「三つの賜姓」をして「天皇家の一門」に加え「格」を与えている。
つまり、従ってこの「無格式号の平望王・この王名は後漢の王位」も「高齢」と成った処で「本人の号」としてのこの「別名」を与えたのであった。
この「平の姓」から「たいら族」と成っている。

そして更に「光仁天皇」はこの「平望王」に日本の「姓の朝臣姓の高野氏」を与え、その子孫で「白壁の妾」と成っていた「新笠」には、この「父一族の賜姓の高野」を名乗らせた事に成るのである。
これは現在でも「格式ある家筋」で行われているもので「当時の習慣」であった。
つまり、時系列から追えば「桓武天皇」と成った訪問時に「賜姓」をしたが、矢張り高齢と成っていた“「平望王」”が「新笠の親」であった事に成るのだ。
つまり、故に「たいら氏の賜姓の平」と成っていると観ているのだ。
然し、前段でも何度も現在も論じたが確定はされない。
此処では、時系列と状況証拠が一致するので先ず間違い無いと思うが、「新笠」は“「平望王の娘」”とする。

733年に追尊能登女王
737年に追尊山部王・桓武天皇
(744年に白壁は井上内親王と婚姻)
750年頃に追尊早良王
以上を「妾」として3人を生む。

「白壁」が「天皇」に成った「770年即位」の「前の事」である為に、この「3人」は未だ「青木氏の妾子」であり、その「皇位の継承権」はこの段階でも全く無かったので「追尊王」と成る見込みも無かったのだ。
要するに、「最高の格式の伝統」は有すれど「普通の商いをしている四家の青木の子供」であった。

この様な状況から、「井上内親王の事件と混乱」は、「白羽の矢」から始まり。遂には「婚姻と即位と云う事」に発展して、益々、激しさを増す中で、未だ「皇親族であった青木氏」としては放置できなく成っていたと観られる。
これは「施基皇子の氏是に反する事」ではあり、「律宗族」に反し、「賜姓五役」、「9つの縛りの掟」、「四掟の信頼失墜」、「妻嫁制度の品位低下と混乱」、「嫁家制度の失墜と非難」、「伊勢郷士衆の氏族の信頼と非難」、「氏上御師様の信頼失墜」に繋がる事として「介入する事」の以外に無く成っていたと考えられる。
それが、上記した措置であったのであろう。

念の為に追記するとこれを観ると、「孫域」では「天智天皇系」からすれば「曾孫域と成る桑名殿」などは選ばれている筈の「適任者」であったが、「天智系説の理屈」や上記した様に「そうでない他説」としても、矢張り、「称徳天皇の考えの根底」では、「吉備真備」などから報告され、且つ、自らも伊勢に何度か赴いている事から、彼等が「白羽の矢」に逃げ惑っていた事は当然に知っていた筈で、然し、この「歳を取った暗愚を装った白壁以外」に「彼等が思う適格者」は居なかったのでは無いか。
つまりは「青木の騒ぎは見抜いていた事」に成る。
つまり、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢」には「平均寿命55歳」、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの事を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、「天智系」で云えば最も近い「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中で「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は口伝や噂を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」に続く。(43P)


  [No.391] Re:「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/08/15(Sun) 10:06:01

「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」の末尾

つまりは、天皇を含む天武系の朝廷は「青木の騒ぎ」を見抜いていた事には成る。
言い換えれば、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢・54歳」には、「当時の平均寿命55歳」であり、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題」は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの「二つの事実」を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、天武系にしないで「天智系」にしたとと云う事云えば最も近いのは「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中でも「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば、「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「婚姻した井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「伊賀から嫁いだ妃の新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って、「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く、「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は「口伝や噂」を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」

筆者は、この上記の全経緯を観ると、筆者は、「伊勢青木氏」は「四掟に基づく氏是」では無い、飽く迄も「天皇家との血筋の断絶」と「天武系の血筋との断絶」と「藤原氏南家の血筋との断絶」の3つを図って、止む無く「孝謙天皇の白羽の矢」を「744年」に受ける事と成って仕舞ったと観ているのだ。
そしてそこで、この「難題の災い」のこれを排除しようと画策する事を考えたのでは無いか。
然し、ところがそれが「白羽の矢」だけでは無く、忘れた頃の「26年後」の「770年」に“「天皇」”と云う「施基皇子の氏是に反する事」を遂に招いて仕舞ったのだ。
間違いなく「福家と四家の失策・読み間違い」であったと考えられる。
その「失策」は、「井上内親王の性格と狂行から来る出来事」を、青木氏の為に最小限の犠牲として“「四男の事」”として「放置した事・見放した事」にあったと観る。
結局は、故に本来は「青木氏の氏是」を護れば「伝統」として動かない筈の“「律宗の福家」と、「商いの四家」は最低限の処で動いた”と云う事に成ったのだ。
そして、「施基皇子・青木氏」が護って来た「青木氏の氏是」に反して、「政争」に巻き込まれる可能性のある「天皇位を招いてい仕舞った事」は、如何せん「失策」として止む無いとしても、今後の事を考えても最低限の「四掟に沿う相手」を選定したと云う事だ。
それが最も問題の無い「高野新笠と山部王」であったと云う事なのだ。
実は、この時、史実として「伊勢青木氏」は止むを得ないとしても「天皇家との乖離策」も図っているのだ。
一族の者が天皇家と成って仕舞ったので、その「関わりと血筋を薄める事」を図ったのだ。
前段で論じた青木氏の数々の女系制度である。

この時、「伊勢」は次の策を講じている。
この時、「近江川島皇子の裔」との血縁が「四掟の範囲」として進んでいた。
この「川島皇子の裔」とは「同族相互血縁の状況」を造り出していたのだ。
丁度、「{伊勢と信濃との関係」と同じである。
その相手の「市原王」は、「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・追尊能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
既に、ここで「川島皇子の近江佐々木氏」では、当然に大きな「血縁に依るトランスポ-タ」が蓄積されていた。
同然に「青木氏族の所以」もである。
ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「追尊能登王女」の「子女・娘」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入っていた。
ところが、この「母親の追尊能登王女」が共に「娘」と「伊勢に戻ると云う事」が今までに無かった事であるが、それが慣例外で突然に起こるのだ。
当時としては前代未聞であったろう。
これは要するに前段でも論じた様に「後家として戻った事」に成る。
これが「日本の後家制度の始り」であると云われている。
つまり、ある理由があって、“正しくは離縁して「関わる一族と娘」を引き連れて戻った事”に成るのだ。
そして、この「後家と成った追尊能登王女」も「青木氏の四家」の「叔父に嫁した形」を採っているのだ。
当時の習慣ではこの様な例は無い。
この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等内血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポ-タ」が蓄積される事と成っていた。

処が、ここで更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもあるが、既に、この「曾孫・市原王」のここに更に今度は「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「追尊名張王女」”が「後妻」として嫁したのである。
何故に、この様な事が起こったかと云う事だが、当時の「皇親族」の中にはこの慣習は無かった。
それ故に、これだけの事をする以上には「それなりの理由」があった筈である。
従って、この事に付いて「家人の家」か「何処か」に行けば何らかの形で推測できる程度に書き遺されている筈と観て調べた。
調査の結果、判って来たのは、先ず“後家”と云う当時としては全く珍しい言葉であり、そして「近江佐々木氏」、「市原王」で、「四家の名張殿との関係」であった。
当時,この「桑名殿」には“「能登」”と云う「女(むすめ)」がいた事が判っていて、この「「女(むすめ)」の“「能登」”は、「佐々木氏の研究資料」から「市原王」がこの「桑名殿の女(むすめ)」を娶った事が判った。
ところが、この事が後に“「能登」”では無く、「名張殿」の「女(むすめ)」の“「名張」”と成っている。
要するに、“人が入れ替わっている”のである。
つまり、この「入れ替わり・すり替わり」に意味があって、ところがこの「青木氏の歴史時系列」より「市原王」は「764年頃」を以て歴史から消えているのだ。
これは資料の読み込みからの「専門的な青木氏の通説」では、色々の説があって、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」があるとしているが、最も有力な説は次の様に成っている。
そもそも「彼の出世」は史実として「藤原仲麻呂」のにて成し得たものであり、乱にて「仲麻呂派」に属して失脚した説が有力であるのだ。
然し、その結果として、故に、“「桑名の能登」が「青木氏の関わり」を避ける為に「伊勢」に引上げてさせて「後家・当時としてはこの慣習は「無く珍しい事」と成った”としていのだが、「青木氏の資料」の中からの行でよく調べると、その後に「名張殿の名張が嫁いでいる事」の「行」があるので、この説は当たらないと考えられる。
つまり、関わりを隠すために「後家として引き上げる事」の「珍事」を行った後に、「名張を嫁したという事」はこの事に何かが在った事に成る。
つまりは、「後家の珍事を打ち消す行動」を両氏は執ったと云う事だ。
「白壁」が即位するとそもそも「伊勢」の中ではその様な「過激な事」は氏是で出来ない。
これ等の「状況証拠」より「764年〜769年までの出来事」と云う事に成る。
そう成ると「白壁」が770年に即位した「直前の事」に成るのである。
「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚して「30年〜35年後の事」である。
これが「結婚話・a」が進み「井上内親王の兇状・b」が激しくなり始めた時期と観ると、とすると、「伊勢側と近江側」では、「施基皇子の氏是」に伴い「どの様な態度」を執るかである。
上記した様に「嫌々ながらの井上内親王との関わり」を持った以上は、aとbから唯一つ「嫁家制度に係わる女(むすめ)」を「四掟の範囲で護る事」である。
もう一つは、「能登の嫁ぎ先」の「近江佐々木氏が関わっていた政争」から逃れる事であろう。
この「二つを解決する手段」は、「能登を伊勢に下げる事」、「名張を伊勢から逃がす事」で解決する。
そうすると、「名張の女(むすめ)・追尊湯原王の娘・名張殿」を「伊勢から逃がす事」の「近江側の通説」に関わるだろう。
参考として「・松阪殿―春日王」、「名張殿―湯原王」、「桑名殿―榎井王」、「員弁殿―一志王」である。

「名張」が嫁いだとすると、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」の前二つは成り立たない。
ここで「名張が嫁した史実」は確実なので、「失脚説」で「能登」を下げ、暫くして失脚の所に「名張」を嫁せさせれば、「伊勢としての近江への縁戚関係」は、事を八方荒立てる事は無く穏便に正常に保てる筈だ。
この奈良期の時期は、未だ「近江佐々木氏」は「源氏化・嵯峨期以降」していないので「伊勢」とは良好な同族血縁関係を保っていて、これは「記録」に遺るものである。
そもそも「770年の即位期」を以て以降は、「出自元」となった以上はこの様な「過激な事」は出来ないだろうし、つまり、これは「764年〜769年までの出来事」であり、「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚時には充分に予測できた筈であるし、そして史実として「伊勢の四家の男女者等」を問わず避ける様に動いたのだから、その「最後の直前の事」と成る。
「名張」が「15歳程度の適齢期」に達していた事は判っているので、この時、朝廷の中では「朝廷の称徳天皇の後継者・阿倍内親王・孝謙天皇」が即位しても、その次の「皇位継承の見通し」が立たず、「彼女に代わる天皇を求める動き」が「彼女の崩御後・770年」まで続く事に成っていたのだ。
つまり、そこで「施基皇子の孫の名張」を迎えて、「後継者に建てようとする動き」が「朝廷の中」に元々あったのでは無いかと観る事が出来る。
つまり、それが次第に大きく成り、“これを「事前」に察知して、「苦肉の策」として「能登」を下げて「近江」に「適齢期の名張」を嫁がせて逃がした”とする「伊勢の歴史観の説」である。

だとするとこれには、「近江の賛同」が必要であった。
そこで「伊勢と近江間で密かに協議していた事」に成る。
つまり、「近江」、即ち、「天智天皇の異母兄の第六位皇子の川島皇子・691年没」の「佐々木氏・齋齋木氏の賜姓族」でありながらも、「大津皇子の謀反密告の史実」から「日本書紀に記載無し」の「扱い」を受けた程度で、「天武―持統系の朝廷」から無視されて、「苦しい経済的な立場」に史実として陥っていたのだ。
この「近江の佐々木氏」を「血縁族」として支えていたのは、当然に「四つの院号の格式」を獲得して「朝廷の殖産」で「二足の草鞋策」を一手に営む「伊勢青木氏」であった事から、「「近江の賛同」が得られ易い環境下にはあったのだ。

その証拠に、この関係が「光仁期」から続いていたが、「最後の仕上げ・自立」の様にして「平安遷都の直前」に「伊勢の私財」を投入して「真砂土壌の近江の干拓灌漑開墾・楮和紙生産」を「額田部氏の協力」の下に成して財力の無い「近江の経済力」を嵩上げした史実がある。
これ等の事は前段でも論じたが、然し、其れにも拘わらずこの直前には、「天智系の裔族」であったにも関わらず、前段で論じた通り「近江佐々木氏生き残り」の為に「天智系」でありながらも「天武系の裔孫」と成ったのだ。
ところが、更には「桓武派」と「嵯峨派」に分かれた「嵯峨期」を境に、「源氏化」して「伊勢との関係は悪化」し、遂には「血縁関係と経済協力」は結局は「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で歴史的に完全に無くなっているのだ。
従って、だとするとこの事件の実質時期は、上記の「764年〜769年」の頃に「情報」を得て「名張逃がしたとする説」は納得出来る。
故に、「伊勢・白壁」が「天皇筋と成る事」には、最早、避けられ無かったが、少なくともその後には「天皇家」へ婚姻で“「伊勢から絶対に入れると云う事」”はしなかったのである。
入れたとしても、上記した様に「光仁天皇の娘・酒人内親王と孫娘の朝日内親王の二人」で終わらしたのだ。
故に、「伊勢青木氏出自の天皇」は「血筋的」には、「天皇家と云う繋がり」では、「光仁天皇」より「四掟の規定通り」に考えると、「第四世族・曾孫」の「仁明天皇・嵯峨天皇の子」までと成るのだ。
それ以降は現実にも「外孫王の血筋」も「天皇家」では強く成っているのだ。
つまり、「血筋の繋がり」は無くなったと云う事に成る。
「伊勢青木氏」でも、「妻嫁制度」に依っては「玄孫」までとしているが、「施基皇子」からは「第五世代・玄孫」の血筋外と成る。
つまり、内外に於いて消えている事に成るが、これが「嫁家制度」の「第五世代・玄孫」とした理由であり、これに依りの血筋外としと成る原因だろう。
つまり、何にを云わんとしているかと云うと、何れから観ても、「仁明天皇」までと成り、この「光仁期での判断」としては、「伊勢」では「光仁期の娘の範囲」で混乱を留めれば、“「天皇家との繋がりを避けられると判断していた事」”に成るのだ。
そして、この「無関心」を装う「伊勢青木氏の出自元の姿勢」が、“嵯峨天皇には気に入らなかった”と云う事もあったのでは無いかと考えられる。
更に、それ以降は、「天皇家の政争の場に引き込まれる事」は無いだろうとしていたと云う事に成るのだ。
その「桑名殿の追尊榎井王の浄橋や飽浪等」と共に、この「最後の血縁の仕上げ」が「市原王の名張・追尊湯原王の娘」であった事に成る。

此処で解決して置く「疑問」が一つあるのだ。
それは「焦点」と成り疑問の多い人と成っている「市原王」の事である。
これを解き明かせば、白羽の矢が伊勢に飛んできた理由が成る程と納得して判る筈だ。
そもそも「近江の川島皇子」は、「施基皇子」と同様に「天智天皇の賜姓臣下族」であり、「近江の斎斎木」の地名」を貰って「賜姓」を受けている史実が遺るし、佐々木氏の研究資料と青木氏に付いての研究資料にも記載されている。
「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、神道で使う「青木の神木」から採って「賜姓」と異なったもので最高の格式名である。
これに対して「地名の賜姓」は、「近江の斎斎木の佐々木氏」に限らず「当時の仕来り」として「一段低い格式の扱い・宿禰族以下の臣・従五位以上」を受けた皇子程度に与える「仕来り」である。
然し、「川島の皇子の第六位皇子」でありながらも「第七位の施基皇子の賜姓」より相当に低く扱われた事の格式史実が遺る事に成る。
唯、「近江の斎斎木」は神職の地名に由来する由緒ある地名ではあるので、普通の地名では無く天智天皇はその意味で賜姓したと予測でき、「神木の青木」に継ぐものである事も判断できる。
然し、地名は地名であってここに差を着けたと観られる。
賜姓臣下した事で「王位」は、「施基皇子」の様に臣下後に「伊勢王」の様に「守護王」に成らないと無く成る仕来りである。
仮にあったとしても「孫の市原」には「王位」は追尊が無い限りは本来は着かないのだ。
そもそも「近江」には「天皇に成った人」は「伊勢の白壁」とは違い居ないので「追尊」は無かった筈である。
では何時ついたのかであり、そこで唯一つ考えられる事はある。
それは「光仁天皇」に依って「没後の施基皇子」は「追尊春日宮天皇」を正式に受けている。
とすると、「市原」は「施基皇子の外曾孫」でもあるとしているまで王位の追尊は受けられる事が判るが、但し、だとするとその「父の安貴王」は「施基皇子の孫」と成るので伊勢の者と同様に「追尊王」と成る。
然し、これにはそうでは無いとする否定説もあり、孫説と曾孫説がある。
この追尊は「伊勢」でもあった様に、「二世族」まで受けるが例外的に「第三世族」まで受ける事もあり得た。
「第四世族」では「伊勢」でも「追尊の史実」は無かった。
「市原・能登の子」は、「追尊春日宮天皇の施基皇子」からは「第四世族」であり追尊と成った理由から例外である。
もう一つは「即位光仁天皇」からは「第三世族」と成る。
そうすると、「川島皇子」には「二人の嗣子・三室王745没と高尾王749没」が居て、「市原の父の安貴王の父」はこの「二人」では無く、「施基皇子の春日王とする説」があり、系譜が有り得ない程に混血で混濁している。
この事は当時としては混血の混濁は史実である。
「安貴王」は、「施基皇子の孫では無いとする否定説」も当然の事として正しい事に成り、その「経緯と年齢」から「三室王」が「安貴の父」と成る。
実は、この「安貴王」は「不敬之罪・不倫」に問われ、「安貴王」は「官位剥奪・自宅謹慎の刑」を受けていて、正確では無いが、「川島皇子三世王の叙位を受けている事」から再び「無位」に成った後に「従五位下」に叙爵されたとしているのだが、これは朝廷の当時の仕来り上はあり得ず間違いなく「後付け」であり信用できない。
その根拠は、この前提を紛失した後の「新撰姓氏禄」に在るとしているからだ。
「後裔と主張する者等」が、この「不名誉」を逃れようとして仕組んだ「後付けの細工」であろう。
この「間違い」は、前段でも論じたが「安貴の子孫とする裔の春原氏等」としながらも、然し、「市原の子孫」とはしていない事から大きな矛盾で「後勘での錯綜か錯語」と思える。
「川島皇子の裔」は「近江の氏族」であり、「姓」を出さない「佐々木氏」であるのに、何故、「姓の春原氏」なのかは判らない。
「青木氏」と同然に「裔は青木氏」であり「姓」は出さないで「郷士族」として「氏族」を形成していたのだ。
「諡号の姓」は「新撰姓氏禄」でも「敏達天皇四世族の天智天皇」の「真人別」の「淡海朝臣」であり、「近江の諡号姓」の「春原朝臣」は「朝臣別」に存在するが出自は「真人別」とするところであり矛盾している。
この「諡号の姓」が両方に存在するのは「淡海朝臣」を根拠に「紛失後の後付け」に利用されたものと解釈できる。
何故ならば、もし「真人別と朝臣別」に持つ事が編集時に成っていたとすれば「伊勢」も同然に出来ていた事に成るが、「敏達天皇の四世族・春日皇子系・21と37」に成っている。
正しくは、史実は「天智系の川島皇子」も「天武系の裔系族」からも阻害されていたが、これを観て「持統天皇」に同情したとする史実がある。
「賜姓臣下族」と「皇位族」を外れたとしても、「持統天皇」から「二世族と三世族の叙位」を正式に受けた「川島皇子の裔」は、この「三室王・745年頃没」と「高丘王・749年頃没」の「従四位下の三世族」までの「二人」と、―「安貴王・745年頃没」と「市原王・763年頃没」の「記録」から観て、「正式叙位」は授かっていない。
それ故に、そもそも普通は出さない「四世族の王位」は疑問であるのだ。
且つ、「後者の二人の官位」は「従五位下」であるので、「王位の官位」の受けられる立場ではそもそも無い。
つまり、「市原の段階」で「近江佐々木氏族」は、衰退をしていた筈で、その意味で「能登―名張」の「婚姻の背景」の「疑問の状況判断」が判るのだ。
「川島の皇子と施基皇子の孫」であった史実の事から「施基皇子の追尊」によって得られた王位である事が判る。

この事からも「近江の川島の皇子の裔系」に「白羽の矢」が向かわなかった事が「前段の財力の論」もあって判る。
この「白羽の矢」の飛ぶ方向を朝廷内で最後の会議が成され、前段でも論じた様に「川島の皇子の三世族」が一族を引っ張って伊勢の白壁を推す展開の史実が記録されていて、結局は近江で意見は分かれて一族争いが興った事が記録されている。

ここで念の為に追記するが、「伊勢青木氏の施基皇子」から「二世代と三世代の約33人」は、確かに「770年の光仁天皇即位」による「追尊王位」を得ているが、「近江佐々木氏」の様に「世代叙位」を誰一人受けていないのだし、寧ろ、「白壁」と同じく逃げたのだ。
これは「伊勢と信濃の青木氏の生き方の姿勢」を適格に物語るものである。
要するに、これが「施基皇子」が示した「青木氏の氏是」なのだ。
「氏の人格」、況や、「氏の氏格」で「近江佐々木氏」と根本的に違った点であった。
「五家五流青木氏の内」の「近江美濃甲斐の三つの青木氏」は源氏化し、「伊勢と信濃の二つの青木氏」は源氏化しなかったのだし、此処に「生き方の姿勢の差異」がこの時に生まれていたのだ。
「近江佐々木氏の縁籍の近江青木氏」は、結局は主家を裏切る事は出来ずに源氏化したのだ。
要するに、近江に嫁した「能登―名張の女系」で「近江に青木家を興した家人青木氏」として派生出自した「二つの近江青木氏」は源氏化して消滅する。
これも前段で論じた様に「嵯峨天皇の失策」が「青木氏」を消滅させてしまうのだ。
同時期の同例に「桑名」から「浄橋と飽波」は「美濃」に嫁したが、「主家の三野王の生き方」に賛成せずに「美濃の額田青木氏・一色」を興し源氏化で隠れ偲んでいた。
遂に、「伊勢」はこれを救い出す事に成功するのだ。
そして、前段でも論じた様に「三河渥美に額田青木氏」を「殖産」で大発展させたのだ。
この差は歴史が物語る様に「生き方の姿勢の差異」であって、尽きるは「青木氏の氏是」を護るかどうかの差異に通ずるのだ。
これをよく示しているのが、“「二世族三世族の叙位を求めたかの有無に在る」”のだとしている。

戻して、従って、上記した「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で、゜近江系との関係性」は、歴史的に完全に無くなるとした事は、「王位の無い立場」の「市原・763年頃没」の「記録」は符号一致しているのだ。
だから「婚姻先」として目立たぬ様に、「能登の処置」と「名張の処置」を一度に策した事に成り、これが成功した事に成るのだ。
そして、前段の論の通り“「見返り」”として「窮していた近江佐々木氏」に何とかして立ち直らせる様に、これに対して「琵琶湖東の真砂土壌の干拓灌漑開墾の20年大プロジェクト・大難工事・額田部氏」を実行したと観られるのだ。
筆者はこの事があって「長岡京遷都・784の工事と平安遷都・794年」を断った理由の一つしてと観ているのだ。
この直前にも、「天武・持統の野口王墓の古墳増築管理」に関わっていたとする記録があり、「知古の施基皇子の人柄」を記憶していた「額田部氏の裔」はこれを重視し、例え「天皇の勅」とは云え「出自元の青木氏」を重視した事から、「遷都工事」のそちらの方に先ずは手が廻らなかった、否、廻さなかったのだろうと観ている。
その遷都直前の「野口王墓の古墳増築管理」を重視し、その元の「築造と葬祭と築墳の一切の責任者」が「施基皇子」であった事から、「額田部氏」と「施基皇子の二世族と三世代の裔・福家」とも「知古」に成っていたのだ。

注釈としてこの状態は明治9年まで続いていた事が記録から判っている。
然し、「遷都同向を断った事・額田部氏の遺志も伴う」で「桓武天皇」から罰を受け「飛鳥斑鳩追放」と「全官位剥奪」と「守護神額田神社の廃社」と成った時に、「伊勢の施基皇子・716年没とその裔」は、「桑名で密かに匿った事」を「四家の二世代と三世代の裔等」は手伝っていた事から身を以て知っていたのだ。
この事は「累代三大格式の歴史書」と「青木氏の資料の行」にも合せて記されている。
この事は史実で、「桓武天皇」は流石に「出自元を追求する事」が出来ず、無事に「伊勢」は庇護した事が出来たとあり、且つ、その後の「近江の事等」の「額田部氏の殖産工事の活躍」で何と歴史的にも例を観ない「額田部氏」は「冠位」を「破格の三段階特別叙位」を受けて「隠してあった守護神の額田神社」の「祭司」までも伊勢額田に許されているのだ。
この事等は、前段でも詳しく論じているが、「上記の事」、即ち、「施基皇子の氏是」に基づき、「四掟」や「律宗性の仕来り」や「女系制度」を設けてでも、「青木氏の血筋が天皇家に入る事を避ける策」の「能登の処置」と「名張の処置」が成功裏に及んだが、歴史的に「過去の出来事」と逆に繋がっていたのだ。
これでは後勘から観ても逃れられないだろう。
後勘からすれば、一時期に「白羽の矢で掻き廻された事」と「身内の嵯峨天皇の過激な行動」で、「90年〜100年間」は大いに「絶対視しなければならない氏是」に反して乱れたのだ。
それも、正しく「外要因での事」であった。
元を質せば、「神道仏道の融合策の問題」から齎された「白羽の矢」にあった。
この事に依って、“一つ狂うと大きく狂い長く続く”の「人生訓・家訓」を「伊勢」は持つ事と成ったのだ。
つまり、「氏是」はもと「より細かい事」が氏族内に入り込ませない為にもこの“「家訓10訓を護る事で防げる」”と考えたに違いない。
故に、「賜姓臣下族の青木氏」が敷いていた「一切の制度とその身分格式の伝統」が無く成った現在でもこの「家訓10訓」は生きているし、今後も生きさせたい。

さて、前段や上記の論の通り、「伊勢と信濃の青木氏」は、先ずこ「皇位族であると云う事」を好まずその「血筋の影響」を排除して「格式と伝統」だけを重んじた「氏族」に徹したのだ。
その意味で、上記した様に「近江佐々木氏の氏族」にこの「白羽の矢」が向けられるのが「天皇家」としては条件的にも最適であった筈であるが、そんな「天皇家」から向けられたとする「記録」は、何れにも“「近江佐々木氏から自ら進んで繋がろうとした記録」”は、仮に後に見つかったとしてもそれは上記の経緯から観ても本来発見され得ない理屈と成るのだ。
つまり、何時ものように歴史に興味のない人たちには騙せるが論理的に「後付けの搾取」に外ならない事に成るのだ。
つまり、その「近江と伊勢の生き方と伝統の差」が、「伝統・律宗族に関わる事」の「神道仏道の融合策の問題」に在ったと観ているのだ。
もっと簡単に云えば、「氏族の生き方」として、「其れなりの伝統」は近江にあったとしても“「近江佐々木」は「律宗族の伝統」では無かった”と云う事であろう。
丁度、これが同然に“「嵯峨期の源氏等」が「9つの縛りの掟」を守らなかった事”に通ずるのだ。
だから、「嵯峨源氏も近江佐々木氏」も「同じ考え方」であったから「源氏化したと云う事」に成って滅びたのだ。

その前提で、この「伝統・律宗族に関わる事」に就いて根本的に三代に渡る「天皇家」の「神道仏道の融合策の問題」をもう一度振り返って検証して観る。
「孝謙天皇・称徳天皇期」の「天皇家崩壊の条件」は、「裏では仏道帰依説」では条件的に完全に揃っていた経緯と成る。
さて、ここに「神道の神明社」の「施基皇子の裔系・白壁王」が不幸にして引き出される所以が此処で起こったのであり、つまり「神明社」であった事に成る。
「孝謙天皇・称徳天皇」が、この環境の中で「退位・749年」し、その後継者に「藤原仲麻呂」は「藤原系の外孫王」を「天皇」に押し出し、「淳和天皇」として権力を手中に収めた。
ところが、この「思惑」を察知した上皇は、再び「外孫王天皇」を淡路島に流し廃位して重祚して「称徳天皇・764年」として返り咲き、要するに「青木氏」で云う「孝謙天皇の白羽の矢の事件」が起こしたのだ。
この「火中の栗」を拾う様な「白羽の矢」を嫌がっていた「施基皇子の裔系の賜姓青木氏・白壁王・54歳・770年」にこの矢が不幸にして刺さったのだ。
この時の「定説」では、「天智天皇の裔系であった事」と成っているが、既に、「皇子位」を外れ「賜姓臣下」してから何と「123年後の事」であるし、「施基皇子没後54年の事」であるのだ。
先ず普通はこんなことは無いであろうし、「商い」を主体とした「二足草鞋の郷氏」と完全に成っていたと云える。
既に、「伊勢と信濃での青木氏」では「裔系三代目から四代目」に達し、「二足の草鞋策」の「殖産を中心とした院号で働く商いの真最中期」にあったのだ。
故に、「伊勢での定説」での「資料・漢文書を額にして保存」には、「天智天皇の裔系」では最早無いだろうとしているのだ。
そもそも「殖産商い」は、「9つの縛り」、仏道の「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族の関係式」の「慣習仕来り掟の伝統中」にもあって、「院号を持つ令外官としての商い」をしていたが、「表向き」は当時の氏族の在り方の仕来り」では「禁令を破った氏族」に成り、当に「後継族」では無かった筈だし、そもそもこの事を嫌った事の「完全な四掟の女系族」であったのだ。
これだけのはっきりした事があるが、この事には「称徳天皇」は充分に知っていた筈であると観る。
そもそも、「大所帯の天武天皇の裔系」が既にあり、「小所帯の天智天皇の裔系」であるとするならば、確かに「天智系」でありながらも、結果として「天武系の血筋」を持った「天智系の川島皇子の佐々木氏」が「近江」に居たのだし、上記した経緯から、この「裔系の近江青木氏」も現存していたのだし、「四掟の天智系に近い信濃青木氏」も現存していたのだ。
「伊勢」にも何度も下向しているのだし、多気には斎王館もあったのだから「知らなかった事」は絶対に無いと観る。
もっと云えば、この「時期・764年頃」であれば、皇族に成り得る「出雲国の裔系・200年後」も「大和国の融合族の裔系」もいた筈である。
「新撰姓氏禄」を正しいとしての前提としては、考えて観れば「天智系に戻る事以外」には「敏達天皇系」などの適任者族も沢山いたのだ。
そもそも、「出雲国風土記」が「733年」に偏纂されている事から年代も違わないのであるから「大和朝廷との血縁付き合いはあった事」は確実に「証拠立て」られる。
故に、「定説」の“「天智系と云う理由建て」”には、「血縁と云う流れ」からすると「天智天皇の裔系の伊勢に白羽の矢が来る事」がそもそも疑問であるのだ。
「藤原氏とそれ以外の外孫王」では、答えは“「排除」”で明確であっても、兎も角も「内孫王としてのより対象者」は、「直系尊属」に最早無いとしても他に「天武系の直系卑属」には「適格な者」は多くいたのだ。
そもそも、この事からも「伊勢青木氏に戻る事」が必ずしも“「天皇家の大儀」”として「直系に戻す事」には論理的に成らなかった筈だ。
だから、当初、史実として、学者の“「吉備真日が猛反対をしたのだ。”

そうすると先ず、“では何故かの「疑問a」である”。
つまり、“何故青木氏だったのか”である。
何故、「白羽の矢」であったのかである。

その前に前段でも触れているが、この「疑問の理解」を深める為に歴史的に解っている事を論じて置く。
そもそも、「孝謙天皇期・女性」、この「孝謙天皇・継承者不在」に依って「白羽の矢」を建てられた「臣下族の伊勢青木氏の出自」の「白壁の光仁天皇期 2」にも、そして、その孫の「嵯峨天皇期 3」にも、この上記する「二つの分離した格式」を「統一した格式に定める必要の状況」に就いては「是」であった事だ。
そして「外孫王の淳和天皇期 1」と考え合わせると、次の様に成る。
実質、それはそれぞれ「神道仏道の融合策」ではあったが「思惑の異なる事」が試みられたのだ。
それが「新撰姓氏禄・嵯峨期の名称」であると論じている。
これを判断する上では、これは欠かせない要素となるのである。
然し、既に、“「170年も経た後の天智系賜姓臣下族の朝臣」”でもあって、「170年経過の賜姓族からの出自という事」もあって、三期共に「姓氏禄の編集の反対」、のみならず「制定のそのものの反対」が社会に興った事は後世に記録に遺る程にあったのだ。
この「格式の社会の確立構想」に対して、“上層階級の全体に統一して「格式化を施すと云う事」が社会に波及して、既に冠位十二階制度や八色の姓制等のある程度の「格式社会」でありながらも、結果として、「身分的な事」が「固定し決めつけられる事等」を嫌う「激しい反対反論」も史実としてあったのだ。
恐らくはその「決定される範囲」が「朝廷に関わる範囲」だけではなく社会全体に及ぶもので相当に広かったと云う事に在っただろう。
それが貴族や官僚の範囲にだけではなく「族の末端範囲」にまでの範囲に及んだからだ。
この事も然る事乍ら、思わぬところから成った「白壁の天皇としての最高格式」に対する「社会が持つ大疑問」にあったとしていて、その疑問では“それで良いのか”と云う「世間の風当たり」も現実には強かったと記されているのだ。
それは“過去に第七位皇子であったとしても、既に賜姓臣下して「170年後の事」である限りは、その「裔系」は飽く迄も「臣下族」であるべきだ”とする「諸臣族」からの「猛反対があったらしい事」に成る。
つまり、この事にはその時に生きていてれば筆者でもそう思うが、諸手で賛成を得られていた訳では無いらしい事は史実からも判る。
その事で「伊勢と信濃の青木氏族の氏族」では「閃々恐々としていた事」が「伊勢の資料の行」や「公的に成っている記録」からも判っている。
少なくとも「伊勢と信濃」に執っては「青木氏族」から観れば「自ら招かなかった災い」と成る。

例えば、この事で一族の中には男女ともに狂者、疎者、大酒者、逃出者、酷者、出自を消す者、氏人に身を隠す者等が現れたと記されていて、中でも「員弁殿」では激しかった事が読み取れる。
取り分け、「伊勢郷士50衆」は冷たかったと表現している。
その理由は、「天皇家」に戻った場合に自分達にも「氏族の郷士の行動」に求めていない「締め付け」が及ぶと考えられていたらしい。
この行を観て、「四家の福家」は逃れる事が出来ないと観て、「白壁」だけを犠牲にして極力天皇家と関わる事が起こらない様に、前段の論や上記の様な対応策を採ったと考えられるのだ。
それに、一族の「妻嫁制度の女(むすめ)」を盛んに「郷士衆」に入れて「氏族化」を強化して「女系で造り上げた族」に変化させて、「天皇家に引き込まれる対象者」を悉く逃がしたのであろうと観る。
そうなれば「伊勢郷士50衆」も納得したのであろう。
そうして前段でも論じた事へと経過を辿って行ったと云う事である。
この事で、「天皇家から遠ざかる伊勢」と「天皇家に近づく近江美濃」との「差」がこの「神道仏道の融合策」で生まれたのだ。
もっと云えば、「伊勢と信濃の氏族の郷士衆の反対」と「近江と美濃の氏族の郷士衆の賛成」の処にもその「行動の差」が出ていたと云う事に成るのだ。
この「行動の差」が、「伊勢と信濃」では、既に「三世族か四世族」では、「白羽の矢の失策」も何とか「人策」で逃げ、そして「後の事」も既に、少なくとも“「仁明期で終わる・桓武天皇の孫・後人手納の曾孫・施基皇子の玄孫」”だろうと見込まれていたと考えられるのだ。
何故ならば、その当時では「仁明天皇」だけが「出自元の考えに近かったからだろう。
未だ「天皇」に成る前の「皇子の時代」からそれが観えていたのではないか。
結局は、この時は、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれて争っていた時期でもあり、「嵯峨派の天皇家」は、「青木氏からの献納」を停止され、「財源・内蔵」に困っていたからであるし、これを観ていた「仁明天皇」は「父親・嵯峨天皇の政策・青木氏を賜姓族から外した事等」に否定的であったからだ。
これには「仁明天皇の在り様」が史実として記されているので間違いは無い。
現実に、「天皇家」はこの時でも「直系尊属」は終わり、再び「外孫王」に全て変わり、「白羽の矢の失策」は「仁明天皇」の彼が終止符を打ち終わらせたのだ。
聖武天皇期と孝謙天皇期の南家藤原氏の外孫王に成って仕舞って以来再びである。
後に「後三条天皇」で「藤原系外孫王」は終わったのだ。
刻の如しで「仁明天皇」は「出自元の青木氏の乱れ」に「終止符」を打ったのだ。
ここからは「殖産の青木氏族」と突き進んだのだ。
少し後の「母系の秀郷流青木氏」も含めて「青木氏族」から観れば「恩人の祖」であるのだ。
「近江佐々木氏の研究論文」にもこの事が浅く論じられている。

何故ならば、「仁明天皇」は其処から「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から切り離し、そして其処からは「商い」に邁進させた方が良いと考えたからに過ぎない。
故に、そこから「青木氏の行動・殖産事業等の行動」が活発に成って行くのである。
この時に、つまり、「考え方」が「次の三つ・ABC」があったと考えられる。
A 「桓武天皇派の考え方」は、「出自元の青木氏」を「賜姓族」とし「賜姓五役」で「令外官」としながら院号を与えて「商い」をさせて内蔵の利得を獲得させる方法である。
出自元が望む様に天皇家とは分離しながらも出自元を大事にした派である。
B 「嵯峨天皇派の考え方」は、「桓武天皇派の反対の方法」で利得を獲得しようとした方法であった。
然し、そこには「嵯峨天皇の厳しさ」があって「源氏を賜姓した事」が「青木氏の否定に在った事」で「出自元の献納」を中止された「計算違い」が興って「朝廷・大蔵と内蔵の財政」は貧した。
C 「仁明天皇派の考え方」は、一度出した「嵯峨天皇の考え方」を表向きは追認しながらも、上記の通りで「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から一切切り離し、そして其処から“「商い」に邁進させた方が良い”と考え出自元を擁護した。
この「Cの考え方」が「青木氏の考え方」と一致したと云う事に成った。
そして、故に一度留めた筈の献納が、再び、「商いから生まれる青木氏の献納」として、記録から大蔵に献納していないので、それを「内蔵の範囲・天皇家の財政に留める事」で話が着いた事に成るのだ。
そして、故にこの「Cの献納」は明治維新期まで続いたのだ。
「仁明天皇と青木氏との話し合い」の中で「総合の合意条件として執られた処置であった事」が良く判る。
この「仁明天皇・833年−850年」から「約100年後」に「円融天皇」に依って「藤原北家秀郷流藤原氏」に「青木氏の賜姓」を永代に授かった前段の通りの経緯と成る。
これは先ずそれまでは「四掟の母方」であったことからの経緯であろう。
一度、「南家の藤原氏」と絶縁していながら、今度は北家の藤原氏の関東押領使であった藤原氏の中でも格下の勢力を持った地方藤原氏と母方血縁しているのであり摂関家筋では無いのだ。
これは「青木氏の経緯」としては見逃せない。
これは「行動矛盾」の様に観られるがそうではない。

この「秀郷流青木氏の事」に付いては前段で論じてきたので詳しくは論じないが、要するに、天皇家の内蔵の「裏打ち」をしたかったと考えられ、その為には何かの原因で起こる「伊勢と信濃の青木氏の衰退」は避けねばならないとし、更にその為には「四掟」で「母系筋」であった「北家筋の秀郷一門」に「白羽の矢」を当てたと云う事であろう。
この「白羽の矢」は母系の一蓮托生の両氏に執っても「最高の格式」を正式に得られる「賜姓」は悪くは無かった筈だ。
「北家」の中で低く見られていた事から一族一門に執っても良かった事なのだ
それは一門に執っては今後の事として、摂関家に対しても格式上で争う上でも良かった。
それも一時的では無く「円融天皇の白羽の矢を立てた条件」が良かった事で、「116氏・24地域」まで拡大して両氏に執って期待しない目的も達成されたし、何よりも官僚として朝廷の中に食い込む事が出来た。
摂関家を追い越すまでになったし、この様に以後の経緯を観ると目覚ましいものがある。
四掟としても妻嫁制度や嫁家制度等で完全な青木氏族の確立が成されたのだ。
現在あるは全国の「青木氏族の裔系」には「仁明天皇と円融天皇に救われた事」に成る事を歴史的経緯として認知しなければならないだろう。

さて、反して、この「神道仏道の融合策の問題」に依って齎された「全青木氏族に与えた全ゆる現象」が、「孝謙天皇期、光仁天皇期、嵯峨天皇期」には「反発の社会現象」も三度も起こりその青木氏に対しての反動は顕著であった事が史実で証明されている。
史実として書き遺されていると云う事は相当のものであった事が想像できる。
「古史書」に記されている様に、「完全相互同族血縁」であったと記録される「近江佐々木氏」でも、「伊勢や信濃との血縁や縁」を打ち切った事も記されていて、その結果、「後家」まで出して関係性を消そうとしていた事が公私記録ともに判っているのだ。
「始めから巻き込まれる事」を「近江側と青木氏側から嫌っていた事」が判る。
「白壁王・光仁天皇」の「避けていた姿勢事・疎者と大酒者」にも明確に詳細に記されているくらいなのだ。
然し乍ら、後勘から観て、その論筋と違い「白壁」が歴史上は「最大の犠牲者」であったろう。

それ故に、この様に「氏族の格式付け」に焦って「社会全体で大反対」を受けながらも、これを鎮めようとして強引に押し進めようとしていたのだ。
その結果、中でも何とか「未完成」ながらも「嵯峨天皇」が、「世の格式・身分」」を定める為に反対を受けた為に未完成の侭でも“「新撰姓氏禄」”の名称として強引に定めたのだ。
「二派に分かれた五家の青木氏」だけでは無く「皇位族と政界と社会」が「桓武天皇派・反対」と「嵯峨天皇派・賛成」とに分かれている。
後勘から観てもそれだけの意味があったかどうかは判らないが、後世にも於いても大いに混乱を招いたと観られる経緯なのだ。
結果として、「嵯峨天皇派・格式化の賛成」で前段でも何度も論じている様に、この時、「律宗の族」にありながらも、出来たばかりの未完成の「新撰姓氏禄の定め」の中に無いとして、つまり、勝手に“統一した格式化の中には無い”として、「賜姓族・皇親族」からも「賜姓青木氏」を名目上でも外したのである。
これがその「正統な根拠」とされたのだが、現実には「敏達天皇一門春日王の四世族真人族」として明記されている。編成中に編者が“これは拙い”として編成順位から観ても追記された経緯であろう事が判る。
然し、「出自元の光仁天皇」は、この“格式化の編成”を試みた一人でもあるので、「賛成派」であったのであろうし、これを「嵯峨天皇」に執っては「救いの根拠」としていた事にも成る。
その意味で云うと、同じ「賛成派」でも嵯峨天皇程には不満を持っていたかは判らないが、“「白壁は青木氏の犠牲とされた事」”に「不満を持っていた事」はこれで否めない。
そもそも、「永代賜姓五役」を任じられ「律宗族」として「院号を持つ令外官」の役務を全うしていた「大義」が在る「青木氏」であるにも関わらず、「皇位族」を外し「賜姓族」をも外すと云う理に合わない事を「社会の面前」で遣って退けた。この過激な事を天皇自らが行い、しかもそれが「出自元」であると云う破廉恥な事を「嵯峨天皇」はしたのだ。
だから尚、「青木氏族」は嵯峨天皇を支持しなかった事になろうし現実には無理であろう。
これは「五家五流青木氏」の内の「伊勢と信濃の青木氏」の「社会的な体面立場」を無くしてしまう程の行為であったし、戦いに成ってもおかしくない事であったと考えられる。
然し、経緯で「氏是」で思い留まったのだ。
然し、そこで献納の一切を中止して対応したのだ。
それでも、全てを捨てるかと云う事はせずに、「賜姓五役・伝統と9つの縛りの掟」と「令外官・殖産事業」と「律宗族の役務・祖先神の神明社の創建維持管理」を護っていたのだ。
所謂、「伝統」は氏族のものであり護り続けたのだ。

果たして、これを世間はどう見ていたのだろうか。
つまり社会の目は「嵯峨天皇の仕打ち」を是として「青木氏の姿勢」を否としていたのかである。
「歴史の経緯」がこれをはっきりと物語る。
要するに、語る処の最たる処は「平城天皇の尚侍」の「薬子の変」と呼ばれるものであろう。
我慢しきれず痺れを切らしたのは「桓武派」であったと通説は成っている。
この時期の資料に関する「行」を寄せ集めて「青木氏の歴史」の「化石の出土品」の「繋合わせ」の様に接着して復元したのが「上記の論」と成ったのだが、そもそも「青木氏の歴史観」から観ると、この「尚侍の薬子の変」、実際は「平城太上天皇の変」と呼ばれる「政争」は、結局は反対派の「代理戦争と云う事」に成っていたのであろう。
その証拠に、「平城上皇」が再び政権を取り戻す為に、「嵯峨天皇のいる平安京」にいる事は不利として「出自元の近い平城京」に上皇令で遷都して戻ろうとした。
そこで先ず、最初の作戦は「平城京」に関係のない地域の「五家五流の内の信濃と甲斐」を除いた「伊勢国」・「近江国」・「美濃国」の「三国府」とその関を「嵯峨天皇」は先手を打って固めさせているのだ。
歴史的経緯とその行動からこれで如何に敵視していたかが判る。
然し、これは変だ。
そもそも、京の「平安京」から飛鳥の「平城京」に移動するには、現在の「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・徒歩8時間」しか無く、そもそもその固めた「三国府とその関」はこのルートからは全く関係は戦術上無いのである。
そもそも、地理的距離では「平安京」から真東に「近江国」に2里、そこから「平城京」に真東に9里、そこから「伊勢・名張」まで真東に6里、そこから「美濃」に北東31里の距離にあるのだ。
然し、歴史の史実では「三国府とその関」を固めたとあり間違いなくこれは変だ。
この何気ない史実の点に注目すると、考えられる事は、ただ一つである。
これは「出自元」とのその「能登名張の近江」と「浄橋飽浪の美濃」の「嫁ぎ先」の「青木氏一族を牽制した事」がその位置から明らかに考えられる。
つまり、通説の「平城上皇の行動」には関係が無い事に成る。
もっと云えば、よく知る「出自元の伊勢青木氏の動き」を気にしていた事に成る。
それは「近江と美濃」には伊勢から嫁しているからで、「財力と抑止力を動かされる事」を警戒して「三国を制される事」を嫌ったのでは無いか。
「伊勢と信濃」には禁令上即戦力は無いが、然し、「即戦力」は縁戚の伊賀に在った事を忘れてはならない。
これを要動的に動かされると、「京の東からの物資食料の補給路」を絶たれ、且つ、「平城京に移動で東からの補給路」が出来れば「元の平城京」は成り立つのだ。
「平城上皇の平城京の上皇令」は成功するのだからこれを嫌ったのだ。
だから、それをできるのは「東の青木氏族ライン」である。
この「出自元の青木氏族ラインが動かれる事」を極力嫌い、それは「嵯峨天皇の大義」を失う事に成り兼ねないからであった。
故に、「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・8時間」の「平城上皇の移動」にはそのものには全く関係がないのにも拘わらず、そして「人流物流の関」までも止めたのだ。
現実に、「近衛軍」を廻して「平城上皇の移動」を阻止しているのだ。
このは「阻止の仕方」が有名な史実で、“「裏切り」”"で出来たのだ。
其れしか戦略上は無い。
それは、「桓武天皇の義兄弟の坂上田村麻呂の有名な裏切り」であり、桓武天皇の恩義をとるか天皇の権威をとるかの判断に迫られた事に成り結局は坂上氏の先々の事を考えて説得された事が記録に遺っている。
結果はこの事で一族一門は「裏切り者」として社会から批判され与えられた領地に居られなくなり琵琶湖の北の地の縁戚を頼って逃れ本筋は潰れたのだ。

参考として念の為に前段でも色々な事に関わって来るので何度も論じている事ではあるが、「伊賀の平望王の孫裔」に当たる「高野新笠と光仁天皇」の「子の山部王・桓武天皇」と、「後漢阿多倍王」と「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」と血縁し、「准大臣」に成り、その「長男」が賜姓受けて「坂上氏」を名乗り「桓武天皇」に依って「征夷代将軍」に任じられたのだ。
この「桓武天皇」は「母の高野新笠」の里の「伊賀半国割譲の後漢阿多倍王」のその裔の「平望王・たいらの望王の姓の賜姓」を祖父としている。
この「伊賀のたいら氏の裔の高野新笠の子の桓武天皇」と「阿多倍の直裔の坂上氏」は「阿多倍王」を始祖とする「義弟の子」であるとして、親交と信頼は深く「渡来人」でありながらも「征夷代将軍」まで引き上げた経緯を持つのだ。
「八色の姓」の 真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の「連」に引き上げられ、その後の「征夷討伐の功績」で「宿禰」にまで上り詰めていた。
結局は出自元を重視した「仁明天皇」はこれを放置できず田村麻呂死後に処罰しその立場を奪い「裏切り者」として失うのだ。
これで「平城上皇の政変劇の問題」は解決させたのだが、「青木氏族に降りかかった光仁期から引きづった嵯峨期の難題」も解決したのだ。

更に参考として、「桓武天皇の母」の「高野新笠」の「高野真人族」として賜姓して「真人姓」を与えたが、この「高野」は、そもそも「孝謙天皇の諱号」でもあり、俗称「高野天皇」とも呼ばれたもので、「伊賀の阿多倍王と平望王の裔」として、この「高野」を執って「出自元の格式」を飾ったのだ。
「白壁の妃」としての格式化する為に「称徳天皇の意向」があったと「青木氏口伝逸話」では表現を天皇の事である為にあやふやにして匂わしている。
相当に「称徳天皇」は、この「白壁と井上親王」に気を配っていた事が伺えて、恐らくは史実で正しいのでは無いか。
そうすると、「井上内親王の乱行の原因」がこれで観えて来る。
「妹・阿倍内親王の称徳天皇の仕打ち」が、この「青木氏の環境の中」で苦しんでいるのに「気に成る妃の立場」にあった「新笠」への「高野の賜姓」で、それも「真人格の叙位」で「自分の諱号を与えた」と成るのには全く納得が行かない事で「井上内親王后」は無視された感覚に陥った事は間違いは無いであろう。
それだけに「自らの子供・他人親王の皇太子」の今後の成り行きも危ないと観た事は普通では「猜疑心の精神状態」は極度に昂った事もあるであろう。
これは普通に考えられる事である。

さて、次はそこで何で「高野真人族の格式」を態々与えたかである。
この行為は「与える事」は間違いなく角を立てる事は間違いはない。
取り方に依れば、「母親に真人族格式の叙位」は、その子の格式も「真人族との子」と成り、“皇太子は高野の子だ”と云っている事にも成る。
自分は、確かに「聖武天皇第一王女」ではあるが「出自元から継承位の嗣子」には無く、母は「夫人県犬養広刀自」の「県の格式」しかないし、自らも「伊勢斎王」であるとすると、“皇太子は高野の子だ”と考えるのも格式社会の中では無理のない事ではある。
そこで、それを仕組んだのは、“伊勢青木氏の政所を仕切っていた難波だ”と邪推したとも考えられる。
仮に、この時、后の井上内親王は、「天皇の子の内親王」であったとしても、「青木氏」が既に臣下していたとしても、「永代に持ち得ている伊勢の格式」に勝る家筋は他に無い現実をこれで知った筈である。
故に、どうしょうも無いその「現実の不満の持って行き処・無力感」を「難波」にして「呪い」をかけたのであろう。
現実的にも、「高野の事」が史実なので恐らくはそうであったろう事は充分に予想できる。
要するに、「世の矛盾・無情」を強く感じたのでは無いか。

717年生で744年で「神宮斎王」を退下し、その年の27歳に結婚で、7年後の34歳で「他人親王誕生」とすると、当時としての「女性の寿命55歳」から考えると極めて晩婚であり、「34歳/55」とすると現在で云えば51歳位と成るので、そもそも子供を産める歳では無いし、例え埋めたとしてもその卵子は間違いなく老化していて「健全な子供・水頭症等の欠陥」の出産は医学的に観て困難であろう。
この様に「井上内親王の37歳出産の高齢出産説」もあるので、生理遺伝学的に健全子は大いに疑問である。
念の為に色々な資料から当時は、その意味で多くの記録から早くて「8歳結婚」も通常であったとされる。
例えば「青木氏の妻嫁制度」の中で「女(むすめ)教育」として使われた教本では「8歳」を前提として行われていた事が判っているので、この「晩婚説」は「適格性の問題」を持っていた事は間違いは無いし、「青木氏の中」では当然に、「妻嫁制度」に従ってこの「女(むすめ)教本」の中で例え「井上内親王」であっても「770年の即位」までは「青木氏の伝統」の中で処置されていた事に成るし、取り分け、「高齢婚であった事」から例外なくその難しい「出産」は注目されていた事は間違いは無い。
「白壁」も「通常説54歳」で結婚したと成っているので、これも限界に近い高齢婚であるが男子の場合は、生理学的に3日に一度睾丸に貯めた精子を入れ替えてするので、高齢化は「精子の場合」は無いが「量的な問題」と「体力の問題」が伴う。
史実、「伊勢青木氏の資料」から読み取る範囲では直接生んだかは別として、要するに「子供とされる者」は「当時の高位の慣習」から観て「養嗣の様な者」を含んでいて最低で「13人」とされる筈である。
念の為に、記するが「青木氏族」は例外なく遺伝的に高齢寿命者が多い族で最低でも「平均寿命55歳」の世の中で「74歳以下(当時では135歳相当)」は極めて少ないのが現実である。
これは前段でも詳しく論じたが「仕来り・伝統」として先ず「女系」で「良い卵子・選びやすい」を選び、且つ、「非弱な嗣子」は生まれた直前で選別していた「隠れた仕来り・伝統」があった様であり、それは「明治期まで続いた事は事実である。
これは「四掟に基づく血の欠陥」を取り除く為の「合理的で宿命的な手段」として採用されていたらしく、それが「高寿命系の血筋」と成ったと考えられ、現在でもその特質は消えていない。
この事から考え合わせると、唯一、「白羽の矢」で「女系で繋がる四掟範囲」から外れ「例外女系」と成った「白壁の実子の問題」が在った事は間違いは無いだろうし、当に上記の高齢婚であったのだ。
だから、「政所を差配していた難波の動き」が在った事は間違いのだ。
その証拠に、「四掟の伊賀青木氏と繋がる高野新笠の子の山部王を選んでいた事」は何よりも間違いは無い事だろう。
「770年即位」までの「36年の間」は「伊勢青木氏四家の子」として「山部等を育てる事」に集中していた事が云える。
「近江の市原王」に嫁した「青木氏の子の能登や尾張や湯原」を「光仁天皇の養嗣・つぐしの形」を執り、現に「山部王・桓武天皇」が、天皇に成った時点で「伊賀青木氏」と繋がる「四掟の高野新笠の子の早良」を皇太子に据えているのだ。
その経緯から、これは青木氏等に執っては「子々孫々に響く不名誉な事」である為に記録的な物はない。
然し、「健全子では無く、且つ、女系から外れた他人親王」は「青木氏から阻害されていた事」は充分に考えられる。
その他の人と云う意味のありそうな名が物語る。
他の人と違うと採れる青木氏の資料ではこの字を使っているのだ。
この事で「令外官」として「朝廷」に代わって「商いを営む青木氏」は、最早、「律宗族の伝統」は護りながらも意識的にも「天皇家」に咀嚼忖度する立場には無かった事が云える。
「氏是」にも思いを込めて可成り意識的にも庶民化していた可能性がある。
施基皇子没より96年も経ち「青木氏氏是」を徹底すれば、必然的にそう云う経緯を辿る事は必定であろう。
この事を考えると、裏を返せば、「750年〜765年の青木氏の中」では伊賀の出の「高野新笠」に期待が集まっていた事に成るだろう。
この意味でも、この上記の「高野新笠の高野真人説から来る混乱」と、その「他人親王への疑問」はあった事は先ず間違いは無いだろう。
それを仕切っていたのは、「気侭に世間知らずで聞き分けなく育った者・井上内親王」から「呪われた難波」であった事は充分に考えられる事だ。
これを後勘から観れば、「他の3つの青木氏の源氏化策」とは真逆であったが、「皇位族」に拘らない「意識的な庶民化策」は「良い選択と判断と実行力」であった事がこの事からも云えるのだ。
それは突き詰めれば「賜姓五役の令外官・院号を持つ商いに左右していた事」であろう。

さて、もう少し掘り下げて観るとここからである。
ところが、「平城上皇の平城京への移動」が、この「坂上田村麻呂」を「父桓武天皇の味方・義兄」として信頼し切っていた「平城上皇」は、「政治路線の違い」から「嵯峨天皇との決別」をする為に「平城京移動」は可能と信じていて、これを実行に移したのだ。
ところが、「坂上田村麻呂」が途中で裏切った事で「平城上皇」の「平城京移動」は頓挫し、引き返す羽目と成り、命を守る為に剃髪して僧に成り引き籠もったのだ。
これで「伊勢青木氏と信濃青木氏が推していた桓武天皇派」は衰退する。
これはこれで要するに、「家臣等・810年の薬子の変」が興したとして大儀を繕い取り敢えずは終わったが、然しこの「後遺症」は残り終わらなかったのだ。
当然に「伊勢青木氏」はこの「裏切り」を氏存続の為にも放置しておく事は出来なかったのだ。
これに反発してこの“「坂上氏」と犬猿の仲”と成ったと想像できる。
筵、記録されない事に違和感がある。
然し、これに関わる資料や記録は、不思議に青木氏は勿論の事、公にも出されていないのが現実である。
「天皇家に執って不名誉な事であり公的に成る資料」は無い事には如何にせよ、兎も角も、「伊勢青木氏」には無いのは当然の事であろう事が判る。
「青木氏」から観れば、当時の「時代性・習慣仕来り」から、実は“「裏切り者」”に対する評価は下の下で人間的な扱いとして「厳しい掟」で死を意味したのであったのだ。
故に、何事にも大儀を必要とし、極めて低く扱われているあるからで、「記録に載せる前の問題」であったのだ。
坂上田村麻呂にはこの人を説得するだけの大儀が低かったのだ。
「桓武天皇との義兄弟恩義と氏族の存立の大儀・桓武派」に対して「嵯峨天皇の命だけの大儀・嵯峨派」であって社会は前者を採ったのだ。
だから宿禰族まで成った坂上氏は京には居られなくなり琵琶湖の北の外れの田舎に逃げ延びて隠れ住んだのだ。
普通なら「嵯峨天皇」は庇うであろうが、庇う事は出来なかった位に嵯峨天皇と坂上氏に批判が集中したのだ。
この時、「伊勢」はこの「裏切り」に対してどう動いていたかであるが、献納を中止する経済封鎖を嵯峨天皇に、坂上氏に対しては前段でも論じたが、淀川から大阪湾に運ぶ「殖産品の運搬等の利権の停止・鉱山開発の運搬等」で対抗しているのだ。これで糧を失った坂上氏は衰退したのだ。
この事を後の古書に顛末書として記されている位で是非に歴史観として知って置く必要がある。

例え、さて「神明社の祐筆」に依って「青木氏の歴史」として必然的にこの事に就いて一時記録に遺されたとしても消されている行く宿命を帯びているので遺こらなかったのであろう事が判る。
故に坂上氏に付いては「大蔵氏や内蔵氏」の様に“何某かの記録らしきもの”もないのだ。
つまり、一族を庇いきれなかったと云う事だろう。
「青木氏の氏是や慣習仕来り掟や制度」から観て、この「裏切り者」を認めれば「律宗族で賜姓五役の青木氏」は成り立たないであろう事が判る。
況して、「伊賀に繋がる桓武天皇の義兄の者」がその“「裏切り者」”であったとすれば許す訳には行かなかったと観られる。
「抑止力」を持つが直接武力を持たない律宗族としては遺された手段は伊賀と圧力しか無いだろう。
つまり、歴史的にハッキリしている事は「坂上氏との同祖縁戚関係」にあった「伊賀のたいら氏」も「坂上氏」に猛反発したのだ。
当に四面楚歌の状況であった事に成り、嵯峨天皇も裏切り者を造り出した事から社会の信認は無く成って行ったのだ。
「九州族の始祖と成った弟賜姓大蔵氏」と「陸奥族の始祖と成った三男賜姓内蔵氏・安倍氏の祖」とは遺ったが、長男坂上氏族には戦略的に「伊賀」を使う以外に無かった筈だろう。
当然に「伊賀青木氏」も反発したと成れば、この「一族の関係族」を「伊賀域」から追い出す以外には手段は無くなるだろう。
結論からすると、それの派が伊賀から離れて行った「甲賀族」では無いかと云う事だ。
前段でも何度も論じた様に、室町期には「生き方の路線」で「伊賀と甲賀」に分かれたと成っているが、何も無い「甲賀の山奥」に甲賀系の者等がいきなり逃げたとするには問題がある。
その前の大きな経緯があったと観ていて、「坂上氏一族」は歴史的に「784年からの長岡京」に関わり古書などの資料から、その一族が「約14里南の甲賀域」に住んでいた事が黒くから判っている。
その「甲賀」は「厳浄寺付近」を中心に東西に「西甲賀」と「東甲賀」に分かれていたとされる。
この「北伊賀地域」に隣接する「西甲賀・森林域」の外れに「青木氏菩提寺清光寺」が存在していたとされ、現在でもこの環境は変わっていない。
直接、「現在の国道1号線」でその西外れで止まる「長岡京」に繋がる「東甲賀・近江に繋がる平地域」には忍者屋敷が集中していた事が判っている。

「坂上田村麻呂の一族」が大きく係わったとされる「長岡京」が出来ると、「伊勢」からの「街道整備」が計画され、「長岡京」から「近江」を経由して「北伊賀の入口の鈴鹿峠」を越えて「伊勢国」に入り「亀山街道」を経て、「桑名街道」を通って「伊勢」に入る、これが「現在の関西域の国道1号」で「古来」はここを「斎王行路」と呼ばれていたのだ。
更に遡り「奈良時代」には、平城京から東の幹線道路は、「大和」から「木津」を遡り、「伊賀」を経て「加太峠」から「伊勢」に入る「主要の大和街道」があった。
これが「奈良時代の斎王行路」と呼ばれていたとある。
三大実録の史書に依れば、これは古来の上記の「伊賀域―長岡京―近江―甲賀域―伊賀―伊勢」に関わる「坂上田村麻呂の歴史」を物語る地理であって一致しているのだ。

前段でも何度も論じたが、618年に隋に追われ「後漢の阿知使王と阿多倍王等」は「200万人の職能集団とその家族」を連れて北と南の九州に入り、無戦で九州と関西の手前まで32国/66国を占領して拠点とする薩摩の隼人と阿多に戻ったとある。
朝廷は「阿知使王と阿多倍王」を呼び出し「勢国」の「半国割譲」してこの「阿知使王・阿多隼人定住」と「阿多倍王・伊賀定住」に与えて住まわせ、「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を「阿多倍王」に娶らせその裔を賜姓して拡大させたが、これが上記の三人等とされる。

さて、此処で、もう一度歴史を改めて検証する。
「647年」に「賜姓」を受けて「青木氏」を賜り「勢国」を賜る。
この後に発せられた「好字令714年」に依って地名は全て二字と成った。
「半国割譲」の時は、この時は「勢国・伊勢の前の国名」は、現在の「東甲賀域」までとされた。
この「西甲賀」から「東甲賀の域」を「半国割譲」し、ここを「渡来人の阿多倍王に与えた事」に成る。
結局は「好字令714年」で「甲賀」としたのだが、これには実はその経緯があった。
そもそも、この「甲」には意味があって、これは「八香木」の一つの「甲の神木」でもある。
この神木を以て甲の国としてのだが、更にこの甲には経緯があった。
「三国時代の北魏の八姓」の一つで、「後漢の安帝の父・清河孝の王」が、この「甲の神木の所縁」を以て「劉の姓」から「賀の姓」に変えたと「魏書」にある。
これが半国割譲後に「渡来人の阿多倍王に依って祖先の賀姓から「賀の国」と定められた。
この「賀の国」を西域を上記で説明して「伊勢の伊」から「伊の賀の国」と呼ぶようにしたのだ。
当然に東域を「甲の賀の国」と呼ぶようになったのだ。
伊の賀の国は伊から聖者が護る国とし、甲の賀の国は神木なる聖の国として何れも「聖なる国」としたのだ。
そして、当時は、字画数が「12画数が陰陽説で延喜が良いとされた。
これが「後漢の安帝の父・清河孝の王」の「21代献帝」の時に滅び「阿知使王と阿多倍王」の経緯と成っていて、「半国割譲」で「勢国」の北側を所領としたと成るのだ。
そして、ここを「賀国」としたのだ。

その後にこの「四つの裔系」は分かれて、「伊賀」、「甲賀」、「滋賀」、「敦賀」等にその裔が住み着いた。
其の後の「好字令」で地名は「二字」に成ったが、この時、「伊賀、伊勢」の「伊の字の語源」は、そもそも「伊」の「象形文字」に意があって、「伊」は、そもそも「神を呼び寄せる聖者」の意があり、その右手で「杖」を持ち、その「杖の道具」で「神を導く物」とされた。
つまり、左辺の偏は「神を招く人・聖者」、右辺の旁は神を招く道具の杖の象形文字との「合意語」である。
「右手、杖、人」をこの「三つを組み合わせた象形文字」で、「治める」に繋がる意味を持つ。
つまり、この「伊」の「勢国」で「伊勢国」としたのだ。
もとより「勢の語源」は、「古文書」らに依れば、「神の許にあるその力で世俗の汚れを祓う」の意を持ち、その「祓う事」で「万物のいきおいを益すの意」として捉えられて使われていた。
上記の「伊の意味」と「勢の意味」を組みあせた要するに「好字」にした事に成る。

同然に、「西の賀の国」で「伊にある賀国」で「伊賀国」とした。
その語源は、そもそも「出雲の神」が用いた「神のお告げ」を占う「亀の甲羅」より発したもので、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十干は、「中国五行思想」から来るもので「生命消滅」を分けて説いたものである。
日本に入るとこれを「陰陽説」に使われたのだが、本来は「甲」にすれば最も良いお告げに分類された。
この「甲」を上記の「賀」と組み合わせて「好字」としたのだ。
「長く続く甲の国」を意味したのだ。
因みに、「滋賀」に付いて付け加えると、その象形文字の語源は、左辺の「草」が二つ並んだ処に、上に木冠を着けて、その左辺に「さんずい辺」を着けて流れるを表現したものであり、「育つ」を意味させた文字である。
これを上記の「賀の意味」と育つ・繁栄するの組み合わせて「賀の国の人民の子孫繁栄」を意味させて好字としたものである。
伊賀、甲賀、滋賀、敦賀にはこの様に統一した国としての意味を持たしたのだ
要するに渡来人のこの「坂上氏一族」は、この4つに分流し3代に続いたとされるが、その裔系を多く遺したその一族の主な定住地は、つまり「800年代の主流の定住地域」は、この事から「守護神とする田村神社」が存在する現在の「滋賀県甲賀市付近・本家」だったとされるのだ。
だとすると要するに、「甲の賀国」では「坂上氏同族」の「二つの分流(伊の賀、甲の賀)」が興っていた事に成る。
そして、その「始祖の阿多倍王」は、前段から論じている様に「西の甲賀・北伊賀」に隣接する「伊の賀国、即ち伊賀国」に住む事と成ったとする歴史的な経緯である。

突き詰めれば、「山部王の桓武天皇」と義兄とされる「坂上田村麻呂の坂上氏」であり、その「桓武天皇の母」は「高野新笠」で、「阿多倍王の二代目の高尊王・高望王」で、桓武天皇より「母の祖父・高尊王」に「平望王」の賜姓を賜ったのだ。
要するに、この事は「平望」の「たいら氏の初代」と成る。
この後に、「たいら氏の平國香―平貞盛―平維衡とし、それから・・・4代目平清盛」と歴史は続くのだ。
「伊賀に住していた高野新笠」の父は、「二代目高尊王」とされているが定かであるかは確定できない。
年齢から判断して「高尊王の娘」とすると、当時としては年齢的に極めて高齢と成るので「一族の娘」では無いかとする説が有力であるが、その一族とする説ではこの「三代目の高見王の説」もあり、年齢的にはこの説には合理性があり筆者も賛成している。
つまり、「桓武天皇・山部王」が「天皇」と成った事で、その「母の父」を「一族の者」から「直系尊属」として系譜上で「追尊高見王」とした可能性が高いのだ。
「施基皇子の追尊春日宮天皇」に応じて後から追尊されたとする説もある。
何れにせよ、この「追尊の3説」にせよ「一族の者である事には間違いは無い。
そうすると、論理的にこの「伊賀の裔系」は「西甲賀」までが、上記の「坂上氏」から「桓武賜姓」で「たいら氏」と成った事に成る。

さてそこで問題は、ではその前は「坂上氏」であったのかと云う事に成るが、つまり、何時頃まで「坂上氏」であったのかと云う事である。
これが「薬子の変・810年」での「坂上田村麻呂・811没の裏切り」の「伊勢青木氏の対抗策」に影響したと観ているのだ。
この時点で先帝の桓武天皇の「坂上氏の賜姓」を「平城上皇」は外したと観ているのだ。
「冠位官位」は勿論の事で当然の事であろうし、この「賜姓」は「天智天皇」によるものであって、その賜姓を外す云々は平城上皇にあり、嵯峨天皇の口出しの出来る範囲では無かった。

実はその証拠が遺されていのだ。

その変後も「平城上皇」は「平城京」に滞在した侭でいたが、「嵯峨天皇」は兄の「太上天皇の称号」はそのままとされた。
兄に傷を着けなかったのだ。
更には其の後も「嵯峨天皇の見舞いの行幸」も受けているし、この時、罰を受けた「大宰権帥に遷された親王」や「廃太子と成った親王」も居たが、この「2人皇子等の近親者」にも「四品親王の位」に戻す等の「冠位官位の授与権」を保持していたのだが、要するに何も事件は無かったものとして治め直したのだ。
つまり、「院政の相応の待遇」は保障されていた事が許されていたのだ。
又、本来あり得ない「禁じ手」の「先帝の勅を覆する事」まで行ったのだ。
平城上皇の院政を認めた事に成り、「上皇令」は効果を発揮する状態と成ったのだ。
「出自元の青木氏族」からの圧力を受けていた事に成るのだ。
その一つとして例えば、平城上皇は、“平安京より遷都すべからず”との「桓武天皇の詔勅」を破り、「在京貴族」に対し「平城京への遷都の詔を出す等事」や、「冠位官位の授与の取り消し」や「賜姓や褒賞した者の臣下の者の取り消し」までも「変の措置」としてを盛んに行ったのだ。
信賞必罰等の相当の権力を上皇は握った事に成る。
この様に「変に対する措置」を、あった事はあっとして措置し、上皇にせよ天皇にせよ兄弟は如何にも無かったかの様にも措置した「表裏一体の政治的な措置」を講じたのだ。
出自元の経済的な圧力があったと観ている。
そして、その「証・保証」として「嵯峨天皇」は、この様に「平城上皇」には「ある程度の政権の掌握・院政」を握らせて「政権の安定」を図ったのだ。
恐らくは、総じてこれらの経緯には「出自元の動き」を見計らったと観ているのだ。

要するに恐らくは、「坂上田村麻呂」はこの「裏切り」で「平城上皇の罰」を覚悟したと考えられ、他の「二人裔系の歴史・大蔵氏と内蔵氏」に遺る栄転に比べ、この「坂上氏」には「3代で終わる」と云う不幸が待っていたのだ。
何よりもこの「変」では最も勲功のあつた「田村麻呂の裔」に対して「嵯峨天皇」は褒章どころか身分さえもこれを補償しなかったし、「平城上皇の行動」を防がなかったのだし、何の勲功もしなかったのだ。
つまり、「表向き」は「薬子の変の扱い」を「臣下が興した変」としたのだ。
だからこの理屈から「田村麻呂などに対する処遇」は出来なかったのだし、一度罰した「近親者の処罰」も元に戻す事を余儀なくされて「平城上皇」に委ねて仕舞ったのだ。
普通ならこれでは「嵯峨天皇の立場」は無くなるし、「天皇としての権威」は低下する筈である。

つまり、「変」は「周りの者」が政治的思惑で興したものとして始末し、その「周りの者」の一部が復権を果たしているのだ。
「平城上皇の信賞必罰の権限保持」で出来なかった事が真実本音であろう。
上記の周囲の国が出自元の関係する国々の中で、この歴史経緯を度外視できず、この事から観て、その背景は「出自元の影響・献納の停止」と観ているのだ。

そこで、これ上記の等の「嵯峨天皇と平城上皇の行動論」から観て、“「坂上氏」には「3代で終わる」”の史実は、“果たして3代で裔系が終わった”のかと云う疑問の検証である。
青木氏の歴史観から念の為にして置く。
確かに、変後の「平城上皇の行動」で、「坂上田村麻呂」は「裏切り行為」で罰せられて“「賜姓族を外され坂上氏を返上した」”のだが、「3代の語句表現」は外された事で確かに3代であって、“子孫繁栄は3代で終わった”と云う事では無い筈で、賜姓を外された以上は「別の姓に替える必要が出たと云う事」であろう。
「伊賀、甲賀、滋賀、敦賀の4カ所」に広がっている「渡来人の賀族」は、通常論からそう簡単に裔系が絶える事は先ず無いだろう。

“抑々、「田村麻呂」は「薬子の変・810年2月」の約一年半後の「811年6月没・758年生・53歳」であり、天武期に直、連、忌寸、そして、聖武期に正四位、桓武期では従三位、大忌寸、大宿禰まで上り詰めていた。
その上記の諸流はその裔の許で「宿禰」を賜る”とある。

これで「完全に絶えてはいない事」が判るし、その「裔系」は「嵯峨期」には「甲賀全域」に於いても存在していた事に成るが、然し、その変後の「坂上の姓と冠位」は事実確かに散見できなく成る。
裔系であるかは未確認であるが、「平安期末期頃の二つの歌集」を調べると、「五人の歌人」が確認できるが、「賜姓臣下朝臣族の青木氏の繁栄等」と比較して「宿禰族」まで成っていた「その裔系の子孫繁栄」は、直接に源平戦等に巻き込まれない限りは普通は遺ると考えられるし、史実は巻き込まれている。
然し、間違いなく衰退している事は判るし、少なくと「政治の場と甲賀域」には無いのだ。
現に現在にしても名を遺すほどに同じ道を辿ってきた「九州全土の大蔵氏と北陸全土の内蔵氏」は姓名を変えて枝葉は大繁栄しているのだ。
いざ、宿禰族まで昇進し「族の格式」とそれに伴う「経済の糧」を得て、これから子孫を拡大させ様としたその「ポイント・薬子の変」でその出端を挫かれ抑え込まれた形と成ったのだ。
つまり、その原因と成ったのが、隣の国にいた「青木氏の策」であったと観ているのだ。
政治的には策は「上記の平城上皇の行動」と、経済的には「東甲賀の経済の道」を断つ事であった。
要するに、紙屋院として専売権を持つ「楮生産」と、その「買上げ」を停止を掛ける事であった事が判る。
前段でも論じたが、丁度この時、「長岡と甲賀 米原と甲賀 甲賀と伊勢」とを繋ぐ「交通運搬の要衝点・米原 R1」の「米原―甲賀の杜の全域での楮生産の和紙の停止」が歴史的に起こっていてその時期が一致しているのだし間違いは無い。
一つは「美濃の源氏化への圧力」とされると前段でも論じたが、「米原」が生産が中止後には「美濃の中央の寺尾」の山に「楮生産」は切り替えられていると論じた。

そこで問題は、“ではこの「米原域の楮生産」が「紙屋院の専売権」が認められていた「平安末期」まで本格的に再開されたか”と云う事の解明と成る。
末期の「頼政の1159年の伊豆の問題」が起こり、「伊勢信濃」はここに「融合族」を送り「商いの拠点」を造り、「伊豆楮の生産」を開始した。
つまり、史実として「米原楮が生産中止」に成ったが、その「理由」と、その後に「米原」は再開していないのだ。
「紙屋院」として「専売権」を持っている限りは、引き取らないとすれば「自由市場経済」では無く「部経済下」では「和紙生産」は絶対に出来ない。
明かに「米原楮が生産が中止された事」は、記録に遺る確実な史実であり、特別な生産に関する障害は発生した訳では無いとすると、後は「政治的で恣意的な原因」とされる。
「判断材料」としては、丁度、この少し前には「伊勢青木氏の財」で「近江東側域」を「額田部氏」に依頼して「長期間の干拓灌漑開墾」をして「和紙の原材料の生産」の為の計画を立てその調査が始まっていた。
ここには例え「干拓灌漑開墾」を施したとしても「花崗岩の甲賀の山」から流れ込む「永久真砂の土壌質」には、「楮が適さない事」で、そこで紙屋院の研究から「沈丁花の原材料等」の「上級和紙の画仙紙」が適する事が判明していてその開発に取り組んでいたのだ。
つまり、結局、「雁皮の靭・外皮下の柔らかい内皮」の繊維を中心に使う事と成って、それの生産に適する様に記録では「長期間・20年以上」とあるが、「和紙生産」と「干拓灌漑開墾」が「行の文意」から並行して行われと考えられる。
遂に「近江生産が始まった時期頃」と「米原楮の中止」と上記した「薬子の変の坂上氏への圧力」の重複しているのだ。
「裏切りに対する坂上氏」への「青木氏の圧力」は、「米原楮の中止」と「近江和紙生産」と「美濃寺尾の楮生産の開発」と「後には伊豆楮の生産」は計画的に「一貫した戦略策」として並行して行われたと観ているのだ。
当然に、前段でも論じたが其の後も「伊勢信濃青木氏」を巻き込んだ「桓武天皇派と嵯峨天皇派の戦い」は続いていたと考えられるが、この「青木氏」の「坂上氏裏切りに対する圧力」で「甲賀坂上氏」は「東甲賀」から彼等の「二つの裔系」が定住地とする「滋賀と敦賀」に去ったと観ているのだ。
その証拠に、「東甲賀」には全く無いが「北伊賀」に繋がる「西甲賀」には、「甲賀青木氏」が定住し「清光寺」も「神明社」もその所縁が存在しているのだ。
「坂上氏」が平安初期に住んでいたとする彼等の「守護神の田村神社・宿禰族以上に与えられる権利」は、「東甲賀の東端」に存在したとし、その後に再建されているがここには「坂上氏の尊属の裔」は確認できない。
天智天武期に阿多倍王の裔に三氏の賜姓が成され、最終は宿禰族までに成ったとすれば「賀国・甲賀の差配」は知行地としてその運営は任され、その結果として「知行の糧」として「米原から美濃の国境の東側域まで横に広範囲」に「楮生産を営んでいた事」とされていたとある。
だから、「土壌質」の替わる「美濃の寺尾の森」であったと考えられる。

上記した様に記録に依れば、その「土壌」から、“その「和紙」に対する「楮の質」と「生産効率」は低かった”とあり、故に上記の長期間を掛けて土壌改良までしている事はその証である。
故に、遂には初めて「良質の和紙・画仙紙」と呼ばれる高級で良質な表面とその滑らかで光沢がある紙に仕上がり、墨や岩絵具が滲み難い特徴を持つ「画仙紙の和紙」を造り出したのだ。
この「雁皮の和紙」を「絵画院と繪処預院」の名の下に「青木氏部の長年の研究」で「真砂の土壌」に適した「和紙」を何と編み出したのだ。
そして、それを「近江米原域・甲賀域」で生産させていたと云う経緯を持つのだ。
要するに、ここに目を着け“「圧力の許を見出した”と云う事だろう。圧力を掛けたのだ。
そして「停止後の生産」は、「干拓灌漑開墾」が済んだ「西甲賀」で行わせたと成ったのだ。
この歴史の経緯には合理性がある。
これで院号を持つ青木氏のこの「質と量」を理由に「青木氏の生産中止の届け出の大儀」は成り立ったのだ。
当然にその得られていた糧は低くなり、これが無くなれば坂上一族を生かして行く事は不可能と成り得る。
当然に米穀物は真砂である限りは極めて低いとすると、坂上氏の本家の裔は必然的に滋賀と敦賀に避難して行くだろう事は必然である。
況してや、上記した様に裏切った以上は、「平城上皇」が依然として「院政」を敷く以上は、朝廷内に遺る事は宿禰族であったとしても何の意味も持たず難しくなるも必定である。
故に、「記録の表現」が、“実質3代”としたと考えられる。
記録は「昔方式の意味含み」でそれを相手に悟らせる表現で、「適格に歴史の経緯の状況」を表現できていると観るのだ。

注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。

「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」に続く。(P60)


  [No.392] Re:「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/10/25(Mon) 09:06:54

> 「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」の末尾


> 注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
> この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
> 殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
> この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
> 歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
> 「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
> 当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。
>

「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」

ここから67に続く

さて、本事件も斯くの如しで、最長で平安末期まで「東甲賀の坂上族」に実質350年間の間、「経済的な圧力を掛け続けた事}に成るが、然し、歴史的にはその圧力の必要性が無くなった「寺尾生産の以降期」までの間であろう。

「青木氏」に執っては「裏切りの坂上氏」が朝廷内で宿禰族として権力の幅を利かされている事は好ましくは絶対に無い。
世の常として「信用のおけない族の存在」は絶対に影響のない程度まで排除しておく必要がある。
それは「嵯峨天皇」に依って「賜姓」を先ず剥奪し「冠位」を外された事にあったろう。
それでなければ「賜姓五役」と「令外官」は務まらないし、そもそも「専売権を持つ殖産等」を始めとした「商い」は無理である。
丁度、この時に「嵯峨天皇」から形式上は確実に「賜姓族と皇親族」を外されている事に成るのだ。
これは偶然ではない。
これは「嵯峨天皇の対抗策」であったとも考えられる。
それには「青木氏」は対抗して「献納金・俱納金・冥加金」を停止して応じたのだ。
然し、当然に「予想できる対抗策」では、「青木氏」に与えられた“「先帝等が出した専売権の剥奪」は出した”とする記録はどこにも散見できないのだ。
その理由には三つある。

一つは、当時は未だ「市場経済」ではなく「部経済」であった以上は、「献納停止の対抗策で専売権剥奪」は朝廷内の経済が麻痺する事。
要するに「剥奪令を出す事」でその荒波が自分にも返ってくると云う危機感である。
二つは、「先帝が出した勅」は覆さない事の掟がある事。
「平城上皇」が「遷都令」で覆したが、この行為は「自己の勅の信頼度」を弱める事に成る。
三つは、上記の「薬子の変」で論じた様に「完全決裂」を望んでいなかった事。
これは「臣下が興したとしたする大義」が自ら崩す事に成る。
四つは、「自らの出自元」を破壊すれば、それこそ「天皇家」を揺るがす「骨肉の争いとして泥沼の戦い」と発展する事。
これは「自らの汚名」に成る。
この「第三の大義」も崩れるし、そうなれば「天皇家」も二つに割れ、「青木氏」も「抑止力」を最大現に使って生き残ろうとするだろうし、結局は「権威と財力の戦い」と成り、勝負の結果は「権威」をも持つ「桓武派・上皇派の青木氏」が勝利する。
従って、以上の「四つの判断」から“「予想できる対抗策」は出せなかった”と考えられるのだ。
それを見越せば「嵯峨天皇に味方した坂上氏」は、“素直に甲賀から引き上げる事”が子孫を遺す意味で「最上策」と成る。
上記で“「田村麻呂」は覚悟した”とするのは、要するに、“ここに帰する”と考えた事に間違いは無いが、その「歴史の経緯と結果」は当にその様に成っているのだ。

筆者なら「上皇・824没」の「命」に従うが、つまり、“田村麻呂は判断ミスをした”と観ているのだ。
そもそも、興る事と云えば、取り敢えずは「遷都と云う事」に収まるだけであり、飽く迄も「4年在位後の院政・1年」である以上は、何時かはその権力は「嵯峨天皇」に戻る所以であろう。
元々、「平安京」に都があって「平城上皇」は元の「平城京」で住んでいたのだし、「信賞必罰の院政の大権」を敷いた以上は「平城京」でも何の問題もない。
記録から、「平城京」に住んでいた時から「嵯峨天皇」の「朝貢と朝覲行幸」を数度既に受けているのだし、これは認めていた事を意味するし、それに近くには「伊勢神宮」もあるのだ。
つまり、通説で云う様に,これでは「平城上皇」が“政権を奪い戻す”と云う説の事にはそもそも成らないだろう。

記録に依れば、「坂上氏」は既に変の時には引退していて、「桓武天皇と平城上皇」とその「出自元」に恩義があり、「宿禰族」まで引き上げられ「甲賀」を領地として獲得していたのだ。
然し、抑々、何のその恩義も無い「嵯峨天皇」に請われて「自軍」を廻して道を塞ぐ行為を執ったすと云う事にある。
「桓武派」を「田村麻呂の名声」で引き込む作戦であった事は記録にもあり、要するに「坂上一族の今後の安寧」を願って「桓武派の病弱な平城上皇」より「現天皇側」に日和見で着いたのだ。
「青木氏を含む桓武派が対抗して来る事」は、充分に読めていた筈でありながらも、ここで「田村麻呂」は更に取り返しのつかない次の「二つの読み違いのミス」をした。
一つは、「変」は臣下が起こした変とされた事
二つは、「地位」を失うと思われた「平城天皇」が院政を敷いた事
要するに、その「院政」が「天皇の持つ大権の生殺与奪」に繋がる「信賞必罰の大権」を握った事にある。
これで結局は「甲賀」を失ったし、「甲賀」を失えば「宿禰族の冠位」も失う破目と成った。
其処に「青木氏の経済的な対抗策」が相乗的に効いたのだ。

「嵯峨天皇と伊勢青木氏との争い」は記録的に観ると「845年」まで続いた事に成る。
その後に[桓武派であった嵯峨天皇の子供」の「仁明天皇」に依ってこの修復を図って関係性は正常な状態に戻したのだ。
これは「朝廷の経済的な復興」から観て、その原因と成る一つは「殖産増加からの発展」と二つは「献納の復活経緯」から読み取れる。

そこで「坂上氏の甲賀での経緯」は判ったとして、「伊賀、甲賀と別れた」とする前に、既に「平安期」には「伊賀」から「伊賀の北域に住んでいた坂上氏一族・北伊」が「東甲賀」に移動していたとしていて、更にもう「一つの移動事件」が起こっていた。
「武家社会の鎌倉期直前」には、「伊賀域」と「西甲賀域」では再び「生き方の路線・傭兵と雇用」の事件が発生した。
平安期では「坂上氏一族の裔系」は上記の事件で「東甲賀」に、更に「滋賀と敦賀」に完全に移動していた事に成るのだが、室町期では「雇用・仕官」を前提に起こった論争事件では遺された一部共存組の「西甲賀の裔系」も「東甲賀」に移動したのだ。
結局は、「北伊賀の者等」は記録に遺る様に「西甲賀」に移動したのだ。
その「記録」が遺っていて「信長の妾」となった「北伊賀に住んでいた甲賀青木氏者等」も結局は「西甲賀」を経由して「近江に流れた」がその後の「経緯・全貌」は判らない。

これが、要するに「一族の関係族を伊賀域から追い出す手段」と成っていたのでは無いかと観ているのだ。
この事で「伊賀」と「西甲賀」は、「敏達天皇の芽淳王の娘」との間に出来た「渡来人・二世族坂上氏の裔系」では無い「元祖の完全な渡来人」の「後漢阿多倍王の裔系の定住地」と成ったのだ。
つまり、上記した様に「伊賀」に朝廷から受領された「伊勢国の半国割譲」で定住した「阿多倍王―高尊王―高見王」とし、その「后妃嬪妾」は全て「光仁天皇から桓武天皇」までの「伊勢の青木氏の女(むすめ)」であり、彼女等は「追尊王女」として「後付け・追尊」されている事が判るが、歴史的に判るのは「妾子の高野新笠・伊賀族以外」には全く判っていない。
然し、筆者は「伊賀青木氏」が存在する以上は、「仲介する事」は間違いは無い筈で、その人は「伊勢伊賀郷士50衆の娘の妾子」であったと考えている。
その証拠に「後の信長の伊賀攻め」でこの「伊賀者」は徹底し籠城し「総攻撃の前夜」に「伊賀青木氏と伊勢青木氏」とが、「伊賀郷士21士中の3士」は「信長」に味方し裏切ったが、必死の覚悟で「残りの伊賀18士中11士」を何とか救い出して、「伊勢青木氏の清蓮寺城・平寺城」に匿っていたこの「史実」は「血筋」を繋いでいた何よりの証拠ではないか。
「伊賀郷士」が「伊勢郷士衆50衆の中」に在るのもそれを物語るし、前段でも論じた様に「伊勢殖産」でも資料の表現の一部に遺る様に、要するに「家族の一員」でもあったのだ。
これは先ず間違いは無いだろう。
要するに、「伊賀に嫁いだ娘」は「青木氏の女系の中に在った」という事だ。
つまり、「青木氏」から観れば「氏族である事」に成るのだ。

因みに前段でも論じたが念の為に追記して置くと、だから、「以仁王の乱の失敗」で「頼政の子孫の三人宗綱と有綱と叔父高綱」の「助命嘆願書」を「伊賀の女・老女と記されている」のこの“「老女”を仲介にして届けられた」として記されているのだ。
この“「老女」”とは「確定の研究中」であるが、検証の結論は「伊勢平氏維衡の妾・源満快娘 1」では無いかと観ている。

その検証は次の通りである。
系譜は、「維衡・推測980年~1065年頃―正度・生没不詳―正衡・生没不詳―正盛・?~1121年―忠盛・1096年~1153年―清盛・1118年~1181年」と続くのである。
つまり、この事から時系列では「維衡」は「正盛」が生まれた頃まで生きていた事に成る。
「桓武平氏の清盛」からすれば「伊勢平氏の始祖の維衡」はそんなに遠い人では無かった事に成り、「85歳の長寿・現在で云えば146歳に相当」であった事から、「噂程度の口伝と始祖」でもあったのでこの「伝統」は在った事に成る。
要するに“老女は知らない先祖”と云う事では無かった筈である。
必然的にその「若い妾・源満快娘 1」は「清盛の祖父正盛・?から1121年」の「老女の人・姥程度」に成り得る。
故に、その「絆」から「仲介の役」を担ったのだとされる。

更に検証を進める。
その「根拠」は、この者は、「清和源氏の始祖源経基の五男」で「満仲の異母弟満快」であり、「桓武平氏・伊勢平氏の清盛」から云えば、「伊賀の伊勢平氏と繋がった源氏の娘」とは、この「娘の者」と次の「4娘の者」である事に成る。
この「4娘の者」が、「伊勢平氏維衡の子」の「伊賀}に住した「平國香の妾」で「源護娘 2」とあり、これは「嵯峨源氏」であり、「老女」とするには「清盛の時代」に近いが、「河内源氏」からすれば、「疎遠の摂津源氏」では無く、「助命嘆願をする程の縁」は系譜からは最早無い。
後には、「清盛の祖父」に当たる「正盛・1121年没」の「妾の源義忠娘 3」と「妾の源有賢娘 4」と、「父に当たる忠盛・1096年から1153年」の「妾の源信雅娘 5」があり、これ等は年代的に極めて近い。
そこでこの五者が「伊賀」に住したかであるし、この者等はそもそも「疎遠の河内源氏」であり「摂津源氏」ではないので無関係である。
「清盛の父の忠盛」が「1145年」に「播磨国」を「知行地」として任じられ、「伊賀」を離れて一族移動定住したので、「清盛の父の忠盛・1096年から1153年」は、この事から初期は確かに「伊賀」に住んでいた事に成る。
「助命嘆願書の事件」は、「1180年の宇治平等院の戦い」で自決で敗死し、早期に鎮圧されたが、この時の事であるので、「忠盛の妾の源信雅娘 5」は全く当たらない。

そこで「正盛」は「1121年の以前」は間違いなく「伊賀国」に住していた事に成るが、,この「3人」は[河内源氏の政略婚」である。
従って、少なくとも「老女」とするには、「正盛の妾の源義忠娘 3と源有賢娘 4」の二人に絞られる事に成るが、「河内源氏の最盛期の人物」でありこれも当たらない。
つまり、「維衡から4代目」に当たり「清盛より3代目前の叔父」に当たる事に成る。
この“「源義忠」”は歴史的に極めて「有名な人物」で、「平家との和合策」を積極的に執りその為に「味方から暗殺」を受けた「歴史的に遺る有名な人物」である。
この「3と4の2人の娘の妻嫁」は時代的に符号一致するが、これも「和合策の所以」ではあるのだか、そもそもこれも「最盛期の河内源氏」であり「助命嘆願の条件」にそもそも当たらない。
依って、検証の結果は「伊勢平氏維衡の妻・源満快娘 1」だけに絞られる事に成るが、これも[時代性」としては多少はずれている。

そこで念の為にこのズレを確かめて観る。
「清盛」に執つては、「2〜5」にはそもそも「助命嘆願の条件」には当てはまらない。
然し、「伊勢平氏の桓武平氏の始祖」とする「維衡の妻」には心は動くだろう。
その「老女の人物」が「清盛」に執って生存しているか否かよりも、その「人の名」を使った「助命嘆願書」には「個人的感情」では無く、先ず「桓武平氏の始祖とする大きな大義」が生まれる。
故に、筆者は「記録」には「匿名・特名」とせずに「青木氏祐筆」は「老女とする表現」を使ったと観ているのだ。
そうすると、この「助命嘆願書の記載」には、「維衡の妻・源満快娘 1」の事に付いては、「伝統」に則って「女墓」に刻まれている筈で、「浄土宗の戒律」に則って「院殿居士の伝統の戒名」を必ず記したと観ているのだ。
然し、現在の処では「一族の平氏播磨移動の際」に墓所も移されてそれは不明とに成っているのであるし、「伊賀の所以」は上記した様に時代と共に変化した。
「伊賀」は、上記の「坂上氏の事件」と共に、この「助命嘆願の事件」にも関わり、後に論じるが時代と共に期せずして“「伊賀青木氏化した」”と云えるのだ。
故に、その後の事も上記した様に「青木氏祐筆」に依って「歴史的な史実」を追跡されて「経緯の詳細」が記されているのだと観られる。

要は、先ず条件として「清盛との近い所縁」にあり、「大儀」が得られない限りは「情」だけではそうでなければ動かないだろう。
だとすると、「998年から1185年」までの「維衡・85歳没の若妾妻・源満快娘1」にどうしても成る。
「摂津源氏の歴史的経緯」から観て、「若妾妻・源満快娘1」は確かに「時代性のズレの事」もあるが、それも相当に若かったと考えられ、それ故に史実として「摂津」から再び「伊賀に嫁いだ事」に成る。
ここで「重要な事」は、「摂津源氏」は、「河内源氏」と違い「嵯峨天皇の9つの縛りの伝統・真人族に課せた必要条件」をある程度に護りながら、「青木氏族」とは別の範囲の処で、中でも「四掟と四家の二つの制度」を唯一に敷いていたのだ。
つまり、朝臣族では無く摂津源氏は「真人族扱いの源氏・頼政の正三位昇格が証明」とされていた事に成る。
上記の通りに、その「摂津源氏の四掟」の中に、この「伊賀の伊勢平氏」が入っていたと成るのだ。
その意味で「青木氏」とは「伊賀」で「初期の氏族形成時」から「伊賀青木氏」は勿論の事ではあるが、「摂津四掟四家」での「伊賀接点としては繋がっていた事」に成る。

つまり、「伊賀青木氏」と「伊勢青木氏の出自元」で繋がっていたのだ。
唯、それが、全て「正妻」ではなく、「后妃嬪妾の制度」の「妾階級扱い」であり、故に伝統に基づき「歴史的記録」は遺され難いのだし、但し、ある条件下で記録としては遺される場合もあった。
ここに「繋がりの意味」があり、その「摂津四掟の繋がり方」が「ぎりぎりの処」で繋がっていた事を示すが、要するにこの「四掟」は「全て政略婚」ではあるが、これは「軽度の政略婚」と成ろう。
その「妾の意味」で「軽度の政略婚」とすれば「助命嘆願の清盛の扱い」も違って来るだろう。
然し、「清盛」がこれを認めた限りは、「重軽の政略婚」とは別の処で認めた事に成ると云う事に成る。

同然に実は証とする事がこれ以外に興っていて、この時期、前段でも論じたが「伊勢青木氏の京綱事件・摂津源氏」と「信濃青木氏の国友事件・摂津源氏」の二つの事件が同時に興っていて、前段でも論じた様にこれには「伊豆事件」も連動しているのだ。
それはこの「源満快」は、記録には「下野守を務めた後」に、「信濃にその裔は土着した」とあり、これを所縁で「源平戦で負けた場合の子孫存続の為の策」として「国友」を「正三位の頼政」は「信濃に預けた経緯」であったのだ。
記録にもその様に記されている。
「信濃」には、更に証として「北の摂津源氏」と「美濃よりの南の河内源氏」とが土着したとあり、その「裔系之記録の時代性」から観て、これの「真偽」には「後付けの疑問」が強く残る。
同じ地域に犬猿の仲もあるが「摂津源氏」と「河内源氏」が住む事は住み分けの掟としての考え方の違いもあって本来は無い
然し、「北の摂津源氏の裔」に付いては間違いなく史実であろう。
これに「系譜偏纂の為に後付け利用」で「美濃に近い事」から「南の河内源氏の系譜」を託けたと観られる。
だとすると、「源満快の裔系」の「北の摂津源氏の信濃土着」は、この経緯から「生没不明と成っている維衡・85歳没」の「若妾妻・源満快娘1」は相当に若い事が云える。

そして同時期で同然の事が絡んで興っていて、因みにこの「四掟の制度」を破って「伊勢青木氏」に入籍した「摂津源氏の仲綱の京綱・嬪子四男」も「乳飲子」であった事が記録には記されていて、その母は「入嫁後の2年程度」で「後家・初めて後家という言葉が使われたとしている」として「伊勢青木氏」に戻っている。
つまり、これは「以仁王の乱」を控えた「頼政の子孫保全の為の策」であった事が云えるが、その「青木氏からの四掟」では無い「摂津源氏の四家の主家の仲綱の嬪」として入った「伊勢青木氏の女(むすめ)」が直ぐに「後家で戻った」とすれば、「嬪妾扱い」から観てもここでも相当に「若かった事」が云える。
「源満快」は「娘」を「嫁・妾」として差し出している以上は、「乱1180年前」で、尚且つ、「没1081年前」での「妾の娘」とすると、「当時の平均寿命55歳」からすると、少なくと「妾を迎えられる可能な範囲」では「30年前の1050年から1060年頃」と成るだろう。
この時、「若い」とする「当時の女の最低年齢の限界」を、何度も伝統で論じているが、史実として「最低で8歳・平均寿命55歳」で「早熟」であったと「青木氏の資料」でも記されている」とすると、仮に「老女・85歳程度」として記されている以上は「1060+85=1145年の没」と成り、丁度、「播磨に移動定住する前の時期・直前」まで生きていた事に成る。
この「老女の1145年」は「忠盛1096年から1153年」の時代である。

この検証の「嫁ぎ年齢8歳」としては「清盛・1118年から1181年」からすると、“「知らない人では無い事・認識あり」”に成る。
「青木氏の女(むすめ)の資料」では、嫁家制度の「女(むすめ)」では最高で「13歳から15歳」が「通常の年齢」であったので、どんなに考えても「1137年頃」と成る。
当時の「平均寿命」から計算すると、現在では、「23歳から24歳」と成るので適格性から観て「1137年から1145年の検証の「清盛・1118年から1181年」は正しい事に結果として出る。
「清盛19歳から27歳の時」にこの「老女に会っていた居た事」に成る。
この「検証」は、「記録の老女記載・現在寿命133歳相当」を前提として符号一致して矛盾が無いだろう。
この「老女との記載」は、現在の133歳に相当とするとして、当に「神に近い白髪の老女」と成り得て、「当時の習慣仕来り掟」から、「氏族に執つての尊敬の対象」として「神扱い」であった筈である。
念の為に奈良期から平安期の過去の慣習では、「女(むすめ)」の「嫁ぎ年齢」は必ずしも「女(むすめ)」の適齢期に達していなくても嫁する事は盛んにしてあったとされ、中には江戸期の記録にも散見できる程なので、必ずしも適齢期には拘っていなかった事がある。

上記で検証した様に、「維衡・85歳没」も「伊勢平氏の始祖」であり、且つ、同然に共に「氏族に執つての尊敬の対象であった事」がこの事から云える。
「清盛」は少なくとも、この「大儀」としては、この「老女の扱い・助命嘆願」について「氏族に背くような扱い」は出来なかった事が云える。
それだけにその「扱いは慎重にした事」が云える。

そうすると、さて、次にこの「助命嘆願書を書く事」を誰が企んだかである。
筆者は、「青木氏の資料」にこの様な「余りの詳細な経緯」が遺る限り、「平等院で自決し滅び、若い子孫を密かに逃がした事」を既に知っている者と成る。
それは「逃がした者」であろう。
これを「必然的に成し得る者」としては、この資料には「薩薩摩までの実に詳細な経緯を遺している事」の以上は間違いなく「伊勢青木氏である事」に成る。
この「詳細な経緯」は、内容の時代経緯から「以仁王の乱の事件後」−「日向」―「薩摩」までの「全体の経緯」が事細かく書かれている。
という事は、これは「青木氏に関わる事」として一度に書かれたものでは無く何回かに依って「祐筆」に依って「経緯に従い追記された事」に成る。
その記録には、最終には、「黒田藩の傭兵」と「下青木、上青木の呼称」まで書き留めている処を観ると、「1180年から1620年頃までの歴史的な関わり具合」を「歴史の幅」として記していた事に成るのだ。
但し、「三つの地域部位の由縁」として「伊賀、日向、大口の青木氏に関わる事」として纏められ何度かに追記されているのだ。

但し、この関係する「日向青木氏・大口青木氏」に付いては必要なので下記で論じる。

それを筆者が「行の読み込み」をして総合的に解釈して論じている。
記録は何も態々、「伊賀の事に付いての事」であって、「摂津源氏の事」を書き記しているものでは決してない。


では、これが「伊賀の事に付いての事」であるとすると、「伊賀青木氏に関わる事として」と成るので、この「助命嘆願の件」は、多少なりとも「伊賀青木氏に関わっていた事」にも成るだろうがそれがどうもそうで無い様だ。

さて、“どの様に関わっていたのか”であるが、「史実を含む詳細」は「四掟の範囲の血縁接点」はないのであるから、“無い”は当然で「糸口を見つけ出す事」には全く判らない。
然し、「助命嘆願」と「大口村の浄土宗寺住職・特定できる」にだけは関わっている事は「文意の行」から確かである。

では、それは何なのかである。
導き出される当然の答えは、「京綱事件だけ・伊勢青木氏には記録されている事」と「公的資料でも確認できる事」である。
つまり「頼政の乱の直前」にこの「二つの事件の策」が不思議に実行された云う事なのだ。
そもそも乱の混雑の前にこんな面倒な事は普通はしないであろうがしたのだから其れだけの意味を持っていたと云う事だ。
恐らくは、「流れ」としては、この「京綱の継嗣」は「女系の青木氏」では「青木氏の伝統」からして「異例事」であり、その「異例事」は「630年間無かった事」である程だ。
従って、その「異例事」に付いては、「四家の嗣子」が「青木氏以外」から出自していないが、然し、話が決着したのは、「継嗣の母」は、確かな事は「嫁家制度の青木氏の女(むすめ)」であって、それも「氏族の伊勢郷士」に嫁いだ「女(むすめ)」が「優秀な嗣子」に対して「青木氏」を興させて「福家の家人」として「四家」に入れると云う「家人仕組み」があるが、この「家人仕組み」として、「氏族の伊勢郷士」から「氏族では無い四掟外の摂津源氏」にと考えてこの「異例事」の「話し合い」は最終決着したのではないかと予想している。
摂津源氏が「四家の氏族では無い」としても、元は「皇位族の朝臣族同士」とすれば「一つの朝臣氏族」と考えれば、「嵯峨期の掟」に基づき摂津源氏は何とか最低限の処で「四家制度」を敷いている。
それ故に「氏族相当」として考えて、「氏人の氏族伊勢郷士50衆」の「一族同意」を得たと考えられる。
然し、隣の「伊賀青木氏」もいる「伊賀」には、「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1が嫁していた事」は知っていたとすれば、この「京綱の事件に含む内意」も既に読み取れていた事に成る。

それは「乱の決意の失敗時」に何らかの形で「宗綱等の裔の救出」を内意として依頼していたのではないかと云う事なのだ。
その時に、「以仁王の令旨」を廻したが、「王位の令旨であった事」もあって初期には思い掛けなくも「他の源氏一族は動かなかった史実の事・初期段階・新宮源氏が全国を説得の為に廻った」に原因があったのでないだろうか。
前段でも論じたが、「戦う前」に既に「失敗を決意していた・源氏族蜂起の切っ掛けを造る目的」と観られるが、筆者は更にその前に敢えて「失敗覚悟で起こした乱」であったと観ていて、その為にも「京綱と国友の二つの事件」があって、それ故に「三つ目の事件」として「宗綱等の裔の救出の依頼」が一連にしてあったと観ているのだ。
然し、其処まで「青木氏がリスクを請け負う必要性」は何もないし、応じなければならない「摂津源氏に対して義理」もない。

では、何故、「伊勢青木氏」は「宗綱等の裔の救出」の「助命嘆願書の作成」に動いたかである。
「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1の老女」が独自に動く事はそもそも不可能であるし、周囲は敵であるので、そんな動きは勝手に絶対に出来ない。
では、それをさせたのは何かであって、それが「福家を通じて伊賀青木氏」では無かったかと云う筆者の説である。
何故ならば、それは上記で論じた様に、「伊勢平氏の始祖の維衡」の「桓武平氏の始祖の阿多倍王、高尊王、平望王、高見王」との「伊賀青木氏との血縁繋がり」であろうと観ている。
況や、「伊勢平氏の祖」の更に「始祖の族」でにである。
何を云わんとしているかと云えば、これは「伊賀青木氏の位置づけに関わる事」であるからだ。
それは、「桓武天皇の出自元」であり、「前段からの高野新笠の出自元」でもあり、「伊勢平氏の祖」からしても「氏上様、御師様」で呼ばれていた様に、突き詰めれば「律宗族の祖」の「始祖の始祖の始祖である事」に成る。
要するに、当時の「古来の氏上制度」からすると、「神の領域の筋目」と成っていたのだ。
これで充分だが、そもそも「不毛な山郷の真砂の村での糧・伊賀」だけでは一族は生きていけない。
古来より「伊勢伊賀」は資料にもある様に、そもそも切っても切れない「糧の運命共同体」であって、そこに前段でも論じたが「殖産の商い」で「富を獲得している運命共同体」でもあったのだ。
だから奈良期の古くから「氏上様、御師様、律宗様、得宗家」と呼ばれていた所以である。
この呼称がこれを証明している。
「国幣社の神明社を守護神としている事・神職の柏紋の青木氏」を一つ捉えても「尊敬対象の…神様」であった筈である。


此処で、詳しく歴史観を論じるので話は外れるが、予備知識として「御師様」に付いて前段でも論じたが「歴史観」として誤解の無い様に改めて記する。
そもそも、「御」は兎も角も、それは先ず上記した様に「師の語源」にあって、「師の意味する処」はその「語源の下」で奈良期から室町中期まで使われていたが、江戸期に成ってこれが「別の意味」で使われる様に成った。
寧ろ、成ったと云うよりは“使われる様にした”と云う事の方が正しいだろう。

さて、そこでそもそも「文字の生まれた中国」では、「師の象形文字」は「左の偏」は「段」を二つ重ねたもので「平坦な丘の形」を意味を成し、「右の旁」も「小高い土地」の上に建てられた「風向きを知る旗」の形を表す。
即ち、「吹き流しを表した形」を意味し、この「二つの平岡」を象形する事で、歴史的にここには「見張りの効く岡の上」、突き詰めれば「近衛軍を置く位置」として決められ、初期に中国ではこれを意味し扱われていた文字であった。
そして、この「小高い丘の上の近衛軍」には、当然に「名誉」があって、それを「格式ある指揮する者・尊敬する指揮者・指導者」をこの「象形の師」を使って表現したのだ。
これが「御師の真の語源」だ。
だから「賜姓朝臣族の臣下族の青木氏」は「御師の呼称」に成るのである。

そこで、最初はこの上記の「中国の制度」に学んで「奈良期の天智天皇の近親の者」から「賜姓臣下朝臣族」が成り得る「近衛軍」を作った経緯と成るのだ。
前段や上記した様に、そこでこの「近衛軍の師」は「天皇の寝所」に「近侍・さぶろうから侍のサムライの語源」したが、これをこの「賜姓五役の一つ」として「伊勢青木氏」の「四等位最上位の左衛門上佐」の「最高位にいた事」に成るのだ。
故に「四家の福家の継承者」はこの「・・・左衛門上佐」を襲名としている「伝統」を持つのだ。
更に、其の上に「伊勢神宮を護る伊勢王位」にもあって、それ故に「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を「守護神」としていて、「皇位族朝臣族」としての「伝統・9つの縛りの掟の律宗族」を頑なに護り、これらの「格式所以」を以て、上記する「師としての位置」にいたのだ。
この事から、「伊勢郷士衆50衆の氏族」から「衆の師」として崇められて「御師様」と長く呼ばれるに至っていたいたのだ。
この「御師様の格式」は「嵯峨期」に強引に打ち消されたが、依然として永代であった事に依り「御師様の呼称・」は江戸期末直前まで続けられたのだ。
況や、此処で云う“「御師様」”とは、「青木氏の歴史観」に基づく呼称を意味するのだ。

ところが、この「江戸期」に成って、この「格式呼称の前提の歴史観」は世間では完全に忘れ去られ無く成り、この結果として、この「御師様の呼称の意・商業の長意」は替わって行ったのだ。
寧ろ、「幕府の都合」によって変えたのであろう。
故に、「各地・24地域」に散在する過去に同じ「近衛軍の御師の立場」であった「秀郷流賜姓青木氏とその一門等」に声をかけて、前段でも論じた様に「15の商業組合を造った経緯」を持つのだ。
必然として、この最初にスタートした「全国15組合員を一つの円圏」として「伊勢・伊勢神宮」を中心としての「15の経済圏」を造ろうとしてこれは成功したのだ。
遂に、それを拡大して「摂津・大阪までの経済圏」として拡大させたのだ。
この時、この中心となった「伊勢屋・青木氏」が担保する「御師券」と呼称する「信用幣・紙幣」を発行して、「一大経済圏」を構築したのだ。
この事から何時しか誤解されて、「伊勢神宮参詣に関わるのみの経済圏」の「店の事」を「御師・おんし」と成ったと通説しているのだが、これは明らかに間違いであって「江戸期の時代の語意」が「奈良期平安期の語意」と成り得る事は100%無く、よくある「通説の間違い・歴史観の勘違い」である。
飽く迄も、此処で云う“「御師様・おんしさま」”とは、「奈良期、平安期中期頃の語意」である。
念の為に、その証拠に上記の「奈良期の歴史的経緯」から論じると、「出雲朝廷」でも同然にこの制度は中国から伝えられていて歴史的にあったと記録され、矢張り、「御師・おし」と呼称されていたとする論説記録がある。

そこでこの「御の語源」は、「偏の複数人」とその中央の象形文字の意は「走る」と「右旁の車」で、「皇帝を乗せる牛車」を意味し、其れを以って「尊敬字」として扱われた「漢語」であって、日本に伝わった段階で、尚、「敬語としての意味合い」が強く成り「大・おお」を着けて使用する様に成ったのだ。
語源的に当初は、韻語として「おほみ」から「おおん」と成り、其処から「おん」と「お」を使い分ける様に成ったとされる。
「出雲朝廷」では「中国からの使者」から伝わったとされ、その後に「和語」として「神明社の詔に使う韻語」を使わず先ず略されて使われたとしていて「お」でつかわれたと記録されている。
それがその後に「大和朝廷」に入り、「神社の韻語」として「おほみ」から「おおん」か「おん」に変化した経緯と成ったとされる。
故に、先ず「出雲」で「御師のおし」から大和で「御師のおんし」と成った事に成るのだ。
「伊勢の記録」では使い分けされているので「おし」として記されているが呼称で伝わったのは「おんし」である。

実は、この「御師様」には、「福家様」や「律宗様」や「得宗家様」や「氏上様」等の呼称と共に並行して使い分けして呼称されていたのだ。
これは、つまり、「呼ぶ人の範囲」に依って使われていた事が判っている。
恐らくは、漢字から判る為に明記されていないが、「福家様」は「四家の人」、「律宗様」は「全国の青木氏神明社神職の人々」、「得宗家様」は「家人の人々」、「御師様」は「伊勢全体の人」で、「氏上様」は「氏族の長」としていた事に成る。
この「氏上様」は「伊勢郷士衆50衆の人々」に限定していたと成っていたと考えられる。
では、因みに「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」から「女系親族・母方族の伊勢青木氏と信濃青木氏」はどの様に認識呼称されていたかであるが、これは「相手側の書籍」に頼る以外に無く、こちら側からの資料記録の行からでは良く判らない。
然し、総称は通して“「伊勢殿」”では無かったかと思われる。
家人の家に遺された資料にはその様に記されている。
又、依って「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」からは、「親しみ」を込めて「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿」と呼んでいたとも考えられるが、何せ「24地域に及んでいた事」から正確には判らない。
「伊勢秀郷流賜姓青木氏」に付いての呼称は、「伊勢側」では「梵純殿の名・又は一時期は駿河殿」がある事故に、前段でも論じている様に「代々の俗名」で呼んでいた可能性がある。
「駿河守の記録」も一時期にはあったらしい。
兎も角も、上記の通りに「御師の歴史観」はここで質して置く。

戻してその「伊賀青木氏の仲介が入ったと云う事」に「伊賀」では成ったのでは無いか。
そして兎も角も「助命嘆願を出して観る」と成ったのでは無いか。
それには「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「僅かな繋がり」を持つ「摂津源氏源満快娘1の老女」の名を使う事」に成ったと観られる。
この「老女」そのものには、最早、その策を考える能力とその意欲は無かった筈だし、「6代先の宗家筋の頼政の子孫の事」に「口出すつもり」も無かっただろうし、況して過去の事は幼少でもあったので知らなかったであろう。
間違いなく「周り・伊賀青木氏」が、「福家」と協議して動いたものである事には間違いは無い。
では、「助命嘆願」を出しても「伊勢側」にどんな「理利」が在ったかと云う事であるが恐らくは無かったでろう。

結果として、この「助命嘆願」に依って「配流先」が「日向国廻村」であった事から、この事が「日向青木氏の歴史観」に繋がって行く事に成るのだが、今までにその詳細に就いて論じていなかったのでここでそれを下記に論じて観る。
つまり、その「日向青木氏」、又は、「大口青木氏」と「伊勢青木氏との関わり」に繋がって行くのだ。
それにしても、不思議な事に「伊勢青木氏の名を使う事」を「大口村の浄土寺の住職に伝える利益」は無かった筈であるが、然し、万が一の場合に備えて現実に伝えているのだ。
この事は「二つの記録」から判る。
それも最後は、「廻村」から「軍」を興して「日向平氏」に敵対し敗退して逃亡の最終は「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」まで逃げた事を記録として伝えているし、それ以外の寺は無理としてこの行動と発言がこれも余りに用意周到の言である。
最終、この「寺」に最終的に「日向平家追討軍」が直ぐに後を追って到達して来たとある。
その逃亡の結果としてぎりぎり辿り着いたのは、「廻氏の血筋を引いた宗綱の子供と合わせて廻氏の土豪侍5人」に成っていたと記されている。
「日向平氏」に「戦いを挑んだ経緯」では、「配流元受け入れ」と成っている「廻氏」が「周囲の南九州の土豪達」に呼びかけ、そしてその「戦いの背景」を援護したのは「南九州全域」を長く勢力下に置いていた「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」であって、結果として二度も戦ったが、敗退し「肝付氏の勢力下の大口まで逃げ込んだ経緯」であるとして記されている。
それが前段でも論じた様に、嵯峨期直前までは「助命嘆願から支援した伊勢青木氏」は、「令外官」として代々「国造の伴造差配」であった「誼」で、「朝廷官吏族伊佐氏」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」に繋がっていたとしているのだ。

この繋がっていたとする「青木氏の祐筆」の記した「誼説の根拠の行の表現」は史実であり理解できる。
故に、この「大口村の寺・浄土の寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の「住職行動の詳細経緯」も史実として理解できるし、この「寺での騒ぎ」も記されていて、「生き残った末裔と侍五人」が寺に到着後、息の着く暇も無く「日向平氏の追討軍」が追いつかれたとされる。
「記録」はこの瞬間に住職の指示で“「伊勢青木氏だ”と名乗ったしていると記されているのだ。
これが、「南九州域の強いアクセントのニュアンス」で見抜けるが、ここも恐らくは「都から六年交代で来ていた伊佐氏の住職」が「日向平氏の追討軍」に直接に答えたとされているのだ。
だとすると、この記録から「伊勢青木氏との誼」は先ず解決する。

この「伊佐氏の住職」は、「官吏」として「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性」を充分に承知していて「言い逃れ」で先ずは回避できるとして咄嗟に答えた事と観える。
然し、この「伊佐氏の住職」が「伊勢青木氏の名」を何故タイミングよく断りもなく答えたものだと疑う。

この事に付いて、情報が住職に伝えられていたとする原因は下記にするが別の処でも詳しく判る。

こに祐筆は次の事を「添書の形」で追記の形で記している。
到着後、「日向青木氏・呼称とする」は、“「伊勢青木氏だ”と名乗った事」に対して十分な詮議をせずに引き上げたとしている。
それは「引き上げた原因」は、「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性・桓武派」を充分に承知していて「追及」が出来なかった事とし、又、何せ「肝付氏の勢力の領域」に「懐深く入り込んでいた事」のこの二つであろう。
「配流処置と成った嘆願書」に背任して「戦いに及んだ事」で、「日向平氏の追討軍」には許し難い事もあったが慌てて引き上げたとある。
その原因は、「祐筆の添書」には無いが、それは上記の通り主に“「肝付氏の勢力」にあった”と観ている。
この事に付いて、「物語風の記録・ある郷土史」によれば村人に「引き上げなければならない理由を述べている」が遺されている。
つまり、正しく「肝付軍」に背後を突かれれば全滅であり、だから「伊勢青木氏」に執っては何の関係も無い「肝付氏の事まで」も書き記したと観られる。

其の後、 「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の中でこの「裔系の日向青木氏・後の呼称」が「大口村」から最終は元の故郷の「日向の廻村」までその子孫を拡大して行くのである。(下記)
因みに、この事に就いて「近江佐々木氏の青木氏一族の研究資料」には、この「朝廷官吏族伊佐氏・弁財使の事」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏・押領使の事」と、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺の事」も記されていて、何れも「地域の安定の為に統治用の朝廷軍」を預けられていたとされる。
それも「秀郷流賜姓青木氏族の薩摩永嶋氏」に関連に付いても記されているのである。

結局は、「伊勢側が執った助命嘆願書」は、思いがけなく「日向平氏への戦い」で背任され「面目丸つぶれ」と成った経緯事件なのである。
その後の「裔系の廻氏系摂津清和源氏の仲綱系の裔」は、「日向青木氏」としてその子孫は大繁栄したが、これ以上は「伊勢側」は何も出来なかった事に成ろう。
然し、「これだけの情報」が記されているその所以は、「青木氏の氏是に反した戒め」としての「伝記」で詳しく後世に語り継がれる様に遺したと観られる。

「面目丸つぶれの伝記」には、念の為にもう一つ疑問が残っている。
それは、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏菩提寺」への「情報伝達手段」はどうしたのかであり如何にも早い。
「何の所縁も義理も無い住職」が自分の危険も顧みずに、機転を利かすにしても余りにも適格であった。
これは何らかの連絡なくしては余計な事は出来なかった筈である。
実は、色々研究の末にその元が比較的に簡単に発見できたのだ。
それは「二か所からの史実」であった。
その一つは、上記の「近江佐々木氏の研究資料」の「秀郷流青木氏族薩摩永嶋氏」の処と、「1180年頃の青木氏の商い」にあって、前段でも論じた様に、「925年」に朝廷から離れて本格的に「殖産と合わせた商い」に及び、「1025年頃」には「総合商社」を「伊勢」と「摂津」で営んでいるのだ。
そして、前段でも何度も論じている事ではあるが、その後、直ぐに「大船三艘」で伊勢と摂津で「北宋貿易」を開始しているし、「伊勢水軍」も7割株の水軍主であったのだ。

そもそも歴史的には「平安時代」には「北宋」との間で公式ではない「私的貿易」が行われいたが、「南宋樹立後」に「平氏政権」も非公式で「宋貿易」を担った。
その後、「鎌倉時代」にも「民間レベル交流」があった。
この「日宋間の貿易」は飽く迄も元より非公式のものであって、「私権の獲得」に過ぎず利益を獲得して「桓武平氏の発展」を遂げた原因と成った事は公的な記録でも明らかである。
これに依って「宋銭」が入り、「貨幣経済」が発達した経緯を持っているのだ。
「清盛」はこの「私的貿易の宋貿易」を振興する為に各地に「朝廷の市舶司役人」を設置したとある。
その結果として、「宋商人」は、「博多」や“「薩摩坊津」”、「越前敦賀」まで来航し、この“「私的貿易」”が盛んに行われていて、これを許していたが、「1173年」にその為にもこの“「南宋貿易」”を「博多」から「瀬戸内」を通って「摂津」の「拡張福原の大輪田泊・突貫工事」に直輸させて「利権」を一人締めしようとしたとする「騒動の記録」さえある。
この為に、突貫的に博多から瀬戸内経由で「各地の数十の船泊」を改修して摂津に引き込んだのだとされる。

さて、「伊勢青木氏」もこの「総合商社・1025年頃後」に既に開始していた「私的な北宋貿易」は、「1170年頃」に「北宋貿易・1025年から1127年まで」で得た「貿易知識」を以て、この「南宋貿易」をも始動しその商法を「清盛」に指導したのは「摂津の伊勢青木氏」であったと記されている。
更に「伊勢青木氏から受けた貿易知識」を「源義経」にも教えたとする記録がある。
その「伊勢青木氏の知識」は「北宋貿易」だけでは無かった様で、「伊勢水軍」も盛んに使って「琉球や周辺の島々」等もあったらしい事が資料より読み取れる。

その後、因みに上記した様に「清盛」は「義経」にもこの「南宋貿易の商い」を我子の様に優しく教えて「政治を始動する事」を教えたとする記録も遺っていて、この事で考え方の違いが発生し「頼朝と仲違いの原因」と成ったと記している説もあるが、この「史実の経緯」から観て納得できる説でもある。
その元は「伊勢平氏との所縁」を持つ「伊勢青木氏」であったが、「南宋貿易の事・1190年頃〜1277年頃」には記されていないのは何かあったと考えられる。
これは「鎌倉幕府の樹立期」である。
つまり、この「上記の史実」から、「伊勢青木氏が助命嘆願で興してしまった大失敗」をしたが、「大不義理を興した伊勢青木氏」に対しては、この時、次の二つの事が読み取れる。

一つは、「宋貿易での清盛と伊勢との関係性」の「時代性経緯」が、この「不義理の時期」と一致している事である。
つまり、ところが「伊勢の不義理」に対して「清盛」は何の変化・処置もしていない事にある。
寧ろ、「貿易と云う点」で指導していて「伊勢平氏を強くした事」に繋がったと考えられ、「清盛」は感謝していた可能性がある。

二つは、この「伊勢交易・伊勢屋・青木氏」の「日本各地の交易泊」として、又、「北宋貿易の経由地泊」として「薩摩坊津泊」が記されている。
此処が日本から離れる時の「最初の泊」であったとされ、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」から約北東に「100k(25里)の所」にある。
この事で上記の「情報伝達の仕組みの疑問」が解決する。

「伊勢」からの「情報伝達手段」と「糧の物資輸送手段」は「伊勢の大船3艘と伊勢水軍」に執って見れば特段に何の問題も無い。
特段に「宋貿易」でなくても「総合商社」としては、「九州伊勢の物資輸送・交易」としては当たり前の事であった。
上記に記されている「伊勢側の詳細な経緯の内容」は、この事で得られていた事に成り、「祐筆の書」は納得できる。
現在でも、何はともあれ証としてこの「坊津泊の地名」も「大口の浄土寺の寺」も現存しているのだ。

この件と離れて、「奈良期からの泊」で調査して観ると、次の事が出て来る。
それは「五つの自然条件」が整っていた所が「泊」として選ばれていたらしい。
それは、次の順であったらしい事が資料に記されている。

一つは、黒潮の通る所 黒潮の力を利用できる事
二つは、水深がある所 深く黒潮の流れに乗れる事
三つは、風が在る所 一定の良い風が吹く事
四つは、地形の良い所 停泊が出来る事
五つは、大きな河川のある所 泊の奥に荷駄を送れ安全に船が逃げ込める事

これ等は「帆船」であった事からの条件であろう。

さて、本論のこの「五つの条件」に合致する「坊津」は古書にも記されている通り、「貿易」の「大和から外洋に出る最初の拠点」であったらしい事が判る。

九州で「古くからの奈良期からの泊」であった所があって、この「坊津」から海沿いに北に向かって西域に「約96k・26里」の域に、「上記の五条件」が整っている「阿久根」云う「自然泊」があって賑わっていた事が記されている。

この“「阿久根泊」”から「真東の内陸」に向かって直線的に「68k・17里で徒歩12H・1日到達」の所が、「大口村の寺・浄土寺の浄光寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」がある地域なのだ。
此の“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”までは比較的平坦な河川敷(九州全土を廻るR3)を経由して到達するのだ。
記録が無いが、この“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”に向かって、「情報と物資の伝達」が成されていたと観ていて、「交易・貿易」の為の各地の物産を運ぶ為に「伊勢水軍等の青木氏の大船」を使ったと観ているのだ。
現在もこの「阿久根までの摂津の航路」は現存していてあるのだし、「摂津」から「室戸泊・四国」を経由し、「坊津泊・南薩」や「阿久根泊」を経由して「中国」に渡っている史実がある。
他には、古書には「佐多大泊・佐多岬の記録」も出て来て、「宋貿易」のみならず「中国交易の黒潮を利用した中継点」と成っていた事が判る。

丁度、この少し前に歴史的にこの航路を使っての「鑑真和尚・吉備真日等に観られる様な史実」、難破して九南九州の多くの泊に辿り着いとする史実が多く残っている史実がある。
だから、上記の通り「助命嘆願策の実行」と、その「詳細の経緯を記す事」が出来たと観ている事もあり、然る事乍ら、「宋貿易の経路」でもあった事もあって、「青木氏の氏是」を破ってでも比較的簡単に「情報提供と伝達」を請け負った事も考えられる。
そこに「裏切り」が起こり「青木氏として興してはならない不義理」の「落とし穴」があったのだろう。
「歴史的な大失敗」と成ったが故に、事例として詳細な記録を「後世の戒め」として遺したと考えられる。
ところが消えるのみと成っている処を纏めて繋いでそれを筆者が未来の裔の為に更に「復元・復興している事」に成るのだ。

唯、この「復元の中」で一つ一寸した疑問がある。
何故、「伊勢からの示唆」であるとして「住職の忠告の結果」で、「伊勢青木氏」を名乗って、その後も更に引き継いで名乗っている事だ。
これを説いて置くと本来であるなら、「伊勢青木氏との血縁」は元は無いのだから「廻氏を名乗る」のが妥当と云う事に成るだろう。
宗綱の廻裔とすれば「嵯峨源氏以降の朝臣族の摂津源氏系」なので、「奈良期の慣習」として「元皇位族の名乗り」としてあったのだから、但し、「青木氏の名乗り」も完全否定は出来ないが、「平安末期の事」とすれば矢張り「名乗り」は当然の事して「廻氏」であっただろう。
そこで、この何にも「確かな記録のない疑問」を探るとすると、其の後の詳細資料を遺した以上には「謂れ」として何かがあって、「救出直後の糧」としては「大船を廻す等の過程」で何かがあったとする「推測・勘ぐり」が出る。
つまり、「大口村の救出生活・生き残る糧の獲得」の「一定期間の糧を獲得する過程」で、実質、「青木氏を名乗る事」が興ったとも考えられる。
そうでなくては「平安末期の混乱の時代」に実質的に生けて行けなかったであろう。

それは筆者は、前段でも論じた様に、後に興った「駿河青木氏」の様に一度、先ず「伊勢」に引き取り育て一人前にして「糧と成る大船」を1艘与えて復興させて駿河に帰した経緯がある。
この様な事が必然として興ったのでは無いかと云う事だ。
要するに、「家人説」である。
つまり、「廻氏の裔系とその廻氏家臣5人」を「伊勢」に先ず交易船で引き取り育て、「5人の家臣」に「操船技術と商い」を「伊勢水軍」で教え、一人前に成った処で「大船一艘」を与えて、この「廻氏裔系と5人の家臣」を先ず「日向」では無く「大口」に帰えしたのではないか。

そもそも、上記の通りに「伊勢」は「宋貿易や琉球交易」をしていて「廻船」をしていたとしているので、この「伊勢の仕事」を手伝って「南九州の産物」を「伊勢」に、「伊勢の産物」を「南九州」に運んで糧を建てていたと考えられる。
当時は、「神明社ルートや秀郷流青木氏等全国各地のルート」、「青木氏族の定住地のルート」とすれば「伊勢―伊豆間」、後に「駿河」でも交易は行っていたのだからこれは「難しい事」では無かった筈だ。
記録に「大口・日向青木氏」は、後に「日向」にも裔を戻したとされ、「大口―日向間」の「流れの早い難所」で「有名な日向灘水軍の記録・この「海運一族」を「下青木組」と呼ばれていた事もあり、これは、上記の「家人説」を裏付けるものであろう。
後に、「黒田藩」に「山族の上青木・上青木組と呼ばれていた」と「海族の下青木・下青木組と呼ばれていた」のこの二つは「二つの力」を買われて、「傭兵と成った事」は記録で証明されている。
恐らくは、元々、「商人出自の黒田藩」は、「傭兵」は勿論の事、黒田藩に無かった「海軍・名目」をこれで持てた事と、「上青木組と下青木組」と呼称させるほどの「取り組み」から観て、この「商力・財力・伊勢屋の財力も」に目を着けていたと考えられる。
これは「裏」で「伊勢屋・青木氏」が背後にいて、「日向青木氏と黒田藩の商い」で「大子孫拡大の鍵」と成ったのだ。
そこで「青木氏家人説」では、先ず「廻氏の裔」を「伊勢」で育て、「男子15歳成人」として「妻嫁制度の仕来り」に沿って「福家」で育てられた「青木氏の女(むすめ)」を嫁して、女系である故にその「生まれた優秀な男子」に伊勢で「青木氏」を興させて、「家人青木氏」として「大口」に戻したと観られる。
筆者は「廻氏の5人の家臣」にも「氏族の伊勢郷士衆との血縁」を繋いで「女系青木氏・氏人族」としたのでは無いかと観ているのだ。

上記の「商いの経緯」で「糧」を充分に得られ、それを下地に「地権」を獲得拡大しながら、その「家人青木氏」が「大口と日向」に子孫を広げたと考えられる。
唯、子孫を勝手に増えたからと云って住み分け制度で戦わない限りは平安末期から室町期末期に掛けて「子孫拡大の生活圏」を、強い武力の略奪で無ければ勝手に広げられる社会ではそもそも無かった。
それが「戦い」で日向まで広げたとする記録が無い事から「財」を下地に地権獲得で広げたのだ。
筆者は、当初、「上青木と下青木」が「廻氏裔の青木氏・本家分家」で分けられていたと考えていたが、飽く迄もこれは「傭兵の軍制」の都合の発端から分けられたものであって、「黒田藩の資料」の中にこれが出て来るので、「地域・つまり特徴」で分けた軍制であった筈だ。
この為に二か所の墓所等を調べた結果、「本家筋とみられる大口青木氏」がある事が判った。
それは、一つは前段でも論じたが秀吉が「天皇家の式紋・五三の桐紋」を模写して作った「五七の桐紋」が、「墓所と資料」にあって、これは「勲功のあった大名やその家臣等」に使用を許したが、黒田藩から大口・日向青木氏に与えられた事が記されている。
その「五七の桐の式紋」と共に思い掛けなくも「丸に笹竜胆紋」を使用した「古い墓所」があった。
家紋を墓所に刻んでいる事から室町期以降の墓所であろう。
「丸に笹竜胆紋」は前段でも論じたが「本来賜姓族の格式を持っている事」から丸紋は掟として無い。
然し、唯一、この上記の家人の「大口青木氏」にある事から、「宗綱の裔とする廻氏の裔」は根本は「卑属」である限りは「丸」は勿論の事で「笹竜胆」は無い。
然し、黒田藩時代の時には「丸付き紋」を使っている資料があるし、古い墓所にもある処から「伊勢」が、「丸付き紋」も「伊勢郷士・戦い等で一族の総紋として使う事がある」には許していない紋を許した事が考えられる。
それは「氏族の伊勢郷士衆」との違いのこの「丸付き」は「廻氏系の伊勢青木氏の家人であると云う前提」であったのかも知れない。
これには以下の二つである。
一つは、「女系である事」から男子を四家の一族の者から出す前提である事。
この事から、「廻氏・子供」を先ず「養嗣・養継嗣」とし、その後に「伊勢の女(むすめ)」が嫁し「一族の者」とし、「家人青木氏」とし、「生まれた男子」を「青木氏」とした経緯 1。
二つは、「廻氏の若者」と「女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の青木氏」を興させて「家人」の「青木氏」とした経緯 2。
以上の「二つ」が考えられるが確定するそこまでの資料が出て来ない。

さて、この一つ目は「四掟の前提」からかこの前例は見られないので、恐らくは「二つ目の通常の方法」を慌てる事なく採ったと観ている。
そう成ると、「廻氏の子供の年齢」であるが、宗綱配流後に廻氏との間で子供を産み、その後に「日向平氏」と二度戦ったとされていて、敗退して大口に逃げたとする経緯から検証すると、そもそも、「配流」は「1180年、頼政敗戦」の後に「1185年頃」から「頼朝」が立ち上がり先ず敗戦し一度目が敗退し、「1192年の二度目」に平家に壇ノ浦で勝つが、「仲綱の長男宗綱」は、「従五位下、左衛門尉、肥後守。源宗仲の父」としているので、少なくともこの時には「30歳程度の年齢」で「配流と成った前の事」に成る。
そうすると、「日向平氏」に「戦いに挑んだ時期」は、「頼朝に呼応しての事」であったので「1183年頃と1190年頃」の二度目として、再度、「南九州の土豪勢力」を再結集して「日向平氏」に挑んで敗退した事に成る。
そして、その後にその「廻氏裔」が「大口」に逃げ込んだとすると、少なくとも時系列の計算では「5歳位から9歳」までであった事に成る。
それを「伊勢」に呼び寄せたと成るのだ。
そうすると、最低でも「成人15歳」までの「5年から7年間」は育てられたと成る故に、後者の考察説では、「廻氏の裔の若者・15歳」と「伊勢の女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の家人青木氏」を興させて「家人青木氏」とした「経緯 2」に成る。
そうでなけれは時系列から「伊勢青木氏は名乗れない事」に成る。
これは「生きる糧」として身に着ける訓練としても最低であり得る期間と成る。
そもそも生き残った「廻氏の侍の家臣5人」だけでは「大船」は動かせられないし、「伊勢との商い」を始動させるには「伊勢水軍と伊勢郷士衆」を「5人から10人」を暫くは帯同させた筈だ。
その上で先ず、その後に「伊佐大口」に近い「阿久根泊」に戻った事に成ろうし、此処で「廻村」から「下記の事件の事」があって、「一族や村人等」を急いで「大口村」に呼び寄せた事に成ろう。
この「時代の時系列」は、「伊佐大口」に戻って一族を呼び寄せたのは「1195年から1205年頃の10年間の事」に成ろう。

丁度、「日向廻村・現在の小林市細野付近」はこの事件に巻き込まれていたのだ。
この「日向の廻村」から西国境を超えて「えびの」を中間にし、「薩摩伊佐の大口」まで真西に真直線で「11里・44k・徒士1日の約9時間程度の範囲」の小山一つを越えた「平野部の所」に両村は在った。
船で「阿久根泊」に到着後、更に東に「68k・12h・17里・徒士」に移動して先ず「大口」に到着後、其処から更に「11里・44k・徒士1日の約9h」で「廻村」に到着する事に成る。
合せて、「79k・21h・28里」であった事に成り、「2日から3日架かり」で到着する道程であった。
到着後、時を同じくして、“村人等は恐れて飛散した”の行から、「廻村」から「一族と村人」を段階的に「大口の浄光寺・伊佐氏の菩提寺」に先ず集め、「阿久根」から陸路で東に荷物を運び入れて先ずは「生き延びる糧」を造って得た事が考えられ救い出した事に成るだろう。

そこで「伊勢側」では前もってこの「危険な情報」を得ていた事が上記の交易手段で得ていた可能性が充分にある。
筆者は「伊勢」を出る際には、この事を既に想定していたのではないか。
「一族を救い出す事」と「最低の生活基盤を築く事」に当面はあっただろう。
だとすると、この仮定では「伊勢の大船2艘程度」を重ねてで無くては無理であろう。

先に注釈として記するが、因みに、この直前の「逸話・史実」が「日向」でも物語風で語り継がれていた事が判っている。
時は、「鎌倉時代・頼朝三代1219年・1221年淘汰され源氏完全滅亡期」の3年前であり、「北条氏の台頭事件」の有名な一つである。
この直前で「日向平家」が滅亡し、ここに「惟宗忠久・1203年・清和源氏裔名乗る者」が「日向地頭」として入って良政を敷き土着したとある。
ところが「比企能員の変・1203年・謀略」が起きて、“廻村の村人等は関わりを恐れて飛散した”とあり、その「忠久」もそれに連座したとして罰せられて「鎌倉幕府」から「呼戻命」が届き死を覚悟して「鎌倉に戻る語り」が地元の歌舞伎としても遺されている。
「惟宗忠久」は、「朝廷の記録」にもある様に、“惟宗”の呼称である以上は「渡来人秦氏の裔」で「賜姓」を受けて、「宿禰の惟宗朝臣・姓の賜姓」を名乗ると「史実の記録」があるので、「秦氏」が史実として正しいので、「源氏とする説」は「国印状取得」の為の「江戸初期の後付け」である。

そうすると「阿久根泊」に着いた彼等は、直ぐに東の「大口」から更に「廻」に走った事に成る。
“村人等は恐れて飛散した”とありする処から、「廻村の一族」とその「村人」を間違いなく1日も早く「大口」に救い出した事に成る筈である。
その「村人救い出し」としては、「廻村」から真東の同距離の「小泊・赤江泊」は資料の地形から“河洲が広がり水深が浅く”の記述あり、この事から「大船の泊」は昔は無理であった様であり、従ってここからは「救出」は無理であったろう。
この事は、「救出後の生活基盤の構築具合」でも判る。
「一族と村人を救い出す」と云っても、そう簡単な事ではない。
「大口を拠点にした事」は判っているので、「船泊の阿久根」を「物資の拠点」として東の「定住拠点の大口村」に「第一段階の定住地」を先ず構築した事がこの「行」でも判る。

この当時の構築劇を検証して観ると、「伊佐全域面積では80000反」で、その「羽月川」の流れる1/4の「大口村の未開の約20000反の原野・羽月川・川内川支流」を開墾して、そこに是が非でも「住む所と田畑の開墾」を行う必要があった。
「阿久根泊」から「448m山上りし、そこから654m下る位置」にあり、「段差175m高い位置の高原」にあり、この「窪地の平野」が、「朝廷の官吏伊佐氏が赴任していた土地」として考えれば、ここを「定住地」としては適していた事に成る。
この「広い河洲の平野」では、「原則1反1石1人1年の原則」は成り立つとして、それで救出したとして、「隠れて生き遺った一族と村人の数」を少なくとも「総勢仮に100人」とすると、先ず「食料の100反=3万坪」を開墾しなくてはならないし、「住む場所の確保」として「山手・台地」に、「100人/4」として「25軒分・50坪=1250坪=40反」として、少なくとも「合計150反」は開墾しなくてはならない計算に成る。
後は「地権獲得の財」と成り、これは「生活費」と共に水運で稼げるし、当初は「伊勢が支払う事・支援」に成ろう。
「財」は「伊勢からの大船1艘の水運」で「伊勢」と繋がっているので「交易」で容易に稼げるだろう。

第二段階として、「子孫」が広がり、「上青木と下青木氏」のある「呼称記録」がある通り、此処から拡大子孫が次第に「日向灘の行文」がある様に「真東の赤江泊・下青木・現存」に降りて行った事に成る。
この「赤江の生活」は基本は「漁業」であったと記されいる。
最後は「流れの早い日向灘での漁業」としているが、筆者は、「伊勢水軍の支援・熊野灘」もあって誰もが避ける“「日向灘水運」を手掛けた”と考えている。
この事から、「小舟漁業」から「日向灘大船水運と日向灘大船漁業」の「二つの操業経緯」を辿って持っていたと観ていて、だから「黒田藩」にこれを買われ「傭兵軍団と成った事」でもあり、「御用商人と成っていた事の証」と成る。
そもそも「漁業」では「傭兵軍団」とはならないだろうし、だから、「大口青木氏」に伝えられた「五七の桐紋の使用許可の口伝・墓所などにも使用している」が出たと観ている。
結局は、この「財」は、「大船1艘の水運」から始まったものであったろうし、その経緯は「大口村の経緯」と同然であろう。
「祐筆の表現不足」に在ったのであろうがここまで「青木氏の記録」の読み込みであり祐筆は書く必要は無かったであろう。

そこで、だとするとここで「疑問」がある。
何故、「大口」から「真東外れの赤江」と行き成り成ったのかであって、言い換えれば「大口」を東に、又は「西の阿久根泊」に当然の事として伸びなかったのかである。
「地権獲得」では西にしろ東にしろ何れにしてもこの時期は未だ「肝付氏の圏域」であり、良好な関係を保っていた。
何で「赤江」では無く「阿久根」では無かったのかであり、将又、「大口より東域」に伸びなかったのかである。
「傭兵」であるとしても飽く迄も「傭兵」であり、「積極的武力を使っての事」では無い。
「利」からすれば、「原点が交易もある事」からどう考えても「大口の一族の生活」からも「阿久根泊」である。
実は調べるとこれには「大きな欠点」を持っていたのだ。
「良好な大船の泊」は、“水深が深い事から地形も狭い”と云う「地形的な宿命」でもあった。
大河洲が無く「大口の東域」は「赤江」まで伸びていて制限はなく、「1反1石1人1年の原則」の「伸代」は拡大次第で充分で成り立つが、然し、「阿久根泊」には「伸代」は「地形地層」から「岩層」で固定の「5から7平方km以内・現在も同」でこれは全く成り立たない「地形的な欠点」を持っていたのだ。

「阿久根」は、そもそも「地層」の専門的学的にも極めて「有名な地形」で知らない者がない程で、「鹿児島」は勿論の事、九州、日本で最も古いとされる“「阿久根古生層」”と呼ばれる「固い地層」が海岸の一部に露出した珍しい地層である。
「古生時代」に「大洋底に堆積したチャート」が地表に突き出した珍しい地形」で、その「岩石」は「五色岩」と呼ばれる「色チャート礫」と「凝灰角礫岩」とで形成されたものであるのだ。
現在でも「阿久根層」として地私学的に有名だが、当時としても「水運を操る者」としての「海層地形の常識」であって故に西に延びる事が出来なかったのだ。
此処からも意味する事は、明らかにこの事が判る「伊勢と伊勢水軍が深く関わっていた事」が判り、「現地訓練も行っていた事」をも証明するものであるのだ。

上記とすると、ここで更にこの事から後世として記述に及んでいない解明して置くべき「疑問」が又浮き出る。
それは、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と、それに反する“「日向灘水運」を営んだとする事 2”の二つである。
この1では、「大口」が密集度としていっぱいに成り、一部がそこから出て行って「赤江泊」で「地権と漁業権」を獲得し移り住んだとすれば何の問題も無い。
然し、この2の「日向灘水運」が伴うと成るとこの1に問題が生まれる。
それは2を行うと成れば、「大船の泊の問題」が浮き出る。
「大船の泊」は、当時の記録から、この南薩では「佐多岬泊」か「坊津泊」か「阿久根泊」かの3泊に成るが、「物・資供給を必要とする大口」の「常宿泊」としては、「前者二つの泊」は「寄港泊と成る事」は否定できないが大口までは遠すぎて適さない。
そうすると矢張り「大船の泊」としては「阿久根泊」で無くてはならない事に成る。
「日向灘水運」を行う以上は、ではそもそも一々、「阿久根泊」に戻ったのかという事であり、半島を「一回り・440km」とするとそんな事は到底無理だ。
どこかの「赤江付近」に「常宿泊」が無くては「水運営業」は成り立たないが、当時は原則として「泊を建設する事」は無く南薩海域にも無く、主に「自然泊」としていた為に当初は「水深」が浅く「自然泊」は無かったのだ。
この時期の「平清盛の宋貿易」の「大船用の泊」も「自然泊」を水深等を深くするなどの急造の改築して建造しているのだ。

ところが記録に依れば、「鎌倉期」に入ってから「志布志泊・水深50mから70m」が開発されたと記されている。
それは、“「1205年から1210年頃には交易が盛んになり始めた事”で「志布志泊」は“「鎌倉幕府」に依って開かれた”と公的な記録では成っている。
そうすると、それまでは、、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と成っていた事を物語るし、“「日向灘水運」を営んだとする事 2”は、「志布志泊」が「交易用の大船泊が可能と成った事」で、つまり「日向灘水運が営まれる事」と成り、これは「灘水運の開始時期」を物語るものだ。
「上記した伊勢の記録」とは、当に丁度、その時期に合致していて、先ず、“1で始まり2に直ぐ移行した事の経緯”とする「行」と書き換えられた事に成るだろう。
恐らくは「伊勢青木氏祐筆」は、この事があって添書としたのであって「書き添えた」のであろう。
では、「大口での救出劇」は、1203年」の“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”の記述は、何の為にしたのかである。
ほぼ「3年にも満たない時期」に2が始まっているとすると、「1203年の比企能員の乱」に伴い「廻村の一族等」を救出したのだから、1は短期間であった事に成る。
これは大した意味は成さなかったのではないかと云う疑問に発展する。
其の侭でも、1をしなくても2に入れる事に成るだろう。
この事は「赤江の小舟漁業」は同時と見做す事が出来るだろう。

筆者は、意味が無いと観られるこの「リスクのある1の行動」は、「2の行動の策」の為にあったと観ているのだ。
「阿久根泊で開いていた大船海運・上青木」を「志布志泊・日向灘水運・下青木」にも拡げる為の「鎌倉幕府」と「地頭肝付氏」への「政治工作の策」であったと観ている。
先ず「新たに開設された志布志泊」を「常宿泊」として「日向灘水運」を始めるその為には、上記した様に「阿久根泊」から「大口」に「船人」を廻せない。
そこでその為には、「志布志泊付近」に「定住地」を新たに開設する必要がある。
それが「赤江泊・小舟」であったと考えられ、それには先ず「業業権」を獲得するには「定住地とする権利」を獲得せねばならない。
「日向灘水運の業」を前提としたのではこの「権利」は降りず獲得できない。
そこで、「赤江での小舟での漁業権の獲得」を先ず狙う必要があった。
この「漁業権の獲得」に依って「定住地の地権獲得の条件」が整う事に成る。
それが得られれば、「日向灘水運の業」を前提とした「常宿泊の定住地」が獲得でき「志布志泊の条件」にも合致する。

恐らくは、「日向灘水運の業の事務所」を設置しなければならないし、それらの「大船の船員家族の家」も必要と成るし、その何もしないで過ごす事も無いと考えら、「その間の少しの糧」としても表向きとして「小舟漁業」を営んだと観られるのだ。
筆者は、「小舟漁業に関する記述」は、「資料読み込み」から主に「家族の名目労働の事」を記したものであったと観ている。
これで「泊役人」や「何れの周囲の組合人等」からも文句が出ない様にしたのであろうし、後は、「赤江泊と志布志泊と阿久根泊と大口村」との「商いの連絡事務所の開設」であったと観られる。

因みに「平安末期から鎌倉期」までは「各種の役人」を九州域に置いて「取り締まりを強化した事」が記録にある。
例えば、一例として次の様な役人が勢力を張っていて恐れられていたと記録にある。
この事で、「船主」は、“何もしない”と云う訳には行かず、“裏表に取り分け気を配った事”が「鎌倉期の東鏡」などに記されている。
取り分け、「鎌倉期」には次の様な「海事に関する三つの奉行」が「北条氏世襲の鎮西府下」で急遽設置されたとしている。
それだけに「海事」が、「清盛」が先駆者と成って開き、その後の「鎌倉時代」には、急激に「交易が盛んに成った事・史実」で「簡単な規則」を作り盛んに成った事を意味している。
歴史上の「義経と頼朝の軋轢」はこの考え方の差にあったとされている。

記録に依れば次の通りである。
それは次の三つとしている。
一つは、「舟船奉行」は、「各地大泊」に配置した泊税役人
二つは、「船手奉行」は、「船舶・海路・水運の運航管理の諸事」を主に扱った役人
三つは、「港泊役人」は、「泊管理や交易船取り締まり」を扱った役
以上の様な通称“「三役人」”を最初は九州から次第に「全国各地の泊」に配置して「幕府の税収益や冥加金の
「裏表」をあげて「海事権力を高めていた」と記録にあるのだ。

つまり、「船主」と成るには、この「大壁」を乗り越えなくては成らなかったのだが、それだけに「利益も大きかった事」が云える。
大きく成り過ぎれば成る程に警戒をされる等の事が「幕府や周囲の豪族地頭勢力]からあったのだ。
その意味で、「伊勢を背景」として「大口青木氏・日向青木氏の水運交易」は、「小舟漁業を主体とする商いの糧」では無かった事が明確に云えいて、飽く迄もこれ等の大きな壁を超える為の警戒されない様にする為の「見つからないようにする策・手立て」であった事を意味するのだ。
明確に言える事は「日向水運の事業」は、況や「大口青木氏・日向青木氏」は「伊勢を背景」として当にその位置にのし上がろうとしていた時期だったのだ。
未だ周囲が余り開かれていなかった「平安末期の交易水運」を「伊勢主導」で逸早く取り入れ、「伊勢の指導の下」で、「大口」にも一族・大口青木氏と伊勢青木氏」を集中拡大させ、「阿久根泊を常宿泊とした水運」と「志布志泊を常宿泊として水運」の何と「二つの水運業」を鎌倉期に持とうとしていたのだ。
当然に、「大船」も増やしたであろうがこの祐筆は書き記していないので「船数」は判っていない。
唯、この「文章の行の一節」に、「伊勢水軍の単語」が入っているので、「伊勢青木氏が7割株で親方と成っている伊勢水軍」とまでは行かなくても、「志布志泊の時」には「大口青木氏の方」では「5隻から6隻程度」は所有していたと考えられる。

上記の「三つの海事奉行の設置」は、主に「第一回目の元寇の役・1266年」を機に幕府が執った「海事の強化策・処置令を出している」とされていて、それは先ず「南九州」に於いて施されたとされている。
これは「約62年から63年間程度」は経ているので、検証としては「志布志泊の時」には「5隻から6隻程度/60」と成り 10年に1隻」はあり得るだろう。
つまり、だとするとこの時期では未だ「大船を使った交易業」は当時としては少なく、「清盛に「大船の交易業」を教えた経緯がある位で「伊勢」を背景とした「大口青木氏の交易水運業」は、恐らくは「トップ域」にあったと考えられ、「途轍もない財」を背景に共に恐れられていた事とも考えられる。

因みに前段でも論じたが、これは「江戸期の事」ではあるが、「伊勢」でもこの様な「事件記録」があった。
「全国五奉行所」の一つの「関西区域」を管轄する「海事奉行」の「山田奉行所」が伊勢にあった。
そこで「家康の伊勢の事お構いなしのお定め書」を持つ「莫大な財を持つ伊勢青木氏」と、大きくなり過ぎた為としてこれを敢えて無視した「山田奉行所」から無理難題を押し付けられていた事が「伊勢青木氏の記録と公的記録」にも記録されている。
「摂津商船組合・物語風に記録あり」と組んだ「戦い寸前・享保期初期」まで陥ったが、前段でも論じたが、「伊勢・伊勢屋」は、この時、「莫大な債権」を「松平系支藩・安芸藩等の3藩」と「紀州藩」と「幕府」とに、抑え込めるだけの「大債権」を持っていたのだ。
これが大事に成れば、幕府は破産と成り信頼失墜するは必定で大きな武器を持っていた。
「山田奉行所は「伊勢と摂津組合」を飽く迄も無視した。
この事が「吉宗の耳」に入り「伊勢」と共に「享保の改革」を共に推進したにも拘わらず「吉宗」も「山田奉行所]のこれを黙認した。
此処から「吉宗との関係」が崩れ始め最後は「信濃青木氏の財を奪う事」が引き金と成って「江戸」を引き上げる結果・200店舗を残す」と成った。
この件は「紀州藩」が間に入り取り敢えずは治まった「有名な事件」があった程であったと記録されている。
然し、この「鎌倉期」では、幕府から「伊勢本領安堵」が成され、「平安期の領地と地権」が認められた「経緯・安堵奉行が審査」があって、「良好な関係が維持されていた」とある。
ところが、それでも「交易の要衝の南九州」でも「北条氏の代々赴任勢力・横暴な勢力」が広がり、記録では「北九州別府域」からの圏域で、「日向」から「肝付氏の勢力」を押しのけて南に広がり「志布志泊」までの「交易泊の利権等の剥奪」で「気の抜けぬ状態」ではあったと記されている。
つまり、「出方次第」では変わっていた事が判る。

さて、戻して次は、「志布志泊」まで子孫を拡大させて「下青木」が生まれ、「志布志交易水運業」は順調であった事が判るが、「大口青木氏」から「日向青木氏」と云う呼称が、「伊勢の資料記録」に在る以上は、此処から更に北に伸長して行って別の地域で拡大した事を意味するのか、将又、「下青木氏」が「日向青木氏」を意味しているのかがこの祐筆は語っていないので解らない。
つまり、「大口青木」を「上青木と下青木」に呼称分けをしたのかである。
この事に就いてその歴史的経緯から検証をしてみるが、筆者は、「下青木氏」は「日向青木氏である事」で、「上青木氏」は「大口青木氏」とするのが正しいと観ている。

では、その解く鍵は、室町期には「交易水運業での黒田藩の傭兵・実践軍団では無かった可能性がある」と観ているからだ。
これを「祐筆の表現の行」から読み込めば判る筈である。

確かに“「軍」”として記されてはいるが、“「傭兵」”とする以上は何も戦うだけが「軍」では無いだろう。
筆者は、平常時も然る事乍ら、「商い」としての「戦時の食料や武器の輸送」や「調達」を専門的に担ったものであったと考えている。
もし、“「戦う軍」”であるのなら、「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」の様に何時かは警戒されて潰されるか少なくとも「争いでこの様に子孫拡大」は果たせなかったと考えられる。
然し、そうでは無かったとすれば、「普通の考え方」としては「交易水運業」を前面に押し出した「傭兵としての関係」を持っていた筈であろうし、背後に「伊勢青木氏」もあったとすれば“「戦う軍・青木氏の氏是」”は無かっただろう。
そもそもその必要性は認められないからだ。
これに「大口青木氏と日向青木氏が氏是に逆らう事」をすれば、「交易の糧」を絶たれて大勢の一族の者を養う事は出来なかった筈で、ここまで「海運水運業」で「子孫拡大」は望めなかったであろう。
そもそも「上記した経緯を持つ青木氏」であった以上は、「青木氏氏是に反する事」は出来なかったであろう。
間違いなく「交易水運業の傭兵」であったであろうし、前段でも詳しく論じた様に「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」も「銃の生産業」からこれを生かした「銃の傭兵」であったのだ。
「特技を生かすと云う点」では違っていないのだ。

「日向灘と云う語」と「黒田藩傭兵の語」の「二つの語の意味」からすると、少なくとも「大船」を黒田藩に近い所までは運んでいた事は判る。
そうすると、この「二つの語句」から「当時の泊の検証」が必要に成る。
当時では、「自然泊」としては「佐伯泊」は記録にあった。
この「佐伯泊」は古くから“「幌筵泊・幌を休める泊」”と呼ばれ、「日向灘の難所の大船の筵幌・むしろの幌を下ろし逃げ込み休む泊」で有名であったと記されていて、ここに幕府は「小さな警備府」を置いて「水難事故等の管理をしていた泊」であったと記されている。
(現在は自衛隊の軍港である。)
水深は丁度大船が入れる15m程度を持っていたとしている。
「日向灘」とする以上は此処までは少なくとも来ていた事を意味している。

次は「黒田藩・1600年の関ヶ原の戦いで福岡藩と成る」の「交易水運の傭兵の事」であるが、「1600年以降」では、「水運等の傭兵」であったとしても、その後には「荷駄運搬」を必要とする「内戦の戦い」は現実には無い。
従って、この事から「伊勢側の記録」として遺した「傭兵とする語句」は、「黒田藩のお抱商人・交易水運業者」であった事に成る。
「江戸」から離れた「福岡」である以上は、「交易水運の役」は無くてはならない「藩策」であったのだ。
「素早く運び」、「良質で」、「何でも揃えられ」、且つ、「大量に運搬獲得できるの手段」が「黒田藩を救う唯一の策」と成り、それには「日向灘と云う難所」を越えられるだけの「人時場所の条件を揃えられる大商人」と成り得ていた事を示し、且つ、「祐筆」はそれには「優秀な日向青木氏が選ばれていた事」を示す為に「二つの語句」に「それ・傭兵」に込めたのでは無いか。

そうすると、次の二つのルートが考えられる。
先ず一つ目の、「佐伯泊」に入り、其処から「陸路」で北の湾岸沿いに博多に入る経路。
これが「最短」で「平地」を経由する「約200km・50里・徒士42H・現R10号線ルート」
次の二つ目は、「佐伯港」から出て其の侭で「海路」で下関通過して、奈良期古来より「日本最大良好泊」の「博多港」に入る経路で、「約240kmの水路」を移動する経路。
この二つが考えられる。

古書には、「一つ目の経路」が「二つ目の経路」よりも良く積極的に使われていた事が記されている。
恐らくは、一つ目は「荷駄の積み替え」は起こるが時間が短い。
「二つ目の経路」とは「約40kmの差」が起こるが、「博多泊」では「荷駄の積み替え」が起こるので、結局は差し引き同じで「古書」での「陸路選択の史実」は矢張り「安全」であったのであろう。
然し、史実は別の資料ては両方がその目的に応じて頻繁に使われていた事が記されている。
この「祐筆の記述」には、「二つ目の記述」は全くなく「佐伯泊の所」まである。
だから、「佐伯泊」は上記した「筵幌休めの呼称」が遺っていたのであろう。
その証拠に「佐伯泊」は「戦時中の軍港・現在も」としても使われた程の「筵幌休泊」であった。

さて、これには上記の事で祐筆の何時もの一寸した面白半分の「表現差」が出ていると観る。
筆者は、これに再び食い着いた。
つまり、上記の「日向灘と黒田藩の一対の語句」からの「二つの経路」が在るのだが、祐筆は、何故か「日向灘だけに拘っていないのか」と感じる「行」としたのかと云う事だ。
「黒田藩」とすれば、「下青木の志布志泊」からすると「日向灘」は位置的に「必然の場所」であろう。
そこには、既に「阿久根泊の事」は記述しているので、とすると「日向灘」は何かに足して比較しているのではないかと「青木氏祐筆独特の語り調」と筆者は感じた。
直接、「歴史書の様」に書くのではなく、何時も「匂わせる物語風」に面白く語り調の癖がある。
記録を子孫に読ませようとする手段であろう。
又、考えればある程度、そのような「目的・一族の者に言い語り遺す事」もあった事は否めない。
そうすると、この「日向灘」にはこの「目的」を潜ませて記したとすれと、其れは何かである。

「志布志泊に日向灘」とすると、当然に対比的に「阿久根泊」と成り、此処から北に向かう海路という事に成る。
先に「阿久根泊の事」を書き記している以上、再び興して「阿久根泊の事」を書く訳には行かないだろう。
そこで、これを潜ませて記したとすれば、「目的の行の流れ」は成り立つ。
「阿久根泊・上青木・大口青木氏・?」と「志布志泊・下青木・日向青木氏・日向灘」の「対比語り」であるので、この「?の解明」と成る。
とすると、「東周りの日向灘海路」に対して、「西回りの・・・回路」が在った事に成る。

この「西回りの・・・海路」の{?}を次に検証した。
前段でも何度も論じたが、その指摘した経緯があるのだ。
{奈良期・618年」に「後漢」が「隋」に滅ぼされて、「第21代献帝」の時に、「父の阿知使王」と「子の阿多倍王」が「職能集団200万人」を引き連れて「大船団」で、「現北九州市・泊」と「現福岡泊」に上陸したとある。
他の一部の「船団」は、「大和人の船先案内人」を載せて、上記の「二つの泊」から「西回り」で「南九州西」に上陸し、この上下で「職能」を伝導して「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの航路を「無戦制圧」したとある。
「数日程度で無戦制圧」して「枕崎に入った」としていて、そこから「父の阿知使王」は「現在の薩摩阿多地区」を拠点に、「子の阿多倍王」は「東の隼人地区」を拠点に住み着いたとある。
ここから、更に船団は「瀬戸内」に入り「摂津播磨の手前」まで「職能伝導」で瞬く間に「32/66国」を制圧したとする「歴史的史実記録・伊勢と薩摩の半国割譲」が在る。
これはこの時に「大和人の船先案内人という語句」から既に使われたこの「海路」が「古来より在った事」を証明している。
つまり、「奈良期」より「阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」が出来ていた事に成る。

そこで、この「古い阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」」は「約224km・49h」であって、そこから「枕崎」まで約100kmで、合わせて、「324k・70h」である。
とすると、「制圧の記録」にある「数日程度の短期間・4日で制圧した」とあるので記録は合致する。
古い「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの西回りの北上航路」の問題の航路は、「約224km・49h」にこれに沿って「陸路の国道」が奈良期より在ったとしていて、それは「現在のR3」の西回りの「北九州−福岡―鹿児島間・現存」に成る。
この「西回りの北上航路」の「海路と陸路」のそれに沿って「職能を伝導した」とある事から、「船の泊」からも都度上陸し、「陸路・R3」でも渡来人は移動した事に成る。
この史実は、「阿久根泊」から「福岡博多泊」の「西回りの北上航路」の「海路・水運」が働いていた事を示し、「日向灘・佐伯泊」よりも何と“「1000年前に在った」”事になるのだ。
それも「短期間」で「便利」で「安全な古来からの当然の海路」であった事に成り、史実も多く残り、故に「祐筆」が態々、「語るに足りずの事」であったのであろう。
取り分け、「伊勢水軍」と「船を有する伊勢青木氏・伊勢屋」に執ってはこれは「衆知の史実」であったのであろう。
況してや、その前段で論じた「後漢の渡来人」が伊勢半国割譲で伊賀に入ったのだから何の不思議も無かった筈である。
つまり、この史実の事は、「西の海路・大口青木氏・上青木」と「東の海路・日向青木氏・下青木」の「組み合わせ」でも働いていた事を意味する事に成る。

「黒田藩」は遠く後の「1600年以降の事・江戸期以降の商い」であるので、「東の海路・日向青木氏・下青木」には、その前は「黒田藩」は「豊前中津1587年」から二代に渡り「秀吉」より与えられていたと成る。
この時には、「日向灘の佐伯泊」を利用していた関係で「交易水運の傭兵」と成り、その為の所縁で「秀吉時代の五七の桐紋」を「秀吉」から「中津藩時に獲得した黒田氏」は獲得していた。
「江戸期1600年」に成って、黒田藩は「豊前中津藩・1578年」から13年後に「筑前福岡・1600年」を領地として「大藩」を与えられた。
然し、「日向青木氏の墓所等」にある「五七の桐紋の家紋・明治初期の墓所造り」から観て、この時の「22年間の勲功」で「五七の桐紋の使用」を許されていた事に成り得て、これを「大口青木氏・日向青木氏」に与えたとしているのである。
其の後、「黒田藩」は隣の「佐賀藩鍋島氏」と1年交代で「上記の問題・北九州泊の管理」と、「幕府領の長崎警備」を任されていたのだ。
然し、ところがその後の「江戸期」は「九州地域」は「代々旗本に依る賂政治の悪名で有名な長崎奉行」の「支配下」に置かれていた。

上記の様に、この「賂政治の悪名の事」は「歴史史実」としても有名で、「冥加金」の下で「九州域の海事の奉行差配」は行われ、「黒田藩」が「長崎警備役」に1年交代で任じられていたとしても「幕府支配下」にある以上は難しくこの悪政を黙認し、「商い・日向青木氏と伊勢青木氏」に執っては行動は非常に難しかったのだ。
従って、この「九州海事の歴史」は、「秀吉」がこの「重要な交易拠点」を「大内氏」に任し、その後に「1580年」に「イエスズ会」に与え、「1588年」にこの利益が上がる「長崎」を「豊臣家直轄地」とし、ここに「鍋島氏・肥前佐賀城主」を「代官」として置いたのが始まりである。
その「3年後」の「1592年」には「奉行」として「寺沢氏・肥前唐津城主」が任命されたもので、これが所謂、有名な「長崎奉行の前身」である。
つまり、経緯としては「商いの日向青木氏と伊勢青木氏」この秀吉の時代は何も動けなかったのだ。

前段でも何度も論じたが、「重要な史実」は、「青木氏側」から観れば「秀吉」とは「伊勢や摂津や紀州」で「戦い」をした「犬猿の仲」であった事から、その「重要拠点の隣」に監視の為の「黒田氏の福岡藩」を移封するまでのこの「1587年・23年間」までは、「大口青木氏・日向青木氏」は「交易海運の許可」を得ていない事に成る。
つまり、「佐伯泊」までの「交易水運であった事」に成り、「西の海路・大口青木氏・上青木」の中で働いていた事に成る。
「1600年関ケ原後」で無くては「交易海運の許可」は認可される事は先ずあり得ず、従って、「黒田藩」からすり寄って来ると云うよりは「黒田藩との繋がり」を「伊勢摂津側」から強く求めた事に成るのだ。
これで「阿久根泊の西回り」と「佐伯泊の日向灘の東周り」の「二つの航路許可」が得られた事に成る。

そこで。従ってその為には、態々、「御用商人」では無くて、この安定社会に成った「江戸初期」では、「傭兵」はそもそも疑問であり、その時期から名目上は先ずは「黒田藩の傭兵と云う立場」で「交易水運業」は行われていた事に成る。
ところがこの「傭兵とした処に意味」があって、「1年交代の長崎奉行」に対して「傭兵を名目」に“黒田藩だ”と強調させる意味が「大口青木氏・日向青木氏」にはあったのではと考えている。
従って、「この時期の傭兵」は、要するに「准家臣扱いである事」に成る事から、この「長崎奉行支配」が「日向青木氏」に及ばない処に「伊勢と大口」は「政治的に置いたという事」では無いかと観ている。

更に、筑前中津藩時の25年前程前に「秀吉」から与えられていた「五七の桐紋の使用」を黒田藩に、そして更に「黒田藩」からこの「自由通商の証明木札・監察券」を名目としてたのではないか。
「大口青木氏・日向青木氏」はこの「黒田藩」に対しては、この「自由通商の証明木札・監察券の見返り」として「冥加金名目」で,、且つ、「交易の利の以外」に「使役金」を支払っていただろうと考えられる。
だから、この関係が長く正式に「明治初期・9年」まで続いたと事に成る。
「伊勢商記録」や「祐筆記録」や「遺産資料」でも、その「前後の事」はどの様な差配で使っていたかは判らないが、「西海路と東海路」には「時代性と場所性がある事」から何かその差を着けたか、何れにしろ「伊勢と摂津」が「商いの元差配・政治的差配」をしていた事は間違いは無いので、両者の何れにしろ「リスク差」はあるが、筆者はこの史実は「その差は無かった事」を意味していると観ている。
その「水運交易の利」に対して大きくなく「満遍ない物資の供給の商いをしていた事」が「最大の利」と成っていたのであろう。

上記の様に、最早、「伊勢」とは一体であって「青木氏族」であって「廻氏」ではないとして「一族の関係性を持っていた」ので「大口青木氏・日向青木氏」であるのだ。
この間には「伊勢との女系血縁を結んでいた事」には「血縁の記録」が「3度の失火」で消えているのが間違いは無いだろう。
これには「大口青木氏・日向青木氏」であった以上は「四掟の伝統の適用」は最早無かった事に成る。

そこでこの時系列の経緯から話を再び「大口青木氏発祥の原点」に戻して。
この事に就いて歴史的に遺した「二つの意味」が含まれていて、その一つは、“伊勢に呼び寄せたとする意味”を持っている事、つまり、「呼び寄せる程」で無ければ「丸に笹竜胆紋を使う事」を許さなかったであろうし、「女(むすめ)」を嫁して「氏人の伊勢郷士衆50衆」と同様に「血縁一族扱い」までして可愛がった事に成り、且つ「商い」まで教えて「船」を与えて重視していた事に成る。
二つは“「廻氏」に拘らずに「青木氏家人扱いにした事」”を以て、「廻氏再興」を忘れ去らせ、その為にこの「丸付き紋笹竜胆紋の説・青木氏の系列化」にしたのが「証」となろう。
この二つの「隠された意味」として物語るのは、“「戦い・再興」から「商い・発展」への転換”の此処にあったと筆者は評価し観ているのだ。
その為に「四掟」に反して「笹竜胆紋の丸付き紋」に与えたのだ。
当然に、況してや「宗綱の源氏」も同然にあり、確かに「40年間は源氏の時代・」1221年滅亡」と成ったが、「伊勢」は長年培ってきた「商人の先を見通す眼力」からその様に観ていなかったのだ。
それを「言葉」では無く、「行動」に移したのだ。
それが「伊勢で育てる事」であって、「大口青木氏にする事」であり、その「シンボル」を「伝統と四掟」に反してでも「丸付きの笹竜胆紋にする事・青木氏家人扱い」であり、これに目を引きつけて「廻氏の家臣5人」を納得させたのだ。
そして、「その為の条件を整えてやる事」であったろう。

だから上記した様に、普通はこの時代では消えて行くのが「運命・宿命」なのに、“「その後の発展」が「後に戻る事」も無く、上記した様に目覚ましいもの”と成ったのだ。
この「宗綱の血筋を引く若い廻氏裔系」を、“「伊勢」に一時的に成人に成るまで引き取った事”と「女(むすめ)」を嫁がせた事が「大きな流れ」として考えられるが、最早、「源氏云々の宗綱」も無いだろうし、恐らくは「廻氏」も無いだろうし、あるのは「伊勢」では無く「故郷・大口」で発展した“「大口青木氏・日向青木氏」”であっただろう。

前段でも論じた様に、この時、前段でも論じたが、実は「伊勢と信濃」でも同じ事が起こっていたのだ。
恐らくは、だから「5年から7年程度の訓練期間中」には、「伊勢青木氏の京綱・少年・17歳程度」と「廻氏の裔系の少年・15歳程度」が、「同年代の少年」として確実に同じ「伊勢で顔を合わせている筈」である。
当初は、この充分に考えられる事として、上記と前段の「伊勢の青木京綱」が「廻の裔系の少年」であるかも知れないとして研究をしたが、とうも違う様で「近江佐々木氏の青木氏研究資料」や「祐筆資料」や「嘆願書」や「他資料」にも完全に違う者として史実があるので研究調査を断念した経緯があった。
「伊勢青木氏の資料」にも「後刻・相当前・平安末期頃」の「先祖が描いた書」を「掛け軸・江戸期」にして「漢書」で遺しているし、「口伝・家人でも伝わっていた事」が判ったので違う事が明確と成った。

他にも「小さい疑問」があって解決して置く。

先ずは上記の「大口青木氏と日向青木氏の経緯」の背景には、次の様な事が「伊勢青木氏と信濃青木氏と伊豆青木氏」にあって、夫々の「郷土に遺る口伝」では「幾つかの説・口伝」が生まれているのだ。
従って、これを知る事でその「次の疑問の経緯」がどの様な意味を持っているかが判るし、理解が深まりその「小さな疑問」も解けるだろう。
この「助命嘆願の異例時」の「直前の出来事」である以上は、「京綱の話だけの問題」だけでは済まなかった筈で、その「経緯と目的」から、「乗りかかった船」として現地調査等をして研究に本気で取り掛かって見た。
その結果では、そもそも「薩摩国」には、「押領使や弁財使」を兼ねた「四等官・守と介と掾と目との四役目」を一度に熟す「国司並官僚族用の菩提寺・2寺・現地の治安等も熟す」が「薩摩」にはあって、これには彼等の「古代浄土寺がたった2寺しかない事」は「伊勢側」は既に知っていた筈である。
全ては薩摩は「東西の浄土真宗寺」であるのだ。
その中で「古代浄土寺住職・浄土寺の浄光寺」の「用意周到の救出発言」までを事前に伝えられていた様子とすると,これは計画的であって「一時の出来事では無い事」が判る。
この事で他の発想・仮説も出て来るのだ。
だから「寺名」も「浄光寺・伊勢信濃は清光寺」で類似するのだ。
この「薩摩の寺の事」は、天皇から秘密裏に処置命令を受ける「令外官・前段・賜姓五役」として「ある範囲の官吏を差配する国造の差配役」に任じられていたのだから「一切の経緯の情報」を事前にも知り得ていた事に成るのだ。
故に、何かがある為に解き明かして置くべき「伊勢青木氏の関わり」は、絶対に見流す事は出来ないのだ。
そこで、では何故かである。

先ず、伊勢と関わりの深い「信濃の国友の経緯」は、「1159年頃」に「配流の宗綱の祖父」の「頼政の伊豆知行地」と成っていた。
この「丹波の母の妾子の国友」は、「21年後・21歳」に、一度、この「信濃・養継嗣」に入り、上記した「源満快の裔系が土着している場所」の「北信濃」に移されて定住しているのである。
その後に前段の論の通り「頼政領地の伊豆」に「乱の直前・1180年頃」に移動して定住している史実である。
此処に「伊勢青木氏と信濃青木氏」が「頼政」に頼まれて一族の一部を移住させていて此処で二つの完全な融合族を形成した。
そこで「一部の兵と商い」を以てこの「頼政の伊豆」を護った記されていて、其処にこの「国友を護る形」で入ったと成るが、「其処からの行動」は未だ若いのに消えているのだ。
これが疑問を招いているのだが、そして現地に「仮説らしき口伝」が生まれているのだ。
これには他に「二つ程の説」が語り継がれていたらしく、先ず検証するに値するし信頼できるこの説は「国友伊豆説」である。

そこでこの説を検証すると、直接的に決果として、「源満快から6代目」の「頼政の孫」の「助命嘆願の仲介」として動けるのはこの人物だけであろう。
故に場合に依っては「この絆」を使って「嘆願書」を出して受け入れられたとする「国友説」も成り立つ。
この「国友説」に従えば、更にこの「経緯」で「商い」に伴い「伊豆」から船で経由地として「伊勢・訓練」に一度入り、その後に「大口に入ったとする説」であるが、「宗綱」とは伊勢に入った「京綱・妾子四男」とは共に何れも「摂津源氏四家の妾子・国友である事」なのでこの「国友説」は考えられない事は無い。
[伊豆から消えた人物」として全く資料は無いので何とも言えないが、それ故に「国友説の仮説・現地口伝」が生まれる。
「伊豆」から忽然と行動が消えたのは、この「大口青木氏・日向青木氏に入った事」で消えて「宗綱の裔廻氏との裔」と成ったのでは無いかという疑問を産んでいるのだ。
「宗綱の裔系」としてすれば同じ「清和源氏の摂津源氏・頼政・仲綱の裔系」であるので、全ての「伊勢青木氏を名乗るなどのストーリーの筋」が年齢の検証は5歳程度違えど通り得るだろう。
但し、筆者は飽く迄も上記した様に「伊勢の祐筆資料」からの「伊勢伊賀説」を採っている。

つまり、「維衡の妻の源満快娘1・老女説」を通じて「清盛」に出して叶えられ「日向配流・廻村」で先ず住んだとする「青木氏の詳細な言伝記録」があるので、「上記の国友説」は除外しているのだ。
上記した様に現実に其の後に本論の再び「日向」で「挙兵・史実」し、敗退し「薩摩大口村の浄土宗寺・鹿児島県伊佐市大口小木原」に匿われ、其処の「住職の機転・?」で「伊勢青木氏の裔系」として名乗る様に諭され難を逃れたと成っている。
上記の「国友説」は、ここに「国友が入ったとする説・摂津源氏説と成る」である。
これが先ず「伊勢青木氏との血縁」で「伊勢伊賀説」とすればある程度は繋がるが確定は出来ない。

後に「日向青木氏の発祥・黒田藩傭兵」とする「伊勢側の詳細な資料」がある。
この「日向青木氏・大口青木氏」は「山手に住んだ青木氏」を「上青木・薩摩の山族」、「海手に住んだ青木氏」を「下青木・日向灘の海族」と呼称されていたとし、現在もその「裔系」は南九州で大拡大している。
「廻氏との裔系・摂津源氏の国友とすると疑われるので」であると記されていて「通説・伊勢伊賀説」」とは異なるがある程度は史実に近いともと考えられる。
「国友説」にしても「廻氏裔系」にしても平家の目を避ける為にも「源氏」は元より「摂津源氏」は絶対に名乗れなかった筈で、それは鎌倉期に成っても同然な状況であった。
これは「清盛の伊勢平氏」とはこの様な関係に在った証拠でもあるのだ。

故に、「伊勢伊賀説」では、「平清盛」は「桓武平氏」と呼ばれ「桓武派」であって、「伊勢と信濃の青木氏」とは同派であり、前段でも詳細に論じた通り、その結果で平安末期まで潰されずに生き遺る事が出来ているのだし、取り分け「源氏化に反対した立場の経緯」でもあるのだ。
それ故に「伊勢伊賀説」では、それ以後も安全であったのだから納得できる。
「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」に沿わしたものの筈である。
従って、鎌倉期に於いても主体は「河内源氏」であったので、同じ源氏ありながらも敵視していた所以で「摂津源氏を名乗る事」は危険であった筈である。
何れにせよ「伊勢系を名乗る事の所以」を以て「中立と安全」は保たれ、その証拠に「伊勢と信濃」は「伊勢の本領安堵・鎌倉期」を逸早く史実として獲得しているのだ。
同然に故に鎌倉期には、いの一番にその「伊賀」に「地頭・足利氏の5年間」が入った事もその証拠である。

結局、若干時代を遡れば、「清盛の初期の時代」には、未だこの時も「伊勢」と「近江、美濃、信濃・甲斐は別」を加えた「賜姓青木氏族」と、「嵯峨天皇系と坂上氏の組み合わせ」との「激しい対立関係の継続の結果」で「二つの派」が継続して出来上がりつつあったのである。
その「810年頃の段階」では、未だ「能登と名張の「女(むすめ)」が嫁した「近江・市原王」や、「浄橋と飽浪が嫁した美濃・三野王」との関係は維持できていたのだ。
この「薬子の変・平城天皇との政争事件」の「直後の814年・4年」に「17皇子の源氏、15皇女の源氏」として、「詔と禁令と掟・弘仁五年」」を発して「朝廷の経済的な逼迫」を理由」に「財政削減の理由付け」で、“「全て皇位」を外すから、「一般の官吏等」として働き生きて行け・自由にせよ”と「嵯峨天皇派」は財政難から突き放した。
然し、その前にこの時、「嵯峨天皇」は同時に「青木氏」に対しても「賜姓族と皇親族」を外して来たのだ。
これは、この事件に依って「青木氏族」が、同時にやり返し、“「嵯峨朝廷に対する貢納・献納を中止した事」”に依り「朝廷の経済的な逼迫」に更に拍車がかかり追い遣られていたのだ。
それが後に「常習的な朝廷の経済的圧迫」と成って出たとして、これ等の各地に散っている「官僚族」からも大きな非難が噴出していたと記録されている。
この各地に散っている「四等官吏族等」も従って自ら糧を得る為に預かった「治安用の軍事力」を使って土豪・豪族化して略奪を行ったのだ。
それでも「嵯峨天皇派ら」は強引に実行したのだが、その「反発と圧力」に屈し結局は最後は「中和策」に出て兄の「平城上皇と仲直りをする羽目」と成った。
然し、「出自元の青木氏」とは「皇族である証拠」を示すものがあればそれを示して「青木氏を名乗っても良い」とする「妥協案」をだして「兄・平城上皇」を納得させたのだ。
この時、「賜姓五役」としてこれ等の「官吏等を統率する令外官の役目・国造差配等」を命じられていた。
これが「嵯峨天皇の平安期に発祥した青木氏」である。
結局は、「賜姓青木氏の掟以外」のところで名乗る事が出来るシステムが出来あがったのだ。

「大口青木氏・日向青木氏」はこの「嵯峨期の青木氏」では無く、「伊勢と信濃青木氏」の「伝統下での家人青木氏」として発祥させたのだがイメージとしては「賜姓系の青木氏」である。
これには前段で論じた通り「時光系青木氏や島左大臣系青木氏や橘氏系青木氏や丹治氏系青木氏等」があるが、この大影響下を受けて、「賜姓源氏」にしても結局は、「32の源氏」も生まれたが、最終は結局の処は例えば「嵯峨源氏」は「10年後」には「官吏に就けた4源氏」しか残らず、更に「20年後程度には2源氏」に、「30年後の三世族」では生きて行けず全て「経済的理由」から絶えて“「皆無」”と成ったと記されているのだ。
更に最終は「清和源氏」も含めて「正統な源氏とする賜姓族」は「対抗した青木氏の朝廷への貢納献納の停止」では、この「賜姓源氏族・勝手に名乗った賜姓源氏の方が多い」は「1221年」には影も形も無く成ったのだ。
丁度、これはこの「大口青木氏・日向青木氏の件の35年前の出来事」であった。
何れにしても「源氏を名乗る事への危険性・それだけ厳しい環境下・平家と経済」ではあったのだ。
「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」にしても、つまりは是が非でも「安全な策」を未来に対しても執るには「禁じ手の伊勢の名を使う必然性」に迫られていたのだ。

当然にそうなれば「嵯峨天皇派等の勢力」は、「賜姓族と皇親族」を外せば「資格を示す令外官の院号を持つ伊勢側の商い」も止めて来る筈であったが、「資料と記録の行」から調べて観ると、「令外官としての朝廷との商い」は「継続関係・停止の表現行は無い」に未だあって、「四等官以上の官僚族等」はこれを“「内々の争い」”として扱い「天皇の云う事」を聞かなかった事に成り「資料・記録」もその様に記されている。
それ程に「商いを外す事」が出来ない程に、他に「賜姓族の令外官」としての「信頼できる代わり得る者」が居なかった事に成り、且つ、始まったばかりの「部経済下」で「天皇家・内蔵」を支える「殖産業を含む大商い・賜姓族形式的には「院号を持つ御用商人」をしていた事に成り、ここが「判断の見どころ」であったろう。
「809年位」から「院政842年没」までの「33年間」で、「源氏の基源と成る族」は一応は消えた事に成るのだが、これを盛り返し「河内源氏」が「武器を持つ事・禁令を破る事」で「略奪で遺った事」に成り、反対にこれをしなかった「官僚としての摂津源氏一族」は朝廷内の立場として衰退していた。
内々では「正三位」という「朝臣族」では普通は成り得ない「最高の冠位と領地・富裕」を得ていながらも「乱を興す結果」に追い込まれていたのだ。
然し、「朝廷の底入れ」で何とか生き残った「摂津源氏・正三位頼政」にも「伊豆・国友説の起源」に初めて「朝臣族」でありながらも「略奪」では無い「冠位の正三位に成る事で正式な領地」を与えられながら,それにも関わらず「頼政の乱」が興って仕舞ったのだ。
故に、「天皇や平氏」のみならず「朝廷」をも敵に廻した結果と成ったのだが、「地方の四等官の官僚族・国司階級」までも「信頼・支持」を失っていたのだ。
故に、この「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」も、そもそも「周囲の信頼」を事石く失い、そもそも「名乗る諡号の姓」さえ無かったのだし、密かに先ずは「廻氏の裔系」として呼称させ、且つ、その後に「伊勢に肩を寄せる事・家人青木氏を名乗る事」の以外には、そもそも「上記する平安期の古くからの歴史的経緯」すらでも「摂津源氏系・名乗り」には「生きる策・道」は最早無かったのだ。
況してや室町期とは違い平安期末期に乱を興しての事である。

然し、「資料の行」から観て、この発生した「嵯峨期までの三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「伊勢と信濃」は引き取ったとされるが、然し、女系とした以上は「皇子」は「施基皇子」の時より一切引き取らなかったとされる記録がある。
前段でも詳細に論じた様に、この「三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「多気郡の斎王館と清光寺分寺と神明社等」に匿ったとしている。
これが「伊勢と信濃の青木氏の立ち位置」に「大きな影響」として働いて来たのだ。
中には、その「出自格式差」を基に身分を「12階級の女官扱い」として、その後の身分を確定させた事が記されている。
但し、「伊勢の嫁家制度」の「女(むすめ)」に組み込んだかは記録が無いので定かではないが組み込んだであろう。
但し、実質、「皇子族」は「近江と美濃」に流れたと考えられ、「佐々木氏の研究資料」にもこの事が記されているが「経済的な理由」から「近江」は少なく「美濃」が殆どであろう。
それ故に「美濃の格式」は「伊勢・施基皇子の裔系以上」と肩を張る様にして伸し上がった理由に成ったのだ。
これが所謂、「源氏化への原因」と成ったのだが、これに反して「伊勢と信濃」はこの「源氏化」に一切走らなかった一つの要因と成っていた。
反して「伊勢と信濃の青木氏」には「女系族としての掟」があり「皇子族」は徹底して阻害し続けたのだ。
これが元で「裔系の格式」に「美濃」には「伊勢と信濃」との「格式差の短縮・伊勢桑名から浄橋と飽波が嫁して中和策を執ったが上手く行かなかった・地名一色の発祥原因」が起こり、この「青木氏族の関係」の「近江と美濃の関係」も、それ故に「源氏化」が進んだ事」で「清和期」から極度に悪化して行ったのだ。
「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」もこの「中・源氏化」にあって難しい経緯にあったのだ。

その後の「天皇家」に「対抗した青木氏の朝廷への献納貢納停止の影響」は、「近江と美濃の関係の悪化」へと繋がって行くのだが、然し、「嵯峨期の跡目」を継いだ「子供の仁明天皇・施基皇子からは玄孫」は、「出自元の里との関係修復」に必死に働き、「対抗した青木氏の朝廷への貢納停止」を中止させるまで持ち込み、その代わりに「嵯峨期の処置の令の一切の中止・廃止はできない」とし、再び「天皇家への献納」として限定した事が判っている。
各地の「源氏化と武力化」と「四等官までの官吏の汚職」で、「天領地や蔵人攻撃等」が各地で盛んに起こり奪われ「各地からの貢納・弁財使の反抗」も低下して、「武力の持たない天皇家・内蔵」のみならず「朝廷・大蔵」も貧したのだ。
それだけに「青木氏からの供納献納・朝廷の財」には大きな意味を持ちその多くを占めていたのだ。
やっと「仁明期」に依って「事件の解決」を観たのだが、これには「直前の一時的に興った源氏化事件」が伴っていて、この事から生き遺った「青木氏の伊勢と信濃」は前段でも論じたが「各種の院号・専売権」を得て「殖産業」を邁進させ、「大口青木氏・日向青木氏の経緯」として発展して行くのであって、その「大きな起爆剤」と成っていたので「歴史的経緯」が「大きな背景としての意味」を持っていたのだ。
この時期までは、この様に「伊勢青木氏も苦しい時期と経緯であった事」には間違いはなかったのだ。
「伊勢伊賀説」も「伊豆に語り継がれた伊豆国友説」もその「名乗りの裔系の時系列の経緯」は、歴史的に微妙であった事が判る。
結果として、上記した様に何れの説も「伊勢の裔系としての策・それしか無かった」を講じた事が判るのだ。
それも「古来からの経緯」を引き継ぐ「伊勢青木氏の格式を持ち出す事」では無く「商いの前提」に重点を置いた経緯であったのだ。

更に「大きな背景としての流れの意味」を続けると、そう成ると、「青木家の四家と福家」と「白壁の間」には経緯から基礎的には「青木氏の内部」では「亀裂が発生していた事」に成っていたのだ。
「父親の白壁・光仁天皇」に対して、「子の山部王・桓武天皇」は「実家元の意見」に賛成していた構図と成る。
「桓武天皇の子の平城天皇・当時」も「父親に賛成・反対派」していたが、その後の同じ「子の嵯峨天皇」が「賛成派」であった。
それを「光仁天皇」から観れば「孫の嵯峨天皇」が賛成して「光仁天皇の意思」を継いで「格式化・新撰姓氏禄・振動と仏道の習合策」を世に出した事に成る。
この「二人の賛成派の狙う処」は、“全く同じであったかは議論の分かれる処”である。
「桓武平氏・伊勢平氏」も「反対派の桓武派」であって「50年程度」に渡って「骨肉の争い」は起こっていた。
分ければ「伊豆の国友説の場合・賛成派」も「伊勢伊賀説の場合・反対派」の位置づけにいた事と成る。

つまり、ここが“「疑問aの答え」”に繋がる処だと観ているのだ。
この事に注目する事は、「青木氏一族」の中でも「賛成反対の争い」が継続して起こっていた事に成るのだが、「伊勢と信濃の青木氏」は「反対の態度」を明確に執っていたのだ。
簡単に云うと「桓武派」は、「伊賀」は「母親・祖母の里」であり、それは「青木氏」に執つても、「伊賀青木氏の里」にも成るし、そもそも「庶人化し商いの格式化の中にある事」ではそもそもその必要性はないし、「源氏化を進めた嵯峨派・賛成派」は「賜姓・皇親族を外した派」でもあるのだ。
「桓武天皇派・反対」の「反対派の主張と危機感」は、「格式が無くなる事」や、「皇親族では無くなる事・商いの前提の院号の喪失」では判るが、然し、そもそも「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成の主張」は記録の上ではその差は一見してはっきりとは判らない。
「伊勢と信濃」では“「皇親族で無くなる事」”は、“「自らの足元を失う事”の危険性」では同じであり、“失なわないと云う保証”はそもそも何処にも無い。
現実に「献納」や「商いの承認」も最終は復するが形式上は既に一時的には失っていた。

そもそも、追記するが「嵯峨天皇」が「青木氏を皇親族から外した事」には次の手順が必要であって、さうしなければ「朝廷の制度」に依って簡単に外せない。
その要素は、「禁令813年>皇親族>源氏詔勅814年>令外官>院号の順」で「手続上」としては外して行かなければ矛盾が生まれて出来ないのだ。
「令外官」は,表向きは「皇親族で外している事」には成るが、明確に外すとした訳では無いのでこれは正式ではないとする。
「令外官・賜姓五役の一つ」そのものが、何れの「族・従四位以上」であっても多くは「天皇の内示」で「秘密裏に行われる体質」のものである事から外れていない事に成るし、そもそも「賜姓五役」を外さなくてはならない理由はない。
原則は、「天皇家」では「前天皇の施政策は否定してはならないとする絶対掟」があり、これを断行するとすれば「別の何らかの他の名目大儀」を着ける必要があるのだ。
後はその「内示」が有るか無いかであり、無ければそれまでであり、現実には何処にもそんな記録は無い。。
依って、歴史的に無いのであり、又「何らかの他の名目大儀」も無いので、正式には「賜姓五役は遺る事・令外官」に成るのだ。
だから「永代・明治9年まで」とされているのだが、この「権威を示す院号・許可書の様な資格」は、「天智天皇と天武天皇と桓武天皇と平城天皇」の「前四代の天皇が継続して与えた号」である限りは、「外すとした命令」を出さないと外れない。
何れも出されていないし、そんな「強引な詔勅」は「先代の天皇を否定する事」に成り、それは自らの立ち位置をも否定する結果と成るからで現実には出せないであろう。
一時的に「嵯峨天皇」が「青木氏の賜姓を中止した事」があったが、これも「周囲の圧力・四等官以上の官吏等以上」で「中和策」を執り別の形で最終は復している.

これを観ると、「青木氏の慣習仕来りの禁令」と「源氏詔勅を出す事」で、「皇親族を実質外した事」に形上は成るのだが、然し、「賜姓」は「源氏に変更して外した事」には実質は成る。
然し、最後は「中和策」で「真人族」を証明とその証拠を示せれば「青木氏」でも「源氏」でも名乗っても良いとしたが、「賜姓五役」だけは「永代」と名目されているので外せていない事に成るのだ。
後に960年頃に「円融天皇」がこれを覆し「藤原北家秀郷流宗家の三男族」に「青木氏の賜姓をした事」で永代に「青木氏の賜姓」は復活した事にも成る。
その意味で「青木氏の賜姓」は生き帰った事に成るのだ。
更に「1180年代」では、「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」の「諡号の姓名の名乗り」は、論理的に形式的には「伊勢の諡号姓の青木氏の発祥」は「正式な事に扱われる事」に成り得るのだ。

但し、これ等の論理は「院号を持つ商い」をしていないと云う前提であり、「925年頃」に「商いを主業」とする「氏族に変えた事」で、世間の目は別として「伊勢と信濃の青木氏の中」ではそれらは既に格式意味の無いものとして扱われていたのだ。
然し、ところがこの「二つの社会との乖離」で「世間」では依然として「鎌倉期から室町期」にはそれでも「律宗族として扱い・賜姓族から律宗族」に替わって行ったのだ。
「伊勢と信濃の意識」と「世間の意識」とは「大きく乖離していた時代」であった事に成る。
それは「各種の院号を持つ事」で「正当な商い・二足の草鞋策」と成った事であったと考えられる。
この時の「大口青木氏・日向青木氏」の件を、要するに時系列で観れば、その直前で興った事に成るが、その後の「鎌倉期から室町期・400年程度の間」には「世間の律宗族の位置づけ」で「大口青木氏・日向青木氏」の「立ち位置」にしても「商い」にしても都合が良かった事に成る。
それを示す「紛失している嵯峨期の新撰姓氏禄・木々の点も多いが凡そ復元か」でも「敏達天皇・春日皇子族四世族」としての「真人族」に分類記載されているので外してはいない事にも成る。
その意味で、その「主な理由」は「桓武派であった事」もあるが、故に「別の理由」では「伊勢青木氏を名乗る事」では、その意味で「格式上の上位」にあって流石の「日向平氏も手が出せなかった事」もあり得たと考えられるのだ。
故に、「大口青木氏・日向青木氏」のこの「家人の姓名」は、この意味で「賜姓青木氏の制度」の中では「家人青木氏」とは成るが、「嵯峨期で定めた制度」の中でも「正統な姓」として見る事が出来る。

この論には「二つの矛盾・疑問」している処がある。
それが下記の二つ目の「疑問b」である。
つまり、「嵯峨天皇の行為」は、「青木氏側」から観れば“「自らの足元」を失っても「格式順位を定めた新撰姓氏禄」なのか”と云う事だ。
幾ら何でもそんな馬鹿な話は無いだろう。
そもそも、「上記の経緯」では思い掛けなく「出自元」に「白羽の矢」が当たり「皇族」に成ったのだ。
これは何しろ「170年後に引き戻された事」に成り、兎も角も「院号を持つ商い」もしているし、この「二つの事」は「朝廷の掟」からあり得ない「白羽の矢であった事」に成る。
そもそもそういう事・皇族の煩わしい扱い」を避ける為に男系継承を避け「女系制度」にしていたのにである。
故に確実に「世間の目」からは、「新撰姓氏禄」のこれに“「疑問b」”を持たれ「足元」は間違いなく揺らいでいた「天皇家」であった事は間違いなく、前段でも論じた様にこれは記録からも確かであるし、「編集作業をしていた四等官以上の官吏等」にも三回とも大疑問を持たれたのだし、編集を放棄されていたものだ。
世間でも反対が多く、疑問も多く、何しろ「周囲の環境」は「正当な天皇の出自と格式」を疑われていたのだ。
それ故に「編集一度目の挑戦」は失敗したし、更に「編集二度目の挑戦」をした「光仁天皇期の新撰姓氏禄」に依っても、上記した様に「神道仏道の概念の矛盾の解決の事や賜姓を換える事」もあって「白羽の矢」として成立させて仕舞った以上は、上記の経緯での「足元の緩い天皇」に成っていた事は間違いはない。
且つ、「正当な直系尊属・170年経過では最早卑属系」では最早無く成っていた以上は、この「自らの足元を失う事の危険性」を帯びていたし、現実帯びたのだ。
然しながらも、これを少しでも無くす目的でも、事と次第に依っては「神道仏道の格式化を施す事や青木氏の賜姓から源氏の賜姓に換える事」で、“副産物”として「揺らいでいた天皇の地位の格式化も図られる事」は充分にあり得たのだ。
この可能性は重要であって、要するに「揺らいだ天皇の格式」に成った以上は、“「三度目の賭け」”として遺された道として「神道仏道の格式化策」で「天皇の地位を安定させようとした事」に賭けた事には間違いは無いのだ。

それには「新撰姓氏禄の18氏・真人族」の中に、この「神道仏道の格式化策」などの“何某かの説明要素が組み込まれていれば、“「天皇としての格式」”は保てるし、且つ、“「自らの足元の揺らぎも無くなる事」”にも成る。
それが「世間の反対の目」は逸らす事が出来るとした事に成るだろう。
それを探し出せば「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成」の「賛成の主張内容」は解決して矛盾している「疑問b」は解決するのである。
答えは、“あった”である。

さて、その前に余談であるが、「足元の緩い事」に就ては「資料」によると、三度目共に“編者に身の危険が迫る程の反対”を周囲から受けていたらしい事が判っている。
然し、この時、“反対”をしている世の中に対しても、“「折衷案」”を示して、この為に“「青木氏を賜姓する事」を中止し”、“「格式化」の「最高位・皇親族」から外した”とする説が当時には有力であった。
そこで、これを同じ賛成派の「父・光仁天皇」では無く「孫・嵯峨天皇」が強引に遣って仕舞ったのだ。
筆者もこの「失政説」を採っている。
故に「天皇としての地位の揺らぎ」は、恐らくは「白羽の矢の光仁天皇」より「孫・嵯峨天皇」の方がより大きく成っていたのであろう。
この記録に記されている様子の史実の「父・光仁天皇」<「孫・嵯峨天皇」=「地位の揺らぎ」の関係式は、“何故起こったか”は、「嵯峨天皇の施政」を潰さに検証しても「揺らぎ」を「顕著に興させる事は無い。
当然にこの失政の様を記録として遺す事は皇室の中ではあり得ないが、「伊勢青木氏側等」にはそれなりの疑われる記録は散見できる。
然し、唯一点、政策の為には構わず「出自先を否定した事」は、公然とした史実として“世間が許さなかったのではないか。”と考えられる。
何時の世も「大儀の理屈」では無く「世情の仁義」に「判断の重点」を置くが常道であろう。
これは“大事を成す時、上に立つ者の辛い処”である。
上記で論じた「九重戒相伝・通称嵯峨9つの縛り」として「嵯峨天皇」は、故にこの「縛り」をしっかりとした皇族の品位の者としてする為に「賜姓源氏」に義務として付け加えたが、その後の「11代の賜姓源氏」にはこれを一切守られなかった事を捉えても判る。
要するにこれは「世情の仁義を失っていた事」なのだ。
この「余談」が「伊勢青木氏の家人」として「大口青木氏・日向青木氏」とした「諡号の姓名の判断」の理解の要素には成り得るだろうし、「家人青木氏」で無くても成り立つ由縁でもあろうと考えられる。

ここで従って、“鎌倉期直前まで「格式化の律宗族氏」では一時無くなる”のだが、然し、「鎌倉期」では「伊勢と信濃が本領安堵された事」は「格式化の前提と成る律宗族」に「青木氏は戻った事」を意味するだろう。
それは「律宗族=本領安堵の証明の前提」であるからだ。
この「事・賜姓では無く律宗族で」、これは要するに先ずは、「世の中」を納得させようとしたのであろう。
それでも平安期中期から末期までは遂には“「収まり」”が着かず「光仁天皇の子の桓武天皇と平城天皇」の派との「一族内の政治争い・薬子の変等」の政争事件までが遂に始まつて仕舞ったのだ。
然し、時系列を追えば経緯としては、「律宗族=本領安堵の証拠の前提」で鎌倉期ではこの「政治的な扱い」として治まったと云う事に成ったのだ。
結局、「嵯峨天皇」は「収拾策・中和策・仲介策」として「弘仁五年の詔勅と禁令」を出して、「禁令」としては、この“「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用を禁じる”とする事で先ず「格式化」を施した。
これで「表向き」は「賜姓も認めた事・真人族を物語る伝統品の朝廷への提示」を意味するだろうとした。
その上で、更に「青木氏」を「皇位族の者の臣下先」として指定しこれを補おうとした事に成る。
これを「証明する物の提示」を朝廷に提示してその前提として容認すると云う形にするとしたのだ。
再び、「青木氏」がこれを採用するかは別としても、これで「格式化の親族」として復帰させた形を整えた事に成ったのだ。
現実は、「青木氏に移る皇位族」と「賜姓の無い源氏を名乗る事」に走ったのだ。
「120年後の朝廷」は、この問題を持った「賜姓族」ではなく「律宗族」で政治的には整えたとしたのだ。
その代わりに「円融天皇の藤原秀郷流・青木伊勢青木氏と信濃の母方:系」を「賜姓の青木氏」として正式に永代にして興させて「嵯峨期の失政」を正式に復帰・修復させ正した事に成ったのだ。
これは、つまり「出自元の問題」は上記した様に「仁明天皇」が修復したが、その後にも[朝廷の中」では「嵯峨天皇の失政」を燻る様に気にしていた事に成るだろう。
この「時系列の経緯の意味」でも「大口青木氏・日向青木氏」の「家人の諡号の姓名」は、「伊勢」が「家人として関わった事」で正当に成ったと云える。

それが「古い言い伝え」に依れば、「当初の嵯峨期の新撰姓氏禄の原本」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されていたとされるが、この 「川島皇子・河島皇子」と共に、遺された「青木氏の資料」の行から判断しても「光仁天皇期の新撰姓氏禄・仮称」では、文意を要約すると“「敏達天皇之系にして同祖同門同族同宗の四掟裔也、 故以四世族天智天皇皇子浄大壱位施基皇子後裔也」”と記されていたとされるのだ。
それらの事を「書にした長尺物」を室町期頃に「巻軸」にしその一部を江戸期頃に「古額」にして伊勢に遺こしている。
従って、この事から「川島皇子」と同じ「天智天皇の皇子の第七位施基皇子」は同然にこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」に記されていた事に成るのだが、これが「光仁天皇」と共に「追尊春日宮天皇・施基皇子」に成り、この事に依ってその「後裔族の賜姓伊勢青木氏・律宗族」はこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」から先ず抹消され、書き換え修正してされていた事に成る。
この「修正策」の実行は「朝廷内での事」では無いかと推論している
「追尊春日宮天皇・施基皇子」とすれば「賜姓を外す外さないの議論」は霧消に成るが、「嵯峨天皇」は上記の通り「賜姓を外そうとした事」は、本来は出来ない事に成るので「周囲の四等官以上の官僚族」から強い反対意見が三度も共に噴出したのだ。
そこで「三度目の嵯峨期」では「折衷案」として、その替わりに「春日王族」としての下記の通り記載があるのだ。

「嵯峨期の新撰姓氏禄」では次の三つが記載されているので検証する。
1 香山真人 敏達皇子春日王の後裔也
2 春日真人 敏達天皇皇子春日王之後裔也
3 高額真人 春日真人同祖 春日親王之尊属後裔也

1の「香山」とは、現在の三重県伊賀地方付近一帯
2の「春日」とは、奈良県大和高田市付近一帯
3の「高額」とは、同付近一帯

同じ族が三つも記載がある事はそもそも無く、「敏達天皇の春日」は「親王」、即ち、「第二皇子」である。
「王」とは、「大化改新・645年」より「真人族の内」のその「第四世族の位」を云う事に成った。
従って、この「2の表現」は当時期の「嵯峨期での記入」とすれば「歴史観」が無く正確では無くあり得ないのである。
3はその「2の後裔」とするならば、「皇子」としながらも「王としている事」は「歴史観」がそもそも食い違っている。
2は正しくは「敏達天皇皇子春日親王之後裔也」と成る筈である。
故に、この2と3は正しい知識の歴史観が無い事から後から筆を加えられた事に間違いは無い事に成る。

1は「敏達天皇」より「第四代目の天智天皇の裔系」と成り、「施基皇子」の「長男春日・天智天皇前の三世族」であり、「基準の敏達天皇」より数えると「施基皇子の裔系」は「六世族」であり「王位の基準外」である。
「天智天皇」は四世族、「施基皇子」が五世族、その裔系は六世族、追尊王は七世族である。
当時では、これを「覆いを外れた者」を「ひら族・平族・第六位を含む第七世族」と呼ばれて坂東等に配置されていたので天皇が第代わりする度にこの平族は増える事に成る制度と大化改新で敷いたのだ。
且つ、そこで「施基皇子」はそもそも既に臣下しているので、その「裔系」は既に「王位」ではなく成っているのだ。
「天智天皇第七位皇子賜姓臣下族」と成った「伊勢王」の「施基皇子の四男の白壁」が「孝謙天皇の白羽の矢」で、何と54歳で「聖武天皇の井上内親王」を娶らされ「光仁天皇」に無理やり押し上げられた事は完全な枠外であった。
この事で「光仁天皇の一族・伊勢青木氏」は、好まない「追尊王位」を授かる「仕儀」と成り、「9人の男子と7人の女子供等」の「第四世族」までが「王位を授かる前提」と成って仕舞ったのだ。
然し、その時、「施基皇子の長男の春日」が「春日王」と成り、「伊勢青木氏四家一族の長」として「施基皇子の裔系一族」を「嵯峨期の新撰氏禄」の中では背負う事に成ったのだ。
ところが「政争の世界」に取り込まれる事を恐れて「辞退者」や「逃隠者」も多く出たとある。
要するに「記の1」は当にこの「春日王の裔系・四家」である事に成る。
「施基皇子・716年」は、没後に「追尊春日宮天皇・770年」の名称を授かりと成り、その結果、「追尊春日宮天皇の裔系」であり、「光仁天皇の裔系」の「二つの事由」からの「施基皇子の一族四世族」までに逃れ得ない侭に「追尊王位を授けられる仕儀」と成って仕舞ったのだ。

そこで、「嵯峨期の新撰姓氏禄」では、急遽、「修正」を余儀なくされたのだ。
それまでは「光仁天皇期の新撰姓氏禄」を原稿としていたのが「嵯峨期の新撰姓氏禄の稿」では次の様に成っていた。
当初は、同じ「天智天皇皇子の第六位皇子」の「近江王の川島皇子」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されているのに対して、「施基皇子」には、“田原・志紀朝臣天智天皇皇子浄大壱位施基皇子之後裔也”と記されていたとされるからなのだ。

以上の経緯から「光仁天皇」と「追尊春日宮天皇」の「天皇追尊事由」で「嵯峨期の新撰姓氏禄」には、この「天皇家の記載・真人族まで」がそのものが困難と成り、その「伊勢の裔系」を「長兄春日の真人族」として「修正記載する事」に成ったとされるのだ。

世間ではこれを疑問視されていて反対されていた故に、これを以て「天皇系」を正当化して基に戻して、「足元の揺らぎ」を無くして、「格式化と正当化」で「根強い世間の反対」を押し切ろうとした事が判るのだ。

念の為に、この“「四掟」”は、そもそも中国の初期の「朝廷国の華の国」から始まった制度で、「中国の皇室伝播血縁掟」から由来するものであり、「大和朝廷」ではこれを取り入れて「二つの賜姓青木氏族・女系適用」だけに古くから適用し採用されたものだ。
この「中国の制度を取り入れた事」に依って「伊勢と信濃」がこれを「伝統」として採用した「四掟四家の制度」は、制度的には当に「賜姓族所以・律宗族」そのものを示す証拠と成るのだ。
これで「疑問b」を解決させたのだ。

ところがこの事から、「嵯峨天皇」としては、本来は「賜姓を外す事」は本来は出来なかったのであり、規則に拘る官僚族から強く反対を受けていた所以でもあるのだ。
そこで「嵯峨天皇」が、「賜姓をした源氏」に対しては「9つの縛り」を義務付けて、これに対応しようとしたが「11源氏」の全てはこれを護らなかったのだ。
この「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった「嵯峨期詔勅の賜姓」はこれでは「賜姓源氏」では無い事に成る。
その何とか生き残った「河内源氏」は禁じ手の「武器」をも以て「略奪の行為」に出て品位を失い糧を得たのだ。
これ等の歴史観は、「近江佐々木氏や伊勢信濃青木氏以外の伝統」と比較する事で判って来る事であってあまり知られていない事に成り、今度は官僚側に反対される事が無い為に「賜姓源氏の正統性が突っ走る事」に成って仕舞っているのだ。
但し、「清和源氏の三代目以降の摂津源氏・頼光の裔系」は「最低限の四家制度」を敷いて何とか「賜姓族の範囲」に留まったのだ。
然し、「伊勢と信濃青木氏」はこの「摂津源氏を四掟の範囲の族」と認めなかったのだ。
中には「、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」も「清和源氏の河内源氏」ものとして思い込まれている間違った歴史観になっしまっているが、そんな与えたとする記録は何処にも無いのだ。
「源氏」は上記の事では、前段で何度も論じているが、そもそも「課せられた白旗派の浄土宗」では無く「八幡菩薩の神仏習合・神道と仏道の統一宗」であって、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」は論理的に資格としてはあり得ないのだ。
「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった族に与えられる事はあり得ないのだ。
これを理由に幕府樹立を認めようとしなかった朝廷は、頼朝が次の様な苦し紛れの言い訳をして返した。
「幕府は権利を何とか有していた「摂津源氏の頼政の乱」を引き継いだ事を以て「笹竜胆紋と白旗」を証明する使用の開幕の条件・源氏の頭梁と成り得る権利を有しているとしたのだが、確かに「頼政に王位の令旨・1」も出ているし、「摂津源氏も最低限の真人族の条件・正三位の冠位・2」に叙されているし、「真人族の9つの縛り・3」も最低限の処で維持しているし、何とかこの3つの条件がある以上は嫌々ながらも開幕を認めざるを得なかったのだ。
それでも「以仁王の王位の令旨は有効かと云う議論」と「笹竜胆紋と白旗の使用は有効かという議論」が朝廷内で興っていたのだ。
筋論としては確かに筋が通っている処から「頼政引継論」で決着は着いたのだ。
結局は、上記の「3つの資格条件」は、飽く迄も「天領地などを略奪した河内源氏の頼朝」ではなく、「朝臣族として働いていた摂津源氏の頼政」に与えたものだとして認めたものとした。
従って、後の「時系列の経緯」としては「頼朝三代」を潰せば「頼政引継論」は成り立たなく成った。
然し、そこでこのこの「北条氏等の坂東八平氏」は、唯単なる地方豪族では無く、元は「大化改新期からの発祥族」の「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏・ひら族と呼称させた・大化前は王族位」であった事から、「頼政家の執権」としての「資格・家老」を難なく「北条氏」は「執権としての立場」で政治的立場を問題なく獲得したのだ。

筆者の論では「頼朝三代」より「北条執権説の方」が「開幕の歴史観」としては筋論に妥当性があると考えている。
「河内源氏」も「坂東八平氏」も「武器」を持ったが、ところが「坂東八平氏・王位族」には「武器を持つ大義名分」が朝廷から「坂東の治安維持の命令」が正式に出されていて、その「集団」に「平族・ひらぞく・天智天皇令」とする呼称にも「賜姓」されているからだ。
「清和源氏の河内源氏」には「嵯峨天皇9つの縛り」を「賜姓朝臣族の品位義務」として義務付けたにも拘わらず護らず、且つ、「禁令の武器」を許可なく持ち、其れも「天領地略奪」を繰り返した。
明かに対比的であるが、「資格」に問題は無くその得た時代が「天智期」と「清和期」の「時代差」だけであるので「坂東八平氏」もその様に認識していた可能性がある筈だ。
時期を観て「頼政引継者」の「頼朝三代」よりは、これを潰して「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏」に取り戻す行動に出たと観ているのだ。
つまり「頼朝利用説」である
「摂津源氏・頼政四家一族」はこれらの事を最低下で護ったが故に「正三位であった事等」を以て「開幕条件」は成立したのだ。
斯くの如しの歴史観で以て始祖を「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」とする「大口青木氏・日向青木氏」は「頼朝三代の鎌倉期・1221年」を過ぎた頃には「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」の「名乗り」は難しく成っていたのだ。
故に、「大口青木氏・日向青木氏の論」はより正統性を持ったと「北条氏の鎌倉幕府」から認められていたのだ。
だから「日向灘の海運業」は前に前進したのだし「不当な攻撃を受ける事」はなかったのだ。
この事を「大口青木氏・日向青木氏の論」を借りて「後段での歴史観・時代背景」としても参考に成るので追論して置く。

さて、「疑問bの経緯」が判ったとして、論が外れる事に成るが「大口青木氏・日向青木氏の論」と同じく歴史観として「次段の論」を解決する為に敢えて次の事を先に論じて置く。
先ず、“では、故かの「疑問a」である”。が起こるのかである。
つまり、それには追論として前段で論じ切れていなかったので、先ず何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまりこの視点を変えて「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”である。
それを検証する。
上記した様に、正統に「天皇家の准継承者」は、周囲から疑問や反対者が出ている「施基皇子系」で無くても他に寧ろ資格者は未だ多かったのだ。
必ずしも「伊勢青木氏」だけでは決して無かったし、伊勢であるのなら「信濃青木氏」もいた。
「聖武天皇裔系」は「称徳天皇」まで、少なくとも「天皇家内」で、「四世族内」で、「第四位皇子内」で、「直系尊属の内」で継続して行われていた。
「孝謙天皇」から観れば、直系とすれば「文武天皇42」と「元明天皇43・女性」であり、「継承という事」に成れば「直系」は、「天智天皇38」では無く、直系尊属と成れば「天武天皇40」の「嗣子」に成る。
「追尊の弘文天皇39・大友」を除き「元正天皇44・女」、「元明天皇43・女」、「持統天皇41・女」は「女系嗣」であるので、「天武天皇40」の「直系嗣子」は「7人皇子と8人孫子と5人曾孫子」にあり、間違いなく「継承権のある者」は確実にあった。
この前の「持統天皇期」には、態々、「継承を定める為の規則」を議論する為の問題と事件・史実」が起こつている位なのだ。
この「考え方・継承を定める為の規則」が後に「大宝律令」に反映されたと云われるものだ。
それは「文武天皇697年〜707年」の「15歳の即位時の事」である。
従って、未だ、それから「50年も経っていない時期の事件・白羽の矢」であり、且つ、自らも「皇統の正統性」を強く主張していた「孝謙天皇769年〜758年・称徳天皇764年〜770年」はこの事に強く縛られていた事は「史実・記録」から明らかであるにも拘わらず「突然に変更した事」である。
この経緯は「不思議な事件・疑問c」である。


ここで序でに、前段で充分に論じていない事に就いて、且つ、次の論に繋がる事なので先に「注釈」として論じるが、、この時、「称徳天皇の異母妹・井上内親王」を妻とした「施基皇子の四男、又は六男」の「白壁」は、「称徳天皇の嫉妬」を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていたとあるが、「伊勢青木氏」で伝えられる処では、これは「皇位継承」の為に「皇位にある内親王」を押し付けられ、それで「皇統の正統性」を高めようとして避けたものと解釈している様だ。
光仁天皇に成った「後の事件」では無く、その「前の事件」として記されている。
この「後の事件とする説」には不合理がある。

さて、その「継承事件」とは要約すると次の通りである。
この様な「孝謙天皇15歳の若さ」で即位したのには何か「理由」があると観られる。
これを説明する為に「皇太子になった経緯」を辿る。
「漢詩集である懐風藻・751年頃」に次の事が記されている。
これは「史書」では無いがそれに依ると、次の様に成る。
「持統天皇」が、“「皇位継承者」である「日嗣(ひつぎ)」を決めようとした。”
この時に、群臣等がそれぞれ自分の意見を言い立てた。
この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
その際に“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子」”が、次の様に言い立てた。
“「わが国では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
ここで反論の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
この為に、その場では“そのまま口を噤んだ”とされる。
そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
再び“「弓削皇子」が自らが{正統な後継者」である”と主張したのだ。
ところが、逆にそこで「持統天皇」は、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
「持統天皇」は、「葛野王・天智系の主張」に賛成していた。
これは矛盾するが、これには裏の意があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統はそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と解釈したのだ。
これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」を自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系」の主張だけと成る。
現実に直ぐにその様にした。
一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだすと観て先手を打ったのだ。
この先手策を読んで喜んだとしたのだ。
そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と主張したという事に成ったのだ。
この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てたにも関わらず、即位目前の689年に没してしまったからだとしている。
この為に、「持統天皇」は「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事で、それがこの「一言」で解決したとして喜んだ事に成ったとしたのだ。
つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあったのだ。

先ず「一つ目の事件」は、「軽皇子・孝徳天皇・芽淳王系」と「中大兄皇子・天智天皇」との争いである。
兎も角はこの事件は「中大兄皇子」が引き下がって解決した。
次に「二つ目の事件」は、その後の「孝徳天皇の皇子の有間皇子継承問題」の「藤白坂絞殺事件」も「孝徳天皇系が引かなかった事」で実権を握っていた「天智天皇」は「孝徳天皇側が引かない為に結局は争い」と成って解決した。
最後に「三つ目の事件」は「大友皇子・天智系」と「大海人皇子・天武系」の争いである。
「大友皇子」は「戦い・壬申の乱」で決着し敗退した。
「敏達天皇の裔系」のこの「三系」で「皇位継承の四度目の対立事件」は以上の事としているのである。
要するに、この「皇位継承事件」は四度共に姿勢としては「天智系」は引いて治まっているのだ。(重要)
それ故に「持統天皇」は、この「全ての経緯」を知っていて「天武系を主張していた事・宣言」に成る。
「聖武天皇系の孝謙天皇・称徳天皇」も自らも「完全な天武系」であり、且つ、「皇位の正統性」を主張していた「天皇」の一人で在りながらも、この「上記の立場」に置かれていた「賜姓臣下した施基皇子系」に「白羽の矢を立てる事」、そのものが先ず一番に「おかしい事・疑問・主張の矛盾」に成ったのだ。
「主張と行動の食い違い」が「孝謙天皇」に起こっていたとされるのだ。
その上に、「四度目の事件」としても引いていたのだ。
「大化改新の詔」で規則に沿って「天智系の施基皇子の皇子の立場」は「第七位皇子」であった為に「賜姓臣下」していたし、況して「院号を元に真人族」としては「禁じ手の商い」をもしているし、一族は「女系」と成っていたし、その「血筋縁」は既に「四掟」で「皇族系」で無くなっていたし、その後も皇族に「還族」もしていないし、「天武系の正統性の者」が上記した様に大勢にいなければいざ知らず「継承族の対象者」は「数十人」にも及んでいたのだ。何よりも伊勢側は再び「天皇に成る事」のみならず「皇族系に成る事」も望んでいなかったのだ。
政治に関わる事を望んでいなかったのだ。
況してや、その「無継承者としての正統性」はこの段階で「50年」も経過していたのだ。
相当無理してこれだけの「リスク」を以てして「白羽の矢を立てた事・殆ど無理やり」に成る。
故に、上記した様に記録にある様に、「光仁天皇への世間の評価が低かった事」がこれで判るのだ。
前段でも論じたが、この経緯からしても、上記した“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”の様に「天武系だけで継承する事」にすれば「継承者の政争」が起こると考え直した「称徳天皇・孝謙天皇」であったが、其れだとすると「近江系」が「伊勢系」より正統性は数段に高い事に成るが然しそうしなかったのだ。
そこで、「近江佐々木氏との格式差」は確実にあるとするが、「白羽の矢」に成る程の「近江と伊勢の違い差」は源氏化までは「相互血縁」が行われていたので「血縁差」はない。
とすると、突き詰めれば比較にならない程の「大経済差・殖産財力」と成り得る。
これを前段で論じた。

つまり結論はこれが「疑問a」であり、それに繋がる「疑問c」である事に成る。
そうすると、前段と前記した「光仁天皇と嵯峨天皇」が採った「青木氏への賜姓排除排斥策」には矛盾が生まれるが、これはこれを「白羽の矢」で期待した以上は当然に起こるこの「財力を使った皇親族の政治的で財力的な絶対的な勢力の排除」に尽きる。
それが「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」と成り、「政治と経済・基盤」に「狂い・矛盾・疑問」が出たと云う事に成ったのだ。
唯、「青木氏側からの言い分・反対の言い分も」が、飽く迄も朝廷が認めた「二足の草鞋策・賜姓五役・院号獲得」を前提としている事で分けて考えていて大儀名分はあったし、そもそも「白羽の矢・献納で貢献」を望んだ事では無いし、当たらないとしていたのである。

筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

次に論じる事に就いて、上記のこの「歴史観・観点」を念頭にする事が必要である。


「大口青木氏・日向青木氏」の論は次の段に続く。

「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」に続く。(88P)


  [No.393] Re:「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」
     投稿者:青木   投稿日:2021/12/24(Fri) 15:42:48

> 「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」の末尾


> 筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
> この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
> それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
> これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」



此処から伝統 68に続く


“何故かの「疑問a」である”。に論を戻す
これらの事を前段とは別の面で検証する。

つまり、何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまり、この「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”であるが、“明らかに「正統性では無い」”とする事を前段では論じた。
それには、そもそも「青木氏以外」に“「存在する継承族の対象者」は「数十人」と成っていた事なのに、その「矢先の決定的な違い」が何処にあったのか”であり、従って、この数からすると必ずしもその理由付けの“天智系にしなければ成らない”とする「正統な理由」はそもそも無かった筈だ。
とすると、然し、実行したこの「隠れた原因」、寧ろ「隠された原因」が「白羽の矢の答え」であった事に成る筈である。
そもそもこの事は「伊勢青木氏」に執っては全氏族内に「求めない無いゴタゴタ・呼称する」を招くからである。
この「ゴタゴタ」を避けていた事は、公的でも、且つ、氏族内の記録としても史実として遺されているからだ。
それ故に大きく「青木氏の行動」に影響したのは確実で、その為に慎重に成っていた。
なので、これに関する以下の事等が、取り分け、前段で論じた「大口青木氏・日向青木氏の商いの前提」も、この少し後のやっとこの「ゴタゴタ」が治まった頃であった事から、未だ「慎重な行動」がこれらに関わって来ていたとするのだ。

後勘から観て比較すればこの頃の行動の様子が違っていて「違いの差」が直ぐに出て来るのだ。
それらの「違いの差」は、唯一点、925年から正式に自立し、1025年の総合商社にした「貿易と殖産の商い」から得られた「伊勢青木氏の財力」にあった事は先ず一つ目としては間違いはない。
これだけは歴史的にどの様に観ても「格段の差・財力の事」であった。
逆に、これが「白羽の矢の原因」と成った「称徳天皇期の弱点」と既に成っていたし、少なくとも速くても臣下族であった「伊勢青木氏の財力」で、「改善に向かう仁明期」、遅くても「改善した円融期」までは何処にも助けを求められなかった「朝廷の財政難」では苦しんでいた事は史実であったからだ。
つまりはこの「賜姓族の青木氏」に無理に矛先・矢先を向けたと捉えられる。
「白羽の矢の目的」がこの「財」にあったとしても全面的には無理であったとしても元々は「青木氏」に執っては「伊勢青木氏の財力・献納と貢献」は、「影の令外官の賜姓五役」からしても補助する程度の貢献は「朝廷」から求められる前の「氏族の前提・宿命・献納と具納程度」でも立場に少なくともあったのだ。
この様に「氏族の宿命」と「白羽のゴタゴタ後遺症」から離れたい心情の難しい立場にあったが、然し、先に結論から云うが前段でも論じた通り「天武系」の天下の中で「これ・天武系に取り込まれる事・財政的援助」を「天智系」であるとして拒んでいたこの「苦しい心情」から、その「仁明天皇・出自元との調和」と「円融天皇の青木氏賜姓復活」の「二人の解決努力」で救ってくれたのだ。

それで「歴史上の経緯」を元から考察して観る。
そもそも、先ず「行基和上・668〜749」―「鑑真和上・754〜763」の歴史でも知られる様に、「聖武天皇期」は「世の混乱期・政治経済軍事」で人は疲弊していて、其処からそもそも一連の事が始まった事だ。
最終的にこれを救ったのが要するに「上記の二人」であった。
つまり、前記で論じた「神道仏道の文化格式の違い」が生じ始めて、これを解決しようとした「新撰姓氏禄」でこの「違いの矛盾」を解決しようとしていたが、朝廷内に関わる範囲では完全に解決し切れていなかったのだ。
この中に既に「神道仏道を格式化していた元賜姓臣下族」として事で「伊勢王の施基皇子の裔系の青木氏」が巻き込まれていて、それが時系列や経緯から「前期の財の他」には先ず「白羽の矢に成った経緯の発端」の一つでもあった事にも成る。
それ等を「出自元の立場の保全を修復した仁明天皇」と、これを決定付けた「賜姓青木氏の仕来りを母方であった秀郷流の青木氏賜姓をした円融天皇」が救う事で、未だ「源氏賜姓」が在る中でも社会に公然と再び格式化したのだ。
これで当然の事として停止していた「大掛かりな献納と具納」は再び始まったのだ。
然し、この「二つの賜姓青木氏」は互いに「四掟での女系制度」を敷く事で、再び徹底して「天皇家に組する事」をしなかったのだし、「白羽の矢」の様に二度と組される事を出来なくした。
その上で「賜姓族」では無く「律宗族」として二人は位置付けたのだ。
この「二人の策」で「円融天皇」の直ぐ後の「花山天皇・968年から1008年」は、「円融天皇・960年」の「賜姓青木氏をした事」で、まぎれもなくこの「11代続いた源氏賜姓・律宗族にはしなかった」を中止した事に成ったのだ。
経緯から「円融天皇」に依って「四掟で結んだ秀郷流青木氏の再賜姓化」で格式化された為に“中止と云うよりは出来なくした”と観た方が正しい。

そこで、参考例として関係する事を時系列で始めから改めて纏めると次の様に成る。
飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。
「仏教の伝来伸長」で「国家機関と朝廷」が「寺や僧の行動」を規定規制して締め付けた。
そして「民衆へ仏教を直接布教することを禁止」していた。
この「禁令」を破って「行基集団」が出来限り禁令に抵触しない様に「世の難儀」を仏教で解決する「布教の集団行動」を形成したのだ。
先ず畿内(近畿)に民衆や豪族など階層を問わず広く人々にこの行動型仏教で説いた。
それは記録に依れば「困窮者のための布施屋9所」、「道場や寺院49院」、「溜池15窪」、「溝堀9筋」、「架橋6所」
以上の設立などの「数々の社会事業」を各地で成し遂げた。
「渡来人の職能集団」が持ち込んで自然普及させ、其の後に彼等の力を借りて行基らの草の根運動で仏教の土元からの伝播が広がりこれで更に蔓延する様に庶民社会に興った。

注釈として、この「行基の行動・749年没」の中に常に「渡来人の職能集団の頭の男」と、その「技能集団」が専門的な知識が必要とする土木工事に積極的に関わっていた事が記録から判っているが、この「男とその集団」は「施基皇子」と関わった「額田部氏・前段で論じた」では無かったかと考えているのだ。
この頃き、土木工事一切は三つの大集団で統制されていて、それが「第一の額田部氏」、「第二の結城氏」、「第三は和気氏」であった。
「伊勢青木氏」は「国造の差配」として独自に「青木氏部・殖産事業を進めた」を持っていたとあり、額田部氏と関わり乍ら「明治9年」まで続いた事が判っている。
「施基皇子の青木氏との関わり」や「仏教の関わり」から「平安遷都・出自元の山部王の桓武天皇794年」に同行する事を拒絶し、朝廷より排斥された経緯を持っていて一切の官位格式を排除されて「施基皇子」」がこれを匿った史実の経緯・後に破格の冠位を与えられ復する」もある。
従って、当に行基の事や額田部氏の事は当に同時期の事であり関わる経緯としては完璧である。
つまり、仮にこの「土木技能集団の額田部氏」であったとすると、前段でも深く関わっていた「施基皇子とその裔系」が浮かび上がる事に成る。
橋を掛けるにしてもそれに関わる人の糧とその資材の財源をどうしたかであり、必然的に「額田部氏」であれば「施基皇子とその裔系の商いの財源」と成ろうし、「大仏殿建立」としても「大財源」と「高度な技能と技術」が必要と成るは必定で、未だ「皇親族」であった以上は「施基皇子とその裔系の財源の援助」が先ず最初に宛がわれるのが当然の事と成る。
と成れば、その後の「孝謙天皇の頭」に浮かぶ「白羽の矢の矢先」は「流れ」としては何よりも目前で華々しい実績をあげていた「施基皇子とその裔系の財源」と向かうは当然の流れであろう。
これは大きな証拠に成るので研究している。
時期も完全に一致しているのだし、彼等を通じて「古代浄土密教」を信じていた以上は援助は先ず間違いは無いと観ている。
同時に「額田部氏」は平安京遷都に同行しなかったが、その後の「伊勢青木氏との経緯・施基皇子・716年没の裔系」も考えればこの理由も更に解けてくる。

この「古代浄土密教」に「施基皇子の青木氏・647年賜姓」は「賜姓族」でありながらも「職能集団の国造差配であった事」から強い興味を持っていて神明社を守護神としながらもこの中に居たのだ。
つまり、「朝廷の3度の新撰姓氏禄の発想」の元に成った「神道仏道の融合化策の原因」と成った「神道・神明社」と「仏道・古代浄土密教」の「格式文化」の狭間に居たのだ。
要するに危険な中に居た事に成る。
ところがこれが思わぬ「白羽の矢の原因」の一つと成って仕舞い「神道仏道の融合化策の根拠付け」をして仕舞ったのだ。
当然ながら、「元賜姓青木氏」もこの渦中には居たし、これには当初は「朝廷」から度々弾圧や禁圧を受けていた事が判っている。
ところが突然に「聖武天皇」から始まり最後は「孝謙天皇」がこの「神道仏道の融合化・神明社と清光寺」に舵を切ったという事だ。
これが「白羽の矢」を打ち出す為の根拠としたと論じている。
当時では最も「神道仏道の融合化」を実践していた為に、「伊勢青木氏の裔系」にこの「白羽の矢」を打ち出すには必要で「違い差」が出ない様にそれに合わしてこの「融合化策」を講じたのでは無いかと考えられるのだ。
これが「嵯峨天皇」に依っては賜姓族でありながらとして気に入らなかったのだ。
この考え方の違い差が顕在化して「桓武派と嵯峨派」に分かれて「出自元」が同じとする者等で「政治的な戦い」が始まったのだ。
だから特段に外す必要が無かったのに「皇親族と賜姓族」を外したのだ。
「皇親族」から追い出し「賜姓族」を外せば普通の氏族と成り得て「神道仏道の融合化の問題」は解決するからだ。
筆者はこの様に観ていて、故に、嵯峨天皇没後にこの「ゴタゴタの歪み」を解決し始めたのが「仁明天皇」であって、解決したのが「円融天皇」であってこの「二人」という事に成るのだ。
だから、「円融天皇の秀郷流青木氏」は「清光寺」に対して「西光寺」と云う事に成るのだ。

然し、この「行動型仏教の普及」が民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して急激に逆境を跳ね返したのだ。
その後、ところがこの余りの強い民衆の力を恐れた「朝廷」は止む無く「最高位である大僧正の位」を与えて逆に利用しようとしたのである。
故に、とりあえず「仏教の布教を認めた上で民衆への布教を禁じた」のだが、この最初の扉を開いたのが「行基仏教」が最初であった。
結果として、「民衆側からの行動」で求めていた朝廷の当初の目的の「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたのである。
その二なの行動の証拠として「聖武天皇の招請」により遂に「奈良の大仏と東大寺の造立」したのだ。
これが「天皇の意思の証」と成ったのだ。
以上の実質上責任者として招聘されここで「仏道」は正式に承認された形を執った。
この功績により「東大寺の四聖」の一人に加えら「行動型仏教普及の行基」は加えられ数えられた。
「仏道」はこれに依り完全に全階層には浸透した事を意味したのだ。
然し、当然の事として「朝廷内部」、取り分け、「天皇家の内部形態」は現実にはこの「神道仏道の合体・習合」に追いついて行けなかったのだ。
「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたとして、それ故に「同線上に存在する事」に成った「賜姓青木氏に白羽の矢先」を向けて近づこうとした「理由・根拠」の一つと成って行ったのだ。

さて、「白羽の矢の理由の背景と成った経緯の検証」はここからである。
「孝謙天皇」は「吉備真備の補佐・過程を熟知していた」を得て、この時の皇太子に成る過程を経て前代未聞難しい立場の天皇に成るのだが、其処に賜姓を授かった「伊勢王の施基皇子の裔系」は「朝廷の部経済」を進める為にの朝廷に代わって「商い」を営み始めたのだが、それ故に「伊勢青木氏/施基皇子」に関わる問題に関わって来るのだ。
この事で判る様に、「聖武天皇の上記の大仏殿建立」で二つの事が興った。
「拠出金での朝廷の財政難」と「仏教徒全階級の民衆の力を使って寄付等」での建立であったとされる。
その為に、仏教に帰依する著しく庶民の力が強く成ったのだ。
此処にこの「天皇継承問題」が絡んで仕舞ったのだ。
天下の最大事でもあるこのの「天武天皇系継承の正統性を担保する事」が出来ない程の事が興り、「天武系の称徳天皇期の弱点」ともなり「思惑通り」には運ぶ事が出来なくなったのだ。
その現状は“朝廷には「財力」は無く「借財を前提」として、そこに付け込んだ「藤原仲麻呂」に牛耳られて、当に術なく「藤原朝廷」と成り「無力」であった。”のだ。
それがその前の「藤原系外孫王の淳仁天皇・天武皇子の舎人親王系」の「出現・廃帝事件」で当にその危機に落ち至っていたのだ。

そこで「慌てた称徳天皇」は「財政問題と仏教勢力浸透」の「二つの難題」を先ずは「先送り」にして、先ず先にこの「系内の外孫王天皇」でさえも廃帝し、淡路島に島流し抹殺してしまう程の慌てぶりの策を執ったのであった。
「系内の南家外孫王と云えど正統性を主張する持ち主」であったが「財政問題と仏教勢力浸透と藤原氏の天皇座の乗っ取り」との「三つの難題」は「継承問題以上の事」と成り得ていた事が判る。
ではどうするかであって、「同系の外孫天皇の廃帝」までしてこの「三つの問題」を一挙に解決するには
要するに「本題の白羽の矢以外には無かった事」に成るのだ。
如何にも論理的にはこれで解決する。
後は「慌てた称徳天皇」がこの「三つの事」で「固辞していた主張・天武系」を取り下げる以外に無く成って仕舞った事を示しているのだ。
筆者はこの「考え方を変えた行為」が「表向き行為」は公式非公式で何度か行った「称徳天皇の伊勢神宮向行」であったと観ているのだ。
同じこ事として「嵯峨天皇時の平城上皇との揉め事」の末も「伊勢神宮向行」で治めているからだ。
当時ではこの「伊勢神宮向行」が説得の一つの手段と成っていたのでは無いかと観ている。
「伊勢神宮向行」は要するに「伊勢青木氏との治め方・納得のさせた方」であったのであろう。
上記の全ての経緯を承知・熟知しいた「吉備真備の指導」で取り下げたと観られるのだが、この「称徳天皇白羽の矢策」は実質はそれ故に戦略的であり「吉備真備の白羽の矢策」であったろう。
朝廷内は不満で在ったろうが後に朝廷の三つ苦境をすくうのは一応はこの「白羽の矢・財の意見」で纏りを見せさせこれで解決した様であったが、問題は「伊勢青木氏内」に持ち込まれ移された事に成って、「光仁天皇と嵯峨天皇の出自元への反発」で生まれた上段で論じた通りであって、これが「約200年近くも伊勢青木氏内での揉め事・ゴタゴタ」と前段でも論じた様に変化して変わる事と成ったのだ。
実はその範囲が四家の宗家だけではなく研究過程で見直して観ると、「女系氏族」の「青木氏の氏族の伊勢郷士衆内」でもこの「ゴタゴタ」が持ち込まれていて、その影響が出ていた事が最近判った。
どんな形にせよ相当に「天皇家・朝廷に関わる事に反対意見・女系の意見」があった事に成る。
それが前段でも論じた様に「難波王」や「美濃王に嫁した浄橋や飽浪ら」の意見と成って現れていたと考えられる。美濃の源氏化も然る事乍ら、「浄橋や飽波」が一線を課して美濃で「一色一族」として独立して行動した行為などもこの事に由来していると観ているのだ。
要するに、これは「施基皇子の戒めの青木氏氏是を護ろうとした意見」であったと考えられる。

「同系の外孫王を否定する位の正統性を主張する主」が、「天智天皇・38代から48代の10代目の事・100年目の事」であるとすれば、定説として称徳天皇が突然に「天智系」に主張を変更しているのは全く考え難く、「朝廷大儀」として「何か正式に云えない理由があった事」に成るだろう。
それが「天智系の施基皇子の裔系の財力」にあったと説いている。
朝廷は然る事乍ら「天皇家」として「財を表向きに理由にする事」は出来ないであろう。
「天智系のより上位で正統なの継承対象者」は上記した様に「近江川島皇子・近江佐々木氏」を始めとして大勢いる中である。
但し、「嵯峨期の詔勅」でも「賜姓」を「源氏」とするが、その替わりに「指定する皇位族」としてのあるべき「慣習仕来り掟・格式・9つの縛り」を定めたのだ。
「源氏の権威付け・格式化」を策したのだが全く守られなかった。
「詔勅の中」に明確に記されている様に「財の裏付けのない賜姓」が無いのではそもそも生きて行く事さえも出来ない皇子たちには無理であろう。

更にこれに、即ち、「格式」を与える為に「中国の仏教戒律」を取り入れて「十誦律」に似たものにしたとする資料説もあるが、兎も角も「九重戒相伝・通称9つの縛り」として「嵯峨天皇」は「縛り」を「賜姓源氏」に加えたのだ。
然し、「11賜姓源氏」はこれをも一切守らなかったのだし守れなかったのだ。
其れは寧ろ、下記の理由で守れなかったと云えるだろう。
それは、「源氏族の直接武力」と「青木氏族の間接抑止力」にあって、「源氏」には「九重戒相伝・通称9つの縛り」と「直接武力」との間には「論理的な大矛盾」が生まれていたのだ。
因みに、「摂津源氏・頼光系だけ」がある程度これを「四家の範囲」で護れたのは、問題の「直接武力・藤原氏の力を借りた」は「朝廷の借物」として「考え方の矛盾」を解消させていたのだ。
ところが引きづっていた問題が後の「嵯峨天皇の計算・思惑」は狂ったのだ。
更にこれでも未だ事の治まりが着かず結局は、武力を持たさない為に「財力を与えない賜姓族」とするとして詔にこれを明記して折衷したのだがこれも守らなかった。
結局は、この「無視の緩み」で「賜姓源氏」は「11流11家」も生まれたが、何れも格式を有する事は出来なかったのだ。
何れも要は「源氏化の問題・青木氏から観れば財の問題」もこの「財」に在ったのだ。
「嵯峨天皇の苦境」の「対策の九重戒相伝・通称9つの縛り」は「格式化の効」を全く奏しなかったのだ。
源氏化は「財」を担保しない「格式化の苦境策」は当然の事で「縛りの保全」どころか武力化の方に向かうのは必然の事であったろう。
兎も角も、つまり「後勘」から観ても裏付けられる。
この「嵯峨天皇の格式化の苦境策」にはそもそも「根本的なもの」を忘れていたのだ。
それは、「最大最多の格式の象徴」の「神明社の伝統・律宗族とその裏打ち」を忘却していた事に成るのだとして故に「青木氏の資料・先祖・氏是や家訓など始めとして」では周囲の圧力には抑止力でにげその抑止力を担保するのは「財と四掟・女系で秀郷流一門で繋がる。
この結果として「賜姓秀郷流青木氏等の武力で抑止力」にあるとして、これを護る事を「青木氏の戒め・氏是とか訓と四掟の女系制度」として解いているのだ。

追記として、本来は「十誦律」とは、中国仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた「中国律書」の一つで、他に「四分律・五分律・摩訶僧祇律」が四つがある。
然し、日本ではこれ等の戒律を“「仏界」”にだけに留められず、咀嚼させ変化させて「高位族側・臣下族の朝臣族18氏」」にも利用伝統化させていたのだ。
その例の一つが、これが“「青木氏の家訓十訓」”に代表され咀嚼されて遺されたものだ。
“「青木氏の家訓十訓」”には、「奈良期の生い立ち」の「伊勢衆の氏族」の「商いと青木氏部の影響」を受けての考え方が色濃く滲んでいる様だ。
ここにも忘れては成らない歴史的経緯の「律宗族の格式化の名残・伝統」を持っていたのだ。

この代表的な立場が「天皇家を想起させる賜姓族」では無く「伝統の律宗族の所以」の故を以て、「皇位臣下族の朝臣族18氏」の「最高位の中」には入れずに、「武力を背景とした事・9つの縛り」を護らなかった事から永代に「源氏族」だけは、“「単なる朝臣族”の区分け」にして「身分格式」を留められて分類されて仕舞ったのだ。
それも、「源氏族の始祖とも成る嵯峨天皇」の「新撰姓氏禄・過去の二つの氏禄あり」に依って皮肉にも正式に決められて仕舞ったのだ。
止む無くその代わりに「仕掛け人の嵯峨天皇」は、「賜姓」は、「青木氏」を辞めて、「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」があれば、「青木氏を名乗る事」を「詔勅禁令・争いの末の妥協案・その後に仁明天皇と円融天皇は修正している」で許したのだ。
その場合にも「賜姓青木氏に於ける慣習仕来り・9つの縛り」を護る様に求めたのだ。
然し、「賜姓源氏」には矢張り武に頼り当然に守られなかった。
その証拠に平安期初期には、例えば“「島左大臣」”等の様に「公家の三代目の裔・天皇家と外戚の藤原氏」は、殆どはこの「身分格式の伝統」を重んじてこの敢えて「源氏」を名乗らずに態々“「青木氏」”を名乗ったのだ。
これは「武」では無く「財と格式・伝統」に周囲は求めた何よりの証拠であろう。
これが「伝統を護らない源氏」に対しての「公家である事」を重んじた典型的で代表例である。
要するに、「公家から低く見られがちの財」にあったとしても「公家」から青木氏族が出て、「公家」から「より低いとしていた「武の源氏族」は発祥しなかったのだ。

注釈としてこれに関連して何度も論じている事ではあるが、この事に類する事として敢えて思起こす具としてここでも述べる。
この寧ろ「源氏化」でその系譜を可能性があり搾取していた立場にいた筈の「武蔵七党の丹党の青木氏」には、「配流者の多治彦王の裔説・イ」と、「島左大臣の裔説・ロ」と、この「二つイロ」を組み合わせた系譜偏纂裔説の「三つの青木氏」が存在するが、「島左大臣の裔説の青木氏」は丹党とは歴史的因果関係が無く別である。
そもそも、「坂東」に配流された若い罪を犯した「多治彦王」は、3年後に京の都に既に戻されていて、且つ、若くて子孫を遺しえる能力を未だ持ち得ていなかったし、「彦の呼称」が示す通り青木氏を名乗れる「四世族内の王位」ではなかった事を示し、「配流の重罪を得ている事」からも「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏を名乗れる立場」にはそもそも無かったのだ。
念の為に、“「彦」”とは「未成年・15歳以下」を指し、「彦」は「神道」が使う呼称であって、「王」のそのものは「四世族内の皇位族の者」でも無かった事を示すのだ。
依って、そもそもこの「彦」と「王」の「二つを連結させた呼名」が先ず問題なのだが、「彦の段階」の年齢では「王位」にはそもそも未だ成り得ないのだ。
上記の通り「彦」はそもそも「神明社の神道系の呼称用語の忌名」であって、且つ、「皇位族=神明社の者」の中に無い者であり、そもそも「慣習仕来り掟の矛盾の疑問」が余りにも多すぎる。
更には、この「二つを組み合わせた系譜偏纂裔説」にはあり得ない事があって、その「丹党が示す系譜」は「繋目」で終わっているのだ。
「武蔵七党の国衆の丹党」が「関ヶ原の戦い」で摂津藩を取得した際の「江戸初期の国印状取得での搾取偏纂」である事には先ず間違いは無い。
但し、「島左大臣の裔説」の「青木氏」に関しては正統であるが、その裔の詳細な行方は未だ判らないが、「左大臣」とも成れば「京の公家中の公家」の中に存在していた可能性は充分にあり、「近江青木氏との判別」が付かなく成っている可能性もあるし、明治期の公家の「東京への移動」で「武蔵青木氏との判別」が付かなく成っている可能性がある。
他に、「橘の諸兄」の「宿禰族の橘姓賜姓青木氏」はあるが、そもそも「宿禰族」は「青木氏」を名乗れる資格は無いが、「諸兄の母」の「三千代」は後に「藤原不比等」に嫁し、後の「光明皇后」を産み、結果として「青木氏を名乗れる所以」を得たのでこの「橘氏系青木氏」は「正統・現存」である。
「橘系青木氏の子孫」は大きく遺してはいないが「橘紋」を有し現存する。
この橘氏も青木氏族に成ったが間違いなく源氏化する立場・格式にいた処を源氏化はしていないのだ。
これは「財と賜姓の青木氏」に執って何を意味しているかである。
少なくとも「河内源氏の鎌倉期初期」まででも「武の源氏」より「財と賜姓の青木氏」の方が、実質は「財と伝統の青木氏の方」が上位に扱われていた事を意味し、滅ぼされず「伊勢と信濃」は「奈良期末期の元を本領安堵」されている事もその「財の青木氏の証拠」であろうし、室町期は求めずとも「律宗族の扱い」で正式に「幕府と朝廷」で態々認められているのもその証拠であろう。
筆者は、この上記の証拠事例の様に「孝謙天皇の白羽の矢」に限らず、後勘でも「財の青木氏」>「賜姓の青木氏」の図式は重く捉えられていて、その上でもこの格式は認められていて「周囲・社会全体」は認めていた事を示していると観ているのだ。

他には実際は「甲斐で大きく子孫を広げた時光系青木氏」もその「嵯峨期詔勅が求める証拠」と成り得る物を有していないが、一方で「嵯峨天皇」は「皇子・嗣子の一人」に、「源氏の賜姓め・峨源氏」とは別に、「薬子の変」の「争いの別の収拾妥協策」として、「甲斐青木冠者蔵人・遙任」の「官位・税務担当」を授けていて、「賜姓同等の仕来り」として「9つの縛り」を護らせようとした史実が存在する。
この「裔系の甲斐賜姓青木氏」は、「清和源氏頼信系河内源氏4代目」が同じ「甲斐冠者」に任じられ、以降10代目に遂に「甲斐守の守護」に任じられていて、「11代目・源光」がこの「甲斐青木冠者蔵人」の「家の跡目」に入り「源光系青木氏」が誕生するのである。
唯、確かに「源光」は「源氏隆盛時」の「河内源氏」であったが、態々、「源氏」から「甲斐青木冠者蔵人」としての「律宗の伝統」を護り続けた「異色の青木氏」である。
この事も見方に依れば「武の源氏」より「財の青木氏」の方をげんじそのものが重視していた証と成るだろう。
この「源源光」は「源時光の弟・異母弟」であるが、「源氏化」で敗退して衰退して、「信長の甲斐凱旋時」の「出迎え」に出た時、この「律宗の伝統儀式」に則り「白馬白衣の乗馬姿」で「信長の反感」をかい、その時、「酷い暴行」を加えられ「信長家臣の制止」と説明で何とか留まった史実があるが、その後は「甲斐の山奥・北巨摩郡」に押し込まれひっそりとその余生を過ごし後絶えた。

「円融天皇の青木氏賜姓復活・母方秀郷一門に」にも拘わらず「室町期の経緯」では、上記の事が影響し、遂には「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」として、偽の「脇差・短刀」を持ち出して、その裔であるとして名乗る者まで出て「搾称」が頻繁に出たのだ。
中には、上記した通り「平安期の公家・彦」等の「皇位族の配流罪人」が一時坂東などに配流された事を以て、記録から探しだしてその時の裔であるとして「朝廷の承認無し」に勝手に名乗った者も数多くいる始末と成った。
故に、平安期末期では名乗ったもののこれ等の食い詰めた「青木氏の裔系」は、結局は「近江佐々木氏」や「近江青木氏」や「美濃青木氏」や「甲斐青木氏」に雪崩込んで家臣化して生き延びたとされているのだ。
これを「鎌倉期末期」まではこの「慣習仕来り掟」もまだ多少は護られていたが、「下克上」の起こった時期の戦国時代では最早無理であった。
故に、これを留める為にも室町幕府は「律宗族の明確化の所以」と走ったのだ。
この「室町期・足利氏・河内源氏の卑属」と、「姓族の国印状取得」の「江戸期・徳川氏・第二・第三の族」の発祥では、最早、意味の無いものと成って、挙句は「第二次の系譜搾取」までに至り、「氏族に関する制御」が効かず横行したのだ。
つまり、これはそれだけ乱れていても、この時でも河内源氏の室町幕府は「財の持つ律宗族」でも「青木氏を格式化しようとしたと云う事」に言い換えられるだろう。
当然に、これは自らの格式化を「青木氏の律宗族」を対象にして「源氏・幕府の格式」を浮き上がらせようとした事は間違いは無い。

但し、江戸初期に「源氏族」に属さない「徳川幕府」は、流石に「伊勢の事お構いなしのお定め書」にしている限りである。
そして「青木氏の搾称を禁じる令」が出て、これ等に対して「葵木、青樹等に変更する事」を「幕府・大日本史以降では「第三青木氏として命名・別枠にしている」は命じたのだ。
「律宗族の所以・格式権威の保全」を以て「追認の形」であったが、ところがこれに「大反発・旗本」し、「伊勢の事お構いなしのお定め書」や律宗族の格式は無視」は享保期には幕府も同調し青木氏を潰しに掛かったのだ。
これに「伊勢・信濃青木氏は大影響・聖域を奪われ殖産を奪われる・影の戦いの寸前まで陥る」を受けながらもこの旗本の行動・旗本に遣らせた」を認めたのだ。
「青木氏族」が好まない侭にしても「律宗族の反面」としてのこの様な経緯を持っているのだ。
然し乍ら、前段でも論じているが、「嵯峨期詔勅の青木氏を正統にして名乗った氏」は結局は「数氏」に留まり、現存し子孫を大きく伸ばしている。

さて、この様にして「更に律宗族を追認した・賜姓と同じ意味に成る」室町期では、「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏」の「搾取偏纂」が横行し始めていて、「嵯峨天皇の施策・新撰姓氏禄」は後に「律宗族の混乱」を著しく招いた結果と成って行ったのだ。
その意味でも、室町幕府が出した「浄土宗白旗派を以ての律宗族の追認」と、「朝廷の正親町天皇の追認」と「江戸幕府の青木氏の使用禁令」と「伊勢の事お構いなしのお定め書」があって、「律宗族・青木氏族・賜姓」を確定させ明治9年まで何とか護られたのだ。
これが幸いにして「律宗族の所以」を以て側面からも「青木氏の四掟の範囲と成る根拠」とも成り得たのである。
流石に、この経緯は明治35年頃から大正14年頃ではこの「律宗族の所以」は次第に無く成り、その代わり「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていたと記されていて「口伝」でも伝えられ、筆者も昭和の初め・20年頃の幼い時に未だ聞いた事がある。
要するに、この「律宗族の認定」は上記で論じた「宗教力の格式論説」と「青木氏の再格式論説」であったと観られる。
これには「青木氏から仕掛けたとする抑止力の説」、つまり、「青木氏の再格式論説」も上記で論じたが、この経緯から観ると「仕掛け説」は考え難い説と成る。
「賜姓族」にせよ「律宗族」にせよ「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていた事にせよそこには確かに「奈良期からの古式伝統の維持」の古氏族の前提があったが、それが明治9年まで続いたがそれだけ長く続くにはそこには「良い意味」での「殖産の財の影響」は垣間見えるのだ。
「奈良期からの古式伝統の維持」の前提だけでは到底無理であったろう。
その「認められた財・朝廷も認めた民に幸せを与える殖産の財」は「地域に影響を強く与えた殖産」にあった事には間違いない。
「白羽の矢」の時に、特に「朝廷の貴族や官吏等の反対」を受けなかったのは、この氏是と家訓に裏打ちされて実行されている「民に幸せを与える商い・殖産」で在ったからであり、「武」より低く扱われていた「唯単の商い」では無理であったろう。
だから「室町幕府」も躊躇なくこの「律宗族」を自発的に認め「朝廷」もこれに追随したのだ。
それだけに「氏族も関わる認められた財に溺れる事」なく上記の経緯の通り珍しく「伊勢と信濃の氏族」と共に生き遺れたのであろう。
この様に「後勘の経緯」からもそれを物語り「白羽の矢の疑問」は「財の前提に在った事」は疑う余地はない。
この「律宗族でも財の前提に在った事」は、前段でも論じたが、「旗本の範囲・藤原秀郷一門の近習御家人衆の旗本は律宗族を肯定」がこれを否定し吉宗が黙認する事件が「伊勢と信濃」で起こり、それが皮肉にも「江戸期享保期末期・吉宗の享保の改革」までであろう。
唯し、「紀州藩」だけは飽く迄もこの「律宗族・財の前提に在った事・手紙の中の文面での資料で遺る」」を擁護し、それが体制が一変した「明治9年・実際は資料から大正14年まで姿勢を貫いた」まで正式に緩やかに西側では続いた事に成るのだ。


上記の「律宗族論」は中断して大きく元に戻るが、論は跨るが、故に、「源氏の論」として「前段の論」で論じ遺した件の追論記として、此処で論じて置く。
「美濃の駿河青木氏の論」である。
この「山城の河内源氏との絆の所以」が、「河内源氏」が「律宗族」で無いと成るならば、「松井氏に関わる河内源氏説」は無くなるのだ。
現実に「八幡菩薩・八幡神社の習合の守護神」であり、「祖先神の神明社の守護神」にして「臣下族と特定の公家」が必ず帰依するごく少数派で構成する「浄土密教の白旗派」ではそもそもないのだ。
「決定的で最大の歴史観の差異」なのである。
これを敢えて違えて、或いは知識不足の歴史観で論じているものが実に多い事に注意する必要がある。
そもそもそれどころか「摂津源氏が存在する処の山代」に、「嵯峨期の9つの縛り」や「律宗の掟」も一切護らなかったどころか、「武力」を主体とする「河内」に「追放された河内源氏」が存在する所以も確かによく見かける説ではある。
然し、これは間違いなく「系譜繋合わせの系譜搾取偏纂の証」であり、歴史観として其処までそれを許す程に「朝廷と公家と貴族と規律を求めた社会」ではなく緩んではいなかったのだ。
殆どは後勘の世間,又は当時の世間の歴史観の低さを見抜いての搾取偏纂であって、そもそも、歴史観として当時の「掟・律」では、「河内源氏・満仲の隠居罪や頼信の放免罪」の様に「罪を犯した者の一族」とその「罪みを得た族」は、“「誅族」”と呼ばれ“「三族の罪・永代の罪?
9」”をそもそも課せられていたのだ。
それ故に、「河内源氏」は「縛りをある程度護った摂津源氏の周辺に存在する事」がそもそも無く、「冠位・官位・官職」のみならず「婚姻」すら「三代・義家義光まで」に於いて正常に許されなかった考証と成るのだ。
「摂津源氏の律宗の縛り」もこれでは無くなるどころか次の歴史観の様に「河内源氏と摂津源氏の事の歴史的始末」も無く成って仕舞う事に成る。
“「摂津源氏の以仁王の頼政の令旨」を以てその跡を引き継いだ”として「9つの縛り」を護らなかった事を理由にその資格なしとして扱われ譲らなかったのだし、後に既成の事実を造り上げた事で朝廷は止む無くその代わりに「右大臣左衛門大将の冠位」を与えて「西の朝廷」の「許し」を何とか得て、「東の府・朝廷の出先機関」を築いたのだ。
そもそも、その「幕府とする呼称の記録」は決して正しい歴史観としては無いのであって、飽く迄も「武士団を統制する東の府・朝廷の出先機関」としての認可であったのだ。
当時は、「格式や冠位授与や信賞必罰の大権」はあくまでも「西の朝廷」に任され、この「東の府」は「武士や御家人」を「統制する府」であるとして呼称され任じられていたのだが、最終の「東の府」の勢力が及んだのは「東の府」の「執権」と成った「北条氏」の鎌倉末期頃である。
この「正しい歴史観」は、正式には「頼朝」がこの「西の朝廷」から「右大臣左衛門大将に任じられた事・征夷大将軍では無かった」でその権を以て始めて「東の府」と正式に成ったのだ。
この「冠位に叙される前の初期」は「9つの縛り」をある程度護っていた事からその「資格」はあるとして「摂津源氏の頼政の代理人論」として「東の府」を開くとする前提にしていたのだ。
然し、この時、西には「東に属さない武士団」と「官吏から武を獲得した勢力集団」が未だ多く西域に居て「東の府の勢力」は及んでいなく「西の朝廷の支配下」にあったのだ。
然し、ところが「西の朝廷」の許可なく勢力の及ぶ範囲・東の関西域まで「守護職と地頭職」を勝手に置いて「東の府の政治体制」を敷いたのだ。
歴史観としては、「江戸時代」に成っても上記の通り「西の朝廷」と「東の府」の関係性は全く変わらなかったのだ。
故に、「徳川氏・松平氏・下野土豪得川氏の出自」で「源氏族」では無かった事に依り「武士の棟梁」の「称号」は「宮廷の壁」が崩れるまでに「経済的な圧力」を掛け続けた末に、流石に頑として得られず最終は「武士の頭目・実質統治者である」としての「妥協案」で決着が着き「関東の府」は成立したのだ。
「正しい歴史観」は飽く迄も「幕府」では無く「武の東の府」であってものなのだ。
この「徳川の府」は、そこで「古来からの西の武士の集団」を壊し、「西と東の入れ替え」を図って統一して統制できる様にして、「府としての態勢・東の府だけではなく成った事に依り自ら「幕府の呼称とした」を整えたのだ。
だから、「朝廷の認可」を前提とすれば「幕府」で無かった事に「徳川慶喜」はより正しく伝統を護り「府の政権・政権奉還で」を朝廷に返還したのだ。正しくは朝廷に代わり「全ての信賞必罰までの政権の「幕の府」では無かった事により政権奉還として済んだのだ。
故に、この様に「正しい歴史観」としては「西の朝廷」は、記録を探して観ても飽く迄も「・・幕府の認証」を正式にはしていないのであって、故に「・・幕府の幕府の呼称」はそもそもないのであり、「徳川氏の府」が「全国の政治体制」は整ったとして勝手に「幕府として呼称した事」に成っているのだ。
恐らくは、故に、その「河内源氏の頼朝」が「鎌倉の府を拓いた所以」から、それを利用した「江戸期の武士への国印状取得の系譜偏纂の搾取・府は武士だけに国印状は出せる」ではあるが、そもそも、最早、“律宗族では無い“として、「河内源氏の頼朝」東のは開府に際しては「朝廷の認可」は降りていず、止む無く「以仁王の乱の主導者の摂津源氏頼政・三位」の「継承幕府・頼政戦死の代理人」として「朝廷の府認可」を取得した史実としての歴史的経緯を持っているのだ。

注釈として「武士外の庶民」は“全て武士の統治下にある”としてその前提として平安期までの習いとして「武士の政治の支配下」と成るが「徳川の府」は故にこれを「農工商・対して意味が無いのに」と態々階級付けして分けて類似させた体制にする事を明示させたのだ。
前段でも論じたが、この体制は「施基皇子」が「伊勢王」と成った奈良期の時にも「土地」と共に「伊勢の民500戸の民」も朝廷より賜っている。
これが、「平安期までの体制]として続いたのであったがこれを江戸では再び明確に仕手詳細化させて採用したのだ。
この事には「朝廷」はそれまでと違ってより「昔の制度に近づいたとしてその採用」に対して「大きな好感」を持ったと考えられる。
要するに「徳川の府」を「江戸の府・江戸幕府」として「より黙認する姿勢」をこの時より採ったのだ。
「正しい歴史観」はこの前提下にあるのだし、故にこの別枠として特段に「律宗族の位置づけ・源氏の否定」は「重要な格式を持っている事」に成ったのだ。
この時から、それまでは使い分けして主に「源氏の朝臣」と名乗っていたが、今度は「藤原の朝臣」を名乗る傾向が強くなったのだ。
徳川氏と同然に「主だった格式を重んじた武家」もこりに準じてその系譜の成否は別にとて、どれと云う風に決めずに状況に応じて「源平藤橘の裔」として使い分けていたし、それに対して周囲は自らもそうである事から異論は唱えなかった社会気風が出来上がっていたのだ。
記録を観ると、その中でも「徳川氏・家康」は「府の頭と云うは立場」もありこの傾向は特に激しかったのだ。
だから[室町期の戦乱」に乗じて「農民庶民・武士の約8割」から伸し上がった者等の゜武家とする末端」まで「黒印状制度」で格式化させて真偽は別にして「系譜づけ提出・寺や神社の専門業者が横行」を先ず条件にして制度化したのだ。
その意味で、こんな中でも「正統な律宗族」は特段に「周囲から目立った環境」が室町期より成立したのだし、これが上記した様に「「農民庶民・武士の約8割の旗本」の「根強い反発・145年間」を招いたのだ。
この「反発」の中には「律宗族を構成する郷士衆の氏族・武士では無いとする否定の反発」で僻んで歴史を否定するまで揺り返して来たのだが、然し、これも旗本側の反発は不利として引き下がった史実がある。
最終は、前段で論じた「享保期・吉宗」の「伊勢青木氏は江戸伊勢屋の引上げ」と「信濃青木氏の聖地没収と殖産の奪い取り事件」で「収束・紀州藩が擁護・旗本と吉宗は手が出せなくなった」を観た経緯と成ったのだ。

西の朝廷」は上記の経緯の様に「思いの方向に向かう「江戸の府」に対してこの事でも更により好感を持つ様に成ったのだ。
これ等の積み重ねで「朝廷の承認」を必要とする「幕府の呼称」に対して「西の朝廷」はより黙認する事と成ったのだ。
「西の朝廷」が反対をし続けた「源氏の呼称・源氏の棟梁より頭目に格下げ」で反対を解いたのだが「藤原朝臣の名乗り・事実では無い」で事実上の大儀が得られ解決したのだ。
古来より「藤原の朝臣は「朝廷の摂政」である事から「朝廷の臣・朝臣」であるとすれば「摂政」は可となり「幕府の黙認の大義」はこれで成り立ったのだ。
そして、その「藤原の朝臣の根拠」を「東国の藤原秀郷流一族一門」をごっそりと「御家人衆」として「家人衆旗本の位置」に据えて、それも「江戸の府の官僚族の扱い・実際に上級事務官僚を務めた」としたのだ。
そうなれば、その「頭目であるとして妥協策」で許された「徳川氏」は成否に拘わらず「朝廷の藤原朝臣族とする根拠」が生まれたのだ。
「西の朝廷」はこれを以て否定する事が出来なく成ったのだ。
他にもあって「格式」を決定づけた「嵯峨期の9つの縛りや新撰姓氏禄の制定」に対して「武家諸法度や公家諸法度の制定」で「西の朝廷の思惑」に「同じ政治歩調を合わして実施していると云う印象」を醸し出して強化してこれに合わして「幕府呼称の黙認」を完全に引き出した「江戸期の経緯」と成ったのだ。
然し、「鎌倉期と室町期の府」にはこの「政治歩調」は無かったので「単なる武士への行政府」に成ったのだ。
最早、「江戸の府」に対してこれ以後は「西の朝廷」は何も言えなく成ったのだ。
この時、前段や上記で論じている様にこの「妥協の政治歩調」に対して「三河御側衆の旗本の反発・律宗族の伊勢と信濃はこれでトバッチリを受ける」では猛反対をしたが押し切られた経緯の歴史観と成ったのだ。
この「旗本の不満」は独自性が強く幕末の後々まで引きずられた経緯と成ったのだ。
「妥協の政治歩調」に関して研究すると「奈良期から平安期までの政策」と見比べてみると「江戸期の政策」には詳細は別の論とするが確かに「類似性」が多く観られるのだ。
念の為に「農民の立場」からであった事より搾取で脚色する事は出来ず直接に「豊臣とする朝廷の格式」を得た「豊臣秀吉の政権」は「自らを金品の献納」で「武家貴族・公家族の格」を獲得して「政権の前提」を強引に構築して「摂政の立場」を造り上げたので論外である。
この事に「西の朝廷」はより他の二つの府よりもより好感を持ったと考えられ、「江戸の歴史観の根底」にはこの様な経緯が流れていた事を知って置く必要があるのだ
これで「上記の源氏に関する疑問点の解消」はこれらの史実に基づく歴史観で出来るので、以後、再び論はどれだけ「正しい歴史観」の下で論じるかであって、それ故に「bの疑問のより正しい歴史観の解消」の為に次のその所に戻す。


「額田青木氏と駿河青木氏の論の追記」
故に、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
何故ならば筆者には「駿河青木氏」の「桶狭間の参戦期」に合わしての経緯の歴史観が気に成るのだ。
これの「関わり」を「青木氏の歴史」を遡って検証して置く必要があると思う。

上記の格の如しで「源氏説」は成り立たないので、「青木氏族の二つの氏族」は、「摂津源氏」でさえも「四掟」で関わろうとはしなかったのである。
だから、「松井氏」では無い事は判るし、当然に「河内源氏に対する「正しい歴史観」は、当時の歴史観には未だ社会に遺されていて、この「松井姓」も「当時の一般常識」としてこの事は知ってはいたであろう。
然し、「松井姓」に関しては明らかに「青木氏族との四掟の範囲・律宗族の所縁」では無かった事が判る。
それは,真偽は別として、「山城や近江」は古来より「天領地や公領地」であり、従って其処に隅管理する者はその“御家人としている事”であり、このでも判るが、然し、筆者は、「源氏や御家人」は別として、「日野―松井―摂津の地理的往来」から来る「所縁優先説・近江鉱山とそれに関わる殖産ルート」ではあったとしその説を取る。
最低限、「二つの青木氏一族」が「律宗族」であり得ていたのだから、その恩恵を受けている「近江の松井の庄の者等」はこの事を知り得ていただろう。
まあ何れにしても「駿河水軍」を基にして復興を遂げた「駿河青木氏」が「遠州の国衆」に成り得た所以は意外にここにあったのだ。
筆者は当初、「伊勢青木氏」と「駿河国の藤枝の秀郷流青木氏」の連携によるものとして観ていたのだが、「遠州の国衆に成り得る為の直接的な繋がり・今川氏」のここの「詳細な解明」に時間が掛かったのだ。
まさか“「今川氏の家臣」に成っていた「松井姓・本流」にある”とは考えなかった。
参考として、この「松井姓の本流」は「桶狭間」で完全に滅亡した史実があり、それでもこの僅かに遺された家族の「分流族・卑属」は伸長し“「徳川、武田、今川」”の三方に生き遺り分裂したと記録にある。
この事が「決定的な重要な検証要素」である。
結局は、「今川氏の家臣」からその分流卑属が“徳川家臣と成った要するに「近江の流れの者・松井氏」”が江戸期には、戦国の世でも無いのに何故か「3000貫≒7500石」を獲得し、それも「旗本の大身」を獲得すると云う事に成るのだ。
然し、同時にここには「青木貞治の裔系の運命」と同じである。
ここが解明できなければ「詳細経緯」の「青木氏の正しい歴史観」として前には進めなかった。

さて、そうすると上記の事から、「Bの疑問」であるが、筆者は、先ず、桶狭間後に、衰退しながらその中で「松井姓の家臣・今川氏」であった者等の分流卑属が、其の後に“「徳川、武田、今川」”の「三方」に分裂したが、その最大の原因の一つが、つまり、余りにも徳川氏からの扱いの「この事・3000貫≒7500石と旗本の大身の理由」にあったと観ているのだ。
「三つに分裂した」のを纏めて結局弱小な徳川氏側に靡かせたこの「戦略的な功績」に在った事が判ったのだ。
そうするともっと云えば、「一つ目・イ」は、三つに分かれた中で“何故、徳川氏・松平氏であったか”と云う事に尽きる。
未だ「弱小の松平氏」に着いたのだ。何故かである。

その前に、この事に関わっている事がある。
この後の「三方ヶ原の戦い」では、この「状況の中」で「松平軍の本隊」と共に「松平の国衆」に属し、「青木貞治隊・200」は主将を失う程であったが、ところがその「子孫・一族」は滅亡する筈の処が不思議に多く生き残っているのだ。
然し、これは先ず何を意味するかでありこの「重要な経緯」を説いて置く必要がある。
さて、では“何かの手立て”が無ければこれ程に完全に多く生き残る事は難しい。
ここの「詳細経緯」を探る。
では、それは何かである。
筆者は、全段でも論じた通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「山県軍の別動隊」と応戦しながらも「武田軍の本隊」に目がけても「青木貞治隊・200」を救い出す為に「弾幕」を浴びせて張って救った事だったと観ているのだ。
これは「一言坂の様」に、「強烈な弾幕」で「武田軍の本隊」が怯んだ隙に、何とか救い出して「東・西光寺」に逃がした事の「連携の経緯」より成る戦記の史実にある。
そこで、上記の「内部情報」を得て「初期の目的」を達して深入りせず直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に向きを変えたのだ。
この「怯んだ隙」には、この「二つの事」を成し得る“其れだけの行動する時間・銃力があった”と云う事だ。
単純に戦線離脱したのではなくこの事には大きな「意味・鍵」を持っているのだ。

「二つ目・ロ」は、こんなに「見事な裁き」を見せた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の行動」にある。
それは折角育てた「駿河青木氏の補完」にあったと考えられる。
さて、更に追記として、史実の時系列から「山県軍の別動隊」が、“三方ヶ原補給拠点を確保されたと云う事”の「情報」を掴んだのはそれより遅れていたと云う事に成る。
故に、この「経緯」としては「二俣城」から「12.2kの位置・直線 徒士14.5k≒3.2h」にある「三方ヶ原」にも「重要な到着」は遅れたのだ。
「堀江城」より「三方ヶ原」までは「8.4kの位置・直線 徒士10.2k≒2.2」にあるとすると、“同時に「情報」が入った”として、「約3.8k・直線≒徒士4k≒1h≒1里・1時間」の「時間・距離の差」が生まれていた事に成る。
然し、実際に「武田軍の本隊」は「堀江城の陥落」と「三方ヶ原」までの「魚鱗の陣形に軍編成・編成しながら行軍」に手間取っていたので、つまり、「三方ヶ原の西側」には着けず「南・右から左」に向けて「山県軍の突撃」が可能と成っているので、「最大1h以下〜最小0.5h」は遅れていた計算が成り立つ事に成る。
「山県軍の突撃・本来は突撃隊ではない」としてもこれ以上の「遅れ」は無理であろう。
この「突撃した事・突破・本隊との交差避ける」を観て、「武田軍の本隊」は先ず「赤兜の騎馬隊・6000」から「松平氏の本陣」に目がけて進軍突撃しただろう事に必然的に成る。
だとすると、そこで「青木貞治隊・200」を「救い出す」とすれば、残された作戦は「山県軍の最後尾」とこの「赤兜の騎馬隊・6000」とに「弾幕を加える事・史実」に成る。
「徒士」では無く、自由の効かない「赤兜の騎馬隊」であれば、離れて撃ち掛けれらて「弾幕を加えた事・最大射程距離1k」は「最大の効果」を導いたと断定できる。
「弾幕とそのその煙」が無くなるまで近づけなかった筈である。
要するに「青木貞治隊・200」を充分に救い出せたのだ。

「三つ目・ハ」は、これ等の「救出」は前段でも「情報に依って成された」と論じたが、如何にもこの「救出の行動経緯」が一面計算されている様に見える。
つまり、これは、つまり「救出」は「当初からの目的」であったのではないか。
これ程に「史実」に等しい「青木氏の歴史観」があったのに、これ等の事が歴史的に過去の「3度の消失・青木氏側」もあったが、これらの「伊勢の詳細な資料」は、勿論の事、「松平氏の資料・駿河国衆であった事が原因」の中にもここだけが崩れ落ちて不思議・恣意的に遺されていないのだ。
「専門の祐筆」が徳川氏に居たのなら何処かに在ってもいいだろうと思う。
「松平氏の中の資料」には、例え「駿河国衆」であったとしてもこれだけの功績を松平氏の中に遺したのだから、何れの「青木氏の国衆・三河と駿河の事」に就いても、「無いと云う事」はこれも大いなる疑問である。
況してや、この後の江戸期には、「3500石の御側衆・上級番方」に出世しているので、そこにも「徳川氏の右筆衆・徳川氏この字を使っている」と「駿河青木氏の祐筆」に依る「記録・失火の消失は無い菩提寺と春日社」が遺る筈だが散見できない。

ここで念の為に「歴史観」を深める為に参考として「祐筆」に就いて合わせて追記して置く。
何故ならば実は、古来奈良期より「青木氏」では「菩提寺と神明社」には「必ず氏の祐筆と云う役職・事務官」があって、「一切の出来事」を記録に留めていた。
室町期の時には同じ習慣を利用されて「氏姓の祐筆又は右筆」は、「戦い」にも参加して「戦記状況」を詳しく遺す事が定めとして行われていた歴史観があったのだ。
これを「鎌倉期頃」からは「右筆衆・祐筆衆」と称し「戦記」も遺していたのだ。
取り分け、「室町時代」にはこの役職が家臣化が進みこの制度が取り分け重視され、その中でも「信長と秀吉」は、この「右筆衆」を重視して、戦場に「多くの右筆衆」を各所の重要拠点に何人も配置して、「正しい状況」を把握して“「家臣契約の者・雇用契約制度」”に対して正しく「論功行賞」をするのに利用していたのだ。
そしなければ“「郷士や土豪の集団と家臣契約の者・雇用契約制度」と「主従制度」”は成立しないのだ。
「血縁や所縁などに依って氏家制度の集団・氏人で固まる集団」とは異なっていたので、故に、“「家臣契約の者・雇用契約制度」”では、この「右筆制度」は「欠かせない制度」と成っていて「記録などの事」はここに頼っていた歴史観なのだ。
それだけに「右筆の書様」では「記録」は書き替わり「主君や家臣の利害」が生まれていたのだ。
中には正しく書か無かったとして首を打たれる者も出た程で難しい役職であったのだ。

参考として、筆者が良く論じている奈良期から「伊勢青木氏の資料・“祐筆”に依る」等は「福家・四家」のみならず主な「家人頭」や「差配頭」、時には、「女系で繋がる伊勢郷士衆の大郷士・氏人」にも居て「何らかの資料・清光寺や神明社」が「その役柄」を決めて何らかの形で補完が行われていたのだ。
故に、但し、多く脚色されずに「祐筆の所以の違い」を以て遺されているのだが、これを務めていたのは「祐筆・神明社の神職と菩提寺の住職」で事務範囲の役割を決めて行われていて、故に、論じている様に奈良期からの長い間の「四掟や嫁家制度や妻嫁制度」の詳しい「血縁先」や、その「状況把握」までが「明治期」まで保存され遺す事が出来ていたのだ。
当然に「伊勢屋」にも同然で“「商記録」”とすれば何処かに遺されている可能性があったのだ。
この二つを突き合わせれば何らかの答えの手掛かりが得られる。
故に、この「Bの疑問の解明」に関しても、「青木氏の資料以外」を読み解く事で「答え」を導き出す事も出来ないのだから、ここまで論じている本論の様に「それ・青木氏の根拠・祐筆」を探し出す事に「総力」が注がれるのだ。
後は、「得られたちょつとした情報」を繋ぎ合わせられるかの「ひらめき」に関わって来る。
唯、見つけ出した「青木氏の資料」には「脚色」は伴わない「原石そのもの」であるので、「世の美化論・格式化論・脚色化」に流される事なくより「正しい歴史観」を常に獲得する事に関わるのだ。
故に、「Bの疑問の答え」には「松平氏の戦記」が「脚色部分」を削ぎ落として働くのだ。
例え「第二の姓族」と云えど、天下を揺るがす程の豪族には、必ずこの「原石」成るものがあって、そもそも“記録が無いという事”は無いのだ。
況してや、この「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」の「関連の戦い」では両軍に於いてこの「右筆衆の活動」は盛んに行われていたのは有名な事なのだ。
中には、「戦場の戦いの状況」を適当な安全な位置から絵に遺して説く事も行われていた。
中には「忍者衆」を雇い「右筆の仕事」を契約していた事が遺されている。
恐らくは、「五つの内」の「三つの三河戦記」なるものは江戸期直前までは少なくとも「原石」で在った筈である。
その「原石」を曇らせたのは、上記した様に「三河旗本の嫉妬・羨望・反発」が江戸期初期にこれを消したと考えられるのだ。
取り分け、「松平氏」が正式に出した「三河戦記」は「幕府の権威付け」を図る大義の為に曇らせたのであろう。
これ「等・脚色」を消さなければ、「上記の様な詳細な各所の論」から、「有利に描いた三河戦記」に記している事柄に引っ張られて、“「脚色での崩れ」”が生じて仕舞うからである。
それには歴史的に変化した「慣習仕来り掟」から成る「正しい歴史観」がどうしても必要と成るのだ
「上記の立場」、つまり、「伊勢青木氏」が受けた“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の様な「家康との関係性」の中でさえ、この「脚色」も「旗本の嫉妬・羨望・反発」は否定できず、通用しなく成っている事が起こっていたのだ。
因みに、執拗の様だが「享保期の彼等の行動」が、表に出て来た「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」等は充分に有り得た「史実」なのであるが、それだけに完全否定はしないが「原石」を磨かず「史実」を有利に脚色し歪めたのだ。
恐らくは、この「享保期中期」までが「青木氏の様な歴史的な経緯を持つ族」には「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」は「最高潮」であったが、皮肉にも逆に前段でも論じた様に「徳川家との関係性」も「最高潮」であったのだ。
「人の世の中の起こり」はこの様なものであろう。
故に、この渦から逃れられる様な箍は「青木氏の氏是」と成り得るだろう。

「四つ目・ニ」である。
両者は同じ頃から「伊勢・青木氏族の訓練所」では「伊賀の忍者と雑賀の忍者と伊勢水軍」が「氏族内」に氏人として存在しているので「訓練・差配頭」を受け始めた事だ。
史実として「伊豆青木氏の殖産」と「大口青木氏・日向・交易船」と「額田青木氏・美濃・銃」と「駿河青木氏・遠江・大船」が「伊勢の指導」の下で“戦乱の世に出る為の訓練”を受けた。
そして「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年〜10年前」に「今川氏の国衆」と成り、その輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退した。
折角の「伊豆までの海路の拠点構想」は崩れ架けた様に観えたのだ。
さて、その前に判断に要する「青木氏だけの歴史観」として論じて置く事がある。
筆者は、「初期の研究過程」で、「額田青木氏の南下国衆」を指導し、「指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」が、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」が「左鶴翼」を通り抜ける際に交戦と成ったが、この一瞬に怪我をし、後に死亡した者がこの「青木貞治」と考えて推論していたのだ。
要するに、「青木貞治一人説」であった。
これの詳細を解決して置かなければ「Bの疑問」は前に進まない。
然し、どうしても何故か間尺が合わない。
それは、確かに「三方ヶ原で討死にした事」は、「三河戦記」にも明確にも記載在り、「史実」でどの「三河戦記」にもその「戦い様」が記されている程に「有名な人物」であった。
先ずその疑問は、果たして「額田青木氏の南下国衆」を指導した「指揮官」を、“何故、これ程に「三河」では詳しく名誉の様に語るのか”から疑問が始まったのである。
“家臣や譜代の者は別として「国衆であった事」からそこまではしないだろう”であった。
それは突き詰めると、次の様であった。
1 「敗戦した二俣城の副将」
2 「浜松城に入場の史実」
3 「盤田の西光寺の菩提寺」
4 「本能寺の変の家康の逃亡事件・伊賀越え」
5 「伊勢秀郷流の通名」
6 「青木貞治の行動経緯」
7 「伊勢への連絡の手紙」
8 「二つの西光寺存在」
以上の「8つ疑問」に加えて、この時の「指揮官の名」がどうしても明確には判らなかったのだ。

「近江蒲生家・近江藤氏」より「伊勢藤氏の秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏の母系」を興し、これを継承した「通名」は、「定」と「忠」に成っている。
なので、「此の一族の指揮官」も少なくともこの何れか「二文字」を引き継いでいる筈である。
ところが「結論の最終の決定」は「菩提寺の違い」の中にあった。
歴史は「平安期」には「秀郷流青木氏」は、「全国24地域・116氏」に「子孫」を広げ、「鎌倉期」には「青木氏族の永嶋氏・主要五氏」等が、取り分け更に勢力を高め最終は「伊勢域」まで「藤氏青木氏族」は勢力圏に治めた。
ところが「室町期」に成り「下剋上」で「中部域の秀郷流主要一門」は再び元の東に押し込まれ元の「藤沢神奈川伊豆近郊域」まで勢力を引いた。
結果として、「西の最先端」に存在していた「駿河青木氏・駿河水軍」が「山越え」の「遠江」に遺された形と成って遂には支えきれず衰退したのだ。
然し、「片喰州浜族と云われた一部」は、何とかこの「駿河・藤枝―鶴見」に遺したのだ。
「伊勢青木氏」が「駿河青木氏の生遺り・支流末裔卑属」を探し出している事から観て「伊勢側・女系ルートで」に「何らかの情報」を遺していた事が考えられる。
そして、これが「伊勢での訓練」を経て「遠江」に「駿河水軍」を再興し、「桶狭間敗退」の「今川氏の家臣松井氏」からの誘いで、「松平氏の勢力圏」に入り「国衆」として仕えた経緯であった。
そして「二俣城の副将」まで「国衆」として勤めたのだ。
結果として、殆ど引き上げた「秀郷流青木氏の菩提寺・盤田見附の西光寺」を「遠江・駿河」にたった一つ残す状態と成ったのだ。
これが上段の論の通りで、「盤田市見付」のこの「駿河」の唯一つの「菩提寺・西光寺・復元」であるのだ。
ここに何か「探し出しの伏線」が残されていたのであろう。

ところが一方史実は、「三河」には「西光寺」は、“「伊川津田原の西光寺」”を「本寺」として「江戸期」に架けて「子孫拡大」で「11の西光寺」を「三河」に広げる結果と成ったのだ。
これが、所謂、「菩提寺の過去帳」から、「駿河盤田市見付の西光寺・駿河秀郷流青木氏」と「伊川津田原の西光寺・伊勢秀郷流青木氏」の“「二寺」”であった事が判ったのだ。
これは「当時の慣習」から照らして、この「二寺の西光寺」のあり得ない疑問なのである。
「伊勢」で「訓練」を経て「駿河青木氏」を「遠江」で再興して「15〜20年程度」で、「二つの菩提寺を持つ事」は幾ら子孫繁栄と云えども先ずあり得ない。
つまり、「伊勢秀郷流の指揮官の青木氏」と、一族の「駿河秀郷流青木氏」の「駿河水軍の青木貞治」は「別人説」が「二つの西光寺の説」から生まれる事に成っていたのだ。

そこで先ず、この名を「Bの疑問の解明」に関わるので検証して観る。
現在は個人情報秘匿の為に、「寺内部に関する情報」は詳細に書き記す事は難しいが、そこで「青木氏貞治の方」は、「盤田見附の西光寺」の「曼陀羅や過去帳、及び墓所の可能な範囲の調査記録」から判明する結果と成ったのだ。
つまり、先ず先に調べた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官」は、「遠江の駿河青木氏貞治」では無かったと云う事に成った。
要するに「指揮官の名」が「青木貞治」では無かった事に成る。
然し、何れも「三方ヶ原で戦死している事」は史実ではあるが、「伊勢」では「銃隊の指揮官」の名は、「資料の表現」が「短文で確定的な表現・筆者の読解力の低さ」と成っていて、「通名以外・定か忠」は正しくは遺されてはいず判らないのだ。
この「指揮官」が、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏母系」の“本家から又は分家から派遣されたか”も解っていないのだ。
これに依っても「通名」は違って来る。
主には「伊勢の西光寺」か「田原の西光寺」か、「三河11の西光寺」の何処かにある可能性がある筈だが確定できていないが恐らくは「前者の二つ」であろう。
「伊勢」には「西光寺は20寺・秀郷流青木氏」あるので「一族の者の誰か」であった為に、「本寺本墓の仕来り」もあって、間違いなく「何処の西光寺」で祭られている筈だが然し特定は出来ないのだ。

「指揮官の青木氏」と「額田の青木氏」から送られた「伊勢青木氏へ報告された手紙等」は「四家の福家」と「氏人の家人の差配頭の家」で、一部がぼろぼろの状態で見つかっているが、これ等も「伊勢秀郷流青木氏の四家」の何れかにも送られている筈だがこれでも判明しない。
恐らくは、「指揮官を務めるだけの者」であって、“一族の戦いの経験ある一族の上位の者である事”には間違いない。
然し、故に「松阪・5寺」では無いかとして墓所等を見て廻ったがここでも判らない。
この「指揮官の青木氏」は「三河」に「11寺の西光寺・子孫」をも広げた始祖でもあるのだ。
「駿河青木氏の青木貞治」と共に、「室町期の乱世」を乗り越え「青木氏一族」を良い方向に導き、「江戸期」に繋いだ当に“神に匹敵する偉人”であるのだ。
これは「青木氏族」に執っては、“ロマンの極め”であり、何としても研究して何とかのヒントを得て「その名」を見つけ出したいと考えているが、別人である事と「本寺・戒名なので」までは判っているが未だ「指揮官の青木氏の俗名」は見つからない。
因みに、歴史を遡ればその経緯では「始祖」の「伊勢秀郷流青木玄蕃充梵純・駿河守」は、「秀郷」より「宗家22代目の高郷の子」で、「伊勢青木氏」より「四掟」で「正妻」として嫁いだ「女(むすめ)」の「四男」に当たり、「近江の蒲生」に住み「朝廷との役務」を果たしていた者の子である。
「伊勢の仕来り」に基づき「女系族の優秀な男子一人」を「伊勢」で「母系族青木氏」を興させ「家人」として務めさせる「家人制度」があった。
その子の「四男の梵純」には「母方の伊勢青木氏」を「家人」として継ぎながらも、「伊勢」に「伊勢秀郷流青木氏」を興したのだ。
「四家で繋がる女系の秀郷流青木氏を継げる立場」にもそもそもありながらも、「伊勢青木氏の家人」として「青木氏」を継ぎ、且つ、「女系の秀郷流青木氏」としても継いだとする「完全融合族の青木氏」を樹立し出自した事に成るのだ。
何れも要するに「女系族で重婚血縁の青木氏」であって、更に「伊勢賜姓臣下族青木氏」であって、且つ「伊勢賜姓秀郷流青木氏」でもあると云う「二つの流れ」を持つ象徴する「重複融合族」である。
その「末裔の指揮官」である。
要するに、歴史の経緯では何処かに違いなく存在したと云う事である。

そもそも「伊勢の歴史」も融合していて、この「蒲生の高郷・1460年〜1530年」の「長男の子の孫」に当たる者が「織田信長」に寵愛され「信長の娘」を娶ったが、秀吉もその才に恐れた「蒲生の氏郷」であり、「難攻不落の伊勢」を攻め落とし「伊勢藩主・1569年〜1590年」と成るのだ。
つまり、これが「青木玄蕃充梵純・1480年〜1550年」の「兄弟・叔祖父」に当たる者なのだ。
その者が「伊勢」を攻め「藩主」と成ったと云う何とも不思議な差配である。
要するに、“叔祖父の居る「伊勢」を「孫子に当たる者」が上手く伊勢族を潰さずに攻めた”のだ。
唯、「親類・叔祖父の梵純」を親族の対立を興させない為に直接攻めた訳では決して無く、更には奈良期大化の古来より「不入不倫の権」で護れていたのに「室町期」では、最早、これを無視され「国衆と成り易い伊勢」に入り込んでいた「国衆等との戦い」と成っていたのだ。
それを追い出したと云う形を形成して信長にその知恵の良さを褒められると云う事が興した人物なのである。
寧ろ、「城主に成る事」に依って「一族の氏郷」に依って「伊勢」は、「伊勢嫌いの信長」よりも上手く護られたと云う皮肉な事に成ったと云えるのだ。
そうすると、その「祖父の兄弟の一族の子孫」が「額田青木氏の指揮官・訓練も」と成ったと云えるのだ。
「松阪藩の藩主」と成っていた「氏郷・1556年〜1595年没」は、「上記した詳細経緯」のこの「一連の行動」を知り得ていたと云う事に成るのだ。
丁度、この時系列では、この「室町期末期の時期」は、何と敵味方に成りながらも「叔父」と「甥」と「叔父の母方」で「伊勢を治めていたと云う事」に成るのだ。
「環境論」はこの様である。

この時の「美濃と三河と遠江と駿河」で起こった「第一次伊勢長島攻め」から「1573年4月の鯰江城攻め」までの「青木氏族内の事件」であったと云える。
この「環境論の経緯等」から導き出し考えると、「青木玄蕃充梵純」の予想される「最初の菩提寺・西光寺本寺」は、「伊勢松阪・4寺に絞られる」の内の「御麻生薗町の西光寺」ではある事に先ず間違いは無いかと考えられる。
その「寺の構え」は自然を生かした「古来の仕来り」に一致していて、「他3寺」は後に埋め立てられた「伊勢湾の櫛田川の圷野」に建立されているので該当しないであろう事が直ぐに判る。
この「3つの寺」は江戸期に「御麻生薗町の西光寺」を菩提寺としていた本家筋の子孫拡大に依って建立されたものであろう事が判る。
これは「当時の慣習」としては、「浄土宗寺派」は「森林の際」に建てられ「南の杜」に面して構えて「北向き」に配置して建立されるのが「重要な氏の仕来り」であった。
そうすると、「額田青木氏の指揮官の年齢」は、「青木玄蕃充梵純・1480年〜1550年」の「40歳頃の者」とすると、「1573年」から遡れば「1533年頃」と成り得て「子供域」として生まれる事に成る。
又、例えば、「指揮官が50歳代」とすると、「1573年」から遡れば「1523年頃の子供域」と成る。
「指揮官が60歳代」とすると「1573年」から遡れば「1513年頃」と成り得る。
つまり、「40〜60歳」では、「青木玄蕃充梵純の1480〜1550歳」に対して、「1513へ1533年」であるので、「梵純子供域の説」は充分に成り立つ。
当時は、「青木氏」は「四家制度」の「女系尊属の子孫」を絶やさぬように、且つ、発展を護る為に「后、妃、嬪、妾の制度」を執っていた。
当時は、「賜姓青木氏族・賜姓族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」の相互には、「15歳を成人」として「婚姻する習慣・女性は8歳と記述あり・早熟・妻嫁制度で教育」にあったので、「1480+15〜1550歳の範囲」では充分に「子供域であった事」に成る。
従って、その者は「戦いの経験」はあり「指揮官」は成り立つ。
「三方ヶ原後」に、この「指揮官の裔」が「開発業と殖産業」を営み「三河」に於いて「11寺の西光寺」と「3社の春日社の建立」に至った事に成ったのだ。
それだけに「指揮官の特定」が難しいのだ。
つまり、「御麻生薗町の西光寺」が「伊勢にある始祖墓」のある「20ある菩提寺」の内のこの寺に成る事に成る。
その他の「寺の経緯」で観ると、未だ「賜姓族秀郷流青木氏の格式」に付いて充分ではない「疑問の処」があるのだ。
実は、「伊勢青木氏の菩提寺の本寺」の「清光寺」には「氏族の四家の墓所」と成っていて、その中の真ん中に位置する一つが、周囲も大きいのだが、取り分け中央付近には「相当に大きい白構えの様な大墓」があって、これが「本宗墓」と称されていて、「一族全体の墓所」と成っているのである。
この詳しい事の「伝統の慣習仕来り掟に関する詳しい事」は未だ解明されていないが、「四家」は四家で「大墓」が存在するが、その中の「福家の墓」と特定している訳でも無ない様で、これを「氏族の総墓」としていたと考えられる。
従って、恐らくは、「青木氏族」である限りは「御麻生薗町の西光寺」にもこの様な「伝統」と云うか「仕来り」と云うか働いていたと考えられる。
とすれば、「個別の指揮官の特定の墓所」は「渥美半島の伊川津の田原の西光寺・200m離れて新旧の二寺がある」にある事に成る。

この「指揮官」と「青木貞治」とは違うとすれば、上記の「四つ目・ニ」の論は前に進められる。
その上記の「四つ目・ニ」である。
前段でも論じた通り両者は同じ頃から「伊勢」で「訓練・」を受け始めた事が史実として判っているのだ。
その「二人の人物」は「額田青木氏・美濃・銃・貞秀」と「駿河青木氏・遠江・大船・青木貞治」が「伊勢の指導」の下で、“戦乱の世に出る為の訓練”を同時期に受けたとされる「郷土戦記」が遺されている。
先ずここに注目するとでは「この二人の貞秀と貞治」は「郷土戦記・逸話論」では「兄弟」と表現し記されている。
参考としてこの「郷土戦記・逸話論」ではこの逸話が遺されたかと云う疑問であるが、当時は伊勢青木氏と秀郷流伊勢青木氏の中では「有名な事・功績をあげた者」として「両方の一族内」で語り継がれていて、それを一族の者が消えて行くのを惜しんで書き遺し、後に語り継がれたものであろう。
云うまでも無く、二つの青木氏には神明社と春日社・清光寺と西光寺には「祐筆制度」があり、この様な「歴史の経緯や逸話などの話を遺す制度・江戸期以降は記録資料飛散」がある事を理由に「一族の者・福家の差配頭・社や寺の行事を差配する者・交代制」が書き遺す様に差配したのでは無いかと考えられる。
故に、これは「伊勢側を中心」に記していて「貞秀」が記され同時に「貞治・駿河側の記録も判る名」と成り、両方で一致する事と成り得たものである。
この「兄弟の表現」は、「一族の者・福家の祭祀役の差配頭・社や寺の行事を差配者」が書き遺す様に言った事では無いか。
果たして「貞」が同じであるので同じに訓練を伊勢で受けて事から「兄弟」と成るだろう。
果たして、そこで資料が観っかった処で「実の兄弟か」であるが、「伊勢側の兄弟」か「駿河側から呼び寄せた兄弟」なのかである。
「全く同時期で同年齢で同場所で同訓練・目的である事」に間違いはない。
筆者はこの二人は戦記・逸話の通り「兄弟」では無かったと観ている。
「年齢も近い事」から「兄弟の様にして訓練を受けた」と考えていて、だから一人は「額田青木氏」を、一人は「駿河青木氏」を目的の違う事を担当した事から「義兄弟の契りを結んだ」と観ているのだ。
それでなければ、「駿河青木氏の者の方」が「額田青木氏の訓練」は担当はしないであろうし、額田は「銃で兵士の訓練」で、駿河は「水軍の訓練と氏の再興」に目的があった。
だとすれば、「額田は秀郷流伊勢青木氏の者」で「駿河は秀郷流駿河青木氏」であってともに秀郷流青木氏の処刑の縁戚関係に在った事に成り、故に義兄弟の契りで在ったとし、それを後に書き残した「郷土戦記・逸話論」では「兄弟と書き記した」と考えられる。
「兄弟とする事」には何の問題もないし、「通名の貞」は「秀郷流伊勢青木氏の者」が名乗っていたものを「駿河の弟分の者に名乗らせた」と考えられる事が出来る。
だから、前段と上記した「三方ヶ原の戦場」でも違和感なく歩調が採れたと考えられるし、その後に「弟分の裔たち」が居る「三河と駿河」に「殖産」で遺ったと考えられる。
つまりは、「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏を指導し指揮した者の俗名」は「貞秀で在った事」に成る。

そして、「貞秀の額田青木氏の訓練中」に大船一艘を与えられて地元に帰った「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年〜10年前」に「今川氏の国衆」と成り、上記の論でその輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退したと成るのだ。
然し、一応は「駿河水軍の構築」はその裔等で再興出来たものの、生きる為に止む無くして「今川氏の国衆と成った事」で「折角の伊豆までの海路の拠点構想」はここで“「充分な初期の目的崩れ」”が起こったのだ。
当時に当たっては「今川氏に対する青木氏族全体の計算違い」であったのだろう。
これは結果としては、前段と上記の通りの経緯でこの「三方ヶ原での波乱」を起こしながらも何とか良い方向に収まりが着いたが、戦乱の世であった事に依り「伊豆の事」を含めて「伊勢の計算違いが興った」と観ているのだ。

そこで、「五つ目・ホ」である。
「伊勢」は、「伊豆の計算違いと戦乱状況」から「額田青木氏の銃隊の訓練」を早めて、南下して蒲郡に指揮拠点を置き、「伊川津田原の古跡神明社の定住地」に家族を移住させて「四家」にして移動させて「拠点造り」を至急にして固めたのだ。
そして、「地元豪族との七党・伊川津七党」を結成させ地盤を三河で先ず築いた。
この時、「桶狭間」で敗退し衰退して行く「今川氏」と共に「松井氏―駿河青木氏青木貞治」も衰退していった。
当然の事として、「遠江の駿河青木氏の青木貞治」も西からの危険に晒されて弱体していたのだ。
「折角の伊豆」までの「海路の拠点構想」は、この「駿河青木氏の弱体」で一時中断したのだ。
そこで、「伊勢」と「南下した額田青木氏」と「一門の駿河・相模の秀郷流青木氏」とは「渥美湾の制海権の獲得」に動いたのだ。
前段までの「額田青木氏の国衆南下説」には実はこの「上記の背景」があったのだ。

「六つ目・ヘ」である。
その上で、「桶狭間」で「伊勢シンジケート」に依って救われた「遠江の駿河青木氏の青木貞治」の「伊勢」と「駿河相模の秀郷流青木氏」とで再々復興に取り掛かつたのだ。
「今川氏の衰退」に伴い「松井氏」も“「三派・武田、徳川、今川」”に「内部分裂」を興していた。
ここ、即ち、“「三派の内部分裂」”が重要なポイントであった。
ここで、問題なのは、何故、海千山千の徳川氏に組したのかである。
これがキーである。
本来であるならば、未だ一定の勢力を保持していた「今川氏―松井氏」に組するだろうし、その「恩義」はあった筈である。
場合に依っては、最大に天下を取る可能性のあった武田氏に着いていた可能性も高かったが何故か味方しなかったのだ。
「勢力」からの可能性を観れば、武田氏>今川氏>・・・>徳川氏であったでろう。
場合に依っては、形勢的に「織田氏」でも良かった筈であろうが、「織田氏にしても武田氏」にしても何れも「伊勢伊豆のライン・織田氏」と「伊勢信濃ライン・武田氏」を壊された「一族の宿敵」でもある。
然し、この最も何の可能性も無く低い「弱小徳川氏」に組したのである。
故に、ここには当時としては伊勢では判断の“大きなキーポイント”に成っていた筈だ。
それには、結論は「五つ目・ホ」の「美濃」からの「三河南下国衆と成った事・額田青木氏の南下」によるだろう。
「伊豆までの海路を確保する事」は、先ずは「渥美湾の権利取得にある事」は「自明の理」であり、欠かす事の出来ない絶対的条件と成り得ていて、戦略的に放置出来ない状況であった。
当然に、これを獲得するにはここで最も可能性の低い「弱小の徳川氏」と成り得る。
とすると、「武田氏>今川氏>・・・の説」は、敵方と成りどんな事があっても無くなる。
だとすると、必然的に“「伊勢」”は「渥美湾獲得」の為にも「三河」に「莫大な資金・冥加金」を投入して裏から支えるであろうし、「摂津」も含めて「伊勢シンジケート・全ての裏組織」も必然的に「青木氏族の命運」をかけて動かす事に成るであろう。

「7つ目・ト」である。
「六つ目・ヘ」の敢えて分裂の中で「徳川氏」に組したのだ。
故に、「今川氏」が瓦解した時に、「二俣城の副将・発言権」にする為に、「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏と相模と駿河青木氏の一族一門」は、「後押し」をして「兵力数・倍」を態々高めたのだ。
其の後の「駿河青木氏の青木貞治の活躍」はこれを証明する。
単なる「兵力200」には、これに留まらず、その裏には「伊勢・財力」と「摂津・商力」と「伊賀・情報・影の勢力」と「額田の銃力」と「武蔵秀郷一門の勢力」等の「数万の兵力に値し象徴する力」を見せつけていたのだ。
因みに、その後に「家康」は、「武蔵」に「転封の憂き目」を「秀吉」から受けるが、逆に上記した裏のその「秀郷流一族一門の勢力」を以て高めて「天下を取るに及んだ事」はそれを証明しているのだ。
注釈として、何度も「青木氏族との苦い経験」をしていながら、これが「秀吉の読み」の「天下分け目の差」と成った「甘かった処」であったであろう。
故に、それを「家康」は理解していたが故に、“伊勢の事お構いなしのお定め書”の所以でもあったし、「黙認の幕府の官僚族・家人衆旗本・秀郷一門」と「紀州藩との付き合い」や「紀州藩の藤氏家臣団」に繋がって行ったのだ。
要するに、今まで論じて来た「青木氏の歴史観」に繋がっていたのだ。

結論は、「Bの疑問の1560年」は、この歴史的な「絶妙な頃合いを狙った事」に成るのだ。

前段の「額田青木氏の南下国衆の論」の「1560年」は、論調を判り易くする為に、「伊勢側論説」で論じたが、この後段には「青木貞治」が関わっていたのだ。
況や、“家康を作ったのは「青木氏族」である”と云っても過言ではないだろう。
その「1560年」はその当に「基点」であったと云える「青木氏の歴史観」である。
然し、「額田青木氏の国衆の差配頭」が、上記の様に「伊勢」で同時期に訓練を受けた事は判っているが、前段と上記の「貞秀」では無く「別名の青木貞重論もあった事」が未だ解明されないでいる。
念の為に簡単に追記する。
この「貞の通名」が、「秀郷流伊勢青木氏と駿河青木氏の通名」でありながらも、「額田青木氏の差配頭」とされる「貞重である事」から「伊勢や信濃の青木氏」に無い通名の「貞・・である事・秀郷流青木氏の通名」が気に成るのだ。
これが判れば、“「1560年」”は更に解明できるだろう。
つまり、「額田青木氏と駿河青木氏の関係/秀郷流青木氏」を複縦的に解明する糸口に成るのだが。
これに関する「筆者の推論」は、「伊勢での訓練中」に意気投合して「貞・・」を貰った等の色々なケースが考えられるが、これには「伊勢で訓練中」の「駿河青木氏の青木貞治の兄であった可能性」があるとしているのだ。
この「貞重」は、「駿河青木貞治」と当時に「額田青木氏の差配頭にも貞秀が与えた名」では無いかとも考えられる。
「義兄弟の契り・訓練中」を結んだと云う説に成り、この三者は「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練を受けた経緯」から「額田青木氏の訓練を任された指揮官」であった「秀郷流伊勢青木氏の兄貴分」から他の二者にも「今後の結束」を約して「貞の通名」としたのでは無いかと推測しているのである。
然し、これでは「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」、つまり、この「通名」では「女系族」であるが故に「嗣子は移動しないとする掟」に反するのだ。
然し、「訓練で今後の結束の通名・目的」がはっきりしている為にと戦国の世として何時か会えば義兄弟として協力しようと約束した為のものとしてすればこの「伝統の掟」は問題はなく、他の二人は当然の通名とし問題なく従って「額田青木氏の差配頭の俗名」を「通名」とするだけの問題と成る。
後は「伊勢側の裁量の問題」であろうから「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練」を目論んだのだから通名とするに異論は起こらないであろうし、「額田青木氏の差配頭の意思次第」と成ろう。
とすると、「貞重論はあり得る事」と成る。
これが解明できれば「額田青木氏の差配頭」も一時「伊勢」に「同時」に呼び寄せていた事を確定出来得る事に成り得る。
前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世出あっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論にな内程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、動場所、同目的」は充分に有り得て、故に史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすればこの「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。

「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」に続く。(102P)