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  [No.388] 「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/12/05(Mon) 14:44:32

「青木氏の伝統 62」−「青木氏の歴史観−35」の末尾
この遠江松井氏に付いての系譜次の通りである。
 宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主  主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年 「駿河青木貞治」は桶狭間に出陣
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に三分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年〜1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―「相模」で「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成す。
「今川氏―松井氏」の「国衆」に成る。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信〜宗恒〜宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年〜1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)

以上が前段末尾である。

「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」

(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
「重要な幾つかの疑問」があり、これが判れば「青木氏族」はより理解され「青木氏の歴史観」と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に「額田青木氏」と同じ様に、この「特殊銃」を与えなかったかの「疑問」が残るが、それは「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは「松平氏の中での位置関係」に従を渡す事に依って起こる“「歪みが生じる事」”に強い懸念の配慮があったと観ている。
これが「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず「旗本との軋轢」を受ける結果と成っていたのであろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「銃弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来る。
「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」はこの抑止力で生き残れているのだ。
尚、「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔が入った事と伝えられている。
これには、そもそも「勝姫」とは「天崇院(1601年 - 1672年)」の事で、 「 徳川秀忠の娘、松平忠直の妻」の「裔」としているが、「勝殿の呼称」で記されていて特定が不明ではあるが、これには明確な不明の理由があった。
然し、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に三つ目が加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋」が「四家」に加わったとされているのだ。
改めて「五家目の融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったとされている「五家目の家」なのだ。
この様に新たに「徳川氏の姓血筋」を入れて安定化を図ったが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」を構築しているのだ。
これが「青木氏族の以後の立場」を保全させたのだ。
「青木氏の安定化」と云うよりは「青木氏の財と格式向上」を徳川側が間違い側がなく狙ったものであろう。
「秀郷流青木氏宗家」を中心として「秀郷流一族一門」が裏で幕府と動いた事であろう。
この「勝姫時期」は「紀州藩初代頼宜との良好な関係」や「紀州藩の殖産への貢献」や「近習番頭と成り出世したと貞治の子の長三郎等」の裏の活躍があったと考えられ、そう云う風に成る条件が揃い過ぎている。
ここで参考として「不明の理由」だが、そもそも「勝の姫の呼称には、「徳川氏の姫の総称の呼称」であって同じ呼称を歴史的に観て6人も使っている史実がありこれは「伝統」であったらしい。
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」のこの「伊勢の四日市・辰野青木氏の融合族の四日市殿」にて一時休息したのもこの事の縁から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられのだ。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流駿河青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、急に“これだけの事”を「好条件」に導き出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「情報獲得の面」でも、「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間に「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」で「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えたのだ。
この時、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「武田軍と協議」の末に「浜松城」に解放されているのだ。
「東の三方ヶ原に踵を変えた理由」には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触」があったのではないか。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官の一族」で「駿河青木氏伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考えると、「松平軍の情報」を詳細に示唆し、始めから「伊川津に戻る事」を示していた事が予想できる。
「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確には判らないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが西向きに陣取った事から駆けつける方向からすると左側でありこの状況証拠から「鶴翼部の左付け根域に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
根拠は無いが「状況証拠」から「東左鶴翼」に居たと推測する。
この隊の少し「東の付け根の位置域」に影の様にして「銃隊が位置した事」から観て、目的は別として「戦況の様子見」ではあった事が先ずは判るし、これを「補完し助ける意味」でも、「軍議情報を得ていた事」からこの隊の少し「東の付け根の位置」にしたのではないかと観ているのだ。
「青木貞治隊」を“一族である”のなら放置する事は先ず100%無いだろう。
いざと云う時には、「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。
現実に「山県軍の別動隊の突然の突撃」でその様に成って仕舞ったのだ。
「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜め方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に「原因」は別として戦死したのだ。
可成り混乱した可能性がある。
「銃隊」はこの混乱で「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成るが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくは、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」を察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れ無かったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から、一族全員が生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の計画」としても開戦より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
そうでなければ戦況の結果から無理であった筈である。
突撃して開戦と成ったが、救出が全部とすると開戦と同時であった事が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
そのタイミングは「山県軍の別動隊の突撃後」の直ぐ後と云う事に成る。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、ただこの時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には確認しておく必要がある事は、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」とすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊」の事は、「二俣城」で「青木貞治」は承知していた筈で、“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、“何時来るか”の「時間の問題」は判らなかったのであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城」の「戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性はある。
但し、この前提は「籠城戦である事」だった。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」で何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平氏の作戦会議」では、「青木貞治」の「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
「密かに決めたと云う事」が周囲から判らず、「冷静さを無くし」に判断されたのであろう。
この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかである。
筆者は偶然にも「貞治と銃隊の両指揮官の戦死」に「疑問イ」を持っているのだ
では、その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」と「副将の松平康安」はどうしたかであるが、「三河戦記」の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつとその前に「責任」を執るべき「二人」は居たのだ。
では、先ず、其れには「軍議」にあって、この「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”の「疑問ロ」である。
「戦記」でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈で、「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、生き残りに聴取して正確な資料を纏めていた筈である。
これを「当時の仕来り」では「家康」に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告書を提出している事に成っている。
つまり、「疑問イとロ」の様にこの「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は詳細経緯として、確かに形の上では「責任を採った事」には成っていて間違は無い様に観えているが、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に「疑問イとロの本当の問題」があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「内部の情報提供時」に「一族の者・200の救出」を城外に放り出された「南下国衆の銃隊」に依頼したが、この「救出の際」に弾幕を張って救い出したが、そうだとしたら「敵の目」を騎馬上から「混乱の中」で自分に“敵の目を引き付けた”と筆者は先ずは観ている事に成るのだが、この考えだとすると、「混乱の状況の時系列」が変だ。
そもそも、他に「青木貞治隊」にも犠牲は出ていた筈だし、「銃撃」をされている「騎馬隊」には相当の犠牲が「銃弾幕」で出ていた筈だ。
果たして“敵の目を引き付けられた”かの疑問が出る。
この場合では、又、騎馬隊と山県軍とが交差する事にも成る。
つまり極めて味方同士で混乱してしまうし、「本体の騎馬隊」は動けなかった筈だ。
そんな戦略は絶対に信玄は執らないであろう。
「山県軍の別動隊の突然の突撃」を観て「騎馬隊」は進軍を待った筈だし、現実には「弾幕」が救出の為に「武田軍の先頭」と「突撃の山県軍」に目がけて前が見えない程に連射されているのだ。
“観ているが精一杯の事”であった筈である。
「青木貞治は有名な将である事」は、「武田軍の本隊」は「二俣城」で承知していて、突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にした上で「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろう。
それ以外に他の隊員の無傷で救い出す事は出来ないだろう。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は隊員と同然に容易であった筈である。
然し、「向後の憂い」を無くし、この事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのかだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻めの責任」を問われる前にその最初に責任を執るべき人間がいたと云う事だ。
然し乍ら、これを「三河旗本衆」に問われたのではないかと云う事だ。
「家臣の主将・中根」と「軍目付・軍監の松平康安」の二人も居たのである。
確かに「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
要するに「軍議」での「庇い合い」であり、「副将の貞治」に押し付けたのだ。
「松平康安・18歳初陣」は、「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康」に反抗したものの裔であり、「軍目付・軍監」して「二俣城」に派遣されていたのであった。
この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の家臣の松井氏の居城」で、縁あって「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下にあった。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無い。
「無いと云う事」は、これは「家康の用人」として、将又「青木貞治の子孫」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず「秀郷流青木氏の資料」が研究にも具する程のものも遺されていない「理由の一つ」としても此処にあるのだ。
一族全員がそっくりと家臣と成った「秀郷流青木氏」には遺せなかったのではないか。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、武蔵の「秀郷流一族一門」を「味方」に着ける為に「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで「味方」に着け、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に慎重に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱い」として「特別な格式」を与えて、「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」の「家人衆旗本」として重用したのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」はこれに猛烈な反発をした。
それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まるのだ。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで「味方」に着けた”に付いての浚っておかなければならない「疑問」があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しで「この状況」を作り込んだか”である。
この「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中で、「互いの結束」に依って身を護っていたのだ。
当然に、今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であった。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たす事が出来た唯一人の人物は、「青木貞治の子の長三郎・御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本に」であったと観ているのだ。
何せ役柄と云う点からもピッタリである。
「本能寺の変頃の伊賀越え」から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄と子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無い。
後勘から観ると、これが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」と成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る「徳川氏の出現」は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を何と「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「人物の旗本」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けていたのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川の先祖」から「徳川」と解明したが、これを「長篠後」に大いに使う結果と成った。
「改姓する事」に依って「今までの三方ヶ原での印象」を「これからの長篠での印象」に変えようとしたのではないか。
この「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その「不満の矛先」を「軍議」では、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに戦記の表現の通りに「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点」を造り出した以上、つまり、その後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方・家人衆旗本」と合わせて「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本」は「怨嗟と嫉妬」から来る「不満の矛先」を簡単に向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたがからは「吉宗」を裏で将軍に「仕立て、且つ、「親代わりの役目」として、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「大久保・本多の旗本」等の旗本から「不満の矛先」は益々向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ちを受ける結果と成った。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」もこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来ず、江戸では遂には「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と、関西を仕切る幕府の「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く傾向は斯くの如しであって、これが「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても先ず間違いは無い。

結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は「紀州藩・伊勢藤氏の青木氏一族が全家臣に成る」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、その「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられそれが先鋭化して行ったのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち続けそれを以て正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は先ず無いのだ。
然し、「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えてはいなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「戒めの家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「その過去と現在」に付いて周囲が必要以上に「意識を高めた行為」であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に執ってはその「教義」から影響してやや「三河者の意識を高めたと云う事」であろう。

さて、話を戻してそこで、更に「詳細経緯」を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「南下国衆の銃隊」は追尾していたのだが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、「詳細経緯」として「青木貞治」は、何故、“追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは先ずは“「何かの連絡網・情報手段」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成る。
それが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。その形跡が資料の隠れた意から伺える。
「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に入っていたのだと云う事だろう。
筆者は、寧ろ、二俣城開城後に「青木貞治隊200」に「兵」として「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられる。
其れは「浜松城に呼び出された時」に「記録」では、訓練を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然にその後の「記録」では「南下国衆銃隊350」と替わっていて行から「荷駄隊50」が加わっていて、これは前段でも「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と説いた。
然し、当然に「青木貞治隊」にも「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り「吉田城」から“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から「副将」として入った「二俣城の時期」と成る。
さて、そもそもその前に論じる事がある。
それは、“何故副将と成り得たか”と云う事である。
「副将」とする為には、当時の慣習から「青木貞治の兵数」を増やし「武蔵の秀郷流一門からの援軍」とした可能性がある。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
「江戸期」では、上記した様に「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
「1家」を5人として360家、この内の「農民の家」は8割として288、残りが「武士の172家」であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出されるのが当時の戦時下の仕組みであった。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度・援軍」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将」に対して「4騎」が着き、「1騎」が「50兵」と云う基準があったので、「200の兵」でやっと「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故に「副将扱い」に成ったのだ。
これで「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「駿河青木貞治」には「兵数」が足りないので何らかの手を打った事に成る。
そこで、「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
そうするとこの「Xは28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り副将にして「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が援軍と云う策を執ったと事を物語っているのだ。
故に、本来なら「軍議」に充分に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が「軍議の命令」を拒否し、何と「城外」に放り出された。
それは国衆の契約条件に反しても「銃」を陣形の前に出して戦う戦法を拒否したのだ。
以上は、「駿河青木貞治」は「軍議の情報」を彼等に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「疎遠・血縁」で無かった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
それには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
「救出が義務」であるとしても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」にも成り得る。
これ等の「内部情報」を獲得するには元を返せばそれには少なくとも「決定権のある副将」である必要があったのだ。
「詳細経緯」としては、この「義務」を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判る。
故に両方の指揮官が「戦死したと云う事」でもあろう。

“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築している可能性もある”と、戦略的に考えて「追尾行動」をしていた「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、「軍議の内容」から“これは危険”と観て、得た「軍議の内部情報」を「銃隊の指揮官」に対して提供出来たのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を主目的として有利に導こうとしていたと云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り前提は異って仕舞ったので、参戦し野戦と成った以上は「青木氏族」には後は「救出してもらう事」しかなかったのだ。
それには、”無事に救い出す”には「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事に成り得り得たのだ。
それが「銃力・弾幕」で「武田軍の本隊の進軍」を一時止めさせてその隙を突いて「救い出す作戦」に切り替えたのだ。そしてその「準備」を始めたのだ。
それには逃げ込む道すじ・場所・タイミング・合図や銃隊の引き上げ時期等詳細な打ち合わせが両者に執って必要であって打ち合わせたのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は1h〜2h経てば「武田軍の本隊」が別動隊を救出に来る事は必然で、この「愚策の鶴翼の陣形」と成れば「銃隊の指揮官」に執ってはこんな危険な事は先ず無かっただろう。

「総崩れに成る事」は戦前でも充分に予想できただろうから救い出すには「一瞬の隙」を作るしか無かったであろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も4者共に慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に問答無用に「救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後に即座に「戦場離脱に迫られていた事」に成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと観ていたのだ。
そうなれば、「山県軍の別動隊」との「西東の挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り、“「危険」”に陥っていたのであった。
この時、ここで「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか守り救出する為」にも、且つ、充分な「様子見の為・場所取り」にも急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
そもそも、「急いだ事」は、「戦い」の「場所取り」では無く最も「物見」によって“救出に適した位置取り”と「離脱場所の位置取りの点」にあったと観られる。
然し、前段でも論じたが「事態」は急変していたのだ。
予想通り、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が「補給拠点築造の使命」で、“北の山際に待機するかも知れない”と観られたし観ていたが、何とこの「補給拠点築造隊」で「挟み撃ちの作戦」に突如出たのだ。
それは、「青木貞治」が位置している前線と松平軍に対してであって、結果として「左鶴翼の付け根部分」に位置取りしていた「南下国衆の銃隊」にも巻き込まれる可能性が充分に出て来たのである。
そこで因みにそもそも、主に「戦い方」には中国から伝わった「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあって、「魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円 他には「決死隊の長滝等」があった。
「武田軍」は「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して陣形を強め「無敵の騎馬隊」と呼ばれていたのだ。
「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に戦力の弱い「補給基地築造隊も含んでいた事」から、これが上手く行けば戦力の弱い「補給基地築造隊」を戦わす事なく護れるので、これを「背後」に廻して一列に並んだ「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」の形に似ていたのだ。
ところが作戦通りに「長蛇陣形」が良かったが前段でも論じた様に思い掛けない事がここで起こり違ったのだ。
突撃と同時に突然に何と強力な銃弾がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方から命中率良く一斉同時に浴びせられたのだ。
寧ろ、逆に「長蛇の陣形」が痣を成した形と成って仕舞ったのだ。
「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であった。
つまり、これでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
筆者は、「救出用の隠れての位置取り」であった「南下国衆の銃隊」が「見え難かった説」を採っている。
つまり、北の山際から観て左斜め鶴翼の付け根部域であった事で「松平軍の影」に成って正確に存在を見分けられ無かったのであろう。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」を目指して東に向かいこの「山県軍の別動隊」も遅れて到着した。
この事で「三方ヶ原の補給基地」を築造後、ここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事はこれで「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も先に奪取するのが「戦略の常道の知識」である。
故に、家康は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功した。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、「援護守備兵であった事で遅れた事」もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った。
「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると、遅れた事の道中で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際での駐留」まで考えていたのではないか。
ところが、ここに到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して北を背景に陣形を組むのが常道である。
この「南北の陣形の向き」であれば何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
そこで「予想していた事と違った事」が起こって、「戦況」を其の侭に観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られたのだ。
そこから「別動隊」であった以上は「状況」に応じて「独自単独」に移る事が出来る。
今度は何と「松平軍」に執っては予想外の“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面・弱点」に本隊よりも先に突撃して行った”のだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、その「行動の判断」は「同時」や「後」は「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成り、且つ、「敵が鶴翼陣形」である以上は著しい混乱を招く事に成る。
これは「得策」では無いとして、先に、最早、“「使命達成」は当面は不可能”と判断した。
そして、「二俣城」からの「移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」である事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」は「一言坂」と「追尾」で承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の本隊」からはそう見えていた筈である。
恐らくは、「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」としてある。
そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“積極攻撃をして来ない事・証イであった。
「一言坂からの追尾」”までと、「堀江城への援軍攻撃」が無かった事・証ロと、「三方ヶ原」に到着して観れば“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とにあった事・証ハなのだ。
「武田軍の本隊」は、この「三つの証」を観て少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取り」にあった事である。
これが「救出目的」であるとは観ていなかった事・証ニが考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」と「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方も、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って先ず「進軍」を止めて、何か弾煙の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」にも累々と「戦死者の山の光景」が目に入ったのだ。
どうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に「三方ヶ原の戦場」に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又弾煙が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって兎に角にも先ずは「東」に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、武士道の通じない生死の「経験のない恐怖」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かって連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実はここの状況は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあった。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起こして突撃した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命もあった事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は、「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「武田軍の本隊」が進軍中に「一言坂の此処」で一時停留しているので、破壊は無いし、確実に「掃討カ所としての確認をすべき拠点」である事は知っていたし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である拠点には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)

(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺りに付いての論」
さて、上記の詳細経緯に至る内容を先に論じて置く。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城の山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢水軍と駿河水軍は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成っていた。
「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している行・商記録共に一致」である。
つまり、これは何を意味しているかである。
「三方ヶ原」から伊川津に戻り「陸運業」に逸早く転身し、「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだし、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に「甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来ていたのだ。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源を持つ事」に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、遂に「熊野水軍の内の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対しも「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」が「織田軍の調略」に落ちたがこれを「掟と財源」で食い止めた。
然し、結局は1組だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然である。
そこで「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「陸運業」と「海運業」にも更に関わる事で、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
伊勢が復興させた「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆」の強味の所以であった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に「水軍」を持ち「それに依る財」を持つ「御側衆」はいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」もいなかったであろう。
身分以上に力を持つ「家臣・関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には“かなわない”とする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」にも経済的に劣らない「身分以上に力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は他にいなかったであろう。
ところがこれが、「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に、「松平氏の強み」とも成っていたのだ
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残った。
そこで「松平氏の力」を検証する。
そうすると、尾張に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依って弱みを突かれて国境の「西三河の浸食・三好域まで」が起こりこれが「2万石」にまで減石されていた常態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、実際は戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずは「旗本程度」を養えると成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた筈だ。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代に女系で繋がっていた事の所以で末端の裔を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受けた。
そして「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それが「裔系の長」が「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めなかったのだ。
この様に資料では「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成る。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、盤田見附に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「伊勢青木氏部」に依って大寺を建立できるまでに成り、それを持てるまでに「子孫」を拡大させている以上は、青木氏等の地名や所縁のものが遺されていると考えられるのが普通で、その割には「青木氏とその類証」が「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうか検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなるその“「福田港」”がある。
ここに少なくとも先ず「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が資料から判っている。
つまり、「福田港の此処」からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む「一門の領域」と成るのだ。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無く現在もである。
全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量に何もかも出現して来る。
つまり、この差であるる
平安期と鎌倉期と室町期初期の三期までは「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期中期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出した「遠州西光寺域の庄」であって、厳しい乱世の中で衰退しながらもここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して伊勢と繋いで生きる力を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成るのだ。
結果として全体は「駿河の青木氏」の「名籍」が存在する所まで引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で起こった事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」に対応した様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」からか「駿河区青木の庄」の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯である。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練をさせてから「30年後〜40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成るのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できる。
問題は失った元の庄を獲得するには、上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外にも無いし、武力による獲得は「青木氏族の氏是」ではない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは元の庄の獲得は無理で、この時期、必然的に「今川氏の国衆と成る事」が先ずは前提と成る。
その前に、「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられて移住したと定説ではある。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
そうするとこの「地頭代職時代」にこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」は松井氏を当然に知り得ていた筈であるし、「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、源平戦で衰退はしたが「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
この「近江青木氏」と「川島皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは血縁の縁で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」と成れば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。

奈良期の古来より「近江」には「伊勢青木氏一族」は「施基皇子の時代」から全く縁が無かった訳ではない。
そもそも「近江の日野等」は、奈良期から「日本書紀等」にも記されている通り「賜姓五役」の一つとして「令外官」として「鉱山探索・鉄の産地・鉄穴役」を命じられたが、その所以あって、そこを「領地」として与えられ「統治」を任されていた事が判っている。
そして周囲には「一色の地名の字名」があって現在もある。
この事に青木氏の歴史観に意味があるのだ。
後には前段で論じた通りその所縁から室町期には堺を通して「火縄銃等の生産」にも関わっていて、「近江国浅井と高島の二郡」の「鉄穴・カンナ地区・鉱山」を「字名」として所領としていたのだ。
ここが最初に発見された「鉄の地」で「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山・琵琶湖の真北端より北東二里の地・現在の西浅井」で発見されたのだ。
この事は「伊勢の資料」や「日本書紀等」にも記されている。
更に需要に応じて「鉱山開発」が朝廷の命で「伊勢の財」を投じて「東近江」でも進み、もう一つは「平安期末期」には「滋賀国湖南の高島鉱山に広がり、「室町期の開発」では「琵琶湖の真南端の東四里の中東域の一帯・甲賀を起点に日野を含む半径15k圏内」の「白水鉱山と雲井鉱と弥栄鉱山と御池鉱山」等までに広がったと成っているのだ。
その様に添書に記されている。
丁度、それを物語るかの様に「近江青木氏」や「甲賀青木氏」や二里ほど北東に離れた「日野の庄」までもこの圏内に含まれているのだ。
これ等の経済圏でその運輸に関する淀川に出る古来からの「中継点の松井の庄」であったのだ。

要するに其の後の経緯としては、「摂津堺の商い」として「中継点」のこの「松井の庄」を経由して淀川を通して「荷駄の運搬等の中継点」として大いに利用されていて、その歴史は奈良期から始まり浅からず江戸期に至っても変わらなかった様だ。
又、「商い」だけに関わらず隣の「蒲生の庄」の「秀郷流蒲生氏郷一族との血縁関係」も持ち、この「松井の庄」は「青木氏族」に執っては欠かす事の出来ない庄であったのだ。
それだけに「駿河青木氏の貞治」は「伊勢での訓練を受けた以上は元より「青木氏一族」として知っていなければならない「松井の庄」であった筈なのだ。
それが青木氏に関わる者であるとすれば「民」であろうが「商人」であろうが「武人」であろうが「万人」が知っていたのだ。
これは当然に秀郷流一門全ても等しく知り得ていた歴史観で忘れてならないものであつたのだ。
この「近江の鉄穴・カンナ地区・鉱山・鎌倉期まで伊勢と共に本領安堵された」が深く「青木氏族」に関わっていた事を知る事は歴史観に大きく左右するのだ。
故に、百々の詰まりは「額田青木氏の銃隊の由縁」もここから来ているのだ。
念の為にこの「巨万の富・献納」は、「紙文化・紙屋院」のみならず、「銃の武器・近江の鉄穴・カンナ地区の発展・殖産業・青木氏部」の「拡大・伴造」を支配していた事もあって、影で朝廷とも繋がり「無限の富・商い」を獲得していたのだ。
その象徴の一つが「松井の庄」であったのではないかと判断する。

他に「商記録」から「商い」として殆どは「貿易で得る事」で賄っていたらしいが、かなり古くから「銃用」ではなく上記する「近江の鉄穴・カンナ」に「鉱山の爆薬」としても「国内産」にも天皇より命じられて取り組んでいた事、つまり、「山部」や「工部」等の「部人」を統率し管理する「専門の官僚族」の「伴造を統率していた事」が史記にもされいる。
その書の記述には「乳母女樫の炭紛と糞尿を乾燥させものを混ぜ合わせて利用した「近江の硝煙開発と製造・703年頃」にも秘密裏に関わっていた事があった事が記され判っている。
前段でも論じたが当初は「宋貿易」で入手していたが、その後の平安期に成って「紙屋院」のとして「墨や硯石等の開発」の殖産に取り組み、「乳母女樫とその炭紛」は「伊勢紀州の特産品」であり、その副産物としての其処から密かに「爆薬用」として近江に運ばれていた事が記されている。
つまり「紙屋院」として墨用に開発したものの「粉」を集めて「近江の鉱山」に運んで「爆薬用」にこれを利用していたとされ、後には「弾薬用」にも転用したものであるとされている。
「額田青木氏のフリントロック式改良銃の弾薬用」に、更にはこの「近江の硝煙製造」にも「伊勢青木氏・伊勢屋」は更に力を入れていた事が判っている。
後の「室町期」にはこの「鉱山の爆薬用」から一部は「火縄銃用」にも用いられていた事が資料から判っていて、「近江の硝煙の道・ゆず街道・山懐静かな里の一角」を「代名詞」の様に使って密かに呼ばれていたのだ。
「青木氏の伊勢屋の貿易」とは別に「室町期の銃用」にはここを別の勢力に抑えられると困る事から密かに床下に隠して生産していたと記録されているのだ。
恐らくはそれだけでは無く硝酸塩発生を促す為に「温度一定」を図っていたと考えられる。
因みに「硝煙の製造法」は、残された一部の資料に依れば次の主に二つの方法が発見されていたらしい。
一つ目は、中国から伝わり古代では原始的で生物の死骸等の50年以上経過した腐敗堆積古土壌から浮き出て来て来た結晶の「硝酸塩」を抽出し、それに「炭粉」を混在させる方法で生産していた要するに「古土法」である。
この中国の記録を貿易で獲得してそれを青木氏の殖産として真似たのではないかと考えられる。
二つ目は、更に上記の方法を強引に起こさせる「培養方法」である。
石灰土に干草や糞尿を交互に重ね合わせて堆積し、発酵させて硝塩土を造り浮き出て来た「硝酸塩」を抽出しそれに「炭粉」を混ぜ合わせる方法である。
三つ目は、室町期に至ると更に「二つ目の方法」を大量生産型に変更した。
「硝石土の土山」を強引に造り出し、発酵後に浮き出る「硝酸塩の結晶」を取り出して、これに「炭粉」を混ぜ合わせて生産していた。
この「根本原理」は「一つ目の方法」にあるが、日本ではこの地質学上から自然堆積層が無く上記の方法で細々と造り出す方法で古来より生産していたのだろう。
「資料」にはそれを思い出すかの様な表現での様に記されている。
参考として「チリ―一帯の石灰層や硝石層の自然堆積層」は国土全体に及んでいて有名である。
因みに記されている資料に依ると、「混ぜる炭紛の品質」にも問題があって発火能力・爆発能力」にも差があって、それは「紀州と伊勢一帯」でしか採れない「固くて炭化精度が良く微粉末」に成る「伯母樫の木」の「備長炭の炭粉」が最良であった事を知り、「令外官の伊勢青木氏の研究」で到達していたのだ。
結論は「炭の内部の結晶構造」が均一で細かい事にあった事が記され、従って、古来より「国内産の爆薬」は「紀州伊勢産」が優れていた事も上記する「近江鉱山」は発展したと成っているのだ。
さて余談と成っているが「額田青木氏」が持つ「銃の爆発力の高さ」は「輸入の弾薬」に比する事なく此処にあったと考えているのだ。
故に、「額田青木氏のフリントロック式改良銃」は銃そのものも然る事乍らこの微細炭紛にもあったらしく、故に外に真似される事が無く「青木氏族の範囲」で留まった所以もここにあったのだ。
その「原始の方法」がこの論じている「近江の鉱山」から始まったのだ。
これを「天皇の命」で手掛けたのだが上記する「令外官」として「伴造」を支配下に置いていた「伊勢青木氏」ではの事であったのだ。
前段でも論じたが、故に一族の代々の諱号は「光仁天皇」より「伴、又は大伴」に纏わるものを号とする事を天皇から許されていた事が判るのだ。
「永代の令外官の所以」であったのであろう。

注釈として、では、この「実作業」を誰が実行したのかである。
他では、多くのプロジェクトに関わった記録があるのだが、この「近江の鉱山開発」に関わったとする明確に記された資料が少ないのが不思議の一つである。
前段でも論じたが、当時の朝廷の「技術職人集団のトップ」に位置して「施基皇子」と仲の良かった「伊勢の額田部氏」、つまり、後に「桓武天皇の遷都計画」に応じ無くて「飛鳥の斑鳩」を追い出されてこれを救って「伊勢の施基皇子」が「桑名」に隠したがその「額田部氏」であったと観られる。
時代性から観ても関わったとすれば何の不思議もない。
最終は、この「額田部氏」は「施基皇子の仲介」でその数々の功績を評価されその名誉を回復し更にはあり得ない程の「特段の出世」をしている。
間違いなく「鉄穴や爆薬の開発」にも大きく関わっていた事が判るし評価されたのであろう。
「額田部神社」を独自に「守護神」として持つ事を許された「技術職人集団」なのである。
前段でも詳細に論じたが、「土木の職能集団・地形地質を観る集団」で、「干拓灌漑、墳墓等」も手掛ける「土木専門技術集団」で、当時としてその技量は「和気氏や結城氏等」よりも優れていたのだ。
「近江の東」に和紙が生産できる様にした「干拓灌漑と土壌改良」などを手掛けた史実も持っている事から、同然にも「伊勢青木氏」が命じられた「近江の鉱山開発」にもその「地形地質の知識」を以て大きく関わったと考えられる。
寧ろ、関わらないと「青木氏」のみならず他の集団も出来なかった「国家大プロジェクト」であったのだ。
少なくとも初期の「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山開発」と、「近江の硝煙開発と製造・703年頃」は青木氏だけでは無理であった筈で、その記録は何処かにあった事が考えられるがその「額田部氏に関連する記録」はその頃の一般は未だ竹簡木簡であった事から記録は消えた事が考えられる。
遺る記録は紙に遺された記録だけに成っていて「青木氏の紙屋院」ならではの記録と成るだろう。
後発の「滋賀国湖南の高島鉱山」では本格的に「額田部氏の活躍時代」に入っているので、その記録は見つかるのではないかと期待しているが未だ確かな記録は無いし、有ってもその存在範囲は「青木氏族などの関係者範囲」に限定されるだろう。
「土木用の爆薬開発」に関しては上記した様に一部であるが遺されているので「額田部氏に関する関わり」が憤怒建設や干拓灌漑の記録はあるので何かの資料の行の中で発見される可能性もある。
当にそもそもその「土木用の爆薬などの高度な知識」は朝廷では「額田部氏」を除いて有していた集団は無かったと考えられるからだ。
それは「青木氏の貿易」との関わりから多少の記録は得られたものであろう。
この様に「伊勢青木氏」は「額田部氏の力」を借りて「鉱山開発」と「硝煙開発」にまでに及んでいたのだ。
話を元に戻して、それだけにこの後の所縁の「松井の庄」を介して「駿河の松井氏」と「駿河の青木氏」は知り得ていて“「歴史のある特別な親近感」”を持ち得ていた事に成るのだ。
そこで、だとすれば、最早、無駄な論として行うが、取り敢えずは「系論」として、仮に「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば戦っていた事には間違いは無いだろうが、敗戦後、一族が浪々の身に成り、それが共に再び“遠州で会った”と云う事に「流れ」として成り得たのであろう。
且つ、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を「松井氏」とは確実に持っていた筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る所縁と成るのだ。
そして、その「国衆と成った証拠」として今川氏の最西端の其処に「氏としての城」の「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺・西光寺」を「再建した事」を意味するのだ。
つまり、この所縁には「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、「水運業で得られる糧」では到底無理で「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その「財源の出処」は「伊勢青木氏」か「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、この所縁の流れとしては「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであって、前段で論じた様に「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」やこの事で起こる「伊豆や信濃との連携が難しく成る事」を防ぐ為にもこれは“「当初からの戦略」であった”と考えられるのだ。
その結果、「盤田見附の西光寺」だけを遺して「神明社」も「春日社」も「清光寺」も影形を全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしてもここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事、又は追い込まれていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜ける為には、再び途切れた「西と東」が繋がれば“「強大な抑止力」が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」や「鉱山等の多くの殖産」で獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。

それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで筆者が感じる処では、「伊勢系列と信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏系青木氏の関与」は、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていたが、「二俣城の浄賢」だけであるのは何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐の五つの青木氏」が「伊勢」では無く「秀郷流青木氏を頼った事」なのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅で名乗った時光系」は「嵯峨天皇派」であって「犬猿の仲でった事」は否めないが「伊勢信濃」には彼等は頼って全く来ていないのだ。
“受け付けなかったと云う事”もあつたかも知れないが、そんな資料や記録の行は無い。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐で衰退し、「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏」は徳川氏に味方し武蔵鉢形に移住させられ、残る「1氏」の「分家養子・安芸」は早めに戦線離脱し、後に安芸松平氏の家臣に成る経緯を辿っているのだ。そして「本家筋2氏」は完全滅亡している。
「諏訪族系青木氏・3氏」に付いては、「武田氏系の1氏」は衰退したが、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置、残りの一部も「越後秀郷流青木氏」を頼り、4流に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期には「甲斐青木氏・正定系と豊定系」とはある程度の関係性は出来たと考えられるが、この敗退した「甲斐青木氏」が、「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「賜姓」は「青木氏」を中止した代わりに「桓武派」と「嵯峨派」の争いで「仲介案」を採って「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子・嫡子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系・准賜姓格式」”として「甲斐」に配置されたがそれでも関係性は基本的に無かったのだ。
極めて疎遠で犬猿の仲であった事は資料からも解る。
上記した様に「青木貞治と主従関係」にあった「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「賜姓扱いの格式」を与えられた「甲斐青木冠者蔵人・源氏族では無い・後に源光系と成る」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは要するに「源氏族」で無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからない。
然し、そもそも遺すだけの力が無かった事も云えるのだ。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は完全否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏」は「9つの縛り」を護らなかった「賜姓源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・嵯峨源氏9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、それ故に頼る事は出来なかった事には成るし、又、決して四掟で受け付けなかったであろう。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「血縁性の有無」は最早これ以上は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前の「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、「源氏賜姓」を止めて「伊勢信濃の母系族」であった「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を「永代・始祖は千國」に賜姓させる事としたのだ。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
これが要するに最終は「賜姓が元の母方系青木氏」に戻したとする「詳細経緯」であるのだ。
その前には「摂関家の藤原氏との戦い・藤原仲麻呂事件・恵美押勝」で翻弄され「孝謙天皇の白羽の矢の事件・伊勢青木氏の施基皇子の四男の白壁王と井上内親王」の問題が起こっていたのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方・女系族である事」で権威格式付けしたのだ。
これが効果を発揮して「円融天皇の思惑通り」に何と「116氏に及んだのだと云う経緯」を持っているのだ。
況や、この経緯があるが故に「四掟前提としている以上」は「甲斐との血縁性は無かった事」には成るのだ。
先ず間違いなく詳細経緯を押し切るだけのものは無かったであろう。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とにはこの「縛り」は適用されなかったのだ。
依って、この「秀郷流内の青木氏族内」の「主要五氏・青木氏永嶋氏長沼氏進藤氏長谷川氏」の範囲での「甲斐青木氏との血縁・源光系と時光系」はあり得る事は否めないのだ。
然し、この血縁は、「二つの四掟で繋がる青木氏族」の中には出て来ないし、伊勢側から其処まで踏み込めず調査は難しいのだ。
従って、前段でも論じたが、厳然とした「噂」があるのにも関わらず「資料・記録」が無い為に判らないのだ。
唯、「諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であって、この「裔系・抱き角紋」が「武田氏の血縁族」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には「何の問題・疑い」も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接、血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても「間接血縁族」として頼れる事は可能であったであろう。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、その仲介を担ったのがそれが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、そこでその基と成った「駿河青木氏を家臣」として抱えてくれた「松井氏」に付いては、“山城の「河内源氏」である”とする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯としてより理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」と主張する根拠には、「山城の何処かの家人・天皇家・公家・賜姓族・皇位族」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているのだ。
“何処かの家人”としているが明記されていない事にも「疑問1」であり、“河内源氏”としているのも「疑問2」である。
しかも当時は、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で「皇族系の氏族としての格式」を認められていなかった「河内源氏」である事に認識はなく「疑問2」は記載している。
認識なく名乗っていたのかも知れないが、間違いなく“「松井」”と「姓名」を名乗っていた事には間違いは無いのかも知れない。
だが、「疑問1」から「傍系卑属系の支流族」であった事には「格式」を前面に押し出す程の家柄では無かった筈であった事だ。
故に、「疑問1」と「疑問2」が欠落して仕舞っていた事に成る。
「一族の伝統」とは支流の一家が忘れていても本家筋の他家は覚えているものでそんな欠落する程のものではそもそも無い。
故にそれが起こるとする可能性のある「傍系卑属系の支流族」であった事に就いて詳しく検証して観る必要がある。
「疑問1」と「疑問2」はそもそも護らなくてはとする「伝統意識」が低く、且つ、「伝統」そのものは違う。
故に、「傍系卑属系の支流族」では起こるであろう。
現に伊勢や信濃では未だに意味しない伝統は浸み着いて忘れ去れずに何らかの形でほそぼそと持ち得ているものだ。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた新撰姓氏禄」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」はそもそも「諡号の姓・第一の姓」を持つが「第二の姓」はそもそも持たないのが掟だ。
これも「伝統の一つ」であり、だから未だ「青木氏」は統一して「青木氏」であるのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」で名乗ったのだ。
唯、例外として「藤原北家秀郷流一門」は361氏と成り、「氏名や諡号や諱号」では一族一門の系統を格式管理できなく成り、「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、前段でも論じたが次の通りであり忘れ去られていないでいる。
第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等
又は、許可を得て「役職名」を名乗る。
結城氏
第二は、「国、又は地域名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
伊勢藤原氏の伊藤氏・加賀藤原氏の加藤氏等 
長沼藤原氏・長沼氏 永嶋藤原氏・永嶋氏等
第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の下に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
第四に、以上の三つより更に「事情」により拡大して派生した氏は同名の「字」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等がある。
当初は先ず「兼光系」と「文行系」の二派に分かれ、其れより更に分流して「文行系利仁流」や「文行系修行流」に大分流した。
「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」と「秀郷流長沼氏」は「兼光系」であり、「長谷川氏」と「進藤氏」は「文行系」であり、「秀郷流青木氏族主要五氏」と呼ばれ血縁性は取り分け高い。
これを以て「氏の総称」を「藤氏」と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏」等として大別した。
これで「系統や格式レベルや血縁関係」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず大氏一族ではあるが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけとしたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」だけには、もう一つの「判別する仕来り」があったのだ。
それは上記で記した、「好名」とは別に「字名・あざな」であった。
天皇より「皇位族の者」が成した「功績」に従って「所領と民」を与えられた。
その「所領と民」は「小字と大字」に分けられそこに「民」が替わり振られ「特別の名」がつけられたのだ。
この様にその「場所」と「民」にはそれを「特定する名」とする「特定の仕来り」があったのだ。
それが、拝領時に「天皇」から「指名される賜姓」とは別に「賜名に値する字名・あざな」があったのだ。
その「字名・あざな」はその功績の都度に別の「字名・あざな」が与えられた。
この「字名・あざな」は其処の「氏人」も「民」も「名誉」とするもので扱われたのである。
何故ならば、当時は「国造」として「民」は「天皇」から与えられたもので「氏族の氏上に所属する仕来り」であって、「民の字名」は「一色の・・・」として「姓・代名詞」にも代わるものであったのだ。
故に、「青木氏の定住する所」には民の為にも必然的に「字名・あざな」を必ず持ったのだ。
その「字名・あざな」にはその「皇位族に関連する賜名」が読み込まれていたので、これで区別していたのだ。
従って、重なる事が起こるので特定する代名詞として一族以外の別人がこの「字名・あざなの慣習」を使う事は許されなかったのだ。
朝廷が認めた氏族に限り許された慣習であった。
言うなれば「賜姓」と共に「一族の賜名」であったのだ。
これを「一族の裔の者が住む土地の代名詞」として使っていたのだ。
当然に近江もである。
例えば「伊勢王の施基皇子」には、主に伊勢では「四つの大字名」が賜名されていた。
例えばよく使われた「字名」では、「一色や色や一志や一円や志基」等があるが、江戸期には「日本全国60カ所」にも及ぶ「一色関係の大字名」があるが、この殆どは「秀郷流青木氏を含む青木氏の定住地」に広がつているのである。
但し、国抜制度があった為に正式な移動定住は考え難く一部に真似たものもあるが、約8割は関係地と認められる。
これは「四掟に基づく女系の妻嫁制度」で全国に定住している「秀郷流青木氏の嫁家先」にもこの「字名」を興した所以でもある。
言い換えれば、「秀郷流青木氏の定住地」には伊勢、又は信濃から嫁いだ「女(むすめ)」がもう一つの同じ「伊勢、信濃の青木氏」を女系の優秀な嗣子に里の青木氏を興させたと云う事にも成るのだ。
つまり、況や、最早、重婚を重ねる事に依る「二つ血筋を完全融合する二つの青木氏」のこれが「60にも成っていた事」を示すものに成る。
よく似たものに「伊豆の青木氏」や「伊勢や信濃の氏人・郷士衆」がある。
筆者は、この「60の数」から観て江戸期には、最早、この「賜名の字名」は「格式名」の前に「完全な代名詞化」を興していたと考えているのだ。
つまり、「判別名に成っていた事」に成るのだ。
現実に「四掟」に基づきながらも「京の公家先」に嫁いだところでは「賜名の字名」は興っていないのだ。
所謂、これは「代名詞化する程の事」では無かった事を意味する。
唯、注釈として説明して置くのは、この「近江」にはこの「始祖の施基皇子」に基づく「賜名の字名」がそれなりの数であるのだ。
これを上記した様に如何見るかである。
この「近江」は、そもそも「施基皇子」の兄の「川島皇子・近江王の始祖地・佐々木氏」の守護地であったのであるが、ところがここに「施基皇子の賜名の字名」があるのだ。
これには「日本書紀」に基づけば次の「三つの説」が挙げられる。
一つは、平安期直前まで「川島の皇子と施基皇子」は当時の「臣下族の習慣」として「相互重婚の唯一の天智一族」であって、其の事から「施基皇子の賜名の字名」が「近江」に遺したのだ。
二つは、その結果として「二つの青木氏」が発祥した。
つまり、「近江青木氏」と「佐々木氏系近江青木氏」である。
この結果として、「施基皇子の賜名の字名」を遺したのである。
三つは、上記した鉱山開発を命じられてそこに「伊勢の青木氏の裔系子孫」を遺した事が云える。
その結果として、二つの鉱山付近に「施基皇子の賜名の字名」を遺したのだ。
ところが「近江佐々木氏の研究資料」には、この「川島皇子の賜名の字名」の事が何故か書かれていないのだ。
そうすると、「近江青木氏」は前段まで論じて来た「五家五流賜姓族の近江青木氏」では無く、一色からから来る現地の子孫、つまり「伊勢の裔系」の「近江青木氏」であった事にも成る。
つまり、「鉄穴から来る一色の大字名説」と成り得る事も考えられるのだ。
「佐々木氏系青木氏」は別としても、将又、「五家説の単独青木氏との両方での存在説であった事も考えられる。
筆者は、「近江佐々木氏の研究資料」からもこの事に就いて散見できないし、「両方での存在説」を今の処採っている。
恐らくは「伊豆」の様に「三つの混在血縁融合」が興っていたと観ているのだ。
「川島皇子の賜名の字名」は間違いなくあった筈であるが今では確認できない。
「日本書紀」に依れば「始祖の施基皇子」と同じく「合計封戸は500戸を授かっている事」から「近江」に「字名の賜名」は持っていた筈であるが、「好字令・713年・諸国郡郷名著好字令」の施行で消えた可能性がある。
それ程に「川島皇子の賜名の字名」は弱かった事にも成る。
唯、「天武天皇の崩御後」の際に「川島皇子の裔系」はその「行動・大津皇子事件」を「持統天皇」に疑われた史実があり、この事で「近江佐々木一族」は、其の後、「不遇の扱い」を受けた史実がある。
其の事から、「川島皇子の賜名の字名」は「賜姓」と共に「近江」で遺せなかった事と、源氏化に依って遺せなかった事が考えられるし、逆に「伊勢信濃」は発展し、その差から、完全な疎遠と成って仕舞った事を示すものと成る。
もともと「近江」の「真砂の不毛の地」は「伊勢」が「額田部氏に依頼しての開拓開墾」であって、その後の開拓開墾は成功し、「楮の生産」で一時「財」を成したが「源氏化」でその財源も失って「字名」も遺し得なかったのだろう。
故に、「佐々木氏の研究資料」には不思議に「字名の記載」がない所以であろう。
従って、先ず遺しえる力は無かった事が確実に云える。
と云う事は、だとすると「近江の遺る字名」は「施基皇子の賜名の字名とその裔系」であった事も云える。
つまり、一つと三つの事に依って遺した事に成る。
つまり、斯くの如しで「施基皇子の賜名の字名」は「松井氏の論説」をも裏付けるものと云えるのである。
と云う事は、これは「摂津」を「起点」として「近江」までにも「伊勢信濃の勢力」は「商い」のみならず「子孫力」でも伸びていた事を示すものだ。
筆者は、「日本書紀」にもある様に、「鉱山力」に強く注目して「銃に関わった事」の以外に「青木氏の歴史観」を広げる為にも「賜名」も研究しているのだ。

この事に就いては前段でも論じているので「本サイトの検索で・字名で検索」されたい。
「嵯峨期の詔勅禁令」でこの「賜姓」は「青木氏」か「ら賜姓族・源氏」に変更した事を論じたが、この時に「青木氏の慣習仕来り掟を真似る事」をも同時に禁じた。
この禁令は鎌倉期より室町期ではこの「禁令・朝廷の権威」が緩み「格式の搾取」が「格式の無い姓族」に依って激しく横行した。
この時にこの「賜名の字名」が「一部の者・地頭等」に依って「格式権威」に使われたのだ。
鎌倉幕府は治めるに必要としたので敢えて使う事を黙認したのだ。
それは「守護職」から変えて未だ馴染みのない「地頭職」を幕府は置いて治めようとした。
朝廷は幕府からの申し出の「地頭職」のこれを当初認めなかったからで、つまり権威の無い役職と成って仕舞ったので敢えて「権威付け」の為に「字名の使用」を強行した。
これには「嵯峨期の禁令があった事・青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」から逆らう事が出来ずにこれを黙認したのだ。
頼朝の地頭制度の最初は「伊勢の伊賀の地頭職」で、次は「三河の西尾の地頭職」であった。
取り分け、三河は「荘園」が多く、「七郡・碧海郡、額田郡、賀茂郡、幡豆郡、宝飫郡、八名郡、渥美郡」 から成り、「豊穣の地」として「荘園支配権の簒奪戦」が起こっていたのだ。
そこで鎌倉幕府はこれを鎮める為にも「地頭職・西尾氏」を始めて送ったのだが周囲を統治するだけの権威は無く効果は無かった。
そこで、この「西尾氏」に「施基皇子の字名」の「一色」を使わさせて権威づけさせて統治させようとしたのだ。
何故ならば、その近くにの「額田端浪の一色」には、三野王に嫁した桑名殿の「浄橋と飽波の裔系・額田青木氏」の一族が住んでいて、「始祖施基皇子の伊勢の字名・不倫の権」の「一色」を「仕来り」に従い名付けて権威化を図り周囲に「デリバリー」をこの地域に構成していたのだ。
これを利用して「西尾の圷」にも「一色の字名」で「伊勢の荘園」であるかの様に見せて従わさせる策に出たのだ。
伊勢の「伊賀地方」も同然で、「惣国地」でもあったここに「鎌倉幕府」は「足利氏・栃木県足利」を送って地頭を最初に置いたのだ。
そして「伊賀青木氏」と同化を図って一色姓を名乗ったが任期が過ぎると早々と現地孫を遺して足利に戻った。
「権威ある字名」はこの様に使われたのだ。
これがもう一つの判別する仕来りであったのだ。

(注釈 「駿河青木氏の青木貞治」の詳細経緯)
前段までに論じた詳細経緯で「青木貞治」は戦乱の中で歴史的に「青木氏族」に大きな影響を与えた人物であった事が云える。
そこで、従って、改めてその経緯を更に辿つて論じてみると、次の様に成っている。
「駿河青木氏の青木貞治」は、先ず「今川氏」の「土着国衆・土豪」と成った。
其の後に、今川氏の「渡り国衆」に成っていた「松井氏」が、そして「勲功」を挙げて遂に「今川氏家臣」と成り、「重臣」とも成った「松井氏・二俣城城主」に対し、「駿河青木氏の青木貞治」は「松井氏の国衆」と成り、「家臣」と成った。
ところが、「今川氏・桶狭間戦死」は衰退し「二俣城の松井氏」も衰退し、分裂した。
ここで「青木貞治の裔系」はその三つに分裂した松井氏の徳川氏側方に着いてこの松井氏は「今川氏から徳川氏」に「今後の命運」を架けた。
結局、優勢を保持した「徳川氏側の国衆」と成り、「松井氏の二俣城」は結局は「徳川氏の物」となった。
この「元二俣城の松井氏」と「遠江駿河土地」と「国衆の所縁」を以て「二俣城の守備隊・家臣中根氏」と成ったのだ。
そこに「駿河秀郷流青木氏」、及び、「武蔵秀郷流一門」の「後押し」で、「兵の支援・100」を受けて「二俣城の副将格・兵200」を獲得した。
「駿河国衆」より「遠江国衆」として成り得て「徳川氏の国衆―二俣城家臣」と成り得たのだ。

先ずこれを前提にすれば、「早期の経緯論」に成り得る。
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
結局はこの経緯から「駿河青木氏の青木貞治」が仕えたのはこの“「松井宗信」”であった事に成る。
だとすると、この直ぐ後の「桶狭間の戦い」で主君の“「松井宗信」”は戦死したが、同じ松井隊にいた「青木貞治隊・兵100」は何とか生き延びた事に成り得る。
そこで疑問・AとBが生まれる。
A 何故、生き延びたのであろうか。
其の後の「{二俣城」では徳川氏の中で子孫拡大どころかそれ以上に確実な地位を固めているのだ。
もう一点は、歴史的時系列では、丁度、この時、「額田青木氏の銃隊」は南下して「三河国衆」に成っている。
B 何故、この時期に「訓練中の額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
但し、この「桶狭間の戦い・1560年」には記録上では未だ「額田青木氏の銃隊」は参戦していないのだ。
国衆に成って4〜5ケ月後の事である。
「駿河青木氏の青木貞治隊」は参戦したのだ。
この「二つの何故の事・A、B」に就いて「手掛かり」と成るの詳細な記録は無い。
特異な青木氏に依る歴史観である為に独自の時系列で追うしかない。
そこでAに付いて、気に成る点がある。
「桶狭間の戦い」の中心と成った付近の「ほぼ南300mの所」に「神明社・伊勢信濃の青木氏の守護神・現存・古跡社」が在った。
そして、ここから「北東7.5k・2里」に「春日社・2社・秀郷流青木氏の守護神・古跡社」が在り、何れも現存する。
この「神明社」と「春日社」は、何れも「二つの賜姓族の青木氏社」として朝廷より「不倫不入の権・朝廷」を得ている「古来の高井神格の伝統」を保持した「最高の社格式」で、室町期はその「拘束力」は弱まったとしても未だ敬われていた。
ここで改めて、「奈良期の伊勢信濃の賜姓青木氏の神明社」と、「円融期の賜姓秀郷流青木氏の春日社」で、「古来奈良期からの伝統的神格概念・社」とは異なる「伝統的神格概念」を緩めた「神社格式」ではないのだ。
故に、一段上の神的社のものとして「神社格式」とは別により特別に敬われていたのだ。
念の為に、簡単に論ずれば「社格式」とは、「神を崇拝する原理主義概念・奈良期の古来概念」であり、「神社格式」とは、「仏教的概念」をある程度含有した「神を崇拝する進歩的概念・平安期」であつた。
「Aの推論」としては、この「神明社」か「春日社」に「青木氏」として逃げ込んだ事で掃討を免れた事が云える。
唯、「信長」はこの「特権」を否定していたが掃討していた家臣等がこの伝統を敬い黙認したとも考えられる。
何れの「社」の「神職」も「四掟の嫁家制度」の「女系で繋がる青木氏・賜姓の同族」である。
この「神職・青木氏」が「社門」で盾に成った可能性がある。
この時、元信・家康は「大樹寺(松平家菩提寺)」に逃れ住職の助けを受けて助かっているのだ。
当時は、「戦場やその近隣の民」は難を逃れる為に「神社や寺」に上記の意味で逃れるのが一般であって、そこに身を変えて逃れたと考えられる。当時はこの高い格式の国幣社格に逃げ込むと兵は一般に手を無理に出さないのが伝統であった。
因みに、何度も論じた事であるが、唯、「秀吉」は「信長」よりもっと厳しくこの習慣を否定したが、流石に攻める事まではしなかったが、然し殆ど「焼き討ち」は掛けたのだ。
「紀州根来寺」などは民や僧兵と共に6000人と云う人を焼き殺した史実はその典型である。
何故ならば、戦乱期はこの様に「逃亡兵」がこの習慣を使って寺社に逃げ込む事が多かったのだ。
他に平安期に平家に追われた日向に配流と成った「源宗綱等他2人」が「以仁王の乱」で敗退し、配流罪で隠れ住んだ「廻村の者」と「薩摩大口村の浄土寺・現存・5人」まで逃げ込んで間一髪で「伊勢青木氏」を名乗り難を逃れた。
伊賀で関係を持っていた“青木氏を攻める事は出来ない”として「九州平氏・平氏の始祖の伊賀平氏の高野新笠・青木氏出自の光仁天皇・白壁王の妃」は再び「日向」に戻った史実があるのだ。
これが「日向青木氏の大口青木氏・現存」である。
この様な史実に、「永代不入不倫の権」を持つ「官幣社の最高社格式社」は乱世とは云ど最小限の処で保護されていたのだ。
又、室町期には「足利幕府」からも改めて「青木氏族」は「律宗族」としても認められ「侵犯」に付いて「特別保護」されていたのだ。
筆者は、そこで、A 何故、生き延びたのであろうか。?では、上記の「北東7.5k・2里の春日社」では無く、「南300mの神明社」に逃げ込んだ説」を採っている。
ここであれば逃れられる。逃げるとしても「北東7.5k・2里の春日社」は遠すぎるし、そこから「遠江」に逃げ帰るには地理的に困難であろう。
「尾張」を避け「三河の国境・現名 みよし」を廻り「三河」の「青木氏の所縁の安全な地等・岡崎から豊橋等」を経由して「遠江の西光寺」まで約100k・1日以上を所要する。
然し、「突発的に起こった襲撃」を躱すには「戦場の地に在る神明社」の方が先ずは「最適な避難所」であった。
況してや、「駿河青木氏・青木貞治」と「伊勢」は母方実家・で血縁族で訓練して興して貰った「第二の里」であり、且つ、この唯一つ残る「神明社の神職」は当然に「伊勢青木氏」であり、身を挺してでも一族を護ったであろう。
其の後、「伊勢」に連絡して「伊賀者」を動かし警護に着けた事もあり得るし、小舟で導き「神明社の傍」にある戦場を流れる「鞍流瀬川と石ケ瀬川」の支流を経由して「境川」を下り「三河湾」に出れば、最短距離と且つ安全に「渥美湾」で「伊勢水軍」か「実家の駿河水軍」が待つ船で助けられ「遠江」に戻れる。
筆者はこれくらいの事は出来たと考えられる。
そのキーポイントが現在・緑区桶狭間に在る「神明社」であったと説く。
ここに逃げ込めば後は何とでも成る。
筆者はこれを突っ込んで寧ろ次の様に考えている。
「桶狭間の戦い」は、1560年6月12日である。
これに「青木貞治隊」は「今川氏の国衆」として「松井宗信隊」に所属し、参戦している。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この戦いの直前の2〜5月頃に「国衆」と成って南下し、其の後、「伊川津の三河国衆・西三河」として定着した事に成る。
この後、ところが松平氏が違約して「東三河隊」に所属させられ、「吉田城守備隊・1565年・武田氏の侵攻予測」と成っている。
「武田氏との第一次吉田城の戦い」は、「守備隊7年後」の1572年の「三方ヶ原の戦い」の1年前の事である。
当然に、この時、既に「伊勢青木氏と伊勢水軍」は約束の通り「渥美湾・2h」に廻船を始めていた。
「桶狭間の前」には、既に「伊勢と伊勢水軍の廻船」は「蒲郡の石切り湾」を拠点にして動いていた。
とすると、「1560年6月の戦い」では、「伊川津の南下国衆と家族を護る事」と、参戦している「駿河青木氏・青木貞治を護る事」の為に、万が一の場合に備えて、「警戒の帯同」の為に「陸・伊賀青木氏・情報」、「三河湾の配置」の為に「海・伊勢水軍・救出」と、綿密に作戦を組んで動かしていたと観ているのだ。
当然に、「駿河水軍」も「伊勢からの指令」で「三河湾」に集合し待機していた事が充分に考えられる。
其れを行うだけの「充分な財力と抑止力」が在るのだから躊躇なく筆者なら絶対にそうしているし、何もしないという事は100%無いだろう。
それが「青木氏族の氏族」の長く生き延びる為の「戦略行動」であって、奈良期から生き抜いてきた「青木氏族」であってこそ、そんな間抜けな「伊勢・福家」では無かったと自負しているのだ。
「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4〜5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。)

「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」に続く。


  [No.389] Re:「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/03/25(Thu) 14:46:40

> 「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」の末尾

> 「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
> 何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
> 「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
> これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
> 前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
> 上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4〜5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
> だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
> その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
> ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
> そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
> 況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
> 要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。


「青木氏の伝統 64−「青木氏の歴史観−37」

(注釈 「前段の当時の慣習の理解」
前段の疑問の、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”に付いて続けて論じる。
つまり、先ず時期が「駿河青木氏・青木貞治の桶狭間の戦いの時期」に合わせている事である。
前段では、これに付いて「額田青木氏の銃隊」の「単独の論としての1560年」を論じた。
然し、前段では論が複雑に成り得て論じるのが難しく分けて論じたが、ここまでは「駿河青木氏・青木貞治の論」を「詳細経緯として論じる事」が出来たとして、故に、ここでは「この二つの因果関係」を「B」として論じる。
先ずその前に何度も論じている事ではあるが、それを正しく理解する為に次の事を先に論じて置く。
つまり、前段で論じた通りそれは「伝統」として「青木氏族の異質な事柄・異質性」が“「生存の大きな枷」”に成っていたとしていた。
その中でも、この「伝統・異質性」に付いては奈良期から室町期までには「慣習仕来り掟」が室町期の戦乱に依っての社会変化と共に徐々に変化した事である。
この「変化の中」で未だ霧消する事なく「根本的なもの」は遺されていたのだ。
この「根本的なもの」には幾つかあって、これを理解しなければ「正しい青木氏の歴史観」は導き出されないのだ。
それは「青木氏族」は、他氏と違って「特異な立場であった事・伝統・異質性」で生き遺るには「苦しい環境」に置かれていたと云う事なのだ。
この「特異な立場であった事・伝統・異質性」について未だ「下克上で姓化・第二の姓」をした「社会一般」は充分に認めていなかった事だ。
その「特異な立場であった事・伝統・異質性」を持ち続けていた事では、代表的なものとしては「足利幕府」が「白旗派の浄土宗・原理主義」を認めた事と共に、“「伊勢と信濃の賜姓青木氏」が「律宗族」”である事をも認めた事であった。
この時代の「特異な立場であった事・伝統・異質性」を含有する認定であった。
それは姓化する社会の方向性に対して、真逆の認定をした事であった。
これを一般社会は驚いたであろうし、どの様に扱うか迷ったのではないか。
これが「社会と青木氏族との間の矛盾」と成って現れたのであろうが、それをここでその視点で論じて置く。
念の為に、その前に前段の論に追加して、“「室町幕府・義満」が「律宗族」として認めたのか、この事に付いて”将又、“「青木氏」が認めさせたか”であるが、これに依って論の結論は大きく変わる。
この史実を両方の資料から読み込む経緯としては次の様に成って行く。
「室町幕府・河内源氏族」には、「各宗派の争い」と「宗内部の派閥争い」が激しく起こっており、且つ、又、武力勢力とも結託して「政治に影響力を及ぼす宗教」と成っていたが、これを鎮めるべく決定を下した事であるとしてこれが「一つの定説論」と成っている。
これが「宗教力の格式論説」である。
「伊勢信濃の青木氏」は、この唯一持ち続けた「特異な立場であった事・伝統・異質性」と、「社会との乖離の解消」と、「一族生き遺り」を成すが為に「朝廷には献納」をし「室町幕府には冥加金」で働き架けをした事が「商記録からの史実」があって、この説に依っての「格式擁立論説」が成り立つているのだ。
当時のこの状況証拠から「以上の二つ」から読み取れるが、何れに於いても「青木氏側」に執っても“利に叶うもの”があって、少なくとも最低、「青木氏側」は “両者に対して合議には及んでいた事”は充分に考えられる。
「青木氏族の歴史観」の側から考えれば、これは「青木氏の再格式擁立論説」と成り得る。
それが奈良期より長期に於いて「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」であったとされるのだ。
「現実の史実」は、室町幕府は自らの「幕府の権威の低下」からも「朝廷」を再び前面に押し出すより「律宗族として宗教力」を使って「幕府の権威低下」を補完しようとしたのだ。
一方で「青木氏族」は「紙の生産と鉄生産、及び各種の殖産」で「巨万の富」を獲得していたのだ。
果たして、室町期に於いて「青木氏側」が「律宗族」と成り得なければ成らないかの「利」に対して「疑問x」がある。
因みにこの「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」に付いてその経緯を改めて下記に詳細を記述する。
恐らくこの「疑問x」は判明するだろ。
「室町幕府」には、「浄土宗14派」の中で「超最小派で白旗派」があっても、「聖聡等」が世に出て何故か興隆させて何時しか短期間で他派と他流を圧倒していた時期があった。
この「白旗派」には、「皇位性」とそれに基づく「宗脈・戒脈相伝の伝統」があるとして、つまり、奈良期から固く護り続けて来た「伝統・9つの縛り」の中に“「五戒の相伝論・律宗論」”があるとして、その「位格式」を前面に押し出しその「位」を以て信頼を勝ち得て他派と他流を圧倒したのだ。
これが要するに“「律宗族」”に繋がるのだ。
これに基づき僧侶でもあった「三代目足利義満」は、これの「白旗派律宗論」を認め、その「皇位性の相伝」の「伝統氏の青木氏」を「律宗族」として認め、これを相伝するも廃れていた「知恩院・1548年」を再興建立を命じたのだ。
これを「1575年」には27年遅れて「正親町天皇」よりこの「再興した知恩院」を以て「正式な浄土宗本寺・足利幕府承認」に伴い「正式承認・追認」を受けたのだ。
これに依って「浄土宗」へ「統一の格式・香衣付与」と「剥奪不可の権限・毀破綸旨の令」を授かったのだ。
況や、「奈良期・天智天皇の勅令」から保持する「伊勢信濃の青木氏への不入不倫の権」を改めて930年後に正式に「朝廷」よりも追認されて与えられた形と成ったのだ。
「家康の江戸幕府」ではこれを更に追認し、幕府に依って正式に確定させる為に「浄土宗諸法度・1615年」が制定されたのだ。
この経緯を経て「知恩院」を「門跡寺院・皇位族・律宗族院の本山」と認定されたのだ。
これを受けて「幕府の格式化」を図る為にも利用され「徳川氏の菩提寺の増上寺」をその「知恩院の格式」を借りてこの「知恩院の下位に置く寺」と定めたのだ。
「利」に対して「疑問x」には、上記の「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」を成すと云う詳細経緯があって、「念願の青木氏族の目的」が遂に再び蘇って達成されると云う事に繋がったのだ。
つまり、「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」は裏を返せば「青木氏族の格式化を蘇させた事」に成ったのだ。
果たして、筆者には“その必要性があったのか”は最早必要であったのかが疑問であって、それに比するものを全てを獲得しているのに何故か伝えられているのだ。
その時の「四家の福家の考え方」を聞かなければ解らないが、戦乱の中での事であるので、それを咀嚼すると、矢張り、残るは「抑止力の強化」にあったのではと考えられる。
得られる「全ての抑止力」を持ったが、残された後の抑止力は唯一つで、それはあやふやと成っていた「過去の格式化」を蘇らせて、「伊勢」と共に「青木氏族」の「不入の権を獲得する目的」が「福家」には在ったと考えられるのだ。
現実にその戦々恐々とした「福家の懸念」は的中したのだ。
それは当初は「戦乱」であって、後にはこれらの考え方を全面否定する「織田信長と秀吉の出現」であった。
「伊勢」が破壊されれば「青木氏族全体」に及ぶ事は必然で、先ず伊勢では官僚の「北畠」が奈良期からの「不入の権」を無視して入り、これを「信長」が潰しその後、「紀州伊勢攻め」が始まり、「秀吉・紀州征伐」が続き、江戸期では「外枠の格式」を外され、最後は「明治維新」で薩摩藩などのゲリラで本体に「焼き討ち・打ち壊し」を仕掛けられたのだ。

さて、そこで“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”の疑問の解決の検証に戻す。
上記の斯くの如しである「特異な立場であった事・伝統・異質性」の「律宗族の所以」を以て、ある程度の“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”を護った「摂津源氏四家・頼光系」の一族の中には、兎も角も「姓族・第二の姓」は無いのだからとして、「摂津源氏・清和源氏系」は「四家構成の氏族」とも云えると云う立場を保全していた。
況や、「准律宗族と云える格式」にあったのだ。
余談だがところが、後世の「河内源氏」はこの「里・摂津の格式」を利用して、こっそりと知らぬ振りして「准律宗族的振る舞い」をした事に成るのだ。
注としてそもそも「新撰姓氏禄」では、「頼信系源氏」は“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”で、「対象族」として編集から「資格的に外されている事」から、当初から「真人族」の中には入れずに、「朝臣族だけの格式」にされて外されていた事に成る。
将又、根本的に「朝臣族」にも加えられていなかった筈である。
この史実は、「満仲蟄居事件」と「嵯峨期の9つの縛り」で明らかに判る。
「新撰姓氏禄」は当初より「朝臣族」は「嵯峨期の9つの縛りの前提」にあった事に成る。
其の後、「賜姓源氏」は「摂津源氏・頼光系」を除き、この「嵯峨期の9つの縛りの前提」を遵守しなかった史実があるのだ。
と云う事は、元より書き換えられたとする説もあったが、この「嵯峨期の新撰姓氏禄・715年」のそのものは、現在は原本が紛失しているが、「1106年・満仲より4代目」で「後の1197年頃・義家期」の頃に「1039年頃に“「朝臣族」”に書き換えられたとする「可能性・書換説定説化」があるする説が今では定説と成っていて、従って、「原本紛失」そのものは室町期説はこの時期前後と云う事になるか。
確かに「時代性」から観てこの説には反論する為の無理がない。
つまり、その大きな根拠は、一時、“「立場格式・名誉回復」”を「河内源氏の義家」が成し、最も復興させたとされるが、それがその時期が「院昇殿を許された時期の白河法皇期」に当たる事に成るだろう。
つまり、「昇殿の格式」を得た事でこれを笠に着た「義家傍若無人期」の行為でもあるだろう。
「昇殿の格式」を得た事は確かに「朝臣族」には返り咲いた事には成る。これを以て「書き換えたとする説」であるし、「書き換えた」としても無理はない事に成り、恐らくは河内源氏としては書き換えたのであろう。
そして要するに、“一族に執って拙いこの原本を隠匿した”との「隠匿説」もが成立するのだ。
其の後の室町期に入って「姓族を書き足した事」が根拠に基づかない脚色段階に入り「完全隠匿の行為」に繋がったのであろう。
他にもこの説を裏付ける証拠がある。
そもそもそれはこの「原本」には本来無いと観される「河内源氏系の卑属族」が、そもそも「時系列の時期」が「異なる一門裔」として追加されている事である。
「嵯峨期の原本」に「室町期の姓」が書かれている事は時系列からあり得ない事であり見破られているのだ。
そもそも「朝臣族」が限定されていた「新撰姓氏禄」であるのに、その満仲期で朝臣族から外された裔系が記載される事そのものが有り得ない事でもあるのだ。
そこで、その前に「律宗族」に成り得てその基と成った「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」の処で論じた「理解の要素」と成り得る「注釈イ」と「注釈ロ」を先に追記する。
これは「鎌倉期」を除いて「奈良期と平安期と室町期」の「三文化の広範」に及んだそのものであって、中々、纏め上げるには難しいが敢えて試みる。
前段でも論じたが歴史観を高める為にも論じる。

・「注釈イ」は、そもそも上記の通り「姓の判断」には、「嵯峨期の新撰姓氏禄」を根拠とする「諡号の姓・第一の姓」と、「諡号族から外れた民」を根拠とする「姓・第二の姓(室町期に発生)」のところの二つがある。
多くはそこを同じ様に混同されている処があるが、実は「奈良期―平安期―鎌倉期―室町期初期頃」までは「諡号の姓」と「諡号無しの姓」が比率を変えながら混在していて、徐々に「諡号無しの姓」が戦乱で戦う者が必要として増加して行くが、処が本来は別々のものであって「使い方・格式」は違っていたのだ。
「910氏程度」の「諡号の姓・第一の姓」を持つ族は、その「出自の格式」を意味するが、一方で「民」などが戦乱期で「武士」に伸し上がり「土豪・国衆」と成り、勝手に名乗ったか、買い取ったか、弱体した「諡号の姓」に入り込んで「血縁」で血筋を獲得したかの「姓」は、この三つの何れかに依って「姓名・第二の姓」を自助努力で獲得したのだ。
この三つが室町期からの「下剋上の第二の姓」であり、又、別に「新撰姓氏禄」にある「第一の姓族」の生き遺った殆どは、「統治用に持ち得ていた武力」を生かして生き残った「官僚族や押領使や弁財使等」であったのだ。
ところが「諡号の姓族」の中でも「新撰姓氏禄」に加えられる程に別格であったこの「摂津源氏・嵯峨源氏との融合族」は、「皇位族の臣下朝臣族としての純血性血縁」を護る為に「四家制度」を一応は構成はしていた。
然し、朝廷が認める「正式な氏族・9つの縛り・五戒相伝・賜姓五役」と云える程の格式相伝も無く、更に「限定された氏人・単独男系血縁族」を持っていなかった事でそれ故に直ぐに消えたのだ。

・注釈ロ 「青木氏族」は臣下した時から皇族内の政争に巻き込まれない様に「女系血縁族・四掟範囲で純血保持」に変換したのであって、先ず「血縁の面」でも「慣習仕来り掟の面」でも故に女系としての統一した「律宗族」と成り得ていたのだ。
「嗣子」は他氏から入らない為に、全て「母の子・嗣子・男子」が「氏の四家の何れかを継ぐ事」で統一して変化しない「伝統・純血性と慣習仕来り掟」は保たれた。
これが確定した伝統の「四家の前提」と成り得て、且つ、「五戒相伝の律宗族」と成り得ていたのだ。
例えば、「伝統の異なる男子」が「青木氏の氏の跡目に入る事」や、「女系が四掟で護られていない事」等で持ち込んだ“「男子の家の伝統」”のみで一時的に統一されたりする事で、その継承毎に「伝統」が混濁して保てない事に成り得る。
ところが、ここが異なり故にこの女系の範囲を限定する為に設けた「四掟」も「律宗族の所以」の大きな一つと成り得ていたのだ。
だから、「臣下朝臣族の立場」にあり乍らも、この何れにも属さない衰退していた「三代目以降・二代目まで公家族」等は、「初代源氏の嵯峨源氏・神野・賀美野に在郷」を京に呼び寄せて融合して「朝廷が認める氏族の格式」を構成していたのだ。
然し、その「格式を保つ手段・条件」として「皇位族としての縛りの最大の禁じ手の一つ・武力保持」を破り、「清和源氏と嵯峨源氏」は身を守るために共に融合して「武力」を持った。
それ故に「源満仲の事件」の様に蟄居されて追放されて“「律宗族の資格」”を失って仕舞ってのだ。
つまり、「嵯峨源氏」も「満仲の清和源氏」もここで「五戒相伝の氏」としての「最も重要な戒の資格」を失い消え失せたのだ。
この事で、この「父満仲の失敗」を取り戻すべく、所謂、この「資格」を取り戻すべく「長男・頼光」は「藤原道長」に近づき各地の国司代を務め「五戒相伝の氏」として再び認められるに至ったのだ。
この時、その「国司代」を務めるべく「禁じ手の武力」は、「道長に命じられた公務」を「果たすべく手段」として認知されて、「五戒相伝の氏」として「四家を構成する事」を許された。
当然に、その為に「四家」に伴い頼光系には「四掟の戒」が課せられたのだ。
この「五戒相伝の資格」は「頼政―仲綱」まで引きがれ頼政は「従三位の公家貴族の資格」まで破格に取得し戻したのだ。
ここで「武力賛成派・三男頼信・河内源氏・縛り無視・姓派」と「武力反対派・嫡子頼光・摂津源氏・ある程度の縛り賛成・氏派」の二派が起こったのだ。
それにより、「二代目満仲・武力派」の賛成派は「公家・武家貴族資格」も消失に及び、朝廷より厳しく排斥され遂には「蟄居刑」を命じられた。
そこでその子の賛成派の「三代目三男の頼信」は、河内に逃げ延びて「武力」で定住地を確保したのだ。
「次男頼親は大和源氏」と成るも荒れて「再三の事件」を起こし遂には土佐に配流と成り、「最も重要な戒の資格」をも失う結果と成ったのだ。
然し、この「河内源氏」は開き直りこの「縛り」の一切を無視し勢力を高める為に尊属卑属に関わらず「姓族・第二の姓」をどんどん作ったのだ。
最後は系譜系統も判らない程になったのだ。
故に、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の保有する「正統な源氏」であるかは疑問なのであって否定される所以と成っているのだ。
つまり、此処で明らかに「律宗族」では無い事に成ったのだ。
上記の通り、この「資格」を有しない事から朝廷から拒否されたので、そこで「鎌倉幕府の樹立」の為に、「准資格有する頼政の跡目」として言い立てたのだ。
依ってこの「五戒相伝の資格・9つの縛り」は鎌倉以後に有名無実と成り以後無視されたのだ。
然し、「室町期」に成って上記した様に「五戒相伝の資格・9つの縛り・四掟」の「伝統」を護る「女系族の青木氏族」に対してのみ「神明社と春日社」、「浄土宗白旗派の清光寺と西光寺・密教原理主義」の「伝統」を長く護る「四掟の氏族」として、又、改めて「賜姓族・賜姓五役」としも守り続けたこれを以て“「律宗族」”としての「格式権威」のこれを復活させたのだ。
この本来、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の無い「足利幕府」は、“「律宗族」”を認める事で自らも正当な格式があるかの様に振る舞ったのだ。
その証拠にこの「戒めの名」、即ち「戒名」は「浄土宗・密教浄土宗・原理主義」の「白旗派・皇位族・高位族が帰依」に帰依する「律宗族」には、「生前に持ち得る資格」として与えられ特別に許され得度としたのだ。
要するに、古来からの“「院殿居士」”の「仕来りの権威化・格式化」であった。
因みに、この「消えた名誉な号の伝統」を蘇させるとして、「院」は「院号」、「殿」は「誉号」、「居」は「戒号」、「士」は「位号」に相当させ白旗派の族に許可したのだ。
つまり、古来より「密教」であった頃より「帰依する皇位族の仕来り」として用いられている「密教浄土宗の戒・戒号」は、次の様であった。
「五戒相伝」の「伝統」を維持している事に依って、「新撰姓氏禄」に記されている「48朝臣族/910の氏族・平安期初期・48/110」の「他氏」と異なり、その「戒」に基づき「生前の格式」として「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」を格式として持つ事と成っていたのだ。
取り分け、「皇位族の伝統」の「五戒相伝」にある様に、この「戒の号」は、「号の格式」が低下して無くなり鎌倉期頃からはある程度の身分階級に一般化してこれを戒めの誉の号を“「戒名」”と後に称される様に成ったのだ。
これが上記する「鎌倉幕府の源氏の所以」で起こった仕儀であったのだ。
この時、「戒の号の習慣」が遺る事は、「頼政系を利用した頼朝系」を疑わせる事に成り、これの印象を排除したい為に、もつと云えばつまりこれの関係者に従わせる為に、「白旗派」に「鎌倉幕府」から強引に圧力が掛かった事が平安期より他派よりも更に衰退に繋がったのだ。
「48の帰依族」から「青木氏等の10程度」の極めて弱小派と成って仕舞い、故に室町期では「律宗族」としたのだ
「奈良期からの原理主義の概念」が衰退し「日蓮宗等の他流派」が逆に隆盛を極め始めたが、「皇位族の伝統」に依って引き継がれて来た「五戒相伝の衰退」も「白旗派」に「鎌倉幕府からの強引な圧力が掛かった事」がこの根本原因であつた事は頷けるのだ。
然し、ここには「大きな矛盾」が潜んでいたのだ。
それは「鎌倉幕府」と云うよりは「頼朝」に矛盾があった。
それは、「頼朝」はこの「白旗」を「軍の旗印」とした事であった。
当然に「白旗」なら「神明社・神教」であり、「浄土宗・仏教」である「神仏分離の享受」であるが、頼朝にはところがここに無理があって違ったのだ。
この上記の「五戒相伝等の矛盾」をかき消すかの様に、その信じる処を「八幡菩薩・仏教」とした。
それは同時に「神明社」では無く「八幡神社・神教」で且つ「神仏習合の享受体」、つまり、「仏教擁護の神」と云う「無理な概念」を造り出したのだ。
ここが正当な伝統を守っていなかった事が「矛盾の大きな違い」として出たのだ。
ここが世間から非難され「鎌倉幕府の基幹の権威」が低下した故と成ったのだ。
「北条氏等の坂東八平氏」、つまり、元皇位族7世族以上は坂東に配置されたその族」で彼等に執ってはこの「矛盾」は「執権制・政権奪取」を敷く上で都合が良かったのだ。

その「根拠」を、論外であるが追記する。
そもそも「清和天皇の即位・859年」に、「南都大安寺の行教」が「宇佐神宮」に参詣し、その時に「御託宣」を受けたとし、「男山に移座し国家を武家で鎮護せん」としたとすると云うのだ。
この「清和天皇の命」で上記した様に「石清水八幡宮の神仏享受体」が創建されたのだ。
この「石清水八幡宮」は、其の後「国家鎮守の神」として崇敬を集め、取り分け「清和天皇の河内源氏・源頼信系の姓族」は崇めたのだ。
「武家社会の許」で「武家の神と仏」として「鎌倉鶴岡八幡宮」はこの「信仰」を集めたのだ。

話は都合よくまとめられているが、要するに「天皇家」はそもそも「皇祖神」であり、「仏教の事」のみならず、況してや「武家を推奨する事」は、自らの天皇家を否定する事に成り、「矛盾の極み」であり、この上記した「矛盾」を克服する為に、その中間の「八幡の神仏享受体」を頼朝は造り上げたのだ。

「欽明天皇と用明天皇」 「飛鳥寺と法隆寺」 「蘇我氏と物部氏」が基点と成って朝廷内で信仰して興つたものであり、上記した様に「庶民の仏教」はずっと後の鎌倉期の事である。
その間の「朝廷の考え方」は矛盾から脱出する為に「詔の発出」に迫られていた。
この様に、“国家として「仏道」にはその必要性を感ずるが、「神道」を根幹とするは変わりは無い”として詔を出して「豪族間の争い仏教派と神道派を鎮めるに躍起に成っていた。
故に、鎌倉期では「八幡神社・神教」と八幡菩薩・仏教」で「神仏習合の享受体」が都合よく河内源氏の幕府に執っては成立したのだ。

此の反対側に居た「五戒相伝の青木氏族」に執っては「社会の流れ」とは反対側に居て難しい立場に置かれていた。
然し、仏教も積極的に取り入れる立場を保っていた事に成る。
寧ろ、これも「青木氏族の自らの矛盾の期」でもあった筈だ。
「伊勢」で「青木氏族」が当に世に引き出される「直前・白羽の矢・孝謙天皇期・聖武天皇期」の時期、つまり、この「東大寺大仏の建立」と「鑑真招来による律宗概念の導入」が原因していたのだ。

「青木氏族」では調べると、この「鑑真律宗の法界の戒律」が、遂には上記したその「朝廷の考え方の影響」を受けて、「神明社と古代密教浄土の仏教」の「古式豊かな神仏融合の原理主義の伝統」を守って来た「青木氏等」にも適用される様に成って仕舞ったのだ。
その結果の影響を受けて「律宗族」と成って仕舞ったと云う経緯である。そうでなければ氏是゛に依って「律宗族の指定」とは成らなかったであろう。
その大きな原因は「守護神の神明社の神職」や「菩提寺密教の清光寺の住職」は「自らの氏の者」が務めるとした「伝統の事」にあったのだ。
故を以て室町期に「律宗族」と再任される結果と成ったのだ。
要するに、“理利に反する”としても「再認される事を拒む根拠」は「青木氏側」には何も無かった事なのだ。
そのターゲットが伊勢信濃に置いていたとしても「秀郷流青木氏」も同然であったろう。
故にその証拠として、この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は依然として「伝統」として頑として保たれていたのだ。
これに付いて本来は反対し圧力を加えて来る筈だが「鎌倉幕府」は何故か黙認した事を意味する。
興味深いのは、社会が替わろうと何故かこの「頑なな伝統」だけは現在でも遺るのであるし、この部分に於いてはこの資料関係を遺している所以であろう。
ここで重要なのは、前段でも論じている事でもあるが、「律」は「全体の行動の戒め」であって、「戒」は「個人の戒」と定義されている事に成っている。
「青木氏の資料」から読み解くと、「律」は「刑の事」であって、「令」は「民の事」と定義して明記している。
とすると、「青木氏族に於ける律宗族」は、「律」である所以である以上は「青木氏族全体」に課せられた「戒」であって、「戒宗族」とは成っていない。
故に氏が定めるところに於いて反すると罰が下る定義である。
要するに「個人の戒」で無かったと云う所以と成り、「青木氏」に課せられた「戒」では無かった事に成るだろう。
つまり、「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」はこの時代に於いても未だ「一族全体が護っていた伝統」と成り得る。
これは「伊勢信濃の青木氏族」と「女系で繋がる秀郷流青木氏」の「二つの青木氏族」に課せられていた「五戒相伝の伝統」であった事を証明するし、これが「格式」と成り前段で論じた論説に符号一致する。
逆に云えば、何れの源氏族にも「五戒相伝の伝統」は適用されていなかった事を意味し、河内源氏系の頼朝等が主張する格式は有していなかった事に成る。
それを「河内源氏系足利氏の幕府」が、「二つの青木氏族」を「律宗族」と認定したのには興味深いものがあるし、「正親町天皇」が70年後の相当遅れて追認したのは歴史的に意味を持ち頷ける。
この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は、「賜姓五役」の任にも通ずる事に成り、「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」と成り得るのだ。
「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」の役務の時系列は同じであり、イがあってロが成り立ち、ロがあってイが成り立つ相関関係にあるのだ。
故に、「足利幕府」と「正親町天皇」の「律宗族認定」は、「五戒相伝の伝統 イ」は兎も角も「賜姓五役の伝統 ロ」をも認めていた事を示すものだ。
もっと云えば、「青木氏族」が「古来より持つ伝統」の全ては「イとロ」に相関して成り立っていると観て居るのだ。
決して「律宗族」の格式認定だけでは無かったのだ。
「大義」はイにあり、「目的」はロにあったと考えられる。
ロに持つ「経済的潤い」に狙いがあった気がする。
幕府や朝廷が「経済的潤い」を受ける以上は「非難される点」を除かねばならない。
この「当然の務め」として「賜姓五役のロ」にあったと考えられる。
「昔の永代の務め」を廃れているのに今に成って「ぶり返して来たと云う事」であろう。
「足利幕府」と「正親町天皇」は、その様に考えていたかは定かではないが、少なくとも「正親町天皇」は思っていた可能性は充分にあり得る。
何故ならば、前段の「殖産の論」の「献納の処」で論じた様に、裏で「賜姓五役」の「令外官」として「紙屋院」に始り「絵画院」・「繪処預」等を務め、「鉱山開発・硝煙開発」等は平安期初期までは「伴造と国造りの統括支配の役」で務めていたとされるからだ。

この時の支配下にあったが「役務名」に付いては詳細では無く「院名不記載」である。
これは恐らくは、敢えて特別に「院号」を与えられず「伴造と国造りの統括支配」の許で“「令外官」”として務めていた事が間違いなく考えられる。
「幕府」は兎も角も「朝廷」には無理がない事が云える。
何故ならば「平安初期」からは「嵯峨期の詔勅禁令」で「皇親族・賜姓族」を外されたが、“「令外官」”で「国造や伴造」を配下にし、且つ、自らも「専門技術を有する青木氏部」を有し、又、当時にその「殖産の専門技術者集団の額田部氏」と連携もしていたのだ。
鉱山開発には額田部氏との連携があったと考えられる。
そして、「途方もない大財源」を必要とする「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」では、朝廷内ではたった「18氏しかない臣下族朝臣族」では果たす事は到底出来ず、これを「青木氏族の独占上」であって務めていた背景があり他の氏は無理であったろう。
そうでなければ「朝廷の大きな財源となる献納金」は獲得は出来ない背景にあった。
幾ら「嵯峨天皇」が「自らの出自元」に反抗してもこの事に関しては無理であったのだ。
「出自元の青木氏」を「皇親族」から「賜姓族」からも外したのには殖産で力の着き過ぎた皇親族を政治の世界から外したかったからであろう。
その証拠に「永代の賜姓五役と令外官」は外していないのだ。
兎も角も」経済力を持つ事」には朝廷は潤うし、自らの首を絞める事にも成り外すわけには行かず、従って否では無く、要するに「青木氏の政治の場」に対する「政治的立場」を排除したかったのではないか。
自分の思う様にしたかったとと云う事であろう。
然し、思う様に一族や青木氏は動いてくれなかったのだ。
桓武派と嵯峨派が生まれて政治的敵対したのだ。
前段でも何度も論じたが、この「殖産状況」は正式には政治体制が変わる明治9年まで続いた事が記録されているが、「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」は基本的には「影の令外官であった事」が「献納」で証明できる。
これに関わった「鉄穴部・鉄安部・かんなべし」を何時、「青木氏部」に加えて、何時、「青木氏部」から何時、「鉱山開発と硝煙開発等の殖産」から手を引いたかは判っていない。次第に低下して行ったのであろう。
然し、「鉄」に関わる以下の状況証拠と大体の時系列から割り出せる。
大倉鉱山の産出量が低下し古く成った時期・1540年
摂津堺店が日野支援を打ち切った時期・1550年
銃の開発が済んだ時期・1557年
薩摩などが日野鍛冶師を雇った時期・1558年
採掘の額田部氏が滋賀より引いた時期・1560年
近江で松井氏と再関係を持った時期・1562年
額田部氏が穂積氏とが疎遠に成った時期・1565年
日野から伊勢青木氏部に鍛冶師が逃げ込んだ時期・1567年
高倉鉱山が盛んに成った時期・1568年
雑賀に伊勢の支店を置いた時期・1569年
雑賀で鉄鉱石輸入で製鉄が盛んに成った時期・1570年
渥美湾の制海権の獲得した時期・1572年
伊川津で殖産を開始した時期・1573年
雑賀根来が信長と秀吉に敵対した時期・1576年
根来衆が雑賀衆と疎遠に成った時期・1577年
信長が近江丹波を獲得した時期・1579年
信長から秀吉政権に移行した時期・1580年
青木氏の伊勢と紀州の殖産が軽工業に移行した時期・1582年
秀吉刀狩りを実行した時期・1588年年
青木氏部が宮大工等の建設業に移行した時期・1590年

以上等の総合的な事柄が左右している「ある一定の時期」には「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」から手を引いている筈で、そもそも「続ける事」がそもそもが困難で「商い」としても得策では無かった時期があった筈だ。
その基準は、次の通りであったろう。
経済的な財力や開発能力の有無には総合的な問題は無かったのである。
第一次的な理由は「殖産」に関わる事
鉱山開発の「意味・目的・理由」が総合的に無くなった時期
鉱山開発の「排他的な続行」が総合的に困難に至った時期
鉱山開発の「政治的な配慮」が総合的に必要と成った時期
第二次的な理由は「鉄」に関わる諸々の事
第三次的な理由は「総合的な理由は幾つか重なった事」であろう。
故に突如辞めたのでは無く「一定の短い期間」を経て引いた事となろう。

これ等の事は「商記録」に最も反映される事柄であるが何故かこれには記録や資料がないのだ。
何なのかは良く判らないのだ。
この「鉱山開発の資産」に付いての「日本書紀などの歴史書での書き方」には記録や資料がないのだ。

686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸を加えられている。
703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と「役務」を与えられる。
704年1月に封100戸を伊勢に加増されている。
714年1月に封200戸を伊勢に加増されている。
持統上皇御葬送の際に「造御竈長官」を務む。
706年9月から10月に架けて「文武天皇の難波行幸」に従う。
707年6月、文武天皇崩御の際、殯宮に供奉する。
708年1月、叙品し、三品を授けられる。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。(判断として重要)
716年8月11日、薨去し、「六人部王」らが葬事の監護に派遣され、この薨伝に「天智天皇第七之皇子」と記されている。
770年11月6日、「光仁天皇」は「春日宮皇子」を「同族同祖同門同宗の四掟」とする「父の施基皇子」を追尊し「春日野天皇」を追尊した。
「三笠山の野辺」に「宮」を営む、とあり「高円山」に葬送したとあるが、「御墓山陵」は別に「田原西陵」と称され、現在の「高円山の東南、奈良市須山町・名張から真西19.5k」にある。
「施基皇子の祭事寺」は現在の「奈良市白毫寺町白毫寺・びゃくごうじ)」に祭寺があり、「名張」から真西23kの線状点にある。

703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と記しているが、「役務」を与えられたとしているだけで「本領で無かった事」も考えられ、この事からこの近江の開発した「二つの鉱山」そのものが「伊勢青木氏」のものでは無かった事も考えられるがどうであつたのかである。
そこでこの前後関係の経緯を判断して“賜る”をどの様に判断したのかである。
その判断する根拠と成る歴史観は何処にあったのかでこの「文章の意」は決まる。
否、寧ろ、此の頃の文章に云えるのだ。
それは、当時の制度レベルにあったのだ。
つまり、当時はこの“鉄穴・鉄安”とは“かんな”と呼称し、要するに“鉄の穴・鉄の安の事”、即ち、“鉱山の事”で、「土地と民」を以て「封と戸」で功績時は恩賞を賜る仕組みであった。
従って、この“鉄穴・鉄安”は、「鉄と民」が「封と戸」に値するのだ。
当時としては全てこの評価基準が「米」に相当して評価する社会で税とし、その「米」を生み出す「民」と合わせて恩賞は与えられた。
とするとこのあたらしい「鉄」はどの様に評価するかは未だ決まっていなかった事に成る。
これから「鉄の社会」に入ろうとしていた時期であったのだ。
つまり「米」>「鉄」であった。
「紙」も木簡や竹簡に頼っていた時期である。
「紙」は「紙屋院の称号」を与えられて「青木氏族」が開発し「特権」を獲得して市場に貢献したのだ。
そして、今度は「鉄・かんな」であったのだ。
当然にそうすると“「鉄穴院・鉄安院」”の様な「特権」が与えられていたかの問題である。
さて、そこで働く「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」が「戸・民」であって、「鉱山・鉄」はそもそも神道の世界では「山・神」であるので「山を売る事」は叶わず、「売るもの」は「鉄」に及び、これは「土地の米」に値する。
要するに、「封戸」は本来は「土地・民」に替えて「米・民」に値するのだ。
「土地」は原則、神、即ち天皇からの「貸借のもの」であったのだ。
つまり、それまでは未だ正式にはこの「鉱山」による仕組みは初めての事で、「鉱山」は、実質は「貸借」のものであって、その代わりを以て「米」、又はこの場合は「鉄」を「税」として換金して治める仕組みとして「施基皇子の裔の青木氏」は取り組んだのだ。
元来、これが「中国の周の斉」から統治手段として採用し、それを始めて「太公望」に依って治められて「封建社会の原理」と成った。
この社会原理が日本に新しく浸透して来た時代であるのだ。
前段で何度も論じている中国著書の「六韜と三略の戦略」は、「呂尚・太公望・、紀元前11世紀頃」に依って採用されたものであるが、丁度、「唐・618〜907年」の「731年」に「呂尚の記念廟」が建立された時代でもある。
この「新しい考え方」が「大化の改新」に依って「皇位族の者・賜姓臣下朝臣族」に限って採用されたのだ。
その中でも未だ「鉄・鉄穴・鉄安」は余り例に観ず新しかったのだ。
取り分け、「近江の大倉鉄穴」は開発時のものであった。
其の後に需要の爆発で「近江の高倉鉄穴・鉄安」が開発されたとする経緯を持っているのだ。
従って、この“近江の鉄穴・鉄安を賜る”の「賜る」の書紀には「意味」が多く「封建社会」に入る「初期の天皇家の処置」と成り、それを「皇位族・皇親族の青木氏」に遣らせる判断は初めての事であったと考えられる。
寧ろ、その様な時代であった事から都合よく「賜姓臣下朝臣族」に遣らせた、又は遣らせる為に「臣下させた事」も考えられる。
最も「信頼於ける身内の者に委ねる事」の判断が強く働いていたと考えられる。
「蘇我氏の失敗などの事」を含めて「近衛兵」も然りであり、この将来を占う「鉄穴・鉄安・かんな」も他に任せる事は出来なかったのであろう。

そこで「鉄穴・鉄安・かんなの役務」を賜ったのか、この文章の直前の686年に「200戸の封民」を、その直後の704年1月にも「封100戸」を伊勢に加増されている。
「封」を与えられているので、功績としてあるので「鉄穴部・鉄安部の民・青木氏部」をも賜った事に成る。
それが前段でも何度も論じているが「国造」として「青木氏部」に属した「鉄穴部・鉄安部」であろう。
後にこの「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」がこれが後に「鍛冶部・かじやべ」と成った事が記されている。
“686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸”とあるが、原文記載の文章の記述を良く観ると“「・・も」”とある。
つまりこれがある以上は、文章の行から、それ以前にも「初めての封戸」が在った事を示している。
この「686年8月」は「天武天皇の崩御後10月1日」の「大津皇子事件10月2日」があった年の10月の翌日に成る。
この年の8月9日 「実妹の持統天皇」に成り「政・まんどころ」を執り主な政務を皇太子に託す。と成っている。
8月14日・16日 32年間断絶していた日本の元号が再開、新元号朱鳥に成る。
686年8月にも「実兄・施基皇子」に「封」を加増され、伊勢に200戸を加増されたが、これは「持統天皇即位」に依り授かるものだ。

さて、「・・も」のものは何なのかである。
つまり、従って、その前の「686年の前」にも記載は無いが“「・・も」”の表現では少なくとも「100戸程度」は受けている筈である。
それには別に気に成る記述があるのだ。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。とある。
気に成るのは以上の記述である。
「施基皇子」の「没・716年8月」の前の1年7月前に上記の「全封戸」が支給されていたという事は、それまで一切の皇子にも支給されていなかった事に成り、事実もそう成っている。
これは「施基皇子」の「没・716年8月」に関わりなく支給されていなかった事に成る。
それも「伊勢王の施基皇子・遙任・国司代三宅連岩床」にのみならず「全皇子の封戸」にである。
従って、「賜姓」に依って「647年」に「伊勢」に「青木氏」を興した。
そこで、“どの様に「糧」を得ていたのか”である。
これが「・・も」に関わっていると観られるのだ。
この時、「国造」から上がって来る全物品を先ず朝廷に納め、「朝廷の余剰品」を市場に下ろし裁き、この「利鞘」を「朝廷」に納める「部経済」であったが、この「役目」を「伊勢王の施基皇子」は一切担っていたのだ。
これに依って「伊勢王の役料」と「市場放出の令外官の役料」に依って「二つの糧」を得ていた事に成る。
「商い」である以上その仕方で可成り大きいものに成っていた筈であり、朝廷からの務めの役料以上であった事は間違いはない。
その延長線上に「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」が下り「開発成功」とその殖産の生産に及んでいたのだ。
結果として、後の「925年頃」に「商いの二足の草鞋策」が朝廷より「施基皇子の裔」に認められる経緯を持っていてそれ程であった事に成る。
「647年伊勢」に「青木氏」を興してから、「686年の前」までの40年間には、評価に値する世の中に果たした何れも「新しい経済システムの確立」であった。
それは「余剰品を市場放出の成功例」と、この「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」の「二つの成功例」の「三つの功績」があり、「686年の前の記録」では記述が無い事が判る。
“715年1月、二品に成る。
この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”の以上の記述に原因していると考えられる。
つまり、この「三つつの功績」に対して715年まで朝廷より保留されていた事に成る。
故に、これらの「二つの功績」を取り纏めて、“二品に成る”とあるのであろう。当時としては最高位である。
念の為に、「701年に制定した大宝律令」と「718年の養老律令」のこの「二品の評価」であるが、没する「1年半前」にはここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得した事に成る。
注・官位は「政務職」、「近衛」、「令外官」の三つに分けられている。
「青木氏族」は「近衛」か「令外官」のどちらかの「品位掌職」に就いていた。
先祖の戒名や襲名名や 諱号や諡号から間違いなく両方に就いていた事が判る。
これは前段や前記でも論じている通り「令外官の二品・正二位」であった事から「内大臣・現在の特命国務大臣」に扱われていた事を示すものである。
そもそも上級では「国司」までが朝廷より「俸給」を受けていたのだ。
従って、この時、「令外官の親王の二品」は、つまり、「諸王の正二位」に相当するが、「最上位から三番目」で「最高の官位とそれに相当する俸給」を功績として得ていた事を示すのだ。
現実には「親王一品の位」は空席にするのが当時の慣習である。
そこで、「施基皇子」は、最終は、“715年1月、二品に成る。”の直ぐ後に、「元明天皇・在707年8月〜715年10月」に依って「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品」を獲得したのだ。その根拠と成るのだ。
そこで「施基皇子」が貢献したその他の功績の経緯を記す。

689年に「撰善言集」を編集した。
701年に作られた「大宝律令」を整備し運用した。
701年に平城京第一次大極殿を復元した
708年7月に「秩父」より「銅の産出」があり、「和同開珎」を鋳造させた。
710年に「藤原京」から「平城京」に遷都した。
710年に「荷役就民の詔」を伊勢国司に出した。
710年に「古事記」を献上させた。
713年は「風土記の編纂」と「好字令・諸国郡郷名著好字令」を詔勅申請した。
715年には六人の参議の協議で「郷里制」を敷いた
以上の事等の整備に努力が成されたとしているのだ。

これらは経済的には「鉄銅の産出」と、社会的には「律令体制」の確立した経緯とが進み、「大化期からの財政不足」で保留にされていた「以下の事」が実行に移されたのだ。
そして直接的には、“「荷役就民の詔」を国司に出した。の令”が以下の記述と成ったのだ。

結果として、センセイにる個人採決の判断では無く、”「律令」で判断する「大宝律令の制度」”に従った事と、「荷役就民の詔」に従った事」とで、今までの慣習を打ち破り過去の保留されていた褒章・功績も一斉に以下の文章に遺る様に施行されたのだ。
“この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”との以上の記述に成ったのだ。
その前には、“708年1月、叙品し、三品を授けられる。”がある。
つまり、それまでの「功績の評価」を纏めて官位で受けているのだ。
この時の功績評価は、次の「イロハの三つ」である。
一つは、「持統天皇」は、645年〜702年崩御 在位690年〜697年である事から、「持統天皇」と「天武天皇の墳墓構築」とに直接責任者・イとして関わったり、707年6月には、「文武天皇崩御」の際には「殯宮」に供奉・ロし、その後、この「三人の天皇の葬儀と墳墓構築」を指揮担当した事・ハを示す。
前段でも論じた様に「孝謙天皇の白羽の矢」で誕生した「父施基皇子」の「四男」の「光仁天皇・后井上内親王」は、この「三つの功績」を評して「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品・令外官一品位」を追認して獲得したのだ。
つまり「追尊天皇」に成り得た人に成る。

参考として、“「・・も」”に就いて前段での検証で論じたが、上記の「封戸」の全ての積領を算出すると伊勢と近江の「大字」は、4又は5の数授説もあるので仮に5とすると、「伊勢王」であった事から、ほぼ「伊勢全域弱の有効な積領」を持っていた事に成る。
故に、これ以上に「有効な積領」の「封戸」を「功績として与える事」は出来なかった事に成り得る。
従って、これをそれに相当する「品位」に換えて「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を追認したと観る事も出来る。
「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を獲得した事で、「伊勢と信濃の濃厚血縁青木氏族」はその格式を背景に前段で論じた”「色々な事」”が出来たと考えられる。
要するに、「室町期の律宗族」に繋がった「永代の賜姓五役」であったのであろう。

次に、「銅の鉱山開発の疑問・秩父」である。
この時は未だ「伊勢青木氏」は「秩父」までその「経済的勢力」は及んでいないし、且つ、「過去の記載の散見」は一切無い処から、「銅の鉱山開発に関わった者」は誰であったのかは確定する記録が無い。
然し、結論はこの「銅の産出」には一切関わっていない事は確かであろう。
では誰なのかである。
そこで余談だがこの検証の為に、前段でも論じたが「青木氏」と深く長く関わった「連」「臣」「宿禰」と大出世した「大和朝廷系の額田部氏」とは違う「渡来人系の別の額田部氏の職能集団・出雲国臣系」が在った事は記録で判っていて、「出雲国」が「大和国」と合体して以降はその集団は「各地の鉱物の開発と生産」にも関わっていた事は判っている。
史実、「出雲国」から唐に船を出してこの「技能集団」を態々招いている記録が遺る。
「大和朝廷系の額田部氏」も元の出自を質せば、この「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団」からの出自であった事も考えられる。
但し、「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団に鍛えられた大和人」とする説もある。
筆者は、前段でも論じたが「日本書紀等の史書」にも明記の記載がある程に、「天武天皇」が「大和人の全ゆる技能者・官僚族含む」が少ない事を嘆いて、“積極的に招いて大和人を鍛える様に”と命じているのだ。
故に、この事で養成された「額田部系の職能集団・土木」のこの「大和人説」を採っているのだ。
更に、何故ならばこの「大和朝廷系の額田部氏」の当時の分家に当たる「穂積氏」と呼称する「分流集団」があり、彼等は共に“稲の専門技術を以て保存管理して連携して働いていた事”が判っているからだ。
つまり、前段でも論じた様に「大和朝廷系の額田部氏」は、記録から主に「米の干拓灌漑工事」や「地質と地形等の技能技術」を駆使して「墳墓建築工事」や少し後に成るが「墨・硯・砥石・岩絵具等の生活用品の開発と採掘工事」や「遷都時の排水工事」や「神社建設などの基礎土木工事」等にも関わっていた史実の事から「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事が判るのだ。
其の後、「桓武天皇の遷都時・784年・794年」に「平城飛鳥」より遷都への同行命令を拒否して事件を起こして罰せられ朝廷から離れて「伊勢青木氏」がこれを桑名で保護し、その後彼等と連携して生き延びているのだ。
依って、恐らくは、このその後の「銅の鉱山開発・708年」〜「遷都事件・787年」の間は「三大官僚土木業」の一つで「武蔵域の土地の結城氏等」が請け負い、787年以降は「出雲国系額田部氏の職能集団・部制度の強化」に依るものでは無いかと推測される。
その証拠に参考として「魏志倭人伝」によると次の事が書かれているのだ。
それは「出雲国」では「稲作農耕」が良く行われ、その祭祀に用いた「銅剣や銅矛盾や銅鐸などの青銅器」が生産され、「弥生人」が持ち込んだその「中国・朝鮮文化」の進んだ文化が華が咲いたと書かれている。
そして「卑弥呼の邪馬台国」は「狗奴国」と争ったと記され、この「狗奴国」がこの「出雲国・疑問」とし、この「出雲国」は「大和国」に“「350年頃」”に滅ぼされたとする説の「滅亡説」と、「古事記」では逆に「国譲り説」が見える。
筆者は定説と成っている「出雲朝廷」の国が「大和朝廷」と融合したとする説を採っている。
争っていればもっと記録が遺されている筈だが無い。
ところが現在では、「関西の発掘調査」では「縄文人の村」と「弥生人の村」はたった「300mも離れていな地域」に「村」が「共生」で構成され、相互に文化の遺跡品が混在していた事が採掘で新しく判ってきているのだ。
ところが逆に、最近の「九州の遺跡調査」では寧ろ「闘争的民族」が住んでいた事が判っている。
この「狗奴国」は「邪馬台国」の西隣の「熊本県」とする説があり、「邪馬台国」に滅ぼされ、この「邪馬台国」は南薩から来た「太平洋民族」と「南アジア民族」の「二漂着民族」と「薩摩原住民族」の「三融合民族」に依って滅ぼされたとし、「邪馬台国」に戦い勝利したが占領せずに引き上げたとする説に成る。
そして「狗奴国・不戦民族」は中国地方を経て「出雲国」で戦い中部地方を経て「蝦夷国・アイヌ民族」にと到達したとしている説がある。
筆者はこの説を採っている。
それは「出雲国=狗奴国の説」では、「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事の歴史的史実や「魏志倭人伝」は成り立たない事に成る。
「出雲国」は「亀甲・こおら」を「神」と崇め、「狗奴国」は「狗・くま」を崇めている。
そもそも「崇めの物体」が異なり、「出雲氏族集団」は室町期まで「亀甲集団」と呼ばれていたのだ。
「崇めの物体」が異なる事は同一の国ではない事に成る。

この事から、この「350年以降」を契機に「出雲国」と「大和国」は“「国譲り」に依って融合して行った”とされているのだが、この「国譲り後」のこの専門知識を有した「銅の鉱山開発」に関する時期は、これより“「704年」”に「大和国系額田部氏・大和人」の工人に依って「鉄」が「近江・大倉・書紀」で発掘されていたが、再び、そのすぐ「後・4年後の関東」で“「708年」”に「出雲国系の額田部氏・出雲人」の工人に依って「銅」が「秩父」で発掘されていた事に成るのだ。
この「額田部氏」に付いては間違いを起こしやすいのだ。
丁度、この708年に「大和朝廷」が「関東」を何とか制圧下に治めた時期であって、当にこの「708年・出羽国・国府の設置」の時期でもあり、その統治下に入った「秩父・武蔵」では要するに「制圧直後・358年後」に「銅鉱山発掘」と成っているのだ。
この経緯では時系列の整合性が採れる
余談ではあるが、従ってこの「語る処事」は、関西では「703年の近江で鉄鉱山開発」を、”統治下に入った関東では当時に「708年に銅鉱山開発」にも直ぐに入った”と云う事に成るのだ。
それだけに、当時は、「鉄」は勿論の事、“銅の必要性も高まっていた事”を示すものだ。
つまり、青木氏が命じられた近江での「大和国系額田部氏・大和人の工人による鉱山開発」は「関東」では無理であり、元より彼等の本職である「上記のイロハの墳墓建築」で「施基皇子」と共に桑名で関わっていたし、従って其処まで「彼等の活動範囲」とその詳細は及んでいなかった事にも成るのだ。
それ故に、中部域から東の関東域では「額田部氏の子孫」は遺していないのだ。穂積氏は中部関東間である。
前段でも論じたが、「施基皇子の伊勢青木氏と共に運命共同体として生きた事・桑名」により当然の事と云えば当然の事ではあるが、江戸期に成っても関東は疎か中部域以北には「彼等の痕跡」は全くない所以なのだ。

話は戻って、上記の“「施基皇子没・716年」の「1年半前」には、ここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得”していた事に成るが、この“「令外官」”としてその後も身内の「嵯峨天皇」に依って「皇親族」を外された立場ではあったが、「令外官の上記の品位」は一度与えられた義理は外れる事は無く、続けて密かに「軍務処」や「学問処」として任命追認され、「社会の状況」を「献納・定期」を機会に「天皇」に伝えていた事を前殿で論じたが、この「密かな役務・令外官・一品」は明治直前まで務めていた事が「青木氏の資料の行」で読み取れる。
それはつまり、この「上記の事」は「献納・朝廷」と「冥加金・幕府」の「裏打ちが在った事」にも成る。
この事から「公家や貴族を含む上層階級」の間では、未だ「青木氏族」に於ける「五戒相伝の伝統」=「賜姓五役の伝統・令外官の親王の一品・最高位」の格式は、この時代に於いても家康が、「伊勢の事お構いなしのお定め書」で認めた事の様に「衆知の事」であった事を意味しいている。
要するに、これが、つまり、「戒」が世間に一般化していた事を示す。
この「格式の号」に代わって、「浄土宗知恩院派の白旗派」では「戒」に「名」を着けられて「・・の号」として持つ事も「格式の一つ」と成り得たのだ。
これが一般化した証拠として「戒名」として「戒による格式」は無くなった事を示すものなのだ。
「朝廷様式」を重んじた「鎌倉期・安定期」では、この“「律宗族の格式呼称」”は、何故か無く成った、又は消えた、消れたが、故に逆に格式を取り戻す樽に「室町期・騒乱期」には、再び「律宗族と呼称しての格式」を再興された所以の一つと成ったのだ。
それには、二つ考えられ、先ず一つは、「北条氏」に執っては「西の文化の発展」は好ましく無く、且つ、「各種の宗派の勃興」で「浄土宗だけの格式化」は好ましく無かったのだ。

以下にその号の詳細を記する。
・1 「院の院号」は、「門跡院」に代表される様に、「退位した天皇」、或いはそれに相当する立場の「者・皇子皇女と皇位族・皇親族」に与えられる「最高格式の号」である。
・2 「殿の誉号」は、「院号」に次ぐ「五戒相伝の族」にあってそれに基づく「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」に与えられる格式である。
「誉号を持つ事」に依って「・・殿」と呼称され其れを表す「殿」を建立できる。
この「殿の語源」は、そもそも「左部首の象形」は「椅子」で、それに右の「股」を組み合わせて要するに「椅子に座っている人」を指し意味する。
つまり、「皇位や天皇の高位の者」であってその人が住む「館」を意味する。
況や、「誉号」を持つ事で「殿・館に住める事・名誉な館」を意味する。
・3 「居の戒号」は、「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」が持つ「慣習仕来り掟」の「伝統」を有した者に「格式号」として与えられるものである。
・4 「士の位号」は、「貴人・皇位族と高位族」の「天皇」より与えられた「身分」を号として表す「格式号」であり、そもそも「天皇」に仕える「侍士・近衛の士」の「格式号」である。
要するに、この四つは全て“「住まいの形」”であり、中でも古来の「士の語源」として、“地上・つまり一に+を立ててこれを杭を立てた様”として使われていた。
後に、この「様」が「戦士階級の身分」を表す「儀器」と成ったのだ。
それ故、「兵士の意味」に用いられる様になったもので元は物を支える「杭」なのだ。

従って、「住居の環境」を「院→殿→居→士」の「形」を「格式化」して順序良く並べたものである事に成る。
「士」の「杭」が集まると「居」に成り、この「居」が多く集まると「殿」に成り、「殿」が多く集まる所を「院」と云う事だ。
つまり、全てがこの“「杭の数」”に由来して「階級格式」は出来ている定義と成っているのだ。
もっと云えば、“「杭の数」”は“「士の数」”に由来している事に成るのだ。
況や、“「士の数」”はその「階級」に成り、この「階級の数」は「格式」に繋がるとしているのだ。
この格式数のそれを以て「号」とするとしているのだ。
この逆の事も然りであり、これが「古代社会の社会定義」である。
更に詳細には、当時の「青木氏の立場格式」を理解するには次の様に成る。
例えば、以上の事は次の様に成る。
・1に付いて、「二つの青木氏族」に執って云えば、「院の号」は「清光院や西光院」である。
「光仁期の桑名殿」の「浄橋や飽浪」に与えられたのは「美濃の清光院」や「伊豆の伊勢信濃青木氏の融合族の清光院」等がある。
「清光寺と西光寺」が「清光院と西光院」と成り得たのはここにあるのだ。
・2に付いて、「施基皇子の冠位の浄大一位」等がある。
・3に付いて、「賜姓族の賜姓五役・令外官」や「皇位臣下朝臣族」に課せられた「9つの縛り」等がある。
・「居の語源」はそもそも「古の古いもの・固い」と「戸・家」との「意味の組み合わせ語」の語源から来ていて、初期は「古・ふるい」の「者や物」に使われていたとされる。
つまり、「古い戒め・伝統・慣習仕来り掟」の「者物・伝統を持つ氏族」と云う事を意味している。
・4に付いて、「官位」の「正一位〜正三位」や「伊勢王や信濃王」の「役職・位」等がある。

この様に「古代密教の浄土概念を持つ教え・導き」を如実に表す「院殿居士」の“「院」”は、「格式の最上位の位置」にしてその“「号」”に値すると云う事に成る。
当然に格式を持った時点で「生前」でも持つ事は当然とされたのだ。
況や「号を持つ事」が出来るそのものがそもそも「高位格式の表れ」であって、誰でもが持てる「号の呼称」では決してなかった。
この所以を以てこの「院」と「号」の「格式呼称様式」は、古くは「皇位族・貴人」にのみに付けられていた事になるのだ。
極めて「墓石・砂岩、又は青石」とその「古き墓所の上記の刻印」の二つを観る事で歴史の隠し得ない「真の由縁」が判るのだ。
この「仕来り・各種の号の呼称」が変化し一般化して平安末期から鎌倉期頃に掛けては「浄土宗に信仰心が篤い事」、且つ、「寺院や地域社会への貢献に優れた人達」にも贈られる様に成ったのだ。
然し、この「一般化した仕来り」をこの“「律宗族」”として改めて格式化して復元したのが室町期であって、この「一般化し変化した慣習」を嫌って「古来からの元の仕来りを維持している極めて少なく成った正統な氏族」に対して、要するに“「律宗族」”として称して改めて区別した事に成るのだ。

但し、現在では最早、上記した「格式や伝統」に対して無関係に「浄土宗に帰依する立場のある人」に贈られて再び「平準化・一般化」したのだ。
所謂、金銭を出せば、「院殿居士・白旗派」以外の「院誉戒位」を与えられる「消えた格式呼称」と成ったのだ。
現在では「院殿居士・白旗派」もこの「伝統の格式」が「白旗派」ではなくても「金銭」で買える状況と成って、要するに最早今では「白旗派」は無くなり忘れ去っているのが現実である。
況や、「院殿居士・白旗派」の「院」のみならず「律宗族」を如実に表現している「呼称の存在」も知る人は最早、「歴史上の事」として無い。
“「白旗派」の「院殿居士」”とその他の“「知恩院」の「院誉戒位」”とには、「・殿居士」の語と「意」が異なる。
「誉」は「ほまれ」であって前提条件として「誉」と成り得る「殿」を持つ事に限定されず、単に「誉・ほまれを持つ事」を許された者に相当する。
「特別の立場・格式」に由来せず限定せずに「誉・ほまれ」は得られる。
要するに一般化したものと成ったのだ。
「戒」とは、要するに「いましめ」であって、そもそもその族に「慣習仕来り掟の伝統」を既に有している事が前提であって、それを元にして「戒め・いましめ」が起こり罰せられたり行動を制したりする事が起こるが、その範囲に無くても「戒」の号は無関係に得られた。
「位」とは「官位の八位」までのものを云うが、次の三つに分けられ更に実務は「職掌」に小分けされていたが、次第に「名目の職掌」と成り、資格外や対象外の者もそれこそ実務の伴わなわない「名誉職」と成り得たし、朝廷も金銭獲得の為に与えた。
その結果、この「位」も「誉・ほまれ」の一つとし「二つの位」が起こったのだ。
言うなれば、「慣習仕来り掟の伝統」の無い「誉」も「戒」も「位」も、「誉」=「戒」=「位」の関係にあって形骸化していたのだ。
参考として次の「三つの官僚機構・大宝律令」から成り立っていた。
「官省職寮司の高官吏・政治」
「坊監暑台府国司の中堅官吏・軍治」
「官所職寮司府使の令外官・経済 特命」
上記の「三つの官僚機構」に依って授与されていた“「知恩院派」の「院誉戒位」”に、「院殿居士」の“「杭の数」”の「原理に由来した階級格式」の「定義」が存在せず成立し得ていなかったのである。
つまりは、この現象は早くも平安期末期から始まり「幕府社会・第二の姓武士」に成って「西の朝廷の縮小された三つの官僚機構」の中では、最早、「慣習仕来り掟の伝統の原理」が働か無く成り基より形骸化していたのだ。
これは「青木氏族」に執ってこれは「重要な歴史観」なのである。

故に、「白旗派の律宗族」を如実に表現している「呼称」に付いて更に論じて観る。
以上が「白旗派・知恩院の相伝・五重相伝/五戒相伝」であるのだ。
ところが、現在においても、「白旗派・知恩院派」が「浄土宗・権威付け」と定められてはいるが、これに納得せず、「浄土宗」には元々「14派」もあって、「流派争い・主導権」が矢張り続き、統一されずこの流派に依ってもこれ以外にも他にも色々な「号の格式」を使っているのだ。
其れを「重要な歴史観」として次に参考として一応追記して置く。
これは「白旗派・院殿居士」であったかの「判別・格式判別」に使えるだろう。
先ず、“「知恩院」の「院誉戒位」”では、流石に「最高格式の院号」の格式には変化は着けていず使わずにいる。

次は「誉号」では、浄土宗僧侶のみにならず、「五重相伝を受けた檀家・信徒」にも他流派でも授与されたが、今日では得度を受けていない人にも与えられる様に成った。
又、取り分け、「浄土宗の主流派・現在でも主流」であった「西山派」では、「授戒・得度」を受けた人には“「空号」”が与えられ、更に“「道号」”も着けられる様に成った。
「名越派」では“「良号」”が与えられている。

「戒名」はそもそも「仏教」に帰依したものに付けられる「忌名・いみな」の名前であって、本来は出家して得度者となった時に与えられていたものだ。
白旗派は帰依する事で得度したと認められ、その院殿居士を生前手も獲得できたのだ。
その前提と成ったのが朝廷から与えられた格式にあってそれが得度を得たとされたのだ。
其れだけの社会への貢献を果たしたと見做されて得度を得たと考えられたのだ。
当に施基皇子の様にである。
故に、後には「出家者」に限らずとも「在家の人々」もその前提に在れば形の上で「仏門」に帰依し「授戒」を受ければ授かるようになっていたのだ。
「授戒」に限らず室町期中期頃から「第二の姓族」が下剋上で勃興し格式を獲得する為に莫大な金銭を以て帰依し一般化して多くの人はこれを使っていたのだ。
莫大な金銭を以て得度したと評価される様に成ったのだ。
この帰依が浄土宗であっても先祖の格式云々に限らず事の次第では死後の忌名としても使っているのだ。
最早、「格式」では無く「金銭」で評価する慣習では、これでは「忌名」とのみならず判別の歴史観としては何の意味も持たない事に成ったのだ。

「位号」たけは、他の流派も使うが「年齢や性別」、「信仰心の篤さ」等によって付与されていたが、中でも「禅定門・男」や「禅定尼・女」のこの「位号」は、そもそも「浄土宗に深く帰依した人」にのみ付けられた「格式称号」ではあった。
然し、「白旗派」の「居士・男」や女性だけが持ち得る“「大姉・女」”に次ぐ格式とされていた。
要するにこれは唯単に格式では無く「信仰者の対象を広める事」で細分化していったのだ。
ところがもともとは上記の通り「五重相伝の受者/五戒相伝の格式保持者」の「格式氏・公家・四掟範囲」に限って与えられていたが、現在ではもともと数少ない「限定的な白旗派以外」には見られなく成っている。
「朝廷」が認めた「正統な氏・18氏/48の存続」が、下剋上で潰され「白旗派」に帰依していた「数氏・青木氏族等・居号」に限られて始末している現在である。
然しそれは、その「格式の有無の存在」は意味をなさなく成っている。
ここで、歴史観として忘れては成らない事は、何度も論じている事ではあるが、この「仏教・古代浄土密教」としての「律宗族の五戒相伝格式付け」の裏には、「神教の皇祖神の子神の祖先神」の数少ない「神明社族」であると云う事が含まれていたのだ。
所謂、その「基盤は神道・祖先神」であって、且つ、「仏道・密教浄土」の「二つの路」も持つと云う「特異な立場」を保持していたと云う所以にあった。
それ故に、この「二つの路」にはこれを保つ為には「戒律と云う厳しい伝統」を頑なに室町期に成っても未だ保持していたと云う事に繋がるのだ。
「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族」の関係式が室町期に成っても成り立っていたのだ。

そもそも、「律宗の族」の「本来の意味」は次の通りである。
「律」の語源は「慣習仕来り掟の伝統の戒」にある。
「宗」の語源は「物事の始まりの塊」を意味するにある。
「律」+「宗」=「慣習仕来り掟の伝統の戒」+「物事の始まりの塊」
以上の関係式が成立するのだ。
つまり、この「二つの組み合わせ語」の意味は、所謂、“「物事の始まりの塊」を「慣習仕来り掟」として、それを「戒めの伝統」として受け継いで行く”の「族」と成り得る。

必ずしも、「宗」とは、今では「仏教」と成り得ているが、確かに「鎌倉期以降」は「仏教」が興隆してその「仏道」もその一つとして成り得たが、「平安期前後」までは、神道も含んでの語意であり決してそうでは無かった。
依って、奈良期以前からの「神道・祖先神・社」は、「仏教」よりも先に概念そのものが「律+宗」と成り得ていたのである。
言わずもがなそれを奈良期から「伝統」として維持して来た代表する「賜姓臣下族の青木氏」は、「神明社の神道」を主軸としながらも、この「古代仏教の白旗派・密教原理主義・即身成仏の大日如来の伝統」を「氏の行動指針」として維持して来たのだ。
この「時期」に付いては前段でも論じたが全ゆる記録や資料から読み取れる範囲では初期は「光仁天皇期」であるだろう。
「光仁天皇期」と云えばその「経緯・孝謙天皇の白羽の矢」からも「仏道の導入」は大仏殿の所以もあって社会的には止むを得ない事由があった事は否めないし、将又、「出自の氏」としても「二足の草鞋策」を敷いている「柔軟な考え方」から考えても頑なに拒む事はしなかったのであろう。
その「証拠」に「伊勢」には「神明社」が「12社」あるが、その時の「名残」としてこの全ての「神明社の後ろ」には「仏道に関ったある地名」が加えられていたのだ。
現在でも幾つか遺されている。
これは「神明社全488社の内の伊勢の神明社」にだけに限る事なのだ。
但し、これが上記した様に「平安期初期」にも「朝廷」は世間から「政治的立場」を質されて、矢張り、“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”と“コメント”を発した所以にある。
この「背景の経緯」には、「聖武天皇の大仏殿建立」に関わっていたのだが、この「姿勢の概念」を引き継いだ「光仁天皇」が、「出自元の青木氏」がそのその「神明社」を守護神としながらも、且つ、「神明社の神道族」で在りながらも、「古代浄土密教の浄土概念・大日如来概念・天智天皇賜姓時の賜物」にも独自に確かに帰依していた。
その後、それを「桓武天皇」や「平城天皇」が慣れ親しんだこの「生活環境の状態」を黙認していたのだ。
この「聖武天皇の大仏殿の件」もあり、更には「孝謙天皇の白羽の矢の事件」の経緯もあり、「ステイタス」とした「賜姓物の三つ」の内の一つの「大日如来坐像」は、「天智天皇の賜姓物の件」もあり、「清光院の建立の件」もあり、最早、ありと全ゆる事が簡単に言い逃れ難い状況に陥っていたのだ。
所謂、「皇親族」であったのだ。
依って、ところがこの事で「出自元の伝統」を「二人の天皇」も追認したかに見えて疑われ、それが「天皇家の疑い」と成って「政争の道具」として持ち込まれたのだ。
この「解決策」は唯一つ、この「疑い・政争の中心」と成っている「伊勢施基皇子系青木氏」を「皇親族・賜姓族から外す事」にあったのだ。
これが藤原氏外の同じ出自元の「桓武天皇派と嵯峨天皇派の争い事件」の「薬子の変」であったのだ。
上記の「天智天皇の賜姓物」に発端し、そこから遂には“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”の“コメント”で解決したのだ。
「青木氏側」では、前段の論調である様に、この時、天皇家に寄り添う事なく、“「四掟・妻嫁制度・嫁家制度等の変革」”で“「女系氏族」”を構築して貫いて完全に矛先を躱し、“「商い」”も営み最早誰から観ても「天皇家」と一線を画して逃れたのだ。
この時が「嵯峨期初期頃」であるのだ。
但し、この時でも秘密裏に動く「永代の賜姓五役であった事」から“「令外官」”だけは頑なに維持していたのだ。
その為にこれが「室町期」にもこの二つの「神道と仏道」の「律宗の族」と成り得ていて、故を以て「室町幕府」と「天皇・朝廷」から追認された由縁と云う事に再び成り得たのだ。その様に持ち込まれた観がある。
「神仏」の「奇異な二つの文化」を何と“「伝統」”として取り入れ「融合」させて来たのだ。
その「全ゆる点に尽きる処」は、「永代の賜姓五役であった事・令外官の概念の伝統」が再び”「律宗族」”と成り得たのである。
“「律宗族」”を維持させしめた根幹は「柔軟な思考力」を兼ね備えた“「商い」”にあったろう。

歴史的に観ても前段の論の通りこれがの信長・秀吉等に敵対され、明治初期には薩摩藩などから「”天皇の格式を脅かす族」として存在する事を否定されて攻撃された。
我々に口伝でも伝えられる程に、「格式存在族」を否定し同調する世間からも「密教である事」さえも「攻撃の言葉」を受けていたと伝えられている。
遂には、現実に各地で何度も「焼き討ちや打ち壊し・記録」を受けながらも「青木氏族」の方から明治35年頃に「自発的解体・分散策に至る事」で事は治まった。
要するに摂津に移す事で伊勢での伝統を消し去ったのだ。
「当時の環境」としては「青木氏族」に執っては、“それなりの利する処あり”として「幕府等との工作」で対処したのであろうが、後勘として筆者の思う処では、この“「律宗族の騒ぎ」”は結果として”何んの野心も無い「青木氏族」に執っては「利する処」は何も無かったと考えるし、寧ろ「害の方」が大きかったと観ている。
唯単に“史実は史実だけ”でありそれ以上の美化論の事は無い。

念の為に、「現在の経済機構」で云うとすれば、「青木氏族」とそれを実行する「商い」の「基本定義」は、“「市場の独占価格・A」を形成する為に「生産から販売・B」までを統制して「グループ化・C」を施して、それ根幹とした「殖産カルテル・D」を基礎にした「自由活動性・E」を制限する「トラスト・F」を構築した「コンツェルン・G」であった”と考えられる。
要するに、これを「自発的解体・分散策に至る事」にしたと云う事だが、結論は“「グループ化・C」だけの部分を解体したという事”に成るだろう。
世間の豪商もその様にした。
百々の詰まりは、「室町幕府と朝廷」が「律宗族・1450年頃・紙文化・」として呼称し直して権威化して近づいたのは、ここで生まれた“「巨万の富」に魅力”があったと後勘の筆者は観ているのだ。
それは前段で論じたが、「鎌倉期の徳政令・永仁129年・武士」と、「室町幕府の徳政令・八回以上・武士」と「江戸期の棄損令・武士」と「明治初期の債権放棄令・民」に影響を受けた事が判っている。

この「青木氏コンツェルン・伊勢屋」が持つ「全ての債券と担保」に対して「政策」に依って「四期の放棄令・徳政令」が発せられ「全債権」は霧消に期したとされているのだ。
取り分け、中でも特徴的なのは「室町期の頻発する徳政令・八回以上」で「室町幕府辞自体」に及ばず「各地の国」に於いても頻発させて「財政」を保とうとしたのだ。
「徳政令幕府」とも云えるこの状況では、「格式の律宗族の再呼称」はこれと控えに担保したとも観ているのだ。
前段でも論じたが、「額田青木氏の三河の南下国衆論」で論じた様に、その論理で云えば、「江戸期の伊勢お墨付き・お定め書」も同じ「裏事情」はここにあったのかも知れない。
「青木氏の資料と記録」に明確に遺るのは、「明治初期22年から28年」に架けて何度も発せられた「法律・28号等に依る債権保放棄の令」である。
更にこれに関わる「担保・土地」の「秩禄処分」と「地租改正」と「累積債務処理」の「放棄令」が出たのだ。

前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。)

> 「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」に続く。


  [No.390] Re:「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/06/25(Fri) 15:08:22

「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」の末尾

> 前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
> これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
> 幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
> 斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
> 筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
> 「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
> 殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
> 当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
> 況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
> 故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
> これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
> これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。


「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」

さて、「律宗族論」を続ける。
この「歴史的な詳細経緯」を青木氏の歴史観を獲得する為にももう少し論じて置く。
「詳細な当時の経緯」であるが、更にこの「律宗族の意」を前提に、世の中に「仏教」が興隆し始め、「皇祖神の神道」を前提としていた「天皇家・孝謙天皇期」までも、のみならず「民」にまで深く浸透していて、この「仏道の概念」を「神道の朝廷」もこれを見逃す事が出来ず「受け入れを認める事」に迫られていたのだ。
その「受け入れ方」で悩み難しかった。
「吉備真備・公家・学者・朝臣・正二位・右大臣」に「聖武天皇の第一皇女・阿倍内親王の個人指導者・家庭教師の役割・母は光明皇后」」を受けて、天皇自らも個人としての心の中で、この「仏道の概念」に傾注していたのだ。

因みに、この「光明皇后」は、「宿禰族の橘の諸兄」の「母・三千代」が「藤原不比等」に後家として嫁し、「光明」を産み、その「光明」は「聖武天皇の皇后・光明皇后」と成り、「阿倍内親王」を産み「女系皇太子」を経て「孝謙天皇」と成る。
そして、この「橘の諸兄の母・三千代の子」から「宿禰の橘青木氏・現存」が同時に出自していて、この「光明皇后」とは「従姉妹関係」に当たり「孝謙天皇の祖母の里先」であって「所縁の深い関係」にあったのだ。
それ故に、「内親王と皇太子の時代」に密かに何度か「伊勢松阪の里」を訪ねたとする記録があり、行動力のある皇太子であったとされ、全ての事に興味を持つ性格の「阿倍内親王・皇女・皇太子」の時にも、何度か“「伊勢松阪を訪ねた」”とする「青木氏の口伝・逸話」の「史実・761年8月29日」もあり、この説としては故に可能性は低いと観られるが「孝謙天皇の白羽の矢」が「伊勢青木氏」に来たとする説もあるのだ。
故に、「姉の井上内親王」が嫁ぐ直前まで務めていた「斎王」であったが、その「斎王の面倒」を「多気郡の斎王館」で看ていたとする「伊勢青木氏」の間にも面識が浅からずあったとされる。
故に、「54歳にも成る白壁」に「伊勢の斎王」も務めたする「井上内親王」を嫁がせたとしている「伊勢の資料の説・逸話説」である位なのだ。
「阿倍内親王」も天皇に成ってからは記録的に初期に一度伊勢行幸があり、その天皇に成る前にも当然に松阪や伊勢神宮を何度も訪ねていた事に成ろう。

この事に関しては何も無しに突然に「姉の井上内親王・母は県犬養広刀自」が嫁したとする事」では、少なくとも無かった事は頷ける。
つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、「孝謙天皇」が「通説の天智系天武系説」に係わらない「女性・感情主観」である限りに於いてこの「里絆説」を重く見ていた可能性があるのだ。
これには否定する要素や疑問は何も無い。
そもそも、「青木氏族」が「二つの神道と仏道・律宗族であった事」が、「伊勢青木氏と天皇家の間」に「感情のそれを遮るもの」は嵯峨期までは何も無かったのでは無いか。
確かにこれは「最もな逸話説」であり、普通であれば全体を占めている「天皇家族の天武系」に傾く筈の処に、「家庭教師でもあって政治の場にもあった吉備真備」も敢えて「反対」をした記録が無いし、逸話的には陣頭に進んでいたのではないか。

それには、それに「相当する格式」が無ければ無理であって、前段で論じた「二つの神道と仏道・律宗族」との「奇異な二つの文化」には、上記したそれぞれの納得させるだけの「独特の格式」”と云うものが「青木氏」には潜んでいたのだ。
そこで「朝廷」は、この「“異なる独特の格式」”が社会に浸透して仕舞って存在する以上は、社会が二分する危険性が潜み、“これにより混乱を招く”として、先ずその「前提」と成るこの「統一した格式を定める必要」に迫られていたのだ。
其れが「伊勢青木氏の裔系の天皇家」であったとすれば、問題は無い。
然し、「川島皇子の後の裔系の近江」を始めとして「天武系」には、「天皇家」であったが所以で「仏道・律宗性を取り入れる事」は出来ず、元々、その「片方の仏道・律宗性」は無かったからであろう。
何故ならば、その「朝廷の採った策・方法」は、「古来からの神道族」と「概念・格式」の異なる新しい「仏道族」との間に「決定的な争い」を起こさせぬ様に、歴史の経緯は先ず融合させようとしていたのだ。
その史実としての根拠には次の様な事が最近発見された。
既に、「仏教導入」に対して「蘇我氏派の賛成派」と「物部氏派の反対派」の二派に分かれて「激しい争い・政争」を起こしていた事は史実なのだ。

ところが念の為に注釈すると、「最近の研究」では両者ともに裏では「神道」を中心としながらも「仏道に帰依すると云う姿勢」を採っていた事の「証拠」が文献や仏像などが大量に発見されているのだ。
然し、「政治の場では違っていた姿勢」を執っていた事が判明していて、現在ではこれが「定説のイ」とされる様に成っている。
「蘇我氏と物部氏の争い」は表向きの事であった事に成る。

故に、その事を考えると、上記した様に「阿倍内親王・孝謙天皇」の「青木氏への白羽の矢の突然の行動」は、「神道族と仏道族の格式の壁が天皇家以外には無く成っていた事」に成るのだから、「賜姓族で皇親族の伊勢青木氏との間」では、「背景・青木氏の逸話の里絆説」としては普通に納得できるのだ。
要するに、前段でも論じた様に、「天武天智系説の通説」<「青木氏財力とその格式の利用説・律宗族」<「孝謙天皇の里絆説」との関係式があるが、「神道族と仏道族の格式の壁」が実質無く成った現在では、「青木氏財力の利用説」=「孝謙天皇の里絆説」の「総合説」に傾いている。

故にこれを解決するが為に、「淳仁天皇の時の策・第一段階」と「光仁天皇の時の策・第二段階」と「嵯峨天皇の時の策・第三段階」の「三度の策」が参考にしながらも執られようとしたが、「神道族と仏道族の格式の壁」に付いては相互に参考にしながらも、「夫々の融合の策」には「大きな違い」があった。
「神道族と仏道族の格式の壁」の「融合の手段」としては次の様な政策を採ろうとしたのだ。
この「三つの策」が嵯峨期には「新撰姓氏禄」として反対を受けながらも強引に世に出された。
この「三つの統一する内容」としては、「朝廷」は全国に分散していた世の中の「氏族に相当する者・認定氏・全910族」の先ず「拾い出し・第一段階」をした。
それを「4つの分類・第二段階」に分けた。
それに「身分と格式」を「第三段階」に分けそれを系統化して与えようとした。
この様に「矛盾」が生じない様に融合させようとしたのだ。
然し、史実は、この「第一段階から第三段階」までその先の結果が「社会に与える利害」を見通せられた事から、どの階級からも「猛反対」を受けたのだ。
そもそも、「選出した編者衆」からも「猛反対」を受け無視どころか纏めようとしていた案文をこの三度共に編集中の案文が隠されてしまうと云う破目に成ったのだ。
これを「約40年弱の間」に行われたのだ。
「三つ共」にその利用しようとする「編集目的」が違うが、結果として「格式を決められると云う事」には同じであり、世の中はそれを嫌ったと云う事に成ろう。
元々は「世情の中で身分格式の社会」でありながらも、それを「書類で正式に決められる事」に反発したのであろう。
そもそも、それまでは「冠位十二階の制」や「八色の姓の制等」で身分格式を決められてはいたが、「格式身分」であって「神道仏道の融合」の自由を規制するものでは無かった。
つまり、既にこの時代に於いても「神道仏道の融合」は「自由であるとする概念」が社会全体に根付いていたのだ。
「重要な事」は「神道」に於いても「仏道」に於いても「宗教概念」は違えどこの事には差異は無かったのだ。
結局は、「前二つの編集」は完全に失敗に終わり、結局、「嵯峨天皇」は「未完成の案文」を編者衆が逃げる中でも強引に社会に出してしまったのだ。
然し、「完全に格式化される事」を嫌う「世の中の反発」を激しく招き、この為に編者等が「雲隠れすると云う事態」が起こり結局は頓挫したのだ。
それが「新撰姓氏禄」であり、その原本すら隠されたのだ。
そもそも、何も「諡号範囲」の「新撰姓禄」でも良かった筈で、そこに「数少ない朝廷認定の氏禄・真人族48氏・全体の1/20」までも態々反対の中で敢えて付け加えたのだ。
其処には初めから「八色の姓の制」などでその「格式の程度」は判っている「真人族」を、何故、付け加えたのかであり、ここには“見逃せない意味”がある。
そしてそこで、「嵯峨天皇」は更に「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に変更して勢力の財力の持った「出自元の伊勢青木氏・祖父の実家」を「単なる皇位系の氏族」にして仕舞ったのだ。
この「嵯峨天皇の行動」は、「青木氏の歴史観」から観れば“何か矛盾している行動”である。
普通であるなら、「神道仏道の融合策」を成し遂げた「出自元」であり、且つ、自ら編集した「新撰姓氏禄」にも「真人族」の「敏達天皇四世族系(春日王裔系)の天智天皇四掟一門族」と指定しながら、「賜姓族」から外して「単なる皇位系氏族」にしたのは矛盾であり、寧ろ、「源氏」を賜姓するにしても、これだけの条件を揃えている「賜姓臣下朝臣族」であるのなら「賜姓源氏」に対して、それに代わる“模範と成る賜姓族だ”と権威着けるべき事であろう。
「政治の場の策」としてはそう成る筈だ。
だから、「桓武天皇・平城天皇派」と「嵯峨天皇派」に「激しい戦いの政争」と成る醜い見っともない「一族争い」が起こったのだ。
「出自元の伊勢と一族の信濃の青木氏」は困ったであろうが、然し、「桓武派」に明確に着いたのだ。
後勘から観ても起こる事はこの程度の事は読み込めるし、事は必然であろうし「後勘の者」としては、「新撰姓氏禄」が「源」と成る「嵯峨天皇の一連の策」はこれは「嵯峨天皇の失政」と観ている。
「賜姓した五家五流の青木氏の模範の存続」を其の侭にして「弘仁五年の詔勅と禁令」の「賜姓源氏」を行い、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高めた方」が「神道仏道の社会の混乱」は免れた筈である。
其の上で、“「9つの縛り」を出すべきであった”のだ。
そうすれば、“「矛盾は生まれなかった」”し、「伊勢信濃青木氏」は朝廷から大きく離れて行かなかった事に成ったのだが、結果として最終は「平家・たいら氏」も潰れたが、自ら進めた「源氏策」を潰す「源平戦」へと繋がって行ったのだ。
最後は、「天智期の大火の改新」で生まれた坂東に配置された「元第七世族の平族・ひら族」が天下を取って仕舞ったが、その後もそれが「河内源氏と坂東八平氏」の「一つの融合裔系の足利氏」の室町期まで続く結果と成ったのだ。
青木氏の歴史観かの後勘から観て「嵯峨天皇」は自分で自分の首を絞めた事に成ったのだ。
つまり、結論として「孝謙天皇」が執った「神道仏道の融合の策」が、結果として「嵯峨天皇の矛盾を孕んだ失政・美化されている」で「成功の方向」には向かなかったのであると「青木氏の歴史観」では説いている。
問題は、「嵯峨天皇の跡目」を継いだ「仁明天皇・ここまでは青木氏の血縁の出自元」は、「嵯峨天皇の子」であり「修正」は無理であろうと思われたが、この修正を敢行したのだ。
「桓武天皇の子」の兄の「淳和天皇・在位10年」がこれを修正しなかった事にある。
故に、その後の「賜姓」は乱れ、正式には11代であるが、賜姓無しの勝手に名乗った源氏族を加えると20位上にも上る事と成り、元々、「9つの縛り」を護らなかったが「賜姓」そのものの意味は無く成るのだ。
たった一つ真面に遺ったのは「清和源氏」だけであり、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高める策」と云う「政治目的」は霧消する事に到ったのであり、「仏道が当たり前の社会」と成って仕舞ったのだ。
「仁明天皇の執政」はこの事に気づいて「証拠」である。
結局は、この「失政の流れ」で「朝廷の力」は弱く成って仕舞い、結果として「神道」は「青木氏・律宗族と呼ばれる」にしか「伝統」されず、「9つの縛りと融合」を護らなかった「鎌倉幕府へと移行する事」に成って、挙句は「融合ところの話」では無く成り、「神道」は社会から消え「第二の姓族が発祥する事」と成ったのだ。
況や、「神道が消える事」は「朝廷が衰退する事」に成り、伊勢と信濃の青木氏が支える神明社だけが遺る結果と成った経緯である。
そして、遂には“「子神の祖先神の神明社・青木氏」”の“「親神の皇祖神の伊勢神宮・天皇家」”の事も忘れ去られる結果と成って仕舞って、江戸期に成って遂には「青木氏」から「祖先神の神明社」を剥奪し、その結果、荒廃した「神明社」が明治期に成って「天皇家の守護神」と、“誤解される結果”と成って「子神と親神」が同一と成って仕舞ったのだ。
そもそも「天皇家」には“「皇祖神」”と云う「天皇家独自の守護神の神」があったのだ。
「青木氏の各地の定住地」には「神明社」が多いのはこの事に依るが、唯、本論の「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の「神道仏道の融合の策」に依って、そのそもそも「出自元」が、“祖先神の神明社であった”とする事から、その血筋を受け継いでいる天皇家とすれば、「皇祖神の伊勢神宮」でありながらも「祖先神の神明社とする事」にはその一理は確かにある。
唯、それにしても「青木氏の血流の血筋とするの根拠」は、遺伝子的には、精々、「光仁天皇」から「仁明天皇」までのものであり、「四代目の六人」とされるし、「祖先神の神明社」と仮にする以上は、同然の「清光寺」も「天皇家の菩提寺」であるとする理屈に成るがそうでは絶対に無い。
「天皇家」は上記する様に「孝謙天皇期」には本論の「律宗の融合策」を執って、一時は「仏道に傾いた時期」も確かにあったが、かと云って「神道」であるから当然の事ではあるが「天皇家の菩提寺」は無い。
現在に於いても「神道」だけでその戒律の中にあり、「天皇家の全ての伝統」は「神道」に限られている。
決して、「孝謙天皇期の融合策」には現在に於いても至っていないのだ。
「祖先神の神明社」であれば「密教の清光寺」なのである。

さて、ここで参考として、「唯、不思議な言い分」があって、“「天皇家」は「神明社」であっても、「祖先神」では無い”とする「明治維新期の言い分」を唱えているのだ。
恐らくは、「維新政府」をリードする薩摩藩などの「政治的な思惑・天系一途の原則」から、上記した「皇祖神の伊勢神宮」がありながらも、これを認めていながらも訳の判らない「矛盾した言い分」が出来上がったのであろう。
「施基皇子の伊勢王と成った存命中」から始まり「光仁天皇期」までには、既に「女系態勢」をほぼ造り上げ、「伊勢衆の氏人」の「氏族関係」を構成し、「藤原北家秀郷流一門」とも「中国の古来の制」を採用して「四掟範囲」に基づき「母方族」として繋がり、後に「北家の秀郷一門と繋がる」として「独特の限られた賜姓臣下族の女系」と成っていたのだ。
これが「施基皇子」が「伊勢王」と成った最初に、「伊勢衆を含む裔系一族」に示した「青木氏の氏是」であるのだ。
故に、「明治期の祖先神の神明社」が、「天皇家の守護神とする説」は飽く迄も「皇祖神の神宮」であって、「女系で繋がる青木氏の神明社」では絶対に無いし、その証に「神明社の神職」の全ては奈良期から引き継いだ「伊勢と信濃青木氏の子孫の裔系」であり、現在の多くもその「裔系」とするは、「明治維新期に造り上げた策」は「矛盾」に満ちているのだ。
江戸期直前まで「伊勢と信濃の青木氏の莫大な財と管理維持の許」で、且つ、「一族の青木氏による神職」で、維持管理されていた「史実」をどの様に解くのかである。
「明治維新の神明社の言い分策」であるとすると、「男系の天皇家」と「女系の青木氏」は「同系」と成って仕舞うでは無いか。
つまり、且つ、「明治維新」に打ち立てた「天皇家に類する格式族の排除」の「天系一途の原則」は矛盾するでは無いか。
「今も遺されている伊勢と信濃と秀郷流の青木氏族」に執っては、この説は「施基皇子からの氏是」に基づくと、現在は最早「守護神の概念」は無いし、「神明社に拘る訳」では無いが、迷惑ない事であり、「歴史の学者」が公的に情報媒体を通じて云う時には、本論を良く読んで「歴史の経緯」を知って“是非訂正して欲しい矛盾説”ではある。
もう一度言う、「祖先神の神明社」では無く「皇祖神の神宮」である。
全国の各地に「68の神宮を有している伊勢神宮」があれば、「・・社では無い事」は直ぐに解る筈だが、「社」であって「宮」では無く、「神社」とは違うのである。
簡単に云うと、「・・社」と「・・神社」とは違うと云う事であり、「神明社」と「神明神社」とは「神明の神概念」が、前者の「・・社」は奈良期初期からの「単なる神概念・融合・神明社」、後者の「・・神社」は「仏道の概念」をある程度取り入れた「神概念・習合・神明神社や八幡神社」で分けられていると云う事である。
故に、「四掟の女系」で「血縁続き」と成った「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」であって、「春日神社」では無いのだ。
「春日神社」は上記の通り「習合概念の影響」を受けた「室町期以降の村各社」なのであり、決して「秀郷流青木氏の守護神」では無いのであり見分けが着く。
「秀郷流一族一門」が建設したかは疑問であるが、その判定は朝廷から受けた正式な「社格式」で判る。
主に江戸期に多く建設されたもので「無格式社と村社格式と郷社格式」では、「利を追求した民間一般財の神社」であり、「秀郷流一族一門の氏族」が独自に「一族の守護神」として建設とした場合は、「国幣社格式又官幣社格式・大中小に分類」では無く、相当に財を有する一門であり、特別に許可を得た「氏社格の別社格式」に当たるであろう。
従って、「伊勢と信濃の青木氏の神明社」と「秀郷流青木氏の春日社」は、「独自の氏社の格式」に当たるが、「光仁天皇期」と「円融天皇期」には「融合の社」としての「社の格式」を特別に「朝廷から神社で無かった事」から「最高格式の准国幣社並みの格式」を与えられていた事が記録から判っている。
つまり、それは「神明社と春日社」が、朝廷が奈良期から求めて来た“「社」”であって“「神社」”ではない「9つの縛りの掟を護る律宗氏族の社であった事」であろう。
上記する「明治維新の騒ぎの矛盾」はこれだけを捕らえたかも知れない。

現実に「紀州・和歌山市」にある「元天皇家の神宮・伊勢への遷宮の前はここに在った」が存在していて、それが現存して広大な地で古式豊かに国祭司されている「日前宮・伊勢の前の宮」であったが、それを「天智天皇」が「伊勢」に移して、「伊勢神宮とした歴史の経緯」を知れば違うという事が直ぐに判るのだが。
「光仁天皇の経緯」から来ているとしても、上記するような直ぐに解る様な多くの矛盾を孕む事が判れば、「青木氏」とは別に「神明社の史実に基づく歴史観」として何でこんな間違いを起こしているのか不思議である。
飽く迄も、「聖武天皇から孝謙天皇期」、更には引き続いて「光仁天皇から嵯峨天皇期」までには、「神道仏道の融合策」を「政治の場の策」で確かに執ろうとしたが現実には頓挫しているのである。
「伊勢と信濃の青木氏」が「神道仏道の融合策」を「伝統」として執って「律宗族」として維持して来たが、だからと云って「祖先神」が「皇祖神」に絶対に成る事は無く、且つ、「神明社」が「神宮」とは成る事ではないし、「施基皇子の時」から「天皇家とは血筋・血流」の完全に異なる「女系族」と成って仕舞っているのだ。
その為に「四掟を定めての女系氏族」としたのだ。

元に戻して、そして、その上で「彼等の賜姓源氏族」に「皇位族である格式」を保たせる為に、つまり「律宗族」にする為の「9つの縛りの掟」を負わせたのだ。
そもそも、「新撰姓氏禄」にして「真人族」や「臣下朝臣族」を付け加えた以上は、「上位の格式」は定まったものであり、「9つの縛りの掟」を負わせる必要は無い筈だ。
必然的にその位置にある以上は「9つの縛りの掟」を護る義務を負う事に成る。
此処で、「新撰姓氏禄」を観てみると、「嵯峨源氏の朝臣族」としての「確定下した記載」は無いのだ。
時系列的に検証しても、「源氏の朝臣族」としては「101氏」の中の唯一つであり、男子は一族内では「好字名」を使っているので「第一代目の四人」である事を示している。
「831年」にこの「四人の朝臣」が「朝臣族嵯峨源氏の賜姓」で臣下と成るが、そもそも「新撰姓氏禄」は「816年」に定められたとするので「時代」が合わない。
この「四人の嵯峨源氏の唯一つの臣下朝臣族」は、故に、「15年後に追加された事」に成るのだ。
唯、「嵯峨天皇の在位」は「809年から823年」であり、「没年」は842年である。
「退位」から「没年」までは「19年間」で「院政」を敷いたが、この「831年から842年」の院政後の何れの年にか書き加えた事に成る。
然し、在位開始から「7年後」に定められたとするとその「記録」は無いし、その前に紛失しているし、結局は「院政後の説」は消える。
要するによくある「後付け追加」であり、論理展開に於いては充分に検証しなければならない事に成る。

尚、参考としてこれも前段でも何度も論じたが、つまり、「嵯峨源氏朝臣族」の唯一つの「皇族賜姓臣下族の氏族」は当初は記されていなかった事に成るのだ。
果たして、「新撰姓氏禄」が紛失していないとしても、「桓武天皇の第7皇子」の「兄の次の淳和天皇(823〜833)」がこれを許すかであり、例え「9年の院政」であったとしても恐らくは無理であろう。
前段の通りに「紛失後の鎌倉期から室町期初期頃」までに書き足された事」は充分に考えられる。
「書き足す事」が出来たとして考えると、それまで誰かが隠し持って保管していた事も考えられる。
そもそも公的に成っている本が、「原本」ではなく研究推論から導き出されたものであろうから深く検証は難しいのだが、“「嵯峨源氏朝臣族の記載」は原本の元から無かった”とする可能性が時系列から導き出せると筆者は観てるのだ。
書き足しているのは「11源氏の内の最初の嵯峨源氏」だけとすると、平安期と成るが、実は書き足されているのはこれだけでは無く、「諸蕃類」に時代性と格式が違うあり得ない"「第二の姓族」"が実に多い事から観て確実に室町期と成るだろう。
合理的な時系列と合理的な青木氏から観た歴史観から先ず間違いは無いだろう。

つまり、そうするとこの検証から、「嵯峨天皇」は、“律宗族の「9つの縛りの掟」を護る義務を必然的に護る”と観ていたが、全く護らなかったのでので、考えられる事としては後から「新撰姓氏禄」から削除したという事になろうか、将又、最初から書いていなかった事に成るが判断は分かれるが、筆者は実は、この“「律宗族の9つの縛りの掟」を定めた”以上は、“これで行ける”と観て、“最初から書いていなかった”事と観ているのだ。
つまり、「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせる様に負わせたのだ。
然し、この「天皇の命」を「賜姓源氏族」は違えた。
何と、それどころか流石に「神明社」で無く「清光寺」では無く、「八幡神社と八幡菩薩の習合」で果たして護ったのだ。
「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせるとかいう以前のこれは完全な「天皇への裏切り」であろう。
然し、何とこの四人にだけは「朝廷・嵯峨天皇」は重役職を与えたのだが、「従三位、参議、右大臣、左大臣と成り、他の者には公卿とも成るのだ。
但し、三世以降は好字の慣例上で貴族や公家としては後世に子孫が伝わらなかった。
つまり、好字慣例だけでは無く流石に見かねた「仁明天皇」は、「嵯峨源氏」が「律宗族の9つの縛りの掟」を護らなかった事から「嵯峨源氏の子孫の存続」さえをも許さなくして仕舞ったし、自らの「仁明源氏」も賜姓しなかったのだ。
「嵯峨源氏」の「子供の仁明天皇」に依って「子孫」が絶えて、その内の「妾子孫の二人」が地方に流れ着いたとして名乗っている「姓名」は「藤原氏の地方裔の姓名」であり「後付け」である事が判るし、これは「満仲の偽策」であった事が判る。
結果は、二代後の「清和天皇」の直前まで「律宗族」を出さなかったのだが、この「清和天皇」は、「賜姓」のあり無しの「12人の源氏」を出した。
然し、この自らの子供では無く、「子供の陽成天皇」が精神異常を来していた為に、その子の「孫の経基王」の「再三の懇願」で、遂に折れて「清和源氏」として「無格式を条件に賜姓」を許したのだ。
これが「嵯峨源氏」より悪かった。

「律宗族の9つの縛りの掟」を護る護らないより「禁手の武器」を持つだけでは無く「周囲」を侵略して「徒党」を組み「武装集団」を形成したのだが、最後には最悪の事態が生まれ「有史来の政権」を朝廷から奪い取ると云う破天荒を遣って退けたのだ。
然し、最早、誰一人、“「仁明天皇」の様に”、「律宗族の9つの縛りの掟」を破らせる行為を止める事は出来なかったのだ。
その意味で、「青木氏の最後の出自血縁」の「仁明天皇」は賢明であった事を後勘としての歴史観で子孫に遺せられる評価が出来る。
「光仁天皇・桓武天皇・平城天皇と桓武天皇の孫の仁明天皇」の「青木氏の血筋を引き出自元と成る5人」は「律宗族」の「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」の礎を築いたのだ。
その意味で「嵯峨天皇」が採ろうとした「律宗族の9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」は評価できるが、「青木氏の賜姓」を外し、「皇親族」からも外し、「令外官」からも外し、「出自元の律宗」を否定し、その「出自元の伊勢信濃青木氏」に圧力を加え、「政争」を超えて「戦い」を伴う「一族争い」を興し、挙句は「殖産と献納金」までを否定した事は、最早、普通ではない。
そして、「源氏」を賜姓しながらも、その「源氏」に「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」を無視され、これを否定した「賜姓源氏策」で重職に着けると云う破天荒を遣って退けたが、つまり、全てを根底から自らが崩す矛盾を興して混乱を招いて仕舞ったのだ。
その「影響」は「実家元で出自元の青木氏の存亡に関わる事」までに及んで最後は「始祖とする天智天皇の思惑」は潰えたのだ。
確かに「嵯峨天皇の策」は錯綜していて矛盾していたが、それを救った子供の「仁明天皇の採った策」は後勘から観て正しかったのだが、結局は朝廷を衰退させ政権をその河内源氏に奪われる「始末の源」と成ったと、「青木氏の歴史観」から美化せずに説いている。
その後の天皇は「青木氏の出自・血縁元」では無く「外孫王の藤原氏系」であるので「青木氏の歴史観」からは検証するのは控える。

然し、「賜姓族青木氏の神明社の概念」と「浄土白旗派仏道の清光寺の融合」の「密教概念」を図ったのだ。
だから、その証拠にどの「11代の天皇」も何れの「11家の源氏族」にも、「融合」と成る為の「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「氏の青木の神木・神道」と「白旗の御印・仏道」と「賜姓物の護り本尊・仏道」の「四つ」を与えなかったのだ。
「9つの縛りの掟」を護らなかった「河内源氏の頼朝」は、摂津源氏の以仁王の乱を起こした“「頼政の跡目を継ぐ」”と云う「大義の名目」で、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「白旗の御印・仏道」の二つだけは兎も角も引き継いだとしたのだ。
ところがここに矛盾が生まれたのだ。
参考として、「11家11流の賜姓源氏」の内のその「何よりの証」が「最も純粋な源氏族である嵯峨源氏」の「残存末裔等・現京都府京都市右京区嵯峨天竜寺地域・実際は資料より北側日本海側の山手に在って密かに農業をして住んでいた事が判っているが、経緯から移動したのではないか」の「家紋」は実は「笹竜胆紋」を家紋としていないのだ。
これはこの「嵯峨源氏」に限らず「残りの末裔」と観られる「9つの源氏」も同然であるのだ。
これは何故かであるが「賜姓と云う朝廷の仕来り」を正式に受けた者には「賜姓五物」と云うものが与えられる。
「賜姓」を受けないで「源氏族を名乗った者」も多いが、この者らは「平安期の混乱期」を生き抜く事は実質は出来なかったので論外とするも、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令が定める仕来り」で「正式賜姓を受けた者の生き残った者」には、この「賜姓五物を与えたとする記録」はそもそも全く無いのだ。
それは、「嵯峨期の詔勅の文面」とそれを「詳細に条件づけた禁令」には、この「賜姓五物を与える事」のみならず、前段でも論じたが「禁令の中」での「青木氏への取扱い」の中に、“「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統」を類してはならない”と記されているのだ。
従って、この事から「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統に係わる事と成り、「賜姓」は、「嵯峨天皇が9つの縛りの条件付きで認めた」とするものの、この「禁令」から「賜姓五物を与える事」は出来なかったのである。
故に、「賜姓五物の一つ・象徴印号」は当然に持つ事は出来無かったのである。
そこで、どうしたかと云えば「賜姓源氏の者」が、この“「象徴印号」を持たない”という事は生きて行く上で出来ないので、「生き残った初期段階の10源氏」は「揚羽蝶紋、下り藤紋、橘紋等」の「皇位族とは女系血縁筋・外孫族・支流卑属」の「宿禰族の高位族紋」を使ったのだ。

それはどういう事かと云えば、「嵯峨期の詔勅」で明記している様に、“「生活の糧」を与えない”としているので、かといってこの「生活の糧」を自ら獲得できないので、先ず考えられる事としてこの殆どは「宿禰族の高位族・公家」に「婿養子」として入り糧を得て、その家の「家紋」を「格式号」としたのかであるか、「鎌倉期」か、将又、「室町期中期の姓勃興期」か、「江戸初期の国印状取得」の「後着け策」が殆どであり,そんなに「伝統」を「400年」もの長く「格式の伝承」を「逃げ惑う戦乱」の中で「正確」に保って生き続けられるものでは無い。
そこに論じている「伊勢と信濃青木氏と秀郷流青木氏」の「違い」が「11源氏」のその差と成って出て来たのだ。
参考として、何度も論じているが筆者の青木氏の歴史観の調査研究では、「殆ど後者」と観ていて、仮に「記録は菩提寺や守護神で祐筆保管しているので「11賜姓源氏」としては無くす事は無いと考えられるが、仮に無くしたとしても、「姓名、家紋、宗派、菩提寺、墓石、過去帳、曼陀羅、密教、発祥地域、家の慣習仕来り掟の伝承、神道の形式、戒名、院号等の五重相伝、定住地・・等」で、それは上記の「嵯峨源氏」の様に、又、「河内源氏・八幡神社八幡菩薩」の様に直ぐに判定が出来るのだ。

故に、「嵯峨源氏の様な家紋が無い事」が起こったのだ。
「賜姓氏名、象徴紋、象徴物、象徴神木(青木と柏)、冠位官位(浄大一位、正一位)などの格式と院号」と、これに伴う「副役物」の「賜姓五役」・「令外官」・「伊勢守護王」・「9つの縛りの掟」、つまり、「嵯峨期の禁令明記」の「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」が加えられた。

現実に、「11賜姓源氏」にこれだけの「賜姓時の特典を与える事」は「天皇家」には最早その「力・財源」は無かったしそれ以後も無かったのだ。
無かったから、「嵯峨期の詔勅」と成り、それに明記する様に“「賜姓源氏をした」”のだから。
然し、元の「賜姓青木氏」には「伝統」で論じている様に「令外官」として「大商い」をし、充分に「糧・殖産等の巨万の富」を蓄えてあった。
賜姓を外されたが「影の令外官」であって外す事は出来ず、且つ、「献納が起こる財源元」を外す事は出来なかったのだ。
その「青木氏の皇親族の力削ぎの限度」は此処まであったのだが、「賜姓」を外された、「令外官」を外された、「皇親族」を外されたの以上は、「天皇家への献納」は最後は当然に停止する以外に無く成ったのだ。
では、「賜姓源氏」がこれを補填する力が在ったのかであり、「武力」は有っても「財力」は無い。
何度も論じているが、ではその彼等の「禁じ手の武力」で「青木氏の商いの財」を奪うか潰すかであるが、ところがその「武力を上回る抑止力」を既に構築していたのだ。
それは「四掟に依る藤原氏の一門とその秀郷流青木氏とその一族一門」が控えていた。
この様にしてこの「賜姓臣下族のリスク」の環境の中で興った「賜姓源氏」の「上記の天皇から賜姓物の授与」が無かった「清和河内源氏」で、「幕府を開いた事」で「格式獲得の格式矛盾」を含んだ「河内源氏の暴走」が興ったのだ。
これが「律宗族論の神道仏道の融合の策」に係わる「笹竜胆の院号論」であり、「青木氏の伝統の矛盾論」である。

この事から「幕府樹立した河内源氏」だけが「笹竜胆紋」としているのは「権威付け」から上記の「摂津源氏頼政の引き継ぎ」を前提とした「樹立大儀である事」である事は明らかで、これは「虚偽の無い朝廷の中での記録」が無い限りはこの事で判る。

「白旗の御印・仏道」は、「密教浄土宗の白旗派の御印」であるのだ
上記した様に、そもそも「密教浄土宗」ではない「八幡神社と八幡菩薩の習合概念」と、「神明社と清光寺の神道仏道の融合概念」とには埋める事の出来ない大矛盾が生まれたのだ。
これで「白旗」は使えない事は、同時に「笹竜胆紋」も使えない事を意味し、この逆の事も云える。
そこで「頼朝」は、立場上、「白旗と笹竜胆の前提」と成る“「9つの縛りの掟」を護らなかったとした「朝廷の反対」”にも拘わらず、これを「頼政の代わり」として「樹立した幕府の権威と大義」の為にも「一つの奇策」を講じたのだ。
それは、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」の「紋の一部を書き換える」と云う「策・類似紋・花柄軸を替える」に出て「朝廷の反対」を“これだと文句は無いだろう”と躱したのだ。
それは、「青木氏が持つ象徴紋の笹竜胆紋」の「竜胆の花と笹」は同じとして「花柄の部分・軸と花の間を換えると云う策」に出たのだ。

「密教浄土宗派の白旗の御印・仏道」に対しては、「浄土密教の皇位族の帰依する宗派」を意味するこの「白旗の扱い」を、“「統一的象徴」として「王党派としての団結」を遂げた事”として言い逃れたのである。
それには「根拠」を見つけて来た。
それは、「日本書紀に記載がある白旗の意味合い」であった。
そもそもこの「白旗の意味」には、「日本の文献」では最も古いのが「降伏の意味」での「素幡・きぬのはた」を「白旗」の通常の書例・イではある。

ところが、別に「日本書紀や風土記等」の「古書」にもある様に、「白旄・中国の慣習」では、「一軍の将軍」が「軍の指揮」を執るのに用いる「白いヤクの尾毛」を「竿の先端に着けた中国の慣習」がある。
この事を利用して、この「旗印」を「王位制」、即ち、「君主制の象徴・ロ」として言い換えたのである。

このイとロの「二つの言い換え」に「朝廷」は流石に怒り狂ったが「日本書紀や風土記等」の「古書」を逆に言い出された事に「朝廷の反論」は詰まり、結局は黙視する以外に無く成ったのだ。
然し、「源平戦での白旗使用」にはこの理屈は通らず、ある程度の「9つの縛りの掟」を護っていた「摂津源氏の四家の頼政の代行」で押し通したのだ。

然し、唯一つ、言い逃れが出来なかった事は、河内源氏の「八幡神社と八幡菩薩の習合の概念」である。
「白旗」は「神明社と密教浄土の融合の概念」である。
全く違う状況の中であるのに直さない通説は「変な話」である。

つまり、上記の事例が後の時期に興ったが、これは、最早、「神道と仏道と云う話」であり、「融合か習合」の話であり、この事から引きつられて「社会}は「格式化の賛成派」と「格式化の反対派」の「二派の権力闘争」にすり替えられていた事を裏付けている。
故に、真実は、「巻き込まれる事」を嫌った両方の編者等は、逸早く命の危険を感じた学者達の編者は、史実の通り「雲隠れした事」と成ったのだ。
「神道と仏道の問題」は、上記したやや後の「源氏行動とその言動」から考えると、「朝廷」としては「伊勢青木氏」と同然の「融合導入の前提にあった事」が云える。

然し、それよりも「本命の問題」は、「導入の基盤造りにあった事」に成る。
上記した様に「導入」には「社会」にそれを受け入れる「基盤の醸成」が必要であって、それには“「独特の二つの格式」”を「統一した格式」に改めて定める必要があった。
然し、これが無い侭に「仏道の浸透」が「皇族内で進んでいた事」に成るのだ。
この侭では、「神道の朝廷」は瓦解するは必定であった状況に陥っていた事に成る。
その証拠に「最近遺跡の発見」で「二つの派閥の領袖・蘇我氏と物部氏の館跡」から、既に裏では帰依していた遺跡が出て来たのである。
つまり最早、「時間の問題」であったろう事に成る。
故に「蘇我氏」に依って「物部氏」が潰され、その後に「天智天皇の乙巳の変」で「蘇我氏」を一掃した事が既に興っていたのだ。
更に、この「仏道の浸透」が進み、「乙巳の変」で力の持った「藤原氏」に何方にしても「天皇家は乗っ取られる事」は必定な状況であった事に成る。
既に「外孫王・藤原氏系」が「淳仁天皇」と成っていた現状では猶予は無かった。
況して、「天皇家・聖武天皇系」には「男子皇位後継者が不在」であり、且つ、其処に朝廷が進んで自らが「仏道の大仏殿建立」であったのだ。
「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に、「藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」が割り込んで入り、「漁夫の利」を得ようとして「三つ巴の攻防戦」が続く破目と成るが「仲麻呂の思惑」は寸前で「自滅」し「危機の難」を逃れたと観える。
「三つ巴」の一つが消え、「二つの危機問題」を解決する模索が続いたと観える。
つまり、その解決手段が「孝謙天皇の白羽の矢」であったと「青木氏の歴史観」から観れば成るだろう。
この「最終の決定過程・吉備真備」に於いて上記した様に「里絆策の感覚・孝謙天皇」は働いたのだ。

実は、この時の「騒ぎの証」として「青木氏の逸話」が遺されている。
其れは、「追尊白壁王」に嫁した「井上内親王」の后は「青木氏の孫裔系・四代目」までに呪いの呪詛をして殺そうとして、「自らの二人の皇子の安寧」を狙ったとした。
当然に「賜姓族」とは云いながらも、最早、「天皇の里」は「殖産化した商いの氏族」と成っていた。
その間では「伊勢青木氏」が面倒を看ていた「伊勢の斎王・井上内親王」であったとは云え、感情的には「天皇家の中で育った井上内親王」であると云う感覚を持つ事は自然である。
感情的に成る以上は、そう云う事に成るであろう事は頷ける。
それだけに「井上内親王」には「殖産家の伊勢青木氏」として映っていたのであろう。
“映る”と云うよりは”知っていた”と云う方が正しいかも知れない。
“自らが取り込まれてしまう”と云う「脅迫概念」に取り込まれてしまっていたのかも知れない。
其れの感情が行き過ぎて“だから子供も護ろうとした”のでは無いか。
青木氏を呪詛する事に到ったのだろう。

注釈乍ら、「青木氏の伝えられている伝説事」と実はこの「井上内親王の奇行」とが違うのだ。

通説の経緯
744年井上内親王27歳に結婚
754年37歳の時に酒人内親王
761年47歳の時に他人親王
764年政争始まる
770年称徳天皇・孝謙天皇は没
770年に他人親王立太子
770年に白壁王が即位、后と成る
772年に光仁天皇を呪詛
772年に酒人内親王は斎王
773年に追尊難波王を呪詛・没
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
775年に二人は没
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
776年まで政務
778年に没・86歳

以上と歴史では通説と成っているが、それに依れば、“「744年までの政変で多くが粛清されて、その「飛び火」が伊勢に及ぶ事を嫌って「四男・54歳・又は六男」の一番若い「白壁」は酒飲んで暗愚を装った”と成っている。
{54歳と云う処に全ての経緯の意味」が籠っている。
当時は平均寿命年齢であるからだ。
然し、781年没(778年没説もある)の84歳の2年前まで政務を執っていたとされる記録が遺る。
とすると、「青木氏に直接及ぶ政争」は「34年間」も続いていた事に成る。
実際には、その後の「仁明天皇期の末期・850年」までの「最低100年~最高106年間」も続いていたのである。
これは「研究」が進んでいる「信濃青木氏」にも「同族血縁していた事」から影響はあったであろうし、「信濃」に於いても更に手に取るような詳しい総合実態がその内に明らかに成る事を期待している。
兎も角も色々な遺されている各地の「資料の読み漁りの行」から、「仁明期から円融期の賜姓・960年・平安期中期」までの「100年間」は、「前期の90年間」とは異なり、凡そは「平和」に成り、“施基皇子」”と云う「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたと観られる。
だから、「円融期の秀郷流青木氏の賜姓」に繋がったとも考えられる。
つまり、「朝廷の院の務め」から「正式に独立した925年の商業化」を「史実」、所謂、「商いの殖産家」で「庶人化していた事」に成るが、但し、「天皇家との間の繋がり」では未だ「献納と云う形」では関係性は維持していたらしい。
況や、逆に「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたから「庶人化した事」に踏み切った事になろう。
然し、そこから「円融期の秀郷流青木氏」が関わる「正式な賜姓」に繋がって行くのであり、遂には更に「100年後の1025年」には「庶人化した事」の証としての「宋貿易等を行う総合商社化」が成されていたのだ。
完全に「過去の院号」に頼らない「庶人化していた事・独立していた事」、つまりは「世間からの印象」は既に完全に近い形で薄れ消えていた事に成る。
此処で「青木氏のその歴史観」から観ると、この幾つかの「歴史観」には「疑問」が残り、これを解決しないと面白おかしくする為に「青木氏の歴史観」は歪められるばかりで、誰も正しく解いてもらえないのだし、歴史とはそう云うものだし、故に「伝統の危うさ」なのであるが「正しい歴史観・伝統」を解析しているのだ。
少なくとも「判る範囲」で、先に「過去の伝統」も踏まえた「状況証拠を集めた推論」でも遺しておく必要があるのだ。

さて、この時期の「青木氏の歴史観」のその「歪められた疑問」について検証して論じる。
論点は次の通りである。
「青木氏だけ」に遺された疑問が次の通りである。

772年に光仁天皇を呪詛
・1 何で呪詛されたのか?
772年に酒人内親王は斎王
・2 何で斎王にされたのか?
773年に追尊難波王を呪詛・没
・3 何で妹が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
・4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
775年に二人は没・自殺
・5 何で名張に移され自殺したのか?
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
・6 何で暗愚を装う必要があるのか?
776年まで健康に政務
・7 何で6の史実に矛盾しているのか?
781年没

1 何で呪詛されたのか?
二人の子を残した后から夫の追尊白壁王を呪詛したのかである。
少なくとも味方と成る筈だ。
744年で結婚、754年と761年に二人の子供、770年で即位・后とすると、16年間と呪詛とするまでの2年間の計18年は正常に生活をしていた事に成る。
それが突然に夫呪詛に到るまでには「ギャプ」があり過ぎる。
「夫呪詛」と成ると、「夫呪詛の殺意」の「相当な理由」が必要であ.る筈であり、その「1年程度の間」に何かが興った事に成る。
その原因が「四家青木氏との間」で存在した、それが「青木氏の一族の人との付き合い・人間関係」に在った事に成ろう。

何故ならば「呪詛」に至るまでに「即位」までしているので、先ずは「井上内親王の実家元の天皇家」、即ち「聖武天皇の第1皇女の格式」である。
その母は「夫人県犬養広刀自・県で身分低い・地方の市長」であるが、一方、「聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子で藤原系」での身分に係わるものはないだろう。
又、「称徳天皇・孝謙天皇崩御」の際に重臣に依って青木氏に嫁す事で協議が行われたと記されている。
この「協議」で幾つかの歴史書では、「天武天皇系の外孫王」を推す吉備真備と、「白壁王」を推す「藤原氏系・南家」で対立し、「藤原氏暗躍」によって「白壁王の立太子」が実現したとする経緯があるも、これは直接に呪詛に繋がらないだろう。
然し、ここで矛盾する事が興っている。
それは、白壁に「白羽の矢」を立てた「孝謙天皇の家庭教師」で要するに「相談人」の「吉備真日」が、「天武天皇系の外孫王」を推すと云う事の「矛盾」が興っているのだ。
千来であれば白壁を推している事に成る筈だ。然し、何と逆で違ったのだ。
と云う事は、「藤原氏に押し切られた形の事」に成るのだが、史実は逆で前段でも論じた様に「天智系に戻す」と云う前提で「白羽の矢」を立てたのだから、“決して押し切られた訳では無い"事に成る。
要するに、「吉備真日の行動」に「裏の意味」があった事に成るだろう。
つまり、“押し切らせて誘導した”と云う事にしたと成る。
史実は、「井上内親王」は斎王の身分ら固執し「白壁に嫁す事」を反対していたのだから。
既に「100年も経った商いの伊勢」も一族の「酒浸り」や「暗愚」を装う事や「逃避り行動」の資料にある様に、又、そもそも「氏是」からも嫌っていたのだ。
だから、“反対して於いて押し切らせて「目的」を達成させる"と云う策の「吉備真日の不思議な行動」と云う事に成ったのだ。
前段でも論じた様に、“これの方が「理と利と系と金の思惑策」が実現する事"に成るからだ。

「押し切らせて実現した」とすると、「天皇家」と「四家青木氏」との間の事と成る。
つまり、「格式の有無」と成ろう。
「天皇家の井上内親王」とは云え、父も「藤原氏系」で母も「藤原氏系一門」と成ると「藤原外孫王」でありながら「県の犬養広刀自・身分低い」と云う事に成る。
「青木氏」は賜姓臣下したとは云え「血筋」と云う点では「施基皇子の四男・六男の説」とすると、「相当な格式身分の差」があった事に成る。
“天皇家から嫁す”とは云え「白壁の母」は妃であり、それも「紀諸人の女橡姫(とちひめ)」で、「天皇家の血筋源の五大血筋の紀族」であり、何れに執っても「格式」は数段上位に位置し、従って、格式社会の中では「二足の草鞋の商人」と云えど卑下していた事に成る。
つまり、「皇位朝臣族・青木氏」と「神別朝臣族・犬養氏」の差に成るし、この「格式差」で卑下していた事が考えられるし、況してや未だこの時期では「財政不足の天皇家」は、100年経っても「永代賜姓五役の名目」で「青木氏」からも「献納・史実」を受けていたのだ。
だから、この「嫌々の即位」までは「青木氏に嫁いだ形」に成っているので、「自らの産んだ酒人王も他人王」ともに「子の格式差」もあって、「白壁」を除いた「他の青木氏の8人の息子」と「7人の娘・実際は30人程度の記録に載らない子供がいた」ので、それを卑下していて「青木氏の中に溶け込む事」が全く出来なかったと考えられる。
青木氏がその見下す態度に出ていたかは上記した様に嫌っていたとしているので無かったと出来る。
「井上内親王の卑下」にあったとしていて、それが歪んで「呪詛]と成ったとしているのだ。

其れが、所謂、対応したのが「四家」であり、「伊勢50衆の氏族」であり、「妻嫁制度」であり、「嫁家制度」であった為に尚、その「青木氏の制度」の中に溶け込む事はバリヤーの様に成って更に相当に無理で出来なかったと考えられる。
況して、その夫が「妃子の四男・六男」であった為に周りに頭が上がらず尚の事であったと観る事が出来る。
それの不満を「夫」に向けたが、夫は振り向かなかったと成るだろうし、次の「2の疑問」の「夫の4人の姉妹達・施基皇子の娘」、つまり、「姉の追尊の海上女王・従三位」、「姉の追尊の難波内親王・二品」、「追尊の衣縫内親王・従四位」、「姉の追尊の坂合部内親王・従四位下」、「姉の追尊の能登内親王・四品」の「全体を仕切る最高格式の二品を持つ難波」にも先ずその矛先を、そしてその「姉妹等」にも更に向けたと、「青木氏の資料」等に遺る様に成ったのではないか。

注・上記の「四男の白壁」が突然に別系で「光仁天皇と成る事」で「青木氏の兄弟姉妹」は、その「格式を合わす為に追尊された者」と、その「父の施基皇子」が「追尊春日宮天皇」と成る事で「子の追尊と成る者とならない者」に分かれ、其れはその「母の血筋差」で分かれたとしている。
その結果として、「伊勢青木氏」に居ながらも「難波」が子の誰よりも「最高位の天皇に継ぐ二品の格式・施基皇子以外には歴史的に二品は無い」を与えられたのだ。
つまり、その「血筋差で父と同格と成った事」に成るのだ。
故に、これが「3の答え」にも成るが、その矛先は、「男女の姉妹に係わらず「青木氏全体」を仕切る追尊の難波内親王・二品」に向けられたのだ。

「天武系」で「藤原氏系の外孫王の子」でその「天皇家」に居たとした「井上内親王・即位後二品」と、この賜姓臣下したとは云え「天智天皇の孫娘の直系難波内親王・二品」とには取り換える事の出来ない「上位の血筋の格式差」が潜在していたのだ。
「賜姓臣下朝臣族の二足の草鞋」を敷き、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度」や「伊勢郷士衆の氏族」の環境の中での「青木氏の生活」では、即位されるまでは女系である以上はその「女系で仕切られている家の差配の頭の難波」から煩く「嫁としての振る舞い」や「氏上や御師の生活」に馴染む様に当然の事として注意されていたのではないか。
其処に「絶えられない矛盾」と「大きなギャップ・自尊心」が生まれ精神状態が鬱に成っていたのであろう。
やっと「26年間」を経た「770年の即位」に依って、それは解消されたかに見えたが、然し、その現実は変わらず即位するも「青木氏には差配力の及ばない四男の白壁」にも「2年後」にその「不満」が向けられたと成るのではないか。

772年に酒人内親王は斎王
2 何で斎王にされたのか?

天皇に成った以上は、娘の酒人は内親王と成り、母親の経緯の通りに斎王に成るだろう。
唯、結果として全ての皇女が斎王に成ると云う事は無く、{白壁」が天皇と成った以上は、「伊勢青木氏」の「白壁の姉妹に当たる二世族の者」、又は、その「三世族の者」も対象に成るし、「信濃青木氏」も「斎王に成り得る事」に成るが、然し、母親の様に「酒人内親王」に向けられたのだ。
そして、「三品」に叙せられたのだ。

要するに「呪詛の事件」の中で、突然の経緯として19歳に達していた事から斎王に指定され、身を清める為に「春日斎宮」に籠もるが2年後に伊勢に戻り、更に1年後に母親が「名張の幽閉先」で「他人皇太子」と共に自殺した。
この為に、再び「伊勢」に戻る。
帰省後に「自殺した他人皇太子」に代わって、「妃の高野新笠の子の山部親王」が「皇太子の座」に着いた。
そして、この事で「酒人内親王」は「斎王」を退位したが、この後に、「異母兄の山部王・桓武天皇の妃・」と成り、7年後の779年に「朝原内親王」を産み、「山部王」は781年即位する。
そして「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”に成る経緯を持つが、この「経緯・イ」が重要である。

そこでこの「経緯・ロ」を「通説」としているが他には、次の説がある。
「伊勢側」が、“「聖武天皇系と血筋」を融合させ様とした”として「光仁天皇や桓武天皇」が合作した、とされる「経緯・ロ」の説と成っている。

参考に。史実とは出来ないが、鎌倉期の「水鏡」に次の事が書かれている。
故に「光仁天皇」が「娘の斎王」と成っていた「酒人内親王の立太子」を検討していたとする「経緯・ハ」の「後付け説の記述」の「記録」があり、史実の云々は別として確定しない「推測の記述」がある。
これが、仮に「経緯のハ」が事実であるとすれば、「桓武天皇」やその周辺にとっては警戒すべき存在でもあった事には成るが、「酒人内親王の上記の経緯・イとロとハ」の通りにこの記述は史実に反する。
この「朝原内親王」も後に「斎王」に成り、「井上内親王・酒人内親王・朝原内親王」と、“親子3代で「斎王」を勤めた”とする「史実」もある事から、「経緯の通説」は違うだろう。
「斎王と云う伝統の習慣」は「伊勢」ではそれ程に次の意味を持っていたのだ。

先ず、「斎王の伝統」の「経緯・イ」である。
次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」である。
更に、「立太子の検討」の「経緯・ハ」である。

「斎王の伝統」の「経緯・イ」であるが、前段でも論じている様に「天智期からの仕来り」で引き継いでいた。
そして、「伊勢や信濃の青木氏」では、多気郡に「斎王館」を建て、これを「多気の館」と名付けて多気郡で多くの女官等を侍らせて面倒を看ていたのだ。
当然に、「斎王に成る皇女」は、一定期間、「清めの館」で身を清め、その後に「斎王」に着くが、これには「斎王に成る事」での政治的な制裁は無い。
何時かは事情により戻る事があり、又、仮に政治的な思惑で「斎王」にされたとしても、その侭に「斎王館」に遺る事もあり得たので、「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”の「記述」には制裁的な意味が無い。
寧ろ、将来は、本人が好むか好まないかは別として「皇族の中での生活」を保証される。
然し、「好まない時」は「伊勢青木氏の斎王館」か「伊勢青木氏の中」に溶け込んで「女(むすめ)」として「四掟と妻嫁制度と嫁家制度」で普通に「女(むすめ)」として生きられるが、現実は、「青木氏出自の桓武天皇」の「子の平城天皇」に嫁したのである。
つまり「経緯・イ」は、この「既成の経緯」を辿るパターであり、「伊勢青木氏」に殊更に覆い被さって来る「災い」は無い経緯である。
例え、皇女から斎王に追いやられたとしても「皇女」に多くを望まなければ「正常」で居続ける事は、寧ろ、無理であり、「斎王」に成る方が安全なのであった。
従って、斎王であった「井上内親王・親」にしろ、斎王の「酒人内親王・子」にしろ、斎王の「朝原内親王・孫」にしろ「第一皇女の斎王」であった方が、「政治に巻き込まれる事」は少なかったのである。
夫々が同時に、「光仁天皇・親」、「桓武天皇・子」、「平城天皇・孫」の一族や同族を超えた「青木氏出自の完全な家族婚」である。
この現象の傍に「伊勢青木氏」は居たのだ。
この例に観る様に、歴史的に「斎王や斎宮等」の多くは何らかの形で「青木氏に入り込んだ」でいたのである。
故に、「伊勢と信濃青木氏」では「皇女等・300人程度」だけの「逃げ込み口」であったのだ。
この前段でも論じている様に「流れに入る入口」であったのだ。
この様に、「青木氏の歴史観」から観た場合、「通説や水鏡説の様な逸話説」はそもそも伝統的に無かったのだ。

次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」であるが、これは逆である。
先ず、「白壁が光仁天皇に成った経緯」では、上記や前段でも論じた様に、全てを物語るのは“「白羽の矢の結果」”である。
そもそも、「天皇家」と云えど、「血筋と家筋と冠位官位品格と財力」等の一切を比べても「伊勢青木氏の全格式」の上では、上記や前段でも論じた様にこの時点では未だ遥かに「上の格式・皇親族」である。
それでも「賜姓臣下朝臣族」と「二足の草鞋策と殖産家」であって「天皇家と関わる事」を「氏是」として禁じ、「伊勢の氏族」と成って「四掟、妻嫁制度、嫁家制度等」の独特の関わらないシステムを採用し、況してや「女系化」していたのだ。
其れを既に繋がっていた「天皇家と繋がる等の説」はその必要性が無く「氏是」で禁じて、当に「研究の怠り」に外ならない。
そもそも「青木氏」に限らず「伊勢の歴史」を知ればこの説は100%出ないし、「日本書紀等の数種の歴史書」を読んでいればこの説は出ない。
面倒であるのでこれ以上はこの説の検証は終わる。

「酒人内親王の立太子の検討」の「経緯・ハ」であるが、770年には「他人親王」が既に「立太子」に成り、772年に「酒人内親王」は「斎王」と成り、773年に「他人親王」は廃位に成っている。
この4年の間、「酒人内親王」は時系列からあり得ないし、仮にそうだとしたら再び「女系の天皇」と成って仕舞う事に成る。
「白羽の矢」が「天皇家女系であった事」で「90年後」には「完全な氏族」を持ち「商い」をし「御師様」の庶人化した「天智系の裔系の者」が「女系を求める事」の事態がそもそもあり得ないし、これは「青木氏の出自元に災いを招く事」は必定で、例え、「白壁の天皇」であろうともそれを許す事はそもそも無かったであろう。
「青木氏の氏是にも悖る事」である事は、「白壁」も痛い程に知っていたであろう。
そもそも「施基皇子・716年没」が没して未だ「54年後の殖産の商いが軌道に載った時期の事」でもある。
全くあり得ない事であるし、この段階では他に皇子が「7人」も居たし、17歳も年上の「737年生まれの山部皇子・高野新笠の子」も居た。
だから敢えて17歳も若い「754年生まれの酒人内親王の女性を立太子にする事」は后の先ず子であったとしても当時の仕来りからは先ず無かった。
現実に、大病を経ても「山部皇子」が「桓武天皇」に成るのだ。

「鎌倉期の水鏡」としては「鎌倉初期の歴史略記」とすれど書き記す程には「史実性」がおかしい。
唯、それにはこの青木氏の事件に関して一つ気に成る事があり追記する。
其れは「伊勢青木氏の出自元・血縁筋」の最後の“「仁明天皇・出自元派」”である。
この事件に近い事が「歴史略記」に留めている事であり、且つ、その内容に関して「伊勢青木氏の歴史観」に“「類似する様な事」”を上記の様に記している事である。
この「編者」が確定し定まらないので、これ以上の追及は困難ではあるが、編期が「1195年頃」としているので「400年程度経過した歴史・逸話の段階」である。
つまり、「鎌倉幕府の樹立」には「9つの縛りを護らなかった頼朝」と「それを認めないとする朝廷」との「悶着」があって、成立後に「略史の水鏡が幕府におもねて書き記した可能性がある。
これは「光仁期以降の天皇家の歴史」は兎も角も、それに伴って秘密裏にする「伊勢青木氏四家の内部のゴタゴタ」が連ねて表に出るという事はあり得るのかである。
仮にあるとすれば、「神明社」か「清光寺」か「女系嫁家先の藤原秀郷流青木氏」か「伊勢郷士衆」か「信濃青木氏」からであろうが、この「編者その者」が編集した訳では無く、「独自の主観」を加えながら「皇円略記・戒話」を更に参考にして「手を加えた書」であると観ていて、それを「平安京付近での編」で書き記しているのだ。
仮に「漏れる」とすれば、「伊勢青木氏」から「嫁に行った近江秀郷流藤原高郷」を里としている「伊勢秀郷流青木氏以外・梵純系」には可能性は低いが、然し、現実には「光仁期から仁明期」まで続いた「青木氏のゴタゴタ話の類似話」が載せられているのだ。
「青木氏」では知られていないとしていても、「天皇家のゴダゴタ」に連れられて「比叡山の表」に「青木氏のゴタゴタ」も「戒め例話・浄土宗の編者・伊勢からの関係者・白旗派の者」として出ていた事も充分にあり得る。
だとすると、実態はそれ程に「隠せない程の騒ぎであった事」に成っていたと筆者は観ている。
何故ならば、「伊勢と信濃青木氏」は「賜姓五役と令外官」を熟し、「9つの縛りの掟」を「氏族の伝統」にし、「五重相伝で神道仏道の融合」を図り、それで「伊勢郷士衆」で「氏族」を形成していた「律宗族」であった。
それがこの様に「恥の失態」を「称徳天皇から嵯峨天皇」までの約100年間の恥事を外に曝け出し続けたのだ。
故に、この編者の「天台宗の皇円」は元は「浄土宗法然の師」でもあるとすれば、「律宗族の戒めの例」として捉えられ事は充分にあったと考えられる。

「伊勢青木氏に伝わる口伝」では、その「自殺した井上の呪い」の様は、「逃げ惑う青木の玄孫域の女達」は、「福家や四家や神明社や清光寺」等に隠れ、又、「尾鷲の旧領地の各地」に散り隠れ、子供が生まれても隠したとされる位であった様だ。
中には、松阪の「追尊難波王等の二世族の娘」は逃げ惑い、又、桑名の「追尊浄橋王や追尊飽浪王」は「美濃の三野王」に嫁したとする程の話もあって、「青木氏の福家」はその為に「一族の氏族」がこの「政争事」に巻き込まれない様にする為に、「女系の伊勢郷士衆」を含む「女(むすめ)」等を「福家の一か所」に集め護り教育を施したとする「実話」が遺っていて、それが後に「四掟の強化や妻嫁制度と嫁家制度」へと発展して行ったとする「青木氏の重要説」もある位であり、恐らくは「学問的な証」は無いが、「感情の根底」にはあったと観ているのだ。
つまりの処は、「施基皇子から200年弱」の「後の事」として、「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に遭遇し、その上に「南家の藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」の「経緯の政争」が絡んで、「青木氏族」は右往左往した事を後世に遺し伝える為のものであったとされるのだ。

そして注釈として、この「伝統のシリーズの筆者の論」も「後世のロマン」として正しく繋して書き記しているのだが、其れと同じくそれを「家人の青木氏祐筆」が書き遺した事が何時か永く語り継がれ、「光仁天皇期の伝統の逸話と口伝」に成ったと観ているのである。
それだけに、既に、「臣下」して「商い」で「糧」を得て生きていた「庶人化・民化・殖産化していた族」に降り注いだ思いがけない「大きな出来事」であった事を物語る。
この「青木氏の中での騒動」は「90年から100年近い後」の「新撰姓氏禄」の”嵯峨期まで続いた”という事では無いか。
普通では耐えられないであろうが、然し、耐え偲んだのだ。
「政争」とは如何に恐ろしいものであったかは判るから、故に既に「賜姓族」でありながらも「庶人化・商民化・殖産化」していた「伊勢青木氏」は逃げ惑ったのだ。

この「青木氏の逸話と口伝」によく似た事が「上記の水鏡」に記載されていて、恐らくはこの事を間接的に指しているとも考えられる。

参考に、それを経緯を要約すると、次の様に成る。
770年の夏、「異母妹の称徳天皇・孝謙天皇」が崩御、その後を受けて、「追尊白壁王」は、8年後に「藤原氏の推挙」によって、「光仁天皇」に即位、この時、この「井上内親王」は「皇后」に成る。
他人王は若年で「皇太子」に、「光仁天皇」は、身の危険を感じて酒乱と成り、馬鹿を装う。
ところが、「光仁天皇即位」を拒んだ上記の立場にいた「吉備真備」は、結局は政界を退く事に成った。
そこで「2年後」に、この「后の井上内親王」は、密かに「巫女・神明社」に、天皇の呪詛をさせたとして、「皇后の位」を剥奪される。
皇太子と成っていた「他戸皇子」も「廃太子」と成る。

これは鎌倉時代期の「歴史書の水鏡」に書かれたものであるが、此処に真実は別として “「后は呪詛し、呪物を井戸に入れさせた イ“と、観ていたかの様にある。
“「光仁天皇の早死」を願い、「我子の東宮」を位につけようと願った ロ”と書かれている。
“「井上内親王」が「光仁天皇の姉の難波内親王・追尊」を「呪詛罪」により、「現奈良県五條市・名張の西」の「館・清蓮寺城付近か」に幽閉された。 ハ”とある。
“奈良に追いやられた時に「難波内親王」は懐妊しており、「五條市・名張付近か」で「男児」を出産した ニ”としている。
“「男児」が「母の怨み」を晴らす為、この「子」が「雷神」と成った ホ”とする。
この辺は神話的である。
以上が「水鏡」の関係する「五節の逸話説」である。
恐らくは、これは「神話的」に書いているが、「青木氏の福家等に伝わる上記の混乱話」が何処からか漏れて、それを神話的に表現して「言い換えたもの」として表したものであろう。

唯、ところが、「伝わる事」と「異なる処」は次の6つの通りである。
1 二人に呪詛したのは逆の井上親王である事。
2 他人親王を東宮にしていたのは白壁も同じである事。
3 呪詛したのは井上内親王である事
4 呪詛して奈良に追い遣られたのは井上内親王である事。
5 「追尊難波内親王・770年」は773年に二品に叙されている事。
6 結婚していない。ニとホは史実と違う。一族が密かに敵を討った事を意味するか 

この様に「水鏡」は史実と逆で違い過ぎるし、従って「皇円の律宗族の戒めの例」であろうとしている。

773年に追尊難波王を呪詛・没
3 何で姉が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?

この件は「上記・下記」した通りであり、その矛先は、「男女姉妹に係わらず「青木氏全体の政所」を仕切る「追尊と成った難波内親王・二品」に向けられたのは確かだ。
兎も角も、何度も論じているが「伊勢郷士衆」を含む「女系の氏族」なのであり、家の中は全て女系で流れて必然的にも「女性」が、「商い」は別として「政所は仕切る家柄」と成っていたのだ。
だとすれば、「追尊難波王が仕切る形」と成っていたし、「男勝りの頭の切れる特段に優秀な女性」であったとする「言い伝え」もある位であるし、確かに先祖を辿るとその血筋が地に流れている様だ。
「天皇家の祖の5大血筋源」の一つの紀族の「紀橡姫の同母姉」であり、「773年没」であり「白壁」とは4歳年〜5歳上であったとされるので、「即位の770年時」は「62〜65歳の独身」であった事に成る。
白壁の4同母姉で「海上女王>坂合部内親王>衣縫内親王・722年没>」であり、年齢も近く高齢で没している。
「追尊海上女王」が最も高齢で「追尊難波内親王」が下であった様だ。
若くして「元気で利発な難波親王」が仕切っていたとされる事は確実である。
「難波の忌名」は「伊勢青木氏の女墓」に「祖の母」として刻まれているが、当時は前段でも論じたが「神道であった事」に成るので、「皇位族の者」には生前中でも刻むと云う習慣があったので、これから観ると「65歳以上であった事・75歳以上の口伝資料もある」に成るだろう。
この事から、果たして「呪殺とする事」が出来るかであり、先ず「呪殺」そのものが科学的に有り得ないし、前段でも論じた様に、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度での関係」を上手く維持する上で難しく極めて忙しく「青木氏の政所」を一族を代表して仕切っていた筈である。
依って、そんな「呪殺等の悪事」を「伊勢郷士衆を含む氏族の周囲」が放って置かないであろうし、現実に、「難波」が死亡した年齢の前後に、何れの姉妹も年齢も近い事や長寿であった事もあり「同母の姉妹」は没しているのだ。
そもそも、これを不吉とした可能性があるのだ。
「二足の草鞋」で「商い殖産を手広く営む青木氏」が、「不吉とする概念」を持ち込む等としていてはそもそも成り立たない。
当時は、全体が「50〜54歳」が「寿命」であったとされていて、少なくとも相当に長寿であった事に成るが、現在でも長寿系にあって、依って、「姉妹」は充分な歳を得て没した事に成る。
仮に、呪詛であったとしてもそんな事を「伊勢青木氏」は四男の白壁に任して置く事は絶対に無い。
この説だと「伊勢青木氏」は無能という事に成り得るではないか。
そうだとしたらここまで生き延びてはいないだろうし「二足の草鞋」は成り立たない。。
現在まで絶える事なく続いている「氏族の氏上の御師族」であるのだ。
其処までの歴史観で以て公的な通説とするには疑問を抱いて欲しいもので、安易さに怒りを感じる。

773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
4 何で廃位して、更には庶人になったのか?

だとすると、通説としている説では「追尊難波内親王を呪殺した事」で罰を受けた事に成っているが、誰が罰を下したかに問題はある。
先ず「廃位させている事」なのだ。
少なくとも皇位に着いた以上は「朝廷の中」で行われるものだ。
然し、天皇の白壁に30年近い付き添った「光仁天皇」の自らの后と皇太子である。
簡単に「ウン」とは云わないであろう。
其れは「自らを否定された事」に成り得る。
それも「追尊難波内親王」と「自らへの天皇呪詛」とされる。
どの様にしてそれを「呪詛=呪殺=殺人」と確定させるかである。
何時の世もこれは確定は無理で、だとしたらそれを押し通すだけの誰か「天皇よりも大きな力」が働いた事に成る。
「天皇の声」は「絶対」であるが、この場合は「我子」までに結果として害を及ぶ事は誰でも判る。
依ってこの「絶対の声」は絶対に出さないであろう。
「白壁の光仁天皇」より「自らを否定された事」に成るとしても、それ以上に現実に「大きい声」はあった筈だ。
それは「普通の経緯で天皇に成った訳」では無いのだから「伊勢青木氏の福家」である事は間違いはない。
そもそもそうでは無い「青木氏独特の絶対権」を持った「神仏道の力までを持つ福家」である。
この「福家制度の大権」が在る以上は、「氏族」を護るにも「白壁」を安定にさせるにも降りかかった「災い」は間違いなく取り除くだろう。
それが、例え「藤原外孫王系の称徳天皇の関係者」であったとしても排除して「白壁」を護ろうとするだろう。
つまり、まあ、今と成っては「藤原外孫王系の勢力」を低く見ていた事を物語る。
場合に依っては「戦いが起こる事」さえもあり得えた。
然し、史実は「南家藤原系」とは戦っていないのだ。
その直前で、“その「藤原仲麻呂」が直前で滅亡した事”が在った事が実行できた原因と考えられる。
この事に就いては「不義理の事」である故に「記録らしきもの」は当然に遺さないであろうが、以上の状況証拠は充分に考えられ、「呪殺的な事」は無かったのであり、要するに「廃位」に追い込んだ上で庶人にして無ければ、「天下の大罪」が「氏族」に降り注ぎ取り除く事の出来ない「汚名」を「後世に遺す事」に成る。
その上で「災い」を取り除いたと観ている。
それが結果として「孫の命を奪う事」に成るとしても「災い排除」を選択したのではないか。
出自元の「朝廷の天皇」が、「上の者」を「廃位」し「庶人化」させる事は出来ないしその権限はない。
「福家」は苦しい選択であったろうが、その意を白壁に裏で伝えたと考えられる。

775年に二人は没・自殺
5 何で名張に移され自殺したのか?

上記の通り「廃位」にし「庶人化」させる事は、生きて行く糧を失い、必然的に自殺する以外には無く成る。
この事は伊勢は承知であったろう。
問題はその「場所」であろう。
それが「「名張であったという事」では無いか。
廃位して庶人にし直ぐに死んだとした場合は殺したとする批判は躱す必要が出る。
これを避ける為にも一族の管轄下の「名張」で匿う形であれば結果としての目的は同じでも「大義の対面」は保たれる。
故に、「3年後」であったのであろう。
従って「牢獄」に入れられていたとする説は当たらない。
そんな事をすれば「伊勢衆」からも世間からも間違いなく不必要な批判を招く事は必定で、そんな手を使う馬鹿はいないであろう。
恐らくは、「名張の清蓮寺か清蓮寺城」であった筈である。
「青木氏の清蓮寺城と清蓮寺の事」を知らない者はこれを「牢獄」としたと観ている。
誰が遣っても「后」「皇太子」であった以上は絶対にそんな馬鹿な措置はしない。
少なくとも「一族内の処置」として「尼僧と成った3年間後」と「名張」で看て一生の寿命までを世話する計画で扱ったのでは無いか。
然し、彼等は「内親王」とし「后」としての「自負心」を捨てずに「将来」を悲観して耐えられなかった事に成る。
然し、結果としてはその様な環境を生きてきた人物がこの「絶望の環境」を耐えられるとは一族の者は当初から考えていなかったであろう。
意味する処はそこにあった事は判る。

776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
6 何でこの時に暗愚を装う必要があるのか?

「酒飲んで暗愚を装うと云う事」は、当初の「白羽の矢」の時にもあったし、「伊勢青木氏」の中では「口伝」や「逸話」で、「白壁」だけでは無く、四世族までの一族男子の全域子孫域まで何らかの形で装うか逃げたかとされているのだ。
「二世族」では「白壁・54歳(正式4男の説と嗣子6男の説)」が、「井上内親王・717年から775年」が「伊勢神宮の斎王」が解け「帰京・744年」したその「27歳の井上内親王」と結婚したとある。
これに対して、中でも二世族では最も「白壁」が一番若かった事もあるが、「玄孫域」でも年齢適任者は大勢いたが殆どは隠れたとしているのである。
女子は一族の一員に加わった「井上内親王の奇行や怨念」を恐れていたらしい。
兎も角も「妻嫁制度」で護られていたらしいが、中には「神明社巫女」や「斎王館の十二官女」や「菩提寺の尼僧」に成って凌いだと青木氏の中では伝わっている。
この様にその「隠れ方」等が「逸話」で伝えられていて奇抜で興味を持つが、何か「精神的なストレスから奇行」に走っていた事が予想できる。
だから、“触らぬ神に祟りなし”で男女ともに感じ、取り分け「男子」はその術が無かった為に「酒飲んで暗愚を装うと云う事等」に成っていたのではないか。
「政変と云う事」には、仮に暗愚を装っても立場がある以上は巻き込まれる事には変わりはない筈で、この説はそもそも「疑問」であり、上記の様に「口伝や逸話で伝わる話」が真実ではないかと考えられる。
「井上内親王の一族内での精神的なストレスからの病的な奇行」が原因していたのではないか。
つまり、「聖武天皇の第一王女の立場」と「伊勢青木氏の伝統」の「格式の差」に納得が行かなかったのでは無いか。
仮に「天皇家の内親王」と云えども、「施基皇子の二世族・天智天皇の三世族で冠位官位官職・永代浄大一位・賜姓五役・皇親族・律宗族・令外官・家筋等」、挙句は「財力」等一切」のどれを執っても劣るものは無く、寧ろ格段に優れていると云う差があった。
「出自元の母」は「夫人県の犬養広刀自」であるとして、「内親王である」としても「県の姓」は地方の低官僚で極めて低位であるが、一方、「白壁等の兄弟姉妹」の多くは「太政大臣紀諸人の娘の紀橡姫・とちひめ」で「施基皇子の妃」である。
参考に上記したがこの「紀氏」は「飛鳥政権構成五王族の一つ」である。
精々あるとするなら、「賜姓臣下朝臣族・敏達天皇第四世族であると云う事」であろう。
「井上内親王」はこの「解決し得ない格式差」に一族の中で「36年間」、共に生活して悶えたのであろう。
「内親王とする自負心」がそれを解決する事が出来なかったのであり、同じ「母・紀橡姫」とする「青木を仕切るやり手の難波」に勝手に奇行を向けたという事であろう。
それを一族から厳しく排斥に近い形で叱責されていた事に成ろう。

776年まで健康に政務
7 何で6の史実に矛盾しているのか?

記録では、史実の記録では没する直前まで健康に光仁天皇は机に向かって政務していたとするのに、6で何で暗愚を装う必要があるのか?は、矛盾の極まりの疑問であり、天皇は矢張り高齢で781年(778年没説もある)に没している。
そもそも、暗愚を装えば政務は正常に執る事等は出来ない。
確かに、上記した様に「青木氏の資料」では、「744年の結婚前後」には確かに「酒に依る暗愚を装っていた事」は幾つかの文章の行で遺されている。
781年に没する突然の3年前にも又遣った云う事か。そんな事はない。
744年結婚、この時、最低説「54歳・青木説」であるとし、776年の32年間+54歳とすると86歳と成るのだ。
故に「酒の暗愚」そのものが不可能であるし、「井上内親王の件」も既に「775年没」で解決しているのだ。
又、86歳で酒を飲まなければならない程度の人格かと成るし、この程度の人格と云う疑問がありそんなことは無いだろう。
「過去の人生を憂いての事」か、だとしても高齢で没するまで「政務・山部王781年譲位」を譲位せずに熟している以上はこれは「疑問」であるし、“今更この歳で”と云う感じがする。
この「通説からの検証」では、「結婚前後の青木氏の騒ぎ」を捉えて面白おかしくしたとしても、そもそもその「時系列」が間違っているのだ。
せめて「青木氏の歴史観」もあると予想できるのだから、「時系列」でも矛盾の出無い様に合わして貰いたいものだ。

筆者のこの「経緯の結論」は、「伊賀の平族の裔孫」の「妃の高野新笠」の子の「山部王との皇位争い」に巻き込まれていたと観ていて、それを770年以降に「青木氏が推す姿勢を採った事」から発生した事では無いかと観ているのだ。
然し、「青木氏」に伝わるこの「高野新笠のルーツ」と通説とされる説とでは少し違うのだ。
それを参考に追記して置く。
「天智期」に渡来し「伊賀の里」に住し「半国割譲」で住んだ「たいら姓」を賜った「阿多倍王」の「裔孫女」で、その「伊賀青木氏との関係」からその「女・新笠」を「白壁の妾」として迎えたとし、「二人の妾子」を宿すとあり、重要な記述は,"光仁期に「妾新笠」は「高野朝臣」を賜る"とする行がある。
「阿多倍王」は前段でも論じた通りであり、歴史の経緯鳩史実は「天智期の史実」と一致するので、依って「伊賀の女(むすめ)」は「白壁の妾新笠」に相当するのだ。
「宮人」は「妾」に一致していて、且つ、「伊賀女」に相当し、この「伊賀の女(むすめ)」は「半国割譲の伊賀住人の阿多倍王の裔」に相当し、「伊賀女」は「新笠」に相当し、この「妾」に相当して、後の「光仁天皇の宮人」に相当する事に成り、「同一人物」である事に成る。
正式に「白壁の妾」は依って“「光仁天皇の790年に宮人」に成る”は一致している。

そこで「通説との問題」は、「始祖」は「百済系渡来人の和氏」であるとしているがここが大きく違う。
「和乙氏・和気氏」、母系は「宿禰の土師氏」としている。
然し、この「和気氏」は「百済武寧王の子孫」とされるが、歴史的に「伊勢の施基皇子の伊賀領を半国割譲し与えた」とする「阿多倍王以外」には他に記録は無い。
つまり、“「和気氏」の「百済武寧王の子孫」”は明らかに間違いである事が判る。
又、「阿多倍王の別名の「伊賀の高見王 高尊王・平望王」の別名を持ち、「桓武天皇」の「祖父の里」として「伊賀を訪れたとする史実」は「和気氏」には無い。
依ってこの「和気氏」は、「結城氏や額田部氏」と共に「朝廷の三大技術集団」であり、この「土木技術系の和気氏」は、史実は「百済系である事」と、この「一族」は「出雲朝廷」とも関係していた史実とで、「伊賀との繋がり」は別にして、その内容には異論が無いし、従って「伊賀」には歴史的に関係していないので、よくある「和気氏の姓」に繋げる「系譜繋の後付け策」であろう。
この「渡来人の和気氏の通説」は、何れにしても「日本書紀」にも明記されている様に「和気氏には伊賀記録」は全く無く、何かの目的から「渡来系の技能集団」で恣意的間違い敢えて起こして欺いているのである。
この様な事が、兎角、「通説」と云うものには付きまとうのだ。
「室町期中期か江戸初期の後付けか明治維新」で実に多いので此処を以上で先ず質して置く。
こう云う事は歴史で実に多いので良く歴史観を検証してからの説の使用とする必要がある。

注釈として同様な例として、此処では「たいら氏・桓武天皇の賜姓族」と「ひら氏・天智天皇期の大化の改新」で「坂東に配置された第7世族裔系」との混同である。
この「坂東のひら族・坂東八平氏と呼ばれる」に対して、賜姓で「たいら族・桓武平氏と呼ばれる」とし、「天智天皇・ひら族」と「桓武天皇・たいら族」は、その「違い」を賜姓時に明確にする為に命名したとする「記述・記録」があるのだ。

「阿多倍王」も「32/66国無戦制覇」した「後漢の技能集団・618年200万人渡来」であり、「日本書紀等の史書」にも「伊勢の伊賀」と「薩摩の隼人と阿多」を「半国割譲」され、「敏達天皇の孫芽淳王の娘」を娶り、「准大臣」に任じられ、「3つの賜姓・坂上氏と大蔵氏と内蔵氏」を受けている史実があるのである。
この「伊賀」に住した「本家の裔系」が、「桓武天皇」から「たいら姓の賜姓」を授かり、その「長寿阿多倍王の裔系」が「長男の国香・935没―子の貞盛・989年没」であり、後の「平清盛・1118〜1191・たいらのきよもり」と繋がるのである。
この「清盛・高尊王より7代目か」は、「1153年」に「伊賀」より「播磨国」を領し、一族は移住したが、この「1153年の段階」で残るは「伊賀青木氏」と「元伊賀族」と「元渡来系族」の「3族」と成っていた。
この3族」を以て通称伊賀者と呼ばれる族である。
従って、「光仁期の段階」では、「妾の新笠」は「618年渡来後の阿多倍王の孫」に当たるが、その人物は時系列より「國香の前」と成り得るので、「長寿阿多倍の異名」として遺るとされる「平望王・高見王・高尊王」と成るのだが、“この「平望王」に「桓武天皇」が土産を持って伊賀に見舞いに行った”とする「史実の記録」があり、「別人」と確定できない。
「阿知使王の子」として「阿多倍王」が「618年」に渡来後に指揮して活動する年齢を15歳とすると、これを「本人」とはするのは年齢的に「人間の寿命」としては無理であり、この「別名・異名」とする「賜姓平望王」と「高見王・高尊王」は「同一とする考え方」は、無理と成る。
そこで「高見王・高尊王」は、その「高齢後の本人別名」として分離すると符号一致する。
筆者はこの「高・・」に着目していていて「高・・を着けたとする根拠」があるのだ。
それは、「白壁}が770年に「光仁天皇」と成った時点で、この「妾の新笠の身分」を引き上げて、この「平望王の父祖」の「高見王・高尊王」の「高」を使って、これを復活させる為に「高野の朝臣姓」を与えたのは史実であるのだ。

唯、別の説もあるので紹介する。
この「高野」は「白羽の矢を立てた孝謙天皇の別名」で、「高野皇女」と呼ばれ「高野朝臣」とした時期が在った事が史実にあり、この高野を新笠に与えたとする説が伊勢にある。
この説は伊勢に執っては重要な意味を持ってくる。
それは、「孝謙天皇」は、「白壁の妃」であった「伊賀の新笠」に、この「高野」を与えた事で、高野新笠と呼称する様に成ったとし、「高野朝臣族」から嫁いだとして格式を引き上げた事に成る。
つまり、この説であると「孝謙天皇」は嫁がせた姉の「井上内親王」を無視した事にも成り、同時に信用していなかった事に成る。
これが後の井上内親王の鬱を招いたとする事にも成る。史実の前後の経緯が一致しているので必ずしも俗説とはならない。
「高見王・高尊王」の「高」は息子の桓武期の後の経緯の事と成るので「高野朝臣説」が正しいと観ている。

「高見王・高尊王」には、既に上記の通り「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を娶り「准大臣」にし,その子に賜姓して「三つの賜姓」をして「天皇家の一門」に加え「格」を与えている。
つまり、従ってこの「無格式号の平望王・この王名は後漢の王位」も「高齢」と成った処で「本人の号」としてのこの「別名」を与えたのであった。
この「平の姓」から「たいら族」と成っている。

そして更に「光仁天皇」はこの「平望王」に日本の「姓の朝臣姓の高野氏」を与え、その子孫で「白壁の妾」と成っていた「新笠」には、この「父一族の賜姓の高野」を名乗らせた事に成るのである。
これは現在でも「格式ある家筋」で行われているもので「当時の習慣」であった。
つまり、時系列から追えば「桓武天皇」と成った訪問時に「賜姓」をしたが、矢張り高齢と成っていた“「平望王」”が「新笠の親」であった事に成るのだ。
つまり、故に「たいら氏の賜姓の平」と成っていると観ているのだ。
然し、前段でも何度も現在も論じたが確定はされない。
此処では、時系列と状況証拠が一致するので先ず間違い無いと思うが、「新笠」は“「平望王の娘」”とする。

733年に追尊能登女王
737年に追尊山部王・桓武天皇
(744年に白壁は井上内親王と婚姻)
750年頃に追尊早良王
以上を「妾」として3人を生む。

「白壁」が「天皇」に成った「770年即位」の「前の事」である為に、この「3人」は未だ「青木氏の妾子」であり、その「皇位の継承権」はこの段階でも全く無かったので「追尊王」と成る見込みも無かったのだ。
要するに、「最高の格式の伝統」は有すれど「普通の商いをしている四家の青木の子供」であった。

この様な状況から、「井上内親王の事件と混乱」は、「白羽の矢」から始まり。遂には「婚姻と即位と云う事」に発展して、益々、激しさを増す中で、未だ「皇親族であった青木氏」としては放置できなく成っていたと観られる。
これは「施基皇子の氏是に反する事」ではあり、「律宗族」に反し、「賜姓五役」、「9つの縛りの掟」、「四掟の信頼失墜」、「妻嫁制度の品位低下と混乱」、「嫁家制度の失墜と非難」、「伊勢郷士衆の氏族の信頼と非難」、「氏上御師様の信頼失墜」に繋がる事として「介入する事」の以外に無く成っていたと考えられる。
それが、上記した措置であったのであろう。

念の為に追記するとこれを観ると、「孫域」では「天智天皇系」からすれば「曾孫域と成る桑名殿」などは選ばれている筈の「適任者」であったが、「天智系説の理屈」や上記した様に「そうでない他説」としても、矢張り、「称徳天皇の考えの根底」では、「吉備真備」などから報告され、且つ、自らも伊勢に何度か赴いている事から、彼等が「白羽の矢」に逃げ惑っていた事は当然に知っていた筈で、然し、この「歳を取った暗愚を装った白壁以外」に「彼等が思う適格者」は居なかったのでは無いか。
つまりは「青木の騒ぎは見抜いていた事」に成る。
つまり、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢」には「平均寿命55歳」、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの事を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、「天智系」で云えば最も近い「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中で「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は口伝や噂を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」に続く。(43P)


  [No.391] Re:「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/08/15(Sun) 10:06:01

「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」の末尾

つまりは、天皇を含む天武系の朝廷は「青木の騒ぎ」を見抜いていた事には成る。
言い換えれば、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢・54歳」には、「当時の平均寿命55歳」であり、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題」は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの「二つの事実」を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、天武系にしないで「天智系」にしたとと云う事云えば最も近いのは「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中でも「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば、「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「婚姻した井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「伊賀から嫁いだ妃の新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って、「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く、「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は「口伝や噂」を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」

筆者は、この上記の全経緯を観ると、筆者は、「伊勢青木氏」は「四掟に基づく氏是」では無い、飽く迄も「天皇家との血筋の断絶」と「天武系の血筋との断絶」と「藤原氏南家の血筋との断絶」の3つを図って、止む無く「孝謙天皇の白羽の矢」を「744年」に受ける事と成って仕舞ったと観ているのだ。
そしてそこで、この「難題の災い」のこれを排除しようと画策する事を考えたのでは無いか。
然し、ところがそれが「白羽の矢」だけでは無く、忘れた頃の「26年後」の「770年」に“「天皇」”と云う「施基皇子の氏是に反する事」を遂に招いて仕舞ったのだ。
間違いなく「福家と四家の失策・読み間違い」であったと考えられる。
その「失策」は、「井上内親王の性格と狂行から来る出来事」を、青木氏の為に最小限の犠牲として“「四男の事」”として「放置した事・見放した事」にあったと観る。
結局は、故に本来は「青木氏の氏是」を護れば「伝統」として動かない筈の“「律宗の福家」と、「商いの四家」は最低限の処で動いた”と云う事に成ったのだ。
そして、「施基皇子・青木氏」が護って来た「青木氏の氏是」に反して、「政争」に巻き込まれる可能性のある「天皇位を招いてい仕舞った事」は、如何せん「失策」として止む無いとしても、今後の事を考えても最低限の「四掟に沿う相手」を選定したと云う事だ。
それが最も問題の無い「高野新笠と山部王」であったと云う事なのだ。
実は、この時、史実として「伊勢青木氏」は止むを得ないとしても「天皇家との乖離策」も図っているのだ。
一族の者が天皇家と成って仕舞ったので、その「関わりと血筋を薄める事」を図ったのだ。
前段で論じた青木氏の数々の女系制度である。

この時、「伊勢」は次の策を講じている。
この時、「近江川島皇子の裔」との血縁が「四掟の範囲」として進んでいた。
この「川島皇子の裔」とは「同族相互血縁の状況」を造り出していたのだ。
丁度、「{伊勢と信濃との関係」と同じである。
その相手の「市原王」は、「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・追尊能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
既に、ここで「川島皇子の近江佐々木氏」では、当然に大きな「血縁に依るトランスポ-タ」が蓄積されていた。
同然に「青木氏族の所以」もである。
ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「追尊能登王女」の「子女・娘」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入っていた。
ところが、この「母親の追尊能登王女」が共に「娘」と「伊勢に戻ると云う事」が今までに無かった事であるが、それが慣例外で突然に起こるのだ。
当時としては前代未聞であったろう。
これは要するに前段でも論じた様に「後家として戻った事」に成る。
これが「日本の後家制度の始り」であると云われている。
つまり、ある理由があって、“正しくは離縁して「関わる一族と娘」を引き連れて戻った事”に成るのだ。
そして、この「後家と成った追尊能登王女」も「青木氏の四家」の「叔父に嫁した形」を採っているのだ。
当時の習慣ではこの様な例は無い。
この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等内血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポ-タ」が蓄積される事と成っていた。

処が、ここで更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもあるが、既に、この「曾孫・市原王」のここに更に今度は「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「追尊名張王女」”が「後妻」として嫁したのである。
何故に、この様な事が起こったかと云う事だが、当時の「皇親族」の中にはこの慣習は無かった。
それ故に、これだけの事をする以上には「それなりの理由」があった筈である。
従って、この事に付いて「家人の家」か「何処か」に行けば何らかの形で推測できる程度に書き遺されている筈と観て調べた。
調査の結果、判って来たのは、先ず“後家”と云う当時としては全く珍しい言葉であり、そして「近江佐々木氏」、「市原王」で、「四家の名張殿との関係」であった。
当時,この「桑名殿」には“「能登」”と云う「女(むすめ)」がいた事が判っていて、この「「女(むすめ)」の“「能登」”は、「佐々木氏の研究資料」から「市原王」がこの「桑名殿の女(むすめ)」を娶った事が判った。
ところが、この事が後に“「能登」”では無く、「名張殿」の「女(むすめ)」の“「名張」”と成っている。
要するに、“人が入れ替わっている”のである。
つまり、この「入れ替わり・すり替わり」に意味があって、ところがこの「青木氏の歴史時系列」より「市原王」は「764年頃」を以て歴史から消えているのだ。
これは資料の読み込みからの「専門的な青木氏の通説」では、色々の説があって、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」があるとしているが、最も有力な説は次の様に成っている。
そもそも「彼の出世」は史実として「藤原仲麻呂」のにて成し得たものであり、乱にて「仲麻呂派」に属して失脚した説が有力であるのだ。
然し、その結果として、故に、“「桑名の能登」が「青木氏の関わり」を避ける為に「伊勢」に引上げてさせて「後家・当時としてはこの慣習は「無く珍しい事」と成った”としていのだが、「青木氏の資料」の中からの行でよく調べると、その後に「名張殿の名張が嫁いでいる事」の「行」があるので、この説は当たらないと考えられる。
つまり、関わりを隠すために「後家として引き上げる事」の「珍事」を行った後に、「名張を嫁したという事」はこの事に何かが在った事に成る。
つまりは、「後家の珍事を打ち消す行動」を両氏は執ったと云う事だ。
「白壁」が即位するとそもそも「伊勢」の中ではその様な「過激な事」は氏是で出来ない。
これ等の「状況証拠」より「764年〜769年までの出来事」と云う事に成る。
そう成ると「白壁」が770年に即位した「直前の事」に成るのである。
「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚して「30年〜35年後の事」である。
これが「結婚話・a」が進み「井上内親王の兇状・b」が激しくなり始めた時期と観ると、とすると、「伊勢側と近江側」では、「施基皇子の氏是」に伴い「どの様な態度」を執るかである。
上記した様に「嫌々ながらの井上内親王との関わり」を持った以上は、aとbから唯一つ「嫁家制度に係わる女(むすめ)」を「四掟の範囲で護る事」である。
もう一つは、「能登の嫁ぎ先」の「近江佐々木氏が関わっていた政争」から逃れる事であろう。
この「二つを解決する手段」は、「能登を伊勢に下げる事」、「名張を伊勢から逃がす事」で解決する。
そうすると、「名張の女(むすめ)・追尊湯原王の娘・名張殿」を「伊勢から逃がす事」の「近江側の通説」に関わるだろう。
参考として「・松阪殿―春日王」、「名張殿―湯原王」、「桑名殿―榎井王」、「員弁殿―一志王」である。

「名張」が嫁いだとすると、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」の前二つは成り立たない。
ここで「名張が嫁した史実」は確実なので、「失脚説」で「能登」を下げ、暫くして失脚の所に「名張」を嫁せさせれば、「伊勢としての近江への縁戚関係」は、事を八方荒立てる事は無く穏便に正常に保てる筈だ。
この奈良期の時期は、未だ「近江佐々木氏」は「源氏化・嵯峨期以降」していないので「伊勢」とは良好な同族血縁関係を保っていて、これは「記録」に遺るものである。
そもそも「770年の即位期」を以て以降は、「出自元」となった以上はこの様な「過激な事」は出来ないだろうし、つまり、これは「764年〜769年までの出来事」であり、「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚時には充分に予測できた筈であるし、そして史実として「伊勢の四家の男女者等」を問わず避ける様に動いたのだから、その「最後の直前の事」と成る。
「名張」が「15歳程度の適齢期」に達していた事は判っているので、この時、朝廷の中では「朝廷の称徳天皇の後継者・阿倍内親王・孝謙天皇」が即位しても、その次の「皇位継承の見通し」が立たず、「彼女に代わる天皇を求める動き」が「彼女の崩御後・770年」まで続く事に成っていたのだ。
つまり、そこで「施基皇子の孫の名張」を迎えて、「後継者に建てようとする動き」が「朝廷の中」に元々あったのでは無いかと観る事が出来る。
つまり、それが次第に大きく成り、“これを「事前」に察知して、「苦肉の策」として「能登」を下げて「近江」に「適齢期の名張」を嫁がせて逃がした”とする「伊勢の歴史観の説」である。

だとするとこれには、「近江の賛同」が必要であった。
そこで「伊勢と近江間で密かに協議していた事」に成る。
つまり、「近江」、即ち、「天智天皇の異母兄の第六位皇子の川島皇子・691年没」の「佐々木氏・齋齋木氏の賜姓族」でありながらも、「大津皇子の謀反密告の史実」から「日本書紀に記載無し」の「扱い」を受けた程度で、「天武―持統系の朝廷」から無視されて、「苦しい経済的な立場」に史実として陥っていたのだ。
この「近江の佐々木氏」を「血縁族」として支えていたのは、当然に「四つの院号の格式」を獲得して「朝廷の殖産」で「二足の草鞋策」を一手に営む「伊勢青木氏」であった事から、「「近江の賛同」が得られ易い環境下にはあったのだ。

その証拠に、この関係が「光仁期」から続いていたが、「最後の仕上げ・自立」の様にして「平安遷都の直前」に「伊勢の私財」を投入して「真砂土壌の近江の干拓灌漑開墾・楮和紙生産」を「額田部氏の協力」の下に成して財力の無い「近江の経済力」を嵩上げした史実がある。
これ等の事は前段でも論じたが、然し、其れにも拘わらずこの直前には、「天智系の裔族」であったにも関わらず、前段で論じた通り「近江佐々木氏生き残り」の為に「天智系」でありながらも「天武系の裔孫」と成ったのだ。
ところが、更には「桓武派」と「嵯峨派」に分かれた「嵯峨期」を境に、「源氏化」して「伊勢との関係は悪化」し、遂には「血縁関係と経済協力」は結局は「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で歴史的に完全に無くなっているのだ。
従って、だとするとこの事件の実質時期は、上記の「764年〜769年」の頃に「情報」を得て「名張逃がしたとする説」は納得出来る。
故に、「伊勢・白壁」が「天皇筋と成る事」には、最早、避けられ無かったが、少なくともその後には「天皇家」へ婚姻で“「伊勢から絶対に入れると云う事」”はしなかったのである。
入れたとしても、上記した様に「光仁天皇の娘・酒人内親王と孫娘の朝日内親王の二人」で終わらしたのだ。
故に、「伊勢青木氏出自の天皇」は「血筋的」には、「天皇家と云う繋がり」では、「光仁天皇」より「四掟の規定通り」に考えると、「第四世族・曾孫」の「仁明天皇・嵯峨天皇の子」までと成るのだ。
それ以降は現実にも「外孫王の血筋」も「天皇家」では強く成っているのだ。
つまり、「血筋の繋がり」は無くなったと云う事に成る。
「伊勢青木氏」でも、「妻嫁制度」に依っては「玄孫」までとしているが、「施基皇子」からは「第五世代・玄孫」の血筋外と成る。
つまり、内外に於いて消えている事に成るが、これが「嫁家制度」の「第五世代・玄孫」とした理由であり、これに依りの血筋外としと成る原因だろう。
つまり、何にを云わんとしているかと云うと、何れから観ても、「仁明天皇」までと成り、この「光仁期での判断」としては、「伊勢」では「光仁期の娘の範囲」で混乱を留めれば、“「天皇家との繋がりを避けられると判断していた事」”に成るのだ。
そして、この「無関心」を装う「伊勢青木氏の出自元の姿勢」が、“嵯峨天皇には気に入らなかった”と云う事もあったのでは無いかと考えられる。
更に、それ以降は、「天皇家の政争の場に引き込まれる事」は無いだろうとしていたと云う事に成るのだ。
その「桑名殿の追尊榎井王の浄橋や飽浪等」と共に、この「最後の血縁の仕上げ」が「市原王の名張・追尊湯原王の娘」であった事に成る。

此処で解決して置く「疑問」が一つあるのだ。
それは「焦点」と成り疑問の多い人と成っている「市原王」の事である。
これを解き明かせば、白羽の矢が伊勢に飛んできた理由が成る程と納得して判る筈だ。
そもそも「近江の川島皇子」は、「施基皇子」と同様に「天智天皇の賜姓臣下族」であり、「近江の斎斎木」の地名」を貰って「賜姓」を受けている史実が遺るし、佐々木氏の研究資料と青木氏に付いての研究資料にも記載されている。
「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、神道で使う「青木の神木」から採って「賜姓」と異なったもので最高の格式名である。
これに対して「地名の賜姓」は、「近江の斎斎木の佐々木氏」に限らず「当時の仕来り」として「一段低い格式の扱い・宿禰族以下の臣・従五位以上」を受けた皇子程度に与える「仕来り」である。
然し、「川島の皇子の第六位皇子」でありながらも「第七位の施基皇子の賜姓」より相当に低く扱われた事の格式史実が遺る事に成る。
唯、「近江の斎斎木」は神職の地名に由来する由緒ある地名ではあるので、普通の地名では無く天智天皇はその意味で賜姓したと予測でき、「神木の青木」に継ぐものである事も判断できる。
然し、地名は地名であってここに差を着けたと観られる。
賜姓臣下した事で「王位」は、「施基皇子」の様に臣下後に「伊勢王」の様に「守護王」に成らないと無く成る仕来りである。
仮にあったとしても「孫の市原」には「王位」は追尊が無い限りは本来は着かないのだ。
そもそも「近江」には「天皇に成った人」は「伊勢の白壁」とは違い居ないので「追尊」は無かった筈である。
では何時ついたのかであり、そこで唯一つ考えられる事はある。
それは「光仁天皇」に依って「没後の施基皇子」は「追尊春日宮天皇」を正式に受けている。
とすると、「市原」は「施基皇子の外曾孫」でもあるとしているまで王位の追尊は受けられる事が判るが、但し、だとするとその「父の安貴王」は「施基皇子の孫」と成るので伊勢の者と同様に「追尊王」と成る。
然し、これにはそうでは無いとする否定説もあり、孫説と曾孫説がある。
この追尊は「伊勢」でもあった様に、「二世族」まで受けるが例外的に「第三世族」まで受ける事もあり得た。
「第四世族」では「伊勢」でも「追尊の史実」は無かった。
「市原・能登の子」は、「追尊春日宮天皇の施基皇子」からは「第四世族」であり追尊と成った理由から例外である。
もう一つは「即位光仁天皇」からは「第三世族」と成る。
そうすると、「川島皇子」には「二人の嗣子・三室王745没と高尾王749没」が居て、「市原の父の安貴王の父」はこの「二人」では無く、「施基皇子の春日王とする説」があり、系譜が有り得ない程に混血で混濁している。
この事は当時としては混血の混濁は史実である。
「安貴王」は、「施基皇子の孫では無いとする否定説」も当然の事として正しい事に成り、その「経緯と年齢」から「三室王」が「安貴の父」と成る。
実は、この「安貴王」は「不敬之罪・不倫」に問われ、「安貴王」は「官位剥奪・自宅謹慎の刑」を受けていて、正確では無いが、「川島皇子三世王の叙位を受けている事」から再び「無位」に成った後に「従五位下」に叙爵されたとしているのだが、これは朝廷の当時の仕来り上はあり得ず間違いなく「後付け」であり信用できない。
その根拠は、この前提を紛失した後の「新撰姓氏禄」に在るとしているからだ。
「後裔と主張する者等」が、この「不名誉」を逃れようとして仕組んだ「後付けの細工」であろう。
この「間違い」は、前段でも論じたが「安貴の子孫とする裔の春原氏等」としながらも、然し、「市原の子孫」とはしていない事から大きな矛盾で「後勘での錯綜か錯語」と思える。
「川島皇子の裔」は「近江の氏族」であり、「姓」を出さない「佐々木氏」であるのに、何故、「姓の春原氏」なのかは判らない。
「青木氏」と同然に「裔は青木氏」であり「姓」は出さないで「郷士族」として「氏族」を形成していたのだ。
「諡号の姓」は「新撰姓氏禄」でも「敏達天皇四世族の天智天皇」の「真人別」の「淡海朝臣」であり、「近江の諡号姓」の「春原朝臣」は「朝臣別」に存在するが出自は「真人別」とするところであり矛盾している。
この「諡号の姓」が両方に存在するのは「淡海朝臣」を根拠に「紛失後の後付け」に利用されたものと解釈できる。
何故ならば、もし「真人別と朝臣別」に持つ事が編集時に成っていたとすれば「伊勢」も同然に出来ていた事に成るが、「敏達天皇の四世族・春日皇子系・21と37」に成っている。
正しくは、史実は「天智系の川島皇子」も「天武系の裔系族」からも阻害されていたが、これを観て「持統天皇」に同情したとする史実がある。
「賜姓臣下族」と「皇位族」を外れたとしても、「持統天皇」から「二世族と三世族の叙位」を正式に受けた「川島皇子の裔」は、この「三室王・745年頃没」と「高丘王・749年頃没」の「従四位下の三世族」までの「二人」と、―「安貴王・745年頃没」と「市原王・763年頃没」の「記録」から観て、「正式叙位」は授かっていない。
それ故に、そもそも普通は出さない「四世族の王位」は疑問であるのだ。
且つ、「後者の二人の官位」は「従五位下」であるので、「王位の官位」の受けられる立場ではそもそも無い。
つまり、「市原の段階」で「近江佐々木氏族」は、衰退をしていた筈で、その意味で「能登―名張」の「婚姻の背景」の「疑問の状況判断」が判るのだ。
「川島の皇子と施基皇子の孫」であった史実の事から「施基皇子の追尊」によって得られた王位である事が判る。

この事からも「近江の川島の皇子の裔系」に「白羽の矢」が向かわなかった事が「前段の財力の論」もあって判る。
この「白羽の矢」の飛ぶ方向を朝廷内で最後の会議が成され、前段でも論じた様に「川島の皇子の三世族」が一族を引っ張って伊勢の白壁を推す展開の史実が記録されていて、結局は近江で意見は分かれて一族争いが興った事が記録されている。

ここで念の為に追記するが、「伊勢青木氏の施基皇子」から「二世代と三世代の約33人」は、確かに「770年の光仁天皇即位」による「追尊王位」を得ているが、「近江佐々木氏」の様に「世代叙位」を誰一人受けていないのだし、寧ろ、「白壁」と同じく逃げたのだ。
これは「伊勢と信濃の青木氏の生き方の姿勢」を適格に物語るものである。
要するに、これが「施基皇子」が示した「青木氏の氏是」なのだ。
「氏の人格」、況や、「氏の氏格」で「近江佐々木氏」と根本的に違った点であった。
「五家五流青木氏の内」の「近江美濃甲斐の三つの青木氏」は源氏化し、「伊勢と信濃の二つの青木氏」は源氏化しなかったのだし、此処に「生き方の姿勢の差異」がこの時に生まれていたのだ。
「近江佐々木氏の縁籍の近江青木氏」は、結局は主家を裏切る事は出来ずに源氏化したのだ。
要するに、近江に嫁した「能登―名張の女系」で「近江に青木家を興した家人青木氏」として派生出自した「二つの近江青木氏」は源氏化して消滅する。
これも前段で論じた様に「嵯峨天皇の失策」が「青木氏」を消滅させてしまうのだ。
同時期の同例に「桑名」から「浄橋と飽波」は「美濃」に嫁したが、「主家の三野王の生き方」に賛成せずに「美濃の額田青木氏・一色」を興し源氏化で隠れ偲んでいた。
遂に、「伊勢」はこれを救い出す事に成功するのだ。
そして、前段でも論じた様に「三河渥美に額田青木氏」を「殖産」で大発展させたのだ。
この差は歴史が物語る様に「生き方の姿勢の差異」であって、尽きるは「青木氏の氏是」を護るかどうかの差異に通ずるのだ。
これをよく示しているのが、“「二世族三世族の叙位を求めたかの有無に在る」”のだとしている。

戻して、従って、上記した「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で、゜近江系との関係性」は、歴史的に完全に無くなるとした事は、「王位の無い立場」の「市原・763年頃没」の「記録」は符号一致しているのだ。
だから「婚姻先」として目立たぬ様に、「能登の処置」と「名張の処置」を一度に策した事に成り、これが成功した事に成るのだ。
そして、前段の論の通り“「見返り」”として「窮していた近江佐々木氏」に何とかして立ち直らせる様に、これに対して「琵琶湖東の真砂土壌の干拓灌漑開墾の20年大プロジェクト・大難工事・額田部氏」を実行したと観られるのだ。
筆者はこの事があって「長岡京遷都・784の工事と平安遷都・794年」を断った理由の一つしてと観ているのだ。
この直前にも、「天武・持統の野口王墓の古墳増築管理」に関わっていたとする記録があり、「知古の施基皇子の人柄」を記憶していた「額田部氏の裔」はこれを重視し、例え「天皇の勅」とは云え「出自元の青木氏」を重視した事から、「遷都工事」のそちらの方に先ずは手が廻らなかった、否、廻さなかったのだろうと観ている。
その遷都直前の「野口王墓の古墳増築管理」を重視し、その元の「築造と葬祭と築墳の一切の責任者」が「施基皇子」であった事から、「額田部氏」と「施基皇子の二世族と三世代の裔・福家」とも「知古」に成っていたのだ。

注釈としてこの状態は明治9年まで続いていた事が記録から判っている。
然し、「遷都同向を断った事・額田部氏の遺志も伴う」で「桓武天皇」から罰を受け「飛鳥斑鳩追放」と「全官位剥奪」と「守護神額田神社の廃社」と成った時に、「伊勢の施基皇子・716年没とその裔」は、「桑名で密かに匿った事」を「四家の二世代と三世代の裔等」は手伝っていた事から身を以て知っていたのだ。
この事は「累代三大格式の歴史書」と「青木氏の資料の行」にも合せて記されている。
この事は史実で、「桓武天皇」は流石に「出自元を追求する事」が出来ず、無事に「伊勢」は庇護した事が出来たとあり、且つ、その後の「近江の事等」の「額田部氏の殖産工事の活躍」で何と歴史的にも例を観ない「額田部氏」は「冠位」を「破格の三段階特別叙位」を受けて「隠してあった守護神の額田神社」の「祭司」までも伊勢額田に許されているのだ。
この事等は、前段でも詳しく論じているが、「上記の事」、即ち、「施基皇子の氏是」に基づき、「四掟」や「律宗性の仕来り」や「女系制度」を設けてでも、「青木氏の血筋が天皇家に入る事を避ける策」の「能登の処置」と「名張の処置」が成功裏に及んだが、歴史的に「過去の出来事」と逆に繋がっていたのだ。
これでは後勘から観ても逃れられないだろう。
後勘からすれば、一時期に「白羽の矢で掻き廻された事」と「身内の嵯峨天皇の過激な行動」で、「90年〜100年間」は大いに「絶対視しなければならない氏是」に反して乱れたのだ。
それも、正しく「外要因での事」であった。
元を質せば、「神道仏道の融合策の問題」から齎された「白羽の矢」にあった。
この事に依って、“一つ狂うと大きく狂い長く続く”の「人生訓・家訓」を「伊勢」は持つ事と成ったのだ。
つまり、「氏是」はもと「より細かい事」が氏族内に入り込ませない為にもこの“「家訓10訓を護る事で防げる」”と考えたに違いない。
故に、「賜姓臣下族の青木氏」が敷いていた「一切の制度とその身分格式の伝統」が無く成った現在でもこの「家訓10訓」は生きているし、今後も生きさせたい。

さて、前段や上記の論の通り、「伊勢と信濃の青木氏」は、先ずこ「皇位族であると云う事」を好まずその「血筋の影響」を排除して「格式と伝統」だけを重んじた「氏族」に徹したのだ。
その意味で、上記した様に「近江佐々木氏の氏族」にこの「白羽の矢」が向けられるのが「天皇家」としては条件的にも最適であった筈であるが、そんな「天皇家」から向けられたとする「記録」は、何れにも“「近江佐々木氏から自ら進んで繋がろうとした記録」”は、仮に後に見つかったとしてもそれは上記の経緯から観ても本来発見され得ない理屈と成るのだ。
つまり、何時ものように歴史に興味のない人たちには騙せるが論理的に「後付けの搾取」に外ならない事に成るのだ。
つまり、その「近江と伊勢の生き方と伝統の差」が、「伝統・律宗族に関わる事」の「神道仏道の融合策の問題」に在ったと観ているのだ。
もっと簡単に云えば、「氏族の生き方」として、「其れなりの伝統」は近江にあったとしても“「近江佐々木」は「律宗族の伝統」では無かった”と云う事であろう。
丁度、これが同然に“「嵯峨期の源氏等」が「9つの縛りの掟」を守らなかった事”に通ずるのだ。
だから、「嵯峨源氏も近江佐々木氏」も「同じ考え方」であったから「源氏化したと云う事」に成って滅びたのだ。

その前提で、この「伝統・律宗族に関わる事」に就いて根本的に三代に渡る「天皇家」の「神道仏道の融合策の問題」をもう一度振り返って検証して観る。
「孝謙天皇・称徳天皇期」の「天皇家崩壊の条件」は、「裏では仏道帰依説」では条件的に完全に揃っていた経緯と成る。
さて、ここに「神道の神明社」の「施基皇子の裔系・白壁王」が不幸にして引き出される所以が此処で起こったのであり、つまり「神明社」であった事に成る。
「孝謙天皇・称徳天皇」が、この環境の中で「退位・749年」し、その後継者に「藤原仲麻呂」は「藤原系の外孫王」を「天皇」に押し出し、「淳和天皇」として権力を手中に収めた。
ところが、この「思惑」を察知した上皇は、再び「外孫王天皇」を淡路島に流し廃位して重祚して「称徳天皇・764年」として返り咲き、要するに「青木氏」で云う「孝謙天皇の白羽の矢の事件」が起こしたのだ。
この「火中の栗」を拾う様な「白羽の矢」を嫌がっていた「施基皇子の裔系の賜姓青木氏・白壁王・54歳・770年」にこの矢が不幸にして刺さったのだ。
この時の「定説」では、「天智天皇の裔系であった事」と成っているが、既に、「皇子位」を外れ「賜姓臣下」してから何と「123年後の事」であるし、「施基皇子没後54年の事」であるのだ。
先ず普通はこんなことは無いであろうし、「商い」を主体とした「二足草鞋の郷氏」と完全に成っていたと云える。
既に、「伊勢と信濃での青木氏」では「裔系三代目から四代目」に達し、「二足の草鞋策」の「殖産を中心とした院号で働く商いの真最中期」にあったのだ。
故に、「伊勢での定説」での「資料・漢文書を額にして保存」には、「天智天皇の裔系」では最早無いだろうとしているのだ。
そもそも「殖産商い」は、「9つの縛り」、仏道の「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族の関係式」の「慣習仕来り掟の伝統中」にもあって、「院号を持つ令外官としての商い」をしていたが、「表向き」は当時の氏族の在り方の仕来り」では「禁令を破った氏族」に成り、当に「後継族」では無かった筈だし、そもそもこの事を嫌った事の「完全な四掟の女系族」であったのだ。
これだけのはっきりした事があるが、この事には「称徳天皇」は充分に知っていた筈であると観る。
そもそも、「大所帯の天武天皇の裔系」が既にあり、「小所帯の天智天皇の裔系」であるとするならば、確かに「天智系」でありながらも、結果として「天武系の血筋」を持った「天智系の川島皇子の佐々木氏」が「近江」に居たのだし、上記した経緯から、この「裔系の近江青木氏」も現存していたのだし、「四掟の天智系に近い信濃青木氏」も現存していたのだ。
「伊勢」にも何度も下向しているのだし、多気には斎王館もあったのだから「知らなかった事」は絶対に無いと観る。
もっと云えば、この「時期・764年頃」であれば、皇族に成り得る「出雲国の裔系・200年後」も「大和国の融合族の裔系」もいた筈である。
「新撰姓氏禄」を正しいとしての前提としては、考えて観れば「天智系に戻る事以外」には「敏達天皇系」などの適任者族も沢山いたのだ。
そもそも、「出雲国風土記」が「733年」に偏纂されている事から年代も違わないのであるから「大和朝廷との血縁付き合いはあった事」は確実に「証拠立て」られる。
故に、「定説」の“「天智系と云う理由建て」”には、「血縁と云う流れ」からすると「天智天皇の裔系の伊勢に白羽の矢が来る事」がそもそも疑問であるのだ。
「藤原氏とそれ以外の外孫王」では、答えは“「排除」”で明確であっても、兎も角も「内孫王としてのより対象者」は、「直系尊属」に最早無いとしても他に「天武系の直系卑属」には「適格な者」は多くいたのだ。
そもそも、この事からも「伊勢青木氏に戻る事」が必ずしも“「天皇家の大儀」”として「直系に戻す事」には論理的に成らなかった筈だ。
だから、当初、史実として、学者の“「吉備真日が猛反対をしたのだ。”

そうすると先ず、“では何故かの「疑問a」である”。
つまり、“何故青木氏だったのか”である。
何故、「白羽の矢」であったのかである。

その前に前段でも触れているが、この「疑問の理解」を深める為に歴史的に解っている事を論じて置く。
そもそも、「孝謙天皇期・女性」、この「孝謙天皇・継承者不在」に依って「白羽の矢」を建てられた「臣下族の伊勢青木氏の出自」の「白壁の光仁天皇期 2」にも、そして、その孫の「嵯峨天皇期 3」にも、この上記する「二つの分離した格式」を「統一した格式に定める必要の状況」に就いては「是」であった事だ。
そして「外孫王の淳和天皇期 1」と考え合わせると、次の様に成る。
実質、それはそれぞれ「神道仏道の融合策」ではあったが「思惑の異なる事」が試みられたのだ。
それが「新撰姓氏禄・嵯峨期の名称」であると論じている。
これを判断する上では、これは欠かせない要素となるのである。
然し、既に、“「170年も経た後の天智系賜姓臣下族の朝臣」”でもあって、「170年経過の賜姓族からの出自という事」もあって、三期共に「姓氏禄の編集の反対」、のみならず「制定のそのものの反対」が社会に興った事は後世に記録に遺る程にあったのだ。
この「格式の社会の確立構想」に対して、“上層階級の全体に統一して「格式化を施すと云う事」が社会に波及して、既に冠位十二階制度や八色の姓制等のある程度の「格式社会」でありながらも、結果として、「身分的な事」が「固定し決めつけられる事等」を嫌う「激しい反対反論」も史実としてあったのだ。
恐らくはその「決定される範囲」が「朝廷に関わる範囲」だけではなく社会全体に及ぶもので相当に広かったと云う事に在っただろう。
それが貴族や官僚の範囲にだけではなく「族の末端範囲」にまでの範囲に及んだからだ。
この事も然る事乍ら、思わぬところから成った「白壁の天皇としての最高格式」に対する「社会が持つ大疑問」にあったとしていて、その疑問では“それで良いのか”と云う「世間の風当たり」も現実には強かったと記されているのだ。
それは“過去に第七位皇子であったとしても、既に賜姓臣下して「170年後の事」である限りは、その「裔系」は飽く迄も「臣下族」であるべきだ”とする「諸臣族」からの「猛反対があったらしい事」に成る。
つまり、この事にはその時に生きていてれば筆者でもそう思うが、諸手で賛成を得られていた訳では無いらしい事は史実からも判る。
その事で「伊勢と信濃の青木氏族の氏族」では「閃々恐々としていた事」が「伊勢の資料の行」や「公的に成っている記録」からも判っている。
少なくとも「伊勢と信濃」に執っては「青木氏族」から観れば「自ら招かなかった災い」と成る。

例えば、この事で一族の中には男女ともに狂者、疎者、大酒者、逃出者、酷者、出自を消す者、氏人に身を隠す者等が現れたと記されていて、中でも「員弁殿」では激しかった事が読み取れる。
取り分け、「伊勢郷士50衆」は冷たかったと表現している。
その理由は、「天皇家」に戻った場合に自分達にも「氏族の郷士の行動」に求めていない「締め付け」が及ぶと考えられていたらしい。
この行を観て、「四家の福家」は逃れる事が出来ないと観て、「白壁」だけを犠牲にして極力天皇家と関わる事が起こらない様に、前段の論や上記の様な対応策を採ったと考えられるのだ。
それに、一族の「妻嫁制度の女(むすめ)」を盛んに「郷士衆」に入れて「氏族化」を強化して「女系で造り上げた族」に変化させて、「天皇家に引き込まれる対象者」を悉く逃がしたのであろうと観る。
そうなれば「伊勢郷士50衆」も納得したのであろう。
そうして前段でも論じた事へと経過を辿って行ったと云う事である。
この事で、「天皇家から遠ざかる伊勢」と「天皇家に近づく近江美濃」との「差」がこの「神道仏道の融合策」で生まれたのだ。
もっと云えば、「伊勢と信濃の氏族の郷士衆の反対」と「近江と美濃の氏族の郷士衆の賛成」の処にもその「行動の差」が出ていたと云う事に成るのだ。
この「行動の差」が、「伊勢と信濃」では、既に「三世族か四世族」では、「白羽の矢の失策」も何とか「人策」で逃げ、そして「後の事」も既に、少なくとも“「仁明期で終わる・桓武天皇の孫・後人手納の曾孫・施基皇子の玄孫」”だろうと見込まれていたと考えられるのだ。
何故ならば、その当時では「仁明天皇」だけが「出自元の考えに近かったからだろう。
未だ「天皇」に成る前の「皇子の時代」からそれが観えていたのではないか。
結局は、この時は、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれて争っていた時期でもあり、「嵯峨派の天皇家」は、「青木氏からの献納」を停止され、「財源・内蔵」に困っていたからであるし、これを観ていた「仁明天皇」は「父親・嵯峨天皇の政策・青木氏を賜姓族から外した事等」に否定的であったからだ。
これには「仁明天皇の在り様」が史実として記されているので間違いは無い。
現実に、「天皇家」はこの時でも「直系尊属」は終わり、再び「外孫王」に全て変わり、「白羽の矢の失策」は「仁明天皇」の彼が終止符を打ち終わらせたのだ。
聖武天皇期と孝謙天皇期の南家藤原氏の外孫王に成って仕舞って以来再びである。
後に「後三条天皇」で「藤原系外孫王」は終わったのだ。
刻の如しで「仁明天皇」は「出自元の青木氏の乱れ」に「終止符」を打ったのだ。
ここからは「殖産の青木氏族」と突き進んだのだ。
少し後の「母系の秀郷流青木氏」も含めて「青木氏族」から観れば「恩人の祖」であるのだ。
「近江佐々木氏の研究論文」にもこの事が浅く論じられている。

何故ならば、「仁明天皇」は其処から「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から切り離し、そして其処からは「商い」に邁進させた方が良いと考えたからに過ぎない。
故に、そこから「青木氏の行動・殖産事業等の行動」が活発に成って行くのである。
この時に、つまり、「考え方」が「次の三つ・ABC」があったと考えられる。
A 「桓武天皇派の考え方」は、「出自元の青木氏」を「賜姓族」とし「賜姓五役」で「令外官」としながら院号を与えて「商い」をさせて内蔵の利得を獲得させる方法である。
出自元が望む様に天皇家とは分離しながらも出自元を大事にした派である。
B 「嵯峨天皇派の考え方」は、「桓武天皇派の反対の方法」で利得を獲得しようとした方法であった。
然し、そこには「嵯峨天皇の厳しさ」があって「源氏を賜姓した事」が「青木氏の否定に在った事」で「出自元の献納」を中止された「計算違い」が興って「朝廷・大蔵と内蔵の財政」は貧した。
C 「仁明天皇派の考え方」は、一度出した「嵯峨天皇の考え方」を表向きは追認しながらも、上記の通りで「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から一切切り離し、そして其処から“「商い」に邁進させた方が良い”と考え出自元を擁護した。
この「Cの考え方」が「青木氏の考え方」と一致したと云う事に成った。
そして、故に一度留めた筈の献納が、再び、「商いから生まれる青木氏の献納」として、記録から大蔵に献納していないので、それを「内蔵の範囲・天皇家の財政に留める事」で話が着いた事に成るのだ。
そして、故にこの「Cの献納」は明治維新期まで続いたのだ。
「仁明天皇と青木氏との話し合い」の中で「総合の合意条件として執られた処置であった事」が良く判る。
この「仁明天皇・833年−850年」から「約100年後」に「円融天皇」に依って「藤原北家秀郷流藤原氏」に「青木氏の賜姓」を永代に授かった前段の通りの経緯と成る。
これは先ずそれまでは「四掟の母方」であったことからの経緯であろう。
一度、「南家の藤原氏」と絶縁していながら、今度は北家の藤原氏の関東押領使であった藤原氏の中でも格下の勢力を持った地方藤原氏と母方血縁しているのであり摂関家筋では無いのだ。
これは「青木氏の経緯」としては見逃せない。
これは「行動矛盾」の様に観られるがそうではない。

この「秀郷流青木氏の事」に付いては前段で論じてきたので詳しくは論じないが、要するに、天皇家の内蔵の「裏打ち」をしたかったと考えられ、その為には何かの原因で起こる「伊勢と信濃の青木氏の衰退」は避けねばならないとし、更にその為には「四掟」で「母系筋」であった「北家筋の秀郷一門」に「白羽の矢」を当てたと云う事であろう。
この「白羽の矢」は母系の一蓮托生の両氏に執っても「最高の格式」を正式に得られる「賜姓」は悪くは無かった筈だ。
「北家」の中で低く見られていた事から一族一門に執っても良かった事なのだ
それは一門に執っては今後の事として、摂関家に対しても格式上で争う上でも良かった。
それも一時的では無く「円融天皇の白羽の矢を立てた条件」が良かった事で、「116氏・24地域」まで拡大して両氏に執って期待しない目的も達成されたし、何よりも官僚として朝廷の中に食い込む事が出来た。
摂関家を追い越すまでになったし、この様に以後の経緯を観ると目覚ましいものがある。
四掟としても妻嫁制度や嫁家制度等で完全な青木氏族の確立が成されたのだ。
現在あるは全国の「青木氏族の裔系」には「仁明天皇と円融天皇に救われた事」に成る事を歴史的経緯として認知しなければならないだろう。

さて、反して、この「神道仏道の融合策の問題」に依って齎された「全青木氏族に与えた全ゆる現象」が、「孝謙天皇期、光仁天皇期、嵯峨天皇期」には「反発の社会現象」も三度も起こりその青木氏に対しての反動は顕著であった事が史実で証明されている。
史実として書き遺されていると云う事は相当のものであった事が想像できる。
「古史書」に記されている様に、「完全相互同族血縁」であったと記録される「近江佐々木氏」でも、「伊勢や信濃との血縁や縁」を打ち切った事も記されていて、その結果、「後家」まで出して関係性を消そうとしていた事が公私記録ともに判っているのだ。
「始めから巻き込まれる事」を「近江側と青木氏側から嫌っていた事」が判る。
「白壁王・光仁天皇」の「避けていた姿勢事・疎者と大酒者」にも明確に詳細に記されているくらいなのだ。
然し乍ら、後勘から観て、その論筋と違い「白壁」が歴史上は「最大の犠牲者」であったろう。

それ故に、この様に「氏族の格式付け」に焦って「社会全体で大反対」を受けながらも、これを鎮めようとして強引に押し進めようとしていたのだ。
その結果、中でも何とか「未完成」ながらも「嵯峨天皇」が、「世の格式・身分」」を定める為に反対を受けた為に未完成の侭でも“「新撰姓氏禄」”の名称として強引に定めたのだ。
「二派に分かれた五家の青木氏」だけでは無く「皇位族と政界と社会」が「桓武天皇派・反対」と「嵯峨天皇派・賛成」とに分かれている。
後勘から観てもそれだけの意味があったかどうかは判らないが、後世にも於いても大いに混乱を招いたと観られる経緯なのだ。
結果として、「嵯峨天皇派・格式化の賛成」で前段でも何度も論じている様に、この時、「律宗の族」にありながらも、出来たばかりの未完成の「新撰姓氏禄の定め」の中に無いとして、つまり、勝手に“統一した格式化の中には無い”として、「賜姓族・皇親族」からも「賜姓青木氏」を名目上でも外したのである。
これがその「正統な根拠」とされたのだが、現実には「敏達天皇一門春日王の四世族真人族」として明記されている。編成中に編者が“これは拙い”として編成順位から観ても追記された経緯であろう事が判る。
然し、「出自元の光仁天皇」は、この“格式化の編成”を試みた一人でもあるので、「賛成派」であったのであろうし、これを「嵯峨天皇」に執っては「救いの根拠」としていた事にも成る。
その意味で云うと、同じ「賛成派」でも嵯峨天皇程には不満を持っていたかは判らないが、“「白壁は青木氏の犠牲とされた事」”に「不満を持っていた事」はこれで否めない。
そもそも、「永代賜姓五役」を任じられ「律宗族」として「院号を持つ令外官」の役務を全うしていた「大義」が在る「青木氏」であるにも関わらず、「皇位族」を外し「賜姓族」をも外すと云う理に合わない事を「社会の面前」で遣って退けた。この過激な事を天皇自らが行い、しかもそれが「出自元」であると云う破廉恥な事を「嵯峨天皇」はしたのだ。
だから尚、「青木氏族」は嵯峨天皇を支持しなかった事になろうし現実には無理であろう。
これは「五家五流青木氏」の内の「伊勢と信濃の青木氏」の「社会的な体面立場」を無くしてしまう程の行為であったし、戦いに成ってもおかしくない事であったと考えられる。
然し、経緯で「氏是」で思い留まったのだ。
然し、そこで献納の一切を中止して対応したのだ。
それでも、全てを捨てるかと云う事はせずに、「賜姓五役・伝統と9つの縛りの掟」と「令外官・殖産事業」と「律宗族の役務・祖先神の神明社の創建維持管理」を護っていたのだ。
所謂、「伝統」は氏族のものであり護り続けたのだ。

果たして、これを世間はどう見ていたのだろうか。
つまり社会の目は「嵯峨天皇の仕打ち」を是として「青木氏の姿勢」を否としていたのかである。
「歴史の経緯」がこれをはっきりと物語る。
要するに、語る処の最たる処は「平城天皇の尚侍」の「薬子の変」と呼ばれるものであろう。
我慢しきれず痺れを切らしたのは「桓武派」であったと通説は成っている。
この時期の資料に関する「行」を寄せ集めて「青木氏の歴史」の「化石の出土品」の「繋合わせ」の様に接着して復元したのが「上記の論」と成ったのだが、そもそも「青木氏の歴史観」から観ると、この「尚侍の薬子の変」、実際は「平城太上天皇の変」と呼ばれる「政争」は、結局は反対派の「代理戦争と云う事」に成っていたのであろう。
その証拠に、「平城上皇」が再び政権を取り戻す為に、「嵯峨天皇のいる平安京」にいる事は不利として「出自元の近い平城京」に上皇令で遷都して戻ろうとした。
そこで先ず、最初の作戦は「平城京」に関係のない地域の「五家五流の内の信濃と甲斐」を除いた「伊勢国」・「近江国」・「美濃国」の「三国府」とその関を「嵯峨天皇」は先手を打って固めさせているのだ。
歴史的経緯とその行動からこれで如何に敵視していたかが判る。
然し、これは変だ。
そもそも、京の「平安京」から飛鳥の「平城京」に移動するには、現在の「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・徒歩8時間」しか無く、そもそもその固めた「三国府とその関」はこのルートからは全く関係は戦術上無いのである。
そもそも、地理的距離では「平安京」から真東に「近江国」に2里、そこから「平城京」に真東に9里、そこから「伊勢・名張」まで真東に6里、そこから「美濃」に北東31里の距離にあるのだ。
然し、歴史の史実では「三国府とその関」を固めたとあり間違いなくこれは変だ。
この何気ない史実の点に注目すると、考えられる事は、ただ一つである。
これは「出自元」とのその「能登名張の近江」と「浄橋飽浪の美濃」の「嫁ぎ先」の「青木氏一族を牽制した事」がその位置から明らかに考えられる。
つまり、通説の「平城上皇の行動」には関係が無い事に成る。
もっと云えば、よく知る「出自元の伊勢青木氏の動き」を気にしていた事に成る。
それは「近江と美濃」には伊勢から嫁しているからで、「財力と抑止力を動かされる事」を警戒して「三国を制される事」を嫌ったのでは無いか。
「伊勢と信濃」には禁令上即戦力は無いが、然し、「即戦力」は縁戚の伊賀に在った事を忘れてはならない。
これを要動的に動かされると、「京の東からの物資食料の補給路」を絶たれ、且つ、「平城京に移動で東からの補給路」が出来れば「元の平城京」は成り立つのだ。
「平城上皇の平城京の上皇令」は成功するのだからこれを嫌ったのだ。
だから、それをできるのは「東の青木氏族ライン」である。
この「出自元の青木氏族ラインが動かれる事」を極力嫌い、それは「嵯峨天皇の大義」を失う事に成り兼ねないからであった。
故に、「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・8時間」の「平城上皇の移動」にはそのものには全く関係がないのにも拘わらず、そして「人流物流の関」までも止めたのだ。
現実に、「近衛軍」を廻して「平城上皇の移動」を阻止しているのだ。
このは「阻止の仕方」が有名な史実で、“「裏切り」”"で出来たのだ。
其れしか戦略上は無い。
それは、「桓武天皇の義兄弟の坂上田村麻呂の有名な裏切り」であり、桓武天皇の恩義をとるか天皇の権威をとるかの判断に迫られた事に成り結局は坂上氏の先々の事を考えて説得された事が記録に遺っている。
結果はこの事で一族一門は「裏切り者」として社会から批判され与えられた領地に居られなくなり琵琶湖の北の地の縁戚を頼って逃れ本筋は潰れたのだ。

参考として念の為に前段でも色々な事に関わって来るので何度も論じている事ではあるが、「伊賀の平望王の孫裔」に当たる「高野新笠と光仁天皇」の「子の山部王・桓武天皇」と、「後漢阿多倍王」と「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」と血縁し、「准大臣」に成り、その「長男」が賜姓受けて「坂上氏」を名乗り「桓武天皇」に依って「征夷代将軍」に任じられたのだ。
この「桓武天皇」は「母の高野新笠」の里の「伊賀半国割譲の後漢阿多倍王」のその裔の「平望王・たいらの望王の姓の賜姓」を祖父としている。
この「伊賀のたいら氏の裔の高野新笠の子の桓武天皇」と「阿多倍の直裔の坂上氏」は「阿多倍王」を始祖とする「義弟の子」であるとして、親交と信頼は深く「渡来人」でありながらも「征夷代将軍」まで引き上げた経緯を持つのだ。
「八色の姓」の 真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の「連」に引き上げられ、その後の「征夷討伐の功績」で「宿禰」にまで上り詰めていた。
結局は出自元を重視した「仁明天皇」はこれを放置できず田村麻呂死後に処罰しその立場を奪い「裏切り者」として失うのだ。
これで「平城上皇の政変劇の問題」は解決させたのだが、「青木氏族に降りかかった光仁期から引きづった嵯峨期の難題」も解決したのだ。

更に参考として、「桓武天皇の母」の「高野新笠」の「高野真人族」として賜姓して「真人姓」を与えたが、この「高野」は、そもそも「孝謙天皇の諱号」でもあり、俗称「高野天皇」とも呼ばれたもので、「伊賀の阿多倍王と平望王の裔」として、この「高野」を執って「出自元の格式」を飾ったのだ。
「白壁の妃」としての格式化する為に「称徳天皇の意向」があったと「青木氏口伝逸話」では表現を天皇の事である為にあやふやにして匂わしている。
相当に「称徳天皇」は、この「白壁と井上親王」に気を配っていた事が伺えて、恐らくは史実で正しいのでは無いか。
そうすると、「井上内親王の乱行の原因」がこれで観えて来る。
「妹・阿倍内親王の称徳天皇の仕打ち」が、この「青木氏の環境の中」で苦しんでいるのに「気に成る妃の立場」にあった「新笠」への「高野の賜姓」で、それも「真人格の叙位」で「自分の諱号を与えた」と成るのには全く納得が行かない事で「井上内親王后」は無視された感覚に陥った事は間違いは無いであろう。
それだけに「自らの子供・他人親王の皇太子」の今後の成り行きも危ないと観た事は普通では「猜疑心の精神状態」は極度に昂った事もあるであろう。
これは普通に考えられる事である。

さて、次はそこで何で「高野真人族の格式」を態々与えたかである。
この行為は「与える事」は間違いなく角を立てる事は間違いはない。
取り方に依れば、「母親に真人族格式の叙位」は、その子の格式も「真人族との子」と成り、“皇太子は高野の子だ”と云っている事にも成る。
自分は、確かに「聖武天皇第一王女」ではあるが「出自元から継承位の嗣子」には無く、母は「夫人県犬養広刀自」の「県の格式」しかないし、自らも「伊勢斎王」であるとすると、“皇太子は高野の子だ”と考えるのも格式社会の中では無理のない事ではある。
そこで、それを仕組んだのは、“伊勢青木氏の政所を仕切っていた難波だ”と邪推したとも考えられる。
仮に、この時、后の井上内親王は、「天皇の子の内親王」であったとしても、「青木氏」が既に臣下していたとしても、「永代に持ち得ている伊勢の格式」に勝る家筋は他に無い現実をこれで知った筈である。
故に、どうしょうも無いその「現実の不満の持って行き処・無力感」を「難波」にして「呪い」をかけたのであろう。
現実的にも、「高野の事」が史実なので恐らくはそうであったろう事は充分に予想できる。
要するに、「世の矛盾・無情」を強く感じたのでは無いか。

717年生で744年で「神宮斎王」を退下し、その年の27歳に結婚で、7年後の34歳で「他人親王誕生」とすると、当時としての「女性の寿命55歳」から考えると極めて晩婚であり、「34歳/55」とすると現在で云えば51歳位と成るので、そもそも子供を産める歳では無いし、例え埋めたとしてもその卵子は間違いなく老化していて「健全な子供・水頭症等の欠陥」の出産は医学的に観て困難であろう。
この様に「井上内親王の37歳出産の高齢出産説」もあるので、生理遺伝学的に健全子は大いに疑問である。
念の為に色々な資料から当時は、その意味で多くの記録から早くて「8歳結婚」も通常であったとされる。
例えば「青木氏の妻嫁制度」の中で「女(むすめ)教育」として使われた教本では「8歳」を前提として行われていた事が判っているので、この「晩婚説」は「適格性の問題」を持っていた事は間違いは無いし、「青木氏の中」では当然に、「妻嫁制度」に従ってこの「女(むすめ)教本」の中で例え「井上内親王」であっても「770年の即位」までは「青木氏の伝統」の中で処置されていた事に成るし、取り分け、「高齢婚であった事」から例外なくその難しい「出産」は注目されていた事は間違いは無い。
「白壁」も「通常説54歳」で結婚したと成っているので、これも限界に近い高齢婚であるが男子の場合は、生理学的に3日に一度睾丸に貯めた精子を入れ替えてするので、高齢化は「精子の場合」は無いが「量的な問題」と「体力の問題」が伴う。
史実、「伊勢青木氏の資料」から読み取る範囲では直接生んだかは別として、要するに「子供とされる者」は「当時の高位の慣習」から観て「養嗣の様な者」を含んでいて最低で「13人」とされる筈である。
念の為に、記するが「青木氏族」は例外なく遺伝的に高齢寿命者が多い族で最低でも「平均寿命55歳」の世の中で「74歳以下(当時では135歳相当)」は極めて少ないのが現実である。
これは前段でも詳しく論じたが「仕来り・伝統」として先ず「女系」で「良い卵子・選びやすい」を選び、且つ、「非弱な嗣子」は生まれた直前で選別していた「隠れた仕来り・伝統」があった様であり、それは「明治期まで続いた事は事実である。
これは「四掟に基づく血の欠陥」を取り除く為の「合理的で宿命的な手段」として採用されていたらしく、それが「高寿命系の血筋」と成ったと考えられ、現在でもその特質は消えていない。
この事から考え合わせると、唯一、「白羽の矢」で「女系で繋がる四掟範囲」から外れ「例外女系」と成った「白壁の実子の問題」が在った事は間違いは無いだろうし、当に上記の高齢婚であったのだ。
だから、「政所を差配していた難波の動き」が在った事は間違いのだ。
その証拠に、「四掟の伊賀青木氏と繋がる高野新笠の子の山部王を選んでいた事」は何よりも間違いは無い事だろう。
「770年即位」までの「36年の間」は「伊勢青木氏四家の子」として「山部等を育てる事」に集中していた事が云える。
「近江の市原王」に嫁した「青木氏の子の能登や尾張や湯原」を「光仁天皇の養嗣・つぐしの形」を執り、現に「山部王・桓武天皇」が、天皇に成った時点で「伊賀青木氏」と繋がる「四掟の高野新笠の子の早良」を皇太子に据えているのだ。
その経緯から、これは青木氏等に執っては「子々孫々に響く不名誉な事」である為に記録的な物はない。
然し、「健全子では無く、且つ、女系から外れた他人親王」は「青木氏から阻害されていた事」は充分に考えられる。
その他の人と云う意味のありそうな名が物語る。
他の人と違うと採れる青木氏の資料ではこの字を使っているのだ。
この事で「令外官」として「朝廷」に代わって「商いを営む青木氏」は、最早、「律宗族の伝統」は護りながらも意識的にも「天皇家」に咀嚼忖度する立場には無かった事が云える。
「氏是」にも思いを込めて可成り意識的にも庶民化していた可能性がある。
施基皇子没より96年も経ち「青木氏氏是」を徹底すれば、必然的にそう云う経緯を辿る事は必定であろう。
この事を考えると、裏を返せば、「750年〜765年の青木氏の中」では伊賀の出の「高野新笠」に期待が集まっていた事に成るだろう。
この意味でも、この上記の「高野新笠の高野真人説から来る混乱」と、その「他人親王への疑問」はあった事は先ず間違いは無いだろう。
それを仕切っていたのは、「気侭に世間知らずで聞き分けなく育った者・井上内親王」から「呪われた難波」であった事は充分に考えられる事だ。
これを後勘から観れば、「他の3つの青木氏の源氏化策」とは真逆であったが、「皇位族」に拘らない「意識的な庶民化策」は「良い選択と判断と実行力」であった事がこの事からも云えるのだ。
それは突き詰めれば「賜姓五役の令外官・院号を持つ商いに左右していた事」であろう。

さて、もう少し掘り下げて観るとここからである。
ところが、「平城上皇の平城京への移動」が、この「坂上田村麻呂」を「父桓武天皇の味方・義兄」として信頼し切っていた「平城上皇」は、「政治路線の違い」から「嵯峨天皇との決別」をする為に「平城京移動」は可能と信じていて、これを実行に移したのだ。
ところが、「坂上田村麻呂」が途中で裏切った事で「平城上皇」の「平城京移動」は頓挫し、引き返す羽目と成り、命を守る為に剃髪して僧に成り引き籠もったのだ。
これで「伊勢青木氏と信濃青木氏が推していた桓武天皇派」は衰退する。
これはこれで要するに、「家臣等・810年の薬子の変」が興したとして大儀を繕い取り敢えずは終わったが、然しこの「後遺症」は残り終わらなかったのだ。
当然に「伊勢青木氏」はこの「裏切り」を氏存続の為にも放置しておく事は出来なかったのだ。
これに反発してこの“「坂上氏」と犬猿の仲”と成ったと想像できる。
筵、記録されない事に違和感がある。
然し、これに関わる資料や記録は、不思議に青木氏は勿論の事、公にも出されていないのが現実である。
「天皇家に執って不名誉な事であり公的に成る資料」は無い事には如何にせよ、兎も角も、「伊勢青木氏」には無いのは当然の事であろう事が判る。
「青木氏」から観れば、当時の「時代性・習慣仕来り」から、実は“「裏切り者」”に対する評価は下の下で人間的な扱いとして「厳しい掟」で死を意味したのであったのだ。
故に、何事にも大儀を必要とし、極めて低く扱われているあるからで、「記録に載せる前の問題」であったのだ。
坂上田村麻呂にはこの人を説得するだけの大儀が低かったのだ。
「桓武天皇との義兄弟恩義と氏族の存立の大儀・桓武派」に対して「嵯峨天皇の命だけの大儀・嵯峨派」であって社会は前者を採ったのだ。
だから宿禰族まで成った坂上氏は京には居られなくなり琵琶湖の北の外れの田舎に逃げ延びて隠れ住んだのだ。
普通なら「嵯峨天皇」は庇うであろうが、庇う事は出来なかった位に嵯峨天皇と坂上氏に批判が集中したのだ。
この時、「伊勢」はこの「裏切り」に対してどう動いていたかであるが、献納を中止する経済封鎖を嵯峨天皇に、坂上氏に対しては前段でも論じたが、淀川から大阪湾に運ぶ「殖産品の運搬等の利権の停止・鉱山開発の運搬等」で対抗しているのだ。これで糧を失った坂上氏は衰退したのだ。
この事を後の古書に顛末書として記されている位で是非に歴史観として知って置く必要がある。

例え、さて「神明社の祐筆」に依って「青木氏の歴史」として必然的にこの事に就いて一時記録に遺されたとしても消されている行く宿命を帯びているので遺こらなかったのであろう事が判る。
故に坂上氏に付いては「大蔵氏や内蔵氏」の様に“何某かの記録らしきもの”もないのだ。
つまり、一族を庇いきれなかったと云う事だろう。
「青木氏の氏是や慣習仕来り掟や制度」から観て、この「裏切り者」を認めれば「律宗族で賜姓五役の青木氏」は成り立たないであろう事が判る。
況して、「伊賀に繋がる桓武天皇の義兄の者」がその“「裏切り者」”であったとすれば許す訳には行かなかったと観られる。
「抑止力」を持つが直接武力を持たない律宗族としては遺された手段は伊賀と圧力しか無いだろう。
つまり、歴史的にハッキリしている事は「坂上氏との同祖縁戚関係」にあった「伊賀のたいら氏」も「坂上氏」に猛反発したのだ。
当に四面楚歌の状況であった事に成り、嵯峨天皇も裏切り者を造り出した事から社会の信認は無く成って行ったのだ。
「九州族の始祖と成った弟賜姓大蔵氏」と「陸奥族の始祖と成った三男賜姓内蔵氏・安倍氏の祖」とは遺ったが、長男坂上氏族には戦略的に「伊賀」を使う以外に無かった筈だろう。
当然に「伊賀青木氏」も反発したと成れば、この「一族の関係族」を「伊賀域」から追い出す以外には手段は無くなるだろう。
結論からすると、それの派が伊賀から離れて行った「甲賀族」では無いかと云う事だ。
前段でも何度も論じた様に、室町期には「生き方の路線」で「伊賀と甲賀」に分かれたと成っているが、何も無い「甲賀の山奥」に甲賀系の者等がいきなり逃げたとするには問題がある。
その前の大きな経緯があったと観ていて、「坂上氏一族」は歴史的に「784年からの長岡京」に関わり古書などの資料から、その一族が「約14里南の甲賀域」に住んでいた事が黒くから判っている。
その「甲賀」は「厳浄寺付近」を中心に東西に「西甲賀」と「東甲賀」に分かれていたとされる。
この「北伊賀地域」に隣接する「西甲賀・森林域」の外れに「青木氏菩提寺清光寺」が存在していたとされ、現在でもこの環境は変わっていない。
直接、「現在の国道1号線」でその西外れで止まる「長岡京」に繋がる「東甲賀・近江に繋がる平地域」には忍者屋敷が集中していた事が判っている。

「坂上田村麻呂の一族」が大きく係わったとされる「長岡京」が出来ると、「伊勢」からの「街道整備」が計画され、「長岡京」から「近江」を経由して「北伊賀の入口の鈴鹿峠」を越えて「伊勢国」に入り「亀山街道」を経て、「桑名街道」を通って「伊勢」に入る、これが「現在の関西域の国道1号」で「古来」はここを「斎王行路」と呼ばれていたのだ。
更に遡り「奈良時代」には、平城京から東の幹線道路は、「大和」から「木津」を遡り、「伊賀」を経て「加太峠」から「伊勢」に入る「主要の大和街道」があった。
これが「奈良時代の斎王行路」と呼ばれていたとある。
三大実録の史書に依れば、これは古来の上記の「伊賀域―長岡京―近江―甲賀域―伊賀―伊勢」に関わる「坂上田村麻呂の歴史」を物語る地理であって一致しているのだ。

前段でも何度も論じたが、618年に隋に追われ「後漢の阿知使王と阿多倍王等」は「200万人の職能集団とその家族」を連れて北と南の九州に入り、無戦で九州と関西の手前まで32国/66国を占領して拠点とする薩摩の隼人と阿多に戻ったとある。
朝廷は「阿知使王と阿多倍王」を呼び出し「勢国」の「半国割譲」してこの「阿知使王・阿多隼人定住」と「阿多倍王・伊賀定住」に与えて住まわせ、「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を「阿多倍王」に娶らせその裔を賜姓して拡大させたが、これが上記の三人等とされる。

さて、此処で、もう一度歴史を改めて検証する。
「647年」に「賜姓」を受けて「青木氏」を賜り「勢国」を賜る。
この後に発せられた「好字令714年」に依って地名は全て二字と成った。
「半国割譲」の時は、この時は「勢国・伊勢の前の国名」は、現在の「東甲賀域」までとされた。
この「西甲賀」から「東甲賀の域」を「半国割譲」し、ここを「渡来人の阿多倍王に与えた事」に成る。
結局は「好字令714年」で「甲賀」としたのだが、これには実はその経緯があった。
そもそも、この「甲」には意味があって、これは「八香木」の一つの「甲の神木」でもある。
この神木を以て甲の国としてのだが、更にこの甲には経緯があった。
「三国時代の北魏の八姓」の一つで、「後漢の安帝の父・清河孝の王」が、この「甲の神木の所縁」を以て「劉の姓」から「賀の姓」に変えたと「魏書」にある。
これが半国割譲後に「渡来人の阿多倍王に依って祖先の賀姓から「賀の国」と定められた。
この「賀の国」を西域を上記で説明して「伊勢の伊」から「伊の賀の国」と呼ぶようにしたのだ。
当然に東域を「甲の賀の国」と呼ぶようになったのだ。
伊の賀の国は伊から聖者が護る国とし、甲の賀の国は神木なる聖の国として何れも「聖なる国」としたのだ。
そして、当時は、字画数が「12画数が陰陽説で延喜が良いとされた。
これが「後漢の安帝の父・清河孝の王」の「21代献帝」の時に滅び「阿知使王と阿多倍王」の経緯と成っていて、「半国割譲」で「勢国」の北側を所領としたと成るのだ。
そして、ここを「賀国」としたのだ。

その後にこの「四つの裔系」は分かれて、「伊賀」、「甲賀」、「滋賀」、「敦賀」等にその裔が住み着いた。
其の後の「好字令」で地名は「二字」に成ったが、この時、「伊賀、伊勢」の「伊の字の語源」は、そもそも「伊」の「象形文字」に意があって、「伊」は、そもそも「神を呼び寄せる聖者」の意があり、その右手で「杖」を持ち、その「杖の道具」で「神を導く物」とされた。
つまり、左辺の偏は「神を招く人・聖者」、右辺の旁は神を招く道具の杖の象形文字との「合意語」である。
「右手、杖、人」をこの「三つを組み合わせた象形文字」で、「治める」に繋がる意味を持つ。
つまり、この「伊」の「勢国」で「伊勢国」としたのだ。
もとより「勢の語源」は、「古文書」らに依れば、「神の許にあるその力で世俗の汚れを祓う」の意を持ち、その「祓う事」で「万物のいきおいを益すの意」として捉えられて使われていた。
上記の「伊の意味」と「勢の意味」を組みあせた要するに「好字」にした事に成る。

同然に、「西の賀の国」で「伊にある賀国」で「伊賀国」とした。
その語源は、そもそも「出雲の神」が用いた「神のお告げ」を占う「亀の甲羅」より発したもので、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十干は、「中国五行思想」から来るもので「生命消滅」を分けて説いたものである。
日本に入るとこれを「陰陽説」に使われたのだが、本来は「甲」にすれば最も良いお告げに分類された。
この「甲」を上記の「賀」と組み合わせて「好字」としたのだ。
「長く続く甲の国」を意味したのだ。
因みに、「滋賀」に付いて付け加えると、その象形文字の語源は、左辺の「草」が二つ並んだ処に、上に木冠を着けて、その左辺に「さんずい辺」を着けて流れるを表現したものであり、「育つ」を意味させた文字である。
これを上記の「賀の意味」と育つ・繁栄するの組み合わせて「賀の国の人民の子孫繁栄」を意味させて好字としたものである。
伊賀、甲賀、滋賀、敦賀にはこの様に統一した国としての意味を持たしたのだ
要するに渡来人のこの「坂上氏一族」は、この4つに分流し3代に続いたとされるが、その裔系を多く遺したその一族の主な定住地は、つまり「800年代の主流の定住地域」は、この事から「守護神とする田村神社」が存在する現在の「滋賀県甲賀市付近・本家」だったとされるのだ。
だとすると要するに、「甲の賀国」では「坂上氏同族」の「二つの分流(伊の賀、甲の賀)」が興っていた事に成る。
そして、その「始祖の阿多倍王」は、前段から論じている様に「西の甲賀・北伊賀」に隣接する「伊の賀国、即ち伊賀国」に住む事と成ったとする歴史的な経緯である。

突き詰めれば、「山部王の桓武天皇」と義兄とされる「坂上田村麻呂の坂上氏」であり、その「桓武天皇の母」は「高野新笠」で、「阿多倍王の二代目の高尊王・高望王」で、桓武天皇より「母の祖父・高尊王」に「平望王」の賜姓を賜ったのだ。
要するに、この事は「平望」の「たいら氏の初代」と成る。
この後に、「たいら氏の平國香―平貞盛―平維衡とし、それから・・・4代目平清盛」と歴史は続くのだ。
「伊賀に住していた高野新笠」の父は、「二代目高尊王」とされているが定かであるかは確定できない。
年齢から判断して「高尊王の娘」とすると、当時としては年齢的に極めて高齢と成るので「一族の娘」では無いかとする説が有力であるが、その一族とする説ではこの「三代目の高見王の説」もあり、年齢的にはこの説には合理性があり筆者も賛成している。
つまり、「桓武天皇・山部王」が「天皇」と成った事で、その「母の父」を「一族の者」から「直系尊属」として系譜上で「追尊高見王」とした可能性が高いのだ。
「施基皇子の追尊春日宮天皇」に応じて後から追尊されたとする説もある。
何れにせよ、この「追尊の3説」にせよ「一族の者である事には間違いは無い。
そうすると、論理的にこの「伊賀の裔系」は「西甲賀」までが、上記の「坂上氏」から「桓武賜姓」で「たいら氏」と成った事に成る。

さてそこで問題は、ではその前は「坂上氏」であったのかと云う事に成るが、つまり、何時頃まで「坂上氏」であったのかと云う事である。
これが「薬子の変・810年」での「坂上田村麻呂・811没の裏切り」の「伊勢青木氏の対抗策」に影響したと観ているのだ。
この時点で先帝の桓武天皇の「坂上氏の賜姓」を「平城上皇」は外したと観ているのだ。
「冠位官位」は勿論の事で当然の事であろうし、この「賜姓」は「天智天皇」によるものであって、その賜姓を外す云々は平城上皇にあり、嵯峨天皇の口出しの出来る範囲では無かった。

実はその証拠が遺されていのだ。

その変後も「平城上皇」は「平城京」に滞在した侭でいたが、「嵯峨天皇」は兄の「太上天皇の称号」はそのままとされた。
兄に傷を着けなかったのだ。
更には其の後も「嵯峨天皇の見舞いの行幸」も受けているし、この時、罰を受けた「大宰権帥に遷された親王」や「廃太子と成った親王」も居たが、この「2人皇子等の近親者」にも「四品親王の位」に戻す等の「冠位官位の授与権」を保持していたのだが、要するに何も事件は無かったものとして治め直したのだ。
つまり、「院政の相応の待遇」は保障されていた事が許されていたのだ。
又、本来あり得ない「禁じ手」の「先帝の勅を覆する事」まで行ったのだ。
平城上皇の院政を認めた事に成り、「上皇令」は効果を発揮する状態と成ったのだ。
「出自元の青木氏族」からの圧力を受けていた事に成るのだ。
その一つとして例えば、平城上皇は、“平安京より遷都すべからず”との「桓武天皇の詔勅」を破り、「在京貴族」に対し「平城京への遷都の詔を出す等事」や、「冠位官位の授与の取り消し」や「賜姓や褒賞した者の臣下の者の取り消し」までも「変の措置」としてを盛んに行ったのだ。
信賞必罰等の相当の権力を上皇は握った事に成る。
この様に「変に対する措置」を、あった事はあっとして措置し、上皇にせよ天皇にせよ兄弟は如何にも無かったかの様にも措置した「表裏一体の政治的な措置」を講じたのだ。
出自元の経済的な圧力があったと観ている。
そして、その「証・保証」として「嵯峨天皇」は、この様に「平城上皇」には「ある程度の政権の掌握・院政」を握らせて「政権の安定」を図ったのだ。
恐らくは、総じてこれらの経緯には「出自元の動き」を見計らったと観ているのだ。

要するに恐らくは、「坂上田村麻呂」はこの「裏切り」で「平城上皇の罰」を覚悟したと考えられ、他の「二人裔系の歴史・大蔵氏と内蔵氏」に遺る栄転に比べ、この「坂上氏」には「3代で終わる」と云う不幸が待っていたのだ。
何よりもこの「変」では最も勲功のあつた「田村麻呂の裔」に対して「嵯峨天皇」は褒章どころか身分さえもこれを補償しなかったし、「平城上皇の行動」を防がなかったのだし、何の勲功もしなかったのだ。
つまり、「表向き」は「薬子の変の扱い」を「臣下が興した変」としたのだ。
だからこの理屈から「田村麻呂などに対する処遇」は出来なかったのだし、一度罰した「近親者の処罰」も元に戻す事を余儀なくされて「平城上皇」に委ねて仕舞ったのだ。
普通ならこれでは「嵯峨天皇の立場」は無くなるし、「天皇としての権威」は低下する筈である。

つまり、「変」は「周りの者」が政治的思惑で興したものとして始末し、その「周りの者」の一部が復権を果たしているのだ。
「平城上皇の信賞必罰の権限保持」で出来なかった事が真実本音であろう。
上記の周囲の国が出自元の関係する国々の中で、この歴史経緯を度外視できず、この事から観て、その背景は「出自元の影響・献納の停止」と観ているのだ。

そこで、これ上記の等の「嵯峨天皇と平城上皇の行動論」から観て、“「坂上氏」には「3代で終わる」”の史実は、“果たして3代で裔系が終わった”のかと云う疑問の検証である。
青木氏の歴史観から念の為にして置く。
確かに、変後の「平城上皇の行動」で、「坂上田村麻呂」は「裏切り行為」で罰せられて“「賜姓族を外され坂上氏を返上した」”のだが、「3代の語句表現」は外された事で確かに3代であって、“子孫繁栄は3代で終わった”と云う事では無い筈で、賜姓を外された以上は「別の姓に替える必要が出たと云う事」であろう。
「伊賀、甲賀、滋賀、敦賀の4カ所」に広がっている「渡来人の賀族」は、通常論からそう簡単に裔系が絶える事は先ず無いだろう。

“抑々、「田村麻呂」は「薬子の変・810年2月」の約一年半後の「811年6月没・758年生・53歳」であり、天武期に直、連、忌寸、そして、聖武期に正四位、桓武期では従三位、大忌寸、大宿禰まで上り詰めていた。
その上記の諸流はその裔の許で「宿禰」を賜る”とある。

これで「完全に絶えてはいない事」が判るし、その「裔系」は「嵯峨期」には「甲賀全域」に於いても存在していた事に成るが、然し、その変後の「坂上の姓と冠位」は事実確かに散見できなく成る。
裔系であるかは未確認であるが、「平安期末期頃の二つの歌集」を調べると、「五人の歌人」が確認できるが、「賜姓臣下朝臣族の青木氏の繁栄等」と比較して「宿禰族」まで成っていた「その裔系の子孫繁栄」は、直接に源平戦等に巻き込まれない限りは普通は遺ると考えられるし、史実は巻き込まれている。
然し、間違いなく衰退している事は判るし、少なくと「政治の場と甲賀域」には無いのだ。
現に現在にしても名を遺すほどに同じ道を辿ってきた「九州全土の大蔵氏と北陸全土の内蔵氏」は姓名を変えて枝葉は大繁栄しているのだ。
いざ、宿禰族まで昇進し「族の格式」とそれに伴う「経済の糧」を得て、これから子孫を拡大させ様としたその「ポイント・薬子の変」でその出端を挫かれ抑え込まれた形と成ったのだ。
つまり、その原因と成ったのが、隣の国にいた「青木氏の策」であったと観ているのだ。
政治的には策は「上記の平城上皇の行動」と、経済的には「東甲賀の経済の道」を断つ事であった。
要するに、紙屋院として専売権を持つ「楮生産」と、その「買上げ」を停止を掛ける事であった事が判る。
前段でも論じたが、丁度この時、「長岡と甲賀 米原と甲賀 甲賀と伊勢」とを繋ぐ「交通運搬の要衝点・米原 R1」の「米原―甲賀の杜の全域での楮生産の和紙の停止」が歴史的に起こっていてその時期が一致しているのだし間違いは無い。
一つは「美濃の源氏化への圧力」とされると前段でも論じたが、「米原」が生産が中止後には「美濃の中央の寺尾」の山に「楮生産」は切り替えられていると論じた。

そこで問題は、“ではこの「米原域の楮生産」が「紙屋院の専売権」が認められていた「平安末期」まで本格的に再開されたか”と云う事の解明と成る。
末期の「頼政の1159年の伊豆の問題」が起こり、「伊勢信濃」はここに「融合族」を送り「商いの拠点」を造り、「伊豆楮の生産」を開始した。
つまり、史実として「米原楮が生産中止」に成ったが、その「理由」と、その後に「米原」は再開していないのだ。
「紙屋院」として「専売権」を持っている限りは、引き取らないとすれば「自由市場経済」では無く「部経済下」では「和紙生産」は絶対に出来ない。
明かに「米原楮が生産が中止された事」は、記録に遺る確実な史実であり、特別な生産に関する障害は発生した訳では無いとすると、後は「政治的で恣意的な原因」とされる。
「判断材料」としては、丁度、この少し前には「伊勢青木氏の財」で「近江東側域」を「額田部氏」に依頼して「長期間の干拓灌漑開墾」をして「和紙の原材料の生産」の為の計画を立てその調査が始まっていた。
ここには例え「干拓灌漑開墾」を施したとしても「花崗岩の甲賀の山」から流れ込む「永久真砂の土壌質」には、「楮が適さない事」で、そこで紙屋院の研究から「沈丁花の原材料等」の「上級和紙の画仙紙」が適する事が判明していてその開発に取り組んでいたのだ。
つまり、結局、「雁皮の靭・外皮下の柔らかい内皮」の繊維を中心に使う事と成って、それの生産に適する様に記録では「長期間・20年以上」とあるが、「和紙生産」と「干拓灌漑開墾」が「行の文意」から並行して行われと考えられる。
遂に「近江生産が始まった時期頃」と「米原楮の中止」と上記した「薬子の変の坂上氏への圧力」の重複しているのだ。
「裏切りに対する坂上氏」への「青木氏の圧力」は、「米原楮の中止」と「近江和紙生産」と「美濃寺尾の楮生産の開発」と「後には伊豆楮の生産」は計画的に「一貫した戦略策」として並行して行われたと観ているのだ。
当然に、前段でも論じたが其の後も「伊勢信濃青木氏」を巻き込んだ「桓武天皇派と嵯峨天皇派の戦い」は続いていたと考えられるが、この「青木氏」の「坂上氏裏切りに対する圧力」で「甲賀坂上氏」は「東甲賀」から彼等の「二つの裔系」が定住地とする「滋賀と敦賀」に去ったと観ているのだ。
その証拠に、「東甲賀」には全く無いが「北伊賀」に繋がる「西甲賀」には、「甲賀青木氏」が定住し「清光寺」も「神明社」もその所縁が存在しているのだ。
「坂上氏」が平安初期に住んでいたとする彼等の「守護神の田村神社・宿禰族以上に与えられる権利」は、「東甲賀の東端」に存在したとし、その後に再建されているがここには「坂上氏の尊属の裔」は確認できない。
天智天武期に阿多倍王の裔に三氏の賜姓が成され、最終は宿禰族までに成ったとすれば「賀国・甲賀の差配」は知行地としてその運営は任され、その結果として「知行の糧」として「米原から美濃の国境の東側域まで横に広範囲」に「楮生産を営んでいた事」とされていたとある。
だから、「土壌質」の替わる「美濃の寺尾の森」であったと考えられる。

上記した様に記録に依れば、その「土壌」から、“その「和紙」に対する「楮の質」と「生産効率」は低かった”とあり、故に上記の長期間を掛けて土壌改良までしている事はその証である。
故に、遂には初めて「良質の和紙・画仙紙」と呼ばれる高級で良質な表面とその滑らかで光沢がある紙に仕上がり、墨や岩絵具が滲み難い特徴を持つ「画仙紙の和紙」を造り出したのだ。
この「雁皮の和紙」を「絵画院と繪処預院」の名の下に「青木氏部の長年の研究」で「真砂の土壌」に適した「和紙」を何と編み出したのだ。
そして、それを「近江米原域・甲賀域」で生産させていたと云う経緯を持つのだ。
要するに、ここに目を着け“「圧力の許を見出した”と云う事だろう。圧力を掛けたのだ。
そして「停止後の生産」は、「干拓灌漑開墾」が済んだ「西甲賀」で行わせたと成ったのだ。
この歴史の経緯には合理性がある。
これで院号を持つ青木氏のこの「質と量」を理由に「青木氏の生産中止の届け出の大儀」は成り立ったのだ。
当然にその得られていた糧は低くなり、これが無くなれば坂上一族を生かして行く事は不可能と成り得る。
当然に米穀物は真砂である限りは極めて低いとすると、坂上氏の本家の裔は必然的に滋賀と敦賀に避難して行くだろう事は必然である。
況してや、上記した様に裏切った以上は、「平城上皇」が依然として「院政」を敷く以上は、朝廷内に遺る事は宿禰族であったとしても何の意味も持たず難しくなるも必定である。
故に、「記録の表現」が、“実質3代”としたと考えられる。
記録は「昔方式の意味含み」でそれを相手に悟らせる表現で、「適格に歴史の経緯の状況」を表現できていると観るのだ。

注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。

「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」に続く。(P60)


  [No.392] Re:「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/10/25(Mon) 09:06:54

> 「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」の末尾


> 注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
> この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
> 殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
> この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
> 歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
> 「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
> 当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。
>

「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」

ここから67に続く

さて、本事件も斯くの如しで、最長で平安末期まで「東甲賀の坂上族」に実質350年間の間、「経済的な圧力を掛け続けた事}に成るが、然し、歴史的にはその圧力の必要性が無くなった「寺尾生産の以降期」までの間であろう。

「青木氏」に執っては「裏切りの坂上氏」が朝廷内で宿禰族として権力の幅を利かされている事は好ましくは絶対に無い。
世の常として「信用のおけない族の存在」は絶対に影響のない程度まで排除しておく必要がある。
それは「嵯峨天皇」に依って「賜姓」を先ず剥奪し「冠位」を外された事にあったろう。
それでなければ「賜姓五役」と「令外官」は務まらないし、そもそも「専売権を持つ殖産等」を始めとした「商い」は無理である。
丁度、この時に「嵯峨天皇」から形式上は確実に「賜姓族と皇親族」を外されている事に成るのだ。
これは偶然ではない。
これは「嵯峨天皇の対抗策」であったとも考えられる。
それには「青木氏」は対抗して「献納金・俱納金・冥加金」を停止して応じたのだ。
然し、当然に「予想できる対抗策」では、「青木氏」に与えられた“「先帝等が出した専売権の剥奪」は出した”とする記録はどこにも散見できないのだ。
その理由には三つある。

一つは、当時は未だ「市場経済」ではなく「部経済」であった以上は、「献納停止の対抗策で専売権剥奪」は朝廷内の経済が麻痺する事。
要するに「剥奪令を出す事」でその荒波が自分にも返ってくると云う危機感である。
二つは、「先帝が出した勅」は覆さない事の掟がある事。
「平城上皇」が「遷都令」で覆したが、この行為は「自己の勅の信頼度」を弱める事に成る。
三つは、上記の「薬子の変」で論じた様に「完全決裂」を望んでいなかった事。
これは「臣下が興したとしたする大義」が自ら崩す事に成る。
四つは、「自らの出自元」を破壊すれば、それこそ「天皇家」を揺るがす「骨肉の争いとして泥沼の戦い」と発展する事。
これは「自らの汚名」に成る。
この「第三の大義」も崩れるし、そうなれば「天皇家」も二つに割れ、「青木氏」も「抑止力」を最大現に使って生き残ろうとするだろうし、結局は「権威と財力の戦い」と成り、勝負の結果は「権威」をも持つ「桓武派・上皇派の青木氏」が勝利する。
従って、以上の「四つの判断」から“「予想できる対抗策」は出せなかった”と考えられるのだ。
それを見越せば「嵯峨天皇に味方した坂上氏」は、“素直に甲賀から引き上げる事”が子孫を遺す意味で「最上策」と成る。
上記で“「田村麻呂」は覚悟した”とするのは、要するに、“ここに帰する”と考えた事に間違いは無いが、その「歴史の経緯と結果」は当にその様に成っているのだ。

筆者なら「上皇・824没」の「命」に従うが、つまり、“田村麻呂は判断ミスをした”と観ているのだ。
そもそも、興る事と云えば、取り敢えずは「遷都と云う事」に収まるだけであり、飽く迄も「4年在位後の院政・1年」である以上は、何時かはその権力は「嵯峨天皇」に戻る所以であろう。
元々、「平安京」に都があって「平城上皇」は元の「平城京」で住んでいたのだし、「信賞必罰の院政の大権」を敷いた以上は「平城京」でも何の問題もない。
記録から、「平城京」に住んでいた時から「嵯峨天皇」の「朝貢と朝覲行幸」を数度既に受けているのだし、これは認めていた事を意味するし、それに近くには「伊勢神宮」もあるのだ。
つまり、通説で云う様に,これでは「平城上皇」が“政権を奪い戻す”と云う説の事にはそもそも成らないだろう。

記録に依れば、「坂上氏」は既に変の時には引退していて、「桓武天皇と平城上皇」とその「出自元」に恩義があり、「宿禰族」まで引き上げられ「甲賀」を領地として獲得していたのだ。
然し、抑々、何のその恩義も無い「嵯峨天皇」に請われて「自軍」を廻して道を塞ぐ行為を執ったすと云う事にある。
「桓武派」を「田村麻呂の名声」で引き込む作戦であった事は記録にもあり、要するに「坂上一族の今後の安寧」を願って「桓武派の病弱な平城上皇」より「現天皇側」に日和見で着いたのだ。
「青木氏を含む桓武派が対抗して来る事」は、充分に読めていた筈でありながらも、ここで「田村麻呂」は更に取り返しのつかない次の「二つの読み違いのミス」をした。
一つは、「変」は臣下が起こした変とされた事
二つは、「地位」を失うと思われた「平城天皇」が院政を敷いた事
要するに、その「院政」が「天皇の持つ大権の生殺与奪」に繋がる「信賞必罰の大権」を握った事にある。
これで結局は「甲賀」を失ったし、「甲賀」を失えば「宿禰族の冠位」も失う破目と成った。
其処に「青木氏の経済的な対抗策」が相乗的に効いたのだ。

「嵯峨天皇と伊勢青木氏との争い」は記録的に観ると「845年」まで続いた事に成る。
その後に[桓武派であった嵯峨天皇の子供」の「仁明天皇」に依ってこの修復を図って関係性は正常な状態に戻したのだ。
これは「朝廷の経済的な復興」から観て、その原因と成る一つは「殖産増加からの発展」と二つは「献納の復活経緯」から読み取れる。

そこで「坂上氏の甲賀での経緯」は判ったとして、「伊賀、甲賀と別れた」とする前に、既に「平安期」には「伊賀」から「伊賀の北域に住んでいた坂上氏一族・北伊」が「東甲賀」に移動していたとしていて、更にもう「一つの移動事件」が起こっていた。
「武家社会の鎌倉期直前」には、「伊賀域」と「西甲賀域」では再び「生き方の路線・傭兵と雇用」の事件が発生した。
平安期では「坂上氏一族の裔系」は上記の事件で「東甲賀」に、更に「滋賀と敦賀」に完全に移動していた事に成るのだが、室町期では「雇用・仕官」を前提に起こった論争事件では遺された一部共存組の「西甲賀の裔系」も「東甲賀」に移動したのだ。
結局は、「北伊賀の者等」は記録に遺る様に「西甲賀」に移動したのだ。
その「記録」が遺っていて「信長の妾」となった「北伊賀に住んでいた甲賀青木氏者等」も結局は「西甲賀」を経由して「近江に流れた」がその後の「経緯・全貌」は判らない。

これが、要するに「一族の関係族を伊賀域から追い出す手段」と成っていたのでは無いかと観ているのだ。
この事で「伊賀」と「西甲賀」は、「敏達天皇の芽淳王の娘」との間に出来た「渡来人・二世族坂上氏の裔系」では無い「元祖の完全な渡来人」の「後漢阿多倍王の裔系の定住地」と成ったのだ。
つまり、上記した様に「伊賀」に朝廷から受領された「伊勢国の半国割譲」で定住した「阿多倍王―高尊王―高見王」とし、その「后妃嬪妾」は全て「光仁天皇から桓武天皇」までの「伊勢の青木氏の女(むすめ)」であり、彼女等は「追尊王女」として「後付け・追尊」されている事が判るが、歴史的に判るのは「妾子の高野新笠・伊賀族以外」には全く判っていない。
然し、筆者は「伊賀青木氏」が存在する以上は、「仲介する事」は間違いは無い筈で、その人は「伊勢伊賀郷士50衆の娘の妾子」であったと考えている。
その証拠に「後の信長の伊賀攻め」でこの「伊賀者」は徹底し籠城し「総攻撃の前夜」に「伊賀青木氏と伊勢青木氏」とが、「伊賀郷士21士中の3士」は「信長」に味方し裏切ったが、必死の覚悟で「残りの伊賀18士中11士」を何とか救い出して、「伊勢青木氏の清蓮寺城・平寺城」に匿っていたこの「史実」は「血筋」を繋いでいた何よりの証拠ではないか。
「伊賀郷士」が「伊勢郷士衆50衆の中」に在るのもそれを物語るし、前段でも論じた様に「伊勢殖産」でも資料の表現の一部に遺る様に、要するに「家族の一員」でもあったのだ。
これは先ず間違いは無いだろう。
要するに、「伊賀に嫁いだ娘」は「青木氏の女系の中に在った」という事だ。
つまり、「青木氏」から観れば「氏族である事」に成るのだ。

因みに前段でも論じたが念の為に追記して置くと、だから、「以仁王の乱の失敗」で「頼政の子孫の三人宗綱と有綱と叔父高綱」の「助命嘆願書」を「伊賀の女・老女と記されている」のこの“「老女”を仲介にして届けられた」として記されているのだ。
この“「老女」”とは「確定の研究中」であるが、検証の結論は「伊勢平氏維衡の妾・源満快娘 1」では無いかと観ている。

その検証は次の通りである。
系譜は、「維衡・推測980年~1065年頃―正度・生没不詳―正衡・生没不詳―正盛・?~1121年―忠盛・1096年~1153年―清盛・1118年~1181年」と続くのである。
つまり、この事から時系列では「維衡」は「正盛」が生まれた頃まで生きていた事に成る。
「桓武平氏の清盛」からすれば「伊勢平氏の始祖の維衡」はそんなに遠い人では無かった事に成り、「85歳の長寿・現在で云えば146歳に相当」であった事から、「噂程度の口伝と始祖」でもあったのでこの「伝統」は在った事に成る。
要するに“老女は知らない先祖”と云う事では無かった筈である。
必然的にその「若い妾・源満快娘 1」は「清盛の祖父正盛・?から1121年」の「老女の人・姥程度」に成り得る。
故に、その「絆」から「仲介の役」を担ったのだとされる。

更に検証を進める。
その「根拠」は、この者は、「清和源氏の始祖源経基の五男」で「満仲の異母弟満快」であり、「桓武平氏・伊勢平氏の清盛」から云えば、「伊賀の伊勢平氏と繋がった源氏の娘」とは、この「娘の者」と次の「4娘の者」である事に成る。
この「4娘の者」が、「伊勢平氏維衡の子」の「伊賀}に住した「平國香の妾」で「源護娘 2」とあり、これは「嵯峨源氏」であり、「老女」とするには「清盛の時代」に近いが、「河内源氏」からすれば、「疎遠の摂津源氏」では無く、「助命嘆願をする程の縁」は系譜からは最早無い。
後には、「清盛の祖父」に当たる「正盛・1121年没」の「妾の源義忠娘 3」と「妾の源有賢娘 4」と、「父に当たる忠盛・1096年から1153年」の「妾の源信雅娘 5」があり、これ等は年代的に極めて近い。
そこでこの五者が「伊賀」に住したかであるし、この者等はそもそも「疎遠の河内源氏」であり「摂津源氏」ではないので無関係である。
「清盛の父の忠盛」が「1145年」に「播磨国」を「知行地」として任じられ、「伊賀」を離れて一族移動定住したので、「清盛の父の忠盛・1096年から1153年」は、この事から初期は確かに「伊賀」に住んでいた事に成る。
「助命嘆願書の事件」は、「1180年の宇治平等院の戦い」で自決で敗死し、早期に鎮圧されたが、この時の事であるので、「忠盛の妾の源信雅娘 5」は全く当たらない。

そこで「正盛」は「1121年の以前」は間違いなく「伊賀国」に住していた事に成るが、,この「3人」は[河内源氏の政略婚」である。
従って、少なくとも「老女」とするには、「正盛の妾の源義忠娘 3と源有賢娘 4」の二人に絞られる事に成るが、「河内源氏の最盛期の人物」でありこれも当たらない。
つまり、「維衡から4代目」に当たり「清盛より3代目前の叔父」に当たる事に成る。
この“「源義忠」”は歴史的に極めて「有名な人物」で、「平家との和合策」を積極的に執りその為に「味方から暗殺」を受けた「歴史的に遺る有名な人物」である。
この「3と4の2人の娘の妻嫁」は時代的に符号一致するが、これも「和合策の所以」ではあるのだか、そもそもこれも「最盛期の河内源氏」であり「助命嘆願の条件」にそもそも当たらない。
依って、検証の結果は「伊勢平氏維衡の妻・源満快娘 1」だけに絞られる事に成るが、これも[時代性」としては多少はずれている。

そこで念の為にこのズレを確かめて観る。
「清盛」に執つては、「2〜5」にはそもそも「助命嘆願の条件」には当てはまらない。
然し、「伊勢平氏の桓武平氏の始祖」とする「維衡の妻」には心は動くだろう。
その「老女の人物」が「清盛」に執って生存しているか否かよりも、その「人の名」を使った「助命嘆願書」には「個人的感情」では無く、先ず「桓武平氏の始祖とする大きな大義」が生まれる。
故に、筆者は「記録」には「匿名・特名」とせずに「青木氏祐筆」は「老女とする表現」を使ったと観ているのだ。
そうすると、この「助命嘆願書の記載」には、「維衡の妻・源満快娘 1」の事に付いては、「伝統」に則って「女墓」に刻まれている筈で、「浄土宗の戒律」に則って「院殿居士の伝統の戒名」を必ず記したと観ているのだ。
然し、現在の処では「一族の平氏播磨移動の際」に墓所も移されてそれは不明とに成っているのであるし、「伊賀の所以」は上記した様に時代と共に変化した。
「伊賀」は、上記の「坂上氏の事件」と共に、この「助命嘆願の事件」にも関わり、後に論じるが時代と共に期せずして“「伊賀青木氏化した」”と云えるのだ。
故に、その後の事も上記した様に「青木氏祐筆」に依って「歴史的な史実」を追跡されて「経緯の詳細」が記されているのだと観られる。

要は、先ず条件として「清盛との近い所縁」にあり、「大儀」が得られない限りは「情」だけではそうでなければ動かないだろう。
だとすると、「998年から1185年」までの「維衡・85歳没の若妾妻・源満快娘1」にどうしても成る。
「摂津源氏の歴史的経緯」から観て、「若妾妻・源満快娘1」は確かに「時代性のズレの事」もあるが、それも相当に若かったと考えられ、それ故に史実として「摂津」から再び「伊賀に嫁いだ事」に成る。
ここで「重要な事」は、「摂津源氏」は、「河内源氏」と違い「嵯峨天皇の9つの縛りの伝統・真人族に課せた必要条件」をある程度に護りながら、「青木氏族」とは別の範囲の処で、中でも「四掟と四家の二つの制度」を唯一に敷いていたのだ。
つまり、朝臣族では無く摂津源氏は「真人族扱いの源氏・頼政の正三位昇格が証明」とされていた事に成る。
上記の通りに、その「摂津源氏の四掟」の中に、この「伊賀の伊勢平氏」が入っていたと成るのだ。
その意味で「青木氏」とは「伊賀」で「初期の氏族形成時」から「伊賀青木氏」は勿論の事ではあるが、「摂津四掟四家」での「伊賀接点としては繋がっていた事」に成る。

つまり、「伊賀青木氏」と「伊勢青木氏の出自元」で繋がっていたのだ。
唯、それが、全て「正妻」ではなく、「后妃嬪妾の制度」の「妾階級扱い」であり、故に伝統に基づき「歴史的記録」は遺され難いのだし、但し、ある条件下で記録としては遺される場合もあった。
ここに「繋がりの意味」があり、その「摂津四掟の繋がり方」が「ぎりぎりの処」で繋がっていた事を示すが、要するにこの「四掟」は「全て政略婚」ではあるが、これは「軽度の政略婚」と成ろう。
その「妾の意味」で「軽度の政略婚」とすれば「助命嘆願の清盛の扱い」も違って来るだろう。
然し、「清盛」がこれを認めた限りは、「重軽の政略婚」とは別の処で認めた事に成ると云う事に成る。

同然に実は証とする事がこれ以外に興っていて、この時期、前段でも論じたが「伊勢青木氏の京綱事件・摂津源氏」と「信濃青木氏の国友事件・摂津源氏」の二つの事件が同時に興っていて、前段でも論じた様にこれには「伊豆事件」も連動しているのだ。
それはこの「源満快」は、記録には「下野守を務めた後」に、「信濃にその裔は土着した」とあり、これを所縁で「源平戦で負けた場合の子孫存続の為の策」として「国友」を「正三位の頼政」は「信濃に預けた経緯」であったのだ。
記録にもその様に記されている。
「信濃」には、更に証として「北の摂津源氏」と「美濃よりの南の河内源氏」とが土着したとあり、その「裔系之記録の時代性」から観て、これの「真偽」には「後付けの疑問」が強く残る。
同じ地域に犬猿の仲もあるが「摂津源氏」と「河内源氏」が住む事は住み分けの掟としての考え方の違いもあって本来は無い
然し、「北の摂津源氏の裔」に付いては間違いなく史実であろう。
これに「系譜偏纂の為に後付け利用」で「美濃に近い事」から「南の河内源氏の系譜」を託けたと観られる。
だとすると、「源満快の裔系」の「北の摂津源氏の信濃土着」は、この経緯から「生没不明と成っている維衡・85歳没」の「若妾妻・源満快娘1」は相当に若い事が云える。

そして同時期で同然の事が絡んで興っていて、因みにこの「四掟の制度」を破って「伊勢青木氏」に入籍した「摂津源氏の仲綱の京綱・嬪子四男」も「乳飲子」であった事が記録には記されていて、その母は「入嫁後の2年程度」で「後家・初めて後家という言葉が使われたとしている」として「伊勢青木氏」に戻っている。
つまり、これは「以仁王の乱」を控えた「頼政の子孫保全の為の策」であった事が云えるが、その「青木氏からの四掟」では無い「摂津源氏の四家の主家の仲綱の嬪」として入った「伊勢青木氏の女(むすめ)」が直ぐに「後家で戻った」とすれば、「嬪妾扱い」から観てもここでも相当に「若かった事」が云える。
「源満快」は「娘」を「嫁・妾」として差し出している以上は、「乱1180年前」で、尚且つ、「没1081年前」での「妾の娘」とすると、「当時の平均寿命55歳」からすると、少なくと「妾を迎えられる可能な範囲」では「30年前の1050年から1060年頃」と成るだろう。
この時、「若い」とする「当時の女の最低年齢の限界」を、何度も伝統で論じているが、史実として「最低で8歳・平均寿命55歳」で「早熟」であったと「青木氏の資料」でも記されている」とすると、仮に「老女・85歳程度」として記されている以上は「1060+85=1145年の没」と成り、丁度、「播磨に移動定住する前の時期・直前」まで生きていた事に成る。
この「老女の1145年」は「忠盛1096年から1153年」の時代である。

この検証の「嫁ぎ年齢8歳」としては「清盛・1118年から1181年」からすると、“「知らない人では無い事・認識あり」”に成る。
「青木氏の女(むすめ)の資料」では、嫁家制度の「女(むすめ)」では最高で「13歳から15歳」が「通常の年齢」であったので、どんなに考えても「1137年頃」と成る。
当時の「平均寿命」から計算すると、現在では、「23歳から24歳」と成るので適格性から観て「1137年から1145年の検証の「清盛・1118年から1181年」は正しい事に結果として出る。
「清盛19歳から27歳の時」にこの「老女に会っていた居た事」に成る。
この「検証」は、「記録の老女記載・現在寿命133歳相当」を前提として符号一致して矛盾が無いだろう。
この「老女との記載」は、現在の133歳に相当とするとして、当に「神に近い白髪の老女」と成り得て、「当時の習慣仕来り掟」から、「氏族に執つての尊敬の対象」として「神扱い」であった筈である。
念の為に奈良期から平安期の過去の慣習では、「女(むすめ)」の「嫁ぎ年齢」は必ずしも「女(むすめ)」の適齢期に達していなくても嫁する事は盛んにしてあったとされ、中には江戸期の記録にも散見できる程なので、必ずしも適齢期には拘っていなかった事がある。

上記で検証した様に、「維衡・85歳没」も「伊勢平氏の始祖」であり、且つ、同然に共に「氏族に執つての尊敬の対象であった事」がこの事から云える。
「清盛」は少なくとも、この「大儀」としては、この「老女の扱い・助命嘆願」について「氏族に背くような扱い」は出来なかった事が云える。
それだけにその「扱いは慎重にした事」が云える。

そうすると、さて、次にこの「助命嘆願書を書く事」を誰が企んだかである。
筆者は、「青木氏の資料」にこの様な「余りの詳細な経緯」が遺る限り、「平等院で自決し滅び、若い子孫を密かに逃がした事」を既に知っている者と成る。
それは「逃がした者」であろう。
これを「必然的に成し得る者」としては、この資料には「薩薩摩までの実に詳細な経緯を遺している事」の以上は間違いなく「伊勢青木氏である事」に成る。
この「詳細な経緯」は、内容の時代経緯から「以仁王の乱の事件後」−「日向」―「薩摩」までの「全体の経緯」が事細かく書かれている。
という事は、これは「青木氏に関わる事」として一度に書かれたものでは無く何回かに依って「祐筆」に依って「経緯に従い追記された事」に成る。
その記録には、最終には、「黒田藩の傭兵」と「下青木、上青木の呼称」まで書き留めている処を観ると、「1180年から1620年頃までの歴史的な関わり具合」を「歴史の幅」として記していた事に成るのだ。
但し、「三つの地域部位の由縁」として「伊賀、日向、大口の青木氏に関わる事」として纏められ何度かに追記されているのだ。

但し、この関係する「日向青木氏・大口青木氏」に付いては必要なので下記で論じる。

それを筆者が「行の読み込み」をして総合的に解釈して論じている。
記録は何も態々、「伊賀の事に付いての事」であって、「摂津源氏の事」を書き記しているものでは決してない。


では、これが「伊賀の事に付いての事」であるとすると、「伊賀青木氏に関わる事として」と成るので、この「助命嘆願の件」は、多少なりとも「伊賀青木氏に関わっていた事」にも成るだろうがそれがどうもそうで無い様だ。

さて、“どの様に関わっていたのか”であるが、「史実を含む詳細」は「四掟の範囲の血縁接点」はないのであるから、“無い”は当然で「糸口を見つけ出す事」には全く判らない。
然し、「助命嘆願」と「大口村の浄土宗寺住職・特定できる」にだけは関わっている事は「文意の行」から確かである。

では、それは何なのかである。
導き出される当然の答えは、「京綱事件だけ・伊勢青木氏には記録されている事」と「公的資料でも確認できる事」である。
つまり「頼政の乱の直前」にこの「二つの事件の策」が不思議に実行された云う事なのだ。
そもそも乱の混雑の前にこんな面倒な事は普通はしないであろうがしたのだから其れだけの意味を持っていたと云う事だ。
恐らくは、「流れ」としては、この「京綱の継嗣」は「女系の青木氏」では「青木氏の伝統」からして「異例事」であり、その「異例事」は「630年間無かった事」である程だ。
従って、その「異例事」に付いては、「四家の嗣子」が「青木氏以外」から出自していないが、然し、話が決着したのは、「継嗣の母」は、確かな事は「嫁家制度の青木氏の女(むすめ)」であって、それも「氏族の伊勢郷士」に嫁いだ「女(むすめ)」が「優秀な嗣子」に対して「青木氏」を興させて「福家の家人」として「四家」に入れると云う「家人仕組み」があるが、この「家人仕組み」として、「氏族の伊勢郷士」から「氏族では無い四掟外の摂津源氏」にと考えてこの「異例事」の「話し合い」は最終決着したのではないかと予想している。
摂津源氏が「四家の氏族では無い」としても、元は「皇位族の朝臣族同士」とすれば「一つの朝臣氏族」と考えれば、「嵯峨期の掟」に基づき摂津源氏は何とか最低限の処で「四家制度」を敷いている。
それ故に「氏族相当」として考えて、「氏人の氏族伊勢郷士50衆」の「一族同意」を得たと考えられる。
然し、隣の「伊賀青木氏」もいる「伊賀」には、「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1が嫁していた事」は知っていたとすれば、この「京綱の事件に含む内意」も既に読み取れていた事に成る。

それは「乱の決意の失敗時」に何らかの形で「宗綱等の裔の救出」を内意として依頼していたのではないかと云う事なのだ。
その時に、「以仁王の令旨」を廻したが、「王位の令旨であった事」もあって初期には思い掛けなくも「他の源氏一族は動かなかった史実の事・初期段階・新宮源氏が全国を説得の為に廻った」に原因があったのでないだろうか。
前段でも論じたが、「戦う前」に既に「失敗を決意していた・源氏族蜂起の切っ掛けを造る目的」と観られるが、筆者は更にその前に敢えて「失敗覚悟で起こした乱」であったと観ていて、その為にも「京綱と国友の二つの事件」があって、それ故に「三つ目の事件」として「宗綱等の裔の救出の依頼」が一連にしてあったと観ているのだ。
然し、其処まで「青木氏がリスクを請け負う必要性」は何もないし、応じなければならない「摂津源氏に対して義理」もない。

では、何故、「伊勢青木氏」は「宗綱等の裔の救出」の「助命嘆願書の作成」に動いたかである。
「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1の老女」が独自に動く事はそもそも不可能であるし、周囲は敵であるので、そんな動きは勝手に絶対に出来ない。
では、それをさせたのは何かであって、それが「福家を通じて伊賀青木氏」では無かったかと云う筆者の説である。
何故ならば、それは上記で論じた様に、「伊勢平氏の始祖の維衡」の「桓武平氏の始祖の阿多倍王、高尊王、平望王、高見王」との「伊賀青木氏との血縁繋がり」であろうと観ている。
況や、「伊勢平氏の祖」の更に「始祖の族」でにである。
何を云わんとしているかと云えば、これは「伊賀青木氏の位置づけに関わる事」であるからだ。
それは、「桓武天皇の出自元」であり、「前段からの高野新笠の出自元」でもあり、「伊勢平氏の祖」からしても「氏上様、御師様」で呼ばれていた様に、突き詰めれば「律宗族の祖」の「始祖の始祖の始祖である事」に成る。
要するに、当時の「古来の氏上制度」からすると、「神の領域の筋目」と成っていたのだ。
これで充分だが、そもそも「不毛な山郷の真砂の村での糧・伊賀」だけでは一族は生きていけない。
古来より「伊勢伊賀」は資料にもある様に、そもそも切っても切れない「糧の運命共同体」であって、そこに前段でも論じたが「殖産の商い」で「富を獲得している運命共同体」でもあったのだ。
だから奈良期の古くから「氏上様、御師様、律宗様、得宗家」と呼ばれていた所以である。
この呼称がこれを証明している。
「国幣社の神明社を守護神としている事・神職の柏紋の青木氏」を一つ捉えても「尊敬対象の…神様」であった筈である。


此処で、詳しく歴史観を論じるので話は外れるが、予備知識として「御師様」に付いて前段でも論じたが「歴史観」として誤解の無い様に改めて記する。
そもそも、「御」は兎も角も、それは先ず上記した様に「師の語源」にあって、「師の意味する処」はその「語源の下」で奈良期から室町中期まで使われていたが、江戸期に成ってこれが「別の意味」で使われる様に成った。
寧ろ、成ったと云うよりは“使われる様にした”と云う事の方が正しいだろう。

さて、そこでそもそも「文字の生まれた中国」では、「師の象形文字」は「左の偏」は「段」を二つ重ねたもので「平坦な丘の形」を意味を成し、「右の旁」も「小高い土地」の上に建てられた「風向きを知る旗」の形を表す。
即ち、「吹き流しを表した形」を意味し、この「二つの平岡」を象形する事で、歴史的にここには「見張りの効く岡の上」、突き詰めれば「近衛軍を置く位置」として決められ、初期に中国ではこれを意味し扱われていた文字であった。
そして、この「小高い丘の上の近衛軍」には、当然に「名誉」があって、それを「格式ある指揮する者・尊敬する指揮者・指導者」をこの「象形の師」を使って表現したのだ。
これが「御師の真の語源」だ。
だから「賜姓朝臣族の臣下族の青木氏」は「御師の呼称」に成るのである。

そこで、最初はこの上記の「中国の制度」に学んで「奈良期の天智天皇の近親の者」から「賜姓臣下朝臣族」が成り得る「近衛軍」を作った経緯と成るのだ。
前段や上記した様に、そこでこの「近衛軍の師」は「天皇の寝所」に「近侍・さぶろうから侍のサムライの語源」したが、これをこの「賜姓五役の一つ」として「伊勢青木氏」の「四等位最上位の左衛門上佐」の「最高位にいた事」に成るのだ。
故に「四家の福家の継承者」はこの「・・・左衛門上佐」を襲名としている「伝統」を持つのだ。
更に、其の上に「伊勢神宮を護る伊勢王位」にもあって、それ故に「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を「守護神」としていて、「皇位族朝臣族」としての「伝統・9つの縛りの掟の律宗族」を頑なに護り、これらの「格式所以」を以て、上記する「師としての位置」にいたのだ。
この事から、「伊勢郷士衆50衆の氏族」から「衆の師」として崇められて「御師様」と長く呼ばれるに至っていたいたのだ。
この「御師様の格式」は「嵯峨期」に強引に打ち消されたが、依然として永代であった事に依り「御師様の呼称・」は江戸期末直前まで続けられたのだ。
況や、此処で云う“「御師様」”とは、「青木氏の歴史観」に基づく呼称を意味するのだ。

ところが、この「江戸期」に成って、この「格式呼称の前提の歴史観」は世間では完全に忘れ去られ無く成り、この結果として、この「御師様の呼称の意・商業の長意」は替わって行ったのだ。
寧ろ、「幕府の都合」によって変えたのであろう。
故に、「各地・24地域」に散在する過去に同じ「近衛軍の御師の立場」であった「秀郷流賜姓青木氏とその一門等」に声をかけて、前段でも論じた様に「15の商業組合を造った経緯」を持つのだ。
必然として、この最初にスタートした「全国15組合員を一つの円圏」として「伊勢・伊勢神宮」を中心としての「15の経済圏」を造ろうとしてこれは成功したのだ。
遂に、それを拡大して「摂津・大阪までの経済圏」として拡大させたのだ。
この時、この中心となった「伊勢屋・青木氏」が担保する「御師券」と呼称する「信用幣・紙幣」を発行して、「一大経済圏」を構築したのだ。
この事から何時しか誤解されて、「伊勢神宮参詣に関わるのみの経済圏」の「店の事」を「御師・おんし」と成ったと通説しているのだが、これは明らかに間違いであって「江戸期の時代の語意」が「奈良期平安期の語意」と成り得る事は100%無く、よくある「通説の間違い・歴史観の勘違い」である。
飽く迄も、此処で云う“「御師様・おんしさま」”とは、「奈良期、平安期中期頃の語意」である。
念の為に、その証拠に上記の「奈良期の歴史的経緯」から論じると、「出雲朝廷」でも同然にこの制度は中国から伝えられていて歴史的にあったと記録され、矢張り、「御師・おし」と呼称されていたとする論説記録がある。

そこでこの「御の語源」は、「偏の複数人」とその中央の象形文字の意は「走る」と「右旁の車」で、「皇帝を乗せる牛車」を意味し、其れを以って「尊敬字」として扱われた「漢語」であって、日本に伝わった段階で、尚、「敬語としての意味合い」が強く成り「大・おお」を着けて使用する様に成ったのだ。
語源的に当初は、韻語として「おほみ」から「おおん」と成り、其処から「おん」と「お」を使い分ける様に成ったとされる。
「出雲朝廷」では「中国からの使者」から伝わったとされ、その後に「和語」として「神明社の詔に使う韻語」を使わず先ず略されて使われたとしていて「お」でつかわれたと記録されている。
それがその後に「大和朝廷」に入り、「神社の韻語」として「おほみ」から「おおん」か「おん」に変化した経緯と成ったとされる。
故に、先ず「出雲」で「御師のおし」から大和で「御師のおんし」と成った事に成るのだ。
「伊勢の記録」では使い分けされているので「おし」として記されているが呼称で伝わったのは「おんし」である。

実は、この「御師様」には、「福家様」や「律宗様」や「得宗家様」や「氏上様」等の呼称と共に並行して使い分けして呼称されていたのだ。
これは、つまり、「呼ぶ人の範囲」に依って使われていた事が判っている。
恐らくは、漢字から判る為に明記されていないが、「福家様」は「四家の人」、「律宗様」は「全国の青木氏神明社神職の人々」、「得宗家様」は「家人の人々」、「御師様」は「伊勢全体の人」で、「氏上様」は「氏族の長」としていた事に成る。
この「氏上様」は「伊勢郷士衆50衆の人々」に限定していたと成っていたと考えられる。
では、因みに「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」から「女系親族・母方族の伊勢青木氏と信濃青木氏」はどの様に認識呼称されていたかであるが、これは「相手側の書籍」に頼る以外に無く、こちら側からの資料記録の行からでは良く判らない。
然し、総称は通して“「伊勢殿」”では無かったかと思われる。
家人の家に遺された資料にはその様に記されている。
又、依って「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」からは、「親しみ」を込めて「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿」と呼んでいたとも考えられるが、何せ「24地域に及んでいた事」から正確には判らない。
「伊勢秀郷流賜姓青木氏」に付いての呼称は、「伊勢側」では「梵純殿の名・又は一時期は駿河殿」がある事故に、前段でも論じている様に「代々の俗名」で呼んでいた可能性がある。
「駿河守の記録」も一時期にはあったらしい。
兎も角も、上記の通りに「御師の歴史観」はここで質して置く。

戻してその「伊賀青木氏の仲介が入ったと云う事」に「伊賀」では成ったのでは無いか。
そして兎も角も「助命嘆願を出して観る」と成ったのでは無いか。
それには「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「僅かな繋がり」を持つ「摂津源氏源満快娘1の老女」の名を使う事」に成ったと観られる。
この「老女」そのものには、最早、その策を考える能力とその意欲は無かった筈だし、「6代先の宗家筋の頼政の子孫の事」に「口出すつもり」も無かっただろうし、況して過去の事は幼少でもあったので知らなかったであろう。
間違いなく「周り・伊賀青木氏」が、「福家」と協議して動いたものである事には間違いは無い。
では、「助命嘆願」を出しても「伊勢側」にどんな「理利」が在ったかと云う事であるが恐らくは無かったでろう。

結果として、この「助命嘆願」に依って「配流先」が「日向国廻村」であった事から、この事が「日向青木氏の歴史観」に繋がって行く事に成るのだが、今までにその詳細に就いて論じていなかったのでここでそれを下記に論じて観る。
つまり、その「日向青木氏」、又は、「大口青木氏」と「伊勢青木氏との関わり」に繋がって行くのだ。
それにしても、不思議な事に「伊勢青木氏の名を使う事」を「大口村の浄土寺の住職に伝える利益」は無かった筈であるが、然し、万が一の場合に備えて現実に伝えているのだ。
この事は「二つの記録」から判る。
それも最後は、「廻村」から「軍」を興して「日向平氏」に敵対し敗退して逃亡の最終は「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」まで逃げた事を記録として伝えているし、それ以外の寺は無理としてこの行動と発言がこれも余りに用意周到の言である。
最終、この「寺」に最終的に「日向平家追討軍」が直ぐに後を追って到達して来たとある。
その逃亡の結果としてぎりぎり辿り着いたのは、「廻氏の血筋を引いた宗綱の子供と合わせて廻氏の土豪侍5人」に成っていたと記されている。
「日向平氏」に「戦いを挑んだ経緯」では、「配流元受け入れ」と成っている「廻氏」が「周囲の南九州の土豪達」に呼びかけ、そしてその「戦いの背景」を援護したのは「南九州全域」を長く勢力下に置いていた「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」であって、結果として二度も戦ったが、敗退し「肝付氏の勢力下の大口まで逃げ込んだ経緯」であるとして記されている。
それが前段でも論じた様に、嵯峨期直前までは「助命嘆願から支援した伊勢青木氏」は、「令外官」として代々「国造の伴造差配」であった「誼」で、「朝廷官吏族伊佐氏」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」に繋がっていたとしているのだ。

この繋がっていたとする「青木氏の祐筆」の記した「誼説の根拠の行の表現」は史実であり理解できる。
故に、この「大口村の寺・浄土の寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の「住職行動の詳細経緯」も史実として理解できるし、この「寺での騒ぎ」も記されていて、「生き残った末裔と侍五人」が寺に到着後、息の着く暇も無く「日向平氏の追討軍」が追いつかれたとされる。
「記録」はこの瞬間に住職の指示で“「伊勢青木氏だ”と名乗ったしていると記されているのだ。
これが、「南九州域の強いアクセントのニュアンス」で見抜けるが、ここも恐らくは「都から六年交代で来ていた伊佐氏の住職」が「日向平氏の追討軍」に直接に答えたとされているのだ。
だとすると、この記録から「伊勢青木氏との誼」は先ず解決する。

この「伊佐氏の住職」は、「官吏」として「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性」を充分に承知していて「言い逃れ」で先ずは回避できるとして咄嗟に答えた事と観える。
然し、この「伊佐氏の住職」が「伊勢青木氏の名」を何故タイミングよく断りもなく答えたものだと疑う。

この事に付いて、情報が住職に伝えられていたとする原因は下記にするが別の処でも詳しく判る。

こに祐筆は次の事を「添書の形」で追記の形で記している。
到着後、「日向青木氏・呼称とする」は、“「伊勢青木氏だ”と名乗った事」に対して十分な詮議をせずに引き上げたとしている。
それは「引き上げた原因」は、「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性・桓武派」を充分に承知していて「追及」が出来なかった事とし、又、何せ「肝付氏の勢力の領域」に「懐深く入り込んでいた事」のこの二つであろう。
「配流処置と成った嘆願書」に背任して「戦いに及んだ事」で、「日向平氏の追討軍」には許し難い事もあったが慌てて引き上げたとある。
その原因は、「祐筆の添書」には無いが、それは上記の通り主に“「肝付氏の勢力」にあった”と観ている。
この事に付いて、「物語風の記録・ある郷土史」によれば村人に「引き上げなければならない理由を述べている」が遺されている。
つまり、正しく「肝付軍」に背後を突かれれば全滅であり、だから「伊勢青木氏」に執っては何の関係も無い「肝付氏の事まで」も書き記したと観られる。

其の後、 「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の中でこの「裔系の日向青木氏・後の呼称」が「大口村」から最終は元の故郷の「日向の廻村」までその子孫を拡大して行くのである。(下記)
因みに、この事に就いて「近江佐々木氏の青木氏一族の研究資料」には、この「朝廷官吏族伊佐氏・弁財使の事」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏・押領使の事」と、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺の事」も記されていて、何れも「地域の安定の為に統治用の朝廷軍」を預けられていたとされる。
それも「秀郷流賜姓青木氏族の薩摩永嶋氏」に関連に付いても記されているのである。

結局は、「伊勢側が執った助命嘆願書」は、思いがけなく「日向平氏への戦い」で背任され「面目丸つぶれ」と成った経緯事件なのである。
その後の「裔系の廻氏系摂津清和源氏の仲綱系の裔」は、「日向青木氏」としてその子孫は大繁栄したが、これ以上は「伊勢側」は何も出来なかった事に成ろう。
然し、「これだけの情報」が記されているその所以は、「青木氏の氏是に反した戒め」としての「伝記」で詳しく後世に語り継がれる様に遺したと観られる。

「面目丸つぶれの伝記」には、念の為にもう一つ疑問が残っている。
それは、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏菩提寺」への「情報伝達手段」はどうしたのかであり如何にも早い。
「何の所縁も義理も無い住職」が自分の危険も顧みずに、機転を利かすにしても余りにも適格であった。
これは何らかの連絡なくしては余計な事は出来なかった筈である。
実は、色々研究の末にその元が比較的に簡単に発見できたのだ。
それは「二か所からの史実」であった。
その一つは、上記の「近江佐々木氏の研究資料」の「秀郷流青木氏族薩摩永嶋氏」の処と、「1180年頃の青木氏の商い」にあって、前段でも論じた様に、「925年」に朝廷から離れて本格的に「殖産と合わせた商い」に及び、「1025年頃」には「総合商社」を「伊勢」と「摂津」で営んでいるのだ。
そして、前段でも何度も論じている事ではあるが、その後、直ぐに「大船三艘」で伊勢と摂津で「北宋貿易」を開始しているし、「伊勢水軍」も7割株の水軍主であったのだ。

そもそも歴史的には「平安時代」には「北宋」との間で公式ではない「私的貿易」が行われいたが、「南宋樹立後」に「平氏政権」も非公式で「宋貿易」を担った。
その後、「鎌倉時代」にも「民間レベル交流」があった。
この「日宋間の貿易」は飽く迄も元より非公式のものであって、「私権の獲得」に過ぎず利益を獲得して「桓武平氏の発展」を遂げた原因と成った事は公的な記録でも明らかである。
これに依って「宋銭」が入り、「貨幣経済」が発達した経緯を持っているのだ。
「清盛」はこの「私的貿易の宋貿易」を振興する為に各地に「朝廷の市舶司役人」を設置したとある。
その結果として、「宋商人」は、「博多」や“「薩摩坊津」”、「越前敦賀」まで来航し、この“「私的貿易」”が盛んに行われていて、これを許していたが、「1173年」にその為にもこの“「南宋貿易」”を「博多」から「瀬戸内」を通って「摂津」の「拡張福原の大輪田泊・突貫工事」に直輸させて「利権」を一人締めしようとしたとする「騒動の記録」さえある。
この為に、突貫的に博多から瀬戸内経由で「各地の数十の船泊」を改修して摂津に引き込んだのだとされる。

さて、「伊勢青木氏」もこの「総合商社・1025年頃後」に既に開始していた「私的な北宋貿易」は、「1170年頃」に「北宋貿易・1025年から1127年まで」で得た「貿易知識」を以て、この「南宋貿易」をも始動しその商法を「清盛」に指導したのは「摂津の伊勢青木氏」であったと記されている。
更に「伊勢青木氏から受けた貿易知識」を「源義経」にも教えたとする記録がある。
その「伊勢青木氏の知識」は「北宋貿易」だけでは無かった様で、「伊勢水軍」も盛んに使って「琉球や周辺の島々」等もあったらしい事が資料より読み取れる。

その後、因みに上記した様に「清盛」は「義経」にもこの「南宋貿易の商い」を我子の様に優しく教えて「政治を始動する事」を教えたとする記録も遺っていて、この事で考え方の違いが発生し「頼朝と仲違いの原因」と成ったと記している説もあるが、この「史実の経緯」から観て納得できる説でもある。
その元は「伊勢平氏との所縁」を持つ「伊勢青木氏」であったが、「南宋貿易の事・1190年頃〜1277年頃」には記されていないのは何かあったと考えられる。
これは「鎌倉幕府の樹立期」である。
つまり、この「上記の史実」から、「伊勢青木氏が助命嘆願で興してしまった大失敗」をしたが、「大不義理を興した伊勢青木氏」に対しては、この時、次の二つの事が読み取れる。

一つは、「宋貿易での清盛と伊勢との関係性」の「時代性経緯」が、この「不義理の時期」と一致している事である。
つまり、ところが「伊勢の不義理」に対して「清盛」は何の変化・処置もしていない事にある。
寧ろ、「貿易と云う点」で指導していて「伊勢平氏を強くした事」に繋がったと考えられ、「清盛」は感謝していた可能性がある。

二つは、この「伊勢交易・伊勢屋・青木氏」の「日本各地の交易泊」として、又、「北宋貿易の経由地泊」として「薩摩坊津泊」が記されている。
此処が日本から離れる時の「最初の泊」であったとされ、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」から約北東に「100k(25里)の所」にある。
この事で上記の「情報伝達の仕組みの疑問」が解決する。

「伊勢」からの「情報伝達手段」と「糧の物資輸送手段」は「伊勢の大船3艘と伊勢水軍」に執って見れば特段に何の問題も無い。
特段に「宋貿易」でなくても「総合商社」としては、「九州伊勢の物資輸送・交易」としては当たり前の事であった。
上記に記されている「伊勢側の詳細な経緯の内容」は、この事で得られていた事に成り、「祐筆の書」は納得できる。
現在でも、何はともあれ証としてこの「坊津泊の地名」も「大口の浄土寺の寺」も現存しているのだ。

この件と離れて、「奈良期からの泊」で調査して観ると、次の事が出て来る。
それは「五つの自然条件」が整っていた所が「泊」として選ばれていたらしい。
それは、次の順であったらしい事が資料に記されている。

一つは、黒潮の通る所 黒潮の力を利用できる事
二つは、水深がある所 深く黒潮の流れに乗れる事
三つは、風が在る所 一定の良い風が吹く事
四つは、地形の良い所 停泊が出来る事
五つは、大きな河川のある所 泊の奥に荷駄を送れ安全に船が逃げ込める事

これ等は「帆船」であった事からの条件であろう。

さて、本論のこの「五つの条件」に合致する「坊津」は古書にも記されている通り、「貿易」の「大和から外洋に出る最初の拠点」であったらしい事が判る。

九州で「古くからの奈良期からの泊」であった所があって、この「坊津」から海沿いに北に向かって西域に「約96k・26里」の域に、「上記の五条件」が整っている「阿久根」云う「自然泊」があって賑わっていた事が記されている。

この“「阿久根泊」”から「真東の内陸」に向かって直線的に「68k・17里で徒歩12H・1日到達」の所が、「大口村の寺・浄土寺の浄光寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」がある地域なのだ。
此の“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”までは比較的平坦な河川敷(九州全土を廻るR3)を経由して到達するのだ。
記録が無いが、この“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”に向かって、「情報と物資の伝達」が成されていたと観ていて、「交易・貿易」の為の各地の物産を運ぶ為に「伊勢水軍等の青木氏の大船」を使ったと観ているのだ。
現在もこの「阿久根までの摂津の航路」は現存していてあるのだし、「摂津」から「室戸泊・四国」を経由し、「坊津泊・南薩」や「阿久根泊」を経由して「中国」に渡っている史実がある。
他には、古書には「佐多大泊・佐多岬の記録」も出て来て、「宋貿易」のみならず「中国交易の黒潮を利用した中継点」と成っていた事が判る。

丁度、この少し前に歴史的にこの航路を使っての「鑑真和尚・吉備真日等に観られる様な史実」、難破して九南九州の多くの泊に辿り着いとする史実が多く残っている史実がある。
だから、上記の通り「助命嘆願策の実行」と、その「詳細の経緯を記す事」が出来たと観ている事もあり、然る事乍ら、「宋貿易の経路」でもあった事もあって、「青木氏の氏是」を破ってでも比較的簡単に「情報提供と伝達」を請け負った事も考えられる。
そこに「裏切り」が起こり「青木氏として興してはならない不義理」の「落とし穴」があったのだろう。
「歴史的な大失敗」と成ったが故に、事例として詳細な記録を「後世の戒め」として遺したと考えられる。
ところが消えるのみと成っている処を纏めて繋いでそれを筆者が未来の裔の為に更に「復元・復興している事」に成るのだ。

唯、この「復元の中」で一つ一寸した疑問がある。
何故、「伊勢からの示唆」であるとして「住職の忠告の結果」で、「伊勢青木氏」を名乗って、その後も更に引き継いで名乗っている事だ。
これを説いて置くと本来であるなら、「伊勢青木氏との血縁」は元は無いのだから「廻氏を名乗る」のが妥当と云う事に成るだろう。
宗綱の廻裔とすれば「嵯峨源氏以降の朝臣族の摂津源氏系」なので、「奈良期の慣習」として「元皇位族の名乗り」としてあったのだから、但し、「青木氏の名乗り」も完全否定は出来ないが、「平安末期の事」とすれば矢張り「名乗り」は当然の事して「廻氏」であっただろう。
そこで、この何にも「確かな記録のない疑問」を探るとすると、其の後の詳細資料を遺した以上には「謂れ」として何かがあって、「救出直後の糧」としては「大船を廻す等の過程」で何かがあったとする「推測・勘ぐり」が出る。
つまり、「大口村の救出生活・生き残る糧の獲得」の「一定期間の糧を獲得する過程」で、実質、「青木氏を名乗る事」が興ったとも考えられる。
そうでなくては「平安末期の混乱の時代」に実質的に生けて行けなかったであろう。

それは筆者は、前段でも論じた様に、後に興った「駿河青木氏」の様に一度、先ず「伊勢」に引き取り育て一人前にして「糧と成る大船」を1艘与えて復興させて駿河に帰した経緯がある。
この様な事が必然として興ったのでは無いかと云う事だ。
要するに、「家人説」である。
つまり、「廻氏の裔系とその廻氏家臣5人」を「伊勢」に先ず交易船で引き取り育て、「5人の家臣」に「操船技術と商い」を「伊勢水軍」で教え、一人前に成った処で「大船一艘」を与えて、この「廻氏裔系と5人の家臣」を先ず「日向」では無く「大口」に帰えしたのではないか。

そもそも、上記の通りに「伊勢」は「宋貿易や琉球交易」をしていて「廻船」をしていたとしているので、この「伊勢の仕事」を手伝って「南九州の産物」を「伊勢」に、「伊勢の産物」を「南九州」に運んで糧を建てていたと考えられる。
当時は、「神明社ルートや秀郷流青木氏等全国各地のルート」、「青木氏族の定住地のルート」とすれば「伊勢―伊豆間」、後に「駿河」でも交易は行っていたのだからこれは「難しい事」では無かった筈だ。
記録に「大口・日向青木氏」は、後に「日向」にも裔を戻したとされ、「大口―日向間」の「流れの早い難所」で「有名な日向灘水軍の記録・この「海運一族」を「下青木組」と呼ばれていた事もあり、これは、上記の「家人説」を裏付けるものであろう。
後に、「黒田藩」に「山族の上青木・上青木組と呼ばれていた」と「海族の下青木・下青木組と呼ばれていた」のこの二つは「二つの力」を買われて、「傭兵と成った事」は記録で証明されている。
恐らくは、元々、「商人出自の黒田藩」は、「傭兵」は勿論の事、黒田藩に無かった「海軍・名目」をこれで持てた事と、「上青木組と下青木組」と呼称させるほどの「取り組み」から観て、この「商力・財力・伊勢屋の財力も」に目を着けていたと考えられる。
これは「裏」で「伊勢屋・青木氏」が背後にいて、「日向青木氏と黒田藩の商い」で「大子孫拡大の鍵」と成ったのだ。
そこで「青木氏家人説」では、先ず「廻氏の裔」を「伊勢」で育て、「男子15歳成人」として「妻嫁制度の仕来り」に沿って「福家」で育てられた「青木氏の女(むすめ)」を嫁して、女系である故にその「生まれた優秀な男子」に伊勢で「青木氏」を興させて、「家人青木氏」として「大口」に戻したと観られる。
筆者は「廻氏の5人の家臣」にも「氏族の伊勢郷士衆との血縁」を繋いで「女系青木氏・氏人族」としたのでは無いかと観ているのだ。

上記の「商いの経緯」で「糧」を充分に得られ、それを下地に「地権」を獲得拡大しながら、その「家人青木氏」が「大口と阿久根の出水と日向」に子孫を広げたと考えられる。
唯、子孫を勝手に増えたからと云って住み分け制度で戦わない限りは平安末期から室町期末期に掛けて「子孫拡大の生活圏」を、強い武力の略奪で無ければ勝手に広げられる社会ではそもそも無かった。
それが「戦い」で日向まで広げたとする記録が無い事から「財」を下地に地権獲得で広げたのだ。
筆者は、当初、「上青木と下青木」が「廻氏裔の青木氏・本家分家」で分けられていたと考えていたが、飽く迄もこれは「傭兵の軍制」の都合の発端から分けられたものであって、「黒田藩の資料」の中にこれが出て来るので、「地域・つまり特徴」で分けた軍制であった筈だ。
この為に二か所の墓所等を調べた結果、「本家筋とみられる大口青木氏」がある事が判った。
それは、一つは前段でも論じたが秀吉が「天皇家の式紋・五三の桐紋」を模写して作った「五七の桐紋」が、「墓所と資料」にあって、これは「勲功のあった大名やその家臣等」に使用を許したが、黒田藩から大口・日向青木氏に与えられた事が記されている。
その「五七の桐の式紋」と共に思い掛けなくも「丸に笹竜胆紋」を使用した「古い墓所」があった。
家紋を墓所に刻んでいる事から室町期以降の墓所であろう。
「丸に笹竜胆紋」は前段でも論じたが「本来賜姓族の格式を持っている事」から丸紋は掟として無い。
然し、唯一、この上記の家人の「大口青木氏」にある事から、「宗綱の裔とする廻氏の裔」は根本は「卑属」である限りは「丸」は勿論の事で「笹竜胆」は無い。
然し、黒田藩時代の時には「丸付き紋」を使っている資料があるし、古い墓所にもある処から「伊勢」が、「丸付き紋」も「伊勢郷士・戦い等で一族の総紋として使う事がある」には許していない紋を許した事が考えられる。
それは「氏族の伊勢郷士衆」との違いのこの「丸付き」は「廻氏系の伊勢青木氏の家人であると云う前提」であったのかも知れない。
これには以下の二つである。
一つは、「女系である事」から男子を四家の一族の者から出す前提である事。
この事から、「廻氏・子供」を先ず「養嗣・養継嗣」とし、その後に「伊勢の女(むすめ)」が嫁し「一族の者」とし、「家人青木氏」とし、「生まれた男子」を「青木氏」とした経緯 1。
二つは、「廻氏の若者」と「女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の青木氏」を興させて「家人」の「青木氏」とした経緯 2。
以上の「二つ」が考えられるが確定するそこまでの資料が出て来ない。

さて、この一つ目は「四掟の前提」からかこの前例は見られないので、恐らくは「二つ目の通常の方法」を慌てる事なく採ったと観ている。
そう成ると、「廻氏の子供の年齢」であるが、宗綱配流後に廻氏との間で子供を産み、その後に「日向平氏」と二度戦ったとされていて、敗退して大口に逃げたとする経緯から検証すると、そもそも、「配流」は「1180年、頼政敗戦」の後に「1185年頃」から「頼朝」が立ち上がり先ず敗戦し一度目が敗退し、「1192年の二度目」に平家に壇ノ浦で勝つが、「仲綱の長男宗綱」は、「従五位下、左衛門尉、肥後守。源宗仲の父」としているので、少なくともこの時には「30歳程度の年齢」で「配流と成った前の事」に成る。
そうすると、「日向平氏」に「戦いに挑んだ時期」は、「頼朝に呼応しての事」であったので「1183年頃と1190年頃」の二度目として、再度、「南九州の土豪勢力」を再結集して「日向平氏」に挑んで敗退した事に成る。
そして、その後にその「廻氏裔」が「大口」に逃げ込んだとすると、少なくとも時系列の計算では「5歳位から9歳」までであった事に成る。
それを「伊勢」に呼び寄せたと成るのだ。
そうすると、最低でも「成人15歳」までの「5年から7年間」は育てられたと成る故に、後者の考察説では、「廻氏の裔の若者・15歳」と「伊勢の女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の家人青木氏」を興させて「家人青木氏」とした「経緯 2」に成る。
そうでなけれは時系列から「伊勢青木氏は名乗れない事」に成る。
これは「生きる糧」として身に着ける訓練としても最低であり得る期間と成る。
そもそも生き残った「廻氏の侍の家臣5人」だけでは「大船」は動かせられないし、「伊勢との商い」を始動させるには「伊勢水軍と伊勢郷士衆」を「5人から10人」を暫くは帯同させた筈だ。
その上で先ず、その後に「伊佐大口」に近い「阿久根泊」に戻った事に成ろうし、此処で「廻村」から「下記の事件の事」があって、「一族や村人等」を急いで「大口村」に呼び寄せた事に成ろう。
この「時代の時系列」は、「伊佐大口」に戻って一族を呼び寄せたのは「1195年から1205年頃の10年間の事」に成ろう。

丁度、「日向廻村・現在の小林市細野付近」はこの事件に巻き込まれていたのだ。
この「日向の廻村」から西国境を超えて「えびの」を中間にし、「薩摩伊佐の大口」まで真西に真直線で「11里・44k・徒士1日の約9時間程度の範囲」の小山一つを越えた「平野部の所」に両村は在った。
船で「阿久根泊」に到着後、更に東に「68k・12h・17里・徒士」に移動して先ず「大口」に到着後、其処から更に「11里・44k・徒士1日の約9h」で「廻村」に到着する事に成る。
合せて、「79k・21h・28里」であった事に成り、「2日から3日架かり」で到着する道程であった。
到着後、時を同じくして、“村人等は恐れて飛散した”の行から、「廻村」から「一族と村人」を段階的に「大口の浄光寺・伊佐氏の菩提寺」に先ず集め、「阿久根」から陸路で東に荷物を運び入れて先ずは「生き延びる糧」を造って得た事が考えられ救い出した事に成るだろう。

そこで「伊勢側」では前もってこの「危険な情報」を得ていた事が上記の交易手段で得ていた可能性が充分にある。
筆者は「伊勢」を出る際には、この事を既に想定していたのではないか。
「一族を救い出す事」と「最低の生活基盤を築く事」に当面はあっただろう。
だとすると、この仮定では「伊勢の大船2艘程度」を重ねてで無くては無理であろう。

先に注釈として記するが、因みに、この直前の「逸話・史実」が「日向」でも物語風で語り継がれていた事が判っている。
時は、「鎌倉時代・頼朝三代1219年・1221年淘汰され源氏完全滅亡期」の3年前であり、「北条氏の台頭事件」の有名な一つである。
この直前で「日向平家」が滅亡し、ここに「惟宗忠久・1203年・清和源氏裔名乗る者」が「日向地頭」として入って良政を敷き土着したとある。
ところが「比企能員の変・1203年・謀略」が起きて、“廻村の村人等は関わりを恐れて飛散した”とあり、その「忠久」もそれに連座したとして罰せられて「鎌倉幕府」から「呼戻命」が届き死を覚悟して「鎌倉に戻る語り」が地元の歌舞伎としても遺されている。
「惟宗忠久」は、「朝廷の記録」にもある様に、“惟宗”の呼称である以上は「渡来人秦氏の裔」で「賜姓」を受けて、「宿禰の惟宗朝臣・姓の賜姓」を名乗ると「史実の記録」があるので、「秦氏」が史実として正しいので、「源氏とする説」は「国印状取得」の為の「江戸初期の後付け」である。

そうすると「阿久根泊」に着いた彼等は、直ぐに東の「大口」から更に「廻」に走った事に成る。
“村人等は恐れて飛散した”とありする処から、「廻村の一族」とその「村人」を間違いなく1日も早く「大口」に救い出した事に成る筈である。
その「村人救い出し」としては、「廻村」から真東の同距離の「小泊・赤江泊」は資料の地形から“河洲が広がり水深が浅く”の記述あり、この事から「大船の泊」は昔は無理であった様であり、従ってここからは「救出」は無理であったろう。
この事は、「救出後の生活基盤の構築具合」でも判る。
「一族と村人を救い出す」と云っても、そう簡単な事ではない。
「大口を拠点にした事」は判っているので、「船泊の阿久根・住居は出水」を「物資の拠点」として東の「定住拠点の大口村」に「第一段階の定住地」を先ず構築した事がこの「行」でも判る。

この当時の構築劇を検証して観ると、「伊佐全域面積では80000反」で、その「羽月川」の流れる1/4の「大口村の未開の約20000反の原野・羽月川・川内川支流」を開墾して、そこに是が非でも「住む所と田畑の開墾」を行う必要があった。
「阿久根泊」から「448m山上りし、そこから654m下る位置」にあり、「段差175m高い位置の高原」にあり、この「窪地の平野」が、「朝廷の官吏伊佐氏が赴任していた土地」として考えれば、ここを「定住地」としては適していた事に成る。
この「広い河洲の平野」では、「原則1反1石1人1年の原則」は成り立つとして、それで救出したとして、「隠れて生き遺った一族と村人の数」を少なくとも「総勢仮に100人」とすると、先ず「食料の100反=3万坪」を開墾しなくてはならないし、「住む場所の確保」として「山手・台地」に、「100人/4」として「25軒分・50坪=1250坪=40反」として、少なくとも「合計150反」は開墾しなくてはならない計算に成る。
後は「地権獲得の財」と成り、これは「生活費」と共に水運で稼げるし、当初は「伊勢が支払う事・支援」に成ろう。
「財」は「伊勢からの大船1艘の水運」で「伊勢」と繋がっているので「交易」で容易に稼げるだろう。

第二段階として、「子孫」が広がり、「上青木と下青木氏」のある「呼称記録」がある通り、此処から拡大子孫が次第に「日向灘の行文」がある様に「真東の赤江泊・下青木・現存」に降りて行った事に成る。
この「赤江の生活」は基本は「漁業」であったと記されいる。
最後は「流れの早い日向灘での漁業」としているが、筆者は、「伊勢水軍の支援・熊野灘」もあって誰もが避ける“「日向灘水運」を手掛けた”と考えている。
この事から、「小舟漁業」から「日向灘大船水運と日向灘大船漁業」の「二つの操業経緯」を辿って持っていたと観ていて、だから「黒田藩」にこれを買われ「傭兵軍団と成った事」でもあり、「御用商人と成っていた事の証」と成る。
そもそも「漁業」では「傭兵軍団」とはならないだろうし、だから、「大口青木氏」に伝えられた「五七の桐紋の使用許可の口伝・墓所などにも使用している」が出たと観ている。
結局は、この「財」は、「大船1艘の水運」から始まったものであったろうし、その経緯は「大口村の経緯」と同然であろう。
「祐筆の表現不足」に在ったのであろうがここまで「青木氏の記録」の読み込みであり祐筆は書く必要は無かったであろう。

そこで、だとするとここで「疑問」がある。
何故、「大口」から「真東外れの赤江」と行き成り成ったのかであって、言い換えれば「大口」を東に、又は「西の阿久根泊」に当然の事として伸びなかったのかである。
「地権獲得」では西にしろ東にしろ何れにしてもこの時期は未だ「肝付氏の圏域」であり、良好な関係を保っていた。
何で「赤江」では無く「阿久根」では無かったのかであり、将又、「大口より東域」に伸びなかったのかである。
「傭兵」であるとしても飽く迄も「傭兵」であり、「積極的武力を使っての事」では無い。
「利」からすれば、「原点が交易もある事」からどう考えても「大口の一族の生活」からも「阿久根泊」である。
実は調べるとこれには「大きな欠点」を持っていたのだ。
「良好な大船の泊」は、“水深が深い事から地形も狭い”と云う「地形的な宿命」でもあった。
大河洲が無く「大口の東域」は「赤江」まで伸びていて制限はなく、「1反1石1人1年の原則」の「伸代」は拡大次第で充分で成り立つが、然し、「阿久根泊」には「伸代」は「地形地層」から「岩層」で固定の「5から7平方km以内・現在も同」でこれは全く成り立たない「地形的な欠点」を持っていたのだ。

「阿久根」は、そもそも「地層」の専門的学的にも極めて「有名な地形」で知らない者がない程で、「鹿児島」は勿論の事、九州、日本で最も古いとされる“「阿久根古生層」”と呼ばれる「固い地層」が海岸の一部に露出した珍しい地層である。
「古生時代」に「大洋底に堆積したチャート」が地表に突き出した珍しい地形」で、その「岩石」は「五色岩」と呼ばれる「色チャート礫」と「凝灰角礫岩」とで形成されたものであるのだ。
現在でも「阿久根層」として地私学的に有名だが、当時としても「水運を操る者」としての「海層地形の常識」であって故に西に延びる事が出来なかったのだ。
此処からも意味する事は、明らかにこの事が判る「伊勢と伊勢水軍が深く関わっていた事」が判り、「現地訓練も行っていた事」をも証明するものであるのだ。

上記とすると、ここで更にこの事から後世として記述に及んでいない解明して置くべき「疑問」が又浮き出る。
それは、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と、それに反する“「日向灘水運」を営んだとする事 2”の二つである。
この1では、「大口」が密集度としていっぱいに成り、一部がそこから出て行って「赤江泊」で「地権と漁業権」を獲得し移り住んだとすれば何の問題も無い。
然し、この2の「日向灘水運」が伴うと成るとこの1に問題が生まれる。
それは2を行うと成れば、「大船の泊の問題」が浮き出る。
「大船の泊」は、当時の記録から、この南薩では「佐多岬泊」か「坊津泊」か「阿久根泊」かの3泊に成るが、「物・資供給を必要とする大口」の「常宿泊」としては、「前者二つの泊」は「寄港泊と成る事」は否定できないが大口までは遠すぎて適さない。
そうすると矢張り「大船の泊」としては「阿久根泊」で無くてはならない事に成る。
「日向灘水運」を行う以上は、ではそもそも一々、「阿久根泊」に戻ったのかという事であり、半島を「一回り・440km」とするとそんな事は到底無理だ。
どこかの「赤江付近」に「常宿泊」が無くては「水運営業」は成り立たないが、当時は原則として「泊を建設する事」は無く南薩海域にも無く、主に「自然泊」としていた為に当初は「水深」が浅く「自然泊」は無かったのだ。
この時期の「平清盛の宋貿易」の「大船用の泊」も「自然泊」を水深等を深くするなどの急造の改築して建造しているのだ。

ところが記録に依れば、「鎌倉期」に入ってから「志布志泊・水深50mから70m」が開発されたと記されている。
それは、“「1205年から1210年頃には交易が盛んになり始めた事”で「志布志泊」は“「鎌倉幕府」に依って開かれた”と公的な記録では成っている。
そうすると、それまでは、、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と成っていた事を物語るし、“「日向灘水運」を営んだとする事 2”は、「志布志泊」が「交易用の大船泊が可能と成った事」で、つまり「日向灘水運が営まれる事」と成り、これは「灘水運の開始時期」を物語るものだ。
「上記した伊勢の記録」とは、当に丁度、その時期に合致していて、先ず、“1で始まり2に直ぐ移行した事の経緯”とする「行」と書き換えられた事に成るだろう。
恐らくは「伊勢青木氏祐筆」は、この事があって添書としたのであって「書き添えた」のであろう。
では、「大口での救出劇」は、1203年」の“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”の記述は、何の為にしたのかである。
ほぼ「3年にも満たない時期」に2が始まっているとすると、「1203年の比企能員の乱」に伴い「廻村の一族等」を救出したのだから、1は短期間であった事に成る。
これは大した意味は成さなかったのではないかと云う疑問に発展する。
其の侭でも、1をしなくても2に入れる事に成るだろう。
この事は「赤江の小舟漁業」は同時と見做す事が出来るだろう。

筆者は、意味が無いと観られるこの「リスクのある1の行動」は、「2の行動の策」の為にあったと観ているのだ。
「阿久根泊で開いていた大船海運・上青木」を「志布志泊・日向灘水運・下青木」にも拡げる為の「鎌倉幕府」と「地頭肝付氏」への「政治工作の策」であったと観ている。
先ず「新たに開設された志布志泊」を「常宿泊」として「日向灘水運」を始めるその為には、上記した様に「阿久根泊」から「大口」に「船人」を廻せない。
そこでその為には、「志布志泊付近」に「定住地」を新たに開設する必要がある。
それが「赤江泊・小舟」であったと考えられ、それには先ず「業業権」を獲得するには「定住地とする権利」を獲得せねばならない。
「日向灘水運の業」を前提としたのではこの「権利」は降りず獲得できない。
そこで、「赤江での小舟での漁業権の獲得」を先ず狙う必要があった。
この「漁業権の獲得」に依って「定住地の地権獲得の条件」が整う事に成る。
それが得られれば、「日向灘水運の業」を前提とした「常宿泊の定住地」が獲得でき「志布志泊の条件」にも合致する。

恐らくは、「日向灘水運の業の事務所」を設置しなければならないし、それらの「大船の船員家族の家」も必要と成るし、その何もしないで過ごす事も無いと考えら、「その間の少しの糧」としても表向きとして「小舟漁業」を営んだと観られるのだ。
筆者は、「小舟漁業に関する記述」は、「資料読み込み」から主に「家族の名目労働の事」を記したものであったと観ている。
これで「泊役人」や「何れの周囲の組合人等」からも文句が出ない様にしたのであろうし、後は、「赤江泊と志布志泊と阿久根泊と大口村」との「商いの連絡事務所の開設」であったと観られる。

因みに「平安末期から鎌倉期」までは「各種の役人」を九州域に置いて「取り締まりを強化した事」が記録にある。
例えば、一例として次の様な役人が勢力を張っていて恐れられていたと記録にある。
この事で、「船主」は、“何もしない”と云う訳には行かず、“裏表に取り分け気を配った事”が「鎌倉期の東鏡」などに記されている。
取り分け、「鎌倉期」には次の様な「海事に関する三つの奉行」が「北条氏世襲の鎮西府下」で急遽設置されたとしている。
それだけに「海事」が、「清盛」が先駆者と成って開き、その後の「鎌倉時代」には、急激に「交易が盛んに成った事・史実」で「簡単な規則」を作り盛んに成った事を意味している。
歴史上の「義経と頼朝の軋轢」はこの考え方の差にあったとされている。

記録に依れば次の通りである。
それは次の三つとしている。
一つは、「舟船奉行」は、「各地大泊」に配置した泊税役人
二つは、「船手奉行」は、「船舶・海路・水運の運航管理の諸事」を主に扱った役人
三つは、「港泊役人」は、「泊管理や交易船取り締まり」を扱った役
以上の様な通称“「三役人」”を最初は九州から次第に「全国各地の泊」に配置して「幕府の税収益や冥加金の
「裏表」をあげて「海事権力を高めていた」と記録にあるのだ。

つまり、「船主」と成るには、この「大壁」を乗り越えなくては成らなかったのだが、それだけに「利益も大きかった事」が云える。
大きく成り過ぎれば成る程に警戒をされる等の事が「幕府や周囲の豪族地頭勢力]からあったのだ。
その意味で、「伊勢を背景」として「大口青木氏・日向青木氏の水運交易」は、「小舟漁業を主体とする商いの糧」では無かった事が明確に云えいて、飽く迄もこれ等の大きな壁を超える為の警戒されない様にする為の「見つからないようにする策・手立て」であった事を意味するのだ。
明確に言える事は「日向水運の事業」は、況や「大口青木氏・日向青木氏」は「伊勢を背景」として当にその位置にのし上がろうとしていた時期だったのだ。
未だ周囲が余り開かれていなかった「平安末期の交易水運」を「伊勢主導」で逸早く取り入れ、「伊勢の指導の下」で、「大口」にも一族・大口青木氏と伊勢青木氏」を集中拡大させ、「阿久根泊を常宿泊とした水運」と「志布志泊を常宿泊として水運」の何と「二つの水運業」を鎌倉期に持とうとしていたのだ。
当然に、「大船」も増やしたであろうがこの祐筆は書き記していないので「船数」は判っていない。
唯、この「文章の行の一節」に、「伊勢水軍の単語」が入っているので、「伊勢青木氏が7割株で親方と成っている伊勢水軍」とまでは行かなくても、「志布志泊の時」には「大口青木氏の方」では「5隻から6隻程度」は所有していたと考えられる。

上記の「三つの海事奉行の設置」は、主に「第一回目の元寇の役・1266年」を機に幕府が執った「海事の強化策・処置令を出している」とされていて、それは先ず「南九州」に於いて施されたとされている。
これは「約62年から63年間程度」は経ているので、検証としては「志布志泊の時」には「5隻から6隻程度/60」と成り 10年に1隻」はあり得るだろう。
つまり、だとするとこの時期では未だ「大船を使った交易業」は当時としては少なく、「清盛に「大船の交易業」を教えた経緯がある位で「伊勢」を背景とした「大口青木氏の交易水運業」は、恐らくは「トップ域」にあったと考えられ、「途轍もない財」を背景に共に恐れられていた事とも考えられる。

因みに前段でも論じたが、これは「江戸期の事」ではあるが、「伊勢」でもこの様な「事件記録」があった。
「全国五奉行所」の一つの「関西区域」を管轄する「海事奉行」の「山田奉行所」が伊勢にあった。
そこで「家康の伊勢の事お構いなしのお定め書」を持つ「莫大な財を持つ伊勢青木氏」と、大きくなり過ぎた為としてこれを敢えて無視した「山田奉行所」から無理難題を押し付けられていた事が「伊勢青木氏の記録と公的記録」にも記録されている。
「摂津商船組合・物語風に記録あり」と組んだ「戦い寸前・享保期初期」まで陥ったが、前段でも論じたが、「伊勢・伊勢屋」は、この時、「莫大な債権」を「松平系支藩・安芸藩等の3藩」と「紀州藩」と「幕府」とに、抑え込めるだけの「大債権」を持っていたのだ。
これが大事に成れば、幕府は破産と成り信頼失墜するは必定で大きな武器を持っていた。
「山田奉行所は「伊勢と摂津組合」を飽く迄も無視した。
この事が「吉宗の耳」に入り「伊勢」と共に「享保の改革」を共に推進したにも拘わらず「吉宗」も「山田奉行所]のこれを黙認した。
此処から「吉宗との関係」が崩れ始め最後は「信濃青木氏の財を奪う事」が引き金と成って「江戸」を引き上げる結果・200店舗を残す」と成った。
この件は「紀州藩」が間に入り取り敢えずは治まった「有名な事件」があった程であったと記録されている。
然し、この「鎌倉期」では、幕府から「伊勢本領安堵」が成され、「平安期の領地と地権」が認められた「経緯・安堵奉行が審査」があって、「良好な関係が維持されていた」とある。
ところが、それでも「交易の要衝の南九州」でも「北条氏の代々赴任勢力・横暴な勢力」が広がり、記録では「北九州別府域」からの圏域で、「日向」から「肝付氏の勢力」を押しのけて南に広がり「志布志泊」までの「交易泊の利権等の剥奪」で「気の抜けぬ状態」ではあったと記されている。
つまり、「出方次第」では変わっていた事が判る。

さて、戻して次は、「志布志泊」まで子孫を拡大させて「下青木」が生まれ、「志布志交易水運業」は順調であった事が判るが、「大口青木氏」から「日向青木氏」と云う呼称が、「伊勢の資料記録」に在る以上は、此処から更に北に伸長して行って別の地域で拡大した事を意味するのか、将又、「下青木氏」が「日向青木氏」を意味しているのかがこの祐筆は語っていないので解らない。
つまり、「大口青木」を「上青木と下青木」に呼称分けをしたのかである。
この事に就いてその歴史的経緯から検証をしてみるが、筆者は、「下青木氏」は「日向青木氏である事」で、「上青木氏」は「大口青木氏」とするのが正しいと観ている。

では、その解く鍵は、室町期には「交易水運業での黒田藩の傭兵・実践軍団では無かった可能性がある」と観ているからだ。
これを「祐筆の表現の行」から読み込めば判る筈である。

確かに“「軍」”として記されてはいるが、“「傭兵」”とする以上は何も戦うだけが「軍」では無いだろう。
筆者は、平常時も然る事乍ら、「商い」としての「戦時の食料や武器の輸送」や「調達」を専門的に担ったものであったと考えている。
もし、“「戦う軍」”であるのなら、「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」の様に何時かは警戒されて潰されるか少なくとも「争いでこの様に子孫拡大」は果たせなかったと考えられる。
然し、そうでは無かったとすれば、「普通の考え方」としては「交易水運業」を前面に押し出した「傭兵としての関係」を持っていた筈であろうし、背後に「伊勢青木氏」もあったとすれば“「戦う軍・青木氏の氏是」”は無かっただろう。
そもそもその必要性は認められないからだ。
これに「大口青木氏と日向青木氏が氏是に逆らう事」をすれば、「交易の糧」を絶たれて大勢の一族の者を養う事は出来なかった筈で、ここまで「海運水運業」で「子孫拡大」は望めなかったであろう。
そもそも「上記した経緯を持つ青木氏」であった以上は、「青木氏氏是に反する事」は出来なかったであろう。
間違いなく「交易水運業の傭兵」であったであろうし、前段でも詳しく論じた様に「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」も「銃の生産業」からこれを生かした「銃の傭兵」であったのだ。
「特技を生かすと云う点」では違っていないのだ。

「日向灘と云う語」と「黒田藩傭兵の語」の「二つの語の意味」からすると、少なくとも「大船」を黒田藩に近い所までは運んでいた事は判る。
そうすると、この「二つの語句」から「当時の泊の検証」が必要に成る。
当時では、「自然泊」としては「佐伯泊」は記録にあった。
この「佐伯泊」は古くから“「幌筵泊・幌を休める泊」”と呼ばれ、「日向灘の難所の大船の筵幌・むしろの幌を下ろし逃げ込み休む泊」で有名であったと記されていて、ここに幕府は「小さな警備府」を置いて「水難事故等の管理をしていた泊」であったと記されている。
(現在は自衛隊の軍港である。)
水深は丁度大船が入れる15m程度を持っていたとしている。
「日向灘」とする以上は此処までは少なくとも来ていた事を意味している。

次は「黒田藩・1600年の関ヶ原の戦いで福岡藩と成る」の「交易水運の傭兵の事」であるが、「1600年以降」では、「水運等の傭兵」であったとしても、その後には「荷駄運搬」を必要とする「内戦の戦い」は現実には無い。
従って、この事から「伊勢側の記録」として遺した「傭兵とする語句」は、「黒田藩のお抱商人・交易水運業者」であった事に成る。
「江戸」から離れた「福岡」である以上は、「交易水運の役」は無くてはならない「藩策」であったのだ。
「素早く運び」、「良質で」、「何でも揃えられ」、且つ、「大量に運搬獲得できるの手段」が「黒田藩を救う唯一の策」と成り、それには「日向灘と云う難所」を越えられるだけの「人時場所の条件を揃えられる大商人」と成り得ていた事を示し、且つ、「祐筆」はそれには「優秀な日向青木氏が選ばれていた事」を示す為に「二つの語句」に「それ・傭兵」に込めたのでは無いか。

そうすると、次の二つのルートが考えられる。
先ず一つ目の、「佐伯泊」に入り、其処から「陸路」で北の湾岸沿いに博多に入る経路。
これが「最短」で「平地」を経由する「約200km・50里・徒士42H・現R10号線ルート」
次の二つ目は、「佐伯港」から出て其の侭で「海路」で下関通過して、奈良期古来より「日本最大良好泊」の「博多港」に入る経路で、「約240kmの水路」を移動する経路。
この二つが考えられる。

古書には、「一つ目の経路」が「二つ目の経路」よりも良く積極的に使われていた事が記されている。
恐らくは、一つ目は「荷駄の積み替え」は起こるが時間が短い。
「二つ目の経路」とは「約40kmの差」が起こるが、「博多泊」では「荷駄の積み替え」が起こるので、結局は差し引き同じで「古書」での「陸路選択の史実」は矢張り「安全」であったのであろう。
然し、史実は別の資料ては両方がその目的に応じて頻繁に使われていた事が記されている。
この「祐筆の記述」には、「二つ目の記述」は全くなく「佐伯泊の所」まである。
だから、「佐伯泊」は上記した「筵幌休めの呼称」が遺っていたのであろう。
その証拠に「佐伯泊」は「戦時中の軍港・現在も」としても使われた程の「筵幌休泊」であった。

さて、これには上記の事で祐筆の何時もの一寸した面白半分の「表現差」が出ていると観る。
筆者は、これに再び食い着いた。
つまり、上記の「日向灘と黒田藩の一対の語句」からの「二つの経路」が在るのだが、祐筆は、何故か「日向灘だけに拘っていないのか」と感じる「行」としたのかと云う事だ。
「黒田藩」とすれば、「下青木の志布志泊」からすると「日向灘」は位置的に「必然の場所」であろう。
そこには、既に「阿久根泊の事」は記述しているので、とすると「日向灘」は何かに足して比較しているのではないかと「青木氏祐筆独特の語り調」と筆者は感じた。
直接、「歴史書の様」に書くのではなく、何時も「匂わせる物語風」に面白く語り調の癖がある。
記録を子孫に読ませようとする手段であろう。
又、考えればある程度、そのような「目的・一族の者に言い語り遺す事」もあった事は否めない。
そうすると、この「日向灘」にはこの「目的」を潜ませて記したとすれと、其れは何かである。

「志布志泊に日向灘」とすると、当然に対比的に「阿久根泊」と成り、此処から北に向かう海路という事に成る。
先に「阿久根泊の事」を書き記している以上、再び興して「阿久根泊の事」を書く訳には行かないだろう。
そこで、これを潜ませて記したとすれば、「目的の行の流れ」は成り立つ。
「阿久根泊・上青木・大口青木氏・?」と「志布志泊・下青木・日向青木氏・日向灘」の「対比語り」であるので、この「?の解明」と成る。
とすると、「東周りの日向灘海路」に対して、「西回りの・・・回路」が在った事に成る。

この「西回りの・・・海路」の{?}を次に検証した。
前段でも何度も論じたが、その指摘した経緯があるのだ。
{奈良期・618年」に「後漢」が「隋」に滅ぼされて、「第21代献帝」の時に、「父の阿知使王」と「子の阿多倍王」が「職能集団200万人」を引き連れて「大船団」で、「現北九州市・泊」と「現福岡泊」に上陸したとある。
他の一部の「船団」は、「大和人の船先案内人」を載せて、上記の「二つの泊」から「西回り」で「南九州西」に上陸し、この上下で「職能」を伝導して「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの航路を「無戦制圧」したとある。
「数日程度で無戦制圧」して「枕崎に入った」としていて、そこから「父の阿知使王」は「現在の薩摩阿多地区」を拠点に、「子の阿多倍王」は「東の隼人地区」を拠点に住み着いたとある。
ここから、更に船団は「瀬戸内」に入り「摂津播磨の手前」まで「職能伝導」で瞬く間に「32/66国」を制圧したとする「歴史的史実記録・伊勢と薩摩の半国割譲」が在る。
これはこの時に「大和人の船先案内人という語句」から既に使われたこの「海路」が「古来より在った事」を証明している。
つまり、「奈良期」より「阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」が出来ていた事に成る。

そこで、この「古い阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」」は「約224km・49h」であって、そこから「枕崎」まで約100kmで、合わせて、「324k・70h」である。
とすると、「制圧の記録」にある「数日程度の短期間・4日で制圧した」とあるので記録は合致する。
古い「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの西回りの北上航路」の問題の航路は、「約224km・49h」にこれに沿って「陸路の国道」が奈良期より在ったとしていて、それは「現在のR3」の西回りの「北九州−福岡―鹿児島間・現存」に成る。
この「西回りの北上航路」の「海路と陸路」のそれに沿って「職能を伝導した」とある事から、「船の泊」からも都度上陸し、「陸路・R3」でも渡来人は移動した事に成る。
この史実は、「阿久根泊」から「福岡博多泊」の「西回りの北上航路」の「海路・水運」が働いていた事を示し、「日向灘・佐伯泊」よりも何と“「1000年前に在った」”事になるのだ。
それも「短期間」で「便利」で「安全な古来からの当然の海路」であった事に成り、史実も多く残り、故に「祐筆」が態々、「語るに足りずの事」であったのであろう。
取り分け、「伊勢水軍」と「船を有する伊勢青木氏・伊勢屋」に執ってはこれは「衆知の史実」であったのであろう。
況してや、その前段で論じた「後漢の渡来人」が伊勢半国割譲で伊賀に入ったのだから何の不思議も無かった筈である。
つまり、この史実の事は、「西の海路・大口青木氏・上青木」と「東の海路・日向青木氏・下青木」の「組み合わせ」でも働いていた事を意味する事に成る。

「黒田藩」は遠く後の「1600年以降の事・江戸期以降の商い」であるので、「東の海路・日向青木氏・下青木」には、その前は「黒田藩」は「豊前中津1587年」から二代に渡り「秀吉」より与えられていたと成る。
この時には、「日向灘の佐伯泊」を利用していた関係で「交易水運の傭兵」と成り、その為の所縁で「秀吉時代の五七の桐紋」を「秀吉」から「中津藩時に獲得した黒田氏」は獲得していた。
「江戸期1600年」に成って、黒田藩は「豊前中津藩・1578年」から13年後に「筑前福岡・1600年」を領地として「大藩」を与えられた。
然し、「日向青木氏の墓所等」にある「五七の桐紋の家紋・明治初期の墓所造り」から観て、この時の「22年間の勲功」で「五七の桐紋の使用」を許されていた事に成り得て、これを「大口青木氏・日向青木氏」に与えたとしているのである。
其の後、「黒田藩」は隣の「佐賀藩鍋島氏」と1年交代で「上記の問題・北九州泊の管理」と、「幕府領の長崎警備」を任されていたのだ。
然し、ところがその後の「江戸期」は「九州地域」は「代々旗本に依る賂政治の悪名で有名な長崎奉行」の「支配下」に置かれていた。

上記の様に、この「賂政治の悪名の事」は「歴史史実」としても有名で、「冥加金」の下で「九州域の海事の奉行差配」は行われ、「黒田藩」が「長崎警備役」に1年交代で任じられていたとしても「幕府支配下」にある以上は難しくこの悪政を黙認し、「商い・日向青木氏と伊勢青木氏」に執っては行動は非常に難しかったのだ。
従って、この「九州海事の歴史」は、「秀吉」がこの「重要な交易拠点」を「大内氏」に任し、その後に「1580年」に「イエスズ会」に与え、「1588年」にこの利益が上がる「長崎」を「豊臣家直轄地」とし、ここに「鍋島氏・肥前佐賀城主」を「代官」として置いたのが始まりである。
その「3年後」の「1592年」には「奉行」として「寺沢氏・肥前唐津城主」が任命されたもので、これが所謂、有名な「長崎奉行の前身」である。
つまり、経緯としては「商いの日向青木氏と伊勢青木氏」この秀吉の時代は何も動けなかったのだ。

前段でも何度も論じたが、「重要な史実」は、「青木氏側」から観れば「秀吉」とは「伊勢や摂津や紀州」で「戦い」をした「犬猿の仲」であった事から、その「重要拠点の隣」に監視の為の「黒田氏の福岡藩」を移封するまでのこの「1587年・23年間」までは、「大口青木氏・日向青木氏」は「交易海運の許可」を得ていない事に成る。
つまり、「佐伯泊」までの「交易水運であった事」に成り、「西の海路・大口青木氏・上青木」の中で働いていた事に成る。
「1600年関ケ原後」で無くては「交易海運の許可」は認可される事は先ずあり得ず、従って、「黒田藩」からすり寄って来ると云うよりは「黒田藩との繋がり」を「伊勢摂津側」から強く求めた事に成るのだ。
これで「阿久根泊の西回り」と「佐伯泊の日向灘の東周り」の「二つの航路許可」が得られた事に成る。

そこで。従ってその為には、態々、「御用商人」では無くて、この安定社会に成った「江戸初期」では、「傭兵」はそもそも疑問であり、その時期から名目上は先ずは「黒田藩の傭兵と云う立場」で「交易水運業」は行われていた事に成る。
ところがこの「傭兵とした処に意味」があって、「1年交代の長崎奉行」に対して「傭兵を名目」に“黒田藩だ”と強調させる意味が「大口青木氏・日向青木氏」にはあったのではと考えている。
従って、「この時期の傭兵」は、要するに「准家臣扱いである事」に成る事から、この「長崎奉行支配」が「日向青木氏」に及ばない処に「伊勢と大口」は「政治的に置いたという事」では無いかと観ている。

更に、筑前中津藩時の25年前程前に「秀吉」から与えられていた「五七の桐紋の使用」を黒田藩に、そして更に「黒田藩」からこの「自由通商の証明木札・監察券」を名目としてたのではないか。
「大口青木氏・日向青木氏」はこの「黒田藩」に対しては、この「自由通商の証明木札・監察券の見返り」として「冥加金名目」で,、且つ、「交易の利の以外」に「使役金」を支払っていただろうと考えられる。
だから、この関係が長く正式に「明治初期・9年」まで続いたと事に成る。
「伊勢商記録」や「祐筆記録」や「遺産資料」でも、その「前後の事」はどの様な差配で使っていたかは判らないが、「西海路と東海路」には「時代性と場所性がある事」から何かその差を着けたか、何れにしろ「伊勢と摂津」が「商いの元差配・政治的差配」をしていた事は間違いは無いので、両者の何れにしろ「リスク差」はあるが、筆者はこの史実は「その差は無かった事」を意味していると観ている。
その「水運交易の利」に対して大きくなく「満遍ない物資の供給の商いをしていた事」が「最大の利」と成っていたのであろう。

上記の様に、最早、「伊勢」とは一体であって「青木氏族」であって「廻氏」ではないとして「一族の関係性を持っていた」ので「大口青木氏・日向青木氏」であるのだ。
この間には「伊勢との女系血縁を結んでいた事」には「血縁の記録」が「3度の失火」で消えているのが間違いは無いだろう。
これには「大口青木氏・日向青木氏」であった以上は「四掟の伝統の適用」は最早無かった事に成る。

そこでこの時系列の経緯から話を再び「大口青木氏発祥の原点」に戻して。
この事に就いて歴史的に遺した「二つの意味」が含まれていて、その一つは、“伊勢に呼び寄せたとする意味”を持っている事、つまり、「呼び寄せる程」で無ければ「丸に笹竜胆紋を使う事」を許さなかったであろうし、「女(むすめ)」を嫁して「氏人の伊勢郷士衆50衆」と同様に「血縁一族扱い」までして可愛がった事に成り、且つ「商い」まで教えて「船」を与えて重視していた事に成る。
二つは“「廻氏」に拘らずに「青木氏家人扱いにした事」”を以て、「廻氏再興」を忘れ去らせ、その為にこの「丸付き紋笹竜胆紋の説・青木氏の系列化」にしたのが「証」となろう。
この二つの「隠された意味」として物語るのは、“「戦い・再興」から「商い・発展」への転換”の此処にあったと筆者は評価し観ているのだ。
その為に「四掟」に反して「笹竜胆紋の丸付き紋」に与えたのだ。
当然に、況してや「宗綱の源氏」も同然にあり、確かに「40年間は源氏の時代・」1221年滅亡」と成ったが、「伊勢」は長年培ってきた「商人の先を見通す眼力」からその様に観ていなかったのだ。
それを「言葉」では無く、「行動」に移したのだ。
それが「伊勢で育てる事」であって、「大口青木氏にする事」であり、その「シンボル」を「伝統と四掟」に反してでも「丸付きの笹竜胆紋にする事・青木氏家人扱い」であり、これに目を引きつけて「廻氏の家臣5人」を納得させたのだ。
そして、「その為の条件を整えてやる事」であったろう。

だから上記した様に、普通はこの時代では消えて行くのが「運命・宿命」なのに、“「その後の発展」が「後に戻る事」も無く、上記した様に目覚ましいもの”と成ったのだ。
この「宗綱の血筋を引く若い廻氏裔系」を、“「伊勢」に一時的に成人に成るまで引き取った事”と「女(むすめ)」を嫁がせた事が「大きな流れ」として考えられるが、最早、「源氏云々の宗綱」も無いだろうし、恐らくは「廻氏」も無いだろうし、あるのは「伊勢」では無く「故郷・大口」で発展した“「大口青木氏・日向青木氏」”であっただろう。

前段でも論じた様に、この時、前段でも論じたが、実は「伊勢と信濃」でも同じ事が起こっていたのだ。
恐らくは、だから「5年から7年程度の訓練期間中」には、「伊勢青木氏の京綱・少年・17歳程度」と「廻氏の裔系の少年・15歳程度」が、「同年代の少年」として確実に同じ「伊勢で顔を合わせている筈」である。
当初は、この充分に考えられる事として、上記と前段の「伊勢の青木京綱」が「廻の裔系の少年」であるかも知れないとして研究をしたが、とうも違う様で「近江佐々木氏の青木氏研究資料」や「祐筆資料」や「嘆願書」や「他資料」にも完全に違う者として史実があるので研究調査を断念した経緯があった。
「伊勢青木氏の資料」にも「後刻・相当前・平安末期頃」の「先祖が描いた書」を「掛け軸・江戸期」にして「漢書」で遺しているし、「口伝・家人でも伝わっていた事」が判ったので違う事が明確と成った。

他にも「小さい疑問」があって解決して置く。

先ずは上記の「大口青木氏と日向青木氏の経緯」の背景には、次の様な事が「伊勢青木氏と信濃青木氏と伊豆青木氏」にあって、夫々の「郷土に遺る口伝」では「幾つかの説・口伝」が生まれているのだ。
従って、これを知る事でその「次の疑問の経緯」がどの様な意味を持っているかが判るし、理解が深まりその「小さな疑問」も解けるだろう。
この「助命嘆願の異例時」の「直前の出来事」である以上は、「京綱の話だけの問題」だけでは済まなかった筈で、その「経緯と目的」から、「乗りかかった船」として現地調査等をして研究に本気で取り掛かって見た。
その結果では、そもそも「薩摩国」には、「押領使や弁財使」を兼ねた「四等官・守と介と掾と目との四役目」を一度に熟す「国司並官僚族用の菩提寺・2寺・現地の治安等も熟す」が「薩摩」にはあって、これには彼等の「古代浄土寺がたった2寺しかない事」は「伊勢側」は既に知っていた筈である。
全ては薩摩は「東西の浄土真宗寺」であるのだ。
その中で「古代浄土寺住職・浄土寺の浄光寺」の「用意周到の救出発言」までを事前に伝えられていた様子とすると,これは計画的であって「一時の出来事では無い事」が判る。
この事で他の発想・仮説も出て来るのだ。
だから「寺名」も「浄光寺・伊勢信濃は清光寺」で類似するのだ。
この「薩摩の寺の事」は、天皇から秘密裏に処置命令を受ける「令外官・前段・賜姓五役」として「ある範囲の官吏を差配する国造の差配役」に任じられていたのだから「一切の経緯の情報」を事前にも知り得ていた事に成るのだ。
故に、何かがある為に解き明かして置くべき「伊勢青木氏の関わり」は、絶対に見流す事は出来ないのだ。
そこで、では何故かである。

先ず、伊勢と関わりの深い「信濃の国友の経緯」は、「1159年頃」に「配流の宗綱の祖父」の「頼政の伊豆知行地」と成っていた。
この「丹波の母の妾子の国友」は、「21年後・21歳」に、一度、この「信濃・養継嗣」に入り、上記した「源満快の裔系が土着している場所」の「北信濃」に移されて定住しているのである。
その後に前段の論の通り「頼政領地の伊豆」に「乱の直前・1180年頃」に移動して定住している史実である。
此処に「伊勢青木氏と信濃青木氏」が「頼政」に頼まれて一族の一部を移住させていて此処で二つの完全な融合族を形成した。
そこで「一部の兵と商い」を以てこの「頼政の伊豆」を護った記されていて、其処にこの「国友を護る形」で入ったと成るが、「其処からの行動」は未だ若いのに消えているのだ。
これが疑問を招いているのだが、そして現地に「仮説らしき口伝」が生まれているのだ。
これには他に「二つ程の説」が語り継がれていたらしく、先ず検証するに値するし信頼できるこの説は「国友伊豆説」である。

そこでこの説を検証すると、直接的に決果として、「源満快から6代目」の「頼政の孫」の「助命嘆願の仲介」として動けるのはこの人物だけであろう。
故に場合に依っては「この絆」を使って「嘆願書」を出して受け入れられたとする「国友説」も成り立つ。
この「国友説」に従えば、更にこの「経緯」で「商い」に伴い「伊豆」から船で経由地として「伊勢・訓練」に一度入り、その後に「大口に入ったとする説」であるが、「宗綱」とは伊勢に入った「京綱・妾子四男」とは共に何れも「摂津源氏四家の妾子・国友である事」なのでこの「国友説」は考えられない事は無い。
[伊豆から消えた人物」として全く資料は無いので何とも言えないが、それ故に「国友説の仮説・現地口伝」が生まれる。
「伊豆」から忽然と行動が消えたのは、この「大口青木氏・日向青木氏に入った事」で消えて「宗綱の裔廻氏との裔」と成ったのでは無いかという疑問を産んでいるのだ。
「宗綱の裔系」としてすれば同じ「清和源氏の摂津源氏・頼政・仲綱の裔系」であるので、全ての「伊勢青木氏を名乗るなどのストーリーの筋」が年齢の検証は5歳程度違えど通り得るだろう。
但し、筆者は飽く迄も上記した様に「伊勢の祐筆資料」からの「伊勢伊賀説」を採っている。

つまり、「維衡の妻の源満快娘1・老女説」を通じて「清盛」に出して叶えられ「日向配流・廻村」で先ず住んだとする「青木氏の詳細な言伝記録」があるので、「上記の国友説」は除外しているのだ。
上記した様に現実に其の後に本論の再び「日向」で「挙兵・史実」し、敗退し「薩摩大口村の浄土宗寺・鹿児島県伊佐市大口小木原」に匿われ、其処の「住職の機転・?」で「伊勢青木氏の裔系」として名乗る様に諭され難を逃れたと成っている。
上記の「国友説」は、ここに「国友が入ったとする説・摂津源氏説と成る」である。
これが先ず「伊勢青木氏との血縁」で「伊勢伊賀説」とすればある程度は繋がるが確定は出来ない。

後に「日向青木氏の発祥・黒田藩傭兵」とする「伊勢側の詳細な資料」がある。
この「日向青木氏・大口青木氏」は「山手に住んだ青木氏」を「上青木・薩摩の山族」、「海手に住んだ青木氏」を「下青木・日向灘の海族」と呼称されていたとし、現在もその「裔系」は南九州で大拡大している。
「廻氏との裔系・摂津源氏の国友とすると疑われるので」であると記されていて「通説・伊勢伊賀説」」とは異なるがある程度は史実に近いともと考えられる。
「国友説」にしても「廻氏裔系」にしても平家の目を避ける為にも「源氏」は元より「摂津源氏」は絶対に名乗れなかった筈で、それは鎌倉期に成っても同然な状況であった。
これは「清盛の伊勢平氏」とはこの様な関係に在った証拠でもあるのだ。

故に、「伊勢伊賀説」では、「平清盛」は「桓武平氏」と呼ばれ「桓武派」であって、「伊勢と信濃の青木氏」とは同派であり、前段でも詳細に論じた通り、その結果で平安末期まで潰されずに生き遺る事が出来ているのだし、取り分け「源氏化に反対した立場の経緯」でもあるのだ。
それ故に「伊勢伊賀説」では、それ以後も安全であったのだから納得できる。
「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」に沿わしたものの筈である。
従って、鎌倉期に於いても主体は「河内源氏」であったので、同じ源氏ありながらも敵視していた所以で「摂津源氏を名乗る事」は危険であった筈である。
何れにせよ「伊勢系を名乗る事の所以」を以て「中立と安全」は保たれ、その証拠に「伊勢と信濃」は「伊勢の本領安堵・鎌倉期」を逸早く史実として獲得しているのだ。
同然に故に鎌倉期には、いの一番にその「伊賀」に「地頭・足利氏の5年間」が入った事もその証拠である。

結局、若干時代を遡れば、「清盛の初期の時代」には、未だこの時も「伊勢」と「近江、美濃、信濃・甲斐は別」を加えた「賜姓青木氏族」と、「嵯峨天皇系と坂上氏の組み合わせ」との「激しい対立関係の継続の結果」で「二つの派」が継続して出来上がりつつあったのである。
その「810年頃の段階」では、未だ「能登と名張の「女(むすめ)」が嫁した「近江・市原王」や、「浄橋と飽浪が嫁した美濃・三野王」との関係は維持できていたのだ。
この「薬子の変・平城天皇との政争事件」の「直後の814年・4年」に「17皇子の源氏、15皇女の源氏」として、「詔と禁令と掟・弘仁五年」」を発して「朝廷の経済的な逼迫」を理由」に「財政削減の理由付け」で、“「全て皇位」を外すから、「一般の官吏等」として働き生きて行け・自由にせよ”と「嵯峨天皇派」は財政難から突き放した。
然し、その前にこの時、「嵯峨天皇」は同時に「青木氏」に対しても「賜姓族と皇親族」を外して来たのだ。
これは、この事件に依って「青木氏族」が、同時にやり返し、“「嵯峨朝廷に対する貢納・献納を中止した事」”に依り「朝廷の経済的な逼迫」に更に拍車がかかり追い遣られていたのだ。
それが後に「常習的な朝廷の経済的圧迫」と成って出たとして、これ等の各地に散っている「官僚族」からも大きな非難が噴出していたと記録されている。
この各地に散っている「四等官吏族等」も従って自ら糧を得る為に預かった「治安用の軍事力」を使って土豪・豪族化して略奪を行ったのだ。
それでも「嵯峨天皇派ら」は強引に実行したのだが、その「反発と圧力」に屈し結局は最後は「中和策」に出て兄の「平城上皇と仲直りをする羽目」と成った。
然し、「出自元の青木氏」とは「皇族である証拠」を示すものがあればそれを示して「青木氏を名乗っても良い」とする「妥協案」をだして「兄・平城上皇」を納得させたのだ。
この時、「賜姓五役」としてこれ等の「官吏等を統率する令外官の役目・国造差配等」を命じられていた。
これが「嵯峨天皇の平安期に発祥した青木氏」である。
結局は、「賜姓青木氏の掟以外」のところで名乗る事が出来るシステムが出来あがったのだ。

「大口青木氏・日向青木氏」はこの「嵯峨期の青木氏」では無く、「伊勢と信濃青木氏」の「伝統下での家人青木氏」として発祥させたのだがイメージとしては「賜姓系の青木氏」である。
これには前段で論じた通り「時光系青木氏や島左大臣系青木氏や橘氏系青木氏や丹治氏系青木氏等」があるが、この大影響下を受けて、「賜姓源氏」にしても結局は、「32の源氏」も生まれたが、最終は結局の処は例えば「嵯峨源氏」は「10年後」には「官吏に就けた4源氏」しか残らず、更に「20年後程度には2源氏」に、「30年後の三世族」では生きて行けず全て「経済的理由」から絶えて“「皆無」”と成ったと記されているのだ。
更に最終は「清和源氏」も含めて「正統な源氏とする賜姓族」は「対抗した青木氏の朝廷への貢納献納の停止」では、この「賜姓源氏族・勝手に名乗った賜姓源氏の方が多い」は「1221年」には影も形も無く成ったのだ。
丁度、これはこの「大口青木氏・日向青木氏の件の35年前の出来事」であった。
何れにしても「源氏を名乗る事への危険性・それだけ厳しい環境下・平家と経済」ではあったのだ。
「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」にしても、つまりは是が非でも「安全な策」を未来に対しても執るには「禁じ手の伊勢の名を使う必然性」に迫られていたのだ。

当然にそうなれば「嵯峨天皇派等の勢力」は、「賜姓族と皇親族」を外せば「資格を示す令外官の院号を持つ伊勢側の商い」も止めて来る筈であったが、「資料と記録の行」から調べて観ると、「令外官としての朝廷との商い」は「継続関係・停止の表現行は無い」に未だあって、「四等官以上の官僚族等」はこれを“「内々の争い」”として扱い「天皇の云う事」を聞かなかった事に成り「資料・記録」もその様に記されている。
それ程に「商いを外す事」が出来ない程に、他に「賜姓族の令外官」としての「信頼できる代わり得る者」が居なかった事に成り、且つ、始まったばかりの「部経済下」で「天皇家・内蔵」を支える「殖産業を含む大商い・賜姓族形式的には「院号を持つ御用商人」をしていた事に成り、ここが「判断の見どころ」であったろう。
「809年位」から「院政842年没」までの「33年間」で、「源氏の基源と成る族」は一応は消えた事に成るのだが、これを盛り返し「河内源氏」が「武器を持つ事・禁令を破る事」で「略奪で遺った事」に成り、反対にこれをしなかった「官僚としての摂津源氏一族」は朝廷内の立場として衰退していた。
内々では「正三位」という「朝臣族」では普通は成り得ない「最高の冠位と領地・富裕」を得ていながらも「乱を興す結果」に追い込まれていたのだ。
然し、「朝廷の底入れ」で何とか生き残った「摂津源氏・正三位頼政」にも「伊豆・国友説の起源」に初めて「朝臣族」でありながらも「略奪」では無い「冠位の正三位に成る事で正式な領地」を与えられながら,それにも関わらず「頼政の乱」が興って仕舞ったのだ。
故に、「天皇や平氏」のみならず「朝廷」をも敵に廻した結果と成ったのだが、「地方の四等官の官僚族・国司階級」までも「信頼・支持」を失っていたのだ。
故に、この「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」も、そもそも「周囲の信頼」を事石く失い、そもそも「名乗る諡号の姓」さえ無かったのだし、密かに先ずは「廻氏の裔系」として呼称させ、且つ、その後に「伊勢に肩を寄せる事・家人青木氏を名乗る事」の以外には、そもそも「上記する平安期の古くからの歴史的経緯」すらでも「摂津源氏系・名乗り」には「生きる策・道」は最早無かったのだ。
況してや室町期とは違い平安期末期に乱を興しての事である。

然し、「資料の行」から観て、この発生した「嵯峨期までの三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「伊勢と信濃」は引き取ったとされるが、然し、女系とした以上は「皇子」は「施基皇子」の時より一切引き取らなかったとされる記録がある。
前段でも詳細に論じた様に、この「三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「多気郡の斎王館と清光寺分寺と神明社等」に匿ったとしている。
これが「伊勢と信濃の青木氏の立ち位置」に「大きな影響」として働いて来たのだ。
中には、その「出自格式差」を基に身分を「12階級の女官扱い」として、その後の身分を確定させた事が記されている。
但し、「伊勢の嫁家制度」の「女(むすめ)」に組み込んだかは記録が無いので定かではないが組み込んだであろう。
但し、実質、「皇子族」は「近江と美濃」に流れたと考えられ、「佐々木氏の研究資料」にもこの事が記されているが「経済的な理由」から「近江」は少なく「美濃」が殆どであろう。
それ故に「美濃の格式」は「伊勢・施基皇子の裔系以上」と肩を張る様にして伸し上がった理由に成ったのだ。
これが所謂、「源氏化への原因」と成ったのだが、これに反して「伊勢と信濃」はこの「源氏化」に一切走らなかった一つの要因と成っていた。
反して「伊勢と信濃の青木氏」には「女系族としての掟」があり「皇子族」は徹底して阻害し続けたのだ。
これが元で「裔系の格式」に「美濃」には「伊勢と信濃」との「格式差の短縮・伊勢桑名から浄橋と飽波が嫁して中和策を執ったが上手く行かなかった・地名一色の発祥原因」が起こり、この「青木氏族の関係」の「近江と美濃の関係」も、それ故に「源氏化」が進んだ事」で「清和期」から極度に悪化して行ったのだ。
「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」もこの「中・源氏化」にあって難しい経緯にあったのだ。

その後の「天皇家」に「対抗した青木氏の朝廷への献納貢納停止の影響」は、「近江と美濃の関係の悪化」へと繋がって行くのだが、然し、「嵯峨期の跡目」を継いだ「子供の仁明天皇・施基皇子からは玄孫」は、「出自元の里との関係修復」に必死に働き、「対抗した青木氏の朝廷への貢納停止」を中止させるまで持ち込み、その代わりに「嵯峨期の処置の令の一切の中止・廃止はできない」とし、再び「天皇家への献納」として限定した事が判っている。
各地の「源氏化と武力化」と「四等官までの官吏の汚職」で、「天領地や蔵人攻撃等」が各地で盛んに起こり奪われ「各地からの貢納・弁財使の反抗」も低下して、「武力の持たない天皇家・内蔵」のみならず「朝廷・大蔵」も貧したのだ。
それだけに「青木氏からの供納献納・朝廷の財」には大きな意味を持ちその多くを占めていたのだ。
やっと「仁明期」に依って「事件の解決」を観たのだが、これには「直前の一時的に興った源氏化事件」が伴っていて、この事から生き遺った「青木氏の伊勢と信濃」は前段でも論じたが「各種の院号・専売権」を得て「殖産業」を邁進させ、「大口青木氏・日向青木氏の経緯」として発展して行くのであって、その「大きな起爆剤」と成っていたので「歴史的経緯」が「大きな背景としての意味」を持っていたのだ。
この時期までは、この様に「伊勢青木氏も苦しい時期と経緯であった事」には間違いはなかったのだ。
「伊勢伊賀説」も「伊豆に語り継がれた伊豆国友説」もその「名乗りの裔系の時系列の経緯」は、歴史的に微妙であった事が判る。
結果として、上記した様に何れの説も「伊勢の裔系としての策・それしか無かった」を講じた事が判るのだ。
それも「古来からの経緯」を引き継ぐ「伊勢青木氏の格式を持ち出す事」では無く「商いの前提」に重点を置いた経緯であったのだ。

更に「大きな背景としての流れの意味」を続けると、そう成ると、「青木家の四家と福家」と「白壁の間」には経緯から基礎的には「青木氏の内部」では「亀裂が発生していた事」に成っていたのだ。
「父親の白壁・光仁天皇」に対して、「子の山部王・桓武天皇」は「実家元の意見」に賛成していた構図と成る。
「桓武天皇の子の平城天皇・当時」も「父親に賛成・反対派」していたが、その後の同じ「子の嵯峨天皇」が「賛成派」であった。
それを「光仁天皇」から観れば「孫の嵯峨天皇」が賛成して「光仁天皇の意思」を継いで「格式化・新撰姓氏禄・振動と仏道の習合策」を世に出した事に成る。
この「二人の賛成派の狙う処」は、“全く同じであったかは議論の分かれる処”である。
「桓武平氏・伊勢平氏」も「反対派の桓武派」であって「50年程度」に渡って「骨肉の争い」は起こっていた。
分ければ「伊豆の国友説の場合・賛成派」も「伊勢伊賀説の場合・反対派」の位置づけにいた事と成る。

つまり、ここが“「疑問aの答え」”に繋がる処だと観ているのだ。
この事に注目する事は、「青木氏一族」の中でも「賛成反対の争い」が継続して起こっていた事に成るのだが、「伊勢と信濃の青木氏」は「反対の態度」を明確に執っていたのだ。
簡単に云うと「桓武派」は、「伊賀」は「母親・祖母の里」であり、それは「青木氏」に執つても、「伊賀青木氏の里」にも成るし、そもそも「庶人化し商いの格式化の中にある事」ではそもそもその必要性はないし、「源氏化を進めた嵯峨派・賛成派」は「賜姓・皇親族を外した派」でもあるのだ。
「桓武天皇派・反対」の「反対派の主張と危機感」は、「格式が無くなる事」や、「皇親族では無くなる事・商いの前提の院号の喪失」では判るが、然し、そもそも「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成の主張」は記録の上ではその差は一見してはっきりとは判らない。
「伊勢と信濃」では“「皇親族で無くなる事」”は、“「自らの足元を失う事”の危険性」では同じであり、“失なわないと云う保証”はそもそも何処にも無い。
現実に「献納」や「商いの承認」も最終は復するが形式上は既に一時的には失っていた。

そもそも、追記するが「嵯峨天皇」が「青木氏を皇親族から外した事」には次の手順が必要であって、さうしなければ「朝廷の制度」に依って簡単に外せない。
その要素は、「禁令813年>皇親族>源氏詔勅814年>令外官>院号の順」で「手続上」としては外して行かなければ矛盾が生まれて出来ないのだ。
「令外官」は,表向きは「皇親族で外している事」には成るが、明確に外すとした訳では無いのでこれは正式ではないとする。
「令外官・賜姓五役の一つ」そのものが、何れの「族・従四位以上」であっても多くは「天皇の内示」で「秘密裏に行われる体質」のものである事から外れていない事に成るし、そもそも「賜姓五役」を外さなくてはならない理由はない。
原則は、「天皇家」では「前天皇の施政策は否定してはならないとする絶対掟」があり、これを断行するとすれば「別の何らかの他の名目大儀」を着ける必要があるのだ。
後はその「内示」が有るか無いかであり、無ければそれまでであり、現実には何処にもそんな記録は無い。。
依って、歴史的に無いのであり、又「何らかの他の名目大儀」も無いので、正式には「賜姓五役は遺る事・令外官」に成るのだ。
だから「永代・明治9年まで」とされているのだが、この「権威を示す院号・許可書の様な資格」は、「天智天皇と天武天皇と桓武天皇と平城天皇」の「前四代の天皇が継続して与えた号」である限りは、「外すとした命令」を出さないと外れない。
何れも出されていないし、そんな「強引な詔勅」は「先代の天皇を否定する事」に成り、それは自らの立ち位置をも否定する結果と成るからで現実には出せないであろう。
一時的に「嵯峨天皇」が「青木氏の賜姓を中止した事」があったが、これも「周囲の圧力・四等官以上の官吏等以上」で「中和策」を執り別の形で最終は復している.

これを観ると、「青木氏の慣習仕来りの禁令」と「源氏詔勅を出す事」で、「皇親族を実質外した事」に形上は成るのだが、然し、「賜姓」は「源氏に変更して外した事」には実質は成る。
然し、最後は「中和策」で「真人族」を証明とその証拠を示せれば「青木氏」でも「源氏」でも名乗っても良いとしたが、「賜姓五役」だけは「永代」と名目されているので外せていない事に成るのだ。
後に960年頃に「円融天皇」がこれを覆し「藤原北家秀郷流宗家の三男族」に「青木氏の賜姓をした事」で永代に「青木氏の賜姓」は復活した事にも成る。
その意味で「青木氏の賜姓」は生き帰った事に成るのだ。
更に「1180年代」では、「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」の「諡号の姓名の名乗り」は、論理的に形式的には「伊勢の諡号姓の青木氏の発祥」は「正式な事に扱われる事」に成り得るのだ。

但し、これ等の論理は「院号を持つ商い」をしていないと云う前提であり、「925年頃」に「商いを主業」とする「氏族に変えた事」で、世間の目は別として「伊勢と信濃の青木氏の中」ではそれらは既に格式意味の無いものとして扱われていたのだ。
然し、ところがこの「二つの社会との乖離」で「世間」では依然として「鎌倉期から室町期」にはそれでも「律宗族として扱い・賜姓族から律宗族」に替わって行ったのだ。
「伊勢と信濃の意識」と「世間の意識」とは「大きく乖離していた時代」であった事に成る。
それは「各種の院号を持つ事」で「正当な商い・二足の草鞋策」と成った事であったと考えられる。
この時の「大口青木氏・日向青木氏」の件を、要するに時系列で観れば、その直前で興った事に成るが、その後の「鎌倉期から室町期・400年程度の間」には「世間の律宗族の位置づけ」で「大口青木氏・日向青木氏」の「立ち位置」にしても「商い」にしても都合が良かった事に成る。
それを示す「紛失している嵯峨期の新撰姓氏禄・木々の点も多いが凡そ復元か」でも「敏達天皇・春日皇子族四世族」としての「真人族」に分類記載されているので外してはいない事にも成る。
その意味で、その「主な理由」は「桓武派であった事」もあるが、故に「別の理由」では「伊勢青木氏を名乗る事」では、その意味で「格式上の上位」にあって流石の「日向平氏も手が出せなかった事」もあり得たと考えられるのだ。
故に、「大口青木氏・日向青木氏」のこの「家人の姓名」は、この意味で「賜姓青木氏の制度」の中では「家人青木氏」とは成るが、「嵯峨期で定めた制度」の中でも「正統な姓」として見る事が出来る。

この論には「二つの矛盾・疑問」している処がある。
それが下記の二つ目の「疑問b」である。
つまり、「嵯峨天皇の行為」は、「青木氏側」から観れば“「自らの足元」を失っても「格式順位を定めた新撰姓氏禄」なのか”と云う事だ。
幾ら何でもそんな馬鹿な話は無いだろう。
そもそも、「上記の経緯」では思い掛けなく「出自元」に「白羽の矢」が当たり「皇族」に成ったのだ。
これは何しろ「170年後に引き戻された事」に成り、兎も角も「院号を持つ商い」もしているし、この「二つの事」は「朝廷の掟」からあり得ない「白羽の矢であった事」に成る。
そもそもそういう事・皇族の煩わしい扱い」を避ける為に男系継承を避け「女系制度」にしていたのにである。
故に確実に「世間の目」からは、「新撰姓氏禄」のこれに“「疑問b」”を持たれ「足元」は間違いなく揺らいでいた「天皇家」であった事は間違いなく、前段でも論じた様にこれは記録からも確かであるし、「編集作業をしていた四等官以上の官吏等」にも三回とも大疑問を持たれたのだし、編集を放棄されていたものだ。
世間でも反対が多く、疑問も多く、何しろ「周囲の環境」は「正当な天皇の出自と格式」を疑われていたのだ。
それ故に「編集一度目の挑戦」は失敗したし、更に「編集二度目の挑戦」をした「光仁天皇期の新撰姓氏禄」に依っても、上記した様に「神道仏道の概念の矛盾の解決の事や賜姓を換える事」もあって「白羽の矢」として成立させて仕舞った以上は、上記の経緯での「足元の緩い天皇」に成っていた事は間違いはない。
且つ、「正当な直系尊属・170年経過では最早卑属系」では最早無く成っていた以上は、この「自らの足元を失う事の危険性」を帯びていたし、現実帯びたのだ。
然しながらも、これを少しでも無くす目的でも、事と次第に依っては「神道仏道の格式化を施す事や青木氏の賜姓から源氏の賜姓に換える事」で、“副産物”として「揺らいでいた天皇の地位の格式化も図られる事」は充分にあり得たのだ。
この可能性は重要であって、要するに「揺らいだ天皇の格式」に成った以上は、“「三度目の賭け」”として遺された道として「神道仏道の格式化策」で「天皇の地位を安定させようとした事」に賭けた事には間違いは無いのだ。

それには「新撰姓氏禄の18氏・真人族」の中に、この「神道仏道の格式化策」などの“何某かの説明要素が組み込まれていれば、“「天皇としての格式」”は保てるし、且つ、“「自らの足元の揺らぎも無くなる事」”にも成る。
それが「世間の反対の目」は逸らす事が出来るとした事に成るだろう。
それを探し出せば「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成」の「賛成の主張内容」は解決して矛盾している「疑問b」は解決するのである。
答えは、“あった”である。

さて、その前に余談であるが、「足元の緩い事」に就ては「資料」によると、三度目共に“編者に身の危険が迫る程の反対”を周囲から受けていたらしい事が判っている。
然し、この時、“反対”をしている世の中に対しても、“「折衷案」”を示して、この為に“「青木氏を賜姓する事」を中止し”、“「格式化」の「最高位・皇親族」から外した”とする説が当時には有力であった。
そこで、これを同じ賛成派の「父・光仁天皇」では無く「孫・嵯峨天皇」が強引に遣って仕舞ったのだ。
筆者もこの「失政説」を採っている。
故に「天皇としての地位の揺らぎ」は、恐らくは「白羽の矢の光仁天皇」より「孫・嵯峨天皇」の方がより大きく成っていたのであろう。
この記録に記されている様子の史実の「父・光仁天皇」<「孫・嵯峨天皇」=「地位の揺らぎ」の関係式は、“何故起こったか”は、「嵯峨天皇の施政」を潰さに検証しても「揺らぎ」を「顕著に興させる事は無い。
当然にこの失政の様を記録として遺す事は皇室の中ではあり得ないが、「伊勢青木氏側等」にはそれなりの疑われる記録は散見できる。
然し、唯一点、政策の為には構わず「出自先を否定した事」は、公然とした史実として“世間が許さなかったのではないか。”と考えられる。
何時の世も「大儀の理屈」では無く「世情の仁義」に「判断の重点」を置くが常道であろう。
これは“大事を成す時、上に立つ者の辛い処”である。
上記で論じた「九重戒相伝・通称嵯峨9つの縛り」として「嵯峨天皇」は、故にこの「縛り」をしっかりとした皇族の品位の者としてする為に「賜姓源氏」に義務として付け加えたが、その後の「11代の賜姓源氏」にはこれを一切守られなかった事を捉えても判る。
要するにこれは「世情の仁義を失っていた事」なのだ。
この「余談」が「伊勢青木氏の家人」として「大口青木氏・日向青木氏」とした「諡号の姓名の判断」の理解の要素には成り得るだろうし、「家人青木氏」で無くても成り立つ由縁でもあろうと考えられる。

ここで従って、“鎌倉期直前まで「格式化の律宗族氏」では一時無くなる”のだが、然し、「鎌倉期」では「伊勢と信濃が本領安堵された事」は「格式化の前提と成る律宗族」に「青木氏は戻った事」を意味するだろう。
それは「律宗族=本領安堵の証明の前提」であるからだ。
この「事・賜姓では無く律宗族で」、これは要するに先ずは、「世の中」を納得させようとしたのであろう。
それでも平安期中期から末期までは遂には“「収まり」”が着かず「光仁天皇の子の桓武天皇と平城天皇」の派との「一族内の政治争い・薬子の変等」の政争事件までが遂に始まつて仕舞ったのだ。
然し、時系列を追えば経緯としては、「律宗族=本領安堵の証拠の前提」で鎌倉期ではこの「政治的な扱い」として治まったと云う事に成ったのだ。
結局、「嵯峨天皇」は「収拾策・中和策・仲介策」として「弘仁五年の詔勅と禁令」を出して、「禁令」としては、この“「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用を禁じる”とする事で先ず「格式化」を施した。
これで「表向き」は「賜姓も認めた事・真人族を物語る伝統品の朝廷への提示」を意味するだろうとした。
その上で、更に「青木氏」を「皇位族の者の臣下先」として指定しこれを補おうとした事に成る。
これを「証明する物の提示」を朝廷に提示してその前提として容認すると云う形にするとしたのだ。
再び、「青木氏」がこれを採用するかは別としても、これで「格式化の親族」として復帰させた形を整えた事に成ったのだ。
現実は、「青木氏に移る皇位族」と「賜姓の無い源氏を名乗る事」に走ったのだ。
「120年後の朝廷」は、この問題を持った「賜姓族」ではなく「律宗族」で政治的には整えたとしたのだ。
その代わりに「円融天皇の藤原秀郷流・青木伊勢青木氏と信濃の母方:系」を「賜姓の青木氏」として正式に永代にして興させて「嵯峨期の失政」を正式に復帰・修復させ正した事に成ったのだ。
これは、つまり「出自元の問題」は上記した様に「仁明天皇」が修復したが、その後にも[朝廷の中」では「嵯峨天皇の失政」を燻る様に気にしていた事に成るだろう。
この「時系列の経緯の意味」でも「大口青木氏・日向青木氏」の「家人の諡号の姓名」は、「伊勢」が「家人として関わった事」で正当に成ったと云える。

それが「古い言い伝え」に依れば、「当初の嵯峨期の新撰姓氏禄の原本」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されていたとされるが、この 「川島皇子・河島皇子」と共に、遺された「青木氏の資料」の行から判断しても「光仁天皇期の新撰姓氏禄・仮称」では、文意を要約すると“「敏達天皇之系にして同祖同門同族同宗の四掟裔也、 故以四世族天智天皇皇子浄大壱位施基皇子後裔也」”と記されていたとされるのだ。
それらの事を「書にした長尺物」を室町期頃に「巻軸」にしその一部を江戸期頃に「古額」にして伊勢に遺こしている。
従って、この事から「川島皇子」と同じ「天智天皇の皇子の第七位施基皇子」は同然にこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」に記されていた事に成るのだが、これが「光仁天皇」と共に「追尊春日宮天皇・施基皇子」に成り、この事に依ってその「後裔族の賜姓伊勢青木氏・律宗族」はこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」から先ず抹消され、書き換え修正してされていた事に成る。
この「修正策」の実行は「朝廷内での事」では無いかと推論している
「追尊春日宮天皇・施基皇子」とすれば「賜姓を外す外さないの議論」は霧消に成るが、「嵯峨天皇」は上記の通り「賜姓を外そうとした事」は、本来は出来ない事に成るので「周囲の四等官以上の官僚族」から強い反対意見が三度も共に噴出したのだ。
そこで「三度目の嵯峨期」では「折衷案」として、その替わりに「春日王族」としての下記の通り記載があるのだ。

「嵯峨期の新撰姓氏禄」では次の三つが記載されているので検証する。
1 香山真人 敏達皇子春日王の後裔也
2 春日真人 敏達天皇皇子春日王之後裔也
3 高額真人 春日真人同祖 春日親王之尊属後裔也

1の「香山」とは、現在の三重県伊賀地方付近一帯
2の「春日」とは、奈良県大和高田市付近一帯
3の「高額」とは、同付近一帯

同じ族が三つも記載がある事はそもそも無く、「敏達天皇の春日」は「親王」、即ち、「第二皇子」である。
「王」とは、「大化改新・645年」より「真人族の内」のその「第四世族の位」を云う事に成った。
従って、この「2の表現」は当時期の「嵯峨期での記入」とすれば「歴史観」が無く正確では無くあり得ないのである。
3はその「2の後裔」とするならば、「皇子」としながらも「王としている事」は「歴史観」がそもそも食い違っている。
2は正しくは「敏達天皇皇子春日親王之後裔也」と成る筈である。
故に、この2と3は正しい知識の歴史観が無い事から後から筆を加えられた事に間違いは無い事に成る。

1は「敏達天皇」より「第四代目の天智天皇の裔系」と成り、「施基皇子」の「長男春日・天智天皇前の三世族」であり、「基準の敏達天皇」より数えると「施基皇子の裔系」は「六世族」であり「王位の基準外」である。
「天智天皇」は四世族、「施基皇子」が五世族、その裔系は六世族、追尊王は七世族である。
当時では、これを「覆いを外れた者」を「ひら族・平族・第六位を含む第七世族」と呼ばれて坂東等に配置されていたので天皇が第代わりする度にこの平族は増える事に成る制度と大化改新で敷いたのだ。
且つ、そこで「施基皇子」はそもそも既に臣下しているので、その「裔系」は既に「王位」ではなく成っているのだ。
「天智天皇第七位皇子賜姓臣下族」と成った「伊勢王」の「施基皇子の四男の白壁」が「孝謙天皇の白羽の矢」で、何と54歳で「聖武天皇の井上内親王」を娶らされ「光仁天皇」に無理やり押し上げられた事は完全な枠外であった。
この事で「光仁天皇の一族・伊勢青木氏」は、好まない「追尊王位」を授かる「仕儀」と成り、「9人の男子と7人の女子供等」の「第四世族」までが「王位を授かる前提」と成って仕舞ったのだ。
然し、その時、「施基皇子の長男の春日」が「春日王」と成り、「伊勢青木氏四家一族の長」として「施基皇子の裔系一族」を「嵯峨期の新撰氏禄」の中では背負う事に成ったのだ。
ところが「政争の世界」に取り込まれる事を恐れて「辞退者」や「逃隠者」も多く出たとある。
要するに「記の1」は当にこの「春日王の裔系・四家」である事に成る。
「施基皇子・716年」は、没後に「追尊春日宮天皇・770年」の名称を授かりと成り、その結果、「追尊春日宮天皇の裔系」であり、「光仁天皇の裔系」の「二つの事由」からの「施基皇子の一族四世族」までに逃れ得ない侭に「追尊王位を授けられる仕儀」と成って仕舞ったのだ。

そこで、「嵯峨期の新撰姓氏禄」では、急遽、「修正」を余儀なくされたのだ。
それまでは「光仁天皇期の新撰姓氏禄」を原稿としていたのが「嵯峨期の新撰姓氏禄の稿」では次の様に成っていた。
当初は、同じ「天智天皇皇子の第六位皇子」の「近江王の川島皇子」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されているのに対して、「施基皇子」には、“田原・志紀朝臣天智天皇皇子浄大壱位施基皇子之後裔也”と記されていたとされるからなのだ。

以上の経緯から「光仁天皇」と「追尊春日宮天皇」の「天皇追尊事由」で「嵯峨期の新撰姓氏禄」には、この「天皇家の記載・真人族まで」がそのものが困難と成り、その「伊勢の裔系」を「長兄春日の真人族」として「修正記載する事」に成ったとされるのだ。

世間ではこれを疑問視されていて反対されていた故に、これを以て「天皇系」を正当化して基に戻して、「足元の揺らぎ」を無くして、「格式化と正当化」で「根強い世間の反対」を押し切ろうとした事が判るのだ。

念の為に、この“「四掟」”は、そもそも中国の初期の「朝廷国の華の国」から始まった制度で、「中国の皇室伝播血縁掟」から由来するものであり、「大和朝廷」ではこれを取り入れて「二つの賜姓青木氏族・女系適用」だけに古くから適用し採用されたものだ。
この「中国の制度を取り入れた事」に依って「伊勢と信濃」がこれを「伝統」として採用した「四掟四家の制度」は、制度的には当に「賜姓族所以・律宗族」そのものを示す証拠と成るのだ。
これで「疑問b」を解決させたのだ。

ところがこの事から、「嵯峨天皇」としては、本来は「賜姓を外す事」は本来は出来なかったのであり、規則に拘る官僚族から強く反対を受けていた所以でもあるのだ。
そこで「嵯峨天皇」が、「賜姓をした源氏」に対しては「9つの縛り」を義務付けて、これに対応しようとしたが「11源氏」の全てはこれを護らなかったのだ。
この「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった「嵯峨期詔勅の賜姓」はこれでは「賜姓源氏」では無い事に成る。
その何とか生き残った「河内源氏」は禁じ手の「武器」をも以て「略奪の行為」に出て品位を失い糧を得たのだ。
これ等の歴史観は、「近江佐々木氏や伊勢信濃青木氏以外の伝統」と比較する事で判って来る事であってあまり知られていない事に成り、今度は官僚側に反対される事が無い為に「賜姓源氏の正統性が突っ走る事」に成って仕舞っているのだ。
但し、「清和源氏の三代目以降の摂津源氏・頼光の裔系」は「最低限の四家制度」を敷いて何とか「賜姓族の範囲」に留まったのだ。
然し、「伊勢と信濃青木氏」はこの「摂津源氏を四掟の範囲の族」と認めなかったのだ。
中には「、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」も「清和源氏の河内源氏」ものとして思い込まれている間違った歴史観になっしまっているが、そんな与えたとする記録は何処にも無いのだ。
「源氏」は上記の事では、前段で何度も論じているが、そもそも「課せられた白旗派の浄土宗」では無く「八幡菩薩の神仏習合・神道と仏道の統一宗」であって、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」は論理的に資格としてはあり得ないのだ。
「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった族に与えられる事はあり得ないのだ。
これを理由に幕府樹立を認めようとしなかった朝廷は、頼朝が次の様な苦し紛れの言い訳をして返した。
「幕府は権利を何とか有していた「摂津源氏の頼政の乱」を引き継いだ事を以て「笹竜胆紋と白旗」を証明する使用の開幕の条件・源氏の頭梁と成り得る権利を有しているとしたのだが、確かに「頼政に王位の令旨・1」も出ているし、「摂津源氏も最低限の真人族の条件・正三位の冠位・2」に叙されているし、「真人族の9つの縛り・3」も最低限の処で維持しているし、何とかこの3つの条件がある以上は嫌々ながらも開幕を認めざるを得なかったのだ。
それでも「以仁王の王位の令旨は有効かと云う議論」と「笹竜胆紋と白旗の使用は有効かという議論」が朝廷内で興っていたのだ。
筋論としては確かに筋が通っている処から「頼政引継論」で決着は着いたのだ。
結局は、上記の「3つの資格条件」は、飽く迄も「天領地などを略奪した河内源氏の頼朝」ではなく、「朝臣族として働いていた摂津源氏の頼政」に与えたものだとして認めたものとした。
従って、後の「時系列の経緯」としては「頼朝三代」を潰せば「頼政引継論」は成り立たなく成った。
然し、そこでこのこの「北条氏等の坂東八平氏」は、唯単なる地方豪族では無く、元は「大化改新期からの発祥族」の「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏・ひら族と呼称させた・大化前は王族位」であった事から、「頼政家の執権」としての「資格・家老」を難なく「北条氏」は「執権としての立場」で政治的立場を問題なく獲得したのだ。

筆者の論では「頼朝三代」より「北条執権説の方」が「開幕の歴史観」としては筋論に妥当性があると考えている。
「河内源氏」も「坂東八平氏」も「武器」を持ったが、ところが「坂東八平氏・王位族」には「武器を持つ大義名分」が朝廷から「坂東の治安維持の命令」が正式に出されていて、その「集団」に「平族・ひらぞく・天智天皇令」とする呼称にも「賜姓」されているからだ。
「清和源氏の河内源氏」には「嵯峨天皇9つの縛り」を「賜姓朝臣族の品位義務」として義務付けたにも拘わらず護らず、且つ、「禁令の武器」を許可なく持ち、其れも「天領地略奪」を繰り返した。
明かに対比的であるが、「資格」に問題は無くその得た時代が「天智期」と「清和期」の「時代差」だけであるので「坂東八平氏」もその様に認識していた可能性がある筈だ。
時期を観て「頼政引継者」の「頼朝三代」よりは、これを潰して「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏」に取り戻す行動に出たと観ているのだ。
つまり「頼朝利用説」である
「摂津源氏・頼政四家一族」はこれらの事を最低下で護ったが故に「正三位であった事等」を以て「開幕条件」は成立したのだ。
斯くの如しの歴史観で以て始祖を「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」とする「大口青木氏・日向青木氏」は「頼朝三代の鎌倉期・1221年」を過ぎた頃には「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」の「名乗り」は難しく成っていたのだ。
故に、「大口青木氏・日向青木氏の論」はより正統性を持ったと「北条氏の鎌倉幕府」から認められていたのだ。
だから「日向灘の海運業」は前に前進したのだし「不当な攻撃を受ける事」はなかったのだ。
この事を「大口青木氏・日向青木氏の論」を借りて「後段での歴史観・時代背景」としても参考に成るので追論して置く。

さて、「疑問bの経緯」が判ったとして、論が外れる事に成るが「大口青木氏・日向青木氏の論」と同じく歴史観として「次段の論」を解決する為に敢えて次の事を先に論じて置く。
先ず、“では、故かの「疑問a」である”。が起こるのかである。
つまり、それには追論として前段で論じ切れていなかったので、先ず何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまりこの視点を変えて「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”である。
それを検証する。
上記した様に、正統に「天皇家の准継承者」は、周囲から疑問や反対者が出ている「施基皇子系」で無くても他に寧ろ資格者は未だ多かったのだ。
必ずしも「伊勢青木氏」だけでは決して無かったし、伊勢であるのなら「信濃青木氏」もいた。
「聖武天皇裔系」は「称徳天皇」まで、少なくとも「天皇家内」で、「四世族内」で、「第四位皇子内」で、「直系尊属の内」で継続して行われていた。
「孝謙天皇」から観れば、直系とすれば「文武天皇42」と「元明天皇43・女性」であり、「継承という事」に成れば「直系」は、「天智天皇38」では無く、直系尊属と成れば「天武天皇40」の「嗣子」に成る。
「追尊の弘文天皇39・大友」を除き「元正天皇44・女」、「元明天皇43・女」、「持統天皇41・女」は「女系嗣」であるので、「天武天皇40」の「直系嗣子」は「7人皇子と8人孫子と5人曾孫子」にあり、間違いなく「継承権のある者」は確実にあった。
この前の「持統天皇期」には、態々、「継承を定める為の規則」を議論する為の問題と事件・史実」が起こつている位なのだ。
この「考え方・継承を定める為の規則」が後に「大宝律令」に反映されたと云われるものだ。
それは「文武天皇697年〜707年」の「15歳の即位時の事」である。
従って、未だ、それから「50年も経っていない時期の事件・白羽の矢」であり、且つ、自らも「皇統の正統性」を強く主張していた「孝謙天皇769年〜758年・称徳天皇764年〜770年」はこの事に強く縛られていた事は「史実・記録」から明らかであるにも拘わらず「突然に変更した事」である。
この経緯は「不思議な事件・疑問c」である。


ここで序でに、前段で充分に論じていない事に就いて、且つ、次の論に繋がる事なので先に「注釈」として論じるが、、この時、「称徳天皇の異母妹・井上内親王」を妻とした「施基皇子の四男、又は六男」の「白壁」は、「称徳天皇の嫉妬」を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていたとあるが、「伊勢青木氏」で伝えられる処では、これは「皇位継承」の為に「皇位にある内親王」を押し付けられ、それで「皇統の正統性」を高めようとして避けたものと解釈している様だ。
光仁天皇に成った「後の事件」では無く、その「前の事件」として記されている。
この「後の事件とする説」には不合理がある。

さて、その「継承事件」とは要約すると次の通りである。
この様な「孝謙天皇15歳の若さ」で即位したのには何か「理由」があると観られる。
これを説明する為に「皇太子になった経緯」を辿る。
「漢詩集である懐風藻・751年頃」に次の事が記されている。
これは「史書」では無いがそれに依ると、次の様に成る。
「持統天皇」が、“「皇位継承者」である「日嗣(ひつぎ)」を決めようとした。”
この時に、群臣等がそれぞれ自分の意見を言い立てた。
この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
その際に“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子」”が、次の様に言い立てた。
“「わが国では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
ここで反論の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
この為に、その場では“そのまま口を噤んだ”とされる。
そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
再び“「弓削皇子」が自らが{正統な後継者」である”と主張したのだ。
ところが、逆にそこで「持統天皇」は、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
「持統天皇」は、「葛野王・天智系の主張」に賛成していた。
これは矛盾するが、これには裏の意があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統はそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と解釈したのだ。
これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」を自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系」の主張だけと成る。
現実に直ぐにその様にした。
一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだすと観て先手を打ったのだ。
この先手策を読んで喜んだとしたのだ。
そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と主張したという事に成ったのだ。
この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てたにも関わらず、即位目前の689年に没してしまったからだとしている。
この為に、「持統天皇」は「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事で、それがこの「一言」で解決したとして喜んだ事に成ったとしたのだ。
つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあったのだ。

先ず「一つ目の事件」は、「軽皇子・孝徳天皇・芽淳王系」と「中大兄皇子・天智天皇」との争いである。
兎も角はこの事件は「中大兄皇子」が引き下がって解決した。
次に「二つ目の事件」は、その後の「孝徳天皇の皇子の有間皇子継承問題」の「藤白坂絞殺事件」も「孝徳天皇系が引かなかった事」で実権を握っていた「天智天皇」は「孝徳天皇側が引かない為に結局は争い」と成って解決した。
最後に「三つ目の事件」は「大友皇子・天智系」と「大海人皇子・天武系」の争いである。
「大友皇子」は「戦い・壬申の乱」で決着し敗退した。
「敏達天皇の裔系」のこの「三系」で「皇位継承の四度目の対立事件」は以上の事としているのである。
要するに、この「皇位継承事件」は四度共に姿勢としては「天智系」は引いて治まっているのだ。(重要)
それ故に「持統天皇」は、この「全ての経緯」を知っていて「天武系を主張していた事・宣言」に成る。
「聖武天皇系の孝謙天皇・称徳天皇」も自らも「完全な天武系」であり、且つ、「皇位の正統性」を主張していた「天皇」の一人で在りながらも、この「上記の立場」に置かれていた「賜姓臣下した施基皇子系」に「白羽の矢を立てる事」、そのものが先ず一番に「おかしい事・疑問・主張の矛盾」に成ったのだ。
「主張と行動の食い違い」が「孝謙天皇」に起こっていたとされるのだ。
その上に、「四度目の事件」としても引いていたのだ。
「大化改新の詔」で規則に沿って「天智系の施基皇子の皇子の立場」は「第七位皇子」であった為に「賜姓臣下」していたし、況して「院号を元に真人族」としては「禁じ手の商い」をもしているし、一族は「女系」と成っていたし、その「血筋縁」は既に「四掟」で「皇族系」で無くなっていたし、その後も皇族に「還族」もしていないし、「天武系の正統性の者」が上記した様に大勢にいなければいざ知らず「継承族の対象者」は「数十人」にも及んでいたのだ。何よりも伊勢側は再び「天皇に成る事」のみならず「皇族系に成る事」も望んでいなかったのだ。
政治に関わる事を望んでいなかったのだ。
況してや、その「無継承者としての正統性」はこの段階で「50年」も経過していたのだ。
相当無理してこれだけの「リスク」を以てして「白羽の矢を立てた事・殆ど無理やり」に成る。
故に、上記した様に記録にある様に、「光仁天皇への世間の評価が低かった事」がこれで判るのだ。
前段でも論じたが、この経緯からしても、上記した“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”の様に「天武系だけで継承する事」にすれば「継承者の政争」が起こると考え直した「称徳天皇・孝謙天皇」であったが、其れだとすると「近江系」が「伊勢系」より正統性は数段に高い事に成るが然しそうしなかったのだ。
そこで、「近江佐々木氏との格式差」は確実にあるとするが、「白羽の矢」に成る程の「近江と伊勢の違い差」は源氏化までは「相互血縁」が行われていたので「血縁差」はない。
とすると、突き詰めれば比較にならない程の「大経済差・殖産財力」と成り得る。
これを前段で論じた。

つまり結論はこれが「疑問a」であり、それに繋がる「疑問c」である事に成る。
そうすると、前段と前記した「光仁天皇と嵯峨天皇」が採った「青木氏への賜姓排除排斥策」には矛盾が生まれるが、これはこれを「白羽の矢」で期待した以上は当然に起こるこの「財力を使った皇親族の政治的で財力的な絶対的な勢力の排除」に尽きる。
それが「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」と成り、「政治と経済・基盤」に「狂い・矛盾・疑問」が出たと云う事に成ったのだ。
唯、「青木氏側からの言い分・反対の言い分も」が、飽く迄も朝廷が認めた「二足の草鞋策・賜姓五役・院号獲得」を前提としている事で分けて考えていて大儀名分はあったし、そもそも「白羽の矢・献納で貢献」を望んだ事では無いし、当たらないとしていたのである。

筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

次に論じる事に就いて、上記のこの「歴史観・観点」を念頭にする事が必要である。


「大口青木氏・日向青木氏」の論は次の段に続く。

「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」に続く。(88P)


  [No.393] Re:「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」
     投稿者:青木   投稿日:2021/12/24(Fri) 15:42:48

> 「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」の末尾


> 筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
> この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
> それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
> これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」



此処から伝統 68に続く


“何故かの「疑問a」である”。に論を戻す
これらの事を前段とは別の面で検証する。

つまり、何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまり、この「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”であるが、“明らかに「正統性では無い」”とする事を前段では論じた。
それには、そもそも「青木氏以外」に“「存在する継承族の対象者」は「数十人」と成っていた事なのに、その「矢先の決定的な違い」が何処にあったのか”であり、従って、この数からすると必ずしもその理由付けの“天智系にしなければ成らない”とする「正統な理由」はそもそも無かった筈だ。
とすると、然し、実行したこの「隠れた原因」、寧ろ「隠された原因」が「白羽の矢の答え」であった事に成る筈である。
そもそもこの事は「伊勢青木氏」に執っては全氏族内に「求めない無いゴタゴタ・呼称する」を招くからである。
この「ゴタゴタ」を避けていた事は、公的でも、且つ、氏族内の記録としても史実として遺されているからだ。
それ故に大きく「青木氏の行動」に影響したのは確実で、その為に慎重に成っていた。
なので、これに関する以下の事等が、取り分け、前段で論じた「大口青木氏・日向青木氏の商いの前提」も、この少し後のやっとこの「ゴタゴタ」が治まった頃であった事から、未だ「慎重な行動」がこれらに関わって来ていたとするのだ。

後勘から観て比較すればこの頃の行動の様子が違っていて「違いの差」が直ぐに出て来るのだ。
それらの「違いの差」は、唯一点、925年から正式に自立し、1025年の総合商社にした「貿易と殖産の商い」から得られた「伊勢青木氏の財力」にあった事は先ず一つ目としては間違いはない。
これだけは歴史的にどの様に観ても「格段の差・財力の事」であった。
逆に、これが「白羽の矢の原因」と成った「称徳天皇期の弱点」と既に成っていたし、少なくとも速くても臣下族であった「伊勢青木氏の財力」で、「改善に向かう仁明期」、遅くても「改善した円融期」までは何処にも助けを求められなかった「朝廷の財政難」では苦しんでいた事は史実であったからだ。
つまりはこの「賜姓族の青木氏」に無理に矛先・矢先を向けたと捉えられる。
「白羽の矢の目的」がこの「財」にあったとしても全面的には無理であったとしても元々は「青木氏」に執っては「伊勢青木氏の財力・献納と貢献」は、「影の令外官の賜姓五役」からしても補助する程度の貢献は「朝廷」から求められる前の「氏族の前提・宿命・献納と具納程度」でも立場に少なくともあったのだ。
この様に「氏族の宿命」と「白羽のゴタゴタ後遺症」から離れたい心情の難しい立場にあったが、然し、先に結論から云うが前段でも論じた通り「天武系」の天下の中で「これ・天武系に取り込まれる事・財政的援助」を「天智系」であるとして拒んでいたこの「苦しい心情」から、その「仁明天皇・出自元との調和」と「円融天皇の青木氏賜姓復活」の「二人の解決努力」で救ってくれたのだ。

それで「歴史上の経緯」を元から考察して観る。
そもそも、先ず「行基和上・668〜749」―「鑑真和上・754〜763」の歴史でも知られる様に、「聖武天皇期」は「世の混乱期・政治経済軍事」で人は疲弊していて、其処からそもそも一連の事が始まった事だ。
最終的にこれを救ったのが要するに「上記の二人」であった。
つまり、前記で論じた「神道仏道の文化格式の違い」が生じ始めて、これを解決しようとした「新撰姓氏禄」でこの「違いの矛盾」を解決しようとしていたが、朝廷内に関わる範囲では完全に解決し切れていなかったのだ。
この中に既に「神道仏道を格式化していた元賜姓臣下族」として事で「伊勢王の施基皇子の裔系の青木氏」が巻き込まれていて、それが時系列や経緯から「前期の財の他」には先ず「白羽の矢に成った経緯の発端」の一つでもあった事にも成る。
それ等を「出自元の立場の保全を修復した仁明天皇」と、これを決定付けた「賜姓青木氏の仕来りを母方であった秀郷流の青木氏賜姓をした円融天皇」が救う事で、未だ「源氏賜姓」が在る中でも社会に公然と再び格式化したのだ。
これで当然の事として停止していた「大掛かりな献納と具納」は再び始まったのだ。
然し、この「二つの賜姓青木氏」は互いに「四掟での女系制度」を敷く事で、再び徹底して「天皇家に組する事」をしなかったのだし、「白羽の矢」の様に二度と組される事を出来なくした。
その上で「賜姓族」では無く「律宗族」として二人は位置付けたのだ。
この「二人の策」で「円融天皇」の直ぐ後の「花山天皇・968年から1008年」は、「円融天皇・960年」の「賜姓青木氏をした事」で、まぎれもなくこの「11代続いた源氏賜姓・律宗族にはしなかった」を中止した事に成ったのだ。
経緯から「円融天皇」に依って「四掟で結んだ秀郷流青木氏の再賜姓化」で格式化された為に“中止と云うよりは出来なくした”と観た方が正しい。

そこで、参考例として関係する事を時系列で始めから改めて纏めると次の様に成る。
飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。
「仏教の伝来伸長」で「国家機関と朝廷」が「寺や僧の行動」を規定規制して締め付けた。
そして「民衆へ仏教を直接布教することを禁止」していた。
この「禁令」を破って「行基集団」が出来限り禁令に抵触しない様に「世の難儀」を仏教で解決する「布教の集団行動」を形成したのだ。
先ず畿内(近畿)に民衆や豪族など階層を問わず広く人々にこの行動型仏教で説いた。
それは記録に依れば「困窮者のための布施屋9所」、「道場や寺院49院」、「溜池15窪」、「溝堀9筋」、「架橋6所」
以上の設立などの「数々の社会事業」を各地で成し遂げた。
「渡来人の職能集団」が持ち込んで自然普及させ、其の後に彼等の力を借りて行基らの草の根運動で仏教の土元からの伝播が広がりこれで更に蔓延する様に庶民社会に興った。

注釈として、この「行基の行動・749年没」の中に常に「渡来人の職能集団の頭の男」と、その「技能集団」が専門的な知識が必要とする土木工事に積極的に関わっていた事が記録から判っているが、この「男とその集団」は「施基皇子」と関わった「額田部氏・前段で論じた」では無かったかと考えているのだ。
この頃き、土木工事一切は三つの大集団で統制されていて、それが「第一の額田部氏」、「第二の結城氏」、「第三は和気氏」であった。
「伊勢青木氏」は「国造の差配」として独自に「青木氏部・殖産事業を進めた」を持っていたとあり、額田部氏と関わり乍ら「明治9年」まで続いた事が判っている。
「施基皇子の青木氏との関わり」や「仏教の関わり」から「平安遷都・出自元の山部王の桓武天皇794年」に同行する事を拒絶し、朝廷より排斥された経緯を持っていて一切の官位格式を排除されて「施基皇子」」がこれを匿った史実の経緯・後に破格の冠位を与えられ復する」もある。
従って、当に行基の事や額田部氏の事は当に同時期の事であり関わる経緯としては完璧である。
つまり、仮にこの「土木技能集団の額田部氏」であったとすると、前段でも深く関わっていた「施基皇子とその裔系」が浮かび上がる事に成る。
橋を掛けるにしてもそれに関わる人の糧とその資材の財源をどうしたかであり、必然的に「額田部氏」であれば「施基皇子とその裔系の商いの財源」と成ろうし、「大仏殿建立」としても「大財源」と「高度な技能と技術」が必要と成るは必定で、未だ「皇親族」であった以上は「施基皇子とその裔系の財源の援助」が先ず最初に宛がわれるのが当然の事と成る。
と成れば、その後の「孝謙天皇の頭」に浮かぶ「白羽の矢の矢先」は「流れ」としては何よりも目前で華々しい実績をあげていた「施基皇子とその裔系の財源」と向かうは当然の流れであろう。
これは大きな証拠に成るので研究している。
時期も完全に一致しているのだし、彼等を通じて「古代浄土密教」を信じていた以上は援助は先ず間違いは無いと観ている。
同時に「額田部氏」は平安京遷都に同行しなかったが、その後の「伊勢青木氏との経緯・施基皇子・716年没の裔系」も考えればこの理由も更に解けてくる。

この「古代浄土密教」に「施基皇子の青木氏・647年賜姓」は「賜姓族」でありながらも「職能集団の国造差配であった事」から強い興味を持っていて神明社を守護神としながらもこの中に居たのだ。
つまり、「朝廷の3度の新撰姓氏禄の発想」の元に成った「神道仏道の融合化策の原因」と成った「神道・神明社」と「仏道・古代浄土密教」の「格式文化」の狭間に居たのだ。
要するに危険な中に居た事に成る。
ところがこれが思わぬ「白羽の矢の原因」の一つと成って仕舞い「神道仏道の融合化策の根拠付け」をして仕舞ったのだ。
当然ながら、「元賜姓青木氏」もこの渦中には居たし、これには当初は「朝廷」から度々弾圧や禁圧を受けていた事が判っている。
ところが突然に「聖武天皇」から始まり最後は「孝謙天皇」がこの「神道仏道の融合化・神明社と清光寺」に舵を切ったという事だ。
これが「白羽の矢」を打ち出す為の根拠としたと論じている。
当時では最も「神道仏道の融合化」を実践していた為に、「伊勢青木氏の裔系」にこの「白羽の矢」を打ち出すには必要で「違い差」が出ない様にそれに合わしてこの「融合化策」を講じたのでは無いかと考えられるのだ。
これが「嵯峨天皇」に依っては賜姓族でありながらとして気に入らなかったのだ。
この考え方の違い差が顕在化して「桓武派と嵯峨派」に分かれて「出自元」が同じとする者等で「政治的な戦い」が始まったのだ。
だから特段に外す必要が無かったのに「皇親族と賜姓族」を外したのだ。
「皇親族」から追い出し「賜姓族」を外せば普通の氏族と成り得て「神道仏道の融合化の問題」は解決するからだ。
筆者はこの様に観ていて、故に、嵯峨天皇没後にこの「ゴタゴタの歪み」を解決し始めたのが「仁明天皇」であって、解決したのが「円融天皇」であってこの「二人」という事に成るのだ。
だから、「円融天皇の秀郷流青木氏」は「清光寺」に対して「西光寺」と云う事に成るのだ。

然し、この「行動型仏教の普及」が民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して急激に逆境を跳ね返したのだ。
その後、ところがこの余りの強い民衆の力を恐れた「朝廷」は止む無く「最高位である大僧正の位」を与えて逆に利用しようとしたのである。
故に、とりあえず「仏教の布教を認めた上で民衆への布教を禁じた」のだが、この最初の扉を開いたのが「行基仏教」が最初であった。
結果として、「民衆側からの行動」で求めていた朝廷の当初の目的の「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたのである。
その二なの行動の証拠として「聖武天皇の招請」により遂に「奈良の大仏と東大寺の造立」したのだ。
これが「天皇の意思の証」と成ったのだ。
以上の実質上責任者として招聘されここで「仏道」は正式に承認された形を執った。
この功績により「東大寺の四聖」の一人に加えら「行動型仏教普及の行基」は加えられ数えられた。
「仏道」はこれに依り完全に全階層には浸透した事を意味したのだ。
然し、当然の事として「朝廷内部」、取り分け、「天皇家の内部形態」は現実にはこの「神道仏道の合体・習合」に追いついて行けなかったのだ。
「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたとして、それ故に「同線上に存在する事」に成った「賜姓青木氏に白羽の矢先」を向けて近づこうとした「理由・根拠」の一つと成って行ったのだ。

さて、「白羽の矢の理由の背景と成った経緯の検証」はここからである。
「孝謙天皇」は「吉備真備の補佐・過程を熟知していた」を得て、この時の皇太子に成る過程を経て前代未聞難しい立場の天皇に成るのだが、其処に賜姓を授かった「伊勢王の施基皇子の裔系」は「朝廷の部経済」を進める為にの朝廷に代わって「商い」を営み始めたのだが、それ故に「伊勢青木氏/施基皇子」に関わる問題に関わって来るのだ。
この事で判る様に、「聖武天皇の上記の大仏殿建立」で二つの事が興った。
「拠出金での朝廷の財政難」と「仏教徒全階級の民衆の力を使って寄付等」での建立であったとされる。
その為に、仏教に帰依する著しく庶民の力が強く成ったのだ。
此処にこの「天皇継承問題」が絡んで仕舞ったのだ。
天下の最大事でもあるこのの「天武天皇系継承の正統性を担保する事」が出来ない程の事が興り、「天武系の称徳天皇期の弱点」ともなり「思惑通り」には運ぶ事が出来なくなったのだ。
その現状は“朝廷には「財力」は無く「借財を前提」として、そこに付け込んだ「藤原仲麻呂」に牛耳られて、当に術なく「藤原朝廷」と成り「無力」であった。”のだ。
それがその前の「藤原系外孫王の淳仁天皇・天武皇子の舎人親王系」の「出現・廃帝事件」で当にその危機に落ち至っていたのだ。

そこで「慌てた称徳天皇」は「財政問題と仏教勢力浸透」の「二つの難題」を先ずは「先送り」にして、先ず先にこの「系内の外孫王天皇」でさえも廃帝し、淡路島に島流し抹殺してしまう程の慌てぶりの策を執ったのであった。
「系内の南家外孫王と云えど正統性を主張する持ち主」であったが「財政問題と仏教勢力浸透と藤原氏の天皇座の乗っ取り」との「三つの難題」は「継承問題以上の事」と成り得ていた事が判る。
ではどうするかであって、「同系の外孫天皇の廃帝」までしてこの「三つの問題」を一挙に解決するには
要するに「本題の白羽の矢以外には無かった事」に成るのだ。
如何にも論理的にはこれで解決する。
後は「慌てた称徳天皇」がこの「三つの事」で「固辞していた主張・天武系」を取り下げる以外に無く成って仕舞った事を示しているのだ。
筆者はこの「考え方を変えた行為」が「表向き行為」は公式非公式で何度か行った「称徳天皇の伊勢神宮向行」であったと観ているのだ。
同じこ事として「嵯峨天皇時の平城上皇との揉め事」の末も「伊勢神宮向行」で治めているからだ。
当時ではこの「伊勢神宮向行」が説得の一つの手段と成っていたのでは無いかと観ている。
「伊勢神宮向行」は要するに「伊勢青木氏との治め方・納得のさせた方」であったのであろう。
上記の全ての経緯を承知・熟知しいた「吉備真備の指導」で取り下げたと観られるのだが、この「称徳天皇白羽の矢策」は実質はそれ故に戦略的であり「吉備真備の白羽の矢策」であったろう。
朝廷内は不満で在ったろうが後に朝廷の三つ苦境をすくうのは一応はこの「白羽の矢・財の意見」で纏りを見せさせこれで解決した様であったが、問題は「伊勢青木氏内」に持ち込まれ移された事に成って、「光仁天皇と嵯峨天皇の出自元への反発」で生まれた上段で論じた通りであって、これが「約200年近くも伊勢青木氏内での揉め事・ゴタゴタ」と前段でも論じた様に変化して変わる事と成ったのだ。
実はその範囲が四家の宗家だけではなく研究過程で見直して観ると、「女系氏族」の「青木氏の氏族の伊勢郷士衆内」でもこの「ゴタゴタ」が持ち込まれていて、その影響が出ていた事が最近判った。
どんな形にせよ相当に「天皇家・朝廷に関わる事に反対意見・女系の意見」があった事に成る。
それが前段でも論じた様に「難波王」や「美濃王に嫁した浄橋や飽浪ら」の意見と成って現れていたと考えられる。美濃の源氏化も然る事乍ら、「浄橋や飽波」が一線を課して美濃で「一色一族」として独立して行動した行為などもこの事に由来していると観ているのだ。
要するに、これは「施基皇子の戒めの青木氏氏是を護ろうとした意見」であったと考えられる。

「同系の外孫王を否定する位の正統性を主張する主」が、「天智天皇・38代から48代の10代目の事・100年目の事」であるとすれば、定説として称徳天皇が突然に「天智系」に主張を変更しているのは全く考え難く、「朝廷大儀」として「何か正式に云えない理由があった事」に成るだろう。
それが「天智系の施基皇子の裔系の財力」にあったと説いている。
朝廷は然る事乍ら「天皇家」として「財を表向きに理由にする事」は出来ないであろう。
「天智系のより上位で正統なの継承対象者」は上記した様に「近江川島皇子・近江佐々木氏」を始めとして大勢いる中である。
但し、「嵯峨期の詔勅」でも「賜姓」を「源氏」とするが、その替わりに「指定する皇位族」としてのあるべき「慣習仕来り掟・格式・9つの縛り」を定めたのだ。
「源氏の権威付け・格式化」を策したのだが全く守られなかった。
「詔勅の中」に明確に記されている様に「財の裏付けのない賜姓」が無いのではそもそも生きて行く事さえも出来ない皇子たちには無理であろう。

更にこれに、即ち、「格式」を与える為に「中国の仏教戒律」を取り入れて「十誦律」に似たものにしたとする資料説もあるが、兎も角も「九重戒相伝・通称9つの縛り」として「嵯峨天皇」は「縛り」を「賜姓源氏」に加えたのだ。
然し、「11賜姓源氏」はこれをも一切守らなかったのだし守れなかったのだ。
其れは寧ろ、下記の理由で守れなかったと云えるだろう。
それは、「源氏族の直接武力」と「青木氏族の間接抑止力」にあって、「源氏」には「九重戒相伝・通称9つの縛り」と「直接武力」との間には「論理的な大矛盾」が生まれていたのだ。
因みに、「摂津源氏・頼光系だけ」がある程度これを「四家の範囲」で護れたのは、問題の「直接武力・藤原氏の力を借りた」は「朝廷の借物」として「考え方の矛盾」を解消させていたのだ。
ところが引きづっていた問題が後の「嵯峨天皇の計算・思惑」は狂ったのだ。
更にこれでも未だ事の治まりが着かず結局は、武力を持たさない為に「財力を与えない賜姓族」とするとして詔にこれを明記して折衷したのだがこれも守らなかった。
結局は、この「無視の緩み」で「賜姓源氏」は「11流11家」も生まれたが、何れも格式を有する事は出来なかったのだ。
何れも要は「源氏化の問題・青木氏から観れば財の問題」もこの「財」に在ったのだ。
「嵯峨天皇の苦境」の「対策の九重戒相伝・通称9つの縛り」は「格式化の効」を全く奏しなかったのだ。
源氏化は「財」を担保しない「格式化の苦境策」は当然の事で「縛りの保全」どころか武力化の方に向かうのは必然の事であったろう。
兎も角も、つまり「後勘」から観ても裏付けられる。
この「嵯峨天皇の格式化の苦境策」にはそもそも「根本的なもの」を忘れていたのだ。
それは、「最大最多の格式の象徴」の「神明社の伝統・律宗族とその裏打ち」を忘却していた事に成るのだとして故に「青木氏の資料・先祖・氏是や家訓など始めとして」では周囲の圧力には抑止力でにげその抑止力を担保するのは「財と四掟・女系で秀郷流一門で繋がる。
この結果として「賜姓秀郷流青木氏等の武力で抑止力」にあるとして、これを護る事を「青木氏の戒め・氏是とか訓と四掟の女系制度」として解いているのだ。

追記として、本来は「十誦律」とは、中国仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた「中国律書」の一つで、他に「四分律・五分律・摩訶僧祇律」が四つがある。
然し、日本ではこれ等の戒律を“「仏界」”にだけに留められず、咀嚼させ変化させて「高位族側・臣下族の朝臣族18氏」」にも利用伝統化させていたのだ。
その例の一つが、これが“「青木氏の家訓十訓」”に代表され咀嚼されて遺されたものだ。
“「青木氏の家訓十訓」”には、「奈良期の生い立ち」の「伊勢衆の氏族」の「商いと青木氏部の影響」を受けての考え方が色濃く滲んでいる様だ。
ここにも忘れては成らない歴史的経緯の「律宗族の格式化の名残・伝統」を持っていたのだ。

この代表的な立場が「天皇家を想起させる賜姓族」では無く「伝統の律宗族の所以」の故を以て、「皇位臣下族の朝臣族18氏」の「最高位の中」には入れずに、「武力を背景とした事・9つの縛り」を護らなかった事から永代に「源氏族」だけは、“「単なる朝臣族”の区分け」にして「身分格式」を留められて分類されて仕舞ったのだ。
それも、「源氏族の始祖とも成る嵯峨天皇」の「新撰姓氏禄・過去の二つの氏禄あり」に依って皮肉にも正式に決められて仕舞ったのだ。
止む無くその代わりに「仕掛け人の嵯峨天皇」は、「賜姓」は、「青木氏」を辞めて、「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」があれば、「青木氏を名乗る事」を「詔勅禁令・争いの末の妥協案・その後に仁明天皇と円融天皇は修正している」で許したのだ。
その場合にも「賜姓青木氏に於ける慣習仕来り・9つの縛り」を護る様に求めたのだ。
然し、「賜姓源氏」には矢張り武に頼り当然に守られなかった。
その証拠に平安期初期には、例えば“「島左大臣」”等の様に「公家の三代目の裔・天皇家と外戚の藤原氏」は、殆どはこの「身分格式の伝統」を重んじてこの敢えて「源氏」を名乗らずに態々“「青木氏」”を名乗ったのだ。
これは「武」では無く「財と格式・伝統」に周囲は求めた何よりの証拠であろう。
これが「伝統を護らない源氏」に対しての「公家である事」を重んじた典型的で代表例である。
要するに、「公家から低く見られがちの財」にあったとしても「公家」から青木氏族が出て、「公家」から「より低いとしていた「武の源氏族」は発祥しなかったのだ。

注釈としてこれに関連して何度も論じている事ではあるが、この事に類する事として敢えて思起こす具としてここでも述べる。
この寧ろ「源氏化」でその系譜を可能性があり搾取していた立場にいた筈の「武蔵七党の丹党の青木氏」には、「配流者の多治彦王の裔説・イ」と、「島左大臣の裔説・ロ」と、この「二つイロ」を組み合わせた系譜偏纂裔説の「三つの青木氏」が存在するが、「島左大臣の裔説の青木氏」は丹党とは歴史的因果関係が無く別である。
そもそも、「坂東」に配流された若い罪を犯した「多治彦王」は、3年後に京の都に既に戻されていて、且つ、若くて子孫を遺しえる能力を未だ持ち得ていなかったし、「彦の呼称」が示す通り青木氏を名乗れる「四世族内の王位」ではなかった事を示し、「配流の重罪を得ている事」からも「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏を名乗れる立場」にはそもそも無かったのだ。
念の為に、“「彦」”とは「未成年・15歳以下」を指し、「彦」は「神道」が使う呼称であって、「王」のそのものは「四世族内の皇位族の者」でも無かった事を示すのだ。
依って、そもそもこの「彦」と「王」の「二つを連結させた呼名」が先ず問題なのだが、「彦の段階」の年齢では「王位」にはそもそも未だ成り得ないのだ。
上記の通り「彦」はそもそも「神明社の神道系の呼称用語の忌名」であって、且つ、「皇位族=神明社の者」の中に無い者であり、そもそも「慣習仕来り掟の矛盾の疑問」が余りにも多すぎる。
更には、この「二つを組み合わせた系譜偏纂裔説」にはあり得ない事があって、その「丹党が示す系譜」は「繋目」で終わっているのだ。
「武蔵七党の国衆の丹党」が「関ヶ原の戦い」で摂津藩を取得した際の「江戸初期の国印状取得での搾取偏纂」である事には先ず間違いは無い。
但し、「島左大臣の裔説」の「青木氏」に関しては正統であるが、その裔の詳細な行方は未だ判らないが、「左大臣」とも成れば「京の公家中の公家」の中に存在していた可能性は充分にあり、「近江青木氏との判別」が付かなく成っている可能性もあるし、明治期の公家の「東京への移動」で「武蔵青木氏との判別」が付かなく成っている可能性がある。
他に、「橘の諸兄」の「宿禰族の橘姓賜姓青木氏」はあるが、そもそも「宿禰族」は「青木氏」を名乗れる資格は無いが、「諸兄の母」の「三千代」は後に「藤原不比等」に嫁し、後の「光明皇后」を産み、結果として「青木氏を名乗れる所以」を得たのでこの「橘氏系青木氏」は「正統・現存」である。
「橘系青木氏の子孫」は大きく遺してはいないが「橘紋」を有し現存する。
この橘氏も青木氏族に成ったが間違いなく源氏化する立場・格式にいた処を源氏化はしていないのだ。
これは「財と賜姓の青木氏」に執って何を意味しているかである。
少なくとも「河内源氏の鎌倉期初期」まででも「武の源氏」より「財と賜姓の青木氏」の方が、実質は「財と伝統の青木氏の方」が上位に扱われていた事を意味し、滅ぼされず「伊勢と信濃」は「奈良期末期の元を本領安堵」されている事もその「財の青木氏の証拠」であろうし、室町期は求めずとも「律宗族の扱い」で正式に「幕府と朝廷」で態々認められているのもその証拠であろう。
筆者は、この上記の証拠事例の様に「孝謙天皇の白羽の矢」に限らず、後勘でも「財の青木氏」>「賜姓の青木氏」の図式は重く捉えられていて、その上でもこの格式は認められていて「周囲・社会全体」は認めていた事を示していると観ているのだ。

他には実際は「甲斐で大きく子孫を広げた時光系青木氏」もその「嵯峨期詔勅が求める証拠」と成り得る物を有していないが、一方で「嵯峨天皇」は「皇子・嗣子の一人」に、「源氏の賜姓め・峨源氏」とは別に、「薬子の変」の「争いの別の収拾妥協策」として、「甲斐青木冠者蔵人・遙任」の「官位・税務担当」を授けていて、「賜姓同等の仕来り」として「9つの縛り」を護らせようとした史実が存在する。
この「裔系の甲斐賜姓青木氏」は、「清和源氏頼信系河内源氏4代目」が同じ「甲斐冠者」に任じられ、以降10代目に遂に「甲斐守の守護」に任じられていて、「11代目・源光」がこの「甲斐青木冠者蔵人」の「家の跡目」に入り「源光系青木氏」が誕生するのである。
唯、確かに「源光」は「源氏隆盛時」の「河内源氏」であったが、態々、「源氏」から「甲斐青木冠者蔵人」としての「律宗の伝統」を護り続けた「異色の青木氏」である。
この事も見方に依れば「武の源氏」より「財の青木氏」の方をげんじそのものが重視していた証と成るだろう。
この「源源光」は「源時光の弟・異母弟」であるが、「源氏化」で敗退して衰退して、「信長の甲斐凱旋時」の「出迎え」に出た時、この「律宗の伝統儀式」に則り「白馬白衣の乗馬姿」で「信長の反感」をかい、その時、「酷い暴行」を加えられ「信長家臣の制止」と説明で何とか留まった史実があるが、その後は「甲斐の山奥・北巨摩郡」に押し込まれひっそりとその余生を過ごし後絶えた。

「円融天皇の青木氏賜姓復活・母方秀郷一門に」にも拘わらず「室町期の経緯」では、上記の事が影響し、遂には「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」として、偽の「脇差・短刀」を持ち出して、その裔であるとして名乗る者まで出て「搾称」が頻繁に出たのだ。
中には、上記した通り「平安期の公家・彦」等の「皇位族の配流罪人」が一時坂東などに配流された事を以て、記録から探しだしてその時の裔であるとして「朝廷の承認無し」に勝手に名乗った者も数多くいる始末と成った。
故に、平安期末期では名乗ったもののこれ等の食い詰めた「青木氏の裔系」は、結局は「近江佐々木氏」や「近江青木氏」や「美濃青木氏」や「甲斐青木氏」に雪崩込んで家臣化して生き延びたとされているのだ。
これを「鎌倉期末期」まではこの「慣習仕来り掟」もまだ多少は護られていたが、「下克上」の起こった時期の戦国時代では最早無理であった。
故に、これを留める為にも室町幕府は「律宗族の明確化の所以」と走ったのだ。
この「室町期・足利氏・河内源氏の卑属」と、「姓族の国印状取得」の「江戸期・徳川氏・第二・第三の族」の発祥では、最早、意味の無いものと成って、挙句は「第二次の系譜搾取」までに至り、「氏族に関する制御」が効かず横行したのだ。
つまり、これはそれだけ乱れていても、この時でも河内源氏の室町幕府は「財の持つ律宗族」でも「青木氏を格式化しようとしたと云う事」に言い換えられるだろう。
当然に、これは自らの格式化を「青木氏の律宗族」を対象にして「源氏・幕府の格式」を浮き上がらせようとした事は間違いは無い。

但し、江戸初期に「源氏族」に属さない「徳川幕府」は、流石に「伊勢の事お構いなしのお定め書」にしている限りである。
そして「青木氏の搾称を禁じる令」が出て、これ等に対して「葵木、青樹等に変更する事」を「幕府・大日本史以降では「第三青木氏として命名・別枠にしている」は命じたのだ。
「律宗族の所以・格式権威の保全」を以て「追認の形」であったが、ところがこれに「大反発・旗本」し、「伊勢の事お構いなしのお定め書」や律宗族の格式は無視」は享保期には幕府も同調し青木氏を潰しに掛かったのだ。
これに「伊勢・信濃青木氏は大影響・聖域を奪われ殖産を奪われる・影の戦いの寸前まで陥る」を受けながらもこの旗本の行動・旗本に遣らせた」を認めたのだ。
「青木氏族」が好まない侭にしても「律宗族の反面」としてのこの様な経緯を持っているのだ。
然し乍ら、前段でも論じているが、「嵯峨期詔勅の青木氏を正統にして名乗った氏」は結局は「数氏」に留まり、現存し子孫を大きく伸ばしている。

さて、この様にして「更に律宗族を追認した・賜姓と同じ意味に成る」室町期では、「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏」の「搾取偏纂」が横行し始めていて、「嵯峨天皇の施策・新撰姓氏禄」は後に「律宗族の混乱」を著しく招いた結果と成って行ったのだ。
その意味でも、室町幕府が出した「浄土宗白旗派を以ての律宗族の追認」と、「朝廷の正親町天皇の追認」と「江戸幕府の青木氏の使用禁令」と「伊勢の事お構いなしのお定め書」があって、「律宗族・青木氏族・賜姓」を確定させ明治9年まで何とか護られたのだ。
これが幸いにして「律宗族の所以」を以て側面からも「青木氏の四掟の範囲と成る根拠」とも成り得たのである。
流石に、この経緯は明治35年頃から大正14年頃ではこの「律宗族の所以」は次第に無く成り、その代わり「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていたと記されていて「口伝」でも伝えられ、筆者も昭和の初め・20年頃の幼い時に未だ聞いた事がある。
要するに、この「律宗族の認定」は上記で論じた「宗教力の格式論説」と「青木氏の再格式論説」であったと観られる。
これには「青木氏から仕掛けたとする抑止力の説」、つまり、「青木氏の再格式論説」も上記で論じたが、この経緯から観ると「仕掛け説」は考え難い説と成る。
「賜姓族」にせよ「律宗族」にせよ「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていた事にせよそこには確かに「奈良期からの古式伝統の維持」の古氏族の前提があったが、それが明治9年まで続いたがそれだけ長く続くにはそこには「良い意味」での「殖産の財の影響」は垣間見えるのだ。
「奈良期からの古式伝統の維持」の前提だけでは到底無理であったろう。
その「認められた財・朝廷も認めた民に幸せを与える殖産の財」は「地域に影響を強く与えた殖産」にあった事には間違いない。
「白羽の矢」の時に、特に「朝廷の貴族や官吏等の反対」を受けなかったのは、この氏是と家訓に裏打ちされて実行されている「民に幸せを与える商い・殖産」で在ったからであり、「武」より低く扱われていた「唯単の商い」では無理であったろう。
だから「室町幕府」も躊躇なくこの「律宗族」を自発的に認め「朝廷」もこれに追随したのだ。
それだけに「氏族も関わる認められた財に溺れる事」なく上記の経緯の通り珍しく「伊勢と信濃の氏族」と共に生き遺れたのであろう。
この様に「後勘の経緯」からもそれを物語り「白羽の矢の疑問」は「財の前提に在った事」は疑う余地はない。
この「律宗族でも財の前提に在った事」は、前段でも論じたが、「旗本の範囲・藤原秀郷一門の近習御家人衆の旗本は律宗族を肯定」がこれを否定し吉宗が黙認する事件が「伊勢と信濃」で起こり、それが皮肉にも「江戸期享保期末期・吉宗の享保の改革」までであろう。
唯し、「紀州藩」だけは飽く迄もこの「律宗族・財の前提に在った事・手紙の中の文面での資料で遺る」」を擁護し、それが体制が一変した「明治9年・実際は資料から大正14年まで姿勢を貫いた」まで正式に緩やかに西側では続いた事に成るのだ。


上記の「律宗族論」は中断して大きく元に戻るが、論は跨るが、故に、「源氏の論」として「前段の論」で論じ遺した件の追論記として、此処で論じて置く。
「美濃の駿河青木氏の論」である。
この「山城の河内源氏との絆の所以」が、「河内源氏」が「律宗族」で無いと成るならば、「松井氏に関わる河内源氏説」は無くなるのだ。
現実に「八幡菩薩・八幡神社の習合の守護神」であり、「祖先神の神明社の守護神」にして「臣下族と特定の公家」が必ず帰依するごく少数派で構成する「浄土密教の白旗派」ではそもそもないのだ。
「決定的で最大の歴史観の差異」なのである。
これを敢えて違えて、或いは知識不足の歴史観で論じているものが実に多い事に注意する必要がある。
そもそもそれどころか「摂津源氏が存在する処の山代」に、「嵯峨期の9つの縛り」や「律宗の掟」も一切護らなかったどころか、「武力」を主体とする「河内」に「追放された河内源氏」が存在する所以も確かによく見かける説ではある。
然し、これは間違いなく「系譜繋合わせの系譜搾取偏纂の証」であり、歴史観として其処までそれを許す程に「朝廷と公家と貴族と規律を求めた社会」ではなく緩んではいなかったのだ。
殆どは後勘の世間,又は当時の世間の歴史観の低さを見抜いての搾取偏纂であって、そもそも、歴史観として当時の「掟・律」では、「河内源氏・満仲の隠居罪や頼信の放免罪」の様に「罪を犯した者の一族」とその「罪みを得た族」は、“「誅族」”と呼ばれ“「三族の罪・永代の罪?
9」”をそもそも課せられていたのだ。
それ故に、「河内源氏」は「縛りをある程度護った摂津源氏の周辺に存在する事」がそもそも無く、「冠位・官位・官職」のみならず「婚姻」すら「三代・義家義光まで」に於いて正常に許されなかった考証と成るのだ。
「摂津源氏の律宗の縛り」もこれでは無くなるどころか次の歴史観の様に「河内源氏と摂津源氏の事の歴史的始末」も無く成って仕舞う事に成る。
“「摂津源氏の以仁王の頼政の令旨」を以てその跡を引き継いだ”として「9つの縛り」を護らなかった事を理由にその資格なしとして扱われ譲らなかったのだし、後に既成の事実を造り上げた事で朝廷は止む無くその代わりに「右大臣左衛門大将の冠位」を与えて「西の朝廷」の「許し」を何とか得て、「東の府・朝廷の出先機関」を築いたのだ。
そもそも、その「幕府とする呼称の記録」は決して正しい歴史観としては無いのであって、飽く迄も「武士団を統制する東の府・朝廷の出先機関」としての認可であったのだ。
当時は、「格式や冠位授与や信賞必罰の大権」はあくまでも「西の朝廷」に任され、この「東の府」は「武士や御家人」を「統制する府」であるとして呼称され任じられていたのだが、最終の「東の府」の勢力が及んだのは「東の府」の「執権」と成った「北条氏」の鎌倉末期頃である。
この「正しい歴史観」は、正式には「頼朝」がこの「西の朝廷」から「右大臣左衛門大将に任じられた事・征夷大将軍では無かった」でその権を以て始めて「東の府」と正式に成ったのだ。
この「冠位に叙される前の初期」は「9つの縛り」をある程度護っていた事からその「資格」はあるとして「摂津源氏の頼政の代理人論」として「東の府」を開くとする前提にしていたのだ。
然し、この時、西には「東に属さない武士団」と「官吏から武を獲得した勢力集団」が未だ多く西域に居て「東の府の勢力」は及んでいなく「西の朝廷の支配下」にあったのだ。
然し、ところが「西の朝廷」の許可なく勢力の及ぶ範囲・東の関西域まで「守護職と地頭職」を勝手に置いて「東の府の政治体制」を敷いたのだ。
歴史観としては、「江戸時代」に成っても上記の通り「西の朝廷」と「東の府」の関係性は全く変わらなかったのだ。
故に、「徳川氏・松平氏・下野土豪得川氏の出自」で「源氏族」では無かった事に依り「武士の棟梁」の「称号」は「宮廷の壁」が崩れるまでに「経済的な圧力」を掛け続けた末に、流石に頑として得られず最終は「武士の頭目・実質統治者である」としての「妥協案」で決着が着き「関東の府」は成立したのだ。
「正しい歴史観」は飽く迄も「幕府」では無く「武の東の府」であってものなのだ。
この「徳川の府」は、そこで「古来からの西の武士の集団」を壊し、「西と東の入れ替え」を図って統一して統制できる様にして、「府としての態勢・東の府だけではなく成った事に依り自ら「幕府の呼称とした」を整えたのだ。
だから、「朝廷の認可」を前提とすれば「幕府」で無かった事に「徳川慶喜」はより正しく伝統を護り「府の政権・政権奉還で」を朝廷に返還したのだ。正しくは朝廷に代わり「全ての信賞必罰までの政権の「幕の府」では無かった事により政権奉還として済んだのだ。
故に、この様に「正しい歴史観」としては「西の朝廷」は、記録を探して観ても飽く迄も「・・幕府の認証」を正式にはしていないのであって、故に「・・幕府の幕府の呼称」はそもそもないのであり、「徳川氏の府」が「全国の政治体制」は整ったとして勝手に「幕府として呼称した事」に成っているのだ。
恐らくは、故に、その「河内源氏の頼朝」が「鎌倉の府を拓いた所以」から、それを利用した「江戸期の武士への国印状取得の系譜偏纂の搾取・府は武士だけに国印状は出せる」ではあるが、そもそも、最早、“律宗族では無い“として、「河内源氏の頼朝」東のは開府に際しては「朝廷の認可」は降りていず、止む無く「以仁王の乱の主導者の摂津源氏頼政・三位」の「継承幕府・頼政戦死の代理人」として「朝廷の府認可」を取得した史実としての歴史的経緯を持っているのだ。

注釈として「武士外の庶民」は“全て武士の統治下にある”としてその前提として平安期までの習いとして「武士の政治の支配下」と成るが「徳川の府」は故にこれを「農工商・対して意味が無いのに」と態々階級付けして分けて類似させた体制にする事を明示させたのだ。
前段でも論じたが、この体制は「施基皇子」が「伊勢王」と成った奈良期の時にも「土地」と共に「伊勢の民500戸の民」も朝廷より賜っている。
これが、「平安期までの体制]として続いたのであったがこれを江戸では再び明確に仕手詳細化させて採用したのだ。
この事には「朝廷」はそれまでと違ってより「昔の制度に近づいたとしてその採用」に対して「大きな好感」を持ったと考えられる。
要するに「徳川の府」を「江戸の府・江戸幕府」として「より黙認する姿勢」をこの時より採ったのだ。
「正しい歴史観」はこの前提下にあるのだし、故にこの別枠として特段に「律宗族の位置づけ・源氏の否定」は「重要な格式を持っている事」に成ったのだ。
この時から、それまでは使い分けして主に「源氏の朝臣」と名乗っていたが、今度は「藤原の朝臣」を名乗る傾向が強くなったのだ。
徳川氏と同然に「主だった格式を重んじた武家」もこりに準じてその系譜の成否は別にとて、どれと云う風に決めずに状況に応じて「源平藤橘の裔」として使い分けていたし、それに対して周囲は自らもそうである事から異論は唱えなかった社会気風が出来上がっていたのだ。
記録を観ると、その中でも「徳川氏・家康」は「府の頭と云うは立場」もありこの傾向は特に激しかったのだ。
だから[室町期の戦乱」に乗じて「農民庶民・武士の約8割」から伸し上がった者等の゜武家とする末端」まで「黒印状制度」で格式化させて真偽は別にして「系譜づけ提出・寺や神社の専門業者が横行」を先ず条件にして制度化したのだ。
その意味で、こんな中でも「正統な律宗族」は特段に「周囲から目立った環境」が室町期より成立したのだし、これが上記した様に「「農民庶民・武士の約8割の旗本」の「根強い反発・145年間」を招いたのだ。
この「反発」の中には「律宗族を構成する郷士衆の氏族・武士では無いとする否定の反発」で僻んで歴史を否定するまで揺り返して来たのだが、然し、これも旗本側の反発は不利として引き下がった史実がある。
最終は、前段で論じた「享保期・吉宗」の「伊勢青木氏は江戸伊勢屋の引上げ」と「信濃青木氏の聖地没収と殖産の奪い取り事件」で「収束・紀州藩が擁護・旗本と吉宗は手が出せなくなった」を観た経緯と成ったのだ。

西の朝廷」は上記の経緯の様に「思いの方向に向かう「江戸の府」に対してこの事でも更により好感を持つ様に成ったのだ。
これ等の積み重ねで「朝廷の承認」を必要とする「幕府の呼称」に対して「西の朝廷」はより黙認する事と成ったのだ。
「西の朝廷」が反対をし続けた「源氏の呼称・源氏の棟梁より頭目に格下げ」で反対を解いたのだが「藤原朝臣の名乗り・事実では無い」で事実上の大儀が得られ解決したのだ。
古来より「藤原の朝臣は「朝廷の摂政」である事から「朝廷の臣・朝臣」であるとすれば「摂政」は可となり「幕府の黙認の大義」はこれで成り立ったのだ。
そして、その「藤原の朝臣の根拠」を「東国の藤原秀郷流一族一門」をごっそりと「御家人衆」として「家人衆旗本の位置」に据えて、それも「江戸の府の官僚族の扱い・実際に上級事務官僚を務めた」としたのだ。
そうなれば、その「頭目であるとして妥協策」で許された「徳川氏」は成否に拘わらず「朝廷の藤原朝臣族とする根拠」が生まれたのだ。
「西の朝廷」はこれを以て否定する事が出来なく成ったのだ。
他にもあって「格式」を決定づけた「嵯峨期の9つの縛りや新撰姓氏禄の制定」に対して「武家諸法度や公家諸法度の制定」で「西の朝廷の思惑」に「同じ政治歩調を合わして実施していると云う印象」を醸し出して強化してこれに合わして「幕府呼称の黙認」を完全に引き出した「江戸期の経緯」と成ったのだ。
然し、「鎌倉期と室町期の府」にはこの「政治歩調」は無かったので「単なる武士への行政府」に成ったのだ。
最早、「江戸の府」に対してこれ以後は「西の朝廷」は何も言えなく成ったのだ。
この時、前段や上記で論じている様にこの「妥協の政治歩調」に対して「三河御側衆の旗本の反発・律宗族の伊勢と信濃はこれでトバッチリを受ける」では猛反対をしたが押し切られた経緯の歴史観と成ったのだ。
この「旗本の不満」は独自性が強く幕末の後々まで引きずられた経緯と成ったのだ。
「妥協の政治歩調」に関して研究すると「奈良期から平安期までの政策」と見比べてみると「江戸期の政策」には詳細は別の論とするが確かに「類似性」が多く観られるのだ。
念の為に「農民の立場」からであった事より搾取で脚色する事は出来ず直接に「豊臣とする朝廷の格式」を得た「豊臣秀吉の政権」は「自らを金品の献納」で「武家貴族・公家族の格」を獲得して「政権の前提」を強引に構築して「摂政の立場」を造り上げたので論外である。
この事に「西の朝廷」はより他の二つの府よりもより好感を持ったと考えられ、「江戸の歴史観の根底」にはこの様な経緯が流れていた事を知って置く必要があるのだ
これで「上記の源氏に関する疑問点の解消」はこれらの史実に基づく歴史観で出来るので、以後、再び論はどれだけ「正しい歴史観」の下で論じるかであって、それ故に「bの疑問のより正しい歴史観の解消」の為に次のその所に戻す。


「額田青木氏と駿河青木氏の論の追記」
故に、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
何故ならば筆者には「駿河青木氏」の「桶狭間の参戦期」に合わしての経緯の歴史観が気に成るのだ。
これの「関わり」を「青木氏の歴史」を遡って検証して置く必要があると思う。

上記の格の如しで「源氏説」は成り立たないので、「青木氏族の二つの氏族」は、「摂津源氏」でさえも「四掟」で関わろうとはしなかったのである。
だから、「松井氏」では無い事は判るし、当然に「河内源氏に対する「正しい歴史観」は、当時の歴史観には未だ社会に遺されていて、この「松井姓」も「当時の一般常識」としてこの事は知ってはいたであろう。
然し、「松井姓」に関しては明らかに「青木氏族との四掟の範囲・律宗族の所縁」では無かった事が判る。
それは,真偽は別として、「山城や近江」は古来より「天領地や公領地」であり、従って其処に隅管理する者はその“御家人としている事”であり、このでも判るが、然し、筆者は、「源氏や御家人」は別として、「日野―松井―摂津の地理的往来」から来る「所縁優先説・近江鉱山とそれに関わる殖産ルート」ではあったとしその説を取る。
最低限、「二つの青木氏一族」が「律宗族」であり得ていたのだから、その恩恵を受けている「近江の松井の庄の者等」はこの事を知り得ていただろう。
まあ何れにしても「駿河水軍」を基にして復興を遂げた「駿河青木氏」が「遠州の国衆」に成り得た所以は意外にここにあったのだ。
筆者は当初、「伊勢青木氏」と「駿河国の藤枝の秀郷流青木氏」の連携によるものとして観ていたのだが、「遠州の国衆に成り得る為の直接的な繋がり・今川氏」のここの「詳細な解明」に時間が掛かったのだ。
まさか“「今川氏の家臣」に成っていた「松井姓・本流」にある”とは考えなかった。
参考として、この「松井姓の本流」は「桶狭間」で完全に滅亡した史実があり、それでもこの僅かに遺された家族の「分流族・卑属」は伸長し“「徳川、武田、今川」”の三方に生き遺り分裂したと記録にある。
この事が「決定的な重要な検証要素」である。
結局は、「今川氏の家臣」からその分流卑属が“徳川家臣と成った要するに「近江の流れの者・松井氏」”が江戸期には、戦国の世でも無いのに何故か「3000貫≒7500石」を獲得し、それも「旗本の大身」を獲得すると云う事に成るのだ。
然し、同時にここには「青木貞治の裔系の運命」と同じである。
ここが解明できなければ「詳細経緯」の「青木氏の正しい歴史観」として前には進めなかった。

さて、そうすると上記の事から、「Bの疑問」であるが、筆者は、先ず、桶狭間後に、衰退しながらその中で「松井姓の家臣・今川氏」であった者等の分流卑属が、其の後に“「徳川、武田、今川」”の「三方」に分裂したが、その最大の原因の一つが、つまり、余りにも徳川氏からの扱いの「この事・3000貫≒7500石と旗本の大身の理由」にあったと観ているのだ。
「三つに分裂した」のを纏めて結局弱小な徳川氏側に靡かせたこの「戦略的な功績」に在った事が判ったのだ。
そうするともっと云えば、「一つ目・イ」は、三つに分かれた中で“何故、徳川氏・松平氏であったか”と云う事に尽きる。
未だ「弱小の松平氏」に着いたのだ。何故かである。

その前に、この事に関わっている事がある。
この後の「三方ヶ原の戦い」では、この「状況の中」で「松平軍の本隊」と共に「松平の国衆」に属し、「青木貞治隊・200」は主将を失う程であったが、ところがその「子孫・一族」は滅亡する筈の処が不思議に多く生き残っているのだ。
然し、これは先ず何を意味するかでありこの「重要な経緯」を説いて置く必要がある。
さて、では“何かの手立て”が無ければこれ程に完全に多く生き残る事は難しい。
ここの「詳細経緯」を探る。
では、それは何かである。
筆者は、全段でも論じた通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「山県軍の別動隊」と応戦しながらも「武田軍の本隊」に目がけても「青木貞治隊・200」を救い出す為に「弾幕」を浴びせて張って救った事だったと観ているのだ。
これは「一言坂の様」に、「強烈な弾幕」で「武田軍の本隊」が怯んだ隙に、何とか救い出して「東・西光寺」に逃がした事の「連携の経緯」より成る戦記の史実にある。
そこで、上記の「内部情報」を得て「初期の目的」を達して深入りせず直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に向きを変えたのだ。
この「怯んだ隙」には、この「二つの事」を成し得る“其れだけの行動する時間・銃力があった”と云う事だ。
単純に戦線離脱したのではなくこの事には大きな「意味・鍵」を持っているのだ。

「二つ目・ロ」は、こんなに「見事な裁き」を見せた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の行動」にある。
それは折角育てた「駿河青木氏の補完」にあったと考えられる。
さて、更に追記として、史実の時系列から「山県軍の別動隊」が、“三方ヶ原補給拠点を確保されたと云う事”の「情報」を掴んだのはそれより遅れていたと云う事に成る。
故に、この「経緯」としては「二俣城」から「12.2kの位置・直線 徒士14.5k≒3.2h」にある「三方ヶ原」にも「重要な到着」は遅れたのだ。
「堀江城」より「三方ヶ原」までは「8.4kの位置・直線 徒士10.2k≒2.2」にあるとすると、“同時に「情報」が入った”として、「約3.8k・直線≒徒士4k≒1h≒1里・1時間」の「時間・距離の差」が生まれていた事に成る。
然し、実際に「武田軍の本隊」は「堀江城の陥落」と「三方ヶ原」までの「魚鱗の陣形に軍編成・編成しながら行軍」に手間取っていたので、つまり、「三方ヶ原の西側」には着けず「南・右から左」に向けて「山県軍の突撃」が可能と成っているので、「最大1h以下〜最小0.5h」は遅れていた計算が成り立つ事に成る。
「山県軍の突撃・本来は突撃隊ではない」としてもこれ以上の「遅れ」は無理であろう。
この「突撃した事・突破・本隊との交差避ける」を観て、「武田軍の本隊」は先ず「赤兜の騎馬隊・6000」から「松平氏の本陣」に目がけて進軍突撃しただろう事に必然的に成る。
だとすると、そこで「青木貞治隊・200」を「救い出す」とすれば、残された作戦は「山県軍の最後尾」とこの「赤兜の騎馬隊・6000」とに「弾幕を加える事・史実」に成る。
「徒士」では無く、自由の効かない「赤兜の騎馬隊」であれば、離れて撃ち掛けれらて「弾幕を加えた事・最大射程距離1k」は「最大の効果」を導いたと断定できる。
「弾幕とそのその煙」が無くなるまで近づけなかった筈である。
要するに「青木貞治隊・200」を充分に救い出せたのだ。

「三つ目・ハ」は、これ等の「救出」は前段でも「情報に依って成された」と論じたが、如何にもこの「救出の行動経緯」が一面計算されている様に見える。
つまり、これは、つまり「救出」は「当初からの目的」であったのではないか。
これ程に「史実」に等しい「青木氏の歴史観」があったのに、これ等の事が歴史的に過去の「3度の消失・青木氏側」もあったが、これらの「伊勢の詳細な資料」は、勿論の事、「松平氏の資料・駿河国衆であった事が原因」の中にもここだけが崩れ落ちて不思議・恣意的に遺されていないのだ。
「専門の祐筆」が徳川氏に居たのなら何処かに在ってもいいだろうと思う。
「松平氏の中の資料」には、例え「駿河国衆」であったとしてもこれだけの功績を松平氏の中に遺したのだから、何れの「青木氏の国衆・三河と駿河の事」に就いても、「無いと云う事」はこれも大いなる疑問である。
況してや、この後の江戸期には、「3500石の御側衆・上級番方」に出世しているので、そこにも「徳川氏の右筆衆・徳川氏この字を使っている」と「駿河青木氏の祐筆」に依る「記録・失火の消失は無い菩提寺と春日社」が遺る筈だが散見できない。

ここで念の為に「歴史観」を深める為に参考として「祐筆」に就いて合わせて追記して置く。
何故ならば実は、古来奈良期より「青木氏」では「菩提寺と神明社」には「必ず氏の祐筆と云う役職・事務官」があって、「一切の出来事」を記録に留めていた。
室町期の時には同じ習慣を利用されて「氏姓の祐筆又は右筆」は、「戦い」にも参加して「戦記状況」を詳しく遺す事が定めとして行われていた歴史観があったのだ。
これを「鎌倉期頃」からは「右筆衆・祐筆衆」と称し「戦記」も遺していたのだ。
取り分け、「室町時代」にはこの役職が家臣化が進みこの制度が取り分け重視され、その中でも「信長と秀吉」は、この「右筆衆」を重視して、戦場に「多くの右筆衆」を各所の重要拠点に何人も配置して、「正しい状況」を把握して“「家臣契約の者・雇用契約制度」”に対して正しく「論功行賞」をするのに利用していたのだ。
そしなければ“「郷士や土豪の集団と家臣契約の者・雇用契約制度」と「主従制度」”は成立しないのだ。
「血縁や所縁などに依って氏家制度の集団・氏人で固まる集団」とは異なっていたので、故に、“「家臣契約の者・雇用契約制度」”では、この「右筆制度」は「欠かせない制度」と成っていて「記録などの事」はここに頼っていた歴史観なのだ。
それだけに「右筆の書様」では「記録」は書き替わり「主君や家臣の利害」が生まれていたのだ。
中には正しく書か無かったとして首を打たれる者も出た程で難しい役職であったのだ。

参考として、筆者が良く論じている奈良期から「伊勢青木氏の資料・“祐筆”に依る」等は「福家・四家」のみならず主な「家人頭」や「差配頭」、時には、「女系で繋がる伊勢郷士衆の大郷士・氏人」にも居て「何らかの資料・清光寺や神明社」が「その役柄」を決めて何らかの形で補完が行われていたのだ。
故に、但し、多く脚色されずに「祐筆の所以の違い」を以て遺されているのだが、これを務めていたのは「祐筆・神明社の神職と菩提寺の住職」で事務範囲の役割を決めて行われていて、故に、論じている様に奈良期からの長い間の「四掟や嫁家制度や妻嫁制度」の詳しい「血縁先」や、その「状況把握」までが「明治期」まで保存され遺す事が出来ていたのだ。
当然に「伊勢屋」にも同然で“「商記録」”とすれば何処かに遺されている可能性があったのだ。
この二つを突き合わせれば何らかの答えの手掛かりが得られる。
故に、この「Bの疑問の解明」に関しても、「青木氏の資料以外」を読み解く事で「答え」を導き出す事も出来ないのだから、ここまで論じている本論の様に「それ・青木氏の根拠・祐筆」を探し出す事に「総力」が注がれるのだ。
後は、「得られたちょつとした情報」を繋ぎ合わせられるかの「ひらめき」に関わって来る。
唯、見つけ出した「青木氏の資料」には「脚色」は伴わない「原石そのもの」であるので、「世の美化論・格式化論・脚色化」に流される事なくより「正しい歴史観」を常に獲得する事に関わるのだ。
故に、「Bの疑問の答え」には「松平氏の戦記」が「脚色部分」を削ぎ落として働くのだ。
例え「第二の姓族」と云えど、天下を揺るがす程の豪族には、必ずこの「原石」成るものがあって、そもそも“記録が無いという事”は無いのだ。
況してや、この「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」の「関連の戦い」では両軍に於いてこの「右筆衆の活動」は盛んに行われていたのは有名な事なのだ。
中には、「戦場の戦いの状況」を適当な安全な位置から絵に遺して説く事も行われていた。
中には「忍者衆」を雇い「右筆の仕事」を契約していた事が遺されている。
恐らくは、「五つの内」の「三つの三河戦記」なるものは江戸期直前までは少なくとも「原石」で在った筈である。
その「原石」を曇らせたのは、上記した様に「三河旗本の嫉妬・羨望・反発」が江戸期初期にこれを消したと考えられるのだ。
取り分け、「松平氏」が正式に出した「三河戦記」は「幕府の権威付け」を図る大義の為に曇らせたのであろう。
これ「等・脚色」を消さなければ、「上記の様な詳細な各所の論」から、「有利に描いた三河戦記」に記している事柄に引っ張られて、“「脚色での崩れ」”が生じて仕舞うからである。
それには歴史的に変化した「慣習仕来り掟」から成る「正しい歴史観」がどうしても必要と成るのだ
「上記の立場」、つまり、「伊勢青木氏」が受けた“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の様な「家康との関係性」の中でさえ、この「脚色」も「旗本の嫉妬・羨望・反発」は否定できず、通用しなく成っている事が起こっていたのだ。
因みに、執拗の様だが「享保期の彼等の行動」が、表に出て来た「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」等は充分に有り得た「史実」なのであるが、それだけに完全否定はしないが「原石」を磨かず「史実」を有利に脚色し歪めたのだ。
恐らくは、この「享保期中期」までが「青木氏の様な歴史的な経緯を持つ族」には「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」は「最高潮」であったが、皮肉にも逆に前段でも論じた様に「徳川家との関係性」も「最高潮」であったのだ。
「人の世の中の起こり」はこの様なものであろう。
故に、この渦から逃れられる様な箍は「青木氏の氏是」と成り得るだろう。

「四つ目・ニ」である。
両者は同じ頃から「伊勢・青木氏族の訓練所」では「伊賀の忍者と雑賀の忍者と伊勢水軍」が「氏族内」に氏人として存在しているので「訓練・差配頭」を受け始めた事だ。
史実として「伊豆青木氏の殖産」と「大口青木氏・日向・交易船」と「額田青木氏・美濃・銃」と「駿河青木氏・遠江・大船」が「伊勢の指導」の下で“戦乱の世に出る為の訓練”を受けた。
そして「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年〜10年前」に「今川氏の国衆」と成り、その輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退した。
折角の「伊豆までの海路の拠点構想」は崩れ架けた様に観えたのだ。
さて、その前に判断に要する「青木氏だけの歴史観」として論じて置く事がある。
筆者は、「初期の研究過程」で、「額田青木氏の南下国衆」を指導し、「指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」が、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」が「左鶴翼」を通り抜ける際に交戦と成ったが、この一瞬に怪我をし、後に死亡した者がこの「青木貞治」と考えて推論していたのだ。
要するに、「青木貞治一人説」であった。
これの詳細を解決して置かなければ「Bの疑問」は前に進まない。
然し、どうしても何故か間尺が合わない。
それは、確かに「三方ヶ原で討死にした事」は、「三河戦記」にも明確にも記載在り、「史実」でどの「三河戦記」にもその「戦い様」が記されている程に「有名な人物」であった。
先ずその疑問は、果たして「額田青木氏の南下国衆」を指導した「指揮官」を、“何故、これ程に「三河」では詳しく名誉の様に語るのか”から疑問が始まったのである。
“家臣や譜代の者は別として「国衆であった事」からそこまではしないだろう”であった。
それは突き詰めると、次の様であった。
1 「敗戦した二俣城の副将」
2 「浜松城に入場の史実」
3 「盤田の西光寺の菩提寺」
4 「本能寺の変の家康の逃亡事件・伊賀越え」
5 「伊勢秀郷流の通名」
6 「青木貞治の行動経緯」
7 「伊勢への連絡の手紙」
8 「二つの西光寺存在」
以上の「8つ疑問」に加えて、この時の「指揮官の名」がどうしても明確には判らなかったのだ。

「近江蒲生家・近江藤氏」より「伊勢藤氏の秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏の母系」を興し、これを継承した「通名」は、「定」と「忠」に成っている。
なので、「此の一族の指揮官」も少なくともこの何れか「二文字」を引き継いでいる筈である。
ところが「結論の最終の決定」は「菩提寺の違い」の中にあった。
歴史は「平安期」には「秀郷流青木氏」は、「全国24地域・116氏」に「子孫」を広げ、「鎌倉期」には「青木氏族の永嶋氏・主要五氏」等が、取り分け更に勢力を高め最終は「伊勢域」まで「藤氏青木氏族」は勢力圏に治めた。
ところが「室町期」に成り「下剋上」で「中部域の秀郷流主要一門」は再び元の東に押し込まれ元の「藤沢神奈川伊豆近郊域」まで勢力を引いた。
結果として、「西の最先端」に存在していた「駿河青木氏・駿河水軍」が「山越え」の「遠江」に遺された形と成って遂には支えきれず衰退したのだ。
然し、「片喰州浜族と云われた一部」は、何とかこの「駿河・藤枝―鶴見」に遺したのだ。
「伊勢青木氏」が「駿河青木氏の生遺り・支流末裔卑属」を探し出している事から観て「伊勢側・女系ルートで」に「何らかの情報」を遺していた事が考えられる。
そして、これが「伊勢での訓練」を経て「遠江」に「駿河水軍」を再興し、「桶狭間敗退」の「今川氏の家臣松井氏」からの誘いで、「松平氏の勢力圏」に入り「国衆」として仕えた経緯であった。
そして「二俣城の副将」まで「国衆」として勤めたのだ。
結果として、殆ど引き上げた「秀郷流青木氏の菩提寺・盤田見附の西光寺」を「遠江・駿河」にたった一つ残す状態と成ったのだ。
これが上段の論の通りで、「盤田市見付」のこの「駿河」の唯一つの「菩提寺・西光寺・復元」であるのだ。
ここに何か「探し出しの伏線」が残されていたのであろう。

ところが一方史実は、「三河」には「西光寺」は、“「伊川津田原の西光寺」”を「本寺」として「江戸期」に架けて「子孫拡大」で「11の西光寺」を「三河」に広げる結果と成ったのだ。
これが、所謂、「菩提寺の過去帳」から、「駿河盤田市見付の西光寺・駿河秀郷流青木氏」と「伊川津田原の西光寺・伊勢秀郷流青木氏」の“「二寺」”であった事が判ったのだ。
これは「当時の慣習」から照らして、この「二寺の西光寺」のあり得ない疑問なのである。
「伊勢」で「訓練」を経て「駿河青木氏」を「遠江」で再興して「15〜20年程度」で、「二つの菩提寺を持つ事」は幾ら子孫繁栄と云えども先ずあり得ない。
つまり、「伊勢秀郷流の指揮官の青木氏」と、一族の「駿河秀郷流青木氏」の「駿河水軍の青木貞治」は「別人説」が「二つの西光寺の説」から生まれる事に成っていたのだ。

そこで先ず、この名を「Bの疑問の解明」に関わるので検証して観る。
現在は個人情報秘匿の為に、「寺内部に関する情報」は詳細に書き記す事は難しいが、そこで「青木氏貞治の方」は、「盤田見附の西光寺」の「曼陀羅や過去帳、及び墓所の可能な範囲の調査記録」から判明する結果と成ったのだ。
つまり、先ず先に調べた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官」は、「遠江の駿河青木氏貞治」では無かったと云う事に成った。
要するに「指揮官の名」が「青木貞治」では無かった事に成る。
然し、何れも「三方ヶ原で戦死している事」は史実ではあるが、「伊勢」では「銃隊の指揮官」の名は、「資料の表現」が「短文で確定的な表現・筆者の読解力の低さ」と成っていて、「通名以外・定か忠」は正しくは遺されてはいず判らないのだ。
この「指揮官」が、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏母系」の“本家から又は分家から派遣されたか”も解っていないのだ。
これに依っても「通名」は違って来る。
主には「伊勢の西光寺」か「田原の西光寺」か、「三河11の西光寺」の何処かにある可能性がある筈だが確定できていないが恐らくは「前者の二つ」であろう。
「伊勢」には「西光寺は20寺・秀郷流青木氏」あるので「一族の者の誰か」であった為に、「本寺本墓の仕来り」もあって、間違いなく「何処の西光寺」で祭られている筈だが然し特定は出来ないのだ。

「指揮官の青木氏」と「額田の青木氏」から送られた「伊勢青木氏へ報告された手紙等」は「四家の福家」と「氏人の家人の差配頭の家」で、一部がぼろぼろの状態で見つかっているが、これ等も「伊勢秀郷流青木氏の四家」の何れかにも送られている筈だがこれでも判明しない。
恐らくは、「指揮官を務めるだけの者」であって、“一族の戦いの経験ある一族の上位の者である事”には間違いない。
然し、故に「松阪・5寺」では無いかとして墓所等を見て廻ったがここでも判らない。
この「指揮官の青木氏」は「三河」に「11寺の西光寺・子孫」をも広げた始祖でもあるのだ。
「駿河青木氏の青木貞治」と共に、「室町期の乱世」を乗り越え「青木氏一族」を良い方向に導き、「江戸期」に繋いだ当に“神に匹敵する偉人”であるのだ。
これは「青木氏族」に執っては、“ロマンの極め”であり、何としても研究して何とかのヒントを得て「その名」を見つけ出したいと考えているが、別人である事と「本寺・戒名なので」までは判っているが未だ「指揮官の青木氏の俗名」は見つからない。
因みに、歴史を遡ればその経緯では「始祖」の「伊勢秀郷流青木玄蕃充梵純・駿河守」は、「秀郷」より「宗家22代目の高郷の子」で、「伊勢青木氏」より「四掟」で「正妻」として嫁いだ「女(むすめ)」の「四男」に当たり、「近江の蒲生」に住み「朝廷との役務」を果たしていた者の子である。
「伊勢の仕来り」に基づき「女系族の優秀な男子一人」を「伊勢」で「母系族青木氏」を興させ「家人」として務めさせる「家人制度」があった。
その子の「四男の梵純」には「母方の伊勢青木氏」を「家人」として継ぎながらも、「伊勢」に「伊勢秀郷流青木氏」を興したのだ。
「四家で繋がる女系の秀郷流青木氏を継げる立場」にもそもそもありながらも、「伊勢青木氏の家人」として「青木氏」を継ぎ、且つ、「女系の秀郷流青木氏」としても継いだとする「完全融合族の青木氏」を樹立し出自した事に成るのだ。
何れも要するに「女系族で重婚血縁の青木氏」であって、更に「伊勢賜姓臣下族青木氏」であって、且つ「伊勢賜姓秀郷流青木氏」でもあると云う「二つの流れ」を持つ象徴する「重複融合族」である。
その「末裔の指揮官」である。
要するに、歴史の経緯では何処かに違いなく存在したと云う事である。

そもそも「伊勢の歴史」も融合していて、この「蒲生の高郷・1460年〜1530年」の「長男の子の孫」に当たる者が「織田信長」に寵愛され「信長の娘」を娶ったが、秀吉もその才に恐れた「蒲生の氏郷」であり、「難攻不落の伊勢」を攻め落とし「伊勢藩主・1569年〜1590年」と成るのだ。
つまり、これが「青木玄蕃充梵純・1480年〜1550年」の「兄弟・叔祖父」に当たる者なのだ。
その者が「伊勢」を攻め「藩主」と成ったと云う何とも不思議な差配である。
要するに、“叔祖父の居る「伊勢」を「孫子に当たる者」が上手く伊勢族を潰さずに攻めた”のだ。
唯、「親類・叔祖父の梵純」を親族の対立を興させない為に直接攻めた訳では決して無く、更には奈良期大化の古来より「不入不倫の権」で護れていたのに「室町期」では、最早、これを無視され「国衆と成り易い伊勢」に入り込んでいた「国衆等との戦い」と成っていたのだ。
それを追い出したと云う形を形成して信長にその知恵の良さを褒められると云う事が興した人物なのである。
寧ろ、「城主に成る事」に依って「一族の氏郷」に依って「伊勢」は、「伊勢嫌いの信長」よりも上手く護られたと云う皮肉な事に成ったと云えるのだ。
そうすると、その「祖父の兄弟の一族の子孫」が「額田青木氏の指揮官・訓練も」と成ったと云えるのだ。
「松阪藩の藩主」と成っていた「氏郷・1556年〜1595年没」は、「上記した詳細経緯」のこの「一連の行動」を知り得ていたと云う事に成るのだ。
丁度、この時系列では、この「室町期末期の時期」は、何と敵味方に成りながらも「叔父」と「甥」と「叔父の母方」で「伊勢を治めていたと云う事」に成るのだ。
「環境論」はこの様である。

この時の「美濃と三河と遠江と駿河」で起こった「第一次伊勢長島攻め」から「1573年4月の鯰江城攻め」までの「青木氏族内の事件」であったと云える。
この「環境論の経緯等」から導き出し考えると、「青木玄蕃充梵純」の予想される「最初の菩提寺・西光寺本寺」は、「伊勢松阪・4寺に絞られる」の内の「御麻生薗町の西光寺」ではある事に先ず間違いは無いかと考えられる。
その「寺の構え」は自然を生かした「古来の仕来り」に一致していて、「他3寺」は後に埋め立てられた「伊勢湾の櫛田川の圷野」に建立されているので該当しないであろう事が直ぐに判る。
この「3つの寺」は江戸期に「御麻生薗町の西光寺」を菩提寺としていた本家筋の子孫拡大に依って建立されたものであろう事が判る。
これは「当時の慣習」としては、「浄土宗寺派」は「森林の際」に建てられ「南の杜」に面して構えて「北向き」に配置して建立されるのが「重要な氏の仕来り」であった。
そうすると、「額田青木氏の指揮官の年齢」は、「青木玄蕃充梵純・1480年〜1550年」の「40歳頃の者」とすると、「1573年」から遡れば「1533年頃」と成り得て「子供域」として生まれる事に成る。
又、例えば、「指揮官が50歳代」とすると、「1573年」から遡れば「1523年頃の子供域」と成る。
「指揮官が60歳代」とすると「1573年」から遡れば「1513年頃」と成り得る。
つまり、「40〜60歳」では、「青木玄蕃充梵純の1480〜1550歳」に対して、「1513へ1533年」であるので、「梵純子供域の説」は充分に成り立つ。
当時は、「青木氏」は「四家制度」の「女系尊属の子孫」を絶やさぬように、且つ、発展を護る為に「后、妃、嬪、妾の制度」を執っていた。
当時は、「賜姓青木氏族・賜姓族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」の相互には、「15歳を成人」として「婚姻する習慣・女性は8歳と記述あり・早熟・妻嫁制度で教育」にあったので、「1480+15〜1550歳の範囲」では充分に「子供域であった事」に成る。
従って、その者は「戦いの経験」はあり「指揮官」は成り立つ。
「三方ヶ原後」に、この「指揮官の裔」が「開発業と殖産業」を営み「三河」に於いて「11寺の西光寺」と「3社の春日社の建立」に至った事に成ったのだ。
それだけに「指揮官の特定」が難しいのだ。
つまり、「御麻生薗町の西光寺」が「伊勢にある始祖墓」のある「20ある菩提寺」の内のこの寺に成る事に成る。
その他の「寺の経緯」で観ると、未だ「賜姓族秀郷流青木氏の格式」に付いて充分ではない「疑問の処」があるのだ。
実は、「伊勢青木氏の菩提寺の本寺」の「清光寺」には「氏族の四家の墓所」と成っていて、その中の真ん中に位置する一つが、周囲も大きいのだが、取り分け中央付近には「相当に大きい白構えの様な大墓」があって、これが「本宗墓」と称されていて、「一族全体の墓所」と成っているのである。
この詳しい事の「伝統の慣習仕来り掟に関する詳しい事」は未だ解明されていないが、「四家」は四家で「大墓」が存在するが、その中の「福家の墓」と特定している訳でも無ない様で、これを「氏族の総墓」としていたと考えられる。
従って、恐らくは、「青木氏族」である限りは「御麻生薗町の西光寺」にもこの様な「伝統」と云うか「仕来り」と云うか働いていたと考えられる。
とすれば、「個別の指揮官の特定の墓所」は「渥美半島の伊川津の田原の西光寺・200m離れて新旧の二寺がある」にある事に成る。

この「指揮官」と「青木貞治」とは違うとすれば、上記の「四つ目・ニ」の論は前に進められる。
その上記の「四つ目・ニ」である。
前段でも論じた通り両者は同じ頃から「伊勢」で「訓練・」を受け始めた事が史実として判っているのだ。
その「二人の人物」は「額田青木氏・美濃・銃・貞秀」と「駿河青木氏・遠江・大船・青木貞治」が「伊勢の指導」の下で、“戦乱の世に出る為の訓練”を同時期に受けたとされる「郷土戦記」が遺されている。
先ずここに注目するとでは「この二人の貞秀と貞治」は「郷土戦記・逸話論」では「兄弟」と表現し記されている。
参考としてこの「郷土戦記・逸話論」ではこの逸話が遺されたかと云う疑問であるが、当時は伊勢青木氏と秀郷流伊勢青木氏の中では「有名な事・功績をあげた者」として「両方の一族内」で語り継がれていて、それを一族の者が消えて行くのを惜しんで書き遺し、後に語り継がれたものであろう。
云うまでも無く、二つの青木氏には神明社と春日社・清光寺と西光寺には「祐筆制度」があり、この様な「歴史の経緯や逸話などの話を遺す制度・江戸期以降は記録資料飛散」がある事を理由に「一族の者・福家の差配頭・社や寺の行事を差配する者・交代制」が書き遺す様に差配したのでは無いかと考えられる。
故に、これは「伊勢側を中心」に記していて「貞秀」が記され同時に「貞治・駿河側の記録も判る名」と成り、両方で一致する事と成り得たものである。
この「兄弟の表現」は、「一族の者・福家の祭祀役の差配頭・社や寺の行事を差配者」が書き遺す様に言った事では無いか。
果たして「貞」が同じであるので同じに訓練を伊勢で受けて事から「兄弟」と成るだろう。
果たして、そこで資料が観っかった処で「実の兄弟か」であるが、「伊勢側の兄弟」か「駿河側から呼び寄せた兄弟」なのかである。
「全く同時期で同年齢で同場所で同訓練・目的である事」に間違いはない。
筆者はこの二人は戦記・逸話の通り「兄弟」では無かったと観ている。
「年齢も近い事」から「兄弟の様にして訓練を受けた」と考えていて、だから一人は「額田青木氏」を、一人は「駿河青木氏」を目的の違う事を担当した事から「義兄弟の契りを結んだ」と観ているのだ。
それでなければ、「駿河青木氏の者の方」が「額田青木氏の訓練」は担当はしないであろうし、額田は「銃で兵士の訓練」で、駿河は「水軍の訓練と氏の再興」に目的があった。
だとすれば、「額田は秀郷流伊勢青木氏の者」で「駿河は秀郷流駿河青木氏」であってともに秀郷流青木氏の処刑の縁戚関係に在った事に成り、故に義兄弟の契りで在ったとし、それを後に書き残した「郷土戦記・逸話論」では「兄弟と書き記した」と考えられる。
「兄弟とする事」には何の問題もないし、「通名の貞」は「秀郷流伊勢青木氏の者」が名乗っていたものを「駿河の弟分の者に名乗らせた」と考えられる事が出来る。
だから、前段と上記した「三方ヶ原の戦場」でも違和感なく歩調が採れたと考えられるし、その後に「弟分の裔たち」が居る「三河と駿河」に「殖産」で遺ったと考えられる。
つまりは、「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏を指導し指揮した者の俗名」は「貞秀で在った事」に成る。

そして、「貞秀の額田青木氏の訓練中」に大船一艘を与えられて地元に帰った「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年〜10年前」に「今川氏の国衆」と成り、上記の論でその輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退したと成るのだ。
然し、一応は「駿河水軍の構築」はその裔等で再興出来たものの、生きる為に止む無くして「今川氏の国衆と成った事」で「折角の伊豆までの海路の拠点構想」はここで“「充分な初期の目的崩れ」”が起こったのだ。
当時に当たっては「今川氏に対する青木氏族全体の計算違い」であったのだろう。
これは結果としては、前段と上記の通りの経緯でこの「三方ヶ原での波乱」を起こしながらも何とか良い方向に収まりが着いたが、戦乱の世であった事に依り「伊豆の事」を含めて「伊勢の計算違いが興った」と観ているのだ。

そこで、「五つ目・ホ」である。
「伊勢」は、「伊豆の計算違いと戦乱状況」から「額田青木氏の銃隊の訓練」を早めて、南下して蒲郡に指揮拠点を置き、「伊川津田原の古跡神明社の定住地」に家族を移住させて「四家」にして移動させて「拠点造り」を至急にして固めたのだ。
そして、「地元豪族との七党・伊川津七党」を結成させ地盤を三河で先ず築いた。
この時、「桶狭間」で敗退し衰退して行く「今川氏」と共に「松井氏―駿河青木氏青木貞治」も衰退していった。
当然の事として、「遠江の駿河青木氏の青木貞治」も西からの危険に晒されて弱体していたのだ。
「折角の伊豆」までの「海路の拠点構想」は、この「駿河青木氏の弱体」で一時中断したのだ。
そこで、「伊勢」と「南下した額田青木氏」と「一門の駿河・相模の秀郷流青木氏」とは「渥美湾の制海権の獲得」に動いたのだ。
前段までの「額田青木氏の国衆南下説」には実はこの「上記の背景」があったのだ。

「六つ目・ヘ」である。
その上で、「桶狭間」で「伊勢シンジケート」に依って救われた「遠江の駿河青木氏の青木貞治」の「伊勢」と「駿河相模の秀郷流青木氏」とで再々復興に取り掛かつたのだ。
「今川氏の衰退」に伴い「松井氏」も“「三派・武田、徳川、今川」”に「内部分裂」を興していた。
ここ、即ち、“「三派の内部分裂」”が重要なポイントであった。
ここで、問題なのは、何故、海千山千の徳川氏に組したのかである。
これがキーである。
本来であるならば、未だ一定の勢力を保持していた「今川氏―松井氏」に組するだろうし、その「恩義」はあった筈である。
場合に依っては、最大に天下を取る可能性のあった武田氏に着いていた可能性も高かったが何故か味方しなかったのだ。
「勢力」からの可能性を観れば、武田氏>今川氏>・・・>徳川氏であったでろう。
場合に依っては、形勢的に「織田氏」でも良かった筈であろうが、「織田氏にしても武田氏」にしても何れも「伊勢伊豆のライン・織田氏」と「伊勢信濃ライン・武田氏」を壊された「一族の宿敵」でもある。
然し、この最も何の可能性も無く低い「弱小徳川氏」に組したのである。
故に、ここには当時としては伊勢では判断の“大きなキーポイント”に成っていた筈だ。
それには、結論は「五つ目・ホ」の「美濃」からの「三河南下国衆と成った事・額田青木氏の南下」によるだろう。
「伊豆までの海路を確保する事」は、先ずは「渥美湾の権利取得にある事」は「自明の理」であり、欠かす事の出来ない絶対的条件と成り得ていて、戦略的に放置出来ない状況であった。
当然に、これを獲得するにはここで最も可能性の低い「弱小の徳川氏」と成り得る。
とすると、「武田氏>今川氏>・・・の説」は、敵方と成りどんな事があっても無くなる。
だとすると、必然的に“「伊勢」”は「渥美湾獲得」の為にも「三河」に「莫大な資金・冥加金」を投入して裏から支えるであろうし、「摂津」も含めて「伊勢シンジケート・全ての裏組織」も必然的に「青木氏族の命運」をかけて動かす事に成るであろう。

「7つ目・ト」である。
「六つ目・ヘ」の敢えて分裂の中で「徳川氏」に組したのだ。
故に、「今川氏」が瓦解した時に、「二俣城の副将・発言権」にする為に、「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏と相模と駿河青木氏の一族一門」は、「後押し」をして「兵力数・倍」を態々高めたのだ。
其の後の「駿河青木氏の青木貞治の活躍」はこれを証明する。
単なる「兵力200」には、これに留まらず、その裏には「伊勢・財力」と「摂津・商力」と「伊賀・情報・影の勢力」と「額田の銃力」と「武蔵秀郷一門の勢力」等の「数万の兵力に値し象徴する力」を見せつけていたのだ。
因みに、その後に「家康」は、「武蔵」に「転封の憂き目」を「秀吉」から受けるが、逆に上記した裏のその「秀郷流一族一門の勢力」を以て高めて「天下を取るに及んだ事」はそれを証明しているのだ。
注釈として、何度も「青木氏族との苦い経験」をしていながら、これが「秀吉の読み」の「天下分け目の差」と成った「甘かった処」であったであろう。
故に、それを「家康」は理解していたが故に、“伊勢の事お構いなしのお定め書”の所以でもあったし、「黙認の幕府の官僚族・家人衆旗本・秀郷一門」と「紀州藩との付き合い」や「紀州藩の藤氏家臣団」に繋がって行ったのだ。
要するに、今まで論じて来た「青木氏の歴史観」に繋がっていたのだ。

結論は、「Bの疑問の1560年」は、この歴史的な「絶妙な頃合いを狙った事」に成るのだ。

前段の「額田青木氏の南下国衆の論」の「1560年」は、論調を判り易くする為に、「伊勢側論説」で論じたが、この後段には「青木貞治」が関わっていたのだ。
況や、“家康を作ったのは「青木氏族」である”と云っても過言ではないだろう。
その「1560年」はその当に「基点」であったと云える「青木氏の歴史観」である。
然し、「額田青木氏の国衆の差配頭」が、上記の様に「伊勢」で同時期に訓練を受けた事は判っているが、前段と上記の「貞秀」では無く「別名の青木貞重論もあった事」が未だ解明されないでいる。
念の為に簡単に追記する。
この「貞の通名」が、「秀郷流伊勢青木氏と駿河青木氏の通名」でありながらも、「額田青木氏の差配頭」とされる「貞重である事」から「伊勢や信濃の青木氏」に無い通名の「貞・・である事・秀郷流青木氏の通名」が気に成るのだ。
これが判れば、“「1560年」”は更に解明できるだろう。
つまり、「額田青木氏と駿河青木氏の関係/秀郷流青木氏」を複縦的に解明する糸口に成るのだが。
これに関する「筆者の推論」は、「伊勢での訓練中」に意気投合して「貞・・」を貰った等の色々なケースが考えられるが、これには「伊勢で訓練中」の「駿河青木氏の青木貞治の兄であった可能性」があるとしているのだ。
この「貞重」は、「駿河青木貞治」と当時に「額田青木氏の差配頭にも貞秀が与えた名」では無いかとも考えられる。
「義兄弟の契り・訓練中」を結んだと云う説に成り、この三者は「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練を受けた経緯」から「額田青木氏の訓練を任された指揮官」であった「秀郷流伊勢青木氏の兄貴分」から他の二者にも「今後の結束」を約して「貞の通名」としたのでは無いかと推測しているのである。
然し、これでは「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」、つまり、この「通名」では「女系族」であるが故に「嗣子は移動しないとする掟」に反するのだ。
然し、「訓練で今後の結束の通名・目的」がはっきりしている為にと戦国の世として何時か会えば義兄弟として協力しようと約束した為のものとしてすればこの「伝統の掟」は問題はなく、他の二人は当然の通名とし問題なく従って「額田青木氏の差配頭の俗名」を「通名」とするだけの問題と成る。
後は「伊勢側の裁量の問題」であろうから「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練」を目論んだのだから通名とするに異論は起こらないであろうし、「額田青木氏の差配頭の意思次第」と成ろう。
とすると、「貞重論はあり得る事」と成る。
これが解明できれば「額田青木氏の差配頭」も一時「伊勢」に「同時」に呼び寄せていた事を確定出来得る事に成り得る。
前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世出あっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論にな内程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、動場所、同目的」は充分に有り得て、故に史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすればこの「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。

「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」に続く。(102P)


  [No.394] Re:「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/02/23(Wed) 10:08:32

「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」の末尾

> 前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世であっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論になせない程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、同場所、同目的」は充分に有り得て、故にその絆を史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
> 但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
> 唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすれば、この「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
> 「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
> これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み中」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。


「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」

(注釈 「二つの青木氏に影響した武田軍の時系列の詳細経緯」)
この検証の為に前段より少し話を戻す。
先ず、もう少し「武田軍の詳細経緯」を「青木貞治の行動と額田青木氏の行動」に影響している事があるのでそれに関する重要な歴史観を論じて置く。
実は、ここで「青木氏の歴史観・額田青木氏の貞秀の目と駿河青木氏の目」として注目して置かなければならない事があるのだ。
それは、「堀江城落城後」に、必ずしもこの時点で、「戦後の戦略」として「宿営地・二極化拠点」とするだけで、時系列から調べると、「堀江城の武田軍の本隊」が「三方ヶ原に来る」とはかなずしも決まって居なかったと読み解けれるのである。
先ず、例えば、何故ならば「三方ヶ原の2年後」の「長篠の戦い」でも「織田軍」は“「本陣」”を「長篠の戦場」より「別の所・4k真西・茶臼山」に置き、そこから指揮し、この「野営上の戦場」は別にした経緯の史実があるのだ。
それを研究として見ると次の様に不思議な構えに成るのだ。
そして、先ず「信長の本陣」からここより「南1k横に家康本陣」があった。
「信長の本陣・豪族館」を除いて全て本陣は「寺」であった事が解つている。
そうすると「秀吉の陣」は「信長本陣」より真北に「500mの上の所」に置いて安全を期した事に成る。
つまり、「信長本陣」を中心にして「南北に家康秀吉の二人の本陣」を構えて万が一の安全を期している。
この時、「敵方の勝頼本陣」はこの北部の「長篠の戦場」より「真北1k」に「本陣・寺」と「軍」と共に配置して「秀吉の陣」と何と「500m離れた所」に並行して置いていたのだ。
つまり、この位置より「真西4kの位置」に対峙して「信長本陣」があった事に成るのだ。
この配置は「長篠」を中心に、丁度、「辺1kの三角形の位置形状」で配置されていた事に成る。
これは「いざ徒士での開戦と成った事」を配慮しての事であるだろう。
そして、「信長」はこの「長篠の戦場」には「周囲・北と東」にかけて事前に「固定の馬廻り柵」を「くの字」にして張り巡らして、その後ろに「信長本陣」を背後にして「傭兵の雑賀の火縄銃隊」を配置して「敵の攻撃」を直接に受けない様に保護していたのだ。
つまり、敵方が「三つのどの位置」から崩しに掛かるかを観て、どの位置からでも応戦が叶う様に構えていたと云う事に成り、中央と北か東かどちらの三方からでも「銃撃戦を繰り返す事」が出来る様にしていたのだ。
ところが「勝頼の本軍の陣形」は、この「くの字」の「右上の先端部分の500m右側」に配置したのだ。
不思議な何か意味のある配置で在る。
普通なら左右、つまり「右の秀吉軍」、「左の徳川軍」を睨みながら「くの字」の「弾丸」が届かないぎりぎりの位置の「中央の1km程度離れた位置」に対峙して配置する筈である。
ところがそうでは無く北の「秀吉軍の右500m真横」に位置したのだ。
これから観ると、先ず「一つ目」は明らかに「武田勝頼方の総合軍勢・2万5千説」が少なかった事を意味する。
無勢であるが故に何か戦略的な位置とした事に成る。
「二つ目」は「信長軍の傭兵火縄銃隊3000」を恐れて逸らす位置に配置した事をも意味する.
そして、「織田軍の傭兵銃隊」に届く前に、「三つ目」は「左右の秀吉軍と徳川軍」に挟撃される可能性があった事を意味する。
この「三つのリスクの事」の事だけを考えた場合でも、この「リスクを出来るだけ下げる配置」とする必要があったと考えられた筈だ。
だとすると、「勝頼軍」は必然的に「くの字」の右上の先端に位置した「秀吉軍の真横の右上」に配置する以外には無かった筈だ。
そして実際にその様に配置したのだ。
だとすると、これでは「戦術」としては普通は「信長本陣を直接に攻撃する戦術」は採れなかった筈だ。
この配置の通り、先ず、戦略的には「直ぐ左に位置する秀吉軍」を崩して様子を見る必要があった事に成る筈である。
なぜならは、「信長軍」の前には「銃の傭兵軍団用の馬周り柵」を前に採っている。
況して「信長軍」は「くの字」に囲んで「本陣」を護っているし、そうすると「徳川軍」はその「織田軍の銃隊の前」を横切って前に出て戦う事は出来ないし,そうすると本来の「徳川軍の戦略の目的」は「織田軍の本陣を護る位置」に在った筈で、この目的は崩す事は出来ないので、先ずこの「二つの軍の配置」は崩さず「秀吉軍」を援護の為の配置するものでは無かった筈だ。
そうすると、この配置から「秀吉軍と徳川軍」が崩されても「織田信長軍」は動かなかった筈だし、「くの字の馬周り柵」が邪魔して自由に動けない位置にいた事にも成る。
それは、「雑賀族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」は、当時の常識では銃を兵力に換算すると10倍以上に相当すると云われ「恐ろしい戦力」と読まれていて、そう云う常識にあったので、これでも「最低3万の兵力」と成り兵力的にも「勝頼軍2万5千より未だ上」であったと計算していただろう。
「銃隊の傭兵軍団3000の戦力」が仮に破られたとしても、未だ「織田軍独自の軍」が「本陣の周り」を固めていて、これで「無傷の勝頼軍」としても勝負は決まらないだろうし、現実にはその前に「銃隊」に叩かれていて戦える状況では無かった事に成り得る。
仮に「秀吉軍」が真横から攻められて敗退としても「徳川軍」が「1k左」から前面に出て来て既に「傷ついた勝頼軍」と対峙する事に成る。
故に、飽く迄も「信長軍全体の配置を崩す事」は始めからしなかった筈であるは出来なかった事に成る。
要するに、「勝頼軍の戦術」は「織田側の三軍」に対して「確個不抜の攻撃」を仕掛けるべきであったし、其れしかなかった筈だ。
当に上記の「長篠の戦い」では「織田方の三軍」はこの「三方ヶ原の武田軍略」を先取りして「二つの拠点造りの戦略」を採ったと云う事に成るのだ。
要するに、「信長」はこの陣形配置を考えた場合に「信玄の三方ヶ原の戦い」を参考にしたと観ているのだ。
それに「傭兵軍団の雑賀族根来族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」を本陣が攻撃されない為にもその直前で「圧倒的な戦力向上を目的」として利用して「殲滅作戦を採ったと云う事」に成るのだ。
これは「直前の父の戦略」を事前に理解せずに無視して戦ってしまったと云う事に成る。
あまり「将としての器では先ず無かった事」に成り、要するに戦う前に負けていたのである。
だから余談だが、史実に遺されている様に、“武田方の指揮官達は戦いの前に分かれの宴を躱した”とする史実が遺されているのだ。
唯、何故に「くの字の先端に位置した秀吉軍」の直ぐ「横500mの位置」に位置したかと云う疑問が残る。
此れには上記の位置にいた「苦しい勝頼軍の唯一の勝つ為の唯一つの秘策・信長軍の配置の欠点」が観える。

前段でも論じたが、二つの郷土に遺る逸話を元にした「郷土史の記録」には次の二つの資料が遺されている。
一つは、「信長本陣の館壁」に銃弾痕が無数あったとする事と、「雑賀族の銃隊」の後にも“酷く潰れた弾丸”が"多く畑に遺っていたとしている事である。
そこの処を掘ると、集中して一か所周囲に多数に遺されて出て来た事の記録である。
これは「史実である事」が後の研究で証明されている。
この事は見逃す事の出来ない重要な事である。
これは「通説」と成っている「騎馬隊が先頭切って突っ込んだとする説」を覆す事であり、この事が興るという事は、先ず先頭切ったのは「勝頼軍の数少ない銃隊・200の守備隊説」が「3列」に整列して突っ込んで来た証拠であり、それが「信長本陣の館300m程度・弾丸の飛距離」まで「馬周り柵の北側の右柵・秀吉の陣の際」を破って接近していた証拠と成り、且つ、その後、「信長の傭兵軍団の銃隊」の中の「くの字の右側」から侵入して来た事に成る。
つまり一時的に、この「くの字」の「北外側の右柵が破られていた事」。つまりこれは{秀吉軍と北側柵の間」に成り、それが当に「真西」にある「信長本陣の置いていて館」の近くまで侵入していた事を「壁の弾丸跡」が物語っているのだ。
つまり、「勝頼軍の銃隊による守備隊の決死隊が編成された事」を意味し、これが全滅した事に成り、「戦い」の後を農民などが戦場を整理して兵を軍別に分けて葬った事の記録が遺されているのでこれはそれを纏めたもので史実である。
この時の「記録・1万2千・銃による戦死」から「勝頼の武田全軍の7割近く・2万5千比」が戦死していた事に成り一致する。
但し、「双方の祐筆が遺した公表している戦記」からの数字とは合わないが、当然に何れも極端に少な目であるが、「長篠の戦い後の勝頼逃避行の記録の数」は脱落者や死人や掃討作戦での犠牲者から最後の村に到達したのは「当初200人で最終は100・数人の説もある」にもなら成らない数に成っていたとされている。
その戦場の総合墓地と逃避中の墓所も発見されている。
この時の「農民の口伝」を下に江戸期に入り「数人の郷土史研究家」が取り纏めた資料の書籍が遺されている。
その解説に依れば、その遺された「多くの弾丸の潰れ方・平坦に潰れていた」から「流れ弾」では無く何か固いものに当たっていた事に成る。
「郷土史の説」に依れば暫くは畑から弾丸以外にも「戦歴を物語る物」が出土していたらしい。
つまり、それらの事を読み込むと、一時には「右側の柵に完全に柵の中に入り込んでいた事」に成り、「数は少ないがその弾丸」の「潰れ方」から「銃などの鉄製」に当たっていた事に成るとしているのだ。
「戦場での潰れ方}ではそういう事に成る。
この考察から、上記の陣形から「戦法」に行き詰まり「決死隊」を「勝頼の守備隊の銃隊」で編成した事を意味する。
そしてこの「銃隊」のちょっとしたチャンスを生かそうとして全軍を突破作戦に無理に切り替えた事に成るだろう。
恐らくは、勝頼軍は「信長軍の馬周り柵の中の様子・銃隊の実際の数や三段構えの戦法態勢」が実際に掴めていなかったのだと考えられる。
通常は「武田軍の隠密等」も探っていた筈で「通説」とは違って「信長」はこれらを当初から敢えて「何らかの方法・戦記には車に蓑の表現が出て来る」ので隠していた可能性がある。
「勝頼の陣」からはこの「信長本陣」は、丁度小高い丘を影にしていた事から詳細が観えず、この「勝頼の決死隊の功績」で銃隊の勢力を低く見たのでは無いかと予想できる。
つまり、これはこの「隠していた状態」の時に「決死隊」が比較的に簡単に「右の柵・秀吉軍の左際」に沿って突っ込んで来たと云う経緯と成ろう。
そこで「信長のくの字の馬周り柵を伴った陣形」の「最大の弱点」は「右側のくの字の縁」に沿って「直線的に走れば「信長本陣館」に到達する。
これが「弱点」であるからこそ「くの字」の真ん中では無く、この「右にある秀吉軍」に対して「勝頼本陣」を極めて接近させて「即応態勢」で防ごうとしていた事に成る。
その「弱点」を「勝頼本陣に直接所属していた守備隊」を「決死隊の銃隊」に仕立てて先ず先陣を切らせて攻めさせたと云う事であろう。
これが「信長本陣」の近くまで到達した事を観て、この「くの字の弱点」を確信して「赤兜6000騎馬隊」を次に突破させようと突進させたのであろう事が「郷土史の後の経緯研究史」でも判る。
ところが、そうするとこれに「本来の配置の役目」を持つ「秀吉軍」は阻止する為の即応が出来なかった事の史実と成り得る。
これは何故かである。
それは「勝頼軍の本陣」そのものが「くの字の右際に沿って直線的に移動するとこの「くの字の戦棚」に沿って陣を敷いていた“「秀吉軍」にはどの様な事が興るか”である。
「勝頼軍の本陣」が「秀吉軍の正面に向かって攻めて来る」と開戦前の当初は観ていたが、それが「くの字の隙間」に沿って「200の突撃隊の銃隊」が先ず突っ込み、次に「赤兜6000騎馬隊」が「猛スピードで走った事」で「秀吉軍は軍の向きを柵側の南に変えられず、且つ、仮に攻めたとすると、この行動は「くの字」の「馬周り柵内の傭兵軍団の銃隊の陣形」を壊す結果と成り、右横から向きを変えて秀吉軍に攻められた「赤兜の騎馬隊」が左横に逸れる事で「戦域幅」が広く開き、その事で「くの字の馬周り柵」は壊れ、この結果として「信長本陣の館」は危なく成り、却って「勝頼の赤兜6000騎馬隊の目的に利する事」と成る筈であった。
そして、下手をすると「勝頼軍の4軍の徒士軍」が正面から「秀吉軍」に向かって決戦を仕掛けて来る事と成ると、「秀吉軍」は南側と東の正面側から攻められて壊滅する事に成る。
だから「秀吉軍」は敢えて「史実」は動かなかったのだ。
ところが、ここで「幾つかの史実」を組み合わせると、このタイミングでここで「思わぬ事態が興った事」に成るのだ。
それは「くの字の内側右側」にいた「馬周り柵の傭兵軍団の銃隊」は「赤兜の騎馬隊」の余りの早さの攻撃に態勢が崩れそうに成った。
然り乍らも、これを盛り返し再び「銃弾幕の激しい銃撃」を開始し始めた事に成る。
問題はここに在るのだ。
そこで、「200の銃の突撃隊」で「くの字の北側」を崩して進入路を造った後に、「山型陣形の赤兜の騎馬隊」は、「郷土史の研究記録」などの記録・弾丸と死傷者の集中位置等」から観て、「くの字の馬周り柵」の真ん中より内側の中心よりに押し出して進軍していた事に成りる。
それが、つまり、一時、「くの字の北側」が崩れてその「傭兵軍団の銃隊の立て直し」がその後何とか出来て、その間に「傭兵軍団の北側の銃隊」に犠牲を負っていたのだ。
つまり、この事はその北側に犠牲を負っている「傭兵軍団の味方の銃隊」が未だ居る中に向かって何と「くの字の中心と南」に位置していた「傭兵軍団の射撃」が止む無く突然に開始したのだ。
つまり、「味方の銃隊」が「味方のいる北側}を射撃した事に成るのだ。
当然に「味方の犠牲者」は出るがそうでなければ「くの字の中は総崩れ」になるところであった。
これは同時に「信長本陣」も危なかった事を意味する。
この結果として、これで「山型陣形の赤兜の騎馬隊の先頭」が「くの字の内側横・中心側に広がる結果」と成って仕舞ったのだ。
つまり、この時、敵味方の双方に多数の犠牲を負う事と成ったのだ。
然し、この時、傭兵軍団の銃隊に異変が起こったのだ。
それは織田軍側は「傭兵軍団」だという事だ。
そして織田軍と秀吉軍はこれを救わなかったという事だ。
この二つを合わせれば何が起こったかは判る筈である。
然し、傭兵軍団はこの戦場ではg:yを伴う為に織田軍に対して態度を露わにしなかったのだ。
その頃より、結果として今度は中心より「左のくの字」の「傭兵軍団の銃隊の弾幕の範疇」に入り一時途絶えた弾幕は再び開始された結果、「山型陣形の赤兜の騎馬隊の陣形」が史実の通りに「総崩れ」と成ったのだ。

これを救おうとして「山県軍の徒士軍団4軍」が「くの字の右内側横」に押し出した結果と成って仕舞ったのだ。
「郷土史の研究記録」の「弾丸や死傷者の位置等」から余り犠牲者が出る筈のない「傭兵軍団の右横の銃隊」にも多く犠牲者が出た戦歴と成っていて多く弾丸が残るのは、この経過を物語っているのだ。
結局は、「傭兵軍団のくの字の左横の銃隊」の横からの態勢を整え直した「三段攻撃の総攻撃」を受けて「赤兜の騎馬隊」のみならず「4軍の徒士軍団」も「全滅・1万2千」した事の史実の経緯が「郷土史の研究記録」からも裏付けられて判るのだ。

この様に「勝頼の本陣の位置・秀吉軍の左500mの配置」は「織田軍とその三つの軍」と「馬周りの柵」とその兵力から、その弱点と成るこの位置を採った事が判り、当初よりその「弱点」を突く戦略で在った事に成る。
そして、それを証明する為の「200の銃隊による決死隊・本来の勝頼の守備隊」を敢えて前面に出して崩す配置をした事が判る。
そして、「4軍の家臣団」の全てから「反対・記録」を受けながらも強引に「勝頼の独断」でこの「少数の銃隊・勝頼の守備隊」で「突撃させてしまった事・それなりの戦功はあった」に成る。
要するに、この勝頼は「三方ヶ原の二極拠点化」の「六稲三略から来る常套戦術」を参考にせず「弱点攻撃」に切り替えた事にし、護らなかったのだ。
然し、現実はこれしかなかったのでは無いかと考えられる。
要はその成否の境は、「くの字の馬周り柵」に沿って配置された「傭兵軍団のくの字の北側の味方」を「自らの銃で撃ってしまう」と云う耐え難き悲惨な事の「判断の差」で事は決まったと云う事に成る。
史実はこの悲惨な代償に信長は全く応えなかったのだ。それどころか戦い後直ちに「傭兵軍だの攻撃」を開始したのだ。
故に筆者は勝頼の戦略にはこの「非」は通説と違い無かったと観ている。
然し、これに従えばより良くするには「勝頼」は先ず「秀吉軍の拠点」を打破して「くの字の弱点」を先ず抑えて「二拠点化」にして有利にし、其の上で「くの字が崩れた信長軍」の「次の出方」を先ず観るべきであったのだ。
「信長軍の全軍」はそもそも「傭兵軍の銃隊」が「命綱」である以上は「くの字の陣形」を崩せなかった筈であり、この「信長の採った二拠点化」は痛手で在った筈である。

ここで、注釈として後に事件が興ったのだ。
この「見方が味方を撃つと云う事・助けを出さなかった事」が原因で長篠後に紀州征伐が起こり「信長と犬猿の仲」に成る。
この機微を勝頼は戦場で見抜けなかったという事に成る。
この「銃隊による決死隊・勝頼の守備隊の突撃」で「くの字の外側の右側」が現実に崩されたが、この時、「秀吉軍と織田本軍と徳川軍」はこれを救わずに記録では黙って観ていたのだ。
この時、「主に雑賀傭兵軍団の銃隊」は崩れながらも「自らの力」で「態勢」を立て直し、味方のいる右に銃口を向け直して何とか「応戦態勢」を採り始め、結果として“「味方1200の犠牲・傭兵軍団の半分の犠牲の史実」”を出しながらも盛り返した。
そして、この状況を観て「くの字の南側・左側の銃隊」は弾幕を張って柵から出て自らの力で犠牲を出しながらも味方を救助し開始した。
最早、「長篠の郷土史の伝説」では、この時は「軍団の銃隊の指揮官」は「織田氏の指揮官」に従わず自らの身内を護る為に「雑賀族が指揮を執った」とある。
そして「長篠の戦い後」に、「この事」が元で「雑賀族と信長―秀吉」とは逆に「犬猿の仲」に成って、「銃隊の傭兵軍団」は「信長」に一切味方する事は無かった。
前段でも論じたが、「長篠の戦いの戦後始末後」に、[信長―秀吉軍団」は史実として「大紀州征伐」を長期間で実行し「雑賀・根来傭兵軍団」は「分断」される始末と成り瓦解に到るのだ。
前段で論じたが、改めて「信長の軍」は、この時、「雑賀族三軍団の征伐・鈴木氏族・根来族・土橋族」に矢張り「銃の軍団」に大失敗し、大阪に一時逃げ帰ると云う経緯と成っていて、そこで「信長」はこの「雑賀族三軍団」に対して「調略作戦」を開始したのだ。
「紀州の紀の川」の川を挟んで「北側の土橋氏族」に「調略」を仕掛けて成功するが、「鈴木氏族」は譲らず続けられていた戦いに応戦した。
そして「根来氏族」に対しては、「秀吉に歴史」に大きく残る「焼き払い殲滅作戦」で一族を焼死で殲滅させたのだ。そして「伊勢青木氏」に逃げ込んできて匿う事が興ったのだ。
「孤立した雑賀氏族」は、飽く迄「戦い」ながら子孫を遺す為に「三つの裔系・鈴木氏本家と分家の鈴木氏の雑賀氏と土橋氏との血縁族」に分けて戦う事に成った。
「現海南藤白地域・鈴木氏発祥の地」に在した「鈴木氏本家族」はその支流末裔が存在していた「紀伊山脈の山の中」に「山族」として逃げ込み、「平家の生き残りの龍神族と十津川族」と組んで「織田軍」に「銃のゲリラ戦」で対抗したのだ。
「分家鈴木氏の雑賀族・現雑賀地域」は、「紀の川の南側」の平地でゲリラ戦で死守して譲らなかったのだ。
後に少数でも強い敵に立ち向かう者を「紀州惣国者」と呼ばれた。
信長調略に応じた「土橋の血縁族」は、「一族内・川南との」に内乱が興り、最終は「川北の土橋族」が信長に着いたのだ。
この状況の中で「土橋族の持つ銃を獲得した事」を下にして「秀吉の第二次紀州征伐」が興り、「ゲリラ戦・紀伊山脈の山と紀の川南側の聖地のゲリラ戦の二つ」が続いて起こったが、他の「南紀の紀州土豪達・青木氏の旧領地の家人や氏人」に対して、「子孫存続の為に伊勢青木氏説得」もあって仕方なく「秀吉側」に靡いて一応は平定された。
この後にこの状態で「秀吉の刀狩り」が興り、「彼等が保有していた多数の銃」は。「三つの生産地」も含めて「秀吉の手中・支配下」に入って「秀吉軍」はこれが下で銃を獲得し急速に強く成ったのだ。
この時、合わせてこの「秀吉の奪い取った銃」での「兵力」を高めない様に「伊勢青木氏」は「摂津で管理していた近江の生産地」を即座に廃止し、この「銃工人等」を「伊勢」に呼び寄せて「青木氏部」に入れて保護したのだ。
一部に従わなかった者等がいて「薩摩と秀吉」に密かに吸収されたとある。
この時、これを「薄々見破った秀吉」に「伊勢の蔵を焼かれる事」が興ったが「伊賀」がこれを「ゲリラ戦」で撃退し阻止したが、この様に「雑賀事件の影響を受けた経緯」を持っているのだ。
この時、この「雑賀域・鉄の生産地・現住友金属」に「伊勢の出店・伊勢屋を持った事・現地との調整する連絡事務所」が史実として判っている。
そして江戸期に入ったが、「本家の鈴木族と分家の鈴木族」は「紀州藩の銃を持つ雑賀忍者集団として組する事・歴史的に有名な史実が多く遺る」と成ったのだ。
この事件発生から歴史観を観ると、結局は「くの字の南側に位置した徳川軍・紀州藩」が恨まれずに得をし、「大量の銃と雑賀忍者・元平家族と融合」を得た事に成る。
後々、「伊賀忍者の紀州藩、甲賀忍者の徳川氏等」とその路で競り合うのだ。
「長篠の戦い」には、「三方ヶ原の戦術」により関連する掘り起こせる史実があったのだ。

この様に「今川義元・武田信玄以降の戦術」に習って「歴史上の本陣」を決して「実際上の戦場」には置かつたのであり、「1里・4kから4里・16k」の「位置・当時の活動圏」に配置するのが「当時の歴史的な常道戦術」であったのだ。
つまり、要するに「秀吉の本陣の配置」がいざという時のキーに成っていた事に成る。
「敵方の勝頼本陣」が動けば「秀吉の本陣の配置」で側面を突いて牽制する戦術で在った事に成る。
「固定の馬廻り柵」を攻撃してくる前に「秀吉の本陣軍で攻撃して崩すと考えていた事に成る。
「南1k横に在った家康本陣」は、「信長本陣」とそれを背後にした「傭兵の雑賀の火縄銃隊」が崩されそうに成った時に「勝頼の武田軍本隊の左側面」を突いて攻撃して救うと云う配置形態に在っていた事が判る。
現実には上記の通り「勝頼」は「弱点を見つけた事・銃による守備隊による決死隊で実証」で上記した様にこの様に成らなかったのだし、これが下で「銃の傭兵軍団の雑賀族との事件」に発展して行ったのだし、「伊勢にも影響が出て来る事」に成ったのだ。
「額田青木氏等が関わった三方ヶ原」はその「直前の出来事・2年」であった。

さて、「二拠点化の論の検証」に戻して、其れもが何とか「額田青木氏の新型銃の長距離銃」と違って「火縄銃の銃弾」が本陣から届くと云う「命中率低い・流れ弾程度の距離の500m」の位置に「敵方の勝頼本陣」が存在すると云う事は動けば撃つと云う態勢にあった。
況して「くの字の陣形」を採る織田全軍の配置形態に対して、然し、この常套手段を無視したのだ。
況してや、「馬回り柵の3000の銃隊」に対峙するには無視も良い処で子供でも判る攻撃でもあるのにだ。
ところが、「長篠の戦いの場合」もほぼ同じ配置形態に在り乍らも、「勝頼の銃隊200の守備隊」と共に「武田本軍の赤兜騎馬隊6000」で、先ず「秀吉軍」と「馬周り柵」の間を「側面突破」して直線的に「信長本陣を目指す」と云う「戦術上・六稲三略」ではそんな状況では無かった筈であったが、処がその是非は別として「考えられない行動」を執ったのだ。
「戦う」とすれば「基本の戦術」は先ず「秀吉軍と戦うと云う事」に成るだろう。
何故ならば、誰でも判る事だが「信長の本軍」は自分から先に仕掛ける構えではなく待つ構えであった。
そもそも「銃隊」を前に置いて、且つ、「馬回り柵」で前を「くの字」で囲んでいる以上はそもそも「徒士の本隊」を戦う為には前に出す事は出来ない。
例え「秀吉軍」が突かれ敗退したとしてもこの戦形は物理的に崩せない。
否、崩してまで出る事は100%出来なかった事は自明の理であったしその意思は信長には無かったと云える。
だとすると、この「陣形」から観ると「上記の突破作戦しかない事」に成る。
現実に「くの字の北側・右側・秀吉軍の南側面と馬周り柵の間」は崩されているのだ。
ここで様子を見る事が信長がどの様に出るか待つ必要であったと後勘では観える。
それは、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」に異変か起こっていたのだ。
勝頼もその「異変」を感じていた筈である。
「勝頼軍の突撃」で現実に「北側馬周り柵」が崩れた。
この「総崩れ」になりかけている「くの字の態勢」を護ろうとして、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「味方のいる混乱した柵側」に向かって何とか救い出そうとして射撃を開始し始めたのだ。
この為に「味方1200の/3000の味方」を犠牲にしたのだ。
そして「秀吉軍」は救出しなかったのだ。
これが現実に起こったのシナリオだ。
この時、「郷土に残り続けた逸話」では、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長と秀吉に対しての怒り」を示したのだ。
現実に紀州では伝説としても「信長と秀吉に対しての怒り」の通りに人気は良くないのだ。

この「長篠の戦い」は結果として半日で決着が着いたが、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長に対しての怒り」を表す為に“「紀州」に向かって直ぐに引き上げて仕舞った”と伝わっているのだ。
この「逸話」が真実だとすると、「勝頼軍の徒士隊4軍」は“一時様子を見る事が必要では無かったか”と云う考えが生まれる。
つまり、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「銃先」を信長又は秀吉軍に向けた可能性があったし、「戦線離脱」していた可能性もあり得た。
筆者は、見方が味方を撃つと云う異変のこれだけの事が興れば戦場と云えど普通では無く何かこの時に「異変」が戦場に起こっていたのでは無いかと観ていてこれを敢えて捉えなかったのではないかと観ている。
そしてそれが家臣団の信頼を失うきっかけと成ったのであろう。
これを利用すれば「万が一の勝ち目」が武田側に傾くのだし、それだけの意味のある事件であったのだ。
何故ならは、彼等は「武田軍に対して敵への怒り」は元より無かった筈で、要は「傭兵軍団」であったのだ。
この様に、世情はこの様に「見殺しされるという事」は傭兵軍団に執っては今後も信長の元では次も同じ破目に成り得る。
現実に、その証拠にこれが下で間一髪を置かずして「長篠後」に「歴史に遺る残虐極めた紀州攻め」が実行されているのだ。
「郷土の逸話」の通りに、史実の「間一髪」を考えれば、何もなくしてはいきなりに「紀州攻め」は無いだろう。
確かに、信長の「銃への恐怖」と「自らも銃を持ちたい」とすれど、「史実の間一髪」は無いだろうし、そもそも世間に対して「戦う大儀」が成り立たない。
そもそも「銃」は「市場制」の中に無く飽く迄も「傭兵制」の中にあって銃のシンジケートを形成していたのだ。
後は密かに影ルートで入手する以外には無く必然的に数は護身用程度で数丁単位で在って戦用と云う事には成らず、飽く迄も銃組織のシンジケートを形成していたのだ。
この中の中心に青木氏族は摂津を介して存在していたのだ・
これは「銃」に限らず「砂鉄の玉鋼」そのものがこの範疇にあって、そもそも「商用」と成ったのは「江戸初期の摂津と大阪」であってそれでも寡占であったのだ。
それ故に、この「雑賀根来族のシンジケート」は独立性が強く、そもそも「紀州人」は穏やかな処に根に元来「古来より惣国者」としての気質を持っていたのだ。
故に、この「異変」にはこれには「味方1200の/3000の味方を犠牲」に対して戦場で「銃先を変える可能性」だけの「相当な怒り」が在った事が云えるのだ。
観ていれば戦い中のこれだけの状況では「異変」を読み取れていた筈だ。
筆者は、異変の間隔を待つべきであったとし、利用するべきで在ったし、然し、現実は待つ事は無かったのだが、これが「勝頼軍の徒士隊4軍」の歴史に遺る「家臣の信頼を失った・死の宴とする原因」に成ったのであろうと考察する。
「勝頼軍の徒士隊4軍」の突撃は待つべきで在ったと観ている。
通説の“勝頼は冷静さを失っていたの説”にこの意味では合意する。


「長篠の戦い・陣形論の経緯」と、その「青木氏・伊勢と駿河」までに及んだ「結末論」を例えとして論じたが、そこで再び「拠点化の論」に戻す。
その意味で「三方ヶ原の信玄軍本隊」は「戦術の基本に沿っていたと云う事」に成るのであって「三方ヶ原で決戦すると云う考え」を持っていた訳では無く、そもそも「戦い」は元々自在変化するがそれにしても「三方ヶ原」を「軍の拠点とする事」は無かった事が判るのだ。
飽く迄も、「三方ヶ原を起点・補給拠点」にして、「堀江城、二俣城の二拠点化」とし、その「敵方の浜松城」はこの「戦略の範囲内」にあったのだ。
もっと云えば、「家臣の犠牲」の下で早々の体で逃げ帰った「一言坂の野戦の敗戦・本陣は戦場」としたのも、考えれば、元からこの「範囲内・浜松城より真東11k・二俣城から南16k3里から4里内・浜松城は南向きの三角形の頂点」に置かれていた事からなのだ。
依って「一言坂や三方ヶ原」にしても、この辺では戦略上の位置に置かれてるにも拘わらず「戦い」を無駄に仕掛けた「元々の松平軍の戦略の低さ・家康」が見えていたのだ。
況して勝てる見込みのない「狭い一言坂の野戦・時間稼ぎ家康説もある・江戸期の後付け」の「戦い」を仕掛けた理由も凡はその処は判る。
更に、「三方ヶ原」に於いても「額田青木氏と駿河青木氏」が合力と参戦しているこの「松平側」に「戦略の低さ」が目立ったのだ。
上記した様に「雑賀根来の傭兵軍団の憂き目」と同じ憂き目を「額田青木氏」にも「指揮官の戦略の低さ」から巻き込まれる可能性があったのだが何れにしてもその心もとなさが目立つものであった事に成る。
それが「浜松城軍議の命令拒絶」で「牛族を左右する憂き目」を免れたのだ。
後勘から観れば「長篠の傭兵軍団と同じ流れ」を踏んでいた事に成る。
この「活動圏の範囲」と「陣形の向き・北向き」に依って「陣形」を選ぶのが「戦いの常道」なのであったが、其れを「松平軍」は、何と「南向きの三角形の頂点・自分の城に対しての左向き」で“「西向き」”に執ったのだ。
本来では「浜松城」を背景に「北向きに採るのが常道」であった。
然し、これであれば松平側に執って「長期戦と成った時の補給路を断たれる事」は始めから判っていたのだ。
これを「武田軍側」から観れば、その「補給路」は「二俣城と堀江城」にあって困らないが、速くに「浜松城を攻め落とすと云う点」からは「今後の戦略上」では「最終補給拠点」の「三方ヶ原」は早期に是非に必要であった事に成るが、然し、その意味ではこの「陣形」では都合が良かった事に成る。
「浜松城落城後の西三河攻め」にしても、この「三方ヶ原」はその「補給中継点」としては絶好にいい位置にあったのだし、その為には「補給拠点・三方ヶ原」の近い「堀江城」は「西三河攻めの指揮の拠点の本陣」とする戦略でもあったのだ。
其れは、同時に既に、「3っの別動隊」に依って「背後の北三河」もほぼ手中に収めていたが、それは「足利将軍の信長征伐命」で「西」で引き付けられて苦戦している「織田軍の動向」にもあった。
つまり、この「織田氏の西の戦い」が解決する前に「本陣と補給点」を前提にして先に「東に拠点を構えて置く必要」が「武田軍側の戦略」にはあったのだ。

では、この「不思議な陣形を採った松平軍」は、これに対して薄々の「武田軍のこの行動」を読めていた「家康」は、これをさせまいとして「一言坂の野戦を仕掛ける事」で「武田軍の進軍」を留めて「軍監の織田軍の意思」を入れた“「時間稼ぎの行動」を示す事”で、つまり、「時間稼ぎ」を主張する「軍目付・軍監の圧力」の「賛同」が得られる様に敢えてしてしまった為に、その様に「陣構え」を「山県軍の別動隊の動向」も在りながらも、敢えて北向きでは無く、“「西向き」”にしたと読み取れる事にも成るのだ。
この「西向き」は、「山県軍の別動隊・二俣城の行動の情報から」を「補給実戦隊」と家康等は軽く見ていて計算に入れていなかった事にも成る。
これを計算に入れていれば、この「陣形」は「浜松城を背にして北向き」にする筈であった。
これであれば「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊の動向」も「空の浜松城」をも「戦いの中」に組み込める事と成る。
そもそも、「織田軍」が「援軍」を廻そうとすれば、「都田川の姫街道・8k−2h」を通過しなければならない訳であるから、その「三方ヶ原」の前に織田軍は「堀江城の武田軍の本隊」と「側面」を突かれて決戦をしなければ成らないし、又、下手をすれば「山県軍の別動隊の動向」に「正面を突かれる事」もあり得て、更には「山県軍の別動隊の動向」で「松平軍」は浜松城から出て「織田軍に合力すれる事」にも成れば、「山県軍の別動隊」に「浜松城を取られる事」もあり、「浜松城を出る事」は絶対に戦略上は出来なかった筈である。
従って、史実の通りに「織田軍の援軍」はあり得ないのであるし、無理に「浜松城の援軍」に向かえば「北三河」が落とされている現状では、北から「織田軍の左横腹」を突かれて進む事に成る等で現実は出来ないのだ。
つまり、この「自明の理の戦略状況」から元より「織田軍の援軍説は無かった事」に成り、当初より「信長」は「軍目付・軍監」だけで「南三河と西駿河の事」は治めて「時間稼ぎ」をする「目論み」であった事に成る。
其れも「織田軍」の「浜松城援軍の時間稼ぎ説」では無く、「織田軍」の為の「西三河攻めの時間稼ぎ説・昔からの領地続き争いの西三河」であった筈である。
つまり、これは「家康の思考」の中には「織田氏の援軍は無いもの」として、然る事乍ら、最早、余りにも「西三河」に「視点が行っていたと云う事」であるのだ。
その結果として「額田青木氏」が無理に呼び寄せられた「浜松城軍議で妥協案が出た事」から、これを読み切る事が出来なかった「美濃守備軍の平手軍・汎秀戦死」は、「信長の命に反して合力する事」と成って「平手一族」に対して「信長から強い叱責を受ける事の始末」と成ったのだ。
この「筆者」、即ち「額田青木氏の指揮官の考え」の「経緯の分析説・陣形の分析説」から観ると、故に「武田軍本隊と別動隊の大軍」も「北の三方ヶ原・補給拠点」にして、上記の「二拠点化戦術の常道手段」の通り「浜松城を陣取る事」にして構える事に成っていた筈であると説いている。
唯、確かにここを「本陣とする説」も考えられるが、地理的や地形的に「遠江の入り口の堀江城」を超えて「中に入らせる戦略」は常道ではないし、そもそもそうであった場合は「堀江城攻めは無駄に成る事」に成り、その意味が無くなるだろう。
そもそも既に、「浜松城の周囲全域の出城」を落とされていていれば、自然と「補給路を断たれ事で「浜松城は落ちる事」は「時間の問題」であって、「攻め落とした西駿河の安定の補給路」と「北三河攻めの補給路」を「三方ヶ原」に「大規模な補給拠点を造る事」さえ出来れば「総西攻めの為」にも「無駄な戦い」はしないであろう。
後は、「孤立した松平軍」に執っては密かに「海からの補給支援・南」に頼るしか無くなるのだ。
当然に「信長」も同然にこれを救う「強い水軍も持っていなかった事」の為に「充分な補給路の無い所」に「援軍を出す事は自らの首を絞めるだけ」で当初よりその「心算」は無かったのだ。

注釈として、前段でも論じたが、故に記録にある様に、この時、「伊勢水軍・伊勢衆は調略を受けなかった」が一部の小さい「尾張衆の知多衆」だけは受けたのであり、それと「熊野水軍・調略を受けた」に「調略」を掛けて来たのだ。そして最終は「熊野水軍」は調略に乗ったのだ。
此れには一つ問題があって、当時の水軍にはその「厳しい縄張りの掟」があって果たしてこれを破ってまでも浜松沖まで行くかは不可能な問題であった。
それは他の水軍から掟を破った事で「総攻め」を受ける事に成る。
背後から「伊勢水軍など軍団」から突かれればそれこそ戦わずして壊滅で憂き目を受ける。
何故ならば出過ぎた「熊野水軍の補給路」を接水運組合ので前段で断てばよいだけである。
通説が解いている「熊野水軍説」は100%あり得ず、又その勢力からも「紀伊水軍」や最大勢力を誇っていた「摂津水軍」の「組合連合軍を敵に廻す事」は不可能であった筈である。
当時は「堺に事務所を置いていた水軍組合」は一熊野地方の熊野水軍が幅を利かせる程では無く「絶大な権力とその勢力」を持っていた史実があるのだ。
従って、「熊野水軍の利用」は「信長のデスチャー」で現実的では無かったのだ。
さて、だからところが、「武田軍」には山国であった為に「陸揚げ」を遮るだけで「海での水軍・最大の欠点」は無かったのだが、そもそも“海で戦うその必要性は無かった”のだ。
結局はこの「水軍説」を根拠としている「熊野水軍説の通説」は合わないのだ。

さて、ここで「伊勢水軍の保護」の下で「摂津の水軍組合の一員」と成ったとする「本論」の「駿河水軍の青木貞治」の「キーポイント論」が出て来るのだ。
「駿河水軍の主」として育った「二俣城の副将の青木貞治の存在」は松平軍が求める「海からの支援・南」に執って“最大の重要ポイントの役目”であったのだ。
だとすると、「松平軍」には「駿河水軍の青木貞治の存在」は、「戦略上」では極め大きかった筈であるが、ところが「旗本の羨望」で実際上は「二俣城の副将の扱い」まででそれ以上の「その正統な扱い」を受けていなかった事なのだ。
「副将の青木貞治の存在」のそのものでは無く、その「異様な影の背景・旗本」はこれを敢えて認めようとしなかった事」にあったのだ。
そもそ、海から最も遠い「二俣城」に追い込めていたのだし作戦上からどう考えても変である。
史実の判っている後勘から考えても「軍としての指揮官の能力」を疑っていただろうし、駿河青木氏の貞治は当然の事として、「額田青木氏の指揮官の貞秀」から観ても大きな疑問を持っていただろう。

当然に、この「三河旗本羨望」とも成っていた「背景の一つ目」には、「青木貞治」に繋がる「額田青木氏の南下国衆の銃隊・伊勢の裔系」にもあった。
更に「背景の二つ目」には、「伊勢青木氏の財力」とその「伊勢シンジケート」と「伊勢水軍」は「海からの支援・南」を可能に成ら占めるにもあったし、その「実質の武力行使」では「秀郷流一門の抑止力の存在」が厳然とあった。
次の「背景の三つ目」には、「海」では「青木氏族」として「東は伊豆相模」まで「西は摂津瀬戸」に繋がっているのだ。
この総合力があったとして、この「三つの背景を実現させしめる手段・イ」は次の様に成っていただろう。

その「手段・イ」が果たして可能ならしめるのか検証して観る。
先ず、地形的には「馬込川・最狭川幅60m」より入り北に船で8k遡上し、そこで、陸路の真西に「六間通り」を1.5k経て真っすぐに「浜松城」に入れる。
故に地形的には「補給路」として充分に可能であった。
然し、ところがこの「三方を囲まれている場合」のこれを「可能ならしめる警備・武力」に付いての事も「松平側」には全くなかったのだ。
「武田氏」はこれを抑えれば「補給路の断絶」は可能となるし、奪取する事も容易に可能であった。
ところが、こんなに「重要な事」なのに「商記録」や「資料」や「手紙の行」や脚色編集されていると云えども「三河記録」にも、全くこの事に付いての影も形もが触れている処が全く無く、且つ、そもそも資料記録が遺されていないのだ。
間違いなく、「青木貞治の手」で駿河水軍・伊勢水軍の支援」を使ってこの「補給路作戦、又は計画」を実行していた筈である。
それは「東からの秀郷流一門からの補給路の作戦」も考えられただろうが、それに関わる様な記録や資料とそれを物語るような語句や行等は不思議に全く何もないのだ。
この「松平氏の恥辱と成るような資料一切」が後で消された可能性がある。
つまり、筆者が論じたい事は次の事である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300銃隊+50荷駄隊」を「吉田城の守備隊」から、突然、「当初の国衆約定」と異なり「浜松城」に呼び出した。
そして「軍議」に於いて「二つの事」を命じられそうに成った。
その目的の「一つ目」は、「籠城戦」を止めて野戦と成った場合に、その「陣形・鶴翼」の中心に「南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」を「実戦隊の中心」に据えて「不利な形勢」を変えて勝利出来る様にする事であった。
確かに、これでは「鶴翼の陣形で効果を発揮し勝つ見込み」はあったが、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」にも、「雑賀根来傭兵軍団」と同じくそれなりに無傷では行かずに「大きな犠牲を伴う事」は必然の理であった。
然し、これはそもそも「国衆と成った時の約定」とは違う。
結果は、前段でも論じた通り、これを断り、「城」より放り出され、意味の無い「一言坂偵察」として派遣された経緯と成ったのだ。
目的の「二つ目」は、「籠城戦と成った場合」に本論上記した「伊勢と武蔵の協力」、つまり、「水軍に依る補給路の確保」と「補給の態勢造り」にあった様でこれも断ったのだ。
確かに「水軍を持ち得ない敵である事」から「戦場域」では襲われる危険性は少ない。
然し、既に「武田氏の手中」にあった「同族の信濃と諏訪の安全」と、片脚を掛けていながら「中立」を見せている「伊勢の安全・掟に依り直接侵攻は無い」は保障できない。
取り分け、「信濃と諏訪の安全」は、そもそも既に「武田軍中」にあって侵されている事から、これを盾に脅して来る事は充分にあった。
既に「筆者・額田青木氏の指揮官の考えとしてみる」は「脅しや牽制」に付いては「信濃」を介して事前に有ったと観ている。
筆者は、「松平氏の戦い」に必要以上に肩入れする必要も無い故に即座に断ったと観ているのだ。
目的の「一つ目」を遣らないのであれば、目的の「二つ目」も遣らないのが「理」であって、この逆の事も云える。
ところが次の目的の「三つ目」があった。
それは、「額田青木氏」の「基」に成っている「西」の「伊勢の影の勢力・伊勢シンジケート・伊勢屋を含む」と、「駿河青木氏」の「基」に成っている「東の武蔵の秀郷一門の勢力・地場産を扱う商い・長嶋屋等含む」とを、「背景」にする為には、この「二つの抑止力」を「松平軍が獲得・合力」が成立出来得れば、「浜松城の籠城戦」は充分に勝てると確かに見込める。
そもそも、「軍議の為」に態々三河の「吉田城の任」を解き呼び寄せたのであるのだから、「松平軍の基本戦略」は、その“「二つの象徴を味方にし呼び寄せたいと云う事」”では無かったかと観ているのだ。
そして、そこに「額田青木氏・伊勢青木氏裔系」と同縁族の「駿河青木氏・秀郷流青木氏裔系」を「背景に着ける戦略」であったのではないか。
然し、この「三つの何れ」も断ったのだ。
「結果の答え」は「旗本との軋轢・前段論じた」が在った以上は論じなくても解る。
この「軍議の末」の「籠城戦」は、これで論理的に崩れ、「野戦を選ばなくてはならない事」と成ったのだと考えられる。
その表れが、「補給基地の三方ヶ原」にあって、前段で論じた通り「密かに助け合う額田青木氏と駿河青木氏の行動」と成って現れたのだ。
これ等の「統一した行動」は、「伊勢青木氏裔系」と「秀郷流青木氏裔系」の「女系族の裔系の青木氏存続の氏是の所以」から成したものであったのだ。

ここで余談だが「浜松城の軍議」では、「青木貞秀・指揮官」も「青木貞重・額田青木氏の差配頭」も「青木貞治・額田青木氏」も「青木・・のこの三人の指揮官」も「嫉妬羨望の旗本」からの「相当な身の危険」もあったのではないかとまで観ている。
その最悪の場合には、「額田青木氏の銃弾」は「城」に向かって一斉に炸裂していたであろうし、其の「後の事」として「松平軍」は最早無く成っていた事にも成っていただろう。
そして「額田青木氏」も「駿河青木氏」も「安全な伊勢」に近い「三河伊川津」と「秀郷流一門」に近い「遠江・駿河」に直ちに戻ったであろう。
「三方ヶ原」での「上記の経緯の結果論」は、上記の「三つの何れの結果と同じであった事」を考え合わせると、この「歴史観」は先ず間違いでは無かった事に成るだろう。
そもそも、「武田軍」も「織田軍」もこの場合の方が傷を得ずして何事も無く都合は良かった筈と成る。
ところが結果として、「額田青木氏の銃隊」を呼び寄せたが「思惑」が外れて「額田青木氏」だけは“「城外に出された事に成った・史実」”のだ。
この直前までは「武田軍・早期奪取」にしても「松平軍・時間稼ぎ」にしても両者ともに戦略的に「同じ考え・籠城」であった事に成る。
然し、「額田青木氏」を訓練させて「近代銃」を持たせ「信長の戦略」で消失した「伊勢と伊豆間の中継点」の「再構築」を目論み「伊川津・渥美湾の制海権獲得」で行おうとして、その「権利」を獲得した「伊川津国衆としての約定」にも反して「呼び寄せられた軍議」で決然として断ったのだ。
ところが、当初は「通常の考え方」からすれば「野戦」では無く「籠城」と観ての「時間稼ぎ・松平軍」であったと観ていた。
この為に「紛糾した軍議」から外された「額田青木氏の銃隊」も、最初は「情報」の無い中で作戦的には予想通りに“「浜松城での籠城」”と考えていて、外された「軍議の結果の命令」を受けて、事を荒立てて行き成りに「伊川津・吉田城」に帰る事もせずに駿河青木氏の事もあって「様子見をする事」と成ったのだ。
そこで何れにしても、兎も角も「武田軍の動向を探る・意味無」の為にも「偵察隊としての名目の任」を受けて仕方なく「一言坂・前段の遭遇戦」に向かったのだ。
其の後、その「堀江城の途中」まで後尾に着いてそれを「追尾する形での過程」で、そのつもりで「様子見の追尾」では居たが、その途中で、“其の後の浜松城で軍議に異変が起こっている”のを、「余りの速さ」で「内部機密情報・駿河青木貞治から忍者を通じて」で情報を逸早く獲得し「異変」に気付くのである。
この「意外な展開の経緯」から、一応は「偵察隊としての名目命令」を受けた段階で、それを“断った以上は「籠城戦に成る」と把握していたので、武田軍本隊の追尾途中では、「駿河青木氏の青木貞治隊」を護る為に未だ「浜松城周辺に戻る予定・額田青木氏」ではあった。
然し、そこでこの「情報」を得て「駿河青木氏を救う」のは「三方ヶ原」しかないとしてそれに向けて踵を返したのだ。
この「青木貞治の情報」の中には、「三方ヶ原と指定していた可能性」があるからだ。
何故ならば、「青木氏族の将来の事・子孫存続」を考え合わせれば、“「浜松城・激戦」”よりも、“「三方ヶ原決戦」”を選んでいた可能性があるからだ。
結果として、その様に上手く運んだのは、「この駿河青木氏との情報の打合わせ」に依るだろう。
そうでなければ「戦場で無傷で救い出す事」は出来なかった筈だ。
結果として、「軍議の拒絶反発」での「偵察隊として命令・表向き」を受けていながらも、寧ろ、この「表向き命令」で「自由行動を採れた事」が幸いしたのだ。
そうでなければ、「伊川津国衆」と云えども「軍議の命令」に縛られていた筈である。
だから「三方ヶ原から伊川津」に直接戻った「額田青木氏」は「国衆」を直ちに辞し「開発業と陸運業と殖産業」に勤しんだのだ。

(参考として「上記の経緯」から観て、「絆の貞秀・貞治・貞重の呼称の経緯」は起こらなかった筈だし、「前段の額田青木氏の銃隊の差配頭の貞重の呼称の推論」に付いては、“「貞重の呼称」”がこの「状況証拠の経緯」の中で出て来る事は無く間違いは無いと考えられる。
故に此処では貞重を使う事にする。)

唯、未だ、「陸運業等の形」は整えたとすれど「松平氏の行く末」に依っては「渥美湾の制海権の獲得の行方」は「2年後の長篠結末」までには「既成の事実」としながらも夢中の中にあったのだ。
「名目」は「籠城戦の為の情報収集の偵察隊であった事」に成るが、そもそも「一言坂の武田軍の本隊の動向・城から見えていた」が、その「目的」と成るが、前段の検証でも「海抜300m城の天守閣」からは充分にその行動は観えていたのだ。
だからこの「名目偵察」は「完全な名目で在った事」が解る。
そもそも、この「目的」はそれが「本来の偵察隊」であり、一度、「松平軍」は「野戦・一言坂」に出て戦って敗戦しているので、「本隊を動かす事」は出来ず「吉田城守備隊」にいた「伊川津国衆と成った銃を持つ額田青木氏」を呼び出して、それも「銃力のある南下国衆」にこの「命令」を出したという事に概要の経緯は成る。
其処にこの「重点」があって、そもそも、検証ではその「一言坂・17m上」は「10k先」の「浜松城・天守37.5m」からは「20m下」に障害物無くはっきりと見えていた筈なのだ。
間違いなく「偵察の意味」が違っていたのだ。
「偵察隊を名目」に「城」から放り出されて、その「松平軍」が既に「野戦」で負けていた「武田軍の本隊の存在する一言坂」に先ず向かったと云う事であるのだ。
この「呼び出した後の軍議」では、「三つの命令」に従わなかった「南下国衆の銃隊」に向かって“「意味の無い偵察隊」”としたのは、そもそも“「意味の無い」”に意味があって、「武田軍に殲滅される命令」を「罰として下した事」なのではないかと観ているのだが結果は逆に何とその銃力で勝利するのだ。
一度、家康は「野戦」をしてその実情は命の危険から脱して敗戦し、故にその力は充分に知っているし、「城」からも観えている各所で戦った「武田軍」でもある。
「今更の偵察」では無いだろう。
ところが、その「結果」は逆であって「勝利」してゆっくりと警戒をしながら坂を下りて「浜松城の斜め横の丘」に陣取った「史実」と成るのだがこれも城から観えていたであろう。
「額田青木氏の銃隊の今までに経験してこなかった威力」を知って「武田軍」は追尾して来なかったのだ。
当然に松平軍も「城」からこの「銃撃の状況」も充分に見えていた筈である。
「城から追い出した張本人の旗本ら」は、内心、「南下国衆の銃隊」に対して「初経験の恐怖」を抱いていたのではないか。
「筆者・額田青木氏の指揮官の目」は、これを観て「城の東の丘」に隠れた「南下国衆の銃隊」を、再び「野戦の三方ヶ原の陣形」に加えた時に、旗本達は「やり返し」を受けて“自分たちの命が危ない”としたのではないか。
当然にそうなるだろうしならない方が可笑しい。
これが「軍議の事の出来事・命令拒絶」もあったが、この「恐怖」から初めから「三方ヶ原の不思議な陣形」などに一切に加えなかった理由もここにあったと観ているのだ。
故に、その「陣形」の中で「額田青木氏の銃隊」が「青木貞治隊だけを救い出した事」にも口を出せなかったのだ。
普通なら他も救い出すだろうし、其れもせずに直ちに「戦線離脱」してそれも「吉田城・国衆の本来の役目」では無く「伊川津」に引き上げて仕舞ったのだ。
この意味は大きい。
これは、今後、「松平軍」に「伊川津国衆として関わらない」とする姿勢を示した事と成るだろう。
そうなれば、今度は「伊川津」で「弱った松平軍との戦い」と成るが、それは起絶対に起こらない理屈に成る。
それは次の四つの事だ。
一つ目は「三方ヶ原の敗戦」の後に余力は無い事。
二つ目は「銃隊の威力」に対する恐れがある事。
三つ目は「家康の配慮」でこれを止めた事。
特に、この三つ目が重要で、寧ろ、「国衆としての名目だけの武力」ではなく「周囲」に対して“「敗戦後の三河」には未だ「銃の威力」があるぞ”とするもので、「織田軍と武田軍」に対しても「その誇示をして利用しよう」とし牽制したのでは無いか。
四つ目は「額田青木氏の背後」にある「秀郷流青木氏の武力」と「伊勢青木氏の財力」の「誇示と今後の利用に在った」と観える。
その為にも、「敗戦後」の直ぐにも如何にも「三方ヶ原の功労者」の様に見せつけて「伊川津の国衆・額田青木氏で伊勢をも誇示」をも目的として、そして「渥美湾の制海権の利用」と「三河の開発業と陸運業と殖産業」を許可して、この関係性を松平氏は世間に対して強く見せつけたのだ。

その後の現実には、検証すると「三方ヶ原の敗戦後」にこの様に「四つの経緯」は動いて行くのだ。
「三方ヶ原の戦い前と戦い後」に「三河旗本」などは、“自分たちにも銃口を向けられるのではないか”と、「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍以上」に「恐怖」を抱いていたのではないか。
この事は、兎も角も「伊川津」に戻ったが、何と「羨望の先頭を走っていた伊川津国衆」から伸し上がった「下級旗本」が、なんと「田原と豊橋間に住み着いた事」から、尚更の事と成った。
そこで「古神明社」を境にして東西を東に向けて「壁」を造りここ「銃を構えた防衛線」を敷く事に成ったのだ。
これ以上に「無駄な摩擦を避ける意味」でも「額田青木氏の思惑」にもこの感覚は強くあったと観ている。
現実に、その後の「旗本の羨望」は下火と成り、その後の「額田青木氏」の三河に貢献する等でも、この「旗本等」は物が言えなく成り、この「思惑」は非常に効いたのだ。
唯、この「羨望」は「享保期・享保の改革先導」に成って再び噴出する事と成ったのだ。
物を云えば、「主君行動に異議を唱える事」に成るなどの風潮が享保の幕府内に興ったのだ。
その「不満の捌け口」と成ったと云う事だ。
唯、一人だけ恣意的なのか本気なのか「織田領地との係争地の西三河で反発・宗教一揆など興す・額田青木氏が伊川津国衆に成っている時から」をした「旗本」がいた。
この時、一時、家康の不満から「三河から引き下がる事をした者」が居て、其の後にこの「者・本多・蜂屋等」は、「旗本重臣の大久保氏・伊川津元田原」の「計らい・参謀に」で「三方ヶ原後」に「影の活動家の参謀・意味あり」と成って、こっそりと「旗本」に戻った者が居た事が判っている。
筆者は、江戸期に成って再燃するも一時的に通説と違い恣意的に動いたと観ているのだ。
「額田青木氏が伊川津の国衆」に成った事を観て、“これは拙い”としてこれに「圧力」を加える為に「織田領地との係争地の西三河」に、「織田氏」は「宗教戦争・口実は別」に見せかけて「圧力」を掛けて来たと考えられる。
それ程に「伊勢青木氏の財力と水軍力」と「額田青木氏とその銃力」と「秀郷流青木氏の武力勢力」は、無視できない「絶対的な勢力」として「織田氏と松平氏」には浸みこみ、更に「伊川津の国衆と成った事」で無視できない「脅威」と観て一目を置いて数年燻っていたのだ。
それ故に興った「旗本を巻き込んだ関連の一揆」であって、この時の感情が「浜松城の軍議・軍監の意中」の中に在ったと観ていて、始めから「織田氏は援助や大きな犠牲を払らう事」のつもりは無かった筈であったのだ。
その為にも「織田軍」に執っては、先ずは「武田軍の二拠点化」を防ぐ為にも、又「補給の陣形・織田軍」を充分とさせる為にも、「最低限に西三河・最大は南三河」を制しておく必要があったのだ。
だから「松平軍」には、これをさせない為にも「三方ヶ原後」に上記のこの「青木氏の三つの勢力」を「南三河の伊川津に留め置く戦略」が必要であったのだと考察する。

さて話は戻って、だとすると、「額田青木氏の銃隊」は「武田軍」をそもそもの「敵」と観ず、「山県軍の別動隊」は直ぐ横の「鶴翼の側面」から突破して来た事から止む無く、「自らの身を護る為」と「青木貞治隊を救い出す為」にも「額田の近代銃の銃口」を彼等に向けた所以と成り得る。
結果は、再び「一言坂で経験している武田軍」に向かって「弾幕」を張って「無事に救い出す事」は出来たが、「山県軍の別動隊」に仕方なく「大犠牲を負わした事」には成ったと云う詳細結末と成るであろう。
だから、「救い出した後」に「武田軍の本隊」に向けて、更に「銃口を向ける事」も充分にあり得たが、それもせずにすぐさま「戦線離脱」をした所以なのだ。
更には、故に「三方ヶ原後の掃討作戦」でも、逃げ込んだ「駿河青木氏の盤田見附の西光寺の検索」も、又、経験した「銃の危険」を避ける意味でも無事に避けられたのだ。
「銃に対する危険」を考えて深く捜索を敢えて避けたと観ているのだ。

次に更に、ここでも「詳細経緯」として「南下国衆の青木氏からの疑問」があるのだ。
それは「天竜川の圷」に出来た「浜松城」から同じ圷内の「真東11k先の坂下・一言坂―盤田」にいた「武田軍の本隊」を「浜松城」からはハッキリと「敗戦後の動向」は目で観えていた筈である。
この「敗戦した一言坂」から「盤田の西光寺・青木貞治菩提寺」までたった真東1kにあるのだ。
要するに「一言坂の戦場内」である。
其れなのに、経験し観えていたのに、且つ、敗戦しているのに、今更“「偵察隊」とは何なのか”である。
そもそもこれでは「偵察のそもそもの意味」は無い。
つまり、詳細経緯としてこれが疑問を解く最大の解明点なのである。
結局は、結論として、「松平軍」では「兵に依る時間稼ぎは無理」と観て、当初は“「銃隊」で「時間稼ぎ」をする予定”であったとも考えられるが、然しこれも断ったのだ。
上記が「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」である。
果たしてこれもそうであろうか、これも検証する。
確かにこれであれば間尺は合うが、「青木氏側の断片資料」から観た処では、これは「後付けで脚色した事」に成り、この説はあり得ない。
そこで、この時の「詳細の状況」を戻って検証して観た。
つまり、「軍目付・軍監の意見」の通りの「籠城戦」に近い「時間稼ぎ」をして「同意」を得ようとしたとするのは経緯からしても充分に考えられる。
それにしても「家康命拾いの野戦・1度目の一言坂」も、且つ、二度目の“「銃力で押し返した銃隊」”も史実であって、それは当初より危険な事ではあった。
其れなのに、直ぐその後には、「武田軍の本隊」が「山県軍の別動隊」より、先に「松平氏側の補給拠点確保と云う野戦を選んで仕舞った事・上記の三つの行詰」であって、今度は流石に「同意・織田軍軍監の同意・上記の意思無し」は「史実の通り」に得られなかったのだ。
この様に「松平軍」は三度も失敗しているのに「軍目付」としてはそもそもOKは出せないだろう。
要するに「無理な一言坂の時間稼ぎの実行」で、これを主張していた「軍目付・軍監・3氏の援軍・1.5〜0.3万説は無理・後付け説」の「安易な興味本位の援軍説」もあるが、そもそも、「軍監」とは「援軍」を以て参加するのではなく「意見の具申」と「謀叛の見張り役」として参加するものである。
この点から考えて、これは「織田軍の軍監の守備隊」としては納得できる充分な程の多すぎる軍勢説であったが、これがそもそも「尾張国元・お膝下」の「尾張と美濃」に遺した「二つの守備隊・記録に記載・この説では国元が空に成る」であった。
然し、ここから果たして「三河・駿河」に「援軍」を割いて「戦記通りの兵数を送る事・1.5〜0.3万」は120%無いだろう。
精々、この「100から200程度の守備兵」で当時の世間の原則通りの「1騎2将の兵数」にした筈である。
現実には「三軍監」にもされていない「平手汎秀・意見が違った」だけを残して戦い3日前に去ったのは事前の建前を実行したに過ぎずこの限りにある事に在る。
そもそも、この「援軍」も「美濃・尾張の留守中にする始末」では無く、それこそ名目上とすればこの「通説の数」は勿論の事で、その「援軍」そのものが「本末転倒の援軍」であった筈であり、この通説論は間違いなく「後の脚色論」であるだろう。
筆者が「武田氏」であるのなら、つまり、「浜松城」を牽制しながらも外に誘い出して、其れなら空と成った同然の「背後の尾張と美濃を攻め落とす方」を先にして、戦略上ではその後に「浜松城を攻める方が有利」と考える。
要するに「誘出作戦」である。
「史実」はそれをしなかったのは「軍目付の守備隊を一兵も動かしていなかった事」にも成るのだ。
同盟を結んでいる以上は、「三軍目付・軍監・林秀貞・佐久間信盛・水野信元」として「代理の者」を差し向けた程度であろう。
それが重要な事は「戦死したのは平手汎秀であったと云う事・病弱でこの後父は早々と汎秀を残し撤退し後に信長に追放されるも、本人もその能力で家康から侮辱を受けたが、この後に“汎秀を見殺しにした”とするは「信長の大義の名目理由」に間違いなく成る。
然し、「松平軍」に「本末転倒の援軍を送る事」は出来る事は先ず無く、実際は「軍監」を護る為の「100にも観たない数・一騎の50との説も」だったと考えられるのだ。
現実に多くなれば成る程に、それだけ「援軍」を「浜松城の中に居れる事」は「面積と補給などの点」から考えても無理であって、そう成っていれば「武田軍一言坂母待つの通過時」には「外の野営」では潰されていた筈だが、どの戦記にもこの事は一切触れられていない。
筆者は、故に殆ど「代理の軍目付・軍監」だけの100より少ない「数十名・50」に過ぎなかったと考えている。
殆どはこれは当に江戸期の「軍記戦記・脚色漬け・面白おかしくする為・流行した」の「後付け説」である。
筆者は、「吉田城の守備隊」としていた処を呼び出され、「軍議」で「初期の契約目的」を考え「国衆契約の条件の違約」から、間違いなく「軍勢の中心に据えらる事等の三つの命令」を拒絶したと考えられるのだ。
故に、この事で外に放り出され「半殺し目的の疑問の偵察隊」と成ったのだ。
然し、「額田青木氏の近代銃」で「武田軍の本隊」に完璧に勝ったのだ。
その様を城から観えていたのだし、「旗本」はこれでも「恐怖」を抱いたと考えられる。
上記の「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」は、自分たちが何度も負けている「武田軍の本隊」に対して、この「額田青木氏の南下国衆」の「一言坂の完全勝利」で、「松平軍の時間稼ぎの思惑」は完全に無く成ったのだ。
要するに、「南下国衆の犠牲」で“銃撃戦で時間が稼げる”と観ていた事も潰えたのだ。
これは「命令拒絶」では無く、「独自行動」で解決したのだ。
其の後に「旗本」は、「銃口」を自分たちに向けられた場合の“身の危険と恐怖そのものを間違いなく抱いた”であったろう。
「其の後の行動」も、“記録通りに自由に行動している”のはこの所以であろうし、「戦線離脱」も、そして「伊川津」に戻ったのも、「陸運業・殖産業・開発業」にすぐさま転身したのも、この事による“「自由行動」”に基づいているのだ。
故に、「絆での結ばれた青木貞治」も情報提供し続けたのだ。
そして「誰の命令」でも無く“「命の危険を冒しての自由行動」”として「貞の絆の救出」をしたのだ。
それも、普通なら、戦線からの救出後、盤田見附まで届けて引き下がるが、「三方ヶ原救出」だけで留まり、「盤田の西光寺までの救出」では無かったのだし、更には普通なら、“「青木貞治隊以外」にも救出したらどうか”と云う考えも起こるが、「壊滅混乱の中」でも旗本を救出せずに引き上げたのだ。
「自由行動」であったとすれば、当然に、「三方ヶ原の停戦後の2年間」の間に「青木氏族」は、罰せられるか、「旗本」から「口述攻撃」をされていた筈である。
でも、全くその逆であった。
そもそも、「罰する事」は、「国衆」で無くても「三河」に居る限りに於いては出来た筈だ。
実際には松平軍にはその力は無かったし、筆者は家康の計算が合ったと考えている。
然し、「額田青木氏」に執っては国衆から抜けて「伊川津」に居続ける事は彼等に執つては“「恐怖」”でそもそも出来なかったのであろう。
それは「彼等の脳裏」には、「拭う事の出来ない銃の脅威」と、「弁解の着かない青木氏族の格式」があったからなのだ。
「国衆」から辞しても「護身用として持ち続けた銃」は、この“いざと云う時の「抑止力」”を働かせたのだ。
だから、この「背景」があるからこそ手放さなかったのだし、その後の事にもこの「銃の抑止力」を持たせたのだ。
「三河旗本」に執っては「歯ぎしりの限り」であったろう。
此れらの根底には、「約定」を破り「呼びつけて置いて外に放り出した事」があった事も否めない。
但し、寧ろ、後勘から観れば「青木氏族」に執つてはこれの方が良かったのだ。
先ず、それには「伊川津国衆」を辞めて「陸運業等の商族・企業家」に転身していた事にある。
つまり、「抑止力の強い民間の商人と成った事」で、「表向き」に罰し攻め立てる事は出来なくなった事である。
寧ろ、それには、戦後、「敗戦で弱った松平氏」を「強める効能の方」に「家康自身」は舵を切ったのだ。
寧ろ、「秀郷流一門・青木氏の抑止力」と「伊勢青木氏の財力と抑止力」を味方に着けたかった事であった。
それには、“「青木氏族」にそれ相当の実利を与える必要があった”のだ。
「伊勢青木氏」には、要求通りに「渥美湾の制海権」を認め、「伊勢秀郷流青木氏」には、「三河の開発業の権利」を認め、「東の秀郷流青木氏・駿河青木氏」には、「青木貞治の裔系」を「家臣」にして引き上げると云う「策・御側衆旗本」に出たのだ。
その事で、「三河の民」は富み、「松平氏」には当然の事として「莫大な税と献納金」が入り、「急速に松平氏の復興を遂げさせる事」が出来、結果として他国から「商いの流れを呼び込む事」が出来ると踏んだのだ。
当然に、「青木氏族」にも「同じ事・相互利益」が云えたのだ。
「駿河青木氏」のみならず「一族の相模青木氏等」は「水運と陸運の復元」で「商いの還流・長嶋屋が窓口」を「武蔵・越後まで波及」に呼び込み栄えて富むのだし、現実に富ましたのだ。

「三方ヶ原の軍議の命拒絶」をし「額田青木氏を救った後」に「伊川津に独断で戻った事」が、この時に、弱っていた「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」が考えられたが、上記の通りに無かったのだし、寧ろ、「逆のシナリオ」と成ったが。
では何故なかったのかである。
記録が見つからないが、恐らくは、普通のシナリオからは伊川津国衆として命令拒絶の形が出来ている以上はあるが、筆者は次の事で「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」は最早無かったのだと考えているのだ。
当然に「事前の銃の恐ろしさ」を経験していて無理だと云う事は判ってし、「家康の命」は違っていて、それ以上は出来なかったと云う事は判るが、その経緯の中には次の事があったと観ているのだ。
それは、一つは[渥美湾に伊勢水軍を配置した事」と、二つは「藤沢まで秀郷流青木氏を主軍として秀郷流一門の軍を廻した事で牽制したと観ている。
これは「伊勢青木氏の資料」の何処かにその中にしか遺されない記録である故に解明は難しい。
其の上で、明治35年まで3度の大火を被っているし、「室町期の2度の紀州攻め」と「江戸期の神明社・春日社と清光寺・西光寺の幕府没収」で記録資料は飛散している現実もある。
これには「伝統の大事な記録」を隠す為に南紀と南勢の「旧領地の家人や氏人の家」に移されていた現実があって、故にこれ等に関する資料と記録は未だ見つけられていないのだ。
然し、筆者はこの時の「青木氏一族」が「非常事態の経緯」として普通に考えれば「上記の二つの事」を採ったと観ているのだ。
「額田青木氏」と「駿河青木氏」を再興して力を持たせ「三方ヶ原と云う災難」に巻き込まれた事態に何もしない訳では無い筈だ。

この詳細は前段を参考にして頂くとして、そもそも「伊川津と云う土地」は「有名な不毛の地」であり、「奈良期からの神明社の関係」で維持していた「伊豆まで補給路」を信長に寄って寸断されたとしても、依然として松平氏との間で「渥美湾の利用権」を獲得し「渥美への糧の補給路・片道2時間」を構築していた。
この事を以てすれば、「非常事態には対処しない事」は100%あり得ないだろう。
急遽、「伊勢水軍」を渥美湾内海田原に廻して補給も含めて態勢を構えたと考えられ、「額田青木氏」は「渥美半島の細長い半島」の「田原と豊橋の境界」にこの「銃隊」を東向き構えて防御策を執った事も判る。
この「田原の古神明社」の内海側には三方ヶ原の前には「3人の土豪・後に旗本・大久保氏等・羨望の主導者」が田原城を築いて入植していたのだ。
従って、この僅か西側に「銃隊の防御策」を東に向けて半島を南北に横切る様に構築し、背後に「東三河の駿河青木氏」と「藤枝の秀郷流青木氏」を「牽制策]として構えたと考えられる。
この「三方ヶ原後の牽制策」は、それもわざとらしく無く、それでいて「見せつけ効果を狙ったもの」であったと考えられる。
これでは「羨望の塊の旗本」は元より「松平軍」もその気であって何も出来なかった筈であり弱体と成っている「三方ヶ原後事」とすれば到底出来る事では無かった筈で、家康は「浮薄な旗本の力」を抑えて、「額田青木氏のこの力・銃力とその背後の財力と東の秀郷流青木氏に繋がる一族一門の勢力」を利用する方向に現実的に舵を切ったと考えられる。
「三方ヶ原の後頃」に「額田青木氏の四家・四神明社」の「渥美半島の西側域」に「居住していた地域」と「古神明社付近」の「御屋敷と云う役所・現地役所・地名」には「これらに関する関係する逸話」が遺されていて、その“「家康」がよく訪ねて来ていた”とあり、これは「奈良期からの青木氏の守護神の古神明社を名目上で訪ねた事・裏意は額田青木氏を訪ねた事に成る」を意味する。
前段でも詳細を論じたがこの様な事もあり、「長篠までの2年間」の経緯ては「驚くほどの復興・信長警戒」を遂げたのだ。
何時の世も「莫大な経済的背景」が無ければこの様な事が興らない事は「自明の理」である。
「三方ヶ原の直後」から「三河」で「開発業と殖産業・前段で詳細」に携わり、この為に「伊川津」とは別に「古神明社が存在する3カ所」を「専属の居住地・前段」として「北側の青木村」を始めとして「11カ所・地権を認められた定住地」までも認められているのだ。
これも「伊勢の事お構いなしのお定め書」に繋がった所以の一つでもあるのだ。

要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。

この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これが「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を持って立ち回った氏族であった事」が良く判る。
上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。

「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」に続く。(118P)


  [No.395] Re:「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/04/15(Fri) 11:21:52

「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」の末尾

> 要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
> 「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
> それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
> それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
>
> この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
> 当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
> 筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
> 「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
> だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
> 家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これの「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
> 筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
> それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
> 「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
> この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を以て立ち回った氏族であった事」が良く判る。
> 上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
> それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
> この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
> 「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。


「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」


さて、再び元に戻して、この様に「予定の籠城」をせずに再び「野戦」を選んだ処から「家康の判断」が「狂い始めた事」に成る。
そこで「額田青木氏の銃隊」は「青木貞治の軍議の内部情報」を得て慌てて武田軍後尾を追尾するのを止めて「青木貞治隊の救出」の為に「三方ヶ原に走る事」と成ったのである。
「籠城」は「吉田城」で観る様に、それの方が「銃隊の効果」が出ると考えていたし、「武田軍の本隊」もこの「銃の脅威」に対して、一度は、「第一次吉田城攻め・籠城」で経験しているし、二度目は「一言坂下の遭遇戦」で経験しているし、この「銃の威力」を生かすには“「籠城作戦」”が効果的作戦である事」を「両軍」ともに充分に認識している筈であった。
それ故に「南下国衆の銃隊」を急遽、「吉田城」から呼び寄せたのだ。
ところが先に論じた様に「軍議」では、初めから「援軍を送る心算」の無い「織田氏の軍目付・軍監達」は、飽く迄も「籠城とその為に依って起こる時間稼ぎ」を主張していた事が判る。
「籠城戦を決定する」の為の「命令・三つの命」を駆け付けた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して命じたが、「軍議」では「額田青木氏の本来の目的」では無かった事でこれを蹴ったのだ。
「松平氏の旗本」は勿論の事、命令を「勘違い・国衆約定を忘却」して受けるものとして観ていたし、「織田氏の軍目付・軍艦」もその様に聞いていて驚いたであろうし、内に秘めた「思惑・時間稼ぎの計画」は内心狂ったと思っただろう。
と云う「事前の論筋」から呼び出す前に「事前の軍議」で検討され、決定してそれを伝えたと云う事に成る。
「松平軍」としては「命令」を受け入れるものとして考えていたがその立場を軍監の前で失ったのだ。
其れは「条件付きの伊川津国衆・約定」であって、それを「家康」が契約を破った以上は「額田青木氏」は断る以外には無かったし、この「危険リスクを負う事」は当初よりその「命令破りのリスク」はあったが、どう出るかは「指揮官の伊勢秀郷流青木氏・貞秀」と「額田青木氏の差配頭・貞重」は城から出て様子を見たが、「秀郷流駿河青木氏一族の青木貞治等」はどの様な行動に出るが緊迫して、外の行動を案じていた。
「松平軍」は果たして「額田青木氏の銃隊」に対して攻撃に出て来るのかを観ていたが、答えは「時間稼ぎ・偵察隊・遭遇戦の命」であったのである。
故に、外の「額田青木氏」にこの「命」を伝えに来たのは間違いなく、それは「秀郷流駿河青木氏・貞治」で在ったろう。
そもそも、この時点で、最早、「額田青木氏」に執つては「松平軍の命」に従う必要があったかは疑問であるが、此処で「戦いを興す事」より「伊川津に戻っての事の方」が「リスク」は少なく都合が良くそのタイミングを計っていて我慢していたと云う事ではないか。
何故ならば、そもそもこの「命」には「軍議の密かな思惑」があったのだ。
「反発して来た旗本等」が直前に経験している“「一言坂に在る強い武田軍の本隊」に飲み込まれて滅するであろう”とする「読みの命」であったのだ。
これは「自ら手を施す事」なく罰する事は出来るしと同時に、時間を稼げると観ていた。
ところが、この“読みは見事に崩れた”のだ。
この「詳細な経緯」を「城」から観ていた「松平軍」は、「額田青木氏の銃隊」は時間を経て見事に勝利し、故に、先に「西の坂下」に降りて再び「武田軍の本隊の浜松城通過の出方」を待ったのだ。
その上で先ずは“「浜松城の右横小丘」”に着き、「両軍の出方を観る為に監視していた事」が資料から解る。
では、この「詳細経緯」としては“これは何故か”である。
最早、「命令を拒んだ以上」は「浜松城に留まる必要性」は全く無く成り、且つ、「伊川津国衆」として存在する理由は無くなったのだ。
そこで、この行動はそれは“伊川津に戻るタイミングを計っていた”のだと成るだろう。
「額田青木氏の銃隊の南下国衆」はそもそも「防御の銃隊」であって、「武田軍」に対して背後を突いて潰すのが戦略で無かった筈で、では「武田軍の前」を伊川津に引くのは「背後を突かれる危険」があり、故に「武田軍の本隊」が「浜松城通過の後」を「追尾する事」にして堀江城の手前のここで待っていたのだ。
然し、兎も角も「額田青木氏の南下国衆の銃隊として」の形上は「軍議の命」を果たす様子を見せながらも待ったが、処が「松平軍は違った行動」を採ったのだ。
それは、そこで、追尾中の「額田青木氏の銃隊」は普通なら得られる事の無い「軍議の密議の結果・野戦を選んだの情報」を、「後勘の経緯」を積み上げた事から観て、“間一髪に逸早く獲得した”のだ。
それは「旗本からの非難」を受けながらも何とかこの「軍議」に残った「駿河青木氏の青木貞治隊」は、「追尾中の額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して“「重要な連絡」”を密かに採った事に成るのだ。
そこで慌てて、「青木氏の資料記録から分析」では、「北の三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の銃隊」は、「執るべき方針・目的」を定め直して「青木貞治の一族隊200」を護り救出する為にも、又、その後を見守る為にも、“「三方ヶ原に向けて懸命に走った”と成るのだ。
“「三方ヶ原」に向けて懸命に走った”とする必要は、「伊川津」に戻る為の「様子見」をする為に、「タイミング・武田軍から伊川津に戻る背後を突かれない為にも」を計っていたので、「情報の必要性は元より無かった筈」でこれが初めての詳細結果だったのだ。

ところが、然し、ここで「駿河青木氏」を救出せんが為の情報が入ったのだ。
幸いにしてこの時に、ほぼ同時に「武田軍側」にも“「異変」”が起こったのだ。
それは「堀江城の攻略」に手間取った事と、「別動隊の二俣城の手間取り」で、相互に「タイムラグ」が起こった事の情報である。
「武田軍本隊」は、そこで「山県軍の別動隊」より先に三方ヶ原に来て「魚鱗・行軍中に」で陣取り、これに加わる様に成っていた。
然し「別動隊との間」に何と「約1h〜0.5h時間の差」が発生して仕舞った経緯と成っていたのだ。
既に救出の為に「魚鱗の陣形」を整えてしまつた「武田軍の本隊」には、最早、北の山際に着いた「山県具の別動隊」は西の本体に合流出来ず、更には「松平軍の野戦と陣形の形」を観てでも、予定より手間取る事となった。
山際に到着し隊形を整える為に、そして「戦う為」には直ぐに「補給拠点の構築隊」を邪魔に成るので後ろに廻しながらも、「山県軍の別動隊」は「松平軍の鶴翼の陣形」の「右側面の山際」に到着した事と成ったのだ。
「山県軍の別動隊の位置」が左右の軍の北側に位置する事と成って参戦する事はこの形では「異常な形の陣形の開戦」と成ったのだ。
そもそも、「山県軍の別動隊」は「補給拠点構築隊とその守備兵」で構成されている事から参戦は無いと「武田軍本隊と松平軍の両軍」が観ていただろう。
普通はそうなるだろう。
そして、一方、此の両軍の態勢に対して、鶴翼の南側の右側に急いで到達した時には「額田青木氏の銃隊・目的」は、「貞治隊の救出に替わる」のだが、更にそれ以上に驚いた事が興ったのだ。
それは何故か右の松平軍は「鶴翼陣形」が整っていたが、この「鶴翼面の左側面」の「翼面の隊」に「額田青木氏の銃隊」が仕方なく着いた事に成ったと「資料の一行」を想像するに断片的には解る。
此処で、つまり、そうすると「青木貞治隊から秘密裏に得た情報」には「鶴翼陣形と云う情報」には無かった事に成る。
これは「野戦」と決めた以上は、「陣形」も決める筈だが、決めていなかったか、得られなかったか、「家康」は「秘密にしていたかであり、「下記の時系列論」では「秘密にしていた事に成る」であろう。
「普通」であれば、「野戦」と伝えたとすれば「陣形」も伝えたであろうと成る。
「普通の陣形」は、「武田軍」に対して完全な無勢であるので「魚鱗の陣形」と成る。
そうすると、「指揮官の青木貞治」は、「野戦=魚鱗の陣形」として伝えていた可能性が高い。

この事に就いてもう一度、「時系列論」でここを考察して観る。
況して、「松平軍」は半月程前に「二俣城の支援」で「無謀な野戦」を仕掛け、そして負けて「浜松城」を目がけて退避中に「武田軍の本隊」に「一言坂付近・11/3・三方ヶ原の1月19日前」で追いつかれ「野戦し酷い敗戦した」とする「歴史上の史実」がある。
然し、この事に就いては、「松平軍に有利な他説・戦いを有利に進めたとする説」も多くあり、この日の事に付いては「大きく経緯と時系列」に食い違いがあって、「三河側の戦記の三記等・江戸期に脚色」にはあまりにも違いがあり信用できない。
この「野戦」でも“「浜松城から出て野戦した”とする良い印象を与える説もあるのだ。

この事に就いては「青木氏の歴史観」に直接に関係ない気がするが果たしてどうであったのであろうかこの「時系列」を追って観ると判る。
此処で、「武田軍の本隊」は「軍の態勢」を立て直す為に、且つ、同時に周囲の「3つの出城」を落とした上で、何事も無かった様に12/21に西に向けて発進している。
この「武田軍の本隊」には「赤兜の騎馬隊」が行軍中後尾に着いていたとある。
つまり、この説では「松平軍と戦う態勢ではない行軍」であった事が判る。
史実で「一言坂の野戦・松平軍は魚鱗」で「松平軍は完敗で負けている」のだとすると、そもそもこの事で“「魚鱗の陣形」では到底勝てる事は出来ない”と云う「先入観」が強く残ったのであろう。
そこで、経緯としては、急遽、早く「浜松城」を出て「三方ヶ原」に到着して、そこで「独断・軍監の了解を得ず」で「魚鱗から鶴翼の陣形に突然に変更した事」に成る。
何故ならば、この「陣形」にするのであれば「城」を出る前に「鶴翼」にしていた方が「戦術」としては「常道手段」である筈で、この事は、「三方ヶ原到着で突然に変更した事」を意味している。
それは、将又、全面に押し出して来るだろう「同勢の「額田青木氏の銃隊」にも意識があったのだろうか。
これに「打ち勝つ」には、両者が「魚鱗」で対戦すれば「松平軍」は「陣形の数」の上から観て、これに間違いなく負けるとして、そこで、“「鶴翼で包み込んで勝利する」”と云う「作戦」に切り替えれば“「陣形の上」では何とかなる”とした事が明確に判る。
そうすれば、仮に勝てたとして、後はほぼ「同勢」と成った“「残りの武田氏の本隊・1万」との対戦する事が出来る”と急遽家康の中で成ったのだ。
「堅固な堀江城を攻めていた武田軍の本隊」が、遅れて「三方ヶ原に到着する・情報を得ていた筈」と成れば、「武田軍の本隊」は時間の掛かる「多勢型の鶴翼とする陣形」は理窟的にも時間的にも執れない事に成る。
恐らくは、「家康」にはこの思考でこの「勝つ為のシナリオ」を自らの頭の中でだけで密かに考えていた事が判る。
何故ならば、それは「武田軍の本隊が鶴翼陣形を整えている間」を「松平軍に突かれる理由」からである。
そうなれば「赤兜の騎馬隊・6000」の“得意の突撃型軍勢を生かす事は出来ない”と観ていた事に成る。
普通の戦術では、“「鶴翼の翼部分を閉めたり開けたりして敵を弱らせた処で背後に控えた突撃型の騎馬隊が突撃して殲滅する”と云う「武田軍の本来の戦術」と成るであろう。
故に、「鶴翼」さえ採らさなければ何とか勝てるとまでは云えないが、「それなりの見込み」は出て「互角並みに戦える」と踏んだ事に成る。
それには、こちらが、先に“先ず何とか鶴翼にする事だ”と考えた事に成るのだ。
それには、何故ならば「陣形の特徴」を生かす為には「鶴翼陣形を組む充分な時間」と「配置の為の良好な位置取り」が必要であったのだ。
だから、“夜明け早くに「浜松城」の「北の三方ヶ原・+60mで南北平坦地」に向かった”の史実と成り符号一致するのだ。
つまり、そして「武田軍の本隊」が未だ三方ヶ原に到着していないのを観て、故に、“これは戦略的に可能だ”として、「鶴翼の陣形」も「三方ヶ原」に「着いた時・直前に独断で決めたと云う事」に成るだろう。
とすると、「家康」は「秘密が漏れる事」を恐れて“軍議にこの事を計らなかった”と成る。
その「漏れて困る相手」は、そもそも「武田軍の本隊」では無く、その前に「織田軍の軍監・三人」であって、そもそも“負けて得をする”のは「織田氏」であって、「西三河の獲得・過去に清康が奪う」、果ては「南三河の獲得」に繋がる訳で、「西三河と南三河は織田氏」、「北三河と西駿河」は「武田氏」と「暗黙の色分け」をして「勢力を広げる信長の算段・目論見」で“「武田氏と戦わずして決着を着ける算段」”で在った筈である。
それを顕著に物語る足る理由として、「肝心のこの三軍監」は「三方ヶ原の戦い寸前・3日前」に城を出て戦わずして戻っている史実があるのだ。
唯、「軍監」ではない「軍監の守備隊の平手汎秀」だけは、この誰でも判る図面を読み取れ切れなかった事で、この為に“家康に馬鹿にされた態度を取られた”とした「通説の史実」が遺されている事に成るのだ。
これは「家康自身」が、この「事・軍監の態度を事前に察知していた事」を意味し、故に「三方ヶ原の真の陣形」は「史実」として「口外」しなかったのだ。
そして、何と「三方ヶ原の戦い後」にこの「勢力を広げる信長の算段・目論見」は実行されているのだ。
この「家康の息子・信康に謀反の難癖」を着けて切腹に追い込み「二俣城」を実質は奪取する事の史実の経緯と進むのだ。
唯、この時にこの「目論見を隠す為」に「見せかけの処罰」を「軍監の三人」に与え、此の「処罰の見せかけの理由」を、“「平手汎秀を見殺しにした」”として「追放の罰」を受けたかの様に見せたかけた。
だが、現実には「軍監頭の佐久間信盛」は、“京都で諜報活動をしていたとする史実とする説”が遺されている。
現実には、これだけの「理由・見殺しにした」では、そもそも“「古くからの重臣」を処罰はしない”であろう。
そもそも「戦国時代」に「家臣」に対して「見殺しを理由」にすれば「武士団」は成立しないし、自らが「同じに近い事・佐久間を罰する事」をすれば「見殺しをした事」とに相当するではないか。

そもそも以上の様に、ここには「信長が罰したとする論理の矛盾」が生まれているのだ。
依って筆者はこの説には賛成しない。
恐らくは、江戸期に入って作り上げた「物語風の戦記もの・江戸期に流行した」から「史実」かの様に引用したものであろうし、それが長く語り継がれる事で「史実」と成り得て行くのが歴史の常である。
余談だが「歴史の研究」は一々確かめずして信じていると「矛盾だらけの歴史観」が生まれるが、これを「資料等の読み込み」で「見抜く確かな歴史勘の事」が必要で在るのだ。
だから「家康」はこれを読み取っていたのだし、「京での情報」は得ていたであろうし、後に「家康」も「三人の家臣に同じ手・信康と本多氏と榊原氏等」を使っているのだ。
そもそも、そんな「歴史の史実」は無いのであり、あったとしても多くは「ある目的を持たせた見せかけの策略・隠密行動」が殆どであった。
これは「西国攻めをしていた信長」は、「そんな事」は「当初の目論見」が在る以上は、「そんな馬鹿げた罰」はしない事は「指揮官」たるものは誰でも判るので、この説は「史実」ではないであろう。
故に、この事を「家康も見抜いていた行動」であり、「報復としての平手に・他の三人が引き上げた以上」は「無言で接した扱い」で挑んだが、「三方ヶ原の戦い」で“これが「どの様に出るか・戦死」をはっきりとさせた”のだ。
そうなれば必要以上に「自ら声を掛ける事等」は決してないであろうし、放置するのが「最大の得策」であろうし、指揮官たる者の器の“始末は成り行きに任す”であろう。
それよりも、筆者は“「他の三軍監に無視された事」”を恥じて「自滅の手段」を採ったのだろうと考える。
それは、「前日の通り軍議」の中で「平手汎秀」だけが「時間稼ぎの籠城戦」では無く「三方ヶ原主戦論を強く唱えた事・史実」から「引き下がれ無く成った立場」に「置かれて仕舞った末の結末」なのだ。
仮に馬鹿にされたとしても、この“「読みの無さ・判断力の低さ」”に対して“「軍監補佐として値しない」”とこの世に自然にあり得る事として見下されていたのだろう。
そもそも、通説とする論に対しても、“「主君でもない者」に馬鹿にされた”からと云って、猪突猛進に武田軍に突っ込んで行く事の事態そのものに“「戦国期の者」”としての「酷い未熟さ」がある。

筆者は、これはよくある江戸期に流行した「物語風歴史観の美化論」には同意せずこの様に観ている。
「戦国の世の掟」として普通ならば「立場上」は「他の三軍監とその差配頭の佐久間信盛に従うが絶対上の立場」にあった筈である。
要するに“「三軍監」と云うものをどの様に見るか”であってこれで決まる。
時代と共にその「役目」は変化するものだが、そもそもは「室町期の古来の軍監・軍目付」とは、「同盟」に於いてその「同盟国の軍隊内での出来事」を「味方の主君」に報告し伝える将、又はそれに「近い役の上位者」が、「戦場の敵の情勢」を具に調査して自らの主君に報告する役目を主務としていたし、主君の為にどの様に有利に立ち回るかの役目であるのだ。
決して「戦う役目」を負っていた訳では無く、「戦う直前・3日前」に引き上げて報告して「自らの軍に有利に成る様に前後策を講じるのが役目」である。
その為には、「軍の三等官」、つまり、「副将軍の一つ下位に準ずる者」を派遣するのが「鉄則の常道」であって、要するに「自軍」に於いても「軍師役を務められるだけの能力のある立場の者」であった。
この「派遣で同盟の強さの意味」が解るのだ。
この場合は、「佐久間信盛・織田家旧来の重臣」と「その他の二人・主君の縁者」とその「警備役の者・平手」で構成されていた。
決して、「同盟」であっても「援軍」ではないのだし、飽く迄も「援軍」は「援軍として派遣する習わし」であって其の場合は必ず「陣取り」をしたのだ。
故に、この様に「織田氏の軍監・軍目付」はこの「当時の習わし」から一歩も外れてはいなかったのだ。
故に、「平手」はこの「習わしの役目」のみならず「軍議の目的」とその「織田氏の目論見」をも全く理解していなかった事に成る。
だから「戦国の世に生きる者としての知識の無さ・愚者」に「松平氏・家康と旗本・寧ろ旗本から」から「酷く馬鹿にされた事・常識の無さが特に低く見られたのだし、「氏家制度の武家風潮が強く求められた」は必然の事であり、のみならず、寧ろ、「織田氏からも強く疎んじられた筈」である。
故に、両者から愚者にされた以上は「恥を解消する事」が出来ないので、当時としては「武士の立場・屈辱の作法」からすると、「面目なく生きて行く事」が出来ず、「切腹か自殺行為・武田軍に突っ込んだとする通説」はほぼ「史実であろう事」が判るし、「間違い」を悟って気が着いた時には「武士の作法で解決する事」しか無く成っていた筈なのだが“それであれば「切腹」が妥当"で、「主君に恥をかかせた事」からすると「より妥当な作法」であったと考えられ、その持つ意味も違って来るし、「織田氏の方」でもより良きように扱い方が違っていた事に出来る。
そして「後世に別の意味として伝わった筈」であろうが、それもせずに唯単に「突っ込むの行為」は別の意味を持ち、其れさえも弁えていなかった事は相当に愚者で在った事が判る。
「他の三人の軍監・軍目付」は、“無事に尾張に帰り着いている事”は「堀江城陥落の前日に脱出している事」に成り、その間の「3日間」に何とか出来た筈なのにそれもしていないと云う事は、「主君に面目に成る様な妥当な理由付け」をして脱出は出来ていた筈であろう。
そして、結局は「脱出の説得にも応じなかったと云う事」に話の結末は成ろう。
後勘から観ても、そもそも「自殺や切腹は主君の前での其の後の事」であろう。
「平手」は「江戸期の通説通り」であれば、「戦国武士の主君・軽んじている事に成る」に対しての「最悪の手段を選んだ事」を意味している。
歴史上でも言われている当に「・・・者」によくある“カーと成って仕舞ってやり過ぎて取り返しのつかない所まで陥った”という事であろう。
それでも「主君の命を待つ事」が「家臣と成る者の掟」であって、況してや「織田軍の軍監の一員の守備者」とも成れば尚更の事であろう。
とすれば筆者は「江戸期の通説通り」は疑問だと観ている。
少なくとも「駿河青木氏の貞治」はこの「経緯と詳細」に就いてこの事を当然に知っていた筈であるとするとその後の行動に慎重に成るであろう。
この「慎重さ」が未だ「織田氏軍監のいる中・3日前」で更に「額田青木氏の銃隊・貞秀」にこれだけの騒ぎが起こっている中では「情報提供の必要性を強く認識していた事」に成るだろう
つまり、少なくとも「浜松城到着後の3日前頃から連絡のタイミングを計っていた事」に成り、それが「最後の詳細な情報提供」と、「上記の最終局面と成った段階」で、遂には「事態急変・負けると読み込み」で「救出依頼の打ち合わせまで」に至り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」に成って仕舞った”と云う「経緯」がここでも生まれる。
つまり、このこの重要な経緯から「額田青木氏の銃隊」が「吉田城」を出て「浜松城到着後の直後」から「駿河青木氏の貞治」と密かに「打ち合わせに入っていた事・伊賀者の活動」に成り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」まで続いていた事を意味する。
筆者は、「3日前」としたのは、「呼び出し命令を受けた吉田城出発前」から「到着まで浜松城到着」とその後の「三方ヶ原戦い後の戦線離脱後」と、「盤田見附の西光寺に回避の確認」と「最終の伊川津到着」に至るまでの間は、「伊賀青木氏の者」と「伊勢水軍」等の多くの者を駆使して同時に早く「警護と事前の情報提供に働いていた事」が解っている。
この事から「呼び出し命令」から始まり「3日前頃・吉田城から三方ヶ原の間」とした。

これは要するに、「青木氏の歴史観」から観れば、この「経緯論」は「他の三人の軍監・軍目付」の「時間稼ぎの籠城戦」に対して、「平手」は「軍監・軍目付」でも無いのに出過ぎて「三河旗本」と同じ「額田青木氏を用いた主戦論者」で在った事が云える経緯と成る。
その相手が、丁度、「武田氏の軍であったという事」であろう。
「織田氏の戦況の状況」の中で、既に「これ等の情報」を充分に承知していた「額田青木氏を用いた銃隊」を用いた主戦論は,好ましいものでは無かった筈であって、その証拠に詳細に上記した「2年後の長篠の戦い方」でそれが当に物語っているのだ。
当に戦国の世間に対して、「氏家制度」の中で、これ程の「愚かさを露出した者」は「織田氏の恥・主君の顔に大泥を塗った・人材不足が低く見られた」と成るが、この時期の「歴史上のどの戦記類」を観てもこの事は珍しく他に余り散見できない。
それ故に、これに影響を受けた「額田青木氏と駿河青木氏の行動」は、今後に、又、「伊勢や藤沢にも影響する行動」が求められていて、「実に適切で慎重であった事」に成るし、「伊川津に戻った後の旗本との関係」も「後世に泥を塗る事」とは成らず、寧ろ、「青木氏の歴史観」からしても「後世に見本と成る遺すべき行為」であって「重要と成る行為」で在ったのだ。
故に、「後世に比較対象」と成る為にこれらに関わる史実の事を用いて詳細に論じて観た。

さて、唯、更にこの「検証」を深めると、これにはもう一つ“「重要な事」”として、その「陣形の向きに欠点があった事」が読み取れる。
要するに、ここにも「・・・者のカーの癖」が働いたのか、不思議にもより有利に成る筈の“「浜松城を背にしての陣形・北向き」では無かった”事なのだ。
ここで念の為に「江戸期の脚色偏纂の定説」とされているものでは、“「武田軍の本隊」が先にこの「三方ヶ原」に到着して「魚鱗」で構えていた”としているので、故に、“松平軍の陣形はそれに合わして「鶴翼」とした”として、何時もの様に「後付けの美化」をしいるが、「江戸期前の記録」での「時系列の検証」でも、「堀江城の落城の経緯・延べ4日」から考えても、“此処までも「後付けするか」”と思われる様な程に全てこれ等には「辻褄」が合わず100%あり得ないので注釈する。

そこでこれも「長篠の実戦」にも出ていてこれに付いて念の為に参考として論じるが、仮に「野戦」であっても、「武田軍が採用した移動型の魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の銃隊」が仮に「松平軍の頭の部分の先頭に着く事」があって、それが出来ていれば、「赤兜の騎馬隊・突撃隊」が前面に居たとしても、又、「山県軍の別動隊」が「北の山際・右側面の北に着いていた」としても、慌てる事は無かった筈だ。
つまり、何故ならば近づいて戦う事の無い「勝てる見込みの銃」は充分に有ったし、間違いなく勝てたであろう陣形と成り得ていたと成る。
ここが「額田青木氏の銃隊の南下国衆が断った所以の重要な処」であって、上記の「三方ヶ原の平手の事」に比しても「慎重な伊勢の裔系額田者の行動」、つまりは、“ゆったりとした伊勢者の性格」を採った事”なのである。
前期で論じた様に、そもそもその前に交わした「実戦と成る事に対する約定の違い」も確かにあったが、次の事も又大きく左右し「青木氏の氏是に反する事に成る可能性」があったからである。
それは、上記の様に「陣形」にも依るが、「銃の在り方」にもあった。
つまり、前段でも論じた様に、この“「銃の威力・10〜20倍以上の戦力・超新型銃・フリントロック式改良銃」”を持っていたからである。
恐らくは、間違いなく後の「長篠での信長軍・雑賀根来銃傭兵軍団」が実戦で示した通りの“「兵力・20倍以上」”には成るだろう。
「古来中国の兵法」より、“味方の軍の犠牲が無く相手の軍を殲滅するに必要とする兵数は10倍とするのが常識とされていた。
従って、戦記上では世にその威力を示し実戦としてこの「銃」を大掛かりに使ったのは「信長の長篠」であって、その「2年前の三方ヶ原」でも「額田青木氏の超近代銃」は使われたのではあるが、「銃」で在る以上は「古来中国の兵法」の更に2倍と観られるだろうし、「火縄銃」での「銃弾の充填の回数」と「熱などの使用欠点のロス」を持つ「火縄銃」を克服した「フリントロック式銃」ではその更に4倍と観るとして、最大では80倍と成り得る。
然し、このロスを考えた場合には最小では少なくとも20倍は確実に保証できるだろうとして前段でもその様に論じた。
この論の「一言坂の結果」はそれを証明するのであったと信じて論じているのだ。
つまり、その「事前の銃の威力の情報を得ていた武田軍」に執っては、この「80倍」は「驚きの範囲」を超えていたと観ていて、それ故に、「伊勢」は前段でも学問的にも論じた通りに当時としては想像を絶する「超近代銃の開発」に密かに取り組み、「高投資で20年の開発」を掛けて完成させたとされるその意図がこれでも判るのだ。

「青木氏族」は「これ・歴史上の戦歴」を避けたのである。
これは当に「武田軍」と「額田青木氏の銃の戦い」に成り得るからだ。
又もや、「第一次の吉田城籠城戦」に続いて「一言坂」でも、将又、「松平軍」は“楽して無傷で勝つの戦略”であった事に成り得て、「他の伊川津の国衆・伊川津国衆以外も」と違って「契約の伊川津の国衆の限定国衆・家臣として伸し上がる目的を持ってなかった」で在ったのに利用され続けていたのだ。
「青木氏の氏是の前」に「額田青木氏の南下国衆の指揮官・貞秀」はそれを見抜いていたのだ。
つまり、この「利用される事・300丁の近代銃の20倍の兵力・最低」で、その「兵力的・松平軍」には「銃隊の相当兵力の6000+松平軍の正味兵力の5000=11000」と成っていたのである。
これで「武田軍の本隊」にほぼ近づく事で「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えさせて、“いざという時”の「銃隊への補足が効く事」に成るとしていた戦略の事に成っていたのであろう。
これは要するに当に「魚鱗の陣形」であり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が相手の前面に次々と飛び交う事に成るのだ。
要するにその「要求する根本」は、そもそも全く“「国衆契約」”とは違っていて、“「危険極まりの無い主戦隊の役」であった”のだ。
経緯的には、それを「軍目付の関係者の主張・籠城戦」に反して「平手・野戦主戦論」が「軍目付警備の立場」を忘れて「酷く掻き乱された事」で、「伊勢青木氏」と「二つの青木氏の額田と駿河」に対して挑戦して来た事に成るのだ。
そこで、当にこれは「百々の詰まり」は、当に「2年後の後の長篠の織田軍の戦い方と同じ事」に成るのだが、これは“「三方ヶ原の分析研究」を「信長」がしていたのではないか”と云う事を物語るものだろう。
そこで「信長」は、先ず“出来たら「鶴翼陣形」が其の侭でも「鶴翼」を留めて「左右に弓矢」を持たせば「20000の兵」に無傷で対応できる”と考えた事に成る。
これを数少なくしてするには“「火縄銃に替えたらどうなるか・新しい発想」”であったと観るのだ。
そもそも、“「弓矢」には、「飛距離と間隔と命中率と殺傷力」が左右するが、「銃」に置き換えれば」とすると、この「欠点」を克服できる”と考えたに違いない。
これは「勝負が着くまでの間」の「突撃型の騎馬隊からの犠牲・信長は非常に警戒していた史実」は、これで最低限で無くなるからなのだ。
つまり、“「弾と硝煙が無くなるまで」”は無傷なのである。
唯、「二つの郷土史が遺した研究」からこの行を読み込むと、ここには“「信長」が気にしていた「一つの欠点」”があった様だ。
それは、史実として「戦場」と成った「長篠の戦後の江戸期の郷土史に残るこの研究」で注目したのは、“「弾丸が激しく変形して潰れ飛散している弾が多かったとしている事」”と、その“「弾の向きや変形弾が違うものが馬柵やその下の地面にあったとしている事」”のこの二つなのだ。
これは「戦況を物語る重要な考察点」である。

つまり、この事は、先ずその「物語る一つ」は、“余りの連続的な発射で銃身が熱を持ち爆発したのだ”とする事を用いた「柔らかく成った事での変形の説」があり、その「物語る二つ」は、“何か相当に固い物に近距離で当たった”と云う事であると云う説だ。
この「物語る二つ」は充分に納得できる説論である。
従って、この「物語る一つ目の経緯」からすると、「火縄銃の傭兵力・織田軍」は、「銃力と銃兵の力」が“「途中」”で激減した可能性があると云う事が読み取れるのだ。
次の「物語る二つ目」は、「物語る一つ目」に続いて、「無理にも突っ込む武田軍の将兵・固いもので武装していた」に対して「近距離連射」を仕掛けたと云う事に成る。
所謂、その「物語る一つ目」では、この“「途中」”が問題であって、それは「武田軍の兵力」が「織田軍の銃力」で激減した「後」のなのか「前」なのかである。
「戦後に、直ぐの戦場調査をしたとする口伝からの郷土史研究」では、殆ど「武田軍の戦死者」は「銃」によるものだったとしている。
時間的な処は具には判らないが、この事の「物語る決定点」は、「急激に落ちた銃力」と「武田軍の総攻撃攻防」の「何とかぎりぎりの処」の間で、“「勝敗が着いたと云う事」”に成る。
つまり、前段の「弱点」を突いた「馬周りの北側際の場所・秀吉軍との間」から「武田軍」は、“銃撃間を狙って断続的に無防備にも銃弾の中に突撃して行った”とする「理由付け」はこれで読み執れる。
「織田軍」には、所謂、この“「途中」がもっと早く訪れる”と観ていた可能性がある。
それはどういう事かと云うと、「銃撃間の間柵を開閉」してそこから「徒士の兵」が討って出てまた引き上げ、これを繰り返しながらをしていた事に成る。
つまり、これは当然に、「銃身に熱を持ち使えなくなる事」を知っていて「織田軍」もこの“「途中」”に賭けていた可能性があると云う事だ。

次に「物語る二つ目」では、「武田軍側」でも「銃に対する策」として「鎧防御」では無く、「将兵の前に薄い鉄板の様なもの」を持たせ、それを「200の銃の突撃兵・勝頼守備隊」に事前に装着させていた事に成るか、将又、「弾薬等を運ぶ荷車」に「装甲車」の様に「薄鉄板」を張り、それを前にして隠れるようして速度を上げながら銃撃しながら突撃する決死隊としたのでは無いかという「証明され得ない仮設・状況証拠」があがる。
何故ならば、上記した様に重視したいのはこの「館壁に銃弾痕があった事・重視」は、唯単に「銃で突っ込むだけ」では無く、この装着した「薄鉄板の装甲車の効果」で「銃弾痕が跳ねて当たった事」に成ったのではないか。
それで無くては「200の銃兵の数/3000銃」では「銃弾痕があった処」まで届くのは先ず無理であろうし、大きく穴が開くまでに銃弾が壁まで届く距離に近づくには「銃兵」は一度に激減していた筈だ。

そこで前段でも論じたが、これをもう一度念の為に「検証の角度」を少し変えて検証して観る。
「銃の学術論」であり、どれだけ「青木氏部の学術的なレベル」が進んでいたのかが気に成る。
「家訓10訓」の一つにも成っている位である。

「鉄の比熱」は、水の1/5であり、加熱で使えなく成る温度は70℃とすると、連射すると、約1h程度で遂に[銃身の弾道管」は膨張して破裂するか、弾が飛散する事が理科学的に間違いなく起こる。
「資料記録と実験記録」が遺されていて、では「1発撃つ」のに「最低で10〜15sec・単発動作」、「冷やしながらの撃ち方」で「最大で記録から5〜15min・連射動作」と諸条件と成りある程度ので幅があった事に成る。
郷土史に依ると後に、この説を証明する為にこの実験記録が成されている。
その結果として、この「間隔」が次第に拡がり、最後は「薬倉破裂と銃身破裂」が起こり最後は使えなく成ったとしている。
この実証実験の結果は論理的に納得できる。
何故ならば、理論的に「鉄の特性」には熱に対して「300度付近」に達すると“「300脆性と云う現象」”が結晶間で起こるのだ。
1度目か、又は冷やしながらも何度もこの温度に達するとより「300脆性と云う現象」で「鍛えた鉄」であってもあればある程に「鉄組織」が破壊されて亀裂が起こるのだ。
そして、最終はこの亀裂で爆発的な破壊が結晶間で起こるのだ。
この為に、実際使うには絶対に「300度より低い温度」で冷やす間隔を置いていた事」に問答無用で成り得る。
そうすると、仮に「三段構え」としていたとしても、この間は銃は使えなく成り、更にこの間には何も出来ないので、「銃撃間の間柵」から柵を開いて「徒士の兵が討って出た事」は資料に書いている様に間違いは無い事に成るのだ。
一部の「実戦記録・戦記物」では「棚解放説」の此れを史実として記している。
恐らくは、間違いなく「4回程度/h」では「全ての射撃」が先ず1回止まり、「徒士の兵」が柵から出て戦い、又引き上げる作戦を繰り返した事が判る。
「戦い」では実際に4回起こっていた事に成る。
そうすると、論理的にはこの熱を発生させない様にすれば何度も使えるがそれは論理的に絶対不可能であり、それでは「敵の進撃」に絶えられない事になる。
間違いなく「戦い」で使う際は、この理化学的な逃れ得ない「300脆性と云う現象を興した銃」と成り得ているのだ。
従って、「銃の寿命」は何時か来るのだ。
「粗製乱造の銃・素材や造方如何」ではこれがより早く起こるのだ。
「鍛え方の悪い火縄銃」は、“より危険と云う事に成る”と云う専門的な知識があるのだ。
室町期の資料にも、「悪徳闇商人」がこの「粗製乱造の銃」を売りつけて問題に成っていた事が記されている。

注釈として、「専門的な研究」によると、そこで前段でも論じた様に「額田青木氏の近代銃・摂津で密かに製作」によると、「西洋」では「新しい冶金技術・ドイツ」が高められ、上記するこれらの「銃の欠点を克服した進歩」でより「銃の威力」を高められたのだ。
且つ、それが「携帯可能な銃」と成ったとしていて、且つ一段と「飛距離」を高めた「飛ぶ銃」で「強い銃」の「研究開発」が成されていたとしている。
結局、軍隊で使っていた不要と成った「古い火縄銃」を買い集めそれをポルトガル人が「高額・2000両」で中国と日本の種子島に先ず持ち込んだと「経緯」となり、それを紀州根来と雑賀の鍛冶職が種子島に渡り学び持ち帰り類似品を開発した経緯と成っている。
「青木氏の銃」ものはこの「西洋技術」を密かに取り入れたもので「試作」を繰り返し「額田青木氏用に取り入れた」とする史実のだ。
但し、この史実とは別に「摂津」では「貿易」でこの冶金学が進んだ「ドイツの新型銃」を入手し密かに開発を進めていたのだ。
そして、それを「近代銃としての根拠」としていたのだが、故に、西洋ではそれまでの銃は旧式と成り、それを「種子島」に持ち込んで高く売りつけて利益を上げ、「雑賀族と根来族」はこれを日本で広めたのが、未だこの「銃の欠点」を克服していない「種子島式の旧式火縄銃」なのである。

要するに、この“「摂津銃」”と呼ばれる「非公式の近代銃」では、「最大の欠点」の「300脆性と云う現象」と「繰り返される事で起こる疲労破壊」のこの「二つの欠点」を起し難い様に「超高度な熱処理・3つ進んだ高度処理・下記の専門的な学説論参考」にこれに付いて下記に論じる「・額田青木氏の近代銃との比較」が施されているので「連射」が出来る様に開発されたのだが、そこで先ず、因みにこの「三つの進んだ高度処理」とは次の通りで在った事が「専門的見地の分析」から解るのだ。
因みにそれを論じて置く。

「学説論」
「一つ目」は、鍛えなくても起こる傾向は元来鉱物で在る限りは特性として持っていて、尚更、外部から自然の状態に力を加えるのであるから「鍛えた鉱物」には必ず「欠点」が起こるのである。
これを防ぐには、「300脆性と云う現象」では、次の技術が用いられる。
それは「鍛えた後」で一度、「550℃から600℃付近・過熱する事だ。
「加熱し過ぎると鍛えた意味が無くなる」で、“緩やかに過熱して緩やかに冷却する熱処理”を施す事で、この厄介な「現象」を止める事、又は緩める事が出来るのだ。
これを「焼鈍処理・アニーリング」と云う。

次に、「二つ目」では、「鍛える前の鉄」にはある「内部の特殊な結晶構造」を持っているがその温度でそれの「結晶構造」がそれぞれに異なるのだ。
それが、上記した「300度の脆性の破壊の原因」に響いて繋がる傾向を増すのだ。
そこで、「鍛える前」にこの現象を「起し難くする結晶構造にして置く事」が必要に成る。
それが、その「結晶が起こる温度」が特定されていて、それが「600度付近」だけにあり、これは「元来の持っている特有な結晶・パーライト結晶と云う」を「球状化と均一化」にして「ゆっくりと冷却する事」で「球状化と均一化の結晶・元来この結晶構造は自然界に無い」を無理に造り出して維持されるのだ。
故に、超高度な知識として「どんな鉱物」でも「近代的な構造物」に使われる際にはこの「処理」は絶対に必要と成るのだ。
そうする事で、この「300度の脆性の破壊の原因」が、「繰り返される銃撃の熱」とその「銃に加わる衝撃力」が「球状化・均一化」で「分散される現象」が起こり極めて軽減されるのだ。

「三つ目」では、「鉄を鍛える」には「加熱」して「約1000度以上の温度・オーステナイト結晶」にして、その温度中に叩いて鍛え、これを繰り返すが、この時、欠点が生まれるのだ。
先ず、「850度から1000度・1025限界」では、この「内部の結晶」が「粗大化・一つ一つの結晶が大きく成り過ぎて仕舞う事」が起こるのだ。
何事も「鉱物」は「結晶」は「小さくて均一で丸くある低温時の結晶に成っている事」が一番良いが、「鍛える事・ある形状に仕上げる事」には、どうしてもこの「逆を行く事」に成るのだ。
「銃」は「常温」であるのに「1000度の高温での結晶の構造」と成っているのだから、そもそも「鍛えると云う処理」には「結晶と云う点」ではそもそも「無理」が伴っているのだ。
だから、これを「常温」でも保てる様にしないと、その内に「時間の経過」と共に「自然破壊・自然に戻ろうとしてオーステナイトがパーライトに変化」して仕舞うのだ。
つまりは変形してしまうとして仕舞うと云う事なので重は使えないと云う事に成る。
更に困るのは、この「パーライト」にも「723度以下」では、「723度付近のパーライト」と「常温までの色々なパーライト類」があり、これに何とかして「自然の状態」に近づこうとして「自然変化・自然劣化に繋がる経緯」を繰り返して行くのだ。
この事で使わなくても「脆く成ったり」や「銃身が変化したり」やして使えなく成るか、無理に使えば要するに「熱」に寄らずとも「銃身爆破・自然劣化の進行・疲労破壊の進行」が起こるのだ。
使えば使う程に「鉄の結晶体」に「使用した衝撃などの応力」が吸収し残留し、この「自然による銃身破壊の現象」はより「進行」は速まるのだ。
これを無くするには「特殊な処理」が必要と成る。

それが「新しい技術」として「焼凖処理・ノルマライジング」が必要に成るのだ。
上記した「大欠点」を無くす為に「鍛える鉄の場合」には、要するに「ノルマライジング・自然に戻す事の処理」を施す必要があるのだ。
「自然に戻す事の処理」のこれには「色々な種類の処理方法」があり、どれにはどれとして専用的に適用されて効果を発揮する。
従って、「銃身とする場合」は、表面にそれなりの耐え得る薄い層を造る事であり、それには「サアナイド」や「タフニング」や「メッキ・無数にある」もその代表であろうが、かなり「専門的理論」として「銅又は真鍮と組み合して造る事・応力を逃がす」もある。
然し、これ等の冶金学は未だ発達していなかったと考えられる。

そこで「額田青木氏の近代銃」には、何らかな形でこの「三つが組み合わされて使われていた事」が継続していた「後の研究・四つ目対策」で判っていて、「サイアナイド」や「タフニング」等、当時としても現在としても「超近代的な専門的な技術」が使われていた様である。
取り分け、「サイアナイド・炭化処理」や「タフニング・窒化処理」は加熱の際に知らず知らずの内に使っていたと云う事がある。
“何かいい味が出る"の程度の感覚で使っていたのでは無いか。
それが敢えて「備長炭」を使ったと云う処が齎す効果であったのだ。
これは外国に於いても最初は同じ使い道から得た技術であったとされ、それは「ドイツ」で開発されて「戦い」を通じて「ヨーロッパ全域」に広がり主に「銃兵器」に使用されたのだ。
それがもとで「銃の鉄に起こる欠点」を緩和させて「西洋の戦い」は急速に変化して「殺戮性の高い近代兵器」として利用されていた事が歴史的に判っているのだ。
これを「額田青木氏の伊川津国衆として南下する為の護身用武器」として「伊勢青木氏の指示」で「摂津青木氏」が「貿易から得た情報」で「銃見本を密かに入手していた事」が歴史的経緯と合致して解っている。
これは見本の分解等をそれなりにしたと考えられる。
更にその少し後に、この“「五つ目の対策」”として、更に西洋で開発された「超新技術の合金処理技術・真鍮化も」が施されたが、この「見本の二つの銃」として密かに入手していた様だ。
この「五つ目の対策」の「超新技術の合金処理技術・真鍮化の実用把握」に相当に時間と苦労を要した事が記されているが、この技術は室町期には成功したかは判らないし、使っていない様だ。

そこで最も最初に“「銃対策」”として取り入れたこの「四つ目の対策の超新技術」は、「摂津」では「サイアナイド」であった事が判っていて、それが「銃の欠点の原因対策効果」としては良い事が判って直ぐに取り入れていた事に成っている。
判り易く云えば「備長炭効果」であったのであろう。
開発して会得したと云うよりは、研究の過程で偶然に会得したと云う方が正しいだろう。
何故ならば、その土壌とする基盤が「伊勢」にはあって、それは前段でも論じた「日本初の墨の開発」を朝廷から命じられて「紀州姥め樫の備長炭を用いた事・墨」を論じたが、この「墨の技術・炭素の細かさ」をこの「サイアナイド」に一番に用いた事が解っている。
どういう「技術的な理論」が在るかと云うと簡単で端的に述べると次の様に成る。

上記の通り「鉄の欠点」が生まれ銃として使う場合は、これが銃に耐え得る範囲を超えて破壊が起こる。
そこで「鍛える際に加熱する火」をこの「炭の材・備長炭」で行い、この加熱時にこの「炭の細かさ」から上記した「加熱時の鉄の結晶と結晶の隙間」が拡大して、この細かい「炭の材・備長炭」が「鉄の中・表面部0.5m程度まで浸透させて行くのだ。
させて行くと云うよりは加熱で自然にそうなったと云う事だ。これには但し「古い紀州備長炭である事」が前提である。
「・過剰深さ」にならない様に「逆の欠点が出るまで」に浸透させて行くのだが先ず其処までに浸透は無理である。
これを「適度の温度・723度以下」に下げて、再び「鍛える過熱温度」まで何度もこれを繰り返す。
つまりこれは鍛えると云う行為である。
ところがこれを一度にして加熱してこの一度に「備長炭の細かい炭素」を浸み込ませると、逆に結晶が粗大拡大して抑々使えなく成るのだ。
ここには「理論的」な「難しい鉄と炭素の相関関係図」が存在していて「相当に会得した匠」で無いとこの「サイアナイドはする事」は出来ないのだ。
この事を最低限に会得する技術で在ったろう。
そうすると、この時、何度も加熱し鍛えられ何度も結晶間に「浸みこませた炭素」は「鉄の周り」に「0.5m程度の丁度良い厚みの層」が隙間なく出来上がる。
「鍛えた最後」にはこれを「垂直方向」に向けて「水又は油」の中に「0.5S内」に素早く冷やし常温程度に成るまで「冷却」をするか、灰などの中に自然冷却の速度で放置しても良いが昔は現実はこの方法であったろう。
この時に、この「鍛えた鉄と冷却を受けた炭の炭素」との間ではこの自然界に存在しない「特殊な途轍もない堅い結晶構造・マルテンサイト・ダイヤに近いもの」に「変化・別の物に替わるので正確には変態」するのだ。
「これ・マルテンサイト」が「鉄の周りに薄い幕の様にして出来る事」に成る。
そうすると、結果としてこの「鉄の周りの固い膜」は上記した「鉄の銃の欠点」の「防護用の干渉幕」が出来上がるのだ。
つまり、ここで「銃の欠点」が「吸収幕で抑えられる事」に成るのだ。
但し、この侭では未だ完ぺきでは無く未だ駄目なのである。
「無理で急激」に「マルテンサイトと云う膜」を造った以上は、これにもある問題を持っていてこれを解決させなくては上記した欠点を完全には克服して使えないのだ。
それで無くてはこの「マルテンサイトと云う膜」にも「無理で急激」で「鉄の結晶・鉄の細胞」の中に起こっている以上は拒絶反応が出るは必定で、この為に、これを更に克服する処理が矢張り伴うのだ。
完璧と云う事であって施さなくても一定期間は持つ程度であろう。
然し、この「マルテンサイトと云う膜」は「硬い・衝撃や亀裂や摩耗に猛烈に強い」、「滑り・摩擦にも強い」の性質を持つていて「上記の銃の欠点」を消してくれるのだ。
然し、完璧にするのであればこの「拒絶反応」」だけは消しておく必要があるが、その為には更に「テンパーと云う処理」と云う処理を施すのだ。
現実に弾丸を撃つ事で熱を持つので問題はない。
論理的には上記の「マルテンサイトと云う膜を造った鉄」を少し「自然界に無い別の新しい結晶体」に換えて存在させる事をやらねばならないのだ。
それは現在では「鉱物油」に「約180度から250度までの温度・テンパー」に穏やかに長く保つ事で「ツルースタイトと云う結晶構造・マルテンサイトの更に変態物」が得られるのだ。
昔は色々な種類の灰を用いていたらしい。
この「テンパー処理」を施さなくても問題なく「全ての特性」は一応は得られるが、これは「上記のマルテンサイト」よりももっとより良い「硬い・衝撃や亀裂に強い」、「滑り・摩擦に強い」等の「全ての特性」が得られ、それが「銃に対しても良い性質を持って仕舞うのだ。
但し、この時に上記した様に「300度脆性」では「厳禁温度手前である」ので注意をしなくてはならないので、「極めて注意を払う温度調節」が必要に成るのだが、然し、それだけに意味を持つが「300度脆性」が一度程度起したと云ってもびくともしない。
この「マルテンサイト」を獲得するには、「鉄と炭素と温度の相関関係」が微妙に働く。
昔はこの相関図は得られて無く「匠の感覚の領域」であった様だ。

現在では関係図的に解明され、「横軸に加熱温度」、「縦軸に炭素量」、「横と縦には鉄の状態・結晶」の相関を採ると、この「三つの要素の相関図」が生まれる事が学問的に判っている。
図の横軸に「鉄に対して0.8%の炭素量」を中心に「723度」を上に超えて左に動くと、この「マルテンサイト」は「正常なマルテンサイト」は得られず欠陥の持った「マルテンサイト」と成り得て、ここでは通常は使えない。
それが左に「0.6%の炭素ポイント」では、「正常な充分なマルテンサイト」は得られず、右に「1.0%の炭素ポイント」では、「マルテンサイト」は「特別な金属・主にNiで微小化して」を混入させない限りは即座に強烈な爆発的な破壊が起こる。
同時に、左では「マルテンサイトが獲得できる温度」が「高温」と成り過ぎて「鉄の結晶体・処理温度が高くなりすぎて、先ず「結晶が粗大化」して別の意味で脆く「0.6%付近」ではその「硬さ等の特性」が得られない。

そこで「上記の合金五元素を低率で混入させる事の効果」でそもそもの「処理温度」を下げて、それに従って「マルテンサイトの変態点」を下げて「少ない硬さなどの特性」を補完してその上で「獲得出来る様にする。
其の侭ではこの「結晶の粗大化」と「マルテンサイトの破壊」を招き「熱処理」は成さない。
図右では「723度・上下に限界値」にあっても「鉄だけの金属・合金では無い」であれば「変態時のエネルギー・応力」が過大と成り過ぎて間違いなく破壊が起こり、一般的には「熱処理に依るマルテンサイト」は獲得できない。
そこで、現代では「求める物理特性」を得る為に「上記の五合金元素」を少量加えて溶かし「マルテンサイト」を獲得する事無く使える様にし、この為に鍛する方法があるのだ。

「炭素8%」より左側の要するに「中炭素鋼」には、「充分なマルテンサイト」は得られないが、その代わりに「マルテンサイトと異なる近い変態組織」が得られるが、これを其の侭では上記した様に「破壊」に達する為に「特別な熱処理」を加える事で、それは鍛する事なく「ソルバイト」と云う「特異な組織」と成り得る。
要するに、「硬さ」は少し不足するが「鉄と炭素の結合体・セメンタイト」の単独でも「バネ組織・耐摩耗性・耐衝撃性・耐熱性等」を獲得で出来るし、これに「熱処理の補完」の為に「加えた五合金元素の特性」が共析して来てよりこの特性は向上する事と成るが、勿論に室町期ではこの「高度な処理」は当然に無理であったのだ。

然し、上記の「額田青木氏の超近代銃の欠点を補完する充分な特性」がこの処理でも得られるのだ。
調査すると、「額田の銃」はこの左側から得られる「中炭素鋼」では無かった。
「右側・高炭素鋼・通常お茶を煎じた様に炭素の濃度が高いので煎鉄とも云われる鋼」は、「高炭素・右側」に成るに従って「オーステナイトと変態点723度の間が狭くなる現象」を起し、「焼き入れ」では無くてもそれなり温度を加える事でその「変態エネルギー」を与えれば其れなりの「マルテンサイト」は得られるのだ。
従って、「右側の高炭素鋼・現在ではSKS・SKD等の合金鋼で焼き入れは可能」は「マルテンサイの破壊」をできるだけ防ぐ為に、「鍛造で鍛える程度・鍛いて得られる」でも「それ相当の硬さが得られる事」に成り現代ではよく用いられているのだ。

つまり、故に「古来の砂鉄にも原鉱石」の中に上記の「五合金元素」が僅かに自然で含んでいて、それが「鍛造の差・鍛え方」で、その「品質特性」はバラックのだが、この概念は昔は“味と云う表現”で持ち得ていた可能性はあったらしい。
「数多くあった鉱山の原鉱石の名」が記されている事は、その差が無ければ何処の原鉱石でも同じと成るので、“味と云う表現”のそれを用いて意味しているのだろう。
但し、何れにせよ「凄い変化である変態・焼き入れ時に吊るした具を通じてグァーンと云う鈍音とガクンとする衝撃が耳と手に伝わる程度」で、その「破壊の危険」は伴うので、その「破壊」を起させない為の「結晶の粗大化の防止策にNi加える」か、或いは「五合金元素」を少量に加える必要があるのだが個人では出来ない。

実は、「各種各地の鉄鉱石」にはその「自然界のNi・ニッケル」を多く含む物もあり、“あそこの原鉱石の鉄は割れない”等の「破壊」に対する“味と云う表現”での概念で、「秘密裏のノウハウ」として匠等に生まれていた事に成ろうし,現実にもそうであった事が記されている。
然し、ところが「近江鉄・大倉鉱山や高倉鉱山・最終は奈良期710年から1560年代まで」には、この「Niと五合金元素の存在の記述」は古い為か強くは散見出来ないのだ。
然し、前段でも論じたが「近江地域の地質学的な成り立ち」からは充分に存在は考えられるが無かった様だ。

そこで少しここで地質学を論じる。
そもそも,「滋賀県地域の地盤」の成り立ちは、「二つの時代の陸盤」から成り立っていて、それは「中生代」と「新生代」からである。
この「中生代」では、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」で成り立っている。
其の後に出来た「新生代」では、この上に「第一瀬戸内累層群」と「古琵琶湖層群」と「段丘堆積物沖積層」の「三つの層」から構成されている。

参考資料より要約
・「中生代」とは、定義では初期の地質時代の一区分で、化石に残りやすい生物が出現した以降の顕生累代を三分したのが「第2の地質時代」という。
これを放射性同位体による絶対年代の推定としては、「約2億4800万年前から約6500万年前まで」の「約1億8300万年の期間」に相当するとしている。

・「新生代」とは、定義では中期の地質時代の一つで、「顕生代」の大きな区分の一つである。
「約6,500万年前から現代まで」に相当し、陸上では恐竜が絶滅し、海中ではアンモナイトと海生爬虫類が絶滅した後、哺乳類が繁栄した事で特徴づけられている。
この「新生代」は、「第四紀・新第三紀・古第三紀」の「3つの紀」に区分される。
この「新第三紀」と「古第三紀」の「二つを合わせた地質」を特徴づける「地質時代」を云うとしている。

・「丹波帯構成岩類」とは、そもそも「チャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩」などの「海底に堆積した堆積岩類」と「海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)」で主に構成されている。
「海洋プレート」の上に噴出した「玄武岩質火山岩類」は「海底や火山島(海山)」を形成して、その上に「チャートや石灰岩・珪質泥岩」などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していくが、これが「丹波帯構成岩類」を構成している。

・「超丹波帯」とは、近畿地方において「丹波帯・中部地方に美濃帯もある」とその北側にある「舞鶴帯」と呼ばれる「3構造帯」との間に存在し、この「丹波帯」が「中生代・ジュラ紀」に「付加作用」を受けて形成された「付加体堆積物」で構成されている。
これに対して、主に「古生代ペルム紀」に「付加作用」を受けて形成されたのが「付加体堆積物」で構成されている「古生代地質帯」である。

・「海洋プレート」では、「海溝部」で大陸の下へ沈み込んでいくが、この「堆積物」は一緒に沈み込む事ができず剥ぎ取られ、「大陸側」から運び込まれた「砂岩・泥岩」等と共に大陸側へ押し付けられ、これが混じり合って「付加体堆積物の複合体」を作りあげて行く。
この作用を「付加作用」といい、それにより形成された「堆積物」は「付加体堆積物」と呼ばれるがこの堆積物には「鉄分」を多く含むが、その結果として「五合金元素の存在」が認められる鉱物体」は「高比熱、高耐熱性、高比重」から付加体堆積物とその複合体には残り難く分離されて行き「深い堆積層中に巻き込まれて含まれる事と成り易い。

故に、この「丹波付加体堆積物と複合体」には「鉄分」だけは多く含む事に成るのだ。
だから無いのであろう。

この主体と成るこの“「丹波帯付加複合体」”とは、要するに「石灰岩等の海洋底起源に依って起こった岩石」と、元からあった「泥岩・砂岩等の陸源破砕岩」が圧迫されて陸に隆起し「混合した地質形成性体」で形成させた。
つまり、結局は「琵琶湖」を挟んで「東〜西〜北部の三つの基盤」から圧迫して形成しているのだが、その「経緯」としては、次の通りである。

・「中生代」に「ユーラシアプレート」から「日本列島全体」が南東に向かって先ず分離して、其処に横に海水が侵入して日本海が出来、その「分離した地形地質」が今度は「糸魚川構造線」を東西を境にして分裂し、其処の海峡に土がが重なり海峡は埋まり「原形日本列島」が生まれる。
その「原形日本列島」も「三方からの圧力・現在でも掛かる」が掛かり、ここを中心に当初は「西と東と北」の「三つの島」で構成された。
その時に「中央の位置」に対して「左右からの圧迫」が加わり、先ず西側に浮き上がって事に依って出来た「島の窪み」に山水が流れ込みここに「元琵琶湖」が先ず出来た。
更に、これが常に圧迫を受け続けている「北側・現日本海陸」からの突き上げを受けていた「原形日本列島の南陸側」は「南海」に繋がる事に成ったのだ。
この時に突き上げられた結果として、「中国陸・神戸層」に繋がっていた「淡路陸」が突起し分離し、更に続く突き上げは「西側と南側」に陸が移動させて縞が出来たがその「縞の窪み」に「瀬戸内湖」が形成された。
西に押されていた「瀬戸内湖底」が右側に下がり、南からの海水の侵入して分断されて「淡路島」と成った。
然し、更にこの「圧迫」は動き「東〜西〜北部の3基盤」に圧迫された事で、「西側の陸」が「西」に更に押しやられて移動して「四国陸」が隆起し、其処に更に「窪み」が出来てこれに「瀬戸内湖の南の水」が流れ込んで「段差のある瀬戸内湖」が出来た。
然し、これがに更に続く圧迫で、「中国陸」がより浮き上がりその結果として「西側の西端」が下がり、ここに「北域と南域」と「瀬戸湖」からの海水が流れ込んでそれが「下関の開門海峡溝」まで到達して「内海」が発生して西に広がり突き抜け続けた。

これ等の「地質の形成経緯」から導き出せた結論は、奈良期に「施基皇子の裔系の青木氏」が「院号」を与えられて「鉱山開発の殖産業・奈良期の大倉鉱山と高倉鉱山」の「近江鉄」は、上記の通り、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」に含まれる「鉄類」であった。
この「丹波帯構成岩類」の中でも、「鳥取砂鉄」とは当時から「有名な古来の奥日野地域」と連動している所以もあって、取り分け、「酸化シリコン系」の「花崗岩類によく含まれる鉄・砂鉄系」と「地形的」に「丹波帯と丹波帯付加複合体」とは連動している為に、「五合金元素・主に糸魚川構造線の以北に多く含まれる傾向」を余り多く含まない「同質の鉄鉱石が産出された事」に成るのである。

要するに、この意味する処は「額田青木氏の超近代銃」はその「鉄」を使ったのは「0.8%の共析鋼」であったと云う事なのだ。
勿論、上記した「刀の様な玉鋼・原鉱石の酸化鉄に葉や木材等を加えて一酸化炭素を発生させて還元して、その「還元鉄」だけを取り出して玉の様に砕いて「塊にする鉄」だけにする事でも無かった事に成る。
何故ならば「五合金元素の存在」が認められる「鉱物体層」では「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では、溶融しない為に「炉口」が詰まり使え無く成る。
つまり、上記の様な工程を経る玉鋼にはする事は出来なかった事を意味するのであり、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」は使え無かった事に成るのだ。
故に、「糸魚川線」を「東西」にその「鉄の種類とその炉の違いの発達過程」が起こったのだ。

つまり、上記の「青木氏の地質技術論」から考察すれば、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では無くて「近江鉄の高炉」から得られたものであって、「備長炭の微細な炭」を浸み込ませて加えて「五合金元素」の少ない「共析の炭素鋼を造り出した事」である。
「鉄と炭素と温度の関係」では、丁度良い結晶的バランスを保つ位置」に成るのだ。
この「高倉鉱山と大倉鉱山の院号に依る殖産業・青木氏部」と「その近江鉄の使用」から始まった「額田青木氏の超近代銃」の「経緯論」からすると、この「高炉の通説の開発使用時期」は、「炉の開発と使用」に関してはそれが「青木氏部」で密かに行われていたので、公式とは云えないが速まる事に成り得て、それだけの意味を持っていた事に成る。
その事は、「摂津での殖産炉」は、「西洋の近代銃」と共に密かに持ち込んだ「西洋からの高炉・世間では未だ専ら砂鉄のタタラ炉」に成る前は、それに近い「古来からの竪型炉の応用炉」を「摂津」で既に使っていた事に成る事が予想出来る。
それは「限定した300丁の生産に必要とする炉であった事」に成り、且つ、「難しい技」ではあるが「0.8%の理想的な鋼の前提を求めたものであった事」に成り、「銃だけの欠点を補う理想的な物理特性を求めたものであった事」に成る。

さて、では「Niと五合金元素の存在とその知識」を全く知らなかったのかと云う事であるが、筆者はその「基礎的な知識」としては充分に知り得ていたと考えている。
それは、全て前段でも論じたが、次の事から導き出されるだろう。

イ 「貿易」を営むほぼ「有史来の伊勢屋の925年の商社化と伊勢屋の総合商社・1025年頃」であった事
「部経済」から特別に授かった占有権と専売権の院号を獲得した事で「全ゆる詳細な情報」を容易に掴む事が出来ていた。

ロ 「青木氏部・摂津と松阪」を有している事
朝廷の国造の技術の総支配権を持ち、且つ、独自にも青木氏部を有していた事から鉱山開発の知識もそれなのにあつた。

ハ 各地の「山・鉱脈」で「特殊な岩絵具の開発等」を「額田部氏と共に殖産開発」をしていた事
「岩絵具」は「七色の着いた岩石」からは掘り出され粉にするが、これは当にそれが「Niと五合金元素の存在」を証明している証拠から成り立つものであり、この知識なしでは何処の鉱脈に何があるかは獲得出来ないのだ。

ニ 「伊豆青木氏、額田青木氏、日向青木氏」で論じた事
糸魚川構造線より東の伊豆、糸魚川構造線の上に在る美濃、西のチャート域帯を泊としていた「日向青木氏の阿久根泊」は、「七色のチャート」と呼ばれる上記した「地球の変動」に依って起こる有名な「全ゆる堆積層岩帯」にある。
これ等は「白鉱石のSi」を始めとして、そもそも極めて固く、これ等の「チャート」には、「白色、赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色等」の様々な色のものがあり、「明るい色系」のものには、酸化鉄鉱物等の鉱石に起因している。
又、暗色系のものには、鉱石の硫化系や炭素系の化合物に起因して黒く発色している。
「緑色」のものには、「緑色の粘土性鉱物」を含む為に発色する。
これ等は、「堆積した環境」によって「色・鉱物を粉状にして燃やし酸化の炎色反応」で見分けられるが、これは上記した「五合金元素の鉱物」に所以する見分け方の方法と成るのだ。
要するに、「岩絵具」もこの所以であって充分に専門的にも知り得ていた事に成るのだ

故に、取り分け、「阿久根との関わり」と「上記の青木氏部の知識の伊勢青木氏との関わり」で「日向青木氏の黒田藩の水軍傭兵の役目」の一つには密かにこの「鉄の闇商い・銃商いの有無不明」が秘密裏に関わっていた事が顕著で明らかである。

ホ 「日本全国各地での廻船・水運業の商い」で「鉄を始めとした情報」を堺で獲得していた事

ヘ 「玉鋼の鉄」を伊勢屋が「直接商い」にしていたかは確定は出来ないが、「砂鉄の販売の記録」では、江戸初期の頃の「摂津や大阪」に集められて「鉄商い」が成された事が解っているが、それまでは「土豪の所有物の占有権」で扱われ、その「所有物」を「各地の豪族」に「横流し」で商われていた「僅かな記録」が遺されていて、この「僅かに遺された資料」から読み取ると、「砂鉄のボール位の塊」を単位としてそれを単位にして幾つかを纏めて「秘密裏の売買」で引き渡していたらしい。

この「鉄を扱う小さい土豪」でも「莫大な財産と影の利権」を確保していたらしく、それだけに秘密が漏れるとそれを狙って「侵略される事の危険・記録」が起こっていたのだ。
故に、その「鉄塊」は「莫大な財産」として扱われ、これを隠し持ち、その「所有」そのものが危険であったらしく、「商人の顔」も隠されての「闇商い」であって、「市場商い」とは成らなかったらしい。

つまり、これは「奈良期からの部経済」の「名残」を引き継い来たもので、古来からの長い歴史の中であっても、「江戸直前」までの「玉鋼の鉄」は「闇商い」で行われていたのもその証拠である。
“鉄を制する者は天下を制する”の例えの通りで「秀吉と家康」もこの「利権獲得に動いた事」は記録からも明らかである。
その意味で「額田青木氏の三方ヶ原の戦い後」に「伊川津で家康に協力する事」で「渥美半島の制海権・利用権の見返り」として「鉄の利権獲得」は容易と成ったのであるが、反面、この秀吉からは「蔵の焼き討ち等の仕打ち・記録」を受けた。

「伊勢青木氏の商記録」でも考察すると、「鉄の取引」の其れに関する「詳細記録」が敢えて無い事は古くから「摂津店・鉄は秘密裏での商い・記録消失」で行われ、これは「鳥取日野の砂鉄」と「近江鉱山の鉱鉄」に近い「摂津域」で扱われていた事を物語っている様だ。
「淀川を使っての運搬」と「近江日野・近江鉄の製鉄工場・ここが額田青木氏の松井氏に関わる処」は、この所以を以て「鳥取の砂鉄の工人等」が移住しての「近江日野」と成ったとされている。

これ等に関して「資料と記録」が多く遺されていないのは、この「闇商いの所以」であったろうし、当初は「近江日野の事」と「摂津の事」とは、「室町期の中期・額田青木氏の銃」を造り上げるまでの間は「隠されたものであった事」に成る。
ところがその「日野の情報」が室町期末期直前に漏れて「薩摩等の豪族・記録」が密かに「日野の匠・工人等」に対して「引き抜き・略奪」が行われた事が記録に遺されていて、前段で論じた様に「他の日野の匠・工人等」の「青木氏部」は、この事から「出自元の伊勢松阪に大量に逃げ込んだ事」は「記録」からも判っている。
この段階で時系列から前段でも論じた様に「摂津・鉄に関しての闇製鉄と闇商い」だけにし、危険性の増した「近江」から引き上げた事に成ったのだ。
この「摂津と伊勢」だけで、「上記の所以」を以てして前段と上記する様に時系列は上記の通りであるが、その「鉄と銃の取り巻く環境」も難しいものがあったのだ。
然し、それでも続けて「難しい近代銃の試作銃に取り組んだ事」に成るのだ。

これ等の事を専門的見地から勘案すると、この「鉄鉱石」と共に、「五合金元素の鉱石に関する知識」、即ち上記した様に、「五合金元素の鉱石は「地球のプレートの変動」に伴って「日本列島」の「海底深部か地下深部の堆積鉱床」に在するものであり、これ等は従って「地球の熱や圧力の影響」で変成するが、この事で「特徴的な岩石の色・専門的知識が在れば判定できる」を示すのだ。
これらの「鉱物」、例えば、一般的な「Mn・マンガン・主に赤紫」に例えると「バラ輝石やテフロ石やハウスマン鉱石」や、変成に依って変化した「緑マンガン石」等があり「鉱石色」で判別できるのだ。

そこで「山を見る目・石を見る目・土を見る目」の「熟練した知識」があれば可能となっていたのであり、故に奈良期の古くから「紙屋院」と「繪所院」と「繪所預」の「朝廷の院号・専売権と専業権」を授かっていたのであり、その事から、「国産和紙」とそれに纏わる「墨や岩絵具開発」に携わり「青木氏部」を有していたのだ。
それと共に、これ等の「山に関する知識」は、前段で論じた通りで「山師」であり「土木師」であった「親交の深かった額田部氏との関係」で充分に補完されていたことが判る。
故に、その「基礎的な知識としては無かったと云う事」は先ずあり得ず「青木氏部としての保有」は充分に考えられる。
筆者は、「伊勢」は「院号」を有して「額田部氏との日本産の岩絵具の開発殖産」に関わっていた事は、この「全ての知識」が無ければ無し得なかった筈であると観ている。
唯、知り得ていてそれを敢えて「銃に使わなかったという事」では無かったかと考えている。
つまり、専門的に観れば上記した様に「近江鉄による銃」には「共析鋼の特徴」を充分に生かし使ったと云う事であろう。

余談だが、偶然にも筆者が先祖の血筋を引くのか専門職にあって、「施基皇子とその裔系の高倉大倉鉱山の殖産業の歴史」から始まり百々はその「銃の所以」までを調べるに至ったのだ。
他にも専門的にも関係性を幅広く調べたがここではこの程度として置く。
最後にその一つを下記に付随して論じて置く。

次に「四つ目」の「第二のタフニング」である。
これも上記の「結晶と炭素との処理・サイアナイド」とよく似ている。
要するに「炭素」の代わりに「鉄の結晶の表面に窒素を浸み込ませる処理」である。
この事で若干に「サイアナイド」とは出来る特質は違う。
上記した様に此れには全く「マルテンサイト等の結晶構造の変化・変態」は伴わない。
形成されるのは「鉄とチッソの結合体・窒化・低温処理と高温処理の二つがある」のみである。
要するに、「鉄とチッソが結合」すると、「鉄」は「窒素」に依って安定化を施され、表面に「窒化物」が形成されて上記の「サイアナイド」よりは固くは無いが、それなりの固さと柔軟性を有し極めて摩耗にも強く、衝撃にも強く、さびなく自然に対して安定している。
そもそも何よりも「銃の欠点の熱」にもその「全ての有した特性」が変化しない程に強く、「処理に必要とする加熱工程」は変わらないが、「炭素の場合の様にその「効果を導き出す」には「加熱と後処理」は働くが窒化は働かない。
より大きく採るとすれば兎も角も必要だが、其れなりの効果としてのものであれば、「窒素の場合」は全く不要と成るのだし、「窒素の特徴」は上記した「変態」を起こして「特性を導き出す」と云う事は原則的にない為に「油などの急冷却・割れと変形」は不要と成るのだ。
これで「銃が起す欠点」が克服できるのだ。

但し、ところがこの「窒素」を浸み込ます「窒素材の選択」に関わるのだ。
何故ならば、「この世に存在する窒素材」は、「備長炭の炭の炭素」の様に「自然界」では「窒素を持つ合成物質」としては、「高温熱処理に絶えられる程の物質」が少なく、「窒素そのもの」は「無害」であるが、「人工的な形成物・劇薬品・リン酸カリ」からしか得られないとする「処理欠点」があり、全ゆる生物を瞬間に殺傷する毒性を出す「シアン化窒素の様な有害物」が多い傾向にある。
この「化学物質」を上記の様に「鉄と炭素」の様に加熱するが、冷却時は「ゆっくりと冷却」すれば「炭素と同じ上記の特性・耐酸や耐熱も伴う」を出す「窒化物・安定化する」が僅かに表面の層に得られるのだ。
全ゆる物に「適用度が高い」がその反面で「リスクは非常に高く危険」である。
但し、「銃の場合」には「サイアナイド」の高温の中でもこの「窒化現象」も同時に多少なりとも起こっている事もあり得るのだ。

それは「加熱炉の土中に自然物として浸み込んだ場合」や「備長炭等に浸み込んだ窒素の加熱材の場合」で起こつている事が学問的探究で確認できている。
当時は学問的追及が出来ていずに、“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事があって、その資料の表現にも出ている。
「加熱材の紀州の乳母女樫の備長炭」だけは「合言葉」の様に知られていて、その炭の効果は知られていたのだが、では、“鉄はどうであったか”は記録にもはっきりしていて、前段でも論じた「伊勢青木氏の天皇から命じられた最初の殖産」は「鉄の国内生産」であって、それを「近江」で発見したとしてその「功績」で「院号と伊勢の領地」を賜った経緯を論じたが、その当にその“「近江鉄」”が未だ「室町期」でも広く認識されていたのだ。
それ故に、「摂津での銃の試作」は都合が良かったのだ。
窒化も知らず知らずの内に加熱の過程で近江鉄の場合には起こっていた可能性がある。

さて、この「近江鉄の優れている所以」は、「六つ目の対策」にあったのだ。

それを一応解いて置く。
「炭素」に依って「銃の欠点」を補う為に基本的に「鉄を炭素で強化する」が、これも当時としては矢張り、上記の“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事にあって、今では学問的には解明されているがそれは「鉄鉱石の中に含まれる不純物の鉱物」に在ったのだ。
「鉄の中に含まれる不純物の鉱物・当時の資料では」としているが、とんでも無い事で「希少合金元素」が含まれていた事なのだ。
それは、「マンガン、マグネシウム、モリブデン、タングステン、クロム」、「五大合金元素」と「部枠の銅とNi」であった。
これを含まれている「原鉱石の鉄」にあったのだ。
何れもこの「五大合金元素」は、「鉄」を全ゆる物理的強度を非常に高め強くする「不変の元素」で、何ら熱処理を加えずとも、唯単に含む事でその「全ゆる物理的特性を高める効果」を「自然に生み出す」のだ。
但し、その量に関わり多く含んでいれば良いという事では無く、多いと「逆効果と成り得る物質・量的な事は其の物質と特殊元素の関係相関図は判っている・専門的高度な知識必要」なのだ。
取り分け、その中でも「マンガン」は、その「鉄の特性効果を一番に高める」のだが、前段でも論じた「近江鉄・4鉱山の総称」には、この地質学的に「マンガンが多く含まれていた事」があって、前段でも「詳細に論じた淀川を使っての運送」と、その「近代銃の開発に好んで銃生産に使用した可能性の所以」を以て観ると理解出る。
然し、実際は使用していない様でその形跡は観られない。
現在では含有していなければ「製錬中に加えるという事・そう云う特殊鋼材もある。・マンガン鉱」をするが当時では未だそこまでは無かった。

さて、そこで因みにこの認識されていなかったと思われるこの「マンガン」では、どの様な事が「近代銃」に生まれて来るのかである。
これを現在に於いて、このマンガンの効能に於いて“いい味を出す”として翻訳して解いて置く。
結論は上記した「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」に成るという事だ。
これを「適時適量に加える事」で「耐高度性、耐摩耗性、耐経時性、耐衝撃性、耐腐食性、耐酸化性、耐疲労性、耐イオン性、等」の挙げればきりがない程である。
故に、「銃の製作中の鉄に加える事・自然に鉄鉱石に含まれている場合もある」で、「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」が「製錬中、加熱中、製作中、使用中の欠点」を防げるのだ。
「額田青木氏の近代銃」は、「近江鉄」に限定し「共析鋼」にしそれに伴う加熱過程で表面層に偶然に「サイアナイド化・炭化」を施し、時には「窒化・タフニング」が興していたと云う過程で出来きあがっていた。
此れで「銃の熱の欠点」をクリヤーしていたのだ。
現代の冶金学から観てほぼ「マンガン効果に似た現象」を起していた事に成るのだ。

注意として、最後の「耐イオン性」に付いては、専門的で理論的ある為に深く理解でき難いが、その要点だけの概要を下記に述べて置く。
それは、「上記するマンガン等の鉄に対する合金元素」に付いては、「昭和期までその特性が解明されていなかった特性であって、そもそも「戦乱期」では「解っていなかった事・何か不思議な事が起こる程度に把握」であった。
それは仮に、「鉄とマンガン」とすると、「鉄の−0.44」に対して「マンガンは−1.18」と成り、この「マンガンのイオン力」は「約4倍」にあり、その差が大きく互いに「イオン力で引き合う力が大きいと云う事」に成る。
普通は、“「約5倍程度の差」"が「物理学的に適正値」とされるが、この数字は何とか「鉄とマンガンの結合状態」には「物理的欠陥の問題」が生まれ得ない程度の範囲にあると云う事なのだ。
この世に存在する「全ての物質」は、この「イオン力・電位力」で結合し「一つの結合体」で形成されているし、この「イオン力・電位力の力」で「地球の持つイオン力・引力」とで引き合い「地球の表面に付着している事」に成るのだ。

参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には高度な技術が潜んでいたのだ。

故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明で在ったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ匠にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、めている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。

それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。

「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」に続く。P21に続く。


  [No.396] Re:「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/06/02(Thu) 09:44:52

「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」の末尾。

参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には「高度な技術」が潜んでいたのだ。

故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明であったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ[匠」にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、求めてめている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」に成る前の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。

それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。


「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」

さて、戻して、そこで「鉄」に均等に「炭素とマンガン」のこれが“「結晶間に浸透すると云う現象」を上手く利用できていた”のではとする発想が偶然かは別として生まれて来るのだ。
そもそも「進歩」などと云うものはそのキッカケは「偶然」によるものが多い。
参考として、先ずその前に“「結晶とする知識の獲得」”は現実に「技術理論として把握していたのか」の疑問であるが、それは“「貿易か経験」”かで得られていたかは判らないが、それは実は「目視的」に解るのだが、故に外観的には「答え」としては“解っていた”と判断できるのだ。
つまり、それだけの「経験力」とされを基にした「技術力」を周囲に比べて特段に持ち得ていた事に成る。
何故ならば、その「試作の単片」を鏡の様に「砥石・日高砥石」の様な「超仕上げ砥石」で細かく磨き上げ、これに強い日光を当てれば「光の屈折」でうっすらとその「結晶の様子」が浮かび上がり、且つ、その「屈折」で僅かに「色合い・結晶の判別が可」も浮かび上がり観えるものである。
これを更に「うすい2%程度の硝酸塩」に「2分程度浸して」それを拡大鏡で観れば凡その結晶構造まで観える。
当時としては外国から輸入して「ある程度の拡大レンズ」はあつた事は解っているので、ある程度の範囲の「結晶構造」は観えていた事が考えられる。
取り分け、前段でも論じたが「酸」の中でも、この「硝酸塩・硝酸カリウム・黒色火薬」は糞尿などを自然発酵させて変化させる事でも簡単に得られるが、故にその身近なものとして古代から既に「狼煙」などにも使われていて「火薬などの発達」と共に古代からあった。

注釈 因みに 一般に聞きなれないこの「硝酸塩」とは、「硝酸類とアルカリ金属とアルカリ土類金属」との結合体の「塩類」で、古来から糞尿などから造られていたし、肥料にも使われていた最も人類に「身近な化学薬品」とされるものであつた。
故に、「アルカリ金属類・リチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、フランシウム」と、「アルカリ土類金属類・カルシウム、ストロンチウム、バリウム、ラジウム、 ベリリウム、マグネシウム」であり、取り分け、「リチウムとナトリウムとカリウムとマグネシウム」は炎色の発火性を用いて「火薬等」にも広く多く用いられていて、従って「花火」と云う点では同然に「古代から身近な金属類」として扱われていた古い歴史を持っていたのだ。
だから、上記の通り「鉄」を鍛える為に加えられる金属類としては身近なものであったのだ。
上記で論じた取り分け「遷移元素のマンガン」は、「酸に溶けやすい金属」として有名で、性質は「野菜など採取できる身近な金属の亜鉛」にも性質は類似しいて、この「硝酸塩類」と共に古代から広く用いられている金属である。
この様に後勘から観た「金属の歴史観・学問的知識」を承知すると、「銃の事」に関してにもより理解は深める事が出来るであろう。
筆者は、大和に於いては「金属知識」は「局部」にではあるがそれなりに高くて広まっていたと観ている。
それだけに「最先端の専門的知識」で以てこの様に検証する必要があるのだ。
前段で論じた様に「奈良期から平安期」の「古墳建築や干拓灌漑」を手掛けた「額田部氏」の「土木建築工学的専門知識」は、唐に勝るとも劣らずの知識を持ち得ていたが、「金属」などの「冶金工学的な知識」や「額田部氏」と連携した結果から、「地質学的知識等」も「青木氏部」に依ってその知識は同然で高められて行ったと考えている。
其の連携は、「青木氏部」は明治初期まで続いたとする事からその技量は「日本のトップクラス」にあったと考えられ、故に「近代銃」にまでのものに応用されるものであったのだと考えている。
依って、明治初期の「伊勢屋の解体縮小の政治的圧力」では、「額田部氏の起業化・桑名」と「青木氏部の大工会社・2社・寺社大工」と共に「二つの企業化」を成したと成っている。
然し、この辺の「青木氏部論の研究」も何時かは論じて観たいと考えて準備している。

従って、この程度の事は「砥石の歴史・奈良期チャート」を観れば判るし、その「日高砥石」は技術の発展と供に歩んで来た経緯があって、その経緯は「歴史の技量」を物語る一品として有名で、「古代の何かの特別な技量」を物語るものには必ず「日高砥石」が出て来るのだ。
歴史に使用されたものとして青木氏では長く保有して来た。
これは「刀用だけではないもの」からも判断して技量の判定や確定に利用は出来るのだ。
現在では、この砥石の代わりに「腐食液・2%硝酸ナイタール」を使ってすれば「顕微鏡等・最低で20倍最大で100倍」で万華鏡の様に綺麗に観えるが、故に、「顕微鏡」が無いにしてもこの「結晶らしき概念の概要」は密かに保有していた事が判るのだ。
その事から「鉄と炭素とマンガンの関係の知識」とその「結晶的な概念」は「青木氏部」だけには充分にあったと経緯からすると確定できるだろう。
ただ、この「マンガンに関しての知識」は「概念程度」で相関的な知識は無かった事は解る。
尚且つ、上記したある程度の要領を記したものが、技量を統一する為なのか「要領書的な物」として「技量伝承の為」にか、「密かに氏人の床下に遺されていた形跡・世間に漏れる事を危険として嫌った」があって、「桑名地域の蔵の資料の一部」が読み取れるのだ。

注釈 「明治35年伊勢屋解散・摂津に移籍」と共に「青木氏部」も解散し、一部が「桑名の額田」で工業所を創業、その関係する処の一部から資料が発見されている。
この「多くの遺産物」は「失火消失・口伝・この頃の火事は疑問が多い」したと考えられるが、その様に伝えられている。
それが前段で論じて来た「額田青木氏の銃の処の検証」であって、「古来・8世紀初期頃」には「近江鉄の生産703年と713年」は下記の通り歴史的に確認されている事から、そうすると「10世紀頃」には「伊勢青木氏」の中で密かにも硝煙は生産されていたと考えられる。
その「名残の証」として「近江鉱山」に使う「火薬・焔硝の形」で遺されていたのであろう。
その「名残」が「近江鉱山の近くの村」の「近江の床下・鉱山開発の爆薬」からも発見されていて、それに連動してか前段でも詳細に論じたが、偶然にもこの「要領書的なる物」が、「蔵等」では無く「思い掛けない所・神社の床下」から発見されたこれも「歴史的な由縁」なのであろう。
つまり、この「発見カ所の床下」から考えると、この「要領書的な物の事・メモ的な物」は“何か特別なものとして観られて扱われていた事”を意味するだろう。

そこで前段でも論じたが、歴史的には「天智天皇・大化期」には「朝鮮半島の百済復興」に出向き、それに「中国・唐」が朝鮮半島に進出し「白村江の戦い」で敗戦して急いで帰国し、「中国の大和侵攻」の“いざという時に戦える様に、“「中国道・現在の山陽道」を結城氏等に命じてこの工事を急いで完成させ造られたとする「歴史的史実」”がある。
この時に下関の半島の先端からの「緊急の伝達手段」として「狼煙・焔硝」を使って都に「情報を伝える手段」を「構築・史実」したのだが、この事は既にこの“「焔硝」”は在って常時使われていたが、その為にこれは「皇親族」として唯一の「朝廷の国造の支配頭」をしていた「青木氏・青木氏部」で生産されていた事を示すものだ。
故に、此の頃からの「青木氏部の存在」は、「近江鉄」に始りその時代の「技術的基礎・国の技術的基準」は「青木氏部」にあったと考えられ、当然に上記の事も含めて「硝酸塩の歴史」も「青木氏部」にあったと考えるのが普通であろう。
つまり、この「顕微鏡」が無いにしても、この“「焔硝の存在」”に依って使っていたかは記録が見つからないので実録が見つからないので判らないが、“「結晶らしき概念の概要」”をそれなりに「鉄の表面」から、「より鮮明にして明確に確認できる環境に在った事」には成るだろう。
筆者は完全では無くてもそれなりに使ってたと観ている。
これは「奈良期からの青木氏部」には、「かなりの技術力が在った事」が云え、且つ、「氏族で独自の部・歴史的に確認できるのは四氏程度」を持ち、中でも総合力を持ち得ていたのは「青木氏部」であって、且つ、「朝廷の物造・国造の差配頭であった事」と「令外官・賜姓五役の事」からも裏付けられる事を示しているものだ。
「青木氏部」は、要するに当時は「国の工学院的な立場」にあったと観ているが、「院号の確認」は古い為に資料がなく確定は出来ない。
唯鉱山とその製鉄の技術を保有している限りに於いては技術の総合力を保持していたと考えるのが普通であろうし、青木氏部に比べて他に居なかったとすれば「国の工学院的な立場」の説は認められるであろう。
況してや賜姓五役の令外官であったのだ。
他に代わるべきものは無い事は頷ける。
「青木氏部」の他に確認できる範囲では、記録として残る与えられた「院屋号」は「紙屋院、絵画院、墨具屋院、繪所預院,軍師処、等」が記録に明確に遺されている。
この事から、一部資料からこの「鍛屋・かや」又は「鍛冶院・かぬやいん」と云う号名が出て来るがこれが「院号」では無かったであろうか。
そもそも「青木氏部の位置・朝廷との関わり」づけから、この「青木氏部」の中にも「院や屋や号」に相当するものが必ずあったのでは無いかと観ているのだ。
「近江鉱山を二つも興した青木氏」であれば何も無しはおかしく「院屋号」は少なくとも与えられるであろう。
況してや「院屋号」を与えないと折角の鉱山の鉄もその販売も出来る事は無いだろう。
現実にその「功績」を以て「伊勢」に「二度の大字」を与えられて功績を認められているのだ。
「青木氏」は、自らも「青木氏部」を持ち、且つ、直接には「令外官」として「国造」を支配し、朝廷の「伴造」も「皇親族」として代わって差配下に置いていたとしている。
故に、その名残として「光仁天皇」の以降は 「諱号」を「伴」にする事が多かったのだ。
その関係する「青木氏部」の中の一つに上記した「鍛屋(かや)・鍛屋院では」と出て来る。
この「鍛屋(かや」の号は、「近江鉱山開発の所縁」からの「院号・特区別占有権」を授かった「鍛冶屋(かぬや)の院、又は屋、又は号」では無いか。
「鍛屋(かや)・「鍛冶屋(かぬや)」に「屋」が着いている処をみると、「紙屋院」と同様に「鉱山を掘る事」と共にそれを「売り捌くまでの事」に成っていたと云う事だろう。

さて、再び技術論に戻る。
その「上記の方法」でこの「概要」は少なくとも会得していたと考えられるが、この「炭素」と同様に、「記する処の筆者の読み込み」では、この「要領書的な物の存在」では“「光で映し出された粒の細かさが左右する」”として、その「光具合の技量」を会得していたらしく、それを「青木氏部の匠集団の中」で密かに伝えていたらしい事が解る。
そもそも他と比べて珍しくも「青木氏の家訓10訓」にもある“「技術の重要性に関する事」”を説いているのはこの事に依る所以であろう。
つまり「青木氏」の中にその「立場の関係者」のなかには「技量の伝承の義務」みたいなものが江戸期前までは長くあったのでは無いだろうが。
余談だが、先ず、そもそも「家訓」に「技術の重要性」を説いているものは世間では皆無であろう。
それだけに「商い・殖産」をしながらも、「技術の青木氏部の存在」が「伊勢と信濃の青木氏」の中では大きかった事を意味している。
当時としてはこれでは普通で考えれば、世間からも“不思議な氏族である”と充分に観られていた筈だ。
今で云えば、前段でも論じている事だが、“「販売」”もし、“「物造り」”もし、“「研究所」”も持つ「青木ホールディングス」であったのであろう。
それでいて、一方で“「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷」”を重んじ維持し、将又、“「巨万の豪商」”と成りながらも、他方では“「質・施し」を「神明社」で施す”と云う処まで及んでいたのだ。
一方では、“「律宗族」”と呼ばれ扱われていたとするのだから、その「歴史の中」にはその「独特の影響力」は深く「農業の分野」までに及んでいて、信濃と越後から進んだ技術を学び「伊勢の立地」からその「土壌と季節性」に苦手とされる「米の超早場米と酒米の開発・日本初」まで挑んでいたのだ。
どう考えても、“不思議中の不思議の氏族”と普通に考えれば観られていた事には成る。
確かに「奈良期の古来」よりその存在そのものが「普通」では無い事は間違いは無いが、これは前段でも論じた様に、「普通」では成り立つ事の無い「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷・院号の伊勢屋」と「賜姓族青木氏」の「二足の草鞋策を使い分けていた事の所以」である事は自明の理であるが、それが余りにも長い歴史を有し続けていた事から、これを世間ではこれが普通の事・当たり前の事と捉えられていた事に成るのでは無いかと考えられし、この事に就いてだけに明確に論じたものはないが、この説論は「流れ」や「状況証拠」から観て先ず間違いはない筈だ。
だから、それらを纏められていたものが「家訓10訓」にも成り得ていた事は、“不思議な事では無い”し、そうでなければ「伊勢と信濃の女系氏族郷士50衆」からも異論は出て、「氏族存続・全ての事」のそのものが成り立たなかった筈だし、然し、「伊勢と信濃での連携」で成り立ってきたのだ。
それ故に、当初、「青木氏の解明の研究」に苦労したが、「技術の重要性に関する事」は「大正14年」まで続いたと云える。
その「科学の片鱗」が未だに「子孫の血液・理数系」の中に色濃くの遺し得ているのだ。

元に戻して、“「結晶らしき概念の概要」”のそれは、「紀州姥め樫の備長炭・墨」では「細かい事」が良い事が解っていたからであり、それで無くては、“「良い品質の墨」からの「炭」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、略して、専門の呼称として「サイアナイド・浸炭効果」とこれを云うが,特殊な技術」が得られていたのだ。
これを、“「浸炭としての効果」が出ない”として「青木氏部の中」では伝えて語られていたらしい事が書かれている。
然し、「一般の技術・主に鈩鉄」では、“「良い品質の墨」からの「炭/炭素」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、「強く硬くすると云う概念」は全く無かったと観ている。
唯、「幾つかの記録の表現」から「総合的」にあったのは、つまりは、「鍛して・叩いて強くする」と云う概念であったらしい。
その証拠に「炭素の量」に「拘りの表現」が全くにして無いのだ。
そもそも「鈩製鉄」では,「内炉の底にたまる鉄・0.10%程度・純鉄」と「炉外の炉低に流れ出た0.28%程度・低炭素」の「二つの鉄の塊」が出来て、それが「鉄表面0.2ミリ付近に侵入した鉄」が二つ出来るのだ。
これを、“何度も加熱して鍛して折り重ねてそれを繰り返しで造った玉鋼」は出来るのだが、元より「炭素の量」に「拘り」が全くにして無かったのだ。
ところが「近江鉄」は鉱山から掘り出した「鉱石」であって「砂鉄の箱型炉」では無く、新しく鉱石様に開発された「竪型炉」から出来る為に“「浸炭としての効果」を強く求めたのだ。
両者の求める「技術の領域」が全く異なっていたとする「大きな技術の経緯」があったのだ。
だから誰も真似は出来なかったと云う事があった。

略して、「専門の呼称」としては「浸炭・サイアナイト」と成るのだが、要するに特別なのだ。
この「一連の銃の研究」では、「約20年の試行錯誤の結果」から、その「温度に依って左右している事」を把握したとしていて、「内部の結晶・結晶の表現」としは、記録に無いが、但し、唯単に“「粗鉄・あら鉄」の「炭差」”の「意味合い」として記している。
これは、況や、「鉄の細かさの温度に依る変化」として捉えていたと云う事に成るだろう。
この様な「専門的な見地から記されている事」を要約すると、先ず「墨」の如くに極めて「粒を均一にして、更に「極めて細微」にして、それを先ず「熱・灼熱」して、「粗鉄・あらてつ・結晶を開いて」にして、これに「繰り返し」で「浸・浸透」させ、「鍛」し、これを以て「繰り返し」、その「技・熱処理」を施し、その後に「冷する」とあり、更に、不思議にその後に“「低く焼する」”と「添え書き」があり、「要領書・メモ形式的・古くて読み難い」に記されている。
但し、この“「鍛」し”、は “「鍛える」”と云う「意味合い」だけでは無く、主に“「繰り返しの過熱」”に等しい「意味合い」で表現しているらしい。
この「加熱を繰り返す事」に依って「墨、又は炭が浸みこむ事を促進させる」と云う意味合いで、“「鍛」し”、の呼称が使われていた事に成る。
但し、この事は鈩鉄とは根本的違っている
つまり、この事は近江鉄では「メインの作業目的」には、「墨、炭の量を微妙に調整していた事」に成るだろう。
正しくは、この「工程」において「炭」では無く、最早、「細墨」を越えてであって、「炭素・Cの意味」を成している。

それは次の理由による。
1 加熱の炭
2 鉄に付着している不純物の除去・還元作用・炉中で炭酸ガスに不純物は酸素に吸着させ、その代わりに炭素は鉄の結晶間に浸み込ませる。
3 鉄にガス程に細かく成った「墨/炭素]を浸み込ませ浸炭する。炭では分子が大きすぎて浸みこまない。

奈良期ではまだ「1の加熱炭」であったが、その平安期中期頃には「2の還元・入替」に気づき、平安期末期には「3の浸炭」へと進化を遂げた。
兎も角も、上記の時期は捉え方で確定は出来ないが工程は次の様に推移して行った。

「近江鉄の進化」=「1の加熱炭」→「2の還元」→「3の浸炭」

つまり、この「20年の試行錯誤の経験」から、この前段でも論じた様に上記の数式の工程から既に「青木氏部」は、「墨の殖産の技術・墨・炭の経験」を持っていて、それを「高温に成る良質の備長炭の加熱材を使用した事」から、“偶然にも“「表面が少し固く成る事」”を知り得たと考えられる。
要するに、「浸炭硬化」であった。

ところが、その“「固さ」”と表現するものが、然し、実質のその特性は、“「硬さ」”であるのだが、これをより得る為に「何度」も上記の通りに、“「鍛する事」”と“「炭で加熱を繰り返す事」”で「得られる事」のこの“「三つの技」”を把握したのであろう。

そして、「注目する事のもう一つ」は、その中には、「鍛する事の意味」が「鈩鉄」と違っていた事が理解した事が解る。
この「鍛する事」で、「加熱によって拡大した結晶」が潰され、且つ、その「エネルギー」で「硬くなるの効能」では無く、「一度に炭素を継続して浸み込ませる技」よりも、「何度も加熱を繰り返す事の技」で、より「炭素を浸み量を増やす改善策」を見出した様であったが、これの進化が主であった様であり、その事によって「最悪の品質」を招く“「結晶の拡大」”を防いでいた様でもあり、その事が知っていたかは別として把握していた様だ。
故に、この結果から、「要領書的な物の事の遺す重要性」があって記され、それにはその得られる性質を“「固さの表現」”と成ったと考えられる。

然し、この「事実」はこの二つは下記の“「特別な現象」”で違うのである。
さてところが、この“「固さと表現」”に付いて其の侭では、折角の“「欠点解消の処置が裏目に出る」”と云う経験をして仕舞ったのだ。
この後で「収縮や変形や亀裂や炸裂等」の好まない「欠点の事・ロ」の顕著の特徴が、恐らくは、「試作中・試撃ち等か」に発生したのだと考えられる。
つまり、文章の行を読み取ると、「何の為の試行錯誤経験か判らない事」が起こって仕舞っていたのであろう。
故に、将又、更に「試行錯誤の経験・やり直しの過程」に入った様だ。
兎も角も、工程を元に戻す為に行った「低く焼している事の過程」で、この「欠点の事・ロ」が何故か「消えて治っている事」に気づいたのだろう。

これが、要するに“全ての熱を掛けて仕上げた物”に、もう一度矛盾するかの様にその「熱の影響を除去する為の熱の処理」が必要とする事に気づいた事に成る。
これは当時としては当に「原理矛盾」である。
ところが、それが,現在で云う「テンパーリング・応力除去の概念」と云う「高度な技術」なのであって、それを知らずか獲得していた事に成るのだ。

抑々も“この世に於いて固くはなるが硬くもなる”という事は、この「自然界」に於いては原理的に無い。
その“「硬くなったもの」”、そのものには、この世に於いて「一般的に得られない事象]であって、その「事象」を知っていて恣意的に人間が造り出さねばならないものである筈だ。
従って、この様に「作り代えたもの」には、“何某かの次元変化を興させねば元には戻らない”筈だ。
それが適用されたのが、この「金属にのみ発生する原理矛盾の熱処理」なのだ。
故に、その上で結果として“「要領書的な物の事」”に示す様に「原理矛盾の技術理論」を纏めて遺し確立させ獲得したと考えられる。

ここで、この“「固さと硬さ”に関する検証・概念では大きく違うのだが、然し、この「概念の解決」が必要と成ったとみられる。
現在から観ると、先ずその概して云えば、その“「硬さの概念」”はこの事で完全とは云えないまでもある程度に掴んでいた様である事は認められる。
然し、これを専門的に観れば未だ「大きな未熟の一点」としてあった事が確認できるのだ。
つまり、それは此処では、当初、何度も「加熱―鍛えー再加熱ー冷しー繰返し」の「五つの工程事で得られた特質」と考えられていた様であるが、実はこの「昔の概念」は大事な処が一つ抜けていて違うのである。
確かに、この「五つの工程事」では、「鉄」がある温度に依って「炭素」が偶然に「結晶」に浸み込み、それが「結晶の縁」に「浸み込み」が起こり、それが「鍛される事」で潰れて「原形」より「薄く」なり、これが「繰り返される事」で要するに「固くなるとする一般概念」として受け取られていたらしい。
ここが違うのだ。
これは降る程度の範囲では確かである事は完全に否定はしないが、然し、実はこれは“「固さ」”の「直接的効果」では無いのだ。
飽く迄も、上記した様に冶金学では此れは、本来は上記した様に“「固さ」”なのであるからだ。
ここには、何故ならば“「本来の硬さ」”から来るものには、必ずこの「自然界」では観られないある“「特別なあり得ない現象」”が起こっているものなのだ。
これが起こっている限りは“「固さ」”では無いのだ。
これでは、この時代では未だ当に「獲得し得ていなかった概念である事」は成る。
それは、これには“「固さと硬さ」”に関係する「大事な結晶理論に伴う事」が起っているからなのだ。




これは、「結晶の概念」に付いては、当時としては未だ“「鉄の細かさの温度に依る変化」”としてしか「概念」が無かった事の所以」なのだが、従って、それをこの「記録」では“「粗鉄・あらてつ」”と記されている所以でもある。
“「粗鉄」”はで飽く迄も「鉄の域」を超えていない。
「鉄」を「粗い」と「細かい」とに分類しているだけであってこれには「結晶の大小の概念」がない。
要は、「鉄」には「粗い」と「細かい」ではなく、“「結晶の大小の概念」”が必要なのである。
“「鉄の粗い」”は、必ずしも「結晶の大きい」に相当するとはならないのだ。
何故ならば、「鉄の粗いの定義]としては、これには「均一性」が無く、この「粗い」の中に「細かい部分」も含んで「粗い」としている。
「鉄」は「使用」に際しては、“ほぼこの「均一と細かい」で無くては使用に際しない”のだ。
従って、「鉄」には「均一と細かい」が必ず求められ、この「均一」に「不均一としての不純物」が介在していればそれが阻害して「均一・又は均一性」は得られないのだ。
故に、「不純物の除去。還元」が求められたのだ。
結局は、「粗い」と「細かい」ではなく、それは「結晶の大小の概念」が必要と成って来たのである。
何故ならば、この「不純物」は、この「結晶間」に存在するからだ。
この「結晶」を小さく求めて行けば結果として「不純物」の「ノロとスラジ」も消えて行くのだ。逆の事も云える。

処で、この「鉄の中]で、この「結晶を小さく求める事」は並大抵の事では無いのだ。
「鉄を加熱する事]はそれは粗くなると云う定義に成るのだ。これを繰り返せば繰り返す程にその粗さはより増すのだ。
「鉄の工程」としてはこれは「論理矛盾」である。
「温度」を上げれば挙げる程に「結晶」は大きく成り、時間も長引けば長引く程に大きく成るし,その分だけ「鉄」は「結晶間の力」が弱く成り脆く成るのだ。
ではどうするかであるが、この「鉄」には「ある特定の限定された温度域」で「適度に加熱する事」で「細かく成ると云う事」が不思議に起こるのだ。
これは「論理矛盾の解決」である。
この神が与えた「特定の温度」を把握する必要があるのだ。
そうでないとそもそも結晶間に存在するものは何であれ「弊害物」と成り得ても脆く成るのである。
これを「無弊害物」にしなければ成らず、同時に強くする物質に換えなければならない。
ではそこでこの「結晶間に浸み込んだ細かい炭素」は、「不純物」として成り「炭素の効果」を発揮しないのだ。
寧ろ、普通の理論では「浸みこんだ炭素」が逆に概して「結晶間の間」に入った「不純物」として「鉄の表面強度」を弱くして仕舞うのだ。
結果として場合に依っては「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に全面に走るのだ。
故に、当時としては「炭素」は「不純物」と観ていた筈だ。
然し、ところが「加熱材」として、又「還元剤」としても使わなくてはならないのだ。
「鈩製鉄」の「玉鋼」は、当に当初よりこの概念の中にあるが、「703年と713年の近江鉄」では「鉄鉱石」であって、ここから原鉱石を溶かして「鉄」を引き出し、「炭素と石灰」を使ってその反応強さで結合させて「各種の鉄を造る事」に成るのだ。
故に、「玉鋼」だけには限定されていない。
「不純物」と観られているこの「炭素」は、「近江鉄」に執つては逆で、つまり、「炭素と石灰」を使う「竪型炉」に執っては「必需品」と成り得るのだ。
但し、この「近江鉄の竪型炉」に執っての必需品には、飽く迄も「不純物」である以上は「難しい限度」があるのだ。

故に、「結晶間の不純物」と観られている「炭素の存在」は「鉄の性質」に大きく左右するのだ。
従って、「鈩鉄」に比べて「近江鉄」ではその特徴を掴めば歓迎されていたと考えられる。
とすると、この歓迎されている以上の「近江鉄」には、「不純物視」されていた「結晶間の炭素」を「コントロール」していた事に成り、逆に「炭素の少ない鉄・やわらかい鉄」から「炭素の多い硬い鉄」を生産する事に進化を遂げて行ったと考えられる。
ところが上記した様に普通で考えれば「不純物」である限りは「近江鉄」には「限度」が存在する事に成る。
この「限度」を掴まなくてはならない。
それも「結晶間」に存在する限りは「破壊」に繋がるからだ。
これを「青木氏部」は絶対に掴む必要があった筈だ。

さて、もう一つこの“「限度」を掴まなくては使え無い”という事が起るのだ。
そこで、それが「鉄」である限りは、先ず「加熱と冷却の熱処理」をすることが求めらる。
「炭素量」が多く成れば成る程に、そもそも「炭素」が基本的に「不純物」である限りは相当に鉄の純度を上げない限りは「熱」に依って存在する「結晶間」で破壊するのだ。
では、この「ノウハウの知識」が進んでいない以上はその限度の数値は「偶然把握」であり、どの様に「偶然の一致」がこの「近江鉄」に起こっていたかである。
学問的に研究調査で後に判った事ではあるが、この「不純物の炭素」の「鉄の結晶間」に浸み込む程度は、「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」でこれは定まっている事に必ず気付くのだ。
だと云いながらも、現実にはどの様にその限度を調べるかであってその方法が源るられていた筈だ。
「最低で0.25%程度」、「最高でも1.3%程度」で限度は発生する。
この「高い炭素」の場合は、「炭素の弊害」を無くす為の「特殊金属・マンガン等」を加えなくては使えないのだ。
これは現在で判った知識であって、当時は「採取できる鉱石」に自然に含まれていてるもので、その量も決まってくるのだ。
資料を読み取ると、「炭素」ではある程度の量で、それを「酸化する程度」で把握していたらしい。
「マンガン」では含まれる「自然量」は、「鉄に含まれる金属の量」で「自然と鉄の反射色」が変わって来るので判る。
採掘場所で異なるので、ここの「マンガンを含んだ鉱石」は「錆び難い鉱石の事」で判るし、「還元」を強くすると「炉の入り口に溜まる量」でも判るのだ。
これで「鉱石を選んでいた事」が書かれているが、「炉の入り口に溜まる量」を集めて炉中に入れ直しても使えないのだ。
何故ならば、「マンガンの融点」が高い為に「鉄の中に溶け込まず遊離して存在する事」に成るので、結局は不純物に成り破壊に繋がるのだ。
従っても「マンガン等」は明治期の高炉でやっと使える様に成った事が書かれている。
戻して、「炭素の量」はマンガンなどが除去された後の「酸化程度」で見極めていたらしい。
その証拠に古来では、「箱型炉の炉低外に流れ出た鉄」は、「深い船底の様な穴」に流し、そこで先ず「微粉末の炭」に包んで保護していた事が解っている。
これは「酸化を防ぎ目的」と、「炭素を表面に浸み込ませる目的」で行っていたものであるらしい。
これを「二度目の加熱」で更に「炭素を浸み込ませる目的」であったらしい。
最高で四度も「製鉄加熱」を繰り返していたらしい事が書かれている。
これは当に飽く迄も「酸化防止を目的」とした「炭素の量の浸炭目的であった事」に成る。

この「近江鉄」を「青木氏部」が「鍛冶院・かやいん・かぬいん/鍛冶院/かやいん」として「号」を以て扱う以上は、この「数値」を掴む必要に迫られていた筈だ。
少なくとも、「自然の摂理の概要」に左右されている程度の事を「平安期中期」までにはその歴史的経緯から逆算して観て知っていなければならなかった筈だ。
そうで無ければ当時としては、「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」も「偶然の自然の理屈」で決まっている以上は、つまり「論理的な理屈では導き出せない事」から下記の「温度域・723度」をも把握できていない筈だ。
「近江鉄」は下記の「温度域・723度を使えない事」に成っていた筈だ。
ところがこの「温度域・723度域を使う事」で解決するのだ。
根気いる実験しか無かった筈だ。
然し、結果論から「1540年〜1550年頃」には、最早、この「温度域・723度」は「銃の欠点克服の為」に「試行錯誤の上」で掴んでいた事に成る。
この「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」に直接影響している“「鉄の理想的な結晶間の炭素量」”の「温度域・723度」であって、此処にだけに“「共析鋼」”と呼ばれる鋼にある事を、概して少なくとも掴んでいた事に成り、逆の事も云える。
完璧な「偶然の自然の理屈」で出来る表の様で無くても「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」では、“それなりの「ポイントの繋がり」”としてを掴んていたと考えられる。
それは「竪型炉の加熱時の備長炭の墨」の「木炭の加え方」と「石灰の投入の仕方と量と質」に「ノウハウの源」を府詰めしていた事に成る。
少なくとも「無秩序な木炭と石灰の加熱と量」では得られないと心得ていた事に成る。
これは「匠の極めた範囲のノウハウ」であったのかも知れない。
これ等の事は「青木氏部」に秘かに引き継がれていた事に成る。
だから、「鎌倉幕府に竪型炉による製鉄方式」を求められて「関東の鉱山}に拡大する事が出来たのだ。

注釈として「伊勢本領安堵」の秘密裏に駆け引きに使われた事が考えられる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏部」から廻していた「鍛冶師の日野」の「ノウハウ」を薩摩藩等が秘密裏に「引き抜き事件」が1550年代に起きたが、この時には「伊勢の指示」に従った「日野の職人」の殆どは「伊勢の指示」に従い「伊勢」に逃げ帰って「青木氏部」に戻った事件があった。
それ程に、「青木氏部の保有する銃の生産のみならず製鉄のノウハウ」にも興味が集まっていたのだ。
取り分け、「近江鉄の4つの鉱山の製鉄」には「竪型炉のノウハウ」も含めてこれらは「鍛屋院の青木氏部」しか持ち得ない「製鉄ノウハウのかたまり」であったのだ。

それにはどうするかであるが「以下の事」が同時に考えられていた筈である。
「鉄」には「特徴ある特定の温度域」で突然に細かく成り、同時に不思議に「結晶」は丸く成り、「鉄」は四方からの負荷力が均一化して強くなると云う特徴を持っているのだ。
その「加熱温度」が「600度〜650度」と限定されているのだ。この温度域に結晶と炭素に限り起こるのだ。
これも偶然の原理でこの「不思議な温度」なのだが「不思議な温度」だけに色々な名で呼ばれている。
「微細化温度、球状化温度、均一化温度、応力除去温度、安定化温度・・・等」の「全ゆる熱処理」で起こった欠点を克服する温度でもあるのだ。
現在では結晶に限り「再結晶処理温度」とも云うのだが「金属の熱処理」としては、丁度、「中間の温度域帯」に位置するのだ。
然し、この「金属の熱処理」の概念は「近代の新しい目的」から来た見つけられた熱処理で過去に於いては其処まで金属に対しての必要性も無かったであろうし、判らなかったであろう。
では、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」に、ではこの“「特徴ある特定の温度」”で処理すればよいか”と云うと、問題と成るのは、“どの工程で行うか”によりそうでもないのだ。
要はその効果の問題である。

先ずその前に「この概念」はそもそもが未だ把握していなかったであろう。
先ず「処理」が難しすぎるからだし、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」の「目標達成」には意味が大きすぎる。
そこまでしなくても、ほぼ「額田青木氏に与えた銃の欠点除去の目標」は達成できたからだ。
それは「近江鉄」が使った「竪型炉」から得られる「鉄鉱石」には、「特徴ある特定の温度域」は何も必要としないのだ。
従って、下記にその「温度域・723度・共析鋼」を記しているが、偶然にも「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に走る事は起こらなかったのだ。
だから、この「要領書の粗いの表現」からして書いた時のものは「完成時の物」では無い気がする。.
「偶然」にも「凄い温度域」をこの「近江鉄」で見つけ出したと云う事だ。
侭さに上記した「偶然温度」であるのだ。

先ず「鉄の不純物」にはある「物理的な特徴・比重差」があって、これを「攪拌する事」で一か所に集中する性質を有するので、これを「く字型の道具」で取り除く事は「鉄の場合」は比較的に容易であるのだ。
唯、「鉄」に科学的に付着しているものには、「石灰」と「木炭に依る炭酸ガス/加熱材にも成る」で「還元する事」で可能であるのでこれは一般の製鉄の工程通りである。

以上の“「不思議な現象」”では、当時に於いては当然に「この概念に到達する確認できる術も無かった事」も頷けるが、さてだからと云って完全に無かったかと云うとそうでもないのだ。
そもそも放置できない事だからだ。
それは何度も論じている様に、これも“「紀州産備長炭の特徴」”にあったのだ。
これをその「産地の紀州の藤白地区」から運んで来て、この「砂鉄」の「鈩製鉄手法の箱型炉」を、先ず「箱型」を「縦」に向けて、それを改良して、「炉溶温度」を上げられる様にし、それに合わせて改良を重ねた「竪型炉」を態々造って使っているという事なのだ。
「鈩製鉄」の様に、単なる「木材」を「炉」に投入してそこから時間を掛けて「木炭」にしてでは無く、この改良した「竪型炉」では既に先に「備長炭」にして炉中に投入してから使っているのだ。
「木炭」に成るまでの「無駄な時間と工程」を省いて直に「木炭効果」を上げる事で「木炭による還元反応」を高めた事と、「木炭(備長炭・墨)」を「鉄の表面」に浸み込ませて「硬く錆び難くする改良」を重ねたのだ。
それは「鉄の表面層」に「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭・炭素」が幕の様に成って「浸みこむ事」を掴んだからである。
「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭の炭素」は、化学組成上は「錆びない物質」であるからで、「錆びる鉄の物質」の表面層上にこの「錆びない物質の侵入」があれば、結果としてそれが「障壁」と成って「錆び難い物質」に代わる筈である。
これで先ず「浸みこんだ微細炭」で「目的の一つ・錆び難い物質に変質」が達成されたのだ。
序でに、他の「二つ目の目的」を先に云うと、この事は同時に“表面が硬く成る事”であり、この「硬く成る事」に依って「二つの原因(炭素が変化して硬化する=炭素が表面硬化を起こす」を起こすのである。
更に他の「三つ目の目的」を先に云うと、この事で“表面が硬く成る事”で「摩耗性」が向上する事である。
そして、この「摩耗性」が向上する事にも「二つの原因」が起こる。
それは「炭素の高い滑り性と高温での結晶が変わり鉄組成の変化」があり「表面」は硬さで強さで改良されるのだ。

注釈 そもそも 「還元反応」とは、「鉄」に外の物質が化学組成上で付着していれば「鉄」からこれを剥がさねばならない。
これには化学組成上の結合である以上は、化学的に剥がさなくてはならない。
この剥がす作業には「二つ」あって「酸化と還元」であるが「酸化」は「相手」も傷つけ壊して剥がす。
相手に傷を着けないで剥がすには、この「還元」で付いている部分の化学組成に反応させてそっくり剥がして自分の方に付着させる手法で、これを使う。
これらの事を科学的に把握していたかは別として何らかの形で使っている以上は古来から把握していたと云う事だ。
一部の資料では「自然界に起こる偶然の結果を見習ったという事」であったらしい。
その証拠に当初は加熱するのに「藁」を使っていた事から獲得したと観られている。
「加熱の藁」は燃えれば「灰」に成り高い還元の効果を発揮する。
これが「石灰石」に匹敵したのであろう。

この手法の「良悪の問題」は、ここにあって「期待する効果」がそれだけなのかである。
つまり、そもそも “何故にこの「細かい紀州備長炭の墨」が良い”と判断していたのであろうかである。
“何かが在ったから良いと判断していた”のであろう。
そしてこの「難しい疑問点・細かい墨」に、言い換えれば “「青木氏部の技術の概念」がここに到達できていなかったのか”である。
その「答え」は、実は当初は青木氏部も“完全には到達できていなかった”のだ。
何故ならば、この“「細墨の疑問」”に就いては、そもそもこの“「自然界」”に存在しない“未来の現象であって難しすぎるから”であった。
これは「当時の事」としては「当然の事」であろう。

そこで、“ではどの様な事の「未来の現象」が起こっていたのか”である。
これを解く事が少し専門的で難しいのだし忘れ去られる可能性が高いが、「青木氏」がこの様な「銃と鍛冶屋院での鉱山開発の事」に関わったのだと云う事の「青木氏の将来の為」に誤解を恐れずにここで出来るだけ判り易く下記に解いて遺して置く。
そもそもこのような立場に置かれていたのは当時としては「910程度の氏族」の中で唯一であったろう。

確かに上記した様に、「五つの工程事」の様に、“「何度も鍛える事」”で「鉄」にはある「一定のエネルギー」が加えられ、その「エネルギー」が「鉄」に「何かの形」で残る筈である。
この事で、この場合は確かに「要領書」に記されていた“「固さ・A」の概念”であって、それは確かに先ずは増すのだ。
そして、「通常の鍛えた鉄物」は、確かにこの“「固さ・A」の概念”は先ず得られる。
ところが、「火縄銃等の殆どの鍛物」のものには、この“「固さ・A」の概念”では済まされない何かが出ているのだ。
然し、此れでは上記した「火縄銃等を含む銃に起こる欠点」を補えていないのだ。

ところが「額田青木氏の超近代銃」に施されていたこの“「硬さ・B」”では、
「紀州備長炭の炭・細かい炭素」と、「数度に鍛える事・加熱の効能」と、
その「事の時間と温度」の“「三つの要因」”で、
この「炭素の量」が“「結晶間に残る量」"としては増えるのだ。
当初は「炭素が結晶間に残ると云う概念」がそもそも無かったであろう。
それも「炭素」であり、この「細かい炭素」が鉄の中に残ると云う概念が無かったと考えられる。
「途中の段階」までは “「鉄に浸み込んだ」”と云う風な程度に思い込んでいたらしい。
でもそうだとすると、「鉄の何処に浸み込んだと思ったのかである。
当然に「結晶の間という事」になろうが、この「結晶の概念」がそもそも低かったのであるからどの様に考えていたかである。
ところがこの段階でも未だ「鉄が結晶の網」で出来ているとは思っていなかったらしい。
「鉄」の何処に浸み込んだと認識していたのかである。
餅の様にところどころに浸み込んだ程度で在ったのだろう。
“水に墨が黒く浸みた如く”と思っていた様な事が書かれている。
初期では「鉄などの鉱物」を「粘土の様な固い物」と同じと考えていたらしい。
ところが、その途中で、「結晶の概念」を“何となく獲得した時」”があったらしいのだ。

それが顕著に考えられる時期が来たらしい。
それは「炭素」が浸みこむと鉄の表面の色が灰色に変化する事に気が着いたらしい。
要するに、“「光の屈折”」で色が変化する事の認識を獲得した時であろう。
この事は当然であり、「浸透した結晶間」の「難しい疑問点・細かい墨」、即ち、「炭素」が「光の邪魔」をして、その「炭素の結晶間での凹凸」で「光の屈折率が違う事」が起るがこの時の様だ。
当にこの時に「結晶と云う概念・網」を「鉱物の鉄」に対して持ち得たのであろう。
この「概念の取得」が「近江鉄の鋼の最も良い使い方」であったのだ。

注釈 「結晶の語源説」には明治からの新しい学問であった為に外国語説が多いが、その言葉は元は「結晶」では無く「クリスタル」であり、ところが日本では違うのだ。
「結晶の字形]から判断してでは,“三方からの「太陽の光」が結んだもの”としてあり、それは「石英・酸化シリコンの結晶」として判断していて、それが昔からある身近にあった「透明の水晶・シリコンの結晶」であったらしい。
この「水晶」に当たる「光の行方」を観て定義したとする説もあるのだ。
当に定義とするには「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」は「日本古来から存在する大変多い古来の宝石」として扱われそれの定義は適切である。
筆者は、古来の人は、日本列島は地質学上で「石英列島」であって、山を歩けば直ぐに見つけられる結晶体である。
この身近な何処にでもある「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「概念・認識」の根底にはあったと考えていて、だから、「鉱物の鉄」に含まれた「結晶間の炭素の屈折光」には、この「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」を観たのでは無いかと考えている。
因みに、「ひすい]も「こはく」もこの「シリコンの石英の結晶体の一種」でその中に含まれ「微量のアルミかナトリュウム」かの違い色合いは起こるのである。
この「珍しい事」による「宝石」とさせれる「結晶」は、殆どは「樹液や石や植物等」が地球の地下深くでの圧力で固形化したものでこれを「宝玉」と呼ばれる事と成ったものであり、「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「鉱物が結晶化して宝玉」となったものは少ない。
況して、故に当初は「鉄と炭素の結晶化の認識」は無かったであろう。
実は、「たたら製鉄の箱型炉」の「炉外底の炉池」には「溶融鉄が流れ出して来るシステム」と成って溜まるシステムとなっているが、この「炉底池」に「炭」が敷き詰められているのだが、これは、「鉄と炭素の結晶化の認識」からではなく、「高温の鉄の酸化を防ぐ目的」で上と下から「炭」を蒔いて覆い「酸化を防いだ事」が解っている。
これ即ち、「炭素は「鉄の結晶に浸み込ませる目的」では無かった事」を物語っている。
「炉中底」にも一部残った「溶融の鉄」もこの炭が敷き詰めた炉外底に最後は流されるのだ。
つまり、「炭」は「酸化を防ぐ目的」にあった事に成る。
だとすると、此れでは「酸化の認識」はあったとしても、その逆の「還元の認識の定義」を高める事の例に突きあたらないのだ。
「箱型炉の鈩製鉄」にしても、「竪型炉の近江製鉄」にしろ「鈩では炭」、「近江製鉄では石灰石と炭」を「還元剤」とする化学反応を明確に意識して使っているのだ。
ところがこれでは「還元の認識の定義」を高める事の例に合わない。
それは「酸化」より「還元」の方が「常識」であったのかであるがそんな事は無いだろう。
「確かに害の無い還元」であったとしても、「何れの製鉄」でも使っている以上は認識はあった筈である。
「鈩製鉄」では、「加熱材」として「藁と木材」を大量に投入し炉の中で熱を籠もらせて投げ込んだ「砂鉄」を溶かす。
その結果として「藁と木材」は、「灰」と成り、この「高温に成った灰成分」は「還元反応」を結果として招く。
これが「メカニズム」である。
飽く迄もこの時は“「加熱材」”であって“還元剤」”では無かった事に認識は成る。
つまり、「還元の認識・概念」は当初は無かった事に成る。
ところが、対比する「近江鉄の竪型炉」では、「加熱」は「木炭」で、「還元剤」として明確に加熱材を兼ねない「石灰石」を投入しているのだ。
勿論、「木炭」であれば高温に於いて加熱中に先ず炉中で「鞴の酸素」と反応して「一酸化炭素」と成り、これが「鉄の表面」に反応して初期には「還元剤」として働くのだ。
これが更に「加熱」が進むに従って、この「石灰石」が「溶融・900度」して「還元反応」を起こし「科学的な還元」を本格的に起こすのだ。
その為には「竪型炉」はより溶融点を挙げる必要があって「改良の必然性」が高くなった一つなのだ。
そこで、何故、突然に「石灰石」に意識が飛んだのかという事である。
それは恐らくは、「鈩製鉄の箱型炉」に使う「加熱の藁や木材の灰」のその「効果」が大きく、その「灰」の「加熱の末路の凝固」の中には「炭酸カルシウム等・白い粉の塊」が多く含まれ冷えると凝固し当初は「邪魔物」として扱われていた。
ところが「鉄鉱石に着いている付着物の撤去・邪魔者」は、結局はこの「白い石の灰の塊」にあると認識し、これが「還元」として働いているのではないかと云う概念を持つに至った筈だ。
だとすると、「白い石の灰の塊」を獲得する為には、「青木氏部と額田部氏の協力」を得てその「専門知識」を生かして、その「山の同じ成分」と観た「山の石灰層の切り崩し」にあると観たのではないだろうか。
「消石灰の原料」は、「石灰石・炭酸カルシウム)」である。
この「石灰石」を砕いて「炉」で加熱した後に、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来るのだ。
だとすると、「白い石の灰の塊」は、要するにこの“「消石灰」”である事に成るし、恐らくは「骨粉などの苦土石灰」も使っていたと考えられる。
要するに、「石灰石」=「消石灰」=「白い石の灰の塊」として繰り返し砕いて使えば「還元効果」はより生まれる所以である。
これはこの段階で、これは「竪型炉」に改良してそれに依って「溶融温度が高くなった事」に依る効果であって、その時に「還元と云う概念」をこのでの実績での事で明確に持ったという事であろう。
そもそも、これは「箱型炉では得られない概念」で、「竪型炉で得られた概念」であった事に成る。
つまり、これが年代的に竪型炉の開発と近江鉄の開発の「703年と713年と云う事」に成るのだ。

注釈 「苦土石灰の成分」は、要するに貝粉や骨粉の堆積であり、「炭酸カルシウム}と「炭酸マグネシウム」が主な成分であり、 これに対してこの「消石灰の成分」は、「水酸化カルシウム」が主な成分である。
何れも「日本列島の成り立ち」から無限にあって積極的に使ったと考えられる。
ところが、「石炭」は、これに代わるものでありながら「古来」より列島にはその存在が多く認められて使われていた記録がありなから、それが「最大の加熱材」で、且つ、「最大の還元剤」を兼ねているのに「歴史・青木氏部」は何故か使われていないのだ。
その「原因]は当にその「有毒の硫黄・亜硫酸ガス」であるからだ。
この「石炭の硫黄」も、この「石灰石」を砕いて炉で加熱した後、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来る様に、同じ工程で「石炭も石灰」も元は地球上の生物の化石であって、故に「全く同じ工程」を踏めば出来る筈なのだ。
これに依って「無害の石炭・コークスの名称」が得られ、「石灰=コークス」として使えている筈なのだし、「技術が無かった」と云う事では無いのだ。
然し、この処理も知り得ていて敢えて使っていないのだ。
何か「宗教上の掟」に依るものかであるが、それも記録が無く、この「記録}が特段に無いと云う事は他に「有毒の硫黄」の「宗教上の掟」としか考える事は出来ない。

そもそも、その温度は「500度」だが50度+のそれだけの違いであり、これは全く「技術の有無」ではない。
要するに処理後の呼称は「コークス」であり、それでも使わなかったのだ。
「石灰石の処理」を知っていた限りは使えた筈だ。
「明治期の高炉」までこの「コークス」は頑なに使わなかったのだ。
それは「石灰石」などで「還元」は充分であったと云う事かもしれないが、然しながら「還元力」は、兎も角も高い温度が得られる「加熱材」等の「三つの高い効果を持つ」のには、現在もこれに代わる物は無いのだ。
後は「青木氏部」である限りに於いて「積極的に使わなかった事」が原因して後世に於いて後段で論じる「神に捧げる物の定義」に扱われたのかである。
つまりは、これが「鈩鉄と近江鉄の違い」から発生した結果かである。

さて、話を戻す。
「結晶論」の此の“「結晶間に残る墨量・炭素の量」”の「鉄の結晶間の縁だけに増えた量」が、「鉄の量」に対しては、「炭素・0.8%」に達した時に初めて、“「ある変化」”が「鉄の結晶間」で起こるのだ。
理屈ではなく「自然が造り出す原理」である。
何度も経験しなけれは得られないし「自然が成す基準値」である。
これが当時としては、最大限に「難しい疑問点・細かい墨」であった筈なのだ。
それが起こったのだが、「青木氏部」に執っては「何事も驚きの瞬間」であったろう。
そもそも、それが何が起こったのかである。
更にどんなに条件が整ったとしても、唯一つは“「墨・炭素に成る為の細かさ」が細かい”と云う点で、これも「偶然の事」で起こっていたのだ。
唯、「細かい炭」であれば起こるという事ではないが、その“「細かさ」"が得られる「偶然の墨」だったと云う事だ。
その確実に起こり得る「加熱中の偶然温度」が、何と不思議に、どんな条件でも“「723度・変態絶対温度と云う」”と云う点に限定されている事に成っていたのだ。
つまり、この「温度に達した事・723度」で、「鉄と炭素」に、つまり、「細かい事の幾つかの偶然の条件」にある“「不思議な一致の偶然の変化」”が起こったのである。

その“「723度」”は、「温度計」が無く、それも「高温」のものを計る事が出来ない時代に於いて、どの様に確認したのかであるが、この「不思議な偶然の事」が起こる「限定した鉄の温度」を覚えて置く事で可能と成ったのだ。
これは「723度と云う特徴ある温度」である以上は、一度観ると忘れない「鉄の表面」が、「“波打つように輝く橙色”をしている」と云う色の特徴を持っていたのだ。
これは何故起こるかと云うと、“「723度」”の「鉄の内部」では「特別な変化」を興す為に「色判定」には「ある5度程度の範囲温度で安定した特徴」を示したのだ。
概して、先ず上記した持ちづらい概念の「鉄の結晶」には、「高温」に於いて「3つの色々な結晶構造」があり、それは「温度と鉄と炭素量」に左右されているのだ。
そして、この「不思議な723度」がその「全ての鉄と炭素の結合点」であるのだ。
「試し」に加熱して温度を下げて来ると、この「結合点」の「・723度」に於いて再び同じ点に必ず到達する「不思議な点」であるのだ。
この「・723度の結合一致点」ではこの「鉄と炭素の結晶」は「3つの色々な結晶構造」で出来ていて、それが加熱を下げて来ると、「オーステナイト結晶」の「不思議な結合点」に到達するのだ。
これには「物理的な原因」は無く「偶然の摂理」に基づき起こるのだ。

注釈 「4つの色々な結晶構造」とは次の通りである。
オーステナイト結晶
パーライト結晶
フェーライト結晶
セメンタイ結晶(常温)

そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”だからこそ、この世に起こらず存在しない“「トランスホーメイション・変態の温度」”と表現されるのだ。
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”に「ある特定のエネルギー」を加えると、世にも不思議な事が又起こるのだ。
この「温度以下」でも起こらず、この「温度以上」でも、この「限定した温度以上」に達しない限りは起こらず、その場合は、その「温度の差の分」だけの “「歪み・欠陥を持つ事」”に成るのだ。それは「偶然」であるからだ。
当然に、従って、「近江鉄」に於いて、この“「723度の温度」”を見極める「極めて難しい匠の目視技」が求められたのだ。
云うまでも無く、この“「723度の温度」”の「偶然温度」に達しても「偶然温度である限り」は「幅・ユレ・3から5度程度」を持ち、この「偶然の幅」を獲得しなければ、この“「723度の温度」”の「良好な結果」は得られないのだ。
「青木氏部の匠」はこの「偶然の幅の限界」を習得しなければならなく成っていたのだ。

言って仕舞えば上記した様に、先ず、
第一番目に「0.8%Cを偶然に見つけ出す事」に成功したが、
そこで、次に第二番目に「723度」に「絶対的な偶然温度」がある事を知るに至る。
これに対して「上記する偶然要素」を“「723度の温度」”を獲得するに必要とする「絶対の鉄」に含まれる数多くの要素を組み合わせて、「偶然の要素の影響を観る事」に成ったのであろう。
この工程を踏まなければ「銃の欠点」を解決に至らなかった筈だ。

要するに、これも「偶然の炭素量」が「0.8%C・(0.86C)」であって、この「二つを中心」としてそれぞれの「加熱」に対する「時間」。「細かさ」。「速度」。「質量」。「体積」。「面積」。「墨の素材」。「加熱力」。「融点」。「角度」。以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈である。
当時に「冷却過程」に対する「冷却材」等に対しても以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈だ。
「青木氏部」として「関係表」を完全な形で造る程度に得ていたかは判らないが、大筋でその目的の為の範囲にはできていたであろう。
「処理後に対する把握」を根気よく出来て初めて「銃の欠点が安定よく排除する事」に成功したと考えられるのだそれで無くては「銃の欠点が安定よく排除する事」は出来ていない。のだ
以上の様に、「数えきれない偶然」を「組み合わせ」で見つけ出す事に成った筈である。

上記の「新しい鉄の持つ専門知識」を一度に得て総力を挙げて活気だったと考えられる。
「目視」で凝視していれば一瞬ではあるが目に見えてに伝わって来るものがある。
そして、「その時の鉄」の中では、其の「細かい炭素」と共に“「共析鋼」”と云う「偶然結果」として得られる総合品質の「良質な鉄のもの」に変化するのだ。
そして、“この時、「ある変化」と共に飛びあがるような「不思議な事」が更に起こる”のだ。
上記の“「不思議で偶然なある変化」、即ち、「この世では普通に起こらない特別な変化」、即ち、“「変態」”であって、「鉄の炭素との結晶」”では、結晶の呼称として“「オーステナイト」から「マルテンサイト」”と云う形に変化して起こるのだ。
これを「銃の試作過程」で一度に「鉄の持つ不思議な複数の新しい知識」が関連して「偶然に会得したと云う事」に成ったのだ。
それが言葉で纏めると“「共析鋼」”であって、その「結晶の変化」としては、先ずは「オーステナイト」であって「マルテンサイト」であるのだ。
では、この「不思議な結晶の現象」の“「偶然な変化」”とは、一体何なのかである。
これを何度か繰り返している時に、「ある温度・723度」で「炭素の量・0.8%/鉄」に達した時に、「偶然」に「冷やす工程」と成った時に、ある特別なこの「世では普通では興らない現象」が「炭素と鉄の結晶」を通じて“音を立てて瞬間的に起こったのだ。
これは「可成りの偶然」な事である。
これが、“「変態・不思議な偶然のある変化・鉄と炭素の結晶のオーステナイト」からの「マルテンサイト」”と云うものなのだ。
「超硬く」て、この世のどんな物にも、例えば「ダイヤモント」と互角程度以上の強さを持ち、その強さは「どんな物理的で科学的な強さ硬さ」よりも優れているのだ。
これは、当然に“「前段の銃の欠点」”を性質的に補う事に余りあるのだ。

そこで、この通常では得られない「鉄と炭素の高温での結晶の状態」を専門的には“「オーステナイト」”と云う。
全ての結晶の共通点である共析鋼でありながらも、この偶然にも得た一部の結晶の構造を全て一度「オーステナイトの状態」にして「鉄と炭素」の全てを「必要な時間」を掛けて変えて仕舞う必要が伴うのだ。
その「時間」が長いと、「鉄と炭素の結晶の関係」に長いと「粗大化現象」と云う「取り返しのつかない欠点」を造り出して仕舞うのだ。
当然に短いと、「不完全な鉄と炭素の結晶の関係・不均一現象」を生み出してし割れてしまうのだ。
何れも大きな欠点を持ったものに成って仕舞うのだ。

この上記の「温度・目視で把握・表面の色」も然る事乍ら、「時間・目視で把握・表面の色の流れ」にも「極めて難しい匠の目視の技」が求められるのだ。
要するに、「鉄と炭素の結晶」を仲介して「一種の炭素の結晶に「ある独特の変化が起こるのだ。
それは、「手に伝わる2秒程度の鈍音」と「震動」と「表面色」と「表面模様」と「油の冷却材の表面の踊り具合」でも判るのだがそれは一瞬で起こるのだ。
判り易い近い例として、「マグマの中で溶けた炭素」が火山噴火等で外に放り出される。
それまで「莫大な地球の高圧のエネルギ」が加わった時に「炭素の結晶体に変化」が起こり、それが「冷却等のある工程」を経て、「地球の冷却圧」とで「ダイアモンドと云う結晶体に変化する事」になるが、それはこれに類似する。
そこに「高温に成った鉄が介在する事」で「鉄と炭素の二つの結合体の結晶体」が起こるのだ。
これは、「ダイアモンド」と同じく、その「特異な状態のものが、つまり「・マルテンサイトと云う特異な形」を保つ為に、突然にこの「高温にあるオーステナイトの結晶」から「急激に冷やす事/1S以内」で「変態と云う特殊な現象・トランスフォメーション」が自然発生的にこの世に起こされるのだ。
これで得た「あり得ない二つの結晶体の物体」を「マルテンサイト・鉄と炭素」/「ダイアモンド・炭素」と云うのだ。

その「特別な特質」は「炭素の結晶体のダイヤモンド」に比して「鉄と炭素の結晶体のマルテンサイト」は決して劣らないのだ。
寧ろ、「鉄との結晶の変態の結合体」と成るので「違った優れた特性」が導き出されるのだ。
まあ、一般的に判り易く云えば「ダイヤモンド+鉄を造った」と云っても良いだろう。
然し、此れは、解る様に「通常のこの世の事では無い事」の故に、つまり、その侭では「自然界」に無いものであるので、この“「マルテンサイ」”は、「自然破壊」して仕舞い「応力分散」が出来ずに割れ破裂するのだ。
この「ダイアモンド」も「地中深く高圧の中」で「緩やかに冷やされ」て「ダイヤモンドと云う特別な特質の侭での状態で長く保たれ状た状態で維持された事」で割れないでいるのだが、それと同然で出来た侭の状態では「マルテンサイト」は、間違いなく「破壊」が起こるが、“穏やかに保たれていれば同然のものが得られ道理”であると考えた筈だ。
その地球の“「穏やかさ」”を施してやれば「ダイヤモンド」と同然事と成るは必定である。
その「穏やかさを施こすに替わる事」を考え出せばよい事に成る。
そこで「青木氏部の匠等」は懸命に考えた。
「穏やかさを施こすに替わる事」が、これが「この世に無い変態」である以上は論理的に解る事では無い。
現在でも難しいが、当時でも直ぐには結論は見つからなかったであろう。
つまり、これは簡単に見つかる事では無く、「穏やかさを施こすに替わる事のこの世の有無」も含めて試行錯誤の末に辿り着いたのが、それは思いも依らぬ「低温で加熱する事」で加熱して得たものをもう一度加熱すると云う事はそもそも「・原理矛盾」であったのだ。

然し、「低温で加熱する事」そのものが定義的に変である。
「マルテンサイト」は論理矛盾であっても「ダイヤモンド」はところが「・原理矛盾」では無いのだ。
そもそも、「加熱」と云うのかは問題であるが、少なくとも「常温・20〜50度」を越えた「以上の温度である事・イ」には間違いはないが、この「常温以下の温度−40〜5度・ロ」に保つ事を「加熱」とはそもそもならない。
然し、論理的には地球環境に似た環境に近い「このイとロ」に於いては、「+圧力」を加えてこの温度域に保てば破壊する事なく保てる筈なのだ。
その「対策」として、初期には「ダイヤモンド」に合わせて何れも「地中深くに埋めた事」が書かれているが失敗している。
それには、この世のものでない変態である以上は「マルテンサイト」の持つ「応力の大きさを解消する力」を持ち得ていなかった事に成る。
論理的には「マルテンサイトに成るに必要としたエネルギー」に相当する「マイナスのエネルギー・打ち消すエネルギー」か必要である。

これを求めるにはところがそれでは時間が掛かる事の欠点がある故に、事前に加熱後の灰配中に居れていた。論理的に「多少の変態の変化」は認められるも、何かで間違って、“「ある温度”に保てた「灰中に落とした侭」として放置して忘れていたいと書かれていて、ところがその結果として「破壊する事なく保てる事」を会得確認したとあり、それ以後は“「灰中・100〜150度」で「2日から3日程」に忘れて寝かしていた”とある。
然し、これが結果として取り立ててその「銃の欠点を補う特性」に通常の変化はなかったのであろう。
これは論理的に応力除去では納得できる良好な操作で、現在でも行っている「油中加熱」と共に「一つの方法」と成っているのである。
当時としては「初期の頃」は「経験から獲得した理論」であったのだ。
筆者は、上記した様に「近江鉄の製鉄法」にしてもこの熱処理にしても「日本特有の灰中冷却処理」で「より長く処理」が好ましいと考えている。
其の後、「1540年頃」から始めてから「1560年頃のほぼ銃の欠点除去の完成域・1565年使用後」であった観ているが、「完成期」と考えられる時期の「室町期末期から江戸初期」に掛けては、「西洋」から「貿易に限られて」で「冶金知識」も合わせて「伊勢屋」を通じて入ったと観られる。
然し、“「青木氏部」”ではその前ごろには「経験を通じて獲得している事」が判っていて、「独自の開発」による「竪型炉に依る技術」ではなく、これは「其の後の技術」はより進んだ「高炉の製鉄法との融合技術」であったと結論付けている。
「竪型炉の発展経緯」から観て「外国人の技術導入」では無かったと観ているのだ。

そこで、当時は上記した様に、飽くまでも未だ「何度も鍛する事」での“「固さ・A」”の概念」であったが故に、「硬さの概念」のそのものが無かった筈だが、この「概念のはっきりとした認識」の無い侭に、「額田青木氏の超近代銃の中、つまり「・摂津・青木氏部」では、「硬さの技・技術・処理」が経緯からすると何とか得られていたのだろう。
と云う事は、それはそれまでの「巧みの技」を生かした「20年間の試行錯誤の過程での結果」であって、当初はその概念に付いては、その時は、それは“何か変だな程度の概念”であったろう。
然し、「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」が在って、そこからこの「硬さの概念」が確実に得られていたのであって、その結果が上記した驚く様な「近江鉄の高度な技術に発展した事」に成る。

注釈 「伊勢青木氏」では「家訓の技術を重んじられる家系の風潮・文化」は、この長い間のこれらの極める概念が色濃く遺された遺伝的な結果のものであろう。
さて、「鉄」は高温に過熱するたびに「鉄の結晶」は粗大化するが、この「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」では、「高温の鉄の結晶」は逆により潰されて細かく成り、その「より細かく成った結晶」の間に、更に「微細炭素が浸みこむ」と云う過程が起こっている。
そもそも鉄は加熱する事で粗大化するが、この結晶をそれを鍛して細かくすると云う技を駆使していたのだ。
上記した「再結晶化温度の処理・600度〜~650度」は全く使っていないのだ。
この代わりに「鍛する事」でこれに換えているのだ。
この「鍛する事」で上記した「変態・マルテンサイトが起こる環境」が整えられて行って、「鉄に対して良循環が起こり続ける事」に成って行ったのだ。
そもそも「再結晶化温度の処理・600度〜~650度を使う事で得られる結晶のマルテンサイト」と、「鍛する事」で結果として得られる結晶の上記した「変態・マルテンサイト」とには違いが生まれる。
それは「鍛する事」で「結晶に受ける応力差」の違いである。
「鍛する事」で受けた「大きく成る応力」を計算に入れておく必要がある。
「マルテンサイトに成った時の鉄に対する影響」は無視できないのだ。
これを如何に無くすかである。
然し、この上記の基礎には「青木氏部」が古来より「専門部」として「朝廷に治める飾刀」から得た技がここに培われ続け引き継がれてきていたのだ。
「朝廷に治める飾刀」は、「青木氏部を持った時期・647年頃」からとすると、「703年・713年の近江鉱山開発・近江鉄」を使っての「飾剣」であった筈で、砂鉄に依る玉鋼の「飾剣」では無かった筈である。

注釈 大化の改新までは全て剣は中国からの輸入で朝鮮半島に攻める事に成った時に兵に全て刀剣を与える事と成り、中国と韓から「鍛冶部・かぬちべ」を北九州に迎えて全国がら部人を送り習わせたことが始まりであり、「飾剣・直刀」の製造は700年前後に入ってからの事である。

ではそれは何故なのかであるが、それを下記に論じる。
実は、前段で「駿河青木氏論との額田青木氏論の関係性」で論じた様に、「近江鉄の殖産の過程」で「琵琶湖から淀川」を経由して「原鉱石」を「内船」で「大阪湾」に出して、「摂津青木氏部」に「鉄の原鉱石を運び入れる道中」があって、その「運び込まれ得られた鉄」を「日野等」に先ずは支給して、「伊勢屋」は「鉄製品、最終は銃」を先ず生産していたのだ。
これに薩摩藩などが密かに目を着けた。
前段でも論じたが、そもそも「古代期」に「日野」は、「殖産の四つの近江鉱山」の「鍋窯の日用品等」の「鉄鍛冶屋」としての「鍛冶屋の摂津の影響を受けた有名な職域」にあって、そもそも「青木氏部の商いの範疇」にあった。
その「殖産の背景」で室町期には、「銃の生産・限定期間中」にその後匠等は「全員伊勢に引き取ると云う事件」が興ったのだ。
各地の豪族等は、「銃と云う事」に着目して「銃」よりもその元に成るその“「鍛冶職・かぬち」を摂津と日野で丸ごとに獲得する”と云う直接的な武力行動に出たと云う事に至ったのだ。
この「歴史的経緯」があり、それで「摂津」ではこれ以上は無理であるとして「伊勢に引き取ると云う行動」で対抗したのだ。
それからは前段でも論じたが「伊勢での銃の製作と云う過程」に入ったのだ。
元々は前段でも論じたが、「伊勢の青木氏」では古来より「朝廷」などに納める「日野の飾刀/特定範囲」としても数は少なくも「朝廷用品の実用品物・供納品」として「賜姓五役」の一つとして「青木氏部」で造られていたのだ。
それが前段でも論じたが、一時、戦乱に巻き込まれた時にこの「日野鍛冶匠」は「伊勢青木氏部」に一斉に逃げ込み組み、「伊勢の部」に組入れられた経緯があった。
ところがこの一部が「伊勢」に組しなかった「非組合員の他の匠等」は、薩摩等に侵略され引き連れられていった経緯があった。
この関係で「古来の飾刀鍛冶の技量を有していた匠等・青木氏部・鍛屋院」が「賜姓族の賜姓五役」から多くのいた事が判っている。
恐らくは、当然にこの「賜姓五役の殖産の経緯」から観ても「この時の技量が生かされた事」と考えられる。

そこで、では、“どの様な技量が生かされたか”と云う事に成る。
何度も論じているが、先ず元を質せば、「院号を与えられた施基皇子とその裔系」は、その結果として「伊勢の五つの大字」を与えられた所以と共に、それに伴う「国造差配頭の位置」にもあって、且つ、「鍛屋院・かぬやいん
」の「青木氏部を独自に持つ数少ない氏族」であった。
その「伊勢と信濃の氏族」がそれを総合的に生かすその延長線上にはあって、故に当時の「技術水準の最高位置にいた事・令外官として国造支配」は頷けると共に、更には「それをリードしている青木氏部の立場」にもあった事」に依るこの“「二つの技量」”が生かされていた事に成る。

注釈 筆者は、「天武天皇」が、“朝廷の高官の中には専門の官僚と成り得る優秀な大和人がどれたけいるか”と聞くと云う事件が起こったが、この事に注目している。
“官僚に変わり得る高い技量の持つ部人を持つ氏族がどれだけいるのか”と問われたが、その答えは“いない”と云う「返答」が返って来たとある。
殆どは、後漢の職能集団の帰化人であった。
この時、「令」を発したが、この時の令の「因事菅隷」の通り、殆ど「施基皇子の後裔の伊勢青木氏以外」には専門家は居なかったと観ているのだが然し勿論に[官僚族]では無かった。
この物語るところは百々の詰まりは、「伊勢の施基皇子とその裔系」は「因事菅隷の青木氏部を持つ氏族」を形成している事は既に重々に承知していた事である。
然し、その中でこの発言を発するという事は大きく気にしていた事から発したと観ているのだ。
つまり、「後漢人」に左右されない「青木氏部」の「独自の専門的レベル」が政界を騒がす程に高かったものである事を証明している。
それだけにこの“「因事管隷」”は「青木氏の歴史」を知る上で忘れてはならない「青木氏に大きく影響を与えた事」に成る「史実」と成る。
それには先ず「青木氏に与えられた院号を調べる事」なのだ。
それに「最も有力な院屋号」は、この「伊勢」に最低で四つの大字を功績として与えられ、それを下に莫大な私財を投じた「近江鉱山開発の特別な院屋号」である。
つまり、「近江鉱山開発の青木氏部が持つ院号屋号」であるが無いと云う訳には成らないであろう。

そもそも、本来は、彼等に対して「朝廷の太政官」が「天皇」に代わってこの様な「令」を発するが、「奈良期の皇親族」ではこの「太政官」に代わって「永代の賜姓五役の格式」に於いての「永代令外官」として間違いなく「因事菅隷」を実施した事が書かれている。
「皇親族=太政官=賜姓五役=「令外官」=「浄大一位格式」に依って「因事菅隷」があって、「令外官=永代浄大一位格式」は「太政官の上位」にそもそもあったと記されている。
取り分け、「政治の事」は兎も角除きそれ以外の発言権に関して優先権を有していた事が「佐々木氏の研究資料」等にも記されている。
故に、この事から「青木氏部・因事菅隷」は先ずはその「見本の様な立場」にあって「先導役」として走っていたと観られるのた。
「青木氏部」は、要するに「奈良期から平安期」までは現在の「国立技術院・工学院の様な立場」として活躍をしていたらしい事は判っている。
然し、ところが色々な資料を散見するが、それらしき確実に明記した「院屋号名」が表の記録に出て来ないのだ。
これは「考え方」に依っては、この「因事菅隷」そのものが「青木氏」にある以上は、「工学院」と云う“院が別に存在したと云う事”では無く、「因事菅隷」を持つ「工学院=青木氏部」のそのものの呼称では無かったかと観ている。
要するに「青木氏部」が「因事菅隷」を持つ以上は「青木氏部=院屋号」であったと云う考えも成り立つ。
この「青木氏部に関する事」では、「近江鋼の鍛屋院の号等」の「幾つかの類似の記述」が観られるが、これが「総合の技術院や工学院の号」も得られていた可能性がある事を物語る。
要するに当時は、「工学院=鍛屋院等の号」にあったと観ている。
そうでなければ「日本最初の近江鉱山開発」は、「因事菅隷」として「青木氏」に命じ無かったであろうが命じているのだ。
それが「賜姓五役としての令外官」であったのではないだろうか。
筆者は、その「院屋号の前提にある事」として、因みにその「進んだ技量」の中でも、この「青木氏部の中」に論じている様に、つまり、一つの証明として古くから「朝廷に納める飾刀の工程」のこれが青木氏部の中にあった事を明確に物語る様に、「全ての技術の院屋号の所以の代表品」は、この「朝廷の飾刀・飾剣」にあったのでは無いかと観ているのだ。
だから、「日本最初の近江鉱山開発」にも「工学院=鍛屋院の号・鍛冶院・・かやいん・かぬやいん」は下されていた筈だ。
だとすると、第一に、「鍛屋院の号」が無ければ「鉄」を掘り出してもそれを裁いて「利益」に持ち上げる「商い」もしなければ成らないのであるとすると、これを認めている「占有権・独占権」も無くてはならものであるし、況してや、そもそも「因事菅隷」を出しているのだ。これがある以上は絶対に「占有権・独占権」は成り立っている筈だなのだ。

この事で、故に後に基礎的に「飾刀の工程」が持つこの「青木氏部の基礎技量」が生かされたのであろうと考えられるのだ。
それが「天武天皇の問の前提」にあったのであろう。
その「高度な技量の詳細を語る事」にあるが、実は専門的にこれを論じると、下記の様にそもそもこれは「発想の域」を超えているのだ。

当然に、上記のこの「結晶の変態現象・トランスフォメーション」、即ち、「高温に依って起こるオーステナイトと云う鉄と炭素の結晶体」での「結合体」が、一瞬にして突然に「全く違う「別の結晶体の物に変化してしまう現象」を云うが、これに依って起こる「変態した結晶体・この世では通常で起こる事では無い結晶の現象」、これを別に「マルテンサイト」と云うが、これが「鉄の表面に文様」として何らかの形で出て来るのである。
それを以てこの「マルテンサイト」が起こっているかは、別として、それが「良い飾刀にもそれに近い模様が出て来ている事」に成るのだ。
この「論理的で不思議な高度な現象」が起こっているその事が、この「奈良期からの賜姓五役の目的の青木氏部の高度な技量」に依る「飾刀工程の表れの文様」であるりだ。
つまり、これを専門的に「刀文・刀紋」と云うが、これにこの「マルテンサイト」が相似すると当初では考えられていたのだ。
然し、これに成るには、その前の概念としては先ずは“「奈良期の第一段階の基礎・飾刀」と成っていた”と考えられていたのだ。
「飾刀・直刀」は、未だ奈良期初期までは「中国と韓からの輸入品」であって、殆どの物は「鍛冶物・かぬもの」はそうであったのだ。
その後の事は上記した「天武天皇の因事菅隷による変革」で進められた。
この一翼を背負わされたのは「青木氏部」であり、それが「近江鉱山開発」に始まる「大和の事・大改革事業」に成るのだ。

さこで「銃の欠点の克服」の「技術的な経緯}としては次の様に成る。
この「平安期まで飾刀工程の流れがこの「・第一段階」であった。
更には、上記の「平安期の技量の第二段階の基礎・殖産」と成ったのだ。
次には、上記の通りに相当に難しく成った「室町期の技量の第三段階の基礎・銃」と成った。
その「技量の経緯」は「第四段階の銃の完成期」と成った。
以上と次第に進んだと成るのだ。

「銃の欠点の克服工程」は主にこの「第三段階}からであろう。
そこで、その「概要のメカニズム」は、そもそも「この第四段階までの現象」には、この「奈良期から室町期」までを通しての「歴史的な飾刀の刃文・刃紋の進歩」と相似してそれが「表・銃身」に現れて来るのだが、ところがこの「第四段階までの現象」だけはこれを覆す様な現象が起こっている事に気が着く事に成るのだ。
それが次の様な時に起っている事に成るのだ。

そこで「鉄の製鉄基礎論」から「銃に対する概要論」をここから述べる。
先ず「鉄の製鉄基礎論」に関わっていた時期の「飾刀・直刀期間」の経緯には、上記した論の「鉄の歴史」が伴うが、「初期・江戸期まで」は「砂鉄の玉鋼」と呼ばれる「金属原材料」で原始的に維持して敢えて全てが造られいたが、[青木氏部」では要するに上記した「後の近江鋼鉄の銃に使われた様な進んだ共析鋼」には、これに「近い鋼の原理の事」に相当するのである。
そこで、「刀にする為に鍛える工程」で先ず論じて観るとする。

そもそも、これらを「刀にする為に鍛える工程」とは、そもそも、その「鍛える度ごと」にその「表面」、又は、「断面の光の文様」や、その「板鋼の折重ね具合」を見定めて、その中でその「砂鉄玉鋼の性質」を見極めて重ね合わせて厚くして行く工程なのだが、「刀紋」はその過程の模様である。
その数度の工程を以て幾重にも重ね合わせた状態にして加熱し叩いて鍛えて接着させて強くするが、「刀紋」はその強さを表す模様である。
これ等は「叩く速さの時間と叩く力」に左右されて「刀」に成るかは決まり、それが正常にて出来ていなければ「その鍛えている刀」には「内外部に亀裂と剥離」が起こり「玉鋼の刀」にはならないのだ。
そこで、その欠点を防ぐ為に「複雑に性質の違う幾種の違う玉鋼の鋼片」を折り重ねて、ある「高温加工の熱状態」、但し、「この・温度」を間違えると成らないので何度も鍛えるが、この時に「匠の技量の差」が問われるのだ。
その「違う性質の玉鋼が重ねられる事」で、その「折重具合の断面」は“年輪状”の様に「折り重ねた鋼」と成り得る。
この事が重要であって、「玉鋼の場合」に依って、要するに「折重具合の違う金属特性の複合特性」で「刀の長短の特性」を導き出す「製造方式」であるのだ。
その「炭素の特性の性質が違う砂鉄」、即ち,「玉鋼」では「鉄で炭素との結晶の結合体の事」であって、そこには「表面」もその「断面」にも「折り重ねて鍛えた結果」として、「重ねた平鋼板の良し悪し」を見極める事が出来るのだ。
それには、「重ねた平鋼板の良し悪し」は、その「平板の重ね具合」はこの「刀としての刃先形状」に全てを出す為に、その「刀の長手方向の刃先先端の断面」を「刀形状の三角に削り磨く」が、この時にその「重ね合わせた鋼の色合いの文様」が、この「長手方向の刃先先端の断面の断面模様」に出るのだ。
これが「刃文」と成り共に「先端の刃先文」としても出るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」で「砂鉄の玉鋼」の「刀の良し悪し」が決まるのだ。
多くは「先端の刃先文」で見極める事が出来る。

要するに、「鋼にしたものを重ねる事」に依って「表層状態」に強度を増す様に成るのだが、「一枚の鋼」であるとその「内部は均一性に欠ける事」の為に、一か所に「応力・力」が掛かり弱いし折れる。
そこで、この様に「玉鋼の日本刀の構造」は、「大樹の年輪」の様に、複雑に特性の違う“「玉鋼」”が造られ重ねられる事で強く成り、それが「外観の色変化」として「刀文・刀紋」と「先端の刃先文」」として二つに現れるてくる事に成るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」」は、“「適度な急速な冷却効果」”に依ってより現れるものであるのだ。
取り分け、従って、この「刃文と先端の刃先文」を見分ける事、特に「刃先の先端に出る文様」で「匠・刀師の技量の良悪」と「その刀」のみ成らずその「工程の技量の良し悪し」も判る事に成るのだ。

さて、そこでこの「良い刃紋を出す」には、その主に「熱の如何」が問われのが当然である。
この「加熱」を一定の速さで下げる為の“「冷却」に伴う「良し悪し」”も判り、その「鋼の炭素と加熱と冷却」と、その「過程の模様・経緯」も僅か乍らも「刀の表面と破面」にも表れる事に成るのだ。
故に、この「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」に依って上記した「マルテンサイに近い模様」は得られるが上記の工程の「・砂鉄」には結晶は得られない。
然し、それに「近い模様」が「良い刀全体」にも表れて来るのだ。
但し、上記した「近江鉄」に依って得られた「銃の工程」と違って、この「刀の場合」は、実はこの“「マルテンサイト」”は得られていないのだ。
つまり、得られる為に必要な条件に到達していない物が多いのだ。
殆どは、「玉鋼を幾重にも重ねて鍛える事に依って出る粘りと硬さの影響」で成り立っているものである。
何故ならば、この上記した“「マルテンサイト」”が得られたとしても放置すればこの世の「変態」で在る為に「破壊」が必然的に起こるからで、此れを防ぐ「ノウハウ」にも「超高度な技術」に到達ししていなかった事にもあり、且つ、基本的にそもそもこの“「マルテンサイト」”にも、「砂鉄」から得られる「玉鋼」で在る限りは到達していなかったものがあったと考えられる。
つまり、「砂鉄の玉鋼」では、必然的に「0.8%共析鋼」に成り得ていない事に成るからだ。
ここが論理的な大きな違いである。
従って、「銃の欠点」を克服する為には「初期」には先ずは「飾刀の経験・647年から650年頃に開始」から入ったと考えられるが、この「青木氏部」では、「近江鉄」として追及した「0.8%共析鋼・755年頃に完成」とは成るが、此処でこの「近江鉄・703年713年」を使いながらも「初期の初期」に「中国から直刀輸入640年頃していた」ので「初期に直刀・砂鉄玉鋼理論」を「製鉄」に参考にしたが、5年も経たずに直ぐに「近江鋼の開発」に入っているので、先ずは躓いたと考えられ、直ぐに「近江鉄の製法の確立」に入っている以上は「飾刀の経験・647年から650年頃」も「近江鉄」で入り直したであろうし、それが「銃の製法・基礎」に結び付いて行ったのだ。
こと程左様に、平安期の当時は、この「技術としての確立した概念」を持ち得ていたかは定かでは無いが先ずは無かったと考えられる。

この「刀のノウハウ」からは「刀の良し悪し」は、この「上記のマルテンサイト」にする為の「匠の技とその有無」が左右する事なので、だから、少なくともこの「マルテンサイト」を「自然破壊」から救い維持する為には、重要なのは「一定の冷却」と、上記した様に其の侭では「内部応力・自然界ではあり得ない別の物に変化する変態現象」に依り「自然破壊」が起こる。
但し、「マルテンサイトの呼称・英とドイツの呼称」は何処にも記載は無い。
この「変な現象を起す事」は、概念的に「青木氏部」では把握していた様ではあるが、そこで“何と呼称していたのか”を調べたが資料的には何処にも見つからない。
後に「貿易」で「冶金学的な事」を江戸初期前後に把握している事からすると、「貿易」で伝わった何等かの呼称があった筈で、それが何なのかであり、「銃」に対して少し遅いが拘わりの度合いが判る。
それを論じる。

実は、“らすぅ”と云う言葉が一か所に確認できるが、これがその「呼称」として使われていたとも考えられる。
その「根拠」は、そもそも外来語の“らすぅ”とは「トラスの原語」であって、“構造物を意味するもので物理学でもよく使われる。
「呼称」としては、この「らすぅ・ラス」は、「マルテンサイトラス」、又は「らすマルテンサイト・ラスマルテンサイト」としも使われる事が可能な用語である。
筆者は、この「らすぅ・ラス・トラス」と云えば、この「マルテンサイトの様なものの構造体」と訳していたと観ている。
恐らくは、この「らすぅ・ラス」は、当時は輸入された「専門用語」であったと観られ、「マルテンサイト」に限らず「構造体」を指していた呼称であったと考えられる。
その「構造物」とは、“原理的には幾つかの柱の様なもので結合し互いに引き合い強度を保っているもの”であり、例えば、“氷や雪の結晶の様なもの”もそれに当たるだろう。
当にこの「密に成った複合的な構造物」の「マルテンサイト」も、その「元の鉄と炭素の結晶体」もこれに当たるだろう。
“「らすぅ」”は遊園地にあるジャングルジムである。
この記している呼称の“「らすぅ」”は、「一つの構造物」と認識して記していた事は間違いは無いと思うし、「貿易」に依って得た知識であった事が解る。
と云う事は、“「鉄」が別の「一つの構造物」に成った“という事は認識していた事に成るだろう。
そして、それが、“「氷や雪の結晶”の範囲」で観ていた事に成る。
と云う事は、“砥石で磨いて光を当てて腐食させて観ていた”とする行為は頷ける。
唯、この記述は一か所にのみに記されて散見されていたが、この事がどの様な意味を成すのかは色々な意味を持つ。
「特別な言葉」なのか、「汎用的な言葉」なのかは判別が着かないが、少なくとも書いていた事の「らすぅ」は、“「銃の欠点」を補う工程のみ”として書き、それを「匠の範囲」では使われていたのであろう事が予想できる。
依って、「古来よりの技」の「飾剣・飾刀の範囲」では使われていなかった事に成り、故に、日本語に無い言語の「らすぅ」に成っていると考えられる。
何時頃にこの「言葉・呼称」が用いられていたかはその所以は「銃に関わる事」であり、且つ、「銃の欠点」を補完に成功した頃には既に「貿易」に依って入っていた事に成る。
とすると、この記述から観ると、少なくとも前半の「1540年頃以降から1550年頃まで」であるので、そのそれを獲得する為に試行錯誤していた頃の事に成る。

そもそも、筆者は最初は「全体の文書の読み込み」に苦労していたので、この「らすぅ」の「単語の言葉」までに気が着かず素通りであった。
ところが、後に成ってふと気が着き、この“「らすぅ」”の言葉が何を意味するのか意味しないのか気に成って改めて読み直したが、その意味する処が暫くは判らなかった。
つまり、「らすぅ」が“「トラス」に繋がる”と云う発想まで出なかった。
この「トラス」は筆者の専門域の「物理の構造体の専門用語」である事である事が良く判っていたが、「らすぅ」と書かれていたので“ピン”と来なかった。
よく考えて観れば、ある時、「トラス」は「ラス」として単語で使う事がある事を思い出した。
其の使う時が、「ある構造体」の前に着けて「ラス・・・」と使う事がある。
そもそもその「ある構造体」とは、普通は「トラス」は主に“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”の事で、ここで議論している「マルテンサイトの様な「変態で起こった構造体」は“「稠密六方晶」”と云う「特殊な方位の構造体」である。
この様な場合は「ラス・・・」として“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”として表現する事に成っていて、この「マルテンサイト」は“「稠密六方晶」”なので「ラス・・・」として表現する事は学問上は正しい事に成る。

そこで「らすぅ」は「日本語表現」で、スペイン語やポルトガル語の様な「母韻原語」ではないので、この「英語やドイツ語の場合」は「トラス」の「トのtの発音」は「子音の無音」の発音と成る故に、「青木氏部」では「らすぅ」と聞こえたと考えられるし、又、「ラス・・・」で「らすぅ」と受け取った事になろう。
「らすぅ」の「ぅ」は「日本人特有の耳と口の癖」に依るものであろう。
これを記述した者は「神明社の祐筆」であった事から、尚更に言葉に「韻」を含める使い方と成ったと考えられる。
兎も角も、何れにしてもこの“「らすぅの表現」”は、「銃の欠点」を補完した「0.8%の共析鋼の変態構造」の事であった事に成ろう。

この“「らすぅ」”では、「文献」で会得したものなのか、「指導の外国人技術者」を招聘したかは判らない。
「貿易」をしていた事故に、「指導の外国人技術者の招聘」は充分にその能力は有り得たと考えられる。
故に、この“「らすぅ」”の言葉からも、「銃を成功裏に治めた事」が云えるし、「近江鋼の使用の事」と「0.8%の共析鋼の変態構造の事」も納得できる。
だとすれば、「フリントロック式改良銃の近代銃であった事」も証明できる。
もっと云えば、「三方ヶ原後」に暫くはこの「銃」は保全していたが、その後完全にこの世から遺さずに抹消した事も頷ける。
それは「指導の外国人技術者の存在と招聘」から、その「銃の西洋での殺戮具として使われた事」を耳にし、又、「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」も充分に考えられる。

さて、そうすると「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」があったとして、“20年間の試行錯誤はの期間は長いのでは無いか”という素朴な事であるが疑問が湧く。
その疑問に答えられる事がある。
それは、前段でも論じた事ではあるが纏めてみると次の様な事が上げられる。
1 「フリントロック式改良銃の近代銃であった事
2 日本人にあった額田青木氏に合わせた銃であった事
3 特別に4発式回転式自動銃にした事
4 持運びの中型銃にした事
5 火縄銃式では無く硝石型(火打式)でした事
6 長距離銃にした事
7 銃の欠点を無くした事
8 量産型にした事
9 近江鉄を使い玉鋼を使わなかった事
10 准高炉型製鉄にした事
11 反動型銃にした事
12 立膝型銃にした事
13 操銃に合せた編成隊を考案した事

これ等の事が解決しなければ「額田青木氏としての銃」とは成らなかったのだがそれだけの[伊勢青木氏の要望]は高かったのだ。
判る範囲で以上と成るが、これ等は「指導の外国人技術者」の「指導」だけで解決し得る範囲では無い事が判る。
現に、「額田青木氏としての銃」の為に、この「銃での戦い方」で「伊勢の秀郷流青木氏」が担当しているという事は「青木氏の要望」が作戦の成功の為に「絶対的な必須条件」であった事を物語り、「銃の仕様」には「相当な要望」があった事が云える。
故に「指導の外国人技術者」が存在していたとしても「20年間と云う期間」を敢えて要したと考えられる。
「銃製作の要領書的な片鱗]のものが密かに遺されていたとしても「指導の外国人技術者」をものがたるものは何も遺されていないのだ。
唯、「青木氏や伊勢屋の状況証拠」から考えれば充分に有り得る事で否定は出来ない。
そもそも全国行脚の「僧侶や絵師や彫刻の匠等の修行者等」の長期宿泊する「特別の厨」がつい最近まであった事も、又、親族や店子や客等が慰安を兼ねて泊る「庵」も各地各所にあった事が確認されていて、筆者も子供の頃にここに宿泊した事がある。
摂津や松阪や桑名には当然の事として外国人如何に拘わらず「指導の技術者」の宿泊はあったと考えられる。
そもそも、これ以外に「神明社や清光寺の宿坊」もあったのだから「指導の外国人技術者」の存在は筆者は在り得たと考えている。
上記した“「らすぅ」の記述の言葉”は間違いなくこれに関わっていただろう。


話を更に戻す。
そこで、この「砂鉄の玉鋼」では無い「近江鉄」での「0.8%C共析鋼」での「変態現象」で得た「稠密六方晶」の“「マルテンサイ」”を「自然界」で存在し得る様にする為に研究されたが、“「少し緩める適度な戻し作業」で、現在では学術的に確立していているが、「ある極めて低い温度範囲でのテンパーと云う処理」が必要に成るのだ。
「近江鉄の銃の欠点の対策」では偶然結果で「灰中の長時間保存」で獲得した。
この「ある極めて低い温度範囲」とは、一般で云えば「テンプラ油の温度」よりも低い「150度程度の温度」であり、[150度程度の低くてゆっくり冷やす程」に、その“「マルテンサイ」”の効能を下げる事なく高い効能で得られる事が解ったのだ。
時間があるのであれば「150度程度」で「2日程度から3日程度・48時間〜68時間が良い事が判った。
そうすれば“「完全な稠密六方晶」の「良質なマルテンサイ」”の範疇で得られるのだ。
そして、上限は“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”を前提とするのであれば「灰中」であるので「150度・4日」と云う処であろう。
後は、“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”をゆっくりと衝撃無く下げて行く事に成ろう。
故に記録から観て、“「焼灰の中でという事」”であったので、“150度程度の低くて極めてゆっくり冷やす程に「マルテンサイ」の効能を下げる事なく高い効能で得られるの範囲”を使ったと観ている。

これは「灰中150度3日の加熱」は温度のばらつきから難しかった様であった。
当時としては、別の面で「灰中」以上に上記のばらつきを解決させる効果的な「植物油の利用」はあった筈である。
それが高額であった事から食用等に限定してあったが、「青木氏部」も「殖産の工業等」には使っていなかった様だ。
「殖産の関係」からその記録が多くは散見できないが、その僅かな記録を観ると面白い事が起こっていた事が記されている。
それは「関西」からその「油使用」が、「食用類」などにもその関西人の性格から面白半分で積極的に使われ始めたのだが、その前はその絞った「絞粕」の捨てる場所も無かった事から、「ミカン畑等」に無造作に捨てられていたとある。
然し、ある時にこの「和歌山や瀬戸内の周囲」の「害虫に依る田畑の病気」が関西域全域に大流行した。
この時、この捨てていた「みかん畑」にはこの病気が不思議に起こらなかった。
そこで、これをこの「害虫被害」の受けた「田畑」にも蒔き捨てた処、「田畑の病気」は完全に治まりそれと゜ころか大生育して効果がある事を確認した。
その「生産」は、当初はその結果として「油の使用」よりその「絞粕用」として「生産が高まった経緯」があり、当然に其れに連れて「油の使用」が増えた。
結果として「油は安価」に成り「食用」にも研究されて使われる様に成り、その果ては「工業」にも使われる様に発展して行ったのだ。但し、関西域だけであった.
その時期が室町期中期から始まり、可成り遅れた江戸期に入っても「江戸・関東」でもこの「病気」は広まったが当初は「江戸気質]で毛嫌いして使われずにいたが、背に腹は代えられないとして使われる様に成ったと記されているのだ。
要は、「窒素リン酸カリの有機剤」であり、「土中の微生物」を増やし、これで害虫と病原菌を減らすとともに、主に「チッ素肥料」として植物の栄養を多く供給すると共に、「害虫を遠ざける働き」も多く強くあり、この「絞粕」の中には「アブラムシ、ハダニ、コガネムシ等」を、取り分け当時の「椿油かす」には「ナメクジ、カタツムリ、バッタ」等を撃退する効果があるし、「もと枯れ病」や「バッタやイナゴ」もこの頃に大発生したとあり、このところから「窒素不足」が原因していたと考えられた。
この時の記述はこの「微生物の増加」と「虫の撃退」の効能が働いたものと考えられる。

「植物油の使用」は、人類起原にほぼ一致するが、「鉱物油」に関しては発見は江戸期初期の1690年代に発見されているが、「限定的な使用」はエジプトの古来に「アスファルト」として「接着剤」として工業的に使われていた古い記録がある。
人類に多く利用され始めたのは「1855年」からで、生活に密着して使われたのは「1890年代」の「アメリカ」と成っている。
従って、室町期中期頃には未だ「鉱物油での使用」は未だ無く、況してや「冶金的な物への利用」は「1890年代の事」で、勿論の事無く直接に冶金的な物への使用も無かった。
従って、「冶金的な冷却材としての使用」は「植物油」に限られていたが、極めて高価で使用は困難であった。
又、使えたとしても「冷却時」に「熱」に耐えられずに「油」が分解して「炭化してしまうと云う事」が起こり、「冷却材の使用」には耐えられなかった筈だ。
つまり、「上記のマルテンサイト」を獲得する事は、元来、「砂鉄の玉鋼」は、勿論の事、「近江鉄」の場合にも難しい事であって、元より原理的に使っていない。
後は冷却としては「水の冷却」と成るが、「砂鉄の玉鋼」は「マルテンサイト/変態」が起こらない為に、「ある技能の範囲」で使用は可能であった事が記録から解っている。
では、その“「ある技能の範囲」”とは、どの様なものであったかを過去の資料の経緯を辿りその論理を考え合わせて考察した場合には次の様であった。

先ず「水の冷却」には、その「冷却と云う点では大きな効能」はあるが、逆に逃れ得ない欠点もあるのだ。
それは先ずは「一つ目」としては“冷えすぎると云う欠点”である。
物理・冶金学では、“何でも冷えればよい”と云うものでは決して無い。
「ある一定の冷える遅い速度」が必要であるが、それ以上に速いと「上記のマルテンサイト」のみならず、その「本体の鉄と炭素の結合体」に、更には、その「結晶」に異常を起こし、破壊するか、又はそれの破壊に相当する近い事が興るのだ。
先ずは、それには少なくとも「約5S以上」に「緩やかに冷却する事」が必要で、これ以上に速く冷却すると、先ず間違いなく「強烈な破壊濁音を出して破壊」が起こる。
この「季節変化」に伴うこの“「水の温度の冷却」”が、この「約5S以上」に保つ必要があり、そもそも極めて難しいのだ。
何故ならば、ここにはもう「一つの理由」がある。
それは、「春夏秋冬」には“「水の温度の冷却」”がかわり一定に保つ事には困難が伴う。
夏の様に高ければ氷などで冷やさなくてはならないし、或いは「一定の冷温」を保つ「井戸水」が求められる。
然し、“「水の温度」”が高いと水分中に含まれる「空気」が膨張して「大量の泡」を発生させてその「泡」が品の表面に密着し極端に「冷却能力」を著しく低下させ、“「水の温度の冷却」”に合わないのだ。
最も嫌う事がこの“「水の温度の冷却」”で起こって仕舞う事に成るのだ。
夏場で「水温」が高くなると、では冷やす為に「冷たい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
「冬」もこの逆であり、「暖かい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
秋と春も同然の事が起る。
兎も角も、「水の温度の冷却」”の三つ目では、「焼入・冷却」の為に新たに水槽に水を入れると「焼入物・冷却物」の「強烈な熱」で「水槽の温度」は急激に上がるので「適切な温度・約20度・約5S以上・それだけの広さの水槽要」まで到達するのを待つしかない事に成る。
出来得る事ならば“「使い古しの水・濾過」”が“「空気と不純物が少ない事」”から水が“「軟化・アルカリ成分が少ない軟水」”にして最も好ましいのだ。

「上記の事」が「春夏秋冬に「水の温度管理」ができるかに関わるのだ。
「砂鉄の玉鋼などの刀の処理等」では論理的に難しい事になるのだ。
逆の事として、「近江鉄の0.8%C共析鋼」に於いては「青木氏部」では此れを克服する必要があった事に成る。
その意味でも、「植物油」にしろ「鉱物油」にしろ「水」より好ましい事が解るし、冷却速度の比熱でも良い。

因みに、「セルシウス温度」で、水1gあたり1気圧で1度の温度を上げるために必要な熱量の事で、水の比熱は1とすると、これに対する「油の比熱」は「0.5」である。
結局は「油/水=1/2」であるので、「温度管理」では現実的には「油の方」が優れている。
物質1gを1度上昇させる為に必要な熱量がこの「比熱」で、 この値が大きいほど温まりに難く成り、 水の比熱が1に対して、油は0.5である為、水に比べて早く温まる事に成る。
然し、水と油を比べれば、水の方が温まり難く、冷め難いが、油の方が温まり易いが冷め易いのでこの2倍で冷め易く、「冶金的な冷却と云う点」では逆である。
云い換えれば、「冷やされる方」に執っては「水は表面を早く冷やす」/「油は表面を遅く冷やす」の原理が働く。
この事から“「室町期の中程頃」”では、「高価の件」は別として、「冷却能力」では油の可能性が出ていた事が解るし、「水の泡等の欠点」の少ない「油の使用」が検討されたのだ。
上記した「油粕の事件の記述」は、丁度、この頃の事で、「氏族」の一部の中には遺したこの資料では、何故に記述して遺したのかは判らないが、「冶金的な冷却と云う点」では逆である事が解っていて、「殖産」として「油増産」に入った事が考えられる。
「みかん畑」としていたので、「伊勢から紀州」の「みかん畑」に「油粕」を捨てていた事に成るので、未だあまり広まっていなかった。
ところがこの突然の事は次の様な経緯を辿ったのだ。
この「植物油の使い出だし」は、遺された資料より古来より細々と「食用への使用」であって、未だ「現在の様なテンプラ等の概念」は無かった。
ところが、関西では室町室町期中期に成って「下記の経緯」で突然に広まったのだ。

「植物絞り油の経緯」

「植物絞り油の使用の経緯」 =「食用への使用」→・「害虫除去剤への使用」→「肥料への使用」→「冶金的な冷却材への使用」→「食用への大使用」

その「切っ掛け」は上記した様に、関西で起こった・「害虫大発生の事件」からで思い掛けない事からその「除去剤」として急遽,“「大増産」”と成ったのだ。
更には、それが「肥料」にも良いと成って、「絞り粕と云う事」の“「大増産」”と云う事だけでは無く、「植物油」そのものの“「大増産」”と成って行ったらしい。

そこに、「食用油の使用」は、又、「比熱の点」で劣る「水」よりも、又、「焼灰」よりも、その中間にあり「目的」に適している事が解った「青木氏部」では、そこで、この“「大増産」”を切っ掛けに悩んでいたこの「冷却剤への使用」に、この「話題中の植物油」に「発想」を切り替えたと考えられる。
「学実的な冷却理論」もあまりはっきりとしなかった「本論の経緯」の中では、それは「試し」に切り替えて観るしか無かったのではないだろうか。
それは「伊勢の青木氏」としては「伊勢」に居るか限りは「長い伝統も立場」もあり、これは「世間へ義理を破る事に等しい事」であり、然しも世の中は、既にそれを迫る「鉄の汎用」と「油の汎用」と「肥料の汎用」との「切り替え転換期」に入っていたのでは無いか。
筆者は、この「時期」がこれ以外に「神に対する3つの正義・「神饌」<「薬用」<「禊用」」、つまり、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の関係性がこの時期に変わって来たと観ているのだ。
それだけに関西で起こった害虫被害の解決事件が社会に与えた影響は大きかったと観られる。
それは、“何故この様な「資料の記述」が「南勢の家人の家」に遺されていたのか”に対するこの疑問であった。
普通なら「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が記し、その「書」が当然に其れが何れかの「青木氏の蔵・3回消失」に遺されていた筈であるのに、「南勢の蔵であった事」に疑問点があるのだ。
当然に、「植物油の原料の生産」とその「絞り工程」は、「南勢と南紀の殖産」として行われていて、その「粕の捨て所のみかん端」も「南勢と南紀」とすれば、「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が関わる書では無いだろうか。
だからこの「植物絞り油の使用の経緯」は、記録に遺す程の相当な出来事であった事を物語るだろう。



ではここからは「植物絞り油の使用の経緯」は“どの程度の期間で進んだのであろうか。”で論じる。
次段でもこの論の続きを行う。
上記に記した“「室町期の中程頃」”である事には間違いは無いのだか、もう少し詳しく論じる。
そもそも室町時代中期頃までは、主に「作物]を育てるために使われていた「肥料」としては草木灰や刈敷等のアルカリ農法で焼き畑もその一つでこれを蒔く事が中心であったが、これでは害虫等を駆除できないでいた。
この「室町時代中期頃の害虫事件」で「肥料三要素の窒素リン酸カリ」を多く含む「油粕事件・バッタ事件・銃開発期に一致」で、一度に関西では変化を来したのだ。
ところが、「江戸・九州の方に先に伝わる」では「下肥」で済ませていたが何と「享保期飢饉・故に米も育たず害虫も大発生」まで使われなかったのだ。
結局は、この「関西農法」を採用し、その結果として「食用油文化」と「果物農業」も関東に広まったのだ。
最終、次段で論じるが、この貴重な食用油を殖産の銃開発に使ったのだ。

その「経緯」を前段で論じたが、もう一度殖産の経緯を辿って観るとする。
上記した様に「1540年頃」が実質の活用段階に入った事は解るが、では、それが「本論の銃での開始点」であるとすると、「植物油の殖産」は、「日本書紀」にも記されている様に「716年頃の前からの事・施基皇子没の2年後」で、「伊勢の裔系」は「令外官」として「部の国造(朝廷の命)支配」として働いていた。
「近江鉱の二つ鉱山開発」もその一つで、この時期と当時に命じられて行われていた。
この「大功績」に依って、“「伊勢の大字と民200」を「4回」に渡り「合計では民500・実質では民800」を得て、「土地・領地」ともに“「実質の伊勢の王」”と成って行ったのだ。
この上記した“「殖産が自由に出来る領地」”としては、当時の「伊勢の有効面積の80%以上を獲得・地権域含む」し、「実質の伊勢の土地を殖産等で実行支配する伊勢王」と成っていた”と記されいる。

注釈 ここで何か事件が興っていた様だ。
実はそれまでは、“これだけの功績を掲げながら何故か朝廷から「初代伊勢王」とは認められていなかった”のだ。
それまでは「第七位王位」であって「第四世族内の真人族」であり「冠位」は「天皇」に継ぐ「浄大壱位」で、「賜姓臣下族」と成っていたが他にこれ以上の冠位と官位を持つ者は例え皇族の皇子であっても存在しなかったのだ。
この「大功績」も含めても「伊勢王」として認められていなかったのだ。
つまり、「施基皇子」は「伊勢の王」とされながらも何か政治的なものがあって「初代の伊勢の王位」では無かったのだ。 来敵の孝徳天皇の第二第三皇子が一代限りの伊勢王に任じられていた。
ところが任じられて直ぐに毒殺されていて,第三皇子がこれに代わろうとした。
要するに「伊勢王」であるが「伊勢王」と成ろうとはしなかった。
つまり、従って「朝廷からの国司」が「伊勢」を官吏して、その者が「初代の伊勢王」と一時呼ばれていたとされていて、「伊勢王」とは認められていなかったが、然し、この「近江鉱山開発等の功績」で「実質王」として、「伊勢への遙任」から、それ以降は、施基皇子は領国に「赴任・着任・647年」からが初めて認められたのだ。
つまり、“「初代の伊勢王」が存在しながら「領国の伊勢の国」を管理し始めた”としているのだ。
「遙任中」は「三宅連岩床の国司代」の配置の前に、この様に「初代伊勢王」がいたが「伊勢への遙任」に“「ある事件」”が起こり、それでその遙任の地位を「天皇」から解かれ、その「都の一族裔系」と共に「伊勢」に赴任し「着任」が許されたとしているのだ。

実は“この伊勢に関わる「ある事件」”とは何なのかである。
気に成る事なのでここで先に検証する。

つまり、「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王」と成っていたのだ。
この「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」と共に、この「その2人皇子・伊勢王の子供2人」の「突然の病死(政争)・伊勢王」で、「天智天皇の施基皇子」がら「領国の伊勢の国」の「伊勢王を勤める事」に史実は成ったのである。

(注 斉明天皇・661年没〜中大兄皇子662年)

「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は“「一代限り」”で任命されていた。
「一代限り」である事と云う事でありながらも、「政治的な意味合い」で「初代伊勢王」と呼称されていたのだ。
「天智天皇・在662年〜672年」の「第7位皇子の施基皇子・716年没」は「青木氏の賜姓」を受けたのは「飛鳥期の難波宮の都」で「647年の事」である。
先ず、「皇極天皇期」に「中大兄皇子・後の天智天皇」から「645年の大化の改新後の2年後に「賜姓・647年・臣下族」をして「伊勢青木氏」で受けていながら、政治的には次の様に成っている。

645年から「賜姓・647年」までの2年間
654年までの7年間
661年までの7年間
以上の「16年間」である。

一族が「天武期初期に移住したとする説」に従うと、「672年〜686年の初期」の約11年間の以上の後期の2期を合わせて、「賜姓時」より「27年間」は「天智天皇即位の662年」までの“「16年間」”は都にいた事に成る。
表向きは遙任である。
これは「伊勢青木氏」ではあって「伊勢王・第四世族内真人族の王位」ではあったが「伊勢」にいなかった計算に成る。

これが、上記した「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で、「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」と成っていたとするのが「理由」と成るのだ。

但し、「伊勢青木氏の記述」を借りると、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」の内の一人が死んだが、“もう一人が伊勢王”として続けたとしての事であり、記述はこの“もう一人が伊勢王”を“「施基皇子の中」”に組み入れて施基皇子「初代伊勢王」と成ったとしている。
これは“「施基皇子の中」とは、“もう一人の孝徳天皇の皇子”を“「父親・天智天皇の政敵」でありながらも保護した”と云う意味であろう。
そうする事で何事も無かった事にして、次は実質の「領国の伊勢の国」の「施基皇子が初代伊勢王」と成ったと云う事にしたのではないだろうか。
と云うのは、最早、この“もう一人の伊勢王”と成った者は、「孝徳天皇の皇子」であるとすると、「天武天皇期」では、既に、この間に「3人の天皇」が即位しているとすると、「大化の改新・645年」で定められた「王位の定義」は、「第四世族外の第五世族位か第六世族位の皇子」が成る者として決められていて、この“もう一人の伊勢王と成る者”は、既に「王位」に無く、既にこの時は「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に居た筈なのだ。

「大化改新の詔」では「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に成った者」は「関東・坂東」に配置される掟である。
所謂、「大化改新後」は「初代の坂東八平氏の始祖」と成る筈であった。
ところが「孝徳天皇の皇子」は「坂東」に流される前に政争で殺戮されたし、多くは自ら進んで政争を避けて「栗隈王の様」に一族挙って九州に臨んで配置されている。
此れを取り分け「第六世族」と成った「中大兄皇子の政敵の孝徳天皇」の「元皇子」を“伊勢の中で囲い救ったと云う事”に成るのである。
つまり、これ自体は大問題であるが「父の政敵の子」をこの「伊勢」で「施基皇子は匿った形」に成るが、“この時、何故か問題は起こらなかった”のだ。
既にこれは「脅威と成る皇子」では無く成っている事もあり、「政敵の脅威」とはならないし、「伊勢」の中に囲い込む事で他の勢力も含めて抑え込む狙いもあったと考えられる。
何れにせよ、これは今後の事を含めて丸く治めたと云う事であろう。
この記述から読み取れる範囲は、「北部」、つまり「伊賀」に配置したとある事から観てこの者は密かに「伊賀の氏人の一人」として後に「伊賀青木氏と融合させたと云う事」に成ろう。

さて、「伊勢」がいよいよ「施基皇子の第二世族王・真人族伊勢王」に成ったのは何時か”であるが、前段でも簡単に触れているがこの考察を序でにここでする。

「施基皇子とその裔系」は、「伊勢」に「正式に移住できた年」は、「孝徳天皇失脚の654年・歴史経緯説」か、「天武天皇即位の672年・青木氏の記述」の「二時期の二つの説」が成り立つ事に成る。

先ず、前者は、「天智期初期・654年」に“「遙任」”として「真人族王位の伊勢王」と成った。
つまり、都に居て「伊勢」には国司代を置いたがこれが「三宅連岩床」である。
“「遙任期間」”は“「18年間」”と成る。

次に、後者は、「天武天皇初期・672年」に願い出て「一族」ともども「伊勢」に“「赴任」”をした。
朝廷から派遣されていた「国司代」の「三宅連岩床」を都に帰した。

「前者の前期」は、「孝徳天皇の皇子・二人・一代限りの真人族伊勢王」で記述から読み解くと、“後に伊勢で匿った”とする記述からすると、「遙任」では無く既に「赴任」であったと考えられる。
この「赴任期間」は、「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」とすると、「真人族伊勢王の赴任期間9年間」である。

仮に、前者と後者であるとすると、“何故、天皇の権限下で赴任にて一族を移住させられなかったのか”の大きな疑問が湧く。

この「赴任期間」は、「嵯峨天皇期弘仁二年・811年詔勅」までとある。
この「関係する詔勅」は、続けて「五年と七年と最後の十年の四詔勅」まで少なくとも「賜姓族」であって、“「伊勢王であった」”ので、“「139年間」”であり“「伊勢王」”であり続けた事に成る。

然し、「施基皇子没・632年〜716年没・84歳」に依って「伊勢王」を解かれたのでは無く、これらの「四詔勅」に従えば、その内(湯原王、榎井王、白壁王、他三人)が「四家」を構成し補佐し、「後裔の福家嫡子・春日王」が「形式上811年」の「95年の間」までは“「伊勢王」”を続けていた事に成る。

但し、ところが「嵯峨期」に成って「出自元を擁護する派」の「桓武派」と、「皇親族・青木氏」であった「出自元の勢力」を弱めようとする「嵯峨派」との間で“「同族の政争」”が起こる。
つまり「桓武派」を推し進めていた「薬子の変」が起こった結果として「嵯峨派」が先手を打って勝つが、明らかにこれを“一族内の争い”と見做されていた「世間の評価・不評」で、「反発を受けてた嵯峨派」は、結局は譲り、「桓武派の代表の平城上皇」が、元の「信賞必罰の大権」を古巣の飛鳥の宮で握る事の「折衷案」で、「一族内の争い」は治まる。

従って、「形式上811年・95年間」」のまで続けていた事は、「信賞必罰の大権」を握った事の「折衷案」で、つまり、「平城天皇806年〜824年」の「形式上824年」まで、この“「伊勢王」”は、更に“「13年間」”を延長され続けられる事と成ったのだ。

「遙任期間・18年」+「赴任期間・三期の」=“「139年間」”+“98年間”+“13年間”
=250年間

では、「時系列に歴史的経緯」を観ると、以上と成るが果たして、「現実の事態」と云うと「時系列の歴史的経緯」では治まっていないのが世の常である。

つまり、「824年以後」は、確かに「賜姓族」を外され「嵯峨天皇」から令外官の一部の立場を弱められ結果として、「伊勢王」では無く成っているが、本当にそうなったのかで在る。
実はそう成ってはいないのである。
確かに[250年の伊勢王」としては正式には終わらせられたが、唯の昨日今日と「朝廷から派遣された三等官の官僚族達」が「国司・伊勢王」と成っていた訳では無く、「伊勢郷士50人衆」を「氏族」として女系で血縁し、況してや「四掟」で「藤原秀郷流一門族316氏」と結ばれている「青木氏族の伊勢王」を外したからと云って、そう簡単に外れる訳ではない。
当然に「嵯峨天皇」に依って「伊勢国司の官僚」が朝廷から一時廻されたが務まらず、僅かの地に「出自元擁護の仁明天皇」に依って「天智天皇の奈良期からの不入不倫の権」に基づき「出自元の伊勢王」は復されたのだ。
その結果、「伊勢」には国司を置かず、「250年以降」は、南北に分け “「無足村主100人衆・郷士衆」”として「古来からの神域の伊勢」である事を以て自然発生的に「自治体の合議制」で治められる様に成ったのだ。
この“「無足村主百人衆・郷士衆」”には「氏族の伊勢郷士50人衆」も含んでいるのだ。
当然に「南勢」も「青木氏の旧領地」でもあり「北勢」と同然に“「無足村主百人衆・郷士衆」”は組まれたし、「氏族の伊勢郷士南勢50人衆」がこれに参加した。
要するに「村主衆」であるので「郷士衆の者」が代々務めた。
室町期には中には「府の役人」も務めていた者がいる。
「青木氏の記録」を観ると、その“「無足村主百人衆・郷士衆」”の「財政的な支援」を影で「伊勢青木氏」はしていた事が書かれている。
“「無足村主百人衆・郷士衆」”が「中央の政治圧力」に屈せない様に「独自性」を持たしていて「河川の修理等の工事」等にも「経済支援」や「技術支援」していた事が「商記録」等からにも書かれている。
中には史実として「中央政府」に対して「犯罪者などの引き渡しなどの交渉」にも強く関わっていた事が書かれている。
それは「鎌倉幕府や室町幕府」や「紀州藩との殖産等」で良好な関係が維持されていた事からの結果からであろう。
現実に、幕末に起こした「南勢」からの“「無足村主100人衆・郷士衆」の「伊勢騒動」に対して「紀州藩」と交渉して罪人を出さずに済ませた事もあった。
ところが、これに呼応して「北勢」の“「無足村主百人衆・郷士衆」”が動いたが「明治政府・薩摩藩等」が介入して「大伊勢騒動」に発展した。
これに対して、「薩摩藩主体の維新政府」とは、蔵等を焼かれる等の「犬猿の仲」であったが、「先導者全員斬罪の条件」に対して、古来より「献納をしていた伊勢青木氏」が裏交渉してこれを取り下げさせ「一人の先導者」が責任を取る形で事を納めたのだ。
これが「伊勢青木氏」が直接的に関わった「明治9年まで13年間の伊勢騒動・信濃を巻き込んでいる」であった。
当に、これは「伊勢王」であろう。

「250年後/272年」も間接的に「伊勢の事」に関わり、その「鎌倉期」からの伊勢の“「無足村主百人衆・郷士衆」の「自主の政治体制」は江戸末期まで続いたが、結局は、間接的であるか直接的であるかの「関わりの具合」であって、「支援」に関しては「政治」も[経済」でも「実質上の伊勢王」として勤めていた事に成るのだ。
ここに第一に奈良時代から取り組んでいる「殖産の伊勢青木氏」があって女系で何度も深く繋がっていたとすれば、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「伊勢の民」も誰一人漏れなく「潤い」と「治政の恩恵」を得ていたのであるから、伊勢王期間の250年、又は272年後」に、突然に「伊勢王」で無く成ったからと云って“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「殖産」で「伊勢の民」等は誰一人左を向くような事は無かったと考えられる。
ハッキリ言えば、「伊勢の民の指導者」の“「無足村主百人衆・郷士衆」は「女系の血縁族の伊勢青木氏の氏族」であるのだ。
とりわけ、「純粋に氏族で形成している氏」は、日本に於いて「伊勢と信濃と秀郷流の青木氏」だけであるとすると、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、最早、「250年後/272年」以上の「何度も血縁を重ねた親族の一族」であった筈である。
取り分け、「男系血縁族」では「親族でも主権争い」をするが、これは無く、「女系の血縁族」は「血の繋がり」を強くする。
これは前段でも何度も論じたが「人類」は、「女系のみの継承」による「女性の遺伝子的繋がり」から出来ている。
後勘から観てもどんな面から捉えてもこの“「伊勢王を外した”と云う「嵯峨天皇の判断」には「疑問」が残るが、そんな「伊勢王」の「伊勢」であった。
其の侭に「伊勢王」であり続けていた場合に何か拙い事が起っている要素があったのかと云う疑問がある。
「272年間」までが“「現実の伊勢王」”であって、それ「以後の明治9年」までは“「実質の伊勢王」”であり続けたと観ている。

注釈 前段でもになども引用する処はあるがこれを前提にこれ等の論を続けて読んで頂きたい。
確かに「伊勢青木氏]は「皇親族」として力を持ちすぎて「天皇の地位を脅かす力」はあったが、既にこの時はこの政治的争いに巻き込まれない為に徹底した「女系化」をして「青木氏側」から防いでいる。
これで「天皇の地位を脅かす事」は出来ないしないし、寧ろ、「桓武天皇や平城天皇や仁明天皇」の様にその力を利用して「地位の安定・財源」を図っても何の不思議は無かった筈だ。
突然に「天武系から天智系」で血の繋がる一族」と成ったとしても、そこは力を借りて安定を図るべきでは無かったか。
要は、「嵯峨天皇」が一般的に嫌ったとする「皇親族」としてその度を過ぎなければ良い訳だ。
それを既に見抜いて「施基皇子」が「氏是」にしているでは無いか。
寧ろ、「天皇家の方」から近づいてきているのだ。
それを信用するかしないかであって、「施基皇子」は歴史に遺る程に表の行動は「歌人」に徹しているのだ。
後は「院号」を以て「殖産」を続けていれば良い訳であるし、それを続けているし「献納・内蔵」もしているし「院号代/大蔵」を納めている。
要するに、現実には「天皇家の内蔵の方」が潤っていたのだ。
「青木氏」を「皇親族で地位を保っている」として「社会」に「諂い」し見せたくないとする態度を採ったとも思っていたのか。
然し、「施基皇子」は「歌人」として振る舞っている以上はこの説は当たらないだろう。
寧ろ、「嵯峨天皇」は「伊勢青木氏」に卑下したかであるが、何故ならば「後裔の春日王」も歌人であり全てに優れていたとされる。
「嵯峨天皇」に似て「初代の白壁王の光仁天皇」もその性質の傾向があった事が伝えられている。

然し、この奈良期からの「伊勢」に「250年後/272年」もの間に、「伊勢氏族50人衆」で「強固な基盤」が既に築かれていて、そこに「朝廷国司」が来たからと云って務まるかの疑問が残る。
現実には「経済基盤」と「支配の勢力基盤」と「軍事等の統治の政治基盤」が築かれているのだ。
これ等の協力なしでは何も出来ないのが現実である。
「朝廷としての税」にしても「伊勢弁財使」としても「税を都に送るだけの運搬の役目の官吏」であったろう。
それ故に「250年間」で「伊勢郷士衆50衆の氏族・北部」で構成されている国では、最早、「押領使の役目や弁財使の役目」は唯、無かったであろう。
従って、「824年」からは実質は「伊勢北部」は「伊勢国司不在」であったのだ。

其の後、この“「738年間の国司不在の伊勢国」”は、元より「郷土史・無足村主100人衆由緒等」に依れば、“「無足村主百人衆以上の村主構成人・郷士衆」で保たれていた事が記録から判っていて、取り分け「伊勢南部」も「伊勢南部郷士衆50衆の氏族」で保たれていたのだ。
この「伊勢南部」も云うまでもなく「奈良期からの伊勢青木氏の旧領地」であった。

ところが「奈良期からの不入不倫の権」を破って「戦国期」に成って突然に「1562年から1576年」の「8年間」に渡りに「朝廷の学問処官吏・公家」だった「北畠氏」が「貴族の武力」を以て「伊勢・1415年」に強引に入り込み南北朝期に「伊勢国司」として振る舞い、最終は「信長」に1576年に潰されたのだ。
約長くても「150年間」であるが、「伊勢国司としての役割」を果たした期間は実質無いのだ。
矢張りは、古来から「伊勢一国惣国者国衆」として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主百人衆の郷士衆」であったのだ。
彼等が参加しなかった後から甲斐と信濃から入って来た「工藤氏や神田氏や川久保氏等」との「伊勢の戦乱」であったのだ。
唯、秀吉はこれを見抜いていたのだ。

注釈 前段でも論じた様に、余談として、この「奈良期からの不入不倫の権」を自ら先鞭を切らずに「特殊な伊勢」に対して自ら手を下さず「北畠」に遣らせた「信長の策」に嵌まったのだと筆者は観ている。
この注目の「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」は北畠氏に着いて行かなかったのだ。
筆者は、古来から“「伊勢一国惣国者国衆」”として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」が従うと思ったところに問題があって、この「村上源氏を押し出した北畠」は余計な事をしたものだと思う。
「村上源氏以上の格式」を有する「伊勢一国惣国者国衆」に対して{武力」では護れはしない「伊勢]である事を読み切らずに馬鹿な事をしたと思うし、「伊勢」は其の様に一定期間振る舞ったのだ。

注釈 この“「伊勢惣国者」”で成り立つ「南北部の村主郷士の自治組織」は、江戸時代に成ってから政治的に利用され、「津藩の郷士の軍役の家臣」として利用され「政治の安定・取り込み政策」を図ったのだ。
ところが「南北部の村主郷士の自治組織」の彼等には、元より「経済的」に安定する「擁護の支援者・伊勢青木氏」がいた為に、「津藩の働き掛け」に必要以上に靡かなかったのだ。
中にはこの柵から抜け出せずに「軍役の役」を持ちながらも「無足村主百人衆」を捨てなかったのだ。
「典型的な事件」として「伊勢騒動の指導者」の様に、「津藩の役人」でありながらも主張する処は主張し自ら責任を取った指導者もいたくらいで「無足村主百人衆」を守ったのだ。
明治5年までの歴史が残っている。
ところが江戸期に入って「伊勢」は、「多くの支藩・紀州藩」が乱立したが、どの藩の家臣にも成らず「無足の立場」で「自治組織」を形勢していた。
又、この「土壌」を利用したのが「信長の楽市楽座」である。
更には「伊勢秀郷流青木氏の梵純」の「甥の蒲生氏郷」が、この「伊勢の組織」を利用して「伊勢」を上手く治め「信長」より特別の褒章を得た史実があるほどの忘れてはならない「伊勢の事を左右する程の自治組織」であったのだ。

況してや、「帝紀」で少なくとも「嵯峨天皇」は、「天智天武天皇の青木氏に下した命」は覆せないし、それを覆せない以上は「伊勢出自の光仁天皇・白壁王」と云えどこれを黙認したが、「桓武天皇と平城天皇」は帝紀を追認している。
従って、この「帝紀の現状」は「絶対的帝紀」として覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢の領地と民」はこの「帝紀」に従う決定として「施基皇子の後裔地」として例え「天皇」であっても覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢王の国司事件」によりその後は“伊勢国司を置く事は絶対に出来ないと云う定め”に成っていたのだ。
唯、累代の中で「嵯峨天皇」だけがこの「流れ」を嫌って「賜姓族と皇親族を外す事」で、「帝紀」に逆らったのだが、但し、晩年にこれに反省して自らが「賜姓族青木氏の制度」を甲斐に復活して「甲斐青木氏・税を司る役人の甲斐冠者」にしてから自らが復して「甲斐青木氏」として「青木氏の賜姓制度」に戻しているのだ。
その後に「円融天皇」により既に「四掟」で「母方」であった「秀郷一門の嗣子第三子」に「秀郷流賜姓青木氏」に復する事を永代に命じているのだ。
依って、この「考え方」に依れば一時的には成るが、「賜姓族」では無く成ってる時期もあった事に成り、同然に「伊勢王では無く成る時期」も起こったと云う事に成るのだ。
「甲斐青木氏」として「賜姓」を復しているが、「制度」として復しているかは復したと明記している命が無い限り疑問であるのだ。
天皇が正式に賜姓をするかは別として条件が揃えば名乗っても良いとしたのだ。
これが「左大臣の島氏の青木氏」であったり「時光系回青木氏」であったり[橘氏系青木氏」等があったり証券の疑義はあるとしても「丹治彦流丹治氏系青木氏」がある。
「秀郷流青木氏}は「円融天皇]より正式に条件に拘わらずに「賜姓」を永代で受けて別格である事は女系で云う迄も無い。
まあ、「円融天皇」が「青木氏に依る賜姓制度」を正式に復した事にも成ると観ている。
これは「賜姓族」を外したのは一時的にせよ「賜姓族と皇親族」ではあったとしても、“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだ。
但し、「皇親族」では“外した”と云う記録はあるが、「仁明天皇」がこれを“復した”とする記録は「五つの朝廷史書」にもないし、これ等の「史書」から明らかに「賜姓」で「臣下」している限りに於いてだけでは「皇親族」は必然的には生まれてない。
この“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだが、“無いと云う事”は外していないという事にも成る。
つまり、「伊勢王」でありながら“「皇親族」では無い”と云う矛盾は生まれるのだ。
又、同時に「伊勢王」である以上は「賜姓族」である事に成る。
だとすると、「伊勢王」の「賜姓族」は、否定できない事実であるのなら、「皇親族」と成り得る事は否定できない。

「記録の有無」は、兎も角も、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係は成立していなければならない理屈である。
これを脅かした「嵯峨天皇の行為」は、矛盾するか否かではなく、「帝紀」に触れるか否かではなく、記録にあるか無いかではなく、この「出自元」でありながらこの「三つの関係」にある事をそれぞれを否定したのだ。
そこで「特別令外官」だけに就いては、「3等官以上の官吏」であれば成り得るので「令外官」であった事は否めないし、況してや「浄大壱位の冠位」を持つ「永代賜姓五役」であった事は否定できないので、「永代令外官」は否定できずその侭の状態で放置した事にも成るのだ。
つまり、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」でありながら、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係を否定してしまって「百々の顛末・始末」は矛盾した結果と成ったのだ。
然し、結局は、この「嵯峨天皇の矛盾」を放置できずに「仁明天皇」が遂にはこれを修正したと成るのだ。
この「歴史段階の結論としての証明」は、何はともあれは、“武力を前提としない氏族の青木氏”に対して、“「鎌倉幕府」は、「仁明天皇の修正部分」に基づいて、「鎌倉幕府」は「安堵策」を以てこれを認めているのだ。
ところが、「歴史」では此れを正しく評価していて、この「伊勢」の「商いも営む二足草鞋策の裔系青木氏」に対しては、「伊賀域」を除いて、「伊勢全土本領安堵している史実・上記の関係式を認めた証拠」”があるのだ。
「鎌倉幕府」は、「伊賀域を除いたとする事・地頭」からすると、「奈良期から平安期初期に掛けての詔」に従ったと云う事であり、又、「帝紀の有様」に従ったと云う事に成るのだ。
「室町幕府」は、これを「伊勢北部」と「伊勢南部一部の旧領地」を二つに分けて本領安堵して全体を減らしたのだ。
更に、その上でこの「地権策を多く用いたこの安堵策」は「奈良期の最も初期の状態」に限定した事を意味する。
然し、この時は、限定と云う事は減らしたのかと思いきや「別の形」で処置して復しているのだ。
それは、「青木氏の財力」を生かして優先的に「地権獲得・幕府には都合がよい」で本領を復して解決しているのだ。
恐らくは、この「地権獲得」から得られる「大財源」を狙ったものである事は明白である。
これ等の史実は、「伊勢王」では無く成った「824年」からも、“「武力を持たない豪族・秀郷流一門の抑止力」”を背景に「伊勢」を「実質に支配をしていた事」を示すものだ。

次に、「伊勢王であった時期」としては、「賜姓前の“647年以前」はどうであったか”という事に成る。
当時の「施基皇子15歳」で「成人」と成り、その為に「賜姓」を賜り、当然に独立した証として「姓」を持つ以上はそれなりの位に応じて「国・地域」も賜るのが「当時の真人族の者の仕来り」であった。
この時に確かに「孝徳天皇の二人の皇子」の「伊勢王]として「一代限りの王」が居ながらも、「施基皇子」はその「伊勢の一部域・賜姓地は指定されていた」を賜っているのが通常と成っていた。
然し、未だこの時は初代の「孝徳天皇の皇子の伊勢王・毒殺」が居た事から、「全域」では無かった事には成るが、そこで、この時、「伊勢」は果たして、「施基皇子の賜姓地」が決まっているのに、「初代の孝徳天皇の皇子の伊勢王」が存在し得ていた事に成り得るのかである。
これは矛盾する。
これは「孝徳天皇の皇子の伊勢王」に執っては「100%伊勢王としての立場」には無かった筈である。
それでも「伊勢王・一定期」にしたと云う事だが、これは「中大兄皇子の政治策」であった事は明白であった。
「歴史の経緯」からして、この状況の中では「伊勢王」は確かに「孝徳天皇の皇子」であった史実かも知れないが、現実は考え難い。
「施基皇子」は、「賜姓」を「伊勢」に受け、且つ、「功績」に依って「伊勢の領国・4つの大字/80%」を受けながら、「伊勢王では無いと云う矛盾」が「一時期に続いていた事」に成るのだ。
ところが、この「状態下]で、「中大兄皇子」は、「大化改新・645年6月12日」を実行しているのだ。
「政権」を掌握した「中大兄皇子と中臣鎌足」は、「皇極天皇」を退位にし、「皇極天皇の弟」の「孝徳天皇」を即位させた。
そして、その直後から「新たな時代の始まり」として、それまで正式に無かった「元号」をも「大化」と定めた年でもあって、「王位」も「第世族」までと決めた年でもあり、「日本」と「天皇」の「呼称」をも正式にこの時に定めた年でもあった。
それまで「王位であった者」が「王位で無く成った者」が多く出て混乱し、これ等の者は坂東に配置されて「ひら族]と名付けられて流されたのだ。
これが「後の鎌倉幕府を支えた坂東八平氏の始り・熊谷氏等」である。
この「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は「斉明天皇」からは「第三世王」であり「天智天皇」となると「第四世族」と成り「施基皇子」が匿ったとしても必然的に「伊勢王ぎりぎりの位置」にあった事に成る。

所謂、この「皇極天皇・在642年〜645年」と「孝徳天皇・在645年〜654年」の「中間・即位前」の中での起こった「改新劇」であって、「母親の重祚」の「斉明天皇・在594年〜661年」と「天智天皇・在668年〜671年」から「天武天皇・在673年3月20日〜86年10月1日」と繋いだ歳でもあった。
当に「日本の社会状況」を含めて「状況」が大きく変わる「大化の経緯」であった。
現実に、この時は「天智天皇」が「伊勢」に「紀州日前宮」から「最終地の遷宮地」として定め移した年でもあり、これを「伊勢神宮」と定めた歳でもあり、此れを「天武天皇」が正式に整えて最終決定して仕上げたのだ。
だとすると、この「経緯」では、「伊の勢の国」は、「施基皇子」が15歳で成人し「賜姓」を受け、且つ、其の位から地を賜っている筈である。
つまり、「年・647年の前」の「645年前頃前・皇極天皇期」の「伊の勢の国」は誰の支配下にあったかと云う事に成る。
母親に代わって「中大兄皇子」が摂政を執っていた年の「伊の勢の国」は当然に神宮の事等もあって、「中大兄皇子」の支配下にあった事に成り、「15歳の賜姓を受けた施基皇子」には、「伊の勢の国の全域」とは云わずとも「ある域の領地]を与えた事に成る。
でなければ「15歳での賜姓」は無い。
ここが、“「旧領地」”と呼ばれていた「南勢域の尾鷲の域」ではないか。
此れであれば、他は安堵され無く成っても、つまり「江戸時代」になっても「此処・南勢尾鷲域」は安堵されていた事から符号一致するのだ。
つまり、「647年の前」の「642年の5年間」は、実質は「施基皇子の支配下」にあって「647年」に「正式に領地」と成ったとする経緯である事に成るのだ。
つまり、この以上に検証した上記の「疑問」は、この状況の中で「中大兄皇子」がその「裔系」を以て「伊勢」を一時的に支配していたのではないかという事だ。
「伊勢王の本領地の250年間」に、この“「5年間」”が加算される事を意味し、それは「255年間」と先ずは訂正される所以と成る。

ところが、疑問としては、もめた「嵯峨天皇後」の「伊勢王の期間」は、果たして、上記した様に「賜姓族」を外された事で、要するに検証する“「伊勢王の期間」が此処で途切れたとする論”で良いのかである。
つまり、これは「全ゆる殖産」は終わったとする事に成るが、この「殖産」は「伊勢王」であったかは別として「伊勢を代表する殖産の青木氏」として「紀州徳川氏」と共に明治期まで続けているのだ。
これは何を意味するのかである。
他に伊勢に同じ様な立場を保全している者があるのなら続けてはいない筈だ。
「坂本竜馬の船沈没の事件の問題」も「伊勢の青木氏」が「勘定方指導役」として代わって解決しているのだ。
本当にこれも何を意味するのかである。
「伊勢」に「それなりの替わる者」が居れば出て来ている筈では無いか。
要するに自ら伊勢松阪から摂津に身を引くまでの「明治期初め」まで「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は「実力のある実質の伊勢王」であったのだ。

兎も角も、「時代経緯」がこれだけの事を示しているのに、それにしても「嵯峨天皇の出自元の行為」に対しては「純和天皇」も「中間の立場」を保ち無関心を装ったが、「仁明天皇」だけは、「嵯峨天皇時代の施政」に反して「反意の態度」を執って「出自元を擁護し復した」と幾つかの史書にある。
「鎌倉期の史書」にも「伊勢青木氏の血縁筋の最後」は、「仁明天皇」が最後として記していて、ここまでの史実には「否定者」は、「嵯峨天皇以外」に無く、多くの者が良い「関与人物」として記している。
この事から観れば「天皇」としては、後勘からみれば、「伊勢での青木氏の立場」を立ち直らせたのは「仁明天皇と円融天皇]であったろう。

淳和天皇・在823年5月29日〜833年3月22日 10年間 嵯峨天皇の異母弟
仁明天皇・在833年3月22日〜850年5月4日 17年間 嵯峨天皇第二皇子
円融天皇・在969年9月27日〜989年9月24日 20年間

とすると、「嵯峨天皇での青木氏賜姓の中止」で、その後は「伊勢王」は結果として停止し、「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」と成ったとあるが、「仁明天皇の復政」で「伊勢王の立場保全・実質は伊勢村主百人衆の上に立っていた」は戻ったとする説論が成り立つ。
そうすると「伊勢王」が復されたのであれば「賜姓族」も復したと成るだろう。
上記した「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である以上は、復する事は理窟の上では間違いは無いであろう。
取り分け、この「説論」は「北勢」に於いては「青木氏の氏族」である「伊勢郷士50人衆の村主衆の氏人」で成り立っていた事を考察し、「旧領地の南部の伊勢郷士50人衆の村主衆」もこれに従ったと考えられている。
とすると、少なくとも「北勢の伊勢王」であり続けた事が間違いは無い事が云える。
そこでそもそも「南勢」は上記した様に「奈良期からの旧領地」であった。
「北勢+南勢」に於いて、この関係が成立しているにも関わらず、そこで「実質伊勢王」を、「朝廷」は「嵯峨天皇の乱政」で掻き廻され、「帝紀を覆す事」は出来ない為に矛盾の進言もをせず“「積極的黙認」を続けた事”に成るのだ。
取り分け、「南勢」に於いては明確に認められるのだが。
その「証拠」に於いて「江戸期の伊勢での一揆反乱騒動・前段・伊勢騒動で論じた」は何とこの「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」での「南勢」から起こっているのだ。
そして、「北勢衆・経済的な補完は伊勢青木がした」がこれを補佐したと記録にある。
従って、江戸期まで働いていたとするならば、「北勢」は少なくとも「仁明期]までは充分に「実質伊勢王の威光」は働いていたと考えられる。
従って、筆者は、250年間+5年間+17年間=“272年間” が“「伊勢王の期間」”としているのだ。
後は、守護等を置かない「南北の無足村主百人衆の自治組織」が治めていた事に成る。

「戦乱期の中」で「1415年」の「国司の格式」を得て「公家貴族の北畠氏」がこの「自治組織」を其の侭に「伊勢」に強引に入る事に成ったのだ。
然し、この時も「公家貴族の北畠氏」の資格は「3等官以上が成り得る国司」であって「伊勢王」ではないのである。
この事は、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である事が現実に認められる以上は否定は出来ず、“「積極的黙認」を続けた事”に依って「伊勢王の存在」を影乍ら認めていた証拠であろう。
現実に「朝廷に執っては最大の献納・献納そのものが伊勢王の証拠」が行われているのだ。
況して、「地頭と守護」のいない「南北の無足村主百人衆の自治組織」と「伊勢青木氏の支援」で治めていた「伊勢」の中で「国司」であったとすれば、「公家貴族の北畠氏の国司」は何の意味を成すかである。
「南北朝の指金」に過ぎなかったと観ていて「朝廷を救うものでは無かった」のだ。
況してや 「戦国時代1467年から1690年を戦国時代」とすると、「50年前の南北朝の朝廷」にあっては「公家貴族の北畠氏の国司」をこれをその格式とすれば「伊勢国司の意味」の成す処等はないのだ。
実質は、この段階でも「伊勢王」は、伝統的にも実績でも功績でもどれを執っても“「伊勢青木氏に代わり得る者」が「伊勢」には存在していなかった”という事であって、「献納等の行為」も含めて公私ともに演じていたと見做せるのだ。
その状態を再び室町幕府の公が形式的に時代に合わせて認めたのが「律宗族の青木氏」であったのでは無いか。
平安期で“「積極的黙認」を続けた事”に対して、室町期では「正親町天皇」も巻き込んでの事であったと観ている。そうでなければ「正親町天皇・朝廷」を引き込まなかったであろう。
“「積極的黙認」はこの時点で終わりを告げ実質伊勢王を認めた形を執ったのでは無いか.
それが「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係であり続けたが、「伊勢青木氏」に執ってはそれがあるか無いかは別として大した意味を持たず、「南北の無足村主百人衆の自治組織」に囲まれた「奈良期からの伝統とその形を護る青木氏・律宗族」であったのでは無いか。
最早、軌道に載った「殖産の青木氏」であったのであろう。
要するに、[近江鉄の殖産」は「伊勢王の在り様」に大きく関わっていたのだ。
それだけにその伊勢王の期間が問題に成る。

「伊勢の国」の「伊勢王としての殖産」に関する事件は以上

注釈 「伊勢の資料」には、恐らくは“「250余年間」”とするものもあるのはこの事に依るものであろう。
要するに、“実質の限界値を何処に定めるか”にある。
それにしても「奈良期初期の曖昧期の5年間」と、「平安期初期の曖昧期の17年間」を除けば、前段でも記述した様に、確実には、“「250年間」は「伊勢王」であった事”が認められる。

注釈 そして、その後は、上記した様に鎌倉期には「御家人の地頭職・足利氏」を置いたが「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」を受けた様に、「平安期末期・1192年」までの“「368年間」”も、下記の政治体制としての「伊勢郷士衆南北百人衆」でまとめていた期間も、“「実質の伊勢王」”であった事に成る。
この時の「伊賀域」は、伊勢松阪に代わって「足利氏の地頭職」を置いて外したが、「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」で、「鎌倉期初期・1220年」までは、「平安期の伊勢王」に相当する特殊な伊勢氏族」として保たれていた。
然し、「鎌倉中期頃」からは「伊勢の態勢」は替わり「執権北条氏の政治策」で「伊勢の主な本領地」は無く成り、その代わりを「裏の形」では“「買い取る形・地権者」”としての「地位」を築いていたのだ。
その古来から「立場格式を特別に有する“「郷氏」”、即ち、「豪族に相当する財力と抑止力を有している事」を前提として、「地頭」に相当する“「守護族・郷氏族・伊勢王」”として務めたとなる。

注釈 「鎌倉幕府」の「頼朝」は、前段でも論じたが、天皇宣下が降りず「征夷代将軍」”とは直ぐには成れず、「頼政の以仁王の令旨」を以て引き継いだとして一段格下の「鎮守府将軍」に甘んじていた。
従って、正しくは「鎌倉幕府」は、開けずに、「鎌倉の府」として振る舞っていた。
この「鎌倉の府」の下では、「守護職」に代わって「地頭職の官僚」を前提として置く事を定めて「朝廷」に申請したがこれも直ぐには認めなかった。
そこで、この樹立したばかりの「鎌倉の府」は、強引に「御家人」から成る「地頭職」を主要地に置き始め、「既成事実」で府の管理体制を造り上げたのだ。
その為に前の「守護」と「地頭」との間で「争い」が続いた。
その「地頭の最初の設置」が、「天智天皇の詔」がある為に「伊勢松阪」に直接に置けず、その代わりに「伊勢伊賀」に置いた。
そして「美濃一色」にも置けず「美濃沼田」の二か所に先ず置いたのだ。これが最初であった。
そもそも「一色の呼称」は「伊勢」於ける「伊勢王・施基皇子の大字の総称」として使われていたもので、「伊勢」から主要三か国・近江・美濃・信濃」に嫁いだ者等が故郷を懐かしんで住んでいる地域を「一色」と呼んだものであって、それが周囲から格式と見做され、乱れた室町期には無断で格式を高く見せる手段として使われる様に成ったものだ。
要するに、第の氏名姓と云われるもので、足利氏や徳川氏は時と場所に依って足利氏、徳川氏以外に「名乗り名」を四つも使っている。
この「名乗り名」を使う事には幕府の追認があったのだ。
そこで、足利氏等の「名乗り名」に付いては次の通りである。

例 足利氏・土岐氏等の「第三の名乗り名」 (一色に付いて)

1 美濃国の戦国大名の「斎藤義龍」が「美濃一色氏」を称する。
2 土岐頼益の養孫である「土岐成頼」の裔の「土岐頼栄の子孫」が「土岐一色氏」を称する。
3 足利氏支流の「吉良有義の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
4 足利氏支流の「吉良定堅の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
5 藤原北家良門流の「犬懸上杉憲藤の裔孫の上杉教朝の子孫」が「上杉一色氏」を称する。
6 足利義昭より偏諱の授与で「菅原流一色昭孝」を称する。
7 足利在種の裔孫が「足利一色氏」を称する。

要するに、これも「社会と周囲と朝廷と幕府」はその格式を認めていた事を示すものである。
所謂、「施基皇子とそその裔系」に対して「伊勢王の権威」を認めていた事を示すものである。
それは合わせて「格式を保つ為の古き伝統」をも維持していた事にも依る。

注釈 そもそも、“「大兄」”とは、同母兄弟の中の長男に与えられた「大王位継承資格」を示す称号で、「中大兄」はその「2番目の大兄・皇子」を意味する語である。
「大化の改新」とは、母の「皇極天皇期の645年に「乙巳の変」での国政改革の事で、その2年後に賜姓を授かり、「中大兄皇子」から「第7位の第四世族内の施基皇子」として臣下している。
「孝徳天皇の子供の初代伊勢王」が、“「施基皇子の配下に入った」”とするは、“この二人の内の次に成り得るもう「一人の子供・皇子」が身を引き「施基皇子の配下に入った」”と成ったと考えられる。
この事に就いて「施基皇子の功績」を以て、「天武天皇・在672年〜686年」も流石に放置できず、この時に「施基皇子の大功績」が有無を言わさずに「匿う事と赴任の事の容認」に踏み切る事に左右した事に成ろう。

注釈 さて、“この「注釈に関わった時はと云うと,そうでは無かった”のだ。
つまり、「初代伊勢王」は実は「施基皇子」であった。
ところが、その「中大兄皇子の政敵」の“「一代限りの初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”は「伊勢王の施基皇子の配下の国司」として入って着任した形を執って「伊勢」に匿ったのだ。
この為に政敵の「一人目の一代限りの初代の伊勢王・兄の皇子」は毒殺された。
この為に、「一代限り」である事から次の「二人目の伊勢王・二人目の弟の皇子」に引き継がせる為には、この「二人目の皇子」には、飽く迄も、“「初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”の呼称としては引き継がせ様としたが、「実質の形」は「政治的立場」から「伊勢国司の形」として辻褄を合わせたのだ。
この不思議な時系列を読み解けば、この「二人目の孝徳天皇の皇子」を救い匿う口実を造り上げていたとすれば理解は出来るのだ。
そして、故に“「実質の形」”では、「朝廷」は飽く迄も“「初代伊勢王」と当初は呼んでいだ”の経緯と成るが、実の処は“呼んでいたと云うよりは呼ばしていた”のでは無いか。
ところがこの「政争]とは別に、「施基皇子」が「朝廷」で「賜姓臣下族」として振る舞っていたが、それでいて余りの高い功績を積み重ねた為に、その侭では「朝廷」も無視し続ける事はできなくなったのだ。
前段でも論じた様に、「賜姓五役」としての「功績」が誰よりも高く上げながらも、その様に振る舞わなかった原因である。

注釈 「真人族」の中では「有名な歌人」として振る舞い「政治的立場」に敢えて出ず隠した形でおとなしくしていた。
その為に上記した様に「冠位と官位と伊勢領地」とを「皇子真人族」の他の誰よりも獲得していたが、それ故に上記の様に「伊勢王呼称」には拘りを示さなかったのだろう。
その「真人族」が何と初めての「第七位の第四世族内の真人族」が、最初の「臣下族」と成り、且つ、それが「賜姓族・647年」と成り、「天皇の親衛隊」と成った事で、その事象は過去に事例が無く、“「前例のない扱い」”であった事から、「天武天皇」とその「后・姉・持統天皇」は、その「扱い」に対して勿論の事で「朝廷」も困ったのでは無いかと観ている。
此れは「父の天智天皇の大化の改新」で起こった初めての事であって、何事にもその「扱い」に極めて慎重に成ったと云う事ではないか。
古来より上記している様に「帝紀」があって、“天皇が一度詔として定めた事はどんな事が有っても覆してはならない”とする掟があった。
これに対する「三等官以上の官僚族」がこれに関われない“「政治的迷い」”があったからであろう。
つまり、「浄大壱位と云う冠位」を持っていた事で、「兄の皇子」に対して“「天皇も裁けない出来事」”と成っていたと考えられる。
その「最大の要素」は、「天皇に継ぐ冠位」と「真人族で賜姓族のその前例のない功績」であったと考えられる。
これに「天武天皇」も「兄・天智天皇」で、その「后」も「天智天皇の娘」であり、「大化の改新の詔」と「帝紀の尊重」であるとすると、このそれ相当の“施基皇子の処遇に迷う”のは「自明で理」であるだろう。

注釈 「施基皇子の功績に伴う処遇」に対して、「兄の川島皇子の処遇」は礎それ相当に評価されていないのは不思議で、「皇子順位」は川島の皇子の方が確かに上であるが、「近江への褒章の処遇」は同じと成っている。
冠位と官位は施基皇子の方が上であるし、「領国の価値としては施基皇子の方が間違いなく上である。
「賜姓」も「施基皇子」は「神木の青木」から当時の慣例から上で、「普通の当時の賜姓」の最低は「地名」であり、「川島皇子の賜姓」は単なる「近江の地名・神社名」であって「真人族の賜姓」の扱いではない。
然し、以上の様に「青木氏のの氏是」にもある様に上位にありながら目立たない様にしていたのだ。

注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。

注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。


  [No.397] Re:「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/08/26(Fri) 10:42:34

「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」の末尾


> 注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
> それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
> その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
> その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
> 前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
> そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
> 「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
> この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
> この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
> そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
> 唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
> この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
>
> 注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
> これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。


「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」


上記で論じて来た「植物絞り油の使用の経緯」の中には、この「注釈の事象」が繋がっていたのだ。
この「注釈の事象」が「伊勢国の殖産を大いに開始させる事の発端時期」と成ったのだ。
この事に就いて「伊勢青木氏の記録」と共に「御師制度の研究」にもこの事の記載が明確にある。
この事の「注釈の事象」は、取り分け、重要で、この中では、例として「紙屋院の院号等の独占権」を「令外官」として与えられていた。
とすると、「伊勢」で「賜姓臣下族」としてでは無く「青木氏部の部の殖産業」として「自由に行えた時期」はこの時以降である事に成る。
それは「禊の条件」が効いていたのであろう。

この時の“「伊勢の殖産」”は、「青木氏の商記録」や「幾つかの古資料」から漁ると「伊勢国と紀州の一帯」には、その「特殊な殖産の前提」があって「完全自由に興せたものでは無い事」が解る。
それには、「一つの青木氏が護らなければならない絶対条件」が課せられていたらしい。
それは、古来より、この「殖産」に関しては、この「伊勢」は 特別に“「禊(みそぎ)の地」”と呼ばれ、又、「食と産業を司る外宮の御祭神」の「豊受大神様」の「神地」にあって、従って、それに纏わる「禊の殖産」が主にして興されていたのだ。
恐らくは、これには前段で論じた様に政治的には「特別な規制令・因事菅隷」、又は「促進令」が発せられていた事が垣間見られる。
取り分け「青木氏が起こした殖産」にはこの「伊勢」に限ってこの「禊の条件」が課せられていた。
これを“「禊(みそぎ)の地」”としてこれを「特殊の規制令・因事菅隷」と「伊勢」では呼ばれていたらしい。
上記の「上記の伊勢王の事件」から考えても、実質は「施基皇子とその裔系」が「伊勢王」を「259年間・272年間続けられる実力」が備わっていて、初代云々では無かったと考えられ、飽く迄も「朝廷の政治的な思惑」の中で称されていた事が判る。
だから、「禊殖産の促進令」が「特別な規制令・因事菅隷」としも「賜姓五役」としても「令外官の青木氏」に発せられていたのだ。
要するに、「特別な規制令・因事菅隷」は伊勢青木氏に発せられる例出あった事に成る。
故に、又、「伊勢に於ける不入不倫の権」が、「中大兄皇子」に依って発せられていて、「伊勢神宮の保全」と共に「特殊な殖産前提の地・禊の地」が構成されようとしたのだ。
その「伊勢の地を護る令」として発せられる「特別な規制令」の「因事菅隷」は「伊勢青木氏の令」として用意されていたものと同じ意味を持つ事に成る。
だから歴史的に知られていない「特別な規制令」、即ち、「因事菅隷」とは成っているのだ。
逆に、これがあるからこそ「伊勢」で気にせずに「禊ぎ殖産の殖産を興せる所以」であった事に成り、それが正しく「禊ぎ殖産」であったのだ。

それには、完全自由では無かったと観られ「特殊な殖産前提」として「二つの前提」があったと考えられる。
「一つ目」は、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とした事。
「二つ目」は、前段と上記する背景を持つ“「伊勢王の地・青木氏部・令外官・賜姓五役」”であった事。
以上に依る。

そこで、この「二つの前提の範囲」から“「禊ぎ殖産の殖産企業」”は、全国に先駆けて特段に「伊勢」だけに勧められていたものであって、そこで「朝廷」は、それを権威づける為に「紀伊国の日前宮」から、態々、遷宮した「伊勢神宮」の此処を、限定して“「禊(みそぎ)の殖産地」”として限定して取り分け呼ばせていた所以であろう。
「紀州日前宮」からの「伊勢への遷宮」は、要するにその違いを際立たせる為に取り分け“「禊(みそぎ)の殖産地”にする事」であって、その為の”「不入不倫の権」”であったと考えられ、その為にそれを促進させる者としの「因事菅隷を与えた初代伊勢王」であったと観られるのだ。
故に、前段でも論じた様に、“「不入不倫の権」”は、“「禊ぎ殖産の殖産企業」”を実行する「伊勢青木氏に与えられた特権」であったと論じているのだ。
それ故に、後の「鎌倉幕府」は、「本領安堵策」で、「室町幕府」は「律宗族」で、「平安期朝廷」は「259年・272年の伊勢王」で、「家康」も、この「故事の史実」を認めたし、且つ、前段での「三河での額田青木氏等の活躍」などもあって、“伊勢の事お構いなしのお定め書”までを伊勢青木氏に発せられたと考えられるのだ。

そこで、この前提で、ではそれを、「古来」、「殖産」、「産地」の「三つの条件」で観て見よう。

前段から論じている「禊(みそぎ)」等の資料から読み取ると次の様に分類される。

「和紙とその原材料と加工品」は、元より、「穀粉」「白粉」「伊勢木綿」「伊勢紙」「食料油」「薬」「茶」「食品加工品」「果物類」「木工品」「工業品」「絵具類」「備長炭」「墨」「組紐」「陶物」「漆器」・・・
以上、「禊品約20品等」として記載されている。

「古書の資料」からこれを観ると、以上と全て「伊の勢の国」の最も古い奈良時代から「禊(みそぎ)品」として扱われていたとするものばかりである。
それが何と「江戸時代」まで続けていて、結果としてこの「神の禊(みそぎ)の品」が何と増えているのだ。
室町期中期頃から江戸期中頃までの「禊(みそぎ)の品」は、そもそも「禊(みそぎ)の品」と云うよりは「伊勢詣での土産品」であって、殆どが「伊勢」と云う「禊(みそぎ)の品の格式」を利用したものばかりと考えられる。
「伊勢神宮の「禊(みそぎ)の品」の条件に殆ど則わないのだ。

これは「平安期末期」までは、「伊勢新宮の殖産品」として格式化する為に「令・因事菅隷」に基づくものとしての「伊勢青木氏」が「禊(みそぎ)品以外」は「その「伊勢の力・伊勢王」で敢えて認めなかったのでは無いかと考えられる。
その「伊勢王歯止め」のこれが伊勢王で無く成った時からの「室町期」からは崩れ始めたと観られるのだ。
これが何時しか「伊勢青木氏」から手を離れ、「禊(みそぎ)品以外」をこの「二次産業」と「三次産業」として「蜘蛛の巣」の様に組織的にそれぞれの「禊(みそぎ)品以外の長屋群」を通じて「伊勢以外の各地」でも出来るまでに広がって行ったらしい。
この「経済の流れ」は「伊勢詣での品」に成って「禊品」としては抑えきれなくなったのであろう。
主にこれらの物は「奈良に向かう川沿いの支流沿い」にあって、ここにはこの「類似品」を造る「類似の禊品生産長屋群」があった事が伝えられ、この「長屋群の人の呼称・ここでは記載しない」までもあったと成っている。
既に、此れを観ても、「本来の禊(みそぎ)の品」の原則域を遥かに超えていたらしい。

然し、前段でも論じたが「伊勢」では、「古来」に於いてその「殖産地の適正地・櫛田川沿い」には、今で云う「コンビナート」、即ち、全ての「一つの殖産に関する取引」がある限定された「一地域」で賄える「体系」の様にして、ここにこの「正規の長屋群と蔵群」が構成されて進められていた様だ。
その「禊(みそぎ)の品1」の「生産の区別の特徴」は、古来では「一つのコンビナート」が「山と川と浜」に集中していた様で、要するにその「地形の高低」を使って「川」で流し、「舟」で「運搬」をして、「浜」に出て、そこから「二つ目の次のコンビナート」に運ぶ「システム」で、「港・泊」から「大船」で、「伊勢北部の集積地」に運び、「松阪の商業地」に運んでいたとある。
その逆もあった。
この「動力」は、「川の流れ」で「水車・青木氏部」を動かし、「水」で「洗浄」などしていたらしい。
上記した「禊殖産の産品」は、この「コンビナート」のこれに「適合する物」が選ばれていた事が解る。
取り分け、記録に遺るところでは、所謂、「禊の川・A」は、主に「北勢」に集中して「櫛田川」を始めとして「21に及ぶ川」が適度に分散し存在していて、当に「コンビナートであった事」が解る。
故に、然し、「室町期」から興ったこの上記した「本来の(みそぎ)の品の域」のその「以外域品・禊ぎ品2」ではその生産場所が奈良域と限定されていて、主に「奈良県よりの北勢地域・B」に分散集積していた事が解っている。
飽く迄も、「神に関わる禊」を前提としていた為に、この「川の事」を“「禊の川」”とも呼ばれていた時期があったらしい。

さて、ここで論じているこの「禊ぎ品」の“「食用油・南勢・下記」”もその中の主な一つであるが、「伊勢」は結果として「全国の最大の殖産品」の「一大産地の国」に仕立てたとあり、取り分けにこれに「食用油の生産に力」を入れていた事が記されている。
この「禊ぎ品の食用油」は、その域を超えて中でも「交易品」としても使われたとあり。その得た「利益」の代わりに当時としては「貴重な石油の卸問屋」も営んでいた事が判っている。
この事は幾つもの記録にも記されている。
「禊の食用油」が「禊ぎの域」を超えて「貿易」に繋がったとして珍しがったとある。

「伊勢青木氏の院屋号」の「院」に対して、その「業」に対して「商い」をも行う時に与えられる「格式号・屋」があって、「朝廷の認可」を得て「・・屋」と公に号する事ができるのである。
然し、この「禊ぎ品が交易に使われる事」への「疑問」が不思議に無かったとある。
これはどう云う理由であったのか資料に残る筈である。

注釈 資料を調べる範囲では、平安期までは「院屋号」は[朝廷の認可の公認物」であって、幕府期ではこれを乱発して「莫大な利益の獲得源にした事」で、その「認可公認の価値」が無く成り、遂には「ある程度の利権」を獲得する為に「金品を支払い」、且つその「届け出の範囲」で「身分格式無く勝手に使える様に」、遂には成って仕舞ったとあるのだ。
江戸期ではそのに認可は幕府が行うものとしてそのレベルは無制限に成ったのだ。
ここで云う「院屋号」は、室町期中期前の認識とするものである。
これでこの「特権を与えられたこれを持つ部経済」から始まった「紙問屋の伊勢屋の商い」の「当初は「紙」を主として「業と商の屋の対象」と成って、朝廷が認める「業と商いの利権・殖産」を獲得し、其れを以って全国に販売されていた事に成る。
そして、その「院・屋・号に合わした特権」で「収益」を挙げ、その何割かを献納する形を執っていたのだ。
それが故に、当時では「摂津」や「大阪・堺」に「商いの場」が代わる前は、「伊勢」は、未だ「殖産地と販売地」の「現在の大阪の様な商地」でもあって、これで伊勢では古来では“「屋の地・禊の地」”と呼ばれていたらしい。
恐らくは、前段でも論じている奈良期からの「7割株を有する伊勢水軍の発祥」も、この「殖産の地」の「屋の運搬の結果」から生まれたものであったものと考えられる。
それが「摂津水軍」、「瀬戸内水軍」等と「販売地拡大」に伴い、その「殖産地」へと伝播していったものであろう。
その「証拠」に其処には前段でも論じている様に必ず“「青木氏の裔系」”が存在するのだ。
資料から調べると,流石に「院」は鎌倉期、室町期、江戸幕府に於いても乱発は観られない。
それは一つには「院の号の意味合い」には、「皇族」の要するに引退に相当する居に対して付されたもので、それを以て一つ徳行を成した得た事を意味する事から、社会に対して「功績をもたらす業」、即ち、「殖産」を興した事に対して、「院の格式号・貢献」を与えるとするところから発している。
従って、「院」は「殖産業・起業をもたらした者」に与えられていたので、誰でもと云う訳には成らず勝手に誰でもとは成らなかったのだ。
そこに、「認可」は上記の由来より「府の時代に成っても認可は「朝廷」であって伝統的に格式を重んじたのだ。
つまり、当然に青木氏に対しても「格式を重んじたと云う事」に成っていのだ。
故に、「交易の理由」はその範囲で許された事に成ったのだ。
百々の詰まりは、「格式の前」には「献納」が大きく期待されたからだ。それが有史来からの因の持つ伝統であったからだろう。
要は「青木氏」とは事を起こさないで任すが得策であったろう。それは「院号」の朝廷との特権を持っているからだ。

唯一つ、ところがここに「不思議な事」があって、この中には「古来」に於いて“「酒の殖産」”だけは「明治35年頃」まで「伊勢」ではその「殖産地」ではなかった事なのだ。
“「お神酒」”とすれば、又、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とすれば、その「代表物」であった筈で、そうであったとしても何の不思議はない筈であるが、当時は未だ「禊(みそぎ)の物」の中には関連品も含めてもこの記載が無く、何故か「禊ぎの酒の殖産」だけは無かったらしい。
と成ると、これは「伊勢の神」の“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事に成るが、果たしてこれは正しい事なのかであり、検証して観る必要がある。

それは、“「禊(みそぎ)の地の前提」”として、そこには、「一つの意味」が潜在していたのだ。
これには「解明できる要素」がある.
それは、寧ろ、「禊ぎ」と云うりは、“「薬」と「茶・薬用」”が最も“「神の物」”として尊ばれていたとする記録に先ずあるのだ。
これは「見逃せない当時の古来定義」である。
それは「中国」に於いても「大和」に於いてもである。
この事が重要であって、要するに、「禊(みそぎ)」のそれには先ず「浮き上がってくる条件」がある。
それには、そもそも「禊ぎ」は、そもそも「日本古来の慣習」では無く、「中国の神の慣習」そのものであって、その為に「大和」では、“「中国の影響」”を大きく受けいて、その「禊(みそぎ)の主眼」が、中国の“「漢方薬」と云う点”にあったのであろう。
それは、記する処では「中国」では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」であったという事だ。
「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は、現在に於いても“医学と薬学」”が進んだ中に於いてでも、依然として「人間とウイルスとの戦い」である事は否めないが、その解決の一役を担っているのだ。
古来、「中国の先史時代」の「三文明後」に、先ず「国の形」として「那の国」から始まり、その「那の国」が先ずは「国体の原形」を定めた。
ところがそれを「秦」がこれを「完成した形」にしたのが中国では興った。
その国では、“石は薬の諺”があつて、現在でも中国ではこの考え方の根幹としてこれは信じられている。
事程左様に、要は全ては「薬」であって、これは「漢方薬の所以」であって、中国に於いてさえ「禊(みそぎ)」=「漢方薬」”には何の不思議もなかったのだ。
そうすると、故に「奈良期の初期」の「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は納得できるが、唯、大和では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」だけの事では無かったのではないかとこれには「疑問」が湧く。
その「疑問」が「禊(みそぎ)」であるとなれば、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は「全ての民の現実の問題」であったと考えられる。

奈良期の「古来」に於いては、それがハッキリさせているのだ。
“「薬」と「茶・薬用」”に考えられる事は、同源であって、それが、“神の「禊(みそぎ)の物」としては、“人を癒すもの”が「主眼」として考えられていた事に成る。
ところが、そして、この“「酒」だは違った”と云う事に概念は成っていたのだろう。
では果たして酒と茶がどこが違うのかである。
当時は普通に「茶も薬であった事」が、これは「別の古書」にも幾つにも記されているので、“「薬」と「茶・薬用」”は同然の扱いであったと先ず考えられる。
「茶」は「水の代わり」の様に“親しむ”ように、「薬」と同然の様に一部の階級で親しんでいた事から、“「薬」と「茶・薬用」”は成り立つ事であったと考えられる。
これが「普通の感覚」で「医薬同源と云う事」であったのだ。
現実に「茶」には「カテキンと云う効果」が現実にあって、「過剰摂取の脂肪」には「薬」である。
要するに、「茶」が「薬」とするは、これは早く効くか遅く効くかの問題であって少なくとも間違ってはいない。

問題は次の「酒の検証」である。
確かに「酒」は、「茶」と同じであっても、その「質」は、兎も角も、「量」に起因しているが、「茶」はこの「量」にも「質」にも拘わらず「早い」か「遅いか」である。
古代では、要するに化学分析能力の無かった時代では、「概念」は違っていて「アルコール=カテキン」とも成るであろうが、ところが「古代」では、それでも「酒」は違ったのだ。
そこでこの「酒」が、そもそも「禊」には成らなかった「理由」は何なのかであって、この点にあって、「薬」としてはどのものに比べても「最大の効果」を発揮はすれど、先ずは「考えられる事」は、「人の物」としては別としても、“「神」”に「純粋に捧げる物・禊物」としては「純粋」に選ばれなかったのでは無いか。
「天岩戸の事」から始まり歴史的には最初に出て来る色々な意味の「薬」ではあるが、ところが「伊勢神宮の禊」には選ばれていないと云う事なのだ。
此の処が既にここが「中国」とは違っていたのだ。

もう一つは、「遷宮の地」の伊勢以外は、別として、「伊勢」では、「米」も然る事乍ら、決定的に違う事は、“「よい酒用の米・明治初期まで」が採れなかった事”にあるのでは無いか。
現実に気候と地質と土壌が悪くて「明治中期」まで採れなかったのだ。
これが講じて「禊の条件・伊勢の産物」と成っていなかった事も考えられる。
だとすると、ここには何かに正式な相当な記載があるべきものと成るがどうか。

では更にここを「古書」で検証する。
「上記の事」がハッキリと記録されているのだ。
又、「朝廷」はこの「ある事で伊勢の事に悩んでいた事」を示す事にも成る。

先ず参考として、「史書・古事記」の「経緯」に依れば、「天武天皇・673年〜686年」が「稗田阿礼」に「古事記」の「正しい記録」を誦習させた。とある.
これに始まり、この「作業」が「天武天皇の崩御」でこの「誦習の事業」は一時中断したが、その後、「元明天皇(707年―715年)の命」で、再びこの「稗田阿礼」が“誦習した”とある。

この“誦習した”の所に意味が隠されているのだ。
何で何の為にどこを“誦習した”のかである。
そして、この“誦習”とはどの様な作業であったのかである。
そもそも、「古事記」そのものが未だ時代も過ぎてもいないし、ボロボロには成っていないし、内容も違って大きくは違っていないだろうし、故に、この“誦習した”には「特別な意味」が見いだせない。
「漢字の間違い」を直した訳でもないし、然し、“誦習したとするほどに”、する程に大きな理由が生まれたのだ。

筆者は、この事に就いて次の様に検証している。
「伊勢神宮への遷宮」が、「天智天皇」に依って「紀州日前宮」より「帝紀に書かれている事」により“「環境条件」が整わない侭に、「紀州の日前宮」から移してしまった史実”である。
何も「遷都」であっても「日前宮」より「遷宮」を直ぐにしなければならないと云う事ではない。
「遷宮}は「安芸」から始まって「69回の遷宮」を行っているが、「遷都」と同時に「遷宮」も同時には必ずしも行っていない事例はあるのだ。
「遷都が落ち着いた後」でも「遷宮を行っている事例」もあるのだ。
この事は「別の記録」にも記載されている。
「紀州日前宮」の場合は、この最たる例であって、「飛鳥」から「近江大津宮」に「5年間の遷都」にして「神宮」は「伊勢」であって、その前に於いてはその最たるもので先ずあったのだ。
そこで、この「天智天皇が始めた未完成の遷宮事業」を引き継いだ「天武天皇」は、何とか「環境条件を整える事」に専念したが、それでも上記の通りで「誦習で出来ない事」が生まれていたのだ。
これで、「遷宮の環境条件」に「矛盾等」が発生しない様に、先ずは「古事記の見直し」を二人の官僚に行わさせたと云う事である。
それに合わせて、現実に「伊勢王」の「令外官を務める伊勢青木氏」に対して「因事菅隷」で以て合わせて「環境整備」を施させようとしたのだ。

「天皇以外」に「伊勢王」に向かって、仮に「伊勢王」では無くても永代の格式があって「仕事を命じる事」は「永代の浄大壱位」である限りは出来ない。
例えば、「伊勢青木氏」より格式の低い「太政官の一官僚が命じる事」等が出来ないので、取り分け「皇族賜姓臣下族」と成っている「賜姓臣下族の氏族」に対しては、この「面倒の命令」の「伝達方式」の「因事菅隷」で「天皇の言いつけを伝える事」と成ったのだ。
その証拠に、この時、「因事菅隷」を「伊勢青木氏」だけに発しているのだ。

「伊勢」ではこれに合わせて、前段でも詳しく論じた様に、この為に「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「尼寺の建立」、「伊勢神宮の整備」、「日前宮の処置」、「菩提寺の整備」、「分寺の建立」、「聖域の整備等」、この時期に「伊勢青木氏」は多く手掛けているが、これがその時の「神宮に対する環境整備」であったのだ。
「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「女官の住まい」として「尼寺の建立」等のどれを執っても「伊勢青木氏」に直接的には関係はない。
例え因事菅隷が出ようと関係は無いが出した。
「賜姓五役」や「令外官」としても、又、直接に「神宮の事・国」であっても関係する事では無い筈で、例え伊勢の事であるとしても「国政の事」であって、これを「賜姓五役」を前提に「因事菅隷」で無理やりにやらせたと云う事であろう。
これが“誦習した”の所に合せたとする所以なのだ。
「朝廷の官僚」から観れば「青木氏」は便利な氏族であった筈だ。
「天皇の言いつけ」として「令外官の因事菅隷」を出して形付けて置けば済み、「紀州日前宮の在り様」に合わせて「政治的」にも「経済的」にも何もかもしてくれる便利な「賜姓臣下氏族」であったろう。
元々は臣下したとは言えそのような「不確実な立場」には生まれているのだから文句の出無いところであったろうし「院屋号」を多く持つ「伊勢の50郷士衆の氏族」である。
文句の出せない処であった事は頷ける。

そして、この「紀州日前宮の整った内容」を精査して、更に「見直し」をさせて提出しこれを改めて「太安万侶」が書き写し「712年」に再提出させたとあるのだ。
そして、この「古事記」に初めて、“「酒の事」として「神饌・神の供物」”として申しでて、“誦習を意味して追記して書かれた事に成る。
つまり、「重要な事」として「神宮としての環境条件」が完全に揃っていた「紀州の日前宮」から、余りにも整っていない「伊勢の神宮」に対して「伊勢青木氏」は「それなりの事をしなければ成らなかった」のだ。

注釈 「紀州日前宮]からの「遷宮」には、「神宮としての環境条件があまりにも不整備である事」から、「時期は悪い」として「官僚や皇親族」には反対が多かったと記されている。
この事が“誦習に走らせた理由なのだ。”

そこで、これを“誦習の字の如く「追記した事」に成るのだ。
そして、この事を「伊勢青木氏」が成した「環境整備の事」に合わせて、更に「類題三代格」の「平安中期の延喜式目録」にもこの事を記載し、この事を正式に「令を出した」として遺している。
この事を新たに令として、“「神饌”の神事」として「追記する事」に依り「900年頃に改めて定めている事」に成るのだ。
然し乍ら、主に「神宮移設の設備的な事」が「伊勢青木氏」に依って整えられて進められていたが、ところが「紀州日前宮」に比べて「絶対に整えられない事」があったのだ。
それが、先ずは「米による酒」と「飽浪社の不整備」と「帝紀が定める聖域の条件」が遺っていたのだ。
つまり、この「記録の示す事」には、「平安中期の延喜式目録」の記載の通り、「平安中期・900年頃・712年から約190年間」までは、「この事の示す処」は、飽く迄も、“「慣習」”で繋いでいた事と云う事であったとして、“「正式行事」”としては「定められていなかった事」が記されていた。
これが歴史的な事には成るのだ。
この事は、要するに、“「伊勢神宮時代」”にはまだ「酒は禊では無かった事」を意味するのだ。

では、この“「正式行事」として暫定的に扱われていた期間は何時か”であるが、これには明記はされてはいないが、“「来米の赤米・原種稲」”であって、唯単に、これに「麹菌」を加えただけの“「発酵古来酒」”であった事を示していて、これを以て、取り敢えず“「伊勢神宮の「神饌」”としていた事を示していた事に成る。
始めからではなく追記であって、「紀州日前宮」の様に「正規の酒の神饌」ではなかったのだ。

そうすると、「紀州日前宮と同じ禊の条件」としては、「完全に成り立った時期」なのは、「正規の酒の神饌」が出来る「土壌改良で造った明治初期」と云う事に成るだろう。
ここまでは「正式の神饌では無かった事」に成る。
これを唯単に「伊勢神宮の儀式」では、「神饌」として“「来米の赤米・原種稲」”を伝統であるとして「こじつけていた事」に成るが、上記の記載の事実の通りなのだ。

この「参考の事」に関して、“これは何故かである”が、それを次に証明する。
それは「伊勢の土壌と季節性と地形」にあって、長い間、“「良質米の穀物生産」に向かなかった”と云う事にある。
これは「多くの史書」にも記されている事であって、「列島の伊勢の地形・日本海から吹き下ろすくびれ部分」にあったので、「若狭湾から敦賀を通じて桑名」に「流れ込む乾燥する地形」にあったろうし、又、「列島形勢時の成り行き」から「典型的な花崗岩の地質・糸魚川線を境に左側の地質」であって、この「土壌」では「真砂土壌」であり、保水性が掛けていて、「米生産に向かなかった事」にあるのだ。
どんなに騒ごうと「伊勢神宮」では、「紀州日前宮の環境条件に拭う事の出来ない物理的な条件に多く欠けるところがあったのだ。
この事では、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は、「土壌改良工事」に「莫大な私費」を投じて行われた事が「青木氏の資料や口伝」でも伝わっている。
つまり、この事は「伊勢」には、長い歴史の中で、唯一、「神饌を造る土壌に欠けていた事」を意味し、それを成す「公の財源」に長い間、「伊勢王・地権を7割」で無く成った時点の限りに於いて欠けていた事に成るのだ。
「欠けている神饌」を獲得する為のその「財源」を誰が出すかにあったのだ。
そして、その「工事」そのものを誰が行うかにあったのだ。
前段からも何度も論んているが、「伊勢の事」を良く知っている「古来からの土木工事」は隣の「額田部氏」であって、経験も豊富で、「全国の青木氏との繋がり」は奈良期からで親子の様に極めて深い関係を保っていた。
明治期に於いてでさえ「青木氏−額田部氏の関係」が成り立たなくてはこの工事は成し得ない事であったろう。
明治期には、「額田部氏」は額田に「土木会社」を構えていたし、「青木氏部」も独立して「宮大工の会社」と「施工会社」の「二つの会社」を設立していた。
やっとこの「条件」も私的に成立したと云う事に成るだろう。

結論から、「資金と施工」は「伊勢屋の伊勢青木氏」からの「出資と施工」と成ったのだ。
これを成す「額田部氏の施行工事業者」が引き受けてくれるかであった。
先ず、「広大な地権」を「基本域」にして、それに伴う「干拓灌漑と土壌改良」を行い、問題はそれに接する地域の干拓灌漑をどうするかであってもその数は「約3割の地権者」であった事が伝えられている。
この時、未だ「伊勢の大字の約7割・地主」は「青木氏の地権域」であったと伝えられ、これを主体として工事を行えば、後の残りの「約3割を債権補完の干拓灌漑」に成り続けて「帰依した事・約定」に成った伝えられている。

注釈 「明治6年から明治12年」にかけて「地租改正」を行い、「地権者」を細かくして「土地売買を自由にする事」と成ったのだ。
「伊勢」も同然であったとされ、そして、「地租の現金化」を実現した事が記されている。
ところが、この時の「伊勢の 地租改正」には、「地権域」が多くとも3割と成っていたと記されている。
全国的には「土地の私有制度」と「明治政府の財政的基盤」を確立させた事として効果があったとされるが、全国的には伊勢は低いものであったと記されている。
この時期のこの「地租改正」には、「伊勢青木氏の干拓開墾」は当然にそれは「氏族・郷士関係」が働き、その「独立対策」の為にも先ず「伊勢青木氏の開墾と投資」で行われたのだった。
「地権の7割」は元より「古来からの女系血縁の氏族50郷士衆」の管理下にあって、これに対してにも「干拓灌漑の工事や米種の開発等」を先んじて行ったとある。
「残りの一般3割」は「伊勢村主200人衆」に解放されていたとある。
其の後の経緯として大きくは、その後に行われた「戦後の農地改革開放」で、この「灌漑干拓が済んだ地権」ともに全てを「伊勢郷士50人衆の氏族」に「無償」で引き渡す結果としたのだ。
「神饌」を獲得する為の「干拓灌漑土壌改良の効果」が、これで遅れて「戦後」に広く齎される結果と成ったのだ。

これは「当時の流れ」としては「氏族であった事」から当然であった。
要するに、「稲作を可能とする域」の「土壌改良工事/干拓灌漑工事」である。
さて、そこでこの「伊勢での米生産の為の大工事」は、口伝とその記録と郷土史に依れば、「明治期の中期頃」に「筆者の祖父の弟」が「信濃と越後の青木氏の親族」に修業して帰り、「伊勢の土壌と季節性と地形・額田部氏協力を仰ぐ」に合う“「米種の開発」に先ず長年に掛かけて成功したとあり、この為に「倒産寸前」までの「莫大な私費・資本」を投入したとあるのだ。
この時、「青木氏の中」で意見が大いに分かれ、結局、話し合いで「四家の福家」を「実行派の弟」」に譲ったとある。
この時、合わせて「火災」にも見舞われ「先の福家・祖父」が責任を執ったと云う事もあり、又、「明治期の大富豪ら」に向けられた「体制側の嫌からせ」もあって、「福家の権利を窯の灰」まで譲ったとされる。

それが“「米種の開発」に成功し続けて、その後に「日本」でも初めて「米と酒の早場米の開発」にも手掛け成功していて、その「米種等」には「実行派の弟・祖父の弟の名」が着けられている。
その結果、それまでは、「お神酒の神饌」に就いては、古来では「伊勢」では「悪質な土壌・真砂」でも出来る「古来米の赤米・原種稲」であったとされ、それが、「唯単に麹菌を加えてだけの発酵古来酒」を造っていてそれを「神饌」とされていた事が書かれている。
「伊勢青木氏」が「古来の伝統」としてこれを引き継いできていたが、これを「実行派の弟・祖父の弟の名」が自ら「福家」と成って、最後の一つとする大環境条件を変えたのだ。
この結果、「伊勢」ではそれまでのこの「福家であった祖父への呼称」が代わり、「福家が代わった事」で「御師」や「氏上さん」から、新たに「徳宗家・徳宋家」と呼ばれる様に成ったと記されている。
これには「長年の伊勢の願い」であった「米の出来る土壌改良」に「伊勢を変えた事による感謝」が基本にあったとされるのだ。

この古事は、「712年とする古書の内容」の経緯と一致しているし、「900年頃の慣習」の経緯と一致している。
それ故に、この「古来酒」は、“「禊(みそぎ)の品」とは成らず、当然に「神饌品の域を超える事」が「明治中期」まであり得なかったのだ。
簡単に「伊勢の土壌と地形と環境」は替わる事が無く、「伊勢神宮」である限り「他の地の酒の神饌」に上がらう事も出来ず、必然的に「禊への品を超える事」は出来なかったのだ。

では、どうして「平安中期頃」から正式に「神饌」と成り、「禊の品」へと近づいたのかである。
普通では、「土壌改良をしなければ成し得る事」は無い筈だがそれが成っているのだ。
それは、上記した様に「禊の品の前提」には、古来から“「薬用」とする大前提”が強くあった。
「紀伊国」から「伊勢国」に遷宮した以上は、「お神酒の神饌」は「紀伊国」では出来ていたのに「伊勢国」からも出ていなければならず、「遷宮の環境条件」として「不整備」であった以上、それが「天皇の悩みの種」であったとしていて、その「切っ掛け」としていたのが、上記した「天武天皇の古事記の見直し」にもあった。て、その為に努力したが、結局は少なくとも「平安中期」にまで、「伊勢神宮の神饌」として「類題三代格の記載」の通り「正式決定を持ち越した」のは、この「定める根拠が無かった事」に依るのだ。
「遷宮に於ける環境整備の不備」はここにあった。

では、それはどういう根拠なのかである.
そこで、取り敢えず「禊の品の前提」の“「薬用」とする前提”を古事記の“誦習で追記して補って使ったのだ。
これを米どころの「紀伊の日前宮」で国で行っていた「神饌」を、“「伊勢神宮の神饌」”とは成らず、それだけに一段落させる事として、これを“「薬用」”とすれば、「伊勢米の赤米」の「良し悪しや量」に関係なく、“「薬用」とする前提”として、又「禊の品の前提」として「伊勢」でこれを“「殖産」”とすれば、兎も角も何の問題も無く成る事に成る。
これが「上記の古書」に記載する“「慣習と云う形で引き繋がれた事」”を意味するのだ。
つまり、この“「薬用」”にすれば、「良し悪し」は関係なく、「量」を多くし「殖産として生産」できるとしたのだ。
これを「伊勢青木氏の殖産の末」に依って成されたという事である。

ここで、“「この事」”で「大きな史実」に一つ気が着く事がある。
“この「禊の殖産」を「伊勢」で進めていたのは誰か”である。
これがこの「259年の間の伊勢王の務め」であったとすると、「神饌の位置」から「薬用の禊の品」に「帝紀などの決め事」を移させたのは、「施基皇子の後裔の青木氏」であったと云う事に成る。
記録に観る様に「紀州日前宮・官僚の反対が多かった」から、まだ「日前宮」に比べて充分に「遷宮」に対する「環境整備」が整わない侭に、「不完全な遷宮とそれに伴う因事菅隷の殖産を無理に進め差した天智天皇」と、それに依って「歪み」が出たのだ。
この事に気づいて「古事記等の誤りの修正を命じた天武天皇」と、平安中期に「神饌決定と薬用の名目と禊の品の殖産の前提」を、「施基皇子の後裔の青木氏」に「因事菅隷」として命じたのは「仁明天皇」であった事に成る。
だから、「平安中期」なのであって、その役に立つ「青木氏の裔系」を再び「賜姓と云う形」で拡大させたのが「円融天皇・960年の賜姓」であったのだ。
兎も角も、「賜姓族」と云う「天皇の繋がりとしての氏族」を身近に多く整える事に政治的にも経済的にも必要に迫られていた事に成る。

注釈 だから、「青木氏の裔系」のこの論じている「青木氏の歴史観」の「時代の進捗」から「嵯峨期の策」は間違っていたと後裔の筆者は論じている。
朝廷の周囲もそのような環境にあったにも拘わらず、逆に敢えて一時的に感情的に成って便利な賜姓族や皇親族を外したのだ。
「紀伊日前宮」から「伊の勢の国」に移す事は「大反対」を受けていた事は多くの記録にも記載があり、この為に暫くは「伊勢神宮としての準備」が滞った事が記録されているのだ。
一時、「放置された時期」があって、「天智天皇崩御後」に上記した様に「天武天皇」が「神宮としての体制」を整えさせ、その間に「神宮」に絶対に必要とする「浜の宮の海神の神」の「飽浪社・飽津社」も一端先ず日前宮から切り離し、「六十九の遷宮」の「神宮全ての絶対条件」として定められていた「日前宮の神域御領」をも半減させて、「神宮の資格・格式」を落として、「伊勢に移すと云う事」をして、「伊勢の神宮の体制限界」に合わせさせてこれを整えたのだ。
「安芸から始まった遷宮社の約六十数社」の「元の遺った全神宮」は、「有史来」から元は「飽浪社・飽津社」が源である。
もっと云うと、「人類の神の祭り」は元は「飽浪社・飽津社」から始まったのだ。
それ故に、少なくとも「飽浪・飽津の岬」、即ち、「半島の先端の波うち際」の頂上に「海」に向けて「祠」を設けて祀り、ここを「神の居住」として迎え「満月の夜」に「お神酒・神饌」を捧げて歌い踊りして「神」を楽しませて迎え入れたのだ。
其処が、「飽浪の飽津の岬と呼ばれた事」から後に「飽浪社・飽津社」と呼称される様に成ったのだ。
この事がこの「帝紀」に書かれていた事から、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」とその「半島域を占める御領」は「神宮の最低条件」であったのだ。
だから、当時はこの「飽浪社・飽津社・飽津の岬」の無い「伊の勢国の宮」は「天皇家の本来の宮」では無いとされていたのだ。
「神宮の祭りの源」は、「飽浪社・飽津社・飽津の岬」から始まっているのだから「神宮の環境条件」では抑々無いのだと世間は騒いだのだ。
又同時にこの「源の飽浪社を保護する杜」も「聖域」として「環境条件」とはなっていないのだ。
此れが「伊勢」では大きく欠けていたのだ。

未だ「決定的な条件」として「神宮」には「幾つかの条件」が完全に欠けていた事があった。
例えば、「神宮は南の小山を背に北向きに建てられる事」
「神宮の右傍らに神宮を清める小川が流れいる事」
この「小川」を「紫の川」と呼ばれ決して「濁らない川である事」
以上等の「細かい設置の環境条件」が帝紀などで定められているのだ。

故に、この「伊勢の遷宮」に大反対を受けていたのだが、ところがそして、これを「二人の天皇」が「ごり押し」をしたので、暫くは「伊の勢国の遷宮」は進まなかったのだ。
現在の「宇治館町1」にある「7世紀に建立された跡」は、この時の「不備の建物」であってこれを観ると確かに「上記の建設条件」は全く整っていない。
それを直せる処は直しても少し横に建立したのだが、「決定的な上記の条件」の「飽浪と飽波社と飽浪祭礼」やそれを成す「聖域範囲」は依然として満足していないのだ。
それを「天武天皇」に成って、兎も角も、「妥協の神宮」を造り上げたが上記する様な「矛盾」が多く出たのだ。
そこでどうしても出来なかったのは、この「「飽浪社・飽津社の移動」であった。
そこで、どうしたかであり、その策が「神宮としてよく無い・姑息だ」として批判を受けたのだ。
この「飽浪社・飽津社」のある「日前宮」ある「紀州浜の宮大御領」を「日前宮から切り離す事」を先ず考えた。
何と“「切り離し」”て「神宮の要件」を敢えて下げて、「伊の勢国の遷宮に移す事」に兎も角も書類の上では成功したのだ。
「長い間の「神宮であった紀州日前宮」が、「朝廷の神宮」とされていたが、この比較する「神宮の存在が紀州では無く成る事」で、「大反対の官僚族」は別としても一般の民の反対をも避けたのだ。
「西域に存在する御領域」は、「日前宮の方を小さく切り離する事」で兎も角も解決したが、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」の前提の「飽浪社・飽津社を切り離す事」でも妥協したが、「飽波社の存在」と「神饌」だけは無理であったのだ。
それが上記に記した「古書」に記されている「900年頃」までは正式に決められなかったとする事由であったのだ。

注釈 これ等は何度も角度を変えて前段でも論じた事であるが、実は「万葉集」にもこの事で何句にもこの「切り離しした浜ノ宮の存在」を「哀しげな歌」で読まれているのだ。
これは平安期になっても長くこの事が人々の心に残っていた事に成るのだし、当時としても長く大変な話題であった事を示している。
万葉集以外にも天皇等の熊野詣でも郷土史でも数えきれないほどに哀歌として詠まれているのだ。
受け取り方では批判的にも詠みとれる。例として次の歌がある。
・・・和歌の浦 潮満ち来れば片男波 芦辺を指して 田鶴鳴き渡る・・・
此処は日前宮も含めて名所旧跡の地で、歌の裏には哀歌の意味が込められているのである。
後の世迄この様に批判されているのである。

では「歴史の経緯」では、どうなのか。
この平安期の“「900年頃」まではその後に全て決められたのか”と云うとそれは明確ではないのだ。
この頃に関連して「伊勢の経緯で決められた事」と云えば、「円融天皇の藤原秀郷流一門の第三子に青木氏を永代に賜姓する事を義務付けた事」だけである。
これが「伊勢神宮の神饌等に関わる物」なのかである。
それまでに「伊勢」では、「多気の斎王館」とそれに関わる「女官などの管理システム」等を構築して「青木氏に依ってこれを補完する体制」を整えられている。
これを「伊勢青木氏」から観ると、依然としてこの「神饌」は解決されていないのだ。
「伊勢青木氏」だけに拘わらず「信濃青木氏」と「秀郷流青木氏」にこれに関わる補完が成されていたのでは無いかと観ているのだが、そこが歴史は定かではない。
つまり、「朝廷」に於いてでさえ「伊勢での正規な神饌を造り出す為の干拓灌漑と米種の変更等」は、到底、「その全ての必要とする能力」が揃わなければ容易に成せる事では無かったのだ。
鎌倉期、室町期、江戸期での「朝廷の力」は到底無理であるし,幕府も同であるかも疑問であった筈である。
そうすると、既に「伊勢王」ではない「伊勢青木氏」しかない事に成るが、「3幕府期間」に於いて「巨万の富」があったとしても無理ではなかったかと思わせる。
それは条件が揃っていなかったのだ。

況して、「唯一これを成せるの専門土木業の額田部氏の協力」を得られなければ成す事がならなかったのだ。
3幕府期間はこれは何故か無し得る条件は揃わなかったと云う事であろう。
推測の域を出ないが、「奈良期後期・光仁期」に一時遣ろうとしたのではないだろうか。
ところが期せずして「多くの皇族の者」が死去して「額田部氏は古墳群の築造」に追われた。
そして、又、「平安遷都・桓武天皇」が行われたが、この時に事件が起こった。
この「額田部氏」は、「平安遷都築造の命令」に従わず罰せられた。
此れを密かに「伊勢青木氏」が北勢に一族を匿っていた。
当然に、「匿っていた伊勢青木氏」も「伊勢の事」には手は出せなかったのだ。
そして、遂には「伊勢青木氏」も「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」を外されたのだ。
依って「伊勢神宮の事」は万事窮すであったのだ。

注釈 この様に、“「余りにも長い間の神饌が無いという事」”は“それなりの「より良い妥協策」を青木氏の中では済ましていた”と言う「仮説」が成り立つ。
その「仮説」が、「酒の本場の信濃・青木氏」から「代わりの神饌」とし密かにて運んでいたと考えているのだ。
将又、「武蔵の秀郷流青木氏」から「伊勢青木氏に届いていた事」も考えられる。
だから、「莫大な私財」を投じて「明治初期の祖父の弟の酒米と早場米の開発」を縁戚の「信濃と越後」から習い「伊勢」に広めて「初めて神饌」が成立したのだ。
この事の詳しい事は直接詳しく口伝で耳にも伝わっている。

注釈 「青木氏の伝統 33」-「青木氏の歴史観-6」や25等で多く論じている。
「神饌の経緯」としては上記の通りであろう。
こう云う事から「伊勢神宮」にも貢献して関わっていた事から、「賜姓族の格式」とは別に「伊勢青木氏」は、平安期には「氏上様」「御師」と、明治期には「室町期の律宗族」から“「徳宗家」”と呼ばれた所以と伝わっている。
事程左様に、何度も論じるが、“「お神酒の経緯」”には“「神饌・神への供物」”で扱われていた事が事実だが、“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事だ。
「奈良期の古来」では、「神饌扱い」ではあったが、「禊扱い」では無かったという事だ。
そしてその「誤りの多さ」に気の着いた「天武天皇」が、「古事記全体の見直し」を含めて「帝紀」として見直す様に命じたが、その中でも「正式な儀式の事と禊の事」として定められたのは「900年頃」であり、それを遅れて「延喜式目に書き写した」と云う事なのだ。
「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」は外されたが、「伊勢を含む信濃と武蔵の青木氏」はこの経緯を知っていた事に成る。
もっと云うと、「有史来の神の式次第の供奉品の神饌」を「900年頃」まで中途半端にしていたのかと云う疑問がある。
そもそも「賜姓五役の令外官」として「朝廷の内部の式典」だとして放置できるのかの疑問が残るのだ。
それも「647年から900年までの253年間」の近くも「放置」は前段で論じた様に「伊勢」では実質の「伊勢王」であった以上としても、この「神宮の件」を放置は出来なかったであろうし、できないとする考え方に無理が無いだろうか。
少なくとも何某からの補完をしたとするのが普通ではないだろか。
例え、「嵯峨天皇からの賜姓族外し」に会ったとしても、これを「側面から補完する者」は「伊勢青木氏以外」に果たしていただろうか。
「伊勢の青木氏」を無視してそれをする事が周りの者ができたかである。
「永代の賜姓五役の役目を持つ令外官」であったのに伊勢に余計な事する者はいなかった筈だ。
仮に居たとしても「神饌」である以上は、誰て勢も扱えばよいと云う事には成らない。
それなりの格式を有する必要があって無理であったろう。
そうすると出来る事は、「赤古米の蒸留酒」では無く「信濃の神饌」を「伊勢」に秘かに運ぶ以外には無い。
「信濃の神明社の祭司」は、前段でも論じたが「伊勢神宮の御領」に負けじと劣らず広大な物で、其処でこの「信濃御領で神饌として造られていた」のだ。

注釈 この「信濃御領」は、「享保の吉宗」に依って半分以上は奪われ、この時を以て「伊勢と信濃の青木氏」と決定的な犬猿の関係と成った。
「諏訪−塩尻−松本−青木−上田−東御−小諸−佐久に至る囲まれる御領」であって「青木村で造られる米」から「神饌」を「信濃神明社」に奉納していたのだ。
此れを密かに「伊勢」に廻していた経緯であろう。
然し、「吉宗に神域の御領」を奪われれば、それもできなく成って仕舞ったのだ。
「伊勢と信濃青木氏の親族の仲」で、「信濃」にもこの「神明社の神饌」があって、それを「伊勢に廻さなかったと云う事」は先ず無いだろう。
不仲であったとするのならいざ知らず、「完全な四掟の前提を超える血縁関係」にあれば、「神饌に困っている伊勢神宮・伊勢青木氏・伊勢王でなくても」と成れば先ずいの一番に救うのは必定な事に成るだろう。
それが「享保期のこの事件」で出来なく成ったと云う経緯では無かったかと想像は容易に着く。

注釈 この事件もこの「天武期の紀州日前宮の前例」があったからではないかと思われる。
「江戸期の朝廷」がこの信濃の聖域を管理管轄内であった筈でそれを容易く認める事は無いだろう。
「朝廷・天皇家の生活に関わる程の圧力は脅かされる程のものがあったと考えられそれが「天武期の前例」を言い立てられた可能性があるのだ。
だから、未だ「江戸の青木氏・伊勢屋」に攻撃の無い内に「3日以内」に船で伊勢に引き上げて籠もり「紀州藩の保護・家臣の伊勢藤氏」に入ったのだ。
「紀州藩の勘定方指導の立場」にあって「10万両の債権」も持っていたし、「伊勢青木氏」は「蜜月の関係」にもあった。
「10万両の債権」は吉宗を「将軍」に仕立てる為の「軍資金」と「江戸経済の救済金」等のものであった。
「改革の30年後・吉宗死の直前・旗本騒動」には、ある日突然に「信濃青木氏」に手を出し「聖域や殖産や一族の者」を奪う凶変したのだ。

注釈 丁度、この時期に「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」に及んだのもこれらの「環境整備」をよりよく整えようとしたのでは無いかと観ている。
“「神饌」”であったものが“「薬用」”と成って行ったが、この同じ「薬用の植物油」に戻して、
ところが下記の通り「殖産物」の「禊扱いの薬用の植物油」では、古来より「桑名の米油」が「神饌」として扱われていたのだ。
これは逆に「良質の米」が採れず、その「貴重な米」を松阪域では無く、態々「桑名の米油・長良川」に一時は「飽浪社・飽津社の岬の条件」には外れているが「伊勢王」として考えたと云う事になろうか。
「伊勢青木氏」は、それを獲得しようとしたか「三野王」に[飽浪王と淀橋王の二人」を続けて嫁がせている。
ところが、「飽浪王」は「美濃」との「格式」から合わず別居独立し「飽浪院・清光院」を建てて、その地を伊勢の「施基皇子の字名」を用いて「一色」としてここに一族を構築した。
同然で続けて「妹の淀橋」も嫁すが合わず清光院に入り一族として過ごす。
これが前段で論じた「後の額田青木氏」が後裔である。
もッと云えば、これはそれ故に「伊勢の米の収穫」より「北勢」より南勢に向かって下記の通りにより進んで収穫は「植物油等」に特化して行った事を示しているのだ。
この「特化の植物油」はそれ程にいせ領域では重視していたと事に成る。
当時としては「珍しい事」で他の資料には散見できない事だ。

注釈 古来より「神宮」に奉納していたとするその「薬用の植物油」は次の通りである。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
以上
この以上と「伊勢一国」に「神饌が無い事」からそれに代わり得る「植物油の殖産地」として成り立って行った事を物語り、これは「神饌が無かった事」を物語り、それに関連する情報とその後の経緯は実に多いのだ。
当然に「薬用」とする以上は、「伊勢一国の販売」では成り立たない。
そこで伊勢は「殖産としている禊の品」でありながらも伊勢だけに限らず「殖産した禊ぎの物」を全国に販売する伊勢詣での土産品に及ばず「全国的販売システム」を造ったらしい。
新たに販売システムを造ったかは疑問で、前段でも論じている「伊賀者」をより「香具師・情報網」に育てあげて、全国に販売網をより広げたと考えられる。
それがその古来より「青木氏の諜報機関」としてあった「香具師の存在」のシステムに載せた。
だからその経緯から観て、「禊ぎ品」は疎か「禊ぎ品」がこの「全国的な殖産品」に成ったものである限りに於いては「全国の香具師の販売網」に載っていないので、「伊勢」には「適切な神饌・日前宮の神饌相当」は無かった事はここでも判る。
此れだけの限られた「伊勢民の人員」を「植物油に割けた所以」は、「伊勢の米の収穫の無さと良し悪し」にもあった事が否めないが、それよりも“「薬用の油の禊(みそぎ)の所以」の方が強かった事に成る。
「薬用と云う名」の下に「伊勢神宮の禊」と云う事に成っている事以上に“その効能は信じられていた事”に成ろう。
これは「神饌が伊勢に無いと云う事」が、「禊の薬用に特化していた事」を示し、その間は確証は採れないが「信濃」からの「良質な神饌の補完・状況証拠」で賄っていたのであろう。

注釈 この「食用油などの殖産品の販売」を影の仕事していた 「香具師」について、この「平安期初期頃」から「伊勢」からは「油売りと薬売りの者」が全国に廻るとした記録がある。
そして全国各地に今で言う「チェーン店」を置いていたとする記録もされていて、「伊勢の伊賀青木氏の記録」にも遺る。
これを担ったのが、「伊賀青木氏」で明治中期迄この組織が働いていた事が記録に遺っている。
この「働き」をしていた「伊勢青木氏」を、“「香具師」”と呼ばれて「江戸期前後」では「甲賀者」と「江戸」でその「情報機関」としても「勢力争い」で張り合い、「情報収集専門の忍者」としても働いていたのだ。
云うまでも無く、何故、「植物油」が「禊(みそぎ)の所以」であったかは、この資料から読み取るとこれも上記のそれは“「漢方薬」”と云う「括りの点」にあったのだが、この「禊(みそぎ)の所以」には、当時としては“「食用」”と云うよりは、殆どは“「薬用」”に重点が置かれていた事であった。
その効果が「情報収集専門の忍者」とも成っていたのである。
この「伊勢殖産物の漢方薬と禊の品と食用品と忍者」がこの全国システムの所以を必然的に構成していたのだ。
現在では使われなくなったが「傷口や火傷や被れや腫れ薬等」として江戸時代から昭和の末期までは利用されていて、「香具師の呼称」からも「香具師と呼ばれる範疇・家庭常備薬」にあった事が解る。
地方に行けば現在でも「植物油の椿油等」は、一般的に油紙に浸み込ませて「傷口の防菌剤」など多様な薬用剤としての扱いに成っていたのだ。
其の後のこの「伊賀青木氏の香具師」は、現在に於いても関東以西に「漢方薬の薬屋・薬局」として定着した事が判っている。
つまり、要するにこの「禊(みそぎ)の所以」は、この「香りする植物油」も、「薬用となった神饌のお神酒」も結局は「疫病の防疫であった事」に繋がっているのだ。

注釈 その意味で、「伊勢青木氏の始祖の伊勢王の施基皇子」から始まったこの「禊(みそぎ)の所以」の“「殖産」”に対しても、この「植物油」も“背に腹は代えられず”に室町期には“「銃開発の冷却剤・魚油/殖産の工業化」にも使った”と云う事を物語っているのだ。
当然に、これには「皇親族」で“「令外官」としての「特権」”を以てこの“「殖産」”を進めていたのだ。
故に、この「薬用や食用油の歴史」は、その途中では「・嵯峨期」には抑えられたが、この「時代・7世紀頃」からの「伊勢青木氏の裔系」が画する「青木氏部の殖産品」であったのだ。
この「禊の歴史的な経緯・流れ」から観るとこの「植物油」は「禊品の殖産」に対して大きな重要な位置を占めていたのだ。
だとしても、「伊勢青木氏と平安期の嵯峨天皇との対立」も今この事で「青木氏の殖産をした後裔」として考えて観れば、この“「禊(みそぎ)の所以」”の「植物油」にも、「疫病の防疫の点」では古くから影響していたので、「嵯峨天皇派」に執っては「単純な事」では無かった筈であろう。
その一時は「伊勢の出自元」に感情的に成って強硬に出たが、上記する「伊勢神宮との軋轢と問題噴出」もあって、結局は最終的には「伊勢青木氏の力・出自元」を借りなければ何とも成らず「妥協策」に出る以外には無かった事も考えられる。
果たして、「嵯峨天皇派」にはこれらの殖産もしている青木氏に対しての“「賜姓族外し」”には、最早考える余裕など無く、思いつく侭に遣って仕舞ったと云えるのでは無いか。
この「禊」がそれを物語る様だ。
そもそも「伊勢神宮・朝廷」としての護らなくてはならない「疫病の防疫の点」とその「朝廷の権益」と、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に対して、「植物油への権益・伊勢殖産全ての権利が握られていた事」への「朝廷の反発・皇親族外し・怨嗟」も「嵯峨天皇派」の当時には強くあり過ぎたと云う事であったのであろうか。
「伊勢神宮の神饌と禊の問題」と「伊勢神宮の環境整備の問題」が潜在するにも拘わらず、「院号・特権」とその「権益」とで、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に「独占されていた観」があって、それを無視した「嵯峨天皇とその派の官僚族」に頭から拭えなかったのであろう。
この時、「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は、「伊勢青木氏の思惑・経済的」に一切が委ねられていて進まなかったのだ。其れなのにである。
だから、もとより「朝廷自らが経済的負担をする事」であればいざ知らず、それを「伊勢青木氏」に任した侭で「嵯峨期後の900年後」まで青木氏に押し付けた侭で一切の解決は無かった事に成るのだ。
伊勢青木氏に与えられていた「院屋号の特権と格式」はそこまでの物では無かった筈だ。
歴史の経緯はつまりは見かねた「出自元になる仁明天皇」と「円融天皇」がこれを「政策」で補足してと云う事に成るのではないか。
現実に「源氏」は「嵯峨期」からであるが、この「神宮の遷宮の環境整備問題}には一切に手を出していないのだ。
この事に突いて「幾つかの記録」が遺されていて、「清和源氏の摂津源氏の本家の源の満仲」は近畿周辺の隣の「寺の荒廃の修復」と「院家の修復」を一手に修復する様に命じられたが、たった「一寺」だけを直して「命令の願下げ」をして最終は不興を架って「蟄居」を命じられる破目と成っているのだ。
「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は「伊勢青木氏の思惑・経済的」に比較すればどれだけの物てあったかは物語りそれが現実だったのだ。
現実に、「源氏」の居る前で「神宮の遷宮の環境整備問題}に苦労して取り組んでいたのだ。
此れを観れば記録にある「摂津源氏の命令の願下げ」がどれだけの意味を持つかは判る。
況してや味方とする「嵯峨天皇が下した源氏臣下族の9つの縛り策・禁令」を守らずにである。
その意味で「伊勢青木氏」と「11の源氏」の間では「蟄居が出される程」に際立っていたと観られる。

さて幾つかの注釈から「神宮の遷宮の環境整備問題」に取り組んでいた中で、上記の「伊勢殖産全ての権利」を握っていた「奈良期初期」から、「室町期中期」までには、この時点で「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・工業化・殖産化」<「食用」の「一連の流れ」に沿っていたりだ。
更に「北勢」の「伊勢」では「下記の植物油の増産」にこの「神饌の代わり」に入っていたと考えられる。
所謂、朝廷の態度に見切りを建てて、「伊勢」では早々と「モードの切り替え」が起こったのだ。
その後にその「産量」に合わして大いに「食用」にも間口を広げ「関西」にも広げたのでは無いかと観られる。
寧ろ、奈良期からの“「産量」に合わして”では無く、鎌倉期末から室町期までは“「需要」に合わして”に突然に変化したのでは無いか。
それはこの「食用油の流れ」にあったと考えられる。
何故ならばこの「造り出された流れ」には、「食用に到達するまでの要素」には、絶対に「消費者」が「購買」に飛びつく「信用できる絶対要素」を持っていなければならないからだ。
それが、“「伊勢神宮」から発する「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”が伊勢を超えて関西域まで「食用に繋がる要素」があった事に依る。
前段でも論じたが、この根拠が、“それが一瞬にして「大阪」「京都」「堺」に「食用」は宣伝もしないのに爆発的に広がった”と記録に記述されているからだ。
そして、その「切っ掛け」と成ったのは何と“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」であったのだ。
これが一挙に解決したのが「みかん畑の効果」であって、それが消費者の心に「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の補償を与えたのだ。
そして、“流石に御伊勢様”・御師様」と成ったのでは無いか。
その証拠に、遅れて「関東域・江戸」にもこの“「天害」”は拡がり起こったが「江戸」にはこの「食用」は不思議に広がらなかったのだ。
これにはある理由があったのだ。
「江戸」は“「50年以上」”の近くも相当遅れてやっと「薬用効果」も何とか認めて「食用」としても又広がったのだ。
これには「伊勢の香具師の活躍」は最大と成ったとある。

注釈 参考として前段でも論じているが、この様に「青木氏の歴史観」で観ると、「食用油への転用」は、「食文化の関西で広がった事」が最初に「記録」として出て来る。
これには「ポルトガルのテンプラ」が最初であるとの「通説論」があるが、然し、経緯を観るとその前から「関西域」では、「薬用」として「油で炒めて食する事」で“「疫病が防げる”として、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”で既に広まっていたのであり、「時系列が合わないテンプラ説」は、極めて一般論であって、「江戸期の鎖国のポルトガル文化の伝来説」で引きずられたものであって、「時系列」では「70年弱」も合わないのだ。
実際は「年代の時系列」を調べると、この「ポルトガル文化の伝来」では無く、矢張り、「関西」と同じあって、「場所」も「江戸での記録」が別にあって、“「関西の天害説」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」で引き興されたものである。
依って、「ポルトガル文化」では無いのだ。
それも「ポルトガル説」には、「薬用から普及発生した関西型」ではないのだ。
「遅れての江戸」に成って、“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」が遅れて関東でも確かに起こるが、“「油粕の対策」を提案したが、暫くは採用されなかった”と資料には記されているのだ。
だから、「関西と関東」では「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」の所以があって、「江戸のバッタ被害事件」は「70年の差前」があるので、この「ポルトガル説」は当たらないのだ。
「関西」では、飽く迄も、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の関係式の根拠からであって、それは「食用」には、飽く迄゛も、“「味」を付けて「薬用」とされる処から、つまり、その行為は、元は“「食用油・薬用油」から揚げる”から、その名を以西域から鹿児島までに於いて、“「付け揚げ」”と呼称された由縁からのものである。
元は、「油脂で熱する事で食物の菌を殺す事」にあって、先ず「薬用」を課せ食用にしたのだ。
当時は、要するに「天麩羅・テンプラ」に拘わらず、“「疫病」”を恐れての「食用油・薬用油」を「全ゆる料理の使用」にあったのだ。
それなので、総じて関西以西では“「付け揚げ」”と呼ばれていたらしい。
関西以西は、今でも魚を崩して練って固めてするので殺菌をする意味からこの食用に食用油は使われ始めたのだ。
この「元の意味合いの名残」が残っていて各地では「地名」まで遺っているのだ。

飽く迄も、全ては「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”であったが、「関東」では当時以前より「日本全国主要生産地の80%」は「水戸」にあって、「関西域」には伊勢の様に「集中生産地」は無かった。
それ故に、「食用にする種」は、関東では「胡麻油・縄文時代に呉国から朝鮮を経て出雲地域に渡来」ではあった。
「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し、伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”でひろまったが、その為に「胡麻食用油」は関西域にはひろまらず「江戸」であったのだ。

注釈 古書には「麻」とはそもそも“種より油を搾りだす食物”の事を云うとあり、これを「麻」と云うのだ。
その事もあって、関東では当初より「薬用植物」として扱われずに「油用植物」として扱われていたのであった。
本来、「漢方薬などの薬用」に使われた「菜種」とは元来違う処があるのだ。
ここに、“根本から関西油と関東油では違う処があった”のだ。
そもそも、絞り粕は「バッタ事件」に使っていたが、銃にはどうなのかと云う疑問である。
その為に「伊勢」では次の「薬用油」しか生産されなかったのだ。

「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」

注釈 この「胡麻」は「日本」では「縄文時代の出土事例」があるが、既に奈良時代には「畑の栽培」で、「ゴマを圧搾」し、その「ゴマ油」を「食用油」として調理し、又燈油としても用いていた記録が早くから記録にはある。
記録的には「平安時代の類題三大格式の史書」にも、「ゴマ菓子や薬用利用」に付いて記されている。
その「効能」は「ビタミンE」であり、抗炎症作用、抗酸化作用、酸化ストレス抑制作用があり、所謂、「体のサビ取り効果」である。
要するに薬用である。
主に其の産地は「強いアルカリ土壌」と「温暖な気候」にあり、従って「鹿児島県と沖縄県」が産地に適しているとある。

注釈 然し、歴史的に古い伊勢一帯には、上記の「油粕」が出ていた事に成り、これが「肥料の効能の良さ」を知らずに一帯に捨てられていた事に成る。
云わば、これら「一連の事」で、「伊勢青木氏」が、「油粕の事」から「窒素リン酸カリの肥料三要素」を発見した事に成る。

さて、話を戻して、
「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・殖産の工業化」と云う目的が、更にはより「食用」の「流れ」に沿って「食用油」は使用される様になったが、この生産しても追いつかない程の中で、「室町期の銃の冷却材としの活用・工業化」と云う事に直面していたので、そこに難しいものがあったと伝えられいて、これを特記して置く。
それは「薬用」から「工業化・殖産産業」への「切り替え期」でも、「銃にも使うと成った時」、「銃」に限らず「伊勢の工業化」に使用する事には、当時は未だ主に「冷却・工業化」に使うのだが、「可成りの発想転換」が「伊勢ならではの事では必要とされたらしい。
これは「青木氏だけの問題」では無く「伊勢全体の同意」が必要であったろう。
然し、それは「氏族の氏人」には同意が得られるとしても、「銃の事・工業化」が「世間の表に出る事に成る事」には好ましくなかった。
だとすると、行き成り「薬用」から「冷却剤・工業化」への転換に、この間に「伊勢青木氏」には何かあったのでは無いかと予想できる。
その侭では行かなかったであろう。
「伊勢青木氏」ではこの「世の工業化の中」で、何れにしても「銃の欠点の最終の解決策」には、この「油の液体に関わっていた事になる」のである。
だから、それまでは「備長炭の灰の灰冷却」であったものが、何れにしても再び「水」を試し、それでも駄目で、そこから「油と云う液体・食用油」に発想を向けたのであろう。
丁度、その時期が既に「食用油の殖産期・工業化」に入っていて、余計にこの「食用油」に目が向けられていったのだ。
この“「油の液体」がどの様に冷える”かは判っていなかったが、「冷却と云う機能」がどの様に転換する何かは判らなかったのである。
「水」から「灰」、そしてそ、そこから再び「水冷却」に移り、そこで丁度良い液体」の「油に発想の転換」をしたのである。
「液体」であれば、先ずは「水」、この「水の機能」が「油」にどの様に転換する為の何かが必要であった。
その「違い」には、「資料と経験」から「冷却の速度」の「質の関わり具合」である事を知った様であり、此処にはその「媒体」が存在して、その「媒体」が“「冷却の熱」をどれだけ早く吸い取るかの問題である事”を知った事であったらしい。
この事が資料の表現から読み取れるが、「初めての事」であって「大きな疑問点であった事」が判る。
それは現在理論で云えば、その「冷却剤」の持つ「吸熱速度」とその「比熱」と云う事に成る。
それが上記で論じた様に、「油の冷却」は「水と灰の中間の媒体」と云う事に成る。
そもそも「水と油」には、「1/2の関係」にあり、「科学的冷却」には「論理的」であり、当時としては「食用油の使用の発想」は、「殖産をしている立場」から利用できるのではと判らない侭に飛びついたのでは無いか。
それが「室町期初期から始まった紙文化」と共に、将来に「二回目の巨万の富を築く事」に「食用油の殖産」で成ったのだ。
「銃の欠点克服の為」にもその「増産」の一つのきっかけに成ったのだ。

注釈 「水」は「冷やす」のが「早い」が、自ら「冷える」のが「遅い」。
逆に灰はこの逆である。
とするとこの「中間に位置する液体」は「油」であろうと判断した様だ。
然し、この「油」は「神饌」<「薬用」<「禊用」の前提にある。
「青木氏の立場格式の範囲」では、「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物?工業化」では立場上は先ず使えないのが普通であろう。
然し、ところが工夫して使ったのだ。
どうしても「額田青木氏の計画」を「銃」で解決する為にも「伊勢の工業化」にも実現しなければならない。
何よりも先ずは「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物・工業化」で、日夜努力している「伊勢郷士衆の説得」が必要であったろう。
然し、事態はいよいよ「戦国事態」に入り「額田青木氏と伊豆青木氏」は危ない。
「外国人技術者の指導/詳細不詳」であるとしながらも、「20年間の試行錯誤の期間」でもこの事は難しかった事が云えるのだ。
結果として「増産」に務め結果と成ったが、これを「解決している処」を観ると何かがあった事には間違いは無い。
それに「相当する出来事の記された当時の資料」では、発見できたのは「油粕の事件」の以外には見つからない。
ところが思い掛けなく「食用油の活用に大きく拍車をかけた事」が一つあったのだ。
それが何と「食用油の絞り粕」であったのだ。
筆者は、この事に就いて当初は「殖産業も営んでいる事」や、上記した「油粕の事件の記述の事」からも、金銭に問題が無ければ、この「植物油説」を強引に採用したと考えていたが、ところがそれを詳しく書いた資料が観っかったのだ。
この「金銭問題」は、「朝廷の紙屋院号・特別使用権を持つ伊勢屋」である以上は、「目的達成の銃・工業化」には「総力」を以て「秘密裏に躊躇なく注いだ」と考えられる。
然し、此れを否定する資料が出て来たのだ。
それには、この「大問題の事・バッタ事件と呼ぶ」を「伊勢」では解決する為に、何と先ずこの「殖産の食用油」を更に「増産」に務めたとあるのだ。
これを更には「発想の発展」をして「交易」にも初めて使った事が記載されていて、その「交易」が大成功したとあり、遂には「神饌問題」は、外国から仕入れた「石油の卸問屋をも営む事」で、「世間と伊勢の工業化」を促したとあるのだ。

注釈 「室町期の紙文化の紙での巨万の富」、そしてこの論で論じている「食用油・菜種油の交易と石油の問屋での巨万の富」、そして,危険を冒して「享保期の大阪米相場の投機の巨万の富」、等が、「伊勢の干拓灌漑土壌変更」で、「米生産と早場米と酒米の生産で蓄えられた巨万の富」、その数々の投資で「伊勢の禊の神饌問題」は解決したのだ。
「戦後の農地土地解放」でそれを支えて来た「伊勢50郷士衆の女系氏族」に、「無償」でそれまでの「儲け」を全て振り分けたとある。
その「巨万の富を築いた源」と成ったのが、ただ、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却」と云う点」<「食用」の「伊勢の殖産」にあって、そこには伊勢独特の不思議なものがあったのだ。
それは「伊勢を調べる事」で判って来た事が次の中にあるのだ。
これを生かした「伊勢商法」と云うものであったのだ。
「桑名の米油」
「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
「伊賀の菜種油」
「四日市の菜種油」
「岡崎の椿油」
「伊勢の魚油・海老油」
つまり、ところが「伊勢」では、意外にも「工業化」には、以上の「伊勢の魚油・海老油」であった事が記されているのだ。
これだけは「神饌」<「薬用」に当てはまらなかったからなのだ。
然し、世間では「魚油・海老油の殖産」は、大々的に殖産として生産されていなかったのだが、この事を良く調べると、「伊勢の一部の地域」で書き遺されているのだ。
この「歴史的な魚油の使用」は、「植物油・実用化/殖産と交易」より「20年程」遅れて本格的に生産されている。
先ずは、その「使用の経緯」は「灯油や肥料」から使用される様に成っているが、古来に於いてはこの魚油生産には身分差別されていたのだ。
これを「一つの言葉」を使って差別されていて、それはその匂から嫌われていたからだ。
「植物と魚の概念」が「神饌」<「薬用」に合致していない事から来ているのだが、上記する「純粋な禊ぎ品」ではなかった事であった。
「植物」は、古来よりその花や色で「人間の階級表示」にも使われるほどに敬愛され、「髪の整髪剤」にも古来より使われていた。
それ故に、これに合致しない「魚油」は蔑まれていたのだ。
理論的な事を述べる述べると、そもそも「魚油」は、化学的には本来魚から発するものでは無く、「魚に入った餌の微生物の塊」として入ったものが、悪臭の匂を発しそれを浸み込んだ油からの発臭に過ぎないのだ。
依って、数日で「微生物で構成された脂肪酸」は、酸化して腐食して「アンモニヤ」に変わり異臭を発するのだ。
それ故に、元より「嫌われた物」であって、「関西」で起こった「植物油の搾り粕」に代わって、「関東」では「70年以上」も後の事であり、この「魚油」を、背に腹は代えられず「民の灯油にした経緯」があって、「安価に売ると云う行為」に出て、「後にこの魚油粕」を「肥料とした経緯」もある位だ。
その意味で「関東」では遅かったのだ。

注釈 ここではの「伊勢」では、「伊勢商法との源」となった“何故に「神饌」<「薬用」として扱われたか”である。
それは全て「伊勢青木氏族」にあったと考えられる。
それは「生産地」が、「北勢の伊勢湾の海老」に限定されていたからだ。
「伊勢湾の海老等の魚不良品処分」で、これを「肥料」にする為に、先ず絞り、「残粕」を「肥料」に、「絞り油」を集めて、一部の良い所は“「灯油」”として、残りはこの“「冷却材・銃・殖産などの工業化」”に使用してこれ等を「伊勢衆の合意形成」を図ったと考えられる。
ところが、それにはこの「魚油の扱いの差別」があったが,その「利用目的」が賛同されて「大いに賛同」を得て、遂には、寧ろ、この「魚油の生産と殖産化・工業化」が「利益」を売るまでに成り、室町期の1500年代には「神饌」<「薬用」としての「殖産の扱い]として、上記の通り「禊ぎ品」と成っている以上は遅れて「伊勢の大儀」を得ていたらしい事に成る。
この「生産地」は、その「悪臭」から「北勢西部の奈良に近い山手」に「20の川舟」で川上に運ばれていて、「当時の生産地」も判っているし、そこで「粕は山手の農業肥料」、「魚油は海手側の生活圏での全地産地消」としても使い、故に「伊勢」と「禊ぎ品」に魚油として全般名で記したと考えられる。
それ故に、「関西の絞り・搾り粕事件」で、「魚の油絞粕」まで「関西」では「みかん畑等」が多い事もあって「植物油の絞粕」では全く間に合わず広く全畑地の「主に堆肥肥料」に用いられたのだ。
最後には、前段や上記でも書いた通り、この「魚油の伊勢殖産」は、生産者は差別待遇を受けながらも「庶民の灯油」として「貴重品」に扱われ、「伊勢屋」は全国に「200以上の支店」を設けて「在庫の全国展開」をし、「伊賀の香具師」が、これを各家庭に“「常備薬」”として欠かさない様に見回り届けるシステムを展開したのだ。
「生産から販売までの殖産」で「伊勢屋」が全国販売をしていたのだ。
その結果、「伊勢奈良紀州の国境」で差別されながらも働いていた彼等は、「生活の糧の思わぬほどの安定」を確保していて、その「感謝の気持ち」で「伊勢屋の青木氏」は「御師様と喜ばれいた」と記されている。
そして、「江戸の中期頃」には遂には「職業の差別」は無く成り、遂には「伊勢の禊用」としてまで「名」を連ねるに至ったのである。
それが「関西」で起こった「魚油殖産での物語」を持つ「歴史的経緯の魚油殖産の流れ」とその「販売システム」であったのだ。
それが「関西以西での香具師の活躍」もあって急激に広まって行ったのだ。
如何に[禊ぎ品」が上記の交易以外にもこれの殖産からも「巨万の富」を獲得していたかが判る。

注釈 何故ならばこれには他に「歴史的経緯」があって「紀州の漁法・ぱたぱた漁法・延縄漁法の原理・坂本氏・」が全国に広まった事からでもある。
それ故に、又、積極的に「魚油を使う事」を許された称賛されていたのである。

注釈 港に残った雑魚を彼等は掻き集め、それを絞って油にし、伊勢屋の買手」がそれを集めて全国の香具師の支店に運んでいたらしい。
「伊賀青木氏の香具師等」は、これを全国の各家庭に定期的に届けて欠かさない様に「システム」を組んでいた。
この時、「伊勢紀州奈良の殖産物」、例えば「油の灯油」に限らず「伊勢漢方薬」や「仏壇線香」や「蝋燭」「蚊取線香」や「椿鬢付油」等の「公家庭用品の常備品」としも販売していたのだ。
この「時代考証」では一番古い物で「奈良期中期の記録」がある。
「奈良期中期」と云えば、未だ「部経済の始まった時期」である。
「青木氏が賜姓族」と成り、「近江鉱山の開発」が完成した事頃ではないかと予想される。
その頃から「工業」とは別に、「地場産業」を一から興して全国展開に持ち込んでいた事に成るが、その「スタートの形態」が未だハッキリと掴めていないのだ。

注釈 何度もこの事からの論説を論じているが。「伊勢青木氏には歴史的に三度の火事」があったが、内2度はまだ「貴重な歴史的記録」は遺されており、最終は「明治35年」には可成りの「祐筆などに依って書き遺された{貴重な歴史的記録」がまだあったとこの「記録」では考えられている。
然し、一度は火事中から全て引き出したとあり、ところが、「家長・福家」が「安いポイ義侠心」を出して、再び“火の中に投じる事を命じた”とある。
そもそも「記録」と云うものの「価値の認識が低かったもの」と考えられる。
それが「有史来の青木氏の歴史を消し去った」のだと思うと残念であり、そしてこの「火事」も全く火の気の無い蔵の中から出火しているのだ。
「長い伝統」として、「人間的個性」として、「氏是」にある様に「長く青木氏が生き遺る事」には「判断力」に於いてカーと成る性質を一番に戒めているのだとしたら尚更であろう。
その意味でも反省して筆者は「青木氏の復元」を試みているのだが、するとしたら今だろう。
恐らくは、これは未だ残る「明治維新政府の一部の過激派の者の火付・薩摩以降も」であろうと思う。
何度も論じている様に、維新時の「青木氏の存在・青木氏を消し去る事」のそのものを否定していた「派閥の仕業」であろうと観られている。
その間にも何度も「打ち壊しや火付け等」を受けていたらしいのだから是が非でも遺すべきであったのだ。
「青木氏」は思い切ってこれを逸らす為に「松阪伊勢屋」を先ず「偽装倒産]させた。そして、その「商い」を「摂津」に移し、「公的な顔」を更に「誰で何処であるかをも隠す様にした」とあり、これは「室町期」から「秀吉や信長」に攻撃されない様にする為にも行っていたシステムではあったが、これが「明治期」にもこの「システムの緩み」が生まれ「松阪」が集中して攻撃されたのだ。
これら対処するには「福家に立つ者の能力如何」であったろう。
筆者はその「福家」の三世ではあるが、「明治期は最も隠すべき時期」であったと観ている。
「明治維新」では、「維新政府」からみれば「天智期からの伝統ある格式の律宗族のレッテルを張られた青木氏」と云う「立場」を有し、「明治天皇家系を揺るがす余計な家系の存在」を、「維新政府から観ると邪魔な立場である事」を読み込み忘れた。
最早、「時代が変わった緩んだとする心の緩み」が「薩摩藩派閥等に読み込まれた」と観ている。
この時の「時代経緯」が、明治期であって古い事では無いので詳しく残っているが、「紀州徳川氏・2万両債権」が懸命に「仲裁」に入ったが「薩摩藩」はこれを認めなかったのだ。
「明治天皇家系を揺るがす余計な格式家系の存在」を少しでも「薩摩藩は認めない」としての「方針」で観て攻撃して来たのであって、依然としても持つ「巨万の財の商い」では直接的な無かった事と考察している。
然し、「薩摩藩」だけが伊勢青木氏を攻撃していたとすると、奈良期からの長きに渡り「献納」で支えて来た「明治天皇の後ろに献納していた超豪商の青木氏」が存在する事を嫌っていたと云う考察にも執れる。
「紀州藩の付き合い」から観て「両方の考察」が考えられる。
後に「華族制度」でこの「維新政府」は「公候伯男爵」を求めて来たが、事前に「紀州藩公」から「侯爵・貴族」での「連絡・正式な菊模様の桐箱に入った文箱・推薦状を書いたとする文」があって、これに対して明確に断っている言い訳の手紙写しも遺っている。
「商いの青木氏」に執っては今更に何の意味もなかったと考えられる。
明かにこれは必要以上の「薩摩藩との摩擦を避けた」のでは無いかと観ているのだ。
この「流れ」から「紀州徳川氏」とは「大正14年までの個人的交際」があって、「献納」は正式には「明治9年」で終わらせているが、「実際」には「朝廷への献納」は密かに「明治35年頃」で終わっている。
そしてそれ以後は無い様だ。
「伊勢青木氏」では、「明治初期」では「薩摩藩の嫌がらせのイメージ」が強かったが、現実に「薩摩藩の力・明治10年」もこの時既に衰えているのだ。
其の後も、「伊勢口伝」の通りに「明治35年頃」まであった”とすれば、これは「薩摩藩だけの過激派勢力」では無かった事を意味するし、既に「薩摩藩の過激勢力」は「明治政府内に145人居た・最終は一人」とされるが、「西南戦争頃」を境に全て去っていて、「長州と土佐」が全ての実権を握っているとすると、「薩摩藩の嫌がらせの時期」はずれている。
寧ろ、「維新政府」とすると「長州」と成り、「長州勢力の過激派もあった事」をも物語る。
その時期が「明治35年前の丁度」として見れば、「青木氏に関わった勢力図」は「紀州藩の陸奥宗光」の「維新政府改革」とも重なっている事になろう。
「幕末の紀州藩の勘定方指導役」で「陸奥宗光親子」とは親族に近く深く関わり、「維新政府」をリードする「陸奥宗光」を「経済面」でも支援するも、「明治30年」に死すも彼の改革はより進んだが、「実力」を大いに発揮して「薩摩藩以後の維新政府」とは異なる「西洋に見習った近代化の政府」を構築し最大の功績を遺したのだ。
然し、それだけに「政敵」も含めて敵も多く、取り分け、「西欧の軍制改革を導入する処」では、「長土肥の旧軍体制」とでの「政府二分する程の摩擦」を起こした。
恐らくは、この時に「陸奥派の力」を弱める為に「長州」は「影で支援をしていた伊勢青木氏の伊勢屋」を攻撃してきていたのではないか。

注釈 「維新後の青木氏」では、「この史実」は子孫に書き残せないであろうし、「大正14年以降の記録」は祖父が「忘備録」で遺した程度で終わっている。
然し、故に「氏族」に遺された資料を何とか探し出してそものから繋いで読み取る以外には無いのだ。
この「明治前後の陸奥家との深く長い親密な繋がり」は詳細に知り得ていた事ではある。
「明治維新前後の豪商」ではその力を弱められた者が多い。
夫々弱められた理由は異なるが、淀屋、小野組、小倉屋、加島屋、永嶋屋等数えきれない。
然し、ところが「屋号」を朝廷より正式に与えられた記録は何処にもない。
「伊勢松阪」より「本店」を「摂津」に移して、名を隠し家を隠し顔を隠し店を隠しして商いをしていたとされ、中には記録として判っているところでは、「伊勢屋の青木氏」は「大阪の商人」と「不特定の屋号]を幾つも名乗っていたとする記録がある。
その中でも良く調べると大阪屋、摂津屋、松阪屋、津屋、淀屋、堺屋、長島屋等が観られるが、これ等は「明治維新」の時に全国各地に「香具師の香具屋」とは別に、「約200支店」を設けていた事が解っていて、この「支店名」を上手く使っていたとしている。
伊勢から摂津や越後の組合で「御師制度・組合で紙幣」を組んで各元大名等への貸付や「米相場」などにも手を出していた事が解っていて、それだけに危険である為に人別は判らない様にしていたらしい。
現在では全てが独立している。
中には「鉄の製鉄」にも雑賀で「雑賀支店」を設けて私財を投入して手を出していたらしい。
現在もここに「製鉄所」は存在する。
其の後の事は次の様に変遷したとある。
ところが、ここで「投資のために設けた金」で「1900年頃」に多くの「銀行投資/御師制度で」や「企業への投資」をしたとあって、「多くの関連企業」は設立されとあり、「政府の支援」もあったが乱立した事が記されている。
これらは“「伊勢の御師制度」”から発展した「商人の銀行」が「大阪」にも「各地」でも生まれたとし、それが合わせて、記されるところでは、「23行の銀行」が新たに設立されたとあり、その殆どが「大阪堺摂津市内の商人」による「殖産の機関銀行・融資」としてのものであったとある。
ところが、その多くは長続きせず、又、“「1901年に起きた恐慌」”もあって、それで、結局は設立した“「15企業行」”が最終的に廃業したと成っている。
要するに「23企業行」の内で「15企業行」が破産したとして「伊勢の投資」は失敗したとあるので,「御師元の伊勢屋の青木氏」では、相当に「ダメージ」はあったのでは無いかと予想できる。
「損害額」は不記載である。

注釈 同様に、「原合名会社」をも多く設立し経営の合理化や近代化を進めて「8企業」を残す結果と成ったとある。(母数が判らない)
一方でこれも「輸出業や殖産業」にも再び力を注ぎ直し参入し、特に経営難に陥 っていた「関西の4つの製糸企業所」を「伊勢}は買収した。
然し、また一方でその「発展の阻害原因」と成っていた「基盤整備」にも手掛け、その「大阪港の拡張」や「鉄道網整理」にも「多額の私財」を資本投下して関わったとある。
この様に、「地域の公的な事業・貿易拡大の為に」にも尽力しているが、其の投下総価額は不記載で判らない。
「総資産額を調査したが、「筆者の試算と大きく異なり、明治中期期までには、下記の通り「試算額 約1億両」であったとする資料にあるが、それがどの程度の物かは判らない。
「創設期以降の米相場」で儲けた「明治期の超豪商の一人であったとされ、その額は資料では「20億両」とあるが、「米相場」だけではあり得ないであろうし、実際はその1/100程度であろう。

注釈 文化面では、残る財を「私財投資」して“「古建築」”を「山の谷部全域」を自然改造して、そこにこれを移設し、現在も残る「枯山水の庵・三つの谷渓園・尾鷲・熊野・田辺・和歌山」を「紀州」に造り上げたりしたとある。
此処に、「禅宗修行僧」、「水墨画家」、「茶道家」、「彫刻家」などを志す若者を集めて無償で修行させていた。
多くの「彼等の遺産」が現在も遺っているし、世に名を馳せた人も多い。
筆者も幼い頃にこれらの一部とここまでは接して観ている。
明治後期から末期にかけての「企業規模の変遷」は、「20世紀以降」に繋がるのともなるが、「他業」の多くは、その明治期までに造り上げた「莫大な資産・約4から5億両」を「低資本金の殖産起業」に投資したとある。
現在もその跡姿は「摂津・大阪」にまだ未だ一部を遺すが、その「子孫への見返り」は「後勘の裔」から観ればあまり無かった事に成ろう。
明治初期に「青木氏部」を「二つの低資本金の殖産起業」を独立させて遺したとある。
それで良かったのかもしれない。

注釈 「青木氏の資料」ではないが、「別の発見資料・御師制度の研究資料」や「明治期前後の商人の研究等」では、「伊勢の和紙問屋」が、「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、又「伊勢」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて、後にそれを元手に「石油の卸売」にも携わったともあり、青木氏の資料と重なる。
何れも「莫大の利益・儲額を研究」を築いたとある。
「明治に入る前」にも、上記の様に「米市以外」にも様々な事業を手掛けて莫大な財産を築いた事が記されているが、ところがここで“「大きな事件」”が起こっているのだ。
幕末までは、その“「商人の財力・超豪商」”が、「武家社会」にも大きく影響する事と成った事を理由としているが、ところが「記録」をあの手この手で色々と漁ると、その「事件」が、「幕府・享保期以後」より起こっており、それには、無法では行かず「法的根拠」を設定しなければならず、それを “闕所(財産没収)処分・けっしょ”として決めて、それに晒されたと記されている。
この「法的根拠」とする「闕所(財産没収)処分」は、飽く迄も「武士」にであるが、武士に影響及ぼしたとしてこれを「商人」に拡大解釈したのだ。
確かに前段でも何度も論じているが、「享保期」に「吉宗と信濃の件」で「伊勢青木氏」は「3日で伊勢に逃げ帰った事件」があったが、これが他の資料の研究記録では、「信濃」への「闕所の最初」では無かったかと説いている。
そもそも、この“闕所(財産没収)処分・けっしょ”とは、本来は“罪を犯した「上級武士の者」に対しての、その「財産を強引に没収する法令」であって、其れには「誰もが認める罪」が必要であった。
然し、これは一致する処ではあるが、そもそも「上級武士の者の財産」を没収した処で、精々、「領土の範囲の物」であって、「幕府の闕所の目的の範囲」とするものでは無かった筈である。
然し、現実には「武士」を対象としていたものが、其の殆どは「超大豪商」に対して向けられたのだった。
「商人」は、「領土関係に無い事」からその「直接の闕所の理由付け」は成り立たず、「刑事事件」を起こす範囲での「刑量で罰する事」は殆どは無理であった。
そこで、「財産没収」は「不随行為」であって、その史実では「行為の正統性が問われる事」が多かったのだ。
これに関する「遺る記録」を観ると、裁判例が残り、あまりの理不尽さが観える。
ところが、この「超大豪商」には、矢張り「罪を問われる事」は殆どなく、「貿易等」を通じて“密貿易”などと「難癖」を着けて「闕所」を一応は申し渡すのだ。
ところが、多くは“「賄賂」で済まして金を「幕府」に巻き上げると云う策略”を何度も繰り返していたのだ。
ところが、前段でも論じているが、「伊勢屋等」は、「伊勢の事お構いなし」の「長篠の戦い財政的協力・三方ヶ原後三河立直し協力・本能寺の変の救出等」に対して、この「過去の恩義」に報いる為に発行された「お定め書等」がありながらも、「幕府」はこの「恩義」にも従わず、「伊勢山田奉行所等・大岡越前守の時以来/享保期以来」は、盛んに「難癖」を着けて来て「闕所」を「伊勢青木氏・伊勢屋」に匂わせて来たのだ。
其の典型的で決定的なものが「信濃事件・聖域と地権域の割譲と殖産の没収と人の家臣化」を命じられて強引に実行されたのだ。
然し、「伊勢屋と信濃青木氏等」もこの「闕所処分」に先立ち、事前に「紀州藩」からこの事を「内密」に知らされていた。
「記録」に依れば、「伊勢の事件」では、「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」を設け、前段でも記述した「摂津・本店を移した」のには、先ず「暖簾分け」した等で、「二つの支店」を開き、「朝廷への献納」を幕府に見せつけて牽制し、その後に再び元の「大坂摂津の地」に戻し店を再興したとある。
「伯耆国久米郡倉吉の地」に関して何か特別な逃れ得る理由に成るものがあったのかと云うと無く疑問である。
調査したが、ここには本当に不思議な位に矛先を躱すに効果的なもの、例えば誰かとの所縁とか何もない地域だとするのだ。
この“何も無い事が果たして幕府の追及の矛先を躱せるのか”と云う事なのである。
況してや、「闕所に向けた追及」を受けているのだし、それでも“躱せると云う事”なのかである。
この「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」とするには、先ず“「倒産した」”と見せかける必要があったろうが、其の為に「摂津・本店を移した」では、現実には「暖簾分け」をしているのである。
この「言い訳」は現実には成り立たないが、 「暖簾分け」は飽く迄も「内々の事」であって、それでこの「ダミー店」を強調したのであろう。
実は、この事が後に江戸期末に物語に書かれて「小説」にも成っているのだ。
他には実は、前段でも「讃岐青木氏の論説」の中で、「讃岐青木氏の後裔」がこの「宍道湖の横」迄に拡大したと論じて、「安芸の商い」は横の「足利系米子・八頭青木氏」との関係も築いているとした史実がある。
ここに「ダミー店」を設置したとすれば、矛先の可能性は全く無関係の物ではなく成り、「あり得る事」に成るかもしれなかった筈だ。
要するに、これが上記でも、又、前段でも論じている「影の店」であったと考えられるのだ。
元々、「影の店戦法」を使っていたのだから騒ぐことは無かったのではないか。
この様に、“「矛先」を変えてのこの「処置」で、「店を小さく見せる事」をしたり、「影の店」や「影の顔」や「影の店主」や「影の自宅等」さえまでもしても現実には護った”のである。
後は「朝廷への献納」を見せて目を逸らした事などが資料から読み取れるのである。
つまりは、「難癖の闕所」の「名目如何」にどの様に「商人」として対処するかの事であったろう。
「殆どの狙われる超大豪商」は、この様な策や手を前もって使って駆使して特定を避けて逃げていて、一度見せても次は違う等していたらしい。
事実を伝えているかは別としても、飽く迄も小説化しているので人気を博した「江戸時代の小説」にも成っているのだ。
決して「超大豪商の現実」には、「小説やドラマの様な単純な顔や店を見せるような事」は全く無く、此処でこれを論じる以上では、現実には歴史を正しく調べれば、直接に自分や店をよりよく魅せる様な事は決して無く、飽く迄も「影」であって「表に観える等の事」は無かったと知るべきである。
その意味で、「四家の構築した伊勢」での「四家制度」は誰が福家か判らない様にすれば都合が良かったと云える。
また、江戸期にはそれまでも目立つ様に「朝廷・天皇家」には、「献納・奈良期から続ける」をし続けていた事もあって、それ故に、“「朝廷」は都合よく振る舞ってくれていた事等”も伝えられていて、この「闕所事件」では「格好の逃避策」ではあったらしい。
「永代賜姓五役での献納の理由」は、云うまでも無いが、一部には「過去の格式伝統」はこの「闕所の格好の逃避策の意味」もあったのではないか。
前段でも論じたが、「献納時」には「伊勢から御車」を大げさに仕立てて、それに「青木氏の随行者」を着け、且つ、到着後は「街中の事/噂話」を教える「軍略処の役務の令外官・青木氏」の祭りも負っていたと云うのだから、これにも「闕所対策の為の周囲の目を魅つける策」でもあったろう。
これも江戸期から始まり幕末までその「目的の一環」であったのであろう。
そもそも、「影」である以上は、「青木氏の各種の記録」には、これらの事の詳しい事は載せない事であったのであろう。
実は、「享保期」からこの「伊勢青木氏に向けられた闕所事件・類似事件」は、江戸期に限らず「資料や記録の発見」から「新しく判った事」ではあるが、実は「明治期初期」にも明確に起こっていたのだ。

注釈 実は「明治期」にも、そもそも「献納の相手」の「維新政府の政治的意向」から、“「薩摩藩」などが騒いで「闕所の嫌らせ・闕所の江戸時代に似せて」を受けていた”とある。
それまでも、「四掟」で度々、「奈良期より下級公家族と何度も血縁していたと云う事」があり、これらの史実も「公家・叶家等」から「嫁・筆者からは祖母を迎えている事」も合わせていたらしく、これは「朝廷」では無く「初期の維新政府」を造った「薩摩藩等」であったろう。
前段でも論じたが、「伊勢店や住居や蔵等の火付け焼き討ちや蔵の打ちこわし等」が何度もあって、それ故に「伊勢屋の活動本店を摂津に移している事」等に一致している。
ただ「伊勢の福家・本家」は「寺の関係」や「郷士衆の氏族一族」が「伊勢に集中している事」もあって、暫くは「松阪」に置いていた事が判っている。
これは「全ての“話し合い」”が直ぐに解決できる事では無かった事から来ているのではないか。
江戸時代の「享保期と中期と幕末」と、それに「明治9年頃と15年頃と35年頃」にも、「摂津」から「福家・松阪」に届いた三度ほどの連絡の「虫食いのボロボロの手紙」が遺っていて、それ等に依れば、要約すれば次の内容で書かれている。
内容
「長く続く超豪商に対しての執拗な“闕所処分」”には、「伊勢屋」と「御師組合」は財産の一部を多くの機会を捉えて、観える様に「自らの申出」により「献納・朝廷」して「矛先」を先ず外して、目立つ米相場の等への「闕所の動き」を先ず第一段階は終えたとあり、更に、これにより次第に“闕所(財産没収)処分”に晒される事が少なく成り (イ)、この「第二幕」は閉じたとある。
然し、「明治維新政府」の諸事記録からも、続き 「難癖」の“闕所(財産没収)処分らしき嫌がらせ”は続いた事が記されている。(ロ)
先ず、それには“「第二幕」は閉じたとある”この (ハ)の事で、これは「第一幕」があった事を意味する。
又、この等の記録は、“相当に事が落ち着いた後から「祐筆等」が書き記ししたものである事”が判る。これが(ニ)
で、先ず、「青木氏・伊勢屋」から観たこの“「ニの第三幕」”は、本来の形の“闕所であったかは別として、”言うまでも無く、上記した「政治の場」から離れた頃の「明治35年まで」としてしていて、それは「明治期の嫌がらせ」であったであろう。
とすると、「第一幕」とするのは何時としているのであろうかと成る、
筆者には「第二幕のハと第三幕のニ」の事で、恐らくは「二人の祐筆」が書く記す際に「青木氏に降りかかった事」が、「明治期の難癖」の“闕所(財産没収)事件の処分”であったと認識していた事に成り、この事件の事で話題が一族内にも当時は充満していた事に成る。
そして、又、その「闕所認識」が共有していて、同じ事が「明治期」にも続いて興ったと云う事に気が云っていた事に成る。
だとすると、「過去の第一幕の事」が明治期に於いても同じ出来事であったとして認識していた事に成る。
その「第一幕」は、「第二幕と第三幕」に“一致して同じ様な事が起っていた”と観てよい事に成る。
然し、「足利幕府」とは「律宗族の呼称」でも判る様に、少なくとも「難癖」を着けられるような関係性では無かった事は確かである。
「信長が足利幕府を追いやった時期」からと、その後に「秀吉が全国を統一した時期」までと、そこから「氏郷時代の良好な関係」の時期を経て、「豊臣徳川の関ケ原までの時期」と、江戸幕府の「享保期の山田奉行所事件直前」までの期間が「第二幕」と成ろう。
その期間の模様は前段で論じた通りの「犬猿の仲での期間」であった。
この「第二幕」が“一致して同じ様な事が起っていた”とすれば、“信長から秀吉の時代”と成り得る。
「信長前」とすれば、「室町期の紙文化で巨万の富」を築いた時期からと成り、この「巨万の富」に狙いを定めた事に成ろう。
「第二幕の典型的な例」を、前段でも既に論じたが、別にこの闕所の事件があったのだ。
それを前段でも論じているが一つ述べて置くと、「東近江の青木氏」に於いて「本流と分流らの領地の争い」が起こった。
それに於いて「仲裁の申請」が両者からあり、「東近江」には「巨万の富」を背景に伸びて来た「近江青木氏B」と、「元から東近江に居た青木氏A・本流の分家」とを「秀吉の面前」で戦わせて徹底的に雌雄を決せさせたとある。
これは申請に基づく「本家分家の争いの仲裁」と、「その領地争いの仲裁」ではなく、「闕所の手段を使う事」を利用して、戦わせて一方先ず潰して、その「財と領地を奪い取る事」を目論んだのである。
先ず「勝ち残ったB」のその「富」を利用した後で、この「近江青木氏B」を「富に対する難癖の闕所」で、“よく調べたらその富を奪った”として、後で潰す事にしたのだ。
結局、「東近江」には「佐々木氏系青木氏」を除いてはいなくなったのだ。
「伊勢青木氏は、結局は「東近江に居た青木氏Aの生き残り」」を救い出し、「摂津の西」に住まわせて保護した。
「近江青木氏B」は、其の後に「兄弟争い」をして完全に潰れ、一部が千葉に逃れたと云われていて地元の「秀郷流青木氏を勝手に名乗って幕府に仕官している。
他にも語り継がれていないが、郷土史に語り継がれる知る範囲では、この様な「紀州嫌いの秀吉の紀州伊勢征伐」での事で、この時、「小さい闕所事件」が取り分け多く起こっているのだ。
取り分け、「南勢の伊勢50衆郷士衆中の氏族・湯川氏等5士」に対して記録に遺っているのである。
殆どは「騙しの手打ちの闕所事件」である。
当然に「第一幕」は、「嵯峨期の賜姓族外し・皇親族外し」である。
最早、ここではもっと詳しく調べる術を考えて詳しく論じる事は必要だがここては語るに及ばないだろう。
調べる中で関東には、この事件の左程の大きな事件歴史が無かった事が判る。
「商人」が多くても闕所で目に着けられる程の商人が居なかった事が云えるのだ。
そもそも敢えて江戸の政治域にその様な商人を造らせなかったという事であろう。

さて、新しい資料が見つかったのでそれを加えて追記として論じる。
少し「冶金学的考察」に戻して、これは「青木氏の資料」ではないが、「別の資料・御師制度の研究資料や明治期前後の商人の研究等」では、“「伊勢の和紙問屋」が「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、「伊勢殖産」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で「良質な植物油」として「大利益を上げた」”と記されており、後に、“それを資金の元手に「石油の卸売」にも携わった”ともあり、“何れも又「莫大の利益・儲額を研究」を築いた”とある。
これは「伊勢青木氏の記録」と一致しているので史実である。
「上記の経緯」もあって、「総合商社となっていた伊勢屋」は、「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて「石油の卸問屋・主に灯油」もしていても、「伊勢での実践・経緯」では、更に“「油・魚油」をメインに「冷却材に使われる結果・工業化」とも成っていた事”が書かれているのでここでも判る。
そこで敢えて「冷却・工業化と殖産化」には、先ず最初に「備長炭の焼灰の中」として対応していたが、次に“「植物油か魚油の油」を使った”と考えられる。
然し、論理的にも確かに「焼灰の中の方」が「冷却速度が緩いと云う点」では良い事は判っていたらしい。
だが、「当時」は、概念的には、 未だ、“「マルテンサイトの有無の概念」”に拘わらず、 “何事にも「冷やすと云うだけの概念」と成っていた。”と云う事なのだ.
そもそも「冷却の程度までの話」では無かったらしい。
それは、当時は「砂鉄の玉鋼」にしても「陶器」にも由来していて、正確な温度把握は在ったかは疑問であるが“100度程度の低くて極めてゆっくり冷やす事程が良い”と云う「冷却概念」が当時にはあったとする。
そこで、ところがこの事に就いては、“「マルテンサイトを獲得する冷却技術」”を獲得していたかどうかに付いては「玉鋼に関する資料」からは、全く散見できない。
恐らくは、“「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」を、巧く調整して敢えて「変態が起さないところ」で「全行程」を止めていた”と、科学的に調べると判断できるのである。
つまり、それが「変態」かは別として,“何か変な事が起こる温度域で、そこには悪い事が起るのだ”という「逃避概念」あったのではないか。
ではこの「変態が起さない点」の手前とは、最も、「割れ、変形、等の品質欠点が起さないところ」でもあったのだ。
現実にもその理論であるが、寧ろ、当時としては「この求めるべき点」と云うのは、「逆の点でとらえられていた事であったと云う事」だ。
全くこの意識の無い事も記された資料があるが、少なくとも「技術的に避ける点」であったと云う事に成る。
此れを「冷却とその後の処置」で上手く乗り越えれば、「逆の点のその逆に成ると云う事」を「伊勢青木氏」は“「銃の欠点克服の過程」で掴んだ”という事なのだ。
それには、是非に「植物油の工業化・殖産化」に取り組まなければならないし、「伊勢神宮の植物油の禊品の事」もある。
結局、上記の資料から、「嫌われている魚油の生産」を施し、「植物油の工業化・殖産化」をして、「禊ぎ品から量の解決」をして、更に「交易をして禊ぎ品の利益」を上げ、挙句はそれに代わる「魚油の代替品の石油を仕入れて卸問屋」を新たに営んで「伊勢の人の理解」を得て「巨万の富」を獲得したという事だろうの「経緯」であることは判る。
この間に「銃の欠点の解決」の為にも、この為の「工業化」で「大量の禊ぎ品の油」を使うが、それに依って「マルテンサイトを獲得する為の冷却技術」を獲得していたのだ。
「伊勢」では「額田青木氏を救う為の銃の製作」と、「それに使う油への批判・禊品に対する工業化」があったのではないだろうか。
「禊ぎの品の殖産化と工業化」は、兎も角もそれを超えた「大工業化・銃」には「大きな批判」があって、そこで「交易から得た資金」で「石油問屋を営んだ事」ではないかと判断する。
これで批判を躱したと考えられる。
「金銭的な事と油植物油の使用率の事」では当面は解決したであろが「伊勢の禊品ぎと云う事」では解決が解決出来ていたかは確認が取れない。
然し、じょうきした様に「額田青木氏の銃の欠点解決」で「冷却材として油を使う事」では結局は理解を得られていた事を考えれば、禊ぎ品に付いては小より大のもくてきではんだんされたので゛はないか。

注釈 ここから「植物油と銃や刀の等の関わり」で論じる。
専門的には成るが、これは、「工業化」に於いて「両者の事を専門的な立場」から観る事に役立つ。
「禊ぎの殖産とその工業化」に付いてはそもそも「単純な動機」に依るものの、それが「意図的」だったとは考えられ無い事だ。
度合いかと云うと、この「殖産化と工業化」には、室町期に「生死を賭けた伊勢青木氏による技術化」が伴っていたからだ。
それには「額田青木氏を救うという大義」が大きくあったからだ。
然し、そこには「技術的」に少なくともそれには、先ずこの「禊ぎ品」の「植物油」を使わないで “刀の処理工程では済ましている事であった。
とすると、少なくとも当初より得られていていたとする「植物油」を使わないで「過去の冷却速さのパターン/水」では、専門的には「刀の内部組織」から観ると、“「類似ツルースタイト組織」”には少なくとも成っていた筈なのだ。
そこで、場合に依っては、この「水の冷却の速さ」からでは、一段低い「類似ソルバイト織」”に完全に成っていたと考えられる。
「水」は「冷却」が油の2倍に早いが直ぐに「蒸発の泡」が発生して「その速さに比例する冷却効果が得られないと云う欠点」を持っていて、「2度目の冷却」は水温が冷却に必要とする温度以上に上がり過ぎ同一のものが得られない欠点を持っているのだ。
この欠点の発生は品質、つまり「製品」とは成し得ない事を生み出すのだ。
だから、常時に一定に冷却効果が成し得る油が求められるのだ。
「工業化」ではどうしても「一定に冷却効果が成し得る油」が必要であって、それには必要とするのが「植物油」と気付いた事であるのだ。それが奈良期から解決し得なかった銃の欠点解決から導きだされた成果であったのだ。
それだけに上記する様に意味は大きかったのだ。
要するに、“「刀」は「類似ソルバイト織・水」”より「類似ツルースタイト組織・水」”にするのが良いのだ”とするのが、これが「過去の普通の概念」であったと考えられる。
例えば、「類似ソルバイト組織」”は、「バネ性を強く求める時に出す組織」で、これより「類似ツールスタイト組織」は「バネ性より硬くて強靭な組織」のものである。
但し、本物のソルバイトやツロースタイトよりは何れもその特性は落ちる。
そこで「水」を使い「植物油を使わない刀」の場合は、「専門的にこの資料を読んで咀嚼すると、「結論」は矢張りそこに陥る結論なのだ。
つまり、“刀の処理工程”の場合には「砂鉄の玉鋼」を使用するが、要するに前段で論じた様に、「近江鋼の場合」の様に、元々使う鋼が「0.8%Cの共析鋼の処」であった場合と違って、そこで起こる“「変態・マルテンサト」を敢えて発生さしていない”のである。表現は正しくは発生しないがただしい。
従って、この「玉鋼の刀」の“「加熱と鍛圧過程の二段階」では、「冷却の速さ」では、それなりに既に「硬くて柔軟な組織」に“「恣意的」ではないが、「偶然」にも成っていた”のだと専門的に観て考えられる。
然し、この“刀の場合は、「上記した工程前後の処理の高度な知識」が、「未完”で在った事から、偶然に“「マルテンサイトの様な類似形」に成っていずに、そこでの「出来具合・類似的にツルースタイトかソルバイト」”が「何らかの形」で意図せずにこの「類似系組織」が得られていた可能性があったと推測できる。
そして、“此れを良いものだ”としていたのだと考えられるのだ。然し、違ったのだ。
決して、「変態」を起さない限りは、偶然にも、“「マルテンサイトの様な類似形」には絶対にならないのだ
これを最近に調べた「刀の組織的・内部の研究結果の論文」があって、それには「内部の組織の良し悪し」では無く、「切れ味の刀の良し悪し」で表現されていたらしい。
これは検査装置が無いので当然かもしれないが。
当時では、従って、当然に「玉鋼の刀」に於いては、この「冶金的な結晶の構造」、つまり「マルテンサイト・ツルースタイト・ソルバイト・パーライ」の「4つの結晶組織」で、「強さ」をも表す「呼称の概念」は無かったと考えられる。
然し、多くは「油の冷却過程」を得ずして得られるこの類似ソルバイト」であったと研究成果では結論付けている。
後は、“「玉鋼の板を何層にも重ねて鍛えた結果」から得られる「強靭な物理的な強さ」”が、これを「補完している強さの正体」であったとしているらしい。
仮にそうであったとしても、それはそもそも“「悪い出来具合」”と「砂鉄の玉鋼」では、「植物油冷却材として使わない事」と、「近江鋼の0.8%C共析鋼を使わない事」から、その「特性から脱却できるものではそもそも無かった」と云う事とされるのだ。
当時としても、既に「近江鋼の0.8%C共析鋼」が一方で「伊勢青木氏」で使われていたにも関わらず、この限定された「その範囲の事が正しい事だ」として「刀の概念」が先行して断定されていたと考えられるのだ。
何故ならば、これは「火縄銃の生産」も「刀の生産」も、「同時期にして同工程での概念」であって、「砂鉄の玉鋼」だけを使って「平衡して生産されていたと云う事」から来ているのだ。
従って、「当時の青木氏部の匠の常識の凄さ」は、先進的に研究して「植物油を使う事」で「冷却問題」を先んじ解明し、“この「技術の壁」を「植物油の殖産と工業化」で打ち破っていた”と云う事に成る。
そこには「伊勢の禊ぎ品と云う縛り」が伝統的にあったにも関わらず、寧ろ、「植物油の殖産化と工業化と交易化の積極策」で解決しているのである。
その証が何よりも「額田青木氏の近代銃の鉄」は、“「近江鉄の鉱鋼」であった”と云う事なのだ。
つまり、上記した「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理・冷却・植物油と魚油の冷却」で「銃の欠点」を克服していたのだ。
普通なら長年に渡って「火縄銃の生産」や「刀の生産」も「同時期、同工程での概念」であって、且つ、「砂鉄の玉鋼」を使って平衡して生産されていたと云う事で在るのなら、この「工程に頼る」のが普通であろうがそうでは無かったのだ。
「人間の成す事」と云うのはそんなものであろうが、ところが“全く違う「植物油と云うもの」を選んでいた”のだ。
何故ならば、「刀の特性」には「切れ味」と「鍛する事」と、つまりは、「たたき合う事に依る折れない強さ」のこの「二つ特性」が「最優先」に先ず求められたのだ。
現在科学では、この「切れ味」は、“「マルテンサイト」が最高”であって、これが「技術的に得られない事」から「類似ソルバイト」を「玉鋼の重ね板」で「何度も鍛える事」をして獲得したが、これでは「切れ味」は間違いなく落ちる。
然し、特段に「バネ性」を獲得して「折れに対する強度」を補完していたのだと理解すれば、其れなりに納得出来る。
つまり、故に「刀匠」に依っては、この“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係に油と云う冷却概念で差が出る事に成るのだ。
それも“常時では無く時々の技物の出没”に成っていた筈である。
何故ならば、原因はこの「類似ソルバイトの所以性の差」にあるのだ。
当時の代表例として「刀」は次の関係に冶金的にあった事に成る。
「類似ソルバイト」=「重ねたたき合う事」+「その鍛する温度」


注釈 そこで此処からは「刀」に付いて論じる。
「刀」は「類似」である以上は、以上の関係式に依って「刀の性質」は偶然に生まれるのだ。
殆どは、この“「鍛する温度」の「最終温度」”にあって、これに依って「玉鋼」では決まる。
何故ならば、この「狭い限定温度」を間違えると、「類似ソルバイト」は析出しないのだ。
仮に何とか出たとしても、今度は“「切れ味」><「折れの強さ」”の「理想的な関係式」を保てずに「質の悪い使えない刀」と成るとする「冶金的に求めた研究報告」があるのだし、理論的ににもそうである。
冶金的に専門的に合理的で理論的にもこの研究は納得できる。
故に、この「技法」を使った「根来雑賀の火縄銃」は、“この関係性を持っている事”に成っていた事になるのだ。
そこで、この「刀の高度な匠技・現在研究」では、“この「緩める事」と「冷却の事」を「同時に行う術」を把握していた事があり得る”ので、この「技法」を使って「名刀」とするものには、必ずこの「刃文・刃紋・玉鋼の板を重ねる事で起こる模様」と云うものが出る。
そして、そこに出る「模様柄」、即ち「類似ソルバイ」の「光の屈折具合」のこれで「技量の高さの判別」が判るのだ。

注釈 「類似ソルバイト」には「独特の波板の様な模様」が出る
もし、そこで「青木氏部」に依って「額田青木氏の近代銃」に使われたとする“「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理」”で、仮にこの「刀」を造ったとすれば、“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係は、「最高の物」と成り得て、それは“名刀中の名刀”と成り得る。
以上として間違いなく扱われていただろう。
この事の証明は、この「検証の物理の実験」が成されていて「物理試験・アムスラー試験」でも証明されているのだ。
つまり、この「刀技の匠」で得られたとすれば、「額田青木氏の近代銃」も同然の結果と成り得た事を証明できる。
然し、「近代銃の研究と製作」は、「刀匠の根雑賀根来の鍛冶師」では無く、「青木氏部に所属する部人・松阪と摂津と堺」とその支配下にあった「日野鍛冶師」であったのだ。
そして、元よりそれは「砂鉄の玉鋼」では無く、「殖産の近江鋼」のものを使っていたのだ。
そもそも、「青木氏部」に「所属する部人・鍛冶師」たちは、古い「奈良期からの殖産の結果」から「鉄の鋼」が違うのだ。

注釈 「鍛造後・砂鉄」、又は、「熱処理後・鋼鉄」に得られる「類似ツルースタイト<>類似ソルバイト」の関係には次の二つがある。
1 「鍛造後・砂鉄」の場合は、「鍛える過程のそのエネルギー」で「類似ツルースタイト<類似ソルバイト」の関係で「偽の類似的組織」でそれに近い物理特性が得られる。
これは「鍛する過程」で、「鍛圧エネルギー」と「適度な温度に下がる事」のこの「二つの条件」が揃えば「偽の類似的組織」が得られる。
これは極めて「難しい二つの条件範囲」で得られるので、そこで当然に「匠技」に関わっていたのである。
だから、「名刀」と云うものが生まれていた所以であるのだ。
2 「熱処理後・鋼鉄」の場合は、「決められた特定の範囲・鉄種と炭素量と温度領域と冷却温度と特殊な後処理の5条件」が一致する事である「特別な綱変化」が起こる。
これを、此の世に起こらない特別な変化である為に「変態・トランスフォーメイション」と云うが、これが起こり、この獲得した「マルテンサイト・鉄のダイヤモンド」を、「特殊な後処理で安定させる事・特殊な熱処理」で揺るぎのない「物理特性」を持つ。
これでは未だ安定しないのである特定の温度範囲で少し下げて処理すると「正常なツルースタイト・又はソルバイト」だけが得られるのだ。
これを使ったのが「額田青木氏の銃に起こる欠点」を取り除いた「超近代銃」かが生まれた所以なのであるのだ。

注釈 この「変態結晶体の独特の光反射の色合い・薄青白いシアン系の光を発する」を示すが、ところがこの「偽の類似的組織のマルテンサイト系ツルースタイト、又はソルバイトを有する刀」には現実にはこれが観えない。
この処を考察すると、一般的には「砂鉄の玉鋼」では物理的に無理と成るが、故に当時としては「変態現象の概念を有していなかった事」が間違いなく云えるのだ。
其れが砂鉄の玉鋼であったからだ。
結論として、それに伴う「刀にする為のある程度の冷却に必要とする程度」の「冷却の概念の重要さ」も一部でも「保有していなかった事」は先ず確実であろう。
ところが「名刀」とされるものには、「筆者の見立て」では、これが一部確認する事が出来るが、ところが完全に概念として有していたかは定かでは無い。
又、「製作過程」でも偶然に得てそれが「名刀として扱われる所以」と成っていたとも捉えられるが可能性は低い。
然し、これはより「偽の類似的組織」の「ツルースタイト>ソルバイト」の関係で、“偶然に名刀に成った”と観ていてこれが「刀の筆者説」である。
何故ならば、「鋼鉄と砂鉄の違いの事」は、勿論の事ではあるが、この「マルテンサイトの存在」を「確認する事」には、「屈折光」だけでは無く、「高度な顕微鏡とその為の化学的処理・ナイタールと硝酸液の処理と酸化クローム研磨」が必要であるからだ。
ところがこれが当時は未だ確かに無かったと観ている。
「奈良期からの飾刀の匠技」に伴う「高度な冷却概念」の中には、「密かにテンパー概念」があったとしている記載があるのだ。
何故ならば、それは“玉鋼”ではない”「近江鉄」”であったからだろう。
それを理由に「近江と摂津と伊勢の青木氏部の匠」の中では、「何らかな方法・貿易」で獲得され、この“「703年〜713年の前からの歴史を持つ近江鉄」”を使う以上は、「最初の試練」として「試行錯誤の中」で「額田青木氏の超近代銃銃」に「高度な冷却概念」を求められていたと見ている。
寧ろ、そうでなくては使えず懸命にその「匠技」を獲得しょうとして“間違いなく応用された”と考えているのだ。
そうでなくては「近江鉄・磁鉄鉱と褐鉄鉱」である以上は使えないのだ。
上記の「近代的な検査装置の存在」は無かったにせよ、「屈折光」と「焔硝の存在」とそれなりの「研磨工程」があれば、「最低限のより高度な確認検査装置・貿易で得られていただろう」は「室町期」には最早在ったと考えられる。
「屈折光」は、「当然の事」として、「焔硝の存在」は大和には既に奈良期からあった事が記されている。
それは「白村江の戦い」から破れて引き上げた「天智天皇」は、中国が攻めて来るとして「山陽道の造成」と「周防國から奈良」までの間を、「硝煙狼煙」で「情報を伝達するシステム」を構築した「歴史的な有名な事件」が在ったがこれに既に使われているのだ。
これ等があれば、「その概念の存在」は、兎も角も、少なくともそれなりの「マルテンサイトの存在・極めて硬い組織の感覚的存在」は稀にも経験していた事は否定はできない。

注釈 この「マルテンサイトの呼称」は、そもそも「ドイツ語」であって「近代の物理学、即ち、冶金工学と金属工学」は、主に「戦い」に依って利用され進歩を遂げたが、この為に「戦い」に勝つ為に「古くなった西洋の火縄銃の近代化」を「切っ掛け」に「近代銃への発展」へと「発達経路」を西洋で遂げたが、これ等は全てはこの「ドイツ」から起こった事なのである。
必然として「ドイツ」の「西洋での位置づけの結果」では「勝利」を収めたのだ。
これを「伊勢青木氏・伊勢屋の貿易」を通じて得ていたと云う事に成るのだ。
当然に、その「技術」は「青木氏部」を有していた限りに於いて一部分であったと云う事では無かった筈である。
奈良期から始まった「近江鉄の製鋼技術」から「室町期の近代銃の完成技術」までを、この「貿易」に依って全部とは云わずとも獲得していたと認識しているのだ。
確かに問題は「奈良期からとする処」に問題は在るが、そうでなくては「近江鉱山の鉱石」を「高炉・日本での歴史は、一般的に「江戸末期に利用」を使ってしか成し得ない筈だ。
とすると「近江鉄使用論」は成立しない。
逆に「近江鉄」が存在する以上は、其れなりの高炉に近い「高温に成る炉」があった事は否めない。
これは「幾つかの記録」からも「歴史上は紛れもなく史実」で在る。
以上は、「高炉」と「近江鉄の製鋼技術」から、「室町期の近代銃の完成技術」までの間には「高炉存在論」が成立する事に成るが検証か必要である。
それは「奈良期からの近江鉄」は、「院号を有していた伊勢の殖産業」で興されたもので在った以上は、その「社会普及」を特段に敢えて辞めて、「高炉に等しい炉」が見つからない以上はその開発炉は“「伊勢・摂津の範囲に留まっていた事」”に成る。
寧ろ、これは「氏是と家訓」に従っていた事であろう。
其の事からこの「高炉に近い炉の普及」を“留めていた”と受け取るのが正しいだろう。
これらは「院屋号を完全保証されていた平安末期」と、「伊勢本領安堵の号」としては限定保証されていた鎌倉期」と、「律宗族としての半資格での室町期」の「3つの経路の扱い」を受けていた。
この事から、故に「上記の開発の完成技術」は、長い間を「青木氏部」の“「氏族内に留められた・青木氏部」”と考えられる。
そして、前段でも論じた様に「江戸期」に成っても「氏是」に伴い、「銃」と共に「一連の物」が秘密裏に「抹消した経緯」を持っているのだ。
但し、「上記の完成技術の経緯」としては、「三方ヶ原の戦い以後」に「伊川津」に戻り、「渥美湾の制海権」を松平氏から獲得してから、暫くして、「摂津と伊勢」では「銃のその必要性」は無くなり、密かにして治めた。
然し、これが「江戸期」に成って、前段でも論じた様に「享保期末期の吉宗との事件」と「山田奉行所との争い」とを相手に「摂津水運組合と山田奉行所事件」で摩擦・闕所事件」が起こった。
「紀州藩の後盾」を得ていながらも“「難癖」”を着けられない様に、これらの「銃に関する全ての技術」は完全に抹消したと観ているのだ。
取り分け、「母方系の藤原秀郷流一門」が「幕府御家人衆」に組み入れられ、「伊勢藤氏の全て」が「紀州藩家臣」と成った経緯もあり、これ等に影響を及ぼさない様にする為にも「銃技術を含む全て」は、勿論の事としても「上記に論じた完成技術」も“「抹消処置の時期」”としたと観ているのだ。
前段でも論じた様に「四家の桑名等」では、“「祠」にして密かに「神明社」までも鎮守社の裏に隠したとある。
そして、その「床下」に「青木氏の手伝統の記録・資料等」を隠したとした”とする。
この為に「青木氏の現実の記録」も遺されているし、「南勢の旧領地等の各地の青木氏」でも同然であったとしている。
兎も角も、“「抹消処置の時期」”とした場合は、概ねこの時期しか無かったと観ている。
この元には「奈良期からの殖産」で「鉱山開発の院屋号を持つ伊勢」は、偶然にも環境証拠として「近江鉄を利用したとある。
この事では詳細が判っている。
それには僅かに「アルミニウムとマンガン含む鉄の原鉱石」、即ち、「1246度融点での近江鉄」には「磁鉄鉱と褐鉄鉱」が含まれていたとある。
この結果として、「近江鋼」は、砂鉄と違って“「味のある特性としての概念」”で引き出されていた事に成るのである。
工具などに使えば鉄だけの物より特性の豊かなものに成ると云う意味である。
とすると、「近江鉄」は一般の要求に鍛冶師として応えられる鉄であったと云う事だから相当に忙しかったと考えられる。
当初は1つ目の鉱山、あまり時間を置かずして2つ目の鉱山と、開発途上の鉱山でありながらも広げていった事が判る。
そしても何時しか「近江」には「4つの鉱山」が開山された経緯を持つのだ。
如何に「近江鉄・近江鋼」が当に世間から好まれて奪い合いする様に求められていた事が判る。

注釈 さて、そもそも故にこの「急激な需要・経済発展に寄与」に対して、この「経緯論」としては、先ずどの様な「溶解炉」がこの「近江鉄・近江鋼」には、使われていたのかである。
これだけの「需要」に対して、応えられるのは現在科学から観ても「高炉」でしかない。
然し、この「高炉」は日本では「明治初期の使用」であり、西洋でも室町期末期である。
これでは「経緯」が合わない。
「砂鉄の炉」は理論的に使えないから何か炉を開発した事に成る。
結論は、それは“どの様な「高炉に近い炉」を開発していたのか”であり興味が湧く。
「近江鉄」から炉高が高く無くてはならないし、新規の還元剤の開発も求められる。
「砂鉄」では、「平炉、箱型炉、縦型炉の開発経緯」で三つが使われたが、要するに高炉型ではない。
これでは「近江鉄のような鉄鉱石の溶融」は、そもそも物理的に無理であり、それは「砂鉄の砂鉄炉」では「溶解温度」と「還元剤」と「溶解容量」とが原理的にも合わないのだ。
この爆発的な「需要量」に応え得る事は、論理的に無理な事では勿論であるが、取り分けそこには「還元剤」が「鉄」を獲得するのに無理であるのだ。
現実には「鉱山産出と原鉱石にする量」は、この「需要」に応じたとしてもこれを「獲得する炉の開発」が必要であるのだ。
上記した様に「砂鉄の三つの炉」は、原理的に無理であるのだから、何らかのこの三つ以外の原理的に可能にする炉の開発が「鉄の鉱山開発」とは別に同時に求めらていた筈である。
其れでなければ「鉄」として進んだ「特性」を出す「近江鉄」は成し得ないのだ。
そこで、大昔は「原鉱石」から風化で削られて河川に流れ着いてその鉄だけがその比重差で沈み込みそれを溝で浮かび上がらせて、これを浚って集めた鉄、即ち「砂鉄」のものである。
然し、この「砂鉄による製鉄・1560度融点・蒸発最高点」である事からこれを「タタラ鉄」とも云われた。
然し、その「タタラの砂鉄・ふいごを使った炉」には「弊害」と成る「高融点のチタン」を多く含んでいた為に、この「チタン」だけが溶けずにいて炉の出口を塞いだのだ。
これが「砂鉄の進歩」を阻害した最大の欠点であった。
然し、この対策として「考え出した炉・高炉らしき縦型炉の坑口」にも「詰まり」が発生し、結局はこの詰まりの為に「炉の崩壊」が度々起こり解決に至らなかった炉なのだ。
これにより「三つ以外の炉形」は、“進歩に繋がる製鉄法”としては使え無かったのである。
現在でも、ほぼ同然で、そこで、何度も「高炉での研究開発」が「青木氏部」で成されたが、結果は同然で、この「チタンの多く含むタタラ鉄」では無理で況してや、その「チタンの特性」を江戸期末期まで生かせずにいたのだ。
「上記する元素」としては「同然の特性」を有するが、然し、「チタン」は「鉄を強くする五大合金元素」に含まれる可能性を持ちながらも、「利用」は「難・1668度融点」であった為に、現在でも「高度な真空電気炉以外」には「一般炉でも溶解をする事は出来ないのである。
そもそも「チタン」は「鉄」より軽く「アルミ」より重く耐熱性が高く次の「鉄に代わる金属」と云われている。
この経緯から当然に「古代のタタラ製鉄」は必然的に衰退して行ったのだ。
そもそも「何処の砂鉄」にも、他に日本の地形の形成上から「ニッケルとシリコン」を含んでいるものである。
然し、これ等は「高炉以外には取り除く事」が出来ずに「タタラ製鉄の砂鉄の欠点」として残ったのだ。
そこで「伊勢青木氏の摂津」では、「砂鉄の縦型炉を改良した竪型炉」を開発したのだ。
これでこれを機に「近江鉄を使える様な炉」を次第に開発したとあり、それが最後には室町期末期まで使われたとある。
関東は砂鉄が少なく、「近江鉱山」を参考にして「鉱山開発」が「鎌倉期・室町期末期前後」から始まったとされ青木氏部は指導したとある。

注釈 「鉄の融点」は「1560度・実質1230度で可能」とし、「高温では現実に蒸発が伴い爆発の危険性」があって、ところが、この「鉄」には「他の金属」と異なり、その「温度毎に特有の結晶構造」を持つのだ。
それ故に物理的にこの高温は使えないのだ。
即ち、それが「炭素の含有との相関」であり、「使用範囲の限界」は、「温度毎」に異なり、最低で「723度程度以上・オーステナイト結晶」に成る。
最高で「1025程度にする事」で、「何らかの処理」で上記した「マンガン・融点1246度/鉄の限界融点1232度」との「相関関係」、つまり「鉄と炭素相関図」が成立する事に成る。
この相関関係が成立する温度範囲で無くては鉄は使えないのである。
この「鉄と炭素との各種の組み合わせ」により、「各種のセメンタイト・鉄と炭素の結合体が生まれる事」が可能と成るのだ。これ無くして鉄は使えないのだ。
この“「融合と合成」”の為に、これが「比較的低い温度」の為に「上記の様な事」は可能と成る。
だが、然し、逆に砂鉄の場合は、この「タタラのチタンの欠点が生まれ、利用は無理と成るのだ。
故に、「砂鉄」は「平炉のタタラ炉」でゆっくりと行われる。
その為に「炉の温度」に「低めの限界}があって、この「チタン」を溶かせずに、逆に「チタンの弊害・結晶」に対して「炉や加工品の破壊」などが頻繁に起こっていた炉なのだ。
この「弊害・当時は理解されていなかった」を含有し、絶対に「物理的に不向き」であって、現在も「真空電気炉以外」には無理であるのだ。

注釈 そこで、「前段の日野―松井―摂津の地理的往来の論」でも論じた様に、「朝廷」より「院屋号」で「殖産」を命じられた。
この大和では「鉱山開発の経験」のないところで「伊勢青木氏の裔系」の「奈良期の殖産」として「因事菅隷」として開発されたのが、「古代の日本最初鉱山」の「大倉鉱山と高倉鉱山」等に依って採掘されたのだ。
これが「近江鉄と呼ばれる鉄」であった。
要するに「近江鉄・前段の砂鉄では鉄鉱石」であるのだ。
これを使えばより多く、より「高温に溶かす事」が出来る事が可能に成ったと考えられる。
「後の銃の試作生産時」には、即座に「青木氏部・摂津と伊勢の青木氏部の匠等」に依ってこの「近江鉄の原鉱石」と「高炉に近い竪型炉の使用」は、1400年代初期頃には密かに炉の原形が試されていたが、此れは既に奈良期からの試されたものであったと記録されている。
この為に密かに逸早く「西洋」からその「炉の技」の原案理論は「貿易」で密かに持ち込まれていたとされる。
「摂津・堺」では、これに基づき,「試験用」として速い時期からこれを選ばれていたと考えられる。
そもそもそうで無くては、態々、この「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ鉄」”では無く、先ずに“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くすには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、それに近いものを採用したと考えられる。
然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が既に「伊勢青木氏部]にはあったとされ、それには「関西で使われていた箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
何故ならば,関東には日本形成事からの地質地形上で「砂鉄]は少ない地質であった。
そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
ところが、この「高炉説」を本名する事が起こっているのだ。
「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が関東でも使われたと云う事に成る。
全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」である。
「近江」では「青木氏の炉・竪型炉」であって、「匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずいたみのが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされ、これを「竪型炉」としていたと考えられる。
関東では「発展過程の炉」と云う事では無いか。
つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に独自開発していた事を意味する。
実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を炉の高い先端から投入する事が必要とする。
専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は「高炉の原型炉」と云えるもので、「原理的」には同じ傾向のものである。
つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていてこの「炉底」に「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
最後に、炉全体を壊して「二種の鉄」を取り出していたのだ。
これでは未だ使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
この作業は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させべく長い間「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発」を試みたのだ。
それが「縦型炉の改良の竪型炉」である。
日本は最も高い効果を出す還元剤の製造には伝統の掟があって使え無かったのだ.
それは先ず「石炭」を500度程度の蒸気で熱してコークスとして使えば最高の還元剤となるがこれが伝統で出来なかった。
其れは超毒性の強い酸化硫黄の公害である。

この原理の検証に続く。p48


「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」に続く。


  [No.398] Re:「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/10/10(Mon) 10:29:41

「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」の末尾

> 「摂津・堺」では、これに基づき、「試験用」として初期の時期・近江鉱山開発と同時期」からこれを選ばれていたと考えられる。
> そもそもそうで無くては、態々、この鉄を熔融する事で起こる「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ製鉄」”では無く、先ずにそれには“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くす事を試みた。
それには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に論理的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
> 「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、改良が進んだ室町期にはそれに近いものを採用したと考えられる。
> 然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が時系列上は既に「伊勢青木氏部]にはあったとされる事とに成る。
それには「関西で使われていた砂鉄用の箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が、既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
> 何故ならば、「関東」には「日本の地形の形成事」からの地質地形上で「砂鉄」は少ない地質であった。
> そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
> そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
> 上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
> ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉・竪型炉と予測」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
> 「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
> 理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
> ところが、この「高炉説」を本名とする事が起こっているのだ。
> これは「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
> やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
当然にこれには炉の開発も進んでいなくてはならない。
> そして、この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
> この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
> つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が「関東」でも使われたと云う事に成る。
> 全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」であった事に成る。
> 「近江」では「青木氏の炉、つまり開発した竪型炉」であって、「青木氏部の匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずにいたものが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされる。
これを「竪型炉」としていたと考えられるのだ。
>「 関東」ではこれは「発展過程の炉」と云う事では無いか。
> つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に「独自開発していた事」を意味する。
> 実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、現鉱石を還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を「炉の高い先端」から投入する事が必要とする。
> 専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は、「高炉の原型炉」と云えるものであって、「原理的」には同じ傾向のものである筈だ。
> つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていて、この「炉底」には「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
> 最後に、「炉全体」を壊してこの「二種の鉄」を取り出していたのだ。
> これではこの工程で未だ「鉄」は使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
> 更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
> この「ケラ作業」は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
> 「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させるべく長い間で「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
> 実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
> そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発/摂津」を試みたのだ。
> それが「砂鉄に付か使う縦型炉」の「改良の竪型炉」であった。
> 日本は最も高い効果を出す石炭の「還元剤の製造」には「伝統の掟」があって使え無かったのだ.
> それは先ず「石炭」を「500度程度の蒸気」で熱して、危険な硫黄を取り除き「コークス」として使えば「最高の還元剤」となるが、これが「伝統の概念」で出来なかったのだ。
> 其れは「超毒性の強い酸化硫黄の公害」に依るとして付けて戒めていたのである。

「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」


さて、ここで「近江鋼」を検証すると、この時の「製錬の原理」が 「竪型炉≒高炉」とすると、「摂津青木氏の青木氏部の匠」が、「砂鉄の玉鋼」では無い「奈良期・703年〜713年からの鉱山開発」からのこの「近江鋼」を製錬する場合は、まず何はともあれ「炉の改良」を行った筈である。
そして、「鎌倉期」に「関東」での「鉱山開発の鉄鉱石」には、「上記の竪型炉」が使われていたとする遺跡の時代経緯からすると、同じ「鉄鉱石の近江鋼」にも少なくともこの「竪型炉」が使われていた事に成る。
何方が先かは後に述べるとして、当然に、「奈良期・703年〜713年」からの「鉱山開発」から、「鎌倉期の鉱山開発」までには、「約480年間の時代経緯」があるとすると、「竪型炉」は「摂津青木氏の青木氏部の匠技」に於いて先に必然的に改良されていた筈である。
それは「近江鋼」と「千葉の遺跡」とが「竪型炉≒高炉とする原理」であったからだ。

では、「竪型炉≒高炉とする原理」であったとする事から“どの様な処を改良されていたか”である。
少なくとも「還元剤の使用の有無」から「高炉」そのものでは無かった事が物理的に、時系列から頷ける。
「高炉」に使う「高いコークス技術による還元剤」はまだ日本では使われいないからだ。
故に、「高炉」に対して「改良を施した炉」を使っていた事が判り、それが「竪型炉」であって、この「竪型炉の改良点」は学問的に観て次の様な点があった筈である。

筆者がもし「竪型炉=高炉」とするには、その「財」に問題が無かった事から、且つ、目的達成の為の「改良点」を導き出すとすれば次の様な事をする。

1 「より良い銑鉄とタタラ」を取り出す為に、つまり「溶融温度」を高める必要があるが、この為に「竪型炉」を小高い丘などのより上部にして高くする事。(史実)
2 品質と爆発を配慮して「二重底の炉形」を解消して、「原形のタタラ・溶かした鉄」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実
3 「二度の不純物除去の炉の無駄」をなくし、つまり、先ず「タタラ」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実)
4 「重要な還元反応」を高める為に、 「還元剤」として現行の「木炭」+「石灰石」に加えて、「古来からの熱源」で、且つ、「還元剤の石炭」(コークス・注釈)」も加えて「還元反応」を高めて「銑鉄純度」を挙げる事。(史実)
5 炉の上に「屋根」を設けて全天候型にして保温する事。(史実)
6 大きくする為に壁に煉瓦の使用を試みて壁強度と壁保温度を上げる事。
7 「チタンやニッケルやシリコンの不純物」の「流し経路」を設ける事。

注釈 飛鳥時代、奈良時代から、要するに瓦は使われていた。
煉瓦は、“「磚、甎・せん」”と呼ばれてあった事が記載されていて「構造物」には使われたとする。
その後に廃れたとあり、これは弱点の地震にあったとされる。
中国では紀元前の秦の万里の長城に既に使われている。

注釈 石炭は記録から奈良期から採掘が成されていたが、その採掘場所の地層から硫黄分が多く出た。
この「猛毒の硫黄」が嫌われて使用は避けられていた経緯が記されている。

注釈 上記6の「木炭高炉・14世紀」は、まだ「還元性」が不足はしていたが、既に「西洋」に於いて「木炭高炉」は一応は出来ていた。
その歴史は、「14世紀初期」に「木炭高炉」、「17世紀初期」には「石炭高炉」、「1783年頃」には「コークス高炉」、の「以上の経緯」を経て開発されていた。(史実)
それまでの「欠点」をこの「石炭」でこの「還元性」と「火力・炉温度」を高めたが、ところが「石炭高炉・17世紀」には“「硫黄分」”が強く、これが“「銑鉄」”には「最大欠点」の「脆さ」を出して「使えない事」が起こったのだ。
高炉にも使えない最大の欠点がでて一時廃れる。
そこで、多くは「約100年後」の「1709年」に、この「石炭の欠点」を無くす為に先に石炭を蒸して「硫黄」を先に取り除き、これで「コークス・炭素」を造る事で、これで「高炉の欠点」を解決したのが「1783年」である。
この間、「74年間」も掛かっている。元から云えば「174年間」である。
然し、これには「疑問」があるのだ。
従って、時系列からこの「鎌倉期頃」には、つまり、既に「関東での鉱山開発」を始めた頃には、「木炭高炉・竪型炉・青木氏開発」として、「日本・摂津から千葉に移設」でもあった事に成る。(史実)

注釈 この「青木氏開発」の「竪型炉」は、「銑鉄」からもう一度、「製錬する炉」などで溶かし直して「不純物」を完全に取り除いて最終は圧延しして使う方式である。
現在ではこれを「転炉」と云う。
「近江鉱山」から「480年の間」に上記の「改良点」を「青木氏部」で実現すれば、「竪型炉≒高炉」は成立する。
上記の注釈の、「西洋」に於いて「14世紀初期」に「木炭高炉」がある以上は、「青木氏部の竪型炉」の「改良点」は示現していたと考えられる。
従って「1500年代初期」には「堅固な改良型竪型炉≒高炉」は存在していた事が頷ける。
況してや、「院屋号」を背景に「1025年頃に総合商社」に成っていたとすると、「中国・宋」のみならず「西洋との貿易」は行われていて、「最低限」でも「木炭高炉・14世紀・鎌倉期末期の原形」が日本に導入が成されていた事に成る。
それが故に、「関東の鉱山開発」には最低でも、「史実」として「高炉」では無く「改良型竪型炉」が採用されていた所以と成るのだ。
とすると、「青木氏部」がその「院屋号を持つ殖産」の「時・703年・713年」から「近江鋼で得た炉の技の使用」を「全国・関東」に広める事には、可能でその時点から「竪型炉の普及と改良」を重ねていた事に成る。
自らも「銃の欠点の解決とその開発の完成」に至る事までは、それに依って、この「竪型炉≒高炉の改良点」は、「青木氏部」に執って必然急務であった事に成る。
従って、時系列の経緯としては「14世紀」で「木炭高炉」に成ったとすると、上記の「額田青木氏の銃」に使う「近江鉱山の鉄」にするには、未だ「200年の開発期間」があり、それには「高炉の炉」としては「石炭高炉・1709年」から「コークス高炉・1783年」までに「仕上げる事の時間」があった事に成る。
ところがこの時、既に「日本の戦国時代」は始まっていた。
「額田青木氏を救い出す事」にはどんな炉にしろ「炉の開発」は急務であった。
要するにそうする最先端の「コークス高炉・1783年」までには、「高炉開発の時間」が更に「180年足りない事」に成る。
従って、この「180年間」は、「竪型炉≒高炉」であって、「貿易」があったとしても「木炭高炉・14世紀初期」<「石炭高炉・1709年」の間にあった事に成る。
そこで時代は先ず「木炭高炉・14世紀初期」を脱し、更に「石炭高炉・1709年」からも脱しようとしていた時期で、ところがこの「コークス高炉・1783年」にはまだ年代的にも程遠い事に成る。
「木炭高炉・14世紀初期」は、「竪型炉の炉低外」で「炭」を大量に使用し「外に流れでた鉄」を覆い、更には「還元剤」としても多量に使用する為に、製鉄には最も重要なのはこの「還元剤」であるがこの元と成る炭の「備長炭の使用の炭・殖産中の論」と云う点では符合一致する。
時系列として「石炭高炉・1709年」は、「江戸中期以降の事」であるので、その「高炉を使うと云う事」では「青木氏の所期の目的」は既に高炉に至っていず終わっている。
従って、「近江鋼開発と炉開発と銃開発の3目的」から「近江鋼用の高炉開発」は「竪型炉≒高炉」でも良い事であった。
故に「高炉」に拘らなくても敢えて「独自の竪型炉の発展炉・改良炉」を成し遂げて使っていたと観ているのだ。
その為の「財と技」は、充分にあって、それ故に「青木氏の氏是」に従い、この「過程」では「青木氏部」では秘密裏な事であったと観ているのだ。
この「3つの目的」の内の「近江鉄の開発」は、時代は進み「青木氏部がその置かれている政治的立場」から、既にその「殖産の義務」は既に無く成り、「平安期/鉱山開発の炉開発」では終わっていたと観ている。
故に、この「改良型の竪型炉」が「関東の鉱山開発の製鉄」に使われていた事に成る。
丁度、「青木氏部の摂津での開発」は「一種の試験炉」であったのであろう。
これらの周りに無かった「竪型炉の発展」と、「青木氏の義務の経緯」は一致していて、“「木炭高炉・14世紀初期」の段階”で終わらしていて、後は「記録」から「関東の鉱山開発と製鉄技術」の一部をその「青木氏部の匠技」は引き渡していたいた事に成るだろう。
「関東」に於いて「箱型や平炉の歴史」が全くない所から観て、「青木氏の竪型炉の改良型」が「何らかの条件付き」で「引き渡された事は確実であろう。
だからこそ「鎌倉時代の中期」まで、その「功績・見返り」に応じて「伊勢本領安堵策」にも繋がった要因の一つに成ったのであろう。
中期以降も「伊勢の本領安堵」は、“「郷氏」”ではあったが「守護王・大名」で無く成った事を理由に「南勢の旧領地」を残して全て解かれて無く成った事があった。
然し、ところが史実はこれを全てが“「地権者」”に変わっただけであったのだ。
「買った」のか「買わされた」のかは判らないが、前段でも論じた様に「伊勢一の大地権者であった事」は判っている。
後は、「室町期の戦乱期」では「額田青木氏の銃の完成期」にあったのであり、何も「高炉」で無くても「竪型炉≒高炉」で丁度良かったと云う事に成る。

注釈 「竪型炉の改良点」の「強力な還元剤」であり、「強力な熱源」の「石炭」は、その「欠点の硫黄」を除去するのに何と西洋では「74年間以上」も要している。
これは「青木氏部」にとっても「大いなる疑問」である。
そもそも「石炭」は、石油同然にその典型的な「化石燃料」であり、地層より「硫黄」を含むは必然であり、そもそも「硫黄」は地中で「強力な硫酸塩鉱物」を造り「硫化鉄」と成す代表的な物で、常識では“「74年間以上」”は不思議である。
そして、これを解決した方法が“蒸した”とするも当然と云えば科学者、又は科学知識のある者で無くても当然であって「不思議の極め」である。
ストーブなどで「石炭の火力」を火中で強くするには、逆に「石炭」に水を吹きかけ蹴る事であり、これに依って熱せられた「石炭」から硫黄が蒸されて飛びだし、残りは「炭素のコークス」と成り、これが「酸素」と反応して「火力」が強く成るは「子供頃の知恵」であった。
従って、「石炭」から「硫黄」を取り除けば「コークス」になるのは「子供の知識」であり、故に例え「74年間」は年代に関係なくおかしい。
「西洋」では「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」の2つではあるが、日本に於いては「石炭」は「飛鳥の古来」よりあって当然に「加熱材」として使用されていた事は「記録」から判る。
従って、少なくとも「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」には「74年の時間差」は普通は生まれ得ない事に成る。
且つ、歴史を観れば、前段の「備長炭の論」からの「木炭高炉・14世紀初期」が在れば「石炭高炉」と「コークス高炉」はほぼ同時期に既に成立する事になり得る。
そこで、「西洋」で「木炭高炉・14世紀初期」とする事には、日本では前段の「備長炭の論」から「900年頃」には既に「乳母女樫」に依る「良質の紀州木炭」は既に存在していた。
そして、その「木炭で造った墨・青木氏部」は、前段や上記で論じて来た通り「奈良期」に於いて「殖産」を命じられて完成している事から、「木炭の竪型炉」では、「高炉」に至るまでに既に使用されている事に成る。
とすると、「西洋」の「木炭高炉・14世紀初期」より前に「摂津の青木氏部」では「木炭竪型炉・平安紀初期」は完成していた事に成る。
従って、この「上記の改良型」が「青木氏部」に依って既に成されていた事に成り得る。
つまり、「石炭高炉」のみならず「コークス高炉・1783年」も同然と成り、“「石炭・コークスの竪型炉の改良型」” つまり、「竪型炉≒高炉」は成立していたと観ているのだ。
「上記の改良点」は冶金学的に「財」さえあれば「目的の重要性」から比較してそれ程に難しい事では無いからだ。
要は「竪型か高炉」かの呼び方如何程度のものに依ると観ているのだ。

余談として、割きに続き「西洋の歴史観」は、「青木氏の歴史観」からすると、余談と成るが、何故、「硫黄」にこれだけの「時間・74年間」を要したのかである。
「硫黄」は今も昔も「鉄を脆くする最悪の物」であるし、「猛毒」である。
「流化鉄」は放置しないであろうが、恐ろしい物である事はあるのだが、逆に石では無いので“蒸して取り除く事”も至って簡単である。
「石炭」は「高炉」の「最高の熱源」であって、且つ、「最高の還元剤」ではある事に目を着けた事は優れている。
現在に於いてもこれ程の物は出て来ない。
故に、現在は、この「厄介物のチタン等の鉱物」は、「高温」にして溶かして「単独金属にまでする溶解炉・高融点」に「コークス高炉」が使われている所以である。
この「74年」は、「コークス高炉」に到達するまでの“「石炭高炉」で一時済ませられていた”と云う事では無いか
「西洋の通説」と違って、「高炉中」に於いては「日本」では「硫黄」は問題とは成らなかったのでは無いかと観ているのだ。
何故ならば「竪型炉」でも「石炭」を使えば出る可能性があるからだ。
「硫黄の分子量32/酸素16/空気28.8」で炉中に発生したガスは重いので先ずゆっくりと「炉底」に沈む。
そして、この「反応力」は酸化物中で最高で「ガスの状態」で吸い取り炉上に放出していたが、空気より重い事から「地表」に落ちて沈み「植物」を枯らし、人間に健康被害の問題を起こす。
その為に「74年も放置無視されたという事」の原因となったのでは無いか。
もっと云えば、日本での「石炭竪型炉の記述」を記録から観ないのは、この「毒性や鋼の脆性」などの「重大欠点」を嫌っていたものであり、故にこれを使わない「木炭に依る砂鉄の玉鋼炉」が明治の初期まで主流であった事でも云える。
当時でも、だから「鉄の製鉄方法」は「砂鉄の玉鋼」から脱却できなかったのだが、だから「最大の欠点」は、「砂鉄」では「還元力」に重点を置くのではなく「炉の溶融温度が低い事・木炭」にあったのだ。
兎も角も、古来より身近にある「石炭」を「硫黄と云う最大の欠点」を生み出す為にこの還元力と熔融での「最高の石炭」は、“敢えて使わなかった”と云う事ではないか。
それを解決するのが「竪型炉か高炉・温度」であって、それが「コークス・温度・還元力」なのだが、そうすると、この「悪害の硫黄」を、何故、「植物化石由来の石炭」を「150度〜540度付近」で蒸して「硫黄ガス・120度程度付近の融点」で取り出して「無害」にして使わなかったのかである。
そうすれば、「最高の還元力」と、「最高の温溶融温度」を簡単に獲得出来ていた筈なのだが。
これはそもそも科学的に観て、「古来の日本」に於いてでもそう「難しい発想・知識」ではなかったのだが、それが理由で歴史的に明治初期まで使われなかったと云う事だ。
実は、これには、「科学的の事以外」に、“何かの特別な古来概念が働いていた”と云う事ではないか。
何故ならば、それが“「明治初期」に成って全ての熱源にも一斉に使われ始めた事”なのだ。
この「概念」が突然に簡単に取り除かれたと云う事ではないか。
それ程の物であった事に成る。
これには、そうすると、“何かがあった”からだが、それは何なのかであり「発想の転換」を成すより強いものが明治維新に働いたと云う事になる。
この“古代の鉄の時系列”では次の様に成っている。
「砂鉄のタタラ製鉄、或いは、「その後の鉱山鉄」が、上記して世間、即ち、「伊勢神宮」に於いては<「薬用」<「禊用」の過程の概念に関わる物”として扱われていたと仮にすると、「上記の様な突然変化の事」が起こっていた可能性がある。

そこで、「時代の進行」に沿って当時の「鉄の置かれている立場」がどの様に変化して行ったのかを検証して観る。

1 昔は金属の鍛造に関わっていたものの総称を、「打物者」、又は「打物師」とか「居職」と呼んだ。
2 大工の「番匠」に比べて「専業化の強い職種」であった。
3 飛鳥期からの「鍛冶部・かぬち」と[鍛冶戸・かじべ」はその技を継いだ部であった。
4 彼等は一時は「工人の身分」で「農業の傍での作業」であったた為に「農民」に区分けされていた。
5 「12世紀」に成って「鉄の収容増大・需要」で分化して4は「職人格」に成長した。
6 更に「金属処理加工の分化」が進み、「銀加工の銀鍛冶・細工の職人」が分化した。
7 ところが「5の影響」を受けて「鉄の鍛冶師」だけは別の進化を遂げ「別格の技術者扱い」となった。
8 「12世紀」には「刀鍛冶」、「15世紀」には「具鍛冶師」、「17世紀」に「鉄炮鍛冶と庖丁鍛冶師」は5より抜け出し「高い扱い」を受ける様になった。
9 「砂鉄」は“「野たたら」”と呼ばれていて主に古式に原始的に精錬されてにいたが、「近世中期の18世紀」になって、“「たたら炉」による新しい精錬”と成った。
10 「燃料」は「18世紀の最先端の燃料と還元剤」は、あくまで「木炭」であった事が明記されている。
11 彼等は飽く迄も5の影響を受けたが、「区分作業の賃金労働者」であった為に「木炭」からの発展は留まった。
12 古来には「鍛冶屋の職祖神」、又は「道祖神」を信じる職人は、“「金屋集団」”と呼ばれて「金屋子神・かなやごがみ・金山神」の組織の中に義務的に全員あった。
13 古代では、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と、「八幡・はちまん信仰」に結び付く「鍛冶翁・かじのおきな」を主神としていた。
14 古代では、その後は彼等の殆どは「稲荷明神」に入信する事と成ったが、「商人」などは「金山神」とし、組織化されていた。

以上の「経緯の事」から観ると、上記した「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の概念の関係から、「伊勢の殖産」の中にはこれが無かった事が解り、「近江の鉄製品」に限っては「特別な縛り」は無かった事に成るのだ。
そして反面、「砂鉄の事」に限ってはあった事に成る。
だとすると、「砂鉄以外」の「全ての炉種」に対して“「石炭の使用」”には「縛り」は無かった事に成る。
これにはただ一つ上記の「9〜14」に「答えに成るヒント」が出ている。

先ず、“全ての鉄に纏わる者等”は、“「金山神」”を「主神」としていて、彼等の全ては“「金屋集団」”と呼ばれる「組織」に入っていたと云う事である。
この“「金山神」”は、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」にその「流れ」を組んでいたと云う事であり、「最終」はそれが“「稲荷明神」”に繋がるとしていて、更に前段でも論じたが、この“「稲荷伏見神」”は、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”と成ったとしているのだ。
つまり、辿れば、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”は、“「稲荷伏見神」”に戻り、古来の果ては“「金屋集団」”の“「金山神」”の、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」に戻るとしていたのだ.
結局は、「古来からの砂鉄」に限っての概念には、上記の「4つの概念」に縛られていたと云う事に成るのだ。
ところが、200年程度遅れた「近江鉄」には、この上記の経緯の「4つの概念」に未だ強く縛られていなかった事に成る。
寧ろ、以前より在った「禊ぎ概念」の「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用」<「食用」の概念の関係が伊勢と近江では優先にしていたと云う事に成る。
終局は、何故ならば「炉の加熱材、又は還元剤」は、その「彼等の木炭の使用」にあるとし、又は、この「石炭の使用の是非」も、この“「金屋集団」”の「4つの概念の掟」にあった事に成るのだ。
つまり、“「砂鉄の鉄」”が、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念にも関わる物として“「伊勢神宮」では扱われていた”のだ。
そもそも直ぐ真近にありながらも「古来からの石炭」は、「鉄、即ち炉」に対して“「是非の非の物であった事」”に成り、「古来からの木炭を超える事」の神聖差からは抜け出せなかった事に成る。
故に、この「概念」が解かれる「明治初期」まで長く使われなかったのだ。
尚の事、「伊勢青木氏の額田の近代銃の製作」には、この「縛り」から離れる為に「伊勢神宮の影響」から離れる為に「改良型竪型炉の固守」で完遂させたのだ。

そもそも、「西洋」では、この「初期頃の高炉とされる主な目的」は、上記で論じている様に製鉄には「軍用の銃身とその弾丸の生産」にあって、「西洋」に於いても同然であって、それに伴って「発達させたとする炉」なのである。
これは「額田青木氏の目的」と同じなのだ。
故に、当然に当時は、「製錬過程」には「日本列島の形成構造上」で、宿命として「原鉱石」の中に「チタン」は多く潜むのだ。
当初では、この「チタンと云う概念が無かった」と考えられるが、それが“「白くて溶けない堅い鉱物・炉の破壊」が、「炉口」で邪魔をして危険な物と成る”とする程度の認識しか無かったと考えられるし,その様に「砂鉄の記録」では記されている。
その為に「砂鉄」では“何か炉に対して対策しようとする開発的の様な動き”はそもそも無かったと考えられる。
要するに、この「不純物の鉱石」を取り除く為の「融点の高い炉」の「必要性の有無」であるのだ。
故に、偶然にも「筆者の上記する専門学的な立場にあった者」から直視しても、「近江鉄に検証される事」からすると、多くの書籍にある「炉の時期に関する通説的な説」とは、「筆者の説」とは一線を画しているのだ。
「日本における炉の上記の歴史的な経緯・青木氏部」とは全く合致しないのだ。
上記の「石炭の使用の経緯」の様に、「炉と砂鉄の鉄」には彼等の守護神の金山神は元より「神に関わる「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念」が強く存在していたと云う事だし、それに縛られていたのだ。

つまり、上記した様に「奈良期」からの「朝廷」より託された「院屋号を有する部経済の摂津の商い」と「青木氏部を有する族」に於いて、「近江鉄の殖産」とそれに伴う「鉄製品の殖産」の「経緯」から判断して、歴史の一般的経緯にはこの「青木氏部の記載」はなくても、“密かに高炉的な開発」もあった”と観ているのだ。
そもそも、「鈩の砂鉄・500年頃の吉備域・主域」に換えて、「鉄鉱石・近江鋼・703年・713年」で行くと決めた時点で、前段でも論じた様に、「タタラ鉄」に用いられた「平炉と縦型炉と箱型炉・鈩用炉」では「鉱山開発の鉱石の溶解」は元々無理であった事に成り、其の様に思っていた事に成る。
故に、“「鉱山開発を命じられた時点・因事菅隷」と同時に「炉開発」が「青木氏部」に求められた筈”であるのだ。
これは「約200年後の事」である事であり、且つ「竪型炉」である事」である事に成る。

「近江鉱山開発の703年頃・因事菅隷」には、「西洋」に於いても未だ「竪型炉」はなく、「日本」では信用できる「遺跡発掘」では、「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の3地層から「3基の遺跡」が発見されている。
これらは明らかに上記の論より「遺跡」の様子から「竪型炉」とするものであった。
これが「通説」として、この「遺跡の時期」を以て「竪型炉の開発時期」とされていたが、最近に成って「最古」とされる「千葉の遺跡」から、正しいかどうかの確認は別として、ところが「8世紀」と「9世紀」の「2基の竪型炉」が発見されたのだ。
歴史的に「炉の経緯」が食い違っているのだ。
この「8世紀の層からの竪型炉」は、「砂鉄の箱型炉」を上に起こして開発発展させた「縦型式の原形の竪型炉」と云うものであった事に成るらしい。
これは現実に「地層」として観れば、「日本独自の開発炉」に成るが然し違うのだ。
上記した「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は、納得出きるし、「近江の鉱山開発」と同時に鉱山用として「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は納得出きるし、これは「近江の鉱山開発と同時」に「炉開発」も急いで行われていた事に成る。
「青木氏部」は大変な課題を背負わされた事に成っていた事を物語る。
余談だが、これに依って先進的位置にいた「中国人も含めた渡来人の技能者」を呼び集めただろう事が判る。
だから何度も論じている上記した「天武天皇の談」に成ったのであろう。

さて、そこで“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「ある地層」から「3基」”に付いても発見されているが、この事に就いて、前期の通り「鎌倉幕府」が「関東」に於いても「財政的な面」から、「関西の鉱山に使われていた竪型炉の技術・伊勢青木氏」を「関東」に導入して、「鉱山開発」を盛んにして「経済の梃入れ」をしたとする経緯に合致する。
この「遺跡3基」はこの「所以である事」から先ず問題はない。
然し、“「千葉の遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の2基の「竪型炉」”は、上記とは時代性が全く合わないが、これが上記した「近江の遺跡」とすれば問題がないが、但し、これにはある「疑問」がある。
先ず「竪型炉だとする炉形説」にしても、当に「砂鉄の時代」のものであり、これが「関東に伝わるのが早すぎる事」と、この「8世紀の炉」とするは、兎も角も、「9世紀の竪型炉」も早すぎて疑問なのだ。
仮に「竪型炉」としても未だ「青木氏部」での「近江鋼用の炉の研究を始めた頃」の事であり、何が何でも疑わしい。
「炉の完成」を無視しての前提とすればそうなるが、「砂鉄の縦型炉」から「近江鉱石の竪型炉」への「炉の開発の変化」は、「近江鉱山開発」から暫時行われていたとすれば「竪型炉の試作中の炉」として考えれば問題はない。
現実に並行して「青木氏部」が全力を投じて専門的に開発していたとしているので可能である。
「703年と713年の2つの近江鉄の鉱山開発」でも、「砂鉄に使われる箱型炉」よりも「砂鉄の縦型炉」を改良した「原始的な改良型の竪型炉」であるので、「同時期の炉」としては考えられる。
唯、研究開発を進めながらも「完全な竪型炉」になるには未だ時間は掛かっている筈だ。

だとすると、上記の「8世紀の炉」と「9世紀の炉」が仮に同時に存在していたとして、始めたばかりの「近江鉄用の原始的縦式竪型炉」が、その同時期に「上総」で使われていたとする事に成る。
「初期の鉱山開発の時期」は、歴史的に「近江の鉱山二つ」が最初であるとすると、「上総」にも同時期に鉱山が拓かれたと云う事に成るが、これでは時系列が早すぎるし、且つ、其の「史実」は全くない。
それは「奈良期初期」の「703年と713年の時期」に、「上総」にも「奈良朝の勢力」は未だ充分には及んでいないからだ。
「鉱山開発と炉開発」の「関東での経緯」があるのはあり得ない。
仮にあったとして、精々、「坂上田村麻呂後の事・平安期初期」になろう。
つまり、「関西の者」が征夷を制覇する途中に、この「千葉」に長く立ち寄っている史実があり、それがその最初であって、それまで「炉を設置するなどの文明」は未だここには無かったのだ。
「施基皇子とその後裔」が、「開発途上の鉱山開発」と共に、同じく「開発途上の炉」を「賜姓五役」として “「上総・移設」に移した”とする推論にこれは成る。
移設するとしてもこの時期は「天皇の承認・因事菅隷」が必要であって、其の為の「伊勢青木氏」に対しては「因事菅隷下」にあったのだから、他氏がここに押し入る事は無理である。
然し、「因事菅隷・内密な特別格式の有する者への特別命令書」の無いこの推論は、時系列的にも手続き的な歴史観より相当に無理だなのだ。

後は、「成り立つ可能性の論」としては、矢張り、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「3地層への設置」からこの「3基」”の論に繋がる説と成るだろう。
前段で論じている様に、総合的に「青木氏の立場」から観て、「11世紀・平安時代末期」で無くても「9世紀・嵯峨天皇前後期」は先ず無理としても、その後の「10世紀・殖産豪商期・平安期中期」の以降は成り立つだろうが「因事菅隷下」の話となるので無理である。
この時期に「関東」に於いて、「殖産」として「伊勢青木氏」は、その「院屋号」に基づき「因事菅隷の令」を受けた「令外官」として「関東に鉱山開発」を試みたのではないかと云う説論に成る。
然し、「記録」を観てもこの「史実」はないし、「炉の開発」は未だそこまで至っていなかった筈だ。
だとすると、それが「開発途上の炉」で以て「11世紀・平安期」にはある程度の花が咲き始めたので、「伊勢本領安堵」された「鎌倉幕府の12世紀」と「北条氏の13世紀」への「見返りの裏」で以て「開発途上の炉」を移行して行った”と云う経緯が無理にも成りたつのではないか。
つまり、「朝廷の命・因事菅隷」にて「関西・近江」だけではなく、「院屋号の特権」を持つ以上は「関東・上総」に於いても、“「初期の8世紀の炉」”ではなく「開発途上の炉」を、「建設場所」を「8世紀の地層」に「703年や713年頃」の100年以上経過した「開発中の炉」を建設したという事で「時系列」は成立するのではないか。
但し、これには前提があり、それは次の経緯を辿る必要がある。

現実に上記した様に、「小高い丘を削りその下から炉を積み上げて造る炉」である以上の事であるが、「8世紀から12世紀までの地層を削る事」は充分にあり得るし、また結果として竪型としては必然的にそう成るだろう。
「近江鋼の様」に明確な記録はないが、「関西の近江」があれば記録は見つからないだけで、「関東の上総・安房」にも「鎌倉幕府の依頼」で、且つ「朝廷の命・院屋号の令外官・因事菅隷」として「青木氏」は密かに「因事菅隷」を受けていた事はあったのではないか。
それが「今回の遺跡調査」で現場が発見と成ったのではないか。

実は、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」は有り得るのだ。
それは、この「近江鋼に使った竪型炉の特性」にある。
「砂鉄の縦型炉」を基本に改良したこの「竪型炉」は、その「鉱石と還元剤と加熱材」を「炉の高い頂上」の上から投げ入れる事が必要であって、その為に「炉高」を先ず上に出したのだ。
この「炉高」を「築炉」だけでは無理で、「炉の構造上」から「危険であった事」から2から3回使うとこの炉を壊して新たに築造すると云う方式を採っていたとする。
ところがこの「炉高」を恣意的に高くすると、余計に「爆発などの事故」があったとされ、そこで「小高い丘」の「上下」を竪に削って利用して「竪型の築造」をしたとしているのだ。
これは「雨水の風雨や温度の維持と炉の温度の平均化」で合理的であった。
この「合理性」が功を奏して、それが次第に「竪型」を出す為により高く成って行ったとするのだ。
其れで、その「小高い丘の上下」には、「一つの炉」で「時代の地層が変わる事」が起こったとするのが学説的に常説と成っているのだ。
寧ろ、「地層が変わる事」がこの「炉」に対して「全体の温度」が「平均化」してよかったとされている。
故に、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」の誤認は起こり得るのだ。
寧ろ、「誤認」が起らなくてはこの「竪型炉」は成し得ない事であったのだ。
従って、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層から「3基」の遺跡」”と「8世紀、9世紀の地層」からでの「竪型炉の2基の遺跡」と合わせて同時期に「5基の遺跡」と成るのだ。
従って、この「変位部分」を修正すれば「竪型炉の史実」は無理なく一致するのだ。
これは云い換えれば、何れにしても「伊勢青木氏」は、「因事菅隷」があったとしても「関東」に於いてその力を敢えて積極的に注がなかった事を物語る。
それはこの間、「伊勢青木氏」では「炉の改良」は進んでいるにも関わらず、「関東」に於いて「技術の進歩の継承」が成されていない事から鑑みて、これは「青木氏の氏是」に基づくものであったろう。
これらの「炉の工事主体」は、「伊勢青木氏の相方」に左右される話で、その前段で、何度も論じている「土木業者の額田部氏」にあったのだ。
そもそもこの「関東の土木」は、「土木を専門とする氏の結城氏の本場」であったし、当時としては手を出さないのが掟であろう。
「争いの元」を出さないのが「氏是」であるし、況して「結城氏」は「母系血縁族の秀郷流一門の主軸」である。
「額田部氏」はまず間違いなく「上総]に手を出さなかったと考えられる。

注釈 「額田部氏」は 「桓武天皇の二度の遷都造成」の「向行命」に従わず「官位剥奪の重刑」を受けて一族追放刑を受けていると渡来系の職能氏族である。
然し、これを「施基皇子」が「伊勢」で密かにひの額田部氏の一族を「青木氏族」の中に入れて匿い助けたのだ。
その後、「施基皇子とその額田部氏の後裔」と共に働き、「功績」を揚げて「50年後」に許されて元の位職に復し、更に「二段階昇進の破格の官位」を「桓武天皇」から受けている。
共に「施基皇子」は「伊勢桑名」に彼等の「土地」を与え居住させる。
当時の慣例として成し得ない民間事で職能人としては、「最高位で破格位の宿禰族の官位」を獲得し、その後、「施基皇子の後裔・青木氏」と共に働き「明治9年」まで「共同企業」として働く。
其の後、「明治35年頃」まで共に発展し、その後、「土木会社」を「桑名」に起こし、その後に経営は現在に続く。
だとすると、「近江鉱山開発とのその製錬溶解炉の開発」に「第二段階の目途」が着いた「11世紀の末期頃」には、「結城氏の根拠地」の「上総・安房」に、この「土木部の額田部氏」と共に、「近江での技術・鉱山開発のノウハウ」を移したと云う「シナリオ」が記録が無いが充分に成り立つ。
そして、その後を「専門外の結城氏・道路の土木技術専門集団」の「結城氏」が引き継いで、「状況証拠の経緯」から「伊勢青木氏と額田部氏」は「上総・安房」から手を引いたいう事では無いか。
然し、それが何時しか「技術の継承」がままならずに放置され廃れて鎌倉期末まで長く引き継がれなかったという事では無いか。
再び、その後、「鉄の重要さ」を認識していた“「鎌倉幕府」が「伊勢」に頼んで来た”と云う事では無いか。
その「見返り代償」が、「伊勢本領安堵と云う事・主張が認められている」ではなかったかと考えられる。

注釈 この「竪型炉」には「一つの特徴」があって、この「重要な認識」を以て建設期ま判断をする必要があるのだ。
それは「砂鉄の平型炉と箱型炉と縦型炉」は、そもそもその構造から「平地」に建造する。
ところがこの「開発の竪型炉」は、「小高い丘」に建設し、丘を垂直下に掘り下げて「高さ」を獲得する。
それは「丘の高い位置の炉口」から「原鉱石や木炭や還元剤」を容易に投入し、下側の「湯口と炉底」に「溶融鉄」を流し、「貯め冷やす仕組み」にして労苦を軽減する仕組みである。
この為に「古い層の土地」を必然的に削る事に成るのだ。
この事から「純粋な竪型炉」に限り「炉の遺跡」に於いては「時代査証」を間違い易いのだ。
この「8世紀と9世紀の査証」は,この“「純粋な竪型炉」”に於いてもう一度検証する必要がある。
もう一つは、まず「初期」にはこの「純粋な竪型炉」に関して、「たたら・鉄滓」を獲得するには「タタラの箱型炉の発展炉」であるが、「箱型炉」をより温度を高める為の「高さ」を獲得する為に「炉」を「縦」にしてそれを「鞴の位置」や「湯口の位置」を変え、「二つの改良」を行った。
それが「改良点の一部」が記録に遺されていて次の通りである。

1 「タタラ・ケラ・炉中・低炭素鉄」と「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」と「鉄滓・ノロ」の「タタラ鉄・3つの鉄」を、「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」だけにした。
2 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を「二つの下湯口」に置き、大きくして炉熱を高めた
3 「木炭・熱源」を多くして「溶解温度」を先ず増し、「炭素量」で還元力を増やし、「石灰」を追加して「還元力」を増した。
4 「炉高」を高めて「炉外底」を無くした

最初は、「砂鉄の箱型炉」から先ず「縦型炉」にして、鞴などのそれを改良して最終は「箱型炉」に似つかない形の違う「別型炉/初期の竪型炉」に成った。
それは現在の「高炉に近い炉形」の「純粋な青木氏部独自の竪型炉」と成ったのである。
この「査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の地層からの「2基・誤認」”の合わせて「竪型炉」の「5炉」に関しては、少なくとも、“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”としてでは断定できる。
唯、「前者の炉形」と「後者の炉形」が、「竪型炉」としても全く同じであったかは定かではないが、現在この遺跡は分析されている。
これは炉のけんしょうかのものであり、鉱山からの検証に於いては異なるのだ。
では、この時期では「未開に近い関東」には、「鉱山」を開いたが「関東」に於いては「どの資料」からも「鉱山開発」は「鎌倉期」からであるとしている。
それ以前のものは見つかっていない。
それも「鉱山開発」には、「経済の根幹」を左右する「鉄市場」を統制する為に「院屋号・特別占有権」を持っての「開発」であって、この当時は「民間」は、「賜姓臣下族」などの「1等官上級令外官に出される令」の「太政大臣に代わって出される因事菅隷」に基づくものであって「民間」は先ず論外であった。
これは「献納の源」にはならないからであるし、誰でもが「献納する資格や格式」を有していないからだ。
「ある一定の資格なし」には、「朝廷」が乞食の様に「献納」を自由に受ける訳には行かない掟である。
従って、それに伴う「炉などの開発に伴う製鉄方法」も、この「民間の中」には明治期まで無かったのだ。
況してや、「政治と経済」を左右する「製鉄方法が絡む所以」は、この「院屋号の格式」を無くしては尚の事であった。
故に当時から「炉と鉄の関係」は政治から切り離せない関係にあって、「鉱山開発と炉の開発の政策」は「院屋号の因事菅隷」で一体化していたのである。
故に、それを持ち得ていたのは「民間」ではなく、長く関わって来た「永代浄大一位の最上位の格式」を有するのは「伊勢の超豪商紙屋院の号の伊勢屋の青木氏部」だけであったのだ。
それ故に、「一切の資金等や技術の出所」は「院屋号が持つ事」に成っていて、それに「見合う献納」を義務として果たしていたものなのだ。相当な財を持ち得ていなければ元より成し得ない格式であったのだ。
飽く迄も「殖産の利益歩合」では無く「献納の形」で明治初期迄続けられていたのである。

故に「政治の執行官の太政官」が出さない「因事菅隷」に従っているのだ。
当然に、この「関東の鉱山開発・資本投資」に於いても、この事から必然として「鎌倉期初期」と成り得るのだ。
故に「因事菅隷」が、密かに令外官として出される以上は、「平安期末期迄」は、「703年と713年」に「施基皇子」に「永代役の賜姓五役・令外官」として「鉱山開発の院屋号」を正式に与えているのだ。
「天武天皇以降による因事菅隷の役務」とその前の「天智天皇の賜姓五役」の「二つの特権」を保持していたのだ。
従って、これがある以上は、その「権利」は少なくとも「平安末期」までは「権利」としても、「財力」としても、「技術力」としても、「土木能力・額田部氏」としても、どんな面を捉えても少なくとも持ち得ていた事に成るのだ。
民間など入る隙間は無かったのだ。
周囲はこの「因事菅隷」が「伊勢青木氏」にある限りは、先ずはお伺いを建具する事に成っていたし、行うとしても可能かどうかは別としても「氏族の下請け」と成っていたのだ。
それ故に実際は「民間の下請け」は無かったとされていて、それは「献納の格式・誰でも献納はできなかった」の有無にあった。

注釈 奈良期の「朝廷内の官僚の8割」は「後漢の技能集団の帰化人の役人・渡来人」で占められ、これが「問題」と成っていたとある。
其処で「天智天皇」に継いで“「天武天皇」”は、これを官僚に尋ね聞いて、これを憂いて、出来たばかりの「太政官令」とは別に“「因事管隷」”を密かに発したのだ。
この「太政官」は、「八省」のみならず、「神祇官等」も含む「全ての官庁(官司)」を動かしたが、この事をより効果的に動かす為には、「特定の令外官」にのみ“「因事管隷」”と呼ぶ「特定の令・内密書・密書」を発したのだ。
つまり、「太政官令」に基づいて、この個別な正式な令に並ぶ「天皇から直接発せられる令・密書」を指す“「因事管隷」”に依って、「特定の令」を発したのだ。
「施基皇子とその後裔」は、この「法・因事菅隷」に基づく“「因事管隷」”の「最初の範」として「特段の扱い」を受けた。
謂わば、「永代令外官」による「天智天皇期・父・668年- 672年」から“「賜姓五役」”として、その役の“「模範例の前提」”と成っていた。
然し、「天武天皇期・叔父・673年- 686年」では、具体的にこれに対して“「因事管隷」”を以て“「特例に発せられた令」”であるのだ。
云わば、「特別の扱いをしていた令外官」を格式に於いて選別して特定したと云えるのだ。
つまり、「天智天皇の永代賜姓五役」から「天武天皇の因事菅隷」に正式に代わったと云う事が云えるが、その後も、この「賜姓五役」の「令外官の令」も出され続けたのだ。

それの一つが、“「因事管隷」” =「賜姓五役」=「殖産起業の伊勢青木氏」であったのだ。
その前には、前段でも論じたが「部人制度」で造った「全ゆる製品」を一度朝廷に納めて、そこで「必要と成る分」を「朝廷」で取り除き「残りの商品」を裁かねばならなかった。
そこで、これを「専門的に成す者」に「賜姓臣下族の青木氏」に命じたのが、「賜姓五役の始り」であった。
これを「賜姓五役を受けた伊勢青木氏」では、これに依って商い事に成る事を以て最後には正式に「商いとする事」にまで発展して行ったのである。
この「賜姓五役の格式」だけでは「天皇・朝廷の命令の全て」が裁く事が出来なく成ったのである。
そこで、「格式充分な青木氏」に出す「是非特別にして出したい天皇の命令]には「限界が生まれる事」が常時発生したのだ。
そこで格式上、「太政官」より「上位の青木氏・浄大一位」に「下の格式の官僚」が「命令」を出せない事の為にそこで「太政官」は、「天皇の意を伝える手段」として「天皇の意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を天皇に出してもらって発したのが始まりである。
中には「官僚」にも伝えたくない「秘密の指示書・密書」も多かった為に秘密裏に「因事菅隷の書」が頻繁に出される様に成ったのだ。
この「密かな命令」の為にいざ「殖産」と成っても「天皇側」が「一切の管財や協力」を出すものではなかったのだ。
「伊勢青木氏独自の一切の力」で「意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を実行しなければならなかったのだ。
況してや「密書」である限りはそれ以上の事は出来ない。そこで部経済の差配役を担ってそこで生まれる利を使う事でこの役を果たす事に成ったのだ。
それには、この「奈良期の当初」は、「部経済での財としての商い」であって、「技としての集団・国造部」の「差配の青木氏部」であったのだ。
それが本格的にこの「賜姓族令外官の開始」に入ってからは、大きい「因事菅隷」では「703年と713年」には、先ず「近江鉱山開発・元明天皇期」が可能に成ったのであって、これらの「功績」を「天武天皇」の“「因事管隷」”に依って“「権威付けたという事」”であったとされるのだ。

注釈 「703年と713年の近江鉱山開発・元明天皇期」は、「鉱山開発」を実施した時期ではなく、「14年掛かって本格稼働に入ったとする時期」を指しているのだ。
その前の「天智期・668年から天武期・686年」にこの“「因事管隷」”に基づいて「準備」をし「鉱山の開山開発の準備」を開始したのだ。
「鉱山の開発とその採掘」には、「土木工事の専門職の部」が必要であって、「施基皇子」と仲の良かった「額田部氏等の協力」を得ていたのだ。
「開発の山場所調査」からその「青木氏部の技術の習得等の調査の準備」が必要であったのだ。

ところがこれが「密書」に於いてである限りは、以上の認識に朝廷も社会も「因事菅隷」に関しては別の所に置いていたのだ。
「密書」である限り周囲は知らなかったと云うのが正しい表現であろう。
確定はしないが、「浄大壱位の真人族」から、態々、「賜姓臣下族」に成ら得なければならない根拠には、この「天武天皇の重要策の目玉策」として、それを、つまり「内密書の因事菅隷」を「実行する氏族の特定の集団」が必要であったのだ。
そして、それが最初に形として出て来たのが「殖産業」=「伊勢青木氏」=“「因事管隷」”があったのでは無いかと考えられる。
それだけに「鎌倉幕府」に成る前の「平安末期」までは、この何人も侵す事の出来ない最高格式を有する“「因事管隷」”の下に「鉱山開発」はあったのだ。
これ等を理解する上でこれが「最低限の歴史観」であるのだ。
故に、鉱山に関してどんな「殖産」にも対応でき、それを叶えていたのは「奈良期からの青木氏部」であったろうし、「鉱山開発」もその一つであったと云う事だ。
これらは、言い換えれば「伊勢青木氏の格式」だけではなく、即ち、密かに「法の前提・“「因事管隷」”に裏から守られていたという事である。
これは普通であるなら「長い歴史の間」で攻撃され潰されるも「超氏族・超豪族・超豪商」として「攻撃されていない・潰されない・抹殺されない史実」はこの前提にあったからだ。
当時は、平安期に於いては少なくとも次の様な関係式にあって引き継がれていたと云う事だ。
「青木氏の格式・浄大一位」=「賜姓五役・天智天皇」=“「因事管隷・天武天皇」=「律宗族」”と成る。

この“「因事管隷」”の中では、少なくとも「平安期末期」までは、この「鉱山開発」は保証されていた事は明白であり、“「因事管隷」”の届かなくなった時期、即ち、「関東の鉱山開発期頃」には「鎌倉幕府」は、未だ勝手には出来ず「伊勢青木氏に頼む事」に成った所以であろう。
云わば、「現在の特許権」に相当するものであったのであろう。
この「関東の鉱山開発」は、少なくとも「近江鉄」に対応した「伊勢での開発改良された竪型炉」が用いられたものであった事に成る。
「嵯峨期」でこの絶大な権力を持つ事に成っていてそれに依って「皇親族を外された事」が、この「因事菅隷」に左右していた事なのかと云う疑問である。
この論理で考えれば「嵯峨天皇の青木氏に対する過激な行為」は納得できる。
つまり、言い換えれば「嵯峨天皇」はこの「因事菅隷を使わなかった事」にも成る。
嵯峨期に於いて「皇親族」は廃止されたが、「皇親族」は当にこの「因事菅隷の族」であった事が云える。
普通は「賜姓族から外された事」では、普通は「因事菅隷が出ない」と考えられるが、それが記録から鎌倉期にもこの「因事菅隷が働いていた事」なのだ。
「因事菅隷が働いていた事」と云うよりは、それは「伝統的な特許権」と云うか他が犯し得ない得ない「進んだ技術力・改良型竪型炉のノウハウ」とで保障されていたからだろう。
この「因事菅隷の事実の伝統」は、この「銃の欠点を補完するまでの室町期」まで「鎌倉期・関東に竪型炉を広めた時期」を超えて持ち込まれていた事が記録からも判る。
少なくとも、「円融天皇」のこの「青木氏」を補完する為に「藤原秀郷流青木氏」を賜姓する時期までは密かに「賜姓」と共に「円融天皇の因事菅隷」は発令されていた事を意味する。
「藤原秀郷流青木氏」を賜姓し、其の為の「何某かの因事菅隷」を密かに出していた筈でありその目的はあった筈である。
その証拠に記録から、“秀郷流一門宗家の嫡子の第三子が永代に青木氏を名乗らせる”と云う「令・因事菅隷」が正式に出ている。
この時から「母方の藤原秀郷流青木氏」は、正式にも母方系と成り得て、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」とは同格と扱われた事を以て”の格式は「浄大一位」と成り得て、それ以上は「太政官令」は出せなかったからだ。
故に「賜姓族」のみならず当然に「円融天皇の因事菅隷」を発している事に成るのだ。
その「因事菅隷」には、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」を武力的に補完せよ”である事は先ず判るが、その補完の一つは、「旧来通りに藤原氏北家」に代わって「北家秀郷流」で「青木氏を四掟で護る事」であるが、密かに別の「経済的で武力的な補完の因事菅隷」が出ていたのではないかと観ている。
この点で研究は未だ充分にその点に及んでいないが、「銃の試作撃ちに関わっている事」から等何処かに「炉に関する補完」に付いて「因事菅隷の密書」があるだろうと観ているのだ。
だから、「室町期の前」の「鎌倉期の武蔵に竪型炉の遺跡」が見つかっているのだ。
これが所謂、「別の経済的な補完の因事菅隷」であったのではないだろうか。
「銃云々と云う事」よりは“「近江鋼の開発とその炉の開発」がどれ程日本の経済発展に大きく係わるか”を知ったのではないか。
其れが未だ開発途上であっても「青木氏」から移した「鉄鉱石で仕える竪型炉」の「千葉の遺跡・下記」ではないかと観られるのだ。
「青木氏が行っている近江鉄鉱山」は、その意味で「朝廷」を揺るがす程の先進的な事物と成っていたのである。


注釈 「額田青木氏の救助とその為の銃の完成」は、この「因事菅隷」に基づいているかは判らないが、「正親町天皇の律宗族追認」には、この「因事菅隷」に基づくものであった事は間違いはないだろう。後記

それが「高炉」に近い炉形の“「純粋な竪型炉」”であったろう。
何度も云うが、この「鉄に関しての査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基の遺跡」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の「2基の遺跡」の「竪型炉・開発途上」”の以上の「5炉」に関しては、故に少なくとも全ては“「13世紀であった事」”に成り、その「炉形」も調査記録では“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”と「関東」に於いても成る。
これは「建設地の地層・丘を地中の下に掘り下げる方式・古い地層が出る」の「堀立地形に依る認識」に成るだろう。

その所期の改良点は調査資料から判断すると次の通りであった。
改良点の4つ
1 度々の「築炉」を一度にし「炉外底」を無くした。
2「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄・銑鉄」だけにした。
3 「木炭・熱源・紀州炭」を多くし「還元力」を増し、「炭素量」を増やし、「石灰」で「還元力」を増した。
4 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を二つの「下湯口」に置き、大きくして「炉熱」を高めた


「タタラのケラは炉中にある低炭素鉄」と「銑のズクは炉外底にある高炭素鉄」と「鉄滓のノロ」の“「タタラ製鉄・3つの鉄」”に対し分けられ、「炉」を先ず縦に起し、「炉口」を上にし、「湯口」を下にし、「鞴」を足踏み込み型の大形にし、鞴風を下から上に吹き上げる様にし、「原鉱石」を坂の下から上へ運んで「高いロ口」から落とし込む。
先ず「木炭の熱源」と「木炭の還元剤」と最後に「原鉱石」を投げ入れて「下の火口」から「熱源」を高温に上げて加熱する。
「溶けた鉄」を「炉低」で固めて最後に溜まった「炉ロ」から纏めて「湯溶口池」に落とし込み「炭粉」で表面を覆い「鉄の酸化」を防ぎ、ゆっくりと冷やす。
そうする事で「鉄の融点」を“200度上げた”と記載されている。
「丘の地形」を垂直に切り落とし、其の垂直面に炉を据えた事で上記の作業手順は進んだとある。
この為に、“「タタラ製鉄」”では出せない“「銑鉄」だけの「竪型炉」”に成ったとある。
この「中間の炉形」の“「タタラ製鉄」”の「箱型炉」を「縦にした炉」が現実に発見されているが、ところがこの「縦型炉の砂鉄の鈩製鉄」は進まなかったのだ。
何故なのかは判らないが、この炉には矢張り「破壊」が多かった事が記されている。
これが「竪型炉の開発」の「中間過程炉」なのかは判らないが、これが「近江鉄・703年時期の炉」とするとこの「炉説」は考え難い。
何故なら、だとすると「以上の4点」が既に「関東の遺跡炉からの内容」に於いても替わっていた筈だ。

注釈として、この件に関する“幾つかの通説”とするものには、この「近江鉄から導きだされる論理的、且つ、冶金的、学問的な史実」との「複合的検証」は欠落しているので無視とする以外にないのだ。
そもそも「文系範疇の歴史家」に取り分け難しい「冶金工学と金属工学と地質工学」を会得している者は皆無であろうし、尚且つ、「近江学」と「その歴史」をも習得している者は同然に皆無と成ろう。
故に、そもそもこの“通説”とするものには「歴史の経緯からの目」で観るばかりに間違いは多いのであり、これは歴史全般に於いても是非に改めるべきであるとするがこの傾向は未だあるので今後も難しいだろう。
故に、従って、筆者は「青木氏の歴史観」に関しての“通説の利用」”には「比較対象」のものとして警戒して扱っている。

この「現実」に「青木氏族の近江鉄に関わった史実・青木氏の歴史観」に鑑みれば、この「長い間の製鉄の経験」が、「他の物・武器や生活用品等」にも「商いを生み出す事」に適用されていて、これらの“「青木氏の鉄の経験」"が「鍛冶部・摂津と日野の工人」にも存在していて引き継がれていた”と考えれば、それが「室町期」に成って「額田青木氏の銃の必要性」では、更にこの「新しい炉の開発」にも「青木氏部の匠技」が反映されていたと成る。
その「経験」が「銃の試作と生産に向けられた」と考えられるのが普通であろう。
この“「伊勢屋の商い」”とは別に、「伊勢水軍等の氏族一門と秀郷流一族一門と各地の青木氏族」への「必需必要品と器具」を「神明社」を経由して密かに供給していたので、「伊勢と摂津の鍛冶職」はその「近江鉄からの鉄製品」の「充分な生産」を求められていた事に成る。
其の為にも「近江鉄の必要性」は、そもそも「本論の銃の欠点の解決に使用する事」のみならず、その事に関わらず「鉄製品の需要」は急激に本質的に高かく成っていたのである。
この事を「青木氏だけが持つ独自の歴史観」として前段でも論じたがここでも併記する。
この「近江鉄の需要」を叶えている「近江鉄の竪型炉の使用」で、「鉄の供給力」が一段と増し、これに伴って「需要」もそれ以上に増した事に成ったが、この範囲は「青木氏のみが知る竪型炉の使用」である限りに左右されるが、それを全て担ったのが「屋の号を持つ伊勢屋」であったのだ。
それ故に、この「需要」は「伊勢屋」に左右されていたのだ。
これが「青木氏だけが持つ独自の歴史観」である以上は、ここに詳細に記載し論じなければ何時かは消え去るのみの「近江鉄の史実」となるのみである。
従って「近江鉄」は「青木氏族の中」に於いて使われていた事を示し、それだけに青木氏族は鉱山鉄の寡占を極めたのだ。
「独特な竪型炉の炉の形」からの視点で観て、「近江鉄」から始まり「関西」に、そして上記した様に遅れて僅かな炉を「関東」に依頼されて「普及を試みた経緯」と成り得えたのであろう。
「11世紀頃から13世紀」にかけて合わせて「6基の炉の遺跡」しか発見されていない処から観て、この「需要」は、「6基」ではその「供給力」は「関東」に於いてでも無理で、矢張り、全般的には“「関西の伊勢屋の範疇で限定して賄われていた」”と言わざるを得ない。
「近江鉱山」は、先ずは上記した様に「2鉱山」からであり、「竪型炉の開発」が進むに連れて「最終近江6鉱山」が「青木氏部」で開発された。
恐らくは、この「6鉱山」では「関西域だけでの供給」と成っていたのではないか。
その「限界時期」が上記の「関東の6基の炉の遺跡」と繋がったと観られる。
何とか最低にも「鉄需要に賄うだけの炉数」ではないが、これを先ずは「幕府の依頼」もあって「関東に設けようとした事」に成ったと云える。
記録から観て見ると、この「13世紀までの鉄の鉱山開発」には、次の通りである。
栃木に1鉱山、千葉に2鉱山、茨城に1鉱山と成っていて、合わせても「4鉱山」であり、実質は「上記の歴史の遺跡の史実通り」である。
矢張り、この「関東の4鉱山」が「関東の6基の炉」に見合う「炉−鉱山」であった事に成るか。
「近江だけの6鉱山−9基の炉」に比べれば極めて少ない。
矢張り、「鉱山の鉱石を鉄にする」には、「その炉の開発に大きく関わる事」からこの「炉のノウハウ」を持ち得ていなければならず、この結果が関東に生まれていた事を色濃く物語る。
因みに「砂鉄」では、関東以北から観て「8世紀とする鉱山」は、何と唯の「1鉱山」しか観えるだけであるのだ。
「鉱山鉄」には「近江の鉱山開発」と「その炉の開発」、言い換えれば「その財力の有無」、又、「因事菅隷の立場の有無」、「鉱山を見つける山師の知識」と「開山の土木技術」、「その専門の部人集団の所有、将又、「その商力等」の「総合的な力の保有」が必要に成る。
これ等が備わっている事が最低の条件となる。
故に誰でもが直ぐにと云う事には成らなかったのだ。
それ故に少なくとも「鎌倉期」を超えて「室町期末期」まで完全に無かったと考えられ、「記録」も上記した様に「明治期」まで記載は無い。
「室町期末期の額田青木氏の銃の欠点」を解決した直前までは「砂鉄の玉鋼」を除き無いのだ。
ところが、この「竪型炉の経緯」は、この「室町期末期」のこの時期を超えず見当たらないのだ。
これは「青木氏の氏是」に基づき「世に遺さず炉」とて共に消したと考えられる。
当然に“「社会発展の為」に遺せばよいではないか”と云う発想は生まれる。
然し、遺さなかったのだ。
「竪型炉の炉の存在」が、“世に悪影響を与える”と「伊勢青木氏」は判断した事に成る。
だから上記の記録にもある様に「明治期」まで「砂鉄の玉鋼」であったのだ。
逆に言えれば「近江鉱山」も「6鉱山」で終わっている所以であろう
つまり、“「鉱山の鉱石を使って鉄製錬する事」が、「鉄の世の統制」が無ければ「社会に悪影響を与える」”と考えた事なのだろが、「炉の開発能力と炉の使うノウハウ」を以て「商い」とすれば、元々は「因事菅隷を持つ青木氏部と商人」である以上は、出来るし「因事菅隷の寡占」である以上は必ず「巨万の富」が得られる。
然し、それを敢えてしなかったという事だ。
何故なのかである。
「鉱山開発」によって「鉄の生産」を拡張させれば「銃の生産」が「因事菅隷外の処」でもっと広い範囲で行われ世は乱れると解釈したのだろう。
寧ろ、格式を有する「賜姓族・律宗族」で会った以上は逆の発想をしたと云う事に成る。
“「砂鉄の玉鋼程度の生産範囲」で抑えて置けば世は乱れない”としたと考えられ、それが「因事菅隷を持つ格式の青木氏の氏是」と考えたのだ。
その証拠に「鉄の主生産」は「明治初期の高炉の導入・軍事化」と以降と成るのだ。
既に「巨万の富を持つ青木氏」が「企業殖産」でやろうと思えば何の問題も無かった筈である
飽く迄も、「竪型炉の鉄の生産」は「室町期の額田青木氏の為の銃の欠点と生産の完了」で終わらしたと云う事であろう。
何故なら、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」を成せば、間違いなく「商い」は寡占であった限りは、「巨万の富」を獲得させていた筈である。
その「研究資料の発見」が出来たが、これは「下段」で論じる事と成るが、「青木氏の商い」が“どの程度の巨万の富を最終では獲得していたか”を調査し論じているが殆ど無限であったろう。
これによれば「超豪商と成って呼ばれた明治初期の族に関する研究論文」と「筆者の論文」があるが、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」での「利益」としては出せないが「一時期に於ける総合力」としてこの「巨万の富・地権は含まず」は、「220億両・7万円/1両/御師制度の研究資料」とされる。
「筆者の研究論文・350億両/伊勢屋」とはさした差はないが、日本国内にこれだけの金が存在したかは定かでないが、兎も角も額が大きいのでこの「積算数値」のこの相当額に相当し比するものである事は先ず確かである。
この事は上記の「炉論に関わる経緯論」にも一致する。
参考に関東には数えきれないほどの鉱山があるが全て「明治期の高炉」である。

注釈 「幕末明治の豪商」と呼ばれる中でもはっきりとした「研究記録・御師制度について」が遺っていて、この「支店とする米商いの淀の屋の資産額」の記載がある。
どの様に計算したかは判らないし、「伊勢」は少なくとも「北勢」は米が採れない国なので、余剰米の米を市場から買い求める必要があって、一時、それを「大阪の蔵」に運んで「蔵管理」をしていたが、それが「淀の屋の実態」であって実態は世間に知らしていないのでも良く判っていない。
然し、それに依れば、この「米相場・儲け」を「伊勢に送る米」に換えていた。
それを営む様に成って、この「伊勢屋の支店の蔵」の「淀の屋」が最高額では「20億両・200兆円/10万円〜7万円/両」だったされている。
「金額」では無く「米の量」であったとされている。
これに依れば「伊勢青木氏の伊勢屋・松阪、摂津、堺の主店舗」で、「豪商の街松阪」と呼ばれていた中でも比較すると、「淀の屋の米資産」に比して「約10倍」であった事に成る。
この「米帳合相場の淀の屋資産」は、「全国の米帳合相場基準となる市場を設立したとある豪商」とされ、これに依る「米資産」とされるが、其の内、この「米資産の店と取引」は中止したとある。
実は、「享保期に大阪の米市場」は、前段でも論じたが「伊勢屋」が紀州より吉宗に江戸向行して、「改革の吉宗・前段」に「経済改革の進言」をして設立されたものと「青木氏」では伝わっている。
そうすると、この「米蔵の支店の淀の屋」は、「松阪の豪商の青木氏の伊勢屋」では「吉宗との対立」から「米蔵の支店の淀の屋」は、この時を以て「米市場」から引いたとされている。
何故ならば「摂津と堺」にも「松阪の本店」と各地に取引を前提に「支店・20店舗」を設けていたとされる。
前段からも論じているが、「総合商社」を営む以上は「古来より伝統的」に「顔を出さない、店を明かさない、」等の安全策として「特定されない策」を執っていた。
この事から「店名等」は、「伊勢屋」ではない「堺」」では「米商い」に関しては「淀の屋」を名乗っていたとされていて、この「享保の時」に米取引から手を引いたのではないか。(資料消失)
それ以後は「伊勢の米」は「米市場」では完全に「名を隠しいの商い」としたのではないか。
先ず、その策の「目的」は、何事も特定されない事が前提であって、「総合的に危険である事」が「主因」であるが、古くから「因事菅隷を持つ令外官」としても「奈良期の部商いの伝統」を引き継いでいた事から、この主策を特別に使っていたとされる。
そもそも「伊勢屋・総合商社」は、「天皇から商いに関する紙屋院の格式号の特権を授与された」の事を「始り」として、「和紙以外」にも「令外官としての因事菅隷」で以て「各種の商い」を許されていた事から、特別に名乗っていたものである。
恐らくは、この「隠顔策」は、「因事菅隷の意味合い」から「因事菅隷を出された時期からの伝統」ではないか。
「限定して令外官に出される秘密令の由来」から「この「隠顔策」を[伝統的」に執られていたと考えられる。
依って、その「伝統」を護り「総合商社・1025年」と成ってからも、「商い」が大きく成り手広く成って更にその「秘密の意味合い」は強く成って行ったものであろう。

注釈 「伊勢青木氏」は、前段で詳細を論じたが、「吉宗に向行し享保改革を江戸で主導する」が、その一環として「大阪に米相場市場を設立・具申」を促したとあり、この時に、“「青木氏の伊勢屋」が具申し主導し、率先して「米の商いを専門に商いする店」を「大阪」に設立した”とあり、この役を担ったのが「淀の屋・米蔵」ではないかとしているのだ。
当然に上記した様に、“「伝統の影の策」”として、「各種の商い・総合商社」を営む為にその「各種の店主」を「松阪の伊勢屋」の「番頭の一人・家人・氏族の伊勢50郷士衆達」に“「番頭」”として任したとある。
それが「公表されている少ない資料・系譜では、一切詳細は不詳」ではあるが、判る範囲では、「岡本の郷士・一番番頭名と牧口郷士・二番番頭名」と成っているだけであり、詳細はないが、これが「淀の屋の支店の店主」としている事だけなのだ。
この資料では、結局、この“「店主・福家」”としながらも限定せずに“「番頭・家人」”と追記している処に注目している。
「米相場・蔵の淀の屋」は、「総合商社の伊勢屋の専門分野」としてのものであったと限定され、必然的に「総合商社」である以上は「全店一人」では動かせられない。
従って、必然的に「番頭/家人の一人を置く事」に成るが、これには何度も論じているが「家人・氏族の伊勢士50郷士衆達」を配置する「古来から仕来りの伝統」であって、これが云わば「支店長の証・蔵の管理人」と成ろう。
何故ならば、「判る範囲の淀の屋の経緯」と「伊勢青木氏の経緯」が余りにも一致し過ぎているのだ。
その一つに「幕末の闕所の嫌がらせ」を受けていて、その後の「明治期の経緯」も「青木氏」に遺されたものと極めて類似しているのだし、否定するものは何も無い。
又、「財産を朝廷に献納する等」、又、「大阪湾の干拓事業等」をした事等、疑いをかけられて「偽装倒産させた等」、「本店をダミー店に逸らして逃げた等」の幾つもの経緯なども一致している。
そもそも「淀の屋の淀・屋は授与される院・蔵人院」に対して「商いの特権」も許される場合に於いて課される格式特権の号」は、「伊勢青木氏」の「古来からの名跡名」とされ、引き継がれるべき「名誉の名」であって、簡単に使われるべきものではない。
況してや、「江戸初期」には一般に対して「商いの格式の屋号」を名乗る以上は、「府の便宜上の許可}が必要であった。
「伊勢青木氏」には「過去」に於いて「名跡名」を使っていて、其の内遺しているのは「戒名」であるが、これを調べると、その「戒名の読込名」にも「淀の名の字」や「字名の字」等の所謂、「名跡名・格式名を使った先祖」が「十数人・殆ど」もいる。
そもそも、「名跡名・格式名を読む込む慣習」は、「古代浄土宗白旗派の仕来り」であった。
「額田青木氏の祖」と成った「桑名の淀橋王や飽浪王」は「三野王」に嫁いで後に美濃で独立して「美濃青木一族」を「美濃一色の浪端・清光院」に「青木氏一族」を形成するが、その「淀」や「飽浪」や「一色」等はこの典型例であり、要するにこれは「松阪一色・当初は字名」に並んで「伝統青木氏」が持つ「伝統の名跡名」であるのだ。

注釈 江戸期から明治初期に掛けて「院と屋」を伴った「院の特権」に対して、それを「商い」に広げての「屋の号」を獲得した「正式な屋号をも持つ豪商」は歴史上全くないのはこの事による。
これが「正しい屋の号の名乗り」は「院の号」の下にあるのだ。
「院の号」に対して成せる「屋の号」とは、そのような意味を持ち、「院と屋の号」は一対であるのだし、その名も一致する。
要するに、「院」は「殖産」であり、「屋」はそれを基にした「商い」を「屋」としていたのだ
それには、「条件」として「過去」からの「一定の期間」の「朝廷との親密な関係を持つ事」が必要であって、その為にはその「関係を持つ事」には、「それなりの上位の継続的な格式」が必要であった。
それには「継続的な献納」が「一つの証」であって、“誰でもが関係を持つ事が出来る”と云う事ではそもそもないのだ。
元々、「武士や庶民」は格式上無理であるのだし、況してや「士農工商」に於いて「商人」は論外であった。
そもそも「直接に接見が出来る者」は「三位以上の公家」か「青木氏の格式」以外には無いのだ。
従って、「院と屋の号」、即ち、「一対の号の獲得」は、「上位の格式」を有さなくては無理であるのだ。
「院と屋の号を持つ事の事態」が「その格式を証明するもの」と成っていたのだ。
例えば、故に江戸期に良く使われたのが、「院」の持たない「紀伊国屋の屋」がこの「条件」には合致していないのだ。
更にはその意味で、「上記の淀の屋」が「闕所の疑い」を受けたとした時に、この“「献納」をした”とあるのはこの「一つの証拠」であり、そもそもこの「献納と云う行為」は誰でもが自由にできると云う事では無かったのだ。
誰でも「献納と云う事」をできると仮にすれば、「天皇と云う品格を下げて仕舞う事」にも成り、「寄付さされる団体」に成り下がる事にも成る。
仮に「ある程度の格式を有していた者」としても、この「献納」に対しては、そもそも直接は絶対に無理であり、「献納に比する格式を有する家」を先ず経由して、その「行為」と成り得て、依って「伝統的に公家など」の「一定の格式を持つ家柄の事」に成り得るのだ。
この上記の「院屋と献納」は、少なくともの「伝統を護っていた所以」であって、誰でも「献納」はそもそも出来ないのだ。
そしてその「献納」は、そもそも「継続的なもの」であって、仮に「献納できる者」であっても「突然に献納とする事」はそもそも出来ないのであって、従って、これはそれを「古来」より「継続的にしていた高い格式」を有する「伊勢屋の伊勢青木氏の様な格式を有する家柄・律宗族等の格式」で無くては出来ない行為なのだ。
これが「献納」と云うものの「古い伝統的な外せない歴史観」なのだ。
それを考えた場合、「米の殖産の院・米を酒造などの色々な形で扱う」に対してこの「伊勢の米蔵支店の淀の屋」は、「伊勢青木氏の伊勢屋の蔵米蔵」の「堺の大阪の店」であった事が此処でも云えるのだ。
この様に、「献納の持つ歴史観」から観れば直ぐ判る事である。
然し、現実にはこの様な物事の「伝統的な歴史観」を無視した論説が実に多い。
この「蔵米蔵の支店の淀の屋」は間違いなく「伊勢屋の大阪支店・堺店米蔵」であった事は間違いはない。
そこで、もう少しこの古い「蔵米蔵の支店の淀の屋・蔵人院」の最大限に判る範囲の事の経緯を調べて観た。

注釈 「蔵人院」は、前段でも何度も論じた様に「奈良期の国造部の差配頭」であった事より、要するに「その役目・皇親族」は「蔵人院」にあって、「賜姓五役の役務の一つ」に数えられ伝統的に青木氏に与えられた号となり、「嵯峨期」に「嵯峨天皇の皇子」の一人にこの「蔵人院・甲斐」に別にして任じている。
以下は「賜姓五役」から単独で別の役目として名乗る様に成ったが、その後も「伊勢青木氏」は「伊勢の蔵人院」であり続けた。

注釈論
「米蔵の支店の淀の屋論の米相場の経緯」は、記録によると、「1661年頃の大阪の蔵群」から「1673年頃(17世紀の中頃前)」から「店の前・事務所と蔵の前」で、突然に「米の蔵出し」に依って「帳合取引」として原始的に「市場」が始まり、その結果として周囲に“「米商人仲間」”が集まり「自然発生的に市場」が形成される様に成ったとある。
つまり、初めて、米が「蔵出し現物帳合取引」が行われ始めたとされるのだ。
然し、そもそも「奈良期の部経済」に於いて、先ず一度「朝廷に納められた米」を「必要分」を取り除き、残りを「庶民・市場はない」に放出するとする役目を担っていた。
この事は前段でも何度も論じてきたが、そもそも「伊勢青木氏の商いに成る根源」であったが、この「初めて」とする処に疑問が残る。
筆者は、この「伊勢青木氏の伊勢屋」は「淀の屋・蔵人院」に限らず「奈良期」から行われていた行為であって、初めてとする説には「完全な歴史観の不足の反論説」を採っている。
故に「青木氏」では、「淀の屋・蔵人院」として呼称して記載されていたと観ているのだ。
「淀の屋・蔵人院」は「上記の役目」を担った「青木氏の者」が「淀と云う地名・淀川」にその「役所」を置き、そこで「屋」、即ち、「院」に対しての「商い部」として「屋の号を呼称していた証」であると観ているのだ。
要するに故に、“「米商人仲間」”とする処に意味があって、これを継続していた所に「同じ仲間が集まる所以」である。
つまり、“「米商人仲間」”と記する処は、「各藩・国」の「周囲に米を貯める蔵群」があった事に成る。
要するに「貯めた蔵出し」で「互いの融通」が成立し始めたのだ。
何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述するが、台風や水害などの季節性被害で困った仲間に蔵から緊急を目的に「帳簿上での融通をし合う互いの習慣」が伝統的に信用を前提に歳出をする事が来上がっていたとしているのだ。
それが「奈良期から務める蔵人院」であった事から中心と成ってこれを務めた事が「市場取引の起源」とされるのだ。
これが前段でも何度も論じている「天智天皇」から授かった「賜姓五役の一つとされる永代の役目」でもあったのだ。
故に「淀の屋」と呼称していたのだし、「美濃に飽波の王と一緒に嫁いだ淀橋の王」の「淀の所以」であるのだ。
その意味で「淀の屋」には「重要な意味」を持っていたのだ。(詳細下記1)
さて、それ故に、それが「30年から50年後」の「1730年頃」に、この「米蔵の支店の淀の屋」もこの「蔵出し現物帳合取引の取引」で、何故か突然に「相場」から退場したとし、それに従い「蔵出し現物帳合取引市場」も絶えたとある。
何故に退場したか「疑問」である。(詳細下記2)
ここより、この「帳合取引の動き」は正式に「堂島米会所」を新設として「堂島」に移され、前記の「蔵出し・現物取引」との取引は無く成ったとされる。
この代わりにでた「市場取引」は、“「帳会米商」”として成立する様に「堂島」では成った。
この「帳会米商」が「吉宗の享保の改革の一環」として承認されて「法・1730年」が制定されて正式なものと成った。
其の後、この「取引方法」は改めて正式に全てが「帳会米商」に変更され「1863年」まで続いた。
其の後は「幕藩公認」で「各所・各藩」にも開かれた。
「先物取引」から「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わり、「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。

注釈 そこで、先ず何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述する。(下記1)に付いて。
先ずは「伊勢」には「米」はその真砂土壌から無かった。
そこで「各藩の余剰米」を集める事にあった。
より多く集めるには、一般的にはその「米の現物」を取引に出してその「利鞘」を稼ぎ、「調達資金」を高めて更に米をかき集める必要があった。
同じ様な商人が他にもいた事が、“「米商人仲間」”の表現でも判る。
互に、同じ状況にあって、「各藩の余剰米をかき集める事の競争」が起こったは必然で、「天候被害」などの事で
不作と成ればそれは戦争であったろう。
「伊勢」は其の立場にあって、幸いに「財」は有ったが、それは「各藩の余剰米の如何」に関わっている事であって、結局は「蔵出し現物帳合取引」に頼る事以外に無く成っていたのである。
そして、但し元々、「米を獲得する」にあって、「利鞘の差益」を求める物では無かった。
故に、「蔵出し現物帳合取引」とならざるを得なかったと云う事が実情であった。

注釈 ところが、何故に退場したかである。(下記2)の疑問である。
米相場が拓かれて、それは次第に「米を獲得する」から、「利鞘の差益を獲得する取引」へと変化して行ったと云う事だ。
「蔵出し現物帳合取引」から“「帳会米商」”の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」の「先物取引」に変わって行ったのだ。
「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
そして、遂には「帳会米商」を認めた「吉宗の享保の改革の一環」として「法・173年」に承認されてしまったのだ。
「伊勢屋」が求めていた当初より「吉宗」に具申していた「米取引」は唯単なる「金銭取引」のものと成って仕舞っていたのだ。
要するに、提言外で目的外の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わったのだ。
ここに「青木氏の伊勢屋」と「吉宗との間」に「完全に考え方の違い」が生まれ亀裂が生じはじめたのだ。
「青木氏が求める伊勢の米」の為の純粋な「蔵出し現物帳合取引」は、結果として「法的違反」となり亀裂と同時に引き上げる破目と成り得たのだ。
この「吉宗」が許した「帳会米商」は庶人の幕府に対する「賄賂」を生み出し「享保期の悪の枢軸」と成って行って「享保の改革」は終わりを告げる結果と成って行ったのだ。

要するに、この「淀屋a」とするのは、たった「30年から50年間の存在」であって、「米商いの期間」としてもこの「豪商論の淀屋論a」はそもそもおかしいのだ。
「伊勢青木氏が吉宗江戸向行」の後に、「当面の改革」」として「幕府財政の蔵埋金・300両財政破壊」を「一時的にも増やす手段の為」に採ったとされるのはこの米取引である。
その理由は、この「堂島米取引の米取引」での事であった。
然し、この前に既に「商人」として「大阪/堺」として「米」を使って「蔵出し先物取引」としての「扱い」で「利益」を上げていたのだ。
この方式を「伊勢青木氏の伊勢屋」は推奨していたが、吉宗は「空米の現物取引」を求めた。
結果として、意見が異なり「帳合取引」から引く結果となってしまったのだ。
これが「淀の屋b」であり、「1700年頃から1730年頃」を境に「現物取引の米の先物取引」から上記の通りに手を引き始めているのだ。
ところが、当初は「帳合取引」で融通を受けた方式でこれにより「将軍にする為の裏金造り」と云う説が出て来ていたのだが、兎も角も目的は達成されたが事の事態は違ってきていたのだ。
余りに「期間が短い事」から「何かの理由目的」があっての「商行為」である事は判る。
そして「紀州藩の吉宗」は「1716年」に記録にある様に、「伊勢青木氏の後ろ盾」で「幕府」の「働き架け」で「将軍」と成るが、この「19年間」は「将軍」にする為の「裏の動き」を始めたとされる。
遂にこれが「15年後」に兎に角も成功させたが、この為に「得られた利益」をこの「裏の動き」に使ったとする説なのだ。恐らくはこの説が間違いは無いだろう。
そして兎も角も「目的達成」で「先物取引」から手を引いたが、「伊勢帳簿」からは直接出金は出来ない事から、この「この米相場の利益」を「将軍にする為の裏の動き」に使ったと考えられる。
この「米の行き違い」が、「吉宗との行き違い」が感情的なものとなって現れたのだ。
然し、「吉宗」は最終に「信濃」で裏切ったのだが、「伊勢」も危険と成って、これを以て「伊勢」に引き上げるが同時に「米相場」からもその必要性が無く成り引き上げたのだ。
それでこの説で行けば、それで無くては「第三番手であった紀州藩・吉宗」からは先ず「将軍」に成り得ないし、この為の「将軍にする為」の「裏資金」は、この「現物先物取引の米取引」から得たものと成り得て仕舞うと考えられる。
この「裏の金が動いた事」は明白な史実である。
当時、「伊勢青木氏・伊勢屋」は「紀州藩勘定方指導」として「財政逼迫の折り」からは「裏の金」は「紀州藩」からは決して出す事は出来なかったし、そもそも「出来る財力」は元よりなかったのだ。
だからと言って「伊勢」から再建にしてでも正式にはこれは出せないし前段でも論じた様に既に「10万両の債権」を持ち得ていたのだ。
「後の手段」は、上記の「大阪・淀の蔵」から動く「現物先物取引の米取引」であったとするのだ。
それを「堺大阪の支店の淀の屋b・伊勢の米蔵」としたのだ。

注釈 ここには、「伊勢」は「明治中期の土壌改良」まで「北勢」では「米は真砂土壌」から殆ど採れなかった事から、“長い期間に於いて全国から「余剰米の米」を調達していた”。
この事から、その「重要な役目」を担っていたのは「伊勢屋の堺・大阪の店のb・淀の屋」であって、此処には「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」があったと記録されいる。
何とか遺された記録を手繰れば、この「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」のあった所在地を大方に割り出した。
これに依れば、「川の船の接岸可能な場所」を前提と成るので、昔より「安治川の九条の川沿い」に「米蔵群」があって、そこの付近に「自宅・事務所」があったとされ、「現在の西九条附近域の北側」とされる。
そもそも「奈良期」から「部経済の朝廷の担い手」として「賜姓五役」として任されていた事は何度も論じているが、古来よりこの付近にその「集荷品・米の集積場」があったとしてであって、要するにここで「伊勢の米と朝廷の米」を差配を一手に担っていたのだ。
故に何れにしても此処の付近に「蔵米蔵群」があった事に成る。
そうすると、これを“一時的に短期間に於いて「ある目的」の為に「室町期」に成らずとも歴史的に古来よりここで「蔵出し帳合取引」をしていた”と云う事に成る。
これはこの事が急に始まったと云う経緯では無い事が判る。
当然に、仲間もこの淀川の周囲にいる事に成り、長い間には「米の融通」も「帳合上で行う事」等は当たり前の事に成り得ていた事に成る。
これは間違いなく史実に一致している。
それが「国造部の部人の差配者」たる所以の「青木氏の歴史観」と成ろう。

註釈 さて、この「淀の屋論の検証」で、「もう一つの矛盾」は、“30年から50年の短期間とする処の経緯”に問題がある。
そもそも、これは「伊勢屋の家人」から派遣されている「二代の番頭の引き継ぎでの期間」とすると、実質は「10年から15年程度の期間」と成る。
そもそも「番頭の呼称」は「伊勢屋・伊勢青木氏」では古来より云わない。
主に「伊勢氏人・女系」の「青木氏を名乗る家人」である。
この時の「淀の屋の家人・番頭とする者」が「蔵出し帳合取引・融通方式」をその役目として伝統として先ず成功させた者として、「次の番頭とする者の活躍」は、「最後の引手と成った事」からであり、「実質の期間」はもっと一割程度長い事に成る。
この「淀屋a説」では、この「闕所めいた嫌がらせ」の受ける事の可能性の無いこの「短期間」に於いてでさえ、そもそもその「闕所を受けた」としていて、それが前段でも論じた様に、「伊勢青木氏の伊勢屋・淀の屋b」が「受けた嫌がらせ・闕所の内容の経緯」と一致さしている処に「疑問」が出る。
況してや、「米の採れない北勢域の民用の米蔵」の「蔵出し帳合取引での成功」であって、これは法的に触れていず「闕所を受ける謂れ」はそもそも無い。
況して、「淀屋a説」は「家人経営・番頭経営」であったとしていて「闕所の前提」にはない。
「上記の経緯」から観て、「闕所を受け事」とは、この「淀屋a説」とするものには100%無いだろう。
況してや、先ずそれが「限られた米と云う商人の限られた行為」であった事である。
そして、先ず「短期間」である以上は、“「武士に直接に影響を及ぼした”」とするものでは無かった事である。
更には、「合意による蔵出し現物帳合取引」であって、「空米取引」はしていない。
「世間の経済」にこの「取引・融通」は、そもそも対象とする「武士社会」に「直接影響を与えるものでは無かった事」であり、況してや要するに「先物」ではない「蔵出し」の「現物の取引」の「直接的な帳合上の事」であって、「取引方法上」から観ても「武士の家の経済}に全く関係ない所で行われていたのである。
以上等で「淀屋a説とする経緯とする事」には無理があり理解できない。
この公に記載されている「公の淀屋論a説」は、そもそも「淀屋a説の詳細」は「以上の事以外」には全く判っていず、この「淀屋a説」と「伊勢青木氏の伊勢屋/淀の屋b」と「その経緯」を繋いで一致させていると云う事である。

注釈 これは何故かである。
それは、「aの著者」は「aもbの淀の屋」も「同じである事」を始めから知っていたからに過ぎない。
確かに「闕所の疑い」を受けたのは、「紙屋院の伊勢屋の商いに対しての事」であることは記録から確かだが、何れも上記の「蔵米蔵事務所の淀の屋の事」では「闕所の理由」としては100%ない。
仮に、この「淀の屋b」が「紙屋院の伊勢屋の商い」と見做されていたとすれば上記した様に「現実」であるので否定はできない。
それが、「闕所」が突然に其れ迄に「誰もしなかった事」として、つまり、「合意による蔵出し現物帳合取引」を「無許可」でしたとして受けたとすれば、止む無しであるが、その時が少し遅れて「吉宗改革の末期」の「吉宗と青木氏との仲違いの時期」であるのだ。
然し、「合意による蔵出し現物帳合取引」は「奈良期からの役目」として継続して来たものである。
そもそも、「堂島の米相場」を正式に容認して、それに依って“「莫大な冥加金」”を一時的にも獲得する様に提案したのは、前段でも論じた様に「享保の改革」を「江戸経済」で側面から推し進めていたのは当に「江戸の伊勢屋・伊勢青木氏」であるのだ。
飽く迄も「青木氏の提案の前提」は、「冥加金」であって、「取引の利益」では無かったのだ。
「米の取引の差益を求める事」は「米は武士の給金を決める手段」である以上は「給金の変動」を意味し、その結果は幕臣の懐を左右する結果として現れる。
これが武士をより弱くし賄賂が横行する世の中と成り得るとして反対していたのだ。
それが「幕府」は突然に反対していた「伊勢屋の闕所にも及んだと云う事」なのだ。
先ずそれの行為は、「信濃青木氏の養蚕と和紙の殖産」と、それだけに留まらず「信濃青木氏の神域の御領の半減没収」と「養蚕の殖産技能者の幕府召上」と「信濃青木氏の半額領地没収」を突然に無断で強行して来た。
此れを聞きつけたた「紀州藩藩邸」から密かに聞いた「江戸伊勢屋・伊勢青木氏」は、これを“理由なき闕所”と観て、次は、“「伊勢青木氏の伊勢屋」に及ぶ”として「200の江戸伊勢屋を無償放棄」して「伊勢」に「3日で逃げ帰った」とする有名な事件であった。
江戸での「享保改革の吉宗と青木氏の蜜月の関係」はそれもある日突然にこれで消えたのであった。
後は「勘定方指導」をしていた「紀州藩の後押し」でこの「闕所」を無事に乗り切ったのである。
この「時の紀州藩」は「安芸松平氏からの養子」が「藩主」と成っていて、極めて明晰なこの「藩主」は先ず「松阪」を「支藩」として成立させて、其の上で「伊勢屋・伊勢青木氏」と「殖産」と「商業組合」等を「伊勢屋が行う事」の一切を「紀州藩が行っている改革」として正式に認め自由にさせたのである。
これの認定として「勘定方指導と云う立場」を与えたのである。
其の上でこれで、「重要な事」は「味方の縁者」とする「紀州藩士」が何と「全て伊勢の藤氏集団」で占められて仕舞ったていたのだ。
これでは「元紀州藩の藩主」であった「吉宗」でさえも全く口が出せなくなっていたのだ。
この「重要な関係」は前段でも論じたが「大正14年」まで続くのだ。
さて、この時を以て、「蔵米蔵の米帳合取引」から手を引いたと考えられるが、これが「蔵米蔵の淀の屋の闕所」とするものではないか。
その直前には「江戸向行時の約束」と、及び「江戸改革時の約束」と違って「信濃の闕所」を「吉宗」は強硬に行ったが、これに対して「親族の伊勢青木氏」は、「江戸伊勢屋200店舗」を放棄して即座に船で逃れた事件だったのだ。
「伊勢屋の本店」と「大阪の伊勢屋の米集積所・蔵群」、即ち、「合意による蔵出し現物帳合取引」の「店名の淀のの屋」を一体と見做して「闕所」があったとすれば、時系列等も含めて一致する。

注釈 この「淀の屋論」に関して、ところが前段でも論じたがそれを「確定の裏付け出来る事」がまだ他にこの少し前にもあったのだ。
「重要な事」は上記した様に「味方の縁者」とする「紀州藩士」が、何と「全て伊勢の藤氏集団」で初代から占められて仕舞ったていたのだが、これに合わせて、其れは、「全国青木氏一族」が行ったこの時の「大プロジェクト」、その「殆どの全国の青木氏一族」が一斉に経済的に結束したのだ。
それが「全国15青木氏商業組合の結成」であったのだ。
そして、それが「御師制度の構築・紙幣発行の独立経済圏」までにも発展して行ったものだった。
何とこの「二つの集団」が「紀州藩の前後の歴史に「スクラム」として起こったのだ。
既に前段でも何度も論じた事だが、改めて云わずとも、この「15の商業組合の結成」は「諡号族の日本全国の青木氏族の結成」であって、再度、一部記載するがそれは次の通りであった。
前段でも論じたので、ここでは詳しくは論じないが、この「青木氏一族」が「経済的に結束する事」の為に「15組の商業組合」を結成したのだ。
この「巨万の冨の凄さ」が世間に与える影響がこれで判るし、この裏には「361氏の藤原北家で郷流の武力集団」が「女系の縁者」として控えているのだ。
そして、後にはこれらが「御師組合の御師制度と云う組合」を構築して結束し発展させたのだ。
これは、「信長」が「伊勢松阪」に「楽市楽座を構築する事」を「蒲生氏郷」に命じた。
それを実行に先ず移したのが「室町期末期の事」であった。
この時、「伊勢青木氏の紙屋院の伊勢屋」が「古来より商人の氏族」であった以上は、「巨万の富」を獲得したのは、「当然の事であり、「松阪が豪商の街」と呼ばれるこれが所以なのであり、この「楽市楽座」に商人として合力したのだ。

「伊勢郷士50衆の族と全国青木氏族」で「御師制度の15組合・豪商」を結成した何らかの「青木氏族の血縁世族」は以下の通りである。

01「伊勢青木氏と摂津青木氏」と「伊賀青木氏と甲賀青木氏」
02「信濃青木氏」と「諏訪青木氏」
03「額田青木氏」「伊川津青木氏」と「伊豆青木氏」
04「日向青木氏」と「大口青木氏」
05「駿河日秀郷流青木氏」と「相模秀郷流青木氏」
06「武蔵秀郷流青木氏」と「上総秀郷流青木氏」
07「越後秀郷流青木氏」と「越後諏訪青木氏」
08「越前秀郷流青木氏」と「越前青木氏」
09「石見秀郷流青木氏」と「米子八頭足利系青木氏」
10「讃岐秀郷流青木氏」と「藤原純友系青木氏」と
11「印旛秀郷流青木氏」と「土佐秀郷流青木氏」
12「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」
13「越前(長崎)秀郷流青木氏」と「越前(佐賀)秀郷流青木氏」
15「橘氏系青木氏・貴族」と「島氏系青木氏・貴族」と「卜部氏系青木氏」

(血縁族では無い第一青木氏と第二青木氏と第三青木氏と甲斐時光系青木氏含まず)

以上はもれなく「青木氏一族」である。
この特徴は、大小は別として全てが「商いを営んでいたという事」だ。
この「商いの種類」は、多種多様であるが、副業を含めて、所謂、全て「総合商社」である。
これは結果として「付き合いの中」でそうなったと云う事ではないか。
これを観ると、「経済的な繋がり・御師券の組合紙幣を発行」だけとしているが、実はそれだけではなかったのではないか。
「時代的流れ」か「政治的な大きな流れ」もあって、“それに対抗する為に結束した”とも観えるのだ。
これだけの事をこの時代に実行するには、筆者は裏で何か大きい事が動いていたのではないかと考える。
つまり、何事も此れだけの事をすんなりできる事は政治的にも先ず無く、何か青木氏に「大義名分」があったと考えるのだ。
だから「一族」であっても異議なく集まれたと観ているが、それが「商業組合と云う事」を前提にした名目で異議が着けられなかった観ていて、当然に「青木氏族」に対して「厳しい時代の流れ」が確かにあった事は前提ではあるが、では集まろうとするには何か世間が騒げないものがあったと観ているのだ。
それが、前段から論じている「全青木氏一族」にしか発しない「天皇の因事菅隷」であった観ているのだ。
故に、これを盾に「伊勢」が動き、且つ「全国の青木氏族」もそれも同時に動いたと云う事だ。

それが前段でも論じたが、前提の「厳しい時代の流れ」では「商人」に執っては最も嫌う「府の闕所」も含めた「武士からの嫌がらせ」であった。
「氏族の商人」として「巨万の富を獲得する事」は、そもそも「目立ち目」を着けられるからであり、この「闕所の行為」は、「鎌倉期」から顕著となり、取り分け「江戸期」に成っては、そもそも「闕所」そのものは主に当初は「武士に対する法的処置」のものであったが、それがその「目的」を超えて次第に専ら「商人」に対しての「財産没収の為のもの」と成って、それは「難癖」に近くその行為は苛烈を極めたのだ。
この「異常な目的」は「力を出した商人の潰し策」と「その資産の獲得」であった。
特にこの傾向が強かったのは、「大名が負債を背負い苦しんでいた時期」であった。
「商人の力」が「商いの範囲」に留まらず、その「儲けの行為」は、上記の「武士の世界」までに及び、「大名の力」を左右する程に成ったとして、これを何とか理由を着けて留めようとしたのだ。
それ程に「商人の力」は「経済発展」に依って急激に増したのだ。
「経済発展」はそもそも「時の政府」にとって「政治の根幹に当たる部分で臨む処」であったが、いざそうなって観ると「武人の力」よりは「商人の力」が遥かに上に行っていた。
「商人の力」が増せば「税と共に供納金」では増し潤うが、逆に「武人の力」には維持を前提として「進歩」は無く、「商人の力」には「維持」は悪に等しく「進歩」が目立った事であった。
これがその差と成って目だったのは、それは先ず「秀吉の時代」に顕著に現れたのだ。
ところがその前の「信長」では、そうは成らずに逆に「進歩の商人の力」を期待し、それに依って「税の制度」を確立させて「政治の潤い」を獲得しょうとしたのだ。
そもそも「武力」は持ち得ているとすれば、後は「税の制度」に依って得られる「努力なしの制度」で「経済力」を「府」が獲得できるとすれば、合わせて「三権を握った事」に成るとしたのだし、それの「合理性」を「信長」は求めたのだ。
「伊勢の領主の「秀郷流蒲生氏郷」も「松阪」にこの考え方の「楽市楽座」を求める程に同然の考え方を持っていたのであった。
ところが、「秀吉」は「進歩の商人の力」を期待しなかったのだ。
寧ろ、この主な「商人の力」を「市場」に放置するのでは無く、積極的に「政治の中」に取り入れようとしたのだ。
「考え方」としては、これは有り得る考え方でもある。
その結果、「府の中の商人の力」と「市場の商人の力」とに「二つ」に割れて仕舞ったという事である。
「多くの商人」は「府の中の商人の力の傘下」に入って身を守った。
これが「秀吉が期待する流れ」であって、それによって統一性を求めたものであったのだ。
これでも「合理性の範囲」であろうが、ところがその「商人が巨大」に成り、その背後に「武力」をも獲得した「府の中の商人の力」よりも、「市場の商人の力」の方が勝って現れたのだ。
それが「信長」が進めていた「楽市楽座の構図」であって、その「秀吉が最も嫌う伊勢の松阪」の「豪商の街」にそれが現れたと云う事なのだ。
これが「伊勢屋」が居る「豪商の街」と呼ばれる所以であるのだが、それで、突然に実行されたのが「歴史上」に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた「伊勢攻めと紀州征伐」であったのだ。
「秀吉」は、反省してこれ以後には「戦い」で庶民を殺戮はしていないし、実戦はせず「戦略的戦い」で勝負を着けて勝利していたのだ。
この「2つの戦い」が未だ「地元・根来」で語り継がれているもので如何に苛烈極まり無かったか物語っているのだ。
これに対抗して、有史来、最も危険を感じた「青木氏族・伊勢」が、「全国の縁者の青木氏族」に呼びかけて「族単独で結集した」のが、この「15商業組合の表れ」なのであった。
「伊勢紀州の基礎の人」で成り立っている「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏」であった.
「伊勢紀州の基礎の人」が無く成れば「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏・基盤は伊勢氏族」は無く成り、この逆の事も起る。
それは全国に例の無い「伝統」にこの二つは培われていたからである。
故に「歴史上に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた伊勢攻めと紀州征伐」で「伊勢者と紀州者」は一致団結して戦ったのだ。
結局、この時、「最終の実戦」は、「葛城山の山道」を「伊賀者・伊賀青木氏等」がこの全山道を完全封鎖して抑えて「補給路を断った事」と、「ゲレラ戦」で、「秀吉」は飢えて慌てて大阪に逃げ帰ったのだ。
これは「15商業組合の活躍」として語り継がれている。

注釈 室町期に足利氏が楠木正成とここで戦いこの「葛城山の山道」を封鎖して抑えて「補給路を断った事」で2万の兵は餓死寸前に陥り敗戦を期した事があった。
「秀吉」はこの事で長期戦は好ましく無いとして引いたのだ。
同じ事が「伊勢長島の戦い」でも、「仮城櫓城の材木」を伊勢者に抑えられて「拠点の櫓城」が立てられず長期戦となり、その為に食料が不足して「苦労した経験」を持っている。

注釈 前段でも何度も論じたが、記録の保存に関して、これまで「3度の主家の失火の記録消失」で「伝統歴史の公表」が出来なく成り、それを何とか「氏族の遺された資料記録」や「その他の一般の資料発見や記録発見」からの「読み込み等」で導き出した結論の利用であり、それで「青木氏の伝統歴史」の「復元」を試みている。
取り分け、これには「正しい全体の歴史観の存在発見とその把握」が左右している。
これ無くしては「正しい青木氏族の歴史観の復元」は難しい。
「公開されている歴史観」には、期待しない「虚偽の導き」が殆ど占めていて、これには「江戸初期の幕府の国印状発行」が原因していて、「格式家柄の虚偽」でもいいから府とする処が「系譜を求めた事」が原因しているのだ。
「室町期の戦乱」で「武士」は、「系譜の無い農民からの成りあがった者」が殆どで、其れも江戸幕府はこの末端の武士迄「系譜」を無理にでも求めたのだ。
其れでなくしては「国印状」を発行しないとしたのだ。
「国印状」が無ければ「武士」には成れない。
実際にこの「国印状」を貰えないで「武士」には成れない者も多く出たのだ。
中でも「国印状」がない元からの「武士の侍」であった「氏族の郷士等」は、「侍」であって「武士」では無いと決めつけられる云う事が起ったのだ。
「郷士」には「主家」とする「郷氏」とは「主従関係」では無く「血縁の氏族の関係」であった事から「郷氏」から「国印状」は出せないと云う矛盾が生まれたのだ。
然し、本来、最も古い「武士・侍」であっても「議論」が起こったし、「郷士−郷氏以外」にもあって、古来より伝統的に「寺を警護する役の当にその侍」も居て問題と成ったとあり、「平安期の各地」に守護して廻されていた「朝廷の官僚役人」で、「統治する為の武装集団」をも持ち得ていた「朝廷の役人」も「武士」では無いとしたのだが、これも本来は「朝廷に仕える諡号の持つ本来の侍」であった。
結果として「侍とする定義」で決めると、「武士」は「侍」とならず、府が決める「武士の定義」とすると「侍」は「武士」では無く成ると云う矛盾」が生まれたのだ。
「諡号」の持たない「室町期の勃興の武士」は、多勢に無勢で吾が身有利として大声を上げて主張したが、歴史の本来性が「諡号と云う歴史的な証拠」があって最終は侍が有利と成り、結局は「折り合い」をつけて「侍=武士」で「武士=侍」であるとして決着を着けた。
その意味で、この「世間の歴史観」は、「青木氏族」に執っては「本来の諡号の侍」を以て優位に置かれたという歴史観を持っているのだ。
それ故にこの「武士の中」でも「大小の格式の有無」が優先されたのだ。
最終はこれを売買の対象と成ったのだ。
この様な下での「江戸初期前後の歴史観」はあまり知られていないが、これは歴史を紐解く上で参考に成る事である。
取り分け、「青木氏族」に対しては「郷士−郷氏以外」にも「寺を警護する役の侍」はどの位置に置くかはこの歴史観が必要に成るのだ。
江戸期に成っての議論の末に、最終は「本来の侍」であった「氏族の郷士−郷氏以外」にも「寺を警護する職役の侍」も「武士」とすると云いう結論が出た。
寧ろ、「格式」は上であるのに「下」から「上」を定めると云う逆の事が起こったのだ。
そこで、「侍は氏族の郷士−郷氏の関係」を指し、「武士」とは「主君との関係の者」として収まりが着き、それが何時しか「侍=武士とする習慣」が慣れで起こり、結局は治まる処に治まったと云う経緯があるのだ。
其の上でこの「青木氏と云う呼称」は、武士の間でも「特別の意味」を持っていたし、故にこの時の結束は世間では違った目で観られていたのだ。
そして、それが「商い」もすると云うこの「マルチナな青木氏族」」には、世間から「特別な目」で見られていて江戸期の前であっても「秀吉」も同然であったのだ。
上記の様に「院屋号の歴史観」に持つ「仕来り」の様にも、少なくとも「室町期までの歴史観」を正しく把握する事が必要であった。
その役に立つ一つが、以上の「全ての血縁族で深い交流があった母系での青木氏族」が、結束してこれらを「ライン統合」した事だった。
世間では強烈なインパクトを与えたのだ。
つまりは、この「青木氏一族」が実行した「大商い・15商業組合の結束」は、世間を驚かせ結果としてそれが「単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事と成って営んだのだ。
上記の歴史観を知るか知らないかで理解度が違って来るのだ。

注釈 さて、其の上でこの「大商い・15商業組合の結束」の元となった「因事菅隷」も同然である。
これは「一般の歴史観」には出て来難い事で「青木氏一族だけの事」ではあるが、ところがこの事は「NHKの大河ドラマ」にも成った程の詳細な「史実」であるのだ。
筆者はNHKもここまて史実を良く調べ上げたものと驚いている。
さて、そこで、「注目すべき事」は、この時の「史実」として、先ずそれは「“因事管隷”」に裏打ちされ、その下で「全ての青木氏の氏力」を結集していた事が上げられるのだ。
つまり、この「因事菅隷」、即ち、何か「朝廷との思惑の中」で成された「政治的な事」を想像される。
これは突然に「伊勢青木氏」に対して突然に室町期に成って改めて「伝統の氏族」を「律宗族」として追認した「正親町天皇の因事菅隷」であるので、これは「秘密裏・密書」に行われるのでその間の経緯の事は良く判らない。
恐らくは、詳細に調べると、「ある目的」で「大商い・15商業組合の単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事で得られる何かをこの「正親町天皇」は目論んでいた事になろう。
この「正親町天皇」は、有史来で唯一、「天皇の権威回復を狙った天皇」として有名な天皇である。
その時は「上記した癖の秀吉」であった。
それは何かである。
その為には、「権威回復を狙う以上」はそれなりの危険が伴うが、古来から“「賜姓五役」”としても「献納を裏で続ける青木氏族の安泰」が、「天皇家を支える事・唯一つの味方」として、それを切に望んでいた。
だが、これが「巨万の富」を獲得している「青木氏族の組合による結束」を急いで成された危険を回避する為の理由なのだ。

注釈 この「目論見に依る結束」が、「経済効果は大きくなる事」は確かであり、これでも「秀吉」を躊躇わせたのだ。
後は、その背後にある「藤原秀郷流一門一族の力361氏」を「敵に廻す事」は、その「武力」はもとより全国に散在するその「勢力」を無視できず好ましく無いと判断したのだ。
次の「徳川家康」さえもこの力を避けていて、寧ろ、その「藤原氏の氏名を名乗るなどの近寄り」を見せ「味方」に取り入れて「家臣」にして勢力下に置くほどであったのだ。
突然に組まれたこの「青木氏の15の商業組合策」に対して、「秀吉」は「伊勢勢力の潰し」を遂に諦めたのだ。
そして、更には「青木氏族側」は、今度は「手を緩める事なし」に「御師制度を敷く結果・15組合圏内の独自の市場経済圏・紙幣発行」と成ったのだ。
最早、「伊勢の商人の力を取り込む事」も出来ずに、潰す事も出来ずに「秀吉」は「攻撃」を諦めたのだし、「闕所の話処の事」では無く成ったのだ。
最低限に、この「御師制度を敷く結果」として「・15組合圏内の市場経済圏・紙幣発行」を暗黙で認める以外に無く成ったのだ。
「室町期の幕府と正親町天皇」は、この「勢力」の「古来からの伝統の青木氏族」を「賜姓五役の氏」から「律宗族」と認め直して、先ずはこの「古い伝統の格式」を世に質したのだ。
「上記する秀吉の理屈」からすれば、何はともあれ「商人がこの「格式を持つ事」が「最も嫌う事」であって、これに依って「他の豪商等との扱いを変えなければならない事」が「納得の着かない処」であったのだ。
それも「通常の格式」では無かったのだ。
それが「古来からの伝統」だけに依るものであればいざ知らず直前にはその「全格式の総称」としての“「律宗族」”を「最高権力」の「府と朝廷」が「青木氏族」に改めて認めて仕舞っているのだ。
そこで「秀吉」は「伊勢攻めと紀州攻め」としてその「勢力の弱体化、又は衰退化」を狙ったのだ。
「古来より地に根付いている集団」の「勢力の弱体化、又は衰退化」は「伊勢と紀州」は思いの外に出来なかったのだ。
故に「歴史にも遺る程の批判」を受けてのこれがすっぱりと「諦めた結果」であった。
寧ろ、「陸奥結城攻め」では「伊勢藤原秀郷流青木氏・青木氏族」が「一族の陸奥結城氏」の「救助」に向かうが、これを聞きつけた「秀吉」は、「恐怖の紀州伊勢のトラウマ」に書きたてられたか様に突然に軍を払い「北陸道の商人荒れた山道」を一目散に大阪に逃げ帰ると云う媚態を見せた位である。
それほどに「伊勢攻め紀州攻め」では「恐怖感を与え得た程」であったのだ。
これが「15商業組合結成効果」であって2度と攻めてこなかったのだ。

注釈 そこで何故、「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで逃げ帰ったかである。
これは不思議な事である、
この前には「武蔵の結城一族本家」がこの「陸奥の結城一族」を救う為に立ち上がっているが「秀吉」はびくともしなかったのだ
更にその前にもより大きい「武蔵の本家の秀郷一門」も「陸奥」を救う為に攻めればよいではないかと成る。
でも「紀州伊勢」のより小さい「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで不思議に逃げたのだ。
それには「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」だから逃げたのだ。
其れは先ず「上記の組合を造る程の青木氏」である事であって、「伊勢者紀州者であった事」、そして、その背後に「豪商の青木氏」が控えている事にあったりだ。
「経済力」も然る事乍ら「伊賀者等三つの忍者」を配下にしている彼の苦しめられた「伊勢青木氏が控えている事にあったのだ。
この少し違う軍団がこれが動くと成れば、当に前記した「伊勢紀州での秀吉のトラウマ」にあったのだ。
そして、この「15商業組合の商い」に必要とする“「生産工場」”とする処には、「秀吉の台所」の当にこの「摂津と堺」であったのだが、そそれでもここでも手を出してこなかったのだ。

注釈 この時の事が、上記する「NHKの大河ドラマ」の中でもこれに関する事が詳細に描かれていた。
そもそもその「第一の目的」は、「一族一門の経済発展の事」である事は間違いは無い。
では、“何で結束して一族一門が共に経済発展視しなければならなかったのか”である。
“それもこの時代に密かに「永代の令外官・賜姓五役」に「時の天皇」が突然に「伊勢青木氏」に対して「律宗族の格式」を任じた上で、更に「因事菅隷」を発行してまでの事であったのか”である。
筆者は、「朝廷」がこの「ある目的」を好んで、将又、積極的に画策してまでの事であったのかどうかでである。
筆者の推論では、そうでは無かったと観ている。
結果として、「朝廷の最大の財源・献納の定期収入・権威の維持」であった「青木氏からの定期献納」を「今後も安定させる事」に先ずあったと観ているのだ。
つまり、その「定期献納」に対して「現在か又は先行きの事」として、「上記の事」で「秀吉の中」で、「天皇」は「権威回復」を試みながらも、その「不安」を抱いていたのではないか、其の為には、この顕著に成って来たこの「不安」を取り除く必要が生まれて来たのだ。
それを「献納時」に「街の状況」を伝える「賜姓五役の軍略処の役目」で、この「不安の状況」を潰さに内密に伝えていたのではないか。
この「不安」を取り除く為には、「青木氏族の持つ力」をより「不安をもたらす力」より大きくしなければならなかった筈だ。
それは「通常」であれば上記した様に「上記の商業組合」を組むほどに此処迄大きくする必要は無かった筈で、「伊勢青木氏だけの経済力と世情力」で対応は充分に出来ていた筈だ。
でも、その「経済力」は、勿論の事、「武力の事」、「政治力の事」のこの「三つ力」を兼ね備える事の必要性に迫られていた事に成るだろう。
これが「伊勢青木氏に向けた密書」の「不安の因事菅隷」であったのであろう。
それは「朝廷の今後」のみならず「青木氏一族の今後の事」でもあり、これが両者の「不安の因事」であった事に成る。
では、“それは一体何であったのか”である。
“手を繋いで輪に成って護りあう”為の「不安の因事」は何であったのかである。

筆者は、これが「秀吉」が行う「闕所の様な事」であったのではないかと云う事だ。
「政治の力」に対して「大身内の組合を結成して守り合うと云う事」はこれまでの歴史の中では無かった。
初めての事である。
つまり、“組合が闕所を呼びよせ闕所が組合を呼び寄せた”という事に成ったという事だ。
「時代」が接合しているので何方とも云い難いが「組合」が先ではないかとも考えられる。
「闕所」は「秀吉の時代前」からも既に起っていた。
前記したが「青木氏の中」でもこの「近江で闕所」を「秀吉」より受けている史実がある。
「組合」は「伊勢松阪での楽市楽座の時」より初めて「組合」を結成し始めている。
「信長・蒲生氏郷・秀郷流藤原氏郷」は、寧ろ、「商人が固まりあう事」の「商業組合」を推奨してそれによって「冥加金の獲得の手段」としたのだ。
「濡れで泡の策」である。
ポイントは、然し、「秀吉」からは全く逆で違ったのだ。
「秀吉」は「商人」が大きく成り過ぎる事を嫌った。
其れで゛府の中にこの商人の力を取り込んだのだ。
「朝廷と繋がり」のある「紙屋院で蔵人院の伊勢屋の伊勢青木氏」は、この時、「室町期の紙文化」で既に「巨万の富」を獲得していたのだ。
「朝廷」はこの為に「献納」で潤っていたのだ。
この「状態」は「信長の容認と推奨時迄」に続いたが「秀吉」で突然に変わった。
それも急に「突然に」である。
この時、初めて「朝廷」は「献納で潤い」を得たし「多くの院屋号」を持つ「伊勢青木氏」は「近江鉄」に始り「和紙」でも又「巨万の富」を獲得していた。
然し、「秀吉」はこれを真っ向から露わに嫌った。
取り分け、その基盤となる「紀州−伊勢の勢力」を悉く殺ごうとした。
要するに、「紀州征伐と伊勢攻め」と態々名を打って攻めたてた。
攻め立てられている「伊勢青木氏」は、この時、自らも「蔵の火付けや打ち壊しの攻撃」を受けながらも、「平城で寺城の堅固な清蓮寺城」を始めとして「菩提寺や分寺」に「庶民や僧侶等」を匿って「伊賀者等の活躍」で周囲を護ろうとした。
この時も「紀州伊勢の衆徒連」は「全滅の殺戮」を受けた史実を持っている。
通常は仏教徒である以上は「寺の中に攻め入る事」は、当時はタブーとされ、結局は外から「焼き払い作戦」に限られていて、結局はでて来た者から討ち取ると云う鮮烈極まりない戦いとなるのだ。
「伊勢青木氏」はその為に「火の着けられない清蓮寺城や大寺」に囲い民を守ったもりであったたのだ。
結局は、「伊勢の豪商の青木氏の抵抗」を受けて「紀州征伐と伊勢攻め・1577年〜1585年」は引き上げたのだ。
「伊賀者衆」や「甲賀者衆」や「雑賀者衆」や「十津川郷士衆」や「龍神郷士衆等」の現地の要するに「紀州惣国者の忍者衆徒」の「反撃」も受けて引き上げたと云う「秀吉」に執っては「我慢の出来ない出来事」であって、「格式」を有する「伊勢の豪商青木氏」に対しては「敵意」を露わに示し続けたのだ。
従って、この「突然の秀吉の政治的変化」に対して「組合」を組んで互いに護り合おうとしたし、「秀吉」に振り回される「朝廷」も、「密かに因事菅隷」を発してでも「全国の青木氏族」に対して「内密な強化策」を命じて来たのだ。
それが「青木氏族による15商業組合の結束」であったのだ。
時系列で観て見ると、この時、「正親町天皇・在位1517年〜1593年」は、「幕府の律宗族」を出してから、少し遅れて「1587年頃の伊勢攻めの頃」に、改めて「律宗族の容認」を出したが、反面、「秀吉」に取り入り「官位の授与」の連発で吊って、“「朝廷の権威回復」”を図った「正親町天皇」ではあるが、この時に片方では“「密かに因事菅隷」も発していた”と云う史実では無いか。
何故ならば、「天皇の権威回復の目的達成」にはそれなりに警戒されて、又危険を伴う事に成る。
それはやればやる程に増す。
その時代は、丁度、「秀吉の室町期末期の事」ではなかったか。
「正親町天皇・在位1517年〜1593年」は、この「目的の達成」の為に現実に「二面工作」を図っていたが゛、「唯一の味方」となるのは「古来からの付き合い」の「伊勢青木氏とその青木氏一族」であって、これに対しても「密かに因事菅隷の効果」にも改めて「重きを置いていた」と云う事に成る。
つまり、「青木氏への因事菅隷」と「15商業組合の青木氏族の結集」は、時系列的に一致していたという事に成る。
これには、「時系列」が完全一致すると云う事に成るが、それが「多くの事」を物語っている。
先ず、この「室町期の時代」に成っても、“「因事菅隷」を密かに発していた”という史実である。
「正親町天皇」は、唯一「朝廷の権威回復」を確かに試みたが、反面、「朝廷の存在」そのものまでに「危険感」を感じていたという事に成る。
それは「朝廷の権威」に食い込ん出来た「秀吉」であったからで、「官位の授与の連発」は、結局はその前には「秀吉の推薦」によるとすれば、その「権威」は「秀吉」にあって「天皇」に無いとする「形骸化を招く事」に成り、現実に史実として成っていた。
例えば、「天皇家の権威紋」の「五三の桐紋」に対して、「秀吉」は自分様の「五七の桐紋の権威紋」を造って、“「権威」は自分にあると思わせる策”を現実に執っていた「秀吉」であった。
それが「朝廷の権威回復」で逆に現実化していたのだ。
そこで密かに発したのが、この奈良期から使われていた「因事菅隷の策」であって、その前に室町幕府が出した「律宗族」を改めて見せつけるかの様に、先ず「律宗族」を出して「権威付け」て置いてたのだ。
そして、その「流れ」として上記する様に、「秀吉」は「伊勢攻めと紀州征伐」を同時に実行したのだ。
その意味でこれは「豪商潰し」と云うよりは、影で「朝廷の唯一の味方」となる「青木氏族潰し」では無かったかと観ているが、元より、「政権に靡かない豪商」もあっての事ではあった。
然し、「秘密裏の因事菅隷」での「15商業組合の結束」が、功を奏し「秀吉」に「潜在的な恐怖感」を持たす程の「決定的勝利・大きな犠牲を払ったが」で退けたのだ。
「朝廷」も「伊勢青木氏と信濃青木氏」のみならず、更には改めて「秀郷流の母系の賜姓族」の「15商業組合の結束の味方」を得て、且つ「朝廷への献納」も続く結果と成り、「秘密裏の因事菅隷」は思惑通りとなったのだ。

注釈 「室町期の因事菅隷の策・天武天皇」を出すと云う事は、他にも未だ「天皇」は「天智天皇の永代賜姓五役」を信じていた事に成る。
それが“「永代とする処」”に「天皇」は信じてあったのかは判らない。
然し、兎も角も「天皇]が室町期に「因事菅隷を発したと云う事」はその様に成る。
「律宗族の格式を認めて発したと云う事」もそういう事に成る。
「賜姓族と臣下族の総称策」として「本領安堵策で応じた鎌倉期」の前の「室町期」には改めて「律宗族」として発しているのである。

注釈 余談として他にもこの「思惑の込めた因事菅隷」を発した天皇」は居るのかと云う疑問だが、天皇家と疎遠できるだけに疎遠で通して来た「青木氏族」ではあり、考えられる天皇は余りいないであろう。
そうすると「因事菅隷」を密かに発した「天皇」としては他に「仁明天皇」と「円融天皇」の二人と成ろう。
「桓武天皇と平城天皇」が「親族でありながら「嵯峨天皇」に対しての対応」で発している事は間違いは無いだろう。
「出自元の最後の人」としての「平安期の親派の天皇」の「仁明天皇」は、「青木氏の岐路時期」に居た「親族の天皇」で「親青木氏」であった。
「円融天皇」はこの「青木氏を補完する勢力の拡大」を「賜姓と云う形」で対応した。
故にこの「二人の天皇」は「因事菅隷」を発している可能性は充分にあり得る。
何れも研究中であるが、判れば「因事菅隷と云う語句」からでも今回の様に「歴史に繋がっていた事」がより「詳細」に分析して判る事に成る。
それには「秀郷流青木氏の歴史資料の発見」に頼る処が大きいが何故か出て来ないのだ。
何かあったとしか思えないのだが、唯、この「因事菅隷」はその特質上は「限られたそれも特定の氏」にしか発しておらず、それもそもそも“「秘密裏」”であり、そもそも「遺る事」は「密書」である限り先ず少ない性質のものであり、慣例上は遺す事を「否」とするものである。
もう一つは「伊勢と同然の賜姓族」で「永代賜姓五役の令外官」を務めていた以上は「信濃青木氏からの資料とその分析」に頼る事にも成る。
「信濃青木氏」は取り分け「伊勢」よりも「殖産」を大きく進めていて、そこから生まれる利益の一部を伊勢と同然に「献納」としても行っていた。
「今回の青木氏に対する秀吉論」では、「伊勢青木氏」と同じでありながら「信濃青木氏」に対して「特段の攻撃」を受けたとする資料は見つからない。
「信濃青木氏」が「秀吉」が考える「豪商の大きさ」であったかどうかの事では、該当し無かったかと予想できる。
然し、「伊勢青木氏・伊勢屋」を通じての事であったものでは相当に大きいものであったと筆者は観ているが、此れには何かあったとも考えられる。
結論は「伊勢青木氏の商い」と「信濃青木氏の商い」は同然の一つと観られていたと考えられる。
「伊勢青木氏の商い」を潰せば同時に「信濃青木氏の商い」は潰れると観られていた事ではないか。
然し、「15商業組合のメンバー」の中でも「越後秀郷流青木氏の商い」は「全国豪商中の筆頭」でもあり、「酒業」として米どころでは歴史に遺る程の「日本一であった商人」でもあったが、同然に「秀吉から特段の攻撃」をこの時には受けていないのだ。
この差は何処にあるかと云う事であり、筆者は「越後」では無く、天皇家を強める主体的に定期的に行っていた「伊勢青木氏の献納」にあったのではないかと考えている。
そして、それが主に「伊勢であったと云う事」では無いか。
「正親町天皇の権威回復策」を弱めて、「朝廷」に対して「秀吉の権力」を強めるには、先ずは策としてはこの「献納を弱める事」にあったと観る事が出来る。
其れが「律宗族」と成って仕舞った「伊勢青木氏を潰す事」にあったし、その「古来からの固い地盤を破壊する事」にもあったのだ。
然し、この「戦い」は「伊勢人紀州人の惣国精神」と「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」」とで「秀吉」に「伊勢紀州のトラウマ」を起す程に大失敗したのだ。
要するに、全国各地で「闕所」を行って完全に潰して来た「秀吉の闕所的行動」に執っては、「伊勢紀州」では不入不倫の権で護られていながらも歴史的に大犠牲を負ったが失敗したのだ。
そして、「正親町天皇の権威回復策」の「目論見」も、兎も角も「因事菅隷の初期の目的」は果たされたと云う事で経済的な保障は果たされたのだ。
かといって、「青木氏族」と「朝廷との距離」は以前より近く成ったかと云う事では無く、飽く迄も「因事菅隷の範囲・献納の範囲」で終わっているのだ。
「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」は、益々その「商業勢力」をも広げて行くのだ。
当然に、「因事菅隷」が「15商業組合の結成」だけを先ず求めたものであった事かは「状況証拠」で判るが、将来の「御師制度まで発展させる処」まで指示し目論んでいたかは判らない。
然し、朝廷の「献納の安定」を「目的」とすれば、「御師制度まで発展させる処」までは求めていなかったであろう。
これに依って更に歴史的に繋がる「女系で繋がる四掟の青木氏族」は「より濃厚な血縁性も増す事」に成ったのだ。
逆に失敗した「伊勢紀州」に対する「秀吉の闕所目的」は、これで益々手を出せなくなったのだ。
余談だが前記した事で、恐らくは「時系列」から追うと「秀吉の出方」に対してこの頃から前段で論じた「店主の顔隠策・人と店は隠す」はより強化して始まっているのだ。
この「奈良期からの因事菅隷」がよりこの「顔隠し策」を推し進めたものと成っていたと考えられる。
それを示した初めての「物語」が室町期の末期策とし遺されている。
その「物語」では、「軍需物資の調達」で「伊勢松山」で「「秀吉」と会って「商談」をする。
この相手が矢張り「摂津堺の伊勢屋主人」であった。
この時に「作者」は、この「店主の顔隠策の事」で面白可笑しく物語を書いている。
恐らくは、当時には既にこの「闕所」を実行している「秀吉」に対抗する為に「豪商達」がいつ自分に降りかかるかを警戒していた事かを認識していた事に成る。
この作者は相当に「伊勢屋の身近な人物」であって、それを知っていて少し後に「物語」にした事に成るだろう。
多分、この「幾つか遺されている物語」の内容から、「商慣習」を良く知り得ていて、それはその「実態の詳しさ」から「家人か祐筆の範囲の者の作」であろうと考えられ、そうでなければ幾ら文才があろうともこの史実での事でこれだけの事は書けないであろう。
例えば、「松山城築城」の交渉場面では、「材木と大工の調達の事・史実」まで詳しく書き込んでいる。
そしてこの「物語」は書いた時より「江戸期初期」に成ってヒットとしているのだ。

注釈 米相場を[吉宗の裏切り行為」で引き上げた後の「伊勢の米」はどうしたのかであるが、それは最早、「蔵」さえあれば成り立つ事と成っていたのだ。
それは簡単であり記録にある。
上記した「15商業組合」は全て「酒蔵を持つ程の大米所の国」にあり「伊勢の米」は賄う事が出来たのだ。
それがこの組合で藩を超えて出来る様に成っていたと云う事だ。
因みにこの「伊勢」とは、「北部の米の事・北勢」で「伊勢の最大の収穫量」は全体で57万石で、一時は40万石に足りなかったとされ、「北勢」では「陸稲の収穫」だけで表向き「5万石の小藩程度」のもので「伊勢藩」では無く親族の「支藩の松阪藩」や「高野藩」であった。
この「伊勢国の石高」は、「米」だけに「拘わらず国の殖産物の生産額」を「石高」に換算してのものであって、その比率は石高より大きかったのだ。
それだけに「市場」から求める「余剰米の米」は、必要であって米獲得の為に「藩主とその役人」が動くほどに「江戸の物語」にも成っている程である。
此れを「歴代の紀州藩勘定方指導」の「伊勢屋」が奈良期の昔から一手に担っていたのだ。
口伝でも伝わっている事である。

さて話は変わる。
話は「秀吉の闕所の同時期」に行われていた「二つの近江鉄の製鋼」では記録を追うが何故か何も影響はなかった様だが原因は判らない。
「鉄を扱う商人で殖産人ある事」は歴史が長い事から「秀吉」は充分に知り得た筈だ。
これが「闕所の対象」に成っていたとは思えない。
「伊勢」を潰せば、その「莫大な利権」は「秀吉」に転がり込んでくるは必然である。
然し、「伊勢」は攻めたが「近江」は直接に攻めていないのだ。
これは不思議な事であり何故かである。
攻められない何かがあったからであろう。
それは確定は困難だが、「律宗族」と「因事菅隷」と同然に「朝廷の院屋号をも持っていた事」では無かったか。
この「院屋号」を持っていなければ「鉱山に関係する人達」を動かす事は出来なかった。
前記した様に「彼等の組合の金屋集団の抵抗・金屋神」を受けるからではなかったかである。
「秀吉」はこの「上記の通り」で“「組合」”と云うものには一目を置いていたのだ。
だから先ず手を出さなかったと観られる。
そして、次は元より“密かに出されていた「因事菅隷」”にあったと観ている。
だから、この「三つの事」から考えて“手を出さなかった”と云う事にも成るが、「伊勢青木氏」に「因事菅隷」を出していたかまでは秀吉は判らなかったと思う。
うっすらと知っていた程度で在ろう。
なぜならば「蜂須賀小六の家臣の時代」に今井神社系の影の役をしている。
然し、直前で態々に凡そ「700年後」に「室町幕府と正親町天皇」が“「律宗族」”と改めて「格式を認め直しているの事」を洞察すれば、以上の事では、“密かに何かを出していただろう”の程度の事は「秀吉」は予想は出来ていたと読める。
それまでは「秀吉を含めた世間の認識」は、総称として「律宗族」と追認されるまでは「永代賜姓族・臣下族」で「永代賜姓五役の令外官」、昔は「浄大一位の冠位」等を保有する家柄程度と、「忘れかけの認識程度」であったであろう。
氏族の間で御師様の呼称が物語る。
それが突然に、その「総称の様な格式名」で「律宗族」と再び呼ばれる事に成った。
この事は「秀吉」も知っていた筈で、「そういう特別に限られた族」に対して密かに出す密書の様な命令書の「因事菅隷の存在」も薄々は知っていたと思われる。
然し乍ら、「近江鉄の事」には「因事菅隷の族の存在」でも“手を出せなかった”のではないか。
「攻めた事の本音の目的」が「伊勢全体の力を弱める事」であったとしてもそんな事では「上記した伊勢全体の勢力」は弱まらないからだ。
「秀吉」は、“この「伊勢全体の勢力」の「この底力・観た事もない総合力保持集団」を見誤った”のだ。
「伊勢勢力」を「普通の武力集団」と見誤ったのだ。
だから「将来の秀吉トラウマ」に成る程の体で逃げ帰ると云う結果に終わったのだと読める。

注釈 この「青木氏に対する密書の因事菅隷」は、定期的に納められる「献納時に渡す事」や、「伊賀者の情報伝達」でこれを担っていた事が判っている。
中には、「香具師と呼ばれる伊賀青木氏」が特別に「香具・薬や生活常備品」の「入替え」でこの「朝廷内」に出入りしていたとされる。
この「真の目的」は「情報の伝達忍者」であったからだが。
これらの手段を古来から使っていた。
従って、出したか出さないかなどは判らないのが原則の常で、況して「因事菅隷の内容」までは判らなかったと考えられる。
「因事菅隷」に拘わらず「金銭の小遣いを始めとした生活の細かい依頼事」までも「伊賀者や香具師」に秘かに出していたらしい。
これ等の事が「明治中程」まで続いていた事が京都に明治中頃までその役目の店を構えていた事が「香具師の遺した資料」からも判っている。
「香具・薬や生活常備品の入替え」ではどうも「伊勢の無償」であったらしい。
筆者の祖母も「京の公家出・叶氏」であり、この事から「天皇家のみならず高位の公家なども含まれ、「天皇家の調度品等」は、「伊勢屋が準備した事」が判っているが、これも「超豪商の伊勢屋・伊勢青木氏の無償」であったと考えられる。
取り分け、この「室町期」を分けると「秀吉の時代」は、相当に活躍した事が「香具師の史資料」や「伊賀青木氏の資料」でも判る。
然し、「伊勢」を攻めていながら「近江」には手を出さないのはこれは矛盾をしている。
だとすれば「闕所の為」に「伊勢と紀州」を何故に潰しに掛かったかである。
「伊勢の力・伊勢青木氏の伊勢屋」と「氏族の伊勢郷士50衆」とを合わせたものであるが「財力はあるが武力」は持ち得ていない。
補完的に「女系で繋がる秀郷流青木氏116氏と秀郷一族一門の361氏の武力一門」で強く繋がっているのである。
この「伊勢」を直接攻めれば、この「有史来の四掟の血縁族の補完族」を引き出す事に成るは必定である。
だが、どの条件から検証を捉えても攻めている。
それ程の「闕所の為」であったのかである。
となると、「潰す」と云うよりは「弱めたい」と云う狙いがあったのかと云う事に成るが、「巨万の経済力」と「その地盤の強固さ」と「背後の武力」が在れば弱まる事は100%ないだろう。
でも攻めたのである。
確かに伊勢と紀州は鮮烈極まる犠牲を負った事は確かである。
然し、秀吉の闕所の目的は全く達成されなかった。
普通なら「伊勢」を目的として攻めれば「近江」」も攻め取らなければ意味がない。
全く攻めていないのだ。
「正親町天皇」は「朝廷の権威回復」を積極的図っていたが、これに「献納」する「伊勢勢力」に「牽制」を掛けたとすれば符号一致する。
それには「唯一の勢力と成っていた伊勢青木氏・伊勢屋」への「因事菅隷の手段」を無くす事と成るが、「天皇」には「秀吉の立場」ではこれを命じる事も止められない。
そこで“「伊勢」に的を絞った”と観えるが「伊勢」は屈しなかったのだ。
それどころか“「青木氏族を結束する15商業組合」”で対抗して来たのだ。
それがその嫌う“「因事菅隷」で行われた”と云う事に成る。
そもそも“「因事菅隷」は秘密裏に成されるもの”である。
その“秘密裏に行える手段”を上記した様に幾つも持っているのだ。
恐らくは「秀吉」にはこれには「手の施し様」が無かった筈である。
それが「天下の伊賀者の伊賀青木氏」であったし、「雑賀忍者」であった。
この時は、「内部の考え方の違い・忍者の雇用形態」で「甲賀青木氏」は「伊勢青木氏」から既に手を離れていたのであった。

注釈 さて、そこで「秀吉」はこの「近江の件で攻めなかった事」はそれなりの意味を成すだろう。
「近江の鉄鋼」には未だ「魅力を感じていなかった事」を意味する。
魅力があれば「伊勢」と共に「近江の利権獲得」の為に真剣に攻めていただろうが「伊勢」だけであった。
「近江の鉄利権」は「秀吉の政治権力」で奪えばよかったでは無いかと思うが、実は上記した様にこの「近江の鉱山の鉄利権」には「院屋号を持つ因事菅隷」を朝廷は既に与えていたのだ。
これを否定して「強引に奪い取ると云う事」をすれば世間の信用を低下させると思った筈である。
何故ならば、「秀吉」は「天皇の権威」を背景に「自らの政治権力」を高めているのだ。
従って、「院屋号を持つ因事菅隷」の何人も持ち得ない「最高の権威書」を持っているとすると「強引に奪い取ると云う事」の最悪の事に成り得て仕舞う。
だから、手出しは出来なかったと云う事に成ろう。
この事からこの様に「権威の物を持つ伊勢」に一目を置くにしても、「近江鉄」が「需要と供給の関係」に於いてその「要求に賄う量」を供給できていたかに依るだろう。
つまり、「鉄の供給」が大きく金になる様であれば何か手を使って来るだろう。
それ程の事が無ければ「秀吉」も手は出してこないであろう。

注釈 其の事に就いて検証する。
「世間の資料」では、これに加えて「江戸初期」までの「全国の神明社の質」でも「青木氏の人・処世に失敗した人の救助」を救う為に「社会の一角」で「独占的に鉄製品の商い」を営んでいたが、その時の「事・主に販売」が判っている。
この「近江鉄」に付いて「重要な事」があって、“「全国の神明社のルート」を通じて裁かれていた事”が「記録」として遺っている。
要するに「通常の市場に載せていなかった」と云う事だ。
つまり、「神明社の裏の資金源」であったのだが、「近江鉄の生産量」が恣意的にその範囲に限定されていた事に成る。
それも「神明社」、即ち、「青木氏族の中」で恣意的に限定していた事に成る。
だとすれば、これらの「市場」に対しではなく、「全国の神明社からまとめて来る需要の要求を賄う量」としては生産し、それが相当なものがあった筈である。
それは「神明社を使う者」が「一般人」では無く、上記した「15商業組合の範囲からの声・秀郷流青木氏一門」を下にしていた事に成るからだ。
だから「秀吉」が恐れる程に、「15商業組合の結成」のそこには「近江鉄」が其の裏で存在していた事に成るのだ。
現実には「秀吉」は「近江鉄に目を着けなかった事」、又は「着けられなかった事」は、ここにあって、故に、「鉄製品」に限っても、果たして「市場」では「充分に賄う事」ができ得ていたかは「疑問」を感じるのだ。
当時は“鉄を握る者は天下を握る”と云われ始めていた時代であった。
その「鉱山鉄の近江鉄」を「青木氏」はこのような形で握っていたのだ。
「市場化」しないで「神明社化」で「鉄と云う危険な物」を限定して「青木氏族の範囲」で使うようにしていたと云う事だ。
その「裏のツールとしての神明社」が使われたのだ。
その時期化が戦乱の世であって、鉄で造る火縄銃の生産が戦いに比例して造られる様に成っていたからである。
故にそして、「鉱山鉄の生産」のその「最終起点・神明社」が「青木氏族の逃避起点の越前の福井」として制限したのであった。
未だ、この頃は、「竪型炉の開発」が「需要に賄えるだけの量」に未だ至っていなかった事は上段で論じた様な事でもあろうし、寧ろ、その「範囲の事でも良かった事」に成る。
その分、「世の中の需要」は、未だ「砂鉄の鈩製鉄」に頼っていたし、「江戸期」に成って初めて「鈩鉄の公開市場」が「大阪」に開かれて続いていた事を考えると、「近江鉄」に目を着ける程に「神明社の範囲」で隠れた「魅力」は充分に未だ無かった事に成るし、この分でもシステム的に「権力介入する事」は出来なかった事になろう。
「伊勢」を攻められている「青木氏族」に執ってはこれは都合が良かった。
何より「15商業組合の結成」に上手く働いたのだ。
更に「船を使っての商い」と成ると「院屋号を持っていた事」の限りに於いては、「二つの近江鉄の製鋼」では、世間の影で「フル稼働・限界に達する程」のものであったと見込める。
故に、上記した様に「秀吉」から目を着けられなかった事で、「近江鉄の限定した神明社経由の使用量」から、更に“当初の「2鉱山」から最終は密かに「4鉱山」に増やした”のでは無いかと判断できる。

注釈 「伊豆青木氏の救助」を果たし「独立させる額田青木氏」に「引き渡す近代銃の欠点の完成」は、前段の通り「1540年頃」に開始」し、「1560年頃」から引き渡している事になるので、「秀吉との関わり」と「正親町天皇との関わり」では、当にその“「後半の渦中」”にあった事に成る。
「秀吉・1537年〜1597年」、「正親町天皇・1517年〜1593年」の時系列を観ると、つまり、「青木氏族」としては「難しい綱渡りをしていた時期」に成る。
故に、何もかもに取り分け「一族を守る為に一斉に行動に出た事」に成った「15商業組合の青木氏での結成」は、その「総合策」としての一族存続の為にはこの事に大きな「意味」を持っていたと考える。
何もかもが青木氏の存亡はこの時期に集中している。
その「意味」でも、当時の「需要」に対して「供給」は、「砂鉄・鈩炉・閑散期の田水路を使う方式」だけでは、到底無理であった事は間違いは無いが、「近江鉄」を合わせても無理で会った事が判っている。
この「比較される砂鉄の経緯」でも、「近江鉄の青木氏一族の全需要・必需品と商い・神明社経由」は、「フル稼働・限界に達する程の事」を説明を補完できる。
これに依ってこれを補うには、「貿易に依り高い技術を他から求める事」に成っていた事が記録からも説明できる。
然し、「青木氏の状況証拠の記録」から想像すると、「鉄を輸入すると云う事等」はそれをしていない様だ。
と云う事は、「市場」は殆どが「砂鉄・鈩炉」に頼り上記した様に「近江鉄」は、「神明社の裏ルートからの供給」に限定されて直接は関わっていなかった事に成る。
これは「青木氏族一門の戦略に成っていた事」に成る。
つまり、「近江鉄の鉄を獲得する事」に依り「鉄などの軍需品の寡占」が起こり、これに追随する武装勢力はいなくなる事に成り、従って「戦乱」の中で「青木氏族の安定に繋がっていた事」に成るのだし、武力を持つ秀郷流一族一門は影では実質の勢力は秀吉より「無敵の勢力」であった事に成る。
言わずもがな「近江鉄」に対して「鉄製品の寡占」を疑われて、場合に依っては「秀吉」の「刀狩りの令」に触れる事にも成り兼ねず、刀狩り令を出しながらも実際には手が出せなかったのではないか。
その意味で「銃の欠点を無くす研究」は、実に危険性を帯びていた事に成ろう。
然し、何かしているだろう程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、出したくても手も出せなかったと観ている。
一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝して、「全段の額田青木氏論」で詳細を論じたが、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げた「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わり、以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ。

> 「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。


  [No.399] Re:「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」
     投稿者:青木   投稿日:2022/12/04(Sun) 10:50:04

> 「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」の末尾

> > 然し、“「伊勢青木氏」が何かしているだろう”程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
> 手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、筆者は""出したくても手も出せなかった“と観ている。
> 一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
> 「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
> 筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
> 「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
> そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、この「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝しててた。
「全段の額田青木氏論」でこの「詳細」を論じたが、故に“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
> ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げたその「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わった。
以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
> 逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ


「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。

その頭角は、“「貿易に依り高い技術を求める事・中国貿易は超えていた」”には成っていたが、「鉱石と製鋼の技術」のみならず、「鉱山の火薬・爆破の技術・砂鉄には無い」にも繋がる事で秀でて、其の事に依ってその「技術の完成」が、「因事菅隷に依る近江の鉱山開発」に生かされた。
前段で記した紆余曲折の末にこの技術を習得した「額田部氏」は「臣の官位」を獲得するまでに至ったのだ。
別出自とされる「出雲国の額田部氏・臣」を遥かに凌ぐ立場を獲得する結果と成ったのだ。
結局は「彼等の協力」を得て「鉱山開発の総合技術」は進み、結果として“「2鉱山から4鉱山」に増やした。
この”事の意味は大きく成り、それが無ければ、“鉱山開発を増やしたの経緯”は無く成っていたのだ。
其のままでの技術では「無理に繋がる事」に成り、その為にも先ずは「院の屋の商業化」であったのだろう。
故に、「鉱山開発の院」のみならず「院の屋の号」をも獲得する事と成っているのだ。

然し、考えて観るにこれには「二つの疑問」が湧く。
その「疑問の一つ目」は、この時期に敢えて、天皇から密かに密書としての“「因事管隷”の院屋号」”を持っているにも拘わらず、「伊勢の別枠925年頃の商業化策」は「朝廷」に於いても「危険であった事」なのでは無いか。
この「時期の事」では、慣例上では未だ、“これは朝廷が商いをしている事”と成り得得たのではないか。
然し、寧ろ、「朝廷」はそれを敢えて“「院屋号を思うように許した」”のだか、「その時代が求める必然性」があったと云う事に成る。
そもそもこ「因事菅隷」はその「扱い」は「青木氏だけの密書」であったので、周囲は知る術も無いだろうが。
この凡そ、その“100年後に進めて更に「総合商社化」して「貿易」を本格化さしている。”のだ。
「部経済」によって「朝廷に集まる全ての物」を管理し、それの「余った物」を「市場」に放出して裁き利益を獲得しそれを「朝廷の財源とする役目」を担っていたとすれば、寧ろ、“天皇家が密かに影で商いをしている考え”にあったのではないか。それを当然の事としていた事に成り得てこの一つ目の疑問は解ける。
次は「二つ目の疑問」は、この時、“「女系で繋がる伊勢郷士50衆」はどうしていたのか”である。
資料の一部から読み取るに、この「女系で繋がる伊勢郷士50衆」の「氏族集団」を下に幾つか組を組んでその役割を果たしていた“「特別な下部組織の伊勢衆」”がいたとされるのだ。
それが、歴史上に残る有名な“「200人伊勢村主衆組」が南北に「二つの組」に分けられて「伊勢の民」を長く整えていたとしていて、この「因事菅隷」に基づくものは密かにこの「二つの処理集団」に依って処理され、これが「其れの始り」であったとされているのだ。
この組が南北に二つに分けていたとされ、この組と「伊賀青木氏の情報集団」と連携していたとされているのだ。

丁度、この時期に「嵯峨天皇に圧力をかけられた青木氏」を救ったのが「仁明天皇」であり、更に出自元ではない「円融天皇」から「北家藤原秀郷流青木氏・母方」を永代で、再び「青木氏を賜姓する事」に改めてこれを定めているのだ。
この「円融天皇」はこの「因事菅隷に基くシステム」を知り得ていて、弱っていた天皇家そのものを基礎的に支える集団をより強くしようと試みたと考える。
それが賜姓族を外された後の「因事菅隷の伊勢青木氏」が当に「商社化した時期の50年後」の時期にほぼ一致する。
「鎌倉期の歴史書」にもこの事が書かれている。
この事からも「全青木氏一族」には、“その時代が求める必然性があったと云う事”は否めない。

それが故に、この「上記する経緯」を以てしても、偶然にも期せずして後に上記の様な「銃の鉄」に「良い結果を生み出したと云う事」に繋がったのであろう。
又、それが「額田青木氏の銃の歴史」と成って現れたものであろう。
上記の様に、この「摂津の範囲・秘密裏」で行っていた余りにも「銃に対する高度な技術」は、「上記の事」を充分に理解すれば、「他が真似する事等」は「財と技術と因事菅隷等を含む環境があっての事」で成し得たものであり、他がこの「銃の真似た生産」が「絶対に不可能で在った筈」であり、故に、「三方ヶ原とその後」にも世間には「存在し得ていない銃」と成り得たのである。
「近江鉄の鉱山開発」に、“「因事管隷・賜姓五役」”があった事から「他が真似する事等」は薄々知ったとしても絶対に出来なかったと考えられる。
将又、故に、この「戦後」にこの「殺戮性の高い銃」のそのものも「世間に出す事」は、「密かな護身用」で在る限りに於いては、「青木氏の氏是」に基づき永遠に憚られたものと成り得たのである。

注釈 其の内でこの“「因事菅隷・密書」”を発している相手は、可能性として他に「川島皇子」の「後裔の近江佐々木氏」と「後裔の近江佐々木氏」と「その系列3氏」と、上記の「青木氏族2流の範囲」に限られるであろう。
筆者はこれらの財の無い氏に対して“「因事菅隷・密書」”を発してはいないと考えている。
これ等は「密書の類」であり処分される常として故にその記録が無いので限定できない。
要するに、「皇親族出身の令外官の立場」にあった者への所謂、「密書」であるので「因事菅隷」を出している可能性は多くはない筈で、又、遺している可能性も低いし、「伊賀者の様な香具師・情報を担当していた忍者等を有する氏族」で無ければこの「秘密裏の伝達と保持」は無理であろう。
根本的に「財と秘密裏の情報伝達手段」が無ければ成り立たない。
その意味で、所謂、「献納と情報集団」を持つ「二つの青木氏を含む青木氏族」で無ければ成立しなかったのではないか。
取り分け、「経済力を有する事」が先ず前段で論じた様にその条件にある「献納」に基づく為にそれが大前提条件であったろう。
その意味で、「どの近江族」も経済力が低かった事より「伊勢」から二つの干拓大工事を20年と云う歳月を賭けて援助している所以を以て無理であったろう。

注釈 何度も論じた事ではあるが、江戸期に於いて世間が安定し危険性が無く成り、「殖産と商い」にも「存続の危険性が無く成った頃・上記の享保期の事件もあった」を見計らって関係する全てを焼却したと「総合的経緯」から考えられるのだ。
「銃の存在の発覚」が「氏族」をとんでも無い危機に陥れる事に成ると観て一斉に無くしたのではないか。
恐らくは、その「兆し」が強く現れたのが「青木氏族の事」を一番よく知っている「吉宗の享保期の事件」であったのでは無いか。
その様に「吉宗」は受け取ったのであろうし、「伊勢攻め」が無地に済んだと思う頃に、今度は「秀吉の刀狩り・1588年」が始まり、それに代わって今度は「吉宗」も絶大な協力を受けていたがその「内心」はその機会を伺っていたと観られる。
「将軍に成る為の裏工作」、「江戸向行」、「江戸の経済政策の立直し」、「紀州藩への財政的救出」や「家康鈴鹿峠の救出事件」や「伊勢津泊の秘密渡し舟事件」で貢献したにも関わらず、「大岡忠相の伊勢の事お構いなしのお定め書無視事件」、「同山田奉行所の海域嫌がらせ事件」、「信濃青木氏の聖域剥奪と殖産没収事件」等の「裏切り行為」が続いた。
遂に内心が露見したのだ。
此れを最後に、前段でも論じた様に「江戸資産・江戸伊勢屋200店舗」を其の侭にして「3日船」で「伊勢松阪」に急いで逃げ帰り「紀州藩の後ろ盾?歴史観」を求め「危機」を脱出した。
恐らくは、この時を「潮時」として、「伊勢」は「難癖を着けられるような物とその行動」を自らを以てそれを「証拠と成り得る因事菅隷・密書等」は特に疑われると共に一斉に青木氏一族全体で消しさったと考えられる。

「伊川津青木氏」や「駿河青木氏」や「秀郷流一族一門」や「伊勢水軍」や「伊豆青木氏」や「日向青木氏」等には「試作品」も含めて「防護用・抑止力として配布していた事」が確かに渡ってはいるが、そのもの一切の時期は同じくして「享保期直後」に於いて忽然とその姿を消している。
これは上記した注釈が原因と考えられるが、“何かがあって消した”と受け取れるし、消す以外に無くなったとも考えられる。
それは他に参考として語れば、「江戸期」には「一揆などの騒動」が社会に多発して「銃が使われた事」に依って幕府に依って「二度の刀狩り令・銃などの保有の禁止」が成された。
恐らくは、「紀州藩と幕府官僚族」であった「青木氏を含む秀郷流一族一門」は、これに伴い密かに氏族全体に影響する為に、一斉一切に廃棄して焼却させたとも考えられる。
これに伴い、「各地の保有していた青木氏族」も同然に追随したと考えられる。
この時に「秀郷流一族一門・官僚族であった事も影響・政治の中心にいた事」には、今だ「歴史的な関係する研究資料」も散見できないのは、確かにその後の「火災震災戦災」も考えられるが、この時の「令」にも関連して「他の疑われる物までも焼却」したのは前段で論じた通りであり、この様に「一切の焼却時期のタイミング」としては「享保期」で一致するのである。

然し、「銃のみならずこれに関連する一切の書籍」までもが確かに焼却したものの、僅かに、完全解明には足りないが「伊勢のテリトリーの中・鎮守社の拝殿後ろ」に密かに「祠」を隠し、その隠した「祠の神明社」と共にその「床下」にも密かにその一部資料が遺されていたのだ。
その所以もあって、それが本論のこの「芋蔓の様に解明の一口筋」と成っているのだ。

「額田青木氏の銃」とは、全くその「経緯と学説」は異なる事と成るが、敢えて比較して前段で論じた「種子島火縄銃の学説論」での「時代の銃形式」を研究すると、「学問的な知識の到達」と「製造技術の到達」では、「額田青木氏の銃の経緯」としてはここまでで“「無理」”と成っていたのだ。



さて、そこで判り易くする為に再び「比較論」をする。
そこでそれとしては「銃での戦闘論」が最も判り易いので再び「種子島火縄銃の戦闘論」に立ちると、この「射撃」に依って起こる「銃身通過時」の「摩擦高熱の欠点」を補う為に、この「摩擦熱」を持つと「銃」は必然的に使えず、結局は冷えて使えるまでの一定時間は「徒士の兵」が柵から出て戦闘して、そして再び引き上げて次の冷えた頃の「銃撃開始期」まで待つのだ。
「信長の雑賀根来の射撃団」でもこれが起こっていて詳細に史実でこの事が語られている。
“「3000丁の火縄銃」が思う程には効果は低かったとしていて、その研究では1/3程度であったとしているし、大きく銃撃団の犠牲が出たのはこの事にあった”と雑賀の記録には記されていて、但し、此れを側面から「信長の武士団」が補完せずに自ら銃を置いて刀で戦った事が記されているのだ。
この事が元で、“信長と雑賀根来族と犬猿の仲と成った”と結論付けている。

さて、次にこの状況はどの様なものであったかを記録から読み込んで観る。
この「銃撃の間隔」は、「最低で1h/3000丁の3段階撃ち・記録」とすると冷却期間が「2〜3回程度/h発生」と成るが、その間は「弾幕は無し状態」で「武田軍突撃隊」は前に進む事が出来る事に成る。
この「間隔」を置きながら、この「進撃」で「引き付けて撃つと云う事」を「繰り返した事の戦い方」に成るが、それ故に「雑賀根来の銃の傭兵軍団の3000丁の銃」の内の「約半数・1500丁」は加熱オバーで「銃」は最終的に使えなく成っていたと「専門的な検証」として観られる。
この「戦闘時間」が「記録」では、「最大で8h、最小で4hの説」があるが、「銃撃戦闘時間の8h説」では、「三っの事・疲労と未明と熱の事」でこの説は物理的に「現実的では無い事」が判る。
そうすると中を採って「4hから6h」とすると、「12〜18回の射撃回数があった事」に成るが、然し、この「銃身」は冷やし乍らも次第にこの「鉄製品に起こる専門的な300度脆性」が起こり、それと「鉄の疲労限界・鉱物には必ず存在する」に近づく事に成る。
これが、この時には「武田軍も戦力」も落ちてきている事に成るだろう。
結果としては、「アイドリング」として「銃撃停止の間」の「徒士の戦闘兵」の「棚枠内」に「引き上げる行為等」に「手間取る事」もあり、又、「弾煙等のロス」が生まれて計算通りには行かないので、故によく見ても「種子島火縄銃・特に雑賀銃に限定」では「戦術」とは別に物理的に観て、抑々、「銃撃回数・6から10回程度以下」には成るだろう事は判る。
これに依って「武田軍の疲労した突撃」では、最終は「全滅の憂き目」を受けたと成るのだ。
それの是否を幾つかの資料の説で観れば、「凡そ1万5千の兵」の内、この最後には「勝頼の引き上げ命令」に付き従った「本隊守備兵250人」は、「敗残兵・負傷兵を戦場に残して逃げ延びたとする説」が、その「戦い方まで詳細である説」と「郷土史・戦場の整理を担った地元の住人らが言い遺した逸話説」とを総合して妥当な説とすると、「1万2千の兵の屍」が「三方ヶ原の戦場の北側半分」に在ったとしていて、これには「約2千5百の兵の合わない数」があって、「兵数の誇張」か「逃亡者数」に数えられる。
然し、「これらの上記の数」は、どの戦いや戦記でもあり得る事であって、要するに「完全な全滅であった事」に成る。
つまり、「銃撃回数・6から10回程度以下/3000丁」は「1回2000兵の戦死」と成り、「3000丁の三段内の冷却済1500丁の三段内」と成ると、「1500弾の3倍」は「4500弾」が飛弾し、その内の実際に「1/3が兵に被弾する事」に成るとすると、「1万2千の兵の屍」はあり得る数に成り、あり得た説と成り得る。
上記した「熱による銃撃間」の間の「兵同士の戦いの数」が、「合わない数・致命傷では無く戦闘能力を無くした兵数/戦線離脱兵」に成っているのでは無いかとすれば一致する。
要するにこれに依って「熱による銃撃間説論」は成立する。
現実に「銃撃間説論」に依って攻め込まれて「銃兵」は死傷したが、「信長」がこれを「見捨てた事」で後に感情的に成って「雑賀根来の傭兵軍団」と「信長」とは「犬猿の中」に成り、挙句は「紀州攻めを受ける事」に成った「史実の事」を考え合わせれば「銃撃間説論」は充分に納得できる。
要するに、「砂鉄からの来る火縄銃の必然的熱欠陥」が顕著に存在していた事をこの「三方ヶ原の戦い・武田軍との戦い」に付いての検証した“「銃撃間説論」”では証明している事に成る。
これに対して「額田青木氏の超近代銃」はこの火縄銃の欠点を補いした事で「一言坂の武田軍との遭遇戦」で「武田軍本隊を釘付けにした史実」は、それまでの「武田軍が持ち得た銃撃間説論」の「火縄銃に対する発想」を根底から覆した事を実戦で証明した事を意味する。
その意味で坂での「遭遇戦の武田軍の新たな印象」は大きかったと考えられる。
それは「二つの事」にあって、
「一つ」には「銃」には上記の「熱の銃撃間説論が起こる事」、
「二つ」には「飛距離と命中率」が3倍に在った事、
この「二つの発想」が「信玄」に衝撃を与えて何もする事なく、“本隊が「前」を向きながらも徐々に後退する”と云う「戦歴上に於いて前代未聞の事」が起こったのだ。
「300の銃隊」に対して「8倍の軍」が成す術無く、“弓矢も火縄銃も届かない1k離れた坂下位置まで引くと云う事」”が興ったのは、このそれまでの「銃撃間説論」が成り立たない事を知った事の所以であって、要するに「額田青木氏の超近代銃」はこの欠点を補いした事の所以の証明でもあるのだ。
「吉田城の第一次の籠城戦」にも「額田青木氏の城内部からの銃撃」を受けているが、その時は「距離の疑問」は持ったかも知れないが、「城廓櫓からの銃撃で在った事」から「銃撃間説論」は感じていなかった事はあり得るのだ。
だから比較的この“「銃撃間説論」を使えば崩せる”と云う発想を持っていたと観られ、前段手も詳しく論じた様に「坂の上」で遭遇し、「坂下」に100の銃と3000の兵を廻して待ち受策を執り、途中で坂途中にも3000の兵を伏せて、この“「銃撃間説論」を生かそうとしたと“「銃撃間説論」で観れば読み取れる。
「後」と「前」と「横」から「閉じ込め策」で“「銃撃間説論」を待って攻め込めば勝てると見込んだのであろう事が説明できる。
ところが、この“「銃撃間説論」は起こらなかった”という事に成り、「慌てた武田軍本隊」は早めに「一切の閉じ込め」を開放し、何と動きづらい後ろ向きの本隊も坂下1kまで下げた事に成った読み取れる。
其の後の浜松城通過時、堀江城への追尾時、三方ヶ原の決戦時も{額田青木氏の銃隊}に対して一切対抗しなかった事と成ったと読めるが、これが“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の所以であって、そのの為に“「銃撃間説論」は起こらなかった事”を証明している。
そして、この“「銃撃間説論」は起こらなかった事”は、“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の「逆説論」も成り立つであろう。
仮に、密かに「摂津を中心として製作した銃」であったが、これだけの「戦歴の史実」を見せつけていたのであるから、「武田氏や織田氏」は必ず「これを武力で奪う事」に走る筈であるが、この事が「読み取りの中」では一切発見できないのだ。
では何故かであるが、「額田青木氏に完成の近代銃を引き渡した時点」では上記した様に「匠、工人の伊勢への引き上げた事」と「一切の資料を隠匿して世間に漏れる事」の無い様に「生産」のみならず「保持」さえも限定した故の結果であり、「摂津商人、伊勢屋商人」をも「特定できない組織・摂津商人と伊勢商人・殆どは大阪商人として記録遺る」として「明治期」までに至っているのは、この事に対する「特定できない策」であったと考えられる。
事の「史実」は、室町期から明治初期まで「大豪商・店名も主人も」は、“この「危険・全ゆる危険」が在った事”から、この「特定できない影の策」を講じたのである。
追記して置くが、念の為に「青木氏の正しい歴史観」として「伊勢の氏族」を除く民間の前では、「テレビドラマ」などの様な「平気で顔表に出て来る事」は殆ど無かったのである。
そもそも、少なくとも奈良期の「賜姓五役」や「因事菅隷」の「天皇の内示・密書」を直接に受ける事に成った時点では、元々、この「顔隠策の路」を必然策として実行していたのだ。
何も「院の屋・商い」を営むだけの事では無く、「院に於ける事」に於いても「顔隠策の路」を必然的に伝統的にも求められたものであって、これは「青木氏氏是」に全てが基づくものであったのだ。
「青木氏氏是の伝統」をミスなく守るにはこれが一番であったろう事が理解できる。
この「氏是」がある限りは昔で無くても現代でも求められる事でもある。
要するに、これは「古くからの離れられ得ない伝統であった事」に成る。
筆者は、「献納時の朝見以外」は「四掟制度」も「四家制度」も「福家制度」も元々の基本の考え方はここに在った事では無いかと考えている。
其の為の制度であったろう。
寧ろ、「青木氏族」はこれさえ守れば他から攻撃される事も少なく此れで護られていた事では無かったかである。
中には破目を外そうとする者も居たろうが、「氏族の掟」と成れば当に、“出る杭は打たれる”の例えの通りであり生きて行く事は難しいが、それが長い間に「絶対の伝統」と成り得たと考えられる。



「*」印の 「救出の検証」

さて、上記の「三方ヶ原と長篠の火縄銃の経緯」の通り、特異性を持っているのだ。
これを理解した上で、ここに「青木氏の歴史観」に執って重要な事が在る。
その為に少し話を元に戻す。
「青木氏の氏是」の前に「南下国衆の指揮官」は、“それ”を予測して見抜いていたのだ。
この“それ”とは、後で起こった「銃の結末」である。
即ち、「長篠の上記の結末」を「予測・想像していたと云う事」に成り得ると観たのだ。
要するに「雑賀根来の銃の雇用集団・1000丁・3000丁の結末」である。
“「極度に殺戮性の高い銃を持つ事」”に依って、「兵力的・松平軍」には「6000+5000=11000+」に成るが、その「フリントロック式改良銃/超近代銃」は「間隔の無い4連発銃」であって、結果として「45000+の兵力」に匹敵値し、これに依って「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えて「銃隊への補足が効く事」に成るのだ。
これは要するに、当に「陣形」からすると「魚鱗の陣形」であり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が「遠くの相手」の前面に殺戮性良く次々と飛び交う事に成るのだ。
故に上記の事を配慮すると、「浜松城」では「額田青木氏の指揮官」は、咄嗟に“虫の云い馬鹿馬鹿しい話を持ち込んだものだ”と思ったであろう。
それは“額田青木氏に戦わせて自分らは楽をする”と云う構図である。
要するにその結末は「後の長篠」がこれを示しているのだ。
そしてその「最後の行き着く所」は、「旗本の事」を考えれば「雑賀根来の信長の始末」と同じ破目に成るのだ。
其れならば、「武田軍」では無く「銃の実質兵力」では負けていない「松平軍」と此処で「城の外」で一戦交えるのも良しとする構えを示した筈だし、現実にそれ程の激論に成ったであろう。
然し、「武田軍との戦い」の前に、“額田青木氏と戦う事は100%ない”事は判っている事である。
筆者なら、「判断力を無くして激高する相手」に対しては、この「脅し」を先ず架けて先手を打つ、そして「全国の青木氏族」に対して「攻守の態勢」を執る様に伊賀を通じて通達を出す。
然し、そもそも、その足元を見ても「松平氏」にはそんな事が出来る余裕等は最早元より無かったのだ。
要するに激高させて於いて城の外に出されるが、それがこの場合は関係性を断つと云う点では「最善の策」だからである。
後は「主従関係」は元よりなく「自力で生きて行ける能力」を持っているから問題は無いのだ。
元々、「吉田城」から呼び出されて「約定」を無視破棄して騙されているのだ。
然すれば、「浜松」から海に出て「伊勢水軍」で「伊川津」に簡単に戻れる。
陸であっても恐らくは常に陰に成り側帯していただろう「伊賀青木氏」を呼び寄せれば「伊川津」に戻れる。
「松平氏」には今この時に「兵力・財力」共に「青木氏とそのシンジケートを攻める余裕と力等」はそもそも無かった。
それは、当に武田軍>「松平氏の直接兵力」<「青木氏の影の力・抑止力」=数段の差の数式の関係であったのだ。
だから、断固断ったのだ。
結果として、「目論み通り」に外に出され自由に成った「額田青木氏の銃隊」は、「軍議からの情報」から「駿河青木氏の青木貞治隊」を救うべく、場合に依っては危険を伴う巻き込まれる事もあり得るが、「三方ヶ原に走る事」が自由に出来たのだ。
これは何故なのかであるが、それは前段の「軍議の四つの命」に従わなかったからだ。
この「結果の決断」としては、「額田青木氏の指揮官」を負傷させたが良い方向に向いたのだ。
そこで一つ疑問がある。
証拠は何も無いが、「松平軍記の負傷者死者の記」とされる「資料」には、確かに「山県軍の別動隊の突撃」で左鶴翼の突破時に「指揮官」が負傷したと成っているが、これには筆者には「疑問」があるのだ。
つまり、「軍議」で“一戦交えるかのところまで行った混乱”の中で、これで“果たして無事に済むのか”の疑問である。
筆者はこの「要素」を重く見ているのだ。
それは“「負傷者」”に付いては、その「三河記録」にも記載されている所以の“「指揮官ただ一人」”の記載であるからだ。
突破時であれば、先ず“「指揮官一人」”と云うのはどうも釈然としない。
その負傷後を確かに「記録」では指揮は「額田青木氏の差配頭」が引き継いでいるが無傷である。
これを偶然とみれば偶然と観れるが、資料には全く触れていない。
これが、「流れ」から「軍議の恨み」に報いんが為に、東側から“「旗本の決死の弓矢で狙撃された可能性”があるからだ。
恐らくは、その「軍議」に出ていたこの「旗本」に依って、その時は「山県軍兵かの判別」が付かず「無差別に弓矢で狙撃された可能性」が思わせるかの様に確かにはある。
然し、何で、「軍議で争うまでに激論」に成った「指揮官」で、且つ、直ぐに「伊川津」に引き上げている「指揮官」なのに、「伊川津国衆」であって「三河国衆」では無く「戦線離脱している者」の名がこの「三河戦記の戦死者・負傷者の記載」の中にあるのかである。
これは何か間尺に合わない。
普通は外すであろうし記載もしないであろう。
確かに後で知って追記したと云う事もあるが、その時は既に戻って「伊川津国衆」を即座に辞しているのに、これは“戦死か負傷かしたのを観ていたかの様に如何にも知っていたかの様で”ある。
辞している以上は、そもそも「三河戦記」には書かないであろうし、未だ「国衆」であったかの様に書き込んでいる。
この事が釈然としないし、だから、「出身元の伊勢・伊勢秀郷流青木氏」では「指揮官の負傷記録の詳細」は無いのであろう。
筆者には、「伊川津国衆」であっても如何にも「三河国衆」であったかの様にして、“「三河戦記の辻褄の時系列の不都合・後付け」を合わした”としか思えないのだ。
もっと云えば、そうと成ると同時のこの時間に起こった「二人の戦死者の戦記」にも記載のある“「有名な駿河青木氏の青木貞治の死・二俣城の敗北を恥じた死?」”は、“違うかも知れない”とする疑問が生まれるのだ。
“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”を張って「青木貞治隊」を「武田軍の本隊」から救出しその中の目の前で、今度は同時期に、“その「銃隊の指揮官」が負傷している”のは不自然極まりなく「大きな疑問」を持つのだ。
“戦場だから何が起こるかは判らない”と云われればそれまでだが、幾ら何でもそんな事は無いだろうと観ていて、筆者には、“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”の中で、果たして、“偶然にも青木氏の指揮官二人の死”と云うのはあり得るのかは納得できない。
何れにしても「この状況」を「駿河青木氏の貞治隊員」と「額田青木氏の銃隊員」は観ていた筈だ。
要するにこれは「典型的な後付け説」と観ている。
「江戸中期・1738年享保期」に成っても、「三河旗本」からの「150年以上の嫉妬と怨嗟の拘り」を超えた様な「嫌がらせ」が続いたのだ。
「伊川津や伊勢」も然る事乍ら、「江戸・1603年〜1868年」に於いてでさえも「三河旗本との執拗な軋轢」が続いたのは、この「事・軍議」に依る「口伝による恨みの伝統・4代続き」ではないかと観ている。
“本来なら4代も続けば忘れている筈であろう”が、これは“「軍議の逆恨みの揉め事」”は「伝統化していた事」に成るだろう。
前段で主眼を置いて論じた様に、「青木氏族の古来からの伝統」にある「特異性・律宗性」や「特別性・格式性・賜姓五役の郷氏」に対する「拭い切れないもの」が先ず潜在的にあって、且つ、その上に、更にそれを“自らも決して獲得出来得ない物”に対する「執拗な伝統的な嫉妬と怨嗟と苦悩」のものであったと観ている。
仮にもしそれだけであるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」も無かった筈である。
ところが、「紀州藩との青木氏の付き合い」は、「三河旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」に関わらず、「初代・頼宜」から引き続いて大正14年まであったのだ。
「彼等・旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」が厳然とあるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」は可能で在っただろうか。
それを踏み切るには、「紀州藩」に執っては簡単では無かった筈であろうが、然し、踏み切っているのだ。
其れも「勘定方指導の立場」で、且つ、「俳句・歌・南画・茶道・庭造り」の指導もし「親友の関係」にあって親密であったのだ。
故に、「彼等・旗本」に「嫉妬と怨嗟と苦悩」の以外のものとして、“「軍議の逆恨みの揉め事」”が、何時しかそれが「歪んだ伝統」として、“「三河者の旗本」にだけに限定されて遺ったと云う事であろう”と思う。
それが「三河」だけと成れば、「伝統的な嫉妬怨嗟」を買うのは、この「軍議以外」には無い。
これが遂には後で前段で詳細に論じた「闕所」までに発展するのだ。
それ、つまり、大商いをすると疎ましい付きまとう「闕所」であるが、それが何と「信濃」までに及んだのだが、この元と成った「三河旗本の怨嗟と嫉妬」が治まったのは、「江戸中期・享保期」であった。
そして、「伊勢の山田奉行の嫌がらせ」も治まったのも同期であるとし、「伊勢・伊勢屋」が江戸から引き上げたのも同期で、更には「信濃青木氏の聖域と殖産の奪い取りの事件」も同期であって、挙句はそれを「ぶつける相手」が無く成ったという事と成った。
それで、“「平穏」”を保てたとするならば、それは当に「軍議の逆恨みの揉め事の所以」でもあったと充分に見込まれるのだ。
故に、「三河の伊川津」で「陸運業と殖産業」を営む以上は、その「防御論」は、勿論の事、初期の頃の「青木氏の銃」は「軍議の逆恨みの揉め事」から逃れる為の「相手を威圧する抑止力」として保持し持ち続けたのだ。
彼らに執っては、“恐ろしい陸運業と殖産業”であった筈である。
そして、それが「主君の松平氏」をも左右する程の「債権漬け」で政治的な勝負は着いたのだし、その叶う事の無い「各種の武力的な抑止力」と「商い・財力と云う力」を持っていたのだ。
筆者は、上記した様に、「額田青木氏」と「駿河青木氏」、強いては「伊勢青木氏」の事を検証する際には、この“軍議と云う要素”が大きく働いていたと観ているのだ。

「*」印の再び「救出の検証」に戻して。
そもそも、この「救出」は「武田軍の本隊」の「魚鱗の陣形の先頭」が「騎馬隊」であったからだ。
横に広く展開すると、その「騎馬の効果」は低下し集中して来るし、自由の効かない騎馬を狙い打ちに掛けれられるし、誘い込まなくても早く命中率の高い範囲に次から次へと勢いよく近づいて来るからだ。
「騎馬」が前に進まなければ「徒士」は前に進めないとすれば「敵の威力」は「騎馬」に集中する。
「騎馬」が全滅すれば、次は「徒士」を「狙い撃ち」にする事に成るし、「魚鱗」は「左右の鶴翼」に分散して「騎馬突撃の威力」は低下する。
これが「長篠・12000戦死」は主に「火縄銃」ではあったが、その2年前の「三方ヶ原」では、当に現実にこの絵に描いた様な同じ経緯と成ったのだ。
「織田方」には「3000の銃隊」の前には「防護柵の馬防柵」で表向きは護られていたとし、この時の犠牲は「雑賀根来傭兵軍団の約半数弱の多少」であって、「信長本隊」にはそもそも無かったのだ。
「武田軍12000の全滅の犠牲」を出し、「逃げ出した残りの武田軍」に対して更に「追撃戦」で「武田軍5000の兵の犠牲」を出したが、兎も角もこの時、「長篠の信長」は、何と前段の通りで、この「戦場」では無く、この戦場から西に1km離れた「土豪の館・新庄市富永氏の館」を本陣としていたのだ。
これは始めからこの「三方ヶ原の結果を描いていた事・研究」を示し、「銃の威力に対して自信があった証拠・現実は弱点を突かれて犠牲」でもある。

ここで、さてこれを念頭にして「額田青木氏の南下国衆の銃隊」と「青木貞治との情報交換」に付いてどの様な事が起ったのか深く踏み込んで観る。
前段でも論じた通り、「南下国衆の銃隊」が「鶴翼の頭の部分」に何故据えなかったかと云う「疑問・軍議で拒絶」である。
前段でも論じた様に、
そもそも、「伊川津の国衆に成った時の目的が違うと云う事・イ」、
「タイムラグの問題があった事・ロ」、
且つ、「青木貞治隊を護り救い出すと云う目的の事・ハ」、
「元よりの旗本の嫉妬が強かった事・ニ」
以上の「イからニの事」が「全体的な四つの事」として「理由」が潜在的に確かにあったろう。
然し、この「全段も含めて詳細論の段」に於いてそれだけかである。
これが疑問なのだ。
筆者には何となく間尺が取れないのだ。
それは、“一言坂の直ぐ横東1kに「駿河青木氏の菩提寺の西光寺」があると云う事”だ。
この「検証」にはこれは「重要な要素」で見逃せないがこの事が考慮されていないのだ。
どんな戦いに於いてもこの「菩提寺の存在」は重要なのだ。

況してや戦場にある彼等の「菩提寺」である。
菩提寺には仏教徒の掟があって寺内に武力を持って侵入する事は古来より「厳しい掟」があった。その為には逃げ込んだ戦死を討ち取るには焼き討ちして外に誘い出しそこで討ち取ると云う事にどんな場合も成るのだ。
況してや「氏寺」とすれば「周囲の民衆め氏人」もこれを護る。
「武田氏」は攻めれば「秀郷流一門の東の361氏の勢力を呼び込む事に成り、それがどういう事に成るかは知っていた筈で出来なかった筈である。
恐らくは、故に「三方ヶ原」で救い出して、ここに逃げ込み潜んだ事は間違いはない。
どの「資料の行」から観ても、“「隠した事」”は読み取れる。
其れがここであったと観ているのだ。
だとすると、「隊長の青木貞治」は戦死はしたが、「戦記に滲ませている表現」の通りに少なくとも「全滅覚悟の死隊」では無かった事に成る。
「貞治隊長」は其の気であっても「家康・軍議」から「二俣城の叱責」を受けても「決死隊」を命じられてはいなかったという事である。
これは見逃す事の出来ない重要な事だし、そもそも「二俣城の叱責」を万に感じる立場に果たして居たかである。
先ず、[二人の副将]の内の一人であって、未だ貞治は家臣では無く「松井氏配下の駿河国衆の立場」であったし、「もう一人の副将の者」は[松平氏の縁者の若者]であって、叱責も戦死も無いのだ。
況して、そもそも「主将」は罰せられてはいないし、戦死もしていないのだ。
故に、この「後付けの説」は大いに疑問なのである。
だから、その経緯から「南下国衆の銃隊」に対して「情報」を提供し、且つ、「他の者を救い出して欲しいとの願望」を伝えたと考えられるのだ。
その時、この「菩提寺に逃がす事」を頼んだだろう。
そもそも、そこで「菩提寺があるという事」は、その「盤田見附地域」は「青木貞治の一族の父祖の先祖代々の駿河の知行地」であったと云う事に成る。
つまり、距離にして「40k=10里」で、「徒士の道則」にして「50k・10hの東」の「神奈川の秀郷流青木氏とその一門」が護ってくれるだろうと云う範囲のぎりぎりの範囲の所にあってその期待があっただろうし、現実に遅れて入っている。
それには、「後付けの三河戦記」の通りでは無く、「青木貞治隊」は「自由な行動」にあり「主戦の中央に位置する事」は絶対避けなければならない「自由な立場にあった事」が云えるのだ。
「筆者の考え」は、この「条件を叶える」には「軍議の末端」に「参加できる立場」にあった「青木貞治隊200」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300」も、「軍議」では明確に「命令を拒否した」であろうと云う事である。
と云うのは、“「軍議に参加していた」”とする「直接的な表現の記録」はないが、「三河四天王」と云われた「本多軍も大久保軍も酒井軍等」も夫々「200〜500兵」で「軍議」に参加しているのだ。
兵の勢力では同じ立場に居たと云う事だ。
従って、「青木貞治隊200・初期から」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300・呼出後」が「軍議」に参加させられなかったと云う「特段の理由」は無いだろう。
間違いなく「参加していた事」に成ろうし、「吉田城・守備隊」から呼び出されたのもその証拠と成り得る。
その「軍議の直後」に、「時間稼ぎの目的」の為の「籠城戦」を前提に「不合理な偵察隊」を命じられたりもするも、これもこの「軍議の参加」による影響のものだろう。
そもそも何度も論じている様に、「浜松城・27m高」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の陣営の様子」に対してである。
「そもそもの狙い」は、「時間稼ぎである事・織田氏の思惑と額田青木氏の銃の印象付けもあったか」は、「戦略」としては判るが、これも「武田軍の本隊の充分な補給体制」も整えない侭で、且つ、「野営」で「長期間の籠城戦」はあり得るのかと云うここにも何か釈然としないものがある。
確かに、「武田軍の本隊」が「周囲の出城を攻め落とし」をしながら「二俣城からの供給」で「一言坂東」で「大軍の約1月間の停留」をしているのだ。
それは前段に論じた通り、「三方ヶ原」では無く、「野営の此処・一言坂東」を「拠点」として「堀江城」より先に、「西の脅威」を片付けて「織田勢の本隊」が「決戦」を求めて来ない内に、東から「浜松城」を先に攻め落とすつもりであった陣形である。
「西の織田勢」と共に「三河勢・松平軍」もこの「東の背後の脅威」があった筈で、この「説・浜松城先攻め」は無いだろう事