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  [No.1159] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:青木 正明   投稿日:2020/03/18(Wed) 19:19:30

 今回の質問は今回頂いた書面を熟読すると愚問だったことにきずきました 。
誠に申し訳ございません。
大きな歴史を感じています。
  驚愕のあまり、なかなか眠れません。
ただ、この史実と今の青木家との明確な接点がありません。
屋号【山上】と明神社の接点を見つけ出せるよう努力します

  有難うございます。
益々、興奮してきております。

源流が伊賀にある事、疑問だった、交通の便が悪い明治時代に何故、離れた伊賀上野から
嫁をもらった意味が解りました。父方と母方の曾祖父代の戸籍を取り寄せておりますので、新しい情報が得られ
ましたら
おしらせします。

疑問1  お答えの文章の中で(香具屋)という字は歴史書に出ているのですか?
 
また、 明治時代の京都の戸籍の住所が仏具屋町(文字通り佛具の町)で東本願寺のすぐ前で油問屋
を営んでいたか疑問で、【山上】をキーワードに近江への繋がりを探訪します。
  
 なお、母方の住所は現在の伊賀市上野福居町にあたり、伊賀上野城のすぐちかくです。


  [No.1160] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/19(Thu) 12:12:48

今日は。早速のお便り有難う御座いました。

いえいえ、驚いたのは私の方ですよ。
この様な過去の史実が、400年頃の後に突然に、又出て来ると云う事は稀な事で、由緒ある「青木氏の歴史」を研究している者としてはこの上ない喜びです。

恐らくは、サイト本論の「伊賀の処」を論じた部分からお読みに成って、次第に他の論に入って行くと「伊賀の青木さんの事」が更にご理解が深まって行くものと考えます。
例えば、「伝統シリーズ」の論の所に「検索メニュー」が有りますので、「伊賀の内容」で出て来ます。
それに、この「伊賀」がどの様に絡んで行くのかを想像して行くと、「お家の御先祖の生き様」が具に見えてきます。
その時は今回の様に「想像を膨らました事」への疑問等やご意見などをお便りくださればありがたい事で、筆者の知る限り情報を吐き出す事が出来ます。
それが、また本サイトの目的です。

”この史実と今の青木家との明確な接点がありません。”・・・の御意見のお答えに成る事では無いかと思います。
ここが欠けているからですね。当然の事かと思います。
明治3年、又は8年以降は、社会の全ての「政治体制」が全く替わり、「家の格式等の伝統の事」が霧消した事も大きく影響している事でしょう。
「お家の伊賀青木氏」を含む「伊勢青木氏の氏族」が源と成って広がった「二つの青木氏・秀郷流青木氏」のこれの「伝統の事」をロマンとして、サイトは後世に遺そうとしている所以でもあります。

”屋号【山上】と明神社の接点を見つけ出せるよう努力します”・・・のお話は、先ず、「神明社と云う事」を知る必要がありますね。
サイトに、この「神明社」は、そもそも「奈良期の事」からの事ですので、大変に経緯を持っていて、その意味する処も大きいです。
先ず、本サイトの検索から情報を集められて、その上で「神明社」を訪れると何か引き付けられるものが有りますよ。
何せ、「伊勢青木氏の氏族」を構成する一族の「伊賀青木氏」です。
歴史は奈良期に遡るのです。
サイトから得られたお家の情報を後世に遺す事のロマンも良いのではと考えます。
「伝統の形」は違いますが、人は過去に対する興味を持つ動物であると考えます。
従って、「皇祖神の子神の祖先神」の「神明社」は、「皇位族の青木氏の守護神・国幣社」であった事が大きく関わっていると考えます。

ご質問ですが、”(香具屋)という字は歴史書に”・・・と云う事ですが、「香具師か香具屋」で明確に記載されていますし、遺された「青木氏の資料」にもありますし、その「活動具合」も明確に遺されています。

室町期では、「伊賀だけの活動」でしたが、従って、余り社会に知られていなかったのですが、前の説明で記述しましたが、江戸時代では「享保期の江戸の活動」で一変に有名に成りました。
「甲賀との熾烈な競い合い」も歴史研究家の中では有名な事なのです。
其の後、「伊賀の活動」のみならず、「享保期の活動」でも有名に成り、江戸中期以降は一般的な呼称に成りました。

“明治時代の京都の戸籍の住所が仏具屋町(文字通り佛具の町)で東本願寺のすぐ前で油問屋 を営んでいたか疑問で、”・・・の件ですが、前述しました様に、「屋号」が「山上」とすれば「大津山上」が妥当な事かと思います。
唯、明治期の移動定住は「自由の原則」にあり、お答えを導き出すには問題が有り無理だと思います。
然し、唯、「檀家寺」が遠いと云う事には、生活上の問題が生まれますので、“檀家寺の近く”と云う事に成るでしょうし、「香具屋と云う事」に成れば、商売をする以上は「仏具屋町」と云う事にもなりますね。
又、「油問屋」も「燭台の油と云う事」であれば、「仏具屋町」もあり得ますね。
「真宗大谷派」であるとしても、室町期末期の「西の門徒潰しの戦い」では無い限りは、「東本願寺」は無いと思いますね。
「大津山上」から西に9.5kに「東本願寺」、其処から同線上に0.5kの位置に「仏具屋町」があり、少し西に逸れて10kの位置に「厳龍寺・火縄銃」があるとすると、当時の「1日の動線距離」としては全て四里内にあり、「約2里」ですので、この距離は戸籍の云々の範囲内に充分にあります。
明治の頃の当時は、「戸籍の在所」は「居住地と云う概念」では必ずしもなかったのです。
江戸時代と異なり「移動」は自由で、大きく離れる事はありませんでしたが、“「所縁の地」”や『方位・方角」や「檀家寺の宗教」などにも左右されて全然違う処に戸籍位置を置く事もありました。

況して、当時は大きいスペースを一か所に採る事は無く、商人とも成れば「店や住まい」とは異なる事も慣習としてあったのです。
慣習が異なる社会なので「戸籍と云う事に拘る事」は間違いを起こします。
大まかな判断には有効ですが、その前に「当時の慣習仕来り」を知る事です。
それには、「江戸期の歴史観」と「室町期の歴史観」と「平安期の歴史観」と「奈良期の歴史観」が異なつていて、ルーツを正しく探る場合はこの「歴史観を把握する事」が必要なのです。
それには本論をお読みいただける事が必要と成り、明治期以降はその意味で社会体制が異なりましたので、ルーツには何の意味も持ちません。
何せ「青木氏一族」は「奈良期からの歴史」を持っているのです。
その意味でこの歴史観から総合的に「大津山上」は納得できる位置でしょう。

それには「江戸期末期頃」の「伊賀青木氏」の「香具師・香具屋」の「活動内容」に依るのではないかと思います。
前述しました様に、「江戸末期の伊賀青木氏」は「伊勢」に於いて「殖産」に邁進していて、其れなのにお家が何故に「伊賀」に戻らずに「近江」でどの様な役割を果たしていたかの問題に成るのではと考えます。
それには「近江」での「歴史の絡み」が「決めて」と成るでしょう。

前述しました様に、「伊賀青木氏」は江戸期中期以降は、その「伊賀の役割・香具師・忍者組織」を生かして「伊勢屋の運搬業」にも従事していたのです。
それ故に、お家は「伊賀」に戻らずに「近江の支店」として活躍をしていたと考えます。
それは何故かと云うと、「伊勢屋」には「摂津にも大きな支店」を持っていたのです。
そして、平安期と室町期に二度滅亡した「近江青木氏」を摂津域に匿い、「兵庫、京都域の商い」を大船三艘を持ち、また、「貿易」もして「青木一族」を統括していました。

恐らくは、この事から考察すれば、「江戸期の近江」のお家は「伊勢屋の商いの拠点」と成っていた可能性が有ります。
何故ならば、「日本海の物産」をこの「摂津」まで先ず運びする拠点が必要であったのです。
そこには、日本海側に定住していた「信濃青木氏の裔系」の「鳥取の米子・八頭青木氏」が定住していたのです。
又、「敦賀」にも「越前青木氏」が西に延びて「伊勢との深い関係・本論参照」を持っていましたので、「大津山上」は「琵琶湖」を通じて丁度よい位置関係にありました。
約2時間程度で荷を運び込む事が出来る良い位置にあったのです。
従って、「米子や越前との連携」には欠かす事の出来ない拠点と成り得ていたのです。
要するに、此処との「中継点」が必要で、明治35年までこの関係が続いたとされていますし、瀬戸内水軍の「讃岐青木氏」が日本海と瀬戸内を繋いでいました。
この関係も昭和20年まで続いていたのです。

ですからこの関係からこの「近江」には現実に「拠点」が必要であった筈なのです。
唯、この「近江」を誰が務めていたかは判っていなかったのです。
この事は、「商記録」にもありますがそれが判らななかったのです。
「近江」に“伊勢系の伊賀青木氏が存在していた”とは考えもつかなかったのです。
考えれば、成るほどという事なのですが、「殖産の伊賀意識」が強かったのです。
「伊賀の運搬業」と「日本海物産」と「敦賀青木氏(越前青木氏系)」と「米子青木氏」や「讃岐青木氏」を考え合わせれば、「近江の事」は正しく導き出せる筈なのですが、「摂津青木氏」が務めていたであろうと云う「固定観念」があった事が否定できません。
その点でも上記した様に「歴史的な成り行き」が符号一致して驚いているのです。
確かに、この「近江」や「京の皇居」に「献納品や殖産品」の一般の運搬も含めては行っていた事は資料より充分に判っていたのですが、「伊賀青木氏」が遺っていた事は驚きなのです。

この「殖産の事」は本論でも詳しく論じていますが、「近江」に具体的に繋がる「青木氏の発見」でした。
先ず間違いは無いと思います。

ところが、「明治35年」に「松阪の伊勢屋本店」が「火元」で消失して「四家の福家」は財産を全てはたいて賠償し敢えて倒産させて、この「摂津」に本店を移しました。
「伊勢松阪・伊賀含む」は米と酒と和紙の殖産のみとしたのです。
この時は「伊賀青木氏」は運輸と和紙殖産に従事しました。

恐らくは、お家はこの時期に、お便りの通りに通称油屋を閉店した可能性が有ります。

お便りから、この様に「青木氏の事」が本論に説明されていますが、読み取る事が出来るのです。
何せ、歴史は長い経緯を持つ「唯一の氏族の青木氏」である事をご理解ください。
お便りに、全てをお答えするには物理的に問題が有りますので、本論をお読みに成りながらご質問にお答えして行くしかありません。

では又、お便りを楽しみにお待ちしています。


  [No.1161] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:青木 正明   投稿日:2020/05/10(Sun) 15:26:31

前回メールしました瀧埜貞良の戸籍の件で【屋敷とあるのは武家屋敷である】 とあるのは
間違いでした。 明治戸籍は番地を屋敷と表記して多様で、私の推論は間違いでした。
訂正させていただきます。


  [No.1162] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/13(Wed) 07:36:35

今日は。お久しぶりですね。
ルーツ研究を続けられていて同じ研究者がいる事は心強いです。
今後も頑張って続けましょう。


「瀧埜貞良」の件ですね。
余談と成りますが、次の事を説明して置きます。

確かにこの姓は研究者の間でお家の云われる通り「三重県伊賀の人」と知られています。
そのルーツは私の知る範囲では滝の多い地域に根付いた姓で、その伊賀の北西部に住していた事が私どもの資料の中に記されています。
そして、そのルーツは「伊勢青木氏一族・伊勢衆」の「天智天皇の孫」の「光仁天皇」の「子」の「山部王・桓武天皇」の「四人の子供・平城天皇・嵯峨天皇・仁明天皇・淳仁天皇」の内の長男の「平城天皇のルーツの子孫・裔」と成っています。
「平城天皇」と「嵯峨天皇」との戦いで、この「平城天皇側の裔」は減少したと成っています。

要するに、「伊賀青木氏」には、ルーツ的に大まかに何とか分けるとすると「四つの地域」に分けられ、その「伊賀青木氏」の中でも「元ルーツ」が少し異なる「伊賀青木氏裔系」と成っています。
その中の「伊賀青木氏」の一つが明治期に地域名を採って「瀧埜」とも名乗ったと成っています。
ところで、では何故に「青木氏」を名乗らなかったかと云えば、それにはある歴史的経緯がありました。
「平城天皇の子供・皇子」までには、つまり「天皇」に成れなかった皇子には、「賜姓」をして「青木氏」と成らせました。
この「天皇」に成れず「賜姓の青木氏・皇親族」にも外れた者等は、「皇族」を離れ「朝臣族」と成りますが、その時、諡号の姓をその「裔の出自の地名」を採って名乗る仕来りに成っていました。

恐らくは、「当時の仕来り」から観て、この「瀧埜」は出自元を名乗った元は「皇位族の裔の者」で、且つ、この「尊属」では無く「卑属」の「分家族」では無いかと云えます。
つまり、「伊賀青木氏」から観れば「縁者族」であったかと考えられるのです。
故に、「伊勢王」の「施基皇子の曾孫」の「平城天皇の裔」としてその系を世間に示したと考えられます。

「伊賀青木氏」は「施基皇子の子の春日王の裔系」との「子と孫の裔系の差」と云う事に成ります。
「平城天皇と嵯峨天皇との路線争い」で「平城天皇の裔系」は敗退し殆ど滅びたと云われています。
要するに「桓武路線派」と「嵯峨路線派」の争いです。
「伊勢と信濃の青木氏」は「桓武路線派」で、源氏が嵯峨路線派と成りました。

この「青木氏の賜姓」の「奈良期から続いた伝統ある青木氏の賜姓仕来り」を、「戦い」に勝った次男の「嵯峨天皇」が表向き「財政難」を理由に「詔勅」に依ってこれを中止し、その代わりに争いを避ける為に中和策を執り「天皇家」が「財力・内蔵」を保証しない「名ばかりの権威の無い賜姓」を”「源氏」”として「仕来り」を替えました。
「青木氏」は「皇親族」で、「源氏」は単なる「朝臣族」と成ります。

この事は「日本書紀と新撰姓氏禄と三つの歴史書」に詳細に区分けて記載されています。
その代わり、「詔勅」とは別に「嵯峨天皇」は「新撰姓氏禄」を発して「全ての族・910」を三段階に分け、更に、「上位の朝臣族」には「青木氏を最高として高位族・5氏」とし、「通常の上位の朝臣族・48氏」にして、その他の族と分けて、この「源氏の朝臣族」には「9つの縛り・掟」を命じました。
ところが、全くこの「9つの縛り・掟」は全く護られなかったのです。
この「9つの縛り・掟」を護ったのは他でもない「高位族五氏」の内の「伊勢青木氏・伊勢王」と「信濃青木氏・信濃王」の二氏でした。
「11家の源氏・1221年滅ぶ」も「高位族の3氏・近江美濃甲斐・1192年滅ぶ」も護らず源氏化して「源氏」と共に滅びます。

以後、平安末期までは「嵯峨天皇系の11代の天皇」に依ってこの「源氏の象徴仕来り・源氏」が引き継がれました。
本来の「皇親族の賜姓青木氏・五家五流」に対しては、保護の為に詔勅に合わせて「禁令」を発して「青木氏の名乗り」とその「一切の習慣と類似習慣」をしては成らないとし全国民に対して発しました。
原則、「明治3年・名字令」まで護られました。

従って、我々、「桓武期までの青木氏」と「瀧埜氏」との間には、「伊賀青木氏等を含む伊勢青木氏族」とは、「施基皇子の四男の光仁天皇の裔」と、「長男と次男と三男と五男と六男の直裔」とは裔系が異なりました。
そして、この子孫の半数が「伊勢青木氏」の「伊賀青木氏の子孫」の一部と成っていると云われています。
この「瀧埜」の姓は、他に二か所に分布し、一つは「近江」で、もう一つは「関東・伊豆北部域の限られた一部」と成っています。

この様に「瀧埜氏」とは「伊賀青木氏」の一部とその裔系の出自元は奈良期で系が合う事に成る可能性を持っている理窟と成ります。

では、又、お便りください。


  [No.1163] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:青木 正明   投稿日:2020/05/19(Tue) 17:22:13

> コロナウイルスも下火になりつつある今日この頃ですが、
お変わりありませんか?
 
扨て、新しい事実が探索されました。

『社会経済史学』67−4(2001年11月) 【近代移行期における山城地方の製油業】
 −鳥羽屋の事例分析を中心にー  辻  義浩
 
 このレポートで山城地方(京都の西南部)鳥羽屋は菜種油を製造、大阪・京都に販売しておりました。
植物油の販売先名に香具屋がありました。
 1840年 香具屋嘉兵衛 [京・仲買]  1樽  159(銀)匁
 1871年 香具屋嘉兵衛 [京・仲買]  3樽   25(金)両
取引先 13店程で京都・伏見の[京・仲買]とか[伏・絞]が書かれております。
全体的にほかの店と比べて取引額は小さく、下部の方に位置します。
 香具屋嘉兵衛は【山上】で間違いないと思われます。
 
ただ、残念な事に我が家の戒名のメモは1810年頃から1870年頃まで丁落または鼠に齧られており
完全な名前の突き合せは出来ておりません。
又、あるお寺さんに過去帳を調べさせてほしいと頼みましたところ、本山が人権保護の立場から、
対応を禁止されているとの事。
色々な壁・壬申戸籍の壁を超えるには、緊急解除になれば、まず、山上を捉え、近江へと進もうと考えて
おります。


  [No.1164] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/21(Thu) 11:18:16

今日は。
大変な社会情勢と成りましたね。
{日本社会}はこれで変わるかも知れませんね。
人々は反省して「新しいAIの社会」と「昭和時代の良い慣習」とが強化された「不思議な融合社会」が生まれると観ています。
歴史は繰り返す例えの通り、日本は「新と旧の融合社会」です。
「日本民族」も「7つの民族」から融合して「単一融合民族」を構成した世界唯一の民族です。
社会も融合性が強いのです。
「日本人の顔」も「丸みの帯びた顔」にどんどん変わって行くでしょう。
70年以上前とは随分と変わっていますよね。
これが「日本」と思います。

さて、確かに個人情報で調査が全く進まない事が起こります。

お家が云う「江戸末期から明治維新の頃の事」でも個人情報で行き詰まります。

檀家寺と菩提寺でも起こるのですから前に進みません。
去年にも墓参りの為に伺いましたが住職との間ではピンと来ないものがありました。
筆者も平安期から伊勢の青木氏の菩提寺さえこれからも「無理な状況」に成りつつあります。
多少は伊勢が一族の墓所を菩提寺にあることを理由に何とかなると云う始末です。
住職の本山から赴任する時代に成った為に「青木の話」が通らないと云う事もしばしばです。

お家の研究に何か関わって来るかと考えて次の事を述べます。
「面白い事」がこの江戸期末期から明治初期に掛けて「油に関わる事件」が起こったのです。
其れも、紀州と近江地域に架けて起こりました。
遂にそれが関西地区にまで広がりました。

それは、その時期、田畑に虫と菌との大被害が発生していたのです。
この時、その対策が無くて困っていました。
そこで、この「油絞りの粕」を紀州では捨てるのはもったいないとして「みかん畑」に捨てていたのです。
処が、紀州のみかん畑だけが全くこの被害を受けていなかったのです。
そこで、この油に何か被害を防ぐ効果があるのだとして、油の薄めたものをまいたと処、この被害が抑えられ肥料にも成るという事が起こったのです。
そこで、各地で盛んに菜種などの油を栽培して絞り、殺虫剤と肥料として使う様になりました。

然し、事はこれでは終わらず近江では、料理にこの油を使って、関西人の性格からテンプラと云うものを造り出すと云う挑戦をしたのです。
これに依り関西地区では「油の生産」が急激に増産される事に成りました。
ところが、この被害が東にも広がりましたが、「江戸の人」は油料理を意地を張って使わなかつたとして、約15年程も経ってやっと「テンプラ」まで広まりました。

当時の油は高く中々江戸の庶民には手が届かなかった事もありましたが、「京の油屋」と「京料理屋」が江戸に進出してその効果を知りテンプラまで爆発的に辿り着いたのです。

恐らくは、「灯明の油」のみならずこの効能の「油の販売」も広がった時期でもありました。

お家のご先祖の「山上の香具屋さん」も何らかな形でこの件に関わっていたと観られます。
或いは、関わらずに明治中期に流れに乗れずに倒産したとも考えられる一つかなとも思えます。
関西の多くの油屋さんはこの事で大儲けしたのです。

筆者の伊勢の伊勢屋の商記録の資料にも「油の事」が記載されています。

神明社等の事も含めて当時の歴史観も加えて研究を進められる事も面白いですね。
私は、現地調査などは前もってこの様な事を調べて行うと幅広く成り面白いと思っています。
因みに、昔の人は現在と違い地形や方角の事の関わり具合の意識が強く、歴史に大きく関わっていると考えていたらしく、私も地形や方角の事も歴史に大きく影響していると観て勉強して調べて観ています。
「NHKのブラタモリ番組」の”たもりさん”もよくいっていますよね。
同じ意見です。

何故、「近江」で菜種油の生産かです。
上記の通り、紀州をはじめ関西地区、主にその「近江」に「油の消費が高まった事」から来ているのです。
これには、青木氏の理論でも論じている様に、「地形・地質上の事」があった事があります。
又、そして、何故、「鳥羽屋」かです。
これには、実は伊勢にも「鳥羽」は在って「近江」と関わっているのです。
そしてこれに「稲垣」も関わってきます。
御説の通りで、お家の香具屋さんの山上さんはこれらの事と関わっていた事が考えられるのです。



では、またお便りください。


  [No.1165] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:   投稿日:2020/06/03(Wed) 20:39:19

>進捗状況の報告です。

京都歴史資料館に壬申戸籍簿より前の「京都府戸籍簿」があるようです。
「函谷鉾町戸籍簿」「塩亀町戸籍簿」等はあるようですが、我が家のすぐ近くです。
全て、下京区で我が本籍の戸籍簿が有るかは不明です。
緊急事態宣言の影響で県外者の入館は断っているからです。
早く、全て解除してほしいです。

これは近況報告ですので、ご返事は不要です。


  [No.1168] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:青木 正明   投稿日:2020/06/15(Mon) 21:10:36

梅雨に入ったとはいえ、夏のような今日この頃です。

 「新撰京都叢書」を調査結果、香具屋は19軒。
主は蝋燭・油、他は喫煙具、小物、雑貨、呉服等でした。

そのうち、【山上】の屋号があるのは、10軒。蝋燭・油を扱っている屋号山上の店は6軒。
 副支配人様が前回、副紋は蝋燭紋とご指摘されましたが、全くその通りでした。

 父の言葉から『烏丸通に面していた』との事で、我が家の直系は香具屋利助(五十嵐香所 根元)
と推測します。現在は警察署です。
 香具屋伊兵衛(常磐練油所 本家)とあるのが、本家筋と思われ、現在の【青木玉初堂】です。 

 しかし、半径200メートル以内に香具屋の店が11軒(内屋号山上の店は9軒)あるのは、現在の
経済構造からは、信じられません。
  
 伊勢屋の経済構造を色々研究されているようですので、江戸時代のこの疑問を解決頂けるような物が
が有れば、ご教授の程、お願いいたします。

参考までに、鑑札と香具屋の一覧表を添付します。


  [No.1170] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/18(Thu) 09:43:48

今日は。お便りを読ましていただきました。
大部、「ルーツの探求」が進んでいますね。
驚きました。最近では探求はなかなか難しいのですが、よく頑張っておられるようですね。

さて、では早速ですが、良い処に気が着かれましたね。
お尋ねは「ルーツの生き様」を解明する大きく拡大する「青木氏の歴史観」ですね。

では、ご説明いたします。
実は、今から観ても驚くべき事が起こっていたのです。
それは、何と奈良期からなのです。

その「史実の経緯」を先ず論じます。
「サイトの伝統シリーズ」には論じている事ですが、奈良期、天智天皇の「第六位皇子」であった「施基皇子」は、「賜姓臣下族」として「朝臣族」に成り、「氏」を構成する事を許されます。
これ等の事は「日本書紀」などにも記されている事ですが、この時、「伊勢王」として経済的にも「伊勢で自立する事」に成ります。
そこで、「天皇の内意」を受けて「施基皇子」は次の事をします。
それが、「天武天皇」に先ず、「賜姓五役」の一つの「令外官」として「和紙を国内で造る事」を命じられたのです。
それまでは、高値で中国から輸入していました。
それは「苦参人・人参の繊維」で造った悪質な紙でした。
これを「令外官」として「国内で造る事」を命じられました。
そこで、「一族一門」を挙げて色々試した結果、苦労して開発したのが「楮の繊維の和紙」でした。
これを、「伊勢」と「信濃、甲斐、美濃」、そして少し遅れて「近江」の「五カ所」と、平安末期には「伊豆」でもその土壌から良質な楮を生産する事に成功しました。
ところが平安末期に「美濃」は途中で源氏化が起こり「和紙の楮の生産」を止めます。

此処で、先ず「生産態勢」として「楮」を生産し、「生産技術」を開発した「伊勢・伊賀域」で地形を利用して「和紙」にすると云う「態勢・水車の機械化」を確立したのです。
其の後、「信濃」と「甲斐」にもこの「和紙技術」を移したのです。
平安期中期には、「土壌が悪い近江」と「独立性の強い美濃」は、「生産技術の移転」を受け付ける事をしなかったのです。
然し、「天皇の意」もあって何とか「土木業の額田部氏の協力」を得て「真砂の土壌」に「土壌改良」を施し、「原料の植え付け」に成功します。
この為に、「和紙の生産技術」も受け入れたのです。
これは、当初より「施基皇子」として「全ての物を造る部制度・国造・職人」を統括する「令外官の役目」を持っていたのです。
その為に天皇から「諱号」として、代々「造・みやつこ」を着けた号を名乗る事を許されます。
その「独占権」を以て、これを「伊勢」に一括して集めて、そこから一度、朝廷に納め、残ったものを「市場に放出する権利」を一括して獲得したのです。
要するに「生産と商いの開始」です。
これを「部制度」といい、平安期までは「市場経済」では無く、全ての利権を朝廷が受け持つ「部制度による部経済」でした。
つまり、「売上を朝廷に先ず納める」と云う「財政形態・商業形態」を日本で初めて「伊勢王の青木氏」が確立させたのです。
その結果、朝廷より“「令外官・天皇の密命を及びた役人」”として「朝廷」の「紙屋院の特別称号」を獲得します。
全国の「国造」を統括する事から「青木氏」の中に「青木氏部」を持つ事を許されます。
この「称号」を元に「天皇」は次から次へと「開発と商い」を命じたのです。
「和紙」に関連する「墨や硯や絵具の開発」を命じられ、平安中期の「925年頃」にはこの功績により一切の朝廷の「正式な商いの権利」を獲得したのです。
「部制度」の中で日本で「企業化」は初めての事であり「伊勢青木氏」は「起業人・商い人」と成りました。
其れも、そもそも「賜姓族」で「朝臣族」に執っては「商い等」は「禁じ手」の「象徴族」でしたので、「賜姓臣下族の朝臣族」、つまり「令外官」としてであった事から、「青木氏」とは別に“「伊勢屋」”を名乗る事として「伊勢青木氏」と別離する事を命じられるます。
つまり、「二足の草鞋策」を命じられたのです。
つまり「影の令外官」として、この「紙屋院の商い」を拡大させて行きます。
遂には、拡大した「総合商社」として「1025年」に初めて「宋貿易」をも初めて許されます。
「国の経済」を担う初めての「企業統括省・経済産業省」と成ります。
「賜姓五役」と「紙屋院」の他に「四つの院の称号」を持つ事に成ったのです。
この間、「朝廷の大蔵」は元より「天皇家」の「内蔵財政」は大いに潤ったのです。
「市場」にその需要を喚起する「経済システム」を構築したのです。
この「務め」は明治9年まで続きます。
「伊勢青木氏・伊勢屋」は日本で「最初の企業家で殖産家」と成りました。
この為、「平安期初期・925年」に「永代の影の令外官」を務める事に成ったのです。
この「流れ」は変わらず室町期には、「紙文化」で「巨万の富」を獲得し、「衰弱する朝廷」を「影」から「献納」で支えたのです。
そして、徳川幕府時代と成り、締め付けられる天皇家を裏で支えますが、幕府はこれを黙認します。
「紀州藩の吉宗」を伊勢松阪で「親代わり」と成り警護して育て商いの基礎を教えました。
そして、「紀州藩主」にして支え「体質的な赤字財政」を改善したのです。
この功績もあって幕府には評判が良く、「吉宗」を将軍にすべく幕府に多額の賂を蒔き「将軍」を仕立てあげます。
この長い経済知識を利用して「享保改革」を「伊勢屋の主導」で手助けします。
「吉宗」が将軍と成った時、この時、「幕府金蔵・金庫」には300両程度しかなかった事が「青木氏の資料」にも記されています。
そこで、「市場」を活発化させる「経済改革」を発案し吉宗に建議します。
この時、「伊勢屋の青木氏」は「布衣着用の格式・直接将軍に意見を述べられる身分・老中格」を獲得していました。
そこで「青木氏と伊勢屋の両輪」で「政治・経済改革・享保改革」を実施します。

「青木氏の資料」と「幕府の資料」などを総合すると、次の様な改革を施したのです。
それを「青木氏の資料」では、これを奈良期から「影の務め・令外官・賜姓五役」として、この「役務」を「質・しつ」と呼んでいました。
「伊勢」では「古来」から「中国仏教」に用いられていた「質・金山寺」と云う“「施し行為」”を真似て、これを「神明社の役目」としての行い、「越前の神明社」にこの役目を広く与えていたのです。

其の「質の考え方」を「享保の改革」に用いたのです。
先ず行ったのが、それが、「吉宗」に建議して停滞していた「市場の経済活性化」の為に、「一切の商い」に“「競争入札」”を義務付けました。
更に、これに伴って江戸に“「金融システム」”を導入します。
これ等の改革は「命の身の危険」に及ぶ程の「大きな抵抗」があった事が書かれています。
これが、江戸の“「伊勢屋の質屋」”です。
「江戸」に「青木氏の邸・中核」を設けて、江戸市中に「本店」を「5店舗」を構え、市中に「200店舗」を「伊勢屋」として展開したのです。
その為に、「江戸の伊勢屋・質屋」と云えば「質屋の呼称」の様に思われていた様です。
「質屋」とは「現在の質屋」とはすごし違っています。

さて、この「質屋」には、「一商目」では無く「種類別の金融」の「色々な範囲の質屋」を作ります。
例えば、資料に基づけば次の様な改革が書かれています。
「商記録と添書」と「幕府の資料」から読み出すと次の様に成ります。

物を預けて金を借りる。「小口金融」
金を借りて利子を払う。「大口金融」
建物などの建設費用を貸して完成すると利子と共に返す「建設国債」を造る。
大店を小分けして「グループ化」して夫々の店毎に一定の利益を認める「組合株金融」。
職種を「殖産、開発、陸運」等と区分けして「商い」とは切り離し「企業化金融」を有利な金融で促す。
「陸運業」には「特別融資」を促し、「物流と金融の流れ・物流金融」を良くする。
独占化していた「水運業の認可」を広く広げ、「人と物の流れ」の「期間短縮を促す金融」
特定した殖産・布の生産業等を個人では無く「起業化を促す金融」。
土地農地の有効活用の為の融資、農家、庶民の次男三男の「就業支援策金融」。
大店には組合を構築する事を支援し、組合株の発行と組合の中で使える御師券の発行の裏付け支援。

以上これの質を営む夫々の店舗に違う役目を与えたのです。

この事は「吉宗の政治政策」にも「青木氏の建議」に基づき反映さしています。(サイト本論参照)
これを「伊勢の青木氏の伊勢屋」が「吉宗」を「市場・金融」から補完したのです。
この「金融と云う面」からの「経済対策・都市政策」は明治期にも引き継がれて行きます。
「江戸の伊勢屋」はこれをこれまで培ってきた「質としたツール」を使って江戸経済を活性化させたのです。
一方で、幕府は民衆には「質素倹約」を奨励し、合理的でない生産性の低い”「華美な無駄」”を省く様に督励したのです。

(注釈 1716年に開始した「江戸改革・享保改革」はこの様に成功しますが、「享保期末期の青木氏の建議」に従って「吉宗」は全国に「殖産」にも金融を施し奨励します。
処がここで「非常事態」が起こります。
「信濃」に於いて「信濃青木氏」の「殖産域・神明社聖域」の大半を奪い、其処に「四つの新親藩」を設けて、これを管理させて「莫大な幕府の利益」として奪い取ったのです。
「親族の信濃青木氏」の「聖域で行っていた民の殖産」を奪った事を怒って「吉宗」に抗議しますが聞き入れませんでした。
そこで、“最早、これまで”として「吉宗の仕返し」を恐れて、直ちにこの「江戸の伊勢屋」と「二屋敷」と「200質屋」を「店子」に無償で譲渡して、「伊勢からの迎船」で早くも「三日後」には「伊勢松阪」に引き上げたのです。
そして、「江戸の青木氏」は「親と息子の死亡届」を出してお家が断絶した形を採ったのです。
そして、「吉宗御側用人の加納氏」とは「伊勢」に於いて何度も血縁関係にあり、紀州加納家は「紀州藩城代家老」であった事から、これを頼り「紀州藩の保護下」に入り難を逃れます。
其の後の「2年後・1745年」に「吉宗」は脳溢血で死亡します。
「危機を逃れた事」で「紀州藩」には、「伊勢の伊勢屋」は「2万両の債権」を持っていた事からも、且つ、「勘定方指導と云う立場」を幕末まで保持していましたので、今度は「紀州藩改革」に本格的に乗り出したのです。
「紀州と伊勢の殖産」を「紀州藩」に替わって進めます。
これで幕府は「伊勢屋」に手を出せなくなりました。
江戸初期から進めていた「15の商組合」も強化し、「御師制度・紙幣制度・信用通貨」を敷いて「紀州と伊勢の経済の活性化」を促します。
「紀州藩」は「幕府・6万両」と「青木氏・4万両」から合わせて「10万両の借財」を抱えていましたが、その後、この「借財体質」は「2万両」まで「減額・伊勢屋の債権」して改革は成功します。
幕府は紀州藩に「密命」を持って「主席家老」を「二人」も送り込み、二つの支藩の城を持たせ、この紀州藩を支配しようとしますが、「二人」とも強い抵抗を受けて逃げ出します。)

この1716年からはじまった「享保改革」は、「江戸伊勢屋の引き上げ」で、実質はその「財源の裏打ち」が無くなり終わり、「小口金融の伊勢屋」だけが残ったのです。
「享保の改革」の「終わり・終焉」はこの引き上げで頓挫したので終了期は歴史的に判らなくなりました。
その後、江戸では「70〜90年間弱」はこの「経済システム」は続きますが、再び崩れ始め、“一切の商いに税を掛けないと云う”「享保期までの商慣習」は崩れ、次第にこれに代わる「悪弊」の“「冥加金や運上金等」”を要求し、これが横行し、癒着し、この為に「一族性の強い財閥」が生まれます。
更には、「小店」までも「財閥」に飲み込まれる結果と成って行ったのです。
これが明治初期まで続きます。
これが、次の通りの「財閥」が日本全国に生まれました原因です。

三井、三菱、住友、安田、鴻池、渋沢、浅野、大倉、古河、川端、藤田
以上の「11の一族性財閥」で「市場」は握られて仕舞います。

寧ろ、幕府より「経済的な強力な勢力」が生まれ、政治は「冥加金漬け」で動かなく成ったのです。
ところが、明治初期に、この「財閥解体の令」が発せられて、「享保期に近い経済システム」が、「伊勢青木氏と関係性・幕末の勘定方指導」を持っていた「陸奥宗光・紀州藩藩士の建議」で再構築されたのです。
「陸奥宗光の父」は「伊勢青木氏」から教育を受けた「幕末紀州藩の勘定奉行」であったので、この「宗光」もこの上記の「享保改革の知識」で「維新政府」を改革します。
この手始めとして”「11財閥の勢力」”を抑え込もうとしたのです。
この時、西洋に追いつく為に、「基幹産業の財閥」を遺し乍らも、「一族性の経営形態」を否定し、「冥加金制度」も否定し、且つ、「腐敗の元」と成っている「税体系」を新たに確立させたのです。

この様な「経済経緯」が享保期以降90年程度の間は構築されていました。

さて、お尋ねの件ですが、歴史的に「氏発祥」より既に「伊勢青木氏の出自の氏族」には、この様な現在と余り変わらない「進んだ概念」が「奈良期」から構築されていました。

「伊賀青木氏の香具師の働き」から室町期に「近江」に移動して「近江」に於いて活動していた「伊勢の伊賀青木氏の裔系」としては、この進んだ影響を受け、且つ、「伊勢屋の支援」を獲得し、「近江」に於いての「香具師の商い」も明治35年頃までは間違いなく手広く広げていたと考えられます。

従って、お尋ねの “半径200メートル以内に「香具屋の店」が11軒(内屋号山上の店は9軒)あるのは、現在の経済構造からは、信じられません。” に付いては、「伊勢の裔系」の「青木氏」である限りは全くその懸念には及びません。
ご指摘の事は充分に有り得た事です。
寧ろ、自然では無いかと云えます。

125600平方メートルの中で、約11400平方メートル/1店舗ですから3450坪/1店舗
つまり、余り広くも無く、且つ、狭くも無い範囲に於いて「販売」には「合理的な範囲」と考えられます。
江戸期から明治にかけて「香具師の店」として「扱う商品」としては、「1店舗」で全ての関係する商品を販売する事よりは、「香具師の内容別」に「店」を分けていた事の方が、「買う側」も「売る側」にも利便性が生まれ、取り分け、「仕入れ」には便利と成り、「夫々の店」には「仕入れ」などの経営をある程度に任す事で大きい店を経営する方がよい筈です。

上記しました様に、享保期ではこの事を積極的に推奨させました。
「大店一つ」で全ての物で販売経営するシステムは何時か「店」そのものが動かなくなるのです。
そこに「紀州藩士の陸奥宗光」に依る「明治期の改革」が起こったのです。

尚、「昭和の高度成長期」からは、再び享保期の改革に見習い、日本もこの昔の「一族性財閥」から、この「グループ化方式」を採用して転換させ、三段階までの「グループ化」を促し、その企業一つ一つに「10%程度の利益」を許可する「税制方式」を採用したのです。

この事と同じで、古くから「伊勢の伊勢屋」でも「殖産業等」に分けて経営を分散化していたのです。
恐らくは「近江」も「物品の仕入れ先」は「伊勢屋」であったと考えられますので、大いにあり得た事です。

「財閥解体・一族式所有」の政策は、明治初期と昭和20年の時の二度行われました。
先ず「明治初期の解体」は、「商業態」を中心とした”「組合株制度」”を推し進め、“「規模を中心とした分散型」”を目的として奨励しました。
これは「享保の改革の目的」の通りで、「都市政策金融」が進まない事を危惧した政策でした。
明治期では、“「享保期の金融・商業」には「商い」を発展させるために「税は掛けなかった」”ですが、「明治維新」からはこれを廃止し、それを「政府の税制」で優遇したのです。
ですから、「伊勢の伊勢屋」も同様にしていますので、「近江」のお家でも「店」はより「組合株の分散化」を施したと考えられます。
つまり、そうする事で「伊勢」や「伊賀」が一枚絡んで「経営」を安定化させたのだと思います。

明治維新の「地租改正策」や「農地解放」などの一連の政策で「大店が持つ不動産」にも無償放出を義務付けられたのです。
「日本書紀」にも記されている奈良期から持つ伊勢の「五つの大字や小字」の「広大な地権」の「旧領地・本領地」を「共生共存共栄の概念」の許で「青木氏の氏人」に無償で分け与えました。
従って、受けた氏人の「ある程度の規模の店」は、必然的に「所有財産」を「組合株」で分散化させたのです。
つまり、お家もこの流れの中に必然的に分散化に追い込まれていたのです。
然し、この時、「基幹産業」はその侭としましたが、寧ろ「西洋」に追いつけとして、国も参加する程で奨励したのです。

昭和の解体策は、「一族性」を完全に無くした「株式制とした分離型・アメリカ式」でした。

従って、「明治期のお家」はこの政策に従って規模を分散した状態で伊勢屋等の“「組合株」”とした「経営」に移したと考えられます。
其の後は、「跡継ぎの事情」や「経営上の理由」などで、これが何時しか「組合株・理事株」が他人に譲渡され疎遠化したと考えられます。
故に、上記した「合理的な狭い範囲」に於いてでも、19店舗、11の店舗、9店舗、1店舗の「山上の屋号」と成ったと考えられます。
この現象は何処でも起こっていたのです。

以上でお家の範囲には、故に「本家筋の店」と観られる「香具師の香具屋」も発見できているのだと考えられます。

(注釈 伊勢の記録や公の記録には、「伊勢」から始まったこの「組合株・御師制度」は全国的に有名で、明治35年まで続き「摂津域・近江兵庫・越前・越後・武蔵・駿河・三河」まで広がっていた事が判っています。
尚、「伊勢屋の店」は「全国500弱」に及ぶとし、西は摂津店、東は松阪店を「核」とし、それぞれを統括し、「各店主」は「伊勢の氏人」が務めていたと記されています。
従って、「伊勢屋」は、この「家族構成」では無く、元より「奈良期」から「伊賀衆」を含む「伊勢衆50」との形態で構築していたのです。
「伊勢衆50」とは「重婚の女系の血縁関係」を繰り返した例の無い生き遺りの「唯一の朝廷が認めた純粋で正式な氏人での構成」であったのです。
故に、氏の主家頭として「伊勢の松阪青木氏」は「御師様・おしさま」や「氏上さま」と呼称され、それを以て、この「組合株制度」は「御師・おんしせいど」と呼ばれたのです。
明治期にこの「伊勢衆50の氏人」が「氏名の青木氏」を「姓」として名乗る事には何も問題は無かったのです。
又、「摂津店」と「松阪店」を経営主体とし、他の「500の店」は「組合株の店」として系列化を避け、「明治期の税体制」に対応したのです。
そうする事で、「摂津店と松阪店以外」は、「組合株」を持ちながら「税の納税対象範囲の基準規模以下」にして「税の優遇」を受けたのです。
恐らくは、その「流れ」の中にお家もあった事が考えられます。

この事で「維新政府・薩摩」から「松阪」では不正と見做され「焼き討ち」や「打ち壊し」を受けた事が判っています。
然し、奈良期より「伊勢青木氏の一族・伊勢衆・氏人」での「一族性の無い経営形態・氏形態」であった事からこれが理解されなかったのです。
それは、「信濃青木氏」と共に日本に唯一遺る「正統で純粋な氏族」であったからです。
これは「伊勢の青木氏」だけではなく「信濃や美濃や信濃の青木氏」でも「焼き討ち」や「打ち壊し」があった様です。

この「組合株」は、全国では初めて「伊勢」から始めた「御師制度の組合株」ですが、江戸初期に組んだ越後までの15組合」にも及んでいたものまでも含み、「紙幣としての価値」は高かったのです。
お家の「伊賀青木氏の営む香具師の香具屋」も含む「全国500以上の店」とその関連店に流通していました。

故に、江戸期から、その形態は「財閥としての位置づけ」は本来から無かったのです。
尚、念のために、お家の「伊賀青木氏」の一族は、「伊勢屋」と関わりながらも他にも、「絹に関わる産物の商い」や「機械・器具の生産販売」や「紙箱や小物の生産と販売」の「店」も各地に持っていたのです。

又、何か判りましたらお便りをお待ちしています。