Re: 群馬の青木です。
青木研究員 さん 2006/07/31 (月) 19:58
先日の石碑では無かったのですね。石碑であれば関東では大変に貴重なものであるのですが残念ですね。
石塔との事ですが、つまり何かの記念に立てたものですので、その石塔の持つ意味が何なのかということになりますね。
さて、先ずこの庚申とは何なのかということですが、次のことに成ります。
中国の思想に「五行思想」と言うものがあります。
中国は現在に於いてもこの五行思想に概ね添って行動しているもので中国人の全ての行動規範です。
その中で、年代などを計算するために考え出されたものがあります。
日本にも入ってきていますし明治の中ごろまで昔は良く使われていました。
つまり、干支(えと)です。日本では占いなどの独特の使い方をしますが中国では計算方法です。
干支は二つの計算方法を組み合わせて年代の計算に使用します。
一つ目は「十千」です。二つ目は「十二支」です。
つまり、10進法と12進法を組み合わせているのです。
「十千」は木火土金水の5つです。恒星を基準にしています。
この一つを二つに分けて全部で10にします。
甲乙、丙丁、戊己、庚辛、壬葵の10に成ります。
これに干支の子丑寅。。。。。亥の12の数とを組み合わせて60進法を作り上げて計算する方法です。最小公倍数60です。
この様にして年代を決めました。これによりその年に起こった事件が判る様にしています。
例えば日本ではこの方式で還暦60はこの計算方法から人の人生の一回りを決めたのです。確かに全ての面で60は人生の一区切りですね。
本厄年は47ですね。確かに納得します。
さて、本題の「庚申とはいくつか」という事ですが。
この計算方式では、庚午の7、庚辰の17、庚寅の27....庚申の57と成ります。これが60年に一回還暦して回ってきますので、西暦で云うと57*Nという事に成ります。
つまり、57*Nの倍数の年に記念するべき事件があったことを意味します。
そこで、お家は甲斐の武田系諏訪族青木氏の末裔でありますので、この歴史を遡ることで、この57*Nの倍数の年にあったことを調べるという事に成ります。
何か土地に伝わることで聞き及んでいることは有りませんか。
私なりに次に検証しますと。
627年の庚申(57*11)
第一案は627年以前には未だ諏訪族の祖先は大和の国の甲斐に入植していません。入植は孝徳天皇(645)の少し前から帰化して入植をはじめ天武天皇期の終わりに完了している筈ですから、先ずは実際は627年が最初の大和への帰化年と見られます。史書にもこの付近の年代を明記している。
もし、627年が帰化年としますと大変な史実判明。
684年の庚申(57*12)
第2案は朝廷より甲斐の国を開発した功績で諏訪族に対して「不入、不倫の権」の特権を与えられて大和の民として正式に認められた記念すべき年で日本書紀には天皇自らが祝いの宴を持った記されている。
この時、始めて一族が武力やあらゆる技能を持つた集団の族として認められた事を意味する。
1539年の庚申(57*27)
第3案は武田家が甲斐の国にて勢力を上げるために諏訪族との血縁を結んだ時期である。一地方の豪族であつた諏訪族は武田氏との血縁にて武田系一族に組み入れられた記念すべき年期である。
1596年の庚申(57*28)
第4案は1582年に武田氏が滅び武田系諏訪族青木氏が関東に向けて逃げ延び、横浜神奈川地方と更に栃木方面に定住定着した記念すべき年期である。
この時の事を記念した。
以上4つの案ですが、57の倍数で一致しますので。又この4つ全てを云っていることも考えられます。
この事を祝って石塔を立て、忘れる事の無いように記録したのではと推測します。
この時の頑張った侍を称える意味で”庚申侍”と呼んだのでは。そしてこれを称える祭りを毎年行っているのではないでしょうか。
専門外ですので良く判りませんが、私は”第1案であって欲しい”との願望を持つていますが。
一度、57*Nでの計算でお調べになりませんか。
何かわかりましたら又お知らせください。