青木ルーツ掲示板
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  [No.1046] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2015/04/09(Thu) 17:21:17

 いつもながら迅速かつ丁寧な御返事、ありがとうございます。
 おかげさまで今治の『青木里』については合点がいきました。

 ですがもう一方、大洲の『青木』『青木谷』、及び『西光寺』『神明神社』については、これまで調査していたのが主に宇和郡以南であり、北部の大洲・喜多地域はまったく視野に入っていなかったため、これが我が家のルーツにつながるのでは、という副管理人様のご指摘に非常に驚いております。

 ただ、そのご指摘でひとつ気になるのは、仮説通り大洲の『西光寺』が当家の菩提寺であったとするならば、これまでの『本来の家紋である州浜紋のステイタスを忘却した結果、現在の左三つ巴紋に変化した』、という推定に疑問を生じます。一族の情報センターである菩提寺には、必ず家紋の情報も伝わっていたはすでず。
 この疑問の追求はいったん置かせていただくとして、改めて大洲・喜多郡地域に目を向けますと、大変興味深い情報を発見することができました。
 その情報を元にしますと、当家が紀伊の青木村から四国へと落ち延びた当家が、現在の伊予・宇和郡に至るまでの経緯について、ひとつの仮説を構築することができるのです。
 ただ、その中には副管理人様に分析・評価を頂いたこれまでの分析に反する部分も出てまいります。自分なりに『頂いた分析には反するけれども、このように考えるのが最も自然ではないか』と判断するものではありますが、当然ながら歴史の素人による調査・仮説ですので、失礼を承知の上、これまで以上に厳しいご批判を頂ければ幸い、と前置きさせていただきます。

 話がやや広域に渡りますので、できれば愛媛県の地図をご用意頂いた上でお読み下されば幸いです。
 
 さて、前回のご報告で大洲に『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』が存在するとご報告しました。
 やや分かりにくい点もあったかと思いますし、書き漏らした部分もありますので、今一度、この点をご報告させていただきます。

 大洲市は愛媛県有数の大河『肱川』が流れる盆地に広がる街です。川は南から北へ、大きく蛇行しながら流れており、『青木』『青木谷』の地名は町の北側、川の流れで言えば下流域の『五郎』に残っております。藩政時代に当地を領有した大洲藩・加藤家(米子から転封)の記録には『五郎村』とあります。

hhttps://goo.gl/maps/HXjEj

 上記のネット地図を閲覧いただければ、肱川の北側に細い川が注いでいるのをご確認いただけると思います。その辺りが『青木』『青木谷』です。そのすぐ東側に伊予宇都宮氏が下野から勧請したとされる『宇都宮神社』、さらに東側に『城願寺』という寺も見えると思いますが、ここが伊予宇都宮氏の菩提寺です。長宗我部氏の侵攻時に破壊され荒廃していたものを、藩政時代に復興したとされます。東側に等高線の盛り上がった丘がありますが、そこが伊予宇都宮氏が最初に居城とした(後に現在の大洲城の原型となる城を建てた)城跡とされます。
 『青木』『青木谷』が、宇都宮氏ゆかりの地に囲まれて存在しているのが分かると思います。
 『神明神社』『西光寺』は、『青木』『青木谷』から肱川を挟んだ南側の『若宮町』にあります。上記ネット地図でも位置が確認できると思われます。『神明神社』は、肱川にかかる橋を渡った大洲市役所・喜多小学校のすぐ東側、『西光寺』はそこから東に500メートルほどの場所にあります。『西光寺』については寺伝で『本来は別の場所にあったが、肱川の反乱で何度も被害を受けたため、当地に移動した』とあり、現在は『曹洞宗』ですが、本尊は『阿弥陀如来』です。
 まずは大洲市の中心部に、以上の地名と遺跡があることをご承知ください。
 そして、ここから南へ5キロほどの山中に『貫小屋』という集落があり、そこに『神明神社』があります。ネット地図にも『神明神社』が確認できます。さらに現地の地誌に、この神明神社と敷地を同じくする西光寺という寺があったが、今は手水鉢と墓地の一部、仁王経の版木、木像などが伝わるのみで、墓地の年代から江戸中期までは存在したと思われる、との記述を発見しました。この貫小屋の『神明神社』と『西光寺』については、藩政時代の記録に記載がなく、当時には既に忘却されていた可能性があると思われます。
 まだ現地調査などはできていませんが、いずれ訪ねてみようと思っております。
 
 さて、思いがけず大洲の地に『神明神社』『西光寺』が二組、発見できたわけですが、実は地図を広げて視線をさらに上流へと移しますと、もう一か所、『西光寺』が発見できるのです。

 大洲市の東隣り、肱川に注ぐ支流『小田川』の流域にある『内子町』に『西光寺大師堂』なるお堂が存在します。当地の地誌によると正式名は『金栄山西光寺』(堂にはその扁額も掲げられている)で、『西光寺の廃寺跡』と記述されているのです。お堂の建物自体は江戸前期のものとされ、四国遍路の道中にあることから、遍路の宿泊・お接待所として長く利用されてきました。別の地誌には『西光寺・真言宗寺であった』ともありますが、四国遍路の宿泊所として『大師堂』と呼ばれたことから曲解された可能性があると考えます。
 残念ながら、当地には『神明社』『神明神社』を見つけることはできませんでした。当地・内子町は『喜多郡(宇和郡の北、『北郡』から変化したともいう)』に属し、江戸期が大洲藩領でしたが、その記録にもありません。
 ただ、堂が立つ土地は現在も『五百木(いよき)』といい、藩政時代は『五百木村』でありました。『青木』が古くは『うぉーき』、『あうぉーき』と発音されていたと、当サイトで教えていただきましたので、『青木(あおき)=五百木(いよき)』と変化した可能性はないか、と考えます。もしそうであるならば、同じ大洲・喜多郡に三つ目の『青木氏ゆかりの地』があることになります。

 さらにこの内子町の地誌を読んでおりますと、大変興味深いことがわかりました。
 この地には『南北朝の戦いの後、伊予に移動した楠木正成の末裔によって拓かれた』との伝承があるのです。
 昔ならば『どこにでもある落人伝説』と一笑に付したかもしれませんが、当家のルーツ調査で判明・推定された事柄を総合すると、あながち見過ごせない情報です。

 以下、その伝承を記述します。
 『河内国水分の土豪楠正成の二男正儀は、父討死の時幼少(8歳)で千早城に住していた。その嫡男正秀も千早城に居住して再起の機をうかがっていたが、南朝の盛運も次第に傾き、正盛父子は残党を従え、明徳3年(1394)南北朝和睦以後、伊予の国に渡ったという。伊予には宮方、土居、得能の旧交の人びとがおり、父子をいたわり敬い、喜多郡の山村に居を構え、近隣を横領した。菊水の紋所は、楠と知れることを恐れ且つ先祖の名を憚り、紋は三ツ橋と定め、姓を河内として家を残した。後の五十崎(いかざき)竜王城河内駿河守吉行は実に正盛八代の孫である。吉行は曽根城の客将で、天正7年7月14日(1580)の竜王城攻めに加わり、戦功によって竜王城主となり、14年間在城した』。
 また別の伝承では、『楠正成の裔孫・楠正之進正敏、応永の末頃嗣子・正賀等の一族を率い、河内の佐山(狭山)から喜多郡中居村(内子町大字河内)に移住したという。姓氏の橘楠木を憚りて「河内」を称へ、二代正賀になり中居村を河内村と改め、菊水寺を建て、楠氏を河内氏と改める。正賀は正敏の子で正成四代の孫。正賀八代の孫、河内駿河守吉行は、曽根の客将で大功があり、諸将が協議して竜王城主となる』とあります。
 『内子町河内』の地名と河内家は現在も存在し(五百木の北方山中)、『菊水寺』も現存します。2つの伝承は、この菊水寺と河内家を中心に伝わったもののようで、河内家では自らの一族を『伊予楠木家』と称する一方、讃岐に落ち延びた一族(『木地家』と称したそうです)を『讃岐楠木家』と呼び、明治頃の記録では互いに交流を持っていた、とあります。
 以上の『楠木正成末裔伝説』の信憑性については、ひとまず問いません。
 しかしながら、これらの伝承が内子の地に『南北朝の戦に関わって移動してきた何者か』が存在した残滓ではないか、と推定することは十分に可能と考えます。さらに当地に『西光寺』、そして可能ならば『五百木地名』の痕跡があることを加えますと、次の推論が浮かび上がってきます。

 この内子の地こそ、紀伊から伊予に落ち延びた当家が、最初に移り住んだ土地であったのではないでしょうか。

 この推論を補強する根拠として、さらに二つの条件を挙げます。
 ひとつには内子が山中の盆地であり、敗残の身が隠れ住むに適していることです。大河・肱川とは川でつながっており、少なくとも江戸期の記録では川伝いに小舟が行き来できたとありますので、下流との物流も確保されていました。
 今ひとつは、当地を含む大洲・喜多郡地域が『紙の産地』であったことです。
 当地は今も和紙を生産していますが、これは大洲藩時代に再興されたもので、本来の喜多和紙は江戸初期までにほぼ廃れていました。(同じく紙生産の廃れていた隣の宇和島藩が、土佐から人材を入れて再興したのを真似、大洲藩も土佐和紙を取り入れ再興したと藩政時代の記録にある)。
 しかし廃れる前、本来の喜多和紙の生産記録は古く、正倉院の東南院文書に「天暦四年(九五〇)一一月二〇日 伊予国二百戸、うち温泉郡五十戸、風早郡五十戸、喜多郡百戸、租・庸・調・中男」とあるそうで、その量は喜多郡二七二〇張、温泉郡と風早郡が共に一三六〇張。当時から開けていた風早、温泉両郡の二倍を納めています。
 当家が伊予逃亡の際に頼った讃岐藤氏が、この紙の生産・販売に関わっていたことは確実とみてよい、と考えます。とすると、落人である当家を隠れ住まわせ、同時に生活の道を与える土地として、この喜多郡内子の地は非常に好条件ではないか、と考えるのです。(ちなみに当地では紙のほか、ハゼの実を原料とした『和ろうそく』を生産し、藩政時代は非常に栄えました)。

 推論を続けます。
 当地に定着した当家はその後、小田川を伝って肱川の下流域へと、2度目の移動を行います。移動した時期がいつであったか、また移動先が残る2つの『ゆかりの地』のうち、大洲の『青木』『青木谷』か、あるいはやや上流域の『貫小屋』のどちらであったかは現在のところ不明です。
 ですが、あえて推論するならば、まず先に最も下流域の『青木』『青木谷』に移動したのでは、と想像します。地図で見てもお分かりの通り、肱川河岸にある非常に便利な土地で、上流と下流の物流を抑えるのに最適です。最初に住み着いた内子エリアはもちろん、この肱川は本流を土佐国境に発しており、土佐との物流も盛んでした。かの坂本龍馬が土佐を脱藩した際に使ったルートがまさにこれであり、地元では『龍馬脱藩の道』として顕彰されています。
 内子に逃げ延びて住み着いた当家は一時、大きく伸長し、大洲の地に『神明神社』と『西光寺』を建てて根を張った、と想像します。内子・五百木村から直線距離にして12キロほどですが、曲がりくねった川を下ったとすればその数倍の距離の移動でした。

 ここまで考えて、やはりどうしても無視できないのは『伊予宇都宮氏』の存在です。
 伊予宇都宮氏は、九州の豊前宇都宮氏6代頼房の三男・豊房が元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられて大洲に城を建てたのを始まりとし、最後の豊綱が天正13年(1585年)に没するまで八代を数えた、とされます。
 伊予宇都宮氏が実際に大洲に勢力を張ったのがいつになるのか、正確にはわかりませんが、当家が大洲・青木の地に根を張った時期と、ほぼ間違いなく重なると思われます。
 前述のとおり、彼らの居住区がほぼ重なっていたことも間違いありません。

 さて、ここで当家と伊予宇都宮氏の関係について、今一度、再評価すべきと考えます。

 当家と伊予宇都宮氏との関係については、こちらにご相談して間もない時期に、副管理人様より否定的な分析を頂いております。ですが今回、『当家の大洲における居住歴』が推定されたことにより、同説を改めて検証する必要があるのでは、と考えるのです
 もちろん当家が『青木』『青木谷』にいつか居住し、いつそこを去ったのか、それを知る確たる史料は無いため、かならずそこで接点を持った、とは言い切れません。
 ただ、ここで思い出されるのは当家の家紋『左三つ巴』。そして、家伝に混じり込んだ宇都宮氏由来の伝承(藤原北家・藤原道兼)です。さらに、現在の檀家寺『大楽寺』が、宇都宮氏の再興による寺(元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。堂房は、豊前国の宇都宮鎮房の第3子。堂房は、萩森城主・宇都宮房綱を頼って九州より敗走してきたが、房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。そこで、房綱の姉婿である菊池武国を頼って、この地に落ち延びた)という点にも、改めて注目できるのでは、と考えます。
 さらに当家が大洲の地に『西光寺』を持っていたとするならば、少なくともその時期までは家紋等のステータス管理も行われていたはずで、忘却や取り違えは考えにくいと思われます。となりますと、当家の家紋は武家の仕来りに従い、正しく『左三つ巴』に変更された、と考えるのが自然ではないかと考えるのです。

 ここからは推論というより、単なる想像となりますのでご容赦下さい。

 内子から大洲へと伸長した当家は、そこで伊予宇都宮氏と縁を結びます。前回の副管理人様の御回答で、伊予宇都宮氏が『讃岐藤氏の生き方を真似た事に依って読み間違えた』と分析しておられましたが、まさにそのようであったと想像します。『青木』『青木谷』に隣接する『宇都宮神社』には、下野の宗家からは失われたとされる『日光山並当社縁起』 が伝えられ、文明九年(1477)に宗家の下野宇都宮氏十六代正綱が奉納したと署名があります。奉納の真偽は置くとしましても、伊予宇都宮氏が本家との関係を強調し、『伊予の宇都宮』を標榜せんとした形跡が随所に見られるのです。(大洲・喜多郡には『宇都宮神社』が多く建てられ、内子・五百木にも建っている。『仁平3年(1153)に下野国より勧請』という、かなり『?』な社伝がある)
 当家は、この伊予宇都宮氏の野望に『乗った』のではないかと想像します。フィクサー・スポンサーのような存在だったかもしれません。
 しかし、結果としてこれは失敗します。
 大洲は北の河野氏、南は西園寺氏、土佐からは長宗我部氏と、まさに四面楚歌の状況に追い込まれます。土佐の一条氏と縁を結んだこともあったようですが、結局はどちらも滅びてしまったのはご承知のとおりです。
 当家が大洲南方の山中、『貫小屋』に三度目の移動をしたのは、この時期ではなかったかと想像します。居住地の移動というよりは、ステイタスとしての神社と寺を、護りやすい山中に移動させた、というところではないでしょうか。ここまでは、まだ当家もステイタスを維持できていたことになります。
 ですが宇都宮氏が滅び、当地が豊臣秀吉の支配地となって、状況はさらに悪化します。
 特に天正15年(1587年)、伊予大洲を領有し伊予南域を支配した戸田勝隆の時代、当家のような郷士は、相当に迫害された様子が伺えます。戸田氏は今も、当地では非常に評判の悪い人物でして、『そこまで悪くもなかった』という説がある反面、司馬遼太郎氏などは『暴君説』をとっていらっしゃいます。
 この時代、どうやら多くの郷士の菩提寺が破壊されたり、土地の簒奪も起こりました。これに対して激しい反乱も起こりましたが、戸田氏はさらに強烈な締め付けで対抗し、泥沼のような状態になったことがうかがえます。(逆に戸田氏断絶の後、大洲・宇和島藩に入った加藤・伊達の両家は、土地の郷士に対して非常に気を使った形跡がある)。
 その戸田のお膝元で、当家がそのまま居続けることは不可能でした。
 戸田氏の大洲入りが天正15年(1587年)、当家が今の土地に来て、初代が亡くなったのが寛文7年(1667年)。その間80年。
 
 その間、当家はゆかりの地を追われ、讃岐藤氏の支援も受けられず、今度こそ『神明神社』『西光寺』のステイタスも失い、伊予のさらに南域・おそらくは『三間郷・曽根青木家』が勢力を持っていた土地に逃げ込みます。
 この『曽根青木家』については別に調査を進めており、彼らが三間の土地において、ある大きな動きを起こしていたこと。そして当家とはやはり『近江の縁』があったと思われることなどが推定されています。それについても、いつかご報告できればと思っています。
 ともあれ、曽根青木家の勢力下といえども讃岐藤氏の影響から逃れることはできず、また菩提寺を失ったからといって曽根青木家と同じ天台宗に改宗する、という選択肢もなかったと思われる当家は、辛うじて宇都宮氏に縁を持つ現在の『大楽寺』で檀家となるのが精一杯だった、と想像します。
 そしてどうにか現在の地に落ち着いた当家は、『左三つ巴紋』と『青木』の名だけをステイタスとして伝え、伊予南域の農家として生きてきた、そのように想像するのです。

 相当に勝手な妄想も含まれますし、内子・大洲の現地調査も未だ果たせておりませんので、副管理人様のお叱りを受ける部分もあろうかと思いますが、今のところはこれで精一杯というところです。
 長文となりましたが、よろしく評価・ご批判を頂ければ幸いです。
 
 



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