愛媛県南部(現宇和島市と現西予市の境界付近)で農業を営む一族です。ルーツの一端を知りたく、投稿させていただきます。
現在は別の姓を名乗っていますが、墓地に残る明治以前の古い墓には『青木』姓と、『左三つ巴』の家紋が刻まれています。
最も古い墓は寛文7年(1667年)の年号があります。
客観的に確認できる事実はそれだけです。
先年、既に亡くなった一族の歴史好きが遺したと思われる文書が見つかり、断片的ではありますが彼が調べたと思われる内容と、一族に伝わる伝承が記されていました。(ただ正式な教育を受けた歴史研究家ではなく、素人の域を出ないものであることは先に記しておきます)。
内容は以下のようなものです。
青木家の先祖は藤原氏・藤原兼隆の子孫で、紀伊国龍神村の付近に暮らす一族であったが、南北朝時代に南朝方に味方したことで当地を追われ、同じ南朝の伊予西園寺氏が勢力を持っていた愛媛県南部(南予地方と表現します)に移った。
戦国時代になると青木兼近なる者が、西園寺公広の配下で『西園寺十五将』の一角・土井清良の家来となった。その名は現在の宇和島市三間町兼近の地名に残るとされる。
西園寺氏滅亡後は当地で庄屋となり、そこから分家したのが我が家である。
以上です。
が、どこまでが本当なのか当方では判然としませんし、調べますと『左三つ巴』の家紋は西園寺氏が使ったもの、ということが広く知られているようです。
知る限り、当家はずっと『田舎の農家』として生きてきたようなのですが、青木姓を名乗り、西園寺氏の家紋を墓に刻んだのは何故でしょうか?
何かお分かりのことがありましたら、ご教示願えれば幸いです。