青木ルーツ掲示板
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  [No.973] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/21(Sat) 11:58:42


元青木さん 今日は 初めまして。
これからもよろしくお願いします
お便りを読ましていただきました。

お便りの中に疑問点がありますので、それを先ず列記して観ます。

先ず元が青木氏であったものが何故変わったのでしょうかね。
農民であった。庄屋であったとしていますが、この辺の変化の事由が気に成りますね。
”西園寺の家来”と云う事なのですが、これには一つ目の問題がありますね。
次ぎに、「藤原兼隆」の子孫と云う事にも問題があります。
青木氏に左三つ巴紋はありませんので、疑問です。

さて、先にこの問題点を検証してみます。
「藤原兼隆」は公家で、関白家で右大臣を司った人物で、紀州には来ていません。
次ぎに、公家から兼隆から青木氏は出ていません。
「左三つ巴紋」の家紋には青木氏は出ていません。

西園寺氏の象徴紋が巴紋である事はその通りですが、巴紋にも91の文様があります。
公家であるので家紋ではありません。象徴紋です。

西園寺氏は公家中の公家ですが、この家来と云うのは疑問です。
公家は武力集団を抱えない事が原則です。従って、家人は居ても武士の家来は無いのが原則です。
源氏や平家を味方に引き入れて身を護る仕組みです。直接の武士の家来を持つ事は禁じられています。もし、持ては公家は認められなくなります。てすから、直接の家来であったとする事には問題があります。
西園寺に直接味方した武家の家来と成った事に成ります。
「西園寺十五将」とは、直接の家来の十五将と云う事では無く、影響力を強く受けた味方した武士と云う事に成ります。
従って、そこらの先祖の表現が誇張されています。


そうすると、「西園寺氏・・云々」と「左三つ巴」は信用できないです。
ここからは絶対にお家の青木氏に辿り着けません。

ところが、氏では無く、地域から観てみると、今度は逆に、お便りは正しいのです。
「紀州国の龍神村」の「付近」は正しいのです。
更に、南北朝時代に南朝方に味方して統治を追われ・・・までは正しい事です。

そこで、この地理からルーツを観てみますと、次ぎの様に成ります。

この龍神村付近に住んだとされる藤原氏は、「藤原秀郷流主要五氏」の一つで「青木氏族」の「進藤氏」の祖と成る人物で、(藤原鎌足より8代目北家の藤原秀郷)この秀郷より4代目の行景はなる者がいました。
この「行景」には、この子孫に藤原脩種−脩俊−好治−治卿−秀世−・・と続きますが、
この脩俊は隠岐国の八嶋冠者の役職を司っていましたが、1185年の源の頼朝が平家討伐のために隠岐から屋島にいち早く同行し、平家を滅ぼすに勲功を挙げました。
この勲功で、紀州若山庄(和歌山)の3千余町を賜り、従五位下に任じられます。
以後2代の将軍の近臣として仕えて出世します。
この一族に同行した護衛役の秀郷流青木氏の分家の一部が龍神村から有田地域に定住しました。
この青木氏が現在の和歌山市と隣りの有田郡湯浅に定住しています。
この子孫が村を形成しましたが、現在はこの地名の青木には青木氏はありません。、北部の和歌山周囲に存在する少ない青木氏はこの末裔とも見られます。

現在、「龍神温泉」に近い所に「明恵温泉」と云うところが、和歌山有田市にあり、その辺一帯は昔、「明恵村」と呼ばれ、「藤原明恵」が定住赴任していた地域で、和歌山でも良く知られた”明恵さん”で、周囲の村民たちに大変に慕われた僧侶でもあったのです。
その近くに青木村が在りました。お家はここに住んでいた事に成ります。
現在は地名だけでありません。
龍神村の地域は平家落人が住んでいたところですから、この龍神村よりやや山を降りた明恵村がその定住地と成ります。

昔の地名では、龍神村でも通りますが、正確には明恵村が正しいのです。
一度、お家のルーツの下に成るこの「明恵温泉」を訪れては如何ですか。
有田市が運営しています。宿泊もできる様に成っています。静かな小さな温泉村です
山郷の風景です。

この「秀郷流青木氏」は、「藤原脩行ー脩種・・」が赴任役務が終わり引き揚げた事に伴い、大半は「武蔵国の領国」に帰りました。
この青木氏の一部が地元に残り、後に紀州の土豪と成り、「南北朝の争い」で近くにいた「楠正成」等と共に戦い敗退し滅亡したと成っていますが、近隣の秀郷一門の青木氏の縁故を頼り、「伊勢の秀郷流青木氏」や「讃岐の藤原秀郷流青木氏」や、「美濃尾張の秀郷流青木氏」などを頼り逃げ延びました。
この事からすると、お家の”龍神説”の部分は正しい時代考証に成っていますので納得出来ます。

お家は、この「讃岐青木氏」を頼った「秀郷流青木氏」である事に成ります。
その後、讃岐付近に定着し土豪と成り、戦乱で、伊予西園寺氏の味方をした土豪である事に成ります。西園寺氏の滅亡で、逃亡せずに「農民」と成って生き延びた「秀郷流青木氏」と云う事に成ります。

「秀郷流讃岐青木氏」は、瀬戸内の経済を背景に宗家の関東一円に勢力を張った秀郷流青木氏と同じくらいの大勢力を張っていました。
同じ一族としてこの勢力の庇護を受けて滅亡せずに生き延びられたと考えられます。
お家は伊予南部と成っていますから、讃岐青木氏の庇護を受けながらも、土豪として独自の動きをした事に成ります。西園寺氏の護衛団の土井氏の家臣と成った事に成ります。
土豪として地盤を宇和島三間町に築いたと観られ、そこで讃岐藤氏の讃岐青木氏の庇護の下に庄屋を務めたと考えられます。

藤原秀郷の宗家一門は公家貴族になりましたので、武力集団を持つ事が出来ずに、一門から秀郷の子の第3子の千国なるものが、護衛団を形成して独立して一門を護りました。
この末裔が、秀郷流青木氏116氏あります。お家はその1氏です。
そもそも、この「青木氏」とは、天皇より「特別賜姓」を受けて由緒ある天皇を直接警護する近衛軍団を編成しました。
この青木氏には、もう一つ天皇皇子の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を天皇より受けた青木氏があり、この「皇族賜姓青木氏」5家5流と、「秀郷流青木氏」116氏とは母方の血縁氏です。
この為に、共に天皇を護る役目を負い各地に赴任する宗家の守護地の護衛に当たっていました。
お家は、脩種の宗家一門として同行して紀州の護衛に当たっていたのです。
お家はその一つですが、但し、家紋の「三つ巴」には問題があります。
この地域から讃岐東部にかけて青木氏の大変多い地域です。
「藤原秀郷流青木氏」に付いては、研究室に長編の論文を掲載していますので、詳細はそちらをお読みください。
また、昔ご親族の青木さんのお便りが、ルーツ掲示板に沢山寄せられていますので、掲示板に検索が在りますのでそれを使ってお読みください。
膨大な資料ですから、慌てず少しずつお読みになる事をお勧めします。何年もかかりますよ。

兼隆の件は100%間違いです。
但し家紋の「左三つ巴紋」には一つの可能性があります。
お墓を室町期末期頃に据えられていますので、武士には従わなくてはならない家系に関する掟がありまして、それが「家紋掟」いうものですが、これに依って、お家は伊予にて二度の男系継承が出来ずに、二度の養子を迎えた為に、女系と成ってしまった家柄となりました。
従って、男系を主流としている「氏家制度の時代」(江戸期前)には「養子先の血筋」と成りますので、家紋は一番目の養子先の家紋に変わったと考えられ、その養子先が西園寺の支流族であった事に成ります。
元の家紋が何であったかは何らかの情報があれば判ります。
ご宗家の本家にその答えがあるかも知れませんね。

元々の秀郷流青木氏の総紋は「下がり藤紋」です。これが上記の家紋掟の仕来りで116の家紋に広がった事に成ります。
ところが、「左巴紋」が青木氏の家紋群に出て来ないのは、明らかに、本来の正規の定住地では無い事から家紋群に出て来ない事に成ります。

この家紋は、実は、秀郷流一門の中の主流族の「結城氏」、「佐野氏」「関東屋形」と呼ばれた大豪族の「小山氏」「宇都宮氏」豪族の支流族の「赤松氏」も使っているのです。

ですから、「西園寺氏からの養子」なのか、上記の一門の六氏の流れを持つ青木氏なのかに成ります。
「脩種の始祖」は「脩行」ですから、佐野氏系青木氏の可能性もあります。
「西園寺氏」か「佐野氏」かの兎も角も今は決定する情報がありません。
「家紋掟」よる「養子縁組」が宗家に無かったかの事に関わります。
無ければ「佐野氏系青木氏」で「本流青木氏」と成ります。

この事で、和歌山から伊予に逃亡した青木氏の証明である事に成ります。
和歌山には、元お家のご親族が少ないですがまだ遺っていますよ。

兼隆は明らかな間違いで、秀郷流青木氏の脩種の系列の血筋を引く青木氏です。



判らない時は、ご遠慮なくお尋ねください。



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