お元気でしたか。
良くお調べに成っていて驚きます。
今回のお便りには、若干疑問点があって、お答えに窮するところがあります。
では早速、感じるところを述べますが、もう一度、検証して観られる事をお勧めします。
>以前ご報告した『曽根庄屋青木家』(天台宗・宗光寺を菩提寺とし、現在は家系の絶えた青木家)が存在した『三間町曽根』、その住宅地図を入手・捜索しておりましたところ、『青木姓』を名乗るお家がもう一軒、旧庄屋青木家のごく近くに現在も暮らしておられることが判明しました。
上記の事は「明治期の事」の様に観られますので、次ぎの事に注意すべきです。
この推理には、次ぎの「江戸期前の慣習の租借」が欠けていると観られます。
明治期前までは、つまり、”「棲み分け」”と云う慣習がありました。
同じ所に別の出自の青木氏が住むと云う事はありません。
他氏は、兎も角も、少なくとも「青木村」を形成できる権利を持っている「青木氏」に関してはありません。
一族で無いのに、「別の青木氏」が”近くに住む”と云う事は本来はありません。
あるとすれば、それは、「明治期の苗字令」に依って名乗った「第三の青木氏」である事に成ります。
以前にも記述しましたが、離れては、江戸期末期に掛けて起こった「武士の家の名義買い」がありますが、本件の場合は、これでは無いと観られます。
明治3年と8年に庶民には、「苗字」を持つ事を義務付けられましたが、なかなか進まず、結局は、8年後迄ずれ込みました。
そこで明治政府が採った「最後の唯一の手段」は、「周囲の郷士や郷氏の氏名」を半強制的に名乗らせると云う手段に出ました。
その時に、「青木氏と農業や職能での関わりのあった者」等に近くに住んでいた庄屋等の「青木姓」を名乗らせると云う事が起こったのです。
全国各地の青木氏が定住していた地域には、一夜にして「青木姓」が興ったのです。
この時、姓と共に墓所と家紋も持つ事に成りました。同じ家紋を使うと云う事が起こりました。
もう一点は、明治期の家の繁栄は、「氏家制度」でなくなり「社会体制」が異なった事と、「地租改正」で農民に実際に土地を無償供与で下げ渡された事とで、「地主の態勢」が明治9以降に裏腹に変化していますので、土地の大小は氏や家の大小を物語るものでは無く成りました。
このお話が明治期の事であれば、ルーツの探究から除外すべきです。
「曾根青木氏」又は「立間青木氏」とは,ルーツの違う「姓」の人が傍に住んでいたとすると、この「明治期の第三の青木さん」であると観られます。(前回に述べました)
「家紋」は同じとするも、明治期では判断材料とは成り得ません。
この青木さんとの判断材料は、「宗派」と「伝承の有無」と「明治初期の戸籍」と成ります。
未だ、何年も経っていないのに”「過去の伝承」が全くない”と云う現象ですが、そんなに「伝承」は急には消えません。
「家紋」に関わらず「神助紋 左巴紋」のみならず同紋を、中には”「藤氏北家総紋」”をも使うと云う現象が茶飯事に起こりました。
「左三つ巴紋」がお家の家紋とすると、全国各地にお家の親族が居た事に成りますね。
然し、「脩行系青木氏」が全国各地にもれなく存在すると云う事は先ずはあり得ません。
高野山や比叡山等や大きな春日神社に行ってください。
神社、祠,寺の掃天、神社の幔幕、神職の背、僧侶の袈裟の裾等にまでもこの「紋所」を入れていますよ。
明治には、其れも「墓所」にもこの「神助紋の紋所」を平気で使うと云う事も起こりました。
これ全部お家の御親族なのでしょうか。
>1.『三間左三つ巴青木家』の初代と推定されるものは『丸石』。元は五輪塔であった可能性もある。
>2.2代目と推定される墓は『天和二年(1682)』の年号だけが判別でき、墓の主や宗派等は不明。
>3.3代目と推定される墓は『釋 ◯ ◯』。
>4.分家の初代は『安永8年(1779)』。
>5.明治期まで『青木姓』を刻んだ墓はない。家紋も確認できず。また『三間旧庄屋青木家』の墓のような格の高い戒名も確認できない。
”「家」には「伝承」が無いのに「墓」にはある”と云うのも疑問ですね。
兎も角も「墓石の石種」を確認してください。「花崗岩での慣習」は明治期からのものです。
徳川時代前は宗教的概念に依って「砂岩」が主流です。
年代に付いては、明治期に「虚偽の搾取偏纂」が横行しました。
全体に疑問を持ちますね。
「青木氏」には、前回にも述べましたが、”三代までを祭祀し、50年ごとに累代の先祖墓の墓石に移す慣習”がありますが、この内容では、変ですね。
この慣習は護れていませんね。
お家が土佐郡土佐町から西の伊予に移動してから、既に、江戸初期まででも260年、天和迄でも350年も経過しています。
6代も済んでいますから全て「先祖墓」にある筈ですよね。
そもそも、どの様な慣習であったのでしょうか。
”家紋や戒名が無い”と云う事はどういう事を意味するのでしょうか。
その意味する処は唯一つです。
>3代目と推定される墓には 「釋」が刻まれていた。
>そうなりますと、当家に伝わっていた『三間の庄屋から分家した』という伝承も、あながち見当はずれではなかったことになりますし、以前の副管理人様のお返事に『曽根旧庄屋青木家と縁組があったのではないか』との推定があったことも思い出されます。それが別な、しかも意外な形で証明されたことになります。の文字があり、我が家の墓と同じく『浄土真宗』の形式をとっているのですが、そのすぐ隣に女性のものと思われる墓が立っており、これが戒名の頭に大日如来を示す『ア』の梵字が入っていることから、『天台宗』のものと思われるのです。
>二つの墓は、配置から考えてご夫婦のもの思われるのですが、夫が浄土真宗・妻が天台宗と違う宗派で埋葬されるということがあり得るのか、いささか奇異に思えます。
>しかも『三間左三つ巴青木家』の墓を見ていきますと、4代目以降の墓はすべて『ア』の梵字が入った天台宗形式となっているのです。
>そこで父が『お寺はどこか』とお尋ねしたところ、なんと『宗光寺』というお返事。やはり天台宗、それも『曽根旧庄屋青木家』の菩提寺であったのです。
「三代目の墓石」が未だある事が疑問ですし、三代目の時代の墓所の墓石に、浄土真宗の「釋」がある事にも疑問が残ります。
密教系、取り分け「浄土真宗」は、この時代には、ある事情があって「仏像の本尊」を置かずに、「仏画」を以て「本尊」としたのです。
況して、そもそも「路傍の石」「河原者」と云う言葉がある様に、「庶民」は墓所を持つ概念がありませんでしたので、庶民から武士までを信徒とする「顕教の真宗」で、差別して「武士」だけに先祖を殊更に祭祀する教義は持ち合わせていませんでした。
むしろ、「武士階級の墓所」には、真宗は「戒め」として特段に厳しかったのです。
その一つとして、先ずは「墓石種」を是非確認ください。
「家の伝統」が無いのに、「釋」等を刻印するのも疑問ですし、「墓石の刻印」や「墓石の数」(個人墓も無い)も同様で、「真宗」は止む無く武士には「祭祀の慣習」をより厳しく護らせました。
それで答えが出ます。
上記した慣習から記述されている事に付き、「お便り」に矛盾があって論じる事は難しいのですが、「夫の墓」と「妻の墓」が異なる事は、他氏には無い「青木氏の慣習」としてあり得ます。
(浄土真宗ではあり得ない慣習 矛盾)
一つは、「青木氏の慣習」として「女墓」です。
「本家」が行う慣習で、「累代の妻」の「戒名と俗名」が書き記された「別の横隣」等の処に設けられた「平面の墓石簿」の事です。
この慣習は、「嵯峨期詔勅の禁令」で「青木氏外」では使えない「浄土密教の慣習」で明治3年まで護られました。
二つは、「妻の出自」が、「家の出自」より高い場合に、「妻の出自の墓」を別に設け、何時しか、「妻側の姓」を嗣子の誰かに継承させる事を前提に、後に名乗った者に継承させる墓として用います。
特に一般的に、家柄の高い「妻の出自先」に「跡目断絶」等が起こった場合に、この「墓所」を設ける慣習がありました。
その為に宗派が違うと云う事が墓所に起こり得ます。
然し、この事で「天台宗」が「妻の出自先」であった事が判りますが、若干、「密教浄土宗の慣習」とにズレがありますが、これには「平安期の特令」があって、「皇族出自者」で「門跡者」や「斎王」に類する者が、「氏」を興した場合にはこれを認めるとしていて、この「門跡者」の殆どは「天台宗」に入信しましたので、「天台宗の女墓」があり得るのです。
この「女性」はいずれにしても、「皇族出自者」であった事に成り得ます。
この何れかの現象が起こった事を物語っています。
然し、突然に「女墓の慣習」は起こりません。
「女墓の戒名」とその「仏数」を観れば、これに相当するかは判別が付きます。
>『曽根旧庄屋青木家』の過去帳は立間・医王寺にあります。
>そしてこの『三間左三つ巴青木家』も現在、医王寺の檀家となっている、その事情も同じです
>『曽根旧庄屋青木家』とはやや距離を置き、宗派も一貫して浄土真宗であった『立間青木』とは一線を画して生きた一族であったようです。
先ず兎も角も、下記の事は何度も云う様ですが、[真宗」は「顕教」であるので、「寺」が同じであるから云って何の意味もありません。
「顕教の意味」が理解されていない様に思いますので、窮します。
又、合わせて「菩提寺」と「檀家寺」とは違いますよ。お家が云う「菩提寺」とは「檀家寺」の事ですよ。
根本的に運営形式が異なっています。
又、「過去帳」と「人別帳」とも異なっていますよ。お家が云うのは「人別帳」の事ですよ
「曾根と三間と立間の三つの青木家」は「何らかの血縁関係」を持ちながら、「独自の路」を歩んだ事は頷けます。
どちらが本家であったかは、その「伝統の継承如何」に関わり「財産の大小」は必ずしも一致しませんが、「独自の路」ともなれば、尚更の事に成ります。
宗派的には、「伝承」としては、「三間」(本家)と「立間」(分家)の「浄土真宗」が、ご本家筋一統、「曾根」の「天台宗」が、女系化した分家筋と、先ずは観るのが妥当と考えられます。
そして、「家の勢い」は曽根筋となるように観られます。
然し、ここで、仮に、「女墓」があったとすると、「曾根」が慣習的には「ご本家筋」と成りますので、真宗の「三間のご本家筋」は宗教的には本家筋であるので、矛盾が出ます。
更に、「土佐郡の土佐州浜の総本家」は何であるのかと云う疑問も出ます。
伊予側に移動定住した分家筋が、江戸期初期(最初の伊予の墓の年代の1670年頃まで)のあるところまでは知っていた筈で、「土佐郡の総本家筋」をさて置いて、「本家の動き」をするのかと云う疑問が起こります。
それだけに、「大きな末裔力」を伊予で作り上げたのでしょうか。
「三つの青木氏の宗派や墓所の内容」などが分かれている処を観ると、”「伊予本家」”を作る程では無かった事を物語っています。
何か疑問を感じます。
この内のどれか「一つの青木氏」が上記した様に違っている事に成りますね。
土佐郡の土佐村が紀州から讃岐に移動した「土佐州浜紋」の最初のお家の家筋、そこから国境に沿って伊予迄伸びた分家筋、その分家筋が江戸期に成って、三派に分かれ、上記の様な系譜を作ったと考えられます。
特に、「三間」「立間」「曾根」には血縁関係を持ちながらも「独自の路」を歩みその繋がりは薄らいだと観られ、その「三流」に「栄枯盛衰」が起こっていた。
そして、江戸期以降は、「土佐の土佐州浜の総本家」とは、「土佐」は土佐で{青木氏の断絶」が起こり、「家の伝承」はするものの「土佐姓]を名乗る事が起こるが、「青木氏の伝承」は護り通し、紀州からの「絵所領職」の「古来からの役目」を果たし、「独自の伝承」を遂げて、完全に伊予筋とは絶縁状態に成っていた。
と観られます。
今回のあるお便りから鑑みて、お家が伊予側に移動時には、そんなに距離が無い事から、未だ「土佐郡土佐村での慣習」が伝わっていたと考えられます。
しかし、”何で「土佐州浜紋」が伝わらなかったのか”と云う疑問が矢張り残りますね。
ここに、”「神助紋の左三つ巴紋」を使わなくてはならない何かが起こった”と考えるのが普通ではないでしょうか。
「錯誤忘却」としていた事も含めて「紋所の検証」が必要ですね。
今回の「推理のお便り」の「お父上のお便り」には、”「青木氏の慣習」に沿った検証が成されているのかな”と云う事が起こっています。
初代や二代目や三代や四代の墓石の普通の墓所が、現在も遺っていると云う事には疑問があります。
四国は、「宗派の総本山」ではありませんので、何か変ですよ。
本来であれば、「五輪の塔の累代の先祖墓」に移していると観られますし、特に、浄土真宗や天台宗や真言宗からの慣習から観ると、一寸変ですね。
ある一つの事が予測できますが、今回は確定は出来ませんので論調は避けます。
又、もう少し歴史観を用いて矛盾を解く調査をされた上で、疑問や不明点などが何かありましたらお便りください。