重ねて連投となりますが、新たなデータが入手出来ましたので、どうかご容赦下さい。
前回ご報告した『曽根青木庄屋』の他にもう一つ、愛媛県西南部鬼北地方にあったという『青木庄屋』の情報です。
このお家は前回の「曾根の讃岐秀郷流青木氏」庄屋から南東方向(地政学的に言えば『土佐側』)へ数キロほど離れた、ほぼ『隣村』と言ってよい土地に現在も暮らしておられます。
『鬼北町吉波』という地名です。
そのご子孫の方とコンタクトが取れ、わずかではありますが(理由はプライバシーにも関わりますのでご容赦下さい)、しかし決定的な証言を得ることが出来ました。
『家紋は武田菱』。
そう聞けばもう「武田氏系青木氏の土佐青木氏」の末裔と見て間違いなし、と考えます。土佐南西部に居住した勢力が、この地までその力を伸ばしていたわけです。
実は事前に、なんとなくそうではないかと思っておりましたが、やはりその通りでした。
副管理人様の分析をお借りしますと、『背後に「武田氏系青木氏の土佐青木氏」が控えている』とのことでしたが、まさに背後も背後、すぐ隣までその力が迫っていたわけです。
毎度のご慧眼、恐れ入ります。
以降、このお家を『吉波の武田氏系土佐青木氏』とお呼びしてよいと考えます。
ところで、当家が暮らしてきた場所は「曾根の讃岐秀郷流青木氏」から北西方向に数キロ離れております。(正確な数字は住所が特定できてしまいますのでご容赦下さい)
実はこれを地図上で見ますと『吉波の武田氏系土佐青木氏』の反対側、つまり当家と『吉波の武田氏系土佐青木氏』を結んだ線のちょうど真ん中に挟まれる格好で「曾根の讃岐秀郷流青木氏」が居住していたことになるのです。
再び副管理人様の分析をお借りして『「曾根の讃岐秀郷流青木氏」を見張っていた』としますならば、いささか出来過ぎなような気も致しますし、当時そんな正確な直線を引ける地図があったとも思えませんので、恐らく偶然とは思います(苦笑)
が、実際、そのような地理関係にあることは事実であります。
実は、更にロマンといいますか偶然の一致があります。
当家が最初に暮らしたとされる場所(現在の家のすぐ裏手になります)から、『青木姓』が刻まれた当家の旧墓地がある向かいの山を望む、その直線上に「曾根の讃岐秀郷流青木氏」と「吉波の武田氏系土佐青木氏」があるのです。
つまり我が家から先祖の墓の方向を見れば、すなわち二つの青木氏の居住地を遥かに望むことになるわけです(もちろん幾つもの山に阻まれて直接見ることはできませんが)。
地図でこれを発見して驚きましたが、偶然の一致にしても出来過ぎだろう、と苦笑した次第です。
ですが、もしやすると我が先祖は、日々の暮らしの中で当家の墓を望むたびに、その先にある『青木』の縁に思いをはせるべく、このような配置をしたのかもしれません。
いかにもロマンティックな想像で申し訳ありません。
ただ、亡くなった大叔父が遺したわずかな文書、それも廃棄寸前のところで確認された文章から、わずか数ヶ月で気づけばこんなところまで来てしまったことを思うと、『まるで何かに手を引かれたようだ』と思っても致し方ない、とご容赦下さい。
それにしても、以前もちらりと思ったことがあるのですが、この『四国西南部』という場所にこれほど多彩なルーツを持つ『青木氏』が居住していることは驚きです。
あるいは実際に、四国を統括していた「讃岐秀郷流青木氏」にとってこの地は、言葉は悪いですが『厄介払い』の地であった可能性もあるのでは、と思っております。
土地も海も豊かで、静かに暮らしていくのに不自由こそしない一方、「讃岐秀郷流青木氏」の本拠地からは余りに遠く、多少やんちゃをしでかしたところで影響は少ない。そこに当家や「吉波の武田氏系土佐青木氏」のような逃亡者、あるいは「曾根の讃岐秀郷流青木氏」のような身内のはみ出し者を配置する、『保護』という名の『飼い殺し』にする、そういう目的に適当な場所であったのではないでしょうか。
まだまだ素人の域を出ませんが、お教えのお陰で多少、四国・伊予西南部の構図が見えて来たような気が致します。
またご意見・ご批判ををいただければ幸いです。