青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.1062] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/22(Tue) 12:27:01

東京の青木さん 今日は。
お久しぶりです。

お家の「伊勢青木氏」の「柏紋のルーツ」と成る「深谷」に参詣されましたか。
それは良かったですね。

参詣された時に、何かを感じられたようですが、筆者も同じで、”感覚的”と云う言葉でしか人間は表現できないのはもどかしい気がしています。

然し、この感覚的と云うものを感じ取る事が出来る人と、出来ない人がいる様ですが、出来ない人から見ると、理解を得られないのは残念です。
一族であっても、”感じない”と云う人の方が多いのも又事実です。
実は、筆者も感じる方で、兄弟親族の中でも感じると云う者は居ません。
筆者の両親や兄弟が亡くなった時の葬儀の際の夜に、仏壇の処に行きました処、何か不思議な人の声がするし、その声が誰かと話しをしている声なのです。
その場所も特定できる部屋の処からでした。
この三回の葬儀共に聞こえたのです。この状況が一週間続きました。
一緒に居た者に今聞こえているが、聞こえるかと聞きましたが全く聞こえないと云う事でした。
そこで、その場所から外に出ましたが聞こえなく成り、再び入ると聞こえるのです。

恐らくは、生態学的に云うと、筆者の脳神経の感覚が人より敏で、親族が亡くなった事でより敏に成った右脳が働く事が起こっていて、その事で右脳からベータ波が出ていて、そのベータ波で第四次元との繋がりを持った事が論理づけられます。
それが一週間敏状態が続いた事だと思います。
話声にはその人の特徴ある声色も聞こえるのです。単なる話声では無いのです。
恐らくは、筆者が持っているその人の記憶データが引き出されて右脳が働いたのです。
普通は右脳から出るのはアルファ波ですが、人間には、原始脳と云うものが脳幹の近くに押し込まれています。
左右の脳が発達する前に類人猿に近い頃に使っていた「複眼機能」と連動して「原始脳」を人間は誰しも未だ持っているのです。額の中央にあった複眼機能も今は脳幹の近くに誰も未だ持っています。
このベータ波とこの原始脳とが繋がって、この様な現象を起こすのではないかと云われています。

”心頭滅却すれば火も又涼し”の時も、”座禅でも雑念を取り除いた無想無念時にもこの現象を起こさせる事だと云われています。
強ち、無根拠では無いのです。

この事は簡単な事で身近な事で起こっていますよ。
子供を産んだ母親は、見えない真後ろに居る赤子の様子が料理等をしながらも手に取る様に同時に認知する能力があります。
男性にはありません。
子供を産む事に依って母性本能が高まり、右脳が敏に成り、このベータ波を出して子供の右脳とやり取りをしている事で起こっています。この現象は子供が立ち上がる頃までで次第に低下して行きます。
長く続くと敏に成っている右脳は疲労してその能力が低下しますし、母体には大きな負担と成るのです。
これとほぼ良く似た事が起こるのです。

ただ男性の場合は、その人の性質にも依るので、女性ほどではありませんが、起こる人と起こらない人、感じる人と感じない人の差が出ます。
類人猿の前の頃には、この複眼機能と原始脳と小さい右脳を使って生きていたと考えられています。
未だ人間には少し遺っていると考えられていて、何時か消える可能性が有ります。
最近の女性には、この能力が低下している事が判っています。

論理的には、お家が感じたこの様な時に働く感覚は、この現象から来ている事が裏付けられています。
取り分け、その環境の自然さ、つまりは、その酸素量、オゾンの影響を右脳が刺激を受けていると云われています。
従って、ごみごみしたところではオゾン量の減少が起こり、浮遊物の障害でもベータ波が飛びにくく成り起こりにくいのです。

深谷が、「ご先祖の地」であると、その御霊の住む特定される”「自然」”に対して、お家の敏と成った右脳が反応していたと観られます。
問題は、右脳は常に「敏」ではありませんので、「敏]と成るかの問題ですね。
座禅してやっと敏に成り得る位の位置づけです。
場所や人や時の環境変化に依っても感じ方は違って来る事に成ります。
おっしゃる通り、何とも言えない表現しにくい感覚に捉われますよね。
お家が、深谷に居て、何故、敏に成ったかは、後ろの子供の様子が判る母親に似ている事に成ります。
「赤子の子供」が「深谷の自然」と云う事に成りますね。
自然から発する何か(ご先祖の御霊)を受け取ったのでしょう。

昔は「深谷の水」は「霊水」として崇められていましたのに残念ですね。
自然が乱れると、オゾン量が低下して右脳を働かせなくなりますね。
都会の様に、感じ取る事が低下して仕舞います。

「心の豊かさ」を示すものとして、誰にでも持ちあわせていないものですので大事にされます様に。

さて、ご質問ですが、
昔の慣習として、「左三つ巴紋」は、本来は、神社仏閣の格の格式に依って、朝廷より掲げる事を許された「象徴紋」の「式紋」でした。
最も高い格式の「式紋」は、「五三の桐紋」で、「天皇家の祭祀」の「式殿」に用いられているものです。

依って、この文様は「家紋」ではありませんで、格式を示す「式紋様」と云うもので、「象徴紋」の一種です。
「家紋」は、室町期中期以降に「姓族」に依って使われる様に成ったもので、それまでは数少ない「氏族の象徴紋」としての位置づけでした。

家紋化したのは、室町中期以降に「姓族」(海部氏が最初)が発祥して、この数多い「姓族」が使用する様に成って起こった事です。
我々青木氏は数少ない「氏族」(40程度 最大時は200 現在では20)で、その「氏族の最高位の氏族」、即ち、「侍の発祥源」です。

ところが、明治期に入ってこの「仕来り」とその拘束力の「縛り」が低下して、格式に関わらず、「左三つ巴紋」や、「五三の桐紋」の式紋類は何の関係ない者にも使われています。
中には室町期中期から発祥した「姓族」は、江戸初期にはこれを「家紋」とする者まで現れました。
況してや、禁令(「嵯峨期の青木氏の詔勅」と共に出された「青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」)であるのに、「右紋」などの類似紋まで数多く使う様に成ったのです。

江戸中期以降は、村の「神社祭り」の際に祭祀紋(式紋)として用いる等の事が起こり、この事が各地に広がり、遂には「祠の神紋」とするまでに広がって仕舞いました。
中には、江戸期には「格式紋」に発展していたので、その神社の「神職の家紋」にして仕舞うと云う事に成ったのです。
この事は、「左三つ巴紋」は、古来は、「神社の式紋」であったと云う事を庶民も知って居た事を物語ります。
挙句の果てには、この「禁令文様」は、一般化して「91文様」にまでに広がって仕舞いました。

この式紋の「左三つ巴紋」の由来は、その説には多くあり、殆どは、室町期後期から江戸初期からの「家紋」としての論説であって、「式紋」「象徴紋」「格式紋]としての説としてのものはありません。
筆者は、「青木氏の神明社等の資料」より ”「三種の神器」の「勾玉」”を表すものとして、尊れて用いられたものと考えています。
その起源は、「象徴紋」は、平安初期に用いられていますが、「式紋様」としては神器に相当する文様として奈良期からのものであったと観られます。
室町期中期頃までは少なくとも一般には使われていませんでした。

依って、「647年頃からの氏族」の「慣習」の中では、「青木氏」の「柏紋」と共に「式役」としてこの「二つの文様」を用いていた事からと共に使われていました。
その事から、「柏紋」は「神職紋」に、「三つ巴紋」は「式紋」にと変化したのです。
これが、平安初期からの「象徴紋」や、鎌倉期には「格式紋」として変化して行き、遂には、江戸初期には「家紋」として無断で使用される始末と成りました。

この「左三つ巴紋」は、「自然神」の考え方を引き継ぎ、この「自然神」を「教義の基礎」としている「皇祖神(天皇家の守護神)、その子神と成る「祖先神」(青木氏の守護神)がその「教義」を引き継いでいます。
この「三つから成る勾玉」は、次ぎの「祖先神の教義」(青木氏に伝わる教義)から成り立っています。

「勾玉」は、先ずは、”「人の原型」”と云う定義に基づいています。
「勾玉」から成る「人の体」は、次ぎの三つに依って構成されています。資料解析が実に難解で要約すると次ぎの様に成ります。

一つは「和」: 人は「和」を「支」として成り立ち、この「和」は「心」に依って「支」を築かれます。
二つは「理」: 人は「理」を「技」として成り立ち、この「理」は「技」に依って「糧」を創出します。
三つは「教」: 人は「教」を「経」として成り立ち、この「教」は「経」に依って「験」を蓄積します。

この「三つの輪廻」に依って「人の体」は構築されます。
この「三つの輪廻」は自然(左巻)に沿って起こります。
現在で云う、仏説の「心技体」の原型と成ったものと考えられます。

この「神明社の式紋の教義」は「青木氏家訓10訓」にもこの「教義」が色濃く反映しています。

取り分け、「教」とあることが、他神の教義と異なるところで、「教」は「経」(道)を教え悟り、その「道」は「理の経験」(正しい筋道や道理から得た経験)から生まれ、「理の経験」は[和」に依って築かれると云う教義です。
この「和」に依って「理」が生まれ、この「理」は「教」を作り出し、「教」は「和」を生み出すと云う「神義」なのです。
つまり、この「三つ」は「回転」をしている事ですから、即ち、「自然の輪廻」で起こっていると云う教義です。
この「自然神の教義」を「文様」にまとめて教えているものが、この「左三つ巴紋」の文様です。

「左三つ勾玉文様」が「本来の呼称文様」で、「格式紋」に成った頃から「左三つ巴文様」と成った様です。
「自然神−皇祖神−神明社」の「教義文様」として、当初は「神明社の式辞」には「式紋」(教義紋様)として、”「神明社を守護神とする青木氏」”に依って、この「式辞」を取り仕切る役目柄から用いられていたものなのです。
この伝統を引き継いだのが、「柏文様」を「象徴紋」とした「神職の専門職」と成った「青木氏」なのです。
その「柏紋様の総紋」は「笹竜胆紋」が象徴紋です。
「柏紋」は「専門職としての立場」での「役柄の場合」に用いた「文様」なのです。

この「柏紋」は、奈良期では、「柏の木」は「青木の木」と共に「神木」として用いられていましたので、「神職の文様」と定められたのです。
この「柏の木」は、その大葉は、当時(飛鳥期)は「民の食器」として用いられていたもので、”式辞に神に捧げる供え物”の「敷物」として用いられていました。

従って、「青木氏」の「奈良期からの古い仕来り」として、「左三つ勾玉文様」=「柏紋」=「笹竜胆文様」の関係にあったのてす。
そして、この立場にあった「青木氏」に執っては、「式紋−象徴紋−格式文様」として位置づけられていました。

これが、「青木氏の密教」として引き継いで来た「古代仏教−古代密教」の「密教の仏説教義」として「心技体」の仏説に詳しく論説して変革したのです。
この「古代密教」は、「古代密教浄土宗−密教浄土宗−浄土宗」と変化しても、この教義が引き継がれて来たのです。

「巴紋」には、多説あり、武具説 水渦説 鬼瓦説はその形から巴の字が似ているということから、「巴紋」と云われる様に成ったのです。
これはあくまでも室町期末期頃からの「家紋]と云う前提からの説です。
この「青木氏が使っていた式紋」の存在を知っていた「公家の西園寺氏」が、氏が名義している「四国の荘園」を自分の領地として奪取して「公家豪族」と成りましたが、この時に「家紋」として用いたのが最初です。
この室町期末期の「西園寺氏」は、50年程度で戦乱で滅亡しますが、これ以後、「西園寺氏」に肖って他の豪族が「家紋」として使い始めたのです。
「青木氏族」だけにしか使用を認められていなかったこの「禁令紋の式紋」をこの時から豪族に使われる様に成ったのです。

「天皇家の式紋」も「五三の桐紋」も秀吉が勝手に天皇家の許可を得ずに、「太閤」と云う「朝廷官位」を背景に、勲功のあった者にこの「天皇家式紋」も与える始末と成り、遂には「五七の桐紋」まで作り大名に与え、大名が家臣や農民に与える権限まで広がって行きました。
遂には、巴紋と同じ様に、162文様にも広がりました。

江戸初期の家紋の持たない武士が、明治期には家紋苗字の持たない庶民が、「式紋の権威」に似せて使う様に成ったのです。

江戸幕府は、「権威」を保つ為に、この全ての「式紋」と「象徴紋」と「格式紋」と「高位の家紋」に関わる文様に対し、使用と類似紋の使用を禁止しました。
徳川氏一族のある姫が嫁ぎ先で勝手に「葵紋」を使った事で厳しく罰せられる事件まで起こりました。
当初は其れだけ厳しかったのですが、ところが、江戸初期は庶民から武士と成った者が多く成った事で、社会に権威が無く成ったのです。
その事から、幕府は何とか「権威付け」の為に「家譜」を搾取でも良いから強引に作る事を命じました。
進まなかった為に、挙句は、「黒印状」を発行する事を条件で、命じました。
幕府の「黒印状」が得られなければ大名としての立場を認められませんから、強引に搾取して「偽家譜」を作りました。
同じく家臣もこの命に従い家禄を獲得する為に[偽家譜]を作って藩主より「黒印状」を獲得したのです。

この為に、「偽家譜搾取」の社会が起こり、、その結果、禁令にも関わらず勝手に、「偽搾取家譜」に沿った「名家の家紋や式紋象徴紋格式紋等の使用の流れ」が逆に起こって仕舞ったのです。
この為に「禁令紋や類似家紋等の作成使用等の幕府禁令」は有名無実と成り、庶民まで使う様に成りました。
唯、室町期末期以前は、「左三つ巴紋」は、秀郷一門の「青木氏族五氏」(下記)に繋がる豪族が、「式紋」「象徴紋」「格式紋」「副紋」として厳格に使っていましたので、他氏が使えなかったと云う事が在りました。
しかし、明治期にはこの「縛り」は全く無く成り、庶民まで勝手に使う事が起こったのです。

そこで、青木氏の管轄下にあった「深谷の神明社」が、これを「正当な形で式紋」として使っているとすれば、お家の「柏紋の神職」は、その「社の格式」からも、「お家の格式」を歴史的に証明するものと成ります。
そんな中でも、奈良期からの「正当な式紋、象徴紋、格式紋」として用いていたと観られます。
むしろ、大きなお家に関する発見と見做されます。

既に、お家が「伊勢青木氏」に繋がる「由緒ある柏紋」(柏紋=巴紋)で一致である事から、江戸期と明治期のものでは無い事を証明している訳ですから、偽紋や類似紋などの多い中でも「柏紋」が、「正当な式紋の巴紋」を証明しているのです。
むしろ珍しい事に成ります。

お家の近く武蔵国や下野国には、この「左三つ巴紋」の朝廷より正式に使用を許されたもう一つの「秀郷流青木氏」が在ります。
取り分け、一門の中でも「関東屋形」と呼ばれる大豪族と成った「青木氏族」の「結城氏」、「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」、「赤松氏」の五氏も、その氏が抱える神社仏閣には、「式紋」として使用を朝廷より特別に許されています。
その中でも宗家筋に当たる1000年以上の悠久の歴史を持つ「結城氏」は、この文様を盛んに使用していました。

「結城氏」は、一時、「京平家の貞盛」らに抑えられて衰退していましたが、平家滅亡で再び[結城氏」を再興する事を鎌倉幕府から許されて、朝廷も追随して、名籍を遺す為に、「青木氏の柏紋族」と同じくこの「左巴文様の使用」を許されたのです。
この「結城氏」から出た一族の者の4氏も「式紋」として、「格式紋」として「象徴紋」として使う事が許されたのです。
室町期には、これをこの「四氏の副紋」としても使う様にも成りました。

お家の「柏紋族」等の「皇族賜姓族青木氏」の補完族の母方族「秀郷流青木氏族」としての主要族である「永嶋氏」、「長沼氏」、「進藤氏」、「長谷川氏」も使う事が許されています。

その意味で、「深谷の三つ巴紋」の発見は、「柏紋」に対して「古来の慣習の根拠」に成ります。
つまり、「柏紋と巴紋」は、古来より共に「神職式次第」の「対の関係」にあったのです。
「巴紋」と来れば「柏紋」、「柏紋」と来れば「巴紋]と云う風に,「対の関係」を室町中期頃までは長く維持して来たのです。
「皇族賜姓族青木氏」の「深谷神明社」は、「最古の所縁」の証拠ですが、それを歴史的に更にこの「巴紋使用の発見」でより確実にしました。
「柏紋のお家と深谷神明社」は、「二つの全青木氏」に執って「歴史的存在の意義」を持っています。

これも「何かの御霊の導き」の発見と観られます。
何かを感じる時にこそ、この様な発見が起こるのです。
これはまさしく「導き」に外なりません。
この格式高い「二つの式紋」は、その「神社仏閣の式殿」の「格式」を象徴する「象徴紋」として利用されていたのです。


是非に、この「歴史的価値」を「お家の口伝」にして頂けるとありがたいと思います。

又、何かありましたらお便りをください。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー