青木ルーツ掲示板
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  [No.1113] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/06(Mon) 17:23:17

さて、お判りになられたとの事で良かったです。

生物学的に、人には、ある時期を以って、遺伝子の部分までの自らの人の起源を知ろうとする本能があって、それが若い勢いでその本能が抑えられています。
ところがその若さのエネルギーが衰えると、この本能が強く成る仕組みに成っているのです。

例えば、性の欲は、男性は、本来は、生まれた元の処に戻ろうとする本能が変化して欲として出るのです。女性は、この逆に成ります。
元より性欲と云うものは人間には無いのです。
それは、男女の元は女性であったからです。
男には、4つのその証拠と成るものが遺っています。
その二つは、「へそ」と「乳」です。
全く機能していません。
あと二つは公で説明できませんが、人間は女性の体を4回に渡って変化させています。
その原型がミミズやカタツムリで、常態は女性で、子孫を増やす時は体の一部を男性に変えて子孫を増やすのです。

これは元に戻そうとする生物の遺伝的な本能の原理です。
「伝統」を知ろうとする気持ちが強くなるのはこの事から来ています。
弱い人もいますがね。
「原始脳」と云う部分がその様にさせています。

さて、質問です。

>坂上田村麻呂にまつわる伝説
>将軍が蝦夷征伐の際に、身馴川十丈淵に住む大蛇が、付近住民に危害を加え、生活を脅かしていることを聞いた。
>・・・近くの山で軍議を凝らした上、赤城大明神に祈願して神力をお借りするなど、苦心して末ら退治をした。
>大蛇の祟りを静めるため、大蛇の尻尾を諏訪山に埋めてお寺を建てた。
>それが安光寺と言われている。

>武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記に記載されている。

利害性を含んだ「伝説」なので偽飾、脚色、詐称、偏纂があり信じ難い事もありますが、史実から観た事を延べます。

そもそも、「坂之上田村麿の伝説」(806年まで)は各地に多く在りますが、埼玉の美里町の身馴川公園のある処ですね。

利根川の支流ですが、平安期初期にこの一帯には、まだ朝廷に逆らう賊が多く全国を制圧する事の任務を負った田村麿は、北に向かって23年を掛けて制圧して行きますが、この時、武州と接するこの一帯に勢力を持っていた「武蔵七党の祖」を制圧した時の事を「勧善懲悪」で描いたのがこの説です。

この説には、実は「時代考証」が崩れているのです。

「諏訪山」とありますが、此処に信濃の諏訪族が定住して諏訪山と名づけられたのは、室町期の中期の事です。

坂上田村麿の阿多倍族と諏訪は奈良期の頃は縁籍関係にあったのです。
供に、610年頃に後漢から来た渡来人で、坂上はその父の阿多倍王の長男です。
諏訪族は君主の家臣でもあり縁籍族でした。

諏訪の一族はその縁籍の渡来人で馬を飼育する族で朝廷より信濃に配置された族です。
信濃諏訪族が室町期に武田氏に追われ逃げ込んだのが元に成っています。

「青木氏の歴史書」にも「諏訪族青木氏」が神奈川に一時定住し、その後、この諏訪の一部がこの地に定住した事のこの時のことが載っています。
(サイトにも詳しく記載)
これは、江戸初期の大ブームと成った「寺社の由来や系譜の詐称偏纂」の結果です。


>5社の明神と4仏の薬師

>延暦の昔、坂上田村麻呂将軍がら上州赤城明神の本地仏薬師如来に祈誓して、見馴川十丈淵の大蛇退治をした後、古郡、阿奈那志ら北十条、沼上ら小茂田の五か村に明神を勧請し、同時に古郡ら阿那志ら北十条、沼上の四ヶ所に薬師を安置したお伝承されている。

>なお、この5社の明神は何も赤城の方面、北向きに建てられている。いづれも赤城の方面、つまり北向きに建てられているので北向明神と称してる。

>歴史の時系列からいうと、もともと神社が建てらています。
>ここで浮かぶ疑問は
>神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。
>北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か
>時代背景として、後から神明社が合併されたということになるのか。

>他にもヒントになりそうなことがありましたので明日またお送りします

先ず、一つは「明神」と「神明」とは祭祀の源が違います。

よく間違われる事ではありますが、「神明社」は、本論の通りで、「皇祖神の子神」で、「祖先神」です。

「明神社」は、奈良期の前のその昔、「卑弥呼の時代」の少し後の「大阪の淀川域の湿地帯処に発祥した「庶民が信じる神」(道教や道祖神の元祖)として信じられていた「庶民の神」で、その形として奈良期には「稲荷大明神」として拡大し、全国に広がりました。
「伏見の稲荷大明神」が其のもとに成ります。

これを受けて「伊勢神宮」の「外宮の豊受大神宮」の基に成ったのが、伏見にあるこの「稲荷大明神社」です。
この「庶民の神」で「農業の神」の「豊宇気毘売姫神」が「外宮の豊受大神宮」として迎え入れて天武期に庶民も信仰する「伊勢神宮」としたのです。

従って、前回にもお答えした様に、全国に「農業の米造り」を最初に広めた「稲荷の神」(米の神)の「豊受の神」(豊かにした神)は「大国主」であるのです。

「稲荷の神」の「明神さん」は、全国に「農民の神」(豊受の神)として発達したのです。

これを後に、「伊勢神宮」は、「外宮」として「庶民の神」を「豊受の神」として招いたのです。

>神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。

この質問は、奈良期よりあった下記の「神仏の方位の掟」(自然神)に従っているのです。

>北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か

これは、下記にも書きました様に、江戸期初期には寺社は取り分け浄土宗徒と神明社系は元は密教であって信徒が少ない事から、其の経営管理維持が困難と成りました。
然し、この時に信徒を出来るだけ多く求める為にも、又、特定性が強く「浄土宗」では成り行かぬ為にも真言宗などに「宗派変え」をした事から起こった事から来ています。

この時節は、享保期前まで歴史にもある様に庶民の生活も侭ならない状況で寺社は荒廃したのです。
この時、そもそも「幕府の御蔵金」はたった「113両」しか無く成っていた事が記録にもある位でした。

>昨日お送りしました「美里町史」で他にきになった点を挙げさせて頂きます。

>・北向神社(勝輪寺持ち)と記載されている。

>寺が神社を持つとはどういう意味なのかが解りませんでした。

>「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り

>上記を指しているのでしょうか。


さて、お答えはその通りです。

このご質問がお家のルーツの凄さを証明する事に成るのです。

実は、「法然の密教浄土宗」の前は、「古代密教浄土仏教」で、現在とは少し違っていました。
「仏教伝来」に依って、その「仏教」を広め帰依したのは、「青木氏等」の「朝臣族」や「宿禰族」等の「八色の姓制」に基づく「上位の氏族」でした。

「仏教伝来」の前は、大和は、「自然神」に基づく「神道」で信仰されていて、この環境の中で、同じ「氏族」が「仏教」も取り入れる事は、その教義に「矛盾」が生まれます。
そこで、この一族らが独自に「神道と仏教」とを調和させる努力を試みたのです。
それが、その「氏族」にしか適用されない教義から「密教」と云う結果で現れたのです。
当然に、この「密教」はそれぞれの「氏族の調和の仕方」で変わります。
故に、「氏独自の考え方」に基づく「教義」を確立させたのが「密教」なのです。

そして、「神と仏を融合させた教義」が、”「神仏同源」”という言葉で表されたのです。
その「神仏同源の考え方」を担ったのが、「朝廷の神紋」の「柏紋」と云う由緒ある「柏紋の青木氏」なのです。
これを広めたのが、「祖先神の神明社」であり、「柏紋」を引き継ぐ「青木氏の御師」であったのです。
つまり、お家のご先祖です。
従って、「法然の浄土宗」とは「密教」でありながらも、「青木氏の密教」は「神道が同源する密教」であったのです。
お家のご先祖の様に、「柏紋の神職」と「柏紋の住職」があるのはこの事から来ています。
(その元は伊勢青木氏信濃青木氏から配置されたご先祖で、筆者等の先祖と一致します。)


つまり、「神仏」に拘らない当に「皇祖神」が教義とする”「自然神」”なのです。
「自然の神」とは、「神」と「仏」が融合している「自然の状態」を指すのです。
これが「日本の宗教の基」に成っているのです。

故に、古社(古寺)には「神道、墓所、菩提寺」が存在するのです。

これを最後まで遺したのが、その「神仏融合」を意味する「密教の考え方」を布教する「祖先神の神明社」で最後は「青木氏」だけであったのです。
だから、朝廷は、全国に由緒ある「朝廷の神紋」である「柏紋」を与えた「青木氏」を配置して「500以上の神明社」を「青木氏」に建立させたのです。

これが、「賜姓五役」と云われる務めであったのです。
その最も古い「神明社]の一つとも云われるのが、「武蔵の神明社4社」であって、その「役務」を務めたのが「お家のご先祖」と云う事に成るのです。
(故に、青木氏族の柳沢吉保もこれを護ろうとしたのです。)

「北向」とは、江戸幕府の顕教令が出た後の時代に付けられた名称だと考えられます。
元は、「神明社の分社」を意味する社名であったと考えられ、江戸初期の「顕教令」で、「北向」(神仏が存在する方位)に特別に向いている事からの俗称が「北向神社」と成ったのです。

普通は「神仏同源」で「祖先神」でなくては向けられなかった「古式の決まり」があったので、その社も寺も正門を南側に向けられて建立されます。
人は、神と仏の坐す方位(北)に向いて拝する姿勢を採ります。

ところが、「神仏同源」としない「社や寺(顕教)」は、社は「護り本尊(山とか川)」を背にして建立されます。
寺は、「護り本尊」に向かって建立されます。
従って、「護り本尊」は千差万別の方向に依って決まりますので方位は南北東西決まりません。

この「北向き」は、「神明社」と「・・寺」(匿名)を除き「嵯峨期の詔勅の禁令」で、朝廷より「禁止された方位」であったのです。
ただ、「青木氏の神明社」だけは「皇祖神の子神」である事から認められていたのです。

つまり、「北向き」は「神仏同源」を示し、「古い」という事に成ります。
この言葉で、「神明社」である事が既に判るのです。

周囲の「顕教の社寺」と異なる事から、「北向きの神社」と云えばわかる事に成り「俗称」が「本名」に成ったという事だと思います。(江戸初期に)

昭和20年頃までは、この風習が庶民の中でもあって、家を建てる時は、不浄な場所やものは「北向き」にしないという風習があったのです。


>江戸時代前期の欄に以下記載がありました。

・勝輪寺 小茂田村、新義真言、児玉郡、本庄領、若泉庄、京都仁和寺の末寺

>ここにも疑問を持ちます。
>現在WEBサイトを見ると、真言宗豊山派:本尊 大日如来と記載されています。

>wikiで仁和寺を調べると真言宗御室派:本尊 阿弥陀如来と記載されております。

>同様に真言宗御室派を調べると、古義真言宗と記載されています。
>本では新義真言宗と書かれていますので矛盾しています。

>また阿弥陀如来を同様に調べると、信仰は浄土宗・浄土真宗と書かれています。
>ここも何故真言宗御室宗が入っていないのでしょうか。

>新義真言宗を調べると、豊山派の紹介がされています。

>ぐるぐるとまわってしまいますが、
>これはあまりヒントにはならないでしょうか。

>本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。

実は、此処には知って置かねばならない「ある一つの歴史観」があるのです。

上記の記述は正しいのです。

「法然の密教浄土宗」に対して「空海の真言密教」は違っているのです。
同時に、「最澄の天台宗の密教」も、両者の密教とは異なっているのです。

これが、平安期に起こった有名な「三者の密教論争」です。
「密教」とは何なのかです。

「密教性」を強固に主張したのが「法然の浄土宗」 ><「密教性」を柔軟に主張したのが「空海の真言宗」
この中間を行くのが、「最澄の天台宗」でした。

つまり、「神仏同源」を基の影響を受けている「法然の浄土密教」は如何なる場合も元は「自然神」にあり、全て「密教」でなくてはならないと主張。「基本派」です。
従って、「帰依する信徒」は「氏族」が限定されます。

ところが、然し、「空海」は、この影響を受けていませんので、「密教性」は自由であるべきだとする教義で、「帰依する信徒」は、「氏族」を除く「姓族の武士」と「一般の民」と成りました。
基本は「顕教」です。

ところが「最澄」は、「密教]である事は基本とするも、時には、「顕教」でも良いとする教義を説きました。
従って、「集団を形成しない貴族などの密教族」や、逆に、「密教性を持たない集団」を形成する忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)等の「官僚族や武力集団」が帰依する宗派と成りました。
つまり「密教族」と「顕教族」が混在する。

さて、そこで、「密教族」は、「大日如来」を守護神とする教義で、「大日如来」が「神仏の教え」を伝え、直接、この世に降りて伝え導く教義です。

ところが、「顕教族」は、「阿弥陀仏」を守護神として、その教えを間接的に「釈迦」が伝え導く教義です。

従って、真言宗は、「大日如来」を帰依する族と、「阿弥陀仏」を帰依する族が出て来るのです。
場合によっては天台宗にも出て来ることに成ります。

処で、この「浄土宗寺」は、江戸初期に「顕教令」により「顕教」に成りましたので信徒を失う事に成り、荒廃します。
そこで、「浄土宗寺」の多くは、江戸初期には「神仏同源」を止め、「真言宗」に宗派して維持しようとしました。

念の為に、「神仏同源」と明治期に起こる「神仏習合」とは異なります。

これがお家の疑問と成っている現象です。

>ぐるぐるとまわってしまいますが、
>これはあまりヒントにはならないでしょうか。

>本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。

ご遠慮なくお尋ねください。



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