こんばんは。
前回頂いた返事で自分の祖先の行って来た役目をはっきりと理解できました。
本当にありがとうございました。
今、このタイミングで知ろうとしていたのが何故か。最近はそればかり考えています。
意味があるのではないかと思っています。
仕事柄最近では全国を回る機会があるのですが、去年から日本の大きな変化を感じています。
すごい波が来ており、新たな時代が来ている感覚を肌で感じています。
IT関係の仕事ですが、最近ではAIなども仕事で関わることもあり、その新たな、自由な、物理的な面を超越した文化に乗っていく経営者などと接していると、波を感じずにはいられません。
ちょうどこの掲示板に投稿させて頂きましたあたりから、その変化に気づき、その波に体を押されている感覚を覚えます。
このような時代生まれ、この様な祖先を知る機会を得て、この先自分の使命や役目が、今回知った神明社を広める役目ということと何かしらシンクロしていく様な気がしてます。
かなり抽象的な話で失礼いたしました。
さて、
名古屋に出張した際に、商談先の隣の古本屋にちらっと立ち寄ったのですが、
美里町史という1300ページにわたる本に出会いました。
不思議な運命です。まさか名古屋に埼玉の美里町の歴史のヒントがあるなんて。
まだまだ読めていませんが、いくつか気になるところを抜粋します。
坂上田村麻呂にまつわる伝説
将軍が蝦夷征伐の際に、身馴川十丈淵に住む大蛇が、付近住民に危害を加え、生活を脅かしていることを聞いた。
・・・近くの山で軍議を凝らした上、赤城大明神に祈願して神力をお借りするなど、苦心して末ら退治をした。
大蛇の祟りを静めるため、大蛇の尻尾を諏訪山に埋めてお寺を建てた。
それが安光寺と言われている。
武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記に記載されている。
・・・
5社の明神と4仏の薬師
延暦の昔、坂上田村麻呂将軍がら上州赤城明神の本地仏薬師如来に祈誓して、見馴川十丈淵の大蛇退治をした後、古郡、阿奈那志ら北十条、沼上ら小茂田の五か村に明神を勧請し、同時に古郡ら阿那志ら北十条、沼上の四ヶ所に薬師を安置したお伝承されている。
なお、この5社の明神は何も赤城の方面、北向きに建てられている。いづれも赤城の方面、つまり北向きに建てられているので北向明神と称してる。
歴史の時系列からいうと、もともと神社が建てらています。
ここで浮かぶ疑問は
神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。
北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か
時代背景として、後から神明社が合併されたということになるのか。
他にもヒントになりそうなことがありましたので明日またお送りします