青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.291] Re: 伊勢青木家 家訓9
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/22(Fri) 11:37:20

>家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
>家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
>家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
>家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
>家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
>家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
>家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
>家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
>家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」

「家訓9」は「煩悩」である。「和武の戒め」
「家訓8」までは人間の外に出て来る性(さが)であった。然し、この「家訓9」は人間の内に秘める「性」で何とも難しいものであろう。
なかなか理解に苦しむ家訓である。仏教で云う「煩悩」を説くのであれば何も家訓にしなくても仏教の教えを説く文献を見れば済む事でもある。
それをわざわざ家訓にするのは変である。何かの意味を持っているからこの「煩悩」と云う難しいものを家訓にしたのであろう事が判る。
果たして「煩悩」を家訓としているのだろうか。率直に疑問を持つ。
それをこの家訓書から読み採る事が必要であり、家訓書に添えられた短い添書から一時一句逃さずその字句の持つ本質と云うか語源と云うかを理解して本来の先祖が言いたかった事を読み取らねば成らない。
それには、その家訓とした時代背景や過去の社会環境や青木家の慣習や仕来りや掟を充分に知り理解を進めねば成らない事に成る。一朝一夕では成し得ない事を匂わしている。
実は、この「家訓9」には若い頃は、時代背景や過去の社会環境や青木家(氏)の仕来りは充分に知り得ていなかった為に、”何を大げさな、意味の無い事を”と思っていた。
然し、青木氏の慣習や仕来りや掟等の雑学や、自分の人生経験を重ねる内に何となく判る気がして来た。それでも、”変だな”云う感覚が頭の何処かにあった。
当然に、筆者の性格上から「仏教」と云うものを勉強し始めた。何も入信した訳ではない。入信したからと云って「仏教」が判る訳では無い筈である。
兎も角も、”「仏教の教典」がこの様に説いているからこの様に理解しろ”で終わる事に成るのが普通である。それは筆者には絶えられない疑問なのである。
技術屋の性癖から ”この様な背景や、この様な人間の性が、この様に脳では働くから、この様に人間は行動するから、人はこの「仏説」を信じろ” で有れば納得する。
それはその仏説が完璧では無くても良く、何らかの「筋道」かその論理的な傾向程度が示されれば、一応は納得するのだが、多くはこれが無い。(従って、人の書いた文献のものでは無く、字句の意味や語源や仏教の持つ意味などの雑学からこれを紐説いた。)
其処で、自分で「論理的な追求と勉強」をする意外に無く、「勉強」と云う事では無く「解析」に近い方法で自分を納得させる。例えば、其処で、その苦労の一端をご披露する。

先ず、「人の生きる道」を説いている教典の「般若心経」に焦点を当てた。その教典の漢字の言語が持つ普通の意味では無く「中味の意味する処」を知ろうとした。漢字の語源等から探求した。
例えば、「色即是空」「空即是色」である。この仏説の漢字の意味だと”何が何だか判らない”事に成る。
其処でこの漢字を解析する事で理解が深まる。以外に論理的であった。
そこで、但し、自分の仏説ではあるが、これを解いた。
そもそも、「色」はこの世の「全て物」には「色」がある。「色」とは物理的には筆者の専門であるので論理性が判る。其処から導き出すと、従って、”「色」とは太陽から生み出されたこの万物(「世の物」)”と云う事で理解が出来る。つまり、「現世の物」、突き進んで「現世」となるだろう。
「即是」には助動詞であるので解析は不要で、次ぎの問題は「空」と云う事に成る。
其処で「色」と同じく漢字の解析に入ると、「空」は”空っぽ 無い”のであるから、「色」からすると反意語で「色」の集積は「黒」を意味する。
”黒は暗闇、暗闇の中には何も無い。”とすると、「黒」が「無い」とすると「暗闇」と成り、「色」のある「現世」に対して「空」は「彼世」と成る。
そもそも、「空」は「黒」で「彼世」とすると、「黒」は論理的には全ての「色」を混ぜ合わした時に起る「色」である。
然し、この世には太陽光の波長光が物に当ると発色する「物の色−1」(BGR)に対して、物に当らないで波長光として残る「光の色−2」(YMC)もある。
彼世から来た「3つの光」は現世の物に当って、「3つの色」と成って発する。これを「補色関係」と云う。
そして、この結果、この世の中は、「物の色−1」(BGR−黒)と「光の色−2」(YMC−白)とで構成されている。
この「補色の関係」にある「色」を構成する「光」に対して補色の全ての光の交わった色は「白」と成る。
(B:青 G:緑 R:赤→ 黒) (Y:イエロー M:マゼンタ C:シアン→ 白) 
とすると、「色」の「現世」は「白」、「空」の「彼世」は「黒」を基としている事に成るから、この世は「全ての物」が存在する「世」である事に成る。
この二つの解析から「色」は「現世」で「白」、「空」は「彼世」で「黒」とすると、「黒」も持つ意味は”何も無い”を意味し、「白」も汚れの無い”何も無い”を意味している事に成る。
”何も無い”では「色」も「空」も同じと云う理屈に成る。つまり、「現世」も「彼世」も同じと云う事に成る。
「色」も「空」も”何も無い”と成り、論理的には”その「本質」が異なる事だけ”に成る。
さて、此処までは解析が出来た。此処からが問題だ。
どちらも、”何も無い”なのだから、「色」=「空」と成り「即是」(=)の言葉で繋がる。
だから、同じ名のだから、”「色」は、即ち、これ「空」成り 「空」は、即ち、これ「色」成り”と訳される。
「現世」に於いて「彼世」とは「白」と「黒」の ”何も無い” の「本質の違い」だけで繋がる事に成る。
この違いは、ただ単に「補色の関係」のみだけだから、「現世」での「本質の違い」に因って起る事柄には、”何も無い”であるのだから、「この世 あの世」ともに同じである。
依って、同じなのだから、同じものを比較して ”事を事更に拘るな” と云う意味を持つ事に成る。 
”「色」がある、「色」が無い 「空」だ、「空」で無い等と、事を事更に言い張って「拘る事」に意味はないのだ。そもそも「拘る事」に問題があるのだ”としている事に成る。
俗に云えば、”「煩悩」を、「煩悩」として起る「諸行の喜怒哀楽」に、事を事更に拘るな” と云うと云っている事に成る。

そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事に成る。つまりは、「拘る」=「我 執」である。
つまり、”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
と成れば、そうすると、「現世の本質」とは”何なのか”も解析出来る。
それは「現世」(この世)では「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成るだろう。
「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
突き詰めれば、「人」がこの「現世」から「彼世」に移る時に、「現世」に遺されたものはその個人としては「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、肉体は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」は ”何も無く成る”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[「色と空」、「白と黒」の摂理]”により無くした事に成る。
現世から彼世の「移動」は「断絶」では無く「継続」であるとして「即是」と繋いだ事に成る。
故に、「仏教・仏説」では、助動詞の ”即是”の言語を使ったのであろう。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世−彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いたのであろう。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれるのだから、要は何も変わっていないのだ。
だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、子供が生まれた時の喜びに対して比べものに成らない様な異質な喜び、嬉しさ、安堵感に似たものが込み上げて来るが、この”子孫分身を遺した”とする本能的な「動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事にあり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
故に、この「本能に組み込まれた達成感」が孫を見て噴出すのである。異質な喜び、嬉しさ、安堵感と成って込み上げて来るのである。
結局、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている仏説である限り、”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす動物の思考原理を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では間違い無く、「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖」の輪廻が起る事に成る。
故に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。
(筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。全てこの論理から生まれると考えている。)

俗に云えば、では、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” と「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。


これは青木氏が「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の信者である事に依って起る仏説と解釈できる。
故に、下記に記す様に、平安期の「宗教論争」の据えに究極の「阿弥陀蔵論」の ”「煩悩」は否定しない”の仏説と成ったのである。
「仏教の原点」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)に戻って見直されたのである。
平安末期からの仏説では人を救えなかったからこそ、”「煩悩」は否定しない” として見直しが起ったのである。
言い換えれば、「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)を実践している「3つの発祥源」の「青木氏」が、悠久の歴史を経て此処まで生き延びていた事を宗教界は見抜き、上記の古代密教の仏説を体現実戦している ”「阿弥陀蔵論」でなくては無理である。”と悟った事に成る。

この”「煩悩」は否定しない”の教示に成った事は、青木氏の「伝統」や「生き様」や「仕来り・慣習・掟」や「皇祖神−子神−祖先神」や「守護神の神明社」の事柄に影響を受けて大きく繋がっている事に成る。
そもそも、「青木氏の教示」は、既に、奈良期から”「煩悩」に勝るべし”であった。
つまり、”「煩悩」は否定しない”= ”「煩悩」に勝るべし”と論じている。

(”「勝る」と云う事は存在を認めてそれに打ち勝て” と云う事であるから「煩悩」を否定しいない事に成る。この事に付いて下記に縷々と論じる)

「青木氏の守護神(祖先神)」の「神」と、「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の「仏」の「2面性を持つ氏」ならではの事である。
この「2面性に関わる氏」は、どんなに「氏」が多いと云えど、即ち、「融合氏の発祥源の青木氏」だけなのである。

この「宗教論争」が、最終は「阿弥陀蔵論」と成った事は、論理的には「神」−「仏」の2面性を持つ「古代密教系の浄土宗論」に落ち着いた事に成る。
青木氏が持ち続けた「古代密教の仏説」の教示が、「最終の仏説」と成り得た事を示唆している。
この様に、「般若心経」の一時一句を解析して行けば「青木氏式の仏説論」が生まれる。
この「青木氏の仏説論」が ”煩悩は否定しない”の仏説の「阿弥陀蔵論」に成ったと云えるのである。

「仏説−煩悩」
其処で、この「般若心経」にはこの「煩悩」の「仏説」がある。
この「煩悩の仏説」を解析して、「青木氏」が説くこの「家訓9」の「解析の糸口」になる事が判る。
そこで、仏教には多くの宗派があり、この「煩悩」の「仏説論」が「質と量の深み」が異なっていて一概に解析出来ない。
「青木氏」はその奈良期からの「悠久の歴史」を持つ事から、「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教浄土宗」−「浄土宗」−「阿弥陀仏」の伝統を持つ事に成る。それを前提として生きて来た。
そして、この「古代密教」と「祖先神」の考え方が融合して一つの「神仏習合の原型」が出来上がって行った。この「神仏習合」の動きは後に3度起こっているが、恐らくは、この「青木氏」の「古代密教−祖先神」の「融合の考え方」が原型と成っていた事が判る。
何故ならば、「仏教と神教」が融合させていたのは唯一「青木氏」だけだからである。
そして、それは「青木氏の菩提寺」と共に、奈良期から始まった「皇祖神-子神−祖先神−神明社」の486社もの各地の建立にあった事によると判断される。
故に、「氏上様、御師様、総師様」と呼ばれていたのであって、民から崇められ慕われていた事が、その「青木氏」の「仏教−神教」(神仏習合」)の生き方、即ち、「青木氏の考え方」に「民の強い賛同」があった事をものが物語っている。
当然に、「武」に頼らず「和」に頼る「生き様」がより「民の賛同」の前提に成っていた事を示し、「氏家制度」の中でも「上下の差」をできるだけ無くした「一族一門とその一切の郎党の生き様」に、「民」は万来の信頼を寄せていたのであろう事が判る。

(この事は研究室での論文で各所で論じているが、「青木氏の守護神」(神明社)では詳しく論じているので参照)

其処で、その事を念頭に置いて、この「古代密教」とする処に何か意味する事があり、この「煩悩」の「家訓9」の解釈の場合に、重大な「隠された意味」がある事が判断出来る。
そもそも、「原始仏教」に通ずる「古代仏教」−「古代密教」は、平安期の「法然」による「浄土宗」が生まれる前の「浄土宗派の原型」と成る密教である。

「煩悩」
この事を前提に次ぎに「浄土宗」の説く「煩悩」を解析する。
この事に付いては「密教」を前提とする「3大密教」(真言宗、浄土宗、天台宗)は自らの仏説を説いて「宗教論争」が起った。
夫々の密教の「有り様」が、その宗派の「歴史的経緯と立場と背景」からその説が異なっているのである。その中でも、「浄土宗派」だけが「原始仏教−古代仏教−古代密教浄土宗−浄土宗−阿弥陀仏」の歴史を持っている。
然し、他の2つの密教宗派とは当然にその仏説が異なる為に「密教の有り様」に付いて、中でも仏説の根本の「煩悩」の取り扱いに関する「宗教論争」は起った。
この「古代密教浄土宗」を継承して来たのが唯一青木氏のみであるのだ。
それだけに消え失せ易い仏説とも成るが歴史的に観ると、「青木氏」に細々と遺されているのは幸いであった。
然し、現在に於いてはこの「家訓10訓」と「守護神−祖先神」の伝統の中にのみである。
その意味で、この「家訓9の短い添書」は意味を持っているし、「青木氏」としてはこの時点で是非に解析しておかなければ成らないものであった。
故に、その基の一つと成っている「青木氏の守護神(神明社)」の論文には全力を注いだ。
もう一つの基と成っている「家訓10訓」の取分け「家訓9」に対しても全力を注いで、現代の浄土宗の根源と成った「原始仏教」の影響を色濃く引き継いでいる「古代密教浄土宗」の一端を、仏説ではない方法で網羅したいのである。

「煩悩の種類」
浄土宗系が説く仏説の「煩悩」とはそもそも次ぎの通りである。
年末には「108の鐘」の音を打つが、これは人には「108つの煩悩」があるからと云われるが、これは次ぎの様に成っている。
「除夜の鐘・百八つの謂われ」である。
人間には、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の「六根」がある。
普通は、人間の「五官」(五観と説くものもある)と云って「眼・耳・鼻・舌・身」でものを感じる。然し、仏教の世界では、「意」を加えてこの「六根」の感じ方があるとしている。

先ず次ぎの「三通りの感じ方」があると云われている。
「好・平・悪」
以上の「三通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、善く感じる「好」、普通に感じる「平」、嫌味で感じる「悪」がある。
そして、この「三通りの感じ方」には、次ぎの様に分けられる。
「染・浄」
以上の「二通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、染まった感じ方をする「染」、純粋無垢な汚れの無い感じ方をする「淨」があるとされる。
「好・平・悪」と「染・淨」は厳密にはその説の論調では少し違うかも知れないが、大方この様に解釈される。此処では仏説論そのものを論じている訳ではないのでこの様にして置く。

さて、そうすると、人は、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根から「好・平・悪」と「染・浄」の違う「煩悩」が起る事になる。
従って、6根の3倍の「18の煩悩」が先ずある事に成る。
次ぎに、当然に「染・淨」があるとするから、18の2倍の「36の煩悩」が起る。
其処でこの「煩悩の現象」が、上記の「色即是空・空即是色」の「仏説」の通りで云えば、「過去・現在・未来」の「三世」に渡り「悩みや苦しみの煩悩」が続く事に成る。
 計算: 6×3×2=36 36×3=108 
以上の数理的計算で「108の煩悩」が生じる。

故に、除夜の「108の鐘の音」は、過去・現在・未来の「三世」の「煩悩の数」だった事になるのである。 
基本的には、「仏説」では「質」を換えて、”人の魂は3世に生きる”としての前提であるので、「108の煩悩」と成るが、この域(過去と未来)は不証明であるので108は、兎も角も、実質は「36の煩悩」がこの世にある事に成る。

(参考 もし「3世」の内、「過去」と「未来」があるか、どうかは、この「世の物理論」では、現在の「光の速さ:3×10の8剰」より少しでも速い「光の様な振動波:光子粒」が存在すると成れば、在る事に成り、「過去の世界」や「未来の世界」に一時的にも観る事や渡る事が出来る理論と成る。光より速く極小の物質が太陽系外から飛んで来ている事は判っている。この事は宇宙には「光より速い世界」がある事を物語っている。「3世」が無いのか、或いは3世を自由に渡れる世界が在る事も考えられる理屈にも成る。)

そもそも、上記で論じた「般若心経」では、「現世と彼世」は「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」と解いているのならば、「108つ煩悩」の宗教界の論調はおかしい。疑問が起る。
何故ならば、「3世」少なくとも「現世と彼世」の2つの世には、上記に論じた「般若心経の説」であるから、「彼世に於ける煩悩」は論理的にない事に成る。
その理由は”、「質的変化の移動」の世の移動であり、現世に「分身」を置く事による「煩悩の消却」が起る”としているからである。
況して、そもそも、「平安期の仏説」では、”「質」を換えて”としているのだから、「彼世」に移った際には「現世」にあった「煩悩」は「質」が「分身」に成ってそもそも変っているのだから、その自己の「現世の煩悩」は消却されているのであるから「彼世」には「煩悩」は無い事に成る理屈に成る。

因って、奈良期に入った「般若心経の教典」と「平安期の過激に成った教義」とは矛盾している事に成る。
従って、「108つの煩悩説」は平安期以後の仏説と成るが、「108の煩悩」ではなくて、「般若心経」の説では少なくとも「36の煩悩」と成るのが正しい事に成る。
故に、「平安期前の仏説」は少なくとも「36の煩悩」であった事に成る。

そこで、そもそも、下記で論じるが、”「煩悩」に「好・平・悪」と「染・浄」の違いがあるのか”と云う疑問もある。
この様に分けて何の意味があるのだ。
仏教界の独善的な数理論に依る行き過ぎた「学問的発想」であると観ている。
筆者は明確に無いと考えている。
「原始仏教」は兎も角も「古代仏教−古代密教」の時代には、「6根の教義」も無かったと観ていて、下記に論じるが、”「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の「3つ煩悩」であって、「我執」から来る「愚痴」が「煩悩の主因の定義」と成っていた” と観ている。
少なくとも、「36の煩悩」が、「密教」としていた頃には「青木氏の教義」であったと考えている。
「古代仏教−古代密教」も、「青木氏の教義」は兎も角も、「36煩悩説」を教義として採用していた事を物語る。

何故ならば、「青木氏」が「自ら建立した浄土寺」に「自らの氏の者」を「住職」として仕えさせ、「自らの氏」に対してその「氏の教義」を「密教」として説くのである。
依って、必然的に「古代仏教−古代密教」は、「青木氏の住職」が「仏教の教典」を「青木氏」らしく理解し、青木氏外には帰依し伝導し得ない密教の体制であったから、「古代密教」は「青木氏の教義」と言っても過言ではないのである。
それが、上記で論じた「般若心経の解釈」の一説と成り、下記に重複する内容と成るのである。

(参考 ”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。依って、要は何も変わっていないのだ。だから事を事更に拘るな”と説いている事に成る。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」である。次ぎの家訓10で論じる)

「36の煩悩」
そこで、この上記「6根」の「36の煩悩」には、果たして、”どの様なものがあるのか” と云う事に成る。
この「六煩悩」は「六波羅密」とも云われるが、次ぎの様に項目として定義されている。

(心所区分 A 副煩悩)
隠の行   表−・話−・編−・歴
遍の行   作 - 触 - 受 - 想 - 思
別の行   欲 - 勝解 - 念 - 定 - 慧
善の行   信 - 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

(心所区分 B 本煩悩)
本煩悩   貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

(心所区分 B)の内訳
小随煩悩  忿 - 恨 - 覆 - 悩 - 嫉 - 慳 - 誑 - 諂 - 害 - 驕
中随煩悩  無慚 - 無愧
大随煩悩  掉挙 - 昏沈 - 不信 - 懈怠 - 放逸 - 失念 - 散乱 - 不正知
不定    悔 - 睡眠 - 尋 - 伺

以上の定義と成る。

これはなかなか漢字の字句の意味や語源を理解しないと難しい区分であるので、簡単に云うと次ぎの様に成るだろう。

「6根の煩悩」は次ぎの様になる。
煩悩    貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

大まかには以上としていて、これを小中大に分け、これに何れにも含まないものとして「不定の煩悩」と分けられている。
この「6根」を後付けで、前2つを「貪欲」、中2つを「瞋恚」、後2つを「愚痴」の「古代仏教-古代密教」の説の「3つの煩悩」と定義しているものもある。
この説では「愚痴」が「煩悩」の「諸悪の根源」と決め付けていて、その原因は「我執」だとしている。

「3つの煩悩」
「貪欲」「瞋恚」「愚痴」
「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」

(これが「古代仏教」の仏説で、古代密教の青木氏の教示の原型と考えられる。)

兎も角も、その解く説は、「独善的な仏教」を前提とし過ぎて普通の論理では一概に納得出来ないが、個々に説明するのは本文の目的ではないので、別の機会として関係するところを概して解いて観る。

平安期の「6根説」は、兎も角としても、「煩悩」に悩む者に説く内容として ”本来、大中小に分ける意味と必要があるのか、聞いてどう使用せよと云うのか” 甚だ疑問である。

この区分の内容を観ると、次ぎの様に分類される事に成る。

「密教説の仏説」(添書内容の解析)
1 人間が本来動物として持ち得ている「先天的な煩悩」
2 人間が進化する事で持ち得た「後天的な煩悩」
以上の2つに区分されるのではないか。

そして、更に、この2つを分類すると次ぎの2つに分類される。
A 1に付いては「我執」から生まれる煩悩
B 2に付いては「知恵」から生まれる煩悩

そして、その「Aの我執」から生じる「煩悩」は次ぎの様に解釈出来る。
「我執の煩悩」 
イ 貪欲系の煩悩 
ロ 瞋恚系の煩悩(しんひ:自分の意に反すれば怒る心)
ハ 愚痴系の煩悩

これが上記の「煩悩」、即ち、「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」の「平安期の6根の本煩悩」とされるものに成る事を意味している。

従って、仏説では「6根の本煩悩」と記している以上は、(心所区分 A)は副とは記していないが「副煩悩」と成り得る。
上記の「心所区分」の前の4つを(心所区分 A)とすると、この区分域が「副煩悩」として次ぎの様に「知恵」から生まれた「煩悩区分」と成る。

「智慧の領域区分」
1 隠の行 (表: 話−編−歴)
2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)の個々を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

1の区分 「智慧」の「隠」の区分は、ある一つの事を表したり、話したりする単純な思考
2の区分 「智慧」の「遍」の区分は、「単純思考」が集約し思・想の固まりと成る思考群
3の区分 「智慧」の「別」の区分は、「思考群」が更に増幅して「形・型」に成る念想・思想
4の区分 「智慧」の「善」の区分は、「智慧」本来の善行で成せる煩悩解脱の行為

「隠」は「表」、「遍」は「意」、「別」は「欲」、「善」は「信」の語意で表す。

この「古代密教説の仏説]では、”「智慧」は「善」であって、「善」は「煩悩」を解脱させ霧消させる唯一もの(行)である。” と定義している。

即ち、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする位置付けである。

”「智慧」は「煩悩」の裏返しで、「煩悩」の為に「智慧」が有り、「智慧」の為に「煩悩」がある。”としている。
”「智慧」は陽、「煩悩」は陰の「陰陽の関係」(表裏一体説)だ”と解いている事に成る。

つまり、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」と「煩悩」は「智慧」が勝れば「煩悩」は消え、「煩悩」が勝れば智慧は低下する。”と云う事である。

そもそも、”「智慧」と云う本能は、「仏」では無く、上位の「神」が人間に与えた「本能」であって、元来、生きる為に備わったものである”と説いている。(守護神をも持つ氏の説である)
故に、”「智慧」は「煩悩」に勝る事を優先している事に成る。

その上位の「神」が「人」に与えた「智慧、慈愛」を「仏」が何だかんだと云うのはおかしい。「神」は「善」として与えたもので下位の「仏」が、”「善の智慧や悪の智慧、悪の愛や善の愛」がある”と解説する事がおこがましい。
況や、そもそも、この説は、”「神」は「人」に「悪」のものは与えていないのだ。”とする事を忘れて思い上った「平安期の仏説」の矛盾なのである。この「平安期の仏説」の「矛盾の教義」の理屈を認めてしまえば、「守護神」と「密教菩提寺」の「神仏の教義」を合わせ持つ「氏の教義」(青木氏)としては「神」と「仏」の教義は分離して合致し無く名成り、「氏」その者の存在は破壊霧消する事に成る。
因って、「青木氏の古代密教」では、「平安期の善と悪を持つ煩悩説」では無く、「神仏習合」の説、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする説であった事が判る。

然し、元来、常に勝るべき「智慧」が、時には病やストレスや考え違い等で低下する事は否めない。
従って、”この低下する現象を仏教は救うのだ” ”これが一義である” と云う「古代密教の仏教説」を説いているのである。
言い換えれば、”「仏教」は「智慧」を想起させる位置にあって、「仏説」はこれを補う”と記している。
この「古代密教説の仏教説」は云わば「装具説」である。
明らかに平安期の「人道説」では無い事が判る。
故に、”「智慧」を使えば「勝る事」が出来る” と説いている事に成る。
本訓の ”煩悩に勝るべし”は”智慧を使え”と云う事で理解が出来る。
(注釈 この「智慧」を使う場合の条件がある。それは”「和の道」で在らねば成らない”としている。)

流石に「青木氏の特典」を活かす事の出来る教えの「密教」であり、「精神論」の判り難い説法より「具体的な教え」である。
そもそも、精神で悩んでいるものに対して、「精神論」で説いている「平安期の宗教論」は納得が出来ない。
「精神」で悩んでいる者に対して、”もっと人間の本質の智慧を出して乗り越えよ。怠けるな、それで無くてはこの世は乗り越えられぬ。これに打ち勝てぬ者は死を待つ以外に無し、これが「諸行無常の条理」なのだ。”の説法の方が納得出来る。”智慧を出せ”である。
そもそも、「智慧」は「神」が与えた「人間の本来の姿」である。
この世は「智慧」をより出さなければ生きて行けないのである。
故に、”「智慧」が解決してくれる”である。”生き抜く為に「神」は「人間」に「智慧」を与えたのだ。” と解釈できる。

(注釈 此処で云う「神」とは、「皇祖神-子神−祖先神−神明社」の事である。)
ここで重要な事は、「青木氏の守護神」(神明社)のところでも解いた「豊受大神」の「物造りの智慧論]と繋がる。

後の「煩悩」の4つは(心所区分 B)とすると、この区分域が現在で云う本来の「本煩悩」として「我執」から生じる煩悩区分と成るだろう。

この「古代密教説の仏説」は、依って、「智慧」と「我執」としている。
そして、その「我執」(本煩悩)から齎される「本煩悩」を「3つの煩悩」(上記イロハ)に分類している。
この「3つの煩悩」の内は、上記の数式論の関係 「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」であって、
上記の「2の後天的煩悩」はこの「智慧」から生まれるが、”この「智慧」は、上記の「陰陽の関係(表裏一体)」に依って「煩悩」としては霧消する”と説いている。
ただ、この一節を要約すると、”「智慧」<「煩悩」の関係が生まれた時は、「1の先天的煩悩」と「2の後天的煩悩」の「2つの煩悩」に強く苛まれる。”と説いている。
その時は、”「6根の煩悩」に苛まれる。”と説いている。

さて、そこで゜平安期の仏説」は、「知恵」に関わるものを「副煩悩的な扱い」としている。
この事は、下記に述べるが、時代の変化で ”「煩悩」を否定しない”とする仏説(阿弥陀蔵論)も存在したが、これは「知恵」に関わる ”「副煩悩」を否定しない” 、”(心所区分 A)を否定しない” と云う仏説である。

この事は「青木氏の生き様」と、この事から来る「青木氏の家訓9」に大きく関っているので、特に留意が必要なので特記している。

以上の様に、この「古代密教説の仏説」で解析すると何とか解釈出来る。
(この仏説が青木氏に多いに関わる)

「6根の本煩悩」
さて、”「煩悩」とは如何なるものか” を「古代密教説の仏説」で対比して検証して見たが、此処からの問題は、「平安期の6根の本煩悩」の6つが判れば更に概容が掴める。

その前に、筆者はこの「6根の本煩悩」は、平安期末期の「宗教論争の結果の産物」と観ている。
恐らくは、当初は上記の「古代密教説の仏説」であったと観ていて、「煩悩論争」の結果、上記の「我執の煩悩」(イロハ)に付いて、宗教界がヒートアップして、 ”「1の先天的煩悩」の「Aの我執煩悩」では説明が付かない” として、以下の「本煩悩説」を付加えたと観ている。

つまり、「古代密教」前(原始仏教−古代仏教)の仏説では、宗教界は荒れ始めた時代性から考えて納得出来なかったのでは無いかと検証する。”穏やか過ぎる”と観て採ったのであろう。
これは宗教界の中の範囲の「学説的煩悩説」で、この「6根」に分けたからと云って、宗教界外では意味の無い事である。
”「煩悩」はあくまでも「煩悩」であって、その「煩悩」が3つあって、その「3つの煩悩」の内の「愚痴」が「煩悩」の「悪の部分」であって、それが「我執」から起る。そして、それを「智慧」が勝れば「煩悩」は霧消する。”で充分な仏説である筈である。
それが6つに成っても、幾つに成っても、「煩悩」は「煩悩」と捉えるのが「民衆の思考の範疇」である。
所謂、「平安期の仏説」では、現在で云う実行性の無い「学説論」と観える。
要するに平安末期以降の「後付け論」である。
同じく、「本煩悩と副煩悩」も同じ平安期の「後付け論」である。

兎も角も、「6根」に付いて一応概容を論じて置く。
「6根の本煩悩」
「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」
「貪」は、「貪欲」に代表される様に、「貪」は”むさぼる”の意として”非常に深い”の意を持ち悪意に批する語である。
「瞋」は、人の「慎」で”つつしみ”に通ずる意で、人としての”つつしみ”を超える欲に左右されて仕舞う本能である。即ち、つつしみから外れ「攻撃する本能」である。
「癡」は、人に「猜疑心」を持ち、その事に全てが左右され病的に陥る本能である。
「慢」は、「自慢・傲慢・慢心」に通ずる意で、人として、”わきまえ”を超える欲に左右される本能である。
「疑」は、人は「疑心暗鬼」と成り、必要以上に人を「疑う心」に左右されて仕舞う本能である。
「悪見」は、人を「善」と見ず「悪」と観て思考を何事に於いても構築しようとする本能である。

この「6根の仏説」の俗説解釈では以上と成る。

其処で、注意しなければ成らない事がある。
これ等の仏説は、時代の背景毎に変化して行く事から一概に定説や定義とし難いが、平準して現代的表現からはこの様に成ると考えられる。

(平安期−鎌倉期の時代を背景して、社会環境の中に「宗教力」が強く持った為に、この「独善性」を持つ仏教説では、独善性に陶酔して上記の様に無意味な論説が蔓延り、論説が何が何だか判らない。他の宗派の仏説はこれ以上であり、学僧で無い限りは解らない。)

恐らくは、代表的な時代とすれば、平安末期から鎌倉期を通じ、更には室町期末期までの「下克上−戦国時代」には、この6つの全ての「煩悩」が左右して1期に「人の心」に露出して「世の乱れ」と成ったものであろう。
この様に「時代」に依って、これ等の「解釈や教義」は、変化して宗派毎にもその重きを置く教義が異なりより深く追求されるように成り、人の階層毎に「仏説の変化」を大きく遂げた。

(上記の「古代密教の教義」は「青木氏」によって延々と伝承された。換えなかった、むしろ、”換えられなかった” と云って良いのではとも考えられる。
「3つの発祥源」の立場と守護神との「習合の状態」であった事から、換える事は「習合」が破壊する事、即ち、分子結合を破壊する事と同じ作用を起し、「氏」が解体する事が起るからである。
そもそも「氏の根本的な考え方」が違っていた事が基に成る。)

「共通する教義」
事程左様に「煩悩」とは、異なる宗派の教えるところを種々の文書から研究すれば次ぎの様になるだろう。

その慨しての「共通する教義」では、その論調から考えると次ぎの様な共通項が生まれる
 ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の言葉で定義される。
これが常識と成るであろうことが読み取れる。

因みに「禅宗」ではこの様な問答が多く成されている。「禅問答」で検証されていて納得出来るところが多い。
この「共通する教義」の「智慧」の「知恵」とは、そもそも、”「知恵」には「正悪の知恵」がある” とした時代が平安期以降にあった。
この「悪」に区分される「知恵」の扱いが、時代毎の諸行の変化に合わせて異なっている事に成る。
それが宗派の違いとして露出しているのであろう。
むしろ、この「知恵」に関する「悪」を「煩悩」としない教義もある位で、「知恵」とするものでは「善」としているのは「古代宗派」に共通する考え方に近い。
この「古代宗派」には、「知恵」には「悪」(煩悩)の「知恵」は定義されていない。
故に、この「知恵」は「古代宗派」では「智慧」として表現しているものである。
そもそも、「恵・慧」の語意には、仏教では夫々「施」と「慈」との意を持ち、「恵」は主に”めぐみ・ほどこす”に意を持ち、「慧」は「慈」に意を持ち「愛」に通ずる語意であろう。
然し、平安期の仏教では、”「愛」は現在の「愛の語意」とは異なり、「悪の愛」の意味も持っていて、「愛」は必ずしも「善」としてはいない” の事に注意が必要である。(「悪の知恵」もある事にも注意)
「乱世の時代性」が「知恵と愛の考え方」に大きく影響しているのである。
この「愛」には「悪愛」があるのは「平安期末期の教義」に観られる。

従って、この「時代性の影響」を受けて、「恵と慧」は全てを「善」とせずに、この「恵・慧」の使い方は古い時代の傾向に「慧」、新しい時代には「恵」が用いられている傾向があり使い分けていたのであろう。
従って、「古代仏教」(古代密教が妥当)の「智慧」の方では、「慈と愛」に通ずる事から「悪」とする教義は成立たなかった時代と観られる。
少なくとも「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」までの時代には「悪」とする教義は無かった事に成る。
恐らくは、「3大密教の宗教論争」後の宗派、取分け「浄土宗」と成った頃からではないかと考えられる。
故に、平安期の宗教論争の中で「共通定義」とした ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の「知恵」を「智慧」と書き記したと考えられる。
この文脈からは「智慧」は「善」としている事が判る。
そもそも、”妨げる”の語句は、「善」なるものを”妨げる”から使われる語句で、「悪」で有れば”妨げる”は使わ無い筈で、妥当な語句の文脈と成るからだ。
裏を反せば、後の教義の「知恵」では、「悪」の「知恵」を「煩悩」とする上記の(心所区分 A 副煩悩)の教義も、敢えて使い分けしている事から考察しても、平安末期頃には「悪の知恵」の考え方は徐々に芽生えていた事を物語る。
これは時代が乱れ始めていた、つまり、「人の心」が「煩悩」(猜疑心)に依って「持ち様」が大きく乱れ始めていた事を示すものであろう。
「人」は「人」を信じられなく成っていた。況や、「人」の発する「知恵」(策略・詐欺)を「猜疑心」で危険視していた事を物語る。
この「平安期の仏説」の「悪の煩悩説」(愛、知恵)は、上記で論じた「青木氏の添書内容 古代密教説」の 「2の後天的な煩悩」から発し、「我執から生まれる煩悩」では無く、「Bの知恵から生まれる煩悩](添書の時期は「煩悩」を悪としていない)を、この説に「愛」と置き換えて、”「悪の愛」(悪の知恵)がある” とした論理であり、この場合の「煩悩」は「悪」とする前提に成っている。
これは「平安期の(心所区分 B)」の内訳の「大中小の煩悩説」で観られる様に「悪の煩悩説」であり、最終的に宗教論争の据えに落ち着いた ”「煩悩」は否定しない (煩悩を悪としない)” としての時期までの間の仏説である事が良く判る。

「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」
さて、そうすると、「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」ではどの様な表現で定義されていたのかを知る必要がある。
密教の古い仏書の私書籍に因れば、次ぎの様に解釈されている。

”「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え、「解脱」による「涅槃への道」が求められていた”

この密教古書でのこの「解脱」に付いては、”煩悩に勝るべし”とした「青木氏の密教教示」(添書)では、”「勝解」と定義する” と同時期に書かれているのである。
この”「勝解」は「智慧」に因る”と「古代密教の教示」と成っているから、要するに、その差は「智慧」では無く、「人苦」に重きを置いた定義である。

上記した「平安末期の共通教義」である
”「心身」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き”

この言葉の「智慧」の一節は、古代密教の「智慧」であった事に成り、この「智慧」は「煩悩」とは定義されていず、むしろ、「善」である「智慧」を”妨げる”とあるのだから、「智慧」は尊いものであるとして「智慧を薦める教え」に戻りつつあった事に成る。
そうすると、密教古書の「人の苦」は、平安末期のこの仏説の「心身」と「類似語」と成る事から、明らかに「類似文」と成る。
文章は違えども、「古代密教」の説への ”「戻り説」に近づいた” 事に平安末期の説は意味している。
そうすると、次ぎの様に時代毎の共通定義は分類される。

[煩悩の共通定義]
A (奈良期)−平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期説−(鎌倉期) 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「共通定義の変化」
この変化は「奈良期から平安中期」までの期間では、徐々に潜在する「Bの変化」の方向に移動しつつも主の「Aの変化」を維持した。
但し、その「Aの変化」は「Bの変化」の胎動の影響を受けながら「比例的な変化」では無く緩やかな「双曲線的な変化」を来たしていた。
然し、その「Aの変化」がある時期に急激に低下し、それに代わって「Bの変化」が平安末期には突然に勃興して、明らかに「Bの変化」に変身してしまった事に成る。
この「Aの変化」が逆に潜在し、主と成った「Bの変化」は鎌倉期までは維持された。
その変化は、今度は急激な乱世の為に「双曲線の変化」では無く、「放物線的な変化」を描きつつ落下する事無く高い状態で変曲点を維持した。
鎌倉期後ではこの「Aの変化」は低迷し、「Bの変化」は最早、現世に置いて可能な限界に達する際限の無い最大と成った事を物語る。

ところが、この時に、突然に、この最大の「Bの変化」の「ぶり返し」が室町期中期前後に起った事に成る。この時の教義では、「Bの変化」に押し潰されていた「Aの変化」の「Aのぶり返し運動」が爆発・噴水の如くに宗教界の中で起ったと記されている。
恐らくは、宗教界の書籍の記録の変異を調査しているので、一般の武士階級も含む民衆の中にも起こっていた筈である。
これが最終は、上に記する「Aタイプの教義」でも無く、「Bタイプの教義」でも無いと云う形の ”煩悩は否定しない” と云う教義に成ったのである。(これをAxタイプと記す)
「AとBのタイプの教義」では無いとしたのは、「Aタイプの教義」であるのはその通りなのだが、違う一点があるからである。
それは、Aタイプでは、上記の様に、”「解脱」” とする字句を使っているところである。
そもそも、「解脱」の本来の意味とは、”「煩悩」のある事を悟り、この「煩悩」を「人」として無くして克服する事”である。
然し、この「Axタイプ」では ”煩悩は否定しない”と成っている。
この”否定しない”は、”肯定もしないが、「煩悩」の有無に拘らない”とした事に成る。
”「煩悩」があるからと云って、それに拘り、あーだこーだと無理に「解脱」する必要はない”とした事に成る。
要するに ”有無に拘るな 事をあるが侭に捉えよ” と説いているのだ。

ところが、そもそも、平安初期から中期頃に密教浄土宗外の宗派が説く「Aタイプ」の「解脱説」には矛盾がある。
そもそも、”解脱し得る「資質」がその者にあるのなら、「煩悩」に苛まれない筈だ。 「解脱する資質」が元来、無いから「煩悩」に苛まれるのだ” それなのに”解脱せよ”とはおかしい説に成る。
矛盾している説の様に観得る。

然し、この矛盾は上記の「解脱」を、「青木氏の密教説」の「勝解」と解釈すれば解決する事に成る。
(この「解脱」の反意として「勝解」の意味を持たしていたのかも知れない。「漢文」は「隠意」を旨としているので筆者の能力では苦労する。然し、「青木氏」の先祖がこの書籍を読んでいる筈として考えると、この矛盾点を「青木氏の密教」として「勝解」と正しく定義していた事かもしれない。)

恐らくは、「民への説法」では無く、平安中期頃までに勃興し始めた源氏や桓武平家等の「武家」の台頭に対しての「武」の「煩悩」を見据えた説法であろう。
故に、矛盾が起ったが、民にこの説法をしても受け入れられる事は無い。
「武家」の「密教の説法」である事が判る。

つまり、この「Aタイプ」では無い「Axタイプ」の説法は、上記した「般若心経」の一節の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」のまさしくそのものの「教えの解」である。
重ねて「色不異空 空不異色」に特別な意味を持つものである。
そもそも「般若心経」は古い「原始仏教−古代仏教−古代密教」の教典である。
完全に「Aタイプ、Bタイプ」では無く、日本に「仏教伝来期の教典」の時期の教義に戻ったのである。

では、「Aタイプ」に対して、”何故、この様な「ぶり反し宗教運動」が起ったのか” と云う問題がある。
又、”どの様な階層にこの「ぶり返し宗教運動」が起ったのか” の「2つの疑問」を説いておく必要がある。

「2つの疑問」(「ぶり反し宗教運動」)
結論から云えば、「7つの民族」の融合過程で起った夫々の民族の「守護神の五大守護神」の共通化・集約化が起こり、”仏教(「仏説」)の中に神教(「神説」)が入って来た事” が原因と観られる。
所謂、「第1期の神仏習合運動論」が影響した事に成る。(青木氏の守護神{神明社]参照)
上記の「Bタイプ」が究極に達した結果、「人」はその極限に達すると本能的にその極限から逃れ様として、その「捌け口」「逃げ道」を求める。その「捌け口」「逃げ口」を「仏」では解決し得ない事から既に存在する上位の「神」に「助け」を求めた事に成る。
そして、「仏」を否定せずに、「煩悩」を否定せずに、「神」と「習合」させて「神仏」に助けを求めたのである。
これは明らかに ”否定していない運動” であり、これでは、何れの「民」も、況や、何れの「教義」も抗する事は出来なかった筈である。
故に、「究極の行動」として、突然に勃興した「Axタイプ」に反する物が無い事から ”突然に勃興した”と云う事が起ったである。
当然にこの事から「2つ目の疑問」は解ける。
それは「煩悩」に慄く「全ての民」と云う事に成る。

「浄土宗の経緯」
そこで、この「全ての民」が信心していたこの「原始仏教」が伝来したのは、つまり、「原始仏教」を私伝で普及させたのは、奈良期の「後漢の渡来人」で「阿多倍の職能集団」の第1陣に渡来した「鞍造部の首魁」の「司馬達等」である。
奈良期に大和国高市郡坂田原の草房から「在来民」に布教した事が史実として判っている。
そして、それが「職能集団の技能」の享受をうけた「在来民」を経由して急速に西日本全国に伝播して行ったのである。
そして、その彼の教えは瞬く間に天皇家の「朝臣族」までも広がり、「蘇我氏と物部氏の神仏戦争」と云う乱に至ったのである。そして、蘇我氏と天皇側が勝利し、これをこの直ぐ後の奈良期の皇族賜姓族が自らの宗派と捉えて「密教の菩提寺」を建立して、「原始仏教(飛鳥)−古代仏教(奈良)」を護ったのである。
これが「古代仏教」→「古代密教」として引き継がれ、更には、これが「平安期の浄土宗」の原型としての「古代密教浄土宗」と成り、「阿弥陀仏」を信仰する「朝臣族の皇族賜姓族」の「独善的な密教」として発展したのである。
後に、これを「法然」により体系化されて「浄土宗密教」として確立したのである。
この時には、まだ「密教」であり、「法然の浄土宗密教」は、「独善的な菩提寺」を建立して「特定の朝臣族・宿禰族の密教」として拡がったのである。

(朝臣族系賜姓族の「氏の事情」を鑑みて「古代仏教」を基盤にして「独自の教義」を確立させて、これを「古代密教」なのである。これが更に「古代仏教」−「古代密教」を基盤とした「法然浄土宗」と連携して「浄土宗密教」が確立したのである。)

そして、「浄土宗密教」の法然の弟子の「親鸞」により民の領域まで布教させる為に、この「密教方式」を取り除き、「浄土宗の教義」を緩やかにして「真宗」として、鎌倉期に勃興した「上層階級の武士階級」にまで先ずは拡がった。(後には民にまで広がる)
然し、此処には「原始仏教」−「古代仏教」の司馬達等に依って布教された「初期の民の信心」は消えた訳では無かった。
「民の信仰」は、地に深く潜行して維持された。そして、細々と「原始仏教−古代仏教」は民に依って700年近く維持されていたのである。

(この時期の「民の信仰」は、神に対する「食(ミケ)神」と原始仏教の「仏」とが一体に成った信仰であった。現在の「稲荷社信仰」の原型とした、「神仏」を分けるのでは無く一体として崇めて維持した。
この「神仏一体させた民の信仰」は飛鳥−奈良期の丹波−難波の付近に広がっていた事が遺跡から判明している。)

この民に依って引き継がれた「原始仏教−古代仏教」の信心は、今度はその真宗が類似する教義であった事と、その緩やかに説いた「親鸞の教義」が「民の信心信仰」に合致し、「真宗」の方に流れ至ったのである。
この「教義の根源」(民→「神仏一体」 氏→「神仏習合」)を同じくする「朝臣族の古代密教」と「民の古代仏教」の「2つの力」が、「Axタイプ」の「教義の力」として世に再び噴出したのである。

民→「神仏一体」 : 古代仏教信仰   食神系社信仰  稲荷社信仰の原型
氏→「神仏習合」 : 古代密教信仰   神明系社信仰  

この時、根源と成った「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の伝統を持つ「朝臣族の密教」は、今度は「民の信仰」に代わって、逆に「皇族賜姓族」に世に潜行して細々と引き継がれて行ったのである。
逆に「民の古代仏教」は地に潜行していたが、700年後に芽を吹き出し始め世に出たのである。
この噴出した「民の古代仏教」は「親鸞」の「緩やかな教義」に変えて「真宗」へと変化して行ったのである。
何時しかそれが国を動かすほどの「宗教勢力」と成って室町期の為政者(信長−秀吉)を悩ました。
「民の古代仏教」と「真宗勢力」が合体した一大勢力と成って「民」と「下級武士階級」の「信仰体」と成り得た。

(上級武士は浄土宗、武家階級は密教系浄土宗、公家階級は密教系天台宗、武士は密教系真言宗、一般武士と土豪階級は密教としない真言宗等の別派を信仰体とした。密教系派は一族の独自の菩提寺をも各地に建立した。) 

この「Axタイプ」が ”煩悩は否定しない”を前提に変化させて ”「阿弥陀仏の念仏」さえを唱えれば「安楽の彼世」に逝ける”と説いてリードしたのである。
「解脱」とか「煩悩」とか「智慧」とか「悟り」とか「拘る」とか説かずに ”ただ一つ 「南無阿弥陀仏」の念仏一つを唱えるだけで良い。 他に何もするな ただ信ずればよい。”としたのである。これが「民への教義」としたのである。
(他の密教系宗派も「即身成仏」等のほぼ同じ教義である)
「煩悩」を「人の苦」、「智慧を阻害する」として「解脱」(解決・逃避)したいのであれば、その方法は”ただ信じて、念ずれは出来る”と説いたのである。

原始仏教−古代仏教−(神仏一体)−古代密教−古代密教浄土宗−(神仏習合)−三大密教−宗教論争−宗教改革−(教義見直運動)−(大神社信仰 守護神信仰)−部派仏教−浄土真宗−(密教消滅)−(ぶり返し運動)−宗教戦争−大乗仏教−(一般神社信仰)−神仏併呑−神仏連携−神仏合体

「武家への教義」
但し、これでは宗教ではないとして、「法然」−「親鸞」は ”人を観て法を説け 縁無き衆生動し難し”とする「仏法の教え」は曲げずに武家階級には教示したのである。
この「武家への教義」では「民への差別」の事に成る。然し、この時代の前提は「身分制度」の概念があり、何の疑問も無い「仏説の教義」で合った。
然し、これでは「武士の煩悩」に対する教義には成らない。
其処で、親鸞はこの特定の武士階級に対して、”人を観て法を解け” の「仏説の教え」をより進展させて、より厳しい「武士の道」というものを説いた。
この「武士の道」を説く事で「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」の解決策としたのである。
「武士」に対しては、その「武」に対する「立場や役目柄」から、”ただ念仏を唱える”だけではその立場役目は果せない。むしろ、”「武士」の「人の道」として、この”「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」”に耐える事こそに意義があり、耐えてこそ「煩悩」に勝る事に成る”と説いて、”それを成す事が出来ないのであれば、それは「武士」としての立場役目は成し得なかった事を意味する事に成る。
依って、最早、それは「死する事に価する」”と説いた。
(後に、武士の本分を全う出来ない時に採らねば成らないものとして、これが「武士の切腹」と云う戒律として生き続けた。)
そして「人の苦」、即ち「我執」から来る「煩悩」を克服出来なかった時のその死する事は「恐怖」では無く、”{現世と彼世]とは上記の「般若心経」の「心の道」の「色即是空 空即是色」であり、「色不異空 空不異色」の一節”と説いた。
その「心の道」は「人の道」だ「武士の道」としたのである。
そして、その戒律を厳しくした”武士に対してのみ「菩薩様」は護る”と仏説を説いたのである。
この時、武家には真に「神仏連携の運動」が起こり、「八幡社」と合体させて「八幡大菩薩」を「信仰体」として作り上げた。
(朝臣族賜姓族の青木氏−「阿弥陀如来信仰」 朝臣族賜姓族の源氏−「観音菩薩信仰」−後に全ての武士の「八幡大菩薩信仰」となった。)

「朝臣族の青木氏」の古代密教系浄土宗派は、”「煩悩」に勝るべし”として、”勝るにはそれには智慧」を出せ”と説いた。
此処でも「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は「信仰体の教義」が異なっていた。
「浄土真宗」は、「浄土宗の教え」を護り、”煩悩に勝るべし”としながらも、”勝るには「武士の道」を”と説いた。「民」には「念仏三昧」を説いて救われるとしたのである。
然し、この流れは既に平安末期にも起こっており、清和源氏の河内源氏とその未勘氏族に依って広められた「八幡社信仰」が武家階級に起こっていた。[青木氏の守護神(神明社)]を参照
(この「武家」とは「公家階級」に対して「武家」である。)
そして、この武家階級は神教の「八幡社信仰」と仏教の「菩薩信仰」を連携させて「八幡大菩薩信仰を確立させたのである。
この流れが、更に確立されて、「煩悩」から解脱する「人の道 武士の道」の「武士道」を構築して鎌倉期以降多く発祥した「武士の信仰体」が出来上がったのである。
所謂、これが「神仏併呑説」である。

この段階で、次ぎの「4つの信仰体」(宗派ではない)が既に存在した事に成る。

「4つの流れ」
・「青木氏」等による朝臣族の「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」(阿弥陀如来仏)を信仰体とし、「皇祖神−子神-祖先神−神明社」とする「神仏習合」の流れ 奈良期から平安中期

・「原始仏教」を信じ潜行していた「民」の信仰体とする流れ(類似する真宗に最終帰依)
「食の神」(ミケの神 トヨウケの神)に通ずる信仰体と合わせ持っていた。飛鳥−鎌倉期

・武家階級の「八幡信仰」と「菩薩信仰」の「神仏併呑」の流れ 平安末期から室町期初期

・武士階級の「真宗信仰」と「武士の道」を説く「八幡大菩薩」「神仏連携」の流れ 室町中期から江戸初期

「4つの神仏の集約運動」
「神仏習合」 神教と仏教が独立しながらも寄り添う様な考え方 奈良期−平安中期
「神仏併呑」 神教と仏教が一部融合しながらも統一させた考え方 平安末期−室町期初期
「神仏連携」 神教と仏教が連携して融合し合う所を一つにした考え方 室町期中期−江戸期初期
「神仏合体」 神仏と仏教が完全融合して一つの形にした考え方 江戸期末期−明治初期

以上「4つの流れ」の時代毎の背景には「神と仏の教えの歩み寄り」が大きく影響した流れが起った。

当然に「我執」を基とする”「煩悩」は否定しない”の考え方がこの流れの主流であった。

この「4つの流れ」は、その基を質せば、「青木氏等の朝臣族・宿禰族」の「古代密教」が基盤として拡大したものであって、その中でも、最終は「賜姓族」の「2つの血縁青木氏」とその「2つの絆青木氏」が主体とした信仰体が基盤と成っているのである。
何故ならば、”爆発噴水”として勃興したのには、「何がしの起爆剤」があったからこそであり、「爆発噴水」の様に、”煩悩は否定しない” とする説の信仰体が突然に生まれる事は無かった筈である。
その「内圧」と成った、「起爆剤」と成った「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」の「青木氏の存在」と「その考え方」が、世間に潜行し浸透して行って、「内圧」が高まったところで「爆発噴水の様」を成したのである。
当然に「民の原始仏教−古代仏教」(神仏一体 稲荷信仰の原型)の潜行する動きが根底にあったからこそ起った事である。
その「起爆剤」の大きな「引き金」に成ったのは、「青木氏の守護神(神明社)」に論ずる事であったのである。
況や、486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神−神明社」の「神教の教え」が基盤と成ったのである。

「2つの教義」
日本全国各地に存在する「密教の菩提寺」、即ち、「原始仏教−古代仏教−古代密教−密教浄土宗」の「阿弥陀仏」を「信仰体」とする教義
486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神−神明社」の神教の教義

この「2つの教義」が上記の「4つの流れ」を作り上げたのである。
この一つと成った「朝臣族・賜姓族」が「2つの習合」を成し遂げていた事が以上の流れを起したのである。
これが日本に於ける「原始仏教−古代仏教−古代密教」が基盤とされる仏説である。
この様に、「家訓9」の「煩悩」を解析して理解する上で、この「4つの流れ」は無視出来ない。
この様に「青木氏に存在する神仏習合の考え方」は、”「煩悩」は否定しない” であっても、当然に平安末期とそれ以降の共通する仏教の定義・教義とは異なっていた事が判る。

”「煩悩」は否定しない”には、「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」、「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」の教義を採らず、「和に対する心得」を堅持した結果、「神明社」に対して「八幡社」等の大きな差異が当初から存在したのである。
従って、「煩悩」に関する定義も ”煩悩は否定しない” を前提に、「家訓10訓」は基より「家訓9」は異なっていた事に成る。
では、何処が、どの様に異なっていたかを次ぎに解析する。

「教義の経緯」
そこで、この時代に青木氏は「3つの発祥源」の「融合氏」として発祥した「始祖氏」であるから、そして、「皇族賜姓族」としての50程度の大まかな「慣習・仕来り・掟」にガチガチに縛られていた事からも、ただ単に「新しい時代の仏教の定義や教義」だけにて、この「家訓9」を論ずるには上記の様な問題が多く、真の「家訓9の意」を解析する事は危険である。
別の論文の「青木氏の守護神(神明社)」取分け−19から22に至る段の検証からでも、この「煩悩」対して「智慧の領域」の教義にあった事は納得出来る。
況して、仏教の「古代密教」を継承し、「自然神−鬼道神」に近い「皇祖神-子神−祖先神」の神明社をも「氏の教義」として両方を持ち合わせていたのであるから、「新しい時代の仏教の定義や教義」ではそもそもこの「家訓9」を論じ得ないであろう。

平安時代の「部派仏教」の時代になると、上記した様に、時代に合わせてその解釈を巡って「煩悩」の深い分析が行われた。この事で「宗教論争」が起こり「宗派」が増えたのである。
更に進んで「大乗仏教」の時代でも、この分析は続けられ、特に「唯識」(唯物視論)が示した「心と煩悩」の精緻な探求が行われ、これが「仏教の煩悩」に対する到達した究極点と成った。

(この段階では最早、「仏教の独善性:宗教の力が社会を牛耳る」が強くなり一般的な思考では難解である。宗教界内部の専門教義に委ねる。)

又、この時代には最終、”「煩悩」は否定しない”と云う所まで到達する仏説も生まれ、それまでの仏教には無かった発想も生じて来た。
(所謂 これが世に云う「如来蔵論」である 「青木氏」は「阿弥陀如来信仰」)

「如来蔵論」
この両者の思想はその後の「大乗仏教」の仏説に大きく影響を与えた。
この様に「煩悩の観念」は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化して云えるのだが、問題は「古代密教」、取分け「浄土宗」では無く「浄土密教を教義とする青木氏」で「阿弥陀様を主信する氏族」の「煩悩に対する考え方」は、他の氏と大きな異なりを示していた筈である。
日本全国8000氏の中でも、ただ1氏の「青木氏」のみが「古代密教の浄土密教」を継承していた事に成ると云える。
とすると、果たして、「古代密教の浄土密教」とはどの様なものであったのかは「青木氏」そのものを研究しなければ、この「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」−「浄土密教」の「煩悩の教義」が明確には成らない事に成る。
それを解明する事が出来るのは、この「青木氏の家訓10訓」、取分けこの「家訓9」に隠されている筈である。
それを上記した共通した「煩悩の教義」を先ずは参考にして導く事で、その差が読み取れて、その結果、この「家訓9」の本意が読み取れる筈である。
当然に、「青木氏の守護神(神明社)の論文」とも大きく関わる事に成る。それは悠久の歴史の中の「青木氏の生き様」を通して明らかに成る事を意味する。

(余談 故に、「家訓8」で投稿を一時止めて、「青木氏の守護神(神明社)」の既に作成済みの論文を再編集して投稿を先行させた。)

「家訓9」
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩悩)

「智慧の領域区分」(重複)
1 隠の行 (表: 話−編−歴)
2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」
「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」を採らず
「和に対する心得」を堅持
「神明社」に対して「八幡社」
以上の様な大きな差異が当初から存在したのであるが、更に詳細には差異がある。

そこで、先ず、”「煩悩」に勝るべし”とある。”煩悩から解脱せよ 悟れ”とは当然に云っていない。それは、”「煩悩」は否定しない”の前提にあるからだ。
字句は、”勝るべし”と云っている。
これは、”「煩悩」がある事は人として当然の事である。「般若心経」の一節 「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示であるから 拘るな”である。
”勝るべし”とは、”「煩悩」に拘るな”である。

この「煩悩」に拘らない為には、”「煩悩」に対しては別に「何らかの術」を以ってそれを乗り越えよ”と成る。それで無ければ、結局は、”煩悩から解脱せよ”と同じ事に成る。

「煩悩」は人間が持つ本能である。それを押さえ込む事の苦労は、「煩悩」から受ける苦労(人の苦労)より遥かに大きい。それを押さえ込む事によるリスクは遥かに大きく、押さえ込んだからと云って人間の質が向上したとは言い難い。むしろ、大きすぎて「捻くれる事」のリスクの方が大きい。
”押さえ込む事”が出来てその質を向上させたとするそんな人間は「神」以外に無い。
そもそも、その「神」とは「全ての煩悩に解脱した万能物」を云う。
”「煩悩」を無くせ”は、”「神」に成れ”に等しい。そもそも”「神」で無いから「人」なのだ”
”「煩悩」を無くせ”の教義は、そもそも「人」に云う教義では矛盾している。
然し、”「煩悩」に勝るべし” とすれば「人」に云う教義としては正等の教義である。
兎に角も、「神」に成る前にそもそも「人の変化」(へんげ)の「仏」がいる。
では、その「仏」は仏説では、”「過去、現在、未来」の3世に生きる”と明言している。
真にそれを「般若心経」に主な教えとして明言している。
真に、「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示である。
「人」は3世に生きるのであれば、「人の変化」の「仏」は4世に生きている事に成る。
そして、この「煩悩」はこの「仏の教え」としているとすれば、論理的には、やっと「人の変化」の「仏」の「4世の世界」で「煩悩」から解脱出来る事に成る。
これはそもそも論理矛盾でおかしい。
更に「仏教の矛盾」がある。「4世」でやっと悟った「仏」と同じ事を「現世の人」に課せる事には矛盾が起る。
古代の「般若心経」では ”拘るな”と説いていながら、「平安期の前後の教義」では上記した様に「人」に大也小也に「解脱」を要求している。これでは平安期前後の宗教界は「般若心経」を無視している事に成る。
「仏」が「仏」に云うので有れば問題は無い。然し、生の「人」に説いている。
あまりに独善的で学説的な過剰な宗教理論を展開した為に、上記の様な「平安期の仏説」には疑問や矛盾が目立つ。

A (奈良期)−平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期−(鎌倉期)説 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「般若心経の教示」からすれば、「人」に出来る事は ”「煩悩」に勝るべし”以外に論理的にあり得ない。
筆者は、この ”「家訓9の説」(古代密教説)が正しい” と考えていて、更に、日本に渡来伝来した時の「原始仏教−古代仏教」の仏説教義では、”煩悩に勝るべし”の近い言葉であったと考えているのである。
それは、「般若心経」の教示の通り、当初は ”「煩悩」のある事を知り、然し「煩悩」に拘るな”であったと考えられる。これであれば平安期末期頃の仏説の様に矛盾は起こらない。
況して、”煩悩に勝るべし”では、「勝る」には何かが必要であり、それは必然的に「仏」より「上位の神」が与えた「智慧 知恵」を必要と成る。
大事な事は、”「智慧」は「下位の仏」では無く、「上位の神」が与えた” と云う事だ。
「神」は無意味に与えた訳ではない筈である。「何かの意味」の為に与えたのだ。
答えは決っている。その為に、「神」は「煩悩」を持つ人のみに「解消の具策」として「智慧」を与えたのだ。
この時、人は ”どうしたら勝る事が出来るか”考える。当然に「智慧」を働かせる。
上記した様に「智慧・知恵」は「神」から授かった「人間特有の術」である。
その「智慧の術」を使って「煩悩」に対峙する事で「人」は進化する。
「進化する事」で、少なくとも動物本来の有する「煩悩」からは「解脱」とも成らずとも少なくとも「妨げの助け」(軽安減)と成るであろう。
要するに「軽安減」と成る。つまり、「智慧の術での軽安減」とも成れば「拘り」とは成らない。
これは「自然の流れ」の中にある。むしろ、「人」である限りは「煩悩」とも限らず「当然の仕儀」であり、斯くあるべきとも成る。
だから、次ぎの「心所区分」として「智慧」に付いて論議されているのだ。
”平安期に「心所区分」として定義されている” と云うことは、これは ”「智慧」が何らかの「煩悩」に関わるもので在る事” を認識していた証拠である。
然し、此処では ”「智慧」は「煩悩」を起す要素の一つだ” と説いているのだ。
「智慧」は「煩悩」の「解消の具策」とはしていないのだ。
ここが ”大きな勘違いであった” と「古代密教」は論じているのだ。

ここで、それをもう少し詳しく論じて観る。
上記の(心所区分 A)の4つの「智慧」から齎される「煩悩」
(重複)
1 隠の行 (表: 話−編−歴)
2 遍の行 (意: 触−受−想−思)
3 別の行 (欲: 勝解−念−定−慧)

4 善の行− (信):
    「解脱系」   精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡
    「勝解系」   軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

”「智慧」は「煩悩」である” とする「平安期の教義」の上記「4つの煩悩」の中に、「4の善行」の項に ”軽んじる”と”安んじる”の「軽・安」が定義されている。
然し、「4の善の行」の他は明らかに「6根の煩悩」である。
又、「3の別の行」の項には、 ”勝る事から解する” の意の「勝解」が定義されているし、上記した「慈の愛」での「慧」も定義されている。「慧」もあるとすれば同意の「念」もあり得る。

これは「家訓9」では ”勝るべし”としていた事から、「3の別の行」と「4の善の行」の教義に該当しているが、「智慧」を出す「術」を、1の「隠の行」と2の「遍の行」の内容とすれば「家訓9」に該当する事になるだろう。ところが良く考察すると、”該当していない”のである。
その前に、先ず、この「1から4の定義の扱い」を ”違える事” があるからとして、「平安期の学問教義」では「煩悩としての扱い」にした可能性がある。
「平安期の仏教学的教義」では、”「智慧」は「煩悩」である” と認定した上で、「古代密教の教義」では、元は一つであったものを「智慧」をこの様に先ず分類して、「1から3の内容」で”違える事”があるから、だから”違える事”に依って、”「4の善の行」の「煩悩」と成ると、強引に誘引して「仏教学」として説いたものであった”と考えられる。
「4の善の行」の「信」に分類される「前6つ」は、真に「6根の煩悩」類で「解脱系」であり、「後4つ」は「勝解系」とに分類される。
そして、この「4の善の行」の「信」は、”「違える事」”に成るかどうかは、この「信」(信じる事)に関わるとしていて、”「信じる事」の如何に依って「善の智慧」も「煩悩」と成り得る”とする論理としたと観られる。

要するに、”「違える事」にする為の「論理的な理由付け」を見つけ出した”と考えられる。
この無理な「論理的な理由付け」の「後付け論」を観て、そうしなければ成らない「時代の状況」に追い込まれていた事が頷ける。
恐らくは、「古代密教」では、「4の善の行」のみの中に「1から3の内容」を組み込んでいた教義であったと予想できる。
何故ならば、”「1から3の内容」はそれは「智慧」に到達する為の「プロセス」に過ぎない”からである。
現に、「古代密教」を継承している唯一の「青木氏の家訓9」から読み取れる教義では、「3の別の行」に ”勝るべし”、即ち、「勝解」が入っている事が、これを証明している。
確かに、「智慧」はこの「1から3のプロセス」を経て発せられる事は確かである。
然し、それはあくまでも「智慧」の「4の善の行」を成し得る為のプロセスに過ぎない。
このプロセスを経て始めて「智慧」と成り効果を発揮し得る。
即ち、「古代密教」、即ち、「青木氏の教義」では、「智慧」=「4の善の行」 のものであった事が判る。
当初の「古代密教の教義」には「解脱系 6つ」は無かったと考えられる。

そもそも、この未だ「智慧」と云う形に至っていない「プロセス」のものを引き出して ”違える事” として「煩悩」とする説には飛躍が有り過ぎる。
故に、”実用化しない傾向の在る「仏教学の学説論」だ” と、「古代密教 説青木氏の教義内容」の検証と、合わせて「平安期の仏教学的教義」を論評している。
故に、”大きな勘違いであった”と成るのだ。

仮に、この”違える事” がこのプロセスの中であるとしても、それは「一時的な期間の現象」で「煩悩」として見えている事であって、「智慧」の「目標とするある期間の末」にその「智慧の効果」が発現すれば、「一時的な期間の現象」は問題は無く、それは「智慧」とする範疇の中に在る。
そもそも、「智慧」とは、”ある「期間」と、ある「状況」と、ある「人様」の「本質の領域」を持ったものである。
”「智慧」を出したからと云って、直に効果が出なくては成らない”とする定義は仏教にはない筈であるし、そんなものはそもそもこの世に無いだろう。
この世の「森羅万象」の全てものには「醸成領域」と云うものを持っている。例外は無い。それがこの「世の条理」である。当然に、「神」が創造した「人の脳」から発する「智慧」も例外では無い。
これを「一プロセスの過程」で ”「違える事」” 事があるからと云って、「煩悩」とするは「醸成領域」の「世の条理」を無視した事を意味する事に成る。

現に、仏説に「三相の理」と説いているではないか。この「智慧の醸成領域」は、「人時場」の「3つの理」に合致している。「期間、状況、人様」の「智慧の本質領域」である。
況や、”この「世の善成るもの」には必ずや「三相の理」が伴なう。 「三相の理」無くして「善の結果」は得られない”とする仏説汎教でもある。
「古代密教」(青木氏の教義)では、云うまでも無く、「醸成領域」を持つ ”「智慧」は「善」”である。故に、”「善」は「4の善の行」の「勝解」と成る”とする所以である。

「平安期の仏教学的教義」の「煩悩説」には「拘り」が過ぎて他の「重要な仏説」を忘却してしまった説と言わざるを得ない。
真しくこれこそが「般若心経」の「拘り」の見本である。犯しては成らない事を仏説自らがこれを犯している。
況や、「三相の理の仏説」も含めて、”「拘るな」”とする「根本の仏説」をも無視している事に成る。

然しながらも、兎も角も、古代密教の「青木氏の教義」は ”勝るべし”(勝解) としたが、これには何か意味がある。

「家訓9の添書」の文脈から読み採ると、次ぎの様に成る。
「智慧」には”「煩悩」と成り得る「慧」”と、”「煩悩」と成らない「慧」”があるとしている。
「煩悩」と成らない「慧」は問題は無い。(但し、「慧」を「煩悩」とは決め付けていない)
むしろ、この”「煩悩」に成らない「慧」”は、”「煩悩」に成る「慧」を賛く”として断じている様だ。
依って、”煩悩に成らない「慧」”は ”煩悩に成る「慧」”を”減殺する”と論じていて、終局は”「智慧」は「煩悩」と成り得ない”と結論付けている。
依って、文脈の要約を採り纏めるとすると、次ぎの煩悩の数式論的な事が成立するとしたのである。

「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」−「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

この「3つの数式論」が成立つところに「家訓9」の”煩悩に勝るべし”と成るのだ説いている。
この世は現に進化しているのだから「進化」=「勝」はこの「現世の理」であるとしている。
そして、ここには、一行”「智慧」の「慧」の「慈」を忘却ならず”と付加えている。

この「3つの数式論の智慧論」はどの様な背景であったのかはこの数式論を検証して直ぐに判る。
それは、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた「物造りの神」「豊受大神」が証明している。
「物造り」は「智慧の発露」の結果であるからだ。
”「人」を豊かにする「智慧」は、「人」を苦しめる「煩悩」とは到底成り得ない” としているのである。
故に、上記の通り、”「豊かにする智慧」は「善」であり、「慧」は「善」とする「慈」である”としているのだ。
依って、「青木氏の伝統ある教え」は、”「慈」は「愛」であり、「悪の愛 煩悩と成る愛」は存在し得ない”としているのである。

「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」 
∴「智慧の煩悩は存在せず」

平安期以降の「愛は必ずしも善と成らず、「悪の愛」があるとする」の教義とは明らかに異なっている。

ここでは、明らかに「教義の前提」が異なっている。
故に、「平安期以降の各種の宗派の仏説」の「智慧の煩悩」(4つ煩悩 心所区分 A)とは論説は異にする。
故に、「青木氏の伝統ある教え」は、「平安期前の密教の教義」である事に成り、この論説は、”「原始仏教−古代仏教」の源説であった” と観ているのです。

「伝統の教え」
「青木氏の守護神」 「皇祖神−子神−祖先神−神明社」の「親神 豊受大神」の「物造りの神」の教えと、上記する「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の教示とが「青木氏」の中で習合して、平安期初期前後頃には、この「家訓9」の ”煩悩に勝るべし” の「伝統の教え」が完全に確立されていて、子孫に脈々として伝えられて来た事が判る。
この「家訓9」の「伝統の教え」は、単独で伝えられる事は有り得ず、伝えるには其れなりの「伝達力」を必要とする。それで無ければ今日まで伝えられ無かったと考える。
その「伝達力」に成り得るものは、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の「確固たる組織の団結力」に依って支えられて、この「青木氏の教示」たるものが延々と換える事無く引き継がれて来たからに他ならない。
それは、「口伝」のみ成らず、「青木氏の生活基盤の支え」としての「教え」として信じられて来たからこそ「家訓として遺しえた教え」であった筈である。

そして、”この「伝統の教え」には「伝達力」としてのもう一つの力が働いていた”と考えられる。
この「伝達力」無くしては「教えの伝統」に成り得なかった筈である。
そもそも、「伝統」と成るものは、”何でも伝えれば伝わる”と云う話では無い。
「伝わる幾つかの条件」が備わっていたからこそ伝わるのである。
「正しい伝統」に成り得るものは全てこの条件を備えている。

(筆者の物理系技術者の論理では、この世の万物は例外無く「伝統伝達」(この言語に類する全て物)の条件が備わっている。所謂、これは摂理である。
(例えば、分子の構造理論でもこの伝統に類する物を「伝達する条件」が定理で存在する)

その意味から、上記の「青木氏の守護神」の「物造りの考え方」が、この「家訓9」を導いた事は云うまでも無いが、「神仏習合」に至るまでには「物造りの考え方 智慧の発露」以外に「習合」と云う形に至る前に「接着剤」と成る何ものかが無くては「習合」に至らないのでは無いかと考えられる。

 「接着剤」
では、”その「習合」に至る「接着剤」とは何ものか”を検証する。
そもそも、何かと何かが一致したからこそ「習合」と成り得た筈である。
それは、「仏教」と「神教」の間にある共通する「何かの教え」があって、この「世の摂理」として何事もそうである様に、「陰と陽の関係」の様に引っ張られて其処で「習合」が起ったのであるから、それを見つけ出せば良い事に成る。
但し、恐らくは、祖先が「習合」と限定して書き記している以上は、「陰と陽の関係」では無い筈で、「習合」の意味からすると「神仏」の何れのにも「共通する教え」であった事に成る。
そして、それはほぼ「同じ意味する処」を持っていたからであろう。
故に、直ぐに「生活の中の教え」として取り上げられて、”青木氏の大きな組織に「伝統の言」(家訓)として引き継がれて来た”と考えられる。
そして、その「考え方」が「神教側」にも、「仏教側」にも主に「教え」を伝える氏の中に「専門の者」が存在していた事が云える。
そうでなければ、長い間に迷路して違う形に成っていた筈で、「家訓9」の形では遺し得なかった事に成る。
それが青木氏だけに脈々と備わっていた事を示唆している。
従って、その ”「伝達司」(接着剤)と成ったものは何なのか” と考えれば良い事に成る。
答えは、ここでは「神仏」に関わる「青木氏固有の特長」であるのだから、最早、議論の余地無しである。

「伝達司」(伝達子)
「神教側」では、「青木氏の守護神」の神明社の「神職」は「自らの氏」から出している。神職宮司である。
「仏教側」では、「青木氏の密教菩提寺」の「住職」は密教であるから「自らの氏」から出しいる。住職僧侶である。
この条件は完全に備わっている。
この「2つの伝達司」(伝達子)は、何れも「青木氏」にこの教示を説いていて、青木氏に関する全ての「記録と伝達」を職務としている。
当然に、この「2つの伝達司」(伝達子)は、「神教側からの教示」と、「仏教側からの教示」の中で、この「記録と伝統」を同元として教示している事に成る。
そう成ると、この「2つの伝達司」(伝達子)の云う事が異なる事は、「混乱」と成り伝達に値しない事に成る。「神仏の社」を独善的に共有している以上は、異なっていれば「氏」その物が存立しない事に成る。
「青木氏」としての ”「統一した記録と伝統」が双方にある” と云う事に成る訳であるから、「習合する部分」に於いては、「統一した教示の伝達」がこの「2つの伝達司」依って成された事に成る。
つまり、「氏の教示の統一」を神仏双方で教義し議論された筈である。
少なくとも、「青木氏」の「守護神」と「密教菩提寺」が存在する以上は、「伝達司」(伝達子)による「統一した教示の伝達」は成し得た事に成る。
依って、「統一した教示の伝達」の記録より明治期初期までは確実に起こっていた事に成る。

(筆者の「伊勢青木氏」では、歴史上、「奈良期からの不入不倫の権」で明治初期まである程度保護されていた事から、一部では明治35年の焼失もあったが大正14年までの各種の記録が遺されている事でも判る。)

さて、「2つの青木氏に依る伝達司(伝達子 接着剤)」がいるとして、次ぎはその習合するその教示の解明である。

この「家訓9」では ”煩悩に勝るべし” として「煩悩」から逃れられる「術」を会得した。
要は ”「智慧」を使って勝れば良い事”に成る。
そして、その「智慧」は「善」であって「煩悩」では無い事であった。
そして、改めて記するが、次ぎの「3つの数式論」が成立つと説いた。

「3つの数式論の智慧論 仏説論」
「煩悩」を消すには「智慧」として「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」−「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

「勝」=「現世の理」=「進化」
「智慧」=「慈」=「愛」

∴「智慧」>「煩悩」=「勝解」

「3つの数式論の智慧論」=「青木氏の守護神(神明社)」=「物造りの神」「豊受大神」
「物造り」=「智慧の発露」

「神仏習合論」
∴「物造り」>「煩悩」=「勝解」

「神仏習合の附帯条件」
「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」
∴「智慧の煩悩は存在せず」

以上の9つの数式論で、「神仏の教え」は習合した事に成る。

さて、これでは「神仏習合の方法論」では成立つが、「神仏習合の条件」としては充分では無い。
次ぎは、解決して置かなければ成らない事は、この附帯条件の「智慧=慈=善=愛」と成す「智慧の発露の仕方」であろう。
これを解決しておかねば「絵に書いた餅」の論と成る。

「智慧の発露の仕方」
然し、もうお気づきと思うが、これも既に解析済みである。
先ず、「神教」の答えは、「青木氏の守護神(神明社)」−21、22の段で充分に論じた。
「自然神−鬼道神」を起源とした「皇祖神-子神−祖先神」の「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)を ”「心頭を滅却」して、「人間の善の意思」を獲得する事だ”と論じた。
(「善」論は附帯条件)

そして、「仏教」では、「原始仏教」−「古代仏教」の教示は本文の上段で論じた。
「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」
この解析は、簡単に云えば、”俗説 拘るな”であった。
では、”どの様にして拘らなくすればよいか”の条件を解析する。
そもそも、”拘り”は「我執」である。
「煩悩」の元は、「我執」としている「仏説」としては、”「拘り」は「煩悩」ではないか”と云う疑問が生まれる。
然し、密教の「我執説」の「6根」にはこの”「拘り」”は定義されていない。

6根:「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」

平安期のこの「6根」から観ると、「拘り」とは、この「6根」では、 「瞋」と「慢」に類似する。
然し、次ぎの様に定義される。
「瞋」は、「攻撃する本能」即ち「怒り」として定義されている。
「慢」は、「わきまえ」を超えた「欲」として定義されている。

そもそも、「拘り」は「攻撃、怒り」では無いし、「わきまえ」の限度ではあるが、必ずしも「欲」に値しない。
従って、平安期末期以降の仏説では、”「拘り」は、必ずしも「煩悩」ではない” 事に成る。
然し、「般若心経」には 「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”となるから、 疑問が生まれる。
何故ならば、全ての仏説の基と成っているこの「般若心経」とはこの「平安期の仏説」は異説であるからだ。
この疑問を解決して於かなくては「神仏習合の条件」の答えは出ない事に成る。

其処で、これを論じて解決する。
「拘り」が、「平安末期以降の煩悩」として定義されていない事に付いての疑問と、或いは、”「拘り」は「我執」としたが、「我執」ではないのか”、この疑問の「2つの前提」を解決する必要がある。

「2つの前提」の検証
先ず、「拘り」の言語は、俗説としては、”ある事に「必要以上」に「自分の良悪の判断領域」で、この事はこうあるべきだ” と「限定」して、”「自分の心」を一時的に「洗脳」して「固着」してしまう状況” で訳される。
然し、此処には、「必要以上」、「自分の良悪の判断領域」、「限定」、「洗脳・固着」に問題がある。

この4つの中、前の2つの「必要以上」と「自分の良悪の判断領域」は、次ぎの様に成る。
”その限度がどの範囲で適切であるのか”
と云う事に成る。

後の2つの「限定」と「洗脳・固着」は、次ぎの様に成る。
”個人の性癖で起る現象”で、その個人の”人格技量の形成範囲を問われている。”
と云う事に成る。

この4つは、「人」として、「大人」としての「未量と未熟」に起因する事を意味する。
さすれば、この「未量と未熟」を会得解決する事で、 俗説の”拘り”は解決する。
この「未量と未熟」を大人として獲得すればこの「拘り」は解決する。

とすると、上記で「煩悩」とは、”人に持っている「潜在的・先天的な性」”と上記で説いた。
従って、”「未量と未熟」は年齢を経て、「経験と知識」を獲得する事で霧消する事に成る。” のだから、この「拘り」は何時かは霧消する事に成るから「煩悩」の定義から外れる事に成る。
故に、「平安末期以降の仏説」では「煩悩」として定義されていない事が判る。
当然に、「拘り」は「我執」として扱われない事に成る。
これで上記の「2つの疑問」(2つの前提)は解けた。

そうすると、次ぎにでは、 ”「俗説の拘り」は、「仏説の拘り」では何と表現するか” の問題を解決する。
「般若心経」の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”は、上記の「拘り」の言語の定義から、「未量と未熟」を解決すれば、「大人」として事に過敏に反応する事は無くなり、その「心の安定」から、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を獲得出来る事に成る。
そして、これを先ずは、 ”人として会得せよ” と説いている事に成る。

(俗説と仏説の「拘り」−「未量と未熟」は、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を阻害する最大の障害である。)
要するに、「泰然自若の心得」が必要と成る。(家訓の「長の心得])

要するに、俗説の「拘るな」では無く、「教典」であるのだから、「泰然自若」の ”「無意、無心、無念、無想の心境を会得せよ」”と成る。

この教示とすると、上記での(心所区分 B)の「智慧の領域区分」に、この事に相当する事が定義されている。
注釈
(心所区分 B)
智慧の領域区分
1 隠の行 (表−話−編−歴)
2 遍の行 (意− 触− 受− 想− 思)
3 別の行 (欲 − 勝解−念− 定 )
4 善の行

特に、、”「無意、無心、無念、無想」”は、上記の 「2 遍の行」の(意 - 触 - 受 - 想 - 思)に相当する。

更に、故に、「3の別の行」の「勝解」から、「家訓9」は、”勝るべし”と表現した事に合致した事に成り、納得一致出来る。

「無心」は、「3の別の行」の「念」に成る。
「思」は「無想」に通じ「無思」に通ずる。
「定」は、「拘り」の定義の「限定」、「洗脳・固着(定着)」にあり、「無定」である。
「1の隠の行」は、「智慧の本質」の行であり、「智慧」は「無意識の潜在性」から発する「脳の働き」を「隠」として区分けしている事に成る。
この「隠」とする4つは、歴は「(記録)」、編は「(工夫)」、「話」は「(調聞)」、「表」は「(開研)」に依って生まれる。

確かに、「智慧」は、”歴の「記録」”から引用して発露し、何かを”編の「工夫」”して発露するし、話の”調”べたり”聞”いたりして発露するし、表の”開発”したり” 、”研究”したりして、発露する事は確かであり納得出来る。
確かに、この「1の隠の行」は ”「4つの諭し(智し:さとし)」” であり、「人」は自然の営みとして理解し脳を働かせる事が直ぐに出来る。
そして、”これ等の「1の隠の行」は、「2と3の行」の「智慧の発露」(「無意、無心、無念、無想」)に依って達成する事が出来る” と説いている事に成る。
(4の「善」は上記で論じた)

「1の隠の行」→「2と3の遍・別の行」=「智慧の発露」=「無意、無心、無念、無想」→「4の善の行」

以上の検証で、分類方法は別として、平安期末期を前にした「浄土宗密教系の仏説の教義」は、「平安末期後の教義」と論理的に一致して納得出来る。

とすると、次ぎの様に成る。
平安前後の「2つの仏教の教義」の終局の解析は、「無意、無心、無念、無想」に通ずる事に成る。
況や、”これを会得する事(大人に成る事)で達成出来る”と解ける。

「神教」の教義では、「無意識の智慧」を引き出す事にあるから、「無意、無心、無念、無想」して「俗世の邪念」を廃し、「無意識の領域」に到達出来る”と説いた。

故に、この「仏教」と「神教」の「共通項(「智慧の発露の仕方」)の教義」は、”「無意、無心、無念、無想」で一致する事に成る。 
(”「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)” ”「心頭を滅却」して”)

故に、「神仏習合」は、この究極の「無意、無心、無念、無想」で一致しているので成せる事に成る。
この「無意、無心、無念、無想」は、上記した様に、「未量と未熟」を解決して会得できれば、況や「大人」としての「人格」(経験と知識 1の隠の行)を身に付ければ、”事は成せる”と成る。

(注釈 これ等の事柄は、「青木氏の家訓10訓」(「人格」の経験と知識は「家訓8」)に記載しているが、「青木氏の密教」では、「心所区分 B」の内容は「家訓」に反映していた事を物語る。
筆者は、この平安期の煩悩教義の「心所区分 B」はこの「古代密教の考え方」を継承する「青木氏の家訓10訓」からの引用(影響)では無いかとも考えている。)

「大人としての人格」は、逃れる事無く、等しく全ての者に課せられる「最低限の義務」である。
課せられる「最低限の義務」を果し得ない者に「神仏の加護」は与えられない。そもそも「煩悩」云々の例外である。
況や、仏説の「縁無き衆生 動し難し」、「人を観て法を説け」の説法である。
「最低限の大人としての責務」の獲得に努力しない者には「神仏の加護」は無いのが当然であり仏説云々の以前の問題である。

「習合策の根拠」
これは、「守護神」と「古代密教」の考え方の両方を保持している「青木氏」ならではの「神仏習合」である事が判る。
では、”何故、習合としたか”の疑問を検証する。
他に、歴史上にもある様に、「併呑」、「連携」、「合体」(民の一体もある)等の形があるにも関らず、上記する様に、上記の様に「発露の仕方の教義」では一致しているのだから、少なくとも、「併呑」か「合体」でも有り得た筈である。

先ず、「神教側」から観れば、「皇祖神−子神−祖先神−神明社」として独立してその役目を果していた。(青木氏の守護神(神明社)」の論文参照)
「神教」は、「青木氏の守護神」である事以外に、「青木氏」のみならず「民の領域」までを導く「心の拠り所」としての存在であった。
そして、この「神教」は「政治・軍事・経済」の「3府の国策」であった。

一方、「仏教側」は、「密教」を前提としている以上、「青木氏のみの仏教」であり限定されている。
その教義も、「青木氏」と云う「立場・役柄・身分・家柄」に限定した「3つの発祥源」の範囲での教義であった。
むしろ、「青木氏の密教教義」を確立させなければ「3つの発祥源」などの「立場・役柄・身分・家柄」を維持させて行く事は不可能であり、「必然必須の条件」であった筈で、当然にして「密教の影響」を受けた「家訓」も「必然必須の条件」の中にあった事は否めない。
況して、「青木氏の守護神」も存在すると成れば、最早、「必然必須の条件」を超えていたと考えられる。

(筆者は、その意味でこの「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」は「一対の教具」であったと考えている。故に、「国策氏」で「融合氏」として公然としていた事は世の史実であり、特に「神仏の宗教界」の中にはただ一つの「神仏の牽引する密教氏」としても存在していたのであるから、「平安期の煩悩仏説」には、この「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」(青木氏の生き様)を当然に見聞し、その「青木氏の生き様」を目の辺りに観ていた筈であり、因って、「引用影響説」を採っている。むしろ、平安期には守護神の「青木氏の神職」(486)と密教菩提寺の「青木氏の住職」(141)が神仏の宗教界に君臨していたのである。”影響を受けていない”とする方が疑問である。)

その典型的な事として「原始仏教−古代仏教−古代密教−古代密教浄土宗」の「青木氏」の独特の経緯を経た「密教菩提寺」がこれの全ての「有り様」を物語る。

そもそも、「密教である浄土宗 菩提寺」は、その「氏」の菩提を祀う「菩提寺」を独自に建立する。
同時に、其処に密教としての「独自の教義」を確立させる。
「皇族賜姓族青木氏」で有れば25氏ある事に成るので、その出自の慣習から分家分派分流を起さない前提であるので、少なくともその土地毎に「一つの氏」の「密教菩提寺」を建立する。
「特別賜姓族青木氏」であれば116氏あり、24地方に分布する。
藤原秀郷一門に習って一部は分家分派分流するので、最低でも「116の密教菩提寺」が存在し其処に「青木氏の密教教義」を統一させて少なくとも24の各地に存在する事に成る。

特記
研究中であるが、「西光寺」:密教系の強かった知恩院系浄土宗 秀郷一族一門の定住地に必ず同名で存在する。60以上のこの共通名の寺が定住地に必ず存在する。
この寺は平安時代の「空也」(僧侶)が建立したと云われている。然し、「空也」が、そもそも、これ程の60以上もの寺と30程度の地域に同名の寺の建立は、財政的にも、物理的にも、時間的にも、地域的にも絶対的に建立する事は無理である。そもそも、寺社建立権は、一族一門の許可無しで建立は叶わず、平安時代は朝廷の許可無しでは建立出来なかった許可制であり、江戸時代まで許可制で規制されていた。室町期中期までは「特定の氏族」に限定されていた。
又、秀郷一族一門の土地に一族一門の許可無しに勝手に建立できる社会ではなかったし、この時期は未だ密教であり、密教で無い浄土宗の檀家寺を建立する事の事態が時代考証が成立しないし、この時期の「民の信仰」は、この時期は浄土宗帰依は未だ無理であり、民の信仰対象の浄土宗の檀家寺は明治3年以降のものであった。
江戸初期に密教体質を払拭して「家康」が「浄土宗督奨令」を出し、「高級武士の帰依」を始めて認めたもので、その後、中級武士にも広げられたものである。
「平安期の空也建立説」はこれ等の事を完全に無視している。
且つ、況して、平安期では、「建立権」を保有している氏は限定されていて、「青木氏」の様な、「朝臣族」に限定されていた事から、「空也の建立説」は不確定で良くあるある思惑に左右された搾取偏纂した「後付け説」である事が判る。
仮に、「空也」とするならば秀郷一門が「空也」(僧侶)の名の下に建立し、説法としたと考えられ、この「西光寺」は明らかに秀郷一門の菩提寺と観られる。
この寺は一族一門の領国付近に多く、この60以上のリストの中以外にも一族一門が定住していた地域に15程度の「西光寺」がまだある。現存している。
「秀郷一門菩提寺説」を裏付ける「西光寺の寺名」にはある意味を持っていて、「朝臣族賜姓族」の「菩提寺の寺名」と共に「ある共通するもの」を持っている。内容は個人情報に関わるので不記)

従って、「神教」の守護神の486社もの「神明系全社」が、「全青木氏の共通の神社」と成り得るが、「仏教」に於いては全青木氏の「密教の菩提寺」とは必ずしも成り得ない。各地に定住していた「青木氏の菩提寺」であるが、教義は共通するが「全青木氏の共通の菩提寺」とは成らないのである。
青木氏の守護神の社とは異なるところである。ここに大きな「解離」と成る事が生まれる。

又、この「解離」があるが、「習合」には、「3つの発祥源」である限りは、「神教と仏教」の何れにもその「象徴」であり、必然的に「象徴としての立場」は厳しく存在するので、「併呑、連携、合体の有り様」には問題が生じる。
「武家の象徴源」であるからとしても、「武」を以って「氏家」を立てる事には成らず、必然的には「武家の象徴」である限りは、「和」で以って生きる事以外にはその存在の意義は無い。
そもそも、元来、「象徴」と云う「立場と役目の手枷」がある以上は、これは「神教側」に於いても、「仏教側」に於いてもその「立ち位置」は変わらない事に成る。
故に、「神教側」も「仏教側」も「3つの発祥源」を護る立場がある限りは、「併呑、連携、合体の有り様」は不可能であった。

とすると、”教義が共通する事”と成っても、「併呑、連携、合体の有り様」とは成り得えない。
その夫々の役柄から絶対に逃れる事から出来無い。
神仏両社が共に ”寄り添い合う”と云う形の「習合」で纏める事が以外に無い事に成る。
これがむしろ、「青木氏」に取ってはこの「立場と役目柄」から平安期中期までとしては「理想の形」であったのである。

「家訓9」の ”「煩悩」に勝るべし” の教えは、「神仏習合」に依って「無意、無心、無念、無想」で一致し、”時に当り、この「無意、無心、無念、無想」の極意を得て、「人格」を磨き「煩悩」に勝り、「長」としての立場を全うすべきである” としている。

「添書要約」
添書には、要約すると、つまり、”勝るべし”の極意「無意、無心、無念、無想」は、”「武」にあらず” と言い切っている。 ”「武」に対して「和」を以って成すべし”として諭している。
しかし、文脈からは「武」そのものを誡めている様ではない。”「武」は子孫存続には必要な人間に与えられた「必要不可欠な処世術」”として説いている様に漢文の語意から読み取れる。
”「武」を戒め、「武」は術” には、「武」に対する捉え方にあると考える。
「武」を誡めれば「和」を尊ぶは条理である。
しかし、これも又、”煩悩を否定しない”と同じ論法である。

(漢文の解釈にはこの論調が多いので苦労する。「般若心経」の上記の解釈と同じで読んだ通りの文意では答えは出ない。事程左様に、仏説の「般若心経」を解釈できるまでの若い時はさすが解釈出来なかった。直接表現を善しとする現代に生きる人間の苦労の一節である。況して技術屋である筆者には「含み文意」を文章の常識とする古代文には正直疲れた。「脳力」が極めて消耗する。)

これを ”どの様にして理解して「和」に到達させれば良いのか” 苦労する。
”半ば「武」を否定し、半ば「武」を肯定している。” と成れば、「武」の解釈に「何か」ある筈である。
”その「何か」は何なのか”の疑問が残る。
「3つの発祥源」の「融合氏・国策氏」で、「古代仏教」−「古代密教」の「教義」を「氏の主体」として、且つ、「皇祖神−子神−祖先神」の「古代神教の教義」と慣習を持ち合わせ、「悠久の歴史」を持つ「氏の家訓」である。
従って、「何か」があるのは当然であるのだが、それを解くには「氏の全体の歴史の経緯や変異」を事細かく掌握しなければ出て来ない筈である。
それには、神教側の方に多く答えがあると考えられ、「青木氏の守護神」を解明が必要であった。
故に、見直しの為にも「青木氏の守護神」に関する論文を投稿を先行させたのだが、答えは出た。

「抑止力」
それは、次ぎの答えであった。この答えの論調で説けば附合一致する。
「武」は、最終は「武」の「武具」を以って「殺戮」に及ぶ手段である。
しかし、「武」の「武具」を無くす事、或いは、使わない事で「武」を果せば、「神教」と「仏教」の煩悩の「最悪の殺戮」(煩悩)は無くせる。つまり「抑止力」である。
「抑止力」であれば未だ「武」である。

その「武具無しの抑止力」を達成させれば、上記の「3つの発祥源」の立場は矛盾無くして保てる。
「抑止力」で「氏の保全」は可能に成る。
青木氏以外の氏が全て「抑止力」だけの「武力」であるとすれば、何も「武」に拘ることは無い。
然し、他氏の多く、殆ど、全ては「3つの発祥源」と云う立場を保持していないし、当然に「神教と仏教」を併用して持ち合わせる氏では無い事、青木氏の様な「古代仏教−古代密教」や「守護神 祖先神」の立場では無い事から、「極意: 無意、無心、無念、無想の教示」は無関係であり縛られていない。
依って、「武」は「武具」を持つ「武」であっても不思議ではない。
この他氏から攻められたとした場合は、青木氏の自らの氏は護れない。
然し、「武具」を有する「武」は使えないとすると、「抑止力」を大きくする事で事前に相手を警戒させて押さえ込めて護れる。(現実には、青木氏にはこの「抑止力」で3度護った)
「武具無し抑止力」では、”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示は保てるし、「3つの発祥源の立場」は保てる。
(そう成ると、「武具」に頼らない「抑止力」と成り得る大きさは必要で、それを補うのは「商いの経済力」が必要不可欠の条件と成る)

「武の疑問」
さて、そうすると、”「武」は青木氏に執って良くないのか” と云う疑問である。
「武」に関する教義としては、浄土宗密教の「煩悩の教義」に次ぎのものが有った。
もう一度思い起こして頂きたい。

重複して記すると、”「煩悩」は、「我執」から起るものであって、その「我執」は「貪欲」「瞋恚」(自分の意に反すれば怒る心)「愚痴」の煩悩があるとして、中でも、「愚痴の煩悩」を主な事としての教義”であった。

然し、「武」の行使は、この「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の連動に依って起る。
この教義に「武」を当て嵌めて観る。

「武」の行使の理由は、”他氏の領地等の奪取”等の「征服欲」に使われ、これは真に「煩悩の貪欲」の極みである。
「武」の行使の発端は、「自己の慎み」を超えて「怒り」を発する時に起り、「煩悩の瞋恚」の極みである。
「武」の行使の原因は、「自己の人」としての「未量と未熟」から来る「判断力の低さ」の時に起こり、「煩悩の愚痴」の極みである。

つまり、「武」は「煩悩の最悪の見本」の様なものであり、「人としての幸せ」(善、慈、愛の結実)を根底より破壊する。それのみならず、死に至らしめる手段(武具)を有する。
仏説で云えば、「武の煩悩」は、「3世の破壊」を意味し、「死の恐怖」を拭う「教典と教示」を前提から否定するものである。
故に、浄土宗と真宗はこの「武」を使命とする「武士」に対して教典に反することである事から「武の道」を説いて「武の煩悩の悪弊」を取り除く「道」を説いたのである。
これが室町期末期頃から「武士道」として確立したのである。

以上と成るが、これを青木氏が「3つの発祥源の象徴」であるとすると、「青木氏」に執っては「武」は「発祥源の象徴」であって、この理屈から観ても「武士道の象徴」とも取れるが、「武の道」では無く「和の道」でこれを払拭したのである。「武の道」は「「破壊、消滅、死」を意味する。
「和の道」は、故に、「破壊、消滅、死」を意味する事とは「反意」である。
この「和の道」は、即ち、「家訓」と厳しい「慣習と仕来りと掟」で構成されているのである。

「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」≠「武の道」(武士道)

さすれば、「武家の発祥源」でありながらも、「武」の実質の役職を持ち得ない「象徴」とも成れば「武」であっても「武力」は持ち得ない事に成る。
況して、”「融合氏」の「融合」は「万物発祥の起源」”である。
依って、到底、「武」は「青木氏が保有するの神仏の教義」に合致せず、「煩悩」の最たるものとして排除しなければ成らない立場に有った。

その為にも、「神教と仏教の教え」の究極は絶対条件として、”神仏を習合一致させる”事に成り、「守護神」と「密教寺」を有する「青木氏の絶対的教示」としたのである。

「和・武の戒め」「抑止力の欠点」
故に、「武の煩悩」を含む「全ての煩悩」に対して、”煩悩に勝るべし”であり、その「勝る」に至る極意は、”極意「無意、無心、無念、無想」の教示である”としているのである。
これが「3つの発祥源」の「立場、有り様」なのである。
そして、添書の ”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示が、故に、「家訓9の戒めの言」と成っているのである。
これが「家訓9」の「和・武の戒め」である。

故に、「武」は「抑止力」で成らなければ成らないが、然し、この戒律には大きな欠点がある。
それは、「世に晒される事」である。

そもそも、「抑止力」とは、”本来、見えないから、不透明だから、その力に「懐疑」が起こり、「自らの力」との差異を計測出来ないところの不安を利用する戦術” である。
これが「世に晒される事」で、不透明さが判明すれば「懐疑」が無くなり、この「力の差」は判明して、自己の力>抑止力の「時」には「武」が採用されて「和」は消滅する。これは「現世の条理」である。
故に、「和」>「武」の形が保てるところに「青木氏」は存在しなければ成らないのである。
そして、この「和の力」を大きくする術、「戦略」が絶対条件として必要と成る。
その戦略とは、「商い」である。
「商い」は「善」であり、「物造り」に通じ、「人の正なる生き様」になり、「神仏教義の極意」でもある。

「和の数式論」
「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」
「商いの利」→「抑止力」=「和の力」
「和の道」=「商の道」≠「武の道」
「和の道」=「和の力」(和力)
「武の道」=「武力」
「武力」=<「和力」→「抑止力」
「青木氏の武の道」=「青木氏の抑止力」

この「商い」が「和の力」、即ち、「武力」に対して「和力」を生み出す。

以上の「和の数式論」とその「相関関係式論」が生まれる。
これが、「家訓9の数式論」である。
この「家訓9の教示」は「家訓10訓」の全ての教示に通じその根源と成っている。

この現在まで続く口伝の ”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”はこの一点にあった。
故に、「青木氏」は悠久の歴史を持ちながら、その「和の力」は「3つの発祥源」の立場にありながら、源氏の様に、「武の皇族としての立場」はもとより「世に出た豪族の立場」は持たなかったのである。
それが故に、「和の力」と「世に出る事の無い立場」を護った事から、「青木氏」は足利氏−豊臣氏−徳川氏から特別庇護を受け安堵されるに至ったのである。
これこそが、上記で論じた「青木氏の教示」の、この「世の人生の目的」とする「子孫存続策」の極まりであったのである。
「青木氏の最大の戒め」
”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”

注釈
(その「和力」(総合力)は、「伊勢青木氏」の場合で計算すると100万石以上の力は充分であったし、これに「3つの発祥源」としての「象徴としての権威力」が備わっていた。
それだけに世に出る事には利用される危険もあった。然し、この戒律を護らなかった例外はあった。
室町期に信長−秀吉に利用された青木紀伊守と伊賀守の2人が歴史上の舞台に踊り出た。故に、この皇族賜姓族は滅亡した。ただ1度「伊勢青木氏」は、信長に対して「名張りの戦いの伊賀攻め」で旧来の隣人伊賀人を救う為に奈良期からの「氏の禁」(武力)を破り「信長の虚」を突き伊勢を護った。又、「伊勢丸山の戦い」では完全な「抑止力」で勝利した。)

事程左様に、「家訓9の数式論」は「青木氏の生き様」の前提に成っている。

”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」としているが、その意味は実に深い。
添書は簡単に要点を記述しているが、「添書文脈」が持つその真意を汲み取ると、この「家訓9の教示」は実に大きい。
この「家訓9」を理解するには「守護神の事」を研究する事からその意味する事が判る様に成った。

「家訓10訓」の汎用
「家訓10訓」は、総じてその「家」の中の事に置き換えて「戒め」として説いている。
然し、この言葉の置き方を「家」より「氏」や「企業」等の「大きい組織」に置き換えての「訓」としても用いられる筈で、恐らくは、本来、古来の「氏家制度」の中にあった事から「氏としての「訓戒」であったのです。
これを、”より判り易くする為に、より多くの者が理解出来る様にし、「家庭」「家」に焦点を置いて言い聞かせた” と考えられる。
そうする事で、”一族一門とその一切の郎党の全員が、「心の底」から「共通する思考原理」で立ち向かえる事が出来、結束をより強くする事が出来る ”と考えての事であったと観られる。
それが「青木氏」と云う「特異で特殊な立場」にあったからこそ、他氏に比べてより一層の「正しい結束力」を求められていた。
故に、他の「家訓8」までのものとは、その「戒め」が、「異質の基本訓」と成る様なものと成っている。
そして、敢えて、添書には詳しく論じる事をせずに、各人に「考えさせる手法の家訓9」と成っている。
それは、”「考えさせる事」に意味があった” と観ている。
当然に、その「悟り具合」に依っては議論が起るであろう。
「家訓9」を考えさせる、つまり、”「議論の想起」を「根本の的」としていた”と考えられる。
一族一門の議論の中から、修練されて、「互いの心」に「訓意」が留まる事を狙ったと考えられ、そして、その「長」は、その「議論の修練の方向性」を「主導役」を求められたのであろう。
それが ”「長としての資質」である” と考えられていた筈である。
その務めを果さずして組織は維持出来ないのであるから、この務めが果せない場合は、上記の「密教の仏説」の教義の通り、「未量と未熟」と成り果ててその「長」は失格と成る。

それだけに、「氏家制度」の中では、「和武の戒め」は「武」が主体とした社会であって、その中で「和」を説いて素直に「納得」は得られる社会では無かった。
況して、「3つの発祥源」と云う立場は一切の他氏には無いのである。
だから、到底、理解は難しい。”難しい”では無く、”理解は無い”が正しい。むしろ、”狂気か”と疑われるが道理である。
そこに、「和」を説いた。当然に一族には「異論百出」である。其処で、先ず、”「煩悩」と云うテーマを敷いた。”「武」は「煩悩」の最たるものである”と説いた。
そして、”そのテーマから「和」に導かせて悟らした。”と考えられる。

普通ならば、「3つの発祥源」であれば「武の象徴」なのだ。疑う事無しで「武」である。
然し、”「武の象徴」であるが故に「和」なのだ”。そして、それには、”「禁じ手」の「商い」なのだ”と説いた。”「武の象徴」が「武」だ”と叫べは世の中は戦乱である。
「和の象徴」が「青木氏」と同列のところに別にあるので有れば、それも叶うだろう。然し、歴史上には無いのだ。
そもそも、「武」は「和」を求める手段として「神」が「智慧」と共に人間に与えたものである。
決して、「武」を求める為に「和」があるのでは無い。あくまでも「和」が「主」であり、「武」は「副」の立場にある。故に、「主」を求める為には、「武の象徴」は「和」(抑止力)でなければ成らない。
この世に「副」を「主」として求める世界は「神」は与えていない。

以上の論調で、青木氏一族一門とその一切の郎党に懸命に説き続けたのであろう。
その結果として、理解が得られて「家訓9」は「青木氏の家訓」として成立して強く地に根付いて現在までに引き継がれて来たと考えられる。

「和」は、「抑止力」だけでは無く、「禁手」の「商いとする前提」も考え合わせると、この「説得のリスク」は計り知れないものがあり、”「長に求められる資質」は相当なものを要求された” と考えられる。
もし、この「武」で有れば、”「武の象徴」は「武」だ”と普通の者は考えがちである。
真に、これを「否定」として、”「和」だ”する真逆方向で纏める事は「至難の業」であった筈で、故に、この時のこの家訓を遺した「青木氏の長」は「相当な逸材の人物・傑物」であった事が判る。
(1025年から1125年の100年−3代の前半の人物 匿名)
一族一門の「生活の糧」を護りながら、その「立場の堅持」する者が「普通の資質と度量の長」であれば「矛盾で狂気」と成るであろう。
恐らくは、この時に一族一門から「嫡子の選択問題」が必ず起っていたと観ている。
選択した者もそれを見抜く力の保持者で素晴らしい人物であったのであろう。

(参考 伊勢青木氏の口伝に依れば隔世遺伝にて「何らかの傑物」が出ている。 この時の人物は戦略家であったとする口伝 始祖施基皇子は天武天皇の参謀役の「軍略司」を務めた事が日本初期に記録されている。血筋であろうか)

「一氏の長」が悟ったとしても、従う者にも理解が無いと「強制の命」で組織を動かす事に成り、「氏力」は当然に働かず、滅亡が起る。
一族一門が、”何がしかの悟り”、或いは、少なくとも「同意」を得ていなければ成し得ない。
故に、”未来永劫に子孫は続かない。” 非常に難しい{家訓9]であった事に成る。

「青木氏の独自の教義」
青木氏が、仏説の本来の「煩悩説」に従うのでは無く、「密教の教えを旨宗」とする「氏」で有りながらも、”勝るべし”としたところに大きな意味を持たしたのである。
これも「密教」とする処に無し得た「青木氏」ならではの論調であり得た。
この「古代仏教」−「古代密教」の考え方に、この ”勝るべし”を「青木氏の独自の教義」として加える事で、”「和」を求める「武の象徴」”の「有り様」を一族一門とその一切の郎党には納得させたのである。

この「青木氏の教義」(家訓9)を奈良期から脈々と引継ぎ、数百年後には”煩悩は否定せず”に成って一般の社会の中に蘇ったのである。
これは、「青木氏の教義」の正しさとその「教義」を追い求めてきた「賜姓族」を社会は認めた事を意味する。
それだけに「賜姓族」、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神−子神−祖先神」の「青木氏」の一族一門とその一切の郎党の動きは、社会からその「有り様」として見詰められていた事が、この”「煩悩」は否定せず”の一つの仏説でも良く判る。

「家訓順の疑問」
ここで、一つ最後に疑問がある。
では、”何故、この「家訓9」を「家訓1」にしなかったのか”である。
それは、この「家訓9」を前面に押し出す事は、”家訓が仏説と成る”の配慮があったのであろう。
況して、”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」である。難くて家訓としては馴染まず、家訓の活用に疑問を持ったのであろう。
そもそも、仏説なら教典を読めば良い。しかし、「家訓」なのであるから、のっけからこの論調は理解されない。それならば、「家訓1」や「家訓2」のような「家庭的な戒めの表現」は前に以って来ない筈で、家庭的な言語の家訓にはしなかったのではと考えられる。
漢文であるにしても、この「家訓9」の配置には ”何かの履歴”があった可能性がある。
時代の遍歴に依って、”先祖の誰かが変更した”と観ている。
平安初期頃には全ての家訓とは言い難いが、この様な「家庭的な戒めの表現」の家訓にするかは甚だ疑問である。
かと云って、鎌倉期以降では無い筈で、「商い」の本格的なスタートは平安末期の1125年頃と観ているので、その100年程度前には既に「青木氏の態勢」を換えつつあった事から観て、この100年の間に、「家訓配置と表現変換」を実行したと考えられる。
変更するにしても、960年頃の「特別賜姓族の秀郷流青木氏の発祥」から観て、「皇族賜姓族」を支えた頃の間の1125年頃前では無いかと考えられる。
即ち、平安初期の衰退から立ち直り始めた頃に一族一門とその一切の郎党に向けて改めてこれから生きて行く「青木氏の有り様」を明示したと考えられる。
つまり、この時の「青木氏の立ち位置」を反映させたと考えられる。
況や、「和」の「商い」を主軸として「3つの発祥源」の立場を守りつつ生きて行く事を宣言したのである。
「特別賜姓族青木氏」にも理解を求め、取分け特別賜姓族の「母方血縁氏の伊勢青木氏」にも示すにしても平安初期前の「皇族賜姓族の家訓」では提示し難いものがあった筈である。
特に、「家訓9」は「密教系の色合い」を強くし、仏説とは少し離れる「独自の教示」は特に憚られたと考える。恐らくは、この100年の1125年よりの時期で有ろう事が判る。
これ等は、「青木氏の守護神(神明社)」の「神明社の建立とその経緯」と大きく関っていたと考えられる。
この家訓全てが整っていたかは定かでは無いのだが、「添書」があると云う事はある途中で先祖の誰かが家訓に付いて疑問か何かがあって書き添えられた事は間違いないところであろう。
奈良期からこの「添書」があったのかはも解らない。それを2度程で「書き直し」か書き足していると観ている。(何かと添書で補足する独特の「氏癖」がある事から、かなり早期に添書と成るものが有った可能性が高い。筆者もこの性癖をどうも引き継いでいる。)
恐らくは、上記の時期、”「100年の間の1125年より」の時期までに「家訓全体」を改めた”と考えられる。
恐らくは、少なくともこれ以降の年代では無い事は「漢文形式」が物語っている。
この「100年の間の1125年より」が衰退から立ち上がり全ての「青木氏の有り様」と「青木氏に関わる周囲の環境」を換えてしまった事が何よりの証拠である。

この「家訓9」は事程左様に、「青木氏の遍歴」大きく物語る源と成っている重要な家訓である。

特記
兎にも角にも、「氏家制度」の中では「賜姓族」であるが為に「4つの青木氏」は、「全ての柵」に縛られて「家訓10訓」に示す様な「氏の生き方」しか「生きる道」は遺されていず、不自由な環境にあった事は否めない。そもそも、家訓を定めると云う事は、この家訓の範囲の中で生きて行かねば成らないからわざわざ其処から外れない様に定めているのであって、少々外み出ても生きて行けるのであれば定める事はしない筈で、「2つの青木氏」はこの「柵」の中にいた。
だから、”世に晒す事無かれ、晒す事に一義無し” ”然れども世に憚る事なかれ” とまで厳しく戒めている。
「関係する青木氏」には、現在の「家訓の存在の有無」如何に関らず、この道以外に最早、「生きる道」は無かった。頭の中に沁み込んだ「伝統の思考原理」であった。
それが、幸いにして「伊勢青木氏」に遺されていたと云う事であった。これは「生仏像様」が「全青木氏」に遺されていた事と同じ意味を持っている。

ともあれ、本家訓は幸いに「伊勢青木氏」に遺された「家訓」をベースに論じているものであるが、明治の始め頃まで「和紙商い」では、親密に親交を持っていた現存する一族の「賜姓族信濃青木氏末裔」にも、何がしかの相当する家訓類が、「商い記録」等から読み取ると間違い無く遺されて居た事が判る。
ただ、一族の「賜姓族足利系青木氏」等が「秀吉の計略」に陥り、立場を利用されて「武」の世界に足を踏み入れてしまった。結局、家康に依って叙封され滅亡した事(一部末孫が退避地に逃避)等から全体として「信濃青木氏の衰退」が起こり、「商い部分」を遺したのみで「氏としての遺産」を遺し得なかった。
現在に至っては「商い」以外にはこれ等の記録資料関係が少なく遺されていない。
伝統の”世に晒す事無かれ”が「資料記録の不開示」の原因に成っている事も考えられる。

同様に「特別賜姓族青木氏」にも確認が出来ない。
取分け、「特別賜姓族の伊勢青木氏」とは明治35年までの親族としての親交があり、伊勢四日市には「融合青木氏」を持つ等の深い血縁関係もある。
「家訓」に対しては統一した行動を採っていた事は、「明治9年の伊勢騒動」の時の「援助記録」(伊勢青木氏保存)等でも明らかである。
この事からも何らかのものが「武蔵の青木氏宗家」にもあった筈で、ある事に付いては研究中の中では添書の内容から判っているが、それがどの様な内容なのかは判然としない。
ただ、「主要5氏の菩提寺」には「氏の記録」等がある筈で、この「青木氏の菩提寺の確定」の研究中である。(現在は家訓等の正式なものに付いて研究中で明確には成っていない。)
然し、「信濃青木氏」も「融合青木氏」を持っていた事から、これ等を通じて、武蔵宗家の「特別賜姓族青木氏」との繋がりから何らかのものが間違い無くあるのではと考えられる。
「主要5氏」の中で、「秀郷流伊勢青木氏」だけは本論の家訓等に添った生き方をした事からも、「武」にありながらも「和の生き様」をしたので記録資料は遺されている可能性は極めて高い。
取分け、「信長の北畠氏攻略」の時に、「2つの血縁青木氏」は共に「合力」している事から、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の添書等の「何らかの記録」を確認出来れば、宗家にしてもある筈である。

「武」に組した「近江青木氏」と「美濃青木氏」の記録は、早期に滅亡して一部支流末孫が遺されたが、平安期頃の記録は完全に焼失している筈である。

「甲斐青木氏」もその支流末裔は現存しているが、親交が「和紙殖産」ではあったが、親交が少なかった事もあり、又、「甲斐青木氏の論文」の様に、室町期には、内部での「青木氏同士の混乱(源光と時光の争い)」や「信長の甲斐進攻」もあって、極めて「焼失」の可能性が高い。
依って、「伊勢青木氏」には甲斐に関する有効な資料口伝類は遺されていない。
何れも「古代和紙」等の「商い」を通じての親交が明治期まであった事から、文書的なものより口伝的なものとして明治35年頃まで遺されていた事が強く感じられる。
もとより、「伊勢青木氏」は「青木氏」の中でその中核にあった事から、甲斐では室町期から明治初期の頃までは最早「口伝」でのものであった可能性が強い。依って、現在では「伝統意識」が低下して霧消したと考えられる。

「生仏像様」の様な物体遺産は比較的に遺される可能性が高いが、無形の遺訓文化等は文書画像等にしない限りは古来では極めて難しい。長い歴史の中で文書画像は、尚更、相当な記録保存できる体制の取れた安全な氏(密教菩提寺と守護神が現存)で無けれ成し得ない事である。「伊勢青木氏」でも斯くの如くである。伝統に対する意識の変化が何よりも左右する。現在に至っては「個人情報に関わる問題」があるので研究調査が最早、極めて困難である。依って、個人の家の領域まで入り込まなければ成らない「無形伝統」の維持と記録保存と研究は最早、次第に霧消する過程にある。その中での研究であった。

以上が家訓9の検証である。

次ぎは、最終の「家訓10」である。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー