青木ルーツ掲示板
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  [No.1044] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/29(Sun) 16:30:00

お久しぶりです。

色々とご努力を成されていて感心します。
この度のお便りも楽しんで読まして頂きました。
ありがとう御座います。
今後とも宜しくお願いします。
歴史を好む者に執ってはこの上もない楽しみです。

そこで、「多くの情報」ですので、整理してまとめあげましたのでお読みください。
可成りの緊張感で取り組みました。

そこで、この事は、中々「専門的な領域の歴史観」ですので、判り易くする為に、次ぎの様に、追って論じて行きます。

>『伊予の国分寺』に残された『寄進の記録』から、国府周辺の条里はほぼ再現されており、『青木里』に関する記述は『国分二寺領坪付断簡』なる文書中に記載されているようです。それが書かれた当時、青木里は国分尼寺の寺領であったようです。

そもそも、「国分寺(金光明経寺)」と「国分尼寺(法華経寺)」は「聖武天皇」の「勧奨の詔」に依って全国の国に一つずつ建立したものです。
凡そ、744年頃から759年頃の督促で実現した寺ですから、既に、この時期に「皇族賜姓族青木氏」は「神明社建立」を10社程度を建立して居た事に成ります。
この後には、平安期の「桓武天皇]が20社を806年までに建立していた事が記録されています。
四国は、「秀郷流青木氏」が主体の地域ですが、「秀郷流青木氏」は960年以降の発祥と成りますので、この”「青木里」”なるものは少なくとも「平安期末期以降の処置」と成ります。

これには、理由がありまして、「青木村」の名称に関して、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、「氏名」を使った「村名の使用」を禁じていて、更に、「賜姓族の慣習仕来掟」の模倣の一切を禁じています。
従って、当然に「青木氏の村」の呼称も禁じています。
この「禁令」は、原則、「明治3年」まで護られました。(室町期中期に一度破られた)
もう一つは、「青木村」が使えない事から、「青木里」或は「青木郷」を使った経緯があるのです。
この禁令から「秀吉」がある事を理由(下記)に使ったとされる「青木里」である事が判っています。
そもそも、「豊臣秀吉」は、「信長検地」の意志を継いで、統一した国から直ちに”「秀吉検地」(1582年から)”を行う等をし、この四国は「長曾我部氏の制圧(1585年)」後にこの検地を行っています。
これが「青木里」の”「里」”の元に成り、”「青木」”の根拠は1580年頃に起こっています。
この「秀吉の検地」は、「信長検地」と異なり,税の納入方法、村単位の改革、土地の区分け方法、計算方法等を換えて統一性を持たせて改革をしました。

(「居住集団の単位」は、古来より「名」、「村」、[惣]、「庄」、「郷」、「里」があり、秀吉は「税の納入単位」をこの「村の単位ごと」にまとめて「納税する仕組み」を造りました。
地域に依っては、「名」でするか、「村」でするかは、その地域の「人口」とその「散在」の状況に依って変えました。
秀吉は特に、「惣」を無くし「「里]を加えて、内容を換えて五種で行う様に改めました。
但し、「町」に匹敵する「字]は[村]では無く、且つ、江戸期からの事であるのです。
そして、その「責任者」を定めて「名主 なぬし」や「村主 すぐり」や「庄屋 しょうや」の「乙名 おとな」等の「役柄の呼び名」で運営させました。
この時の単位が敷かれてその「郷里制」が遺っていた事に成ります。)

この秀吉が決めた単位の「里」の事を地域や地方では「日吉里」と一時呼ばれ,「申告制」から「石高制」へ移行を実行しました事を意味してその様に呼ばれたのです。

四国をほぼ統一した「長曾我部氏」も土佐だけ独自の検地を行う等をしましたが,結局は「秀吉検地」で行われています。
この事から、この「青木里」は、秀吉の最盛期の室町期末期の呼称と成ります。
その証明として、今回、それがお家の情報の中にも記述されています。


>伊予国分寺が長宗我部元親侵攻の際に焼かれ文書群だけが残された、、当地に『青木里』が存在したことは間違いないと思われます。条里のマス目から飛び出す格好で、ちょうど後からくっつけたように存在していることも、青木氏の移動に伴って新設された里なのでは、

この「青木里」は、「嵯峨期の詔と禁令」に依って”「青木村」”を使えない事から、秀吉に依って「青木里」にした事は判っています。
”「長宗我部元親侵攻」”の頃の直ぐ戦後期と成ると「秀吉の処置」と成ります。

徳川幕府も、室町期末期から勃興氏が社会を支配した事から、”「権威」”が崩れ秩序の荒廃が起こりました。
慌てて、今度は家臣に対して”「権威」”を作り出す為に「ルーツ」を作成して提出する様に命じ、この結果に対して「大名格」には「黒印状」を発行する条件としたのです。
この「政令処置」が家臣まで及ぶことに成りました。

江戸初期に起こった家紋群が爆発的に40倍程度に急激に増えたのはこの事から来ています。
幕府の令によって、ルーツの持たない立身出世した家臣等は、搾取、模倣、類似に依って、何でもかんでも兎に角「ルーツ」を作り出し、提示して、大名や一般武士の命と成る”「黒印状」”を獲得したのです。
ところが、今度は、逆にこの行為が社会に蔓延して、本来の目的とする「権威の獲得」が出来なく成って仕舞ったのです。
そこで、この「青木氏の村名」の”「青木村」”の様に、又、”「青木里」”の様に、その「権威]や「家柄」や「名声」を利用する為に「類似性のもの」が横行して”「権威」”と云うものが保てなくなる現象事が社会に蔓延したのです。
慌てた幕府は、そこで、この事を受けて、今度は一転して”「権威」”を保つ為に「類似村名」や[類似家紋」等に対して、”「権威あるものに対する類似性の禁止」”に出て、その「使用の禁止令」を発しています。

以上の事から徳川氏は、多くの「秀郷流青木氏を家臣団」に抱えましたが、”「青木村の権威」”に関しては一切手を出さなかった事は判っています。

では、徳川氏でなければ豊臣秀吉と成りますが、これには、「青木里」を使った経緯として、秀吉には、「青木氏に関わる根拠」が有るのです。
「秀吉」は「信長の意志」を継いで「蒲生氏郷」(伊勢秀郷流青木氏)に「伊勢攻めの三乱」の始末を実行させた際に、「権威」の無かった秀吉は「豊臣家の家柄」をよく見せ様としました。
この時に、「嵯峨期の禁令」を破って「秀吉の青木氏」を「豊臣家」の中に「青木氏」を発祥させ、「北の庄八万石」を与えて「青木氏の親族」を豊臣家の中に強引に創り上げたのです。
そして、”「従兄弟」だ”と発表したのです。
「伊勢三乱の始末」には「蒲生氏郷」を介して「伊勢青木氏との詰めの交渉」がありました。
この時に、[伊勢青木氏の譜」を利用して、類似の名で豊臣家の中に「青木氏」を発祥させたのです。

(蒲生氏郷と交渉に当たった伊勢青木氏の当代の名に類似させて、「青木紀伊の守一矩」と成りました。)

その後に、この末裔に、”「青木里」”を造らせてその親族を配置した経緯があるのです。
それが、「秀吉の四国征伐」の後に成ります。

(この”「秀吉の青木氏」は豊臣家滅亡で、徳川家康に依って除封されてその痕跡を抹消するべき処置を講じて潰されて滅亡します。

一部この末裔が、福井に逃げ込んだとする説もありますが、秀吉信望の歴史家の偽説で、詳細は「伝統シリーズ」で論じる事に成っています。)

従って、「青木氏の移動」は「青木里」である限りは無いのです。

お家の推理の「青木里の新設」は”「くっ付けた新設」”である事は正しいのですが、”「青木氏の移動」”では無く、「秀吉の青木氏の末裔の配置」なのです。
ですから、「徳川氏に依る除封とその処置」を受けた事から、この「青木里」は直ぐに消えたのです。(徳川氏の除封禄に記載)
 
>現在の当地は『今治市桜井』にあたり、もはや『青木』の地名はなく、また住宅地図などを見ても青木姓は確認できません。
>先日報告しました今治の『青木神社』が存在した『日吉里』とは、条里のマス目で言いますと一直線に西の端と東の端、という関係になります。

このお便りは、上記の事(「徳川氏に依る除封とその処置」)を物語っています。
「青木里」は「除封処置」の末に消えたのです。当然に、「青木姓」はありません。
「今治の青木神社」は「嵯峨期の禁令」に関わっていて、この「禁令」を歴史上で破ったのも朝廷の「執政の太閤」と成った事により、その立場を利用した秀吉ただ一人です。
「青木氏」を発祥させた事を根拠にこの様な事をしたのです。
これは「秀吉に依る神社」であって、依って、「日吉里」なのです。(日吉は秀吉の幼名)
故に、「青木里」と「日吉里」の条理の位置関係にあるのです。


>豊臣秀吉の四国征伐後、伊予東部は福島正則に与えられますが、一部が後に摂津藩初代藩主となる『青木一重』に与えられています。この時、彼が領有した『周布郡』は、この青木里のあった地のすぐ西側に接しています。
>摂津青木家はその後四十年ほど当地を領有しただけでしたが、当時、当地で代官を務めた一色家の末裔がその後も庄屋として根を張り、青木家から送られた手紙や文物を大切に伝えていらっしゃいます。
>あるいは青木一重が当地を与えられたのも、「青木氏の縁」があったからでは、と想像します。

さて、ここで,「摂津麻田藩の青木氏」は、実は、「武蔵七党」の一つで,丹治党の「丹治氏系青木氏」です。
この「丹治氏系青木氏」は、「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「青木氏」で、「皇族の者」が下族した等の時に名乗れる氏名として「嵯峨天皇」に依って定められました。
この「丹治氏系青木氏」は、「平安期の丹治彦王」の「現地孫」で、「丹治彦王」は罪を受けて、坂東に配流と成ります。
この時に現地の「武蔵七党」との間に出来た子供が、かなり後に成って「青木氏」を名乗ったのです。
この「丹治氏系青木氏」は、同じ地域に平安中期から「秀郷流青木氏」が定住していた為に、坂東の小土豪が互いに護り合う組織を作ったのです。
これが「武蔵七党」で、この七党の中でも丹治氏が一番力を持つていてリードしていました。
この中で、「丹治氏系青木氏」は乱世を活かして「立身出世」を夢見て,各地を移動して、信濃、甲斐、美濃と移動して行きました。
”「国衆」”と呼ばれる「傭兵軍団」で、信濃では「国衆」として働き、より勢力の持った豪族に移って出世のチャンスを狙っていたのです。
信濃の「国衆」になり、後に武田氏の「国衆」と成り、この武田氏も滅亡し、最後は美濃に移動します。
そこで、徳川氏と豊臣家の戦いが始まり、様子をうかがって、勲功のチャンスを建てる為に戦いの最中にきわどいところで「徳川方」に味方して、戦況は徳川方に傾くと云う勲功を上げました。
その結果、この「丹治氏系青木氏」は、先ず「摂津の麻田地域」の1万石を与えられ、武蔵の故郷と全国に「国衆」として散っていた一族一門を呼び寄せたのです。
これが、「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」です。
その後、「飛び地領」として、「弟の末裔」には「伊予の周布郡」の一部が与えられ、更には,「河内の地」も合わせての4000石も与えられます。
これが、伊予の「丹治氏系青木氏」の摂津麻田藩の一族の短期間の所領なのです。

「周布郡」と隣の「青木里」とは、直接的な関係はありません。
要するに、徳川氏が、「秀吉の青木氏」の領有していた「小さい土地」をこの「丹治氏系青木氏の弟 親族一統」に勲功として分け与えたものなのです。 
別系ですので直接的には、お家の「青木氏」とは”「青木氏の縁」”では全く関係はありません。
結局、「周布」の「福島正則の転封」等で、江戸期初期には郡制を大きく変えてこの「土地の整理と所領の整理」を行いました。
「大洲」も豊臣政権時では、戸田氏でしたが、これも徳川時代には除封とその処置を受ける事に成ります。
江戸期には加藤氏−蒲生氏−最終、支藩を含めて「伊予藩」(松平氏 郡制も変わり四郡に統一)のものに成りますので、「周布」に関しては無関係と成ります。

さて、興味のある事は、この代官とされる一色家は、伊勢から美濃、尾張に掛けて子孫拡大をした氏ですが、元は、「一色」とは、「伊勢王の施基皇子」の”「シキ」”を採って名付けられた地名です。
この「シキの地名」は、伊勢に最も多く、員弁桑名等から美濃、尾張に掛けて多くあります。
この「一色家」は、色々な説がありますが、磯城や志岐や志基等の地名が多くあります。
この地名から名乗ったとされるのですが、どの「ルーツ」とされるかは問題なのです。
恐らくは、この「一色氏の末裔」は、「二つのルーツ」があって、1−「伊勢青木氏」に関わるルーツと、2−同じ時期の従兄弟に当たる「天武天皇の皇子」の同名の「磯城皇子」のルーツの末裔の「二つ」の何れから出自していると観られています。
基本的には、同族血縁を繰り返していますので、どちらとも言い難い処ですが、伊勢より東寄りはその所領から、「磯城皇子]を始祖とする「一色氏の青木氏族」である事ははっきりしています。
依って、「一色氏」から「青木氏」を名乗る事は「嵯峨期の詔勅」で可能です。
これが、筆者の研究で、僅かに遺された室町期末期の美濃の「伊川津の青木氏」と観られます。

この「磯城皇子の子孫」も「嵯峨期の詔勅」で「青木氏」を名乗る事が出来るのです。
美濃には、「伊川津七党の青木氏」が在りますが、この「磯城皇子の末裔」の「一色氏の青木氏」ではないかと考えられています。
この付近には、「一色氏」と同じ様に、「施基皇子の青木氏」と「磯城皇子」の「嵯峨期詔勅」で名乗った「青木氏」と「一色氏」とが混在して判別が付きません。
更には、ここには「州浜紋の秀郷流青木氏」や、「片喰紋の秀郷流青木氏」等も定住していますので「青木氏の括り」では判別が付きません。(家紋分析で判別可)

そもそも「ルーツ」は同族ですし、仕事も同じであったのですから、当時の純血の慣習から「同族血縁」している事は充分に有って、判別そのものの意味も無いくらいに成っているのです。
歴史家の中でも,混在して論じている人もある位ですが、根本的には天智と天武の違い差があります。
その意味で、筆者は本来の始祖の一色氏のルーツは、「皇族賜姓族伊勢青木氏」の伊勢側にあるとして分類しています。
その後に、「施基皇子の末裔」と「磯城皇子の末裔」が何度も血縁を重ねながら二つのルーツを持つ一色氏は東域に分布して行ったと観ています。
「五家五流」の中の「美濃の青木氏」は、美濃の「土岐氏系青木氏」と共に、「源平の富士川の乱」で死滅しましたのですが、お便りの「一色氏」は、この一部遺された「磯城皇子系の一色族の青木氏」であると考えられるのです。

「青木家」から送られたとする手紙先とは、恐らくは「伊勢青木氏」か「伊川津の青木氏」かの「青木氏」であると考えられますが、「伊勢青木氏系の族」は四国に移動分布していませんので、極めて少ないとされる美濃か尾張に分布している衰退した「青木氏族一色氏」の「磯城皇子系」の「一色氏系青木氏」と考えられます。

確率は低いですが、場合に依っては、滅亡したとされる「一色氏」と同族血縁した「土岐氏系青木氏の傍系」が遺っていてその「青木氏」であるかも知れません。
いつの時代の手紙か判りませんが、実に「青木氏」としては興味深いところです。

ですから、”「一色氏」が「青木氏」と関わっているところでは”とするお家の推理説はその通り正しいのです。

ただ、四国には少ない「麻田藩の丹治系青木氏」と、この一色氏の手紙先の青木氏と、お家の大洲の「近江脩行系青木氏」と、「讃岐秀郷流青木氏」と、「土佐の武田氏系青木氏」と、「阿波の秀郷流青木氏」と「利仁流青木氏」とが存在したのです。
基本は、「讃岐秀郷流青木氏」ですが、上記しました様に何の不思議もない「一色氏系青木氏」を発祥させていたかも知れませんね。

「大洲」には、推測の域を全く超えませんが、あまり「子孫拡大」が図れなかった事から、”「青木」”と云う地名だけを遺したとも考えられます。
実は、同じ事がお家のご先祖の赴任地の紀州の地にも起こっていますよ。
お家の「ご先祖の跡の有田郡域」にはお家が引き上げた事に依って「青木の地名」だけが遺っていますよ。(地名地形データ参照)


>愛媛県内ではもう一箇所、大洲市に『青木』と『青木谷』の地名を発見しました。
>近隣に青木姓の在住は確認できません。2つの字は並んで存在し、近くには大洲を領有した宇都宮氏が関東から勧請したという『宇都宮神社』があります。神社の記録にはその際『古跡を再興した』とあり、本来の祭神は不明です。
>青木・青木谷は愛媛有数の、大河『肱川』に面した土地で、その対岸には『神明神社(現在の祭神は倭姫)』があり(こちらのHPの神明神社リストには報告されていません)、

然し乍ら、大洲市の「青木と青木谷」の地名では、「秀郷流青木氏の所縁の地」に因んでつけられた可能性が有ります。
この地名は、定住地であった可能性が低い事からサイトには載せていませんが、「讃岐秀郷流青木氏の所縁の地」である可能性が有ります。

恐らくは、「関東屋形」の「秀郷流の宇都宮氏」の「宇都宮神社」は、本来は「春日社」となる筈ですが、神社名を「宇都宮]としているところが、検証するべきところかなと考えます。
「四国宇都宮氏」を敢えて誇示する処から、名付けたと考えられます。
本来は、徳川時代までは、「宇都宮氏」が独自で神社を建立する事は許される事では無い事で、誰でもが勝手に神社を建立する事は出来なかった時代です。
この建立権は奈良期より、特定に朝廷か幕府の許可を得た限定した「高位の氏」にのみに与えられた権利です。

(「宗教」と云う事から乱立すると宗教に依って国の政治が左右される危険性があって限定された。)

「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の青木氏」の「二つの青木氏」は、この権利を以て神明社を500社にも上る程に建立しているのです。秀郷一門にも「春日社の建立権」を与えられています。

従って、「宇都宮氏」が「神社を建立する直接の権利」は、秀郷一門と云えど、「傍系族」である事から権利は本来ありません。
然し、乱世の時に、「宇都宮」として敢えて禁令を破り建立したのですから、「武蔵の宗家」から「勝手な行為」として観られ、氏家制度の社会の中では「厳しい軋轢」を受ける事は必定です。

そこで、「春日社」では無く、「宇都宮神社」として建立したのです。
故に、宗家から見放され、攻められても援軍を送る事無く、「最長100年程度の存続」しか許される事は無かったのです。
況して、直ぐ傍には、「讃岐秀郷流青木氏」が、東域に阿波にも「秀郷流青木氏」が居たのですから、それらの力を借りれば潰される事は無かった事は明明白白です。
そこを「長曾我部氏等の豪族」に見透かされ、然し、潰れ滅亡したのです。

以前のお答えにも論じましたが、”「氏の存続が短い」”と云う事は、何か氏に「存続]に欠かせないものが無かったから「短い」のであって、それは、「自らの力で解決できない能力」でありながら、それを読み間違えて突っ張った結果の現れです。
「戦国」とはそんな甘いものでは無かった筈です。故に”「戦国」”でした
何かの大きな庇護が無くては生きて行けない時代でした。

恐らくは、「讃岐秀郷流青木氏」は、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われたほどに、「瀬戸内の経済力」を以てして、「武蔵の宗家」に本家の「讃岐藤氏」と共に対抗して「武蔵の総宗本家」の意向に付いて云う事を聞かなかったのですが、この「生き方を真似た事」に依って読み間違えたと観られます。

故に、”祭神が不明とする”とか、「倭姫」と云う神を作り出す以外には無かった事に成ります。
これが、歴史観から観て明らかにその証拠です。

この「神明神社の祭祀」は、「祖先神」ではありませんし、「天照大神と豊受大神」を祭祀するものではありませんので、「正規の青木氏」が建立した社では無く、且つ、系列社でも無い事から記載していません。
又、時代性も信頼出来得る範囲の設定よりも大部後の建立ですので、記載はないのです。
「神明社」が正規の呼称で、「神明神社」は系列かそうで無い場合が多いのです。
この「神社」は正規の建設形式を持っている社でしょうか。
「祠に近いものを神社」としているのではないでしょうか。
江戸時代と明治初期には、禁令がある為に「祠」を多くつくられました。
「神社の建築形式」には、「大社造]や[住吉造」や「神明造」等があって、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」は、奈良期の古来より「神明造」と云う一定の神明社形式を持っています。
これで、その神社がどの系列の何時の時代のものかが判定できるのです。
尚、筆者が調べた範囲では「国の神社庁」の中には見つけられませんでした。
つまり、「青木氏の神明社」から観て、検証外の社である事に成ります。

>近くには『西光寺(現在は曹洞宗、由来は不明)』が存在します。またその2つの寺社が立つ地域は『若宮』の地名で記載されています。
>さらにそこから南西に下った場所には『青木大明神社』があり、江戸初期〜中期に書かれた大洲藩の記録に『由緒不明の祠』として記録されていますので、少なくともそれ以前の建立と見られます。
>大洲の中心部から少し離れた山中にも『神明社』があり、江戸の中期ごろまでは境内を接するようにして『西光寺』という寺が建っていたことがわかっています。
>大洲は青木氏の居住地としては認知されていませんが、肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは、と想像しております。

さて、上記に「秀郷流青木氏の所縁の地名」と書きましたが、それは、この問題に答えが出ているのです。

それは、「西光寺」と「若宮」です。
「西光寺」は「秀郷一門と秀郷流青木氏の菩提寺」(浄土宗)です。
「檀家寺」ではありません。
「菩提寺の定義」は、氏独自で氏の先祖だけを祭祀する寺で、建立から神職まで独自の氏の力で全てを取り仕切る寺の事です。
つまり、「達親形式での密教系の寺」です。
その対照的な寺が「檀家寺]で、「顕教」です。
祭祀する仏も異なり、「密教系の菩提寺」は「大日如来」を「宇宙仏」とします。
そして、「如来」が直接その身に教えると云う形式です。
「顕教の檀家寺」は、「曼荼羅仏を宇宙仏」とし、それを「釈迦」が言葉に変えて仲介するとする形式です。
元より、「顕教の檀家寺」はあらゆる民が集まって寺を運営し、全ての民を祭祀する寺の事です。
「二つの青木氏」は、この「密教の菩提寺」ですが、「特定の寺(皇族賜姓族の菩提寺の寺名を危険である為に匿名にする)」を持っているのです。

この”「西光寺」(正式呼称は”せいこおじ”)”が近くに存在する事は、秀郷一門が近くに定住して居た事の証明に成ります。
その為に、「何らかの所縁」があった事に成ります。どの様な[所縁]かは次ぎの事で判ります。
「神明社」が有って、「西光寺」があると云う事は、「秀郷流青木氏]で、それも「伊勢系か近江系の青木氏」である事を示しています。
つまり、この二つをステイタスとする一門の氏は「伊勢系と近江系」しかないのです。
そこで、元々は、「秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓青木氏の神明社建立」を「円融天皇の命」に従い、建立とその運営を補完する役目を担いました。
その中でも、「春日社」では無く「神明社」を「守護神」としたのは、「関西系の秀郷流青木氏」(関西系は近江と伊勢に秀郷流青木氏が定住していた。)なのです。
その中でも、「皇族賜姓青木氏」と血縁を深く持った「近江と伊勢秀郷流青木氏」が中心に成って祭祀したのです。
「京藤原の公家の血筋]を特段に持つ「秀郷一門」で、「青木氏系に繋がる氏」としては「近江の蒲生氏系青木氏」と「藤原脩行系青木氏」の二氏に限ります。

(以前にもお答えしましたが、お家の「藤原秀郷流の脩行系青木氏」は、”「近江掾:国司の次ぎの下位」”と成って赴任し、北家族の公家との同族血縁に依って末裔が発祥しそこに定住した末裔である。)

さて、ここで、もうお気づきと思いますが、お家は、以前お便りで、「秀郷流青木氏」の中でも「近江系の州浜紋の脩行系青木氏」であるとお答えしましたが、この「西光寺」と「神明社」はその証です。
さて、そこで、四国伊予と土佐と讃岐と云うキーワードで観ると、矢張り、この二氏が関わっているのです。
上記しました様に、この時期の伊予藩は加藤氏から蒲生氏へ、そして最終は松平氏に移りました。
然し、加藤氏の後を引き継いだ近江から来た「伊予の蒲生氏」(忠智)は[跡目断絶の憂き目」(7年間)を受けたのです。
当然に、この藩主と成った「伊勢三乱」を担当した「蒲生氏郷」の孫「蒲生忠智」には、「蒲生氏郷」の「祖父の兄弟」が母方の「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を一族の「梵純」が継いでいますので、この「青木氏」が同族家臣として同行してきている可能性もあります。
(期間が短い為に、この青木氏はこの伊勢に引き揚げている)

次ぎは、お家も南北朝を契機に、この讃岐から伊予にそして土佐に移動してきました。
この事から考えると、この「二つの要件」を叶えるのは”「お家」”だけと云う事に成ります。
つまり、「西光寺」はお家の菩提寺であった可能性が有ります。

「讃岐秀郷流青木氏」が、この遠い地に菩提寺を構える可能性は低いと考えられますので、後はお家の菩提寺と観る以外にはありません。

「蒲生氏」も子孫は、7年間では遺していないのですから、「お家の菩提寺」であった事が頷けます。

さて、次ぎは「若宮」の地名ですね。
実は、この”「若宮」”は秀吉が用いた「宮」なのです。
つまり、「秀吉のキーワード」なのです。
豊臣家以外にのこの「若宮のキーワード」を使う事は出来ません。
「秀吉」は、「蜂須賀小六の配下」であった時に、「今宮神社」の「シンジケートの一員」として働いていた事があるのです。
その為に、政権を執った時に、この「今宮神社」を保護し、荒廃していた全国に分布する「今宮神社」を立て直しました。
そして、難波にこの「今宮神社の総社」を建立したのです。
この「今宮神社」の「今宮シンジケート」を使って、全国の「諜報活動」をしたのです。
それは、この「今宮神社」は、戦乱期に衰退し、生きる為に影で「諜報組織」を造り生き延びたのです。
これに付いて「有名な事]が在ります。
織田信長は武田氏との決戦で鉄砲を入手しようとしましたが、初めは入手できませんでした。
これを聞きつけた家臣と成っていた秀吉が、この「尾張の元締め」の「今宮神社」に引き合わせたのです。
当時誰でもが欲しい程に鉄砲は入手出来なかったのです。
この「鉄砲」は、この「今宮等のシンジケート」からでは無くては入手出来なかったのです。
それを知っていた秀吉は、古巣の「尾張の今宮神社」に渡りを着けました。
そして、その結果、信長は、鉄砲を造り、且つ、この「鉄砲の傭兵軍団」の「雑賀族」と会う事が出来たのです。
「今宮神社」はこの雑賀族3000人の軍団も紹介したのです。
それで、武田氏に勝つ事が出来たのです。
この事から、「今宮神社」は「豊臣家の保護」を受けてに大きく成ります。
ところが、秀吉は、この「今宮神社」だけでは間に合う事が出来なくなり、下部組織に「若宮神社」を造ったのです。
四国には、公家が多く逃げ込みましたが、この「若宮神社」に「秀吉の庇護」を受けて、戦乱から逃げ込みました。
この付近に、「若宮の地名」がある事は、元はここに「若宮神社の痕跡」があると考えられますが、秀吉は、この「大洲」の”「神明社と西光寺の環境」”を利用して、「四国の情報」を適格に入手する為に利用したと観られます。

「神明社と西光寺」は、「神明社」のシンジケートを使った「青木氏の諜報機関」でもあったのです。
「西光寺」も秀郷一門の[秀郷流青木氏」が定住している所の全国に建立していたのですから、同じ様に、「大きい氏の菩提寺」も城郭の役目を果たし、神社共に「同じ役目を持っていましたので「情報機関」として入手する事は出来ます。
ここに、「若宮神社」を建立する事に依って、神社間の連携でと共に、「神明社」からも「西光寺]からも情報を入手できる事に成ります。
況してや、「水運の要衝」ともすれば、申し分のない地域と考えられます。

表向きは、「若宮神社」は、「公家皇族等の避難地」として「高位の人」を集める事で、その役目をより補完したと観られます。
然し、「豊臣政権」は、短期間で終わりましたので、結果として背景を失った神社は廃墟と成ったと観られます。

依って、お説の通り、お家はここに一時期住んでいた事が考えられます。 
恐らくは、この秀吉に依ってこの「若宮の目的」から、お家の「州浜紋の近江秀郷流脩行系青木氏」の存在が左右して、思うような「重要な活動」が出来ず、邪魔と成る為に排除されたのではないでしょうか。


さて、少し違っている事が在ります。
それは、「青木大明神社」は、「祠」である事と、「明神社」は「神明社」では無く、大阪の「豊うけの神」を祀る「稲荷社系の社」です。
大阪の淀川の沼地から発祥した日本書紀にも出て来る最古の「稲荷信仰の原型」と成った社です。
この「とようけの神」は、「五穀豊穣の神」としての「庶民の神」で、後に「伊勢神宮」の「外宮の豊受大神」として祭祀される様に成った奈良期初めの庶民の「極めて古い社」です。
「神明社」ではありません。

秀吉は、ここにも、この「青木の地名」を採って、「若宮神社」をカモフラージュする社として大阪の「庶民の大明神社」をここに持ってきた事が考えられます。
これが彼の有名な大阪の「住吉稲荷神社が前身」です。
秀吉は、この「稲荷神社」を保護し、政治的にも庶民を誘導する意味からも積極的に利用しましたので、「徳川時代」に成って、各地で起こった様に、上記した様に「強い印象」を持つ「秀吉の遺跡」を理由に取り壊されて、「祠」で遺したと考えられます。
まして、この伊予は、「多くの郡」がありましたが、治政を良くする為に「四郡系列」に統一されて、「松平藩」に成りましので、余計に「秀吉の遺跡」が痕跡が無い様に取り潰された可能性が有ります。
そして、「若宮神社」を排除して、昔の「藤原秀郷流青木氏」の「神明社と西光寺」の状態に戻したと観られます。

(「秀郷流青木氏」は、幕府の御家人、旗本と成り、「幕府の主な官僚軍団」と成りました。
特に、「御三家の紀州藩」では、「初代頼宣」は余りにも「伊勢の秀郷流青木氏」と、「伊藤氏等の秀郷一門」を大量に家臣団として採用しました事から、幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられて軋轢を受けた事は有名な事です。)


これらの事から鑑みて、「四国南域の大洲」には、一時期、お家の「神明社と西光寺」があって、そこを一族の”「所縁の地」”としたと考えられます。

依って、筆者は”「所縁の地」”と記述したのです。

従って、上記の通り、
>”肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは”  
とするお説は、当に史実を突いたもので、正しい推理であると考えます。


お家のお住いの地からしてもこの水運の要衝から観ても、納得出来ます。

筆者は、以前土佐に移動した武田氏系青木氏の事で、論文にもしていますが調べた経緯があって、
この「四国の青木氏」に付いての謎の一端が解けて来た事を感じます。
筆者は、「史実の積み重ね」と「状況証拠の積み重ね」を重んじて、余り「郷土史」を前提とする論調は採って居ませんのが、可成りの確率で頷けるとこがあります。

是非、今後も、歴史観を以てご努力を続けられる様に頑張ってください。


確証データはありませんが、「史実の状況証拠の積み上げ」で「反論の余地」はあるのかと云う位に思っています。

大変に良く調べられたと感じ入っています。
歴史観が出て来た賜物ですね。



一読いただければ幸いです。



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