青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.992] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/08/29(Fri) 14:47:43

今日は。
お久ぶりですね。
ご苦労されている様ですね。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の讃岐と伊予域では出て来ないと思います。
全て、「讃岐青木氏」の事に成るでしょう。
出て来るとしては、和歌山か伊勢か駿河に成るでしょう。
「脩行系青木氏」の本流が逃げ帰った地域の駿河にお家のルーツの事があると思います。
既に、伊勢と和歌山で筆者が調べたところでは、お家の伝来の家紋は下記にも述べますが、早くも判りました。この事からも、讃岐では無理ですね。

ただ歴史を勉強する意味では無駄ではありません。
その意味で、下記にお尋ねとして論じます。

「青木神社」の件
「少彦名神」は仰る通り医術の有名な神様ですね。
実は、「青木氏」に取っても少なからず関係がある神様なのです。
中国地方での青木氏の末裔が、この「少彦名神」の医術を「神明社」の宮司の子孫として志を通じて、医術をより勉強して得て、更に関西に出て来て有名な医者に成った青木氏が在ります。
そもそも、古来の神社は、”ただ単に神様を祀るだけ”のものでは無く、「神の成せる技」として、”家内安全や平穏無事や病気治癒等”を、実際に行動を興して庇護する役も担っていたのです。
その為には、「国の神」の「皇祖神の伊勢神宮」に代って、「子神の祖先神の神明社」に、この役目を与えました。
全国に神明社を建立させ、この「建立と運営」を「賜姓五役」として「青木氏」に任務を与えたのです。
その為に「青木氏」は「御師」の「総括の立場」にあり、「伊勢神宮の御師の立場」にありました。
この為に、「青木氏」は「御師様、氏上様」と呼ばれ、全国の庶民の為に、朝廷は伊勢神宮の一つの役目として(”神の成せる技”)として、その一つの役目を果たす様に「漢方薬」の「薬師の役目」を与えたのです。
そして、朝廷はこれを「賜姓族の青木氏」の役目として”調薬する役目”を与えたのです。
その「青木氏」は、これを「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」の役目の一つとして、全国に500にも成る神社を配置したのです。
この「神明社の神職」にこの役目を与えました。
そして、”神の成せる業”として、全国に広がる「神明社」を通じて、この「神明社の禰宜の宮司」に「漢方役の医術」と「薬の作り方」や「薬草の見分け方」や「探し方」等を記して、教えて、この大役を担わしたのです。
この「漢方医」としての「全ての技術技能」の「青木氏の御師頭」は、朝廷よりこの「少彦名神の役目」を「青木氏」が変わって背負ったのです。

「医療機関」が整っていなかった「古代の社会状況」の中で、「神を祭祀する神社」にその役目を与えて、全て”「神」の成せる技”として、”病気を治す事”も務めていたのです。
民は「少彦名の神」に祈願し、その結果、「御師の禰宜」から「神の御託宣」として、「漢方薬の調合」を受けて飲み「病気治癒」を果たして、「神の加護」を受けたとして喜ばれ崇拝し信心したのです。

これが、「神明社の神職」が務める大事な役目でも在ったのです。
つまり、”「漢方医」の「御師の薬師」”として、「民」に関わっていたのです。
その「神社」で、”家内安全を祈願する習慣”はこの事から来ているのです。
古来は、多くは「神明社」が担っていたのですが、その内に、平安時代の後半には積極的に「熊野神社」の様な民間の”大きな神社”もこの「薬師の役」を務める様になりました。
その後、平安末期頃には、”朝廷の庇護を受けていた大神社”等の中にも、「神仏習合」で、更には「薬師観音像」を安置して、”病気治癒を祈願する民”には、「神仏の両方からの加護と御託宣」として「漢方薬」を配合して、「医術の役目」を果たしていた「一般の神社」もありました。
この状況は、室町期末期頃まで続きました。
江戸期に成って、宗教改革で衰退しましたが、「八代将軍の吉宗」は幼少の頃に加納氏と共に伊勢青木氏等が親代わりに成って育てた事もあって、この上記の”「御師の事」”をよく承知していて、再びこの「御師のシステム」を復活させ、更には「幕府のシステム」にもこの「御師システム」を敷きました。

現在、「青木氏の伝統シリーズ」の中でもこの事に付いて論じています。
それを示す”「伝統品の薬籠」の論文”を掲載していますが、上記の役を示す「漢方薬を入れる籠」の「伝統品」が「賜姓五役」の「青木氏のステイタス」として代々「氏の伝統遺品」として奈良期から引き継いできています。
現在も遺されています。
これが、「青木神社の由緒」として、今治市にも遺されているものと思います。
この様な事は全国の青木氏に関わる神明社の有るところには、この様な逸話が数多く遺されています。

例えば、NHKの大河ドラマの中で、「近江青木氏の血筋」を引き継ぐ「黒田氏の初代」はこの「薬師の御師」であった事はドラマ化されましたね。
そして、最終は播磨に落ち着いた「神明社の神職」であった事が紹介されました。
ドラマでは、各地の薬草を探す傍ら、更には「神明社」を通じて、「各地の動静」を伝える諜報活動の役をも演じていました。
当にこの通りなのです。

「青木通り」の件
次に「青木通り」の呼称は、明治後に名づけられた呼称だと思います。
「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏」の呼称も含めて、青木氏以外は”青木”に関わる呼称の一切の使用を禁じていますし、その密教に関わる習慣の使用と模写を禁じています。
一つの例として、「以仁王の乱」で「源頼政」の孫は、九州日向国の廻村に配流されます。
本来なら、反乱者として打ち首ですが、親族の伊勢青木氏の嘆願で生き延びて配流と成ったのですが、再び反乱を九州で起こし敗れます。
この時、「廻氏の遺族」は「配流孫」と共に薩摩の大口村まで逃げ延びます。
しかし、追手が追いつき、逃亡先の寺まで来た時に、住職から”伊勢の青木氏の末孫だと名乗れ”と忠告を受けて生き延びる事に成功したのです。
平家軍は「不入不倫の大権」が天皇より「青木氏」に与えられていた為に手出しが出来なかったのです。これが現在の日向青木氏です。
この特例は、明治3年までほぼ護られました。

ですが、上記の事から「神明社」を通じての慣習は許されていましたので、「薬事」の事が遺されているし、「青木通り」の事も含めて、後に「青木神社」も「神明社」から変名したと観られます。
その時期は、江戸初期の宗教令に伴う処置か、”明治初期の廃仏毀釈の嵐”を逃れる為に、「青木氏の守護神」の「神明社」でも破壊は免れる事が何とか出来ます。
しかし、より確実に神社を護る為に、更に強調して印象を与える目的から、”青木”の言葉を使い「青木神社」の呼称に替えたものと思います。
全国の各地の神明社にはこの様にした神社もありました。
つまり、「青木」に関しては、「天智天皇」から与えられた永代の”「不入不倫の大権」”を奈良期からありましたので、人々はこれを護っていました。
今治でもこの「神明社」が遺された事が考えられます。
各地の神明社は、歴史上、”三度の宗教改革の災禍”がありましたが、多くは「廃仏毀釈」等の激しい災禍から逃れられましたが、中には室町期中期以降には、平安期の最盛期との状況と違い、庶民の中では地域によっては、その影響は薄れて破壊されたものもありました。

さて、次ぎはお便りです。
「青木地蔵」の件
>また同市内には『青木地蔵』もあり、四国88カ所の『番外』と位置づけられ、お遍路用の無料宿泊所が設置されており、地域の人々によって今も世話がなされています。調べてみますと『青木地蔵』は全国にいくつか点在するようです。

このお便りは「青木氏の足跡」として考察されていますが、納得できます。
実は、全国に広がる「青木地蔵」なるものには、”謂れ”が在りまして、それを若干披露したいと思います。
この事は、「伝統シリーズ」の論文の中ても詳細に記載していますし、多くの論文にも書いています。
そもそも「青木氏」は、元来、「古代の浄土密教の氏」です。
その「青木氏」は、「皇族賜姓族」として、「賜姓五役」の一つとして、仏教が伝来しない前からの「古代の和魂荒魂」の「宗教概念」を引き継ぎ、仏教伝来後も「古代仏教」を「青木氏の密教」として伝承してきています。
つまり、「二つの宗教概念」を継承しているのです
古代宗教の「和魂荒魂の宗教概念」と「古代仏教の宗教概念」を習合させて、一つの「密教概念」を確立させて伝承しています。
そこで、「和魂荒魂の宗教概念」には、「荒神様の概念」、「古代仏教の概念」には、「毘沙門天様の概念」が在って、この二つを習合させていたのです。
そして、「和魂荒魂の荒神様」には、青木氏等が祭祀する「三宝荒神」と、これを基に発展した庶民が信心する「地荒神」の二つがありました。
この「地荒神様」には「道祖神」、「産土神」が生まれ、庶民の中でも、地侍の様な階級が信心する「産土神」と、この農民等の庶民が信心する「道祖神]が在りました。
この庶民の「道祖神」には、道端に祭祀された「お地蔵様」が在ります。
この「お地蔵様」には、そこで、「元の青木氏」が祭祀する「三宝荒神様」の所縁を以て「青木地蔵」と云う「地蔵像」が作られたのです。
これには、上記の「薬師で病気治療」に「青木氏」が深く関わった事とか、「道祖神」の元の「三宝荒神」の「青木氏」の理由から、特に庶民から敬愛されて「青木地蔵」が祭祀されたのです。
これが庶民から自由自然発生的に生まれた「青木地蔵の所縁」です。
この「青木地蔵」があるところには、「病気治癒の薬師」などを通じて、その地の「青木氏」が庶民から尊敬されていた証拠です。
室町期中期までには、「青木氏」が存在する地域には多くありましたが、戦乱などで消滅する等で江戸期直前には数少なく成りました。
明治期に成ると、この伝統も無く成り、遺されているところも数少なく成りました。
その意味で今治地域は珍しく、恐らくは”讃岐藤氏の讃岐青木氏の所以”でしょう。
瀬戸内に廻船業で絶大な勢力を持っていたこの「讃岐青木氏」も昭和20年頃には衰退して、この様な伝統も消えて行ったものと考えられます。

「四国の神明社」の件
>ところで、当家の先祖が住んでいたとされる『愛媛県三間町(現愛媛県宇和島市三間町)』は、地域的には『鬼北地区』と呼ばれる地域に属しており、現在そこにはいくつかの町が合併した『愛媛県鬼北町』があります。
>高知県西南部との境を形成する地域です。
>この鬼北町に、愛媛県におけるもう一つの『神明神社』があることを、他ならぬ当サイトの記事で知りました。
>行政区分では隣町になりますが、当家の先祖が庄屋をしていた、とされる地域から遠からぬ場所であり、注目しております。

恐らくは、「讃岐青木氏」が護っていた神明社系の神社であって、同じ系列のものであったと考えます。
土佐一条氏の件は歴史上有名ですが、短期間の事件ですし、讃岐青木氏に取ってはあまり関係の無い事件の領域です。


>また『小京都』とまで呼ばれた都市を建設する財力や、土地を治めるための戦力も、四国の青木シンジケートの協力なしには不可能と思えます。
>この時、四国の青木氏はどのように動いたと考えるべきでしょうか。
>我が先祖がなぜこの伊予西南部に移動したのか、その事への手がかりになるのでは、と思い質問を差し上げました。

この件については、前回のお答えでも記述しました。この範囲で動いたものです。
1584年から1585年に掛けて、宇都宮氏や西園寺氏は滅亡してしまいます。
この少し前には一条氏も潰れています。1509年には四国は安定しています。
平安期には「純友の乱」にも観られる様に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、その結果、朝廷や源氏から妬まれて,危険視されて潰されます。
しかし、その後、再び勢力を盛り返し、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」は、この反省から「武力」だけでは無く、「瀬戸内の沿岸勢力」を纏め上げて、その産物を全国に売り捌きます。
且つ、廻船業としても「二足の草鞋策」で「莫大な財力」も築き上げ、四国中国地方全域の中で群を抜いて「影の力」として存在して居たのです。
従って、同じ藤原秀郷の血縁一族の宇都宮氏でも、「讃岐藤氏の協力」が得なければ、この四国では生きて行けなかったのです。
お話の一条氏にしろ長曾我部氏にしろ、四国の豪族は何氏にしろ潰されていますが、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は無傷で生き残っているのです。
この「讃岐藤氏の勢力」を得なければこの四国では生き残れなかったのです。
態々”「讃岐藤氏」”と呼ばれる位に絶大な「影の勢力」であったのです。
この「瀬戸内のシンジケート」を無視できなかったのです。
ですから、「瀬戸内」を制していた為に一切の大名は武器食糧などが入らなくなり何時か潰れて行くのです。
毛利氏でも伊予攻めしても慌てて直ぐに自領に戻ると云う事をした位なのです。
”長居は無用”で「影の力」で潰されるのです。
ところが、「影の力のシンジケート」を持つこの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」等は武力勢力には一切関わらなかったのです。
「讃岐青木氏の一族一門」は、多くは”「土地持ちの郷氏」”として各地に存在して、”影の実力者”として存在して居ました。これは「秀郷一門の戒律」です。
本拠の関東でもこの戒律を強く護りました。
頼朝も、家康も、戦わず臣下させて「一族の勢力」を維持させ護ったのです。
家康などは、わざわざこの「藤原姓」を名乗って、”藤原の朝臣徳川の家康”として官位を受けています。
「幕府」もこのことから開けたのです。
頼朝はバックと成っていた「北条氏等の坂東八平氏の勢力」の反対を押し切って、一切の秀郷一門の本領を安堵して、その勢力を自分の勢力に取り込み、「北条氏の勢力」に全てを委ねる事を避けたのです。
「秀郷一門」はその勢力を結集すれば鎌倉幕府、云い換えれば「坂東八平氏」を遥かに超えていたのです。
しかし、前に出る事はしなかったのです。

”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 然れど 世に憚る事無かれ 何れ一利無し。”の戒律が在ったのです。

秀吉などは、この「全国の秀郷一門の勢力」を怖がって、先ずは「関東の藤原一門」を攻め落とそうとしましたが、本領は無理として、勢力の北の端からの「陸奥の勢力」から潰しに掛かります。
しかし、背後の秀郷一門の動きに危険を感じて、秀吉に依って差し向けられた軍は、大犠牲を払って陸奥の結城氏を急いで無理押しして潰して、慌てて大阪に逃げ帰った位です。

これが全国にある秀郷一門の生き様の戒律です。
「讃岐藤氏の青木氏」は、宗家にはなかなか従わなかったのですが、この「伝統の戒律」の一線だけは護りました。
その宗家との勢力は変わらなかったのです。
つまり、”四国の動き”には関わらなかったのです。

お家の龍神から讃岐に逃亡した「脩行系青木氏」は、この「讃岐藤氏の青木氏」の庇護を受けていましたので、「讃岐青木氏の戒律」に従い、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の勢力圏の伊予の南西域を護る為に配置された事から移動したと観られます。
「土佐一条氏への合力」や「宇都宮氏や西園寺氏」の云々は、「讃岐藤氏」の中の単なる出来事で、短期間の勢力圏の縮図であって、一条氏の歴史から観ても「正式な合力」とまでの行動では無かったと考えます。


お家が主張されている”宇都宮氏や西園寺氏との関係”も、又、この”土佐一条氏との関係”も室町期末期の短期間の中での出来事です。
お家のご先祖の「龍神説」による「脩行系青木氏」の「単独の行動」と云うよりは、庇護下にあった「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の中での「戦略的行動」の範囲であったと観ています。

大きい歴史事と結び付けての”ご先祖”とする考えと観ますが、前回にもお答えしました様に、龍神説からの「佐野氏族脩行系青木氏」とすれば、考えられないシナリオです。
家紋まで「三つ巴紋」にしてまでの論調には矛盾が在ります。
この四国にはお家の歴史観は短期間の範囲ですので、公的な歴史書館の中には遺されていないと思います。

「龍神説」の「脩行系青木氏」であれば、本流と和歌山に遺された一族の家紋は、正しく「丸に州浜紋」を護っていますよ。
氏の象徴である家紋が厳然と子孫に依って護っていると云う事は、お家の歴史感が未だ遺されていると云う事です。
恐らくは、お家が論調している「青木氏の事」は、全て「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の事であると思います。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の家紋は「下がり藤紋」に副紋「雁金紋」です。
お家が論調している「三つ巴紋」は、「讃岐青木氏」には有りませんし、「丸に州浜紋」もありません。
「青木氏」としては無い家紋で、秀郷一門でも、進藤氏系だけです。

兎も角、龍神説の「脩行系青木氏」の「三つ巴紋の青木氏」から来るお家の「青木氏の論調」は考えられません。
「青木氏」には、他の武家と異なり家紋掟には特定の歯止めがあってこの様な事は起こりません。

「龍神説の脩行系青木氏」であれば、和歌山と伊勢と駿河に逃げ帰った本流は、正しく「家紋」を護っていますよ。
つまり、お家のルーツを正しく搾取無く護っているのです。


まぁ、兎も角も、お家ではなく、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は何人も超える事の出来ない「影の力」を持っていたのです。
前回のお答えのみならず各所の論文にもこの事は記述しています。
是非に、青木氏の研究室やルーツ掲示板の論文などを走破してください。
必ずや、お家の青木氏の生き様を導き出す糸口やチャンスが別に訪れる筈です。
龍神から出て来た「脩行系青木氏」の事が解明する筈です。

調査が進んでいない様なので、敢えて念の為に、お家の別のルートの伊勢や駿河に移動した一族や和歌山に遺された一族の家紋をお教えします。全て「丸に州浜紋」です。
和歌山での遺されたお家のご先祖は、支流族とは成って居ますが、和歌山一の豪族に成って居ますよ。
現在でも勢力を広げています。「・・・三」と云えば知らない人はいません。
匿名ですが、超有名な代議士に成って居ます。
地元でも裾野大きく広げた今でも和歌山の旧名家です。
この様に伝統が遺されたところにはお家のルーツの事が発見できる筈です。

この家紋は、四国のお家が云う家紋と極めて特徴が類似しています。
龍神説が正しいとすると、途中でご先祖の誰かが家紋を間違えた可能性がありますね。

兎も角も、四国では、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」との混同は、矛盾が起こり何時までも本当のルーツにはたどり着けませんから避けるべきです。
周囲の青木氏の家紋などを良く見極めてからの論調とされるべきです。

では、龍神説からのルーツ探究をお勧めしますが、ご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー