青木ルーツ掲示板
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  [No.999] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/06(Sat) 07:16:41

さて、早速のお便りありがとうございます。

前回の「土佐の武田氏系青木氏」の情報は、「青木氏の分布と子孫力」の論文等で、既にこの事に付いて論じています。
この情報は青木氏の方でも把握しています。
更に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と[土佐の武田氏系青木氏」との繋がりに付いても、家紋調査での「松紋」の存在が確認出来ていて、血縁があった事が確認できています。
「青木氏の分布と子孫力」の論文の「四国の処」の土佐域の検証のところをお読みください。
詳細は披露する事が出来ませんが、お家のご推測の通りであります。
確認して頂きました事に成りましたが、良くここまで辿り着けました事に実は驚きました。
筆者の情報源は、研究した段階では、”推測した内容”をある四国にある[鉄道マニア」の「歴史マニアグループ」に提供し,それをグループの方に確認して頂く方法での情報で、把握していました。
この様な事でのお家のお便りのお答えに成っています。

何よりも、「讃岐秀郷流脩行系佐野氏族青木氏」の讃岐での存在が確認出来た事は、「青木氏」に取って大きな収穫です。
残留組と伊勢組と駿河組の存在は確認できていますので、残る派一つの讃岐組が判りました。これで「4つの組の存在」がはっきりしました。
はっきり云って、始めはここまで南域に定住していたとは、思いませんでした。
推測では、末裔が生き残り存在するとして、せいぜい、愛媛域の今治か伊予付近と予測していました。
「讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」の勢力図と「お家の立場」(脩行系青木氏)から観て、四万十川流域の北側とは予想もしなかった事です。
「お家の位置関係」を聞いてからは、「讃岐秀郷流青木氏」の中での「宗家ー本家間の勢力争い」があった事は承知していましたが、これほどまでに厳しい内容であったとは考えられませんでした。
確かに、四国は江戸初期1600年前半まで「小競り合い」を含む争いがあった事は判るのですが、「讃岐秀郷流青木氏」の「勢力圏の南域」にまでとは、推理が及びませんでした。
しかし、考えて観れば、山内氏の「讃岐秀郷流青木氏を含む郷士」との争いから考えて観れば、あり得る事だと思いました。
本拠地青木村を東に持ち西に延びた「土佐の武田氏系青木氏の勢力圏」からもあり得る事だと納得いたしました。(西域に伸長し過ぎた帰来はあるが)
この推測不足の一つは、「讃岐秀郷流青木氏」は、「二足の草鞋策」で、瀬戸内全域を基に広島域から島根域の宍道湖まで、「出雲社の亀甲集団」と連携して北に、その財力と武力の勢力を使って、伸ばした事の意識があり、一方の「四国の郷士団勢力」の南西域に伸長する事が得策には成らない地域に押し出していた事が「筆者の発想不足」と成っていました。
しかし、「六稲三略」からの戦略上からは、”大いにあり得る事だ”とお便りを最初に頂いた時に考えました。
「大きく成り得た氏」としての宿命の「勢力争い」から来る処置と判断をし直したものでした。

場合に依っては、「讃岐秀郷流青木氏」は、「陸奥の国の弘前」までその勢力を拡げ、子孫末裔を配置していますので、当初、お家の立場上、弘前の方か、宍道湖に配置された一族に振り向けられた可能性が有る事も推測していました。
その後、調査依頼で得た「連携する歴史マニア」からの情報で、この処置は無い事が判っていました。
問題は、お家の家紋が州浜紋類であるのですが、ステイタスが消失している事から、正しい家紋が判りませんでしたし、思わぬ地域であった事から、実は、充分な「追跡調査」は出来なかったのです。
「郷士」と云う括りで、「土佐の武田氏系青木氏」からの「勢力伸長の方向」から四万十川沿いに、特に、この「三間の山間部域付近」に「郷士団の分布」が有るかの確認をしました。
それは、紀州の龍神村付近にも、前回のお便りにも書きましたが、”山間部には郷士団”が多いのです。
(お家は「土佐郷士」か「讃岐郷士」か「三間郷士」であった筈であるが、江戸期で消えている。)

つまりは、前回のお便りの「シンジケート」も、この様な「郷士団」に依って構成されているのです。
特に、四国、特に山内氏に観られる様に、「幕末の土佐」では、「坂本竜馬」や「武市半平太」にも観られる様に「郷士団の結束」は特に強かったし、各地に分布していたのです。
(郷氏家の当主は皆殺しにあっている。「長曾我部の再興運動」にも利用されて衰退した。)
「小さい郷士団」が多く集まり、更に「大きい郷士団」を構成していたのです。
当然に、そうなれば、讃岐の幾つかの青木氏には、大小はあるにしても讃岐秀郷流一門にしては、讃岐伊予の国の「郷士団」はあった筈です。
(「讃岐秀郷流青木氏」は枝葉を拡げていた一族一門の末端までこの「郷士と郷氏団」で固めていたのです。「土地持ち郷士」が多かった。)
況して、平安期には、紀州と四国は「平家落人の里」として、判っていますので、彼らは「平家郷士団」を山間部で作っていたのです。
紀州の紀伊山脈の山奥の「戸津川村郷士団」の様に、四万十川沿いにも四国遍路でも説明している様に山間部には「平家郷士団」がある筈です。
この事から、確認いたしました。
お家の父上は「通名」からのご推測でしたが、敬服いたしました。
確かに緩い血縁関係を持っていた事が判っています。

そして、広域の山間部域の三間地区には「郷士団の村」が有った事が確認できたのです。
三間の「脩行系秀郷流青木氏」と「土佐の武田氏系青木氏」と、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は兎も角も、この二氏の「郷士」には、更に、前回の「五」の「硬軟の戦略」を採る上でも当面、地域を固める上でも、この「平家の郷士団」との血縁も少なからずあったと観ています。
(「平家郷士団」は多くの姓に成っている。天台宗系の顕教には「郷士又は郷氏の武士」の慣習は原則は無い。青木氏の血縁は同族血縁か、娘の女系で行う習慣にある。)
後は、何はともあれ、お家と「土佐の武田氏系青木氏」との三間での血縁は、勢力は別にして「ルーツの家柄」から観て、同格以上であるので、血縁があったと観られ筈ですが、何かこれを示すものが見つかりませんかね。
例えば、家紋とか、江戸前の「親族の姓」とかから繋がる物があったら良いのですが。
筆者も調べて観ます。

では,何かありましたら又お便りください。お待ちしています。



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