鈴木氏発祥の環境写真 詳細は本文参照
日本最古の藤白墨(天皇家より拝領品)
熊野古道の社領の第一の鳥居より藤白坂を1キロメータ登った当りで平安時代「馬の背」と言う呼び名で呼ばれた場所がある。その後、この一帯を「墨屋谷」と呼ばれた。
この付近には姥目樫(うばめかし)と云う樫の種類の固い木が繁殖している。この木で紀州名産の敏長炭が出来る。現在はかなり少なくなっていて、当時は藤白山はこの姥目樫で覆われて居り紀北地方でよく採れた。その炭を生産する時に出るその煤を集めて固めて作る。 その「藤白墨」は種類として10つほどある。 平安期から江戸期まで生産された。この墨は時代毎の朝廷と幕府の専売品で、最も古いのは後醍醐天皇(天皇家蔵墨)の時代のものである。 本写真の「藤白墨」は「天皇家蔵墨」で日本最古の現品の「藤白墨」である。 「藤白墨」は全国で紀州徳川家の末裔か天皇家しか無い筈であり、本品(個人所有)が現存する唯一の「藤白墨」である。(初公開 他に使用中のもの5個保存 盗難紛失数個あり) 何れも当地で産する「紫硯石」ともあわせて貴重な「最古現品」である。
この紫硯石には「硯部」が存在し、今も下津町方「硯村」が存在する。そしてこの村は「硯氏」が定住している。しかし、藤白墨には「墨部」が発見されず、地名や村や氏も発見されていない。 ただ、上記した「墨屋谷」の地名が残るだけである。 何故存在しないのか研究を続けているが、未だ発見されていない。地名や村や氏が見つからないのは何故なのか大いに疑問である。 紀州に関係する「部」では例えば鍛冶部(鉄製造 鉄砲の生産に従事していた雑賀族)の鍛冶氏なども姓として紀州には多く存在する。 硯部が墨部を兼ねていたのではないとも考えられるが資料などは発見されない。 その一つとして、古文書にこの墨を作っていた中国の氏は「方氏」と書かれている。 この「方氏」が帰化して後に藤白墨の生産を天皇に命じられてここに移り住んだ。そこが海南市の下津町の「方(かた)」地域ではないかと考えられる。
奈良時代の後期、奈良和束の松煙墨が最古とされるが、粒が粗くよいものでなかった事から殆どは中国からの輸入で賄われていた。
しかし、有名な姥樫から採れる「備長炭」はこの地域で採れるのだが、熊野参詣の途中に、この炭から煤を集めて全国を調査していた墨部(渡来人の方氏)に命じてこの墨を作らせたところ良いものが出来た。そこで、後醍醐天皇が生産を命じた事から日本初の墨が生産される事に成ったのである。 これだけの経緯があり徳川時代まで続いたのであるから、遺されていても不思議ではない。 墨生産には作業を2つに分けていたと考えられるが、「墨部」は「方氏」ではないかとも観られるが、研究途中である。煤を作る仕事を「墨部」、墨の形にする仕事を「方氏」と成っていたことも考えられる。
「方氏」を「方部」と呼ばなかった理由があると観られる。つまり、それは「墨の位置付け」ではないだろうか。この「方氏」が後に朝廷に納める「紫硯石」も生産するようになって「硯部」となり「硯氏」となったとも考えられる。
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