青木氏氏 研究室
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  [No.391] Re:「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/08/15(Sun) 10:06:01

「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」の末尾

つまりは、天皇を含む天武系の朝廷は「青木の騒ぎ」を見抜いていた事には成る。
言い換えれば、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢・54歳」には、「当時の平均寿命55歳」であり、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題」は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの「二つの事実」を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、天武系にしないで「天智系」にしたとと云う事云えば最も近いのは「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中でも「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば、「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「婚姻した井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「伊賀から嫁いだ妃の新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って、「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く、「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は「口伝や噂」を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」

筆者は、この上記の全経緯を観ると、筆者は、「伊勢青木氏」は「四掟に基づく氏是」では無い、飽く迄も「天皇家との血筋の断絶」と「天武系の血筋との断絶」と「藤原氏南家の血筋との断絶」の3つを図って、止む無く「孝謙天皇の白羽の矢」を「744年」に受ける事と成って仕舞ったと観ているのだ。
そしてそこで、この「難題の災い」のこれを排除しようと画策する事を考えたのでは無いか。
然し、ところがそれが「白羽の矢」だけでは無く、忘れた頃の「26年後」の「770年」に“「天皇」”と云う「施基皇子の氏是に反する事」を遂に招いて仕舞ったのだ。
間違いなく「福家と四家の失策・読み間違い」であったと考えられる。
その「失策」は、「井上内親王の性格と狂行から来る出来事」を、青木氏の為に最小限の犠牲として“「四男の事」”として「放置した事・見放した事」にあったと観る。
結局は、故に本来は「青木氏の氏是」を護れば「伝統」として動かない筈の“「律宗の福家」と、「商いの四家」は最低限の処で動いた”と云う事に成ったのだ。
そして、「施基皇子・青木氏」が護って来た「青木氏の氏是」に反して、「政争」に巻き込まれる可能性のある「天皇位を招いてい仕舞った事」は、如何せん「失策」として止む無いとしても、今後の事を考えても最低限の「四掟に沿う相手」を選定したと云う事だ。
それが最も問題の無い「高野新笠と山部王」であったと云う事なのだ。
実は、この時、史実として「伊勢青木氏」は止むを得ないとしても「天皇家との乖離策」も図っているのだ。
一族の者が天皇家と成って仕舞ったので、その「関わりと血筋を薄める事」を図ったのだ。
前段で論じた青木氏の数々の女系制度である。

この時、「伊勢」は次の策を講じている。
この時、「近江川島皇子の裔」との血縁が「四掟の範囲」として進んでいた。
この「川島皇子の裔」とは「同族相互血縁の状況」を造り出していたのだ。
丁度、「{伊勢と信濃との関係」と同じである。
その相手の「市原王」は、「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・追尊能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
既に、ここで「川島皇子の近江佐々木氏」では、当然に大きな「血縁に依るトランスポ-タ」が蓄積されていた。
同然に「青木氏族の所以」もである。
ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「追尊能登王女」の「子女・娘」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入っていた。
ところが、この「母親の追尊能登王女」が共に「娘」と「伊勢に戻ると云う事」が今までに無かった事であるが、それが慣例外で突然に起こるのだ。
当時としては前代未聞であったろう。
これは要するに前段でも論じた様に「後家として戻った事」に成る。
これが「日本の後家制度の始り」であると云われている。
つまり、ある理由があって、“正しくは離縁して「関わる一族と娘」を引き連れて戻った事”に成るのだ。
そして、この「後家と成った追尊能登王女」も「青木氏の四家」の「叔父に嫁した形」を採っているのだ。
当時の習慣ではこの様な例は無い。
この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等内血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポ-タ」が蓄積される事と成っていた。

処が、ここで更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもあるが、既に、この「曾孫・市原王」のここに更に今度は「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「追尊名張王女」”が「後妻」として嫁したのである。
何故に、この様な事が起こったかと云う事だが、当時の「皇親族」の中にはこの慣習は無かった。
それ故に、これだけの事をする以上には「それなりの理由」があった筈である。
従って、この事に付いて「家人の家」か「何処か」に行けば何らかの形で推測できる程度に書き遺されている筈と観て調べた。
調査の結果、判って来たのは、先ず“後家”と云う当時としては全く珍しい言葉であり、そして「近江佐々木氏」、「市原王」で、「四家の名張殿との関係」であった。
当時,この「桑名殿」には“「能登」”と云う「女(むすめ)」がいた事が判っていて、この「「女(むすめ)」の“「能登」”は、「佐々木氏の研究資料」から「市原王」がこの「桑名殿の女(むすめ)」を娶った事が判った。
ところが、この事が後に“「能登」”では無く、「名張殿」の「女(むすめ)」の“「名張」”と成っている。
要するに、“人が入れ替わっている”のである。
つまり、この「入れ替わり・すり替わり」に意味があって、ところがこの「青木氏の歴史時系列」より「市原王」は「764年頃」を以て歴史から消えているのだ。
これは資料の読み込みからの「専門的な青木氏の通説」では、色々の説があって、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」があるとしているが、最も有力な説は次の様に成っている。
そもそも「彼の出世」は史実として「藤原仲麻呂」のにて成し得たものであり、乱にて「仲麻呂派」に属して失脚した説が有力であるのだ。
然し、その結果として、故に、“「桑名の能登」が「青木氏の関わり」を避ける為に「伊勢」に引上げてさせて「後家・当時としてはこの慣習は「無く珍しい事」と成った”としていのだが、「青木氏の資料」の中からの行でよく調べると、その後に「名張殿の名張が嫁いでいる事」の「行」があるので、この説は当たらないと考えられる。
つまり、関わりを隠すために「後家として引き上げる事」の「珍事」を行った後に、「名張を嫁したという事」はこの事に何かが在った事に成る。
つまりは、「後家の珍事を打ち消す行動」を両氏は執ったと云う事だ。
「白壁」が即位するとそもそも「伊勢」の中ではその様な「過激な事」は氏是で出来ない。
これ等の「状況証拠」より「764年〜769年までの出来事」と云う事に成る。
そう成ると「白壁」が770年に即位した「直前の事」に成るのである。
「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚して「30年〜35年後の事」である。
これが「結婚話・a」が進み「井上内親王の兇状・b」が激しくなり始めた時期と観ると、とすると、「伊勢側と近江側」では、「施基皇子の氏是」に伴い「どの様な態度」を執るかである。
上記した様に「嫌々ながらの井上内親王との関わり」を持った以上は、aとbから唯一つ「嫁家制度に係わる女(むすめ)」を「四掟の範囲で護る事」である。
もう一つは、「能登の嫁ぎ先」の「近江佐々木氏が関わっていた政争」から逃れる事であろう。
この「二つを解決する手段」は、「能登を伊勢に下げる事」、「名張を伊勢から逃がす事」で解決する。
そうすると、「名張の女(むすめ)・追尊湯原王の娘・名張殿」を「伊勢から逃がす事」の「近江側の通説」に関わるだろう。
参考として「・松阪殿―春日王」、「名張殿―湯原王」、「桑名殿―榎井王」、「員弁殿―一志王」である。

「名張」が嫁いだとすると、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」の前二つは成り立たない。
ここで「名張が嫁した史実」は確実なので、「失脚説」で「能登」を下げ、暫くして失脚の所に「名張」を嫁せさせれば、「伊勢としての近江への縁戚関係」は、事を八方荒立てる事は無く穏便に正常に保てる筈だ。
この奈良期の時期は、未だ「近江佐々木氏」は「源氏化・嵯峨期以降」していないので「伊勢」とは良好な同族血縁関係を保っていて、これは「記録」に遺るものである。
そもそも「770年の即位期」を以て以降は、「出自元」となった以上はこの様な「過激な事」は出来ないだろうし、つまり、これは「764年〜769年までの出来事」であり、「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚時には充分に予測できた筈であるし、そして史実として「伊勢の四家の男女者等」を問わず避ける様に動いたのだから、その「最後の直前の事」と成る。
「名張」が「15歳程度の適齢期」に達していた事は判っているので、この時、朝廷の中では「朝廷の称徳天皇の後継者・阿倍内親王・孝謙天皇」が即位しても、その次の「皇位継承の見通し」が立たず、「彼女に代わる天皇を求める動き」が「彼女の崩御後・770年」まで続く事に成っていたのだ。
つまり、そこで「施基皇子の孫の名張」を迎えて、「後継者に建てようとする動き」が「朝廷の中」に元々あったのでは無いかと観る事が出来る。
つまり、それが次第に大きく成り、“これを「事前」に察知して、「苦肉の策」として「能登」を下げて「近江」に「適齢期の名張」を嫁がせて逃がした”とする「伊勢の歴史観の説」である。

だとするとこれには、「近江の賛同」が必要であった。
そこで「伊勢と近江間で密かに協議していた事」に成る。
つまり、「近江」、即ち、「天智天皇の異母兄の第六位皇子の川島皇子・691年没」の「佐々木氏・齋齋木氏の賜姓族」でありながらも、「大津皇子の謀反密告の史実」から「日本書紀に記載無し」の「扱い」を受けた程度で、「天武―持統系の朝廷」から無視されて、「苦しい経済的な立場」に史実として陥っていたのだ。
この「近江の佐々木氏」を「血縁族」として支えていたのは、当然に「四つの院号の格式」を獲得して「朝廷の殖産」で「二足の草鞋策」を一手に営む「伊勢青木氏」であった事から、「「近江の賛同」が得られ易い環境下にはあったのだ。

その証拠に、この関係が「光仁期」から続いていたが、「最後の仕上げ・自立」の様にして「平安遷都の直前」に「伊勢の私財」を投入して「真砂土壌の近江の干拓灌漑開墾・楮和紙生産」を「額田部氏の協力」の下に成して財力の無い「近江の経済力」を嵩上げした史実がある。
これ等の事は前段でも論じたが、然し、其れにも拘わらずこの直前には、「天智系の裔族」であったにも関わらず、前段で論じた通り「近江佐々木氏生き残り」の為に「天智系」でありながらも「天武系の裔孫」と成ったのだ。
ところが、更には「桓武派」と「嵯峨派」に分かれた「嵯峨期」を境に、「源氏化」して「伊勢との関係は悪化」し、遂には「血縁関係と経済協力」は結局は「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で歴史的に完全に無くなっているのだ。
従って、だとするとこの事件の実質時期は、上記の「764年〜769年」の頃に「情報」を得て「名張逃がしたとする説」は納得出来る。
故に、「伊勢・白壁」が「天皇筋と成る事」には、最早、避けられ無かったが、少なくともその後には「天皇家」へ婚姻で“「伊勢から絶対に入れると云う事」”はしなかったのである。
入れたとしても、上記した様に「光仁天皇の娘・酒人内親王と孫娘の朝日内親王の二人」で終わらしたのだ。
故に、「伊勢青木氏出自の天皇」は「血筋的」には、「天皇家と云う繋がり」では、「光仁天皇」より「四掟の規定通り」に考えると、「第四世族・曾孫」の「仁明天皇・嵯峨天皇の子」までと成るのだ。
それ以降は現実にも「外孫王の血筋」も「天皇家」では強く成っているのだ。
つまり、「血筋の繋がり」は無くなったと云う事に成る。
「伊勢青木氏」でも、「妻嫁制度」に依っては「玄孫」までとしているが、「施基皇子」からは「第五世代・玄孫」の血筋外と成る。
つまり、内外に於いて消えている事に成るが、これが「嫁家制度」の「第五世代・玄孫」とした理由であり、これに依りの血筋外としと成る原因だろう。
つまり、何にを云わんとしているかと云うと、何れから観ても、「仁明天皇」までと成り、この「光仁期での判断」としては、「伊勢」では「光仁期の娘の範囲」で混乱を留めれば、“「天皇家との繋がりを避けられると判断していた事」”に成るのだ。
そして、この「無関心」を装う「伊勢青木氏の出自元の姿勢」が、“嵯峨天皇には気に入らなかった”と云う事もあったのでは無いかと考えられる。
更に、それ以降は、「天皇家の政争の場に引き込まれる事」は無いだろうとしていたと云う事に成るのだ。
その「桑名殿の追尊榎井王の浄橋や飽浪等」と共に、この「最後の血縁の仕上げ」が「市原王の名張・追尊湯原王の娘」であった事に成る。

此処で解決して置く「疑問」が一つあるのだ。
それは「焦点」と成り疑問の多い人と成っている「市原王」の事である。
これを解き明かせば、白羽の矢が伊勢に飛んできた理由が成る程と納得して判る筈だ。
そもそも「近江の川島皇子」は、「施基皇子」と同様に「天智天皇の賜姓臣下族」であり、「近江の斎斎木」の地名」を貰って「賜姓」を受けている史実が遺るし、佐々木氏の研究資料と青木氏に付いての研究資料にも記載されている。
「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、神道で使う「青木の神木」から採って「賜姓」と異なったもので最高の格式名である。
これに対して「地名の賜姓」は、「近江の斎斎木の佐々木氏」に限らず「当時の仕来り」として「一段低い格式の扱い・宿禰族以下の臣・従五位以上」を受けた皇子程度に与える「仕来り」である。
然し、「川島の皇子の第六位皇子」でありながらも「第七位の施基皇子の賜姓」より相当に低く扱われた事の格式史実が遺る事に成る。
唯、「近江の斎斎木」は神職の地名に由来する由緒ある地名ではあるので、普通の地名では無く天智天皇はその意味で賜姓したと予測でき、「神木の青木」に継ぐものである事も判断できる。
然し、地名は地名であってここに差を着けたと観られる。
賜姓臣下した事で「王位」は、「施基皇子」の様に臣下後に「伊勢王」の様に「守護王」に成らないと無く成る仕来りである。
仮にあったとしても「孫の市原」には「王位」は追尊が無い限りは本来は着かないのだ。
そもそも「近江」には「天皇に成った人」は「伊勢の白壁」とは違い居ないので「追尊」は無かった筈である。
では何時ついたのかであり、そこで唯一つ考えられる事はある。
それは「光仁天皇」に依って「没後の施基皇子」は「追尊春日宮天皇」を正式に受けている。
とすると、「市原」は「施基皇子の外曾孫」でもあるとしているまで王位の追尊は受けられる事が判るが、但し、だとするとその「父の安貴王」は「施基皇子の孫」と成るので伊勢の者と同様に「追尊王」と成る。
然し、これにはそうでは無いとする否定説もあり、孫説と曾孫説がある。
この追尊は「伊勢」でもあった様に、「二世族」まで受けるが例外的に「第三世族」まで受ける事もあり得た。
「第四世族」では「伊勢」でも「追尊の史実」は無かった。
「市原・能登の子」は、「追尊春日宮天皇の施基皇子」からは「第四世族」であり追尊と成った理由から例外である。
もう一つは「即位光仁天皇」からは「第三世族」と成る。
そうすると、「川島皇子」には「二人の嗣子・三室王745没と高尾王749没」が居て、「市原の父の安貴王の父」はこの「二人」では無く、「施基皇子の春日王とする説」があり、系譜が有り得ない程に混血で混濁している。
この事は当時としては混血の混濁は史実である。
「安貴王」は、「施基皇子の孫では無いとする否定説」も当然の事として正しい事に成り、その「経緯と年齢」から「三室王」が「安貴の父」と成る。
実は、この「安貴王」は「不敬之罪・不倫」に問われ、「安貴王」は「官位剥奪・自宅謹慎の刑」を受けていて、正確では無いが、「川島皇子三世王の叙位を受けている事」から再び「無位」に成った後に「従五位下」に叙爵されたとしているのだが、これは朝廷の当時の仕来り上はあり得ず間違いなく「後付け」であり信用できない。
その根拠は、この前提を紛失した後の「新撰姓氏禄」に在るとしているからだ。
「後裔と主張する者等」が、この「不名誉」を逃れようとして仕組んだ「後付けの細工」であろう。
この「間違い」は、前段でも論じたが「安貴の子孫とする裔の春原氏等」としながらも、然し、「市原の子孫」とはしていない事から大きな矛盾で「後勘での錯綜か錯語」と思える。
「川島皇子の裔」は「近江の氏族」であり、「姓」を出さない「佐々木氏」であるのに、何故、「姓の春原氏」なのかは判らない。
「青木氏」と同然に「裔は青木氏」であり「姓」は出さないで「郷士族」として「氏族」を形成していたのだ。
「諡号の姓」は「新撰姓氏禄」でも「敏達天皇四世族の天智天皇」の「真人別」の「淡海朝臣」であり、「近江の諡号姓」の「春原朝臣」は「朝臣別」に存在するが出自は「真人別」とするところであり矛盾している。
この「諡号の姓」が両方に存在するのは「淡海朝臣」を根拠に「紛失後の後付け」に利用されたものと解釈できる。
何故ならば、もし「真人別と朝臣別」に持つ事が編集時に成っていたとすれば「伊勢」も同然に出来ていた事に成るが、「敏達天皇の四世族・春日皇子系・21と37」に成っている。
正しくは、史実は「天智系の川島皇子」も「天武系の裔系族」からも阻害されていたが、これを観て「持統天皇」に同情したとする史実がある。
「賜姓臣下族」と「皇位族」を外れたとしても、「持統天皇」から「二世族と三世族の叙位」を正式に受けた「川島皇子の裔」は、この「三室王・745年頃没」と「高丘王・749年頃没」の「従四位下の三世族」までの「二人」と、―「安貴王・745年頃没」と「市原王・763年頃没」の「記録」から観て、「正式叙位」は授かっていない。
それ故に、そもそも普通は出さない「四世族の王位」は疑問であるのだ。
且つ、「後者の二人の官位」は「従五位下」であるので、「王位の官位」の受けられる立場ではそもそも無い。
つまり、「市原の段階」で「近江佐々木氏族」は、衰退をしていた筈で、その意味で「能登―名張」の「婚姻の背景」の「疑問の状況判断」が判るのだ。
「川島の皇子と施基皇子の孫」であった史実の事から「施基皇子の追尊」によって得られた王位である事が判る。

この事からも「近江の川島の皇子の裔系」に「白羽の矢」が向かわなかった事が「前段の財力の論」もあって判る。
この「白羽の矢」の飛ぶ方向を朝廷内で最後の会議が成され、前段でも論じた様に「川島の皇子の三世族」が一族を引っ張って伊勢の白壁を推す展開の史実が記録されていて、結局は近江で意見は分かれて一族争いが興った事が記録されている。

ここで念の為に追記するが、「伊勢青木氏の施基皇子」から「二世代と三世代の約33人」は、確かに「770年の光仁天皇即位」による「追尊王位」を得ているが、「近江佐々木氏」の様に「世代叙位」を誰一人受けていないのだし、寧ろ、「白壁」と同じく逃げたのだ。
これは「伊勢と信濃の青木氏の生き方の姿勢」を適格に物語るものである。
要するに、これが「施基皇子」が示した「青木氏の氏是」なのだ。
「氏の人格」、況や、「氏の氏格」で「近江佐々木氏」と根本的に違った点であった。
「五家五流青木氏の内」の「近江美濃甲斐の三つの青木氏」は源氏化し、「伊勢と信濃の二つの青木氏」は源氏化しなかったのだし、此処に「生き方の姿勢の差異」がこの時に生まれていたのだ。
「近江佐々木氏の縁籍の近江青木氏」は、結局は主家を裏切る事は出来ずに源氏化したのだ。
要するに、近江に嫁した「能登―名張の女系」で「近江に青木家を興した家人青木氏」として派生出自した「二つの近江青木氏」は源氏化して消滅する。
これも前段で論じた様に「嵯峨天皇の失策」が「青木氏」を消滅させてしまうのだ。
同時期の同例に「桑名」から「浄橋と飽波」は「美濃」に嫁したが、「主家の三野王の生き方」に賛成せずに「美濃の額田青木氏・一色」を興し源氏化で隠れ偲んでいた。
遂に、「伊勢」はこれを救い出す事に成功するのだ。
そして、前段でも論じた様に「三河渥美に額田青木氏」を「殖産」で大発展させたのだ。
この差は歴史が物語る様に「生き方の姿勢の差異」であって、尽きるは「青木氏の氏是」を護るかどうかの差異に通ずるのだ。
これをよく示しているのが、“「二世族三世族の叙位を求めたかの有無に在る」”のだとしている。

戻して、従って、上記した「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で、゜近江系との関係性」は、歴史的に完全に無くなるとした事は、「王位の無い立場」の「市原・763年頃没」の「記録」は符号一致しているのだ。
だから「婚姻先」として目立たぬ様に、「能登の処置」と「名張の処置」を一度に策した事に成り、これが成功した事に成るのだ。
そして、前段の論の通り“「見返り」”として「窮していた近江佐々木氏」に何とかして立ち直らせる様に、これに対して「琵琶湖東の真砂土壌の干拓灌漑開墾の20年大プロジェクト・大難工事・額田部氏」を実行したと観られるのだ。
筆者はこの事があって「長岡京遷都・784の工事と平安遷都・794年」を断った理由の一つしてと観ているのだ。
この直前にも、「天武・持統の野口王墓の古墳増築管理」に関わっていたとする記録があり、「知古の施基皇子の人柄」を記憶していた「額田部氏の裔」はこれを重視し、例え「天皇の勅」とは云え「出自元の青木氏」を重視した事から、「遷都工事」のそちらの方に先ずは手が廻らなかった、否、廻さなかったのだろうと観ている。
その遷都直前の「野口王墓の古墳増築管理」を重視し、その元の「築造と葬祭と築墳の一切の責任者」が「施基皇子」であった事から、「額田部氏」と「施基皇子の二世族と三世代の裔・福家」とも「知古」に成っていたのだ。

注釈としてこの状態は明治9年まで続いていた事が記録から判っている。
然し、「遷都同向を断った事・額田部氏の遺志も伴う」で「桓武天皇」から罰を受け「飛鳥斑鳩追放」と「全官位剥奪」と「守護神額田神社の廃社」と成った時に、「伊勢の施基皇子・716年没とその裔」は、「桑名で密かに匿った事」を「四家の二世代と三世代の裔等」は手伝っていた事から身を以て知っていたのだ。
この事は「累代三大格式の歴史書」と「青木氏の資料の行」にも合せて記されている。
この事は史実で、「桓武天皇」は流石に「出自元を追求する事」が出来ず、無事に「伊勢」は庇護した事が出来たとあり、且つ、その後の「近江の事等」の「額田部氏の殖産工事の活躍」で何と歴史的にも例を観ない「額田部氏」は「冠位」を「破格の三段階特別叙位」を受けて「隠してあった守護神の額田神社」の「祭司」までも伊勢額田に許されているのだ。
この事等は、前段でも詳しく論じているが、「上記の事」、即ち、「施基皇子の氏是」に基づき、「四掟」や「律宗性の仕来り」や「女系制度」を設けてでも、「青木氏の血筋が天皇家に入る事を避ける策」の「能登の処置」と「名張の処置」が成功裏に及んだが、歴史的に「過去の出来事」と逆に繋がっていたのだ。
これでは後勘から観ても逃れられないだろう。
後勘からすれば、一時期に「白羽の矢で掻き廻された事」と「身内の嵯峨天皇の過激な行動」で、「90年〜100年間」は大いに「絶対視しなければならない氏是」に反して乱れたのだ。
それも、正しく「外要因での事」であった。
元を質せば、「神道仏道の融合策の問題」から齎された「白羽の矢」にあった。
この事に依って、“一つ狂うと大きく狂い長く続く”の「人生訓・家訓」を「伊勢」は持つ事と成ったのだ。
つまり、「氏是」はもと「より細かい事」が氏族内に入り込ませない為にもこの“「家訓10訓を護る事で防げる」”と考えたに違いない。
故に、「賜姓臣下族の青木氏」が敷いていた「一切の制度とその身分格式の伝統」が無く成った現在でもこの「家訓10訓」は生きているし、今後も生きさせたい。

さて、前段や上記の論の通り、「伊勢と信濃の青木氏」は、先ずこ「皇位族であると云う事」を好まずその「血筋の影響」を排除して「格式と伝統」だけを重んじた「氏族」に徹したのだ。
その意味で、上記した様に「近江佐々木氏の氏族」にこの「白羽の矢」が向けられるのが「天皇家」としては条件的にも最適であった筈であるが、そんな「天皇家」から向けられたとする「記録」は、何れにも“「近江佐々木氏から自ら進んで繋がろうとした記録」”は、仮に後に見つかったとしてもそれは上記の経緯から観ても本来発見され得ない理屈と成るのだ。
つまり、何時ものように歴史に興味のない人たちには騙せるが論理的に「後付けの搾取」に外ならない事に成るのだ。
つまり、その「近江と伊勢の生き方と伝統の差」が、「伝統・律宗族に関わる事」の「神道仏道の融合策の問題」に在ったと観ているのだ。
もっと簡単に云えば、「氏族の生き方」として、「其れなりの伝統」は近江にあったとしても“「近江佐々木」は「律宗族の伝統」では無かった”と云う事であろう。
丁度、これが同然に“「嵯峨期の源氏等」が「9つの縛りの掟」を守らなかった事”に通ずるのだ。
だから、「嵯峨源氏も近江佐々木氏」も「同じ考え方」であったから「源氏化したと云う事」に成って滅びたのだ。

その前提で、この「伝統・律宗族に関わる事」に就いて根本的に三代に渡る「天皇家」の「神道仏道の融合策の問題」をもう一度振り返って検証して観る。
「孝謙天皇・称徳天皇期」の「天皇家崩壊の条件」は、「裏では仏道帰依説」では条件的に完全に揃っていた経緯と成る。
さて、ここに「神道の神明社」の「施基皇子の裔系・白壁王」が不幸にして引き出される所以が此処で起こったのであり、つまり「神明社」であった事に成る。
「孝謙天皇・称徳天皇」が、この環境の中で「退位・749年」し、その後継者に「藤原仲麻呂」は「藤原系の外孫王」を「天皇」に押し出し、「淳和天皇」として権力を手中に収めた。
ところが、この「思惑」を察知した上皇は、再び「外孫王天皇」を淡路島に流し廃位して重祚して「称徳天皇・764年」として返り咲き、要するに「青木氏」で云う「孝謙天皇の白羽の矢の事件」が起こしたのだ。
この「火中の栗」を拾う様な「白羽の矢」を嫌がっていた「施基皇子の裔系の賜姓青木氏・白壁王・54歳・770年」にこの矢が不幸にして刺さったのだ。
この時の「定説」では、「天智天皇の裔系であった事」と成っているが、既に、「皇子位」を外れ「賜姓臣下」してから何と「123年後の事」であるし、「施基皇子没後54年の事」であるのだ。
先ず普通はこんなことは無いであろうし、「商い」を主体とした「二足草鞋の郷氏」と完全に成っていたと云える。
既に、「伊勢と信濃での青木氏」では「裔系三代目から四代目」に達し、「二足の草鞋策」の「殖産を中心とした院号で働く商いの真最中期」にあったのだ。
故に、「伊勢での定説」での「資料・漢文書を額にして保存」には、「天智天皇の裔系」では最早無いだろうとしているのだ。
そもそも「殖産商い」は、「9つの縛り」、仏道の「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族の関係式」の「慣習仕来り掟の伝統中」にもあって、「院号を持つ令外官としての商い」をしていたが、「表向き」は当時の氏族の在り方の仕来り」では「禁令を破った氏族」に成り、当に「後継族」では無かった筈だし、そもそもこの事を嫌った事の「完全な四掟の女系族」であったのだ。
これだけのはっきりした事があるが、この事には「称徳天皇」は充分に知っていた筈であると観る。
そもそも、「大所帯の天武天皇の裔系」が既にあり、「小所帯の天智天皇の裔系」であるとするならば、確かに「天智系」でありながらも、結果として「天武系の血筋」を持った「天智系の川島皇子の佐々木氏」が「近江」に居たのだし、上記した経緯から、この「裔系の近江青木氏」も現存していたのだし、「四掟の天智系に近い信濃青木氏」も現存していたのだ。
「伊勢」にも何度も下向しているのだし、多気には斎王館もあったのだから「知らなかった事」は絶対に無いと観る。
もっと云えば、この「時期・764年頃」であれば、皇族に成り得る「出雲国の裔系・200年後」も「大和国の融合族の裔系」もいた筈である。
「新撰姓氏禄」を正しいとしての前提としては、考えて観れば「天智系に戻る事以外」には「敏達天皇系」などの適任者族も沢山いたのだ。
そもそも、「出雲国風土記」が「733年」に偏纂されている事から年代も違わないのであるから「大和朝廷との血縁付き合いはあった事」は確実に「証拠立て」られる。
故に、「定説」の“「天智系と云う理由建て」”には、「血縁と云う流れ」からすると「天智天皇の裔系の伊勢に白羽の矢が来る事」がそもそも疑問であるのだ。
「藤原氏とそれ以外の外孫王」では、答えは“「排除」”で明確であっても、兎も角も「内孫王としてのより対象者」は、「直系尊属」に最早無いとしても他に「天武系の直系卑属」には「適格な者」は多くいたのだ。
そもそも、この事からも「伊勢青木氏に戻る事」が必ずしも“「天皇家の大儀」”として「直系に戻す事」には論理的に成らなかった筈だ。
だから、当初、史実として、学者の“「吉備真日が猛反対をしたのだ。”

そうすると先ず、“では何故かの「疑問a」である”。
つまり、“何故青木氏だったのか”である。
何故、「白羽の矢」であったのかである。

その前に前段でも触れているが、この「疑問の理解」を深める為に歴史的に解っている事を論じて置く。
そもそも、「孝謙天皇期・女性」、この「孝謙天皇・継承者不在」に依って「白羽の矢」を建てられた「臣下族の伊勢青木氏の出自」の「白壁の光仁天皇期 2」にも、そして、その孫の「嵯峨天皇期 3」にも、この上記する「二つの分離した格式」を「統一した格式に定める必要の状況」に就いては「是」であった事だ。
そして「外孫王の淳和天皇期 1」と考え合わせると、次の様に成る。
実質、それはそれぞれ「神道仏道の融合策」ではあったが「思惑の異なる事」が試みられたのだ。
それが「新撰姓氏禄・嵯峨期の名称」であると論じている。
これを判断する上では、これは欠かせない要素となるのである。
然し、既に、“「170年も経た後の天智系賜姓臣下族の朝臣」”でもあって、「170年経過の賜姓族からの出自という事」もあって、三期共に「姓氏禄の編集の反対」、のみならず「制定のそのものの反対」が社会に興った事は後世に記録に遺る程にあったのだ。
この「格式の社会の確立構想」に対して、“上層階級の全体に統一して「格式化を施すと云う事」が社会に波及して、既に冠位十二階制度や八色の姓制等のある程度の「格式社会」でありながらも、結果として、「身分的な事」が「固定し決めつけられる事等」を嫌う「激しい反対反論」も史実としてあったのだ。
恐らくはその「決定される範囲」が「朝廷に関わる範囲」だけではなく社会全体に及ぶもので相当に広かったと云う事に在っただろう。
それが貴族や官僚の範囲にだけではなく「族の末端範囲」にまでの範囲に及んだからだ。
この事も然る事乍ら、思わぬところから成った「白壁の天皇としての最高格式」に対する「社会が持つ大疑問」にあったとしていて、その疑問では“それで良いのか”と云う「世間の風当たり」も現実には強かったと記されているのだ。
それは“過去に第七位皇子であったとしても、既に賜姓臣下して「170年後の事」である限りは、その「裔系」は飽く迄も「臣下族」であるべきだ”とする「諸臣族」からの「猛反対があったらしい事」に成る。
つまり、この事にはその時に生きていてれば筆者でもそう思うが、諸手で賛成を得られていた訳では無いらしい事は史実からも判る。
その事で「伊勢と信濃の青木氏族の氏族」では「閃々恐々としていた事」が「伊勢の資料の行」や「公的に成っている記録」からも判っている。
少なくとも「伊勢と信濃」に執っては「青木氏族」から観れば「自ら招かなかった災い」と成る。

例えば、この事で一族の中には男女ともに狂者、疎者、大酒者、逃出者、酷者、出自を消す者、氏人に身を隠す者等が現れたと記されていて、中でも「員弁殿」では激しかった事が読み取れる。
取り分け、「伊勢郷士50衆」は冷たかったと表現している。
その理由は、「天皇家」に戻った場合に自分達にも「氏族の郷士の行動」に求めていない「締め付け」が及ぶと考えられていたらしい。
この行を観て、「四家の福家」は逃れる事が出来ないと観て、「白壁」だけを犠牲にして極力天皇家と関わる事が起こらない様に、前段の論や上記の様な対応策を採ったと考えられるのだ。
それに、一族の「妻嫁制度の女(むすめ)」を盛んに「郷士衆」に入れて「氏族化」を強化して「女系で造り上げた族」に変化させて、「天皇家に引き込まれる対象者」を悉く逃がしたのであろうと観る。
そうなれば「伊勢郷士50衆」も納得したのであろう。
そうして前段でも論じた事へと経過を辿って行ったと云う事である。
この事で、「天皇家から遠ざかる伊勢」と「天皇家に近づく近江美濃」との「差」がこの「神道仏道の融合策」で生まれたのだ。
もっと云えば、「伊勢と信濃の氏族の郷士衆の反対」と「近江と美濃の氏族の郷士衆の賛成」の処にもその「行動の差」が出ていたと云う事に成るのだ。
この「行動の差」が、「伊勢と信濃」では、既に「三世族か四世族」では、「白羽の矢の失策」も何とか「人策」で逃げ、そして「後の事」も既に、少なくとも“「仁明期で終わる・桓武天皇の孫・後人手納の曾孫・施基皇子の玄孫」”だろうと見込まれていたと考えられるのだ。
何故ならば、その当時では「仁明天皇」だけが「出自元の考えに近かったからだろう。
未だ「天皇」に成る前の「皇子の時代」からそれが観えていたのではないか。
結局は、この時は、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれて争っていた時期でもあり、「嵯峨派の天皇家」は、「青木氏からの献納」を停止され、「財源・内蔵」に困っていたからであるし、これを観ていた「仁明天皇」は「父親・嵯峨天皇の政策・青木氏を賜姓族から外した事等」に否定的であったからだ。
これには「仁明天皇の在り様」が史実として記されているので間違いは無い。
現実に、「天皇家」はこの時でも「直系尊属」は終わり、再び「外孫王」に全て変わり、「白羽の矢の失策」は「仁明天皇」の彼が終止符を打ち終わらせたのだ。
聖武天皇期と孝謙天皇期の南家藤原氏の外孫王に成って仕舞って以来再びである。
後に「後三条天皇」で「藤原系外孫王」は終わったのだ。
刻の如しで「仁明天皇」は「出自元の青木氏の乱れ」に「終止符」を打ったのだ。
ここからは「殖産の青木氏族」と突き進んだのだ。
少し後の「母系の秀郷流青木氏」も含めて「青木氏族」から観れば「恩人の祖」であるのだ。
「近江佐々木氏の研究論文」にもこの事が浅く論じられている。

何故ならば、「仁明天皇」は其処から「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から切り離し、そして其処からは「商い」に邁進させた方が良いと考えたからに過ぎない。
故に、そこから「青木氏の行動・殖産事業等の行動」が活発に成って行くのである。
この時に、つまり、「考え方」が「次の三つ・ABC」があったと考えられる。
A 「桓武天皇派の考え方」は、「出自元の青木氏」を「賜姓族」とし「賜姓五役」で「令外官」としながら院号を与えて「商い」をさせて内蔵の利得を獲得させる方法である。
出自元が望む様に天皇家とは分離しながらも出自元を大事にした派である。
B 「嵯峨天皇派の考え方」は、「桓武天皇派の反対の方法」で利得を獲得しようとした方法であった。
然し、そこには「嵯峨天皇の厳しさ」があって「源氏を賜姓した事」が「青木氏の否定に在った事」で「出自元の献納」を中止された「計算違い」が興って「朝廷・大蔵と内蔵の財政」は貧した。
C 「仁明天皇派の考え方」は、一度出した「嵯峨天皇の考え方」を表向きは追認しながらも、上記の通りで「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から一切切り離し、そして其処から“「商い」に邁進させた方が良い”と考え出自元を擁護した。
この「Cの考え方」が「青木氏の考え方」と一致したと云う事に成った。
そして、故に一度留めた筈の献納が、再び、「商いから生まれる青木氏の献納」として、記録から大蔵に献納していないので、それを「内蔵の範囲・天皇家の財政に留める事」で話が着いた事に成るのだ。
そして、故にこの「Cの献納」は明治維新期まで続いたのだ。
「仁明天皇と青木氏との話し合い」の中で「総合の合意条件として執られた処置であった事」が良く判る。
この「仁明天皇・833年−850年」から「約100年後」に「円融天皇」に依って「藤原北家秀郷流藤原氏」に「青木氏の賜姓」を永代に授かった前段の通りの経緯と成る。
これは先ずそれまでは「四掟の母方」であったことからの経緯であろう。
一度、「南家の藤原氏」と絶縁していながら、今度は北家の藤原氏の関東押領使であった藤原氏の中でも格下の勢力を持った地方藤原氏と母方血縁しているのであり摂関家筋では無いのだ。
これは「青木氏の経緯」としては見逃せない。
これは「行動矛盾」の様に観られるがそうではない。

この「秀郷流青木氏の事」に付いては前段で論じてきたので詳しくは論じないが、要するに、天皇家の内蔵の「裏打ち」をしたかったと考えられ、その為には何かの原因で起こる「伊勢と信濃の青木氏の衰退」は避けねばならないとし、更にその為には「四掟」で「母系筋」であった「北家筋の秀郷一門」に「白羽の矢」を当てたと云う事であろう。
この「白羽の矢」は母系の一蓮托生の両氏に執っても「最高の格式」を正式に得られる「賜姓」は悪くは無かった筈だ。
「北家」の中で低く見られていた事から一族一門に執っても良かった事なのだ
それは一門に執っては今後の事として、摂関家に対しても格式上で争う上でも良かった。
それも一時的では無く「円融天皇の白羽の矢を立てた条件」が良かった事で、「116氏・24地域」まで拡大して両氏に執って期待しない目的も達成されたし、何よりも官僚として朝廷の中に食い込む事が出来た。
摂関家を追い越すまでになったし、この様に以後の経緯を観ると目覚ましいものがある。
四掟としても妻嫁制度や嫁家制度等で完全な青木氏族の確立が成されたのだ。
現在あるは全国の「青木氏族の裔系」には「仁明天皇と円融天皇に救われた事」に成る事を歴史的経緯として認知しなければならないだろう。

さて、反して、この「神道仏道の融合策の問題」に依って齎された「全青木氏族に与えた全ゆる現象」が、「孝謙天皇期、光仁天皇期、嵯峨天皇期」には「反発の社会現象」も三度も起こりその青木氏に対しての反動は顕著であった事が史実で証明されている。
史実として書き遺されていると云う事は相当のものであった事が想像できる。
「古史書」に記されている様に、「完全相互同族血縁」であったと記録される「近江佐々木氏」でも、「伊勢や信濃との血縁や縁」を打ち切った事も記されていて、その結果、「後家」まで出して関係性を消そうとしていた事が公私記録ともに判っているのだ。
「始めから巻き込まれる事」を「近江側と青木氏側から嫌っていた事」が判る。
「白壁王・光仁天皇」の「避けていた姿勢事・疎者と大酒者」にも明確に詳細に記されているくらいなのだ。
然し乍ら、後勘から観て、その論筋と違い「白壁」が歴史上は「最大の犠牲者」であったろう。

それ故に、この様に「氏族の格式付け」に焦って「社会全体で大反対」を受けながらも、これを鎮めようとして強引に押し進めようとしていたのだ。
その結果、中でも何とか「未完成」ながらも「嵯峨天皇」が、「世の格式・身分」」を定める為に反対を受けた為に未完成の侭でも“「新撰姓氏禄」”の名称として強引に定めたのだ。
「二派に分かれた五家の青木氏」だけでは無く「皇位族と政界と社会」が「桓武天皇派・反対」と「嵯峨天皇派・賛成」とに分かれている。
後勘から観てもそれだけの意味があったかどうかは判らないが、後世にも於いても大いに混乱を招いたと観られる経緯なのだ。
結果として、「嵯峨天皇派・格式化の賛成」で前段でも何度も論じている様に、この時、「律宗の族」にありながらも、出来たばかりの未完成の「新撰姓氏禄の定め」の中に無いとして、つまり、勝手に“統一した格式化の中には無い”として、「賜姓族・皇親族」からも「賜姓青木氏」を名目上でも外したのである。
これがその「正統な根拠」とされたのだが、現実には「敏達天皇一門春日王の四世族真人族」として明記されている。編成中に編者が“これは拙い”として編成順位から観ても追記された経緯であろう事が判る。
然し、「出自元の光仁天皇」は、この“格式化の編成”を試みた一人でもあるので、「賛成派」であったのであろうし、これを「嵯峨天皇」に執っては「救いの根拠」としていた事にも成る。
その意味で云うと、同じ「賛成派」でも嵯峨天皇程には不満を持っていたかは判らないが、“「白壁は青木氏の犠牲とされた事」”に「不満を持っていた事」はこれで否めない。
そもそも、「永代賜姓五役」を任じられ「律宗族」として「院号を持つ令外官」の役務を全うしていた「大義」が在る「青木氏」であるにも関わらず、「皇位族」を外し「賜姓族」をも外すと云う理に合わない事を「社会の面前」で遣って退けた。この過激な事を天皇自らが行い、しかもそれが「出自元」であると云う破廉恥な事を「嵯峨天皇」はしたのだ。
だから尚、「青木氏族」は嵯峨天皇を支持しなかった事になろうし現実には無理であろう。
これは「五家五流青木氏」の内の「伊勢と信濃の青木氏」の「社会的な体面立場」を無くしてしまう程の行為であったし、戦いに成ってもおかしくない事であったと考えられる。
然し、経緯で「氏是」で思い留まったのだ。
然し、そこで献納の一切を中止して対応したのだ。
それでも、全てを捨てるかと云う事はせずに、「賜姓五役・伝統と9つの縛りの掟」と「令外官・殖産事業」と「律宗族の役務・祖先神の神明社の創建維持管理」を護っていたのだ。
所謂、「伝統」は氏族のものであり護り続けたのだ。

果たして、これを世間はどう見ていたのだろうか。
つまり社会の目は「嵯峨天皇の仕打ち」を是として「青木氏の姿勢」を否としていたのかである。
「歴史の経緯」がこれをはっきりと物語る。
要するに、語る処の最たる処は「平城天皇の尚侍」の「薬子の変」と呼ばれるものであろう。
我慢しきれず痺れを切らしたのは「桓武派」であったと通説は成っている。
この時期の資料に関する「行」を寄せ集めて「青木氏の歴史」の「化石の出土品」の「繋合わせ」の様に接着して復元したのが「上記の論」と成ったのだが、そもそも「青木氏の歴史観」から観ると、この「尚侍の薬子の変」、実際は「平城太上天皇の変」と呼ばれる「政争」は、結局は反対派の「代理戦争と云う事」に成っていたのであろう。
その証拠に、「平城上皇」が再び政権を取り戻す為に、「嵯峨天皇のいる平安京」にいる事は不利として「出自元の近い平城京」に上皇令で遷都して戻ろうとした。
そこで先ず、最初の作戦は「平城京」に関係のない地域の「五家五流の内の信濃と甲斐」を除いた「伊勢国」・「近江国」・「美濃国」の「三国府」とその関を「嵯峨天皇」は先手を打って固めさせているのだ。
歴史的経緯とその行動からこれで如何に敵視していたかが判る。
然し、これは変だ。
そもそも、京の「平安京」から飛鳥の「平城京」に移動するには、現在の「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・徒歩8時間」しか無く、そもそもその固めた「三国府とその関」はこのルートからは全く関係は戦術上無いのである。
そもそも、地理的距離では「平安京」から真東に「近江国」に2里、そこから「平城京」に真東に9里、そこから「伊勢・名張」まで真東に6里、そこから「美濃」に北東31里の距離にあるのだ。
然し、歴史の史実では「三国府とその関」を固めたとあり間違いなくこれは変だ。
この何気ない史実の点に注目すると、考えられる事は、ただ一つである。
これは「出自元」とのその「能登名張の近江」と「浄橋飽浪の美濃」の「嫁ぎ先」の「青木氏一族を牽制した事」がその位置から明らかに考えられる。
つまり、通説の「平城上皇の行動」には関係が無い事に成る。
もっと云えば、よく知る「出自元の伊勢青木氏の動き」を気にしていた事に成る。
それは「近江と美濃」には伊勢から嫁しているからで、「財力と抑止力を動かされる事」を警戒して「三国を制される事」を嫌ったのでは無いか。
「伊勢と信濃」には禁令上即戦力は無いが、然し、「即戦力」は縁戚の伊賀に在った事を忘れてはならない。
これを要動的に動かされると、「京の東からの物資食料の補給路」を絶たれ、且つ、「平城京に移動で東からの補給路」が出来れば「元の平城京」は成り立つのだ。
「平城上皇の平城京の上皇令」は成功するのだからこれを嫌ったのだ。
だから、それをできるのは「東の青木氏族ライン」である。
この「出自元の青木氏族ラインが動かれる事」を極力嫌い、それは「嵯峨天皇の大義」を失う事に成り兼ねないからであった。
故に、「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・8時間」の「平城上皇の移動」にはそのものには全く関係がないのにも拘わらず、そして「人流物流の関」までも止めたのだ。
現実に、「近衛軍」を廻して「平城上皇の移動」を阻止しているのだ。
このは「阻止の仕方」が有名な史実で、“「裏切り」”"で出来たのだ。
其れしか戦略上は無い。
それは、「桓武天皇の義兄弟の坂上田村麻呂の有名な裏切り」であり、桓武天皇の恩義をとるか天皇の権威をとるかの判断に迫られた事に成り結局は坂上氏の先々の事を考えて説得された事が記録に遺っている。
結果はこの事で一族一門は「裏切り者」として社会から批判され与えられた領地に居られなくなり琵琶湖の北の地の縁戚を頼って逃れ本筋は潰れたのだ。

参考として念の為に前段でも色々な事に関わって来るので何度も論じている事ではあるが、「伊賀の平望王の孫裔」に当たる「高野新笠と光仁天皇」の「子の山部王・桓武天皇」と、「後漢阿多倍王」と「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」と血縁し、「准大臣」に成り、その「長男」が賜姓受けて「坂上氏」を名乗り「桓武天皇」に依って「征夷代将軍」に任じられたのだ。
この「桓武天皇」は「母の高野新笠」の里の「伊賀半国割譲の後漢阿多倍王」のその裔の「平望王・たいらの望王の姓の賜姓」を祖父としている。
この「伊賀のたいら氏の裔の高野新笠の子の桓武天皇」と「阿多倍の直裔の坂上氏」は「阿多倍王」を始祖とする「義弟の子」であるとして、親交と信頼は深く「渡来人」でありながらも「征夷代将軍」まで引き上げた経緯を持つのだ。
「八色の姓」の 真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の「連」に引き上げられ、その後の「征夷討伐の功績」で「宿禰」にまで上り詰めていた。
結局は出自元を重視した「仁明天皇」はこれを放置できず田村麻呂死後に処罰しその立場を奪い「裏切り者」として失うのだ。
これで「平城上皇の政変劇の問題」は解決させたのだが、「青木氏族に降りかかった光仁期から引きづった嵯峨期の難題」も解決したのだ。

更に参考として、「桓武天皇の母」の「高野新笠」の「高野真人族」として賜姓して「真人姓」を与えたが、この「高野」は、そもそも「孝謙天皇の諱号」でもあり、俗称「高野天皇」とも呼ばれたもので、「伊賀の阿多倍王と平望王の裔」として、この「高野」を執って「出自元の格式」を飾ったのだ。
「白壁の妃」としての格式化する為に「称徳天皇の意向」があったと「青木氏口伝逸話」では表現を天皇の事である為にあやふやにして匂わしている。
相当に「称徳天皇」は、この「白壁と井上親王」に気を配っていた事が伺えて、恐らくは史実で正しいのでは無いか。
そうすると、「井上内親王の乱行の原因」がこれで観えて来る。
「妹・阿倍内親王の称徳天皇の仕打ち」が、この「青木氏の環境の中」で苦しんでいるのに「気に成る妃の立場」にあった「新笠」への「高野の賜姓」で、それも「真人格の叙位」で「自分の諱号を与えた」と成るのには全く納得が行かない事で「井上内親王后」は無視された感覚に陥った事は間違いは無いであろう。
それだけに「自らの子供・他人親王の皇太子」の今後の成り行きも危ないと観た事は普通では「猜疑心の精神状態」は極度に昂った事もあるであろう。
これは普通に考えられる事である。

さて、次はそこで何で「高野真人族の格式」を態々与えたかである。
この行為は「与える事」は間違いなく角を立てる事は間違いはない。
取り方に依れば、「母親に真人族格式の叙位」は、その子の格式も「真人族との子」と成り、“皇太子は高野の子だ”と云っている事にも成る。
自分は、確かに「聖武天皇第一王女」ではあるが「出自元から継承位の嗣子」には無く、母は「夫人県犬養広刀自」の「県の格式」しかないし、自らも「伊勢斎王」であるとすると、“皇太子は高野の子だ”と考えるのも格式社会の中では無理のない事ではある。
そこで、それを仕組んだのは、“伊勢青木氏の政所を仕切っていた難波だ”と邪推したとも考えられる。
仮に、この時、后の井上内親王は、「天皇の子の内親王」であったとしても、「青木氏」が既に臣下していたとしても、「永代に持ち得ている伊勢の格式」に勝る家筋は他に無い現実をこれで知った筈である。
故に、どうしょうも無いその「現実の不満の持って行き処・無力感」を「難波」にして「呪い」をかけたのであろう。
現実的にも、「高野の事」が史実なので恐らくはそうであったろう事は充分に予想できる。
要するに、「世の矛盾・無情」を強く感じたのでは無いか。

717年生で744年で「神宮斎王」を退下し、その年の27歳に結婚で、7年後の34歳で「他人親王誕生」とすると、当時としての「女性の寿命55歳」から考えると極めて晩婚であり、「34歳/55」とすると現在で云えば51歳位と成るので、そもそも子供を産める歳では無いし、例え埋めたとしてもその卵子は間違いなく老化していて「健全な子供・水頭症等の欠陥」の出産は医学的に観て困難であろう。
この様に「井上内親王の37歳出産の高齢出産説」もあるので、生理遺伝学的に健全子は大いに疑問である。
念の為に色々な資料から当時は、その意味で多くの記録から早くて「8歳結婚」も通常であったとされる。
例えば「青木氏の妻嫁制度」の中で「女(むすめ)教育」として使われた教本では「8歳」を前提として行われていた事が判っているので、この「晩婚説」は「適格性の問題」を持っていた事は間違いは無いし、「青木氏の中」では当然に、「妻嫁制度」に従ってこの「女(むすめ)教本」の中で例え「井上内親王」であっても「770年の即位」までは「青木氏の伝統」の中で処置されていた事に成るし、取り分け、「高齢婚であった事」から例外なくその難しい「出産」は注目されていた事は間違いは無い。
「白壁」も「通常説54歳」で結婚したと成っているので、これも限界に近い高齢婚であるが男子の場合は、生理学的に3日に一度睾丸に貯めた精子を入れ替えてするので、高齢化は「精子の場合」は無いが「量的な問題」と「体力の問題」が伴う。
史実、「伊勢青木氏の資料」から読み取る範囲では直接生んだかは別として、要するに「子供とされる者」は「当時の高位の慣習」から観て「養嗣の様な者」を含んでいて最低で「13人」とされる筈である。
念の為に、記するが「青木氏族」は例外なく遺伝的に高齢寿命者が多い族で最低でも「平均寿命55歳」の世の中で「74歳以下(当時では135歳相当)」は極めて少ないのが現実である。
これは前段でも詳しく論じたが「仕来り・伝統」として先ず「女系」で「良い卵子・選びやすい」を選び、且つ、「非弱な嗣子」は生まれた直前で選別していた「隠れた仕来り・伝統」があった様であり、それは「明治期まで続いた事は事実である。
これは「四掟に基づく血の欠陥」を取り除く為の「合理的で宿命的な手段」として採用されていたらしく、それが「高寿命系の血筋」と成ったと考えられ、現在でもその特質は消えていない。
この事から考え合わせると、唯一、「白羽の矢」で「女系で繋がる四掟範囲」から外れ「例外女系」と成った「白壁の実子の問題」が在った事は間違いは無いだろうし、当に上記の高齢婚であったのだ。
だから、「政所を差配していた難波の動き」が在った事は間違いのだ。
その証拠に、「四掟の伊賀青木氏と繋がる高野新笠の子の山部王を選んでいた事」は何よりも間違いは無い事だろう。
「770年即位」までの「36年の間」は「伊勢青木氏四家の子」として「山部等を育てる事」に集中していた事が云える。
「近江の市原王」に嫁した「青木氏の子の能登や尾張や湯原」を「光仁天皇の養嗣・つぐしの形」を執り、現に「山部王・桓武天皇」が、天皇に成った時点で「伊賀青木氏」と繋がる「四掟の高野新笠の子の早良」を皇太子に据えているのだ。
その経緯から、これは青木氏等に執っては「子々孫々に響く不名誉な事」である為に記録的な物はない。
然し、「健全子では無く、且つ、女系から外れた他人親王」は「青木氏から阻害されていた事」は充分に考えられる。
その他の人と云う意味のありそうな名が物語る。
他の人と違うと採れる青木氏の資料ではこの字を使っているのだ。
この事で「令外官」として「朝廷」に代わって「商いを営む青木氏」は、最早、「律宗族の伝統」は護りながらも意識的にも「天皇家」に咀嚼忖度する立場には無かった事が云える。
「氏是」にも思いを込めて可成り意識的にも庶民化していた可能性がある。
施基皇子没より96年も経ち「青木氏氏是」を徹底すれば、必然的にそう云う経緯を辿る事は必定であろう。
この事を考えると、裏を返せば、「750年〜765年の青木氏の中」では伊賀の出の「高野新笠」に期待が集まっていた事に成るだろう。
この意味でも、この上記の「高野新笠の高野真人説から来る混乱」と、その「他人親王への疑問」はあった事は先ず間違いは無いだろう。
それを仕切っていたのは、「気侭に世間知らずで聞き分けなく育った者・井上内親王」から「呪われた難波」であった事は充分に考えられる事だ。
これを後勘から観れば、「他の3つの青木氏の源氏化策」とは真逆であったが、「皇位族」に拘らない「意識的な庶民化策」は「良い選択と判断と実行力」であった事がこの事からも云えるのだ。
それは突き詰めれば「賜姓五役の令外官・院号を持つ商いに左右していた事」であろう。

さて、もう少し掘り下げて観るとここからである。
ところが、「平城上皇の平城京への移動」が、この「坂上田村麻呂」を「父桓武天皇の味方・義兄」として信頼し切っていた「平城上皇」は、「政治路線の違い」から「嵯峨天皇との決別」をする為に「平城京移動」は可能と信じていて、これを実行に移したのだ。
ところが、「坂上田村麻呂」が途中で裏切った事で「平城上皇」の「平城京移動」は頓挫し、引き返す羽目と成り、命を守る為に剃髪して僧に成り引き籠もったのだ。
これで「伊勢青木氏と信濃青木氏が推していた桓武天皇派」は衰退する。
これはこれで要するに、「家臣等・810年の薬子の変」が興したとして大儀を繕い取り敢えずは終わったが、然しこの「後遺症」は残り終わらなかったのだ。
当然に「伊勢青木氏」はこの「裏切り」を氏存続の為にも放置しておく事は出来なかったのだ。
これに反発してこの“「坂上氏」と犬猿の仲”と成ったと想像できる。
筵、記録されない事に違和感がある。
然し、これに関わる資料や記録は、不思議に青木氏は勿論の事、公にも出されていないのが現実である。
「天皇家に執って不名誉な事であり公的に成る資料」は無い事には如何にせよ、兎も角も、「伊勢青木氏」には無いのは当然の事であろう事が判る。
「青木氏」から観れば、当時の「時代性・習慣仕来り」から、実は“「裏切り者」”に対する評価は下の下で人間的な扱いとして「厳しい掟」で死を意味したのであったのだ。
故に、何事にも大儀を必要とし、極めて低く扱われているあるからで、「記録に載せる前の問題」であったのだ。
坂上田村麻呂にはこの人を説得するだけの大儀が低かったのだ。
「桓武天皇との義兄弟恩義と氏族の存立の大儀・桓武派」に対して「嵯峨天皇の命だけの大儀・嵯峨派」であって社会は前者を採ったのだ。
だから宿禰族まで成った坂上氏は京には居られなくなり琵琶湖の北の外れの田舎に逃げ延びて隠れ住んだのだ。
普通なら「嵯峨天皇」は庇うであろうが、庇う事は出来なかった位に嵯峨天皇と坂上氏に批判が集中したのだ。
この時、「伊勢」はこの「裏切り」に対してどう動いていたかであるが、献納を中止する経済封鎖を嵯峨天皇に、坂上氏に対しては前段でも論じたが、淀川から大阪湾に運ぶ「殖産品の運搬等の利権の停止・鉱山開発の運搬等」で対抗しているのだ。これで糧を失った坂上氏は衰退したのだ。
この事を後の古書に顛末書として記されている位で是非に歴史観として知って置く必要がある。

例え、さて「神明社の祐筆」に依って「青木氏の歴史」として必然的にこの事に就いて一時記録に遺されたとしても消されている行く宿命を帯びているので遺こらなかったのであろう事が判る。
故に坂上氏に付いては「大蔵氏や内蔵氏」の様に“何某かの記録らしきもの”もないのだ。
つまり、一族を庇いきれなかったと云う事だろう。
「青木氏の氏是や慣習仕来り掟や制度」から観て、この「裏切り者」を認めれば「律宗族で賜姓五役の青木氏」は成り立たないであろう事が判る。
況して、「伊賀に繋がる桓武天皇の義兄の者」がその“「裏切り者」”であったとすれば許す訳には行かなかったと観られる。
「抑止力」を持つが直接武力を持たない律宗族としては遺された手段は伊賀と圧力しか無いだろう。
つまり、歴史的にハッキリしている事は「坂上氏との同祖縁戚関係」にあった「伊賀のたいら氏」も「坂上氏」に猛反発したのだ。
当に四面楚歌の状況であった事に成り、嵯峨天皇も裏切り者を造り出した事から社会の信認は無く成って行ったのだ。
「九州族の始祖と成った弟賜姓大蔵氏」と「陸奥族の始祖と成った三男賜姓内蔵氏・安倍氏の祖」とは遺ったが、長男坂上氏族には戦略的に「伊賀」を使う以外に無かった筈だろう。
当然に「伊賀青木氏」も反発したと成れば、この「一族の関係族」を「伊賀域」から追い出す以外には手段は無くなるだろう。
結論からすると、それの派が伊賀から離れて行った「甲賀族」では無いかと云う事だ。
前段でも何度も論じた様に、室町期には「生き方の路線」で「伊賀と甲賀」に分かれたと成っているが、何も無い「甲賀の山奥」に甲賀系の者等がいきなり逃げたとするには問題がある。
その前の大きな経緯があったと観ていて、「坂上氏一族」は歴史的に「784年からの長岡京」に関わり古書などの資料から、その一族が「約14里南の甲賀域」に住んでいた事が黒くから判っている。
その「甲賀」は「厳浄寺付近」を中心に東西に「西甲賀」と「東甲賀」に分かれていたとされる。
この「北伊賀地域」に隣接する「西甲賀・森林域」の外れに「青木氏菩提寺清光寺」が存在していたとされ、現在でもこの環境は変わっていない。
直接、「現在の国道1号線」でその西外れで止まる「長岡京」に繋がる「東甲賀・近江に繋がる平地域」には忍者屋敷が集中していた事が判っている。

「坂上田村麻呂の一族」が大きく係わったとされる「長岡京」が出来ると、「伊勢」からの「街道整備」が計画され、「長岡京」から「近江」を経由して「北伊賀の入口の鈴鹿峠」を越えて「伊勢国」に入り「亀山街道」を経て、「桑名街道」を通って「伊勢」に入る、これが「現在の関西域の国道1号」で「古来」はここを「斎王行路」と呼ばれていたのだ。
更に遡り「奈良時代」には、平城京から東の幹線道路は、「大和」から「木津」を遡り、「伊賀」を経て「加太峠」から「伊勢」に入る「主要の大和街道」があった。
これが「奈良時代の斎王行路」と呼ばれていたとある。
三大実録の史書に依れば、これは古来の上記の「伊賀域―長岡京―近江―甲賀域―伊賀―伊勢」に関わる「坂上田村麻呂の歴史」を物語る地理であって一致しているのだ。

前段でも何度も論じたが、618年に隋に追われ「後漢の阿知使王と阿多倍王等」は「200万人の職能集団とその家族」を連れて北と南の九州に入り、無戦で九州と関西の手前まで32国/66国を占領して拠点とする薩摩の隼人と阿多に戻ったとある。
朝廷は「阿知使王と阿多倍王」を呼び出し「勢国」の「半国割譲」してこの「阿知使王・阿多隼人定住」と「阿多倍王・伊賀定住」に与えて住まわせ、「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を「阿多倍王」に娶らせその裔を賜姓して拡大させたが、これが上記の三人等とされる。

さて、此処で、もう一度歴史を改めて検証する。
「647年」に「賜姓」を受けて「青木氏」を賜り「勢国」を賜る。
この後に発せられた「好字令714年」に依って地名は全て二字と成った。
「半国割譲」の時は、この時は「勢国・伊勢の前の国名」は、現在の「東甲賀域」までとされた。
この「西甲賀」から「東甲賀の域」を「半国割譲」し、ここを「渡来人の阿多倍王に与えた事」に成る。
結局は「好字令714年」で「甲賀」としたのだが、これには実はその経緯があった。
そもそも、この「甲」には意味があって、これは「八香木」の一つの「甲の神木」でもある。
この神木を以て甲の国としてのだが、更にこの甲には経緯があった。
「三国時代の北魏の八姓」の一つで、「後漢の安帝の父・清河孝の王」が、この「甲の神木の所縁」を以て「劉の姓」から「賀の姓」に変えたと「魏書」にある。
これが半国割譲後に「渡来人の阿多倍王に依って祖先の賀姓から「賀の国」と定められた。
この「賀の国」を西域を上記で説明して「伊勢の伊」から「伊の賀の国」と呼ぶようにしたのだ。
当然に東域を「甲の賀の国」と呼ぶようになったのだ。
伊の賀の国は伊から聖者が護る国とし、甲の賀の国は神木なる聖の国として何れも「聖なる国」としたのだ。
そして、当時は、字画数が「12画数が陰陽説で延喜が良いとされた。
これが「後漢の安帝の父・清河孝の王」の「21代献帝」の時に滅び「阿知使王と阿多倍王」の経緯と成っていて、「半国割譲」で「勢国」の北側を所領としたと成るのだ。
そして、ここを「賀国」としたのだ。

その後にこの「四つの裔系」は分かれて、「伊賀」、「甲賀」、「滋賀」、「敦賀」等にその裔が住み着いた。
其の後の「好字令」で地名は「二字」に成ったが、この時、「伊賀、伊勢」の「伊の字の語源」は、そもそも「伊」の「象形文字」に意があって、「伊」は、そもそも「神を呼び寄せる聖者」の意があり、その右手で「杖」を持ち、その「杖の道具」で「神を導く物」とされた。
つまり、左辺の偏は「神を招く人・聖者」、右辺の旁は神を招く道具の杖の象形文字との「合意語」である。
「右手、杖、人」をこの「三つを組み合わせた象形文字」で、「治める」に繋がる意味を持つ。
つまり、この「伊」の「勢国」で「伊勢国」としたのだ。
もとより「勢の語源」は、「古文書」らに依れば、「神の許にあるその力で世俗の汚れを祓う」の意を持ち、その「祓う事」で「万物のいきおいを益すの意」として捉えられて使われていた。
上記の「伊の意味」と「勢の意味」を組みあせた要するに「好字」にした事に成る。

同然に、「西の賀の国」で「伊にある賀国」で「伊賀国」とした。
その語源は、そもそも「出雲の神」が用いた「神のお告げ」を占う「亀の甲羅」より発したもので、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十干は、「中国五行思想」から来るもので「生命消滅」を分けて説いたものである。
日本に入るとこれを「陰陽説」に使われたのだが、本来は「甲」にすれば最も良いお告げに分類された。
この「甲」を上記の「賀」と組み合わせて「好字」としたのだ。
「長く続く甲の国」を意味したのだ。
因みに、「滋賀」に付いて付け加えると、その象形文字の語源は、左辺の「草」が二つ並んだ処に、上に木冠を着けて、その左辺に「さんずい辺」を着けて流れるを表現したものであり、「育つ」を意味させた文字である。
これを上記の「賀の意味」と育つ・繁栄するの組み合わせて「賀の国の人民の子孫繁栄」を意味させて好字としたものである。
伊賀、甲賀、滋賀、敦賀にはこの様に統一した国としての意味を持たしたのだ
要するに渡来人のこの「坂上氏一族」は、この4つに分流し3代に続いたとされるが、その裔系を多く遺したその一族の主な定住地は、つまり「800年代の主流の定住地域」は、この事から「守護神とする田村神社」が存在する現在の「滋賀県甲賀市付近・本家」だったとされるのだ。
だとすると要するに、「甲の賀国」では「坂上氏同族」の「二つの分流(伊の賀、甲の賀)」が興っていた事に成る。
そして、その「始祖の阿多倍王」は、前段から論じている様に「西の甲賀・北伊賀」に隣接する「伊の賀国、即ち伊賀国」に住む事と成ったとする歴史的な経緯である。

突き詰めれば、「山部王の桓武天皇」と義兄とされる「坂上田村麻呂の坂上氏」であり、その「桓武天皇の母」は「高野新笠」で、「阿多倍王の二代目の高尊王・高望王」で、桓武天皇より「母の祖父・高尊王」に「平望王」の賜姓を賜ったのだ。
要するに、この事は「平望」の「たいら氏の初代」と成る。
この後に、「たいら氏の平國香―平貞盛―平維衡とし、それから・・・4代目平清盛」と歴史は続くのだ。
「伊賀に住していた高野新笠」の父は、「二代目高尊王」とされているが定かであるかは確定できない。
年齢から判断して「高尊王の娘」とすると、当時としては年齢的に極めて高齢と成るので「一族の娘」では無いかとする説が有力であるが、その一族とする説ではこの「三代目の高見王の説」もあり、年齢的にはこの説には合理性があり筆者も賛成している。
つまり、「桓武天皇・山部王」が「天皇」と成った事で、その「母の父」を「一族の者」から「直系尊属」として系譜上で「追尊高見王」とした可能性が高いのだ。
「施基皇子の追尊春日宮天皇」に応じて後から追尊されたとする説もある。
何れにせよ、この「追尊の3説」にせよ「一族の者である事には間違いは無い。
そうすると、論理的にこの「伊賀の裔系」は「西甲賀」までが、上記の「坂上氏」から「桓武賜姓」で「たいら氏」と成った事に成る。

さてそこで問題は、ではその前は「坂上氏」であったのかと云う事に成るが、つまり、何時頃まで「坂上氏」であったのかと云う事である。
これが「薬子の変・810年」での「坂上田村麻呂・811没の裏切り」の「伊勢青木氏の対抗策」に影響したと観ているのだ。
この時点で先帝の桓武天皇の「坂上氏の賜姓」を「平城上皇」は外したと観ているのだ。
「冠位官位」は勿論の事で当然の事であろうし、この「賜姓」は「天智天皇」によるものであって、その賜姓を外す云々は平城上皇にあり、嵯峨天皇の口出しの出来る範囲では無かった。

実はその証拠が遺されていのだ。

その変後も「平城上皇」は「平城京」に滞在した侭でいたが、「嵯峨天皇」は兄の「太上天皇の称号」はそのままとされた。
兄に傷を着けなかったのだ。
更には其の後も「嵯峨天皇の見舞いの行幸」も受けているし、この時、罰を受けた「大宰権帥に遷された親王」や「廃太子と成った親王」も居たが、この「2人皇子等の近親者」にも「四品親王の位」に戻す等の「冠位官位の授与権」を保持していたのだが、要するに何も事件は無かったものとして治め直したのだ。
つまり、「院政の相応の待遇」は保障されていた事が許されていたのだ。
又、本来あり得ない「禁じ手」の「先帝の勅を覆する事」まで行ったのだ。
平城上皇の院政を認めた事に成り、「上皇令」は効果を発揮する状態と成ったのだ。
「出自元の青木氏族」からの圧力を受けていた事に成るのだ。
その一つとして例えば、平城上皇は、“平安京より遷都すべからず”との「桓武天皇の詔勅」を破り、「在京貴族」に対し「平城京への遷都の詔を出す等事」や、「冠位官位の授与の取り消し」や「賜姓や褒賞した者の臣下の者の取り消し」までも「変の措置」としてを盛んに行ったのだ。
信賞必罰等の相当の権力を上皇は握った事に成る。
この様に「変に対する措置」を、あった事はあっとして措置し、上皇にせよ天皇にせよ兄弟は如何にも無かったかの様にも措置した「表裏一体の政治的な措置」を講じたのだ。
出自元の経済的な圧力があったと観ている。
そして、その「証・保証」として「嵯峨天皇」は、この様に「平城上皇」には「ある程度の政権の掌握・院政」を握らせて「政権の安定」を図ったのだ。
恐らくは、総じてこれらの経緯には「出自元の動き」を見計らったと観ているのだ。

要するに恐らくは、「坂上田村麻呂」はこの「裏切り」で「平城上皇の罰」を覚悟したと考えられ、他の「二人裔系の歴史・大蔵氏と内蔵氏」に遺る栄転に比べ、この「坂上氏」には「3代で終わる」と云う不幸が待っていたのだ。
何よりもこの「変」では最も勲功のあつた「田村麻呂の裔」に対して「嵯峨天皇」は褒章どころか身分さえもこれを補償しなかったし、「平城上皇の行動」を防がなかったのだし、何の勲功もしなかったのだ。
つまり、「表向き」は「薬子の変の扱い」を「臣下が興した変」としたのだ。
だからこの理屈から「田村麻呂などに対する処遇」は出来なかったのだし、一度罰した「近親者の処罰」も元に戻す事を余儀なくされて「平城上皇」に委ねて仕舞ったのだ。
普通ならこれでは「嵯峨天皇の立場」は無くなるし、「天皇としての権威」は低下する筈である。

つまり、「変」は「周りの者」が政治的思惑で興したものとして始末し、その「周りの者」の一部が復権を果たしているのだ。
「平城上皇の信賞必罰の権限保持」で出来なかった事が真実本音であろう。
上記の周囲の国が出自元の関係する国々の中で、この歴史経緯を度外視できず、この事から観て、その背景は「出自元の影響・献納の停止」と観ているのだ。

そこで、これ上記の等の「嵯峨天皇と平城上皇の行動論」から観て、“「坂上氏」には「3代で終わる」”の史実は、“果たして3代で裔系が終わった”のかと云う疑問の検証である。
青木氏の歴史観から念の為にして置く。
確かに、変後の「平城上皇の行動」で、「坂上田村麻呂」は「裏切り行為」で罰せられて“「賜姓族を外され坂上氏を返上した」”のだが、「3代の語句表現」は外された事で確かに3代であって、“子孫繁栄は3代で終わった”と云う事では無い筈で、賜姓を外された以上は「別の姓に替える必要が出たと云う事」であろう。
「伊賀、甲賀、滋賀、敦賀の4カ所」に広がっている「渡来人の賀族」は、通常論からそう簡単に裔系が絶える事は先ず無いだろう。

“抑々、「田村麻呂」は「薬子の変・810年2月」の約一年半後の「811年6月没・758年生・53歳」であり、天武期に直、連、忌寸、そして、聖武期に正四位、桓武期では従三位、大忌寸、大宿禰まで上り詰めていた。
その上記の諸流はその裔の許で「宿禰」を賜る”とある。

これで「完全に絶えてはいない事」が判るし、その「裔系」は「嵯峨期」には「甲賀全域」に於いても存在していた事に成るが、然し、その変後の「坂上の姓と冠位」は事実確かに散見できなく成る。
裔系であるかは未確認であるが、「平安期末期頃の二つの歌集」を調べると、「五人の歌人」が確認できるが、「賜姓臣下朝臣族の青木氏の繁栄等」と比較して「宿禰族」まで成っていた「その裔系の子孫繁栄」は、直接に源平戦等に巻き込まれない限りは普通は遺ると考えられるし、史実は巻き込まれている。
然し、間違いなく衰退している事は判るし、少なくと「政治の場と甲賀域」には無いのだ。
現に現在にしても名を遺すほどに同じ道を辿ってきた「九州全土の大蔵氏と北陸全土の内蔵氏」は姓名を変えて枝葉は大繁栄しているのだ。
いざ、宿禰族まで昇進し「族の格式」とそれに伴う「経済の糧」を得て、これから子孫を拡大させ様としたその「ポイント・薬子の変」でその出端を挫かれ抑え込まれた形と成ったのだ。
つまり、その原因と成ったのが、隣の国にいた「青木氏の策」であったと観ているのだ。
政治的には策は「上記の平城上皇の行動」と、経済的には「東甲賀の経済の道」を断つ事であった。
要するに、紙屋院として専売権を持つ「楮生産」と、その「買上げ」を停止を掛ける事であった事が判る。
前段でも論じたが、丁度この時、「長岡と甲賀 米原と甲賀 甲賀と伊勢」とを繋ぐ「交通運搬の要衝点・米原 R1」の「米原―甲賀の杜の全域での楮生産の和紙の停止」が歴史的に起こっていてその時期が一致しているのだし間違いは無い。
一つは「美濃の源氏化への圧力」とされると前段でも論じたが、「米原」が生産が中止後には「美濃の中央の寺尾」の山に「楮生産」は切り替えられていると論じた。

そこで問題は、“ではこの「米原域の楮生産」が「紙屋院の専売権」が認められていた「平安末期」まで本格的に再開されたか”と云う事の解明と成る。
末期の「頼政の1159年の伊豆の問題」が起こり、「伊勢信濃」はここに「融合族」を送り「商いの拠点」を造り、「伊豆楮の生産」を開始した。
つまり、史実として「米原楮が生産中止」に成ったが、その「理由」と、その後に「米原」は再開していないのだ。
「紙屋院」として「専売権」を持っている限りは、引き取らないとすれば「自由市場経済」では無く「部経済下」では「和紙生産」は絶対に出来ない。
明かに「米原楮が生産が中止された事」は、記録に遺る確実な史実であり、特別な生産に関する障害は発生した訳では無いとすると、後は「政治的で恣意的な原因」とされる。
「判断材料」としては、丁度、この少し前には「伊勢青木氏の財」で「近江東側域」を「額田部氏」に依頼して「長期間の干拓灌漑開墾」をして「和紙の原材料の生産」の為の計画を立てその調査が始まっていた。
ここには例え「干拓灌漑開墾」を施したとしても「花崗岩の甲賀の山」から流れ込む「永久真砂の土壌質」には、「楮が適さない事」で、そこで紙屋院の研究から「沈丁花の原材料等」の「上級和紙の画仙紙」が適する事が判明していてその開発に取り組んでいたのだ。
つまり、結局、「雁皮の靭・外皮下の柔らかい内皮」の繊維を中心に使う事と成って、それの生産に適する様に記録では「長期間・20年以上」とあるが、「和紙生産」と「干拓灌漑開墾」が「行の文意」から並行して行われと考えられる。
遂に「近江生産が始まった時期頃」と「米原楮の中止」と上記した「薬子の変の坂上氏への圧力」の重複しているのだ。
「裏切りに対する坂上氏」への「青木氏の圧力」は、「米原楮の中止」と「近江和紙生産」と「美濃寺尾の楮生産の開発」と「後には伊豆楮の生産」は計画的に「一貫した戦略策」として並行して行われたと観ているのだ。
当然に、前段でも論じたが其の後も「伊勢信濃青木氏」を巻き込んだ「桓武天皇派と嵯峨天皇派の戦い」は続いていたと考えられるが、この「青木氏」の「坂上氏裏切りに対する圧力」で「甲賀坂上氏」は「東甲賀」から彼等の「二つの裔系」が定住地とする「滋賀と敦賀」に去ったと観ているのだ。
その証拠に、「東甲賀」には全く無いが「北伊賀」に繋がる「西甲賀」には、「甲賀青木氏」が定住し「清光寺」も「神明社」もその所縁が存在しているのだ。
「坂上氏」が平安初期に住んでいたとする彼等の「守護神の田村神社・宿禰族以上に与えられる権利」は、「東甲賀の東端」に存在したとし、その後に再建されているがここには「坂上氏の尊属の裔」は確認できない。
天智天武期に阿多倍王の裔に三氏の賜姓が成され、最終は宿禰族までに成ったとすれば「賀国・甲賀の差配」は知行地としてその運営は任され、その結果として「知行の糧」として「米原から美濃の国境の東側域まで横に広範囲」に「楮生産を営んでいた事」とされていたとある。
だから、「土壌質」の替わる「美濃の寺尾の森」であったと考えられる。

上記した様に記録に依れば、その「土壌」から、“その「和紙」に対する「楮の質」と「生産効率」は低かった”とあり、故に上記の長期間を掛けて土壌改良までしている事はその証である。
故に、遂には初めて「良質の和紙・画仙紙」と呼ばれる高級で良質な表面とその滑らかで光沢がある紙に仕上がり、墨や岩絵具が滲み難い特徴を持つ「画仙紙の和紙」を造り出したのだ。
この「雁皮の和紙」を「絵画院と繪処預院」の名の下に「青木氏部の長年の研究」で「真砂の土壌」に適した「和紙」を何と編み出したのだ。
そして、それを「近江米原域・甲賀域」で生産させていたと云う経緯を持つのだ。
要するに、ここに目を着け“「圧力の許を見出した”と云う事だろう。圧力を掛けたのだ。
そして「停止後の生産」は、「干拓灌漑開墾」が済んだ「西甲賀」で行わせたと成ったのだ。
この歴史の経緯には合理性がある。
これで院号を持つ青木氏のこの「質と量」を理由に「青木氏の生産中止の届け出の大儀」は成り立ったのだ。
当然にその得られていた糧は低くなり、これが無くなれば坂上一族を生かして行く事は不可能と成り得る。
当然に米穀物は真砂である限りは極めて低いとすると、坂上氏の本家の裔は必然的に滋賀と敦賀に避難して行くだろう事は必然である。
況してや、上記した様に裏切った以上は、「平城上皇」が依然として「院政」を敷く以上は、朝廷内に遺る事は宿禰族であったとしても何の意味も持たず難しくなるも必定である。
故に、「記録の表現」が、“実質3代”としたと考えられる。
記録は「昔方式の意味含み」でそれを相手に悟らせる表現で、「適格に歴史の経緯の状況」を表現できていると観るのだ。

注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。

「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」に続く。(P60)



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