青木氏氏 研究室
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  [No.402] Re:「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」
     投稿者:副管理人   投稿日:2023/07/10(Mon) 09:41:11

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> 「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」の末尾
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注釈 参考として、「薩摩藩の島津家の家臣の西郷氏」は、鎌倉幕府倒壊後、「常陸の国衆」は、「西」に先ず流れ、前段でも論じた様にそこで先ず「伊川津・三河」に入り伊川津国衆」と成ったが、「三河の国」が敗戦後に西郷氏は三河を診限りこの「伊川津」から離れ、その後に「薩摩」まで「流れ薩摩の国衆」として流れた経緯を持っている。
抑々、この「国衆と呼ばれる者等」はその様なものを注し、特段の意味の事は無い。
この様に、「出世を夢見る小土豪集団」は日和見的に東から西に流れて行く傾向にはあったが、この時期には西の端から東の端の方に流れる傾向はなかったのだ。
精々、この「国衆の流れの大方」は「中部域・今川氏」で終わっていた。
それだけにこれ等を抱えて大きく成ったのが「今川氏・国衆集団」であって、それだけに「武田氏等」と違って脆かったのだ。
況してや、西の端の九州域でもその規模は低いが同然の事が興っていたのだ。
この現象は「肝付氏」と同然の「伊佐氏」でもあり、この結果としてこれが「日向青木氏の経緯」と繋がっているのであり、東には何の因果も無く、寧ろこの「流れ」は逆であったのである。
これを完全に結論付ける訳には行かないが、恐らくは関東より東域に流れたとする説は「江戸初期の国印状獲得の所以・後付け説の第三の姓族」であろう。

「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」

さて、話を戻して、「伊勢の50衆の郷士衆の氏人等」は、「伊勢青木氏の代理」として「三等官の高級官僚」と成り「南九州」に赴任した。
然し、当に、「伊勢青木氏族の氏族の郷士族」が「福家」に代わって「三等官掾の高級官僚族」と成った後は、殆どは人気を終えて「伊勢」に戻ったが、この“「戻るまで経緯」”には、それなりに“「戻るまでの流れの変化」”が上記する“「青木氏郷士の掾の変化」”に沿っているのだ。
この「伊勢青木氏」ならではのこの「独特の経緯」は、一部は其の後の「薩摩島津氏」に属して生き遺った者等がいたが、これは「青木氏族」に、“特記する珍しい時代変化”に抗し得なかった切ない一面でもある。
故に、此処にその一つの事例である「元伊勢郷士であった伊佐氏」を以てして、前段では論じ切れなかった「詳細経緯」とその「周囲の環境」を、ここは誰も論じない処なので、丁度、時代性が一致する為に特別に此処で論じて置いた。
ところがこの時期には、つまり、“「平安期の社会」には、合わせて“「源氏化」と云うムードで煽られていた”のだが、この「源氏化の社会」には、未だ良く調べると、余り知られていない「美化された処」が実は多いのだ。
その為に正しい青木氏の歴史観が偏諱を興している。
「青木氏の歴史観」としては、「源氏化の時期」は、“特別に知っておかなければならない面倒な時期でもあった”のだ。
これを「青木氏の歴史館」としてここで関係する色々な歴史観の面からここでも検証して置く。

この「源氏化の時期」には、取り分け、「青木氏」に大きく関わった“「大口村」”と云う所があった。
そこには、「伊佐氏の様な明確な歴史と格式を持つ高官」としての、所謂、「三等官掾の高階級の位を持った郷士族」が赴任して存在していた事は他に余り知られていないし発見されないのだし、ところがこの事は歴史的にも珍しい事なのだ。
それだけに、ここは「特殊な地域」でもあった事に成り、その「伊佐氏の成り立ち」に於いても同然なのだ。
要するに、この「九州南部の地」は、本来ではあり得ない「三等官の掾階級を持った特別な者が治める地域」でもあったと云う事なのだ。
この事は其れなりに“意味があった地域”と云う事に成るのであった。
この所以は、恐らくは、この“「特別な地域」”には、過去は「伊勢」に居たもので、「伊賀半国割譲」と云いう経緯からその所縁で「伊勢王・施基皇子の裔系」に「特別に命じられた重要な役目」で以て、ここに定住し出したものである。
それがこの時期では、この経緯の延長で「伊佐氏の現地孫」の「住み分けによる定住地」に成った事と考えられるのだ。
普通は殆どは「国司代級の者」が出向するのが普通である。
つまり、どういう事かというと、それは、ここは、“特別に周囲と違うと云う事”があって、それが「三等官掾の位と伝統」を持つ為の官吏赴任に「必要な特別な地域」”でもあったと云う事である。
それ故に、ここに「伊勢郷士」が「特別に住み分けていたと云う地域]であったと云う事であろう。

注釈 「国司」とは、地方の「行政単位の国」を「統治支配する行政官」として「朝廷」に代わって派遣された官吏の事、又は令外官の事である。
位は「四等官」であり、「守、介、掾、目の4つ位」があり、「伊勢」から「伊勢郷士・家人級」が「代理官吏」と成って赴任していたこの「伊佐氏」は、この「掾の位」に当たり、「伊勢からの出向と云う事」から一段上の「三等官」であったのだ。
中国では「中級貴族」に位置するもので、この「伊佐氏」は、態々、「伊勢青木氏」に代わって「伊勢郷士」の中から代理して赴任したと云う事もあって、これを以て「三等官掾」、つまり「中級貴族の扱いを受けていた事」を表すものだ。
任期は4年から6年で事情によって現地に定着する者もいて、依って、「任期期間」は前後していた。
その地域の「重要性や特別性やその成績」から「伊佐氏」の様にこの限りではなかった。
この国司は、政務付いて「祭祀・行政・司法・軍事」を司り、「絶大な権限」が与えられていた。
その意味で、「伊佐氏の三等官掾」は評価が高かった事を物語る。

さて、そうすると、この「論じている事件・前段」、即ち、「頼政の1185年前頃」までには、九州のこの特別地域では、「奈良期の末期」から少なくとも「平安期の終期頃」までは、“「伊勢郷士の赴任期の頃」”であった事に成るだろう。
それ故に、ここは「比較的に長い期間」にあって、この都から離れた「九州南部と云う地方」でありながらも、それだけにこの「南部の特定の地域」のここは、「朝廷から重要視されていた地域」でもあったと云う事に成るのだ。
それは何故かであり、「何故か大きい事」が此処に起こっていたと云う事に成る。
それは元々、ここは「奈良時代初期」には、「隋からの渡来人の首魁の"阿多倍王・隼人」とその「父の阿知氏王・阿知」が、「200万人の職能機能集団」を引き連れて「博多」に上陸し無戦して薩摩まで占領して此処に住み着いた地域であった。
そこから云う迄も無く、後に彼等は「政権」を握った「清盛らの裔祖・桓武平氏のたいら族」に当たり、渡来時より九州全域に、主にここに定住していた所でもあった。
後に「伊賀の国半国割譲」して首魁らをここに呼び寄せて「重要な伊勢に関わる伊賀」を与えられて「首魁の阿多倍王・伊賀王」は此処に移り住んのだ。
その前に「朝廷」は、船団を出して九州の彼等を駆逐掃討しようしたが歯が立たずに敗戦した経緯があるのだ。
そこで結局、「関西の手前」まで無戦で迫る勢いで占領されると云う結末と成ったが、此処で和解し、その代わりに首魁に「伊賀半国割譲と王位の位・敏達天皇の芽淳王の娘を娶る」を与えて「王族」に組み込み前段論の通り定住する事と成ったものだ。
その子が有名な「坂上田村麻呂・長男」であり、「九州探題の大蔵を担当した大蔵種材・次男」であり、「内蔵を担当し北陸地域」を治めた「安倍氏等に繋がる内蔵氏」でもある。
この様に前段で論じた様に、それだけにこの「地域」は、平安期に於いては未だ「彼等の氏」の「裔祖父阿知氏王」が、「伊賀半国割譲」と成った後にしても、未だその「裔祖らとその200万人の技能集団」が九州全土に多く住む「特定な地域」として重視されていたのだ。
それだけにこの彼等が持ち込んだ進んだ「技能で発展したこの九州域」は、「特定地域」として指定され発展して政治経済共に名実供に「特定地域」と成ったものだ。
別の意味でも彼等の持ち込んだ高度な技能で急速発展したこの地は、技能の面でも都より市場経済も栄えた事で、更に「半国割譲の影響」も受けて、「伊賀の青木氏・伊勢郷士の伊佐氏を派遣する程の経緯」として派遣される事と成り、ここが「朝廷」より認定され「正式な特別地域」と指定されたのである。

さて、故にこれが「主な経緯」であり、所謂、このそもそも上記した様に、ここには「伊勢青木氏族の氏人・家人」の「伊佐氏の菩提寺」は、即ち、「江戸時代に浄土宗知恩院派と成る」が、故に此の全域は「浄土真宗東西派」が寡占で存在する事の中でも、珍しく「浄土密教の14派中」の“「白旗派」”で存在すると云う事に成った経緯なのだ。
故に現在でもこの「浄土密教の寺」はたった「2寺」に過ぎないのだ。
其処にこの「阿多倍王の裔系」が住む「伊賀に関わる者・伊賀郷士伊賀青木氏」を「伊勢王の関係」から、この「九州の地」に配置して監理し、その責任上からここを「宗教」でも「青木氏族が監理監督すると云う事」が起った経緯なのだ。
それが「伊勢青木氏に関わる伊勢郷士・伊佐氏・伊佐氏の由来は前段で説明」であって、その「阿多倍の所縁」を以て「官吏三等官の掾官僚族」の「高官」として、この「伊佐地域」に特別に配置されたと云うものであるのだ。
然し、「官吏三等官の掾官僚族」と云えど、そもそも更には、“この地方には「密教の菩提寺を持つと云う事」”が特別に珍しい事でもあり、それも、更には多少に「格式名」などに縛られらた「排他的な格式浄土密教」と云う「独特の宗派・白旗派」がこの地域に存在したと云う理由に成るのだ。
そもそも「彼等の集団」が統一して帰依していた“「もとの宗派」”でもあって、それ故にも「排他的な格式浄土密教」と云う「独特の宗派・白旗派」で無くては成らなかったのだ。
その意味でも尚、同宗である「伊佐氏の様な伊勢の青木氏族・伊勢郷士」で無ければならなかったのだ。
この事は当時としては「極めて珍しい事」であって、「浄土真宗東西派」とその間には歴史的に元々、激しい軋轢があったのだ。
現在に於いても、「九州全土の9割以上」は、この「歴史的な経緯」により「東西の浄土真宗派寺」が占めている「特別な地域」でもあるのだ。
そこに、この「浄土密教の14派中」の「弱小白旗派」で、「最小派閥の白旗派の寺」がこの「大口」に存在していたと云う経緯であり、此れはどう見ても歴史的には何かがあっての事であるが、その起こった事は尋常ではない事であった筈なのだ。
そして、この“「密教の菩提寺」”を調べて観ると、この「密教の寺」は「浄土宗14派中の最小派閥の白旗派」の寺は、つまり「浄光寺系」は「伊勢の清光寺の分寺」でもあると云う事なのだ。
その「青木氏族が存在する地域」の所には、この「浄光寺」は必ず「伊勢の分寺」として今でも存在しているのだ。

注釈 明治時代には全国的にも激しく「珍しい廃仏毀釈」がこの九州で起こったのだ。
それ故にも尚の事で、そもそも「公家貴族しか帰依しない派の寺」がこの地に存在する事はそれさえもこれも極めて珍しい事であった為に「危険な事」であったのだ。
それ故に、この「白旗派の格式と歴史のあるこの寺」は、「伊佐氏と云う事」も含めて「天皇家に繋がる寺」として「廃仏毀釈運動の浪」を幸いに受けなかったのだ。
それは、最早、其処に住み着いたこの「渡来人の集団」と「伊勢裔系の高位族の一族の菩提寺だけの寺」と云う事に成っていたのだ。
これには上記した何か他にも由縁があったと云う事で遺ったと云う事に成るだろう。

注釈 改めて、これは「平安時代の古代浄土密教派・奈良時代に渡来人等が独自に中国から持ち込んだ古代仏教」を、「青木氏が国造頭であった監理する立場」からも、これに賛同してこれを「青木氏の中」にも「密教」として取り込んで「独自の教え」として「伊勢青木氏」は協賛して「独自の氏の教え・密教」としたのだ。
然し、それを「古代浄土密教・浄光寺」として確立したものであって、それが後に「特定の武家貴族や公家の範囲・16家程度」で構成して「白旗派」として帰依されていたものである。
それ故にこの「白旗派・大日如来の古代密教派」は、最小派閥を維持させるだけの「青木氏等の持つ経済力」で充分に持ち得ていたと云う事だ。
然し、後の平安期には「派」として「密教浄土宗」に組み込まれて行ったのだ。
それだけに、そもそも「三等官掾の官僚族の菩提寺と成る事」は、実に極めて珍しい事」であって、この「地域」ではそれにあって、「古代浄土密教」として「青木氏独自」に確立していたものであった。
それに「武家貴族や公家の範囲・16家程度」で帰依させていたものと成れば、この「検証」としてはそのルーツを辿らなくても必然的に前段で、その経緯を論じた様に「青木氏に関わる事」と成り得るのだ。
この「関わり範囲」で、この地に来た“「古代浄土密教の青木氏の住職の勧め」”を聞いて、「廻氏の裔系と成った仲綱の嫡子宗綱の裔」が、この場で「伊勢青木氏を名乗ったとする所以」と成り得るのだ。
これには「青木氏の関わる事の歴史的な意味」が大きい。

つまり、先ず初めに前段でも論じたが、これを以て云い換えれば、この“「注目のその住職の所在」”は先ず気に成るが、つまり、その「検証」として、「青木氏の菩提寺・清光寺の住職・密教の仕来り・白旗派・柏紋最高格位」は、“古来より「青木氏の者が独自に務めるという伝統の掟”」があり、これに従って、この場合はここでは、“「伊佐氏の菩提寺・浄土宗知恩院派・江戸時代に発展・浄光寺/清光寺/西光寺」”である限りに於いては、先ず、“「伊勢青木氏の所縁者であった事」”を更に結論付けられるのだ。
この「伊勢郷士の伊佐氏の論・前段」と共に、これが「大口青木氏・日向青木氏の青木氏を名乗った経緯論・下記」として繋がり、更に前段で論じた通りの「その後の働きの経緯論」とも繋がって行くのだ。
それが、「廻氏の裔系と成った宗綱の裔・その後に伊勢青木氏を名乗る」が、其の後に「日向」に来ていた「商船の伊勢の船/伊勢水軍」で以て、「伊勢」に連れて行き、“「伊勢青木氏の裔系」”として育てたと記録にある。
これは偶然にも「叔父に当たる青木京綱」と共に育てられた事と成り、更には一人前に仕立てた後に「廻氏と宗綱の子」と成る「大口青木氏の関係の経緯」と成るのだ。
この「検証」は「長い経緯論」と成る為に、此処では「追記の論」として書き遺して置く。
そして、「平家の追討軍」は、この「伊勢郷士の伊賀青木氏の住職のこの話」を聞いて“止む無し”として「桓武派」として引き上げる事と成ったが、この上記する「伊勢との血縁関係の経緯」を既に知り得えていたのだ。
この「平家一族の四掟の範囲」にあった「日向平家の掃討軍」は、上記する様に「伊勢」から来ていた「青木氏のこの住職の説明」を聞いて、この「浄光寺」から掃討もせずに、同じ「桓武派」として理解して引き上げた所以の経緯と成るのだ。
この“「伊佐の青木氏の住職」に助けられた”とする「際どい経緯」を、「遺された記録」にある。
この様に、先ず歴史的な経緯を持っていたのだ。
そこでこの「経緯」を段々に下記に論じて行く。

「注釈」 現在の「日向青木氏」とその一族の「大口青木氏のその裔」は、「南薩域」に現存し、その「商の拡大」と共に、その「商利」を生かして江戸期からは「黒田藩の傭兵・商船を持つ役割」として働き、江戸期末期までその子孫を拡大させて生きた。
その後の現在までも、更に「大口の子孫」は拡大している。
「北の日向」からも「南の端の薩摩の末端」まで「大口青木氏」として大きく子孫を広げているのだ。
その「裔系の拡大」は総合的経緯としては、上記の経緯に依り“「青木氏」”を名乗り、明治初期には「3年の苗字令」と「8年の督促令」でその「子孫」は、「苗字の上」では「3つ姓」に分かれたと成る。
それは「生存地域」に基づき「大口の山手に従事する者等」は、「農業」を主体として営み、“「上青木姓」”と名乗り、「日向灘の海に従事する者等」は、「日向水軍・水軍を持つ黒田藩の決め手」とし働き、その後に“「下青木姓」”として名乗ったと成るのだ。
この「3つの地域の本家筋・大口地域」には、“元の「青木氏」とした”とあり、その「家紋」は「丸に笹竜胆」を使う事を「伊勢」から特別に許されたと成っている。
その証拠は現在では墓所等にも見られる。
この「明治初期の苗字令」では、この「三つの姓」に名乗りを更に変えて同地域で、西域は「長島町」から「阿久根」に、そして「大口市」に、東は「日置市」と「日南市」に、北は「日向市」を超えて「佐泊」までに伸びているのだ。
明治期に名乗りを変えずそのままの「青木さん・主家筋・大口市」と「同系の三つの青木さん」がここには大きく現存するのだ。

そこで話を追記論の前のこの「歴史」を左右させた「青木氏の独自の歴史観」として持つ「後家制度の論・源氏化で影響を受けた」にももう一度話を戻す。
何故ならばこの論の過程で、その「経緯」が「青木氏」には「大きな繋がり」をみせるのだ。
何度も論じている事ではあるが、先ず一つのこの「古い典型的な事象・後家制度」が他にもあるのだ。
当時は未だこの“「後家制度・現在と仕組みと意味が違う」”は、「公家や高級貴族の氏間で行われる制度」であった。
この事から、「社会」には未だ広がりを余り見せずに、この事例は他に無く、ところがそれは、この「源氏化・猶子策」と共に大きな社会変化を興していたのだ。
それは「皇族臣下族としての品位格式」を護らせる為に、先ず「嵯峨期の9つの縛り・賜姓族としての伝統」を課せたが、それを最初からこの「源氏族」は全てに渡り護らなかったのだ。
それは「源氏・正規11氏・源氏化」が、「源氏化の歴史」の中で、“「ある事」”が横行していた事が原因していた。
彼等は、それを“継承して守って行くかの意思”が、元々、「源氏の彼等」にとっては「無理な条件・嵯峨期禁令の9つの縛り策」でもあった事から、最初からその意思は彼等に無かったのだ。
その為に「源氏賜姓・源氏化」は、盛んになるに連れて、それには社会の中に「嵯峨期禁令の9つの縛り策」を護らなかった事で、「秩序」が充分に取れずに乱れ次第に“「ある慣習の乱れ」”が社会の中で生じて行くのだ。
その「満たせられない原因」が、社会に蔓延ったのが、“「猶子と云う策」"であった”と云う事なのだ。
これが、主に後の「村上源氏等」に依って、取り分け無秩序に盛んに乱用されたのだ。
これに依って「源氏族の各式の根幹」が更に崩れ始めたのだ。
この事に依って「青木氏等が持つ制度」の一つの「後家制度・皇位族や貴族間の制度」も意味が低下して崩れ始めたのだ。

本論では、この「後家制度」と共にあった「猶子策の源氏化」も、その丁度、同じ「位置過程にあった事」から「歴史観」として、これを先ず論じて置かねばならない。
「歴史観」として、この「後家制度」から観ても、「源氏化」が美化されたものだけでそれであればよいのだが、現実は「ある事、つまり猶子策」で、この「源氏化」も根幹から相当に乱れさせていたのだ。
そして、それが一つの「ある社会現象」を引き起こす事に成っていて、「源氏に伝わる事とその実態」は相当に違っていたのだ。
そこでこの「病原菌と成った猶子策の詳細・下記」をどんなものかをこれを先ず知って置く必要があるのだ。
実は、それは「源氏化・源氏」や「後家制度・青木氏等の皇位族」の「社会の中・武家貴族社会」には、それを更には「社会秩序を乱す“知られていない「猶子策・下記」”が起こっていて、大きく「平安期の社会」が乱れていたのだ。
何時の世も、これが起こる世は、“美化された社会現象の世”でもあるのだ。
これは通常に歴史を勉強するとしても、あまり外に出て来ない「三つの歴史用語」である。
何故ならそれは「歴史家」が、「自説」を導く上で、「美化の感覚の方」が強くて、「歴史研究者」はこれがあると「自説の論理付け」が難しくて、殆どはこの事を敢えて取り上げない、又は、書かないで「論理だて」するのが普通の事であろう。
それが、「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の“「融合族」”の中にも、この「悪い事例」が起こっていて、この「族」を基として「奈良期初期」にも同じ事が起こっていたのだ。
この現象が、「敏達天皇裔系春日王族の四世代族」の「近江佐々木氏・川島皇子の裔系と伊勢青木氏・施基皇子の裔系」にもあったが、ところが「近江佐々木氏の論」の中には、この「美化説」に付いては一行も何故か書かれていないのだ。
この「奈良期」では、未だ「伝統・同宗四掟四門四族氏族の裔系」に基づき「同族・一族」の「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の「融合族の関係性」が、この“「後家制度・猶子策に代わる皇位族の伝統的な慣習」”等が未だ護られていたと共に、共に未だ社会の中にも安全に保たれていたからだ。
この時代は、「施基皇子と川島皇子の兄弟」から始まり「三世代」に続いて「完全融合族」を保っていたのだ。
この「初期の血縁」は、遺伝学的には良い事ではなかったが、「後家制度の悪弊」を防いでいたのだ。
つまり、この論に於いて何処に重点を置くかに依るだろう。

ところがそもそも「淡海族」とは、この頃は「伊勢族」とは「完全な血縁の相互血縁の仕来りの中」にまだ合ったとする記録があり、ここで云うのは、ところが「近江佐々木氏の方」が、この「縛り」を護らずに、この為か「貴族社会」には、寧ろ、「源氏化の方」に走っていたのだ。
それだけに幾つもの記録にもある様に、「貴族社会/聖武期頃」からも疎まれる事と成ったのだ。
これで「青木氏等の注意」に拘わらず、その後の「佐々木氏」は「源氏化」をして行く。
その中で、「平安期中期頃」には、「近江佐々木氏」の中には、「上記の乱れた源氏化の現象」、つまり、“「猶子策」”が頻繁に起こり始めていたのだ。
この「弊害」を伴った「近江の源氏化」が起こると供に、その「悪影響」は「信濃と共に青木氏の後家制度」にも影響して崩れ始めていたのだ。
この事で「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の間には、「大きな亀裂・疎遠関係」が「記録」にある様に生まれていたのだ。
それを何とか繋いでいたのが、この“「伊勢の嫁家制度等」”にあったが、ところがそれにもこの「源氏化」が進むに連れて“「亀裂」”が生まれ始めていたのだ。
この「接着材的機能の後家制度」でもあったものに、遂にはこの「伊勢青木氏と近江佐々木氏」との間にあった「独特の“後家制度」”までにも、それが「中止する程の絶縁状態」と成ってしまったのだ。
ところが、これには「煩わしい皇族系の縛り」を護らずに楽に生きられる様にと、「猶子策の源氏化と云う時代の変化」が淡海族にもより絡まって来ていたのだ。
これが進むに連れて、“「源氏化の猶子策・下記/病原菌の様なもの」”も公家貴族社会にまで進行していったのだ。
要するに、この「伊勢青木氏と近江佐々木氏」を繋いでいた「重複血縁関係」で成り立つ「後家制度」」は、そもそも「嵯峨期」から始まったものであるが、この“「源氏化と猶子策・下記」」”で次第に壊れて行ったのだ。
そこでこの「源氏化」には、「社会的な乱れ」が起こらない様にと、「煩わしい皇族系の縛り」を「嵯峨天皇」は、当初、「詔と禁令」を出してこれを求めたが、これをも彼等は完全に護らなかった。
この事から、更に「内部」には「破壊」に繋がる「病原菌/猶子菌」を持って仕舞っていたのだ。

注釈 この時、歴史観として注意しなければならない事は、「天皇・朝廷ではない」は、「伊勢青木氏後裔」に対して、密かに“「因事菅隷・内密な命令」を以て、又は、「特別令外官」として、又は、「賜姓五役」としても秘密裏に求められて発せられていたのだ。
それは「病む川島皇子の裔系の近江佐々木氏・淡海族一門」に対しては、そもそもこの「淡海族一門」を「維持して行くだけの経済力」は、元よりなく無かったと判断されていて、“それを助ける様に”と「因事菅隷」で命じて来ていたのだ。
然し、それでも現実は「他の淡海族一門等の98氏」と共に困窮を極めていたのだ。
そこで、責めて「敏達天皇系の四世族門の血縁関係」にある「淡海族一門の佐々木氏」だけでも救う為にも、密かに「院屋号の万能権を持って巨万の富」を有していた「伊勢青木氏・施基皇子一門」に対して、上記の様に「二つの因事菅隷」を以てして命じて来たのだ。
その一つが、歴史的に観ると、「米作が困難な真砂砂岩土壌」の「琵琶湖東湖岸の灌漑干拓工事/20年」であり、その二つ目は「近江の鉄鉱山開発」であったのだ。
それまでは「砂鉄での鉄」であったが、「大化改新に依る文化発展」と供に、「鉄の需要」が高まり、この「近江」にも「二つの鉱山開発・最終は4鉱山」に初めて「施基皇子の裔系」を以て「因事菅隷」で「国の殖産工事」として取り掛かる事を命じてきったのだ。
その「利」で以て「近江氏」を豊かにし、且つ、「内蔵」を潤す為にも、この「源氏化の淡海族」を救おうとしたのだ。
これには「国造頭の青木氏部」だけでは成し得ず、そこで当時の墳墓工事等一手を請け負う「最高土木技術・渡来人」を持っていた「臣の額田部氏の協力」を得ていたのだ。
この「関連する記録」には、「渡来人」である為に「中国」から得た高度な技術を下に取り掛かった事が書かれていて、「施基皇子」が「国造頭」を司っていた関係から、“ある言葉”で以て、工事が充分に行える程に極めて仲が良かった事が記されている。
この「渡来人」に付いて更に調べると、「出雲国に働く額田部氏・本流族」と、「大和朝廷に仕えるこれと袖を分かち合う支流族額田部氏の二派」に分流していて、「本流の方」は「遣唐使等の重役」を何度も務める「出雲国の高級役人」でもあった事が記されている。
「祭司頭の施基皇子」とこの「工事関係責任者の額田部氏」に「天武天皇と持統天皇の葬儀」と「その後の墳墓工事等の差配等」の全てを以て任すとの「事前の命令」で造営していて、未完成の期間は死後一定期間は未だ別の所に保存していた事が記されている。
そして、その後の「祭司と古墳工事等」の一切を任されていた事が示されている。
これには、、“ある言葉”とは、この“「額田部氏」とは、「刎頸の友の関係」に有った”からだと記されていて、一切を任されていた事が記されている。
この言葉で、“どのような関係に有ったかは非常によく判る。”し、「記録」は敢えて何故にこの言葉を選んだかは良く判る。
当時の「大和朝廷」には、他に土木工事など行える「姓」は、そのレベルは別として他に「結城氏・専門道路」と「和気氏・水路」があって、この「額田部氏・総合土木」は他の二つの氏とは段突の差の「総合技術力」を保持していたと記されている。
「施基皇子」は、この「額田部氏」とは、取り分け、“「刎頸の友の関係」”と難しい用語を使って書かれている限り相当に仲良かった事が特別に記されている。
其の後、ところがこの「額田部氏」は、「桓武天皇の遷都に向行しなかったという事」で罰せられて「飛鳥斑鳩」を追われた。
何故、向行しなかったかは、この“「刎頸の友の関係」”の言葉で判る。
それは「施基皇子・青木氏の裔系族との関係」を遷都で崩したくなかったと云う事を表現したのであろう。
そこで、そこの処を“「施基皇子」が密かに「伊勢・北勢」に囲い護り、その後に「桑名」に土地を与えて“「神明社の裏手」”に、この「額田部氏」を、何時か日の目が当たる事を信じて秘かに匿い興させた”と「記録」にあるのだ。
そこで、“神明社の裏手に匿った”とする処に、「意味」が隠されていたとするがどういう事なのかである。
最高高度な「神聖な場所」の「神明社の裏手に許可なく立ち入り廻る事」は、当時から「固い禁止事項であった事」が書かれていて、それで“神明社の裏手に匿った”とした事が読み取れる。
其の後に、積み重ねた実績を以て、流石に出自元の「伊勢の言い分」を無視できず、その伊勢の「伊勢からの天皇への採り無し」で、現実に誰も成し得なかった被害の耐えなかった「飛鳥や伊勢の干拓灌漑工事・近江鉱山開発や溶解炉の開発や炭や和紙の開発や外にもある」を成しえたとして訴え、この「大功績」を以て「罰する事を出来なくなった桓武天皇」から特別に「罰」を解かれたとする記録がある。
それどころか、「特別恩赦」を与えられ、「渡来人」では、“「造部の身分」ではあり得なかった事も、「破格の二階特進の宿禰族」までに上り詰めた”と記録にあるのだ。
それどころか「額田部神社」まで「一姓族に建立する事」を「伊勢桑名の地」に認められたとあるのだ。
先ずは歴史的にこれはあり得ない事が起っていたとある。
これには「記録」があったと云う事は、「桓武天皇の出自元の伊勢の推薦」が密かにあった事を物語っているものだ。
この記録から其の様に考えられる。
この「経緯の事」が潰さに記録に遺っているのだ。

注釈 「渡来人」のその「額田部の姓」は、先ずその「語源」に付いて知る事で判る。
それは、「額・がく」は、顔上の部で、髪との生え際の間の事を意味する。
これはそもそも、この部分は、“太陽の陽が良く当たる場所の事”をそもそも指す言葉としても用いられていた事である。
語源の語は、「ぬか・ひたい」であるが、特にそれ故にここは、“陽の良く当たる場所とそれに田を加えて陽の良く当たる突き出た部位”を云い、つまりその「田圃を培う部人の事」を「ぬかたのべ」として昔は意味した。
つまりは、その“田を特別に開発する部人”の事を意味したのだ。
そこから発展して、“これに関連する工事や最終は墳墓工事まで手掛ける部人と云う事”に成ったものだ。
このそもそもその意味では、元来は「田の開墾」やそれに伴う「その収穫などの管理」を担う「専門職の職能集団」の事であって、その事から「田畑の干拓灌漑などの土木工事」も伴う事からも、その「田畑の干拓灌漑の土木の技術」を生かして「墳墓工事」なども専門に手掛けたとある。
おそらくは「此の時代の墳墓工事の一切の殆ど」は、桓武期の一時期を除き、この「額田部氏」に委ねらられていたとある。
中には、その「土木技術」から「地質学」にも長け、国では唯一の“「鉱山開発等」”もした事が記されている。
地質をも見抜き貴重な岩石発掘なども手掛けたとある。
更には「その田畑の収穫などの管理技術」を生かして、これを行う「専門の分家」を出自させ、遂には「新穂氏・田畑の植え付け収穫保管等の管理術の発展の専門技術部門」をも発祥させたとある。
彼等は、「嵯峨派」の「世間の風潮」に逆らうも、「桓武派」として「青木氏と供に生きた派」であって、「信濃と共に伊勢の後裔等」は、この時期はこの様に此れ一つとっても、“周囲と調和し発展関係を進展させていた事”が判っている。
前段で論じた様に、額田部氏とは「諸々の事」があって何と明治9年まで付き合いがあった事が記録されている。
さて、然し、「淡海族」は、その「格式の中」に閉じこもり、自らも自律して発展させようとしなかった事が判るし、其れを「伊勢」に生活を補完して貰っていながら「他力本願的な態度」に出ていたのだ。
然し乍らも、更にはそれが卑屈になり、逆に「伊勢と信濃が伸長する事」をも「記録の文面」から観ても妬んでいた様でもある。
それが、更には「伊勢や信濃との融合血縁の関係」をも一切断ち切った事にも表れていて、其れだけでは無く新しく出来た「源氏化・嵯峨期から花山期」に走った事にも成るのだ。
結局は、最高格式を有していた「敏達天皇系の春日王族の四世門族の淡海族」は、「富士川の戦い」で滅亡するが、その他の「全ての源氏族・11氏」も「1221年」には滅亡するのだ。
下記にその経緯説明するが、この事に付いの事だが、筆者は、定説と違って当時者の氏族から観た考えとして云いたいのは、“一見して社会は「源氏化」が正しい事”だとしている事だ。
ところが、其の事に付いて詳しく調べて観ると、「一時期・正味30年間」には、その「源氏化」には真剣に目を向けていた時期もあり、実の処では「社会」も「朝廷」も、「嵯峨期詔勅禁令に基づく朝臣賜姓臣下族の品位の基本」と成る「9つの縛り掟の策」を守る事を「律宗族の伝統」を護る為にも、彼等に強く求め続けていたらしい。
ところがそれを最初から無視していたのではないかと観ているのだ。
「源氏の賜姓」を受けての「皇族臣下族のあるべき姿」を、この「掟」として「詔勅禁令時」に書き遺したものであるが、これは厳しすぎて護れる者は「11源氏全てが護らなかった」のだ。
ところが、反面、「伊勢と信濃の二つの賜姓青木氏」はこれを「伝統」として護っていたのだ。
そこに「焦り」が「嵯峨天皇」には有ったと考えられる。
「伊勢と信濃の二つの賜姓青木氏」はこれを「伝統」として護っていたのに、“何故、自分の源氏は護れないのだ”と卑屈に成っていた事が考えられる。
これには「ある経緯」があるのだ。
ところがこの「賜姓源氏族」には、凡そ「嵯峨天皇期・850年期」から始まり、「花山天皇期・1009年期」までのほぼ「150年間」には、しっかりとその「欠点」に目を向けていて、「乱れた源氏化を止めた事」には経緯として成るが、それが、“「1221年」で終わった”のだと成ると、その「経緯期間」は「850+150=1000年/1221年」ではある。
然し、つまり、「この時系列の差」の「221年間差」は、この「円融期と花山期」を「頂点」に山を描く様に、「下坂」に成り、「源氏化」は自然に限定化して行く事に成るのだ。
「1221年の実際の経緯・北条氏等の台頭」から観ても、「源氏化」は、「約半分程度の150年程度であった事」に成る。
その「歴史的経緯」は、「150年と150年の山」を描いたと観られるのだ。
後の実質は、「150年」は先ずは「北条氏の世」であったろう。
然し、その「経緯」は違った。
つまり、「猶子策と云う弊害」を生じさせていた「源氏化」のその「頂点」には、「円融天皇と花山天皇の存在」があったと云う事なのだ。
この「二人の天皇」が、“乱れた「源氏化」に何かを施した”と云う事に成るが、“その何かは何か”である。

然し、この間、この「源氏化が終わる兆候」は、「頼政の事件」の通り未だ観えていたと云う事なのだ。
その“「兆候」の最たるものは、「北条氏の政権乗っ取り」”であろう。
要するに「北条氏」は下記で論じるがこの事を知っていたと考えられる。
それは先ずは、「府の樹立」に、「朝廷」は、史実の通りに直ぐに「府としての認可」を下ろさなかった事なのだ。
つまり、「朝廷」はこれには「内蔵と大蔵を抑えての経済的な圧力」を受けていた結果、遂に「圧力」に屈して認可を下ろす結果と成ったが、それは、当初から「認可する為の条件」が整わない為に、それが「絶対の帝紀」に照らしても、「朝廷の辻褄合わせ」には、“「絶対条件」”である為に、そこで、これも「経緯の美化の為」にも、“「頼政の以仁王の宣下の延長」”と云う事を「前提」に持ち出して来て許可しようとしたのだ。
これで「朝廷」に執っては、最低限にでも「帝紀」に照らしてもこの“「宣下」”がある限り「辻褄が合う事」と成った。
この様に「開幕と源氏化」に付いては、「歴史観」が史実を美化されており正しく伝わっていないが現状であり、現実に一般が、此処迄調べる者もいないだろうし、其処を突いて「源氏化の自説を美化して説いている物」が多いのが現実である。
この事を知る知らないかは「歴史観」は大分違ってくるのだ。
これは要するに「美化」に於いては、「邪魔な事」だからであって、「源氏化の美化論を目論む者」に執っては多少は「美化」が伴っても、敢えて「史実」を「あいまい」にして置く事の方が「自説の歴史観」を判断にするに於いては重要な事なのだ。

注釈 絶対開幕条件」には「史実」として外にもあって、それは、そもそも“「棟梁」”である、その「棟梁」とは、元は建物の屋根の主要部分である「棟・むね」と「梁・はり」の事であって、「家の棟上げ」は、慣習として大工の頭がする事から、此れで以て「親方」と云う意味合いを持っていた。
この事から「頭領・大工頭」と、“当初"は"呼ばれていたし条件の提示としていたのだ。
これが、「家」に執っては、かつ「重要な部分」である事から、「朝廷」は、「頼朝」には“「宣下を持っている事で頼政の代理」”を前提としている為に、この“「棟梁の名」”を与えなかったのだ。
与えたのは、史実は当初の“「頭領」”であって、“「棟梁」”を与えたとする記録は何処にもないのだ。
ところが、この「頭領の表記」、又は、“「棟梁」”には、「日本書紀」には、「景行天皇」が「武内宿禰」に、“「棟梁之臣」”と表現している事」を以て、“「武家の頭」”とするとしてその結果として使う様に成ったとしているのだ。
ところが「八色の姓」では、 「真人族、朝臣族、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の「姓の格式称号の事」であって、この「武内宿禰」は、そもそも「皇族外の家臣の称号・宿禰」であって、“「棟梁之臣」”と表現している事を以て“「武家の頭」”とするのには問題があるとする説が朝廷には出たのでもある。
当時もその意見が鎌倉にも多く出ていたのだ。
そうするとこの説によれば、それは“「棟梁之臣」”と表現している事を以て、“「武家の頭」”となるのは、少なくとも「賜姓臣下した朝臣族に値する格式の称号の者」と理屈では成り得る。
依って、「武内宿禰」の“「棟梁之臣」”の意は、確かに「武家」ではあるが、それは「朝臣」では無く「宿禰」であって、その意味するのは「家臣」と云う事に成る。
つまり、“「棟梁之臣」”の意味は、“「棟梁」の下の家臣”を意味したと取れて「朝廷」が示した「頭領の表記」の説は、間尺が合いただしいのだ。
当時は当にこの議論が主流として出ていたとある。
そこで、「頼朝」は勝手にこの説を逆手に採って、「頼朝」は、「頼政」を引き継ぐ以上は「頼政が朝臣族・正三位」である以上は、「頭領の表記の説」は間違いであって、「棟梁」だと「朝廷」に捩じ込んだのだ。
そして勝手に「武家の棟梁」と主張したのが本当の経緯であった。
何れにしても「瑕疵問題」がある。
唯、ところが此れには「もう一つ難題」があって「朝廷」は引かなかったのだ。
それは「河内源氏」は、そもそも当時は「類題三代罰」を受けていたので、「罪人」を「朝臣族」とするは問題であるとして、且つ、「頼政の延長の府・ここからはみ出る事はなかった」ので許可していると云う事でも、「頭領」と「棟梁」に意地の張り合いで決着はつかなかった。
だが、「朝廷」はこれで正規の理論位置を獲得したのだ。

注釈 ところが当時では、これには“決定的欠点”があって、この「頭領」と「棟梁」は、一般には当時は未だ使われていなくて、上記する「武内宿禰論」の様に「書物の範囲」であったとされていて、これも現実の正しい事である。
そもそも「別の説」では、これは「平安中期以降にかけての事」であって、ところが幾つかの書物に依れば、全国的には、“「堪武芸野之輩」”とか“「武勇之人」”と呼ばれる「豪傑、又は人を引き付ける豪族」が現れて来ていたのだ。
それまでは、これらは「寺の番人・侍」や「家や人の護衛人」や「豪族を護る家人」等を個々にしていたのだが、次第にこれらの「つわもの・兵者」等は集まり「徒党」を組む様に成ったのだ。
それまでは彼等は、「朝廷の兵等」を務めていたが、その枠を超えて来る者等が増え始めたのだ。
上記した「伊勢50人衆等の様に、つまり「伊佐氏の論」にある様に「実力」を発揮して此処に「官僚の中」で力を持ち、又、社会に一人飛び出て行ったのだ。
その一人が朝廷の中で出世して上記した本論の「伊勢者の等官僚の武人と成り得た伊佐氏等」と云えるのだ。
そしてこの様な「流れ」が、「武門の源流」と成り、それを「指導統率する実力の人物」を“「武門之棟梁」”と称したのだ。
これが正しい経緯なのだ。
従って、この“「武門之棟梁」”とは、“人とは限らなかった事に成る”が、その中でも名声が高かったのは「桓武平氏の平維時・維衡・致頼」や「清和源氏の頼光・頼信」等であったとされるのがそもそも論である。
そこに「個人だけを指定して崇める称号」ではそもそも無かったのだ。
これも史実である。

注釈 そこで、「嵯峨期詔勅とその禁令」を破っての「武力集団の河内源氏」が出てきたが、その「祖の満仲」は「朝廷の忠告」を受けたにも拘わらず「武家の者」を集めたので、この罪で「累代三代罰」に課せられたのだ。
ところが社会は、「河内源氏の次男の頼信の孫・源義家」等が称されたとして“「武士之長者」”と称されたとしているのだが、これは間違いなく「鎌倉期の後付け説」である。
そもそも「重大罰」を受けているのであるから、この説は当に「美化の為の鎌倉期の後付け策」である事が明白に判る。
これも同様の意味とされ、「罰を受けている家」なのに「義家の子孫(河内源氏)」は、史実は美化の為に特ったとして、“「天下第一武勇之家」”と「後付け」で世間では呼ばれたとしているのだが、故に上記した様に「朝廷」は“統一した称号”とは頑としてしなかったのだ。
そもそも統一すると「承認してしまう事」に成り、これは「絶対帝紀に逆らう事」に成るとしたのだ。
ところが、その後、「平清盛の伊勢平氏・桓武平氏」が、その「地位」を統一してこの「称号の統一化」を図った。
この「称号」を権威化して、この称号は「桓武平家だけがう授かる事」に成ったのだ。
この事が事の「将軍としての権威付けの称号の始め・史実の経緯論」であるのだ。
従って、ところが「累代三代罰を受けていてそもそも「罪人」であり、その立場にない「源頼朝」が、それを“「宣下を持った頼政の代わり」として、先ず理由付けて「鎌倉幕府」を何とか先行して開かせたのだ。
要するに、これで妥協して鎌倉では「罰家の汚名」を逃れようとしたのだ。
然し、ところがこの「称号の始め・経緯論」が、上記した様に既に正式には“「平家」に依って統一化されていた”事の為に、どの様にしてもその後も「権威化された称号」も使えずにいたのだ。
そこで困った「鎌倉幕府」が、自ら強引に定めた“「天下兵馬之権」”の呼称を作り出したのだ。
それを前提にして、「平家」が使わなかったものを先ず掌握したのだ。
そして、慣例に従い“「天下兵馬之権・源氏」を作り出して、平家の“「天下第一武勇之家・平家」”とで、対抗して、“「武家政権」を確立したのだ”と勝手に定めたのだ。
この事の此処までの経緯が、すくなくとも“当の経緯論であるのだ”として歴史研究者は源氏化」を何とか「美化・後付け説が多い」したのだ。
従って、その後に「頼朝の軍事的権限」は定まったとしたと勝手にしたが、実質の解決は無かったのだ。
ところがもう一つの“「征夷大将軍の地位・朝廷に指名した証拠はない」”は疑問であったのだ。
ところが、「源氏化の美化する過程」では、“次第に社会の中で結び着けられて世襲したとされた”と云うものに成ったと結論付けていたでのである。
つまり、「証明できない処」は、“社会説に切り替えて研究者は美化した”のだ。
最早、研究家に執っては「自説の源氏化の美化説」は何でもありなのだ。

ところが、「記録」としては現実は、何も無くその「信賞必罰の決定権を持つ朝廷」が示す証拠も、況してやそもそも前段で再三に論じている「氏紋や軍旗」も「守護神」も「菩提寺」も、「朝廷」には、“「賜姓の青木氏」”に有っても、「源氏」には与えた記録は故に何処にもないのだ。
その中で「頼朝」は騒いだと云う事なのだ。
そもそも「氏紋や軍旗」も「守護神も菩提寺」も「整わない氏族」は、「府の開幕条件」はそもそも無い筈としたのだ。
そこで、「朝廷」には、「頼朝の源氏」には、「氏紋・笹竜胆」や「軍旗・白旗」には「青木氏の賜姓時に授けたもの」を真似て間に合わした事が判っていた。
然し、「守護神・神明社」と「菩提寺・清光寺」を急に真似て整わせる事は無理な事として認可しなかったのだ。
そしてこの史実の記録を根拠に、再び、又「府の申請」に付いて無視したのだ。
そこで、本来は、歴史の経緯を具に調べると、“「府の開幕条件」の「守護神も菩提寺」だけは無視した”と云う事には成って無い筈なのだ。
何故かであるが、そこで、この事に付いて、“「開幕条件」の中には強くこれを指定する記録の様なものが「朝廷の中」にも無かった”のだ。
この事から、「守護神も菩提寺もこの習合体」として、“独自に造り上げたもの”を自ら容認する以外に「落としどころ」が無く成ったのだ。
本来は、その前提が「皇祖神の子神の神明社・488社・青木氏が守護し監理した」であるし、従って「開幕条件」もその様に成るが、これだけはどの様な理屈をつけても準備し美化出来なかったのだ。
結局は、自ら「八幡観世音菩薩の守護神と観音菩薩仏の二つの神仏習合体」を造り上げたのだ。
然し、「武家」を関東に於いて最初に統一したのは「平将門」であるが、これを以て勝手に将門を「武家の守護神」としたのだ。
其の後に各地にこの「神仏習合の便利な八幡社」は「鎌倉武士の台頭」で建立される様に成った。
「朝廷」は一部では、この「平将門」を容認するも、最後は、将門は゜反乱者」に仕立て上げられたが、「伊勢青木氏の者」と同じく、これは「桓武天皇四代の子孫」に当たるとした。
要するにこれは正しく「桓武派」であり、「平氏の姓」を授けられた“「高望王の三男」”の“「鎮守府将軍平良将の子」”でもある。
唯一、「朝廷」も、「平将門」には、「一族の者」としても、「平家」の“「天下第一武勇之家の者」”としても、これを認めていたのだ。
故に、一時は「朝廷」からも、将門は“「鎮守府将軍・九州平定」”と称された「歴史的経緯」を持っているのだ。
要するに「流れ」に依れば、“「開幕の将軍」とも成れる立場にいた”のだ。
この「朝廷」からも、「反乱後・決めつけられた」も依然として信頼されて認められていた「将門」が、然し、「神仏習合の便利な八幡社」を、“関東に押し進めた唯一の人物”でもあるのだ。
当にこれは「平家」が云うの“「天下第一武勇之家の者」”であったのだ。
その事から「関東に於ける事」として、上記の様な「府に都合の良い美化論」が次から次へと生まれた。
「決定的な否資格者」であるも、「類題三代罰の罪存在」も無視して、“「河内源氏の血」を引く人者」が、“「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」だ”という図式が社会に成立した”と勝手に決めつけていたのだ。
これが「社会筋美化論の説筋」であるのだ。
故に、この「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」を下に起こった「美化論」は此れだけでは留まらなかったのだ。
この「美化説が説くこの図式」は、更に発展して「河内源氏嫡流断絶」のその後に於いても、未だ続けてそれを「形式的により美化」したのだ。
それが、何とこの理屈は、“「征夷大将軍を継承した摂家将軍」や「宮将軍」の元でも、「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」は維持される事に成ったとしていて、何とか無理にこの「美化論の結末」を繋いでいるのだ。
更には、飽く迄もこれ等は「社会や個人の感覚」による「理解」のものであったとして、この説の凄い所は、最後には、“それを以て“「武家の棟梁」と「征夷大将軍」が同一のもの”とする認識が、“何と「社会」に確立した”として勝手に「社会説」で結論づけているのだ。
“「社会」に確立した”してもこれは意味の無い事であって、少なくとも「開幕時」に、或いは、少なくとも「施政中」にも「信賞必罰の権を持つ朝廷内」に明確に確立しなければならない「絶対的に必要不可欠な認可条件」であるのだ。
決して「社会条件」ではなく、そして、それが「根拠とする記録」は、即ち、「帝紀」か「日本書紀」「日本後記等」、また最低は「類聚三代格史」に記載されている事が必要であるのだ。

注釈 前段でも論じたが参考にこの「三代格」とは「弘仁格、貞観格、延喜格」を云う。
これを内容別に「神社事」・「国分寺事」・「庸調事」などと「類聚・内容別」してまとめたものであって「朝廷の歴史の概要・根拠」はこれに記されている。
従って、これを参考にして答えにする事が多く、「朝廷の諸事」はこの記録をこの「一種の帝紀の様な書籍」として扱われていたのである。
この三つには歴史経緯の記録は、護られており重複しないが、ここで大事な事はこの成立時期1002年から1089年としている事であり、その時期は同じである。
この「三代格」では、更に詳しくて「役職別・官の司別」に整理されている処である.
故に、「法の基準」としては不備不便であるが、この「不備の処」が、この時代の「平安時代中期」には、当に上記した様に「歴史の見直し」が起こったとされる処である。
その為にも「歴史の経緯」には、「朝廷」は鎌倉期の様に厳しく対応すると云う事が起ったのだ。
従って、これらは、「朝廷内」では「法典整備の基本造り」として成立していたとされる「重要歴史書籍」なのだ。
ところがこの完全本が現存しないし、「不完全な写本」が伝わっているのみである
この「朝廷らの役人」が、「基本」とするこの「三つの史格」の「弘仁格、貞観格、延喜格」は、それ故に「「類聚三代格史」は、「当時の官僚」たちが利用した「古代法制の実態」を知るための「貴重な基準史料」でもあったのだ。
「頼朝の源氏」は、これを基に導き出したこの「史実」に合わず振り回された事に成ったのだ。

注釈 但し、この「経緯」を調べると、そもそもこの「武家の棟梁」も「時代」によって「やや異なる意味」を持っているのだ。
そもそも、上記した様に“「武家の棟梁」”と成り得る者が、全国的に出没し始めた頃のその“「1000年頃以前」”の現象では、この頃の“「武家の棟梁・a」”とは、次の様な者を云っていたのだ。
それが、「朝廷が動員した兵士」を率いて行動していた「下級貴族出身の軍事貴族や三等官上級官吏」の事であったのだ。
当にこれが本論の「伊佐氏の様な者」を指していたのだ.。
ところが、その「“武家の棟梁・a”とする根拠」は、「都」では飽く迄も「地方武士との間の関係」は極めて希薄であった為に、それは「地方」では無く、「都」に限定されていたものだのだった。
この傾向は、少し進んで「源氏化の時代・初期」に成っても基本的には同じであった。
そして、主に「主張する東国武士との関係」よりも、「中央政権」の「院門や摂関家等」の「朝廷」を構成する“「特定の権力集団」との繋がり”が、取り分け重視されていたのだ。
ところがこうした傾向の中で、この“「武家の棟梁・a」”の中で、「突然に力のある者」が、この「地方の東国武士等」を糾合して、その「地域の武士たちの政治的利害」を代表する様に一般的に成って行ったのだ。
これが要するに、“東から興った「源氏化」”であるが、その中に取り分け“「武家の棟梁・b」”と成る者が居て、それが、“50年程”遅れた「1150年頃の平安期の中頃」の事に成るのだ。
従って、ここに、西国の“「武家の棟梁・a・伊佐氏等」” と、東国の“「武家の棟梁・b・坂東八平氏」”が生まれたのだ。

注釈 それを歴史的に良く表したもので次の言葉がある。
それは“「地下、地下人」”と云う呼称である。
これは上記した日本における大枠で分けた呼称の「官人の身分」の一つである。
つまり、「朝廷に仕える廷臣」の内の、「清涼殿の上の間」に上がれる者、又は「家柄の者」であって、この「上人・上家・堂上家」に対しては、そもそも「位、並びに格式」で「上がれない階位の者」を、“下に控える者”を、要するに大別して「地下・人・家」と呼んだのだ。
大まかには、これを「五位以上」であるとしたが「四位」で厳しくした時期もあった。
其の内、「鎌倉期末期から室町期以降」には、そもそも「官位を持たない名主、庶民」等も増え、これも「地下人」とも呼称したのだ。
従って、そのどの位階にあるかどうかは別にして、「罪人」、又は、「過去に罪を得た者」には、そもそもこの「殿上人の資格」は与えられなかったのだ。
これからすると、「河内源氏」はこの資格にはそもそも無かった事に成るのだ。
此処に「朝廷」は、先ずはこれを以てして「頼朝の源氏」に「府の開府条件」にはそもそも無いとしたのだ。

注釈 前段でも何度も論じた通り、“「頼朝の鎌倉府の成立の政権条件」が整っていない”として、先ずは跳ねつけられた。
その結果として、その後に“「朝廷に圧力をかけた経緯」”を観れば、よりこの事が判る事であろう。
「頼朝に対する府の設立の格式と条件」が、“色々な処で無い”として、「朝廷」から次の事が求められていたのだ。
先ずその「無い条件」として目を着けられたのが、“「頼信の後裔」が「河内」で勝手に「禁手」で、その「武力・嵯峨期の詔勅と禁令の禁手」を破って周囲を侵食した事の史実としたのだ。
そもそもこの「浸食自体」が犯罪であった。
その「武力」は、「朝廷の警告」にも拘わらず「嵯峨源氏等」の里山に引き込んでいた者等を集めて「武力集団」を構築して「河内」に集めたのだ。
最初は「藤原道長の駒」として、「朝臣族でありながらも殺生」を繰り返した。
この結果として、この事から「周囲」から極めて疎まれ「朝臣族の信用」を失い、それどころか「朝廷の命」にもしばしば復さ無く成ったのだ。
これには流石に「道長」からも最後は疎まれた。
更には、その前には「朝臣族としての義務」であったもので、“「朝廷」が命じた「寺の修理等の役務」を前代未聞で拒絶していた”のだ。
流石に、「兵」を与えていた「道長」も手に負えず、この「兵」を引き上げたのだ。
遂には、これが原因で、全国に潜む源氏族に呼びかけて集めて「自らの兵」を持ち、何と“「三代罰・三代に渡って罪が子孫に及ぶ最高刑」”を受けて仕舞っていたのだ。
これを受ければ、その「氏人や家人」は、“「流罪」”を受けて全ての資格を失い何も何も出来なく成るのだ。
そもそも故に、「朝廷」に執ってはその“「当の罪人」”に「開幕などの資格」等を与える事等は以ての外の事であって、あり得ない事であったのだ。
要するに今で云う「公民権剥奪」である。
「朝廷」は、それだけに「満仲に血を引く者等がする強引な圧力の怖さ」に屈して、「頼朝の開幕条件」には、“摂津源氏の頼政の跡を引き継いだ者”として、「辻褄」を合わそうとしたのだ。
そもそも、その「頼光系摂津源氏」は、「嵯峨期の9つの縛りの条件」の一つである“「四家”を構成する等」の最低限の「朝臣族としての誇り・9つの縛りの策」を護っていたのだ。
だから、“摂津源氏の頼政の跡を引き継いだ者”として妥協したのだ。
そうであったとしもこれは「前代未聞の事」であった事から「朝廷・関西域だけ武家集団」は驚いたであろう。

注釈 日本の仏教伝来期は、「神道一遍」であったが伝来後は、「仏道>神道」に一時的に代わられたのであった。
その「一つの現象」が、平安期までは少なくとも“「神前読経」”が主であったが、流石に「神に菩薩号を着ける事」はそもそも無かった。
要するに頼朝は「仏の菩薩を神の姿にとする説」を発生させたのだ。
そしてその代わりに「阿弥陀如来」を「八幡神」にして、「大日如来」「を伊勢大神」とする「辻妻合わせの説」を台頭させたのだ。
その「始めの鎌倉時代」では、「考え方」として、これが当に更に逆転して、先ず先に「両部神道」が発生させたが、その「反動」として元の「神道」からは、「神道」が主で、「仏教」が「従」とする「逆説が唱えられる様に成ったのだ。
「青木氏」は元より「神明社の神道」と「古代密教浄土」を両道に帰依して「本地道説」を採用したのだ。

下記参考
朝廷が「求めていた開幕条件」
況してや、次の事も資格を有していないのだ。
1として「嵯峨期の9つの縛りの遵守有無」
2として「武の棟梁の資格・令旨」、
3として「紋笹竜胆の紋所の有無」、賜姓時の賜姓紋
4として「氏の旗印の有無・白旗」、浄土密教の白旗派の旗印
5として「朝廷が認めた守護社の有無」、皇祖神の子神の神明社
6として「阿弥陀如来の神門」、釈迦観音より上の阿弥陀如来

「全11氏の源氏」には、“正式に天皇から賜姓時に「賜姓紋」を授けたとする「記録」は一切無い。
従って、この残りのどうしても成しえない「4と5と6」に対しては、「八幡神社」と「八幡菩薩」の「神仏習合」を鎌倉幕府は新たに設けて条件を整えたのだし、そして理論づけの理屈を後付けしたのだ。

以上、「6つの条件」を「朝廷」は次々に出したが、「4と5と6」に対しては「格式上」はどうしても「不可能な仕儀」であり、“「八幡神社」と「八幡菩薩」を習合して創設する事”で「不可能な仕儀」を押し通そうとしたのだ。
この「源氏」には「4と5と6」の「不可能な仕儀」としてもう一つあった。
それは「清光寺の寺紋」の「賜姓柏紋の獲得 7」と「賜姓神木アオキ 8」であった。
これは「4と5と6」と共に、別に「青木氏だけ」に記されていて、これを「青木氏の伝統」として秘匿としていた事からこれを真似る事は出来なかったのだ。

「頼政」も「青木氏」に近づいて来たのもこの条件の取得に有ったのかも知れない。
現実に、故に、「失敗に終わった青木氏との関係構築」から、この「4と5と6」と「7と8」は、上記した「策」を弄した「頼政も頼朝も搾取する事」が出来なかった事に成るのだ。
何処にも「頼政にも頼朝にも」、この事に関する一切の「正統化する記録」は無いのだ。
今だに発見できないのだ。
「4と5と6」と「7と8」は、そもそも“世間が「源氏化」に踊らされた結果としての悪い点”であり、従って、この様な事を配慮すると、上記した様な「正しい根っ子に当たる歴史観」が観えて来るのだ。
そもそも、上記した様に“「八幡神社」と「八幡菩薩」を創設する事”・習合」が「完全な格式上の不合理」であって、それを満足させずに、最終は「朝廷」は「経済的な圧力・閉めつけ」に屈して、その時、“「1」を何とか護っていた事を前提に「摂津源氏の四家の頼政」に出されたのが以仁王の令旨・完全否定しなかった」”であった事から、これを基に起こした「以仁王の乱・令旨」を何とか無理やりに正当化して合理性を持たしたのだ。
従って、その「1」を根拠に発せられた“「以仁王の令旨」を「根拠」”としてのその“「延長政権である」”として、無理やりにこれで「朝廷の体面・帝紀」も「鎌倉の体面」も保てたとしのだ。
依って、“「頼朝の府/実質は頼政の府」を認めた”と云う事であったのだ.

唯、ここにあっても、「もう一つの経緯」がここにもあった事なのだ。
そこで、「4と5と6」だけを「京綱策」で得た「頼政」には、この時には足りなかった「3から6の条件」だけは、前段の「青木氏との頼政事件・京綱の件・伊勢の最高格式の獲得」を成す事に依って、これで“関係性を持った”として、これに「朝廷」は「妥協策」を出した「実質の経緯」なのだ。
「青木氏」から観れば、「4と5と6」と「7と8」に付いては、「心棒して止まない源氏化説」を盛んに説いている者らには「揺さぶられない正しい歴史観」が観えて来るのだ。
だから、態々、頼みもしないのに直ぐ後の「室町期」に成って「幕府も正親町天皇の朝廷」も、これを「源氏化のブーム」が終わった頃に、“「律宗族と云う形」”で認め直しているのだ。
だから「1と2と3と4と5と6と7と8」を、“護らなかった「全ての源氏の裔系」は、滅亡した”という事に成り、“護った「信濃と伊勢」は生き延びられたという事”では無いか。
「経済的に後押しをしていた吉宗の享保期」には、裏切られて確かに一度大危機が来る事に成ったが、紀州藩が間に入って救われたのだ。

その中には「一つの事件」として、「大口青木氏の事件と伊豆の事件」をも含んでいて「頼政に関わる一連の事件」までも位置づけられていたのだと観ているのだ。
この「青木氏の歴史観」としては、この「源氏化の時期」は、これらの「時事に疎い関東域での事」であってだけで、「関西域」は覚めていたと観ているのだ。
だとすると、この時期の「頼政の事件」は、この時期の歴史の見方が変わって来る。
「1と2と3と4と5と6と7と8」をより良い条件に仕立て様とした「頼政の策」であつたとも執れる事に成る。
それが“「青木氏の格式と青木氏の財」に狙いがあった”のではないか。
然し、この「源氏化の波」に動かされいたのが「特定の域」だけであって、世間全体はそれほどでも無く、故にこれに世間は応じなかったのだと観ているのだ。
前後に於いて、そもそも“「頼朝の府」”と云っても実質は「北条の府」であったと云う事なのだ。
念の為に、その証拠に「伊勢青木氏」は「記録」に遺る様に、「北条の府」に対し「鉱山開発とその開発途上の高炉の溶解炉の提供」を行っている事であり、それが「基」に渡って行っている「記録」があるのだ。
「記録の行の流れ」から決して「源氏の府」に対して行っていたとする「書き込み」ではていないのだ。
飽く迄も「北条氏」に対してである。
これはこの事に付いては「源氏の心棒者」が説く範囲のものでは無かったし、そもそもそれの証拠には「大口青木氏の九州の活躍」に出て来るのは、「頼朝の府」では無く「北条氏との付き合い」の中での表現であったのだ。
前段でも論じた様に、「九州での大口青木氏の活躍」は飽く迄も「北条氏」であったのだ。
もっと云えば、そもそもこの「北条氏」は「坂東八平氏の支流族」であって、この「坂東八平氏」と云う族は、「大化改新」で、代々出る「第7位以降第四世族以上の者・王位外」にある者が、「朝廷」から「兵」を与えられて、本来は「坂東の護り」を固める為に配置されたものだ。
この者らの名称も、元は「第7位以降第四世族以上の者・王位」であった者を「改新の目的」に依って、その位を“「ひら」の位”にまでに下渡した事でのものであり、その「経緯」の通り“「ひらの族」”に成っとしたしたもので、「朝廷の格式を有する統治族」でもあったのだ。

そもそも、それ故に「三代罰」を受けていた「頼朝の無冠の第6位族」とは「格式上」では大した差は無いのだ。
この“「坂東八平氏」”とは、その「範囲」を「武蔵」に於いては、「千葉氏」、「上総氏」、「三浦市」、「土肥」、「秩父氏」、「大庭氏」、「梶原氏」、「長尾氏」の「8氏」を云い、その「四門族」は其の後に族系から「天智系施基皇子の桓武派」に属するものとしていたのだ。
そもそもこれは「青木氏族」とは同じ「桓武派」に当たり、その「ルーツ」を辿れば同系になるのだ。
この「天智系施基皇子の桓武派」は、そこで同じ「清盛の裔系」に対しては、“「ひら族・坂東八平氏」に対して、“「たいら族・伊賀族青木氏」”と名称着けたのだ。
結局は、歴史的にこの“「ひら族」も「たいら族」”も互に潰し合う事に成るが、「頼朝」が「府の政権」を取れるとすれば、この“「ひら族」”も充分にのその位置にはいたのだ。
だから、過去には「征夷代将軍の呼称」を許されていたのだ。
この様な立場にいた「坂東八平氏の梶原氏筆頭」は、初めは「開幕の条件」に比するとして府内に取り込み扱っていたが、皮肉にも「支流族の北条氏」に淘汰されるのだが、「たいら族」の「清盛が政権」を握った様に、「天智系施基皇子の桓武派」としては、その「筋目」を主張すれば「坂東八平氏・梶原氏筆頭」も格式上は、且つ、「出自上/第6世族以上」では可能であったのだ。
だから早々と梶原氏等を潰しに掛かったのだが「軍攻め」では条件に傷が着くとして「暗殺」で抹殺したのだ。

注釈 参考としてその「平清盛」に付いて記すと、「清盛」は、最終は“「検非違使の別当」”で、且つ、「行政一切を取り仕切る最高権力者・大納言」であった。
そうすると、この「検非違使」とは、「令外官の役職」で、「不法で違法な者を天皇に代わって取り調べる天皇の特命の使者」の事である。
この「天皇」に代わって「行政する令外官」として命じられた者であって、これを「特別に務める者」で、且つ、「警察権を持った特別の官人」と成るのだ。
当然にこの「条件」は、“「武人」”である以上は、それには「位格」が伴い、“「佐と尉の階級の格式」”が着く。
当時はこれに「出世する者」は、この「役職に成る事が必須の条件」であったのだ。
だから、「朝廷」はこれを“「武人」である事”を前もって「頼朝」に求めていたのだ。
これは歴史的には、「平安時代の弘仁期」が、最初とされているが、つまり、「嵯峨期の前期頃」に既に設置されていたとしていてるが、そもそも「記録」を観ると、それ以前にも「規則」は在ったものだ。
これはそもそも歴史的には、「天智期と桓武期の朝廷」では、“「大化改新後による反乱」”を警戒して「武力軍団を廃止した経緯」によるものだ。
その結果として、「後の桓武期」には、“特別に治安が悪化した。”としたのだ。
既に、その前から「これに当たる者等」は、「役務の関係」から、先ずは“「武人」”である事を求められていたのだ。
そこで彼等に「軍事・警察組織」を安全な形で担わせる為には、この「天皇」が命じる「信用の置ける朝臣族等」の「令外官・治安維持」”に命じたものだ。
故にこれには乱用の危険がある為に、特別に、上記の信用が置ける新しく“設けた「検非違使・一定格式を有する朝臣臣下族」”に命じたものなのだ。
だから「単なる武人だけの条件」では無かったのだ。
然し乍ら、当初は、本来は前段でも論じた様に、「青木氏や藤原氏」がこれを務めていた。
そして、「両門の衛門府の役人」と成って務めていたが、この「令外官の宣旨」によって、これを「兼務する事」と成ったものなのだ。
これには「官位相当」はなく、主に「青木氏等の昇殿が許される殿上人・従五位以上の格式」と成るのが「最低の条件」であった。
この為に、これが「武人と見做される者の出世目安」と成っていたものなのだ。

経緯としては、「895年」に「青木氏等」が務める「左右衛門府内」に先ず「左右の検非違使庁」を置くように成ったものだ。
ところが「947年」に効率化や迅速化の為にこれを統合した。
そして遂には、「左右衛門府内の左庁」だけに「検非違使庁」が置かれるように成ったと云う経緯である。
その事で「検非違使庁の格式立場」から、「司法や行政や治安」、将又、「関係官庁の職掌」をも試みて遂には奪う事と成ったと云う「経緯」である。
その事でこの「検非違使の権力」は後に大きく成ったのだ。
だから「府を開こうとする者」には、先ずは「全権把握」の為にも、先ずこの“「検非違使に成る事」”が、先ず「必須の条件」と成った。
遂には「朝廷」からも「開幕条件」としてこれを求められる様に成ったものだ。
「頼朝と義経の軋轢」は、「府の開幕条件」が全く整わない「頼朝」に対して、先ず「義経」が先にこの「検非違使に成って仕舞ったと云う事」から起った「争い」であり、要するに理屈上は「義経」に「府の開幕条件」を与えて仕舞ったと云う事に成ったのだ。
そうすると、「開幕条件で苦しんで見込みの立たない頼朝」は、「義経・検非違使の権力把握・政権を握った清盛と同格に成る」が、先にその条件の大枠を「義経」が把握して仕舞った結果、「頼朝」は「義経」を誅殺しなくては「検非違使に成れない事」が起きて仕舞ったと云う事なのだ。
経緯としては逃れ得ない条件の誅殺してでもそれを奪う必要が出て来たと云う事なのだ。
「本論の期・平安時代後期」には、この様に「刑事職権行使の律令」とは別に、性質の異なる「庁の慣習法」をも掌握する様に「権力拡大」と成っていたのだ。
それが「検非違使に代表される事」であったのだ。

注釈 ところが「平安時代末期」、や「鎌倉期初期」には、一時的に、“「院政の軍事組織」である「北面武士」”と云う「武力集団」が生まれ、これに取って代わられた経緯を持っているのだ。
更に「鎌倉幕府」が、この対策として「六波羅探題」を都に設置すると、この“「院政の軍事組織である北面武士」”が次第に弱体化したのだ。
「室町時代」には、「幕府」が京都に置かれた事で、“「侍所」”に権限を掌握される事に成った。
もっとも、この「検非違使・侍所」には、「犯人の追捕を行う機能」と、洛中の「行政や刑事裁判をも行う機能」があったが、これも“「侍所」”に代替される様に成ったのだ。
そしてところが「1383年」を最後に“「侍所」”は確認できなく成るのだ。
故に、この「検非違使庁の衰滅時期」は「1385年頃」と成る。
参考として、「官職別当」とは「四等官の長官」に相当する。
「中位の官吏」でありそもそも「開幕条件と資格」を持ち得ていない。
実質は、「将軍相当」としては、古来より多くあるが、「伊賀の人」で「高野新笠の子の桓武天皇」の“「義弟にあたる人」であるとして、この「阿知使王の裔の嫡子」の「坂上田村麻呂」が正式で、最初の「征夷大将軍」だと任じられたと云える。
これが更に「清盛の伊賀の裔祖にあたる事」から、「朝廷」は、此れで以て、“「坂上田村麻呂」”が要するに“「開幕の条件」の「征夷大将軍・武家の棟梁」に比する事”だとしたのだ。
現実に、これに付いても「桓武天皇の談の記録」があり、“吾義弟の成せる事は府に値するとして褒めた”とあるとして、彼を「それ相当に扱った事・将軍」は記録からも判っている。
この「判例」から、「武で以て全国制覇した事」を以てこの「基準」に成っているのだ.
ところが、この時の「変の軍の統制」に、この「坂上田村麻呂の名声」を巧く使った「嵯峨天皇」が、「薬子の変」でこの「坂上田村麻呂・開幕の将軍」を巧く使い、「天皇の命令」とは云え彼に執っては「恩義のある平城上皇」を「飛鳥の古都」に入る道を封じて入れなくしてして封じ込めたのだ。
これを“義兄の桓武天皇に恩を返せなかった”として、後でこの行動を恥じて「伊賀」から「丹後の奥」に引き上げて余命を過ごしたとして、その後の詳細は判らないとしているのだ。
この事が世間に知れ渡り「嵯峨天皇の信用」は著しく世間から失墜するのだ。
「朝廷」は、この時の「坂上田村麻呂の事」の「征夷大将軍=武家の棟梁」のこれを“「正式な物事象」として“外に勝る者がいない”として、これを引用して「開幕の条件」としたのだ。
これがその「経緯」の先ず一つである。

注釈 上記した「ひら族・坂東武蔵八平氏」と「たいら族・桓武平氏」としては、その「開幕条件」としては「頼朝や北条氏」等よりは充分にあったが、ところが「時代の流れ」はその様にならなかったのだ。
それは「頼政と頼朝」が無理やりに「源氏化を引き戻した事」から、本来は「筋目」として獲得するべき「ひら族」と「たいら族」のその「時代の流れ」は、その様に成らなかった事を先ず「源氏化の歴史観・猶子策が蔓延って品位は低下した」として知って置くべきである。
この「ひら族」と「たいら族」の「流れ」には、「ひら族の頭」の「梶原氏の煮えきらない優柔不断な態度」が、“「決定的な流れを引き付ける事」”に大きく左右してしまっていたと観ている。
そこを北条氏に突かれた事と成り、「格式上」では低くその位が全くなかった「支流の北条氏を潰す時期」が充分にあったにも関わらずそれをしなかったのだ。
そうすればこの「流れ」で行けば、「坂東八平氏等の天下」と成り、「天智系施基皇子の桓武派幕府」がいずれにしても誕生していた事が考えられるのだ。
その場合は、「天智系施基皇子の桓武派の主幹」であった「伊勢も信濃」も「格式と財の面」での「源氏化の関わり方」は、又違っていただろう。
これだけ「矛盾を含んだ府」であっても、その「流れ」は「関東から興る結果」と成ったが、この「11源氏族の主体」は、そもそもその「財と武の力の関係」では、先ず「関西」にあって、「11族・主流」の殆どは、「自ら財を生み出す力」が元より無く、結果として「琵琶湖より北端の丹後村域」に集中して流れ着いて衰退していたのだ。
その期間は何と「125年間」である。
「最初の嵯峨源氏」も全く同然であって、「清和源氏の二代目の満仲」が最も「源氏性の正統な嵯峨源氏・17皇子等の子孫」は、筆者は「猶子」が殆どと観ているが、これを各地から探し出して来て「猶子策」で、「清和源氏の武力集団の基礎・その裔とする村人等の結集」を下に、「嵯峨期の詔勅の禁令」に明記している「皇位族」としての「9つの縛りの禁令・賜姓条件」を破ってでも、「武力集団」を勝手に結集してその呼びかけに応じたのだ。
それまで続けていた「嵯峨源氏」は、「約125年後」にははっきりと「9つの縛りの禁令・賜姓条件」を護る事を止めて仕舞っていたのだ。
この時点で「清和源氏二代目満仲一族」と此れに賛同した「各地の衰退した残存源氏」は、「摂津」から「河内」に集結し移り住んで、この「武力」を使って周囲を浸食し拡大したのだ。
これを以て朝廷より罰せられて、より“「最悪の厳罰の類題三代罰の刑」”を受けた経緯なのだ。
これで何とか生き遺っていた「源氏族」は「滅亡の憂き目」を受けたのだ。
この時点で考えれば、「府の権威等の条件」は、学問的には「全ての源氏族」には元よりない事に成るのだ。
又、「満仲に応じた全国の源氏族」も、又、「頼政に呼応した新宮源氏等の他の関西域の源氏族」も、連座して1221年を以て滅亡したのだ。
この「世間を知らない男女の源氏化の源氏族」には、「潜在的に生き遺る事」が難しい環境下にもとよりあったのだ。
前段からも何度も論じている事だが、それは「武」で生きるか「商」で生きるかの差にあったが、「商の才」は誰でもが獲得できるものではなかった。
況してや、「王の貴人」ともれば尚の事であろう。
だから、「伊勢と信濃の青木氏」には、限定して「皇女」だけを引き取る事と成り得たのだし、元よりその様な「システム」と「受入施設」も「伊勢と信濃」に充分に揃えていたのだ。
先ず、当時としてこの「姿勢」が大事であった。
「近江と美濃と甲斐」の様には、「皇子だけを引き取るという事・美濃が皇子を多く引き取った」が起った事は、より「三野」には「源氏化の流れが進む事」は止むを得なかった事は判るし、「近江の勢い」を観れば当初よりこの「皇子皇女の流れ」が、元より無かった事があってその逆の事も云えるだろう。
資料から観ると、「当初の三野王」の「美濃の姿勢」は、格式を高めて氏存続を獲得する考え方は判るが、「近江」だけはおかしいのだ。
「四門族の淡海族」は、「融合族の伊勢」から出自の当初より経済的補完を受けていながらも「源氏化の波」に強引に乗ったらしい事だ。
その「様子」が記録されていて、既に「近江」はその「出自と青木氏との融合族という超血縁的深い関係」から、況してや、敵方に廻る筈の無い立場に居ながら、彼等には「不得手な戦い」を挑んだのだ。
「淡海族」は、「伊勢の反対」を押し切っても「源氏化の波」に乗って、唯戦い始めただけの形と成ったのだ。
そして、結局は一度は「平家/たいら族」に潰されていたのだが、ところが立ち上がれない程に「桓武派の平族」に潰されていながらも、再び一族を纏め直して少ない人数で「中部の東域」まで態々出向き「富士川」で見事に完全に潰されてしまっているのだ。

参考として、この時、「観る範囲の記録」では、「美濃勢」はこの「味方と成って合力した近江勢」を、“「戦略上の重要な位置」に置いて居なかった”と云われている。
それには「近江」が持つ「歴史上の全ゆる経緯」に対して「信用」をしていなかったと謂われる。
歴史観として、この“「美濃」が「近江」を信用しない”と云う現象は面白い現象でもある。
これは「淡海族の出自の強さにあった事」が、世間にはこの「弱さ・記録が多い」は既に知れ渡っていた事を意味するのだ。
これには「美濃族」は、「歴史的な淡海族の実質の強さの保持」に警戒していたという事だ
つまり、「淡海族」には、「源氏化」などそもそもあり得ないと観られていたのだ。
その「源氏化の実現の戦い」には、記録として伊勢から「そぐわない事」をそれとなく批判されている。
この「世間の記録・後付け説」があるのだし、世間もそう見ていたと云う事だろう。
それは、「皇子を引き取れなかった力の無さ・近江」/「皇子を積極的に引き取った氏の体質・美濃」の「評価の差」が、“すでに世間に広がっていた事”を示すものだ。
「淡海族」は、“格式ばかりの源氏化”と見做されていたのだ。
以上から当初から、「嵯峨期」からその「ムード」が始まった「源氏化」を、何とか止める様に「伊勢と信濃青木氏」が「近江」に援助などして盛んに示していた事が記録にもあるし判るのだ。
それ故に、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれさせて「源氏化」を始めさせて仕舞った「嵯峨天皇の施政の失敗」を「過去の流れ」にまで引き釣り込んだ事を筆者は何度も解いているのだ。

この事は「青木氏」が幸いに賜姓時に「朝廷の部経済の造であった事」が全てを左右させているのだ。
そして、「嵯峨天皇」が嫌っていた“「皇親族」と云われる氏族”の中でも、それが「青木氏だけ」に出された「賜姓五役の令外官、各種の院屋号の数々の獲得権、因事菅隷の権、殖産業権院」等がこれを補完していたのだ。
「嵯峨天皇」が、この事によってこの“「皇親族たちの勢力」”が「政府内に強く成る事」を嫌っていたのだろう。
その嫌う反面、ところがその結果として起こる事を彼には配慮が足りなかったのだ。
つまり、その結果として「朝廷・大蔵」や「天皇家に入る献納・内蔵が減る事」を計算されていなかったのだ。
つまり、「天皇の権力が低下する事」の計算が成されていなかったと云う事だ。
それは、「皇子皇女の放出」や「王族の収入の減退」などを招く等が計算されていなかったのだ。
例え、「伊勢出自の桓武派や平城派の天皇」は、「天皇家」であっても「自らの財・内蔵」を確保して置く事、更には高めて置く事が、「政治の最大の安定に繋がる」と考えていたのだ。
つまり、逆に「桓武派や平城天皇や仁明天皇等」は、“寧ろ強めるべきだ”と考えていたのだ。
「嵯峨天皇」は、強く成り「内蔵」を支えていたこの“「皇親族」”を除く為に、その「皇親族の賜姓」を「青木氏から源氏」に替えた結果と成ったのだ。
これで「内蔵の矛盾」が放出したのだ。
その結果、更に「嵯峨詔勅禁令・9つの縛り」を出して、この「内蔵の矛盾」が放出を食い止める「源氏賜姓」を推し進めて“「規則」で縛ろうとした。”のだ。
そもそも「皇女等」にはこれを護る才能は元よりある訳は無く、「40人以上の皇子皇女」には挙句は「嵯峨詔勅禁令・9つの縛り」は誰にも守れなかったのだ。
一度出された「禁令の令」は「帝紀」に依って縛られて、「11代続く天皇」には、この「悪政」にこれに逆らう事が出来ずにいたのだ。
ここで論じておく歴史館は、然し、“此れに抗した賢い天皇”がいた。事なのだ。
それが「三人の天皇」がいたのだ。
その一人が「伊勢青木氏出自最後の仁明天皇」であり、政敵を顧みないこの矛盾を直そうと立ち向かって直し、一時的に「内蔵」は改善し「出自元との改善」を正した。
この事は「鎌倉期の複数の歴史的記録」にも記載されている。
もう一人は、「青木氏出自元」では全く無い「藤原系の円融天皇」がいたのだ。
この「円融天皇」は、そもそもこの「賜姓」を「過去の皇親族」であった「青木氏」としてせずに、それは直接に「天皇家」には「嵯峨天皇期」に依って「詔勅と禁令」を発して禁じられた以上は、最早、「帝紀」により「青木氏の賜姓」を出せない状況にあった。
その事から、永代に「伊勢信濃の青木氏母方であった北家藤原氏・始祖藤成」から、中でも「北家武蔵宗家の第三継嗣・千國の裔系」に対して、“「永代」で「青木氏」を欠かすことなく「継承する事」”を命じて、要するにこれで「永代賜姓する/116氏」としたのだ。
これには、元より「青木氏には四掟と云う枠」がはめられていた事を知っての事であったのだ。
この「四掟」がはめられれば、“「賜姓」”は何方から出たとしても同じある。
それも「男系」では血筋が変わるが、「重要な歯止め」にはこれを「女系とした事」なのだ。
これが「四掟の秀郷流賜姓青木氏」である。
これで更には問題と成っていた「嵯峨期の失政の源氏化」を終わらせようとしたのだ。
これで確かに「源氏化」は弱まり、逆に「秀郷流賜姓青木氏」は次々と増え、其の事で「献納」が増加して「天皇家の内蔵」は「安定の途」を辿ったのだ。
この時に「円融天皇の施策」に賛同してもう一人の続く三人目の天皇が居たのだ。
その天皇が、「三人目」の異色の「花山天皇」であったのだ。
何が異色かと云うと、その策と人物の能力であった。

注釈 全段でも何度も論じている事ではあるが、現在では完全に「ミトコンドリアゲノムに於ける女系の遺伝的論理性」は証明されている事は前段で詳細に論じた。
要するに、「女子系の子供の遺伝子」だけを辿って調べて行けば「その族種」が判るという事だ。
この頃はまだこの論理性は証明されていなかったが、中国からの口伝承でその「考え方」は既に「青木氏」には伝わっていた。
現在では既に証明されている事ではあるが、「人間の発祥」も最初から“「女性」から生まれた”と伝えられていた。
現在はこれが学問的な史実である。
「青木氏の全ゆる女系制度」は、“「天皇家」との「関わり」を無くし、そこに一線を課す”とする固い目的も確かにあったが、それよりもこの「一つ」はこの事にもよるものだった。
従って、「円融天皇」がこの事を知っていたかは調べていないので良く判らないが、上記の「円融天皇の青木氏の四掟に基づく賜姓」は、全ての面から考えても極めて優れていた「施政事であった事」を示すのだ。
筆者はこれは「如何にも頭脳的な施政」であって、そして“「事の成り行き具合を既に知っていた」”と判断しているのだ。
「円融天皇期の政争の事」を考えれば、「頭脳だけでは無かった」と判断している。
今まででこれだけの事を、短期間で、且つ、激しい政争の中で、若くして成し得た「天皇」はないであろう。

更に、此処にこの上記する「円融天皇の施策」に続いて、“「乱れた源氏化」を実質に止めた”もう一人の“「花山天皇・在位2年」”がいたのだ。
この事に付いて更に次に論じる。
この「花山天皇」は、“「円融天皇・秀郷流青木氏賜姓」」に続き即位した天皇”であると云う事だ。
そして、この時に違っている事は、「源氏賜姓」した「最後の花山源氏・源氏賜姓を神職に賜姓」は、「普通の源氏化の源氏族」と何と意味が大きく違っていたのだ。
この“「武力容認の源氏」に対して、何と、「武装禁止令などの職業条件」を付けた”事なのだ。
此の事で「源氏賜姓」は止まるのだ.
それは、そもそも「花山天皇の系」は、「冷泉天皇の第1皇子」である。
その母は、「摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子」とする。
そうして、この「円融天皇の系」は、問題の猶子策を広めた「村上天皇の第5皇子」である。
その母は、「右大臣藤原師輔の娘・皇后(中宮)安子」とする。
つまり、この「大改革」を続けて成したこの「二人の天皇」は、何れも「冷泉天皇の同母弟の系」である事に成る。
この事の示す事は、“一族である以上はそんなに大きく考え方を大きく異なる事は無く、それが「冷泉天皇の同母弟の系」である以上は、「社会で起こる現象の対処方法」に対して、「考え方」を共有していた”と観ているのだ。
この事で「悪弊を遺した源氏賜姓」は終わる事に成ったのだ。

注釈 ではこれは何故かである。
「花山天皇」は「荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革」等の「革新的な政治」を行わせたが、それだけにこの「革新的な政策」は関白の頼忠らとの確執を招いたが、それを押し通した。
それだけに「在位」は2年と短い。
崩御は1008年で40歳であって「二人の皇子」に恵まれたが、何故かその皇子の一人ではなく、その子、第二゛遺族源氏としての孫の「延信王」が“「令外官の神祇伯」”に成ったものである。
そこでそもそも、この「花山源氏」とは、一説では、“「神祇伯」”を世襲した「伯王家」である以上は、後にこの「」裔系は当然に直ぐに“「神祇伯」”である為に、且つ、「孫の第二世族」に賜姓した為に、史実は子孫無く断絶する事に成る。
然し、今までに「伊勢青木氏」と共に「神紋である柏紋」を“賜姓時に授かった神職”のと同じく、「当時の源氏化」の中では、同じく「神職に仕えた源氏」は他には無かったのである。
本来はこの「役務」は古来より「藤原氏」が鎌足より「斎蔵」を務める事に成っていて、其処に源氏に似た様な「役職・神祇伯」が出来たと云う事に成る。
それも令外官の役務である。
此処に止む無く「帝紀」に従って、確かに「神祇伯とし源氏の賜姓」はしたが、然し、その「源氏」を何と“「神職・子孫を遺せない」”にしたのだ。
ここに「源氏化を避けていた事」が、これで良く判り、“二世族の世代の神職”とした意味があるのだ。
一代前の“「円融天皇」”が、「青木氏母系の藤原氏」の「下野大掾・藤原村雄の子の系・秀郷」に対して、要するにこれは「女系の賜姓青木氏」をしたその直ぐ後の事であって、それは、“単純な賜姓に留まらず、「ルール」を定めて確実にした”のだ。
「嵯峨期の9の縛り策」と違ってこの「ルール」は護られた。
「円融天皇」は執った重要ポイントは、この「ルール化」のこれを「藤原秀郷一門全体」、取り分け「藤成・伊勢藤氏」−「村雄の蒲生系一族」にその裔系を求めたと云う事なのだ。
その「ルール」は、「武力保持」は認めるも、然し、その「他の格式・四掟四門等」の「ルールが齎す律宗性・格式」は「源氏族」と違って護らせたのだ。
つまり、“「女系で伊勢青木氏や信濃青木氏」と同格血縁している事”がこれを証明する事と成ったのだ。

注釈 そこでこの「神祇伯」とは、そもそもこれは“「令外官」”としてであり、これは“「神祇に関わる長官の事」”であり、主な役職は「神職」に当たる。
この「令外官の神祇伯」は、つまり、「令外官の“青木氏が独自の氏族で務める賜姓の柏紋を有する神明社の神職」とは、その格式が異なるだけである。
つまりは、この時に、“それに類する神職の官職を設けて武力化を止めさせた”と云う事に成る。
これは、“「初めて官僚が務めた令外官の神祇伯」”を、「皇位の者が司る役職にした事」なのである。
ところが「1165年以降・平安末期・鎌倉期」は、記録では「花山天皇の後裔」がこれに任ぜられたとする説がありところが、その「子孫であるとする白川家」では、この史実は「世襲した伯家」が、「第二世族の源氏」の「神職」である限り直ぐに途絶えて仕舞ったのだ。
此の平安期では、何故ならば、そもそも“「世襲」”には、“世襲弊害”を考えて、“「三世代」までとしての「ルール」が定められていた。
従って「世襲」はそもそも無い事に成る。
取り分け、「令外官を含む官僚職位」のこの“「世襲」”には警戒されていたのだ。
大抵の実情は、現実は、“実子で繋ぐ事は難しく多くは「二世代」で終わる。”で終わる「仕組み」であった。
これを「隠れ蓑」にする為に、“「村上源氏」”が率先して「ルール破り・猶子策」をしたのだ。
この「村上源氏」は、それが当に“「酔子策・上記」の元”であって、これを展開して勢力を拡大し経済力も獲得したのだ。
この「酔子策・上記」は「源氏化の弊害」と成り「源氏化の世」は乱れたのだ
つまりは、これは「神明社と清光寺」を司祭する「伊勢と信濃の青木氏」に合せて、又、新たに「下野大掾・藤原村雄の子の系・秀郷流一門」に対して「女系の賜姓青木氏の守護神」として認めた「春日社の設置と増加」に対して、それまでの「源氏姓の習合の八幡社」が増えた事で、 結局、「八幡社の神祇伯・令外官の役目」が増えた事であり、そこから得られる「内蔵の収入源の管理」が伴なる事が、ところが理由で内蔵は改善しなかった。
故に、これを「武力」に走らせない為にも、「円融天皇の施政」に引き続いて、ここで「神祇に関わる賜姓」を「意味」を込めて敢えて実行したのだ。
これが「源氏化の否定につながる施策」と成った事だし、「内蔵の収入源」は高まって「天皇という地位」は安定したのだ。
先ずは霞の人間ではない「天皇の地位の安定」が施政に繋がる事にあった。
「桓武派」はこれを主張していたのだ。

元に返れば「嵯峨天皇派」は、判り易く云えば、この「内蔵」を潤す基となる「口うるさい皇親族」を排除しようとしたのだ。
確かに「密かに動く令外官」と、「秘密裏の因事菅隷」と、主だった役をもつ「賜姓五役」と、「院屋号の特権」を全てを持ち、何にせよその行う「立場の格式」は「行政長官の太政官より上である事」である事だ。
この事に絶えられなかったと云う感じでないか。
それも「自らの出自元である事」に疑問を持ったと云う事だろう。
当然に、記録から読み取れる事でも「近習官僚に何かと煽られた事」も確かであろう。
そして、更には「部経済の商いで巨万の財」を持っていたのだ。
反面、それが「内蔵の基元」でもあったとなれば、現実は手の施し様が無いと云う処では無かったかと思われる。
これでは、「出自元の皇親族」に代わって、“新たに「別の族・源氏」を作って算段しようとしたのでは無いかと読める。
「人」と云うのはこうなれば、「目先の事」を別にして何が何でも排除したくなるは必定かもしれない。
この様に「反対を押し切って感情的になった嵯峨天皇」は、「弊害の産む源氏化・猶子策」を実行して仕舞ったという事であろう。
然し、この「猶子が起こったと云う事」は、この「感情論」は矢張り失敗していたのだ。
何故ならば、「賜姓したどの源氏」も、“「行動規範の縛り」”までも作っても、その様に思う様に動いてくれなかったと云う事だろう。
「皇族賜姓族と云うべき立場の者」の「あるべき護らなければならない事」を「禁令」で定めたとしても後に続く「11源氏族」は、それを護れないものは護れないとして、“期待通りに護らなかった、又は実質護れなかった”と云う事ではないか。
それどころでは無くも、“禁令中の禁令の武力化をして仕舞った”と云う事だ。
そこに猶子が起こったと云う事に成る。
物事は考えた通りには行く事は先ずは無いが、その後に続く「源氏化は思った様に向かわなかったと云う事」だろう。
それは既に、「最初の嵯峨源氏」から思う様には成らなかったと云う事が判っていても、「嵯峨天皇」は「自らの賜姓」を「嵯峨源氏」とし出していながら、“途中で皇子の一人に先ず「甲斐蔵人頭掾・税担当」に任じた。
ところが、最後はその「皇子」に、“「甲斐青木氏」を矢張り「賜姓」して何と発祥させている”のだ。
これは「源氏賜姓」に、“「ある問題があった」”と云う事を示しているものだ。
それは「嵯峨期の詔勅禁令の9つの縛りの掟」で、「青木氏の賜姓」の様に、その“「皇族としての立場や格式」を護ってくれるものだ”と信じていたからだ。
「自らの嵯峨源氏」さえも少なくとも「皇子15人」に賜姓しながらも誰一人護らなかったのだ。
そして、次第に「猶子」を産んで行ったのだ。
最初から「賜姓源氏策」は行き詰っていたのだし、そしてそれが「猶子策」で爆発したと云う事だ。
彼等は最初は、「丹波の奥」に挙って「村」を形成してひっそりと暮らしていたのだ。
それが「清和源氏の二代目満仲」が、「嵯峨期の詔勅禁令の9つの縛りの掟」を破って呼びかけて最も禁止手の「摂津の武力集団」に加わったのだ。
それを引き継いだのが、この「武力集団」を引き継いで「河内」に逃れた「三代目頼信の河内源氏」である。
この結果、「二代目満仲」からもっとも「厳しい三代罰」を受けた「清和源氏」は、一時消えたかに見えた。
これだけでは「源氏化」はまだ終わらなかったのだ。
「社会」には「源氏賜姓」に伴って、前記した“「猶子策・下記」”と云う「社会の病原菌」が蔓延り始めていたのだ。
それを復したのが、「仁明天皇」であり、「円融天皇」であり、最後は「花山天皇」であると成るだろう。
これで問題と成っていた「施政の根源」と成る「天皇家の内蔵貧困」は先ずは復したのだ。
「女系の賜姓青木氏」と共に「2年という短い期間」で合わせて行ったという処に意味があるのだ。
それも「円融天皇の青木氏賜姓策」の施政の数年もたたない内の“「代続き」”の直ぐ後にである。
つまりは、この「二つの施策」をあせて「猶子策の蔓延る源氏化」を効果的に止めたと考えらるのだ。
そして現実に留まったが、賜姓だけは「後付け」の「正規でない賜姓」は「南北朝時代」まで続いたのだ。
こうなればこれは最早、賜姓の姿を消しそのものでは無い。

注釈 「秀郷の裔祖の村雄・915年」は、「4代目魚名の子」で初めて朝廷内で重要な官職を得た。
この「伊勢守を務めた藤成の孫」でもあり、この「藤成」は「鎌足より5代目」で「806年の人物」である。
「伊勢青木氏」とはこの「藤成」より前から「母方の血縁族」と成っている。
この事から「藤成の806年/伊勢藤氏」はその任務の前から「伊勢」に関わっていた可能性がある。
調べたが記録がないので確定は出来ないが、「806年の因果関係」は少なくとも「伊勢守」に成る前にあった事からの「700年代後半」にはその「伊勢王との痕跡」は遺していた可能性がある。
これは「施基皇子・716年没後の関わり・84歳」ではないだろうか。
この「806年代」は、時系列では「桓武期から平城期の頃」で、この「藤成」が「伊勢」に赴任してそこに定着後にその「子孫」が「伊勢藤氏」を発祥させている。
その結果、「始祖の藤成の子孫の伊勢藤氏・秀郷の始祖」と「伊勢青木氏」との間には「伊勢藤氏系青木氏」が「伊勢に発祥していた事」に成る。
この時期が、“「806年代」の少し前の「平城期」”であったのだ。

注釈 この「平城天皇」は、「生存774年から824年」で、「在位806年から809年」。後に「上皇」としても権威を示す。
だとすると「藤成の伊勢の在位・806年開始」と、「平城天皇の在位806年からの4年間」と「上皇としての25年間」を合わせると「29年間」と成る。
「政治に関わっている期間の伊勢守護守」であった「藤成」と、その「関わり期間」は、或いは「伊勢王であった時期」の期間は、少なくとも“「約30年間」”として「付き合い」があった事に成り得て、「平城上皇」、或いは「伊勢青木氏との付き合いの期間」は、依って“「約30年間」”と見る事が出来る。
この状況下での“源氏化・814年が起こる少し前の8年前の事”であったのだ。
だとすると、これは「伊勢秀郷流青木氏・960年の前身」に当たる「伊勢藤氏系青木氏・発祥」である事に成る。
つまり、「伊勢に居た藤成」も「円融天皇」もこの「源氏化」を“疑いの目”で観ていた事に成るのだ。

注釈 前段から論じている様に、“「嵯峨源氏」”は、“「嵯峨期の詔勅禁令」”の「814年で賜姓臣下」したものだ。
この「嵯峨期の詔勅禁令」とは、「皇子皇女」に対して大きく「内蔵」から「封戸」を支給されている事が、”「官庫の負担」となっていた事”から臣下する様に促したものである。
この事から、未だ「親王号」を与えていない皇子皇女にでも先ずは「朝臣姓・賜姓」を与えて、その後に「臣籍降下」させて、「二世代限定に於いて「公務に限定して従事させる事」を「詔」として発したのだ。
そして、“此の間に何とか生きる道を探せ”としたのだのだ。
この時、“「賜姓臣下族のあるべき姿」”も示して、且つ、“護るべき掟”・ルール」を示して臣下させるとしたのだ。
これが「嵯峨期の9つの縛りの禁令」であった。
これにより、それが「源信・源弘・源常・源明」の「4皇子」と、「源貞姫・源潔姫・源全姫・源善姫」の「4皇女」にも「源朝臣姓」を与えられて「左京」に移されたのを始まりとする。
結局は、これで上記した様に「丹後の奥」に集められて長く潜んで住んでいた事になるのだ。
結局、最初の前例と成った「嵯峨天皇の皇子17・皇女15名」が、「源朝臣姓」だけを与えられて臣籍降下した事に成るのだ。
この内の二番目の皇子の一人に「蔵人頭掾」として甲斐に送りその後に「甲斐青木氏」の賜姓を行った。
ところが「掟」は生活苦もあってそれどころでは無く全く護られなかった。

注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、武蔵から近江に役務に依って赴任してそこに先ずは定着したものである。
そこで「土地の名」から「蒲生氏」を名乗った「初代定秀」は、戦国時代の武将である。
この「定秀」には、「尭清、賢洪、秀洪、青木梵純」の4人の子供がいた。
「蒲生秀紀の室・妻の馬淵山城守の娘の子」で、「近江の蒲生高郷・藤原氏」の子の「定秀」は、「六角氏一門」からの嫁を娶り、関係強化を図った。
これで家中での地盤を固めた。
これと共に、“妻の実家である「伊勢青木氏」”には「伊勢藤氏との青木氏」も既に存在していた。
そこに「梵純」を「養子」として送り込んで「秀郷流伊勢青木氏」を「伊勢」で再興させたのだ。
そして「近江蒲生家家老」として「伊勢秀郷流青木家の当主」が当たり、「伊勢藤氏の青木氏」に「養子」として、この「定秀の弟である子の養子の青木梵純・伊勢青木氏の娘の子」が入ったのだ。
この「梵水」は、「非凡の域を超えた童」であったとされて、「子孫存続」に弱っていた「伊勢藤氏の青木氏の衰退」に対して再興する為に送り込まれたのだが、「伊勢青木氏の支援」も受けて再興した。

注釈 そもそも「源氏11代」と成るが、先ず「河内源氏」だけが先行して「嵯峨期の禁令」を破り「武力」を以て栄えた。
然し、筆者もこの内の「5代程度源氏の裔村」を探索した事がある。
殆どは山深い山背を開拓し、そこに一族を祀る墓所と山背の平地に菩提寺の小寺を建て、その手寺の前は統一して大広場があった。
この「一族当主の家」は、どこも一段高い石垣積みの上に建てられていた。
その「宗家の家・村主」を取り囲む様に、「一族の村人が住む家」が十数軒と囲む様に並んで建てられていた。
その周りには「生活用の大池」があり、その周りには「井戸」と共同の「流し場」の様な敷石があった。
その池から下に、見晴らす様に棚田の田んぼが開墾されていたものが殆どであった。
さして何れも大きいという村ではなかったし、今でもこの一つのこの村は古道の山のてっぺんにひっそりと遺されている。
少し離れた隣には、「平家の落人の大きな村」もあって「相互間の交流」があった事を示す「形跡・山道」も見られた。
これから観ると、「源氏化」は「清和源氏の河内源氏」だけに依って身踊らさせられた「一時期なブーム」であったと観ているのだ。
何よりも、“「平家の落人の大きな村」が隣にあって相互間の交流があった事”を示す「形跡・山道」も見られた事だ。
つまり、「他の源氏」も争う事なく先に追いやられた「平家の落人の大きな村」に寄り添うように政争のある都から逃れた事が云えるし、共に生き延びていた事が判る。
この事からこの世間を騒がせたこの「源氏化」は、「清和源氏の事」と限定しても良い事が云える。
確かに、「淡海族や美濃族や甲斐族」は平家との戦いに参加したが、多くの源氏族は一般的には上記の様に平家族の村人・落人と共に生活していた事に成る。

注釈 そこでこの「花山源氏族」が成ったとする 「神祇伯」とは、上記の注釈の通りで、「以仁王の乱」の前の「源氏の1165年以降」は、この「花山天皇の後裔・孫の延信王」がこれに任ぜられたが、そのその「第一源氏世族・子」では無かったのだ。
この経緯ではここに真の意味がある。
ところがその「子孫の白川家・主張」では、これを細々と「神祇伯」と成った「伯家」の通りで、直ぐに結局は、「自立力」を持たない 「神祇伯の所以」を以て「孫の延信王の子孫」は途絶えて仕舞ったのだ。
何故ならば、そもそもこの“令外官」”として「神祇伯のその令外官の役職」が、「永代」で無い限りは「役職三代までの規定」があり、史実はこの「三代の世襲限定制」以上は禁じられていた。
恐らくは、“皇子が成る令外官」”に意味があって、ここから“令外官」”である以上は「自立力」を次第に無くして行ったと考えられる。
この「三代までの規定」は、その意味では、“その間に自立する力を培え”と云う事でもあり、「絶えると云う事」とは、所謂、“三代後までに培えなかった”という事でもある。
「生きて行くだけの力」を無くしたこの「令外官」は、“令外官」”である限りは「生きて行くだけの力」の持つ「神祇」と成り得ていなかった。
又は、生きる力を持ち得ていなかった事に成る。
恐らくは、「源氏の賜姓」で初めての“令外官」”の「神祇伯」と成った以上は、「神仏習合の八幡神社」の「神祇」だけに頼って仕舞った事に成る。
「源氏滅亡期の1221年」には、例え「武力を持たない源氏」を名乗ったとしても、その「流れに抗する事」は「三代の規定」を待つまでもなく出来なかったという事であろう。
現実にこの規定を護らなかった事にも成る。
“令外官」”とは、特別にある目的を以て天皇から命じられて成る役目で「原則一代限りの役職」であった。

註釈 本論とは少しずれるが、その歴史観の経緯を追記して置くと、これはこの当時の歴史観獲得には参考に成るだろう。
本論の「1006年以降の事・花山期」である。
「花山天皇在位」は「984から987年」の「実質2年間・政争」で、ところが「968年から1006年」の「38年の生存」であるが、故に「二世族源氏・孫」と成ったのだ。
そもそもは、この「花山源氏の出自」とするのは、後の「後裔筋の堂上源氏・昇殿階級人の事」でこれを「殿上人」と云う事に成るが、これに成った者の内訳は、多くして上記した「猶子策」によるもので「村上源氏」に多いのだ。
要するに、そもそも「対象する天皇」の「子供」では無く、「賜姓を受けられれない者」を見つけて来ては、先ず「格式ある家の貰子」にして、その「猶子」を更に繰り返して次第に「源氏姓の賜姓」を受けられるまでの格式を持たせる仕組みの事である。
これを何度も繰り返す事で「源氏に成る対象者にする事」である。
これに依って取り扱った「村上源氏」は、大いに経済的に潤い、尚且つ、その「勢力」を拡大させた「世間の風潮」の事であった。
「花山天皇の孫・二世族王」の“「延信王」”が、「皇子・子供」では無く、孫に「源姓・二世族源氏」を賜り臣籍降下したとある。
そして、この者は“「令外官」”として「神祇官の長官である神祇伯」に特別に任官されたと先ずあるのだ。
この後に造られたとみられる「白川家の資料」と云われるものに基づくと、これには「平安期の前半と後半」としての「時系列・時代」が「21年」が先ずずれている事である。
この「21年」をどの様に評価するかである。
これ以降は、「猶子」でありながらも、彼等は主に「村上源氏」、又はその「子孫系列」と云われるが、平安期では
「朝廷」はこの「弊害」を考えて歴史的には“「世襲」”は原則は禁止とされているのだ。
にも関わらず、それも、“「三代」を超えても、且つ、一代限りの「令外官」でありながらも勝手に「神祇伯」を世襲する様に成った”とこの「21年のズレ」がある資料は説明するものである。
然し、更にその「時系列の経経」は、「平安期末期」を超えて「鎌倉期」にまでも及んでいる事である。
これの意味すると米は、“「後の慣習として仕立てた事」”であって、世間では“「伯家・鎌倉期以降に」”と云われたが、更に「平安期では無い「鎌倉期後期」にも、“先祖が「神祇伯」であった”とする事を理由にしている。
そして、この事から「鎌倉期後期」に成っても「王位に関する規定に準じたとする」としいるが、彼等の資料には理解できない事が多いのだ。
多分は、「21年ズレ」がある事を知り得ての別物資料として、これが主に「猶子策から来た事」であった事から、「後付け説」であろうと観られている。
況してや、“それに復するのが慣例とした”と決めつけているが、「時系列」では既に「王位制は平安期までの事」であって、「鎌倉期」では既に制度の継続は消えている。
そして、この「家」を更には、“「白川王家」とも呼ばれた”としているので、これは「平安期の事」では無く、「後付け説」である事も判る。
然し、そもそも“「事態経緯」”が異なっていて、全く「平安期の王位・大化期に定められた規則」には当たらないのだ。
この「鎌倉期の白川家の特徴」は、“故に「令外官の神祇伯の世襲・三代を超えている」とし、「令外官の神祇伯就任」とともに勝手に「王位」を名乗ったものだと成るのだ。
この事は「神明社の柏紋の住職」に関わっていた「青木氏論」の「論外の事」であるが、敢えて、歴史観として参考に論じたが、「最後の源氏の花山源氏の賜姓の令外官の神祇伯の歴史観」として持っていてほしい。

注釈 八幡神社の解説
幕府が主張する説としては、 「奈良期の朝廷」が、「宇佐神社」に「鎮護国家の仏教守護の神」として「八幡大菩薩の神号」を「贈ったとする事・自説」から「八幡習合社」であるとしている一説である。
但し、「説の設定している時期」が、「古い時期の事」としているので本当にあったのかは「説の確定」は出来ない。
これによれば、理屈上は、「八幡神社」は、そもそも元は「寺」でありながらも、その「寺の鎮守神」とした事で、“「八幡神」がこの寺に勧請された”と成ったものだと理屈づけている。
「史実」としては「神説」は先である事から、この説は当に「逆説」で「後付け」で府が真実性を確保しようとしたものである事が判る。
これにより民はよりこれを信じて、この「八幡神」が「神仏習合社」として全国的に広まったのだが、これは「鎌倉の府」がリードした「鎌倉期の後付け説」である説」であることが判る。
後に、これにて「仏の阿弥陀如来」が「八幡神の本地仏」と成ったとされたとしているのだが、逆せつである。
その証拠に、ところが当然に「仏教の宗派」に依ってこの説に「反対論」が多く出ていた事が各種の記録に多くに書かれているのだ。
例えば、前段でも論じた様に、先ずこの「阿弥陀如来説」を否定し、反対の「八幡大菩薩説・顕教」を補完する為に「仏」を、態々、「釈迦牟尼仏・観音仏・顕教」としているのだ。
「鎌倉期時代」では、「河内源氏の武士の尊崇」で、「八幡神社」が「河内」に本請されたとし、これが「鎌倉期」にこの思想は「僧」にて突然に崇拝されたものであって、これを「仏僧形八幡神という事」で形どったと成ったのだ。
前段でも論じたが、「青木氏等」は、「仏教伝来の無い時代」の古来より「守護神」を「皇祖神の子神の神明社」を主神としていた。
其の後に、「仏教伝来」によりこれを拒絶せずにこれを取り入れて、他方で“「大日如来」”を「密教守護仏主観」として、「神教仏教」の「密教併用論」を唱えたのだ。
要するに根本的に「後発の源氏の習合主観論」とは、その「形態」は根本から逆で原理も異なっていた。
この事から果たして、此の様に「神仏説」が異なっている事から、「開幕条件が根本的に異なる事」に成るとして、これを以て、元よりその“資格は無い”とする説も朝廷では強く主張されたのだ。

その様なそもそも「令外官に依る神祇伯の世襲・三代の身分制度」は「鎌倉期」には最早霧消して無かった。
恐らくは、これは「後裔系の白川家の内部だけの書籍」として記して遺したものでは無いか。
そこに瑕疵が出入るのだろう。
そもそも、「王の身分」は「平安期の天皇との第四世族外の血縁関係」で決まるものだが、これをも「鎌倉期」に未だそれを何故か持ち出している。
本来は「官職や役職に付随する性質」のものでは、「天皇との血縁関係」がそもそも決まる性質のものではない。
況して、そもそも「令外官の神祇伯の世襲・三代の神祇に関わるもの」としては、つまり「非皇族」であり「王位」はそもそも「世襲」では無く、従って「正規の王」ではない事に成るのだ。
その「経緯」には、他氏の事であるので、どの様に記するとも正しい歴史観として遺すには自由だが、「伯家内部のみに伝える」には、老婆心ながらそもそも「朝廷」が成す「伝統的な歴史観」としては「搾取の無理」が多い気がする。
そこで、「花山天皇の在位期間」と「生存期間」は、「史実」は「伯家が主張する期間」を遥かに超えているのだ。
更に、中でも「延信王の令外官の神祇伯」は、「彼等の記録」では[1025年」に「源姓」を賜り「臣籍降下」し[1046年・平安末期」に「令外官の神祇伯」に任ぜられたとあるのだ。
そもそもこれは“「史実の21年後の事」”であるが、ところが本来は史実は、「1025年」に対して「孫の延信王」には「1006年」に既に賜姓している史実があるしを「贈ったとする事・もあるのだ。
「伯家内部の書籍」とは随分と「時代」は違うし、そして「内容」も違う。
そこで瑕疵部分を補完する意味から元より違うものとして遺したとも考えられる。
「孫の延信王の神祇伯」が「令外官と神祇伯」により子孫を遺さずに絶え、何時しか「猶子策」など何らかの形で跡を事を継いだ事から、その時を以て、“「21年後の事」”と「1046年の事」の「二つのズレ」は其の侭として、そこに「ズレ」が起こる事を承知で「家の記録」に「時代の経緯」を合わしたものと考えられる。
「令外官と神祇伯」ではそもそも子孫は必然に遺さない前提にある。
だとすれば、この「神祇伯」は、そもそも絶えている「延信王」のものでは無く、後に「猶子策など」に依って生まれた「伯家」である事に成る。
尚、「当時の呼称」は、「源」または「王」であるがその「位」には無い。
その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれる様になったとあるので、「時系列」は違う別物である事に成る。
況して、「令外官の神祇伯」に成った「延信王以後」には、この説では元々「「21年のズレの時期」はあるが、この「令外官の神祇伯」の時期は判らないが、「康資王、顕康王、顕広王」と「跡を継いだとする白川家の人物・後裔の説」がある。
そもそも「令外官と神祇伯」は、「21年のズレ」は兎も角も、そもそも一代限りのもので世襲では無く説はおかしい。
三代続いて「現実・鎌倉期」には、「神祇伯」に補任されているとしているが、正式には「天皇家の三世王格の三代格の原則」では、既に「花山天皇」で「延信王以後は既に正式に子孫は絶えていて、「曾孫域」”でも少なくとも「顕広王」とする人物でも既に絶えている事に成るのだ。
そもそも本来は「子孫を持たない神祇伯・神職」であると云う事だ。
本来は、何故ならばこの「神祇の役目」は、永代に「斎蔵の藤原氏や巨勢氏の専属領域」であるのだ。
それも「あるルール」があるのだ。
この「延信王の時」にもである。
これは大事な歴史観である。
これに「平安末期」には、永代に「斎蔵の藤原氏や巨勢氏の専属領域」にて、この突然に「花山源氏の源氏」が被さったと成るのだ。
何故、態々、その「本来の役目の藤原氏や巨勢氏」に成っているのに、“被さった”と成るのかと云うと、其れにはそもそも、理解する上で「本論の花山源氏のそもそもの目的」が違っていたと云う事だ。
そもそも、故に「源氏王格」は、「二世族源氏」が限界と定められていたのだ。
この時期では、従って、「神祇」とは「天神地祇」の「神と祇」の略であって、「天神」は「あまつかみ」とよび、説では「天上」で生まれ、或いは、「天上」から降った神の事を云うとしている。
そして、「地祇」は「くにつかみ」とよび、「地上」に天降った「神の子の事」を云うとしている。
故に、「神」である以上は、本来はこの世に於いて“子孫を持たないもの”として、それを“「神祇」”であるとする言葉を使いしているのだ。

「神祇伯」は、故に、まだ「世襲制度」とは成っていないのだ。
「あるルール」とは、「源氏、及び斎蔵の藤原氏・巨勢氏」では、「世襲の定義」は、どの様に扱っていたかは記録にある。
それは“時期だけは続けての「役代わり」”として、これに補任されたものと認識されていたのでそもそも“世襲では無い”として認識していたのだとしている。
要するに“「役代わり」なのだ”として、維持されていたとし、それは「令外官」ではそもそも無かったと云う事になるのだ。
事実は、「先の四名の間」には、“「斎蔵の藤原氏」が現実には重複して補任されている”のだ。
従って、「延信王の神祇伯」は、「朝廷」では「別物として扱われていた事」に成る。
従って、この次の「猶子の“王」”だけが、この「本来の姿」は、「花山源氏・村上源氏の猶子」である事に成り、即ち、実質は「村上源氏の猶子」である事を意味している。
この「猶子」である以上は、全く理屈が合わず信用できない。
又、歴史観として彼等の「伯家とする資料」には、「神祇伯就任」と供に「王氏と記している」が、「王位」は「氏」に補任されるものではなく、「個人」にある。
又、これに復したとあるが、「王位」は「大化期の規定」により「第7皇子以上で第四世族以上」に任ぜられるものであって、それは「個人」にあって「氏」には「氏の資格」は無いのである。
そして、この「王位の指定を受けた者」と云う事に成っているが、抑も「正規の規定の王位」とするものでは無く、且つ、従って「氏」には復さないと成っているのだ。
少なくとも、此れで行くと「家」に相当するのだ。
そもそも「神祇伯の退任後」には、“「源氏」に戻った最初の例と成った”と勝手にあるが、正しくは「源氏賜姓後」は“元の位に復するという制度”は、既に鎌倉期にも最早無く成っているのだ。
「顕広王等の復帰の背景・王氏は疑問で王家に」には、「神祇」、すなわち、”神を祀るという、朝廷では重要な行為を行う「神祇官の長官の事」ではある”が、この書籍時期の指す「13世紀の鎌倉期」では、此れは未だ「西の朝廷の任命権」にあって、「府の権限」が及ぶものでは無い。
あるとすれば、最大でも“「推薦権」”に成り、その意味は低下し異なっている。
この「鎌倉期」では、「西の神祇官の長官」としては、「神明社」ではその「祭祀と監理」は「青木氏」に帰属するものであって、「源氏独自の八幡神社の管理」のみに関わる事だけではないし拘わらない。
「朝廷」はそもそも「国幣社格」ではない「習合格の八幡社」には関わらない。
「鎌倉期」に於いては、「国幣社に相当する皇祖神子神」としての「神明社」は、「青木氏」にあって、「春日社」は「藤原秀郷流青木賜姓青木氏」にそもそも専属的に委ねられていたのだ。
そもそも「八幡習合神社」は、「源氏の独自の守護神」にある。
「大中小の三つに分けられた国幣社格」には無く、一般視社格に相当する。
従って、鎌倉期に独自に「八幡神社」の「神祇伯という職務の重要性」と、「源氏という血筋の由来」、及び、何より「最後の者とする顕広王説」が、有力な“「村上源氏の源顕房の猶子」”と成っている事が気に成る。
最後の「源氏の賜姓の条件」に繋がっている者であろうか。

論外に仮に遠く「花山期」から離れて、せめても「最後の者」と成っている「顕広王の子」であるとするのは論外と成る。
その更に「論外の仲資王」が「顕広王の跡後」を継いで「神祇伯」と成ったとあり、この「仲資王の退任後」のその子の「業資王が「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとしているが、既にその期は「鎌倉期」にあり、この期に認められた「源氏の第二世族源氏の規定」は、正式には時代的に上記した「最初の者」の“「延信王」”が限界である。
「源姓を賜り臣籍降下した段階」では、実質は「西の令外官の神祇官」である以上は、定説通りに「最初の者」の“「延信王」”の子孫は絶えているのだ。

注釈 この「源氏化論」を説くには、「歴史観」として上記の「猶子の事」を説明して置かなければならない。
これは「社会と歴史を虫歯わせた重要な歴史観」であるからだ。
この「猶子」とは 、そもそも「実親子」ではない二者が、「親子関係」を結んだ時の子であるとし、これを訓読では「なほ子・ゆうし」と呼称していていたのである。
その頃は、これを「・・のごとし・あたかも実子の様である」と読むとあり、中国では最早、「兄弟の子」を意味するとして「重要な処世術」として認められ扱われたものとある。
それは「身分や家格の数種の高い仮親の子」に、“繰り返し位置付けられる事”によって、その効果として「社会的に立場が繰り返す度事に上昇し、「一家・同族内」、又は、「社会的に何らかの関係性」を貯めて有する「他氏族間の結束強化と上昇策」の為に使われたものである。
つまり、「養子」より強いものとして、それには「官位の昇進」や「上の家柄の相手との婚姻等}を容易にしたり、これに依って「義理の親子関係を結ぶ事」で、{両者一族の融和や統制を強化するといった目的」で盛んに結ばれた「武家貴族間の源氏化の慣習策」である。
一般的に「家督や財産などの相続・継承を目的としない事」では、これは“「養子」”と異なっており、「子の姓」は変わらずに、「仮親」が“一種の後見人」”としてのその役割を果たす等の「養子」と比べて、単純で、且つ、緩やかで擬制的な側面が大きいものである。
それだけにこの「源氏化の管掌策」としては、これにより「金」が動く為に盛んに「猶子策」が「公家や武家貴族間」では頻繁に使われたものだ。
この策では、「猶子の親に成る者」に執っては、金品で経済的に潤い、社会的発言力を増すと云う特典があったのだ。
この「源氏化」にもっぱら盛んに用いられたものである。
但し、その後の実際の用例では明確な区別はなく成り、「猶子」と呼んでいても相続がなされた場合もあり、「養子」と、その後「同義・同意」として使用される事もあったとされる「猶子策」であった。。
要するに、この意味から、事に応じて「後見人の勢力拡大の道具」として大いに使われた。
これが結局は、「源氏賜姓」に盛んに使われた事から、其処には世代数を超えて際限なく利用される事と
成り、「第・・世族源氏・資格の有無は別」が生まれて、その様に呼ばれる様に成ったのだ。
そこで、「朝廷」は、「第二世代源氏・孫域」までとこの範囲を定めたのだが、世間は「猶子策」で際限なく護らなかったのだ。
例えば、この「清和源氏等」も「粗暴な父・暴君」からの「賜姓」すらもを受けられない事から、祖父縁に当たる「清和上皇」に頼み込んで無理やりに賜姓をして貰ったとする経緯である。
これは、所謂、規則上から「猶子の形」で無理やりに頼み込んだものである。
普通は、この為に「第一源氏世族・子」、そして「第二源氏世族・孫」の間での、“「縦の下系」”に「賜姓する事」が規則として定められていたものなのだ。
然し、この「清和源氏」は、「祖父の清和上皇」に、既に上系の上皇と成っていたにもかかわらず、それ以上は、「帝紀」を破ってでも、且つ、現実に嫌がられながらも、「上の系の第二源氏世族」までに成る様に「猶子策」で図った。
これには規則上に照らしても、先ずどこかの「猶子親」に頼み込んで「下系の“「猶子」”に先ず成り、そこで「数多い猶子親の誰か」を使って頼み込んで「賜姓を受ける事に成る経緯」である。
これを当時は、「賜姓の規則に外れる事」から「清和源氏」と云えるかはそもそも問題に成ったもので批判されたのだ。

注釈 この後に「花山期」から離れて、論は歴史観の参考として「鎌倉期説の経緯の検証」とする。
この「歯止め」とする「第二世族源氏の規定」は、正式には“「延信王」”が限界であり、「子孫」は絶えているにも関わらず、この「猶子策」の故に例外で、“「延信王の繋ぎ」”を別に興したと云う事の例に成る。
それが「第三世族子」であるとする「顕広王の子」であるとし、「仲資王」までが「顕広王の後」の継いだとして「神祇伯」と成ったとしていて、「第四世族の仲資王の退任後」、その子の「第五世族子」の「業資王」が、「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとあるのだ。
既にこの期は「鎌倉期」であるが、歴史観として問題があるのでの参考として記した。
その「業資王」が急死して弟の「資宗王(源資宗)」が「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとある。
この為にこの「鎌倉期の記録」では、「源氏」から「王氏・?で王家」に復したとし、これらが先例とし、以後、「白川家」によると、永代ではないし「令外官位」であり「世襲は否」とされていたにも関わらず、「神祇伯の世襲化」で「神祇伯就任による王氏復帰」は果たせたとし、そもそも「王氏」では無く「王家である」が、継承は行われる様に成ったとしているのである。
然し、これは「三代の習慣」からは歴史観はそもそも外れているのだ。
そもそも正しくは「王氏は無く王家である事」から、「単位の小さい家」から「大きい氏族」の「源氏」に戻れるとした規定は、そもそも何処にも見つからないし、論理的に無理があり辻褄合わせの「猶子策の後付け説」であろう。
「此の時代の源氏」は、この様に、最早、「猶子策」に依って悪用されて「南北朝までの源氏」では頻繁に行われ際限がなく広がり続いた。
これと同じくこの時代以降は、最早、「猶子」は「源氏」ではないのだ。
「花山期」のそもそも「源氏の王位/?」は「一世族源氏の族」に史実与えられたものと成ったものであって、これは「氏族に課するものではそもそも無く、その「一世族を保った家」だけに引き継がれるものであって、要するに「王位」は正しくは「王家の範囲」で終わるものと成るのだ。
そうする事で、「伊勢青木氏の伊勢50衆の氏族・氏人族」を持った様に、この様に「氏の族を形成する程の源氏」は、そもそも「存在」は無く、「それに戻れるという理屈」はそもそも無く成るので、それを独自の中で勝ってに造り上げて「系譜」を「後付け」で錯綜したと考えられるものであろう。
「筆者の11の源氏の印象」では、「伊勢の様」に「大氏族を形成している」とする検証はどこにもないのだ。
全ては最大でも「摂津源氏」の「四家の源家の範囲」である。
そもそも「大化期の規定」に基づく「王位の者」は、「第四世族以降七世族まで位にいる者」であって、それも「第七位以上皇子の相当族」に任じられるとしたものである。
この範囲では「王氏」では無く、もはや単なるものでそれは完全な「王家」にあたる。
依って「白川家の呼称」は、正しくは、「河内源氏の源氏姓」が復帰した「猶子策」が大錯綜した「南北朝」から「13世紀中期以降の代・鎌倉期」からである事に成るだろう。
故に、そもそも「正式な令外官の神祇伯の代」は、「花山期」で正式に飽く迄も終わっている事に成る。
故に史実は絶えている事に成るのだ。
要するに「21年後の令外官の神祇伯」はそもそも「別物」である。
後は、上記の注釈の「白川家の論・鎌倉期」の「猶子の有無」にあるが、この「花山天皇賜姓源氏・第二世族源氏」は、「一代限りの孫」の“「2世族の延信王」”がそれに当たり、ここで子孫を遺さず史実として敢えて終焉させた事に成るのだ。
以上の論外のこの「鎌倉期の神祇伯就任」のこの検証では、この「平安期」では、“「孫の延信王」”の「規定の二世族・孫域」で上記した様に既に絶えているのだ。
正しくは「斎蔵の藤原氏・巨勢氏」の「神祇伯」が重複して存在していた以上は寧ろ“絶えした”と言う事に成ろう。

注釈 さて、此処で論外ではあるが、世を乱した「猶子」と共に“「神祇伯」”と云うものを理解する上での歴史観とし関わる事を念の為に論じて置く。
「正式な神祇伯の代」は、この“「孫の延信王」”の「規定の第二世族・孫」で既に絶えている筈なのだが、「後の記録」で観ると、論外として「猶子族か支流族」が引き継いだかは良く判らないが、鎌倉期以降としている「後付けの神祇伯の裔系」の記録が遺されている。
この「論外の記録」に依れば、それは「猶子策をリードした事」で有名な“「村上源氏の源顕房の猶子・血縁筋が不明な子」の「顕広王」”となって引き継いだとして成っているのだ。
「猶子」であるかはそもそも「猶子」である限りは判らない。
つまり、重要な歴史館として、これは「村上源氏中心」に、その以降にも頻繁に行われた「猶子策・源氏化は乱れた」であり、それに基づいて「系譜」を作ったものが多く、これもそれに相当するのではないかと成る。
恐らくは、その「歴史の歴史観の間違い」から観て、その内容から相当後から、つまり、江戸期中期頃に偏纂されたものであろう。
この中でも余談だが、この「猶子論」の「猶子策」を使って、その「源氏賜姓の位」、つまり平位で全く格式など無くても、どんどんと「村上源氏」は、「堂上源氏の末裔」として幅を拡げた「猶子策」なのだ。
要するに、この現象は「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」したその直前の「源氏化の出来事」であったのだ。
その意味でもこの歴史観は、「円融天皇」は、この「村上源氏の猶子策・乱れていた賜姓策」を嫌っての事であったとも考えられる。
それは、つまり、「乱れた源氏化賜姓」を「円融天皇」が戒め、更に「花山天皇」が戒めてに二代続きで直そうとしたと考えられるのだ。
現実に乱れた「源氏化」の大きな「猶子策」は、この「二人の天皇の策」で系譜上ではほぼ留まった事に成る。
そしてその目的が終わったにも関わらず、其の後に、別の目的でこの「猶子に依る源氏の賜姓/目的が違う」は「南北朝」まで止まらなかったのだ。
当時迄は、抑も賜姓のその範と成っていたのが「桓武派が主張する賜姓」であったのだ。
この丁度、「村上期の時期」から「源氏化の猶子策・金銭的な賄賂の様なものも背後で大きく動いた」は盛んに使われ始めたものだ。
「源氏姓・源氏化」を論じ観る時には、この「猶子論」の「猶子策」を適格に「歴史観」として読み解かなくてはならないのだ。
それ故に、ここでそれを示す証拠は、「彼等の家紋」は、そもそも飽く迄も「笹竜胆紋」では無く、「猶子策」によるものである事から、「村上源氏等」は、正直に、“彼等の「家紋」は「五つ竜胆紋」”として使い違うのだ。
元より「嵯峨期以降の源氏派」は、「八幡神社・八幡菩薩の習合体」である限りに於いては、絶対にこの「竜胆紋とするの経緯」にはそもそも無い事を「猶子策」を用いて論じた。
従って「頼朝」等もその「家紋」は、「村上源氏」と同然に歴史的に此の範囲にある筈だ。
よりともの「家紋」は、そもそも「八幡習合体」である以上は、「村上源氏」と同然に正しくは「笹竜胆」では絶対にないのだ。
これを「朝廷」からここを突かれた「頼朝」は、「笹竜胆紋の笹と竜胆の花の間の軸に違いを着けて別物とした」のだ。
現実に、「青木氏の元来の賜姓時の笹竜胆紋」との間には、“八幡神社などの根本的な違いがある”が、「軸の形の違い」を着けて、違うものだとして「朝廷」を黙らせたのだ。
ところかが今やこの「工夫した文様」が、これも「正規の紋」として美化されているのだ。

「最終の源氏」は、「1009年の花山源氏」とすれば、そもそも“「三代の規定」”を待つまでも無く、「10年程度の範囲」で論理的に何かを講じなければ終わっていた事に先ず成ろう。
それは丁度、一代前の直前に「秀郷流青木氏の永代賜姓」が成されたばかりとすれば、「令外官の神祇役」の「花山天皇の源氏」は、これを生かそうとすれば、「伊勢の青木氏との繋がり・神明社」とも親密に連携は執れていた筈で有利であった筈なのだが、それも無かった様だ。
つまり、これは「花山源氏」のみならず、「源氏」そのものを終わらせようとしていた事に成るだろう。
これは明かに、上記の検証の注釈通りで、新しく起こった「八幡神社習合体」の「令外官の神祇伯就任の範囲・上記注釈」によるものであろう。
これは「特別の話」では無く、この「三代規定」に絶えられなかった「高位族の話・源氏」は他にも沢山あるのだ。

注釈 「社と神社」の「国幣社」とは、日本に於いて古来は「国と地方府・現在は都道府県」に「幣帛の至幣帛料を支給される社の事、又は国の神社の事」である。
そもそも、「社と神社のその格式」には差があるのだ。
従って、これに「格式」を設けて「官吏」に依る「監理」をしていたが、当然にこれがあればその「神社格式」が高くなる。
この「平安期の令制時代の国幣社」は、「延喜式神名帳」にも記載があり、「格式」に依って監理されていたのだ。
「皇祖神の子神の神明社」は、「伊勢と信濃の青木氏」が管理する「最高格の国幣社」であって、そもそも「特別格」の「社格」にあり、「神社格」ではないのだ。
つまり「特別な社格」である。
この「令外官の神祇伯の神社」は、「皇祖神の子神の神明社外・青木氏監理」であり、そうするとそれは主に「源氏の守護神」の「八幡習合社」の「神祇伯」に限られる。
他には、「国幣社並みの大きいもの」としては「秀郷流一門青木氏の春日社」があり、「藤原氏の春日神社」が存在したが、これが「藤原一族の氏が監理するその守護神」の「神社格」が別にあったのだ。
此処で、「・・社格」と「・・神社格」は「存在格式」が異なり、「社格」は原理主義を有しその上にある。

以上の論から「桓武派」と「嵯峨派」の齎した後世に、この「源氏化の事件」は、筆者には論の通り明らかに“「桓武派」にその理があった”と考えている。
「部の造の利」を生かして「925年」に「商い」を興し、「1025年」に貿易を興す総合商社を興して、“「内蔵」”を先ずその「賜姓五役の役務」や「院屋号の役務」や「因事菅隷の役務」として「令外官の役務」として豊かにし支えたのだ。
筆者は、「部経済を熟す令外官役務」と云うよりは、資料の読み込みの行から、“生計を一にする「一族の稼ぎ頭」として勤めていた”と当時の青木氏族の一族の者は考えていたのであろう。
要するに「皇親族の発言」とこの「内蔵を支える事」の是非論であろう。
光仁期以降は、前段でも論じたが「部の国造頭」として“「内蔵」”を支える以上は、必然的に「皇親族」と成り得ていた事は否定はできないと考えているのだ。
政治的に観ても「内蔵の潤い」は、そもそも「霞を食している天皇家」では無く「政治の安定」には直接に繋がるは必定理であったろう。
そもそも「税」に求める「大蔵」と違って、何れかよりその「大きい糧の基」を求めなくてはならない。
故に「桓武派」と「嵯峨派」として「政争の騒ぎ」を興してまでも、その「内蔵の大元・青木氏の賜姓を切った」を切り離した「嵯峨天皇の施策」は、筆者は青木氏の者として“後世に疑問と禍根を残した”と観ているのだ。
然し、幸いに上記する「3人の天皇の出現」で、「帝紀」すれすれで何とかこれを正したと観ているのだ。
其処にその「内蔵を保った」として「二つの青木氏族の裔系」はまだここに現存しているのだ。

この証拠に、この「政争の騒ぎ」の中で、このある時を以て「青木氏族や近江佐々木氏族からの系譜」からも、何故か「血縁関係も含む全ての関係性」が、“全く無く成っている”のだ。
この“全く無く成っている”という事は、先ず普通では起こる事はないだろう。
ところがこれを物語る事としては、“「生きる社会環境」が上記した様に、「猶子」等の「複雑怪奇な源氏化」で互いに溝が出来て違ってしまった”という事では無いかと観ているのだ。
それが「伊勢と近江という事」だけではなく「信濃と近江」ともに広がったのである。

故に、これは「源氏化の経緯」には、その過去には、この「近江佐々木氏との内部事件」もあり、尚且つ、これが「源氏化の時代の渦に巻き込まれる事」をも警戒していた中での事であった筈である。
だから、その事はこれを咀嚼しても、そうするとこの説で観れば、その後に「青木氏」では、“「後家制度」”と云う“「応急処置」”で、“この事件の処置をしたのだ”という理屈が生まれる。
ところが、その後の例として、確かに「嫁いだ女」は、「後家制度」で「伊勢」に帰り収まりが着いた事があるが、実は次いでこの「後家処置・制度でも治まらない事」が続けて起ったのだ。

それが、“「京綱の処遇」”であったのだ。
この「猶子の源氏化の中」では、「青木氏族」に執っては「大変に厄介な事」であった。
そもそも「光仁期」より「徹底した女系制度」を敷いて「天皇家・男系との関係性」との関係性に巻き込まれる事を絶っていたが、これがこの「女系制度にそぐわない事件」と成って仕舞ったのである。
その「解決策」としては、「女系制度の慣例破り以外」に無く、結局は「出自来の四掟」に反するが記録と資料と口伝によれば、“「青木氏族の氏族合意」で乗り越えた経緯”なのだ。
この「京綱」は、この「猶子であったか」は調べたが、そうでは無く、「仲綱の妾子・正式には四男」である事が歴史的に記録があり確認できた。
その「京綱対策」が、「青木氏四家の福家」に最終は直接に組み入れたとしているのだ。
これはどういう事かと云うと、何とか裏で行われていた「頼政との難題の話の進行」、つまり、「京綱の処遇の件・青木氏の家人跡目に入れる事」では、最初から“「後家と云う話」”の中で対応したのではないかと予想できる。
その「伊勢の氏族」の中では、「後家の話の主体」の「条件」として出していたのは、そもそも「同環境に陥っていた事」からであって、その「騒ぎ」はその「伊勢や信濃側」にでもあった事と考えられる。
それは「摂津源氏頼政の策」と成った「嫁・娘の対策」では、兎も角もこの“「後家」”で処理されたが、この「京綱」の「伊勢青木氏族の中の扱い」は、又別物であったらしい。
そして、先ず「娘」を再び「氏族の郷士に嫁がせた形」を執り、そこから生まれた「優秀な男子」には、「伊勢青木氏」をそこで興させて、次いで優秀であれば「青木氏家人に戻すとする制度」があったがこれを京綱の策に使ったのだ。
「京綱策」は、結局は、この“「家人の青木氏」”として先ず「四家」の一人に入れて、そこで経験させて「優秀」であれば「四家」から「福家に成る仕組み」の中に入れたとした事が判っている。
「伊勢」も然る事乍ら、「信濃」に於いても同然であって、「女系の青木氏の四家の中で生まれた男子」は、先ず「四家全体の中」で育てられ、「何れかの四家」に先ず入り、そこで「経験」を積み、その後に何れかの「四家の差配頭の家人」に成り、そして「四掟の女系・女系の郷士か秀郷流青木氏」で娶り、「優秀」であれば何時しか「福家」と成り得る仕組みである。
結局は、「京綱」は、最終は、“「福家に成った事」”が記されている資料が遺されている。
「信濃の国友」も「京綱と同然に成った事」が判っていて、「国友」には「信濃」に定着せずに、最終は「伊豆を強固にする為」に秘かに「融合族の伊豆青木氏」に入った事が判っている。
然し、その後の「伊豆の中での事」は、つまり「国友の事」は「源氏化の事件性」から判らなくされているのだ。
「相互の血縁の関係性」から「伊勢や信濃」では「国友の事」は「京綱」と共に把握されていたと考えられる。

注釈 「国友の経緯」には、別の資料から、「伊豆」に到着以後は「伊豆」を代表して「商い」で「伊勢との往復をしていた事」が記されている。
ところがここで「四家の福家」に、この「京綱」は成ったとされているが、少なくとも「摂津源氏四家」に嫁いだ「伊勢青木氏の娘」は、「仲綱の妾」と成り、その「子の扱い」は「四男」ではあったとされているが、この「四男の京綱」は、「摂津源氏の血筋」を引いている事に成るが、“全く源氏に加担しなかった事”が判っている。
「伊勢四家の福家であった事」では、判断次第では「滅亡の憂き目を受けていた事」に成るが、「氏族の伊勢の中」には「摂津源氏の源」も影も無い。
この「頼政の件」で戻った「伊勢の女(むすめ)・後家」の「行先・匿先」は「犯すべからずの多気の斎王館・務先」と「清光寺・尼僧」とであった事からで、その「後の成り行き」は強く戒められた可能性がある。
この時、少し連れて「事件・5〜10年以内程度」が「大口青木氏の事件」があった事から、「伊勢」では、この「二つの事件の扱い」は「同一事件と捉えていた事」が考えられる。
この「大口青木氏」は、そもそも「摂津源氏宗綱の廻氏の裔・仲綱の嫡男」でもあり、突き詰めれば「伊勢青木氏の京綱」も、その「摂津源氏の仲綱の四男裔」である。
「京綱」は、「仲綱の後裔/四男」であり、他方は「大口青木氏の廻氏族の裔の宗綱・仲綱嫡男」であり、何れも「仲綱の嫡男の裔」と「仲綱の四男」の裔差である。
それが同時期、同一場所、同年代、同一人に育てられた結果と成っていて、最早、「義兄弟」であった筈である。
つまり、この「二人」が偶然にも「一つの経緯」を経て、再びそれも“「伊勢に集合した事」”に成るのだ。
ところが、この「二人」は血縁の深い縁を持っていながらにしても、「源氏化の流れ」の中でも、“源氏化”に全く加担しなかった結果と成っていたのだ。
此処には何も無かったとは考え難いし何かがあったとも考えている。
どの様な事があったのであろうか調べたが判らない。
「予想する処」では、「財」に於いてもその形跡がなく、一銭も援助をしていない事から「女系族」である以上は、この「猶子策で腐敗化した源氏化」の中でも動じる事は無かったと観られる。
百々の詰まりは、「頼政」はこれは「伊勢と信濃の氏族の同意」が、全く得られなかった事を意味し、「四掟の秀郷流青木氏の同意」が得られなかったと云う事であろう。
それには「源氏社会」には、この「猶子策の乱」があって、「源氏」だとしても、“信用は出来なかった”のではないか。

筆者は、そもそもこの「戦いと経緯」に備えて、上記する様に、“「財と武の獲得」”と“「子孫存続の確定」”、そして別の面では、“「皇族系で律宗性の強い二つの青木氏」に「、源氏子孫を遺すと云う事」では、より「猶子策」で乱れている中でも、“「源氏族のより格式化をより図ろうとしていた」”と観ているのだ。
そこに「頼政」が、「青木氏の前に立ちはだかった」と云う事なのだ。
彼等は、「平家族に超す様な格式」を確保して、全国に向けて「有利な立場」を保全して、「以仁王の乱」を有利に運ぼうとした”とも観ているのだ。
つまりは、「頼政」は「朝廷の中」に流れるこの「猶子策の源氏化」を利用したと観ているのだ。
そうする事で、前段で論じた「桓武平氏=青木氏族・桓武天皇派系の関係」に、“「楔を打ち込もうとした」”のではないか。
それは「桓武平氏側」には、「天皇系」と成り得ていて、既に「金玉・安徳天皇」を有していたからだ。
故に、「伊勢の京綱や信濃の国友」を、この史実の中に入れてこれを表に出す事で、「9つの縛り策に弱い処」を補完させ、且つ、そこでこの「桓武平氏側」にも「血縁的な繋がり」のある「格式のある青木氏族」を前面に押し出そうとしたのではないかと観ているのだ。

然し、だから「青木氏の後家の策」を取り入れたのだろう。
此れをせずに、抵抗すると云う手も在ったろうが、ところが「氏是に基づき敵対する事」は何とか避け「青木氏一族」はその手に乗らなかったのだ。
当に「頼政の計算された騙しの策・事件」に巻き込まれそうに成ったのだ。
その意味でも、この同時期に関連して「伊勢青木氏族の伊佐氏に関わった大口事件の処理」は難しかった事が云える。
何にせよ前段でも論じた様に、そもそも「以仁王の乱の失敗後」の「摂津源氏の子孫の助命嘆願書を清盛に出している事」であり、これに動かされる事は、そもそも「桓武派」と云えど「極めて危険な事」ではあった。
これは前段でも論じたが、何故、この「反対派の願い・助命嘆願」に対して、この様な“見逃す事の出来ない歴史的に遺る様な相当に危険な事”を、「伊勢」は態々したのかである。
確かに、「京綱や国友の件」や「老母の高野新笠の関わり/伊賀の差の意味」等があったが、それだけでは無かったであろうし、「伊賀の平氏」の中には「摂津源氏」から来た「二人の妾」が居た事も判っている。
この「二人」は、何もせずとも先ずは“「嘆願」”は一応はするであろうが、これが「時代性」が異なる「高野新笠派・青木氏説」を動かしたとも思えないのだ。
然し、真偽は別として、前段でも論じたが「伊勢に伝わる処」では、“「高野新笠・伊賀の事を意味していた」を以て動かした”と伝わっているのだ。
然し、かと云っても「伊賀の高野新笠系の意見」を聞いて、当然に、“「伊勢青木氏の福家」が何の利益も無いのに素直に直接に積極的に動いた”とも思えない。
少なくとも、あるとすれば、“ある先の起こるべき計算があった”という事であろう。
それは最早、ここまで来れば無視出来ない程の「助命嘆願をしなければならない流れ」が起こっていて、そこに何かが「青木氏の経緯」の中で、“必然性的要件が起こって仕舞っていた”と疑う事も考えられると云う事である。
調べたが少なくても、この「青木氏の中」には「この必然性」は見つからないのだ。
まさか上記した「源氏化の社会の乱・猶子策」が誘因していたのかとも疑うが無い。
然し、「以仁王の乱」が失敗に終わっている以上は、この「猶子策の源氏化」がこれに左右し働いていたという事でもないだろう。
この「猶子策の関わり」が「京綱の件」として、観えない処で「青木氏の中・条件」まで及んでいたのかと云う事であるが、先ずそれも無いだろう。
兎も角も、理由は、“「高野新笠の意見/伊賀ルート・青木氏・桓武派の意見」として取り入れた”と云う事にしたのではないか。
少なくとも「伊賀に関わっていた事」は、それなりの記録があるがこの限りでは確かであろう。
兎も角も、「崇拝していた桓武天皇」の「母・高齢」であった「高野新笠派の意見・伊賀勢力の青木氏」は、「伊勢の青木氏」に執っては無視できず、“「桓武派の意見」”としては簡単に無視は出来なかった事は先ず判る。
これに付いては、「伊勢も清盛」も、“その範囲の事としての考え方”の「扱い」でもあって、“起る先の結果も見込んでこの「流れの中」に、“「先事の事”として実行したのであろう。
要するに、“先ずは治まる処に治まる”として、兎も角も提出し、「伊賀の平家側」も「嘆願書」を受け入れた事であろう。
そして、「先の事」を見込んで、「伊勢青木氏も伊賀平氏」も、先以て、“その為の準備をした”と言う事ではないか。
「清盛側」も受け取って置いて廻村に放置するよりは「相手」を誘い込んで潰す目的であったのであろう。
当然に昔の「伊賀半国割譲の結果」としての「伊賀半国割譲を仕切った立場」もあって、「渡来人の里の南九州」には「伊勢の関係者・伊佐氏」を「朝廷の命」により「伊勢」から送り込んでいた事もあり、其の上で「事前の体制」を整えていたと云う事に成る。
これは未だ「日向廻氏」まで及んでいない時期の事である。
「平族/たいら族」は、「桓武派の伊勢青木氏の申し出」で、一応はこの「助命嘆願」を「史実」としてこの意味で先ず受け入れたのであろう。
然し、その証拠に、流罪後に直ぐに「九州平家」が、間一髪入れずに何事も起っても居ないのに、これに応じて先に軍を南に動かしているのだ。
即ち、これは「廻氏周囲の豪族等と組んだ宗綱勢力」が、“襲い掛かり潰しにかかって来る事”を先以て読み込んいたと云う事だろう。

これに付いては、「宗綱が先に反乱を起こした事」は判っていないが、この時の「状況証拠」から史実は周囲に呼び込みを興している事は史実である。
そんな事は問題では無く、これは「九州平家が内密に先に指令を受けての事」であって、「九州平家」に依って恣意的に潰す事を目的に引き込まれた「戦い」であったろう。
それは時系列から「反乱の事態」が起こってから「九州平家が動いた時間」が、そもそも無さすぎるからだ。
これで、この「助命嘆願」も「平家」も「伊勢青木氏」も、その「心算」を以て受け入れていた事は確かであろうし、「伊勢」も「暗黙の裡」に同然であったろう。
そもそも戦略上では、「生遺りを遺して置く事」は、最も危険な事であり、「掃討作戦」は徹底してやるのもこの為で肝心な兵法であって、これを適当な理由を着けて軍師は必ず先にするものだ。
それが「確定勝利の兵法の路」であるのだ。
その意味でも、全段でも論じたが、「伊賀の半国割譲の経緯」もあって、「伊勢側」でも「伊佐氏等」にも声をかけをして、その「伊佐氏の菩提寺の浄土寺」に向けて、事前に「伊勢青木氏の住職」を事前に「寺に廻していた事」でも頷ける。
史実は上記した「伊賀半国割譲」の経緯に依って、その「伊賀の関係」から「伊勢」から赴任遙任して「南九州」の「当地の現地監理」を任されていたものであった事から、「伊勢郷士」とそれに伴う「青木氏の柏紋の住職」を同時にこれに付する為に改めて重要な人物を赴任させていたとする記録もあり、これがこの事の史実であろう。

前段でも論じた様に、同然に「同時期・平安末期」には「同族の信濃」でもこれが起こっていたのだ。
「頼政の源氏化」に向けて、危機迫るのを逸早く悟り「信濃・国友」では、これを受けた後に「融合族の住む伊豆青木氏」に移動させて隠して上手く難を逃れていたのだ。
「信濃」は、「“雉子懐に入りて鳴くずんば猟師これを撃たず”の策」に出て成功したのだ。
要するに、「信濃」で隠すよりも「頼政の所領の伊豆」に直接に移動させたのだ。
これで「源平の戦い」に引き出されずに「懐に逃げ込む策」を講じたのだ。
其の後は表に出さず「商い・船」に従事させて、判らなくしたと伝えられていて、「伊勢」にも来ている可能性もあると資料・記録にある。
つまり、その後の「後家制度等」が次第に「軋み」を生みながらも護り、「青木氏族」は“「四掟を護る手段」”に切り替えた。
然し、そしてこの「後家制度等」は、「源氏化の猶子策」より先んじて、“「格式高い公家族との間」”で定着して行き制度化が進んだのだ。
この時、「源氏化に伴う猶子策」も同時期に並行し貴族間では進んでいた事に成る。
この時は、最早、「後家の意味・鎌倉期以降」も益々違って社会の中で変化して行ったのだ。

前段で何度も論じた様に、念の為にこの論と繋なぐ為に系列を追記するとして、「賜姓伊勢青木氏出自」の「施基皇子の四男の白壁王の光仁天皇」の「妃」は、「桓武平氏の伊賀平族の裔の高野新笠・清盛の母系祖」であり、この関係は、「桓武天皇長子の平城天皇」まで続いた「桓武天皇派系・桓武平氏も同派」である。
これは「賜姓や皇親族」を先ず排除しようとした「嵯峨派」に対抗して結成されたものであって、「政争」までして起ったのだ。

同じ「青木氏出自系」でありながら「薬子の変」で、「嵯峨天皇派系」と「桓武天皇派系」の間で「皇族の在り方の考え方・新撰姓氏禄の制度化と皇親族青木氏の処遇」を巡っても、ここでも「二派」に分かれて「平安中期」まで分裂して実戦までして戦った経緯の中にあり、相当に一族間は割れていた事に成る。
前段に重複するが、この様に上記の「頼政の後家の事件」は、それが遡って“「新撰姓氏禄」”までに起因していたのだ。
つまり、これは「頼政の政的相手の桓武平氏の清盛」に対して、「摂津源氏」は「伊賀青木氏」に「二人の妾を嫁がせていた事・記録」を背景にして、“「桓武派として同派である事」を見せかけていた。”
それを理由に利用されそうに成ったと云う事だ。
“「財と武の獲得」”と“「子孫存続の確定」”、そして別の面では、“「皇族系で律宗性の強い二つの青木氏」により、そこに「源氏化の猶子策」で揺らぐ中で、「源氏子孫を遺すと云う事」が起っていたと云う事であった。
それにより頼政側は「源氏族のより格式化をより図ると云う事」でもあったのだ。
「源氏賜姓の結果」は、この「源氏化の猶子策」で崩れ始めたのだ。
そこで「源氏族」は、「平家族に超す様な格式」を獲得して、“全国に向けて有利な立場”を保全しようとしたのだが、“「以仁王の乱」を有利に運ぼうとした”ものであった。
然し、この「猶子策」で「源氏」は直ぐに乱れ始めたのだ。
この「三つの目的以外」に、「過去の経緯・上記の縁」を知っていた「頼政・従三位」に、「桓武派として同派である事」を、“巧みに利用されようとされた”と云う事であろう。
これには、その元には、この「頼政」のみならず「源氏化の動き・流れ」に執ってその根本には、“「新撰姓氏禄・格式論」”にあったという事だ。
当時の「猶子策」の「源氏化」が起こっている「武家貴族社会」には、“「新撰姓氏禄」で定められた以上は「格式獲得の為」にも「猶子策」が蔓延り、その元にはそれを得ようとした「根深い格式論」が基本にあったのだ。
別の面では、源氏族はこの世間に蔓延る「猶子策」を良い方向と捉えていた可能性がある。
そして、「頼政」は、要するに、“「伊勢」に対して「此処・猶子策」を突いて来た”と云う事だろう。

それを「詳細な経緯論」として改めて次の段で論じる。
世間でいうこの「源氏化」は、そんなきれいごとでは最早無く成り、“「此処・猶子策」が渦巻いていた”という事を、「青木氏の歴史観」として知って置く必要があるのだ。
だから何度も論じているが、それには「円融天皇の秀郷流永代青木氏賜姓策」があり、引き続いて片方では「花山天皇」は、「悪弊を出している猶子策の源氏化」を食い止める為に、「一代限りに成る令外官の神祇伯就任・孫の延信王に賜姓」にしたのだ。
且つ、つまり、当時の「源氏化の猶子策」が蔓延る中で、「源氏賜姓の慣習」に従い「第二世族の源氏」で、「神職にして一代限りだけの子孫拡大」で止める策に出たのだ。
これで「源氏化の悪弊」は現実には止まったのだ。
この「源氏化」は、美化されて正しく伝えられていないが、現実には「猶子策などの悪弊」が蔓延っていたのだ。
これを「この論の歴史観」として持ち、歴史を正しく理解するべきである。
その内の一つが「青木氏」にも係わってきていたのだ。
そこに、記録にもある様に、最後の「青木氏出自元の仁明天皇」の外に、この「二人の天皇」は位置づけられるのだ。
「青木氏等の献納」に基づく「内蔵の問題」は変わり、初期の「鎌倉の府」が存在する限りは同時に未だ直ぐに解決は出来なかったのだ。
「賜姓して皇族臣下族の者」として「守るべき掟」の「9つの嵯峨期の縛り策」を護るどころか、そもそも「雄略天皇以降」に決められたこの「皇族の者が護るべき役割の基本」さえも護らなかった。
この「内蔵・大蔵」を支えたとする事も無く、「嵯峨期以降の源氏族」が、この「本来の役目」の“「内蔵を支えたとする記録」”はどこにもないのだ。
「嵯峨期の事件以降」は、「朝廷内」は「源氏化と成った事」により、「伊勢青木氏」は、この「内蔵の献納」を敢えて止めているのだ。
「伊勢」からの「鉱山開発や開発中の日本式な高炉の技術供与」が観られた時期でもあり、それから総合的に観て「北条氏の執権化の期」までは、「献納」は実質は記録的には大事には無かったと思われる。

「献納の時」は旗を建て大きな献納の車列を仕立てて京に上っていたとする記録がある。
“相当に豪勢な車列であった事”が口伝で伝えられている。
これが証拠と成るかは別として、「商記録」にも「大きな出費の算段の記録」は一時消えている。
恐らくは、この時ではないか。
「伊勢と信濃」では、「院屋号や因事菅隷や賜姓五役」」としての「影の永代令外官」としてその「財力」は何れにも勝るとも劣らずに持ち得ていたが、だからと云って「青木氏に依る内蔵の献納」の「正式な再開」は、「猶子」が社会に蔓延った結果、その為に「二人の天皇の策」に依って「源氏族」が絶えた「1221年以降の事」である事に成る。
それは「正規」に再開したのは、つまり、再び「内蔵掾・献納の形で」として貢献したのは、「正親町天皇と室町幕府に認められた律宗族の格付け期の直前期」ではあったと考えているのだ。
史実として、それまでは「宮廷の壁」が各所で崩れ落ちている「記録」があり、「内蔵の悪さ」が物語っている。
「室町幕府」はその力は無く、「正親町天皇」は「天皇家の権勢」を立て直そうとした唯一の天皇であった事から、青木氏の力を借りようとしたのだ。
その為にも「律宗族」として世間に再び喧伝し、「格式」を世間に認め直したのだ。

「青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」に続く。



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