青木氏氏 研究室
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  [No.403] Re:「青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−51」
     投稿者:副管理人   投稿日:2023/09/06(Wed) 10:18:05

> > 「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」の末尾

> 「献納の時」は旗を建て大きな献納の車列を仕立てて京に上っていたとする記録がある。
> “相当に豪勢な車列であった事”が口伝で伝えられている。
> これが証拠と成るかは別として、「商記録」にも「大きな出費の算段の記録」は一時消えている。
> 恐らくは、この時ではないか。
> 「伊勢と信濃」では、「院屋号や因事菅隷や賜姓五役」」としての「影の永代令外官」としてその「財力」は何れにも勝るとも劣らずに持ち得ていたが、だからと云って「青木氏に依る内蔵の献納」の「正式な再開」は、「猶子」が社会に蔓延った結果、その為に「二人の天皇の策」に依って「源氏族」が絶えた「1221年以降の事」である事に成る。
> それは「正規」に再開したのは、つまり、再び「内蔵掾・献納の形で」として貢献したのは、「正親町天皇と室町幕府に認められた律宗族の格付け期の直前期」ではあったと考えているのだ。
> 史実として、それまでは「宮廷の壁」が各所で崩れ落ちている「記録」があり、「内蔵の悪さ」が物語っている。
> 「室町幕府」はその力は無く、「正親町天皇」は「天皇家の権勢」を立て直そうとした唯一の天皇であった事から、青木氏の力を借りようとしたのだ。
> その為にも「律宗族」として世間に再び喧伝し、「格式」を世間に認め直したのだ。


>青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」


前段で「頼政の件」を「源氏化」と共に論じたが、もう少しこの事件を探って観る。
それは「格式化の問題」であり、「青木氏」にどれだけの影響を歴史的経緯として与えたかについて検証して論じて観る。
そこで、先ず「頼政の事件」から始めとして論じる事とする。
先ず「過去の経緯」を知っていた「頼政」に、「伊勢青木氏」と「信濃の青木氏」が、“「桓武派として摂津源氏も同派である事」”を理由に、“巧みに利用しようとした”と云う事であった。
それが、“「新撰姓氏禄”の進捗経緯」により、「公家武家の貴族社会」に「格式化」と云う別の問題を浮き出していた。
ところが、これが前段で論じた様に「新撰姓氏禄に依って格式化」がより起こり、「源氏化や猶子現象と云う社会」を「必要以上に乱す現象」を呼び起こして仕舞った。

要するに、この“「頼政が頼った事件」”は、当にこの“「源氏化や猶子現象と云う社会を必要以上に乱した現象」”の、この“「新撰姓氏禄の記載」に原因があった”という事だ。
そして「伊勢」に対して「頼政」は、この「弱い処」を突いて来たと云う事だ。
前段で述べた「歴史観の経緯」は、次の様な事から来ていたが、それを改めて「青木氏に与えた経緯」を検証して論じる。
その重複するが、この「歴史観の元」は、後々にも影響及ぼしたのがこの「新撰姓氏禄」にあった。
それは「新たに誕生した姓の階級」を「諡号以上」に仕分けして「国家の在り様」を定めようとしたものだ。
然し、それだけでは済まなかった。
改めてその「概要」をこの段の「探求論」で追記する事とする。
この時、世の中には「格式の高い氏族」と「諡号の姓族」が先ず増えた。
ところがそれをそれまでの制度の“「八色の姓制」”では、「格式を前提とする社会の統制」が執れなく成り始めていた。
この「格式による身分制度」に於いてだけでは成り立たなく成っていたと云う事だ。
そこで「格式上位の者等」に限って、その“「冠位を着ける事」”で乗り切ろうとして、よりこれを「細分化」したのだ。
それは「八つの身分別」、即ち、「八つの諡号の姓別」、又は、「八つの系列別」に「それまでの姓の範囲」の侭で「身分分け」をした。
即ち、それが「真人族、朝臣族、宿禰族、忌寸族、道師族、臣族、連族、稲置族」であるが、ところが問題の「嵯峨期」には、これでは「細分化・格式化」は難しく成ったと云う事だ。
それが前段でも論じた様に、「青木氏族」にも強く影響を受けた「新撰姓氏禄の目的」の一つでもあった。
そこで、この内の「宿禰族程度」までには、原則として「冠位を与える事」で更に「格式別」にして「細分化」した。
ところが、これも「歴史」が進むに連れてこれでは処理しきれずに次の様に変える事に成った。
つまり、これを「上位の姓」に対して“「冠位」”と云う「永代も含めた臨時的な格式を与える事」で、「格式化」で「細分化」をした。
それが、「十二階」から「十九階」に、「二十四階」に、「四十八階」へと「格式」でどんどん「細分化・格式化」して行く事で対応した。
だが、当にこれが「初期に起こった格式化の象徴」とされるものを生んだのであった。
そこで、「諡号の姓化」で先ず分けて、それを「諡号姓の原則」としては、「宿禰族」までの「上位の姓の者」だけに限定した。
「格式化」で「着衣も色分け」してでも、「当時の格式化で進む社会」を構成しようとした。
要するに、「身分化と格式化」の「二つの分類」で、「上級社会」を無理にでも構成したのだ。
そこで「当時の伝統」として「幸せを招く」とする“「八の一般原理・当時は」があってこれを利用した。
「反発を防ぐ策」としてこの「八の原理・中国思想」が選ばれて「幸運を呼ぶ数字の組み合わせ」として用いられた。
当時はこれが“「格式の伝統・習慣」”として存在していたが、これを使って「格式の伝統原理式」を以て、“「48*8=384」”にして分類にした。
この「身分化と格式化の二つの分類」は、「前者」はほぼ“「永代固定」”し、「後者」は「特権」で決めたが、これが所謂、“「応変式固定」”にしたのが「初期の身分化方式と格式化方式の経緯」だ。
これに更に「官吏の職能」にも、これを宛がう事とした。
「官位」をも新たに「下記の注釈」の様に加えた事で、これでも「格式化に反対」を受けたが、何とか「上級社会と官吏の格式化」だけは進んだ。

注釈 そもそも「上級官吏等の職能」には、資料的なものが何も無かっただけに「格式を分ける資料元の問題」、即ち、この“「資料元」を何処から持ってくるか”の編者たちの中でこの問題が持ち上がった。
何故ならば、「全国行脚して調べた実績の資料」が社会の中に纏められたものが未だ遅れていて無かった。
この「資料元」に依っては、「社会の格式の如何」が変わるからだ。
この「議論」が「三度の編者」の中で共に先ず持ち上がったと記されている。
ところが、この「議論の終着」は幸い簡単に着いた。
それは偶然にも次の経緯からそこに終着したのだ。
前段でも論じた様に、「格式議論を決定させるもの」が何と「伊勢青木氏」にあったのだ。
それを次に論じる。
「伊勢青木氏の始祖の施基皇子」が、長年を掛けて“全国行脚”して編纂して天皇に提出したのが「因事菅隷に基く撰善言集」であった。
これを「基礎」にして出来たのが、「701年の大宝律令」と、更にはこれを見直した「718年の養老律令」であった。
ところがこの資料の中には、“これを基に更に「官位令」も定めた”と記されていた。
つまり、この“「官位令」も定めた”という事は重要で、「位」、即ち、“「官吏の格式」も決めた”と云う事を意味しているし、それに匹敵するだけの資料が添えられていたと云う事を意味する。
この経緯の結論は、つまり“「位の情報を決めるもの」があった”と云う事を示していて、それが“「全国行脚で示す情報」と、「撰善言集で示す情報」の「二つにあった事」を歴史的に示していた事に成る。
判り易く云えば、「格式の元に成る地方の豪族の者等の色々な情報」が、「撰善言集を纏める事」に当たって“この「参考と成る記載事項が添えられていた事」”と云う事に成る。
判り易く云えば、・・の何なの地方の豪族には・・の撰らばれるへき「善い言葉・決め事」があったとまとめられていた集であったと云う事に成る。
この、「・・の何なの地方の豪族」には、この「‥」を「編集資料元として使えると云う事」を編者たちが云っていた事に成る。
取り分け、「淳和天皇の編集」の時に上記のこれが検討されていた事が歴史的経緯として読み取れる。
恐らくは、「光仁期の時、嵯峨期の時」のものも、この「淳和天皇の編集」の時の「未完成の侭のもの」が使われた事が判る。
それは、「姓氏禄の遺された表紙書きの添書」には、上記した様に「逸文散文乱文」の意味する処の“未完成の侭で遺されていた”からだ。
「自らの始祖の施基皇子の編纂」した「撰善言集」から、この「格式化の資料元を引き出した事」に成った訳である。
故に「伊勢青木氏の中」でも問題に成っていた事が読みとれる。
この時、「白羽の矢の問題」も直前にあって、一族からも“福家は何をしているんだ”と非難されていた事が充分に判る

つまり古来に於いて「社会」には、既に「本論の格式化」の「新撰姓氏禄の基礎地」が出来ていた事に成る。
この「意味する官位令」には、「皇族」が、「官吏」を務める場合は、「1から4の階級・品位1から品位4」があって、例えば、「臣下族」がこれを務める場合は、「1から30までの階級(位)・青木氏は一位」の格式」に分けていた。
然し、ここに「重要な問題」があった。
この「格式を定めた官位制」には、前段でも論じたが、ここには「固定された制度の社会に必ず起こる問題」があった。
それが当時、社会に「大問題」に成っていた“「世襲」”であった。
その「与えられた格式」を一族で永久的に保全して利益を努力なしに獲得しようとする「停滞社会」であったからだ。
そこでこれを改善する為に、先ずは「認可制・届出制」に変更にした。
その上で、“「三世代制」”に限定して換えて、先ず「社会の動きを止める悪弊」を無くそうとした。
然し、“適任しない者の出現の対策”として、先ず「族制認可制・届出制」にした。
ところが「停滞社会で育った者」である為に、ここで「能力なし」として「不認可の事例」が多く起こったと記されている。
「二世代者」や「三世代者」は甘やかされて居て「無能」と評価され「世襲認可の不許可事例」が多く出た。
「世襲認可の不許可」が出た家では、“これでは家が潰れる事に成る事”から、次の事が社会に蔓延した。
そこで、他所から適当な能力のある男子を「金銭」を以て探して来て、その「男子」に「世襲認可」が得られ得る様に、又、家に相当する格式を与えられる様に、先ず「格式のある家」に「養子の形式」を採って出し、その様にして次から次と家を廻して「格式と品位を着けさると云う策」を企てて、元の家柄を隠してでも、要するに“「猶子」"にして届け出て「認可」を獲得してなんとか「世代を継ぐ苦肉の策」の現象が蔓延した。
最早、「格式や血筋などの考え」は社会に薄く成ってやがて無く成って行った。
これが「源氏化で論じた格式を獲得する猶子策」であった。
何とかこの「猶子に依って認可を得た者」に対しては、これに「猶子」で得た「官職と位階」に応じて任命する様に厳しく変更したのだ。
最早、「源氏等とする格式」を「猶子」で獲得したとしても、殆どは、「調べようもない信用が出来ない格式の氏族」と成り得ていたのが現実であった。
この「猶子策」を盛んに使って「金銭と人気」を獲得しで「財と名声勢力」を成したのが「村上源氏等」に現れたと記されている。
「歴史の記録」を観ると、「・・源氏」と呼ばれている「源氏の殆ど」は、この「猶子策によって生まれた源氏」であったとまでされている。
ところが上記した様に、当然に「殆どの格式あるの家柄」では、「無関係の血筋の持たない猶子であった事」から、後に、途中でこれが下で「嵯峨期の新撰氏禄の格式化」は完全に崩れ始めて仕舞った。
そこで、「困った朝廷」は、次は、“「叙位に応じた制度」”に先ず変換した。
例え、仮に「猶子」であっても、“「叙位を受けた者」”でなくては、「世襲制度・格式は得られない」に乗れなく成ったのだ。
「可成り優秀な男子」で無くては、「世襲の認可」は受け入れなく無く成って行った。
その事で、「叙位にて保証される身分・格式と品位」が明らかに認められる“「皇位の者」”に限っては、この「問題」の「世襲制・原則三世代制」が認められる様に再び戻った。
ところが、戻したは良いが、なかなか“「皇位の者としての厳しい制限」”があって、この限りでは、“認められなかった者”が続出するのが「現実」であったと記されている。
そこで一つの典型的な身近な我々の族の例として、「近江の川島皇子の佐々木氏の後裔・市原王」は、「大仏殿建立の責任者の役」を、規則に沿って先ず「叙位」を受けて何とかこれを担ったが、“二度もその能力なし”として評価されて外された事が史実として記されていて、遂にはそれが原因か自殺する破目と成る身近な例がある。
前段で論じた様に、更に進む「源氏化の格式化」で、それに乗る事は出来ずに「近江佐々木氏の後裔」はここから現実に傾いた。
兎も角も、「格式化や身分化」を壊すものの一つのこの“「世襲制度」”は、“政治を腐敗させるもの”としても非常に「皇位の格式を有した官僚族」から嫌われていた。
以上でこれに依って改善を繰り返して出来た。
この「上記の体制の改善努力」が、しっかりした官僚で明治初期まで続いたのだが、これが下記に示すのが「二官八省一台五衛府制」に成ったと云う事だ。
隠されながらも社会に知られ利用され始めたこの「新撰姓氏禄の格式化」は、「猶子策や世襲制度の社会」を停滞させるものとして社会には無く成ったかに見られた。

注釈
「二官八省一台五衛府制」とは、参考として前段の歴史館に関わっている事から簡単に云うと、次の様な政治組織を云うが、本論の改善した政治組織の最終形である。
先ず、「朝廷には「斎蔵」の「祭祀」を担当する「官僚」がいて、其れが前段でも論じた「神祇官」と、大蔵の「国政」を「統括した太政官」が二つが置かれた。
これが「二官」と呼ぶ。
その一つの「太政官」には「実務行政を分担する八省」が置かれた。
これを総じて「二官八省」という。
この「一台五衛府」は、「行政組織」を観る「弾正台」と、「宮中を守る衛府・近衛府」が「天皇直轄組織」であった。
これが要するに「二官八省一台五衛府」である。
この「八省」の下には「職・寮・司」と呼ばれる「官僚の実務機関」が設置された。
これ等の組織が時代と共に変化して上記した「近衛府」を設置をした。
前段でも論じた様に、「青木氏の格式」で、この「近衛府」と「令外官」に関わった。
前段の「花山源氏」は、皇族が成る「令外官」のものでは無く、この「皇族の格式」を以て官僚が成るものでありながら特別に朝臣族の源氏族が「神祇官」に任命されたと云う事だ。

この様に「上記の注釈の制度」に依って網目の様に、その増えた「氏族と諡号姓族」の「在り方」を、「身分格式」に於いて、区別し判別して、それで始まる“「律・刑法」と「令の民法」の「二つの法制で国家」”を先ず安定させようとした。
其処に「国家の基本」を先ずは求めたのだが、ところが、肝心な事に「氏族」と「諡号族」と「姓族」の「3つの族の在り方」を「定める法体系」が未だ無かったのだ。
そこで、先ず、我々の始祖の“「施基皇子」”が、全国を歩き廻りその「法体制の基に成る事柄」を全国から集めて来て、これを「法作成の基本」と成るものとして、“「撰善言集・因事菅隷」”として作成して「天皇」にこれを正式に提出し表した。
当時としては何も無い資料元であったのでこれは「大功績」だった。
そして、これを「基本」に上記した“「日本初の法令の大宝律令」”が出来上がった。
以上の経緯からこれを基本に「嵯峨期」には上記の制度に合わせて造ったのが、要するに「未完成の侭の新撰姓氏禄」であって、更に世の中を更に“「格式化」”を推し進めてこれで図ろうとした
これを「一つの視点」として観る事が出来る。
その切っ掛けは「出自元の伊勢青木氏との関係」にあったと観られる。
これが出来れば、“いざ本格的に「新撰姓氏禄」で「身分の格式化」を決定づけて「社会の格式化」の「さらなる格式化を図ろうとした”のだが、ところが上記の様に「品位・格式」で、“「品位」は兎も角も容認するも、「格式化で決めつけられる事”の反発」が、“ある利害の絡む特定の上位の階級”に於いて噴出して社会に露出したのであった。
そこで、「夫々の諡号」に属していた「諡号の姓族」、取り分け、その中でも「上位の諡号姓族」に執っても、この為に「利益の差が生まれる事」を特に嫌って「反対の姿勢」を採り始めた。
この為に「2つの階級の社会の激しい抵抗」を受けて実現しなかった。
ところが、この「新撰姓氏禄集」だけが、「猛烈な反対」を受けながらも、その内容を詳しく知る為に何故か原因不明でどさくさに紛れて“世に漏れて出て仕舞った”のだ。

この“世に漏れて出て仕舞った”と云う事に、そもそも“問題”があるのだが、「青木氏の歴史観」としてこれをどう云う風に捉えていたのかである。
この「紛失の結果」として、これが“「正式であって正式では無いとする慣習」が「社会」に生まれて来た”のだ。
つまり、“「賛成する者」は大いにこの「格式」を前面に押し出すと云う「猶子策も伴った現象・格式を無理にでも獲得する秘策」が社会に生まれた”のだ。
中でも「源氏」が行う「源氏化の猶子」では、これを大いに利用したと云う事だ。
そこでこの「猶子策」の風潮を巧く此れを取り上げて、“頼政に上手く利用された”と云う事が記載されいる。
然し、この意味する事は、この「紛失したと云われる新撰姓氏禄」が、未だ“「朝廷内にあったと云う事」”に成る。
然し、掘り下げて考察すれば、そこで、将又、「突然の紛失先」がその「行政の元」を握っていた「藤原氏がこれを抑えていたのか」、将又、「嵯峨期以降の源氏」がこれを抑えていたのかに成るだろう。
然し、それを「利用して得に成る者・認定の権力を一手に握る者」としての「官僚族」と成れば、確かに「藤原氏摂関家に有った事」に成ろう。
つまりこの「紛失の道筋」は、その考えられる内容の一つが、それが「摂関家の道長」から「特別な格式的利益」を受けていたその「家臣であった摂津源氏頼光」から、最後はその「漏洩の存在情報」をこの「問題の後裔の頼政」にも伝えられていた事にも成ろう。
「一段低い格式の令旨の形」と成っていた「以仁王の乱」を興しても「味方を集める事」と成ると、より「味方」を多く引き入れる為には、先ずは「格式社会」である限りは、「自分の格式の高さ/最終・正三位」の程度」であったからだ。
然し、その「自分の源氏の頼政の最高格式」は「源三位」であって、「9つの縛り」を護らなかった「摂津源氏の格式」としては矢張り低かった。
「清盛」に依って「源三位」にまでさせてもらって成ったとしてもその意味する格式は低く、その裏には「満仲の三代罰の事」があったからだ.
流石に「一地方の摂津源氏」は、少なくとも身内に「四家制度」を造ってある程度は、「武装集団」も「道長の家来を借りての勢力」であった事から、大きく持たずに「寺侍程度」とし「9つの縛り」を護ったが、それでも乱を起して地方の武装集団を集めるには、矢張りそこには「伊勢青木氏の様な人」を集められる「高い格式とその財とその氏族の血縁集団・秀郷流一門」を味方に持ちたかったのだ。
そうする事で「いざ戦い」となれば「関西勢の人」を集められると考えたのだ。
そこで「伊勢と信濃」に血縁をしてでも求めて来たと云う事に成った。
結論から応じなかったが無理に求めて来たと云う経緯である。
それは「青木氏の格式」に有ったのだがその目論見は成功しなかった。
それは、「上記の政治構造」の、「注釈の組織・二官八省一台五衛府制」」を造る上でも、間違いなく「三つの紛失の新撰姓氏禄の存在場所」は、既に知っていた筈でそれを「参考とした事」に成り得て、知らないと云う事は少なくとも無かった筈だ。
そうでなければ、上記の「注釈の様な詳細な組織」は出来なかった筈であろう。

注釈 律令制では、「従三位以上」を「上級貴族とした。
「従三位」が「中納言」や「青木氏の近衛大将・浄大壱位」、「正三位」は「大納言相当」と成るが、「平清盛」はその「先き駆け」として「武士」として「正三位」と成り、最終的に「従一位太政大臣」と成った経緯である。
「頼政の頃の時代」には位はより一段下がっていたので「乱を起す格式」は無かった。

筆者は、ところがこれの「必要性」を政治的に認め「格式化を押し進めようとした三天皇」、即ち、「淳仁天皇・藤原氏外孫王・1」、取り分け、これを引き継いだ「施基皇子の六男の光仁天皇・伊勢青木氏の六嗣・2」と、同じ出自元である「嵯峨天皇・伊勢青木氏の曾孫・桓武天皇の子・3」の「三人の天皇」が、これに取り組もうとしたのがその表れであって、その「三人の意識」の内の「伊勢青木氏出自の二人」の中には、次の様な意識、っまり、“「過去・施基皇子」は、兎も角も、「白羽の矢の事件」で引き継いだ「天皇家継承の正統性を卑下する意識」”、又は、「天皇家としての格式意識の有無の疑義」がこの当時の社会の雰囲気として強くあったのではないかと観ているのだ
当時男系継承者が直系で無かった故に、「淳仁天皇・藤原氏外孫王」も云わば「天皇に成った後の経緯を考察する」と、「臣下族の藤原氏の男系血筋」としての「天皇家の正統性を卑下する意識」は同様にあったのでは無いかと観ている。
要するに「淳仁天皇・藤原氏外孫王」、の「新撰姓氏禄の取り組み」もここにあったと観ているが、その“「元と成った資料は果たして何処から持って来たものなのか」”の「疑問」が遺る。
その“「元と成った資料」の記録は何処にも記載はない。
筆者は、歴史的に唯一つ記録としてあるとすれば、そこで上記や前段でも論じた様に、“「施基皇子に依る全国行脚」の「撰善言集」にあった”と観ている。
そもそも「必然的に全国行脚の行為」に依っては、これは「絶対に獲得できて知り得る知識」であり、又、知り得なければこの「撰善言集」も共に成し得なかった事に成る筈だ。
これが「疑問の解決」に成るとすると間尺は合う。
故に「撰善言集にあったと云う事」に成るに依って、故に「編者を中心とした者からの歴史に残る猛反対」もあったと成る。
だから、この「三者共」に「編者・学者」からも含めて「隠して仕舞う程の反対」を受けていたと成る。
この要するに、この「三者供の悉くの全ての学者たちの反対」は、此の「撰善言集の施基皇子の調べた元資料」を「許可なくいきなり使う事」に「抵抗を感じた学者的な正義感の反対」であったと観られる。
この「元資料を仮に纏めるとした行為」は、元より「編者たちの仕事」であるし、今更の事で問題は無いし、[社会に格式を敷く」と云っても、これを嫌う反対の論調は、既にその前の「天武天皇や持統天皇や文武天皇」が進めた「八色の姓や冠位制度」などにもあって、兎に角も「貴族社会の反対」を受けても後に「社会」に充分浸透して進んでいる事実がある。
故に「多少の反対」はあり得た事を承知していた筈で、この「歴史的経緯の記録」を観れば、もう一つは、仮に“それ以上の格式化は無理だとしての「反対」も考えられるが、「三人の天皇に関わった編者全員の反対」であったとすれば、「格式化だけの事」でも無かった”とする説が生まれる筈だ。
とれば、それは一体何なのかである。
従って、故に新たに上記した様に、此の“「撰善言集の施基皇子の調べた元資料」を、「許可なくいきなり使う事」に「抵抗を感じた学者的な反対」があった”とする説が浮かんで来る。
然し、抑々、その「出自元の二人の天皇」は、「許可」を既に「女系化した出自元に求める事」は必要なしとして求めなかった。
前段でも何度も論じた様に、「史実」には「出自元・伊勢とは仲が良く無かった事」が記載があった。
だから「歴史書に載る程の仁明天皇の出自元への改善努力」があった。
確かに、「青木氏出自の二人の天皇以外」には、それ以後にこの「格式化に取り組まなかった」とする「史実」があったすると、これは「前段の格式化に対する反対」は、そもそも「“潜在的に強くあったとする前提の上での説」と成り得る。
故にその「反対の正体」が、“「新撰姓氏禄偏纂」”に起っていたと成る。
何故ならば、人は自由のある社会体制求める事は、「配慮の中」で常にある事は認めなければならない。
これはその範囲の反対であった事に成り、故に正式な発表と成り得なかった。

そこでその後の「青木氏出自系の天皇」には、つまりは、「天智天皇」は「敏達天皇の春日王の同宗四門族・ぎりぎりの正統族」と成るが、その後に“「天武系」が「正統族派」として認められていた事”に成った。
以上と「決めつけられた事」には、「正統系とする強い意識」には、二人には弱くする“未だ卑下が有ったのではないか”と観ている。
“「青木氏出自」が、仮に「天智天皇―施基皇子の裔系系列」の中に確かにあったとしても、一度は飽く迄も「臣下した族」に下族した事であった”と云う理由の事に成り、当時としては、又、既に「臣下族後100年近く」も経ち、且つ、「徹底した四掟に基づく女系族」に成っているのにも拘わらずに、“再び“天皇系だとして戻る事”への「「強い反発感や不必要な劣等感」の様なものが、既に「青木氏族」に醸成していて、「臣下族一族の氏族」には逃げ惑う程に少しは未だあったのではないかとかとも考えている。
所謂、当時には、既に“「正統派の天武系」ではないと云う劣等感”が存在していたと云う事だ。
それはそもそも、“今更この時に「正統継承ではない白羽の矢の事件」で天皇に成り得た”とする「卑下らしきもの」が「青木氏族の出自の者6人等」に統一して潜在的に有ったと云う事を物語っている。
「天武系の聖武期から孝謙期」に掛けて、“「正統な天皇継承者」が「皇族の中」に完全に絶えた事”で、「聖武天皇の跡目を継承した皇女」の“「孝謙天皇の突然の白羽の矢」で、再び「皇族列に引き戻された族」”と云う「周囲や社会の非難」とか、「怨嗟か嫉妬」とか、「権威性低下の主張」とか、が現実には強く世の中に起こった、又は非難の様な事が起ったのではないかと観ている。
つまり「四掟での女系化」で、既に100年も経っているので、一族の者は“完全に天智系の皇族系を恣意的に外していた”と思っていたと云う事に成る。
それが逃げ惑ったとする記録で証明している。
何故ならば、この何処の「氏族も敷いていない掟・四家四掟四門」、つまり、これは当時は「中国で敷かれていた貴族間の慣習」であって、それが、主に「天皇家」とは全く無関係に関わりのない様にする為に採用された「四掟の相手の関東の押領使の秀郷流一族一門361氏内・母系族」と、「青木氏氏族の伊勢郷士衆50衆」の「二つの女系」の中で先ず固められて行われて来たからである。
そもそも「血筋・血統」としては、「新撰姓氏禄」にも記載のある「最高格式の淡海一族」は、「四掟」としては採用していないものだ。
そもそも、この事の意味する処は、ここでも「前段から論じている淡海族の中途半端さ」がここでも噴出していたと云う事に成る。
その「淡海族」は、唯一の「天武系の直系族」であって、「男系継承」で当時としても引き継がれていた「後裔」であったのだ。
それなのに完全に切れている「四掟の女系の青木氏」に、「白羽の矢」は向けられたのだから、この「白羽の矢」には何か“別の意味”を持っていた事に成る。
この事は、前段でも詳しく論じたが、そうすると、この“別の意味”とは何なのかであって、その態々、「四掟」でブロックしていた「女系の青木氏」に向けられたのは、この「別の意味」とは、「表向き」は「天智系」とされていても「その青木氏の格式とその権威とその財」にあった筈だと成るのではないだろうか。
それ以外に「天武系の直系族の天皇」としては「白羽の矢」に成るべき所は何も無い。
然し、この「白羽の矢の裏の目的」の「財も賜姓の繋がり」も、「青木氏の出自の嵯峨天皇」は、更にこの「未完成姓の高い新撰姓氏禄」でも、これを世に出す以上はこの「青木氏出自の格式」を自ら切って仕舞わなかった筈だ成る。
これが、「自らの出自先の最高格式を否定する事」で、「反対者を黙らせる目論見」であったかも知れないが、それでも「反対」は治まらなかった。
そんな程度の問題では無かった事を意味する。
「白羽の矢」の直ぐ後に、「天武系の直系族の淡海族が存在する中」でも、直ぐに否定して来た。
この“別の意味の存在”の裏には、如何に、“「淡海族」が信用されていなかった事”が先ず判るし、その「行を物語る記録」も遺されている以上は知っていた事に成る。
つまり、「嵯峨天皇」も、結局は、“この事”を腹の中では事前に認めていた事に成る。
その“「青木氏」”を“賜姓から外す、つまりは、「新撰姓氏禄」から外す”のであれば、“「天武系の直系族の淡海族」に「賜姓」も「皇位族」も返せば良い筈だった”のではないか。”と判断できるではないか。
然し、それもしなかった。
それどころでは無く、前段でも論じた様に、“訳の分からない出自も格式も判らない前段で論じた「猶子の源氏族」に賜姓して仕舞っている”事だ。
それ故に、「社会」は何とか容認するも「法的」には反対されていたものを、「青木氏出自の三天皇」には、無理やりにも、将又、「天皇系の出自肯定」の為にも、“格式化を強引に推し進めようとした”のではないかと後勘からするとその様に推測できるし、それも「社会に出し方」が悪い。
「新撰姓氏禄」として「世に出す方法」が、普通なら「詔勅」として出すのが通常だが、これが「正式」では無く、意図して漏らしたのか、「編者等も含む反対者」の多い中で、且つ、「出す事」すらも含めて反対されていた中で、“世に出て仕舞った”と云う形になった事が「史実」だ。
これを観て、“嵯峨天皇が強引に未完成の物を強引に出した”とする「研究者の説」が多くいる中で、その逸文や乱文や散文さんを始めとして整理が出来ていない姓氏禄の資料」の中では、そう成っているのだが、筆者は「強引」では無く、「嵯峨天皇が慌てていた事」から、故意にして“漏らして仕舞った”と云う事では無いかと観ている。

注釈 上記の事は、遺された一部を観て見ると、「未完成と決めつけられている事」には、先ずこの「氏禄の範囲」は、「京と五畿内に住む姓氏」に限られている事だ。
ところが、然し、これも「全て」では無く、それも“「編者自身」が反対していた様子”として、そもそもその「氏禄の序」には、態々、自らが“未完成である事を書きこんでいる事である。
又、「編成」に於いてそもそも他に比較対象とするものがあって、それに対しての“新撰」”とする「意味」があるのだが、そう云う訳でも無く、全体的に“「編成」”そのものに「全体に乱れていた事」が読みとれる。
何か他にあってそれと比較しての事なのか、何故に「新撰」としたかも判っていない。
「撰善言集に対して新撰としてたとする説も生まれる。
更に、世に「出す集」としては「極めて逸文が多い」とされる事だ。
確かに、調べると「同じ表現」が一定せず「別の表現で書いる処」も見られ、「書」としては整理統一されていず、そもそも「未完成である事」が誰が観ても判るものと成っている事だ。
此の様に「歴史研究者が論じている事」には筆者も賛成が出来る。
個々に欠点を羅列して述べ立てる事の良し悪しは兎も角もどう見ても「乱雑と動揺」は認められる事は間違いはない。
「青木氏の歴史観」を論じるにしても瑕疵はないだろう。
当時は、「白羽の矢」と共にこの様な「新撰姓氏禄」は、「氏族の中」では前段の「源氏化や猶子策」などと共に、大きく揺さぶりを掛けられたものであり、「青木氏の歴史観」としてはこの様な「新撰姓氏禄」であっても論じて置かなければならない江戸期にも繋がる歴史観で重要な歴史観だ。
前段で論じている事でもあるが、普通なら、論じる必要もない「資料的な程度の録」ではあるが「青木氏の存在」と関係していたので敢えてもう少し詳しく論じて置く。

そして、「青木氏」は、「中国の制度」に習った「四掟一門制」を引き入れて、それを「伝統の氏是」として定めたが、その中に「古い系列の天智系を四掟一門の中」に「女系」ありながらも「全国に例を観ない程大きな氏族」として治めて、何とか「出自肯定・敏達天皇の春日王系の四掟一門」としてこれを確定させようとしていたのだ。
「天智天皇の四掟」としては“「敏達天皇系の春日王系の四門族」”がこれに当たる事から「天皇家ぎりぎりの系列」としいたと観られる。

現実にこの「史実」として、この当初は、この「白羽の矢」が「伊勢と信濃の青木氏」に当てられるより前に、この「天皇の継承者」に付いては数々検討されていた。
「白羽の矢」が当たる前は、最も、「天皇系に近い直系族」としては「天武系直系族四掟の淡海族」が文句なしに先ずあって、それを始めとして、「藤原氏の外孫王の模索」や「出雲大社の子孫・末孫」から探し出したと云う「三つの経緯」があったとして遺っている。、これにも「推進派同士の政争を含んだ大議論」が起こり、結果として強引にこれ等の本議論も青木氏の白羽の矢に成る前には霧消させている。
その事で「大政争」も起こっていたし、そもそも「淳仁天皇・藤原氏外孫王・舎人親王の七男・天武天皇の淡海族の直孫族」を引き出す事に一時は成功し「天皇」とは成るが、ところがその後に何故か「心変わり」した「孝謙天皇」に依って引き下ろされて、「淡路島・淡路廃帝」に「島流し」して挙句は「抹殺された上に廃帝の処分」を受けた。
其処までもしなくても「廃帝」だけでも「目的」が達せられるのには「島流しを受け抹殺された上に廃帝の処分」まで受けての「白羽の矢」に成って行った。
上記の所謂、筆者は、“「廃帝経緯」まで受ける必要が無かった”と検証されるが、逆に
此処に、“それだけの意味があった”のであろう。
当然に、「伊勢青木氏」に於いてもこの経緯に対して、それだけに「氏族の存続の危険性や大きな不安感」を感じていた事になろう。
それは伝えられている様に「第四世族までもの伊勢の者ら」は逃げ惑った経緯と繋がっている。
この“「廃帝経緯」”から、自分達にも何時何らかの理由を着けられて、“白羽の矢の族”には相応しく無い”として、又は、白羽の矢を飛ばすに当たって、邪魔だとして一族が何らかの形で“誅殺される事”も連想していたのではないか。
それだけにこの「政争」の“「廃帝経緯」”は、周囲に恐怖の様な強い印象を与え、何時吾が身かと連想させ“恐怖の印象が強かった”と観ている。
寧ろ、「理路整然とした政争」では最早無く、最早、全てが感情的に成って、“何をするか判らない行動にあった”のではないかと観ているのだ。
だから普通ではない事が、“伊勢では逃げ惑った事に成った”と判断している。
普通は伊勢中を逃げ惑う事は幾ら何でもしないであろうし、幾ら政争と云えど”馬鹿を装う程の事はしない”であろう。
この事に持つ“「特別な意味」”が大きいと観ているのだ。
それは、「伊勢」ではこの「孝謙天皇の人物感」に、“何をするかも知れない”として“余り信用を置いていなかった事”があったと観ていて、資料の分脈からそう読める。
それは、前段でも詳しく論じた様に、その後の「伊勢の経緯」で論じた様に、“「伊勢での井上内親王の事件」”を観てでも「孝謙天皇の人物感」は良く判る。
筆者は、“最も、「天皇家に近いとする資格」を持ち続けていた「天武系の淡海族」に、この「白羽の矢」を何故に当てていなかった事”に重点を置いている。
「天皇家継承」と云えば、“先ずは絶対的に正当な系列”から始まる。
そもそも、「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、前段でも論じた様に、既に「女系化」を進めていた時期でもあって、この「淡海族」と違って多く「伊勢衆50衆の血筋」も取り込んで入って融合化していた時期」でもあったのだ。
“どの様に考えても「白羽の矢」が飛んでくる”とは思ってもいなかったのではないか。
故に「伊勢青木氏とその氏族」では「白羽の矢」では無く、「黒羽の矢」であったろう。
だから正しい判断の“抑々の狂い”が、“「孝謙天皇の周囲」にはあった”と観ている。
それ故に、此の最終的に「臣下した事」や「天智天皇の第七皇子・施基皇子」の「子と孫と曾孫」の「後裔族」と成ると、この「格式化」が叫ばれている中では、「その格式の影響」は「藤原氏の外孫王の時」に比べればそもそも「100年以上も経過」していて低く成っていた。
且つ、そもそも「天皇と成り得る格式」は、“「基本とする帝紀」”からも見ても、その「資格・権利」は、既に確実に“「低く有しない事」”に成っていたのだし、誰しも考えていた筈だ。
努々、「伊勢氏族」は少なくとも考えていなかったと考えられる。
そうでなくては、そもそも“「商い」”は真逆の事である以上は出来なかった筈だ。
「淡海族・近江族」は、勿論の事、「信濃族や美濃族や甲斐族」も上記の様に、「帝紀」に沿って「血縁性の考え方・現実」に「乱れ」があった場合には、「白羽の矢の対象」と成り得ていたと考えられる。
取り分け、上記した「近江族の佐々木氏」は、勿論の事、「甲斐族」は別として、前段でも論じた様に“「美濃族」”も、「王位継承から外れた多くの皇子族を殆ど引き取っていた経緯」から観て、適当な理屈を着ければ「血筋格」と云えば「血筋格」であって、「伊勢や信濃の青木氏」よりもあった筈である。
況してや、「白羽の矢」を期待していた点でも、「嫌っていた伊勢の青木氏」より「美濃族」にもあった筈だ。
現実に「其の後の行動」に於いても、この“「美濃族」”は「時代の経緯」としても現実には其の様に振る舞った。
その意味では、期待していなかった「光仁天皇・追尊白壁王」は、実に「やりにくい所」はあったと考えられる。
その「意味」で「伊勢」に「白羽の矢・黒羽の矢」が飛び込んで来た事には理解できない事が今でもあるのだ。
それは、最早、明らかに「天皇家の理屈・伝統・帝紀思想」が崩れていた事に成り、故に「天皇家の理屈・伝統以外の処」で決められたと成る。
故にこの点を突き詰めれば、論理的には“他の者に無かったものに「焦点」が充てられていた事”に成る。
それが、特別に青木氏が持つ“「格式と権威とその財」”であったろうし、「その白羽の矢の理屈」は最終的に「青木氏の財」による「内蔵を潤す事」にあったと成る。
その意味では、格式は疑うべきも無く充分にあった事に成る。
そもそも、「天皇家」が「白羽の矢の理由」を「内蔵を潤す事」にあったと立場上は云えない事に成り得ていて、それ故に前段でも論じた様に“「前提と成り得る過去の格式」”は別であったと観ている。
当時の先祖達は、公の歴史には記録されないが、「青木氏の範囲」ではこの事を充分に理解していた筈だ。
それ故に、「前段で論じた嵯峨天皇の行動」は、“世間の間尺に合わない行動を採っていた”と云う事になる。

仮に「帝紀」や「大化基準」に基づき比べるとすれば、「純仁天皇・天武系の舎人親王系―皇位継承権有」>・・・>「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の数式論である事には間違いは無く、従って後に上記した「定まらない政争の中」では、「青木氏出自の六人の天皇」も「後刻の天皇」に依って「形式上の廃帝の処分」に成る可能性が未だ十二分にあった。
ところが現実に「廃帝の憂き目」を受けた「外孫王の淳仁天皇」には、「藤原氏系外孫王であると云う欠点」のみで、それは「当時の仕来り掟の中」では無く、結局は「社会」はこれを如何見るかに成っていたのであった。
この結果の「淳仁天皇」は、この「自らの欠点」を補う為に「格式化」を造ろうとした為に周囲から猛反対を受けながらも「最初の新撰姓氏禄の作成」に取り掛かった。
然し、「周囲の全ての層」からの「大反対」を受け、それを押してでも矢張り無理に編纂しようとしていたのだが、遂には、その為に“それをされては「権力の移動が起こる事」を懸念される”として、“これは拙い”として一度退位をさせられて仕舞しまったのだ。
そして「淳仁天皇に権力移譲」をしていながら、突然に「退位した筈の孝謙上皇」に依っては、「淳仁天皇の新撰姓氏禄の作成」も「天皇自らの立場」に対しても、「政治権力の無い上皇」から“思い掛けない反対”を受けて仕舞って、遂には「廃帝」とされた。
この経緯を受けて、これを観た「編者の三人」も類が及ぶとして皆逃げて仕舞い失敗する事と成ったのだ。
この事からも「孝謙天皇・上皇」も、兎も角も、此の様に、又、“世間の間尺に合わない感情的な行動”を採ったのだが、政敵は同じ出自であっても、「光仁天皇や嵯峨天皇」と「他の同じ出自の四人の天皇」から「廃帝の憂き目」を受ける可能性は無かったとは言えない。
何故ならば、それは「桓武天皇・平城天皇・仁明天皇・淳和天皇の同じ出自の四人の天皇」から「格式化に対して猛烈な反対・政争」を受けていた事から、「上皇」に成っていたとしても「帝紀」に沿わずこの前例がある以上はこれがもう一つの「帝紀の基準」と成り得て、「廃帝の危険」はあり得たのだ。
現に当に、「平城上皇」は「病弱を理由」に一時は譲位したとしても「病気は癒えた」として「嵯峨天皇の格式化・新撰姓氏禄偏纂論」に異論を唱えて来た。
この為に「政争の場」だけでは無く、「伊勢青木氏」と同然で、“世間も何が災いとして飛んでくるか戦々恐々としてびくついていた”のではないだろうか。
「信濃青木氏」のこの時の事を調べたが、「淡海族」には関係する処から読み込めば判る記録がある事は兎も角も、この時の事に付いての「詳細に記録や読み込める資料」は何も無く良く判らずにいた。
精々、「伊勢からの資料」に頼るのが現状で、恐らくは“有るのは有る“と観ていて、現在に於いては幸いに「研究が始められた事・公表」は判っていて、あまり広範に進んでいないのが現状と考えられる。
なかなか時代と共に難しくなっているが、兎も角もこの「研究」を待つ事にする。
筆者の歴史館的な印象では、伊勢と血縁も深く関わり経済的にも深く関係していたにも関わらず「信濃」には云わばこの件に関しては、それなりに“蚊帳の外”では無かったかと考えられる。
通常なら五家五流の一つである以上は、「話題の記録}には「記載」が有っても良いだろと思われるが、何故かそれなりのものは未だ無い。
何故なら、「伊勢」と“婚姻を進めている事”が「曼陀羅帳」でも判る。
それだけにこの件に関してはある程度に「信濃の余裕」が観られたと云う事だ。
一方で、だから「伊勢」も“「信濃」と同じ”と考えがちであるがそうでは無かった。
「五家五流」が創設された時の「信濃王」は積極的に前に出るタイプでは無く、「伊勢王とタッグ」を組んで生きて行く家の性格と云うか家の戦略でもあった。
この「信濃の生き方」はこの「源氏化」が進んでも全く崩さなかった。
当に「施基皇子が定めた氏の生きる行動指針の掟」、即ち、「青木氏の氏是」に相当していた様な気がする。

注釈
その比較対象として同時期の「三野王・美濃王」は、積極的に「天武天皇」に近づき、その“持前の優れた才格”を発揮して重用された。
その為に「冠位」は「小紫」までの詰めて長くその位に扱われた。
天武天皇在任中に、「帝紀」と「古事」を纏めて遺したが、これを更に「舎人親王」に命じて「日本書紀の編纂」となったが、此の「三野王」は他の者等12人の先頭に居て「各地の情報を集める事」を命じられて達成した。
その中には、何と「信濃王」が存在しながらも、これを無視してでも足元の「信濃の地形」など「信濃国全体」を調べる様にこの「三野王」は命じられており、それを調査して報告していると云う才能ぶりを発揮している。
然し乍ら、この「信濃」を与えるかの様にして命じておき乍らこの「三野王」に与えなかったと云う経緯を持っているのだ。
普通ならその記録に遺る功績から観て、そうしていたであろう事が厳然として判るが然しそうしなかった。
何故かであるが、それは片方に比べようもない位の“「伊勢の力」”にあって、「記録の状況証拠」から「伊勢と深く血縁関係に有った事」で出来なかったのだと観ている。
「新都の設定」の「候補地の各地の地形等の実情調査」にも派遣してこの「三野王」は大いに貢献した位である。
「三野王」も官僚と同行して、何度も「信濃国」に遣わされ、「遷都」に必要とする地形等を調べたとある。
この「才能ある功績」を評価され、これが次の「持統天皇」にも評価され、何と「三野王」は破格の「浄広肆位」に破格に叙され、人にも良く知られる様に成った。
そして最後は「筑紫大宰率」にも任命され大出世した。
此処に記している内容には実は大きくある意味を持っている。
それは対比される「信濃王」が、朝廷にどの様に評価され、一方、「三野王」はどの様に朝廷に評価されていたかは判る史実でもあり性格も判る史実でもある。
この時、「二代目伊勢王の施基皇子」も居たが、この史実の計画には出て来ないが、負けじと劣らず「別の朝廷の計画・政治構造の改革」に先頭切って「律令の基本造り等」に専念して記録にもその功績として「飛鳥浄御原令」を先ず完成させた。
其の後にこれに代えて「施行」に最終は「大宝律令」に持ち込んでいるし、改善した「養老律令」にまで発展させた。
その「努力」が詳細に「全国を行脚して各地の律令を造る上での参考資料」を集め、最終は「大宝律令の基本」と成る“「撰善言集」”を完成させ、「天武天皇」に提出し報告した。
その前に、「下記の事」を理解する上で知って置く必要のある大事な事がある。
先ずそれを先に論じて置く。
つまりは、ここにはこの“提出し報告した”とする「記録の文言」に意味があって、“それが「自前嗜好の考え」で編集した」と云う事では無く、「因事菅隷」に基く提出、又は、「特別令外官」に基づく提出、又は、「賜姓五役」よる提出の何れかであるが、この場合は、「記録の示す状況証拠」から間違いなく「因事菅隷に基く提出であった事」が判る。
それは、「全国行脚」と言う言葉に「判断の元」がある。
そもそも「施基皇子」とも成ると、「個人の事」で、都を離れ役職に大きな空間を造る事はあり得ず、「施基皇子の立場・浄大一位の者」が、勝手には持ち場を離れる事はあり得ず、格式上、「太政官の命令」は「格式上の上位」である以上は、届かず、間違いなく「因事菅隷による天皇の正式命令である事」に成り得る。
既に「賜姓臣下族・647年」で「官吏」では無い立場の者に、「官吏」を超えて「重要な意味のある命令」を出した上での事であった事を意味する。

注釈
「日本書紀」の「巻第三十」による記載にもあるが、「善言という書物・逸話集」を編集する官職として、「689年」に、「施基皇子・57歳」に「随行者」として「7人・文官」を任命して発足させたとある。
その目的は、「中国の南朝宋范泰」の“「古今善言」”に習ったとある。
初期には「皇族や貴族の修養に役立てる教訓的な史書」を作ろうとしたものであるとされたが、後に、「皇子の教科書」にも用いらると云う事が起った。
その「目的」は要するに広範囲に及んでいた事を物語るものだ。
それが後の「新撰姓氏禄の偏纂」にも「元資料」として使われる様に成ったものだ。
「記録」によると、初期には「641年から670年頃」までに「国内で起こった逸話や天皇などの遺言や逸話などを纏めたもの」を集めて、それを先ず「記録に遺そうとする計画」が起こったが、ところがこの「収録作業」は「目的範囲の非弱さ」により続かなかったものだ。
結局、この計画は解散と成ったが、そこで、その「施基皇子の撰善言集の一部」が「天武天皇の皇子の舎人親王」に渡り、「日本書紀の偏纂」としても、更には主に「帝紀」にも使われたとする説もある。
そこでその経緯は、一方でこの「教科書の解散」の後に、「天武天皇」は、この「正式な偏纂を改めたもの」を、それも“「身内の限定した範囲」”では無く、本腰を入れて「全国的な内容」にまとめたものを造る様に「伊勢の施基皇子」に命じた。
其れには「律と令の法体系の元」と成るものをも期待したとある。
それだけに「その取り組み」は「歴史を変える程」の「全国規模の詳細な物」と成った。
従ってこの「撰善言集」は調査初期からどんな物にも活用できる物と成っていた。
この「青木氏に関わる経緯」を歴史観として知って置く必要がある。

さて、元に戻して、故にこの「撰善言集の報告」を得てのその後に於いては、初めての「日本の法体系の基本」と成る「飛鳥浄御原令」を先ず完成させたと成った。
其の後に「撰善言集」を基本にした「飛鳥浄御原令」のこれに代えて施行した「大宝律令・701年」が纏められた。
そして、「施基皇子死後・716年」に、其の後、これを基に「施基皇子死後41年後」の「757年」に「養老律令」が完成して結実する。
このそもそも「基本と成る大宝律令」であり、更にはこの「養老律令」をも見直しているのだ。
此の様に「施基皇子」は、他にも「内蔵任務、賜姓五役、因事菅隷、院屋号、特別令外官」「殖産業任務」や「貿易業任務」を持つ等して、「経済面」にも比較する者がいない程に大きく「内蔵の役割」と「斎蔵の役割・神明社等」をも兼務して「青木氏の役務」を果たしていた。
そして、この「全国行脚」で、それまでに「全国の族の纏められた資料」が、これ以前には記録として無く、これで集められた「資料」が、「撰善言集の資料」の基の中に「各地の族の在り様の判明」が付随してあった事が判ったと成ったものであり、それが「編者たち・学者」の「新撰姓氏禄偏纂の資料元」と成ったと云われている。
ところが、その「施基皇子の姿勢ぶり」は「氏是の通り」で、「天下の名だたる歌人」でもあり「周囲の怨嗟」にも配慮して活動し、比較できる者が無い程に「別格の文化人」でもあって尊敬されて扱われていた。
それ故に、資料によると「伊勢郷士衆」にも「氏上さん」と呼ばれていたとある。
又、「政府の部経済の差配頭・内蔵」として、その「財」は「巨万の富」を獲得して「朝廷の屋台骨頭」を担っていた。
当時の実力は「別格者」でその「氏族の大きさ」も「比べる者」は居なかったとされる。

余談だが、上記の、「撰善言集」を基本にした「飛鳥浄御原令」のこれに代えて施行した「大宝律令・701年」が纏められたとあるが、これも施基皇子の提案によるものが大きかったと観ている。
これだけの「三つの書籍の完成」に「撰善言集が貢献した」とすると、周囲は無視する事は出来なかったのでは無いと観ている。
何せ上記した因事菅隷や賜姓五役等の役務の実権を持っている以上から観ても無視する事は出来ないであろうことが判る。

さて、話を元に戻して、この「屋台骨を担う施基皇子」と「美濃で精いっぱい生きる者」との差であった。
この「万能の施基皇子」に、例え「三野王」であっても肩を張って並べて来る者は居なかった筈な。
この「別格の施基皇子」は、「浄大壱位と云う天皇に継ぐ冠位の格式」を持って行動されれば、最早、「怨嗟など以て抗する者」はいなかった筈だ。
それ故に、何の計画にも参加しなかった「弱い信濃王」は、この「施基皇子の伊勢王」を頼って深く血縁し、「伊勢」と共に“「皇女族」を多く引き取る事」と成り”、そして“「女系の一族化」して生き延びる事”を選ぶ事が出来たと云える。
それも「当時の天武期」としては、これも否定では無い「青木氏族の一つの生き方」であったろう。
そして、歴史的に後勘から観て、この“「皇女族を多く引き取り”の策の事」に「大きな意味」を持っていた。
“「皇女族」を多く引き取り”は、「伊勢」と共に女系化するも、当時としては、“より皇族に物を言わせぬ策”でもあったと考えられる。
要するに世に出て強く成るか、内に秘めて強く成るかの違いにあったと考えられる。
“内に秘めて強く成るか”は、それは「氏族の辛抱」にあったと考えられる。
それが、その「信濃の裏打ち」をしたのが、「三野王」では無く「伊勢王」であったとも観られる。
この「信濃」に執っては「隣国」であり「積極的で有能な三野王に近づくと云う策」も充分にあったと考えられるが、「伊勢との繋がりがあった事」に此処に「意味」があるのだ。
唯、一説では、゛「積極的な性格の三野王」には、“「信濃国」をも掌中に入れる”と云う考えがあったとする説もある。
ところが「筆者」はこの説に賛成している。
何故ならば、「天武天皇の大友皇子との政争・壬申の乱」の時に、一時、「大海人皇子」は「三野王・美濃に向かった」を頼っている事もあって、「信濃の件」は“無視するほどの事では元よりなかった”。
確かに「天武天皇の三野王に対する命令」は其の様に観えている。
何故ならば、「信濃国」には「遷都案が出ていての調査であった事」からも考えられる。
ところが、「持統・妻で妹や伊勢王等の政治的な意見」がそれを阻止させたと観ているからだ。
「伊勢王」と違って「三野王」は、「大津皇子の乱を乗り越えた天武天皇」を「政治的に動かす政治力」はそもそも無かったし、唯の追随者に過ぎなかった。
ところが「伊勢王・浄大一位・最高位」には、「天武天皇の妻で後の持統天皇・姉」がいて「妻として天武天皇を側面から発言して政治を動かす力・持統天皇として天武死後に動かす」も「史実」としてあったとし、「兄の天智天皇の第七位皇子としての立場」を無視する事も出来なかった事も、前に一歩踏み出せない程に「三野王」には「圧力」と成っていた事であろう。
現実に「施基皇子」を「天武天皇の皇子」の一人として「川島皇子・天智天皇の第六位皇子」と共に扱われていた。
「三野王と信濃王と伊勢王の夫々の立場」が「歴史史実」として比較して観れば、如実に書き遺されているのだ。
それだけに「継承外の皇子族」を多く受け入れて、「三野王の発言力」を高めようとしたのもその一つであると観られる。
現実にしてみれば「堅実にこの継承外の皇子族を多く受け入れた策」は通常では「絶対的な強味」であった筈である。
その証拠に「天武天皇の大友皇子との政争・壬申の乱」の時に、一時、“「三野王・美濃に向かった事”がそれを物語っているのだ。
「妻の持統」は、流石に「美濃」に行かずに「適当な理由・疲れた」を着けて「兄の伊勢の桑名」に留まったのだ。
寧ろ逆に、“「皇女だけ」”を引き取る事に、“「妹の持統」が大いに評価していた事”を意味する。
この事は「三野王に対する一つの意味」をも歴史観として持っていた事だ。
この事でも「三野王と天武天皇の妻の持統との立場関係」はあまり良く無かった事が記されていてこの事が良く判る。
然し、それでも「伊勢王」は、逆に、“「皇女だけ」”を引き取りながらも、上記した様に、“それを遥かに超える力”で「三野行」のそれを阻止していた。
その背後に「信濃王が付き従っていた事」に成る。
歴史を観ても[伊勢王の施基皇子・668〜716とその裔系」に「青木氏の氏是」を定めていながらも、「政治力と格式と財力と権力に勝る者」は、「他の1000近い氏族」には以後平安期末期まで出て来ない歴史観だ。

注釈
「三野王」は「天武天皇の治政」に、所謂、「皇親族」として参加して信頼を獲得していたが、政治的に調べて観ると、それは「673年から686年の期間・天武期」に限定されていて、ところが、突然に「690年から697年・持統天皇」に成って、この時は、要するに「持統天皇の治政の時代」には、「三野王・708年の存在」は“「皇親族」”しても、且つ、「政治の場」からも何故か確認できない。
明かに恣意的に「政治の場」から遠ざけられている。
これの前兆が歴史の史実の中では、“天武系側が戦況不利となった「壬申の乱」の時の「三野行向」”の時に、「妻の持統一行」が、「兄の施基皇子の誘い」により「桑名」に留まって「三野行控えた事」の史実に通じ、これは、「天武後の政治の場」から“持統天皇から遠ざけられたもの”であり、ここで「三野王の皇親族の期間」はその歴史は終え歴史上から故に消えている。
先ず儀礼的に「兄の伊勢」を無視して通り過ぎる訳にもゆかず、兎も角も“挨拶代わり”に「伊勢桑名」に“立ち寄った”ところ、それは“立ち寄った”のではのでは無く成り、説得に依って“留まった事”であって、それは正しく“「施基皇子・716年」に忠告された事”は間違いはない事である。
それは「戦況劣勢の中」で、“「三野」に定住するかも知れない”とする「大海人皇子の逃避行」であって、場合に依っては、二度と会う事が出来ないと成れば先ずは「兄の伊勢桑名」に心情的にも立ち寄るだろう。
そこでの“立ち寄った”ところから、それは“留まった”事に成ったと観るのが順当な経緯論としての歴史観と成るだろう。
その理由が優れていて、其れは史実から“疲れた”とする記録であって、「三野逃避行」は当初から当然の事である筈である。
「立ち寄る」のであれば、「大海人皇子」も「伊勢に立ち寄る」であろうがそうでは無かったのだし、「施基皇子」は
「大海人皇子」よりの歴史的に記録にある様に中立を保っていた。
「立ち寄る事」は何の問題もないし、寧ろ、「皇親族」の中でも段突のキーマンとも成っていた施基皇子なのだから、“味方と見せて置く為にも立ち寄るべき策”であったった。
ところが、側を通過していながらも立ち寄ってもいない。
「政争相手」が「天智天皇大友皇子」である事から「施基皇子」も同じ「天智天皇の皇子」である事を懸念したとも取れるが、そんな事を云えば妻の持統もそうである。
史実として取り分け「施基皇子」は、「川島皇子・密告者」と違い「大海人よりの中立的立場」を保っていたのだ。
その為に、それは上記した様に、“説得により留まった”事に成ったと観るのが順当な経緯論としての歴史観と成るだろう。

注釈 「大津皇子と草壁皇子」は政治的に同格にて、「草壁皇子の皇位継承権」は無く成ったが、天武天皇崩御によって「大津皇子の親友」だった「川島皇子の密告」で「元皇位継承者と成っていた草壁皇子」によって「謀反」として「大津皇子が捉えられた事件」である。

注釈 壬申の乱の経緯
672年、近江宮山科で天智天皇は崩御した。
「太政大臣」と成って「大友皇子」が後継者として定まる。
この時、この事に依って「大海人皇子」は「吉野」を出てから、何と禁令の“「伊勢」の「名張」を焼いた”とあり、これは「謀叛の印と成った事」である以上は、「伊勢王の配下」の「名張郡司等」は意を汲んで「「大海人皇子」に同調する出兵を拒否した」とある。
ところが、この時、「禁令破りの謀叛者」と成って「形勢不利」の中で、「大海人皇子」は、「伊勢、伊賀、熊野」を先ず通過して、そして上記の「三野」に入って「態勢」を立て直し「周辺の豪族」を次々と味方に引き入れて形勢を立て直した。
この「勢い」で再び都に向かうとある。
この「勢い」で再び「禁令の不倫」を犯して「伊勢伊賀」に入り、ここでは遂には「伊賀郡司」は判断した。
「伊勢王は中立を宣言」しているので「伊賀郡司・伊勢王代理」を「味方」に引き入れた事に成り、「謀叛者の汚名」は消えたとし、ここで正式に「継承者としての態勢」を立て直して再び「近江の都」に入る事に成ったとある。
「伊賀郡司・伊勢王の代理」を「味方」に引き入れた事で「伊勢神宮参拝」が叶う。
要するに、この事は「謀叛者の汚名返上の仕儀」は「伊勢にあった事」が云える。
どんな人物でも「伊勢」で「大儀を獲得する事」が必要であったのだ。
その意味で、この経緯と成る為にも、「持統を桑名に留めさせる事」が是非にも必要であった。
「持統が伊勢に留まっている事」で、「大海人皇子は伊勢を攻める事」が出来ず、更には「謀叛者汚名返上」と「継承者のお墨付きの獲得」もこの「伊勢」で逆に成し得た。
これは「伊勢」とは、そもそも「伊勢神宮が存在する以上」に「天智天皇」に依って定められた「不入不倫の権」を持っていた。
これがある以上は、この“「不入不倫の権」”は、この「字ずらの意味する処」は、そこは「神が存在する地」として、“「攻めたり税を採ったりとする事」を禁止する事”のみならず、それは”普通の事では無いとする不可侵の裏の意味”があって、それが「神」を意味していた。
唯、“此処には神がいるよ”と直接云うよりは、“それを思わしめる事”に意味があるのであって、“故に神の宮が存在するのだ”と戒めている事になる。
これは「韻訓の古来の戒め方」である。
それ故に、「大海人皇子」は、「行きの名張」ではこの事に反して「火付け」をしたが、「帰り」のここでは「施基皇子」に「行動」を戒められ諭された。
それを戒めたのは、「施基皇子だから」と受け取って、天武天皇が「皇位/」に着いたそれ以後は、「施基皇子」を「特別扱い」をしたのだ。
「川島皇子の経緯」と比較すると「施基皇子の経緯」の「あり処」がこれで良く判る。
「施基皇子」は「兄の天智の皇子」であったが、「自分の皇子」に加えると云う“特別の扱い”をし、其の上で「天皇に継ぐ冠位」の「永代浄大一位」に叙した。
此の事でその扱いが良く判る。
これには「意味」を持っている。
“「伊勢」の「名張」を焼いた事”は、上記の意味で「施基皇子」は驚き、「持統」を「伊勢桑名に留め置いた事」と成った。
「留め置く事」で「天武を伊勢」に戻させて「謀叛者汚名返上」と「継承者のお墨付きの獲得」を「伊勢」で「天武・大海人皇子・702年没」にさせた事に“「この意味の経緯」”と成る。
それ故に「天武天皇」は、中立を保っていた「施基皇子・716年没」を、その後に前段でも論じた様に、“諭してくれる自分の兄”の様にも慕い、“「持統と自分の死後の葬儀委員長・造御竃長官」”にまで指名して重用する事に繋がって行くのである。
此の生前に「自分の葬儀委員長・造御竃長官」に任命すると云う行為は、そもそも“何者にも換え難い信頼感”を示している事に成る。
そこで本論に戻して、ところが、「施基皇子の事」のこの“「生き様の評価」”に、「反対説」を唱えて「源氏化説」を「イメージ良く推奨する歴史家」も居る。
然し、「上記の経緯論」を検証すればそうでない事が良く判る。
又、合せて「三野王の説・土岐氏」を特段にクローズさせている「土岐氏論の歴史研究者」も、常套手段として“「施基皇子の反対論」”を敢えて唱えている事をも知って置く必要がある。
その意味で、当時の「対比する市原王の無様さ」も明確に説いていて「川島皇子の裔の近江佐々木氏の論」は、史実に基づいていて、「自らの後裔」に関連してそこから「青木氏の事」も正統に説いている。
これらは「青木氏の歴史館」としてこの事も知って持って置く必要な経緯である。

さて、そこでこの特徴ある「五家五流青木氏」の「生き様」の中でも、「三野族や淡海族」の様に、「皇親族を利用する族」を政治的に利用して「一族の格式と勢力」を高めようとした「族・A」と、「伊勢族や信濃族」の様に「皇親族の中」に居ながらも、「一族の格式と勢力」を敢えて高めようとしなかった「族・B」とに分かれる。
そして、この「族・A」は「源氏化に走る族」と成り、「族・B」は「9つの縛りを護る族」と成る。
「族・A」の「源氏化に走る族」は、「新撰姓氏禄を求める族」と成り得たのだし、逆に、「9つの縛りを護る族」は、「格式化に繋がる9つの縛りを護る族」であって、「新撰姓氏禄の高い格式」」を元より保有しながらも「女系化」を図り、結果として「受け入れなかった族」と成った。
要するに、「族・A」の「源氏化」に対して、「族・B」の「女系化」で、「源氏化」は男系継嗣である故に、元より「女系化は無理であって、「源氏化と女系化の対立軸」を執っていた事に成り得ていた。
これは「不思議な歴史的な現象」である。
「族・A」の「源氏化」に対して、「族・B」の「女系化」であって、「族・B」には「猶子の現象」が起こらなかったのだ。
「族・A」の「源氏化」で「家の格式化」を図ろうとしたが、結局、前段で論じた様に、“「猶子策」”で逆に「家の格式」は低下させて「乱れると云う現象」を起した。
一方、「族・B」の「一定のルールに基づく女系化・四掟四門」である以上は、「家の格式」は「始祖の格式」で「一定を保つ事」に成って「乱れると云う現象」は無かった。
そこでさてこれは何故なのかである。
それは簡単な事に「男系と女系の差」にあった。
先ず、「男系」は「多くの特定されない女性・A」から「男子・A」を産み特定し、その中から「継承者」を定めて分流させ、それが再び「非特定の女性・A」から「男性」を産み出すと云う「繰り返しの継承方法」である。
ところが、「青木氏等が敷いた女系」は、「特定・四掟」でその「女性の範囲・B」を特定し、そこから必ず「女性・B」を求めて、その「特定の女性・B」らが産んだ「男子」が「継承する家・四家を継承すると云う継承方法}であり、この「特定の男子・四家」は他から求めない。
要するに、「四掟の範囲の女性族・元は四家の女性」と「その女性が産んだ四家の男子」の「婚姻・一種四家での同族血縁族」である。
依って「血液」は「四掟四門の範囲」に小さく限定され留まり、人種に必要な「新しい血液の介入」は「相手の四家先・女性は元は青木の四家の女の娘」から受け取る事に成る。
現代医学に於いても「女系族/人間遺伝子の女性継承」にだけ「人間のミトコンドリア」を引き継いでいる事である。
この事から「人の本種」は変わらない理屈である

注釈 そこで前段でも少し論じた事であるが、その「女系化の論理性の有様の理解」を深める為にもう一度、「ゲノムの塩基配列」で詳しく論じて証明して観る。
そもそもこの「染色体」とは、「塩基性の色素」で染色して観る事が出来る事から名づけられたものである。
これが「細胞分裂期」に「棒状の構造形態」を示すが、この時のものを云うが、「ミトコンドリアのゲノム」をも含めて「染色体」とも云う。
そこで、そもそも先ずこの「染色体」とは、「22種類の常染色体」と、「XとYの2種類」の「性染色体」に分類される。
此処で論じるのは、この「XとYの2種類」の「性染色体の事」を論じる。
そもそも「核を持たない赤血球」をのぞき、“「体細胞」”はこの「2倍体」で細胞分裂する。
「同じ種類の常染色体」を「2本ずつ」を持ち、「性染色体」も「2本」で構成する。
ところが、その構成形の「女性」は、「XとX」の構成とし、「男性」は「XとY」と構成の異なるもので構成する。
此処が重要である。
そして男女に「合計46本の染色体」を持っている。
ところがこの「生殖細胞」は、「2倍体の体細胞」と異なり、「1倍体」であり、「常染色体」を「1本ずつ」と、「性染色体」も「1本ずつ」の「46本中の「合計23本の性染色体」を持っている。
つまり「1細胞」当たり「約2000個程度」含まれている事だ。

例えば「女性のXとXの構成」としては、「最大で2000以上の種」に分類されると云う事に成る。
「性の異なる二つの生殖機能」の多くは、「二倍体 (2n) の体細胞」 と「一倍体 (1n) の配偶子」を持っている事に成る。
そこで“「雄由来の配偶子イ」と「雌由来の配偶子ロ」”が受精すると、「イ+ロの二倍体の体細胞の接合子、即ち,受精卵ニ」を持つ事になる。
この原理で、「体細胞分裂」を繰り返して「1個体」をつくりあげる。
すなわち、この原理で行けば「二倍体の体細胞」を有する。
この「2セットの相同の染色体」の内、「1セットは父親」から、もう「1セットは母親」からに由来する事に成る。
「雄雌の二つの染色体」で構成される事で「2Nの二倍体の体細胞」が出来る原理である。
比較参考に、「一倍体の配偶子」を造る為の「特殊な細胞分裂」は、「減数分裂」と呼ばれる。
この「減数分裂の過程」では、「母親と父親」に由来する「同じ染色体」は、「交叉して細胞分裂」を起こしてこの時に「遺伝情報を交換する事」に成る。
この様に「片親からの染色体」をそのまま「次の世代」に渡すのではなく、「世代を経るたび」に、「常に新しい遺伝情報の組み合わせた体」が幾らか渡され造られる様に成っているのだ。
従って、故に「カタツムリの様な無性生殖で増殖する種の多くの染色体」は「1セット」しか持たない原理と成る。
ところが「有性である人間」の場合は、「男性の持つX染色体とY染色体」の「二つを持つ配列」は、「その大きさや遺伝子の位置など」が異なる。
「Y染色体」と「X染色体」とが異なる事から、従って上記の男性の「減数分裂時の遺伝子の組み換え」は起こさないのだと通常はされて来た。
ところが、当初、「有性の人間の場合」は、この「減数分裂」で無いので「変異しづらい不活性なもの」とされて来たが、これを「覆する研究説」が現在に於いてこの説が生まれて其の事例が発見されている。
つまり、男性の「Y染色体」においても、何と「X染色体との自然交叉による乗り換え」が起こっていると考えられている。
つまり、「男性のY染色体内」で、「自身の遺伝子の位置が入れ替わっている事」が明らかになって来たのだ。
実際には、“起さない”と考えられていた「男性のY染色体の変異」が、比較的に頻繁に起きている事が判って来たのだ。
つまり、「女性のX染色体との交叉」を起さない場合でも、「男性のY染色体の変異」で、「女性のX染色体との交叉」に代わって、独自に興すと云う事が解かれる様に成った。
これは俗に云えば、直接に「女性が少なく成った事」、又は、「激しい気候変動の事」で、「人口変動」が起こり、それをこの「ゲノム」が察知して、それを補う為に「ゲノム」で「性的」に察知した為に、「起る筈の無い変位」の「男性のY染色体の変異」が起こったと云う事に成る。
そもそも、当初は「二倍体の体細胞」の「男性のY染色体」は、子孫存続が難しく成った為に「一倍体の女性体X X」から、「細胞分裂」して「男性体のみ」を外に生み出していた方法から切り替えて、「子孫存続の為」に選んだこの「男性の生殖方法」を「女性の機能」から特別に外に切り離した。
その為に本来は「二倍体の体細胞の分裂」を興して「無精の自然交叉」をして「女性のX」を「Y」に特別変位させて「雄の媒体」を作り出していたも。
それ故に、その「Y」が独自に元のXの女性に変位させたとする現象である。
現在では「部分変位」で留まっているが、故に何時しか「無精の交叉」が起こることが予想されている。
更に「女性が少なく成った事」、又は、「激しい気候変動の事」で、女性の人口減少が更に進めば何時しか「無精の交叉」で完全変位が起こる事が予想される。
「男性から女性化が起こると云う事」を示唆している事に成る。
兎も角も「子孫」を遺す為に「男性の遺伝子」がその役を一時的に仮に務めると云う事である。
要するに、これは「女性の男性化」か「男性の女性化」であるが、これは「ゲノムの女性のXとXの配列」には、「XとXの配列」である以上は、そもそも「同じ塩基配列」である以上は、「変位性が無い事」から、「男性のYとXの染色体配列」から「変異性のあるY」が、「ある事情・環境」で特別に元のXに変位したものである事に成る。
「男性の女性化」であって「Y」が特別変位したものである事が判る。
そもそも「男性」は、元は「女性」が「X」を「Y」に変化させて出来たものであって、その「変位の名残遺産」として、「女性のみが持ち得る4つのパーツ」を「男性」に移して未だ持ち得ている。
この4つの部位が突然に状況変化によって変位する「Yの媒体」である事に成る。
これは明らかに「女性からの変異であった事」を示すもので、故に、単独に「Y配列を持ち得ている事」に成る。
この「新しい学説」の「男性の女性化」では、この変位して出来た「Y配列」が逆にも元の「女性化」に変位しさせたものと成り得る。
つまり、この「男性のY配列」が、「女性の配列変異」と「男性の配列変異」の両方を興すものである事に成る。
この「新しい学説」によれば、その「外観」からは、その「見分け」がつかず、「性器」は其の侭の「女性器」にあって、然し、その機能はそもそも無く、「内部の女性ホルモンの分泌」は「本来の女性の持つ45%」が、「25%」に変化したに過ぎず、逆に「男性ホルモン」は「45%であった」とし、「卵巣」が「精巣」に特化していたとする現象である。従って全く女性が女性の性器に男性の精子を分泌をし逆転していいたとする例体と報告されていて、現在では4例が見つかっている。
要するに「人間本来の女性ホルモンの分泌25%」は「Yの変異性保持」に依って逆転し、「卵巣の性機能」などがそもそも無く、内部で「男性機能のパーツ」に入れ替わっていて、「子宮」は僅かに縮小して存在し、「精子」が「卵子」の如く「卵巣の位置」にある「精巣」から生理の様に分泌され、その後に一定期間後に子宮外に流されると云う実例である。
この事例が現実に何故か特定して人種が出現したとされるその「アフリカ」で多く観られる様に成ったとされるのだ。
この事から、つまり、「女性が持つ変位」を起さない「X Xの塩基配列」の「2000種以上の中」から同じ特定の配列を辿れば、その「人種のルーツ」に辿り着けると云う論理である。
然し、何時の世かこの「特異現象が」起こり続ける事では「ゲノムに依るルーツ」をたどる事は出来なく成る事を意味する。
これは上記した様に「変位し得ないX X」の時の「塩基配列」に限られる。
逆に云えば「変位性を持つY」が、もっと云えば「変異性の持たないX」が「ある進化の意思を持った突然変異」によって「Yに変位したもの」であるから、従って、僅かながらも「進化の存在」は別として「Y」は常時に於いて変位する事に成り得る可能性を持つ事と成る。
故に、この「Yの配列」を持つ「男性のゲノムの追及」に依って「女性だけによる種の追及」は今の段階では可能と成り得ている。
上記の「男性のYの特異現象」が起こり続ければ、「変位」によって異なる以上は今後その「ルーツを追求する事」は出来ない事にも成る。
この「ルーツの追及」は「変位性」を持たない「女性のX X塩基配列」によるものと成り得る。
この「変異性」を持つ「Y Xの塩基配列・元はX Xの塩基配列」は、そもそも「X X」で「X」で同じである以上は、「変位性」は無く、元来より海から上陸する前の男性では「Yと云う変異性の配列」に成っていた筈だ。
故に、この「男性の変異性を持つY Xの配列」では、今はその「人種のルーツ」は追えない。
そもそも「人間の場合」は、「女性の配列のX X」の「配列の内のX」を「Y」に変位変換させ「一つの役割」を持たせて、「変位させて子孫を多く遺す方法」を選択した。
従って「この世の生物」には、「4つの生体で子孫を多く遺す方法」が存在する事に成った。
先ず次の通りである。
「人間などの哺乳動物」が持つ「雄雌の二体性による方法・A」
「貝類やカタツムリなどの雄雌両性体・B」
「一性体」から時期に応じて体を雄雌に分離して子孫を遺す方法」の「ミミズなどの雄雌分離体・C」
元々、「雌雄の性体を有さない細胞や菌類等の生体・D」
以上に依って現在も成り立っている。
つまりは、「子孫存続の為」に「アミノ酸のDによるものからの変位」に依る進化である。
この「Dの集合体」が、「集合固体化」によって出来た「Aの哺乳類」は、元々はAによるものからのものでは無く、BやCの変化を種々に繰り返す内に、その「環境」に適して「より子孫を確実に遺せる方法」へと変位変化したものである。
つまり、上記した様に「環境変化」に依っては「A」」に於いても、これからも「Yを変位変化させる事」があり得る事を示している。
云うまでも無く、今、急激に起こりつつある「気候変動」も、「Yを持つ限りその変位・変化」を起させるその要因と成り得るのだ。
その意味で、これは「Yの大きな意味のある進化の研究結果」である。

上記の注釈の通り、この「理屈」で行けば「四家四掟四門に基づく女系族の青木氏」は、「人間本来の遺伝子の族・Aタイプ」に基づく「X Xの塩基性配列のゲノム」を持つ婚姻をしている事に成る。
それも「7つの融合民族の構成によって成り立っている日本人」である以上は、その「2000以上の範囲」の中では無く、もっと「極めて狭い範囲の四家四掟四門の範囲」で血縁している。
「青木氏」は、上記した様に「変位し得ないX Xの時の塩基配列」に限られた「狭い血縁状態」と成り得ている。
つまり、これは当初の目的通り、「女系に於いての純血性」を「令和の時代」に於いても未だ保持している事に成り得る。
唯、この「四家四掟四門の女系制度」が終わった明治35年以後は、上記した様に「変位し得ないX X」の時の「塩基配列」に限られたもので、「四家四掟四門のルール」が崩れ始めた事である。
「別のX Xの時の塩基配列の種」が入った事に依って、「青木氏の種の範囲」が確かに広がりつつある。
それでもそれから「135年後程度」とすれば、「女系の母親」は「2〜3代数」に限られている事により、この事から現在でもかなりの「四家四掟四門女系による純血性」は、薄れたにしても「純血性」は高く保たれている事には成る。
仮に「ルーツ」を今でも「ゲノム」で追うとしてもそう難しい事では無いだろう。
依って現在でも、未だ「奈良期の四掟四門四家の女系」に辿り着けるのではないか。

そこで「新撰姓氏禄の持つこの格式の意味」からしても、将又、同然に「光仁天皇」は、「・・・>「施基皇子・天智系―皇位継承権無の数式化」に表させられる事で、無理にも「ある特定した階層」に「格式化」を造ろうとした。
この為に、又もや「大反対」を受けたのだ。
それは、「当時の社会」では、「男系による格式社会」では無く、「女系による格式体系の社会」を造り上げるべきであるとする方が、「中国を見習う事」として良いと考えられていたらしい。
この当時は「男系一辺倒」では無かった事が資料の行から垣間見える。
現実に、故に「天皇」はこの「飛鳥・奈良の時期」に「女系」が特別に多く続いたのである。
この中でも、「持統天皇と称徳天皇」は女性的で個性的な実政を敷いた。
この事が後の「政治に大きな影響」を与えたが、下記の注釈の通り、「格式や習慣や伝統や掟」に拘らない自由でその場での「直観力」を駆使して感じた事を「考え方」として出して来たのだ。
それは「事の良し悪し」は別として、「男性の本能から発せられる論理主観論・イ」では無なく、「女性の本能から発せられる個別性の感情主観論・ロ」であった。
それだけに最も「安定性の強く求められる政治の場」に於いて、著しく“混乱”を招きそこを「宗教力」に付け入られたのだ。
これは「上記の注釈」に論じている「ゲノム理論」からも、「論理主観論・イ・男性」と「個別性の感情主観論・ロ・女性」で証明される。
この為に「神」は、この“二つの主観論で世を統治する様に”、「女性のX」を変位させて「男性にして変異性のあるY配列を持つゲノム」を持たしたのである。
この「神が成し得た女性の感情主観」による「不安定さ」を無くす為に、「判断・特に政治」に於いて「格式化を促す必要性に迫られた事」に成る。
これを「新撰姓氏禄」で表して、その「思考に依る判断範囲」を格式毎に決めたとする。
先ずは「格式化で主と成るもの」を「男性の論理主観」で決め、そこから「女性の感情主観」を排除し、その「判断の差の不安定さ」は、その重要度から「格式の上位から決める方法」を考え出したのだ。
それが「格式化の新撰姓氏禄」であったとされるのだ。
それだけに「判断の自由さが限定される事」から、上記の「反対運動」が「格式の各層」から受けたのだ。
「この反対運動」に「宗教力が食い付いた」と云う経緯だ。

注釈 因みに女性天皇には次の8人がある。
女性天皇は10代8人
・飛鳥・奈良時代
推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇、
・江戸時代
「明正天皇、後桜町天皇」である。
そもそも「帝紀」に依れば「天皇は必ずしも男子、男系」とは明記されていない。
鎌倉期より「男子、男系」が「公然の史実」として認められる様に成ったが、それは、「戦乱の世」の「変化の名残の継承」によるものが多い。
然し、上記の様に「天皇の地位」に於いてもこの時代は「女性の活躍」は目立つものがあり、「飛鳥・奈良時代」の中では、「商人などの一般の社会」でも「女系・女性」による「商人などの活躍」は資料や記録からも散見出来る。「古来中国貴族社会の影響など」もあって未だ「女性」は求められ認められていた。
この頃からその「活躍の場」は、そもそも“「政所・まんどころ・台所」”と書いた。
「政治の差配」から離れ、「家や氏の内部の差配・政所」に「特性・X Xの塩基配列」を生かして限定される様に成って行く。
「新撰姓氏禄」で「男性による格式化」を結局は招き、この事で女性は「排除された政治の場」から、“「政所・まんどころの範囲・台所の差配」と限定される様に成った。
「後・江戸期」に、この「政所・まんどころ」の意味は、「政治の場の事」として呼ばれる様に変化したのだ。
「新撰姓氏禄の反対」は、この「女性の政所・まんどころ」で、一部は改善に向かう事に成るが、主体は「男性の政所の格式化による限定」にあった。
然し、「男性の政所・まんどころでの解決」は未だ成し得なかった。

注釈
何故に「女性の天皇が嫌われたかの理由」は、「斎蔵の京中の祭司を行う内掌」で、それを務める「役人の伝統・掟」の事から来ているが、何処にも「定め」としては明記されていないのである。
これは「単なる官僚の作業要領」に記されている事に過ぎず、そこから来ているのである。
「宮中祭祀」に限りこの「伝統を重んじて護ると云う習慣」が「官僚の中」では古来より出来ていた。
故に、「官僚」のみならず「天皇」に於いても「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる「習慣」を造り上げて仕舞った。
この「宮中の祭殿」に限り「祭祀に斎蔵の内掌典・祭祀を司る規則を知る女性役人の事」は、例えば、外出時には「下界の穢れ」を宮中に持ち込まないよう「専用の衣服に着替える」までの徹底ぶりであった。
故に、最もこの「内掌典の考え方」を用いられたのは、それは「死」の「穢れ」であるとされた。
そこで、「女性の内掌典の務め」の中でも「身内が危篤」に遭遇した場合は、直ちに「宮中を離れる事」を求められた。
この「斎蔵の官僚の女性の考え方」が行き過ぎて「天皇の地位」にまで適用される始末と成った。
然し、この事は「帝紀などの物」には何も記されていない。
これ等の事は「穢れに成るとする考え方」が強く起こり、最悪はその着用していた官服を処分すると云う徹底ぶりで有ったらしい。
因みに上記した「ゲノムの論理」で行けば優れている筈なのだが理解されず「女性体の性現象」さえも、況してや、「子孫存続の出産」や「それに付随する生理現象」にさえも「穢れ」と見做される有様と成った。
これが進み更に「神道」にも、この「強行過激的な考え方」が浸透し、これは「穢れ」であると決めつけられて、これを「仏教」にまで結び付き,それを“「魔気・まけ」”と呼ばれ、“「魔気・まけ」”、即ち、「最も穢れた状態」と見做されるまでに至った。
そこで「天皇」は、「政治王」のみならず「祭祀王」でもあり、歴史的に見るとその「最も重要な務め」は、この「内掌典の考え方」を押し付けられて、先ず強引に「神事」であると決めつけられた。
それが「穢れ」であるとされる様に発展して、「女性女系」は「天皇の地位」にまで避けられる事と成ったのだ。
これは「女性の内掌典の考え方」でありながらも、そこで「女性天皇」であるとして、この「穢れの生理が定期的に生じる事」を以て「女性の天皇」は次第に避けられる理由と成って仕舞った。
結局は、「女性の内掌典」が「女性の天皇」を「穢れ」であるとされるに至ったと云う経緯である。
取り分け「江戸時代」に於いては、この「穢れの考え方」では「天皇継承問題」に於いて「男性継承者が無いと云う事」が起って仕舞った。
そこで止む無く「女性の天皇」が生まれたが、「女性天皇による祭祀」は、「形式的なものであって不十分な形で行う様に成って形骸化した。
然し乍ら、「地方」に行けば、昭和の初期頃までこの「魔気・まけ」は、“まけが住む”等として、「平安言葉としての方言」として、関西域に遺されていたが、決してその意味は“「穢れた状態」”ではなく、「仏教の人間が持つ本来の汚れの戒め」として、その「習慣の中」で用いられていた。
筆者などが聞いた中では、「トイレや台所などの周りの清潔さ」を保もたないと「魔物・まけ」に取りつかれる等としての「戒め」として聞かされていた。
その為に、トイレや台所には「魔気・まけ除け」の木札などを着けた。
依って、これは「仏教の得度や神事の説得」の指導者等が此の考え方を利用して、その勢力を政治に反映させて「権力の獲得を策った事」が判る。
この「考え方」が歴史的に強行に実行されたのは、「宗教・神教・仏教の政治への介入時期」に強く持ち込まれた事と一致している。
遺された記録の中に「桓武天皇」は、「遷都」を2度に渡り行い最終は何もない地の「平安遷都」と成ったが、取り分け、「宗教政治」を行っていた「称徳天皇等」の「飛鳥の地」を離れ、この“「宗教・・神教仏教の政治への介入」”を嫌って「遷都」を行ったと云われている。
恐らくはこの「穢れ思想」は、この遷都前のこの時に持ち込まれた考え方では無いかと思われる。
そうすると、“「称徳天皇」は自らの持つ「魔気・まけ」を認めていた事”に成るし、「桓武天皇」、又は、この「神教仏教勢力を嫌っていたとする“「藤原百川」等”に、積極的に推された「白羽の矢の事件」であったとされ、「光仁天皇」が、前段でも論じた様に、先ず「神教仏教勢力排除に移った」と云うする経緯にこの「歴史の経緯の間尺」は一致する。
「桓武期」から「女性女系の天皇」が出ていないのもこの事から頷ける。
この事からも「魔気・まけ」に拘わらず「中国の貴族間の慣習」に真似ていた「青木氏に於ける四家四掟四門の女系氏族」が、この時からも、上記した“人間が持つ本来の生殖能力に基づく形”で進められていたものである事も頷ける。
「神明社や密教清光寺の神仏道の考え方」を「氏族の中」で持つものとして、その中で“真実を探求する考え方”が相当に進んでいた事が頷ける。
それが「四家四掟四門制度の女系族」を保つ「独特なエネルギー」と成っていたと考えられる。
それが単純な期間では無かった。
“「宗教・・神教仏教の政治への介入」”が、政治の進捗と方向を歪めるとしてそれを「新撰姓氏禄の一つの効果」として「三代の天皇が期待して進める事と成って行くが、これも紆余曲折して進める事と成ったが「社会の反対」を受けて失敗に終わる。。
これは前段から何度も論じた事に成るが、概して次の通りである。
前提として、そもそも「原本」は無く表紙のみのもので、其処から研究でこの様なものであったろうと推測した。
「逸文・祖語・散文・乱文」が多くあって決めつけられるものではなく「元資料の侭」とされている。
現在の筆者の研究では大まかに下記の物と成る。

そこで先ず「皇別」を先頭に分けて編集する事に成った。
これを更に二つに分けた。
格式の筆頭には、下記の通り「皇別」を置いた。
「天皇家から分離したとする氏族」を、先ずは全体を「335氏・28.3%」とした。
その内、「真人族」を「98氏・29.2%」、「朝臣族」を109氏と、「真人族から賜姓臣下した族19氏」を「118氏・35.3%」の計226氏とし、 その他の「109氏・32.5%」と成るとした。
「問題」なのは次の「404氏」である。
その「神代の代」から深く政治に深く関わった経緯からこの「404氏族の宗教力」にあった。
この「404氏族の宗教力」は、「単なる宗教力」では無く、上記の「皇別に血縁的に関わる宗教力」であった事に「真の問題」があったし、無視できない程にその「子孫勢力」は大きかった。
そこでその「神別」は次の様だ。
「神別」
「神別」とは、「404氏・34.1%」は次の様に三つに分けられる。
これは「神武天皇以前の神代に生じた氏族」の事である。
404氏が挙げられる。
「神別氏」は、次の三つに分けられる。
「天孫降臨した際に付き随った神々の子孫」とされる「天神族・A」 60.9%
その後に「規定の3代の間に分かれた子孫」を「天孫族・B」 31.9%
「天孫降臨以前から土着していた神々の子孫」を「地祇族・C」 7.4%
以上とした。
以上に「3分類の力分布」で構成されていた。
「天神族・A」に分類された氏は、「藤原、大中臣、巨勢、葛城、物部氏」など246氏
「天孫族・B」は「尾張族、出雲族」など尾張や出雲に分布する128氏
「隼人系の隋系渡来人の200万人を構成する氏族」は、前段でも論じた様に皇別との血縁にて拡大した事で「天孫族・B」に組み入れられる。
「地祇族・C」は政権を構成する初期の飛鳥の初期に朝鮮半島から渡来した「安曇、弓削・気比」など30氏
以上がある。

この上記で「論議した問題」は、この「神別の中」でも、「天神族・Aの氏族」が古くから深く政治にも血縁的にも介入していた事に依って、この「絶大にして影の勢力から逃れる事」を目的とした。
これ等の大勢力とは、「全く影響を受けていなかった施基皇子の裔系出自の天皇」はその柵から逃れる事が出来たのだ。
「血縁的」にも「政治的」にも「経済的」にも、何にせよ中でも「血縁的にも関係を受けていなかった事」から、それだけに「思わぬ白羽の矢」で、より政治を行うとして鬱陶しく感じられて、排除に移ったのではないか。
中でも「血縁的影響」が、その「排除の目的・井上内親王の事件等」で、その上で「煩い天神族・Aの氏族」を排除を試みていたが、中々思う様に行かなかったと云うのが、「真の経緯」であろう。
そこで、先ず、これ等の勢力を遠ざける為にも、「神別」として“「括り」”を造り、その役職で活動を制限し、「政治への口出し」を減らした。
更に、それらの「神別としての格式」を下げて「政治」から遠ざけた。
それを「真人族・98氏」と、「単なる朝臣族」と「賜姓臣下族の朝臣族の118氏」を「2つに分断」し、これらの「神別との血縁性の関わり」を「皇別・真人族」に対して弱くした。
それを「単なる朝臣族」と「賜姓臣下族の朝臣族の計118氏」を、この「118氏」より一段づつ「格式」を下げて、そこで「特別に格式」を造り、「一定の役職にのみ」に「神別の関わり」を抑え込み、限定させて封じ込めて「政治」から直接的に引き離そうとした。
それが「新撰姓氏禄の格式化の策」であった。
それだけにこれには「大きな矛盾」が生じた。
そこには、“「皇別」とは深く血縁を持ちながらも”、その「扱い」は、最早、「皇別」では無く、「神別」として「彼等の格式」を「合計三段」も下げて、且つ個別にして全く外して「総合力」を削いでいたのだ。
これが、前段でも論じた様に「花山天皇の神祇官の賜姓」に通ずる。
それが、上記した様に「編集」に対して各層から強く反対を受けた事の理由に成り得た。
「花山天皇」は、歴史的にこの「新撰姓氏禄の策の神別排除の策」を知り得ていた事に成る。
「青木氏」としても、「四家四掟四門の女系の制度」を設けて、この「皇別」の二つのみならず「神別の血縁的影響」をも避けた。
それ程に上記した様に「神別の穢れ等の考え方」の「政治の浸透」は激しかったと云える。

参考
335+404+326+117=1182 関西域と中部域のみ
「諸蕃・全体比 27.5%」は参考として次の様だ。
「諸蕃」の「姓」と「氏」とは、主に「渡来人系の氏族」で、「326氏」が挙げられる。
「諸蕃氏族」の中には、次ぎの飛鳥時代までに渡来した「朝鮮半島系」の5分類もある。
「百済系渡来人」として104氏、31.9%
「高麗系渡来人」として41氏、12.5%
「新羅系渡来人」として9氏、2.7%
「加羅系渡来人」として9氏、2.7%
「漢系渡来人」として163氏、50%
以上それぞれ挙げられる。
然し、ここにある「漢族」も上記の「百済」、「高麗」、「新羅」、「加羅」に組入れなかった「朝鮮半島系の氏族」である。
その経緯では、「坂上苅田麻呂等」は、「東漢氏の先祖」である「阿知使主と阿多倍王」を「漢」から来たと決めつけたが、史実は「漢」に滅ぼされ滅亡したとする「漢から追われた将軍・王」が独立して「東の隣国」に建国した「隋国」である。
この「隋」も618年に再度この漢に追われ「200万人の職能の民」を引き連れて「大和博多」に上陸し関西まで無戦で占領するも、後に伊賀の国を半国割譲を受ける仕儀と成った。
これ以外に「分類に何れにも属さない氏族」として、「117氏」があるとするも、都から他にも中国域、九州域、東北域にも派遣されていた上記の「新撰姓氏禄」に記載されるべき氏族は沢山ある。
その意味でも格式を受けられない「諡号の姓族」からも「反対」を強く受けた。
編者達からも“問題が出る”として反対されていた。
中国域、九州域、東北域の対象者を組み入れたしても、それが可能な事か別として、この「新撰洲姓氏禄の信頼性」は元より低かったと思われる。
然し、上記した様に「新撰氏姓禄の経緯」を以てそれを押してでも編纂しようとしたのだが、遂には「姓氏禄の偏纂の原本書籍」をも「編者」からも隠されて失敗している。
判り易く云えば、上記した様に「社会」は“自然にも執る”として反対していたと云う事だ。
従って、「新撰姓氏禄の所期の目的」は、「民を格式化する事」で分断して、この「宗教力の排除」に有ったと考えられ経緯の間尺は一致する。
だとすれば、「中国域、九州域、東北域の対象者を組み入れる事」はそもそも必要が無かった事に成る。

「光仁天皇」と「同系の立場」に置かれていた「嵯峨天皇」は、同然に編者等も逃げるも強引に「未完成の侭」で、所期の目手の達成の為に、これを“強引に公表した。”と成る。
これは簡単に云えば、三代に渡って反対されていた現実は、「事の本質を見失い無理が伴成っていた事」に成る。
現実には、“「公表」と扱われている”が、「詔」も「令」も出ていない。
これは、“外に出て仕舞った”と云うのが真実ではないか。
故に、結果として、何時しか“行方不明にして隠されて”しまった。
然し、更には表紙の一部が表に出て仕舞ってまでは何とか済んだ。
ところがこれを嫌った「反対派」に依って、その重要な“「根拠と成る書籍」”の「行方」までも末梢・抹殺されてしまった。
実は後に「青木氏に関わるある処からの原資料存の存在」を示す史実が判明する。
この「強引に構成した格式化した社会の反対」の中には、「魔気・まけ」等に依る「宗教力の政治の介入」が「一つの特徴]として起こった。
何時の世もこれを防ごうとして、「源氏化の中で起こった猶子」と同様に、引き起こすものであるが、同時に、最早、上記した様に「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の「真理の女系化」に対しては、「諦めの格式化」”は世に浸透して行った。
結果として、幸いにも“「天皇の経緯性」”だけは理解され、再び「天皇の格式」はそれなりに取り戻した事に成った。
こま「新撰姓氏禄の格式化」は、兎も角も、その子の「仁明天皇期・833年から850年」の「30年後」には、「律令制度の社会の根幹」だけは造り上げて出来上がった。

この「青木氏の歴史観論」では、色々と青木氏に江戸期まで何かと影響を及ぼした「新撰姓氏禄の格式化」に付いて放置でできない事が起っていた。
そもそも「新撰姓氏禄の格式化」は、「伊勢の裔系出自元の仁明天皇」に依って「律令制度の社会の根幹造り」へと「政策変更された」ものである。
これには、当然に「自らの出自元の皇親族青木氏」は、「淳仁天皇の前例」もあり「嵯峨天皇」に執っては「邪魔」であった。
そこで「嵯峨天皇」は、「反対を受けていた在位末期」に反省したのかどうか兎も角も”「妥協策」”を繰り出して来た。
そしてこの「格式を護る為」に、「最上位の真人族」には、「嵯峨期禁令」に基づく「9つの縛り令」を「以後の賜姓族・11の源氏族」に課せた。
然し、どの「源氏族」も最早これを護らなかった。
「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の「賜姓族臣下族の青木氏族だけ」はこれを頑なに護った。
検証としては割合で次に試みて観ると次の様に成る。
「335+404+326+117=1182 関西域と中部域のみ」 に付いて、この割合を観ても「28.3%の335」は、「格式」に於いては、「マイナスの利害」を受ける筈だ。
「残り」は「全体」の少なくとも「847/1182=71.6%」である以上は、「絶対に反対される事」は必定であった筈である。
更に「335氏」の内の「真人族の98氏」は、そもそも元よりその「格式の位置」にあり反対の文句は無い。
「朝臣族の118氏」の内の「賜姓臣下族19氏」は元より自ら好んで「真人族」から「朝臣族の格式」を求めたのだから「反対すべき文句」は無い筈である。
そうすると、元からの「朝臣族」であった「109氏の宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八族・八草の姓の族制」は、より「格式」を下げられる可能性があって、元より「家臣として出世を前提としていた族」である以上は、ここで「新撰姓氏禄」で「格式が確定される事」には抵抗があった。
「109氏」には同然に「反対の文句」は生まれていた事であろう。
後は何れにも属さ無い「117のその他の氏族」は、元より「氏として格式には無関係」であって「109氏」と同然に同じ立場にあった。
依って、「反対をしない階級の氏」は、「真人族の98氏」と「賜姓臣下族の19氏」の「計116氏」と成り得ていた筈である。
そうなれば「847+109/1182」とすると、「81%の氏族」が反対し抵抗を試みていた事に成る。
とすると、この「新撰姓氏禄の目的」は、どうであり、当初から政策的にそもそも無理があった筈である。
故に、これを進めようとした方法の「出自2人の天皇」とは別に、「桓武天皇の遷都策」は、この「81%の氏族の反対」を完全に躱す事の方法であった事に成る。
これには「遷都策の成否の決め手」としては、「税」では賄えきれない「遷都費用の莫大な財の調達」が伴っていた事に成るが、それは心配なかった。
つまり、「出自元の伊勢青木氏の部商いの財」にその「裏付け」が当初よりあった事に成る。
現実に「桓武天皇」は、“税を駆使して行った”とする記録は何処にも無いのはこの事に依る。
ところが「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄」の時には、「出自元の伊勢青木氏の部商いの財」は使われていない。
その理由は「二人の出自の天皇」と「施基皇子の後裔の伊勢青木氏」とは「献納」を止める程にもとより仲が悪かった事が記されている。
それだけに「新撰姓氏禄の原資料」も手元に無かった事が云えるし、その為に「真人族98氏」に対して「弘文五年」に出された“「詔勅禁令の内蔵出費の削減」”を理由として、「源氏」を賜姓して臣下させた「史実」もそうなのだ。
但し、唯、参考として、この“「源氏の対象者」”は、前段でも論じた様に、上記する「純粋な真人族」とは限らず、「正規の源氏化」も含めて、意外に現実に“「階級の低い者等の源氏化、又は、猶子化”」が多かったとされ、殆どは前段でも論じた様に、「猶子による源氏か猶子朝臣族」が多かったと云われている。
その意味で、この論じている「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄編集」に付いては、「後付け」が多いとされる。故にこの「真人族の98氏の後書き内容」には、「疑問」が多くあって、寧ろ、その意味で「階級の低い者等の後付け猶子」が多いとされている。
「伊勢青木氏」も、この「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄」には、その方法として反対していた事が伺えるのだ。
然し、「伊勢青木氏」は、この「桓武天皇の遷都向行」に従わず「伊勢」にその侭にいた。
この「理由」は、「遷都向行に反対」では無く、「伊勢の商いの場」に理由があったと考えられる。
その証拠に「桓武天皇の遷都向行」を拒否した「額田部氏の氏族等」は多く罰せられたが、中でも「桓武天皇」は「出自元の伊勢」を特別に罰していない。
それは、「遷都に必要とする財源の確保の賄い」に有って、特別に「出自元」を除外したと考えられる。

注釈 話は「新撰姓氏禄の格式化」から元に戻して、後にその意味で、「室町幕府と正親町天皇」とは、これを“「律宗族」”として「嵯峨期禁令」に基づく「9つの縛り令」の「格式の象徴」として、再び認め直して世に知らしめた。
そして、この効果で「嵯峨天皇」に「賜姓外し」で存在否定されていたが、“「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官」”をも復元する事に成功した。
然し、飽く迄もこの「上記二つの役務」は、「天智天皇の治世」に基づくものであり、「帝紀」に基づき「前代の天皇が決めた事」は“覆す事は出来ない”となれば、且つ、「永代の賜姓五役」は、そもそも“「永代」”と決められて居り、その為の「既成事実の賜姓族」と成り得ていた。
その為に、そもそも“「無形の象徴役務」”でもあった。
これは、“「前代天皇が決めた事は覆す事は出来ない」とする「帝紀事項」”でもあり、「嵯峨天皇の行為」は“帝紀を無視した事”と成り得ていた。
この“「上記の二つの事を外すと云う事」”は元々無理があった。
そこで、「帝紀を正した事」には「正親町天皇の律宗族指定の意味」が含まれていた。
要するに上記の「注釈の事」と成り得た。
況してや皮肉にも、現実は「桓武天皇と平城天皇の後裔系族青木氏」は、この「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官」を最後まで護る事が出来たが、「嵯峨天皇系族・源氏」だけはこの「帝紀」を無視してこれを全く護ら無かった。
其処にも「自ら行う政治」にも「帝紀に基づく無理」が生まれた。
彼等は「官僚族」から「帝紀違反のレッテル」を貼られる始末と成っていた。
故に、「鎌倉期の源氏の府であるとしての認可」が、「帝紀を護る朝廷」からはなかなか下りない状況が生まれた。
この事を追記して置く。
この「帝紀違反」を知りながらも「実行し行き詰まった嵯峨天皇」は、“「妥協策」を以て挙げた拳を下ろす羽目”と成って仕舞った。
その上で後に、この「帝紀違反」を正す為に「正親町天皇」の「律宗族指定の意味」と成り得た。
それは、「戦い」までしていながらの「悪化」に発展したが、それ故に「平城上皇にすり寄る行為」を後に示した。
「上皇」が居住する元の「飛鳥の都」に、「嵯峨天皇」が自ら「平安京」から出て「飛鳥京」に「逆に向行する事」で「争いの治まり/反省」を着けた。
更に「上皇」には、「一部の治政の院政を敷く事」を認め、即ち、「天皇が持つの唯一の専権」の「信賞必罰の特権」を認めて仕舞って、“「最終決着」”を着けた。
この取り戻した「平城上皇の信賞必罰の権/院政」で、「出自元の伊勢青木氏」は「四家四掟四門に基づく女系氏族」と成っていた。
にもかかわらず、「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官役」は戻り遺る結果と成り得た経緯であった。
この「皮肉の挙句」は、「嵯峨天皇の治政」の「賜姓した源氏族の混乱」、つまりこの「猶子の伴う格式化」を「無視した源氏族11氏」は、「皇族としての9つの縛り策」を「無視した事・武装集団化」でも、これを以て「朝廷の社会・天皇の治政」を潰して仕舞った。
これが後にも続けて起こるが、これが「新撰姓氏禄の格式化」の「後の影響」であった。
結果として、この「青木氏に関わる初期の歴史観」はこれで変わったが、「花山天皇の事件・神祇官の賜姓」の前段で論じた経緯で、「源氏1221年に自らも潰れる破目」と成り得た歴史観であった。

筆者は、この「青木氏の歴史観」としての長い歴史的経緯に基いて観て、これは何度も論じている事だが、“「先の読めない思考の嵯峨天皇の大失敗」であった”と観ている。
それを、何と「嵯峨天皇の子の仁明天皇」が、これを“「嵯峨天皇の失敗」と観て、「出自元の青木氏への修正策」を講じたが、これが「修復させた真の経緯・記録」である事を物語る。
要するに、「青木氏族」に先々大きい影響を与えた「嵯峨期の新撰姓氏禄の政策・格式化/源氏化・猶子策の乱れ」はここでも失敗していた。
逆に前段でも論じた様に、「四家四掟四門に伴う全ゆる制度」を敷いた。
これに依って云える事は「四掟の青木氏族」は、「態勢を確立させて強くなった事」が「氏族存続の一つの要因」に成り得たがこれが「青木氏独自の歴史観」だ。

注釈 念の為に、「施基皇子」が長い間を掛けて全国を歩き廻り集めた資料を「朝廷」に提出した。
これを「撰善言集」は、「大宝律令と養老律令の基」に成ったが、それに基づいた中にあった筈のこの「全国に散在する姓氏の記録」から「抜き出した資料」を基にして、その原資料を基にして「新撰姓氏禄」が編集されているのだが、この「制度」の“「格式化の詳細」”は「青木氏の歴史観」より観て次の様であったらしい。
「「新撰姓氏禄の格式化」の「青木氏」が調べた「青木氏の調査歴史館」
その原資料を先ずは「格式別」にしたある。
先ず「朝廷が認定した氏の族 イ」と、「国家が定める諡号の姓の族 ロ」とで、「二大格式別・イとロ」に先ずした。
更に、これを次に「職業別に格式 ハ」を加えた。
これに、「皇別と神別と諸蕃 ニ」にした。
以上の「三大格式別」に分けて、合わせて「統合五格式別」にした。
これを、“「八色の姓制」”を基にして、“「13色の姓の諡号姓別」”に区分して、“「13格式別」”に分けた。
更に、この“「13の諡号姓の格式別」”を、“「959の姓範囲・奈良期の調査範囲」”に確定させたものに成る。
それを「異なる数」で、“「13に配別」”して「格式化」を図った。
つまり、これを“「律令国家の役職別」”までに、この「限界」を決めて割り振った。
これに合わせて、「個々に官位を与えて格式」を、“限度化し権威化した”としている。
この“「13格式別」”は、これを見分ける為に合わせて、“「帽子と服装と衣布の色分」”等まで格式を定めたものだとしている。
最後には、上記のこの「三大格式別」には入らない“「一般格式を持たない姓」”には「否認定の雑姓・重要」、つまり、“「諡号」”とは別に、“格式を与える自己申告制」にし“「一つの低格式」”を加えたと成っている。
この「皇別の格式別の真人族48氏」にだけは、更にこれを分別して“「二大別の細分化」”をしたとしている。
それは、“「上位の13氏の尊属」と「下位の35氏の卑属」”として、その“「扱い」”を分けたとするのだ。
そして、次の格式の「朝臣族101氏・98氏」に対しても、より“「皇族に近い族・賜姓氏族・a」”と、“「皇族に遠い族・家臣族・b」”と、“その「中間の族・aとbの血縁族・c」”の“「三つ族」”として、大まかに「格式・扱い」を変えたが、これが上手く行かなかった。
当初はこれに対しては矢張り大反対を受けたが、「朝廷の懸命の協力的な努力の甲斐」もあって、ある程度に浸透し効果があった。
然し、時代が進むに連れ必然的に起こる「現象・形骸化」が起こった。
これが後に勝手にどんどんと細分化させて仕舞って、遂にはこれが「搾称等の格式化」に繋がり「平安末期」には「猶子現象」も手伝って「格式化の重要度」は殆ど低下した。
そして誰がこの「原本」を持っているか判らなくなって紛失しているこの「新撰姓氏禄原本」に、“「平安末期頃」に勝手に「上記の低格式にも入らなない成り上がった族・室町期勃興族」”に依ってこれを書き加えられた様子である。
つまり、「未完成の新撰姓氏禄」は、この「紛失したとされる原本」は、歴史的経緯から観て、先ず「藤原氏摂関家」の手に渡り、それを基に「勃興族等を引き付ける為の道具」として使われ、「賂と政略の代わり」に「書き加えると云う事」に使われ、又、「猶子の事」にも成ったと考えられている。
そこで「上記の格式論」としてあり得ない族、即ち、最後には、“上記した、この「三大格式別」には入らない、“「一般格式を持たない姓」”には「否認定の雑姓」、つまり「諡号」とは別に、”「別の格式」を与えて、「自己申告制の“一代限りの一つの低格式」”を加えた。
この「否認定の雑姓の認定作業」は誰がしていたのか「疑問・判明」が遺る。
「新撰姓氏禄の格式化」の真のものは、以上とするものである。
その着け加えられたものとするものには、全て“「地方の第二の姓の名」”である。
「新撰姓氏禄の基本」とする「四家四掟四門族内の格式論」には入らないものであった。

上記した様に、この真実の「新撰姓氏禄の青木氏の歴史観」から観て、「平安期の初期の目的」は、「室町期の目的様」にして付け加えられる事が起って仕舞ったと云う事なのだ。
つまり、[前記の頼政の事」は、その境目の時期を利用して、「より高い格式を望んでいた頼政」が、この“「未完成の格式の新撰姓氏禄」を利用した形跡”があると云う事だ。
この事から少なくとも「平安末期」までは、この「原本」は「藤原氏摂関家内にあった事」を物語っている。
その後の「鎌倉期・新撰姓氏禄を嫌う政権」には、「格式を嫌うもの等の下剋上」が起こり始めた。
「室町期初期」、即ち、「源平期の混乱期の以降期」には、この「弱体の摂関家」から、再び「下克上」で使われて紛失して「行方不明に成った。
兎も角も、これで以て「律令国家の実質強化を図ろうとした事」は「その効果」は別として「確実であった。

この「新撰姓氏禄集の原本」の「本体の紛失事件論」には、幾つかの説がある。
仮に「紛失事件」とすれば、「現象・形骸化が起こり始めた時期」としてこの頃に起こった事が読み取れる。
それは、反対者にとって“「新撰姓氏禄集の存在そのものが邪魔と成り得た時期」”に成る。
その時期には、通常はこの「現象・第一期の形骸化」が起こるので、歴史観から「政治を握った平家の全盛末期頃」か、或いは「源平期の争いの時期以降」に成る。
丁度、「前段の論」に絡んで「以仁王の乱の前後の時期」、つまりその“「格式化」”を「絶対的に政治的に否定しなければならない時期」であった。
これは「勃興の武家政治の始期」に成り、「存在そのものが否定しなければならない時期」の此処で「紛失させる事」を恣意的にしたのだが、それが最も効果的と考えられていた。
その「格式化の効果」が、「格式化」を前提として行う「信賞必罰の特権だけを持った天皇」にだけに、必要としたものであろう。
この事から、それは「武家政治の始期・府を置かない時期」と成る。
依ってこの「紛失期」は、「格式形と骸化期」「武家政治化期」「信賞必罰権分離期」が合わさった時期に成るだろう。
故に、「筆者の論」は、「前段の論」に続き「以仁王の乱の前後の以降の近時期」であるとしている。

注釈 室町期の中期には、一度、この“「新撰姓氏禄集原本」が見つかった”とする「研究説」もある。
この「見つかったとする原本とする中味」には、「上記の格式別の判別化」には、“「元々無かった姓」”のものが加えられている。
故に“「新撰姓氏禄集原本」が見つかった”とするその「原本」とするものには「大いなる疑問」が残る。
現在では、「この説の原本」は信頼はされていない。
これは「室町期の新興勢力の勃発期・第二の姓期」、つまり、「上記の格式別化の諡号姓」ではない「農民等の新興勢力勃興期等」と成る。
つまり、「系譜搾称による格式化を図ろうとした事件」の頃に“「新撰姓氏禄集の原本らしきもの」が見つかった”ものは、当にこの「搾取行為のもの」であったと観られる。
この“「搾取行為の原本」”とするものには、多くの「諡号ではない第二の姓」が書き加えられていた。
それは一目瞭然で「上記の論じた判別方式」は、「構成」がそもそもが成っていない。
その「書き足されている姓」から観て、「新撰姓氏禄の歴史観」を「知らない者の仕業」であろう事が判る。
上記した「格式の歴史観」を無視している。

ここから、再びこの「新撰姓氏禄の紛失」の「行方の詳細論」に話を戻す。
この「原本」の“「格式化の分け方」”から観ると、人間社会の中で果たしてこれが使われるかは「疑問」であって、“相当に無理に格式化を図った事”がこの「分け方」でも判る。
何故ならば、「当時の慣習」から観てこの「分け方」は違っている。
「格式化の重要な歴史観」として知っておかなければならない事は、「当時の慣習」とは、これ程に「皇族方を細分化して出来た社会」では無かった。
限定された下記の「ほん一部の為政に関わるトップ」のものであった。
これだけの「新撰姓氏禄の様」に「氏姓」を細分化して、それを特定して、「細分化」していれば、“「社会が決め得る自然な動き」”が無く成り、動きは採れない筈で硬直化するものである。
現在でもそうであるが、精々、「玄孫程度・自分を1とすると5代目」までが現実である。
「奈良期から平安初期」としても「来孫」「昆孫」「仍孫」「雲孫」までの「4系」では、歴史的に観て現実に記録的には「雲孫」が「呼称」として「記録」に残っている。
現実には、「実用の記録」から観ると、“「玄孫」”が「限界」であったとされている。
古代には「三代規定」と云うものがあって、「氏家の格式」を始めとして「冠位・官位・役職」などの「世襲」も「帝紀」にある様にこの“「三代規定」”に全て従っているのだ。
この「新撰姓氏禄の様」に「氏姓を細分化」してそれを「格式で特定する」のは、この“「三代規定の慣習」”に反してしまう。

この「新撰姓氏禄の格式化」は、そもそも「天智天皇・大化改新」と「天武天皇の八色の姓の制・冠位官位制度]などにも離反した事に成っていた。
この経験を長く官僚・反対者」に与えて仕舞っていた。
それだけにこの「格式化」に限らずこの矛盾に対して「反対」が多かったと記されている所である。
確かに彼等に執っては「実務上の扱いに困る事」であろう。
現実は平安社会にこれが存在する限り「長く社会を掻き乱す原因」と成っていた。
故にこれを「必要とする者」と「必要としない者」が、「隠したり出してきたりとする現象」として「長く紛失現象」が江戸期まで起こり続けた。
一時、鎌倉期でこの現象は治まったされたが、それは「鎌倉幕府の吾妻鏡の偏纂の影響」によるものであったと云われている。

そこでこの混乱に於いて乱されない為にも、「青木氏」に於いても「福家」で統一して「女(むすめ)制度」を採っていたが、ここでも矢張り、「玄孫迄を一族の子としての扱い」をしていて「女系養育」をしていた。
これが限界であったとし、此れを顕著に表すのが「四掟」であって「女系の縁組先」を「血縁濃度」から「此処を限界基準」としていた。
「相手の女(むすめ・青木氏の一族域)」は、「子域」は無いとしても「系譜」などから「女系」で「孫か曾孫」からであった。
所謂、「四掟の女系」である以上は、「四掟四門で嫁いだ先」には、そこの「祖母以上」から「曾祖母」、又は、「母の高祖母までに当たる範囲」の「血縁の女(むすめ)」が「一族系血縁」と成る。
そこが「格式を確認できる限界」であった。
「中国」に於いてでさえ「四掟の範囲」で「子孫」を「区切り制度」を造って管理していた。
この「新撰姓氏禄の範囲」は、この「四掟の4倍から5倍程度」まで「系列化」していて、果たして「CPの無い時代」にこんな事が出来たかの疑問である。
「新撰姓氏禄」を造ったとしても、“どの様な「格式を造るツール」が有ったか”は疑問である。
「真人族の範囲かその臣下の朝臣族か」の範囲である。
そもそも「造り得る過程の問題」があった。
この「ツール」とされるのは、上記した様に「原本」とされる基の元には、「撰善言集/施基皇子」を元としたのが「大宝律令」であって、“「全国」を歩いて調べあげた原資料の中」”には「記録されていた筈の氏姓の族関係原資料」を基に利用して「新撰姓氏禄」が編集されていた。
だから、“作っている本人の官僚からも反対された事”も有った。
筆者はここに「説く鍵の疑問」を持った。
“作っている「本人の官僚」からも反対”の記述には、“それなりの意味を持たしていた”と観ている。
「記録」を遺した「記述した者・偏纂者の一人」が、つまり“作っている本人・官僚からも反対”を強く云いたかったのではないかと説く。
とすると、後勘から観ても殆どは実用は難しい「学問的領域の研究様」であったと成る。
では普通では考えられない程に何故に此処までしたのかである。
それには次の事が考えられる。
一つには、実態に無理に合わせようとした事。
二つには、一の逆の狙いがあった事。
三つには、「原本」も含めた「家柄の偽物」を出さない為にした事。
四つには、「信賞必罰」を臨機応変にこの複雑な判別の中で対応しようとした事。

先ず、仮にこれを使うとすると、これでは“「専門の官僚・令外官式部・専門家」で無くては一般には「判別」が判らなかった”のでは無いか。
これは「奈良時代」からもあって、この「嵯峨期」に於いても、「この複雑な政治課題」には、「既存格式制」に従わずに、“臨機応変に対応する役所の令外官も設置されていた史実”があった。
「中国」もそうであった様に、「中国」より持ち込まれた“「特別職制・令外官制度」”が多数新設された。
この者等がこれを担っていた。
「桓武期の改革以降」には、当然にこの“「各種の式部職の令外官」”が、この「格式化職」をその都度設置された。
「青木氏族」も「この一つの氏族」であって、幾つかの「令外官」を務めていた。
所謂、その代表的な物として「賜姓五役・令外官的役割を果たす役務」がそれである。
“臨機応変に対応する役所も設置されていたが、その「代表者」が「伊勢と信濃の青木氏」であったと云う事だ。
この「賜姓五役以外」のこの「格式化に関わる青木氏一族の役務・令外官」には、「信濃青木氏」には「かなりの記録・研究資料」が遺されている事がある様だ。
それには「重要な史実の事」があってその一つに「信濃」に於いては、この「伊勢」に比べて“「神明社の役務になる事”が多い事が判る。
次の「特別役務」である。
「新撰姓氏禄の後の経緯」に繋がる「史実」が「信濃青木氏」に何故か多く遺されていた。
それは、「官僚反対」の「新撰姓氏禄の姓認証の指定役務」である。
“その「認証の役務」を誰がしていたのか”と云う疑問である。
「信濃青木氏」が、「青木氏の格式」を以て「特別な令外官」として「実務」で働き、その「重要役務」は、上記の“格式別の雑姓領域の姓の認証”に当たっていた事が、この「資料・記録」より「史実」として記されている。
「賜姓五役外」にも、“特別永代令外官”としての「伊勢青木氏」にも、その“格式別の雑姓領域の姓の認証”の記録らしきものはある筈だが、何故か確定したものが見当たらない。
これは「情況証拠」から割り出せるのだ。
「伊勢」も「488社の祖先神の神明社を管理する立場」にあった。
無い事、又は見つからない事は、そもそも「伊勢神宮のお膝下であった事」で、「憚られていた事」が原因している。
それは「表向きの事」であって、「役目分けの範囲」では、「伊勢」と「信濃」は主にこの“因事菅隷に基く特別永代の令外官”を務めていた事だ。
そもそも、「拳を挙げた嵯峨天皇」は、“挙句の果てに「青木氏」に頼る以外には最早道が無く成っていた”事を示している。
「天皇の面子か権威」を護る為にも、土下座してでも「新撰姓氏禄の実行に必要とする事」があった。
それが、“格式別の雑姓領域の姓の認証を誰がするか”であった。
そして、その元は“「神明社・質・前段に記載」”に成っていたと実は記録されている。
これは“「本論の全て」を語る程に「大きな意味」を持っている”。

注釈 この鍵と成った「神明社の質」とは、前段でも何度も論じてきたが、何かであるがここで改めて説明して置く。
「皇祖神の子神として位置付けられた神明社」は「中国の習い」に従って、「金山寺や寒山寺の様な寺」が、民の苦しみを救う為に食料や仕事や悩みや全ゆる事を受け止め世を安寧にする為に民に「施し」をしていた。
これを「質・しつ」と呼び日を決めて実行していた。
この「情報」を「貿易」で得て、それを「神道の488社の神明社」にここれを宛がい「青木氏の氏族の守護神」として「管理する青木氏」はこれを取り入れた。
それを「越前・福井の神明社」に主軸を置いた。
「戦い」で仕事を無くした者等まで救う事に成っていた事が記録されている。
特に戦乱期から江戸期末期まで幕府に依って奪取されて「神明社」は荒れ果てたが、密かに「伊勢」を通じて「費用」を秘密裏に渡し「全国神明社」を「鎮守社の裏手・祠程度」に隠して保全していた。
これを通じて限定して「越前の神明社」で密かに「神明社の質を続けていた事」が判っていて、明治9年まで維持されていた事が判っている。
これが「神明社の質・しつ」、つまり「江戸の享保期以降の質屋」とは意味が少し違うが、「青木氏の神明社」のこれが元に成って「江戸の享保の改革」に利用した。
この事で「江戸伊勢屋が経済対策の一環」としてこの意味の「質屋・伊勢屋の質屋と呼ばれた」が江戸に増えた。

「新撰姓氏禄の実行」が全ての周囲から反対されていた。
この「認定の役目」は、「式部の官僚」が行う事が決められていた。
この実行を反対されていたが、「頼める権威を持っていた者」は「出自元の青木氏」に限られた。
それは“「神明社の権威を使う事」”に成る。
これ以外には無いし、「神明社の権威」と言えど漠然としたものである。
“その「神明社の権威」の何を使うか”に話は成る。
それが「質であったと云う事」に成る。
「喧嘩していた嵯峨天皇派」」とすると、無理にも「伊勢と信濃」に対して、“矛を収める以外には方法が無かった”ので、故に、「賜姓を外した青木氏の力」に頼るには、桓武派のその元の「出自元の平城上皇にも妥協する事」しか無く、前段でも論じた様に、「嵯峨天皇からの仲介策を執ったとする経緯」に符号一致する。
筆者は、この「窮地にあった嵯峨天皇派」は、「鎌倉期の史書・吾妻鏡の記」から観ても、単に”矛を収めたとする”のでは無く、「出自派の正良皇子・後の仁明天皇・810年-850年・30歳位」にあった。
つまり、「父親の嵯峨天皇・786-842・第二皇子」に対して“「強い説得」があった”としている。
そうすると、「信濃青木氏」が、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事は、その「雑姓の認定の先行きまで」を見越して、官僚の代表とする「太政官の反対」を受けていた以上は、唯単に命令する事には成らず、そこで「天皇の内密の令外官命令・因事菅隷」の「絶対的命令権の因事菅隷」を使って「特別永代令外官の役務として務めていた事」を意味していたのではと成る。
そうすると、この“「因事菅隷の特別永代令外官」”は、“「神明社の神職」”と云う「図式」が成り立つ。
それが「平安期」を越えてからは、「全国の488社の神明社の質」が行っていたものから、この形が前段でも論じたが、最終は488社全社で行う事が出来ず、前段でも論じた様に、「雑姓申請と格式認定」以外は「越前の神明社の質」に集約されて行ったのであろう事に成る。
つまりは、当初から、“「青木氏の永代令外官」”=“「神明社の神職」”=“「中国原形の質」”の関係性があった事に成る。
従って、「平安期」に於いては、「青木氏族=賜姓五役+令外官の格式の関係にあった事」に成る。
「信濃青木氏」が、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事に成っていた以上は、全国の「488社の神明社」から密かに「雑姓申請と格式認定とそれ以外の質申請」を受け取り、それを「雑姓申請と格式認定」は「信濃の神明社」に送り、再び送り返す方式を執っていた事に成る。
「それ以外の質申請」は「福井の神明社」に送っていたとされる。
これを「伊勢の神明社が手伝っていた事」に成っていたとされる。

つまり、その「永代令外官の格式」には、更にその「上位の格式」を確定させる「因事菅隷」や「院屋号の特権」が与えられていた事だ。
それだけに「賜姓」を外された以降も、「普通の令外官で無かった事」が少なくとも云える。
それは「個人」では無く「大組織体・青木氏の氏族」で進められていた。
そして、それも「永代の特権」を以てしてであった事に成る。
それだけに、その「象徴と成る権威」で以て「朝廷・天皇」に代わって「信濃青木氏の神明社」では、記録にある様に、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務めていた事とするのは充分に納得できる。
恐らくは、それまでは「毎年の因事菅隷」に「信濃青木氏」は基いていたのではないか。
要するに、これに応じるのがそもそも真の“「皇親族」”であった。
それを“「嵯峨天皇派」”は、“この事の「特別令外官にある事」に異論を唱えて、強引に「賜姓外し」を実行したのだ”と観ている。
然し、これ等の事で「兄の平城上皇との政争の末・戦い・薬子の変まで発展」に成り、遂には「嵯峨天皇」が折れて「妥協策」を執り、この「特別永代令外官」だけは、“暗黙の内で認めていた事”と成った経緯だ。
これが平安期だけでは無く鎌倉期を経て室町期と江戸初期まで続いた
この「時系列」で考えれば、上記の「新撰姓氏禄の格式化経緯を検証すればこれは納得できる。
結局は、「源氏の賜姓」に依って「新撰姓氏禄」で目論んだ「源氏化の格式」は一部で進んだ。
これを始めとして「他の格式化」は、即ち、「信濃青木氏」の、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事に依って進められる事に成った。
それが「出自元を護った仁明天皇」による「嵯峨天皇への説得」が功を奏した事が云える。
「鎌倉期の史書吾妻鏡」に依って褒められている記の「出自元を護った仁明天皇」は、当に記録が無いが「神明天皇」と読めるではないか。
証拠はないが「青木氏の歴史館」として、その功を以て「正良皇子」はこの「神明社」から名付けられたとも観える。
筆者は、結構、信憑性がある様な気がする。
然し、「嵯峨天皇」は、「天皇家との距離を離す為」には、故に「青木氏族・伊勢と信濃」では、以後は“「影の特別永代令外官”として務めた経緯」と成っていたのだ。
だとして、この“「影の特別永代令外官」”と成る以上は、その「実行組織とツールとその財源」が絶対的に必要である。
これが前段で論じた様に、“「影の役務」”である限りは「賜姓五役」として「院屋の屋号の特権」を与えられた上で、それに基づく「因事菅隷・天皇からの密書」で「実行権を与えられた事」がそれに当たる。
この「信濃青木氏の務めた史実」に基づくこの“格式別の雑姓領域の姓の認証”は、それでも「象徴と成る権威・皇親族」は、「賜姓外し」があったとしても、その「賜姓の権威」は急に消える事は無い。
その為に、それからもこの役務は続けられたと観られる。
「平安期末」までは此れを「暗黙の内に認めていた事」に成る。
「平安期の諡号姓」に拘わらず、「室町期全般に勃興した農民など」から興した「雑姓領域の姓の第二の姓族」に付いても、この「信濃神明社の象徴権威」を大いに使って彼等は与えられた姓を名乗ったものであった。
故に彼等は、この“「神明社の権威性」”を前提に世に対して憚ったものだ。
「江戸幕府」は、朝廷は別としても幕府意外に超えるその権威を嫌った。
それが「神明社に向けられた経緯」であり、其の上で「信濃事件」が起こった。

ここで注釈として、“「信濃青木氏の務めた格式別の雑姓領域の姓の認証”に付いて、「伊勢の神明社」にも無かったのかと云う疑問がある。
原則的には「伊勢」には無かった。
それは次の理由に依る。
伊勢には最上格式高い伊勢神宮がある事で「一般的な姓認証」は憚れた事
伊勢は「北部伊勢郷士衆50衆」と「南部郷士衆50衆」とで全体を治めていた事
伊勢は「北部200村主衆組合」と「南部200村主衆組合」で細部を統治していた事
伊勢は奈良期から「不入不倫の権・天智期」で護られ、外部の武力集団が原則入れなく無くしていた事
以上に依って「伊勢」には古くから「施基皇子の後裔系の青木氏」と云う「一定の高い格式を持った氏族」がいて「伊勢王」としても統治していた為に、「格式別の雑姓領域の姓の発生」は原則なかった。
「認証権」が有っても「伝統の掟」を護らない事には上記の組織で潰される羽目に成る。

注釈 桃山期・室町期末期には、この「伊勢」にこの「禁令破り」をして「武家貴族の畠山氏」が入った。
この為に家臣に成ろうとして「各地の伊勢以外の周辺からの勃興族・国衆」が入り込んで来た。
故に北畠氏は直ぐに勢力を持つが「信長」にその「家臣団の弱さの脆弱な点」を見抜かれ、「信長の調略」で簡単に占領され、この「禁令破りの北畠氏」は潰れる。
前段で「伊勢での蒲生秀忠の論」でも論じた様に、「奈良期からの禁令地の占領と言う汚名」を受けずに「信長」は、自らの力で禁令の伊勢を責めずに「伊勢」を手に入れた。
これと同時に、結局は「固められた伊勢」では「国衆」は存在し得ずに結局は飛散してしまった事に成った。

この様に、主に「皇祖神の子神と云う格式」を持っていた「伊勢と信濃の神明社」ではあったが、外にもこの「認証の内容」が良く判らないが、「紀州日前宮」の様な「伊勢神宮の前の遷宮社・約64社の国幣社格」でも、「信濃以外」にも「地方での“格式別の雑姓領域の姓の認証”の権の様な役務」を担っていた事が資料に記されている。
これに付いて検証したが、現在でもよく行われている「神社の御朱印の状」様なものであったらしい。
これが上記した「信濃」の“格式別の雑姓領域の姓の認証”では無く、「一般の裏書き」の様な“「軽い補償」”であった。
これは主に「武士階級」では無く、「農民などの一般の民」を対象としたものであった。
この「格式化」を意味する「氏姓分別の時系列の歴史観」としては、そのもので無かった。
ところが、後に「江戸期の第三の姓族・大日本史記載」が現れた。
その結果で、“「神明社の権威・荒廃した」”を「青木氏」から奪い、それを「府内」に引き取った。
その上で、この「姓認定の権威を持っていた神明社」を荒廃させた。
明確に「青木氏の認証の権威」を「江戸初期の幕府」に低下させられた。
その「神明社の権威性」も無視する程度に低下させられた。
その代わりに「幕府」は、「青木氏の神明社・令外官の役目」に代わって、“幕府発行の「国印状/黒印状」”と云うものを発行した。
これを前提として「家臣・媒臣・陪臣」と認定し「幕府の権威付け」をした。
その「窓口」を「武士身分」に依って「幕府や藩」から「国印状・黒印状」を取得した「上位の者」から更に下位に発行する方式を採用した。
「府が発行する事」で「藩主」と「御家人等」は新たに「任命権」を取得し、それを得た「藩主」と「御家人」は、その「家臣」にも「国印状・黒印状とも記する」を発行して「家臣」である事を証明した。
それを獲得した「家臣とその媒臣」にも更に「黒印状」を発行させて、その「媒臣」からその「陪臣」にもこの「黒印状」を発行して「権威の連座性」を関連付けた。
その理由は、それまでのこの「象徴権威の神明社・青木氏」を「府の存立の邪魔」として、その「存在」を否定された。
故に「信濃の認証権威は高かった事」からは、「土地を奪う、職を奪う、権威を奪う、格式名を奪う、家人を奪う、神聖域を奪う等全ゆる事」をして、これでもかとして徹底的に否定した。
これが前段でも論じた「吉宗の享保期」であって、その「吉宗に裏切られた様子」が、「信濃の記録」として公的に記されている。
上記以外には、「伊勢」にも「伊勢詳細の事」として記されている。
「幕府」に「撤収された社・488社」のその後は、完全放置されて、荒廃し続け、それに従ってこの「青木氏の賜名者の格式認証の権威性」も合わせて低下させた。
その逆に「幕府の国印状の権威性」を高める為に、この「権威性の権利」を利用した事に成った。
“「農民等の勃興」”で、この「格式力・格式化」は、全く意味を成さず必要が無く成った。
その代わりに「武力」が主体と成って、その必要性は無く成った。
この「連鎖性の権威」には、その前提となる「武」に対する「負荷・義務」を架けて護った。
この“「武と成る前提・府」”が崩れれば、“「単純な人と人の繋がり」”に成り、“「武力の体制・府」”は崩れる。
故に、「権威の移動を図る事」に伴って、“詳細に定めた「武力の義務化」”を図った。

これが、「青木氏神明社」が大きく係わった「嵯峨天皇の新撰姓氏禄の格式化」から変化して、遂には「秀忠に依る武家諸法度」であって、「武の規範」を示して「権威性の確立」を図った。
これでも「権威性」は充分では無く、追加として「寛永令」等を出して補完した。
この詳細は「石高」に応じて「武器数や家臣数とその構成形式」まで詳細に決めた。
だが、これで「第二の姓、第三の姓、第四の姓の権威性」は、「神明社・青木氏」から変位して完全に「府」に移動した。

注釈 この「国印状・黒印状の発行」には、「大きな一つのトリック」が込められいていた。
それは、発行と同時にそもそも「勃興族の発生があった事」から、彼等には「全く無かった権威性」を高める為に、その前提として、「元々なかった姓の系譜」を無理に求める様に成った。
「第二、第三、第四の姓族」には「系譜/義務化」などはそもそも無い。
そこで困った彼等は、「神明社の格式別の雑姓領域の姓の認証」の際に、その「権威の元に成っている情報」を利用して、「偽の繋ぎ技合わせの系譜」を、この「神明社」に造り上げて貰った。
それを提出すると云う「裏商い・高額」を密かに行った。
これで「府と認証者と姓の第二、第三、第四の姓依頼者の利害」が「系譜」で一致して最後は「神明社の裏認証」を黙認する事」と成った。
この「系譜作成の元」と成ったのが、前段でも論じたこの時に使われたのが「紛失したとされた新撰姓氏禄」だと云われている。
とすると、「「撰善言集の写し」か「紛失した新撰姓氏禄」が、何故か「神明社の中」にもその「写しの様なもの」が広くあった事と成る。
「頼政と藤原氏が所有していたとする事」から、時系列から観て「神明社の青木氏・原資料」も持っていて、それを「格式別の雑姓領域の姓の認証」の際に「神明社」が使っていた事が判る。
更に「四掟関係のある彼等」の「守護神の春日社」にも「配布した事」は充分に考えられる。
この基を造ったのは、「撰善言集編集・朝廷に提出」の際に付け加えたとするこの「編集の基」と成った「全国の姓族と氏族の系統図譜の集録」であって、それが「施基皇子偏纂」とすれば、これは符号一致して不思議は無く納得できる。
それが「格式別の雑姓領域の姓の認証」の際の「神明社が使用した」とすると理解できる。
「格式別の雑姓領域の姓の認証」の「神明社」には、「純粋な意味」で認証として持つ必要があったかと考えられる。
故に時系列としては、「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」の前の「光仁天皇・施基皇子の第六男・青木氏」の期の「第二の格式化の姓氏禄の編集時」の「紛失の物」であったとすれと納得できる。
それが「青木氏に遺っていた」とすれば符号一致する。
後刻、それが「府」にも渡って「系譜搾称」で上手く悪用されたと観られる。

「戦乱の世の室町期」から始まり「安定した江戸期」には、この「新撰姓氏禄の格式化の効能」は、別の物と成って「下克上」で完全に消失した。
ここで「重要な経緯」があった。
ところが、この「格式化に依る権威性」が低下し始めた「室町期」でも、「神明社の象徴権威の伝統」を頑なに護っていた「神明社族の青木氏族」を以てして、今度はこれを“「律宗族」”として再認定した。
再び「神明社の象徴権威の青木氏族」を認め高めた。
“社会に「ただ一つの伝統を護る氏族・律宗族」として”、社会に「正親町天皇」は再提示した。
これも、「府の思惑」でその元と成る「神明社の権威・皇祖神の子神の権威」を江戸期初期に弱体化せられた結果と成った。
その前の「正親町天皇」が図った「朝廷の権威回復策」も合わせて失敗し、「律宗族の権威性」は向上する事は最早無かった。
「江戸期から明治期」までにも、この“「律宗族」”には「権威性・格式化」は現実には低下したが、世間の中には今度は、「御師」から“「得宗家・徳宗家」”と呼ばれて変わっていた事が記されている。
この「元神明社の青木氏」の“「徳宗性」”は、「氏族の中」では明治35年まで消える事はなかった。
“「言い伝え」”では、「府」から奪われた「神明社・伊勢と信濃」は、“隠れて小さい祠を造り、「府が存在を認めた鎮守府神社・協力」の下で、「その裏手」に隠して護っていた”と伝わっている。現存
恐らくは、未だ「“律宗族・室町期”」から「“得宗家・明治期”の呼称」に移り変わり、その通りに、それに連なって“「神明社の権威」”も、「国印状に縛られた高級武士」は別に、「庶民の中」には依然継続されていたものと筆者は理解している。

注釈 この「鎮守府神社」は、「中国仏教の伽藍神」が起源とされる。
それが日本にも伝わったものであり、そこで「源氏の八幡神社」と同様に、前段で論じた「源氏の守護神の成した事」と同じ様に、“「神仏習合」”が結果として「鎮守府神社」にも起こった。
この別名で「鎮守府神社」は「鎌倉期」に於いては「神仏習合」から「鎮守府八幡神社」と呼ばれる由縁と成った。
「江戸幕府の資料」から多くは「鎮守府神社・県格」としている。
これは「鎌倉期の経緯」を其の侭に踏襲しなかったと云う事である。
その「日本の鎮守府の寺院等」を護る為にも、この中国由来の“「鎮守府神社の考え方」”を以て護ったとする経緯である。
この時には、未だ日本には歴史的に“「建造物や土地を護る神」”は無かった。
そこで、この「鎮守府神社の考え方」を拡大させて、これに当てたとする経緯である。
古来、“地方の豪族の間には既に個々に「地主神」”と云う神があった。
これには問題があって、その上に建つ“「建造物」”には「神」は無く、この別にあった「地主神の考え方」を抑えてこれに当てた。
「土地と建物の神」に対しては、結局は、「土地と建物の神」には、“「鎮守神の存在を認めさせた事」”にしたのだ。
これが「日本の鎮守府神社の経緯」である。
そこで「江戸幕府」は、言い分通りにこれを改めて統合させた。
そして「逆転現象」を起させて“「鎮守府神社」が「地主神」をも護るもの”とした。
その“「地主神」”よりも「霊威の強い神は鎮守神」として改めてた。
これを「鎮守府神社側」に、新たに勧請し直しさせた。
故に、先に祀った方が“「鎮守神の歴史」”であるとした。
この結果として「建造物の鎮守神」に対して、“「土地の地主神」は「補佐役」に廻った”として「府の意思」に沿って「考え方」を纏め統一した。
要するに、これは「地主神派の考え方の強い豪族」と「鎮守神派の考え方の強い豪族」との「争い」がそこには有った事を意味し、その「話し合いの結果」として「上記の考え方」に纏めたとした。
結果として、「幕府の意思」に沿って「小さい地主神」が習合した上で消えて「大きい鎮守神」に統一されて、どこでも祀られる様に成った経緯である。

さて、ここで比較するとその「一つの青木氏族の氏上社・守護神で皇祖神の子神」としていた事であって、「青木氏の神明社・488社・大日如来神・太陽神の事」であるが、然し、その“「組織の余りの大きさ」と「その権威の大きさ」と「その歴史伝統の長さ」”で、「幕府」が纏め上げた「鎮守府神社と地主神」のものと違って、「江戸幕府」にとって上記した様に「神明社の権威性」を邪魔視される様に成った。
結果として「潰される羽目」と成った。
“「邪魔な神明社」から「江戸の幕府が造った鎮守府神社」に切り替えた”と云う事に成る。
江戸初期に起こった事である。
この“「神明社」”は、そもそも「皇祖神の子神の格式」を獲得して、「一族神の氏族社・青木氏族血縁集合体の青木氏」であって、上記する様に平安期に於いては未だ大小はあったが、ある意味でこの「中国由来の「鎮守社・地主神」と対抗する立場に成っていた。
江戸期の「神明社の権威潰し」で、結果としてこの「低い格式の鎮守府神社・地主神」に助けて貰う形と成った。
鎮守府は大きく成ったと云う経緯である。
故に現在も遺る「鎮守府神社の裏手の影」には、「鎮守府神社の力」を借りて「神明社が存在すると云う経緯」である。
此処で疑問なのは、「地主神」を集合した「鎮守神の鎮守社」は、「大きくなる事」で「神明社の様に潰される危険」があった。
この鎮守社は何故か「神明社の影の存在」を否定せずに保護したのだ。
それは、この「神明社が完全に潰される事」は、次は自分達の鎮守府神社であると考えて、影でも良いからその「信仰の力を温存させる方」が得策として庇った。
そこで「江戸幕府」は、「鎮守府神社」のこの態度までを潰す訳にもいかず、「神明社を潰す」が、“「影の存在であった事」”で黙認したと経緯と成る。
その「黙認」の「裏の意」は、そのそうする事で「鎮守府神社」にも{青木氏の財」と「古来からの影の権威・庶民の信心」を獲得するに「利点」が有った。
「幕府」からその責任を攻められれば、「知らぬ事」で逃げられるし、現実に攻められた恐れがあった事が記されている。
「福井の神明社」や「伊勢・桑名」でもこの事が記録されている。
結局、「桑名の記録」には現在も遺された資料には、“「幕府」も黙認の姿勢を採った事”が記されている。
結果として、これが「伊勢」には「神明社の地」として「集中して19社」が遺った.
その経緯では、現実には“権威性は低下した”が、現在も“「祠の形」”である事は別として、遺されている所以でもあった。
この「神明社の扱い」は、古来、「伊勢王の権威性」であった所以でもある。
「伊勢」より[より厳しい処置を受けた信濃」は、“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の役務の「神明社・18社の信濃神明社」も同然の経緯を持った。
「伊勢郷士衆50衆の氏族」との関連を持った「伊勢の郷士の豪族」の「土地と建造物の地主神と鎮守神の社」の御蔭でもある。

注釈 「秀郷流青木氏の春日社」も「神明社と同然」で、全段でも論じた様に「幕府から酷い扱い」を受けた。
これには「秀郷流青木氏族の春日社」の「社格・361氏の大秀郷流一族一門・幕府の御家人」の「国幣社の社格式」を“「神社格」”に落としてでも一部は難を逃れた。
当時は、“「春日社の社格」”>“一般の神社格」”であった。

さて、それまでの“「第二の姓”の発生」に対するこの“「神明社の姓認定の権威」”は、上記した様に、今度は「江戸初期の第三の姓の発生・大日本史記載」でも、最初は“「信濃の神明社の姓認定の権威」”によるものとして認められていたが、これも「幕府の国印状」に代えた。
続けて「第四の姓の発生・諡号を模倣した姓名」が起こったが、これには流石に「幕府」は「禁令」で以て別に「姓変更」を命じた。
変更しなければ「認証の国印状・黒印状の発行」を認めなかった。
そこで、その「幕府」に依って「青木氏の神明社の権威」が低下させられた狭間で、その「神明社の青木氏の歴史観」には、前段でも何度も論じて来た様に、「大きな変化」を来した。
それには「一つの青木氏の事件・下記・享保期頃」が最終的に伴って来た。
その「上記の経緯の過程」で確かに「神明氏の権威性」が無く成った。
その事のみならずそれだけでは治まらず、それが「享保期の信濃神明社の聖域とされる土地の剥奪事件」と、その「神明社で行う全ての殖産の没収事件」と成って現れた。
この事に「伊勢」は手厳しく反応した。
「吉宗の青木氏に対する離反行為」として認め、それまで[莫大な投資]をして「吉宗の江戸の経済改革」を手伝っていた。
滞在していた「江戸の伊勢青木氏・日本橋」にも「信濃への幕府の離反行為・隣りに住んでいた「近江青木氏の事前情報の獲得」で知り、同じ事が及ぶとして「即座・3日」に「伊勢に引き上げるという事件・最後の幕府との付き合いと成った事件」が発生した。
そこで、改めてこの「信濃」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の役務は「信濃だけ」であったのかと云う疑問である。
「伊勢」に於いても勿論の事で、「近江」に於いても「美濃」に於いても「甲斐」に於いてもそれを示す「確実な資料記録」は、「信濃神明社以外」には何故か出て来ない。
勿論、この「信濃」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「認定の役務」は「因事菅隷」による「奈良期」からの「永代特別令外官としての役務」から来ているものだ。
その「経緯」から、「伊勢」にも「別の因事菅隷」が多くあった以上は、少なくともそれを示す「資料記録」は、「伊勢」にもあったと考えられるが、ところが「伊勢19社の神明社」にも発見されないのだ。
一つは「伊勢」には「神明社以外」に「伊勢神宮と云う権威」が別に存在していた事
二つには、「伊勢19神明社」には、他に無い意味のある「特別な名」がつけられている事
以上から「信濃の代理」を務めていた事が判る。
この「古くからの特別な名」が何を意味するのかである。
因みに、「五家五流の国の神明社]は、「近江の3社」で残りは全て時代の異なる神社格、矢張り前段でも論じた通りに疎遠であった「美濃」には0社、甲斐にも0社である。
この「信濃」は「16社」であって、殆どは不思議に「山梨との国境西側」に存在する。
この事から、「伊勢19社」と「信濃16社」であるとすると、「伊勢19社」には、“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「役務」は無い事に成る。
少なくとも「信濃16社での役務」に成る。
そうすると、この「伊勢19社」では、「伊勢神宮の上位の権威」がある事」から憚って、“「信濃の代理の役務」”で果たしてしていた事を意味する。
ところがその「役務種」に依っては「伊勢の役務を持つ神明社」は、「社名」として「名を着ける事」で特別に仕分けしていたとしている。
本来は、「神明社に名を着けない事」が、「古くからの決まり」であって、これは「青木氏の伝統」である。
特別にこの“「格式別の雑姓領域の姓の認証の役務」”では、自然に判り易くする為に、一部に「俗名・全部ではない」を着けたのだ。
然し、「伊勢の神明社」は、上記した様に「江戸幕府}に依って初期に剥奪されて「管理」までを「幕府」に移されたが、実はそれまでは「青木氏の商いの財]で賄われていた。
その「管理費用が莫大にかかる事」が判ってから放置されてしまった。
この事で荒れに荒れて、遂には果てた。
然し、それでも“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「役務の権威剥奪の目的」、「幕府」として邪魔に成る「青木氏の権威」で、この「低下」には、その「「目的」に置いている事に合致していた。
然し、「伊勢と信濃」は「幕府の圧力」にここでは我慢した。
遂には前段でも論じた様に、幕府側は我慢できずに「信濃」に次の手を打って来た。
「伊勢」は直ちに、事件発生後に「伊勢」に帰り「防御策」を採った。
この時、「郷土史の記録」では、「全国の488社の神明社を信心している民」から「幕府に対して批判」が噴出したが、“押し潰された”と記されている。
「信濃」は、最早、前段や上記した様に「信濃の家人」も含めた「幕府の奪取策」で根こそぎに奪われた。
この為に何の動きも執れなかった事が判っていて、「記録」にも遣られるままであったとその様に記されている。
前段でも論じたが、“何せ信濃の家人の多くが家臣として採用されて仕舞い口を出せなく成っていた”と前段でも詳細に記した。
“伊勢は、「神明社の剥奪」から始まりこの「吉宗の裏切り行為」に対して我慢ならなかった。”
そこで、“この「吉宗の裏切り行為」に対して「伊勢」は何かしたのかである”が、資料の行の表現に付いて参考に成る事が無いか詳細に調べた。
そして「基本と成る判った事」があった。
それが戦略として、前段でも論じている“「紀州藩を背景にした事」”であった。
前段でも論じたが、「紀州藩・初代頼信から」とは「初代から付き合い」があって、前段でも論じた様に「債券」も「2万両以上から10万両とする記録」もあるが、故に「紀州藩の財政の立て直し」の為に採った「勘定方指導と云う立場の獲得」と「紀州藩の家老も含めて全ての紀州藩の家臣」は、全て「伊勢青木氏と縁戚関係」にある「伊勢者・伊勢藤氏」であった状態にあった。
「吉宗の側用人の加納氏の伊勢本家との血縁」までもして「周り」を手堅くまとめて、吉宗にこれ以上の圧力を受けない様にした.
この事から、「吉宗の幕府」は、「伊勢」は勿論の事、「信濃」に於いても先ずは手が出せなく成って仕舞った。
更には「瀬戸内の水軍」と「紀州水軍」と「摂津水軍」と「駿河水軍」を以てして、「伊勢の山田奉行所」にも大圧力をかけた。
次に幕府から派遣されていた「紀州藩付家老」の「二人の居所・白浜城と田辺城」にも「伊勢藤氏の武装勢力・郷士衆」が周囲を囲み「武力的圧力」を「背後」からかけて幕府派遣の「目付役の付家老二人の動き」を止めたと記されている。
他には、それまでは「関西域の海運」を一手に取り締まる「山田奉行所」に対しても、「伊勢水軍」から始まり「海賊の紀伊水軍」や「摂津水軍」や「瀬戸内水軍等」が西側一斉に結束し、「摂津湾」に「摂津水軍組合」を作って、自らで「伊勢から瀬戸内まで」の「自己管理監督の仕事」をし始めたのだ。
この事で、その「山田奉行所の存在価値」が弱体化した。
その「勢力バランス」は「摂津水軍組合」に完全に傾いた。
この域を警備の管理監督していた「伊勢郡奉行所」に付いても、これを仕切っていた「伊勢郡奉行所の事件」も「無理難題」を「伊勢」に出して来た。
これに対して「家康」の「伊勢青木氏」に出した「伊勢の事お構いなしのお定め書」を提出して対抗したが、これをこの時の「奉行の大岡忠相がこれを無視した事件」が起こった。
これを不服として提出するも、これは「正しい裁定」として「吉宗が追認した」。
そこで「伊勢」では「郷士衆100衆の大騒ぎ」と成った。
この時、収まりが着かなくなった末に、この「問題の奉行の大岡忠相」を江戸に引き上げさせてこの事件を治めた。
これで「完全な犬猿の仲」と成ったが、「紀州藩」はこれに対し「幕府」に「異議・家康の尊厳・お定め書の尊重」を唱えたが無視した。
結局は「紀州藩を巻き込んだ対立関係・家康の尊厳の無視」がここで生まれた。
そこで「紀州藩」は、「吉宗の出自元」であったが、「家康の尊厳を無視した吉宗出自藩の印象」を打ち消す為に「安芸の松平氏」から「養子を迎える事」にして「吉宗の縁」を切った。
この事で「吉宗」は「紀州藩に対しての発言力」を全く無くした。
「江戸幕府」が最も嫌っていた「天皇家の力」を開幕時からその力を最低限に弱める策を執っていた。
この期に、「財政支援」を「幕府の財政難を理由に打ち切っていた事件」が更に起こった。
この様子が「記録」に遺るが、その「記録」が伝える処では、宮廷はお化け屋敷の如くで、これには到る処の壁が崩れている様に記されていて、その締め付けを更に強めて来た。
そこで「鎌倉期より献納を控えていた伊勢」は、これを観かねて、ここで記録にある様に、再び「多額の献納を一次的に開始する事」にした。
これ見よがしに「献納の車列」を態々大事に、大げさに組み、且つ、旗をなびかせ見せつけて対抗したと記されている。
「旧来の南紀の旧領地・江戸期」にも「伊勢青木氏の土地・地権保持」に対して「難癖」を着けて奪おうとして来た。
これに対して「伊勢郷士衆南北計100衆と村主衆の南北400村主衆」が一致結束して「一揆・集団反発」を起し、これに厳然と対抗したとある。
この時は「紀州藩の管轄」でありながらも「この一揆」を「紀州藩」は“「本来の一揆」”では無いとして黙認したのだ。
それは、所謂、「農民」が「宗教的背景」を以て「年貢」に対して「城主に不満」を起こすものでは無く、「農民」を含まない「伊勢郷士衆南北計100衆と村主衆の南北400村主衆」の要するに「伊勢を指導する郷士衆」であり、「一つの氏族」が起した「自らの改革運動」であって、「藩主」に対するものでは無く、且つ、「利害」を生むのものでは無いとして突張ねた。
「幕府」は、この「紀州藩の反抗する態度・明治維新まで」に対して、この「一揆の取り締まり」を言い渡して来たが、これを「以上の言い分」で無視した。
最早、「後ろでの背景」と成っていた筈の「裏の紀州藩」をも巻き込んだ様子で「表」に出る様子を呈し来た。
ところが、突然、「幕府」はそれ以上に「紀州藩を背景とした行動」に対して、「伊勢青木氏の追及」を止めた。
それは「吉宗の脳出血の病気・1645年と1651年の2度」でそれ以上は出来なく成った事件でもあった。
「家康遺言と伊勢への裏切りと言う二行為」は、精神的に一番に「脳・精神」に残るものだが、子供の頃から育てられた「親代わりの伊勢屋の青木氏」に対して、“親と観られる人・育ての親”に対しての「武士の心や将軍という役目の立場」からの“「精神的なストレス」”は、人に云われ程に大きかったのだ。

前段で「個々の事象」として論じて来たが、これ等を「以上の様に時系列」で読み込んで観ると、その時の「幕府に対抗した姿勢」が観えて来て、上記した「ある青木氏族物語」が出来て来る。
要するに、上記に記した様に、「信濃や伊勢」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「奈良期から長年続いた役務の権利」は、ここで遂に剥奪はされたが、「肝心な処は抑えていた事」で無事に寸前で治まる事に成り得た。

これが「平安期初期から始まった新撰姓氏禄」の「紛失後の経緯」であって、長年に渡って「青木氏の周囲」に多大な苦しみと影響を与え続けた。
最後、この「変化」が「意にして求めた事」では無かっただけに、「青木氏族」に執っては、未だ遺るこの“「正親町天皇からの律宗族の権威と格式の授与」”は、“「余りありがたい事」では無かった事”とも読み取れる。
つまり、今度は「江戸幕府」から、これが続けて警戒される要素に成った。
何故ならば「商いが進んだ青木氏族」には、「神明社の象徴権威の必要性」は、最早、強く求めるものでは無く成っていて、「意識の中」でも薄くなりつつあった。
その「意識の中」では、この「経緯」としては、既に「江戸期の中」に突入していた。
前段で論じた「額田青木氏と駿河青木氏の論」の様に、“この「江戸初期の伊勢の事お構いなしのお定め書」”が未だ影にあった。


>青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−53」に続く。



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