青木氏氏 研究室
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  [No.401] Re:「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」
     投稿者:副管理人   投稿日:2023/04/20(Thu) 10:43:53


「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」の末尾

暫く持ち続けた額田の銃」は、上記した様にその保持そのものをうやむやにする事にも意味があって、その後の「信長への牽制」にも充分に成りえていたと観られるし、それに背後にはこの「額田の銃力」が「松平氏にも都合の良い所」であったであのろう。
それだけの簡単に攻める事の出来ない「牽制の意味・2万から3万の兵力」を拡げていたであるからだ。
「長篠」ではこの「銃の存在」は無かったが,“「松平軍の背後」に「青木氏の銃」がまだ有るよ”と云う牽制で充分であったからだろう。
現実に勝頼の陣の右横500mに陣取った松平軍は、既に国衆で゛は無く成っている「額田青木氏の銃隊の存在」だけを思わせる事で充分であつて、それ故に合力せずに一切発砲をしなかったのだ。
余談として「傭兵軍団の火縄銃の銃の使用」は「織田軍」だけであったし、この「信長の本陣」は銃隊の遠く後方の豪族の館に置いた陣屋であったとしている。
「額田青木氏の銃」は、其の後に、「人」は殖産業等に関わり、「牽制の道具」で使われたと云う事なのだ。
そもそも、序でにその「銃の行方」に付いては、時には、これが「飾床間の片隅」に飾って置いてもおかしくは無いだろうとする程度の事だったとするが、それが責めての事として、これが「青木氏の氏是の根幹」と成っている“「青木氏の奈良期から9つの縛り・嵯峨期天皇・平安期」の「掟・否武力」と「抑止力」とに反する事”からであったからであろう。
「銃を飾りとしてする環境」には無かっ到底無かったとしている。
この様に「銃の記録と経緯を遺す程」であれば、責めて「政策期1640年頃から廃却期1740年の100年の間」では、「飾床間の片隅」にもあり得た筈であったが、これに付いても「口伝」もないし現実にはだろうそうしなかったのだろう。
これを「成さしめたもの」は、上記から論じている“「長い青木氏の伝統」では無かったか”と考える。
これが正しい“「青木氏の歴史観」”では無いだろうか。
「上記の事」は要するに、“「青木氏」をクローズアップする為”に、ここにスポットを当てて観たかったのだ。
「後勘の者」として云えるこの掘り起こした「歴史観の事」は、ここが「嵯峨期の9つの縛り策」を破った「武を建前としていた源氏族」と違っていて「生き遺れた所以」であったと云う事なのだ。


「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」

(注釈 「青木氏族の抑止力の為の試作改良銃の位置づけと当時の社会論」
この事に付いての「詳細経緯」を論じていないのでここで論じる。
この中の経緯を具に調べて観ると、そこから未だ論じていない青木氏に関わる「流れの中での歴史観」が観えて来るのだ。
それを引き出したいのだ。
これは、当時の“後付けの搾取偏纂や脚色”などに惑わされずに、「青木氏の正しい歴史観」で歴史を判断し判定するに必要とする為の重要な要素である。
さていた。
未だこの時代は、今川氏、足利氏等の主要大名も、“速射では銃よりも弓の方が戦法としては良い”と考えられていたとする記録があるし、「歴史的経緯」から観ても現在も含めて何事も現実にはそうであったろう事は頷ける。
然し、この「時間と天候」に左右される「火縄銃」では無く、“「黄鉄鋼石」を使って擦り合わせて火花を出し火薬に転火して、間かな時間で爆発の反動を起こしている「手動回転式シリンダ」から弾丸を発射させる「フリントロック式の銃」”を、秘密裏に西洋より貿易で堺で獲得していたらしい。
それを先ず観応真似で「青木氏部の鍛冶師」が居る「青木氏の起点の堺」で密かに「試作」を重ねていてたらしい。
その後にある程度形に成った物を今度は多くの「青木氏部の技術者」がいる「松阪」に秘密裏に持ち込み、そこで最終の「改良銃の原形」を造っていたと云う事らしい。
つまり、肝心な事は「額田青木氏の国衆にあう銃」を「堺商会・主要組合人と青木氏部」と共に密かに量産に持ち込もうとしていてたらしいと云う事なのだ。
これを全ての「青木氏族の抑止力」として、先ずこの要するに「試作銃」を密かに「改善」も加えた後に渡して「各地の青木氏族」で試射していたらしい事の「行の記述」が観られるのだ。
そこで要するに「改良の為の試作の試し打ち」を行ったいた様なのだ。
ところが、この「改良銃」には「上記の冗談」で論じた様な幾つかの製作上の無理が伴い「暴発や銃身爆裂」も繰り返しあった様である。
それも更には、欠点として“「相当な訓練無し」では使えなかった”とする事が資料の一部の行から読み取れるのだ。
その主な原因は、先ず、“途轍もない反動であった事”の様である。
これは「改良」に依る事から来る、これに耐えるには「屈強な体力と経験」が必要であった様である。
それには、先ず相当に“「射撃した反動」を上手く上に逃がす経験”が必要であってある。
これを駒復するには「体躯の強化」と「射撃の訓練」で克服した様である。
“兵を集めて来て簡単に扱いを覚えさせる”と云う程度では使え無かったと云う事だろう。
その「耐えうるに必要とする射撃するスタイル」があった様だ。
それは、先ずは「膝付型・A」で射撃する事が必要であった様で、更に其のスタイルの侭で「腰側に構える形・B」で射撃する提案であったとある。
「命中率」を上げる為には、最も良いのは、一歩前に半腰で脚を踏み出した「立型の目の高さに構える型・C」は、「反動を上にタイミング良く逃がしする」ので、「立型の目の高さに構える型・C」は命中率が変動しそれを上げるには相当訓練が要した様であったとされている。
ところがこのスタイルでは「日本人」には向かないとして、採用されずにそこで、「日本人」、否、「青木氏族・抑止力」に向く様にする為に、「青木氏族が住む各地で行われている試射からの意見」を集めて、それを元に改良を加えて行ったらしい事が記されている。
つまり、この意味する処は、「背の小さい日本人仕様・額田青木氏仕様」であると云う事だろう。
それでなければこの「銃力の改良タイプのフリントロック式改良銃」を唯単に持つと云う事だけでは無く、銃を使う技能の意味が成さないと考えていた事だろう。
それが形式的には、「射撃スタイルの型・ABC複合型銃」であって、更にはこの「改良銃」は尚当時でも難しい“「連射式」”であった様である。
それはこれを採用したのには戦略的な目的があった様で、それ補完する意味で「命中率=C、速射と命中率=B、速射と連射=A」としての「3つの術」を持つ意味を高める為に“「特殊な訓練」を額田の山奥で重ねていた”らしいのだ。
この「3つの様子」がこの資料から読み取れる。
取り分け「C型で脇に抱える型の提案」が、読み込む範囲では「武蔵・秀郷一門」から寄せられた様だが、発射後の「熱と煙」に邪魔されて、その後の発射が難しくあった様であり、ところが「訓練の形」の中には、これを実際に採用された行は何処にも観られないのだ。
然し乍ら、それだけに「射程距離と命中率と連射」が“「抜群」”であった様で、「貿易で入手した見本」の以上に優れていたと行の表現では読み取れるのだ。
「煙の向きなどの事の気象条件」を考えて使用が望ましかった要だ。
この「三つの型ABC」を“戦況”に応じて4年の歳月を賭けて訓練した様だ。
「三方ヶ原の戦い」では、記録が無いが、基地建設の荷駄を引き連れた「山県軍」が南に向かって突然に「突撃態勢で来た事」から、これを゜額田の銃隊」は「荷駄の周囲」に隠れて囲まれて“北に向かって突撃を待ち受けた状況”であった事から、「突撃開始点」から当初より近づいて来る形に成った事で、つまり、当初より「充分に射程距離内に入った事」から、この事から採用したのは「指揮官の命令」は「膝付型・A」であったろう事が充分に読み取れる。
上段で論じた様に「熱に対する改良点」を充分に加えていたが、それでも「煙幕と射撃熱」で「4連発」すると「必要程度の熱」を持ち、そこで「射手」には「荷駄隊も50・伊賀者等」も参加したとしているのだ。
「開戦時」は「昼の4時の開戦」として「海から吹き上げる風・海風」と成っていた事が判る。
つまり、“「爆煙」”は、この時は「海風・南の海から北の山向き吹き上げる風向き」に、丁度、変わった時間帯でもあって、「南の左の先端に近い所に位置していた額田の銃隊」は、戦う上で自ら発生させた「銃煙の影響」を受けずにいたのだ。
これが「有利」に働き、「爆煙の強い銃欠点を補える態勢」にあったのだ。
これが「逆の山風・北の山から海に向けて吹き下ろす強い風向き」の場合は、自ら発生させた「弾煙」で、暫くの間は前の敵が観えずに、これが更にこの「銃の特徴とする連射・4連発」をするとより悪化する事と成る。
この時は「フリントロック式連射式改良銃」の場合のこの「利点」を生かせずに逆に「欠点に変わる事」も起っていた筈である。
その意味で、この“「開戦4時」”に付いては、“「爆煙に依って隠して救い出すと云う作戦」”には図らずも“実にタイミングが良かった事”に成るのだ。
此れを「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、「爆煙」に付いて事前に考えていたのかは、資料からも定かではないが、「美濃額田の山の中での訓練中」にこの事は充分に知り得ていて指揮官としては配慮していた筈であると観る。
然し、“急に救出作戦をする”と成ったこの「三方ヶ原の経験のない環境」では多少の疑問が残っただろう。
その前の「一言坂での遭遇戦」では未だ逆の「山風」であったのだ。
これがこの「流れの中」で“良い方向に向いた”と云う事ではないか。
この「爆煙と云う点」では、実際に「武田軍本隊に対して左斜め」に向けて、「山県軍の別動隊に対しては右やや斜め」の「位置」にいて、「額田青木氏の銃隊」にとっては“「有利の位置」”にいたのだし、此れも“「流れの中での利点」”と成ったのだ。
前段から何度も論じているが、念の為に、要するに、“物事には「流れ」と云うものがそもそもあって、それを如何に正しく早く掴むかに掛かっている。”指揮官には必要としている。
そして、これが「成功や勝利の源」に成るのだ”としているのだ。
この為には、“「青木氏の氏是」からこれから離れてはならない”としていて、その外れた考え方や行動が、此れが、即ち、“邪念を産むから”としているのだ。
この“「邪念」”が“「流れの方向を見誤る」”と説いているのだ。
そして、“この「常の姿勢」がその「流れ」を見抜く「人間力」を生み出す”としているのだ。
従って、この場合はこれがこの「流れの中」で“良い方向に向いた”と云う事ではないかとしていて、このこれが「資料の中」で捉えられているのだ。
そもそもその「考えの下」に、この「流れの要素」の一つとして、「手動4連射式改良銃であった事」をどの様に捉えていたかによるだろう。
依って、先ず「指揮官の人間力」は、この「流れ」を呼び寄せられるかそこから決まるのだ。
この時、経緯から判断して、この“「300丁全部」”を使ったのでは無く、前段で論じた様に“「熱」に対して技術的に解決していた”としても、少なくとも「冷却用」には「数十丁」は「相手の数と戦術」に合わして「安全用」として、又「交換用」にしていた事に成るだろう。
前段でも論じた様に、“「300丁全部」”は、“「手動4連射式改良銃であった事」”から一度にこの「銃の力」を発揮すると、前段の通りに少なくともまず「連射式」であるので、“「約40倍程度の兵力」”に成るとして計算すると、その「兵力換算」は「12000の兵力」に相当する事に成る。
「銃隊を横一列に並べて陣形」を組むので、「並列の12000の兵力」に成り得るし、その「攻め向き」を自由に換えられるので、指揮官が指揮すれば、“一点集中”も可能だし、敵前の状態に合わせて“「兵力の角度に依る自由度」”は持っている。
この前提で、一度に「武田軍本隊の12000の敵」が攻めて来る事は物理的に先ず無いので、仮に可能に成ったとしてとしても、「前面に出て来る兵数」は「三方ヶ原の広さ」から「最大でも1000」にもならないだろうが、仮にここで「1000兵」としても“「300丁全部」”を“「手動4連射式改良銃]であった”のであるから簡単に対応できる話となるのだ。
従って、「爆煙の影響」は、絶対に不利に働く事はなく、“「手動4連射式改良銃での前提」の中で、これも「有利な点」として「流れの中」で働いていた事に成るのだろう。
その前に、「武田軍の本隊」は、“銃隊の威力の経験のない山県軍の別動隊”と異なり「2回の経験」を通じて「危険・威力」を充分に察知して完全に進軍を止めているのだ。
此処に「流れの差」が出たのだ。
“銃隊の威力の経験のない山県軍の別動隊”は、“「額田青木氏の銃隊を敵と認識して遮二無に突撃した事」”で、この「銃弾の犠牲」を100%負ったのだ。
つまり、これは「山県軍の別動隊と武田軍本隊との情報交換」が出来ていなかった事にあり、重大な“正しい流れ”を「両方の指揮官」は掴み切れていなかった事に成るのだ。
これは簡単な事であった筈で、両方の軍には幌者と忍者が居た筈でそれが生かされていなかった事に成る。
普通は、常時に動かしている筈であるが、届かなかった理由は何なのか、そしてどの経緯であったのかであるが気に成る。
これを調べたが、そもそも常道とされる「戦い直前の情報のやり取り」は、この時に「幌者と忍者が動いた形跡」の「甲斐資料の読み込み」では、その「行の様な処」を見つける事は出来なかった。
前段でもの「時系列」には少なくとも「両軍・本隊と別動隊」にその様な「ポイント」が無かった筈だが、仮にあったとすれば、上記した「三方ヶ原の到着時の時系列との間の瞬間」であろう。
つまり、“到着してこの情報を受け取ったとしても既に遅い”と云う瞬間であろう。
前段で論じた様に、“「額田青木氏の銃隊」は発見を恐れて手前で隠れて忍者の報告を待って「ぎりぎりの到着の行動」を採った事”は論じたが、この事があったとしてもこの時であろう。
其れが、“山県軍の別動隊に現れた”と云う事だ。
その「武田軍の本隊の時系列の点・疲労」でもそうだが、「武田軍本隊の態勢も勝利・魚鱗と鶴翼の差という点」では際どい処にあって、「山県軍の別動隊」に執っては[軍の目的や兵の質」は違うが、これを無理に突撃と云う形で本隊を救おうとしてい事に成る。
つまり、この時、「勝利の流れ」を読む中にも最早無かったと云う事に成る。
この「大事な流れ」を「掴む・読む」には、“既に遅いと云う時間帯であった”と云う事だ。
又、逆に“「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、そこを目的として行動していたのだ。
これはこの時、既にその目的が成功していたと云う事に成る。
この「流れの読み込みの差」が、“「額田青木氏の銃隊の方」が優れていた”と云う事であろう。
上記で論じている様に、此の「瞬間の処」で、“「両軍・本隊と別動隊」は「大切な流れ」を見失っていた”のだ。
この「流れ」を見失って進軍し始めていた「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の銃隊の救出劇・300丁の一斉射撃とその弾幕煙」で、「進軍を完全停止させられていた事」が「流れ」を見失った中でも、この「流れを取り戻す結果」と成っていたのだ。
要は、「進軍の完全停止の指揮官の判断」が正しい流れを引き戻していたのだと判断できる。
それが、「額田青木氏の銃隊の救出劇・300丁の一斉射撃とその弾幕煙」で終わらした事にあって、それが「両者の指揮官の無益な殺生を避ける事・共存共栄の精神にあって、取り分け、「額田青木氏の指揮官」に執っては「青木氏の氏是の影響」にあったのだとしている。

注釈 「青木氏の氏是」
”世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”
以上である。

「額田青木氏の銃隊の荷駄隊」は、「弾丸の準備」をし「黄鉄鉱石の交換」は「射撃時間」が短かったのでその必要は無かったと考えられ、あとは「火薬の準備」と「冷却用銃の準備」であったろう。
要は、「命中率」は、「開始時」より戦記よりると、既に“「100%の射程距離内」に入っている”ので、「速射と連射」であった事が割り出せるが、「相手・武田軍の本隊の騎馬隊の被害は何故か触れていないので判ら無い。
然しが、「進軍の寸前で停止している事」で、「煙幕と爆音」で威嚇に換えて「救出」を主体に空に逸らしたと考えられる。
ところが、武田軍側からは「敵・松平軍」と観られていた事から同時に射撃を開始したが、“「山県軍の別動隊の突撃隊を躱す事」が出来ず”と観た「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、“「味方の犠牲」を無くす事”の為に「本格射撃」を命じ戦いの行動は開始したのだ。
目前の左右の「速射と連射=A」で起こる「煙幕と爆音」が凄く、「山県軍の別動隊」が潰されて行く惨状を目前で観ても、「武田軍の本隊の騎馬隊」も自由が利かず、且つ「煙幕」で「山県軍の補給基地築造隊の突然の突撃」に対して、この本隊も救出の為に近づく事さえも出来なかったと予想できる。
ここでは本隊自らも危なく「救出どころの話では無かった戦況」が読み取れる。
「武田軍本隊」もこの段階ではその様に読み取っていた筈だ。
そもそも戦いの結果の「流れ」を変え得る「本隊の行動」一つで銃弾の惨劇が待っていたのだ。
ところが「吉田城の籠城戦と一言坂の経験」が武田軍本隊の指揮官等のこの「流れ」を正しい方向に呼び止めたと云う事なのだ。
従って「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊側の前進」と「山県軍の別動隊の突撃」の「二つの方向」に向けて、戦況はこの“「煙幕の有無」”に関係なく西側と北側に向けてただ撃ち続ければ良かった事に成ろう。
上記の検証で、「貞治隊救出の銃隊」から観た「山県軍の別動隊への攻撃角度の位置関係」は、資料から救出位置から観ると、少なくとも“「右30度以内にあった事」”が判り、「武田軍の本隊への角度」は、「救出の空間」を作り出す為に余り前進しない様に牽制していてその距離が生まれていたのであって、その角度は“「左約60度以内」”であったと観られる。
それは、つまり「額田青木氏の銃隊の位置」から合わせて「90度の範囲・右向寄直角」にあった事に成る。
だとすると、この「山県軍の別動隊の突撃の戦いでの出来事」で、「90度」である以上は「銃隊一列」では迎えられない事に成る。
そこで、「額田青木氏の銃隊」は、直前に「山県軍の別動隊」が「北の山際に位置していた事」を観て、直ぐに「やや左とやや右向き」で、直前で“「二つに向きを分けていた事」”に成る。
これに付いては、「銃の向きか銃隊の向きかの検証」からこれは「銃の向き」では困難であった事が判る。
何故ならば、この「銃」は、そもそも兎も角も「フリントロック式改良銃であった事」から、反動と音が大きく隣の隊員に危険と成ろう事が判る。
そこで「役割」を決めて、そこで“「銃隊の向き」を変えて射撃した事”に成るだろう。
然し、迫りくる「山県軍の突撃隊」が、銃隊に近付くに連れて「射撃」が左側に位置していた銃隊の一部は射撃が出来なく成った事に成る。
そこで、“最も右側に位置していた銃隊員による射撃のみ”と成ったと観られる。
前段でも論じたが、「突撃隊の左」が、“「右側に位置していた銃隊員」の直ぐ横を通り抜けた”と「伊勢の遺された資料」には記されている。これを頷けられる。
そして、更に記録にはこの時には“「銃隊側」には死傷者はなかった”とある。
勿論、これは「松平軍の鶴翼の頭部分」を丁度突き抜けて行った事に成るのだ。
恐らくは、「山県軍の別動隊の目的」は、「補給基地地築造隊」である以上は、「松平軍の死傷者を多く出して軍を弱める」と云う事よりは、寧ろ、突撃に依って「松平軍の陣形を崩すと云う目的」にあった筈であり、此れで以て「武田軍の本隊の窮地」を救おうとした筈なのだ。
「山県昌景の頭」の中にあったのは、その「窮地」とは逆に成っている「12000の魚鱗と5000の鶴翼の点・持久戦に成ると云う先日の不利な点」にあったのだ。
だからこそ、「鶴翼の陣形」を自らの犠牲を負って突撃でこれをただ潰そうとしたのだだろう。
そうすれば「武田軍の本隊」は勝てると観て突撃したのだが、ここで思わぬ事が起ってしまったのだ。
それは「額田青木氏の計算外の銃隊一列の存在」であったのだ。
上記した様に、つまり、何を論じようとしているかと云えば,“「武田軍の間で情報のやり取り」”が充分に成されていれば、これは「額田青木氏の銃隊」はピンポイントに「射撃をしなかったと云う充分な経緯」である。
つまり、これを知ってれば“突撃隊を横目で見ながらやり過ごしていた”筈だ。
何故ならば、この「山県昌景の頭」には武田軍唯一の軍師で全国にも名を馳せていた一人で、「軍師を色々歴史を研究する中」で、最も筆者に合った考え方をしている軍師であったからだ。
情報を欠く大した場面ではなかったので何故、ここで情報を欠いていたのかである。
ここには別に歴史に遺されていない「経緯」があったからであり、普通は何かがあったのではないかと疑うところなのだ。
この時に、「山県軍」が浜松城の門前に立ちながら“「無人の浜松城」も攻め取らなかったミス”をしているのだ。
敢えて、「山県昌景の指揮官」として最も必要な「流れ」を読み取る事をしていなかったのかである。
此の時の記録には山県軍には2000の負傷者と云う記録が遺されている。
これは不思議な事で、なにもしないで2000の負傷者を出す事はない。
この間かに「松平軍」は「陣形が総崩れ」になっていて「2000の負傷者を出させる戦い方}ではそもそも無かったのだし、そもそも家康が逃げ出しているのだ。
但し、時系列からこの時は「額田青木氏の銃隊の射撃」が、“「武田軍の本隊への牽制」が効いていた”としての事に就いてであるが、その後に素早く「駿河の青木貞治隊」を無傷で救出している経緯の時系列の事を考えれば、「武田軍の本隊」のそれ以上の前進はほぼ無く、それが「定位置」であってそれ以上の前進は無かった事に成り得る。
だとすると、ここで読めて来るものがある。
それには二つある。
その「一つの経緯」は、「山県軍の別動隊への突撃の攻撃」が、幾つかの記録を総合する「額田青木氏の銃隊」の右直ぐ横を突き抜けている事に成るので、「武田軍の本隊への牽制・進軍停止」はより効果的に効いていた事に成る。
この「無傷の救出」では、「山県軍の別動隊」が“「松平軍の左鶴翼目がけて突撃中」であるので、「駿河青木貞治隊」とは「隊の東側隅」で瞬間的に交差するか接触する事に成っていた事に成る。
そこで、この「救出劇」は、その前を交差する様に走り去る事は困難である事に成る。
つまり、だとすると“「山県軍の別動隊が突き抜けた後の直後に救出した事」”が判る。
その間、そして「武田軍の本隊への牽制の継続」は、「銃隊の左側での牽制弾幕」、そして「銃隊の右側」では「山県軍の別動隊の銃撃戦」に成っていた事に成るので、「救出」は困難であった事に成る。
つまり、だとすると「右側」では「銃撃」を続け、「直ぐ左側の際の弾幕の中」から「救出」を続けていた事の最中と成るのだ。
だとすると、「額田青木氏の銃隊との位置関係」からすると、この「銃隊の左」の「背後に貞治隊を導き救出した事」に成る。
後は、「山県軍の別動隊」が抜けて行く過程であって、論理的には「貞治隊」が「東の盤田見附の西光寺」へ辿り着くには、この時には必然的に「山県軍の別動隊と交差する事」に成る。
つまり、そうすると、これは極めて危険であった筈で、と成ればできる事は「額田青木氏の銃隊」の「背後の位置」に先ず留め置く必要が出る。
「背後に救出した貞治隊」を、「山県軍の別動隊の突撃隊」が通り過ぎるまで、一定時間は一時的には匿う必要性があった事に成る。
全てが通り過ぎなくても良いか、どうかは「別動隊の供給基地の荷台隊・戦力外」がこの「突撃隊」に参加していたかどうかであるが、どこにも別にしたと言う事はきされていない。
そうすると、「記録の経緯」から後ろに着いて”走った事”に成るだろう。
そこで、ここは一刻を争う場面であり事態がどう変わるかは判らないので、「貞治隊」に執っては山県軍の突撃隊が、前を“通り過ぎなくても良い”と云う結論に成り、時間の経緯から観て後尾かどうかは別にして、「突撃兵が途切れた瞬間」を見計らって「盤田見附の東の西光寺に向かって走った事」に成る。
其の後の“浜松城に到着した山県軍”は、記録から観て「無人に近い浜松城」を攻めないで「甲斐」に向かって行った事から観ると、矢張り、この「行」からも“荷駄隊も後ろに従っていた事”に成るのだ。

ここで、前段でも論じたが、“何故、山県軍の別動隊が供給基地の基地建設とまだ武田軍の本隊の居る三方ヶ原に戻らなかったのか”と云う大きな疑問が湧く。
この「大きな疑問」が、“信玄が倒れたとするの情報”が書き込まれる事に成り、それに従って、この「一つの事」に依って、その後の上記した「山県軍の情報の有無の疑問・流れの欠落」に繋がったのだと読める。
そして、それが「山県軍の別動隊の突撃隊への凶変の疑問・魚鱗と鶴翼の長期戦を避ける突撃戦法」へと繋がり、「浜松城の放棄の疑問・戦う時間的余裕が無くなる」等にも繋がって行ったのだ。
全ての「三方ヶ原」のその後の「額田青木氏の銃隊の出来事」と、「駿河青木氏の貞治隊の出来事」に繋がって行った事に成るが、「流れ」としては良い方向に向いて行った事になる。
中でも、其の後は「殖産と商い」に集中し、「長篠の戦いに関係しなかった事」にこの「流れ」を呼び込んだのである。
「信玄の病気説]にはこれは関係は無かっただろう。
「信濃・諏訪族青木氏」と「時光系甲斐の青木氏」が「武田側に関わっていた事・参戦」で、場合に依っては、「伊勢と信濃青木氏」も「流れ」に依っては「甲斐側」に関わっていたかも知れないのだ。
何故なら、この後の「長篠の戦い」にも「源光系賜姓族青木氏」が「古来の伝統」に従って「間接参戦の姿勢」を見せていたらしい。

さて、ここで事を左右する歴史観が「賜姓臣下族」だけには有るのだ。
それは古来より、「賜姓族青木氏」には課せられた一つの「伝統的な慣習」があって「賜姓臣下族」に「戦いの様な存続を示唆し左右すると考えられる出来事」と観られた場合には、「互いに援助の手を差し伸べる事」が「賜姓臣下族内の古来からの伝統的習わし」である。
これが「伝統的習わし」でありながらも、その場合はその「賜姓臣下族の中心と成る賜姓臣下族だけ」に対してのみ過去に於いて聞きなれない「天皇の因事菅隷」が密かに発せられているのだ。
賜姓青木氏だけに秘かに発せられる秘密裏の天皇の意を組んだ内密書の事である。
そもそも「賜姓臣下族」とは、前段でも何度も論じてきたが、そもそもその目的は「天皇の周囲を安全に固める策」の一つであって、それが「崩れる事の警戒」から上記の様な伝統的な慣習が密かに生まれていたのだ。
例えば、この例としては前段でも論じた様に多くあるが、貧の困窮を極めていた「近江佐々木氏系四氏を救う事」を目的に、「伊勢賜姓臣下族青木氏・伊勢王で浄大壱位の格式」に対して「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」をして「米と楮の生産」が出来る様に秘かに「因事菅隷で命じた事/結果として源氏化して失敗する」がある。
この様に、「時光系青木氏・嵯峨系」は、「臣下族」で無いので、それが無いとしても、「源光系賜姓族青木氏・嵯峨系」に対しての「援助を命じて来る事」は充分にあった。
この因事菅隷の内密書は少なくとも室町期にもあったとしても永代である以上は、依然として「伊勢側」に執っては[格式]も然る事乍ら、「最高位の立場」に有り、「最高の財糸と最高の抑止力」をも有していた以上はあり得た令の発行であるのだ。
「天皇」に対して「因事菅隷」を出さぬ様に「事と次第ではこの献納が崩れる事」を盾にして牽制していたと思われるが、それを気にしていた事では充分にあった筈と考えられる。
これは「因事菅隷」である以上は断れないし、幸いにところがここでは無かったのだ。
その時の天皇が,前段でも論じた積極行動で野心家で天皇権威不復活を試みていた事で知られる「正親町天皇・1597年」であったし、この時は「伊勢賜姓臣下青木氏」としては前段でも論じた様に相当に振り回された天皇であつたのだ。
従って、その充分に危険性は「青木氏」にはあったが、「長篠に関わる事」は「天皇家の存続」に執っても「自らの自己財源となる献納」が無くなる事には成り得るとして「一つの賭け」に成るのだ。
メリットも少ないし牽制に依る青木氏の説得もあって避けたと考えられる。
筆者は、参戦は無くしても少なくとも“それなりの話はあった”と観ているのだ。
前段で論じた様に、ところが、その「流れの方向」が「天皇に執ってメリットの少ない参戦」では無く「因事菅隷に依る「青木氏の15商業組合の結成」に向いたと観ているのだ。
然し、それがこの青木氏に執って疎遠の嵯峨流源光系賜姓族であった事がこの「伝統の支援」は「第二次的位置」に置かれ、その一次は矢張り、その時の「伝統の習わし」は、「賜姓臣下族支援の因事菅隷」は「伊勢系と信濃系と秀郷流系の青木氏の「青木氏の15商業組合の結成と相互支援」に向いたと成ろう。
つまり、この時の「流れ」は、「伝統の習わし」の「正規の方向」に流れずに、「嵯峨期から一切疎遠で通した事」が「良い流れ」」を呼び込んだのだ。

注釈 前段でも論じた様に、「嵯峨系賜姓臣下族・後に源光系青木氏に引き継がれた」が、実質、「賜姓族」に付いて、「嵯峨天皇」は「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に換えた事で、流石に対立していた上皇との間で「折衷策」が取れずにいたが、「青木氏の賜姓」を正式に「身内の皇子」に「青木氏賜姓外し」で出来ずに、「皇子の一人」を止む無く、先ず一段格下の「甲斐蔵人頭・令外官で天皇の秘書扱い」に任じて「甲斐」に送る事にしたのだ。
その後に成って、この一族の「甲斐後裔の源源光」に「賜姓甲斐青木氏」を名乗らせて「上皇との対立」を避けた経緯を持っているのだ。

注釈 青木氏には歴史が特別に長く伝統にまみれていた為に最古の歴史知識まで知り得ている事が必要である。
これはそのそのものが「青木氏の歴史観」と成り得るのだが、「青木氏」と云うよりは「日本の歴史観」とも云えるものであり、そのものが難しい事なのだ。
その中でもこの「因事菅隷」とは、奈良時代から平安時代に架けては「天皇の行政命令書」は「太政大臣」から発せられる原則であった。
ところが、この「賜姓臣下族」は、その格式は天皇に続く高い格式を有している。
依って、「太政大臣の行政官」からこの格式からは令外官の中でも最上位に当たり下から上への命令はあり得ないし、発せられない事が起る。
そこで、令を発する事は格下の太政大臣の行政官からは発する事は出来ない。
そこで、「因事菅隷」と云う形式で「天皇の内密書として発する事」に成る。
当然に、それにはこれを書するには、誰もが犯し得ないそれなりの「力・行政力」と「財力と院屋号の特権」を有している事に成り得る。
例え、これは天皇でさえも犯し得ない特権なのだ。
要するに天皇の代行者であるのだが、一度発せられた場合は其の後の天皇でさえ犯し得ない内密書である。
これが要するに「因事菅隷」として最大の格式を有するものでありながら秘密裏に発せられるものなのだ。
その有無さえも確認を許され得る事は誰にも何度時期にも出来ないものであるのだ。

さて戻して、この匿う為の一時は、左側では「武田軍の本隊牽制の為の弾幕」の為に撃ち続け、そして先ず釘付けした上で、右側の突撃して来る「山県軍の別動隊に対する銃撃」のその「役割の終わった者」から、今度はこの為に「周囲を荷駄と銃で囲んで固めていた事」に成る。
そして、「駿河青木貞治隊の完全救出後」に、「武田軍の本隊への牽制」は、「額田青木氏の銃隊」が未だ「戦線離脱」するまでの間は、「牽制の射撃を続けていた事」に成る。
その離脱の程度に合わせながら「牽制射撃は中止して行った事」の「流れ」に成り、それと同時に救出した「駿河青木貞治隊」も「東の盤田見附の西光寺」に向けて走り去った事に成る。
そして、「額田青木氏と駿河青木氏の離脱後・銃撃が止んだ時」に、「武田軍の本隊」は、既に「総崩れ」に成っている「松平軍の本陣」を目がけて「赤兜の騎馬隊」が突撃を開始したと成る。
恐らくは、「山県軍の別動隊への攻撃」で、この「突き抜ける間」は、上記で位置関係の距離から検証した様に、「短時間・約十五分程度」であった事が判る。
その「15分間の間」のその直後に、「額田青木氏の銃隊の左荷駄の後ろの方の左側・安全な位置」に導き出した事に成るだろう。
つまり、「駿河青木貞治隊の戦いの定位置の戦場」から観て「やや南斜め後方」に導いた事に成る。
つまり、これは普通は「武田軍の本隊への牽制」が無ければ、直ぐに潰されれる位置にあった事に成る。

そこで、「三河戦記」の「額田青木氏の指揮官の貞治の死傷の記述」に付いては、上記した様に「疑問の点」が多いが、仮にこの事が史実とすれば、恐らくは、この時に筆者の考えでは、“「救出後の一瞬の間隙」”を捕らえて、「松平軍・旗本」から「軍議の逆恨み・命令を断った」から、あったとすれば「特別に命じられていた狙撃兵・伊川津の旗本衆・この時は未だ国衆」から“「狙撃された可能性がある”と観ているのだ。
その前に、この「狙撃兵」が銃の前で生きられていたかが甚だ疑問である。
それ以外には「救出」が済み、そして「牽制の銃撃」が終わり、「武田軍本隊が攻め始めた事で、「総崩れの混乱の中の松平軍」にはその「タイミング」のそのものは絶対に無かった事に成る。
記録から観ると、その「総崩れの混乱のレベル」は、次の様に記されている。
「家康」は「最初200の旗本」に周囲を護られていた最後尾にいた。
然し、瞬く間に20人から最後は5人にまで成って、「東遠回り」で先ず逃げ、其の後にゆっくりと様子を見ながら「浜松城」に辿り着いたとされている経緯である。
この時、既に掃討作戦が組まれ追われていた事に成っている。
何とか東に逃れて辿り着いて入城する時は、「僅かな数人の城守備兵の安全の合図・提灯を城門の前に架ける・事前に通知」で城に何とか入ったと記されている。
この事から、そんな「記録にあるタイミングは無かった事」に成り、且つ、「武田軍」に攻められている真っ最中の中で、この時はその「狙撃兵とその命令者の命」はそもそも無かったレベルな筈で、三々五々に“「負傷兵・殆ど負傷兵」”が城に戻って来た事が記されている。
依って、この事の詳細と人物の確認と認定等が出来た訳は無い筈で、それを「記録に遺す事」がそもそも出来るか疑問であり、且つ、「その事の詳細」をそもそも掴めていない事に成るだろう。
これは体面を保つ為に、後に「旗本と成った者等」の「国衆の後付言」に外ならない。
これを戦記祐筆が真偽は別として国衆の勘定の言い分に沿ってかなり後に書き添えたものである事が判る。
そもそも「三河戦記類等」では、それを藩に記して遺す者は、その時期は戦後であって、「数人の祐筆役兵」が丘の上などの影から、“戦場を眺めて観て、後でそれを書き知るす”か、“生き延びた者らに聞き取りして記するか”によるが普通で、“戦場を観て、後で書き知るす”の場合は、主に「戦後の論功行賞」に主に使われ、大まかな結果に対して「戦術的な働きの評価」に利用されるものが多いのだ。
そしてそれを聞いて「軍議」が、どの様に裁くかに用いられるのだ。
「聞き取りによる情報」では、その戦場の中にいて戦った者からの「聞き取り」であって、当然にその主観や利害が大きく働き、余り信用が出来ないものなのだ。
ここに、そもそもの「戦記ものの欠点」があり、矛盾なども生まれ結果として纏める際には「取り繕う事」に成るのだ。
だから戦記物には時系列や矛盾が生まれるものなのだ。
これは松平氏に限らず何処の藩に於いても同じで、これを基に後に戦記物語が造られるので更に矛盾が生まれるのだし、物語風などは尚更の事である。
その中でのこの「指揮官負傷の記録とする情報」は、そもそも「自軍の者」ではそもそも無く、書き記したのも聞き取りに過ぎないのだ。
況してやこの矛盾の更におかしい所は、「三河者」に執っては“敵に相当する者”に近いのだし、本来はまず記する事はそもそも無い。
況してや敵の事までも判る事は無くそれ程に「三方ヶ原の松平軍の乱れた混乱の戦場」は、「指揮官」さえも何処にいたのかさえも、且つ、「家康の大将」さえも開戦時には東に逃れて既に戦場に居なかったのだ。
つまり、「額田青木氏の指揮官等」は既に存在そのものが判らない冷静な状況では無かったのだ。
依って、「殆ど造り事」に過ぎないのだし、況してや「自軍の西端の左」で起こった観えない場所の結果である。
況してや、「爆煙で観える事等無かった筈であるし、荷駄で囲まれた中程での事でもある。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官の名が判明しない」が、負傷していた事は「伊勢の記録」でも、判っていて、帰国後に時期は不明であるが、この「指揮官らしき者」が「寺の過去帳の記録」ではその後に死亡していた事が判っている。
然し、ところそれが「三方ヶ原の怪我」が下で戦死した事かも判っていない。
然し、「伊勢青木氏の資料」では、その後に「三河国」に残り、そこで「開発業の指揮」を執ったとあるので、同一人物とするとその後に何らかの理由で伊勢に戻った事に成ろう。
恐らくは同一人物であろうと考えられるが、そうすると、この様な功績を挙げた者の「菩提寺での伊勢秀郷流青木氏としての扱い」が判らない様に祀ると云うのは低すぎる。

これに付いての「詳細経緯」である。
戦況が上記の通りであったとして、“では何故、指揮官は負傷し、その後に戦死したとする”かに「疑問」があって、それには、幾つかの大きな疑問が残る。
そもそも前段と共に上記した様に「相当に安全な銃撃環境」であったのに、“何故、負傷するか”である。
「山県軍の別動隊」が「北の鶴翼・右」から「南の鶴翼・左」に抜け切るのに、前段の検証で論じた通り、「数十分の範囲」であった。
その直前まで負傷するに値する危険は無かった筈で、仮にあるとするとその間隔は「上記の経緯」から、“「通り抜けた寸前」から「抜けきるまでの間」の「数十分の範囲」”と成り得る。
筆者は、然し、「停止する事の出来ない突撃隊」が走り続ける為には其れが邪魔して狙撃は困難であった筈で、この短い隙間の時間としてあるとすれば、この「抜けきった直後の静寂の一瞬」しかないだろう。
それを誰かに弓矢で狙撃されたと観る事が出来るが、その“誰かは「この戦いの経緯の中」で、果たして敵意を持つ者が居たであろうか”と云う事に成る。
それも突撃中の「混乱の中での弓」はありえず、その弓矢では高い確率で失敗は伴い。
依って警戒されていない者として、この「銃隊の指揮官の場合」は、伊川津まで辿り着きそこで働きしている。
それが“「負傷・怪我」をしていた”とすると、これを前提とすると、“隠れ潜んでこの為だけの一瞬を狙い「決死の突撃の槍」”だけがチャンスと成ろうが、そんな「チャンスの生まれる弓矢の環境」ではそもそも無かった。
其の後はこの“「狙撃兵」”は、100%に於いて「敵・銃隊」に銃撃されたかは「味方・命令者」にその後に殺傷されたかであろうが、「松平の味方の説」は無いとすると「青木氏の記録」のだけにしか遺らないがそれが無い。
この内、「敵・銃隊の中」に居た限りは、「犯人は即座に銃撃された事」は間違いは無い。
だとすると、先ず松平氏側では遺る事は、そもそも無い事に成り、松平氏側の戦記には上記した様な経緯の虚偽が生まれる。

この事が「虚偽」なりに、「一つの戦記類」に後刻に於いて遺したと云う事は、その「虚偽」にしても、その意味する処は、「強い遺恨を残していた事」に成るだろう。
それもそもそもこれらの信用できない「虚偽記録」では、何と偶然ではない「額田青木氏と駿河青木氏の両指揮官の二人共」である。
これを観ると、「浜松城の命令拒否」と「伊川津の国衆・後に旗本等」の「二つの遺恨」が元で、明かに“自分達の立場を良くする為にある物語を描いた「恣意的な虚偽と矛盾・後付け」”である事が判る。
「恣意的な虚偽と矛盾・後付け」”の検証として次の事が云える。
然し、仮に、槍を突き付けられたとして、「額田青木氏の銃」による「速射と連射=A」であるので、その直前に既に「狙撃兵」は射殺されている事に成ろうし、相手は目前であった事に成るので「銃隊の周囲の者」は「誰・松平軍」であったかは判る筈である。
だとすれば「青木氏側の記録に遺る事に成るので、これは無い。
とすると、可能なのは、“遠くから槍を投げられた”か、同じこの左側面に隠れ潜んでいてこの「一瞬の隙」を狙って飛び出して槍を突き出したかであるが、この際には上記した様に“そんな隙と空間”は既に無かったのだ。
この説では、これが立って指揮している「指揮官」に間違いなく当たった事に成り、故に相当に“離れたの距離”で無くては成り立たない説であり、その場合は「銃の犠牲」か「突撃隊の犠牲」と成り、且つ「死説」”としているがそうでは無く“「負傷」”となるであろう。
そもそもこれらは「突撃隊の事や銃隊の事やその時の時系列の事や戦場の在り様や武田軍や松平軍の状態の事等を一切無視している。
元々も「三河戦記類」はこれらの事を無視しての物語説に成っているのだ。
つまり、江戸の初期から歴史は「史実」より「面白可笑しく描いた説」が時代が求められていたのだ。
そう云う歴史観で、「江戸期の歴史書類」ではこの「江戸の先入観」で先ず観る事から始めるべきなのだ。
後に明治期に成って史実が求められる様に成ったのはこの反動であり、悪い事では無くそういうものであったとするものであろう。
だとしても、仮に「怪我」をして「伊川津」に引き上げているとしても、「松平氏」とは既に「縁」を切っているし、そもそもネットも無い時代で、且つ「情報のやり取り」は無いのに、“何故、此れが元で死んだ事を後に知っているのか”である。
そもそも「青木氏族」では、「四掟制度の掟」から「自らの氏族内での情報」はその立場上で外に漏らしてはならないし、出してもいないし、「伊賀青木氏等の活躍」で「族内の情報」は管理されている。
前段でも論じたが「大商い」をしている限りに於いては、「氏是」を定めていたくらいで、何故ならばそれは「氏存続の成否に繋がる事」であった。
それは次の事でも判る。
古来依り「顔隠策・奈良期の部経済の処理人頭から始まる事」で全てが特定されない様に「族内の管理」に留めていたからこそ外にはあまり資料も無く、族内で何人も祐筆を置いて「歴史史書・明治35年失火消失」を纏めていたのだ。余談だがそれを今復元の努力をしているだ。
最低でも明治9年頃までは管理されていたのだ。
これは「不思議・疑問」である。
だとすると、「伊勢秀郷流青木氏と伊勢青木氏の記録」とも共に一致しない。
これらは間違いなく上記した要領で「後付けの虚偽」をした事に成るのだが、そして、そうすると「青木貞治の事」は当初は前段でも論じた様に「三河国衆」ではそもそも無く、まだこの時は「駿河国衆であった事」から、多少は知り得る事はあり得るが、「額田青木氏の銃隊の指揮官の貞秀」の方までは、何故、戦死した事にしていた事に成り得るのか、且つ、それを何故に態々「戦記」にまで記載し、その詳細を記する程にこの当時の情報として知っていたのかである。
この事は“「狙撃の詳細情報」”までが少なくとも“「祐筆」までは知り得ていた事”に成り、詳細過ぎるだろう。都合よくしたものでそれ程の安定した戦況の状況にはなかつた筈だ。
これが出来るのは、江戸期に流行した「後付け説」であっ事に成る。
特に「江戸期の三河戦記類」は5つあってその内の一つを除いては物語風で仕上げているので元より信用できないが、残りの一つも江戸期の松平氏で仕上げた戦記類で徳川氏に都合よく虚偽で纏めたもので時系列などの史実の矛盾が多く信用は出来ない前提にある。
然し、ここまで「青木氏の事」に食い込んできて書かれて遺されたと成れば後勘の為にも放置はできないので、その矛盾を突いておいたのだ。

さて、話をもう一度戻す。
「射手」等は「荷駄」を盾にして、「膝付型・A」であった事から戦場の真っ最中の中でのこの「危険性・狙撃」は無かった筈である。
この後に、「負傷したとするの指揮官」は、「四人の差配頭」の内の「一人の者・頭目」がこれに当たっていた事がこの者は「伊勢秀郷流青木氏の者」であった事が判っている。
従って、「青木貞治隊を救い出した後」のこの段階では、つまり、「突撃隊が通り抜けた直後」には、だとすれば、“この負傷したとする「指揮官」を荷駄車に載せ「戦線離脱した経緯・イ”」と成り得る。
故に、但しこれが、この間に、「上記の経緯」で「青木貞治隊を救い出した」が、「盤田見附の西光寺」まで援護しなかった史実としてこれが、又は出来なかった事が判っている。
然し、この「戦場の真っただ中の経緯・イの理由・指揮官の貞治負傷」は、「時期と状況」は別として、「最低限であった観られる」が、それがこの一つと成ったと観られるのだ。
仮にこれが史実であったとして、「額田青木氏の指揮官の青木貞秀」では無く、「駿河青木氏の指揮官の青木貞治」であった可能性が強いのだ。
然し、「伊勢秀郷流青木氏」では、「銃隊の指揮官の青木貞秀」は、青木氏の史実ではその後の「伊川津」で「開発業を営んでいる事・史実」に成っているのだ。
だとすれば、恐らくは、「2日程度強」で「伊川津」に到着後のその後の、“「療養中・当時」は「戦死扱い」”は死亡したと成るが、何度も記するが松平氏の全くの家臣でもないのに、且つ、その「情報」がどの様に漏れたかによるし、それを「戦記に載せるとする矛盾の経緯」もこれにはある。
故に、前段で論じた通りに、「伊勢での記録」では「指揮官」は先ず「伊川津」の「田原の西光寺」に祀られたと成っており、その「分骨」は「伊勢の松阪」の「四つの内の寺の西光寺」の何処かに納骨されたと観られるのだ。
「研究調査」に於いて最も可能性が高いのが、その戦功から「伊勢」の“「御麻生薗町の寺・西光寺の本寺」”と観られる。
そもそもこの“「御麻生薗町の名の由来・重要な格式名」”から「伊勢西光寺の4寺」の内の「本寺である事」は間違いは無いだろう。
この「名」は、そもそも「寺」でありながらも、且つ「神に由来するもの」ものでもあり、“「おぅ麻。韻」”と呼称されていて、この「おお麻の繊維」は古来より「神に関わる物」をこの「おお麻の繊維」で造られたとし、且つ「包む物」としていて、現在では「大麻・たいま」としてその栽培は禁止され嫌われているが、奈良期より江戸期までは“「神物と薬物」”として扱われていたのだ。
故に、「古来の慣習」では、その“「造園のある大字・周り一帯」”では「関係者以外は人の立ち入る事」は禁じられていた要するに“「聖域」”であったのだ。
この事は当然にして、ここにある「神社や寺社等の建造物社」は、古来より“尊い格式あるものとして扱われていた”のだ。
それ故に、この“「御麻生薗字・聖域」にある「西光寺」”は「一族の総本山の本寺」である事に成るのだ。
これは、「青木氏に関わる処」の「伊勢の聖域」のみならず、「信濃の聖域」にもあるものであり、「聖域=御麻生薗」と成り得るのだ。
「氏家制度」の中では、「秀郷流青木氏の一族」ではある事には間違いは無いが、「本家分家尊属卑属」も当然ながら「伝統」としてあり、これに「后妃嬪妾の四制度」も大きく左右されるので、“「青木・・・・」の「・・名」が確認”は困難で出来ないのだ。
場合に依っては、この「指揮官」が「伊勢秀郷流青木氏の中」では「その扱い」は「妾子の場合」は、「本家筋の系譜」には記されない事もあって、当時の「秀郷流青木氏族の慣習仕来り掟の伝統の範囲」では、つまり、「四家の子孫存続の為の后妃嬪妾の制度」ではこれは充分に記載が無いと云う事が起こり得るのだ。
然し、筆者は、“これだけの勲功を挙げていれば載せるだろう”と見込んではいるが、「指揮官の名・貞秀」からの「理由・妾子名である」があって載せなかったと云う事もあり得る。
又は、長い歴史の間で“消した”と云う事もあり得て何れも定かではない。
「貞秀のその勲功」でこの“「御麻生薗町の名の由来・重要な格式名」”の「伊勢西光寺の4寺」の内の「本寺であるこの寺に、筆者はここに「一族の神」として祀られたと考えている。
然し、これが、「伝統・掟」である限りは「指揮官であった青木貞秀」は、特別に何かない限りは「上記の伊勢西光寺の4つの内の寺で祭司されていた事」には少なくとも間違いは無いだろう。

注釈 因みに、「后妃嬪妾の制度」で現実に「伊勢青木氏」では興っている。
故に“敢えて載せないと云う場面”から考えた場合のこの事に付いて、一つ考えられる事が、“「后妃嬪妾の制度の青木氏族の仕来り」”の史実の中にあった。
この事の理解を深める為に念の為にここで記述するが、それは前段で論じた通り古来より「四掟」で護られた「女系族の伊勢青木氏」に載せないと云う事が初めて起こった。
「四掟外」でありながらも「摂津源氏四家」の「主家の頼政の子・仲綱」に「伊勢青木氏」から敢えて「女(むすめ)」を嫁がせて、その「生まれた子」は“「京綱」”と名付けられて、そして直ぐにこの嫁いだ「女(むすめ)」は、“「後家・日本での初めての慣習」”として「四掟外である事」を理由にして戻したとされる。
この「生まれた児・妾子の京綱」を“「連子」”として「伊勢」に戻し、「四家の福家の跡目」として育てた「唯一の男系の事例の経緯」があるのだ。
この“後家”は、系譜上には載せず、「寺の尼僧」として位置付けて、「四掟の建前」を立てた経緯である。
この“「女系制度」”によって起こる「世情の矛盾」を解消するが為に、この時、“「後家」”と云う「初めての習慣・現在の意味とは相当に違う」を造り上げて、「応急時の制度」として取り入れて、これを「正統化した経緯」である。
それは「四掟範囲からぎりぎりの処」で起こる「女系制度の矛盾」を解消する為に、“「後家と云う習慣」”を始めて造り上げて逃げた「青木氏からの独特の初めての経緯」なのだ。
ところが、「四家から嫁いだ娘」を「四家の中」で“後家”として系譜から消す代わりに、この「生まれた児・妾子の京綱」を「四家の子」として位置付けて辻褄を合わしたのだ。
つまり、もっと云えば「伊勢青木氏の方」が「摂津源氏本家」より「家の格式」は上でありながらも、「嫁ぎ先」の「清和源氏頼光系の四家の範囲」、つまり、「四掟ぎりぎりの相手先」では、“系類が違う”として、「后妃嬪妾の制度」の片意地を張って、“「妾子に据えられる場合」”があって、この時には、“「嗣子」が少ない場合」”は「嗣子の一人」に加えられる事も起こったが、この“「京綱」”の時は、何と当にこの「妾子・四男」として扱われて仕舞ったのだ。
従って、そこで「格式では上の伊勢青木氏」は、「摂津源氏四家」では「妾子・四男」として扱われて仕舞った以上は、そこで「対策・対抗策」として、“「後家と云う形」」”を始めて造って、その「娘の児の京綱」ともども「伊勢に戻させると云う形」を執って、「無かった縁組・婚礼」として扱う事にしたのだ。
これが、「格式差・四掟外」のある「婚礼・血縁」の「一つの手段・辻褄合わせ手段」として“日本での初めての後家制度の始り”で処理したのだ。
従って、結論として前段で論じた様に「伊勢青木氏」と同制度を敷いていた「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏の指揮官と成った貞秀」は、上位の格式を有していた「四掟の四家範囲」では、この「后妃嬪妾の制度」の“妾子”であった可能性があって、上記の伊勢の「西光寺の系譜」には遺らなかった事に成ったと云う経緯があり得る。
然し、故に「伊川津の西光寺」には「記載が認められる事」に成り得たのではないか。

注釈 余談だが、ここで「青木氏の歴史観」をより高める為に前段と上記の「后妃嬪妾の制度」に就いて再度追記する。
実は最近の研究で、資料の一節の行に違和感を覚える表現があった。
実は、何故、このような表現をするのか疑問に思ったのだ。
これは前段でも論じたが、“「青木氏の祐筆」によくある癖の様なもの”で、「原稿」を書いて「福家」に見せて「承認」を得ようとした処、「氏に執って重要な所」を“微妙な表現に改める様に指示された所以”であって、この様な事がそもそも起こっていたのではと観ている。
然し、これには「氏是や家訓10訓の影響」が大きく響いていて、「別物の美化脚色」は別としても、“「現実通り」に書くか否かの是非が多く働いた”のでは無いかと思われる。
これには「祐筆本人の癖」もあるが、故に全ての傾向として、“微妙な表現と成り得ている”のでは無いかと云う事だ。
そこでこの「摂津源氏の頼政四家との血縁」としても、「摂津源氏側四家」では戦略通りであろうが、「青木氏側四家」に執ってはこの事件は「四掟外」からの「極めて微妙な事件であった事」は後勘から観て判る。
そこで、故に“前段で論じた通りの事”であったのかは疑問であった。
単純に考えてもこの「青木氏の四掟外の事」は、「母方系の秀郷流青木氏にも影響を与える事」でもあって、「伊勢側四家の判断・福家」だけでは少なくとも行かなかった筈である。
「母方系の秀郷流青木氏」に執っても、“「円融天皇の賜姓族」として「秀郷流一門主家の第三子」に累代に「青木氏」として継承させるとして「初代第三子の千國」から発祥させた”が、この時に、同時に「伊勢青木氏と信濃青木氏」と同然に「嵯峨期の禁令の9つの縛りの伝統を護らせる事・皇族系扱い」を所謂義務付けたのだ。
当然に、この時の「義務の条件」には「四掟四家制度」は含まれるとすると、「母方系の秀郷流青木氏」からは、又、「秀郷流一門主家」からも、「四掟外の頼政の件」は例外な事では無かったのだ。
況してや、「清和源氏本流の摂津源氏」であり、「話題の家筋」でもあり、その中の四家筋格の頼政系流」である。
この事を考え合わすと、前段の「桓武派と嵯峨派の論」と「青木氏の財政支援論」と「四掟制度の概論」だけで円滑に事が流れたとは先ず考えられない。
この事が、資料の一節の行の読み込みから、これにはどうも「血縁性・縁組」だけではない両者による“「騙し騙されの事件性」があった”と観たのだ。
それは、この“縁組に伴って起こった事”として、概して言えば先ずは「後家の初呼称事件が起こった事・イ」と、「青木氏からの経済援助の記載無・ロ」と、「四掟の最大相手の秀郷流青木氏の記載無・ハ」の、この「3つの事」がそれを裏付けているだろう。
先ず、次の推論が生まれる。
(イ)の「後家の初呼称が起こった事」が、普通ならばこの「縁組」に付いてはこの「3つの事」が「契機」に同時に起こる事は先ず無い。
(ロ)に関しては、この「縁組を進める以上」は、「青木氏の経済援助に関する何らかの記載」はあるだろうがこれも無いし、この「青木氏からの経済援助」が在れば「頼政」は、“「頼政の祖の頼光の上司の藤原の道長による建設」”、のつまり「宇治の平等院別院」の様な場所で、つまり「戦いに無関係な場所で切腹している事」は無い筈である。
平安期では、歴史観として“「戦い=軍費の関係」で決まるとする通説”があった事から、これには頼政を通じて伊勢に対して“「経済援助の要求の事」”があった事は判る。
(ハ)に関しては、ここには「秀郷流青木氏の記載無の状況」であった事から、当初は「前段の通り」に、ここで「予想外・思慮外の事」が興った事に成ろう。
この「縁組」に関して、「四掟相手の秀郷流青木氏が賛成している事・記載無し」を前提として、この「渦中の摂津源氏四家との縁組」は、“危険を孕んでいるにも関わらず安心して組まれた事”を物がっているのだ。
だから、ここで、“敢えて「伊勢」には異議なし”として“記載無しで進めた事”に成るだろう。
少なくとも上記の「イ、ロ、ハ」に関しては状況諭として資料から左右する語句は散見できない。
ところが上記する様にこの「縁組」を進める事に成ってその直ぐ後に先ずに、“ある異変の情報”が齎されたのだ。
筆者は、これは「別の面からの論」として、それが、“「頼政の対抗策・妾と妾子扱い」”であったと観ているのだ。
「嵯峨期の9つの縛りの禁令」の一つで、「四家制度を敷いている格式家」では「后妃嬪妾の制度」が先ずあって、「伊勢側の格式制度」では「后の位置に当たる扱い」を受けなければならい掟である。
ところが、何と最初に起こった事は、“「妾扱い」”であったのだ。
「最高格式を伝統的に持つ伊勢青木氏側」に執つては、これは格式外からの扱いで、且つ、「嵯峨期の9つの縛りの禁令」をまともに護らない家の格式下からの扱いであった。
これは「青木氏氏族始まって以来の最大で最初の霹靂」であった。
「「嵯峨期の9つの縛りの禁令を護らない摂津源氏」は、そもそも「四掟外」であって、「伊勢の永代浄大壱位・家」に対して「頼政一代限りの正三位・個人」である.
格式では「貴族と武家の差の雲泥差」があり最低でも「階級として16差」はある。
此処で、この事で“「事件・伊勢が騙された」”と成って、発覚しこれに対して“「対抗処理」を採ったとする事件”であった。
そこで、“騙された伊勢青木氏側と信濃青木氏側”ではこれに対して次の処置を採ったとされているのだ。
a 「後家の内策・1」で「嫁ぎ先」を消した。
b 「辻褄合わせ策・2」を採る。
c 「間一髪、伊勢に帰させる策・3」で縁組を切った。
d 「無かった血縁として始末・4」をした。
e 「娘と児を密かに引き取り策・5」とした。
f 「伊勢の四家の児として入籍・6」を直ぐにした。
g 「後家は寺に尼僧とする策・7」で氏内を纏め解決して消し込んだ。
以上に伴い要するに“「上記のロとハ」”で相手に“「大打撃策での対抗策”を放った上で上記の「族内からの対策のabcdefg」を下したのだ。

注釈 この「北家藤原氏の外孫王」の「以仁王の乱」は短期間で終わり失敗の結果と成ったのは、この「伊勢」が放った上記の「ロの財源」と「ハの武力」で以て影響させたのだ。
「頼政」は、当初は「平家に対抗できる勢力・青木氏一族」として目論んでいて密かに婚姻を手段として繋がろうとしてきたのたが、結果として事の次第が露見して「伊勢と信濃の青木氏」は、勿論の事、この事件で離れた事でその「四掟女系血縁族」として存在する「全国に23地域に展開する361氏が存在する集団勢力・北家秀郷流一族一門の賛成」も得られなく成ったと観ているのだ。

注釈 「以仁王」は、妻は「藤原忠成の娘」で、「後白河天皇の第三皇子・第二皇子」とされ母は「北家摂関家藤原季成の娘」である。
その関係で故に「日本最大勢力の武家集団」の“「北家秀郷流一族一門は合力する」”と目論んでいたのだ。
「戦い」に必要とするのは、「残す物」は要は「財」であったが、「伊勢青木氏の財」はこれで失敗したのだが、要はこの「二つの勢力」がこの“「事件」”から離れたのだ。
要するに、「青木氏からの歴史観」から観て、“最初で躓いた「頼政の大失敗」”であったとされる。

注釈 この「経緯論」として、論じる。
これに対して「伊勢側」でも対抗して兎も角も「一定の策」を採ったのが、「上記の制度・辻褄合わせの後家制度」を先ず執った事の経緯であったと観ているのだ。
そもそも、元を質せば「頼政の以仁王の乱」を始めようとした時、「清和源氏の摂津源氏」の「本家の子孫・四家制度」を「源氏以外の格式高い家」に血筋を遺させるの名目として「血縁」を申し込んで来た事もあったのだ。
ところが「伊勢」は格式を前提に「四掟」で受け付けなかった。
そこで「頼政側」では、「氏族を保つ為の四家」を「最低限の縛り」として敷いていたとしても、「嵯峨期禁令の9つの縛り」の中の一つである「四掟」は敷かなかったのだ。
それは「武家・象徴の武力」を持っていた為に「自由」を利かせる為であった。
故に、この「摂津側」では、“「強引に伊勢途信濃との縁組」を仕組ん”で、その結果として、“「伊勢側と信濃側」に強引に引き受けさせた。
そして、「伊勢と信濃」に「子孫を遺し、引き込もうとした策」”であったと観ているのだ。

注釈 「武力集団の氏族の伊勢50郷士衆」は、飽く迄も「女系に依る血縁」であって、「男系での血縁」ではなかったし、又、「奈良期の古来」より「四掟」を定まる前から「秀郷流一族一門を母方先」とし、並びにその「血筋」を引いた「秀郷流青木氏」とは、「四掟」が決まる平安期中期からの当に「賜姓を受けた母方系の女系血縁族」であった。
依って、「嵯峨期の9つの縛り策」を故意に徹底して護らない「清和摂津源氏の頼政との血縁」とは違っていたし、「氏族」でも無かったし、長い歴史の中での「血縁を定めた族」の当に「四掟外・血縁のしない族」であった。

注釈として、何か此処まで来るには、必ず、“二つの青木氏を動かし得る重要な仲介者”が存在していた可能性があると観ているが、血縁した以上は、故にこれに付いては「伊勢」も“暗黙の内に承知していた策”と観ているが、唯、どう出て来るかは判らなかったと観ている。
何故ならば同じ事を「信濃青木氏」にも行っていたからだ。
当時の縁組には従わざるを得ない重要な仲介者が立つのが氏家制度の中では掟である。
従って、こんな「危険な四掟外とされる相手の縁組」ではある以上は、この“二つの青木氏を動かし得る重要な仲介者”に付いては研究したが限定されて予想はできるが確定する資料は見つからないし判らないし、見つからない事が当初より確定できる。
血縁で在る限りに於いて、特定は敢えてしないが、“見つからない事が答え”であってそれが「正しい経緯・答え」であろう。
故に「四掟外」であっても況や何かが起こる事も含めて“暗黙の内に承知していた策”と成り得たのだ。

注釈 そもそも一般としては、「后妃嬪と妾の制度」の中では、この様に「嫡子・后妃嬪の継司」が居て「妾の妾子」として扱われた場合は、通常として「四家の詳細系譜」には記載されないのが一般的で、記録から観ても「当時の氏家制度の中」では「四掟制度・格式ある氏」のある中ではこの事が多く起こったのだ。
依って、「四掟」から外れる処、又は、ぎりぎりの処では、故に、「青木氏側」では「この様な事態」に成る事が想定されていた筈で、重要な仲介者が入って詳しく取り纏めて進めるのが普通で、兎に角も直ぐに“「正式血縁」”を先ずする事は無く、これらの事象に付いては“「記録」”に散見できない程に少ないと云うよりは無いのだ。
況や、その“「相手」”が渦中の「賜姓族の摂津清和源氏族・上三位家」であったと云う事で「重要な仲介者」が存在していた事に成っていた筈だ。
つまり、先ず、“数段格式は上”で、且つそもそも“四掟外”であり、「格式高い氏家制度」の中では「一般的な慣習・掟」では、“「妾」は100%無い事”に成る。

そして、仮にこの“「場合」”が現実に起こった時には、「嫁家先」では“「主家筋の系譜・尊属系譜」”には記載はされない場合と成り得るが、ところが伊勢側では「格上の四家側等の系譜・尊属と卑属系譜類」には実際に記載された所以と成り得ていて食い違いの“「場合」”が起こって仕舞ったのだ。
「伝統に基づかない事」の「行き違い」がここでも起こっているのだ。
そこで、それ故にこれに対応して「青木氏側」で採った「仕来り」、又は「掟」としたのが「後妻制度・子供が生まれれば直ちに実家に赤子ともに帰る」であったのだ。
然し、「摂津側」ではこれは単なる血縁では無く、“「重要な仲介者」”が間に立ちながらも、この時の“「緊急時の子孫・赤子幼児」を何とか遺す必要に迫られていたのかその「混乱期の窮策」”を採ったものであったのかは不明である。
故に、「通常の事」では無く、「四掟外」とする「摂津の上三位」と「伊勢の永代浄一位の格式」の「家差・格式差」を埋める為でも、「何らかの策」をこの血縁では打ち立てなくてはならない場合が後刻に両家に存在して仕舞った事に成るのだ。
この“「後家・伊勢側」”には、「伊勢」では譲れない「伝来の女系制度」を敷いている中では“「男系の系を切る」”の必要性の意味もあったし、「摂津側」では「系譜に載せない為の仕来り」で応じたのだ。
「摂津の上三位」>「伊勢の浄一位の格式」の「家差」では、本来では「后妃嬪妾の后位に位置する事」が「朝廷が定める掟」である。これがある以上は掟の実行は求められるが、“肩ひじを張っていた”かは判らないが“「重要な仲介者」”が在る中で「摂津側」ではそれに応じなかったのだ。
そこで、空かさず“無かった血縁”として「後家・妾と妾子扱い」として「伊勢側」に返したのだ。
「当時の慣習の掟」に応じなかったこれに対して、困った「伊勢側」では“後家”として“「辻褄を合わせた”と云う当に“事件”の経緯であったのであろう。

これを「摂津側」で観て見ると、「四掟外と格式外」を意識し過ぎて、「間に入った人物」の“「摂津側の味方と成り得ていた重要な仲介者の格式」”と“「頼政の正三位の格式」”を下に「掟」を無視して“摂津側が上位”として突然に“后を妾にして仕舞った”と云う経緯ではないか。
「間に入った人物」の“「摂津側の味方と成り得ていた重要な仲介者の格式」”とは誰なのかであって、この場合、つまり、以仁王の乱を興そうとしていた1年前の出来事であるとすると此れを務められる人物は決定的に唯一人である。
それは、“「以仁王」の唯一人”に限定される。
上記の通りに、「以仁王」は、妻は「藤原忠成の娘」で「後白河天皇の第三皇子・その後第二皇子に」とされ、その母は「北家摂関家藤原季成の娘」で。この事から、“「重要な仲介者の格式・第二皇子」”+“「頼政の正三位の格式」”から、“「摂津側>伊勢側」”と観ての行動であったと判断できる。
何故ならば、「重要な仲介者の格式・第二皇子」の判断は、「乱」を興す場合には「摂津側の財力と格式」と、それに女系で深く繋がる「秀郷流一族一門の武力」に、頼りたかったもので「血縁させる事」に意味があって、そのものの中味には興味は無かったのだ。
つまり、「掟通りに血縁が決まった処」で、その“「受け身」”には納得できず“「摂津側>伊勢側」”では、「態度」を凶変させたという事であろう。
“「妾と云う扱い」”は、血縁と同時に行われるもので、「其処から1年間の間」で「不穏な動き」が続き、これを正す様に交渉を続けたが、然し“頼政はこれを改める事は無かった”の経緯と成った。
そこで「摂津側の財力と格式」と、それに女系で深く繋がる「秀郷流一族一門の武力」もこれで成立は無く成った経緯と成ったと、資料の一節の行の表現に就いて読めるのだ。
その「決定的な瞬間」が「京綱誕生の妾子扱いであった事」であり、これが「決定的な事」と成り、「1年間の交渉」は打ち切った様なのだ。
そして、その「後の経緯」として、そもそも、“伝統的に青木氏の発祥以来に血縁後に破断して実家に帰ると云う経緯”の無かった「伊勢側」では、その始末は「新しい形」の“「後家」で「事件の始末」を着けて引き上げた”のである。

注釈 そもそもここで云う「後家」とは、後に江戸期の社会に広く広まった“後家の意味”ではなく、「仏教的な要素」を持ち、「仏門に入る事」を意味し、その扱いは「尼僧、又は斎王館の女官とか守護神の神明社の権禰宜」と成る事にあったのである。
つまりは、仏門や神や女官に成る事なのだ。
従って、この行為は「賜姓青木氏族」にしか成り得ない格式上の処置に成る。
当時としては、従って「女性」の、且つ、“一度嫁いだ女性”が「僧などの高い格式を得るとして「仏門にはいる等の事」は極めて珍しい事であってまずなかった、それも“一度嫁いだ女性”が成る事は掟として無かったのだ。
一度嫁ぐ事に依ってそれなりの格式を得た事に成り、当然にしてはこれは一段上の立場と扱いを得た事を意味した。
それが前段でも論じた様に、先ずは「一族内の独自の菩提寺の寺等」に入る事であった。
後に武門ではこの後家を扱う制度゛が格式上から無かった事から、「比丘尼」と呼ばれる様に成った。
此れを仏教の“「出家」”とせずに“「後家」”と呼称したのだ。
「出家と後家」は何方が早かったのかを調べたが、次の様に成る。

注釈 「仏教伝来」は「538年」としているが、その前に既に「渡来人」が古来密教の仏教」を持ち込んで「渡来人」の中で広く先ず広まっていたのだ。
平安中期頃までにこの渡来人の呼称は書物から観て無く成っているので、この頃から既に日本人に成りきっていた事に成り、多くは官僚族に成って「朝廷内の重職・専門職」に就いて牛耳っていた事が記されていて、「日本人」がこの専門職に居ない事を天武天皇の早くから嘆いていて、官僚の下の者に命じている記述が遺されつつあるて、此の頃から渡来人の呼称は消えつつある傾向にあった事に成る。
その一つとして「伊勢青木氏の仏教帰依・考え方に賛成」としては、そもそも「国造部差配の立場」にいた事から、逸早くこの「渡来人の部人」たちが帰依する独自に持ち込んだ「古代密教の仏教」に「密教・秘密裏に」として独自に帰依していたとされている。
「大仏殿建立」で「朝廷」が「仏教」を正式に認めた形を執ったのが「752年」であり、「尼僧の出家」としては「最初584年」として記録が遺されている。
一般的には正式に上記した“「比丘尼・びくに」”として「出家」するのは、つまり、それが「制度として確立」した時期は、「天皇崩御にその妃等が得度して正式に「仏教の立場」を得ていた時期であるので、それはつまり「出家した事」に成るので、その時期の記録からは「450年から500年後の年代」の“「1034年から1085年頃」であろう事に成る。
そうすると、「皇族外の一般・公家や貴族」から出家したのは1100年代が現実の年代と成るだろう。
これは「平安期の末期頃」と成る。
つまり、青木氏との間で事件と成った上記の「頼政の以仁王の事件」は、丁度、この頃に成るだろう。
前段でも論じたが、何故ならば、「比丘尼の尼僧」は少し意味が違っているので、「皇族外の一般・公家や貴族の時期」を以て相当と考えると、“「青木氏の後家」”の判断は、“「皇族外の一般・公家や貴族の時期の出家」”に相対して考えられた制度であった事に成る。
この「青木氏の後家」の考え方は、独自の伝統的物で習慣であった事に成る。
「仏教」に限らず、「神明社」、「斎王館」、「十二官吏の女官」、「菩提寺」、「祐筆」、女系であった事より「青木氏の玄孫娘・女(むすめにすべく学校)」たちを「福家」に一堂に集めて育てる制度の教官等、「女性が務めるべく専門役務」として全ゆる仕事に専従していた事に既に成るのだ。
その一つの中に「尼僧」もあったとされるが、唯、この「仏教の尼僧」には青木氏では従って「尼僧」とは呼ばずに「比女様・姫様・ひいさま」と呼称して特別に崇めていたとされるのだ。
その意味でこの「後家の意味」は「青木氏内の独自の慣習・掟」であった事に成る。
この様に歴史的背景を以て呼ばれる様に成ったとして、そうすると、この「伊勢青木氏の後家を採用した時期」と「同時期に成ろう。
これには中には、一つの経緯があって、一度、「賜姓近江佐々木氏・第六位河島皇子系」に嫁ぎ、その直後に「後家」で戻り、再び、この「後家」は、「嫁ぐ事・佐々木氏に四掟」に成ったとするの限定経緯であった事が記されている。
但し、伊勢青木氏と近江佐々木氏は施基皇子と河島皇子の兄弟血縁族であった事から当当時として慣習からは通常の慣習としての血縁として扱われた。従ってその中での嫁ぎ戻り再び嫁ぎ直すと云う行為は特別な事では無かったのだ。
従って、その中での事である事から、これはこの「青木氏の後家」も四家の中では「柔軟」に運用されていたと云う事に成る。
この「後家」にはそういう意味も含まれていて悪い行為ではなく、敢えて行われる手順でもあった。
中国の古来に発展した陰陽学の判断からの事が多くそれに従っていた事に成る。

注釈 ここが「財と武の背景」が無く成ったのは「以仁王の乱の6月間で敗戦の決定的瞬間」であったろう。
この乱は1179年11月から1180年5月の6月間は、「伊勢の後家と京綱の時系列」で年代的一致する。
資料の祐筆のキーワードが語るには、この中に後で筆者が疑問をもったのは、「四家の氏家制度の四掟中での血縁」には次の「疑問・A〜K」を持っていたとされるのだ。

A 「格式から仲介人の存在必要」
B 「上位格式から妾と妾子扱いは異常」
C 「四掟外である事の扱い」
D 「摂津源氏からの申し込み」
E 「後家である事・事件性」
F 「以仁王の乱性の関わり具合」
G 「青木氏の氏是」からは血縁は四掟外
H 「秀郷流青木氏と伊勢氏族の同意有無」
I 「信濃青木氏の国友事件の連動」
K 「青木氏一族の賛否記載外」

以上の事柄からは「祐筆のキーワード」は単純すぎると観られる。
恐らくは、これは「福家の指示に基づいた祐筆」は、「青木氏の氏是」に基づいて「記録の中」にこの「争い事を明記する事」は、“祖先に禍根を残す”として「意味含みの表現・A〜K」として記述したとし、「子孫の読み手」には、“以上の事を充分に想起させ連想させ想像させる事”を試みたと考えられるのだ。
当に上記の“疑問そのものであり、つまりその思惑通りに記述した”と考えられる。
従って当時も、祐筆も周囲の関係者も“この「頼政事件・京綱事件」に付いて同じ事を思っていた事”と考えられるのだ。
その「表現」が、“「格式と氏是」と「氏族と四掟」と「頼政と後家」と「信濃と類縁」と「青木氏族の賛否」”の「五分け制度」を使って「長い文章・起承転結」を「漢文」で構成したとしているのだ。
当に、上記に近い事を考えていてこれを想起のさせる記述とした事であろう。
「伊勢や信濃」に執ってはこの事件は初めての事であり「伊勢郷士50衆」の中でも話題になっていた事であろう。

注釈
この「記載している漢文」は、そもそも余り得手ではないが調べてみて判った事であるが、これは唐初期の形式であるとされていた表現形式であるとする。
祐筆はこの時、敢えてこの難しい形式を使ったと観られる。
幾つかの「摂津源氏の研究資料」に依れば、「京綱」を「仲綱の妾子」とせずに「嗣子四男の扱い」としている資料もあるが、「青木氏側」では“後家の記述”がある以上は“妾子”を物語るだろうと判断している。
「嗣子、又は継嗣の四男扱い」そまものは、この「伊勢側」では「伊勢側の後家扱い」は「史実」として間違いはないが、この“「伊勢側の後家の前提」”を考慮しなかった説に成るだろう。
つまり、要するにその母親を“「後家」”とするのには、「伊勢側の決める事」であって対抗策には成り難い、「摂津源氏側」では、はっきりと“「継嗣」”としないで“「妾子扱い」”とした事であり、つまり「嫁」は飽く迄も「後家としていなかった事」に成る。
それを前提とした説と成り、「摂津源氏側の四家」の中には飽く迄もこの「乱」には「青木氏一族と秀郷一門の合力を強く求めていた動きがあった事」を意味している。
だから、「頼政の思惑」と違った処に、この「「摂津源氏側の四家の折衷案」として「嗣子、又は継嗣の四男扱い説」が生まれた事に成るのだ。
「嗣子、又は継嗣の四男扱い説」は頼政側では相当に譲った案であった筈だ。
何故ならば、当時の部門に於いては「嗣子」と「継嗣」もそもそも概ね“「跡継ぎ」”を意味していたのだ。
取り分け「継嗣」は、当に時の意味する如く「跡継」にしか使わなかった言葉である。
ところが「伊勢側」では、全体の問題を子供ではなく妻と成る娘の“後家”で統一して対応したと考えられていたが、処が「摂津源氏側」では、“内部の四家内は二派に分かれていた事”に成ると観ていたのだ。
「継嗣」では無く「嗣子」をも使っているところを観ると、「二派」に分かれていてうっかりと「嗣子する処」を発言して仕舞ったと云う事ではないか。
子供がいない時は「正式な后妃嬪からの子供」でない場合は「妾子」であっても「嗣子」を「継嗣扱い」とするのが掟である。
この時、「仲綱」には「継嗣」はいて男子では「当に四男」に当たり当時の慣習から「純継嗣の嗣子」になるだろう。
子供生存率の悪い当時であった事から「継嗣」は充分に考えられた。
その意味で「正式な后妃嬪からの子供」で既にあったとしても伊勢は格式は上である以上は后は兎も角も「正式な妃嬪扱いの子供」として出来たはずである。
強硬派は別として「摂津源氏の四家の一派」はこの説を執っていたのではないか。
其処に食い違いが生まれていた事に成ろうし、それに「格式上の伊勢の主張」を加えれば「食い違い」は更に広まったと考えられる。
「四掟と格式差を重んじた扱い」を重視する「青木氏側」と、「肩ひじ」を張り過ぎて「戦いの勝利」に目を逸らし、「以仁王と正三位の格式」を前面に押し出した「摂津源氏側の鍔迫り合い・嗣子派ではない強硬派」もいたのであったのであろう。
これは同時期に「伊勢と同じ事」が起こった「信濃青木氏への摂津側の丹後国の妾子国友の件・信濃から伊豆に逃れた」が証明するで事でもあろう。
「摂津源氏側の主派」が飽く迄もこの「妾子に拘っていた事」がこれでも判る。
要するに、“「乱」に勝利し「武家の府」を樹立する際には、この「伊勢との格式差の存在」が背景にある事”が我慢ならなかった事に成ろう。
「伊勢の財と秀郷流一門の武」が「府の背景にある事」が、「傀儡政権と成る」として強硬派に押されて、結局は「肩ひじの格式差の存在」を無視したのだ。
「青木氏側の歴史観」としては、「以仁王の乱の失敗」は、「青木氏側の一族賛成」が得られなかった事、「此処・後家=妾」にあったとしているのだ。

注釈 前段でも論じたがこの「後家扱い事件」は、奈良期にもよく似た事がこの「格式差」で起こっていて、「川島皇子の裔系・河島」の「近江佐々木氏の市原王への婚姻・能登女王」の時にも起こっている。
この時は「伊勢」からは兎も角も「代わり女」として嫁ぎ直して決着している。
この相手となったのは「市原王」は「天智天皇の曾孫」でもある。
その「天智天皇の子の施基皇子と川島皇子の孫の安貴王」の子が、この「市原王」であって、「白壁王」と「市原王の父」である「安貴王」が、「同世代の叔父と甥」である事、且つ、「白壁王の母・紀橡姫」と「市原王の母・紀小鹿」がともに一族の「紀氏出自」である。
所謂、これは同族の“「種婚・青木氏だけに起こる血縁」”であろうし、その「種」のある「四掟の限界範囲」に留めて、「系・一切の腐縁」を切るのだ。
「以仁王の乱の混乱期」の中で、「頼政」は上記の「財と武の背景論」に合わせて戦闘で「摂津源氏」を絶やさない為にも「本家の系譜には記載しなかった・別の系譜と資料では記載している事」で、“「伊勢青木氏にこの“「種婚」”とするものを入れて仕組んだ事」”である事は判る。
「青木氏の資料・詳細に描いた資料」の「読み込み」からもこれは「史実」として判っている。
そこで、では、この結果として「摂津源氏内」では「敗戦」で確かに子孫は支流まで絶えるが、そこで、最も考えられた事として、“何故、同じ清和の河内源氏の支流裔系に入れて子孫を遺そうとしなかったか”と云う疑問がある。
それは前段でも論じたが、「嵯峨期の9つの縛りの掟」を護らなかったのは「河内源氏」であり、「摂津清和源氏」の様にある程度の「四家制度」を敷いて「嵯峨期の9つの縛りの掟」をある程度護ったとする「摂津清和源氏」であるが、「河内源氏」は全く護らなかったし、“四掟外の更に遂には更に外に置かれていたのであった”。
朝廷はそこで二代目満仲に督促令を出したが言い訳をして護らなかったのだ。
だから満仲は蟄居を命じられてしまったのだ。
その命令は荒廃する寺の修理と新規の建設を命じたものであった。
そもそも清和源氏には賜姓を何とか祖父の清和上皇から受けたがそれなりの力は元より無かったからだ。
「満仲」は何とか一つの寺だけを修復して報告したが朝廷はこれを許さなかった。
「賜姓を受ける事」は、「嵯峨期の9つの禁令」にある様にそもそもその前提にあったがしせいだけを受けてその役目を果たさなかったのだ。
これを嫌った頼信系の清和・河内源氏は二代目満仲も受けて仕舞った事もあって不可能とみて三代目の頼信は河内に逃げて家を興せなかった「他の源氏族・丹後に集まっていた」を河内に呼び集め武装集団を構築して、その力で周囲の朝廷の荘園の土地を奪取して行ったのだ。
「満仲」は許される事はなかった。
この「苦しい摂津源氏」は、伊勢青木氏や信濃青木氏では無く、確かに三代罰を受けていた河内源氏に遺そうとしなかったのかである。
ここに実の処は差があった。
だから、「河内源氏」に、“河内源氏に入れて遺そうとしなかった”のだろう。そうする事は摂津源氏にしてみれば確かに格式は下がる事には成るが、今更の事でその方が自然であろうが、敢えて遺そうとしなかったのだ。
その様な記録が系譜上にも全く無い。
「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」はこれをよく見ていたのだ。
当然の事として其れだけに両者は「疎遠の関係にあった事」も云えるのだ。
「摂津源氏が起こした乱」が、其の内に“「河内源氏にも事が及ぶ”と云う事はあり得ても、その前に「嵯峨期の9つの縛りの掟」を護らなかった事で、既に“「掟の三代罰」”で子孫は悉く“「島流し等」”を受けていたのだ。
結果としてそう成ったが、然し隠す事ぐらいの事は出来ただろう。
そもそも「賜姓青木氏の伊勢と信濃」が匿う事は出来ているのだから、朝廷の見方は緩やかであった事は伺える。
“隠している”と判れば危険は皆同じ事だ。
現実に、歴史的に観れば「頼政の読みの通り」に「河内源氏」もある程度の経緯はあったにせよ全て“1221年”を以て「全ての後裔」は滅亡したのだ。
朝廷も、「三代罰・源氏族」を受けていて、更には「嵯峨期の9つの縛り策」も護らない族には例え過去に賜姓をしたとはいえ根本的に許す事はそもそもなかったのだ。
前段でも論じたが、唯、「違う処」は、そもそも「桓武平氏」だけは「伊勢伊賀の青木氏」を「祖」としている処で「桓武派」としてで同じであった。
前段でも論じた様に、然しも、“「以仁王の乱」で子供の「仲綱の裔・3人」を「日向廻村に島流しにする助命嘆願」”を出したのは、それが「後家・京綱の事件」で何と仲違いしていた「伊勢青木氏」であっても、下記の関係があったからである。
「光仁天皇の妃」、つまり、「桓武天皇の母」、敵方の「桓武平氏の祖の始祖母・高野新笠」は「伊賀の出自」で、且つ、「同祖の伊賀青木氏の裔」でもあり、且つ、「伊勢青木氏の裔」でもあり、元より「光仁天皇は伊勢青木氏の裔・六男」で、「始祖の施基皇子の裔」でもあるからなのだ。
云わば、「伊勢青木氏」は「桓武平氏」にとっても「母方の始祖」にも当たるのだ。
この「始祖に当たる高野新笠」を盾にしてその裔である「清盛」に「助命嘆願」を願い出たのだ。
それの「仲介の役」を採ったのは、そしてこれを企てたのは何と「伊勢青木氏」であったとされているのだ。
何と「後家・京綱の事件」の喧嘩の相手でもある

注釈 前段でも論じたが、この「3人」は最後は「伊勢青木氏の仲介の役」を聞き入れて「日向廻村」に流されたが、ここでも「九州源氏」を呼び集めて「九州平家」に反乱を起こして再び失敗をする。
伊勢青木氏に執っては「伊勢青木氏の仲介の役」の「立場・顔」は丸つぶれと成ったのだ。
然り乍らそこで「日向廻氏」との間で子孫を遺したが、最後は九州平家の追討で「薩摩大口村の浄土宗寺・薩摩では2寺しかない浄土宗の寺・現在」で「三等官の五大官僚族の伊佐氏の菩提寺」に逃げ延びた。
ところが、これに着き従った者は既に5人と成り、最後は助けを求められたこの「寺の住職の機転・伊勢青木氏」で「伊勢青木氏の裔」を名乗らせて再び助ける事と成ったのだ。
「因果の繋がり」と云うか普通ではこれは有り得ない。
それを兎も角もこの「機転を利かした住職」は、「古代密教浄土宗・現在の浄土宗とは違う・後・知恩院」から派遣されていた「伊勢青木氏の住職」であったとされているのだ。
この当時は寺名は古代密教であった事から浄光寺の寺名が着けられていた。
現在でも「法然の浄土宗・1175年」の中では無く、多いのは「浄光寺・又は浄土寺の寺名」としているのはこの流れに寺であり、現在では「時宗の中」に此の寺名が多い。
それは上記で論じた様に、法然の浄土宗は1175年以降の事であり、その説は「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名」を唱えれば極楽往生できるとする思想である。
ところが、周囲からこの説は攻撃を受けてそれ程の宗派とは成らなかったのだ。
ところが江戸期に入って幕府の後盾を受けた事により広まった宗派であり、1180年頃は未だ古代密教浄土であったのだ。
その意味でもこの寺の住職は長い歴史を持つ当初から古代密教の阿弥陀密教を説いていた白旗派がこれに代わって受け持つと云う事が起っていたのだ。
これは「偶然の奇跡」では無いだろう。
その後もこの「奇跡」は続くのだ。
これは後勘から考えても決して普通の「奇跡」では無い。
考えられた「準備された恣意的な奇跡」であると観る。
続けてこの「奇跡の経緯」を追う。
其の後に、この「住職の紹介」で、再びこの裔等を「伊勢青木氏」に船で連れて行き育て船乗りとして訓練させたとあるのだ。
この時にこのキーと成る「問題の京綱」とは、この「日向の裔」と共に同年代であった事から、この「青木京綱」と共に「伊勢」で育てて、「日向青木氏・大口青木氏」を名乗らせたとするのだ。
この「二人」は其の後、供に「青木氏」を背負って乱世を生き延びたと云う事に成るのだ。
「大口の裔」とその付き従った「大口からの五人の家臣等」は、「伊勢青木氏の娘等」と婚姻して育ち、その「伊勢での子孫」は「伊勢の女系孫と成った事」により、元より「大口青木氏」に成り、彼等に「大船一艘」を与えて「水運業の商い」の基礎を覚えさせて「大口」に戻したとある。其の事が「伊勢の記録」にあるのだ。
これが、この「大口青木氏の事」であって、その後、その子孫は故郷の日向まで「大口青木氏」を拡げる事と成ったとするのだ。
筆者は、そこでこの「住職の事」を調べる事ができ得ればこの「シナリオの奇跡」は証明できると観る。
これは、「助命嘆願時の青木氏のシナリオ」ではなかったかと観ているのだ。
余りにも「造ったシナリオ」過ぎる。
それはこの「助命嘆願」が[伊勢の格式ある立場」からは普通では考えられないからだ。
これを本当に、[氏]を建てて清盛に[助命嘆願が申し込む事」は出来るかである。
やる以上は、この時の青木氏のシナリオを組んでいたと考えられるからだし、同じ「桓武派の清盛」も求めたと考えられる。
だから「青木氏の住職の証明」が出来るとしたのだ。
この「シナリオ」は事を巧く運ぶには全てこの「青木氏の住職の存在」にあるからだ。
最期に其の後の、「黒田藩の御用商人」と成り「黒田藩の水軍傭兵軍団」とも成り子孫を拡大させたとする史実と成るのだ。

この事に付いての「記録」には、次の様にある。
「配流者の摂津源氏の廻の裔」は、「日向廻村」から「肝付村」を経て「薩摩大口村・裔と五人・浄土宗知恩院派浄光寺」に逃げ延びて、「寺の住職の歴史の知恵」の勧めで、そこで“「母方伊勢の始祖の裔」として「伊勢青木氏」を名乗らせた”と「史実」として遺されている。
恐らくは、「問題のこの住職」が「伊勢青木氏の事」を以て「九州平家軍」を説得したとする程に充分な知識を知っていた事に成るのである。
そこで、この「浄土宗知恩院派浄光寺の住職」と成る者は、“「伊勢青木氏」と何らかの関係性を有していた者であった”と考えられるが、そこで、“何故、ここまで「浄土宗知恩院派浄光寺に「白旗派の住職・主に青木氏の重職・柏紋」が赴任していたか”の「疑問1」もある。
それが「確実・証拠無し」には遺り解けないのだ。
その前に、何故に「朝廷の上位の三等位級上位官僚族の伊佐氏の菩提寺・自らの寺を持ち得ていた」のこの寺に、そもそも派閥の違う「白旗派の青木の住職」が此処に来ていたのかと云う事に成る。
そもそも「伊勢青木氏の格式」は、「密教である事」から「自らの一族の者が自らの一族の菩提寺・清光寺の住職を務める仕来りが普通である。
そもそもそこで「浄土宗密教最小派の公家貴族などの高位の者の帰依する白旗派」は、所謂、「特別の氏族が帰依するべき派」がこの「白旗派」であり、その「格式ある住職」と成ると「賜姓時に与えられた賜姓紋の神紋の柏紋」を与えられるのが殆ど「伊勢青木氏から出自の住職に限られいた」のである。
ここの住職が「白旗派の住職」もが務めるのだ。
従って、「最高位の格式を有する柏紋」を以てして、「白旗派の菩提寺」と成っている各地に存在する「清光寺・青木氏の菩提寺」も当然ながらこの者らが務める事に成るのだ。
そもそもその為にも「神職の神木の柏」は「賜姓」と共に与えられ「神紋の柏紋の使用をも認めらる慣習」であるのだ。
この意味で、「青木氏、白旗派」は「神職」は「住職」にも通ずるところがあって、「伊勢」に限らず他派に存在する事もあり得たのだ。
先ずこれが証明の一点にあるだろう。
其処で何で「知恩院派の住職」と成り得ていたかにあり得る。
未だこの時期は当然ながら「法然の浄土宗」は宗派を確立するのが先ず先決でそれも周囲から攻撃されていた時期でもあって、「寺の建造」すら出来ずにいた時期でもあり、そのものより「知恩院派」をそのものを拡げられるレベルに至っていなかったのだ。
では何故、「知恩院派」と青木氏で記されていたかの疑問が遺る。
そこで、次の一つの経緯がある。
この「上位の第三位三等官の官僚族の伊佐氏の菩提寺」が、「浄土宗知恩院派浄光寺」だとすれば、そこは一時知恩院派が衰退縮小した時に、この「白旗派の浄土宗の青木氏住職が補完したとある」ので、時代性からこの時の事であった可能性があり、その「所縁]からここに白旗派の者が赴任していた可能性が認められるのだ。
それにはある特別の経緯があったのだ。
ところが現実にこの「最小派の白旗派」を維持して行くのは困難であった事が記されている。
「知恩院浄土宗派」は、この時は何と「24派」から縮小して「14派」に成り得ていたのであったとされている。
最高時では「24派」に成っていたとされるが、これは当時起こっていた「浄土宗内の派閥争い等/密教の考え方」で「14派」と成ったとされる。
中でもその影響を強く受けたのは、その一つがこの「知恩院派」であり、従ってこの時は地方の知恩院派に住職を廻す程に特別に大きい派と云う事ではなかったと云う事なのだ。
「財政的な面」は元よりその限られた範囲のこの派の「帰依族」は、平安期中期以降には財政的に豊かな白旗派知恩院派を財政的に補助する派は、「伊勢以外」にはどこも少なく成り、その「帰依族の子孫」も含めて縮小して行ったのだ。
互に宗派争いで疲弊してその力を弱めていたのだ。
記録では、「密教白旗派」に所属していた時期の最高は、「前後してはも「5族」に限られて、それは密教を前提としていた事で限られて格式を重んじられて「公家と武家貴族」であったとされているし、その「財財政的に豊かな伊勢青木氏」が「柏紋の自前の住職」を持ち負担していたとされているのだ。
中でも当に「柏紋の青木氏の神明社の神職」であって、且つ、「清光寺の柏紋の住職」も兼ねていた事も一時期あったとされる。
この時、多くは「知恩院派」以外に鞍替えしたとしているが、この「知恩院派」もそれが元で全ての「帰依族の寺」に「住職」を充分に廻せなかった事が記されているのだ。
この時の事であろう。
そこで「青木氏」から「密教性の強い白旗派」から、より近い「所縁の知恩院派」を経由して「清光寺の青木氏住職め柏紋の住職」を「伊勢」から送った可能性があるとされているのだ。
恐らくは、支配下に置いていた「上位の第三位三等官の官僚族の伊佐氏の菩提寺」であった事もあり、この時に「商い」も通じて「最高格式を持つ柏紋住職青木氏を送った事」が充分に考えられる。

注釈 「伊勢の京綱」にしろ「信濃の国友」にしろ一族内に隠せば攻められる事は100%無い。
「信濃」では、一度は「信濃」で住まわせたが其の後に情勢を観て「伊豆」に移して隠したとある。
この「頼政の事前の作戦」として「清盛」にとりつき「正三位」」に成った事で珍しく慣例を破って「源氏である頼政」は「伊豆守護・それまでは藤原氏の領域」に任ぜられたのだ。
そこでこの「慣例外の伊豆」に「伊勢と信濃」の「青木氏の子孫」を「商い」で栄えさせようと一族の派遣を申し込んで来たとされるのだ。
この結果として「伊豆」に於いては、両者は元々親族にあり同属血縁族であったが、最後は区別のつかない「一つの融合族の青木氏」が「伊豆全土」に“「伊豆青木氏」”として生まれたのだ。
「伊勢と信濃」は、この“「伊豆青木氏」”を救う為に「生活路」を「海には伊勢水軍の路」として「陸は全国500社近くに及ぶ「神明社経由」を通じての「伊勢と信濃との路」を造り「生活ライン」を構築して行ったのだ。
結果として、これが「頼政敗戦」により4年で崩れるが、何とか楮生産を基に「商いの伊豆青木氏」の「生活ライン」は維持して来た。
これが「大口青木氏の発祥」と「伊豆青木氏の発祥」とは,,「頼政の事件」とで全く同時期で起こったのだ。
これが後の「信長台頭」でそれまでの「海の路」と「神明社の路」は、破壊され脅かされて「伊豆青木氏」のこの「生活ラインと商業ライン」は機能を失って一時孤立したのだ。
現実に「以仁王の乱の責任者・頼政」の「孫」を皮肉にも「配流者・2の孫と叔父」として助けたのも「母方始祖の伊勢青木氏」の「所以・嘆願書」を以てであった。
この「筋目」を以てすれば、「京綱と国友」は間違いなく助けられる所以であった。
ここの一点を「摂津源氏」は「京綱」をして「無理・」にでも頼ったとも考えられる。
この様にこの経緯から観ても「伊勢側」では“「後家」”にして対応してでも、「頼政」は「戦い前の準備策」として青木氏を頼って来た事が判るが、ところが「伊勢側」では飽く迄も血縁性の強い「桓武派の伊賀青木氏との関係・伊賀青木氏と桓武平氏の清盛の血縁関係」もあり固く拒んだのだ。

注釈 「経緯」としては「頼政系の摂津源氏」は「清和天皇の賜姓族・祖父からの賜姓族」ではあるが、「伊勢青木氏」は「仁明天皇」までが「伊勢青木氏の出自系の天皇」と云えるが、これ以後は完全に血縁性は切れていて皇族系は完全に「藤原氏系流」と成っている。
そもそもその「青木氏族」から観て「無縁者の清和源氏系頼政」より「四掟」を超えて「伊勢と信濃の青木氏」に強引に策を弄して縁を求めて来たのだ。
「伊勢と信濃の二つの青木氏」は、元は「賜姓臣下族」であったが、既に光仁期から完全な女系で繋がれ、それを更に「四掟」で固めて「天皇系流」を完全に切っていたのだ。
「格式論」としては「天皇系の賜姓族源氏」を前面に押し出し格上を出してこの「縁組」を求めて来たが、「嵯峨期の9つの縛りの護らない源氏側」には、例え「賜姓族」と云えども「同じ賜姓族の青木氏」に於いては「永代浄大一位と云う最高の格式」を有し「永代賜姓五役」を果たしている「伊勢と信濃の青木氏」に執っては「この清和源氏」と云へども「無冠位の格下族」である。
兎に角も「伊勢と信濃の二つの青木氏」は縁を繋いだが、矢張りその扱いが強気の「格下」で応じて来たとする結果であったのだ。
その結果、「縁を切ったとする経緯」で「後家」で伊勢に戻したのだ。
但し、この時は「信濃」は「妾」の侭で続け戻さなかったのだ。
結果として、前段でも論じた様に、次の様な事に成ったのだ。
この様に「伊勢を含む青木氏一族」は「特異な氏族の生死存続」を掛けてこの事件対応に前段で論じた様に追われたのだ。

この「個々の詳細」は、「日向大口青木氏論」や「額田青木氏論」や「駿河青木氏論」や「伊豆青木氏論」、将又、「諏訪と信濃青木氏論」や「伊賀と甲賀と伊勢青木氏論」や「摂津青木氏論」や「佐々木氏論と近江青木氏論」や「伊勢秀郷流青木氏論」と「24地域116氏に及ぶ秀郷流青木氏論」と「361氏の秀郷流一門論」と「額田部氏等の関係族論」等で論じて来たが、これ等の事件の参考歴史観として今まで生きて来た「青木氏一族」を理解しなければならないだろう。
この中には論中で述べる様に「全体の中に含まれる歴史観」だけでは無く、「独自だけの歴史観」も有していたのだ。
少なくともこの二つの歴史観を理解しなければ「青木氏族論」は正しく語れ得ない。

そこでこの「二つ歴史観」の内の「青木氏だけに有する歴史観を掘り起こして、この「上記の大口青木氏の住職の疑問」の解明の為に「検証」を行う。
これを解けば完全な繋がりは解明でき全てが繋がる事に成る。
然し、この「平安期の事」には「確実な明記した記録」を発見させる事は、一般的に難しく、通常はその「状況証拠の積み重ね」で「全体証拠」と成り得て解ける事の経緯に成り易いのだ。
そこでこれは、“何故、伊佐氏の居た大口村の浄土宗の寺の浄光寺に向けて逃げたか”の「疑問2」の証明にも成る。
この「疑問1と疑問2を解く事」で、「以仁王の乱の関わりから大口青木氏・日向青木氏までの「経緯の全体が解ける事」に成る。

その「経緯の全体が解ける事」の為の「証拠探しの手掛かり」として次の論の事に成る。
逃げ込んだここは、現在では小さい町の西の「伊佐」と、東の「大口」とが市町村合併して出来た市域で、西隣の「伊佐」は「平安期」には“「朝廷の六大高位官僚族・三等官」”の有名な一つで「日向域」に派遣されていた「伊佐氏の統括域」の一つであったのだ。
そもそも、この「伊佐氏の祖」と云うのは、先ず一説では、“「藤原北家山蔭流」で「常陸国伊佐郡」を「本貫としていた一族」であるとされている。
本筋はこの説とする「資料」もあるが、この説も「本論の時代性」では後の事」であるので、あまり参考とはならない。
この説では、「その後裔の地・鎌倉期の分家」であるともしていて故に「本貫地」では決してない。
少なくとも“「朝廷の六大高位官僚族・三等官」”の有名な一つであった事から、推測するとこの「史実」から物語る事とすると、その裔の一つが「平安期以後の鎌倉期」にこの役職を解かれてその朝廷から授かったその「国を
管理する為の朝廷の武」で以て、ここに移り住んだ可能性があるとしているが、そんな事は当時の状況ではあり得ない。
これはこの「伊佐氏を語る者の搾取」の「江戸期の黒印状」のその確率は高い。
これを上記の「平安期の末期の時代性」に合わせれば、史実性の高い「唯一つの説」は、この「伊佐氏」は「桓武平氏・伊賀」の「大掾官の繁盛流氏族」であると成るのだ。
それ故に、この史実を基にすれば“「朝廷の六大高位官僚族・最高位の大掾官の三等官」”に成り得ているのだ。
この事を考えれば、このような「格式」を得られる事は先ず無くそれを基に史実とするは先ず間違いはないとなる。
故に、更に追及すると「伊勢の多気郡の出」、つまりその出自の地は「伊勢青木氏の旧領地の地・多気の地にある斎王館の地付近」としているのが全体の史実に合致しているのだ。
従って、ここでこの「薩摩・日向の平安期の伊佐氏」には、この「所縁」で、“何らかの形で「伊勢」と繋がっていた事”が最低限でここでも判る。
では、其れはどの様な事であったのかであり、先ず間違いなく、“直接的に繋がる”のが、次の“「三つの事」”であると考えられる。

一に、「桓武平氏・伊賀」である事
二に、「大掾官の繁盛流氏族」である事
三に、「伊勢の多気郡の出・伊勢青木氏の地・斎王館の地」である事

つまり、これに依り確実に「伊勢の事の情報」は得られていた立場にあった事が先ず云える。
そして、次にこの“「三つの事」”を総合的に勘案すれば、“「伊賀青木氏の裔系」”と成るであろう。
だとすると、上記の割り出しから、“「伊勢青木氏の氏人の伊勢郷士衆50衆」”の一つであった事に成る。
だとすると上記の事では、「住職との繋がり」はここからで解ける。

これを更に進めて検証して観る。
一は、前段で論じている通り「伊賀青木氏の繋がり」であって、つまりは「伊勢の青木氏族」である事。
二は、「官僚族の役目の最上位の大掾官・上位国司に相当」である事。
三は、当にニの支配は「伊勢青木氏/国造と伴造」そのもの役目からのものであった事。

では、「青木氏系の氏名」では無く、“何故、三等官で大掾官の「伊佐氏」なのか”である。
これを解けば、間違いはない。
それは間違いなく、先ず“「女系による青木氏の氏族の一つ族であった”からだ。
女系の縁繋がりにより姓は宇治族を形成する以上は家人以上は諡号の別性に成り得る。
そもそも、この「三等官で大掾官・上位国司扱い」とは、「奈良期からの律令国家の上位の国司役に相当する役職」で、「大掾と少掾」に分けられる中で「上位官僚の一つ」である。
相当な格式を持ち得ていなけれは成り得ないのだ。
これは“朝廷から与えられる「最高級の名誉称号」”であって、そもそも誰でもが与えられる称号では100%無い格式の賜姓五役に相当する仕来りである事に成る。つまり、これれに関係していた族であったと成る。
「伊勢青木氏の様な最高上位格式」を持つ「皇位族や公家族のその家族」に与えられる「官位官吏職」である。
つまり、そうするとこの“「伊佐氏」は、この前段でも論じたが「特別令外官」として「最高上位の格式」を持っていたという事”である。
これで、「この時の情報獲得の疑問」に対しては、これで賜姓五役として勤めていた「造主の荘園管理者と伴造の支配頭であったとする青木氏」との関わの具合の整合性に付いてが説明は出来るし、又、時には“伊勢青木氏・伊賀青木氏を名乗れる所以”とも成り得ていたいた事になるのだ。
これは前段でも何度も論じた事である。
どの様な関係に有ったかは上記した「伊勢郷士衆」の“直接的に伊勢青木氏と関係を有していた者”であった事はこれで判る。

注釈 「造主の荘園管理者の支配頭」とは「大仏殿など朝廷が行う建造物等」を一切に於いて取り仕切る最高格式を有する家柄の者が成り得る役職の事であって、軍事財政的等に於いて取り仕切れる能力を有する者が成りえる。
例えば、この役では「伊勢青木氏と縁者となる淡海族の市川王」がこれに成ったが、その勢力争いでその役を全うする事が出来ず引き釣り下ろされると云う事件がこれに於いて何度もおこっているのだ。
それ程にこの役所に付く事は名誉な事であった。
この「伊勢青木氏族」は、「因事菅隷」を以て「特別令外官」を務め長く務めた家筋で、故に恐らくは“「伊佐氏の諡号に基づく姓」に於いてはあり得る地位を有している事に成るのだ。

では、そこでこれを追求する。
更に検証すると、この“「伊佐氏の諡号」に付いて、その「諡号に基づく姓」”は、どの様に名付けられたかである。
この時期は、「最高級官僚」の「大掾官」とあるとする以上は、「奈良期末期から平安期末期」までの事である事が先ず確かな事である事が判る。
この「大掾官」は、鎌倉期に入るとその「名誉称号の意味合い」が広く変わって実は低下したのだが、この「伊佐氏の場合の時期」には、未だこの「九州」に於いては「武家政治に成る過渡期で変換期の事」であった事から、既に「九州日向から薩摩の官僚族」では、この「役職}が無く成るかの瀬戸際の“「独特の時代性」”にあり「経緯」としては「難しい時期の論」と成るだろうが、この時期にもこの「伊佐氏が派遺されているのだ。
しかし、この「伊佐氏の場合」は、「九州・派遣者は三氏いた」と云うその「離れた赴任地の事}で、その意味合いが良く判るのだ。
先ずは前期した様に「朝廷の政治的、且つ財政的、且つ軍師的に於いて極めても「重用であった事」が判るし、鎌倉時代に成っても「地頭」として引き続きその役割を果たした事でも判る様に政治的、財政的にもこのこの役目を果たしてくれる勢力は重要であったのだ。
ところが、この「過渡期」であっても「変換期の時代性の経緯」を補完する事が大事で、この「過渡期」に「変換期の経緯の流れ」が全国的に一斉に起こったのだ。
つまり、この役職の入れ替わりが大きく起こったのだ。
然し、「伊佐氏」に於いてはこれがこの伊佐氏に於いてだけはこれが無かったのだ。
それだけに信頼されていた事に成るだろう。
さてそれは、当初は、「中央の主要な官僚族・三等官の六大官僚族がある」が、主にこの地方に赴任して「朝廷から預かった武力」を以て、「税徴収・弁財使」と「警察権・押領使」との両方で整理された機構でこの方式で「国」を統治されていたのだ。
その力を与えられる「最高上位の官僚族」で能力的にも誰でもなれる族ではなかったのだ。
従って、主に関東に於いては「藤原氏四家の者」が多くは命じられていたのだ。
中でも有名な「青木氏」に最も関係の極めて深い関東に於いて「四掟四家相手の藤原秀郷」が先ずこれに成り引き続き、円融天皇から賜姓も受けてこの一門が務めていたものなのだ。
つまり、「伊勢に関係のある者」が成った「伊佐氏」は、「六大官僚族であってその族の中でも信頼されていた「上級国司」として任じられていた事になるのだ。
要するに、これは「伊佐氏の姓は諡号」であるので、その「姓の構成」から考えると、これを読み解けば「伊佐」の「伊と佐」で判るのでそれは下記で論じる。
ところが僅かな歳を経てその後に一変して「武家政治に成った事・鎌倉期」からこの過渡期に「中央の主要な官僚族」の「武力のある者・朝廷から預かった武力」は、其のままに持ち続け、この「伊佐氏」の様に“「鎌倉期の地方豪族」とも続けて九州に於いて成った”のだ。
これらの「歴史観の事」は、この判断に大きく左右する重要な事である。
“引き続き「地方豪族」と成った”と云うよりは「善政」を敷いていた「中央の主要な官僚族」は、「地方の民」から「治安維持の為」にも敢えて求められた経緯の中にあったのだ。
特にこの「伊佐氏の場合」はその強い環境下にあったのだ。
その「伊勢との繋がり」など家柄等を評価され重用化されて信用されて善政を敷いていたと云う事が記録にある。
つまり、当にこの「中央の主要な官僚族」であって「税徴収・弁財使」と「警察権・押領使」の「伊佐氏・三等官の国司以上」は、当に此れに当たり、その評価の下で「鎌倉期期」に入っても「地頭としての統治能力」を評価されて「南九州」でその役目の継続を求められたものの経緯を持っていたのだ。
丁度、この「過渡期の事件」であったのだ。

以上の“「三つの由来」”を持っていたとすれば、上記した「高位の者ら」にはこの役職は未だ平安期までの「姓に着ける制度や仕来りに従う事」に成っていたのだ。
従って、この「過渡期の青木氏族の氏族の歴史観」よりこれを論じる事に成るのだ。
そもそも、前段でも論じたが、更にこれを「諡号の歴史観」で検証するとより判る。
この「諡号の伊佐」の「伊」は、先ず「伊勢の意」であり、奈良期からの慣習仕来りを保全する為に定められた「嵯峨期の禁令」に従って、「特定の格式範囲」で無くては、この「伊」と「勢」は使えないとする定められた「掟」であったのだ。

注釈 前段でも論じたが奈良期の初期は国名や氏名等は中国に習ってその前は「漢字一文字制」であったが、其の後、713年頃に「二文字制・好字令」により全国一斉に「二つの文字」に名に及ぶものは変更されたが、従って「一文字制の時の国名には「強い意味」を持たしていたのだ。
故に、そこで、この先ず“「伊」”には、元より「特定の意味」を持っていたのだ。
そもそもそれは「特定の神」、「皇祖神や祖先神に由来するものに使われる称される呼称」であって、次の「五つのものに使用する事」だけに限定して許されていたのだ。
それは、「固有名詞の国名」で云えば次の「五つ」に限定されていた。

つまり、次の様に成る。
「伊」の着く場合は「律令国家」の「国名」である事。
従って「伊予」、「紀伊」、「伊勢」、「伊賀」、「伊豆」、以上の5つである事に成る。
つまり、全て、この「五つ」は、これは「皇祖神の遷宮地」か、或いは、「それに相当する地域」である事であって、そもそも、この「伊・い」の意味する処は、「古代の言葉」で、主に「神社で用いられる韻語」であって、これを「単語の頭」に着けて「意味を強調する事」に用いられていたのだ。
それは、現在の、唯一の“「一」の意”に近いものである。
つまり、この「意味を強調する事」、「清浄さや神聖さを示す事」を示すものであって用いられた。
つまり、「神聖な一字」として用いられていたのだ。
これで先ず「伊佐氏」はどんな族に有ったかはこれで判る。
更に云えば、この「伊の語源」は次の通りであった。
「伊」の左の辺は、此れは「人」を意味し、この「人」は「丘の上に立つ老婆・占師」にあって,その右の旁の「伊」はこの「人」が右の旁から「杖を突いた世を導く占師」を形どっているのだ。
つまり、「伊」は国を強く導く占師を意味している。
一番に「政治の場に相当する事」を意味する。
丁度判り易く云えば、「邪馬台国の卑弥呼」がこれに当たるものである。

次は「佐」の語源である。
「佐」の旁の「左」は、「神道」では、この「ひだり」の旁は、「人の部位」に於いて「右よりも最も神聖の位置や方向」」を示しているもので、これに「にん・人」の「辺」を着けて「佐・さ」としたのだ。
この左の旁辺は、左の意味は社の屋根の形を意味し,その神がおわす社の屋根の形を意味し、その中の工は火を燃やす窯の形を意味している。
占いを行う場所を意味しているのだ。
つまり、どんな意味する語かと云うと、この社の「左に位置する人の意」を差し、これを以て「最上級の階級を意味する語」としたのだ。
要するに卑弥呼であり、此処には桃等の芳香性を発するもの、要するに人を酔わせるものを集めて自己洗脳させて占うとする場所を意味していたのだ。
要するにこれが「お社造りの原形」である。

これは階級的には、人を導く最高の人、先導者とする意味を持っているのだ。
そこで、「青木氏・施基皇子」は、先ず「最初に命じられた役目」として「大化の改新の事件」に依って反対勢力に依り「天皇の命が危険と成った事」に依って、「皇子の内、第六位皇子と第七位の以下」は、“「賜姓」”を授けて「臣下」させて、この「天皇」を「守護」する「近衛兵」として、「宮廷の左右の衛門」を護らせたのがその「役目」の最初であった。
格の如しで、「佐」は此処を護る者としてこの意味を持つのだ。
更にこの「衛門の左右」にある「宿舎・とねり」の“「舎人・門番・近衛人」として宿泊し「24時間警護」をしたのだ。
この時に、「中国の制度」に習ってこの“「お社造り」の中にいる「舎人の役職」”の階級を重視し、次の「10の役職」に分けたとされるのだ。
その意味でこの原形の「舎人の役]は「舎人親王の皇子名」の通り重要な役目とされたのだ。
其れが資料に依ると、この「官僚族の階級」は次の通りに分けられたのである。

督・従四位下相当
佐・従五位下相当
大尉・従六位下相当
少尉・正七位上相当

この上記で説明した「佐」がここに位置付けられていたのだ。
同然にこの「武官」として「大尉・従六位下相当」と「少尉・正七位上相当」の役職に分けられこれを持つ事は上記した「最高級官僚」の「大掾官」の前に位置付けられていたのだ。

従って、ここまでは「皇位族・高位族の者」が務める「役職と階級」であるのだ。

・以下はその下の「上級官僚族・三等官」かここに位置づけられるのだ。
「最高級官僚」の「大掾官」である。
「大掾官」の意味合いが判る。

事務官としては次の様に位置付けられる。
大志・正八位下相当
少志・従八位上相当
医師・(正八位下相当)
・以下は「一般官僚」である。
門部 宮門を守衛
衛士 宮門を守衛
物部 通行人を検察
使部
直丁

従って、「賜姓臣下族青木氏」は、「浄大一位・これ以上の格式はない・天皇に継ぐ位」であり、従って「官僚族」では無い事から、この「扱い}では上記の表から外れて「別格」の「左衛門上位大督」であって、後に記録に依れば「左衛門上位大佐」と成っていたとされる。
「青木一族」はこれに従い「諱号」は、後裔の者は「・・佐衛門・・」や「・・右衛門・・」と名乗っていた事が遺されている。
従って、上記の「伊」とこの「佐」との組み合わせは、「佐」は「最上位に用いられる格式語」であって、「730年頃の好字令・実質」に依っても、全ては「二字制」と成った事で「伊と佐」の「伊佐」の「諱号や諡号」は疎か「地名」もこれが「好字令」に依るものである以上は、他が使えない「最高の格式の組み合わせ語の語意」を持つ様に成ったのだ。

注釈 先ず、そこで余談であるが、筆者の知り得る「官位の歴史観」に依る感覚からは、遺された伊勢青木氏の戒名からの資料や口伝では、一段階下に設定されている気がするが、兎に角もこれを論じて観る。
そこで、「伊勢、信濃、近江」の「三家」に於いての「青木氏」は、「記録」から「以下の階級」にあった事が記されている。
但し、最上位の「督・従四位下相当」の記録は、「青木氏族」には記録としては未だ見つからない。
然し、「従四位下以上」の官位では、「青木氏族の最高位」は、以前も論じている様に「正三位の位置相当」にもあり、「日本書紀などの三代歴史書籍」の記する処でも、「冠位」では「浄大一位」の「天皇」に継ぐ「施基皇子の永代冠位」と成っている。
この処を勘案すると、「賜姓族臣下族」である以上は、どんな事が有っても「青木氏一族」は「下記の2階級の通り」と成るし、伊勢の記録もその様に成っている。

「格式上」からは「浄大一位」を想定していない事から、“相当”と云う表現でこの「資料のズレ」を修正しているのではないか。
つまり、次の様に成る。
「上佐」は 「従四位下」に相当と成る。
「佐」は 「従五位下」に相当と成る。
後に「上」が着く階級が加えられた。
「上尉」は 後に「大尉・従六位下」に相当と成る。
「尉」は 「後に「少尉・正七位上」に相当と成る。

従って、「上記の官位と軍位」を持つ事から、「伊」にこの役職から「身分・格式」の「佐」を着けて、“伊佐”の諡号姓を与えられた事と成り、これを結局は「名乗った事」に成る。
つまり、奈良期から平安期に掛けての社会習慣の中では、誰が観ても当時とては「上記の伊」と「特別格式の佐」と成れば、「伊勢賜姓青木氏族の者の裔系」である事を示していて理解していた事に成る。
例え、「九州南部の地」であってもこれでその出自や格式は解ったのである。
では、“「伊佐氏」であって「伊勢青木氏」では無いか”とすれば、飽く迄も「女系氏族」であるので「伊勢青木氏の氏人」と成り、それも「氏族」の中でも「四家の福家」に近い「家人相当の立場」にいた事を意味し、その「伊勢郷士50衆の氏人」が、伊勢格式を有して“「大掾官」を務めて、”南九州に派遣されて、その中の一族が上記で説明する「伊勢青木氏族の氏人の伊佐氏・女裔族」が、これが「後の浄土宗の浄光寺・菩提寺」の「白旗派に近い知恩院派浄土宗の仮住職」を務めていた事の経緯に成るのだ。
故に、この「浄光寺」は、元はこの「伊佐氏の現地菩提寺」であり、周囲には現在も格式ある「伊佐氏を名乗る裔」が多く定住している地域でもあると成る。
そもそも菩提寺を持つと云う事はそもそも「普通の格式を有していない事」に成るのだ。
「朝廷派遣の官僚族」の「大掾官」で在りながらも「派遣地」では「押領使・警察権と弁財使・政治権と税」も兼ねる役職であった事に成る。
故に「官僚族」で在りながらも「統治用の武力集団」をも有し「九州南部一帯」を統治していたのだ。
鎌倉期以降もこの「武力集団」を以て地域一帯に豪族として統治し揺るぎない「諡号族・第一の姓」として「鎌倉期の役職の地頭の勢力」を張る事と成ったのだ。
室町期に入り周囲は急激に「第二の姓側」が勃興する中でも、その「伊勢青木氏の裔系」で「諡号の姓の勢力・第一姓族」は其の財で衰え無かった珍しい「諡号族」であったのだ。
上記の制度の成立当初は、「高位の立場」にいた「白旗派官僚族が成った役職」であった事に成る。
然し、「鎌倉期」に入り「武家の府政治」と成る「時代」へと進むに連れて、この“「大掾官」”は、後に「名誉職」から遂には「押領使・警察軍」も「弁財使・事務官と税務官」も兼ねていた事から、この「名誉職」が無く成り、これが「一つの制度」として、それが更に「四つ」に分けられ、「国司の三等官」に当たる「官僚役職」へと変化したのだ。
要するに、「上級官職」と成った事であり、当時はその「時代の変化の代名詞」とも成った。
そして、遂には何と「室町期」には、行き就くところは、この「掾の格式」は「浄瑠璃の太夫」に与えられた「称号」とも変化して成り果てて仕舞ったのだ。
室町期には、この平安期までの「伊佐氏の役処や氏族の格式」は完全に忘れ去られ外れ、遂には「諡号の姓族の三大豪族」として「九州南部」に生き延びた。
唯、念の為にここで追記するが、この「裔の一部」は、“「源氏化の流れ」に沿って生き延びる為に「常陸」に流れて其処に「第二の子孫」を遺した”とする説もある。
唯、これに付いて「信じるに値しない大きな疑問」があって、この“常陸に流れた”とする説には、この「伊佐氏」は西の端から東の端に流れなければならない所以程の「諡号姓族」では無かったと云う事なのだ。
つまり、「南九州一帯」に室町はまでに[大勢力を張った伊佐氏」であって、同然に「血縁性を持つ九州北部までに及ぶ勢力」を張っていた「肝付氏」と共に、室町期に成って勃興した「島津氏」と争う程の充分な勢力を持ち得ていたのだ。
この「伊佐氏」が東北に逃げなくてはならない理由は何処にもないのだ。
この「伊佐氏」と共存して「九州南部一帯」を支配した「肝付氏」も、「勃興する島津氏」の軍門に下る「逆転現象」でも、この“「大掾官」の「中央官僚」の「格式のある諡号姓の伊佐氏」”も争いを避けて「氏の勢力」を温存してこれに従った時代経緯であったのだ。
「勃興した役職を得た豪族」の中でも、この“「大掾官」の「中央官僚」の「格式のある諡号姓の伊佐氏」”は、羨まれる程の一段上の格式のそれも寄せ集めでは無い伝統を持った相当な信頼できる武力集団を備えた格式を有する豪族と成って行ったのだ。
故に、そもそも「常陸に下る所以説・江戸初期」が薄いのだ。
上記した様に、それ程に使われる「女系の伊勢の裔系の伊佐氏の名誉と格式の氏族」であったのだ。
念の為に前段でも論じたが、この「伊佐氏」と同然に「肝付氏」も「伊佐氏」と同時代に共に同じ「中央の六大官僚族を務めた諡号姓の豪族」であり、「肝付氏の祖」も「五大官僚族の一つ」でその「始祖とされる伴氏」と「同系の諡号族」であった。
「中央の六大官僚族を務めた諡号姓」の「肝付氏」も、将又、「伴氏」も後に「968年頃」に矢張り「薩摩の掾」として「官僚族」の一つに任ぜられた豪族である。
この「伴氏系」は、翌年に「鹿児島郡神食村」に「館」を建てた。
この「伴氏」は、「三代目」に遂に「大隈国の肝属郡の弁済使」とも成った。
その子孫は、「伴氏」から「肝付氏」を名乗り、その祖にも成つた「上級官僚族」なのだ。
以後、この「中央官僚族の伴氏」と「同系族の肝付氏」も「高山弓張城」を居城として大勢力を張ったのだ。
そもそもこの「中央官僚族の伴氏」は、前段でも論じた様に、「伴造・とものみやつこ」を差配下に置く「青木氏族の配下・伴造」であって、「青木氏裔系」は「光仁天皇以来の諱号」を「伴・とも」とした事で、「官僚の伴氏」はその「伴の諡号」を名乗れずに、態々「大伴氏」とした経緯を持っている。
この「伴」は「青木氏族の諱号」であったが、この「意味合い」が低下した「平安期末期・鎌倉期初期」には、今度はこの「伴氏の方」が、元の「大伴氏・九州に大勢力圏を持った事」から「伴氏に戻した経緯」を持っているのだ。
この様に「九州の三官僚豪族」は、殆どはこの「大官僚族の伴氏・大伴氏の血筋」を有しているのだ。
つまり、「伴氏」から「大伴氏」を名乗らずに「肝付氏」を名乗ったが、その時期」は「青木氏系の天皇の諱号」が、「伴・伊勢青木氏の支配下」とした事の時期に一致するのだ。
結局、この「伴氏の肝付氏・小掾の格式」は、「青木氏の伊佐氏・大掾」、所謂、この「高級官位」を持つ「三等官役職を務める事」と成った「伊勢青木氏の家人」で先ずあった事であって、且つ、其の上で「氏族の差配頭」が「福家」に代わって「朝廷官僚」と成って務めていた事を物語る物なのだ。
同時期にこの上記した「高級官僚族」として「南九州」に派遣されたが、同時に関係する「肝付氏」も「弁済使・税務官」、「伊佐氏」は「押領使・警察統治官」として、「平安末期」まで正式に働いた「諡号姓の氏族」でもあるのだ。
鎌倉期以降はその「格式と勢力で其の侭に「地頭」を務めたのだ。
共に「朝廷の役務」を分け合って補完しながら「南九州域」を統治した「朝廷の三官僚仲間」であったのだ。
この「伊佐氏」と同然に「肝付氏」も「弁済使・税務官」で在りながらも、その税の保管の為に“「蔵人頭・財務」”として協力し合って「必要最低限の朝廷の武力」を持ち得ていたのだ。
恐らくは、故に不思議な事に関西中部関東の三域と違って、この「三官僚出自の者等」は「鎌倉期に成っても争う事は無かった経緯」を持っているのだし、当然に「四掟の女系に於いて血縁関係」にあったと考えられる。
故に、無格式の勃興族の「後発の島津氏」に対抗したのだし、最後は「島津氏」と互いに決着をつけずに、「島津氏」を主体として「肝付氏等の三氏」を「家老格」に向かえて血縁して格式を高めて存立条件を高め、「北九州の勢力」に対して「南薩摩の防護態勢」を確立させたのだ。
後に、そしてこの「肝付氏」には「伊佐氏」が、「肝付氏の家老」に入り「融合族」と成って「室町期」を耐え抜いたのだ。
故に、上記の関東出自説の様な事はそもそも無く、「肝付氏」が東に流れていないと同然にも「伊佐氏」も東に流れる謂れは全くなかったのだ。

「伊佐氏の出自説論」からも「住職青木氏説」は説明できる.

注釈 参考として、「薩摩藩の島津家の家臣の西郷氏」は、鎌倉幕府倒壊後、「常陸の国衆」は、「西」に先ず流れ、前段でも論じた様にそこで先ず「伊川津・三河」に入り伊川津国衆」と成ったが、「三河の国」が敗戦後に西郷氏は三河を診限りこの「伊川津」から離れ、その後に「薩摩」まで「流れ薩摩の国衆」として流れた経緯を持っている。
抑々、この「国衆と呼ばれる者等」はその様なものを注し、特段の意味の事は無い。
この様に、「出世を夢見る小土豪集団」は日和見的に東から西に流れて行く傾向にはあったが、この時期には西の端から東の端の方に流れる傾向はなかったのだ。
精々、この「国衆の流れの大方」は「中部域・今川氏」で終わっていた。
これ等を抱えて大きく成ったのが「今川氏・国衆集団」であって、それだけに「武田氏等」と違って脆かったのだ。
況してや、西の端の九州域でもその規模は低いが同然の事が興っていたのだ。
この現象は「肝付氏」と同然の「伊佐氏」でもあり、この結果としてこれが「日向青木氏の経緯」と繋がっているのであり、東には何の因果も無く寧ろこの「流れ」は逆であったのである。
これを完全に結論付ける訳には行かないが、恐らくは関東より東域に流れたとする説は「江戸初期の国印状獲得の所以・後付け説の第三の姓族」であろう。


「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」に続く。



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