青木氏氏 研究室
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  [No.400] Re:「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」
     投稿者:副管理人   投稿日:2023/01/31(Tue) 11:34:03

「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」の末尾

「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
そうでなければ幾ら“「青木氏の氏是」を護れ”としても云う程に簡単に決して護れるものでは無い。


「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」

前段で論じた「時系列の論」に於いて詳細を「青木氏の面」からより詳しく分析すると「独自の青木氏の歴史観」が観えて来るものがあるのだ。
これを前段とは違い他の研究者が是帯にしない青木氏だけの歴史観が潜在していてこれを本論で炙り出す事にする。
そうすると多くの「青木氏の歴史観」だけが観えて来るのだ

そこで、前段に続いて、再び「三方ヶ原の詳細経緯の検証論」に戻る。

先ず、その前に「注釈」として、ここで 「詳細経緯 松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説の検証」をして置く。

さて、そうすると「館山街道の湖東村の交差点」から「三方ヶ原」まで「徒士」で、前記した様に「約所要時間2時間半」であるので、「青木貞治」から少なくとも「軍議の最終情報」を得たのは“「朝明け」”であった事に成る。
そう云う事の経緯なので、そうすると「タイムラグなし」として仮定して観ると、それは「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝明け頃」に成り、上記の「行動の経緯」からは、其の侭では「伊川津」に戻らずに、それは“「館山街道の途中」から踵を返していた事”に「この時の時系列」では成るのだ。
そうすると“「時間的」”には、ここで“「仮寝程度の多少の休憩の時間」が有った事”に成るのだ。
そして、従って、そこで、その仮寝後に其の侭に直ぐに「三方ヶ原」に向かったとして、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、「12/22 10時半過ぎ以降」には計算では「三方ヶ原」に到着している事に成る。
然し、この説では、「額田青木氏の国衆の銃隊」は「タイムラグなし」なので「夜通しの行軍」であった事に成るが、それは物理的に「疲労の限界」が起こり難しい事になる。
この「時系列」では、「判り易くする為に、「タイムラグなし」の「最低丸二日の行軍の検証」であるので、絶対に休む必要があった。
さて、そうすると、そこで“何処でその休息をとったか”と云う検証に成る。
そこで「休息を採れる場所」に成るのは、「堀江城」の西に向かった「武田軍の本隊」と「館山街道の湖東の交差点」で分かれた時点からの間と云う事に成る。
恐らくは、この設定ではこの「館山街道の湖東の交差点」と「三方ヶ原までの間」で“「休息」を採った”と考えられる。
そうすると、それは「情報を受け取った時点・夜明け早朝」が「判断キー」に成るだろう。
「額田青木氏の銃隊」が、「武田軍後尾を追尾している事」は、「青木貞治」も情報から判っているので、「三方ヶ原」に向かう程に要するに“「危険域」”は増す事に成るので、それは“充分に「情報」を伝えて相談して打ち合わせられる安全域”である事で決めるだろう。
そしてこの「情報を確実に獲得出来得るポイントの限界」の位置は、それは“唯一”ある。
そこは、間違いなく、“「館山街道の湖東の交差点の域」”であろう。
物理的に地形的に観ても、「350の兵を休ませる安全な場所」としては、ここで無ければ成らないだろう。
つまり、“いざ”と云う時には、「伊川津の西に向かえる場所」でもあるし、「貞治の駿河青木氏救助と云う流れ」に成った以上の時でも、「青木貞治からも会議の情報」を受け執り易い場所でもある。
其れは更に「休息の為」と成れば、つまり、「水食糧と云う補給と云う事」に成れば、「浜松城からの支援」は、上記の経緯より無理であって、後は関係する処とすれば「駿河青木氏の盤田見附の西光寺からの支援」を受ける事が敵る場所に成るだろう。
そして、ここは、一方で「駿河青木氏の青木貞治」の方から観れば、「館山街道の湖東の交差点の域」まで「徒士」で「約4時間の位置」にあり、「救助の為の新しい作戦に仕える情報」を提供する事には「ぎりぎりの所」にある。
上記の通りであると、「休息」などの「タイムラグなし」での出発は、「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝」に成るので、つまり、「伊賀青木氏の香具師・忍者」の「情報伝達」にて、「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」は観える様に得ていた事に成るからだ。
此処で、先ず間違いなく「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」は止めて休んでいた事に成る。
前記で「タイムラグなし」として論じた場合は、“「急いで三方ヶ原に向かった」”としている「論調の詳細経緯」には、此処には“この「休息時間帯」が有った筈”である。
だから、「松平軍の鶴翼の陣形」が整った後に、海側の“「左鶴翼の南側面頭部分の後ろに近い位置」に着けた”と成っているのだ。
この上記の時系列ではここでは符号する。
そうすると、北側に荷駄を壁にして「盤田見附」からの「供給・12/21 危険を避けて夜中10寺頃盤田出発」を待ち、到着後、そこで“食事や睡眠等を採った”とすれば、最低でも「8時間〜9時間」は所要した事であろう。
「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝」より「8時間〜9時間」を戻して、されは「夜中の12/22 午前0時から1時頃」と成る。
故に、此れには「情報の新しい伝達」が「前提条件」と成る。
常時、「香具師の伊賀青木氏の忍者」を通じて「情報交換のやり取りや援護役」をしていたと観ているのだ。
故に、この「軍議の内容」は元より、“「休息位置や出発時刻や救出作戦」等の詳細を常時に「青木貞治」と打ち合わせていた”と考えられるのだ。
その程度の事は、前段でも論じている様に、秘密裏に随行していた「香具師の伊賀青木氏の存在」から観て充分にしていたし、その「組織能力・伊賀青木氏」は充分に有って優れていた。
故に、それどころか筆者は、「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」に合わして、万が一の場合に備えて、“「伊勢水軍・食料や救出援軍」を「浜名湖の沖」に廻していた”と考えているのだ。
この「額田青木氏や駿河青木氏」を左右する程の「重要な戦い」に「使える戦力」は全て使っていたと観ているのだ。
その考えからすると、この執るべき作戦上は、そこからはそうなれば「小舟」を「大谷川の入り口」に廻して置けば「10分間」で「額田青木氏の休憩のタイミングを救える事」に成る。
だから地理的にも、「館山街道の湖東の交差点の域」が最も「全ゆる行動の分岐点」の“「絶対条件」”であった事に成るのだ。
「伊勢水軍」もこの「伊川津から盤田沖までの海域」に常に配置して廻していたと考えられる。
「伊勢水軍大船6隻」と「伊勢青木氏の商大船3隻」と「駿河青木氏の1隻」の何と「10隻」を廻していたのだ。
この「船籍不明の大船・青木氏」を海に観るだけでも「船を持たない武田軍」に執っては、「青木氏族」に対しては、“寝る子を起す様な馬鹿な真似はしない”であろうし、“それも当初から警戒して気が引いていたであろう事”は、これらの「状況証拠の読み込み」でも充分に判るし、この事は恐らくはこれらを観て先ず積極的に成る事は間違いないだろう。
其れこそ「武田軍本隊」は、この「青木氏族に対する総合的な抑止力」のこの“「流れ」”を読めていなかった事に成るからだ。

然し、さて「時系列論」に戻すとして、この時は、丁度、「軍議」がほぼ決まり、「野戦」に向けて「松平軍」は「三方ヶ原」に「到着すべく準備に入り始めた頃」である。
そして其の後は、「鶴翼の陣形」を「時間・4時間」を「左下向きの「原・平均海抜57M-38M*100M」に何と西に向けて敷き始めた頃合いであった。
要するにこの時には、「約最大で18時間のタイムラグ」が発生している事になるが、こんな事は先ずあり得ず、その「ロスタイムラグ」を吟味しても、少なくとも半分程度の「10時間程度のタイムラグ」はあった筈だ。
そうすると、逆算すれば「武田軍本隊」が、「浜松城前」を「西」に向けて通過した「時刻・12/21日 17時半頃」としていて、そこから「額田青木氏の国衆の銃隊」は、“「武田軍本隊の動向」を“「最後尾」から「館山街道の湖東村の交差点」”までを「追尾していた事の時期」”に成る。
恐らくは、「武田軍の本隊の最後尾までの所要時間」と、「その移動速度」等を勘案すると、計算では「堀江城付近・5〜7時間」まで追尾していた事に成る。
然し、つまり、上記の「休息時間等」を勘案すると、逆に云えば寧ろ、間違いなく「館山街道中間地点の湖東村の交差点」で追尾を止めた事に成る。
この「追尾中止」は、上記した様に「休息」と「情報収集限界点」と「行動の戦略点」であった事に成る。
従って、「武田軍本隊」が、「堀江城へ出発・到着後12/21日 20時に開戦」なので、そこから、「翌日の落城後」に「現R65号の旧堀江街道」を経由し、「館山街道の湖東村の交差点」を右に折れて、「三方ヶ原・2時間半・16時頃」に到着した行動経緯と考えられる。
恐らくは、「上記の計算」では、最低限で計算されているので、「大軍を動かす事」には最低では無理である。
そこで「ロスタイムラグ」に、「額田青木氏の銃隊」の「休憩等の行動と行動中の陣形の編成」を見込めば、少なくとも「堀江に向かう事」が完全に確認できる「ポイント」は、“「館山街道」まで"であるとする。
そうすると、此処までは間違いなく追尾し休息へと持ち込んだ事に成ろう。
そして、「休息12/22 8時頃」が、「終わり」にして「堀江城」と「三方ヶ原」に向けて「第1回目の偵察」を出したと成る。
「堀江城」が「落城間近の確認」と「三方ヶ原の様子」を確認し終えた時期である。
そこで、この「状況把握後」に「三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の国衆の銃隊」は、「三方ヶ原」に再び向けて開始した事に成る。
そうすると、この時には既に「三方ヶ原」では「南に傾いた鶴翼の陣形」は出来ていた事に成る。
上記した様に、「12/22 10時半過ぎ以降の計算」では「三方ヶ原」に既に到着している事に成るので、且つ、「4時間後」の「12/22 14時半過ぎ」に「鶴翼の陣形」は完成していた事に成る。
そこで、「額田青木氏の国衆の銃隊」は、「伊賀青木氏の情報」で、「15時後半頃〜16時頃・開戦直前の16時直前頃」に、“こっそりと「鶴翼の左側面」に隠れて位置した事”に成る。
ここが重要であって、“こっそりと「鶴翼の左側面」に隠れて位置した事”に意味を持っているのだ。
「額田青木氏の銃隊」が「鶴翼の左側面」に着くのが、あまり早すぎると騒がれるので、開戦間際の「15時後半〜16時直前頃」だとすると、逆算すると「休息した後」の「朝の起床」から、「三方ヶ原の隠密行軍時間・2時間半」を計算するとして、「開戦後の行動の記録」に「無駄な行動」は無いので、又、「陣形の完成後の少し後・こっそり」が好ましいので、これを「15時後半〜16時直前頃」とした場合に、その「行軍開始時間・2時間半所要」で、「13時〜13時半頃」に出発した事に成る。
つまり、、「武田軍の到着・16時の直前」をタイミングを図った事に成るので、起床から「額田青木氏の国衆の銃隊」は、“「約3時間程度の準備時間」”があった事に成る。
この間、起床後、ここに停留しながら「偵察」を始めたとした場合は、「準備態勢造りと情報交換等」にこの時間を使った事に成る。
そして、そこで「伊勢水軍」なども含めて「伊賀青木氏等の偵察行動・三方ヶ原や松平軍や武田軍や山県軍の動向や駿河青木氏の動向確認」も始まったのだ。
そして、この間に「全て情報」を纏めて「南下国衆の銃隊の指揮官」は、「救出作戦の命令」を「銃隊」に詳細に出し、「駿河青木貞治隊」にも「到着時刻や武田軍の行動の全内容」を伝えた事に成る。
この「全ての手筈」を完了させてから、「2時間半から3時間」を架けて三方ヶ原に向けて「進軍」を開始し、「13時半〜15時半頃」には、その「鶴翼の左側面・開戦の1時間弱前」に「様子を見る為」に“ぎりぎり”に着いた筈なのだ。
筆者は、「三方ヶ原の戦場」の「鶴翼の左側面・開戦の1時間弱前」に行成り着いたとは思えないのだ。
何故ならば、「松平軍」にその「行動を晒す事」は最も避けなければならない「救出作戦」だし、その「意味」が無く成る。
要は、この「戦場の近くに潜む」か「やや遅れ気味に到着する」かにあったのだ。
何方にも「長短のリスク」を持っている。
先ずは「潜む事」にあるだろうが、広く、且つ、大勢の目があり発見される事は必定である。
矢張り、“開戦ぎりぎりに目的とする救出に最適とした場所に着く事しかない無い”の事に成ったのだろう。
そうで無くては、“開戦後やや遅れて”の「上記の救出劇」は難しいのではないか。
然し、「戦記の幾つかの記録」から察すると、前段でも論じた様に“やや遅れて鶴翼の左翼先端の所に着いた”としている傾向にある事から、此れを正しいとすれば「問題」と成るのは、“やや遅れて”の「表現時のニュアンス」や「表現時の正確さ」に影響するだろう。
仮に書くとしても、“やや遅れて・・・”とは書くだろうか。
然し、この“やや遅れて・・”は「戦略上は重要な要素」であったのだ。
だから“やや遅れて・・・”は、文脈からの「読み手の続解力・想像力に左右される事」に成るし、同時に「書き手」にも「表現力の差」が生まれる。
だから筆者としては、そうすると、この“やや遅れて”の“「タイムラグ」はどの程度のものか”と云う事に成るが、そうすると、“「開戦開始時」”は「戦いの作法」として、「指揮者から軍配」を上げた時、即ち、「時の声」を“ワーとして両者は上げる”が、この「時の声」の“ワー”を合図に、「鶴翼先端の左側面」に着いてその直後に先ず「左の武田軍本隊に向けて弾幕」を張り進軍を牽制して、今度は左に位置していた「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」には、「山県軍の別動隊の突撃隊」に、やや右に向けて「行動開始を牽制する銃撃命令」を架けた事に成る。
これで、「武田軍本隊」は、「銃撃の凄さ」を二度も経験している事からこの時の犠牲が無かった事を記されているので少し進軍をしたところで停止した事に成る。
ところが、「山県軍の別動隊の突撃隊」にやや右に向けて銃撃を架けたが停止する事がなく「突撃」を続けた事に成る。
それにはそもそも“「進軍の目的」”が違っていたからだ。
「山県軍の別動隊」は、そもそも「物資の供給基地築城の目的」があったが、「武田軍本隊の置かれている位置」を考えた場合は、山県の指揮官は、“今は本隊を救う為”には、その為には“「突撃隊としての側面突撃攻撃」をして、その「松平軍の崩壊」にあり、それはそもそも「山県軍の置かれている位置関係」にあって、「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」のより「左の鶴翼の頭部寄りの北の位置」にいたからだ。
「武田軍本隊」の目的は、上記した様に「松平軍の鶴翼東部にいる家康本隊の壊滅」にあった。
当然に、それはその「目的とする達成の時間差」に問題があって、当初は「武田軍本隊は停止する事」に「時間」を求めていなかった事だったが、「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」により「進軍」を止められてしまった。
ところが「山県軍別動隊の突撃隊」は開始すると止める事は不可能であり、進軍しかあり得ない状況が生まれたのだ。
此処に「戦術的な差」が働いていたので、この「資料の表現」としては、“やや遅れて”は「戦略上の重要な要素」と成って働いていたのだ。
此れを「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、この“やや遅れての戦術”を可能として彼には“既に読み込んでいたのではないか”と考察できるのだ。

筆者なら、この「到着の時間の問題」は、先ず「陣形」が整い、「救出すべく駿河青木氏の位置関係」が「確認出来て」、且つ、それを「合図」で出来て、「救くい出す作戦の間」が採れ、且つ、「松平軍が騒ぐ事の出来ない寸前」が、“丁度良いとする”が、恐らくはその様にしたのは間違い事ではないだろうか。
史実より「16時開戦」なので、そもそもそうすると、“「16時直前>16時半前頃」を選ぶのが作戦上は常道で、故に「上記の検証の時系列」からもどうしてもこの“「時間帯」”となろう。
恐らくは、「武田軍本隊の行動の情報」は、「伊賀青木氏」に依って探り出され随時獲得していたので、“計画のズレ”が起こらないか、その「計画時期」を観てやきもきしていた可能性もあるが、然し、検証結果は、さて、所が違うのだ。
それは要は、「武田軍本隊の動きを正確に抑える事」で、“計画のズレ”が起こっているかどうかは極めて簡単に把握できていたのだ。
「額田青木氏の銃隊の指揮官」に執っては、その力は伊川津の国衆であったとしても遥かに「国衆の力」を超えて、それは、最早、その「潜在的な力」は少なくとも「額田国の軍」として扱われる様に、こんな事は「全青木氏族と伊賀青木氏の忍者」が連動している限りは、何の問題も無く、寧ろそれ以上であって、“朝飯前の事”であったのだ。
そしてその中の「戦術師の香具師」を含めた「伊賀青木氏の忍者」は、「全青木氏の存在を左右させる作戦」である以上は、“「全忍者軍の投入であった事」”は、「全ゆる記録資料の読み込み」から間違いはない。
中には「武田軍本隊の中」にも潜り込んでいて「情報」を入手していただろう。
何故なら、この「武田軍本隊」の中には「記録」に依れば、「武力集団」では無い「神職の信州青木氏」には「武田氏に関わった「記録の散見」は無いが、その「親族の武力集団族」であった「諏訪の夕姫」で有名な「信州諏訪族」が、その「武田軍の中核に位置付けられていた事」の「史実」が遺されている。
この事から、この「信濃諏訪族系青木氏の縁者族」が居たのだ。
この事と「武田氏系青木氏3氏も存在した事」もを「歴史観」として頭に入れておかなければならない。
「青木氏」としては「伊勢の情報入手源」としては、先ずこれを態々放置する事は無いだろう。
戦う以上は、それを「額田青木経由」で伝えていた筈だ。
故に、この「微妙な表現」のこの“やや遅れて”に成り得ていて、これが戦略上は容易に成り立っていたのだ。
そもそも「350の銃隊」が動く以上は、「完全に隠す以上の事」は三方ヶ原まで同定の地形から先ず出来ず、筆者は「武田軍の本隊」もこの事に付いては事前に知り得ていた事だと考えているのだ。
仮に、これ等の「伊勢までの縁者関係の矛先」が、「武田軍の中に入り得ていた事を知り得ていたとして、度外視はしていなかったと考えている。
だとすると、この「全青木氏と戦う事の感覚」は、「武田軍側」には「呉越同舟の感覚の中」にあた可能性は否定できない。
「伊川津の国衆」に成った時に、「特別の約定」が松平氏とあったとしても完全に「松平軍の国衆」としては観ていたかは疑問に成る。
それが筆者は「一言坂から始まる戦い方」に現れていたのだと観ているのだ。
この時には、即ち、「一言坂以降」は、「両軍・武田軍本隊と額田青木氏の銃隊」に執つて、確実に“「呉越同舟の関係」に成っていた事”に戦況の経緯から成ると観る事も出来る。
故に、「武田軍本隊の最後尾の側面」に着いて密かに「平衡進軍していた事」に成ろう。
「武田軍本隊」は、「最後尾側面を追尾して来る額田青木氏の銃隊の目的」が「駿河青木氏の青木貞治救出の目的である事」を、この事とで薄々気が着いていたのであろうと観る。
故に、抑も、“一言坂の遭遇戦でも敵意が無い事を知っていた”し、「堀江城に向かう武田軍の本隊」の最後尾を銃撃で攻めずに放置していた等の事・武田軍の最も危険な事」を知れば、それは充分に理解し承知していた事に成ろう。
そうすると、所謂、“「呉越同舟の関係」で黙認する事に成っていたのだ。
だから、「三方ヶ原」で「武田軍本隊」に「弾幕」を張った時に「武田軍本隊の進軍」は「敵意の弾幕では無い事」を知って直ちに止めたのだ。
これは「貞治隊を救出する目的」を知っていたからだが、ところが「山県軍の別動隊への銃撃」は「救出の目的を知らなかった事」と、「額田青木氏の銃隊の後部右側面」に向かって来た「突撃隊と云う宿命」で、「銃撃は止められなかった事」と、そうでなければ「救出の目的」は、兎も角も「額田青木氏の銃隊」そのものに「犠牲」が大きく生まれるからであったのだ。
これは“最も避けなければならない考慮の点”であったが、これは其処まで「山県軍の別動隊への本隊からの情報伝達」が執れていなかった事でもあろうと観る。
これは「戦時の中での事」では「やむを得ない事」ではある。
一方、「山県軍の別動隊」としては、「鶴翼の先端左の隅」に突然に現れた軍を”「松平軍」として見間違えた事から来るものであった事”が「読み込み」でも判る。
ところがそれが何と「観た事も無い威力の銃隊」であったのだ。
「後ろに無力の補給基地築造隊を引き連れた隊」が前進して突然に突撃した以上は、後は其の侭に突っ込む以外には最早無く、「大きな犠牲」を「額田青木氏の銃隊」に依って払わされるう以外には最早無かったのだ。
これを左横から観ていた「弾幕で停止中の武田軍本隊」は、「山県軍の別動隊の救出劇」を敢えて演じなかったのだし、出来なかったと云う事であろう。
其れは更に「傷を深くする事」は間違いないので、それは「一言坂の遭遇戦の経験」で判っていた。
そもそも、 これは「山県軍の別動隊の突然の行動」は「信玄の戦略」の中には全く無かった事なのだ。
然し、結果は「大犠牲・1/2」を「山県軍の別動隊の方」で起こしたが、「鶴翼の陣形の弱い所を突いたと云う事」では大勝利に導いたのだ。
その証拠に、「三方ヶ原後」の「国に帰った武田軍」の「軍議」では、「指揮官の山県」は、“その責任を問われなかった”と記されている。

注釈 ここで気に成るのはある戦記では無責任にも「額田青木氏の銃隊」を「松平軍の銃隊」と記されている事である。
この事に付いて補足して置く。
その「銃の数の全て」を「松平軍としている通説」がある。
そもそも全国的に観て、「松平軍」が当時この様な「多数の銃を持ち得ている事」はそのものがその「財力」から100%あり得ないのだ。
これを注釈として、そもそも「銃の歴史観」としてこの時代の「火縄銃の銃」は全て殆どはその「生産技術」も然り、「雑賀根来の生産者の手」に及び生産されていたのだ。所謂寡占状態であった。
これを「共同組合」を造り「門外不出」で入手はそもそもできなかったのであり、彼の「信長」さえもがした様に、この「雑賀根来の銃隊を高額の契約金で雇う事・傭兵銃隊」以外には無かったのだ。
「信長」は、「楽市楽座」で得た「商いの利益」で、それを「高額の金額で何とか傭兵での契約をした事」は記録に遺っている。
この“「契約」”も「裏ルート」に通じていた「蜂須賀氏」が「信長」に仕える前から「闇取引の支配人」を生業としていた豪族であって、これを通じて成し得た事も「史実」であったし、「信長」に「蜂須賀氏を紹介した」のは「元蜂須賀氏の子分であった秀吉」であった。
従って、この「高額の3000丁の銃・1000丁の説あり」のそれも「近代銃等を獲得出来る事等は甚だしい歴史観の不足と誤認であると断じているのだ。
この当時は他に「密輸入の火縄銃」は、初期は「2000両/1丁」であった事が明確に記されていて、然し、室町期末期には「4000両/1丁」と跳ね上がっている事も「史実」であったとそうした記録が遺っている。
これでは幾ら「信長」でも買える代物ではそもそもなかったのだ。
だから、「生産者」であって、且つ、「共同組合」を作って互いに護り「雑賀根来の銃傭兵集団」が成り立ったのであって、当時は“何とか銃の傭兵で銃兵力を獲得できたとする歴史観”であったのだ。
そもそも「松平軍」が「銃兵力を獲得できた時期」は、その後の「秀吉の刀狩り」で多くの藩や豪族の持つ「銃力」は一時殺がれていて、これはその後の「長篠の戦いの直前」に得られた「輸入火力」である。
「長篠の直前」には、「唯一の銃生産者」であった「根来族」が「信長の力の攻め」で先ず潰され、続いて「雑賀族・鈴木氏」が「信長の調略」で「仲間の土橋氏」と分裂させられた後に、その結果として衰退してそもそもの「国内の銃生産力」は無く成ったのだ。
この時に「雑賀」と「根来」に所属していたここの“「鍛冶師」”は全国に飛散して、結局は、この「締め付け」が無く成り、勝手に「粗悪な火縄銃を生産する破目・砂鉄」に成った。
そこで「財力に自信のある者等」は、我先にこの「鍛冶師」を獲得し、「火縄銃」そのものを「砂鉄の玉鋼」で「悪質な銃・粗製乱造」を製作し獲得したのだ。

注釈 「松平氏」もこの時に「長篠の戦い仕様」だけに獲得していた事が記録から判っているのだ。
「砂鉄の玉鋼」で「悪質な銃・粗製乱造を製作」に付いては、この「直前」に大阪に「砂鉄の玉鋼」の「市場の開設・店」を歴史上で始めて許しているのだが、これはこの時の全国に散った鍛冶師の求めに応じた「需要の為」にであった。
「近江日野の鍛冶師の大半」は「伊勢の青木氏部に戻った事」が歴史に遺されている。
“「松平氏」もこの時に「長篠の戦い仕様」だけに獲得していたのだ”の検証では、「家康」が天下を取ったその直後に、再び、秀吉に次いで弱まった「刀狩りの禁令」に継いで「銃の保持の禁令」を直ちに出しているのだ。
これは、“「長篠の戦い仕様・現実に松平軍」は、然し、この銃をこの戦いでは殆どは使っていないのだし、即ち、「悪質な銃・粗製乱造を製作」であった事”の故に、、「この為だけに獲得した銃であった事」を示唆しているのだ。
その後の「関ヶ原の戦い」でも、この「上記の火縄銃」を積極的には使っていないのだ。
その「重大欠点」は、前段で詳しく論じた「額田青木氏が挑戦した鉄の欠点・論文」にあった。
それが尚に「玉鋼の銃の鉄」には、「更に余計に出る質の鉄」なのであった。
此処で、この事を知っていたかは前段で論じた様に、「長篠の戦いの雑賀根来の銃傭兵軍団」が示した「顕著に表した欠陥」であったが、その前後にも「火縄銃の欠点」は知り得ていた「史実」であった筈で、「松平軍」は「長篠」で「直ぐ横の500Mの所」に陣取ったにも関わらず「所持していたとする銃」に手を出さずにして、この「火縄銃の持つ銃」を使わなかったのだ。
寧ろ、頼れなかったと云う事では無いか。
これはこの「重大欠点」を知っていたからに過ぎない。
その現象は、「信長軍」はこの「銃力に長期間に於いて全て任して頼った事」で起こった大事件であったのだ。
前段でも詳細に論じたが、この時点では、「火縄銃の過信程度」であって、この「時点での欠陥点の欠陥そのものの認識」はそもそも無く、且つ、比べるもの比べる技術者が無い為に不明であった筈である。
然し、この時、「伊勢青木氏」は、これを既に判っていて、それを起し難い「フリントロック式改良銃」で当に「欠点解決の挑戦」に「取り組んでいた時期」でもあったのだ。
寧ろ、未だ世間はその「欠陥」を知らずに「銃の威力・10倍/1兵に驚いていた範囲」であった。

「家康」は、これを「三方ヶ原の戦い後」に「駿河青木氏等」から「一言坂」や「三方ケ原」の「戦いの時の状況等」に付いては、その「成否」に付いては別にして、「三河戦後記」を三つも出している限りはこの事に付いて「伊勢青木氏」から具に聞いて知っていた筈なのだ。
その後の「江戸初期以降の火縄銃の評価の経緯」は、開幕と同時に出された「銃禁令の事」もあるが、その「火縄銃に持つ銃欠点の事」も遂には世間に広まり、“長期間連続で使え無い事”も知り得た事もあって、何と一挙に“1/4000にまで「市場価格」が下がった”とある。
この「市場価格」で観れば、この「欠点の事」もあって、「火縄銃の価値」は要するに全く無く成ったのだ。
「額田青木氏の欠点改良の銃」は、前段で論じた様に技術的高さでそれを真似をされて製造される事は元より無かったが、「保持そのものの意味」も「安定の社会と成った事」で無く成り、「伊川津と三河」で営んだ「商い」や「開発業や運輸業や殖産業の安全」を維持する為にだけに暫くの間は保持していたとある。
其の後、“青木氏一族の間で一斉に廃却をした”と成っているのだが、この「一斉に廃却したとする事」には意味を持つのではないか。
何故ならば、“「家康が三方ヶ原の事を知った」”と成れば、「国衆」から家臣に成ったとする「駿河青木氏の後裔等・御家人近習衆の関係者等」にも手を廻して「額田青木氏の持つフリントロック式改良銃の事」を求めて来た事は普通に考えても充分に有り得た事として考えられるからだ。
当然に「青木氏の氏是」からと「その政策の目的」から断った事は当然であり、故に疑念を持たれる事を避ける事もあって、“一斉の抹消焼却処理と成ったのではないか。”と観られる。
この様な物が何らかの理由で世に出る事が起れば、「フリントロック改良の欠点解消の銃」は、それは「300=100/兵=30000の軍勢」と成り得る。
これは戦略上では極めて拙い事であり、この事で後日に“「家康との話し合い」が起こったと観られる。
そこで、当然の事として「松平軍が持つ」か、又は「青木氏が廃却」するかの議論に成ったと成る”だろう。
天下泰平の為には、戦後間も無い時期でもあり、「家康の松平軍」に執っては「敵なしの松平軍」を造り出せる。
筆者は、これで天下を完全平定させて、“家康は持つと考えた”のではないかと観る。
然し、再び、「浜松城軍議」に続き、「額田青木氏」は“断ったと云う状況”に成り、その「条件」として「伊川津の殖産を始めた額田青木氏が警備の為に持つ事」は、先ず当然の事として当然に要求を避けて、“一斉に一族は廃棄”の結論に「双方話し合いの中」で落ち着いたのではないか。
「家康の家臣」に「貞治の後裔・長男」は「武蔵藤氏の御側衆の御家人衆」と成っていたので、この「決定」の意思疎通は尚やり易かったと観られる。
後は前段の「三方ヶ原の詳細経緯の通り」であり、上記の論は前段でも論じている「状況諭」とも云える「間に挟む追論」である。

以上等の「追論の為の検証記録を総合」とすると、この考察は、唯一、「山県軍の別動隊の行動を全て読み間違えた事」からの物であって、つまり、これは「青木氏の氏是に反した事に成った事」であろう。
つまり、それは、“何れの「戦いにも避ける」”事が「必要な戒め」であった。
そこで、では、世の中はこの様に「掟通りには行かない」が、そこが「氏力全て」を使ってでも「掟通りにする」のが「氏是」である。
ではそれを防ぐにはこの“「予兆」を「全能で察知する事」に「指揮官の務め」があって、では“その予兆は無かったのか”であるが、筆者は在ったとして次の様に観るのだ。

先ずそれが主に次の様に成る。
「山県軍の別動隊・補給基地築造隊」である以上は遅れた事・A」、
そして、上記した様に副は次の様に成るだろう。
「武田軍の本隊の三方ヶ原到着布陣時の危機の事・B」、
最後は、その「“主副のABが連動した事以外・C”」、
以上の「三つの事以外」には「予兆」は無かっただろう。
予測としては、「AとB」は事前に考えられた事であろうが、“流石に連動する”の「C」とは考えは及ば無かったと観られる。
要は先ず「主の予兆」は「A」であっただろうし、そうすれば結果としては「副の予兆」の「B」は連動しなかった筈である。
つまり、「青木氏の氏是」に反して有史来上に於いて「全青木氏側」に於いて最大にして無駄な戦死者を出した事に成り得た事に成っていた。
故に、戦後に、この事に付いて「伊勢の祐筆」は、“「事の次第」”を重く見て、「この時の額田青木氏の指揮官等の話」を良く話を聞いて「伊勢青木氏」では敢えて「記録」に遺して「向後の戒め」としたのであろう。
そして、故に、主に「伊勢で記録や資料」を一部で遺し得たのだと考えられる。
然し、「其の後」に於いて「全青木氏族」に於いて“「武田氏からの報復」”は無かったのだ。
ここが「歴史観として重要な処」であって、上記した様に、「山県軍の別動隊の銃の犠牲」から考えれば、あり得る筈の「敵視」が、その「敵視をしていなかった事」を意味するのだ。
一部の「三河の戦記」では、“「武田氏からの報復」”があったとしているが、この「報復をさせしめなかった程」の“「財と武の強大な抑止力」が備わっていた”と表現する事の方が正しいだろう。
そもそも「三河の戦記」に家臣でも無かった「伊川津の額田青木氏の事」を語るのがそもそも変だ。
そこで実際に、“報復を計画されていたのか”を研究したが、それを「物語る資料」は兎も角もその「行」さえをも見つける事は出来なかった。
筆者は、“報復を計画されていたのか”に付いては、“そもそも計画そのものがされていなかった”と観ていて、それの最も、“その「表れ」”として出て来るのは、上記した様に「武田氏の統治下に置かれていた信濃国」の「信濃青木氏か、その縁者の「諏訪族青木氏の影響」として表れていた筈である。
然し、それは記録から全く無かった事から、“報復を計画されていたのか”は、矢張り“無かった”と結論付けている。
そこでその“一つとしての証”は、先ず、それは「伊勢と信濃と諏訪族の三氏の青木氏の血縁」は続けて成されている事にある。
それは更に次の事にある。
又、前段でも詳しく論じたが、そもそも「信濃諏訪族の夕姫」は、強引な政略婚に於いて「勝頼の母・諏訪御l料人」に成り、その「出自先」は、「伊勢や信濃」と変わらない程の歴史を持ち、それは「奈良期初期の渡来族の馬部」で「信濃」に入植し、「信濃王」と共に“「未開の地の信濃」を「放牧の国」に仕立てた”として、「天智期」にその「大功績」が認められて「信濃王」と共に都に呼び出され「叙勲」を受けて「高位の格式」を有する「神職諏訪の賜姓族青木氏」に任ぜられたとあったと書記等にもよく記載あり、「諏訪神社建立の権利」を特別に認められたしているのだ。
故に、「諏訪御料人」と特別に呼ばれる所以であるのだ。
従って、「諏訪族の縁者とされる伊勢と信濃の青木氏族」には「勝頼は攻撃する事」は100%無いのである。
現実に、「長篠の戦い」にはこの様な歴史的経緯から「赤兜の騎馬兵の馬方」を務めていた「母の実家先」を実戦に参加させていないのだ。
寧ろ、「吉田城、一言坂、三方ヶ原の銃に関わる戦績」から観ても、「武田氏の方」では、“敢えて戦域を広げる事も得策でない”としていたのではないか。
この結果として、これは「予兆のAに重きを置いていた事」に成ろう。
つまり、「額田青木氏の指揮官貞秀」と「駿河青木氏の指揮官の貞治」と「伊勢青木氏」との「三者連携の過程」で「予兆のAに重きを置いて行動していた事」に成り、「伝統の考え方」の“青木氏の氏是を護ろうと努めていた事”に成るだろう。

念の為に上記の事も含めた「状況経緯の検証分析の追記」をするとして、前段でも論じているが、此処でも何度も記するが、「平安期初期」より一切の縁の無かった「甲斐の青木氏族」の「源光系青木氏・賜姓族系」にも変化があって、何れの上記の「二つの戦い」にも「甲斐時光系本家青木氏の2氏・滅亡」を除いて積極参戦はしなかったのだ。
これが、然し、生き延びたが「甲斐凱旋時の信長」に、“「その格式権威」”を見せびらかせた”として嫌われて排斥され、最後は「甲斐の巨摩郡の北の奥」で衰退したのだ。
然し、この時に参戦した「嵯峨期の令」に基づき出自した「時光系青木氏の本家筋」は積極的に敵対して完全滅亡した。
ところが、この「分家筋の3氏の内」の「2氏」は、「中立」を護り積極参戦しなかった。
この事で、「戦い中」に「家康」に秘かに救い出され「家臣の一人」の中に匿われながらも最終は「家臣」と成った。
そして積極参戦しなかった「源光系賜姓青木氏」の2氏は、「武蔵鉢形・柳沢吉保の一族等」に刑として「移住・配流との形」を執り、遂には平定後に形式的なこの刑が解かれ「家臣」と成った経緯を持っている。
そして、「本家筋の一部青木氏」でも逃げて「家康の家臣」に依って密かに匿われ、後に「松平の家臣」と成った者もいた。
(記録では、信長に謀反を警戒されない様に極秘裏であった)
「甲斐の分家の養子系青木氏」も「実家先・本家の安芸・安芸青木氏」に戻り、その後には「安芸松平氏・番方役」に主世したこの「甲斐の青木氏から安芸の青木氏」に成った後裔一族は仕えて生き延びたのだ。
要するに、そもそも「伊勢青木氏等と馴染まなかった嵯峨天皇系後裔等」は結果として「徳川氏に救われている事」に成る。
この様に、“「全青木氏族の浮沈」に大きな影響”を与えた後のこの「長篠の戦い」で、その後に上記の様に「他の青木氏族にも大きく変化」を与えていたのだ。

一般論としては、性格的に“比較的にしぶとい持ち主の一族である事”がこれでも判る。
これは、上記した様に潜在的に“「流れを読み取るとする性格的観念の持ち主の氏族」にある”と思う。
当にこれは「青木氏の氏是」にあるからだろうとも思えるが、この「甲斐の青木氏」にはその概念は果たして遺伝的に未だ持ち得ていただろうか。
そもそも「嵯峨天皇」は、「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の子の「桓武天皇の子・孫」に当たる故に「施基皇子の曾孫」であり、「甲斐青木氏・時光系青木氏」は、「義弟の源光系賜姓青木氏の後裔」ではなく、“「義弟が青木氏と成った事」により「義兄である時光」がその裔に成るとして強引に名乗った族”とされているものである。
故に、「嵯峨天皇系の男系族」とすると、果たして「遺伝的伝承」が「主に女系で依るもので無い為」に、その“「性格的遺伝は叶えられているか」は甚だ疑問”である。
依って、そこでその可能性は「経緯」から低いと観るべきである。
故に、これは「伊勢と信濃」は、勿論の事で「四家四掟四門」に依る「母系の賜姓秀郷流青木氏」とも疎遠であった事に由来している。
仮に、この「遺伝的継承」が成されていたとする場合は、例え、武田氏の家臣であったとしてもその「分家・生存」の様に、且つ、「賜姓源光系青木氏・生存」の様に、“戦わずで組しないとする方策を執っていた筈”である。
矢張り、これは今でも永遠に持ち得ている「遺伝」であっただろう。
長かった人世の自分の性格を顧みても、“これは遺伝だなー”とつくづくそう思える。
当に組したのは、その裔の異なる「時光系武田氏流青木氏の3氏・滅亡」であったのだ。

これ等の「歴史観の事」を念頭に、「二つの戦いの結末論の事」を「経緯論・検証論」として知る事は必要だった。

さて、ここで続けて、分けて更に“「布陣」”に付いても「詳細経緯論・検証論」を下記に論じて置く。
先ず「武田軍の別動隊・三軍」も「戦後始末」も済んで「二俣」から川を超えて間もなく「三方ヶ原・3時間半で」に次々と到着して来たが、この時の「布陣」に付いて論じる。
それが、前段でも詳細に論じた通りであるが、その時には、先ず、“本来あり得ない「陣形とその位置・鶴翼と川越」”の関係の「二つの事」であったとした。

それの「布陣」は、前段と上記の通りであるので、ここでは、次に論じる「詳細経緯」は「布陣の位置」に付いて論じる。
これを観て、「武田軍全体」が到着して、行軍中に「6000の騎馬軍団」を前に中央にして「魚鱗の鶴翼似の陣形」で次々と組んで行ったのである。
ここが、上記の通り「勝負の分目」と成った。
その川は、本流の“「都度川」”であった事が判る。
その「戦場と成った所」は、「詳細に記した戦記」は無いが、「ある江戸期の戦記」では、“その「三角州の右手」の「東側の付近」とされていて、そこに敷いた事が大まかに判る。

この事に就いて「陣形の位置」に対して「経緯論と状況諭」で読み込むと、“「ある意味・歴史観」”があるのでこれが正しいかどうかを検証する。
この一つの「戦記」には、他の戦記よりよく読むと、「不思議な事の記載・陣形に詳しく高信頼性」が多いのだ。
そもそも、「鶴翼」は、「陣形」を簡単に移動させられない「固定型」であるし、「陣形を組む」のにその必要とする時間が掛かるし、「配置の兵の数」も要るので、つまり、依って、当初、“「籠城」”と見せていたが、その「浜松城・12/22日の早朝」から城を出ているので、この時は「額田青木氏の銃隊」が「館山街道付近の西南の位置」に「布陣・休憩」していたので、そこから、“「宿営地としている三方ヶ原」に向かう「武田軍本隊の背後」を先ず突く”と云う「戦略」も陣形上から観て「松平軍側」に時間的に観てもあった筈である。
この前記した「三河戦記の説」では、前記したが「三方ヶ原戦場」に向かう「1.5kの道の直ぐ西横」には「森」があって、且つ、ここは「浜松城」からは「真北1.8kの道の位置」で、“この右横の森に隠れて待ち、「武田軍の本隊の背後」を突く”と云う作戦もあった事が読み込める。
ところが、この「甲斐の郷土史の説」で云うには、この“「背後を襲う説」”では、“敵が「徒士」であり「騎馬兵」はなかった事”とする説にも納得できる。
つまり、要するにこれは「魚鱗の陣形」を進軍中に組んでいたとしているので、この時、既に、「進軍中の陣形の先頭」には、「騎馬隊」が「時系列」では既に到着していた事に成る。
そうすると、この説では、この時の「額田青木氏の銃隊」は、最早、この「立場」には無かった事に成るし、唯、「額田青木氏の銃隊」が、「城に入る時間的余裕」も生まれていたと成っている事にある。
この“江戸期に記したと思われる「甲斐側から観た郷土史らしきの説・日記形式」”では、この意味する処では、それが「額田青木氏が銃隊」であるかは別として、「額田青木氏の存在」を良く知っていた事に成る。
これは「甲斐」に近い「美濃」から「額田青木氏の銃隊」が南下して「伊川津国衆と成っている事」を既に知っていた事にも成るのだ。
後から得た情報とする事もあるが、これが「甲斐での江戸期後説・誰が編集したかの検証は後て論じる」である。

故に、これに基づけば、「堀江城」に向かっていた「武田軍の本隊」が、急に「軍の向き」を南に向けて「松平軍・浜松城」に攻め掛かる可能性は低かった事に成るし、現実にその様に「陣形」を組んではいないので、これは正しい可能性が高い事に成る。
「通常の場合の行軍する場合の陣形」では、“「殿軍」”は主に「護り兵や荷駄軍」で構成されているので、それを「戦い」の“「先頭・先駆隊に替える事」”は「軍としての力」は出ないのだ。
その為に敗走する時は、「先頭・先駆隊」に向いた「本格的な先駆隊」を置いて、「敗走の時間稼ぎ」の為に“全滅覚悟で激しく支える戦い”をするのが作戦の常道である。
従って此れの「役目と宿命持つ」のが「陣形」ではその意味で“「殿軍」”と呼んだのだ。
故に、「追尾中の額田青木氏の銃隊」が、“安心して「城側・貞治隊との連携」に戻れた”し、「額田青木氏の銃隊の先入観」も「武田軍本隊側」にあって、先ずは、“傷口を癒す”の例えの通りで、「軍の立て直しをする事」に「先決」があった事に成る。
つまり、「松平軍の後跡・城に近づく事」は決してなく追尾を追わない筈の状況にあった事にある。
この「甲斐の説」でも、これには「軍議で物議を醸した」としていて、“「額田青木氏の銃隊が城に戻れる立場」には既に無かったとする事”も記されていて、「松平氏の説・三河説」は全く違っているのだ。
この様に、「松平氏の三戦記物」と「甲斐の説」では大きく違っているのだ。
従って、それでもこの「もう一つの懸念」では、「山県軍の別動隊」が遅れて来て、“「真南に向いた」”とする陣形では、未だ「相対する戦い」と成る可能性が遺されていた事に成る。
と云う事は、「山県軍の別動隊」は、“これを不利と観ていた”らしいが、現実は「北側の山際」から其の侭で南に向かって突撃しているのだ。
この「場合の説」では、飽く迄も、“「松平軍」は「武田軍本隊の背後」を突いた後は、そのまま急いで「浜松城の城」に戻って「籠城とする説」であったらしい”、としているのだ。
これは確かに「理に叶っている甲斐の説」ではあるが、この“「甲斐の説」の「籠城説」”には、「第一次吉田城の籠城戦の松平軍の勝利・銃」を脳裏に描いていたらしい事が判る。
つまり、「武田軍側」では「戦記に遺す程」に、“この「第一次の吉田城の印象」が強かった事を物語っている事”に成る。
将又、或いは、これは「第一次の吉田城の印象・銃での籠城戦」では無くて、「一言坂の野戦の事の印象を説いている事」なのかも知れないし、「二つの事」であるかも知れない。
兎も角も、「上記の二つの事の印象が強かった事」」を確実に物語るものだ。
現実にその様に思えばそう成っているが、定かではない。
この「陣形の説」では、全比較をここで論じるのは難しいが、やや違う処もあるが「流れ」としてはこれは大まかには「史実に合っている事」なのだ。

さて、そこで先にその「布陣の説の論者」を予想して観る。
それは青木氏の歴史観に執って重要な事なのだ。
恐らくは、先ずこの「説の論者」は、条件として、この「戦略」を組めて、且つ、「発議」できる人物で、又は、直接には「経験者の吉田城城主の酒井忠次」であったのだろうか。
将又、「後に書き遺した」として事を重く見ると、“「柳沢吉保の臣の者」”か、或いは、“その何某かの何れかの関係者であった”であったろう事が判る。
記録では、この時の戦記を詳しく遺しているのだ。
筆者は、「軍議での発議可能な直接の人物」では無く、「流れの雰囲気」から観て、最も“「青木氏」に近く親近感を持ち得ていた人物”か、それを聞き及んで、又は命じられてのその“「祐筆的立場の者」”であったろうと観ている。
この「戦記」には、「人物の特定の表記」は無いが、「野戦」ならばその様に「軍議」では“「重臣」は主張したとする説の戦記の行”もあるのだ。
筆者は、此れで唯、云える事は、この「戦記」と云うか「郷土記と云うかのこの説」には、“事実性が高く、親近感的な表現が観られる処を重く見ているのである。
つまり、「多くの戦記物」は、「特定の氏」を戦記とし、それを中心として美化して描いている常道だが、この「記」は、「歴史の書」として肩に力が入っていない様に描いている”の処が違うと観ているのだ。
そもそも、この「研究中の過程」で判った事は、それは、“「ある知り合い」を通じて偶然に借りる事が出来た書であって、「長く蔵の奥に保存されていた遺産」であった”とされている事である。
これを保存していたのは、“伊勢の過去の「家人・遠縁者」であった「知り合い」”で、その者を通じての、“「奈良」と「伊勢」の「県境の青木さん”であった」”と云う事だ。
つまり、なかなかこの“「青木さん」”としては確定するには「難しい地域の青木さん」である。
この“同書を持ち得ていた”とすれば、先ず第一に「伊賀を含む同族の伊勢の名張の青木一族さん」か、第二に「奈良郡山」に移封と成った「甲斐の柳沢の青木さん」か、つまり、「有名な側用人の柳沢吉保・青木吉保」か、その縁戚と成る「鉢形から追随した一族で後に家臣として仕えた「柳沢氏・豊定系の青木氏」の「兄・甲斐時光系分家の青木さん」かである。
他に、前段でも論じたが、小さい「三つの流れの青木さん」があるが、この「記を遺しえる歴史の青木さん」ではないので除外するとして、「柳沢氏の吉保の祖父」で、つまり、「弟・豊定系」の「青木さん」が、最も関係性が深い事に成る。
然し、「兄・正定系の青木さん」も「弟の吉保一族の側用人」として傍に居て“補佐して遺しえる立場”にはあったとしていて、そこで、完全に特定は出来ないが、「伊勢青木氏・名張」も充分に有り得るが、これは「記にある「家紋」と「宗派」とが違うのだ。
筆者は、「書き遺した事」を明確にしている「弟・豊定系」の「青木さん」が、最も関係性が深い事に成るの説に間違いは無いと観ているのだ。
とすると、改めて前段でも論じたが、「三河戦記の脚色」は「旗本らの意見」を入れて都合よく書き直した事に成り得るものだ。
然し、その「江戸期の美化の書き直しの反動」として、それを正す為に「吉保の主君の命・一族」に従い「一族の生き残りの話・口伝」を「柳沢氏の祐筆」が、この「口伝の描いた原石」の「それに近い戦記」を、“青木氏側から観たものとして密かに書き遺した”のではないかと云う事を前段でも論じた。
故に、興味翻意に書いた物語風の伝記では無く、表に出て来ない「戦記」ではないかと予想できる。
故に、その「証拠」として、“「伊勢側の資料」と共に合致する事が多い”のではないかと推定する。
「今後のテーマ」として、何故、この所謂、“この「青木さんが持っていたのか”であるが、先ず間違いなく、奈良郡山に近い「名張の青木さんの説・四家の福家以外にはこの様な事はしないであろう」もあるが、其れよりも、確実に、“戦記を偏纂したとする記録」”のある事を重視すれば、「柳沢氏移封後の奈良郡山の甲斐時光系青木氏」である事には先ず間違いは無い事に成るだろう。
然し、その「経緯」を辿ると、これには、後にその「記録の元持ち主であった家」の「家の系譜等」が明治期頃から判ら無く成った伝え聞かされているのだ。

注釈 余談であるが、これは火災等では無く、歴史に関して良くある事例でもあるが、歴史的価値のある者に対して、当時、明治期から昭和に横行した「個人の持つ歴史上の価値」のあるものを、「研究目的と偽っての専門の寸借詐欺」が横行していたのであった。
要するに、これを「富と名誉を何かで得た者」が、この“「寸借詐欺」”から「高額金額でこれを入手する事」で、「自分の家の格式の系譜証拠・宗教などの伝統が異なるが」として仕舞う風潮が、「明治期初期・他に室町期中期と江戸初期の3期」にも実は大変横行したのだ。
現実には、これには「明治維新戸籍簿」と「宗派の違い」と「家紋の違い」と「出自元の違い」と「菩提寺/檀家寺の違い」のこの「5つの項目の査定」で違いがでるが、それでも「符号が一致しない姓」と成り、それを簡単に見分ける事も出来るのだが、名乗る者が多くでた。

要するに「伝統のを持たない姓」の“「明治期」に起こった「第三青木氏」”である。
これは「室町期と江戸期と明治期の3つの変革期」にも起こっているのだ。
筆者の周囲にも数人のこの「第三青木氏」を知っていて、同じ氏族ですねと云われる事が良くある。
これを論じる時には、この三期には、注意しなければならない歴史観である。
これが前段でも論じた「明治期初期・苗字令・維新戸籍簿作成」に多く出た“「第三の青木氏の姓」”が出て来た所以でもある。
「明治3年の苗字令と8年の督促令」で「進まぬ令」に対してこの伝統の歴史観を無視して政府自身が名乗る事を強引に進めた所以なのだ。

恐らくは、この「資料」は、この注釈の“典型的なこの経緯を辿ったのではないか”と予想できる。
つまり、兎も角も「経緯論」は別として、その元は「柳沢氏移封後の奈良郡山の甲斐時光系青木氏」である事には先ず間違いないだろう。
然し、この「資料の存在」が、「伊勢青木氏」とこれまで論じて来た「額田青木氏と駿河青木氏と武蔵の秀郷流青木氏」の3氏による「前段の論」を、少なくとも間接的にも証明する物に成り得るだろう。
それが「三方ヶ原から長篠まで」と「その後の伊川津の経緯」のものであるのだから。

「上記の説の論」から「布陣について詳細経緯論」に戻す。
この為には、確かに「戦略」としては、地理的にこの「大谷川」を少し先に超えて待っていた方が有利であり、この事から結局は、その“「常道説」”が先ず地理的条件として採用されずに、且つ、その様な「鶴翼の無理な陣形にした事」に成ったとも考えられるのだ。
この様に「鶴翼と魚鱗の陣形の採り方」には「完全な間違い」はあったとしても、これも「常道説の不採用の敗因の説」に成り得る。
唯、「多勢・鶴翼」に「無勢・魚鱗」の「基本原則」を前提に冷静に考えれば「上記の説」の「武田軍の勝利の可能性」は当初からあった筈である。
天下の戦略家であった武田信玄は、この基本原則の違いに気づかぬ訳はないとして,敢えて魚鱗にしたかと云う疑問が遺るが、ここにには「武田軍の計2万」に対して「松平軍の5000」の「陣形の矛盾」を知っていた上で、「多勢の魚鱗と無勢の鶴翼の矛盾欠点」を突けば勝てると観ていたからに他ならない。
もう一つは、「6000の騎馬兵で中央突破」を先に仕掛ければ「鶴翼の左右の働き」が「その速さ」から開閉が効かないと云う欠点を知っていたからであり、騎馬にの後に続く「徒士の兵」に対する開閉による攻撃は疲れて働かない事を知っていたのだ。
鶴翼には訓練が必要である陣形ある事を無視したのである。
然し、現実は「山県軍の別動隊」に「鶴翼の欠点である側面突撃」を受けて仕舞ったと云う事だ。
これも家康が見抜けなかった「大不思議のミス」の一つである。
これでも、仮に「額田青木氏」が“「軍議の命」を聞き入れていた”としても、前記した様に「銃隊の遭遇戦」と成った「一言坂」より戻って、「鶴翼の頭の部分先端の中央に仮に配置させられたとする事」を前提とすれば、“鶴翼も銃隊も移動しない”と云う点では「勝利の見込み」は確かに納得できる。
然し、「額田青木氏の銃隊」は断った事により「上記の武田軍の有利性は一挙に出て来た」と云う事に成る。
「鶴翼の頭の部分の中央」に「額田青木氏の300の銃隊」が構える事に成った場合は、先ず9割は武田軍の全滅と成り得ていた筈だ。
それは前記した様に、この「フリントロック式の銃力」は少なくとも「兵力の100倍」とすれば「300*100≒30000」と成り、武田軍は長篠の様に三方ヶ原でもの全滅の憂き目を受けていた事に成る。
然し、「額田青木氏の参戦」は無かったのだ。
だから、「信玄の策」は生きたとすれば、“「額田青木氏の参戦」は無い”という事を何らかな方法で事前に知り得ていた事以外に考えられないのだ。
それが「前記した信濃と諏訪親族」を通じての「呉越同舟の関係」が既に構築出来ていたとしか思えないのだ。
筆者は、「前記した諏訪親族」が動かない方が問題であって、「額田青木氏の銃隊」や駿河青木氏の親族が生きるか死ぬかの時に動かない事の方が親族としては不義理に成るだろう。
そもそも「四掟の女系縁者」であるのだから、況してや上記した様に「夕姫」が武田氏に深く関わっているとすれば双方に情報機関がないのであればいざ知らず「天下無双の者・伊賀者の香具師」が在れば放置出来ないであろう。
「最も縁者の神職の信濃青木氏」が参戦出来ないとしても「口添え」は可能であろう。
「信玄」は「一言坂の遭遇戦」でそれを確信したと観ているのだ。
つまり、「額田青木氏の銃隊指揮官」は其の様に「軍議の拒絶」も含めて動いていたと観ているのだ。
要するに「情報を基に信玄と指揮官の腹の探り合い」があったと云う事だ。

そこで、戻してこれを、「多勢で移動型」を主体とする「武田軍の魚鱗」で突破されれば、「敗走する兵・松平軍」が、“「川・支流大谷川」”を超える事」は元より至難の業であって、「人溜まりも無い程の犠牲を負う事」に成る。
況してやこの状況には、そもそも「武田軍の本隊」にはよく訓練された「優秀な次男坊だけの者」が成れる「赤兜の騎馬兵隊・制度」があったので、一極正面突破で突き抜けられて仕舞えば「松平の異常な鶴翼の陣形」は、そもそも「無勢」では消耗戦と成り働かないのだ。
これで「松平軍」は更に潰され「壊滅であった事」は史実を観なくても当初から解る。
その「鶴翼の中心」に「国衆である額田青木氏の銃隊を据える事」を断られた段階でその勝負は決まっていたのだ。
唯、実はこれでも解決できない「疑問」が「もう二つ」あったのだ。
これを歴史観として論じて置く。
それは次の通りである。

その疑問 1
先ず一つは、大きな犠牲を出した「陣形や配置ミス」への「軍監役・監察の織田軍の指摘の有無」の役務である。
次の二つは、「三方ヶ原の戦いの後」の「額田青木氏の銃隊の去就」である。

先ず「一つ目」である。
それは、「三河戦記」では、“連合軍とされていた「織田軍・現実には三人の軍目付・軍監だけの援軍」は、何故、この「陣形や配置のミス」を充分に「織田軍の力」の見せつけで指摘しなかったのか”である。
そもそもこれが「本来の軍監の目的」である。
この時の「織田軍の援軍の兵力説」には、「5説」があって、「内一つだけを除いた説」では、「連合軍の方」が「松平軍」より遥かに優位にあり、且つ、「真偽の兵数記録の事」は別としても、この説の記録と云うものに依れば、この時の構成は、数的には「織田軍の方」が「主軍」と成っていて、それも「松平軍の3倍」に成っていて、これは当に「織田軍」であり、明らかに「あり得ない説・後付けの美化説」である。
「織田軍」は、西に圧迫を受けて西に勢力を注ぐ不利な状況にあって、そもそもそんな「兵数を出せる織田軍の状況」では無かったのだ。
この時の兵数は、全ゆる記録を読み込むと「軍監の護衛隊数・200」であった事が判っているし、それも「戦い前の3日前」に夫々の守備の国に戻って仕舞い「戦い」に合力していなかったのだ。
仮に、これで行けば、そもそも「同盟」であっても「織田軍の方」に「有利な発言権・決定権」はあった筈である。
更に、中には、もっと「酷い説」には、この「鶴翼の陣形」を肯定する為に、「武田軍に引けを取らない兵力・2万」と成っている「酷い説」もあり、これ等の「4説・元よりその様な国力は無い」はあり得ず、「江戸期の後付け説」であって矛盾し全く信用できないのだ。
この「信用の出来ない矛盾説」であれば、「鶴翼の陣形」と「野戦」は有利であり納得できるが、又、其の様に仕組んだ脚色説で、現実は「別の史実」で「後付けの脚色説である事」が明確に判る。
後勘から観ても、これらの「4つの説」は100%あり得ず、これから導き出した史実に基づかない「根拠のない江戸期の興味本位の後付け論」である。
そもそも、この「脚色の後付け4説」は、誰が観ても此処で論じる事では無いが、敢えて、そもそも「正しく見抜ける歴史観」からとして記述して置く。
そもそも、これには「兵数の物理的な基本原則」が古来より定められていて、それは“「兵力」はその「国の石高」に比例し、これを超える事は物理的にも絶対に無いのだ。
当然の事と云えばそれまでだが、それには更に「当時の基準」があって、それは参考として次の様であった。
「1年=1石=1人の米の消費の原則」とし、「1頭・騎=1200兵の揃える前提」は変わらない事から、故に、“「兵力」は、「其の1/4〜1/5」と見做されて組む”とされていたのだ。
これはそもそも「生きて行く為の糧の基準」でもあるのだ。
それ以上は出せず、物理的にも無理だ。
況して“「援軍」”とも成れば「政治的戦略」が必ず働くのが常道であった。
これを考えれば、この「弱者の松平軍」に「強者の織田軍全兵力を差し向ける事」は100%無いし、それは「以西での激戦」が続いていたのだから尚の事でもある。
そもそも「そんな数の兵」を差し向けられる程の未だ「織田氏の力」では無かったのだ。
筆者の考えでは、「計算と記録の読み込み」から、“200にも満たない兵数・守備兵”であった事が判る。
現実に、「差し向けた僅かな兵」の中でも、「織田軍の差配頭・平手」が一人戦死し、この事で窮地に追い込まれた「佐久間右衛門の指揮下」にあった「平手汎秀とその手勢」は、指揮官の考え方に従わずに頑固に私説論を引かずに行き詰まり、敢えて「戦死」を選んで死亡しているのだ。
この「正しい歴史観」では、「主戦説の平手汎秀とその手勢」以外の「籠城説を唱えていた3人の軍監」は、「戦い開始の3日前」に早々と「持場の国」に引き上げて仕舞っているのだ。
「軍監の3人の持場の国」も既に指揮官が留守の背後を脅かされていたのだ。
この事は「主戦論を唱え続けた平手」は後に引けず、結局は残る結果と成り戦死したのだ。
これに於いて後に、“「平手の差配頭」を護れなかった”と云う事と成り、それの兵は“「兵500にも満たなかった事」”を意味して死なせる結果と成って、「軍監の指揮官の佐久間」は「信長」に形式上で罰せられて「流罪」と成り結局は「京都」に流される事と成った。
然し、これは形式上の事で、後に「京」で「信長の隠密として働いていた事」が判るのだ。

注釈 念の為に、「1頭=1200兵の基準」は飽く迄も「室町期の基準」で、「江戸期初期」には「1頭=2100」と成っていて、この規制は時代に反映して厳しく成っていた。
これには、「他の条件」として課せられていた事もあって、“「銃1丁」とそれに付随した「1騎=50兵」”も当てがわれていたのだ。
そこで、「同盟」であったとしてのこの「佐久間」を「1頭」とすると、計算では仮に「1200兵」と成る。
そしてこれには、「全ての農兵・荷駄兵も入れての数」として観れば、「平手」はその中の「10騎の内の1騎」であった事に成る。
そもそも、「織田家」でも「重臣の佐久間」を「1頭」とすると、初めからこの「松平の軍議」では「鶴翼の陣形」や「野戦を行わす事」や「その実務・役務を負担させる事」は先ず無かっただろう事に成るのだ。

現実には、前記した様に、何れの「三河戦記の論」に及ばずとも、「史実」から、何と“3日前に国に戻っている”のだし、この「史実」は大きい。
後に、これに付いてこの「佐久間の行動」は、「表向き」で、「激怒した信長」からこれらの「一連の責任の事」を指摘されて、「織田氏」から「叱責処分」を受けたとなっているのだ。
以上と成っているが「現実の歴史観」は異なっているのだ。
「平手正秀・汎秀戦死」は、自害し、「佐久間信盛」は追放されてた、と「表向きの記録」で成っているのだが、「合理主義の後に信長の処置」から考えて、これは先ずあり得ず、この「罰則の事」でも判る様にある資料からも「裏の行動の事」が読み取れるのだ。
これは、“平手を無くした”と云う事よりは、そもそも、“「三河の軍議」”に於いて「平手汎秀の興奮」を抑えられずに戦死させる様な仕儀の事」をさせて仕舞ったと云う事で罰せられたのであって、「佐久間信盛」の「軍目付・軍艦の将」が、そもそも「籠城戦」にさせられずに、“馬鹿な差配をしたから”であったのだ。としているが、ここでこの説は次の事でおかしいのだ。
仮に「野戦」なら、“軍監のみの織田軍だけが城に遺る”と云う事は、そもそも考えられずこれは無いし、その“「選択肢」も無かった”のに、「平手を放置した事」にそれを指揮官として厳しく叱責したとするのだ。
この説は、世間に対して「織田氏の名誉に関わる事」であったからだが、ところがこれらの行から「信長の心の内」は、この「戦い」に、“一兵たりとも関わらない事が得策であった”のだ。
だから、そもそも「同盟」であるのに、「兵の援軍」では無く「軍目付・軍監」であったのだ。
「同盟」であれば、そもそも「援軍を廻す事」にすくなくとも成るが、現実には、敢えて常識を超えて“「軍目付・軍監」でしか無かった事に意味を持っていた”のだ。
そうでなければ理屈は合わない。
これは上記した様に「3日前に守備している国に戻っている事」が物語っているのだ。

全くその通りで、その方が「空」にするよりは「西で戦うの信長」に執っては全くに戦略的に都合の良い事であろう。
この「4説・松平のメンツを保った江戸期の後付けせ説」だと、これは当に「織田軍と武田軍の戦い」であって、「同盟の援軍」として出すのであれば少なくとも「5000」は超えないであろう。
この説は“賢い先ず信長”であれば先ずは無いし、「そんな兵数」は未だ「信長」には無かったのだ。
それでも未だ少し真面な「残りの1説」では、「援軍3000」としているがこれでも多い位と考えられる。
“利に長けた鋭利過ぎる程の信長”の頭で考えた場合の作戦としては、この場合の「織田氏の利害」を考えれば、寧ろ、「勝てる見込みの無い松平氏」に対して、「織田軍の援軍を送り込む事」より、“何時か迎える「織田氏と武田氏の決戦の事」”を考えれば、より一兵でも「援軍」を少なくし、より「被害」を少なくし、且つ、「同盟」とは云え、「松平氏の被害が大きかった方」が、“「西三河獲得と云う点・父祖からの係争地」”では「無駄な力」を注が無くても得られて都合が良かったのだ。
そして、将来的には「得策」として「武田軍との決戦」でもこの結果の方が都合が良かった事に戦略としてあった筈である。
結果として、この事で「青木氏の歴史観」から重要なのは、額田青木氏の将来の事を考えれば「松平氏の勝敗」はどちらでも良かったのだが、その「キーポイント」となる「松平軍」は予想通りに敗戦したが、ところが、これは「織田軍」に執っても、ここで“「大きな誤算」が生まれていた事”なのだ。
それが、何故ならば、そこには「青木氏族側」には「商いとしての目的」が先ずあって、其の上での事であって、「戦前に結んだ国衆約定の実現」により「額田青木氏族の伊川津の渥美湾の制海権の利権獲得が叶えられる事」が先にあったのだ。
その為には「松平氏の勝敗」は、勝ったとしても何時かはどんな形でも「武田氏」や「織田氏」との決着を着けなければ成らなかった筈であり、その意味では「松平氏の遺された道」は先ずは「富む事以外には無かった事」で有ったろう。
そして、結果としての時系列としては、「敗戦した方」に傾き、これが元で、この「青木氏との約定から得られる利権益」が、“立て直しの為には是非に必要であって「より最大の目的」”と成って行ったのだ。
その意味でも「伊川津国衆」であっても、「松平氏の敗戦に依る弱体化」は「約定実現」には「得策」であって「復興実現策」に効果が生まれると云うものであった。
だから「三方ヶ原敗戦後」に“1日も置かずに「銃隊の軍団」を解いた事”であるし、直ちに「開発業と陸運業と殖産業の3事業」の“「復興実現策」に取り掛かったと云う事”に成るのだ。
それも、「開発業と陸運業と殖産業の3事業」が何よりも「尾張よりも遅れている未開の三河」には必要であったのだ。
この事に付いて、「伊勢の事前の敗戦後の行動」の為に「伊勢水軍を渥美湾に廻していた事」が判っているのだ。
「額田青木氏の最悪の場合」を考慮して「救い出す手立て」として廻していたかは判らない。
そこで、この事が「敗戦」からその「松平氏の勢力」を結果として「急速に盛り返すだけの財力を得させた事」に成ったのだ。
これが、“織田軍に執っての大誤算”であって、普通であれば「先祖伝来の旧来の係争地」の「西三河程度」の「小さの領地・父祖伝来からの係争地」さえも「奪取出来ない程」に、「松平氏は急速に力を蓄えて回復可能と成って行った事」が云えるのだ。
この“急速に”に意味が大きかったと観られる。
逆に、それ程に「信長の思惑は叶わなかった事」とする「史実」であったのだ。
さて、そこで、思惑の外れたこの「信長」は、この“急速の原因”と成っていた“「影の伊勢の力」が大きい”と観て、そこで“「伊勢湾勢力」に目を向けたのだ。
それも「得意とする武力」では無く「調略」に出て来た”のだ。
処が、「織田軍」には、軍をより強くさせるこの「便利な水軍は無かった事」から、「伊勢水軍とその勢力」を張りあっていた「南の惣国性の強かった“熊野水軍」”に目を着けて「味方」に引き入れ様として来たのだ。
当然に、この「伊勢域を勢力範囲とする伊勢水軍」は、「勢力範囲を犯される事」を嫌って熾烈な戦いが始まったのだ。
「伊勢水軍への調略」は、結束は固く、“尾張に近い一つの小さい水運業者が味方にしただけ”と成って「調略は失敗に終わる」のであり、結局は、「伊勢水軍]と「逸者九鬼氏が支配していた熊野水軍」との勢力バランス」と成る。
そこで、「伊勢側」は「紀伊水軍」と「縁者の摂津水軍と瀬戸内水軍」を味方にして「組合」を作って、“両方から挟み込んで抑え込む作戦”に出た。
そして、結局は「周囲の締め付け」に依って「熊野神社の神官六氏から成る正規の熊野水軍」は手を引くが、「熊野水軍強硬派」の「逸者九鬼氏」だけと成って、この「抑え込み作戦」は成功するのだ。
「伊勢水軍と伊勢青木氏」と「古来から繋がり」を持っていた「本来の熊野神社の六氏から成る熊野水軍」は[信長の誘い」に乗らなかったのだ。
その「調略に乗らなかった理由」としては、そもそも「神明社を基とする伊勢水軍」と同然に、そもそも水軍とは云えどそもそも「武力集団」では無く同然、同然に「由緒正しい神官職六氏の水軍の歴史」を保つ事にあったのだ。
だから、全国から信心を集めている「熊野神社の体面」に傷が着く事に有ったのだ。
結局は「海賊衆団逸者の九鬼氏・後に結果として排斥されて衰退」だけと成って、「信長の調略作戦」は浮いてしまう結果と成るのだ。
結局は、「水軍の無い織田軍」は、「伊勢湾」にこれ以上の勢力範囲を広げる事は出来ずに見守るだけに終わり、背後にこの「伊勢勢力」を遺した侭に「三河の復興を見守る事」の結果と成って仕舞ったのだ。
「駿河青木貞治と繋がる東の勢力・秀郷流一族一門」、即ち、その「全国に広がる一門の361氏の勢力」と「秀郷流青木氏116氏」の「総合力477氏」には、「取り繕う事の出来ない恐怖の勢力」の「今後の動向の事」を考えた場合、「まだ小さい信長」に執っては「戦う事の出来ない大きな脅威」に成って行ったのだ。
要するに、「手の出し様の無い二つの勢力」が、前後から「三河」を支えその「勢力と財力」が背後に控えていると成れば、そう成れば「弱体化した三河」を今の早い内に、それを取り除くのが「常套手段」であっても、「潰しにかかる事」は出来なかったという事ではないか。
一方で、前段でも詳細に論じた様に、「三河」で「開発業と陸運業と殖産業」も全土に進めた「青木氏・開発地には青木村を形成している」が「背景」としてこの「三河の盛り返し作戦」は「財政的」にも大成功と成ったのだ。
これで逆に「信長が目論む潰し作戦」は難しく成ったと云う事であろう。
この「青木氏族」から得た「財」に依って、その当時の「三方ヶ原後の兵数」は記録に依れば「2000弱にも満たなかった事」が判っていて、それを「各地から流れ来た国衆」と、「今川氏の残党」を、その「得た財」」で「三河」に雇入れて、その「財と兵力」を基に急速に盛り返した事が判っている。
多分、これで尚、[思いも依らない事」に成った「信長」は焦った考えられるし、この「攻めてこない勢力」の「伊勢」に対して相当に警戒していた事に成ろう。
別の資料には、「三河」には地理的に地形的に「殖産の魅力が元より多くあった事」が記録として遺されていて、そこにも「当初からの狙い」が「欠陥としての真砂土壌の伊勢」には充分にあったのではないか。
「開発業と陸運業と殖産業も三河全土に押し進めた青木氏」の「先を観た狙い」も当初からここにあって、これを“「国衆の条件」”としてのいたのでは無いかと予想できる。
「伊川津」に戻って時間経過の無い程に直ぐに「銃」を置いて関わっている事を観ると間違いは無いだろう。
寧ろ、「額田青木氏」に執っては「銃」よりこの「土に関わる方」が彼等の性に合っていたのだ。
だから、「開発業と陸運業と殖産業の3事業」は効果を発揮したのだ。
要するに、そもそも「銃にしても戦いにしても先行投資」であった事と云えるのだ。
この事で「伊勢」は、「当初の目的通り」に「伊豆までの海路ルート」は出来上がったのだ。
これで「断たれた伊豆」との「関係の復活」と「武蔵秀郷流勢力との繋がり」のより一層の関係も復活したのだ。

現実に、「長篠の勝頼の武田軍の指揮能力の低下」と、上記で論じた様に、「銃火力を得られなかった軍の状態・考え方」を招いた「勝頼の武田軍の長篠での敗退後」に、「勝利した信長」のその後の「松平氏への態度の凶変」が起こったのだ。
これは、上記の“織田軍に執っての大誤算”であって、“「伊勢」を味方に引きいれてそれで得た財力を生かす”とした「三河の考え方」に対して、それを物語っているのだ。
この“「信長凶変」”は、「上記の経緯論」からすると、「軍目付の行動」から観ても、「元からの戦略」であった筈であった事は確かであるが、それにしても“「戦いの勝負」の着くのがあまりにも早かった事”が、“織田軍に執ってはそもそもの大誤算”であったのだ。
「長引いてより弱る事」をこの「信長」は目論んでいた筈である。
そして、その「復興の活動・戦後」に目だった「駿河青木氏と額田青木氏の背後」には、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流青木氏」が「後ろに控えていた事」であって、それには「神明社の信長の破壊事件」や「伊勢水軍調略の事件」もあっての事を充分に承知していた筈である。
その為に其の後の「駿河青木氏の貞治の後裔・長三郎一族」は、何と「御家人御側衆」として引き上げられて「3000石の大出世」をさせて、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流一門との関係性」をより強くして絶やす事の無い様に配慮したのであったのだ。
こうする事で即座に詳細に具体的に「伊勢の背後勢力とのパイプラインの構築」が双方に出来上がったのだ。
それも単なる「家臣」では無く、いつでも意思を詳しく伝えあう事の出来る「御家人御側衆」にしたところに意味があった。
それが前段でも論じている様に、「伊川津の港の制海権の取得」と「国衆に成る時の約定の実現」として、“「伊勢の事一切お構いなしのお定め書」”に成って、「感謝状」を出して「約定の反映」と成って現れたのだ。
だから、「信長」に執っては、その「復興・財と武」の「そのあまりの速さ」に就いては、“計算外であった”のであろう。
寧ろ、“早くしなければならないとする判断が「青木氏側」にも「松平氏側」にもあった”と観られる。
それは、「信長が食い込んで来る隙を与える事」に成るからであったのだ。
簡単に云えば、“「松平氏・家康」に此処まで「青木氏族」が早くて強力に肩入れするとは、そもそも「信長」もそもそもも思つてもいなかった”と云う事ではないか。
この事が「他の1説や郷土史などの研究資料の記録の一部」にも“間接的にも警戒を込めた表現”で珍しく記されているのだ。
“「戦略的に影にある邪魔な勢力」は、早い内に潰して置くのが常道である”が、ここで「歴史的に物語る事」としては、当時の「信長」でも、“流石に「青木氏族の総合力の抑止力」を潰せなかった”と云う事であろう。
これは「強大な武力の秀郷流一族一門を背景にしている事」にあって、手出しは出来なかったと云うこの「時系列で云える状況諭の歴史観」であるのだ。
これは「三河」に於いてのみならず、其処には「単なる売り買いの商いの財力」だけでは無く、「全段からの論の殖産力」を基にした「総合財力にも有った事」なのだ。
どうも時期は明確には判らないが、この時頃からどういう形かは判らないが「武蔵の秀郷流青木氏」は「商いを始めた事」が判っているのだ。
それが記録に遺る「長島屋」で云えるのだが現在では最早詳細は良く判らない。

注釈 現在の研究結果として判った事は、前段でも論じた様に詳細が判らない中で判っている事としては、上記した “「駿河青木氏の貞治の後裔」は、何と「御家人御側衆」として引き上げられて「3000石の大出世」をさせて、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流一門との関係性」をより強くして絶やす事の無い様に配慮したのであったのだ。”から、確かに記録に観られる様に、“上記の完成したルートを使って「商い」を「武蔵」でも開拓しようと試みたと観られるのだ。
ところが、その後のこの「商いの行方」が江戸期に成ってから判らないないのだ。
「武蔵の秀郷流一族一門衆361氏」が挙って「江戸幕府の御家人の家人衆」と成って徳川氏に仕えた事が、この「商いの必要性・長島屋」が無く成ったとも考えられる。
伝え聞く処では、最終は“群馬県まで奥に流れ着いて消滅したと言い伝えられている説”もある。
そもそも「店名」は、幾つかの店名の記録があって、一門の代表の「長島屋の説/永嶋屋」が多く資料から垣間見られるし、又、[伊勢青木氏・伊勢屋」が「吉宗」に江戸向行した後に、「店伊勢屋を200店舗」を江戸に張ったが、「信濃の闕所の件」などで「吉宗との仲違い」が起こり、それで「3日で伊勢・水伊勢水軍」に引き上げたが、前段でも論じた様に、“「江戸の伊勢屋」を番頭等に無償供与した”と伝えられている。
然し、果たしてそれでは“店を正当に経営する以上は、そもそもこれでは“番頭等に無償供与した”だけでは済まない筈”であり、「契約等の信用の商い」の上では「担保と成る財産権・債権」などはどうしたのかという問題がある。
それでなければ「大きな商い」は江戸では先ず治まらない筈だ。
要は、「信用に値する財産権」である。
これは「伊勢」では、“番頭等に無償供与で任した”として伝えられているが、それも「大きな商い」をすればするほどに必要と成る“「絶対要件」”であり、これは簡単に成り立つ話ではない。
然し、ここがそもそもの「筆者の疑問」であったのだ。
依って、そもそも「江戸経済に影響すると云う事」では、当の幕府はこれを巧く治めて置かなければならないが、これを背に腹は代えられないとして「幕府」がリードして、「伊勢の縁者関係」の「秀郷一門の元殖産業兼土木業の永嶋家・結城氏系永嶋氏」に、この「跡目」を引き継がせて、兎も角も“「跡目を治めた」とする説”にも納得できるものがある。
そもそも、この「結城氏系永嶋氏氏」は、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の強い縁者関係にあり、例えば「秀吉に陸奥結城氏」を攻められた時も、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」が「秀吉の背後」から単独で攻め立て「秀吉」は「信越道の山道・狭い荒れた商道」を通って「大阪」に逃げ帰ったとする「戦歴史実も遺されている関係」にあって、その所縁は「一門の商い道」に関してこれを壊さない様にする為に動いたとするほどに浅くはないのだ。
これ以上の事は「伊勢の記録の範疇」を超えるので判らないので論じる事をこれまでは避けていた。
然し、「明治期まで開発企業」として残っている限りに於いては、“「現実の流れ」”としては「現実の円滑な解決の問題」として「後者の説」では無いかと考えられるのだ。
もし、そうだとしたら、江戸期にも相当にも経済面でも「伊勢と繋がる秀郷流青木氏」も「駿河青木氏の後裔」と同様に「幕府・秀郷流一門は御家人衆として幕府の8割家臣団」となっている以上に於いては、「経済面」でも大きく食い込んでいた可能性があるとされる。
「駿河青木氏の御家人御側衆」と「御家人衆として幕府の家臣団等」が、この「伊勢屋の江戸金融200店舗の問題解決に走った」とする説が成り立つ。
だとすれば「四掟の女系で繋がる伊勢」も損得なしとして納得できるだろう。
「秀郷一門の中でも「殖産業兼土木業に従事していた永嶋家・結城氏系永嶋氏」が、この「店舗跡目・株主」を「商いの殖産」として引き継いで「財産的跡目・信用度を治めたとする説」を裏付けられるのだ。
今で云う「ファンドホルディングの企業のグループの一員」として扱ったと観ているのだ。
其の後の「江戸伊勢屋金融業200店舗」の「店舗数と店名」も、暫時、「永嶋屋」に変化して行っている可能性があるが、これも「変化していて減ってる事」と「金融業の減少」は資料的に判るが、これも確定する程に定かではない。
ただ、前段でも論じた様に、記録にある様に「薩摩藩」とも「商業取引・島津氏系永嶋氏」をしている限りは、「永嶋屋、又は長嶋屋・長島屋」が、前段でも論じた様に「史実」として室町期末期から江戸期中期に掛けて「関西の手前の名古屋付近」まで「商いは伸長している事・子孫も伸ばしている事」が気に成る事なるのだ。
伸長する以上は、その「力の元となる財力」が無ければ成し得る事ではないとすると、これが「享保期の200店舗の財」にあったのではないだろうか。
それが「伊勢の長嶋氏」まで繋がっているとすれば否定はできない事ではないか。

さて、そこでそうでなければ「伊勢屋後見人」と成っている「紀州藩の反発」などの事を考えた場合は、「江戸の経済を救う為のスムーズな解決方法」は、これ以外には無かったのではないかと考えられる。
何故ならば、それには前段でも論じた様にこの「享保期」に「300両しか無く成っていた幕府の御蔵金」のその「回復元」に成っていたとすると、この「伊勢屋の商業権を潰す事」は、仲違いしたとしても「吉宗」にしても確かに米市場でも儲けたしても絶対に未だ手放す事は出来なかった筈だ。
そもそも、其の為の「応急経済策」であったのだから、絶対に放置する事は出来なかった事に成る。

要するに仮にこの“「伊勢屋が番頭の個人化」”をだけを認めて仕舞えばすればするほどに、未だ達成されていないこの「御蔵金の目的」は、これは「叶わない非常事態の事」に成る事はだれが考えても判る。
だとすると、突然の「伊勢と信濃の闕所事件・旗本の反発」が、「幕府の意思以上・吉宗の意思」にこの等の一連の事に就いても「反対勢力と成って大きく関わっていた事」が読み取れるのだ。
更にだとすると、その「反対勢力」に付いては説明する必要も無く判るのだが、それは必然的に「信濃の聖地と殖産を奪った5人の旗本勢力」に成るだろうし、「伊勢で山田奉行所を仕切っていた嫌がらせ」をしたのも{有名な旗本連」であった事を裏付けられる事にも成る。
「江戸期の青木氏の歴史観として此の期の史実の解明」には、ここの解明が是非必要としているのだが、処が前段から論じている様に、「肝心の武蔵秀郷流一族一門から裏付けられる資料」が少なく見つからないし、確定は困難な処なのだ。

さて、注釈としてこれ等の他の「稚拙な4説論」では、これ等の歴史観は正しく語れず、それは江戸期に於いての余りにも「面白おかしくする為に物語風で誇張している事・販売目的優先」にあり全く信用できない。
「上記の江戸期の稚拙4論」からは、信頼できるのは「経緯・日等の史実」に基づくもののみでこあって、それ以外は何れにも間違いなく多く「脚色」を加えている。
江戸期のものは、そもそも「経緯と史実」だけでは読んでくれないと云う潜在的な江戸分化風潮があって、止むを得ない事ではあるが、それは「史実の探求心」を遥かに超えていたのだ。
要は、「肝心の武蔵秀郷流一族一門から裏付けられる資料」にある。

さて、次は上記の「二つ目の疑問」である。
この「三方ヶ原の戦いの後」の「気に成る点」としては、何と云ってもそれは“「額田青木氏の銃隊の去就」”である。
「兵ではない銃隊」としての事が其の後にどういう風に出たのかである。
「伊川津」に戻った後は、直ちに「商い」に入っているのだとすると、この「兵ではない銃隊」が「社会・商い」に対応できたのかである。
況して、「額田青木氏の銃隊の行動」に対しても、これは普通では間違う事の無い“「戦国時代の常識的な事」”であった。
本来であれば、何れの陣形でも「陣形の中央に位置させる事」が「常套戦略」であったのに、それをさせなかったし、歴史的に有名に成っている「浜松城の軍議の結果」でも「額田青木氏の銃隊」は城外に放り出されたし、そもそも外に出された「後の命令」は、「偵察」を意味する「決死隊」でもあったし、況してや「偵察の意味」は既に「浜松城の城」から観えているので、「偵察の意味は全く無かった事」にも成る「無用の偵察」であったのだ。
それでも「軍議」は、「呼出し後の軍議の命令」を拒否した「額田青木氏の銃隊」に対して外に出す事を態々選んだのだ。
それも出した相手は、「兵として働く」のでは無く、「額田青木氏」が持つ「フリントロック式近代改良式の300丁の銃隊」に対してであった。
当時の考え方は、飽く迄も未だ「戦いの戦術の中の一つのツール・弓矢的な使用目的」として扱われていたのだ。
つまり、「戦略的使用」では無かったのだ。
これは「三方ヶ原の額田青木氏の活躍」を観て後で評価していたのではないか。
参考として「長篠」では「信長」はこれを「本来持つ戦略的使用目的で使った」のだろう。
当時から、それでも「世間の評価」は、「銃の評価」として「10倍/兵」が一般的であったが、「フリントロック式近代改良式の300丁」は、その構造上から「100倍の兵以上」には相当しただろう。
この「約20000から30000以上の兵に値する銃隊」を、「城から観えている処からの偵察」で、既にその「勢力の状況」を「松平軍」は、「すぐ先の一言坂の野戦でも戦って知っている軍」なのに、この「意味の無い偵察」を出したのであったのだ。
ここから「銃の評価」も含めて「松平軍の戦術的な意味の失敗」が目立つのだ。
且つ、そこは「城」からも観えている所でもあるし、そこに態々「偵察」を命じたのだ。
其の込められた意味は判るだろう。
それは「軍議の命令」に応じなかったからだが、そもそも「額田青木氏の銃隊」が「伊川津の国衆」であっても、「家臣にしてもらう為の国衆目的」では無く、その働きで、「渥美半島の制海権の取得契約の目的」としていたので、そもそもそこが根本的に違っていたのだ。
そこで「額田青木氏の銃隊」は、「三方ヶ原の戦場12/22日」には、真偽は別にして「資料・伊勢資料」に依れば、この「額田青木氏の銃隊」は、“開戦ぎりぎりに間にあった“とだけ記されているのだ。
これは「判断材料」としては「重要な時系列の記述」である。
上記した様に、実際は「駿河青木氏の貞治隊を救助する事」の為だけのもので、この“「目的の異なる事」”に対して、「時系列」としては「額田青木氏の銃隊」が、“それを戦術的に間に合わした事に成る”のだ。
つまり、この「ミスマッチの鶴翼の陣形の犠牲の多い中央」には、それを「別契約に依る国衆である額田青木氏の銃隊」にさせようとする「軍議の狙い」であったが、それは元より「陣形の中央」に位置するのは本来は「旗本」である。
この時、“「旗本のプライド」は、それを許さなかった”と云う風に「物語風の江戸戦記の一つ」には真偽は別にしていて書かれている。
但し、これは「後付けの編集」されて事実と異なるのだ。
此処には、次の事が隠されて書かれているのだ。
一つ目は「三河者の頑固さと嫉妬と羨望」
二つ目は「銃の威力の知識の無さ」
三つ目は「戦略的知識のレベルの低さ」
以上3つが三河戦記と呼ばれるものには共通して編集して書かれている事である。
ここではその戦記の一つに不思議には正直に書いている。

そこでこの事に就いて、“「秀郷一門の背景・伊勢」に遺している「軍師役・指揮官の書」”には、つまり、「遺した忘備録の様なタイプの資料・発言録」には、次の事が書かれているので照らし合わせて観るとする。
但し、この“「軍師役・伊勢秀郷流青木氏であったからか」”としたのは、「青木氏から観た全体的な立場」であって、且つ、「銃隊から観た立場」では、この「書」は“「指揮官」であった”として、故に「忘備録の形・老後での思い出しの記録」で記しているのであろう。
これを前提にして要約すると次の様に成る。
先ず、“彼らは元来は“「影の力」”を得意(ゲリラ戦)としていて、本来、“彼等は「直接戦闘力」は有していなかった”としているのだ。
確かに、それを「補う為に採った作戦」が、この“「影の力」”を得意(ゲリラ戦)としている為に、それを補うものとして「フリントロック式改良型4連発超近代式300丁の銃隊の保持」で在った筈”と記されているのだ。
「銃兵」と云うよりは「影の力で押し通す兵」であった事に成る。
つまり、この「改良の成した意味する処」が、その為にあって前段で論じた様に「影の力」に負担を掛けない様にする為のもので、その為には「銃の欠点をより少なく良く解消した事」ではないかと成る。
そうでなくては使え無かった事をも意味している。
「影の力を得意(ゲリラ戦)」とする以上は、要するに「特段の訓練であった事」に成り、その為には「兵を動かす指揮官が特段に必要と成る論理で動いていた事」に成る。
然し、そして、そこでこの「記録の事」を考えれば、“これだけでは「戦乱の世情」にて出て生きて行けないのは当然である”として、そこで「美濃の東山岳民」から“「伊川津の国衆」”とさせるまでの計画である以上は、彼らには“「それ相当の戦闘力・武器力」を持たす必要があった”としている。
これに就いては明確に書き置きしているのだ。
これは「戦記側の言い分」である。
だから、飽く迄も“「影の力」を得意(ゲリラ戦)とする兵”である以上は、「軍議に於いても決然と断ったとする説」が成り立つのだ。
つまり“「陣形の中での戦術兵」では無い”と云う考え方を持っていたと云う事になろう。
それが「青木氏族の策」として、“「秀郷流一族一門の助成・伊勢」に依る「戦闘力の背景(軍師)」をより持たした”という事の意味であったのであろう。
そして、この“「背景」”とは、“「軍師役」と「軍事力・銃の抑止力」”であった”としているのだ。
此れでは、この「忘備録」から検証すると、「相当に意味合い」が異なっている事に成る。
要するに、言い換えれば、“「伊勢と信濃」の「青木氏族」のその得意とするのは、そもそも“「経済的な力」”であって、「戦術力」では無く、その「経緯」では、故に、“「鉄砲・試作銃・堺」を先ず自らの力で獲得する事”としていた事である。
それが、「額田青木氏」に「持たす以上」は、それは「火縄銃程度」のものでは無く、“「周囲の脅威」とも成り得る程の「超近代的な武力(鉄砲)」を与えた”として補完策としている事に成るのだ。
故に、この説であれば、美濃の「加茂・木曽域の山間部」から出て来ても、兎も角も結果としては、“「伊川津の国衆の力」は成立した”としているのだ。
つまり、「銃の兵力とは当初より観ていなかった事」に成るだろう。
後は、“「訓練・フリントロック式改良銃の秘作銃の事か」と思った”としている。
この「印象」としては、つまり、この「一忘備録の様な記録」としてでは、“目標達成の後として多少憤慨気味に記されている”のだろう。
この「書の論理」で行けば、この「経緯の検証」では全てに於いて符号一致するだろう。
然し、当地を治めていた「松平家康本人」に付いては、更に、この「一忘備録の様な記録の資料」を観ると、単に、“相当なこの「近代的な武力」には、“魅力を引かれていた様であった”とし、“ここだけは主観的に記されているのだ。
これは戦い後に「伊勢と話し合っている事」を物語るだろう。
然し、この結果として、実質は「伊川津の国衆」として成り得て扱われていたとし、この史実としての結果とし“「伊川津七党」の「青木氏党の四家」が、「土地の旗本等」に敵対されていた”するのであろう。
然し、この「旗本」には、未だ“「銃に対する認識度」が極度に低く理解が得られい無かった”とされていたとしているらしい事なのだ。
そうすると、論理としては「三河旗本」の「よそ者への村意識が強かった事」に成る
客観的に、“「それ・嫉妬と怨嗟」が長い間も排除されなかった所以であろう”と、この「防護録」は記している事に成るのだ。
それが「家康と仲が良かった」と成れば、彼等に執っては耐えがたい屈辱に近い怨嗟となる事は否めない事かも知れない。
結果として、「戦い後」に戻った「伊川津」では、“莫大な供納金を治め渥美湾の制海権を獲得する”事に至ると共に、「三河での開発権や殖産権や陸運権」を、ここで一手に引き受けたのだが、これはその後の変わり身の早さだ。
そして、それと共に「その開発業」と、並びにそれに並ぶ「陸運業と殖産業をも営む事」と成ったのだが、この「三河」では、「額田青木氏に向けての改良銃の銃」の「その後の行方」は、“まだ充分に安定しない社会の中では必要としていた様なのだ。
「額田青木氏」は直ぐに「兵」では無く「商いの担い手」に成っていたのだ。
「伊勢」は元よりそれを知っていた事に成る。
寧ろ、それを当初の目的として彼等を鍛え「額田の山奥」から引き出して「青木氏族の力・武蔵の一族との繋がり強化」にしたと考えられるのだ。
「信長の台頭」に依ってこれを壊されると云う警戒心が強く、結果としてルートが遮断されて「女系で繋がる青木氏族」は衰退し抹消の破目に至ると呼んでいたのだ。
現実にこのルートの元に成る「神明社」がこの「尾張から三河」の間で壊されていたのだ。
それだけに、この「抑止力」が未だ続く限りは、この「銃兵の印象」があって「伊川津の旗本衆」も手が出せなかったと云う事に成ったのだ。
現実は、この「江戸初期の社会の中・他の国衆への脅威と商いの山賊盗賊対策等対策・松平氏黙認」としては前段でも論じた様に、「三河での開発権や殖産権や陸運権」を成すには未だ充分に「「武力的な力」が必要であって、そこでは、「銃の保持の禁令」にも拘らず、「密かに氏の存続とその警護の為」にも使われた事”に成っていたとしているのだ。
そして、それ故に「額田青木氏の南下国衆を護る為の脅威に対する威力」は、この「銃力による脅威」は抜群であったが、ところが「現実の問題」としては前段でも論じた様に、“いざ他の者がこの「特殊な額田青木氏仕様の特殊な銃」を使うとすれば、反面に於いて、“相当訓練を要する「特殊銃」と成っていたらしい事”が記さされていて、そこから、“果たして使えるかの問題”もあった様なのだ。
それには先ずは「技術的な面」として問題があったらしい。
それが「日本国内」では、禁令に拘わらず黙認されていた理由の一つには、先ず簡単に銃を入手し模索され得ない事だったし、且つ、その「銃としての必要な資材」としては、「超高額な入手困難な黄鉄鉱・国産化は無理で貿易限る」の必要性であった事の「二つの難題」と共にあって、それが主な一般が使えない理由でもあったとしているのだ。
「銃」は当初より「商いを前提とした護身用銃」であって、兵を前提とした銃では無かった事に成り、其の様に動いていた事に成る。

前段でも何度も記したが、余談だが、其の後のこの「銃の行方」は、江戸初期では「銃としては利用価値」はあったが、「中期以降の価値」は、肯定は出来ないので筆者が観る処では、その「使用の影形」が無い所を観ると、「頃合い・秀吉」に次いで、「江戸幕府初期の銃規制令」を考えても、その後に密かに“氏族内で強制廃棄焼却等の処置処分等を一斉に施した”のではないかと観ているのだし、目的の為にもそそうしたのだ。
この処分は「江戸期初期の火縄銃規制」の時か、やや其の「20年後内頃」では無いかと考えられる。
この間の詳細は記載されていないのだが、“密かである限り”は飽く迄も“密かに処分と成った”と理解する事が妥当だろう。
将又、その量から考えるとその処分は、“「300丁である事」と「一族内とする事」”から、その“最終処分の時期”は、「松平氏」がこれを黙認した以上は、遅くても「130年後の享保期の事件」、つまり、「幕府の難癖」と「国衆の嫉妬怨嗟」と、将又、この時期までに「豪商等」に頻繁に行われた「難癖の闕所の時期」を避ける事に、つまり「処分時期を重視した頃」までの事に成るだろうと観ている。
それは、前段でも論じたが、“刀”の様に「昭和期30年頃」まで密かに「伝統品の数十刀の名刀」も“青木氏の格式を物語る物”として確かに所持していた。
これと共に「銃の飾り・確認している」として持っていたされる事が、「先祖や祖父の忘備録」や「父の口伝」や「一族内の資料」ではこの事は明確に伝わっている。
そして、その「銃に関わる物」は別として、「刀掛け等の伝来品等の物・現有」の「多くの古伝統品の物」は、現在も一部保有して「飾り」としている。
この「類の銘刀等」も筆者も現実に目視している。
然し、処がかと云ってこの「銃の関係品」だけは「格式や飾り」とは成らない事からか、この類するものは家中や一族内にも隠していた形跡は何一つ見つからないのだ。
取り分け、「鉄・銃に関わる物」として「戦時中」に、そして「その戦後」に「危険物」として「飾り程度のもの」までも全て「供出令」が下ったが、その時の「憂き目を受けた事の印象と記録と口伝」も無いのだ。
どこかに1丁位は隠し持ちしていたとも考えられるが、一族内にも“完全な影形”で見つからないし、これらの「廃棄の記録」も無いのは、「江戸期の中頃」までに全く遺していなかった「証拠」でもあるからであろう。

兎も角も、そもそも、この「額田青木氏に与えた銃」は、現実には「訓練無し」では全く使えない代物だったとし、そして、「黄鉄鉱石の入手と硝石と鉛の入手」は、現在でも“「貿易」”に依ってだけ得られるものであって、現実には他人に渡ったとしても、“「伊勢屋との繋がり・貿易」”が無ければ使えなかったものたったとしているるのだ。
唯、「何らかの形上・飾り」で遺されていても良い筈だが、「伊勢の四家と福家」にも影も形も無い。
「1605年の江戸期の銃規制」もあって、“「飾り」”も含めて「銃の存在価値」が、江戸中期頃以前に「青木氏の氏是と家訓」の上からも好ましくない代物としていた事に成る。
筆者の考える処では、「氏是の考え方」としてその「保持そのものが価値]として「一族内」で統一して「廃却を前提として否定されていた代物ではなかったかと云う事だろう。
つまり、江戸期では“「銃の飾り」”が、「刀」の様に「戦いの象徴」の“「伝統品」”として扱われる事が「社会」でも許されなかったとしている事であった。
この事もあって、「刀」と違って「青木氏の律宗族としての格式の立場」も相まって、“「飾りとしての持つ事の意味」”の「そのものの元の意味」が「否定されていた事」と考えられるのだ。
現実には、従って、ところが「象徴としての刀類に関するもの」だけは、確かに「昭和期・20年」までは家中に存在していたが、「遺されている伝統の現在の遺産類」にはこの種の「氏是に反する物」は、最早、無いのだ。
要するに「銃は戦う武器である事」には間違いは無いが、「刀」にはそれ以外に「族家の伝統の意味」を生み出し、「銃」にはその「伝統の意味」は無かった事に成るだろう。
「青木氏族」の中では、これは、「考え方」として統一されていて、“「銃と刀の持つ意味」がハッキリと違った”と云う事では無いだろうか。
それを意味する記録類がない事は、そもそも「青木氏族」に於いては、当初より“「否定的な伝統品として扱われていた事」”をも意味するだろう。
要するにそれは、“「銃の殺戮性」”に関してでは、「青木氏の中」では「伝統的ではないとする否定的な考え方」を持っていた事に成る。
然し、この“「超近代銃は苦難の末に欠点解決」までして完成されている”とすると、これは「格式ある氏族の行為」としては、その努力は「完全な矛盾」に当たるのではないか。
つまり、では、これを“額田青木氏に持たすと云う決断”は、何れも製作段階では「高度な業物である事」には大した違いは無かった。
だとしても、これは「福家の際どい処の判断・概念であった事」に成る。
且つ、然すれば「青木氏の氏是に反している事」にも成り得るのだ。
然し、前段でも論じた様に、「多くの処」で実用していて、“額田青木氏に持たすと云う決断”には、“何か大きな意味を持っていた事”に成る。
だとすれば時代には必ず起こり得る「氏族生死の様な意味」を持っていた事に成るだろう。
それが「647年の青木氏の出自来からの青木氏の氏是」に反してでも、“持たせた”という事のその「応えの目指す事」には、“それは何なのか”の疑問があって、その「答え」があるとすればそれは唯一つであろう。
それは、“仮にそれが「青木氏の氏是を冒してでも持つ」と決めた”以上は、これは“「究極の二つの全青木氏一族の存続に関わっていた事」”と、判断されていたのではないだろうか。
それが“「信長の台頭・天下」”が、成り行きに依っては「青木氏の生死に関わる事」と判断されていたと云う事なのだ。
「以上の経緯」が「三方ヶ原の戦いの後」の「額田青木氏の銃隊の去就」に関わっていたのであって、その明らかな証拠」に三河西域端の「蒲郡」には、より存在をより強化する為にその「総合的な伊勢の活動拠点」を置いていたのだ。
そこからの「開発業と陸運業と殖産業」の推進を図ったのであった。
これには、元々、「兵としてではなかった者」の「額田の青木氏」が、直ぐに「開発業と陸運業と殖産業」に取り掛かれた故であろう。
「兵であった者」には元来この様に変身の早い事は行かないであろう。
それには、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏・開発業」と「額田青木氏・陸運業」と「駿河青木氏・殖産業」が手分けして従事した事が判っていて、そのそれぞれの「居住した地域」には現在も遺る「青木村」を形成しているのである。これが証拠であろう。
その「生きた場所」を特定できるこの「青木村」は、「去就の結果の何よりの証拠」でもあろう。
「石切り場の引き出し港」を先ず改良し、「伊勢水軍」も横付出来る様に港の開発した。
この「港を持つ三河蒲郡の青木氏」は、「渥美湾」とは別にその「伊勢との直接の繋がりの場所」とも成っていたのだ。
要するに、前段でも論じた様にここは「伊勢」からも近く住む等の事もあって、「連絡事務所の支店の様な所・活動拠点」であったらしい。
ここに「額田青木氏の本家筋・伊勢の桑田青木系」が「伊川津」から離れて住み分けたと書かれていて指揮を執ったとしている。
この蒲郡の港から直ぐ後ろに大きな館があったと記されている。
恐らくは、「三河の松平氏と伊勢との連絡事務所」を兼ねていたのではないかとされる。
「家康の近習衆」となった「貞治の後裔・長三郎」が、「家康の伝言等」を「伊賀者・香具師」を通して秘密裏にこの「蒲郡から伊勢」に発していたのではないかと予測している。
そうする事で最も警戒しなければならない「戦後の三河への援助と復興活動」が「信長に漏れる事」が無かったと予想している。
これが「信長」も「伊勢湾の調略事件」に観られる様に最も警戒していた事でもあったのだ。
「貞治の後裔・長男の長三郎系」が「駿河の今川国衆」から「超出世の家康の3000石の近習衆」と成ったそもそもの「功績の所以」はここに在ったのだ。
「信長」に漏れない「伊勢水軍や伊賀情報集団」を複雑に絡めた「伊勢とのルートの構築に成功した所以」であろう。
「暫く持ち続けた額田の銃」は、上記した様にその保持そのものをうやむやにする事にも意味があって、その後の「信長への牽制」にも充分に成りえていたと観られるし、それに背後にはこの「額田の銃力」が「松平氏にも都合の良い所」であったであのろう。
それだけの簡単に攻める事の出来ない「牽制の意味・2万から3万の兵力」を拡げていたであるからだ。
「長篠」ではこの「銃の存在」は無かったが“「松平軍の背後」には青木氏の銃が有るよ”と云う牽制で充分であったからだろう。
現実に勝頼の陣の右横500mに陣取った松平軍は、既に国衆で゛は無く成っている「額田青木氏の銃隊の存在」だけを思わせる事で充分であつて、それ故に合力せずに一切発砲をしなかったのだ。
余談として「傭兵軍団の火縄銃の銃の使用」は「織田軍」だけであったし、この「信長の本陣」は銃隊の遠く後方の豪族の館に置いた陣屋であった。
「額田青木氏の銃」は、其の後に人は殖産業等に関わり、「牽制の道具」で使われたと云う事なのだ。
そもそも、序でにその「銃の行方」に付いては、時には、これが「飾床間の片隅」に飾って置いてもおかしくは無いだろうとする程度の事だったが、それが責めての事として、これが「青木氏の氏是の根幹」と成っている“「青木氏の奈良期から9つの縛り・嵯峨期天皇・平安期」の「掟・否武力」と「抑止力」とに反する事”からであったからであろう。
この様に「銃の記録と経緯を遺す程」であれば、責めて「政策期1640年頃から廃却期1740年の100年の間」では、「飾床間の片隅」にもあり得た筈であったが、これに付いても{口伝」もないしそうしなかったのだろう。
これを「成さしめたもの」は、上記から論じている“「長い青木氏の伝統」では無かったか”と考える。
これが正しい“「青木氏の歴史観」”では無いだろうか。
上記の事は要するに、“「青木氏」をクローズアップする為”に、ここにスポットを当てて観たかったのだ。
「後勘の者」として云えるこの掘り起こした「歴史観の事」は、ここが「源氏族」と違っていて「生き遺れた所以」であったと云う事なのだ。

「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」に続く。



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