青木氏氏 研究室
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  [No.404] Re:「青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−52」
     投稿者:副管理人   投稿日:2023/10/29(Sun) 10:30:41

> >青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」の末尾

>前段で「個々の事象」として論じて来たが、これ等を「以上の様に時系列」で読み込んで観ると、その時の「幕府に対抗した姿勢」が観えて来て、上記した「ある青木氏族物語」が出来て来る。
>要するに、上記に記した様に、「信濃や伊勢」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「奈良期から長年続いた役務の権利」は、ここで遂に剥奪はされたが、「肝心な処は抑えていた事」で無事に寸前で治まる事に成り得た。


青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−53」

前段に論じたこれらが「平安期初期から始まった新撰姓氏禄」の「紛失後の経緯」であって、長年に渡って「青木氏の周囲」に「多大な苦しみと影響」を与え続けたのだ。
最後、この「変化」が「意にして求めた事」では無かっただけに、「青木氏族」に執っては、未だ遺るこの“「正親町天皇からの律宗族の権威と格式の授与」”は、“「余りありがたい事」では無かった事”とも読み取れる。
つまり、今度は「江戸幕府」から、これが続けて警戒される要素に成って仕舞ったのだ。
何故ならば「商いが進んだ青木氏族」には、「神明社の象徴権威の必要性」は、最早、強く求めるものでは無く成っていて、その「意識の中」でも薄くなりつつあったのだ。
その「意識の中」では、この「経緯」としては、既に「江戸期の中」に突入していた。
前段で論じた「額田青木氏と駿河青木氏の論」の様に、ところが、この時の貢献を認められて、この“「江戸初期の伊勢の事お構いなしのお定め書」”が未だ影にあったのだ。
そこで続けてこれらの事を検証して観ると、新たに「青木氏の歴史観」として観えて来るものがあるのだ。
そこで本論では「時系列から観た状況諭」として読み替えさせる事にする。

前書き。
本論では前段から論じて来た「奈良期の経緯」から「状況証拠」を見つけ出し集め其れを検証して「新たな青木氏の歴史観」を導き出そうとしている。
そこから、「資料や記録」にはないものが別に導き出せる筈だ。。
これを纏めたものを、先ず「奈良期の歴史観」として、“「次の二つの段」”で論じようと思う。
この結果から、そこから“「色々な疑問」”が新たに湧きだし起こり、それを解く為に「歴史書」のみならず「別の面からの資料の活用と読み直し」もすると驚く様な「次の結果」が判明したのだ。
これを「青木氏の歴史感」として追加して後世に遺したいと思う。

さて、この「導き出した青木氏の歴史観・感」の中には、「奈良期末期」から始まった「格式化の影響」は「青木氏」の中では殆ど無く成りつつあったのだが、それでもこの「格式」に付いては、又、「別の癖」があって、それが最早、「江戸末期」までも、“「その過去の栄光」”としての「ある限定された範囲」で遺されていたのだ。
そして、それが「尊称の呼称」として現れて、“御師様や徳宋家や氏上さま”などと呼ばれていたのだ。
その程度に、「伊勢青木氏」が期待せずとも江戸期の中程迄、一般社会では“「青木氏の栄光の時系列」”として成り立っていたのだ。
だが、特別に「江戸幕府」だけは別格で厳しく扱われていたのだ。
それは「幕府以上の権威が別に存在する事」のそのもの「警戒」を持たれそれに敏感に反応して拒絶して来たのだ。
他の時代毎の府は寧ろ逆であって利用しようとしたのだが、ここに「違い」が大きくあった。

この様に、「格式化に関する歴史観の青木氏の経緯」は、後勘から観てそれは「白羽の矢の事件」の前後から始まり「嵯峨期の事件」と「市原王の事件」と「近江と美濃の源氏化の事件」と「頼政の事件」と「室町期の律宗族事件」と「江戸初期の神明社接収事件」と「享保期の吉宗大事件」の“「以上8つの事件」”として進み、期待していない「青木氏の格式の問題化」と成って現れて来たのだ。
唯、これを通して観れば、これは先ずは「比較的に円滑な自然経緯の経過」の中の事では無かったかと総括して考えられる。
それには、全てに通しての事だが、“「二足の草鞋策」”の「商いがあった事・殖産業」、即ちこの「商い概念の浸透」が起因して「伊勢青木氏を正面から補完していた事」だと観ているのだ。
要するに、「奈良期からの強くて長かった殖産の商い感覚」が、その後にも「氏是と家訓」にもこれが強く影響していた事を物語っているし、それが又、「奈良期」から“氏族運営にもその感覚が「猪突猛進性を抑えたと運営」だった”事と観えて来たのだ。
そして、それ故に、唯一、「奈良期からの生き残り族」と成り得ている事を意味しているのだろう。
つまり、「有史来、1450年以上」の中で全く消滅する事なく、「格式化の社会変化」に惑わされずに生き遺ったのだ。
これが「唯一の四掟氏族」の「秀郷流青木氏116氏」を含む「女系で繋がる大氏族一族一門の青木氏族」に影響していた事なのだと云う事を意味しているのだ。
そもそも「こんな族」は他にないのだし、それ故に理解が難しく、この事を「論の前提」として先ず置いておく事にする。
それを元に次に説いて行く。
それだけに“「一族の歴史ロマン」”として「後裔に遺す歴史観」は、その「価値の有無」は別としても、“大切だと考えていて、「深く正しく」を前提にして「研究調査」”を未だ続けているのだ。
最近では「書物」からの「直接の記述」だけでは「新しい史実の発見」が現実に難しく成って来たのだ。
然し、「標記の調子で読み込み」を続けて行くと、そこでその「行」から「新しい意味する処」を発見し、それを時系列を合わして単純に追求して行くと、それでも「長く続けている」と「思い掛けない所」から「新しい時系列一致の史実の発見」が見つかる事があるのだ。

それは、殆どは「資料の再検証を含めた読み込み」からの結果であって、つまり、“ここには「疑問・矛盾」が沢山に隠されているのではないか”として、それを「ヒント」に探求すると「驚く様な史実」が観えて来るものがあるのだ。
今までは「経緯の追及だけ」であったし、それを元に「経緯論」を論じて来た。
つまり、「青木氏の歴史観の時系列」から観て、これらの「経緯の間には隠された史実」が出て来て、この“「掘り起こし」”では「ほぼ確定できる事」が起こる事があるのだ。
そこで古来より、そもそも「青木氏たちだからとする事」に付いて、これらから発する「遺された書籍の文章」の中には、色々な未だ観えていない“「特別な癖」”が遺されているからだ。
その“「青木氏ならではの特別な癖」”とするものには、そもそも、そこには、“明確に具体的に書き遺す”のでは無く、“「韻を含めて書き記す」”と云う「慣習仕来り掟」が「伝統的」にあって、“それを目がけて書き下ろす事”が、寧ろ、“好とする文章、又は文化だ”とする癖があったのだ。
其れだけに、取り分けこれらの「歴史書」には、“「読み込み力・隠された意味する事」”が試されているのだ。
それが出来てこそ、過去には“「学者・研究者」”と呼ばれるものとしていたのだろう。
それだけに「青木氏の歴史観」の「新たな掘り起こし」は難しいのだ。

そこで、本来、高位族に限られるかも知れないが“「日本の文化」”は、つまりは代表される「俳句や歌等」には、次の“「情景と情緒とそれに伴い見えてくる韻訓の文化」”のこの“「3つの効果の組み合わせ」”に依って構成されている事が観られ、その様に限られた社会の中では、“「韻を込める事の巧さ」”、又は、“「それを詠み込める力」”が讃えられた“「独特な文化」”であったのだ。
筆者も「俳句」をやるが、最近は「英語」の様に「西洋文化の影響」か「直接的表現」が好まれる様に成ったが、矢張り、「情景・場景 1と情緒 2」と、それに伴い「そこから見えてくる韻訓の文化 3」であって、其れを得るには「経験と教養の二つの獲得の結果」で無くてはならないとされていたのだ。
それだけに「過去」では「その人間力・教養が試される文化」だったのだ。
これ無くして「青木氏の歴史観」を解けないとされる文化だったのだ。
「青木氏の事」が書かれている「歴史書」には、当にこの昔の「俳句の集まりの構成書」であったのだ。
例えそれが「箇条書き」であったとしても、「云いにくい事」や「伝えにくい事」は、この「手法」を使い込み「箇条書きでも書き遺す事」があったのだ。
故に、「多くの歴史観の保持」を以て“「読み込み」”が必要と成るのだし、そうでなくては前段で論じた様な「ネット説」の様なとんでもない「間違い」を起こしたものが出て来るのだ。
そもそも、この「家の事を書き残す事を役務とする祐筆・青木氏の神職や住職」は、その「豊かな才能」を持って何の疑いも無くそのつもりで普通に書いていたのだ。
何故ならば、これを「同じ教養や教育を受けた氏族の者」がこれを読むのであって、寧ろ、それで良いのだ。
そもそも、それ故にその基と成った「漢文」はそうであろうし、「神社の祝詞・神明社や春日社」もこの「韻語」のそのものである様に、もっと云えば「日本語」も、基はこの「韻」を以て出来ているのだ。
昔から「青木氏守護神の皇祖神の子神の神明社系国幣社の格式の神社の詔」は、この「古式伝統」を引き継ぎ、それが今に於いてでさえ「韻訓表現」で読むのだ。
「和歌山や奈良の地域」に於いて今でも多く遺る「奈良期と平安期の言葉の方言」には、当にこの「名残」が今でもであるのだ。
これが「韻訓表現」である為に、「本当の意味する処」は、なかなか「別の地域圏や文化圏の域」では伝わらない事が起るのだ。
多分、これは「生活の一端」として、それを当に「算数で割り切れないものとして物語る文化」、所謂、「守護神の神社や菩提寺の寺などにある枯山水」までの至る所までとして、その例外は無いだろう。
「枯山水」を「普通の現代感覚」で観れば、「石と木々の散在」にしか見えないだろう。
故に、それだけに「自己研鑽を高める事」のみならず、これに伴って“「読み込み力」”も「青木氏に関わる歴史」には「絶対条件としての必要性」があるのだ。
それに依ってこれを「読み込み積み重ねて」の努力でここまで来たのであるが、それだけに“意外と見逃している事が多い”とも考えているのだ。
取り分け「青木氏の歴史観」に於いては、上記の感覚と理解は特別に必要とされるだろう。
故に、「別の視点から再び観た読み込み」、つまり「疑問の心」を持って解くと、“ふっと閃く事があるのだ。”
これが意外に重要なのだが。
そういう意味で、取り分け「青木氏の歴史探査」には、この「文化の情景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の 3」の「文化の感覚」が無くてはならない“「歴史の特技」”になろう。
故に他者が「慣習仕来り掟を持つ青木氏に関わる事」で「歴史を論じる事」は難しく成る所以でもあろう。
先ずはこの事を“「前置き」”として置く。

然し、最近は「新しい史実の発見」が難しく成ったが、それでも長く続けていると思い掛けない所から「新しい史実の発見」が見つかる事がある。
それは殆どは上記した様に、「資料の検証を含めた読み込み」からであって、“ここには「疑問・矛盾」が隠されているのでは”として、それを「ヒント」に探求すると観えて来るものがある。
それを「青木氏の歴史観の時系列」でほぼ確定できる事が起こるのだ。
古来よりそもそも「遺された書籍の文章」の中には、“明確に書き遺す”と云う「習慣作法」では無く、“「韻を含めて書き記す」”と云う「風習」があって、それを寧ろ、“好とする文章・文化だ”とするのだ。
其れだけに取り分け「歴史書」には、徹底した“「読み込み力」”が試されるのだ。
そして上記した「物語る事」や「意味する処」を見つける事だ。
それが出来てこそ、“「学者・研究者」”と呼ばれるものとした。
本来、「日本の文化」は、つまりは上記した様に、「俳句や歌等」は「情景1と情緒2とそれに伴い見えてくる韻訓3の文化」のこの「3つ」に観られるものだ。
この様に、“「韻を込める事の巧さ」”、又は、“「それを詠み込める力」”が讃えられた「独特な文化」であったのだ。
筆者も“門前の小僧習わぬ経を読む”ではないが、「俳句」をやるが、最近は英語の様に西洋文化の影響か「直接的表現」が好まれるが、矢張り、「情景・場景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の文化 3」で構成されていなくてはならないだろう。
そもそも、その基と成った「漢文」はそうであろうし、「神社の祝詞」はこの「韻語」そのものである様に、「日本語」も基の原理は、この「韻」を以て出来ているのだし、発音も韻発音であるのた゛。
和歌山や奈良に於いて今でも多く遺る“「平安言葉の方言」”は、当にこの「名残」である。
多分、「生活の一端」として「枯山水の持つ趣」までに至る所まで例外は無いだろう。
故に、それだけに「自己研鑽を高める事」のみならず、これに伴って“「読み込み力」”は「歴史」には“「絶対条件」”であって、それに依ってこれを積み重ねて消えた歴史観を掘り起こししてここまで来ているのだ。
それだけに意外と見逃している事が多いと考えている。
故に、「別の視点から再び観た読み込み」である疑問を持って置くと、“ふっと閃く事がある”が、これが意外に重要なのだが。
そういう意味で、取り分け「青木氏の歴史探査」には、何度も云うがこの「伝統文化」の「情景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の 3」の「文化の歴史感覚」は無くてはならない「歴史の特技」になろう。

そこで「前段の平安期の前後の格式化論」では、もう一度その論筋に戻して検証して観る。
つまりは、前段や上記する様に、「社会の格式化」で最も影響を受けたのは「最上位の格式・浄大一永代浄大一位」を有していた「賜姓臣下した青木氏族」であった筈だ。
だが、元々はそれ故に「新しく格式化される社会・新撰姓氏禄による格式社会化」には、「拒絶反応」が自然に働くものと考えられるが、それ故に“周知すると云う事は不可能”であった観ていた。
ところが良く検証すると、そうでは無かった様なのだ。
それでも当時としては良かったのかも知れないが、当時としては、“先ず社会構成として「格式を造る事」に先ずは「意味」があって、それが「実用化」するかは「別問題」であった可能性があったのだ。”
何故ならば、それはそもそも“造る目的の発端が、「社会を格式化で区切ると云う事」”よりも、そこには「裏の意」があって、これを「青木氏の歴史観」から観て、“「青木氏出自の天皇」と云う「レッテル」をそもそもこの「格式化」で剥がしたかった”のでは無いかと観ていたのだ。
「賜姓臣下族」に成り「神木の“あおき”を以て諡号姓」を賜ったその時から、その「格式の高さの剥がし方」に就いては何でも良かったのでは無いか。
そもそも「賜姓臣下して商いをする」とした場合は、この「高格式」は“格式で商いをしない”以上は必要はない。
必要なのは「部経済」の中で「青木氏が興す殖産業」に於いて「院屋号の取得の占有権」にあったのだし現実にその様にした。
然し、ここまで至るに、そもそも「歴史観」としては、その「方法」が簡単に見つからなかったのだ。
然し、それ故にいっその事として、「光仁期」には、“「天皇」も含めて「全ての階層の者の出自の格式化」を再び図ろうとした”と考えられるのだ。
そもそもその前に、「天智天皇の645年に大化規定」を造って、この「格式」を大枠で造って人臣を填めていた経緯があったのだ。
それだけに「大化期の格式」と「光仁期の格式」の「二つの格式」が「必要としない青木氏」に意に反して覆い被さって来ていたのだ。

前段でも論じた様に、「施基皇子・716年没・84歳」から既に「130年以上・647年賜姓」も経過し、且つ、「賜姓族」としても「禁令の商い・部経済の支配頭」も「院屋号」を以てし、更に「四掟四門で枠を造る女系化」で、「逃れの独特の立場」を造って、何とか「天皇家」から逃れようとしていたのだ。(下記で証明)
「皇族列より離れている立場」に於いては、最早、その意識的にも「格式化で戻るなどの事」はあり得なかった筈だ。
そこで、思い掛けない「突然の770年事件」の「白羽の矢で引き出された者等」は、兎も角も「女系と成っていた青木氏族」としては、“これに関わりたくなない”と云う「意識の発情」は必定必然であった筈だし、これを示す祐筆の記録にもある。
これに就てこの「伊勢の記録」に依ると、“馬鹿を装う者や酒乱を装う者や隠れる者や暴者を装う者や逃げ隠れする者、中には系譜から消える者等があったとして、男女の関係なく曾孫や玄孫域まで逃げ惑った”とあり、“混乱の極めであった”とされているのだ。
そもそも「青木氏の継嗣の立場にいた上四人」は、「四家を支える者・伊勢を支えるも者」として逃れる事が出来た事が記され、それ「以外の対象者に目される者」は、最後には「大酒乱や暴君や阿者」を装いながらも、それを敢えて押してでも、“「白羽の矢に当てられる事に成った状況だっだ」”としてこれは“「恐怖の状況」にいたのだ”としている。
この事にはこの「白羽の矢」で其処までする騒ぐ必要が無い筈なのに騒いだと祐筆は暗に韻を込めていてここには何か言いたさの様に「大きな意味」を物語る。
そもそも「白壁だけの男の問題・正嗣までとして」であって、且つ、「曾孫や玄孫まで逃げ惑う事」は必要はない筈だ。
だが女子供も逃げ惑ったとしているのだ。
それも中には「系譜から消す者」まで出て来たとしているのだ。
だから少なくとも「七男以上」にはいた筈で「家人まで」入れると「20人近く」は居た事に成ろうが、「青木氏の四家制度の中の家人の動き」に付いては何も記述は無い。
現実に調べると、「青木氏の記録」では「白壁」は「四男でも五男」ではも無く、「六男」としていているのだし、「四家の嫡子の福家の春日」から始まり「四家の継嗣の七男・記録では」の「春日、湯原、榎井、壱志、・、白壁、・、・・」まで「過去帳の記録」の通りに「四家・福家の春日」を構成していたのだ。
そして「伊勢では六男・諸説四男説も」の「45歳の白壁王・伊勢では54歳説」は「酒乱」を装っていたとされているのだ。
ここの「意味する処・1」は、「白壁」は「四家の主軸四家」を外れ未だ「家人」として働いている以上は、事前に“「立場上から身軽な自分に来る可能性が高い」”と観ていた事に成る。
そして、更にこの「意味する処・2」は、「政争で継承者の無く成った天皇家側」と簡単に話が着かないと両者は観ていた事から“「事前打ち合わせをしていた事」”をも意味している。
そして、その「打ち合わせ人物・3」が、これを「決め得る能力」、又は「権利保持の人物」がこの「打ち合わせ人物」と成って派遣されて「伊勢に来た・4」と云う事になる。
ここまではある「下記の資料」で先ず裏付けられて読み込める。
そして、更にそれに応じている事だが、既に「賜姓臣下して庶民格・5」に成っている事だ。
「断れば断れる立場・6」に充分にあった筈だ。
其れも何と「130年」も経っている事・7}なのだ。
然し、「青木氏に執ってはこの1〜7は大問題」であって、「四家の家人を含めた一人・継嗣も含む」を「商いの上」でも「大事な継嗣を欠く事・8」に成るが、ところが現実の話し合いでは「史実」ではこれらの下で応じているのだ。
それを“「押し切る力」”が当然に保有し示されていても、「ある理由・下記・9」で“動きが取れなくなった事”をもここでは意味しているのだ。
此処には「上記の1〜9」を超えた以上は、「何か物語るもの」としてここには“「何か事件性の様なもの」”があった筈だと観る。

そこで先ずは、それの一つは「永代賜姓五役の立場を相手が利用した事」を意味する。
これは“「天皇から密命」”で出される“「絶対的な令外官命令」”であったとすればこれは“「因事菅隷」”しかない。
この「意味する処」としては、この“密命・因事菅隷を敢えて使った事”に成る事までは読み込める。
そこで「問題」は、“すんなりと、はいと言ったのか”である。
「商いをしている氏族」がそんな事は先ずは無い事ぐらいは簡単に判る。
つまり、“それに見合うだけの条件を付けた事”が充分に読み込める。
今にに成ってこれだけの「氏族を動かす犠牲」までを払って黙って、“はい”と云える訳はない。

それでも「伊勢説」では、“「白羽の矢」が飛んできた"とされるのだが、然し、現実には「天皇家からの白羽の矢」が「伊勢に入った」のは、“その「7年後」”の事であったとされ、そして“「白羽の矢を受けた六男の白壁」”が、その“「条件」”と成る「井上内親王との婚姻」に付いては、直ぐには進まず、この「経緯の検証」から、少しずれての、“「結果・1年弱」”と成ったとされているのだ。
さて、この“「結果・1年弱」”に、そもそも何か「意味する処の問題」があって、その“「条件」”に関して何か特別な“「秘匿の話し合い」”が行われ、少なくとも“直ぐには決着が着かなかった事”を意味していると考えられるのだ。
普通ならば「天皇家」であるとするならば「話し合い」が進めて直ぐに先ず「后」になるだろう。
少なくとも“準備”と云うものがあったとしても、“「結果・1年弱」”には成らないであろう。
それには、“迎え入れる家等の準備”とかされているが、それはその「白羽の矢の目的」が「伊勢青木氏の財」であったとするならば、兎に角受け入れて、後で間に合わせれば済む筈であり、ところがこれに関してだけは何も「記録らしきもの」が無いのだ。変だ。
何せ先ずは、“第一の対象者であった「淡海族の天武系直系族の市原王」”から、“「伊勢の白壁王」”へ飛び変えての“白羽の矢”であり、“「天皇家」”でもここの「事情」は充分に承知していた事に成ろう。
とすれば、この“「結果・1年弱」”に於いての間は、“「打ち合わせ」に於いての条件”に付いて何かの条件が折り合わずに“揉めていた”と云う事に成ろう。
結果として、前段で論じた事や上記した様な論に、飽く迄も“「伊勢青木氏の者」として扱い、直ぐに「天皇」にしないし、且つ、つまり、“特別扱いもしない”と成ったと観ているのだ。
つまり、絶対に「伊勢青木氏のペース、伊勢青木氏の伝統慣習仕来り掟に従う事」に決まった筈なのだ。
主にこの「意味する処」は、“「井上内親王の扱い」”に関しては、“「打ち合わせ」”では「ある意味で厳しく定めた」と云う事であろう。
だから、ここに「下記」にも論じる“「特異な時系列」”が生まれたのだと観る。
そして、この「白羽の矢の白壁」が遂に「即位」するのは、「孝謙天皇の姉・井上内親王」が「伊勢青木氏」に嫁いでから合計、何と“「9年後の事」”であったのだ。
この「時系列の経緯」を正当に考えれば、これは「伊勢の青木氏と天皇家との間」には、上記の様の様な“「相当なやり取りがあった事」”を物語っている事に成る。
「普通の事」なら、“天皇家の命”とも成れば「奴隷」の様に100%に従うが世の習いであり、況してや直前の本命で「白羽の矢を望んでいた淡海族直系」での「市原王の事」を考えれば「問答無用の事」で従うであろう。
故に、“「結果・1年弱」”の期間は異常であると観たのだ。
そもそも、仮に記録に描かれている様に、「白壁の酒乱」とすれば、原理原則に「天皇の役務は務まらない事」は明らかであり、それを超え知っての事は、“「帝紀」”に照らせばこれは正常ではないし避け蹴るのが普通であり、そんな「前例・陽成天皇」は確かに後に起っている。
この事は、“事前に判断できる”のに、それを知り得てでも“「白羽の矢」”を飛ばすのは、“何かの別の目的でも以てそれを利用して「天皇」に仕立てようとした事”に成ると、「読み込み」で観ているのだ。
言わずもがな「青木氏の女系」は、少なくとも「帝紀」にも抵触する筈であって、況してや既に「130年後の賜姓臣下し、女系化した伊勢青木氏・庶民化」に、「天皇家」と云うものに対して「必須条件」としてのそもそも“特段のものは何も無かった”筈なのだ。
もしここであるとするのは、ここでは「状況証拠」として「他の氏族」に観られない「部経済での差配役」を評価した“「財の才能」だけ”であったと読める。
本来は「天武系の直系族」が多く存在する「近江佐々木氏系」がまだ存在していて、その「正統な筋目」であって、それを超えての事は、「別の目的」の“「伊勢の財」に求めた事”に間違いはない事に成ろう。
それだけに、「大仏殿建立」を始めとして「内蔵のみならず大蔵」に於いても膨大な出費が絡み「極度な財政難でに喘いでいた筈であるし「記録」にもそうある。
これを救えるのは、最早、「血筋論」では無く、「朝廷内」では、「財政論優先論」に成っていた筈である。
そこに、「天皇家継承問題」が絡み、そこにこの「醜い政争」が起り、結局はこの「政争の結果」で「肝心の継承者は絶えると云う事」が、「770年の1年弱前」には起っていたのである。
こうなれば「議論」は、最早、血筋が絶えているとか、庶民化と成っているとか、女系化しているとか、六男とか、なんだかんだ言っている場合ではない。
必然により近い血筋で、且つ、「この財政難を解決出来得る矛先」と成ろう事は自明の理である。
それが「伊勢青木氏に来た事」に成ったのだが、とするとそこで「問題」が発生したのである。
“それを誰にするかの問題”が問題で、それがこの“「1年弱の間」に又起こったと云う経緯”となろう事が読み込める。
そこでこの「1年弱」も過ぎ、「2月前近く前」に成ると、最早、「天皇家・称徳天皇の病状」に執っては「問答無用」で「打ち合わせと云う事」に入る必要性が出て来たのだ。
反対社の多い仲で「白羽の矢」を何とか飛ばしたがそこで焦ったのだ。
そこで、さて、“其れの「打ち合わせの担当者」}を誰にするかという問題が起こった事”が「読み込み」で判る。
それがこの「読み込み」に依って、最終的に「吉備真備・記録発見した」に成ったと答えが出た。
これが、「吉備真備」に付いて調査した「資料末端」に記されている事で判ったのだ。
何と「光仁天皇期」には、この「打ち合わせの者・称徳天皇の政治補佐役・吉備真備」が「重要役職」に重用されている事が記録に記されているのだ。
それも挙って「「吉備真備一族の者・学者子孫」も重用されているのだ。
そして、彼が「反乱者藤原仲麻呂」を討った「指揮官」でもあったのだ
つまり、「彼の意味する立場」は、「称徳天皇期末期・770年8月8日の前」の「政治の立場」では「最高決定権を持った人物」であった事に成る。
その「人物」がこの記録では「打ち合わせの責任者と云う事」を意味していたのだ。

注釈 そこで前段で論じ様に、この事は、「文武天皇期の直前」の「持統天皇」は、「淡海族と施基皇子族系の者等全員」を集めて「全体会議会議・コンセンサス造り」を開いて、「継承者を天武系族」にする様に念を押しているし、この「会議」を仕切った「天智系の長者」も、「強く発言していた天智系の若者」を抑え込んで「淡海族系にする事」を計っている事が記録されているのだ。
この結果として、「天武系の文武天皇」が生まれて「天武系」が続く結果と成って、遂には必然的な形で「男子継承者のいない聖武天皇」へと繋ぐ結果と成って行ったのだ。
ところがこの事で、最終的に「孝謙上皇・称徳天皇の期」では、「天武系が淡海族」の「市原王」を除いて結果として「直系族は無く成る事」と成っていたのだ。
且つ、逆にこの「継承者会議の流れ・葛野王の発言」で「天智系継承者」も結果として無く成る事と成るのだ。
この「会議」でも、この時から既に「天智系族・伊勢族」は、自ら「天皇継承者の問題」からも自発的に外れようとしている事が判る。
そしてこれが「次の注釈の史実・記録」としてこの事が物語っている。
「青木氏の研究室」で“持統天皇で検索”

注釈
上記した「継承者会議」の記述は、これは“「漢詩集である懐風藻・751年頃」”によるもので「史書」では無いが、これの記述に依ると、「意味する事」が多く次の様に成っている。
「持統天皇・645年〜703年・在位690〜697年」が、「697年頃」に“「皇位継承者」である「次の日嗣・ひつぎ」を決めようとした。”とあるが、この時のやり取りを書いたものである。
それに依れば次の事に付いてである。
これは興味深い事に「第三者的立場」から書いているのだ。
さて、この時に、「群臣等」がそれぞれ「自分の意見」を言い立てた。
この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
その際に、“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子・施基皇子の兄甥」”が、次の様に言い立てた。
“「わが国」では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
これは次の事があって嫌味を言っているのだ。
そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
ここでこの「反論」の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
この為に、その場では、そのまま口を噤んだ”とされる。
そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
ところが、再び、この「会議」で、“「弓削皇子」が自らが先の天皇の子である為に「正統な後継者」である”と明確に主張したのだ。
ところが、逆にそこで「持統天皇」は、不思議に、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
「持統天皇」は、「葛野王・大友皇子の子・天智系の主張」に賛成していたのだ。
これは矛盾するが、これには「意味する裏の意・韻」があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統は既に天武天皇系の派であるのでそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と当に韻を込めたものとして持統天皇は解釈したのだ。
これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」が自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系の主張」だけと成る。
現実に直ぐにその様にした。
“一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだす”と観て先手を打ったのだ。
この「先手策」を読んで「持統天皇は喜んだ」としたのだ。
そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と強く主張したという事の経緯に成ったのだ。
つまりこれには「一つの経緯」があって、この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てた。
にも関わらず、即位目前の689年に皇太子は没してしまったからだとしているのだ。
この為に、これを受けて「持統天皇」は、次に「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事であり、それが、“この「一言」で解決したとして喜んだ事に成った”としたのだ。
つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあった事を意味するのだ。
この事の「史実の意味する処」は、この時から「聖武期の皇位継承問題が起る事」を見込んでいた事を意味するし、「天智系は正統系の高位の格式を有する」が、既に「賜姓臣下している庶民・647年」である故に、「意識の切り替え」が充分にまだ出来ていず、この時は未だ「上記の様な継承意識」を少しは持っていた事を意味している。
矢張り、これはこの余りにも高い「高位の格式・浄大壱位の格式」を意識していた事で、そのズレが起こっていた事だろう事を意味している。
周りに見られない「殖産権や院屋号や因事菅隷等」を依然として持つ以上は、止むを得ない事かも知れないが、この「段階」で「氏族含む一族全員」が未だ切り替えられていなかった事に成る。
「会議を招集した事態」に於いてもでも「周囲」も切り替えていなかった事が読みとれる。
故に、「施基皇子存命中・716年以前」に於いてもこの「意識を持った葛野王・天智系の主張の発言」と成った事を意味しているのだ。
此の様に全て「韻訓」を「読み込み」、そこから「その意味する処」、又は「物語る処」を読み込む必要があるのだ。
此の事で隠れた「青木氏の歴史観」が導き出せるのだ。
「白羽の矢の直前の事の時系列」が継続性を以て導き出せるのだ。
そうする事で更に読み込みが深められて行える。
ここでは、直前でも「継承者の流れ」があって、遂には、「白羽の矢」として「伊勢青木氏に来た事」に成った事が判る。
そしてこの時から「賜姓臣下族・647年」に成った時の「50年後・施基皇子存命 716年没」からも、「葛城王の発言」の様に、既に「臣下族」と成っている限りに於いて「継承は受け付けないとする姿勢」を既に方針として示していた事が此処からも読みとれるのだ。
此の様に「物事の青木氏の歴史観」が継続的に解って来るのだ。
つまり、「施基皇子の定めた青木氏の氏是」を、この「葛野王」は会議でもこれを反映していた事が読み込みめる。
これは「会議」の前に「施基皇子と葛野王は打ち合わせていた事」を意味する。

そこで、この書からもう更に一つ判る事がある。
その先ず一つは、この書にはよく読むと次の事が態々書かれている。
それは、「川島皇子の事」に付いてである。
「懐風藻の作者」も、“手段を尽くすことなく親友と親族を苦境に陥らせたこれを「川島皇子の態度」に関して疑問を呈している事を書いている事なのだ。
”「大津皇子の謀叛事件」で「川島皇子は天皇に密告した事」に成っていて、「漢詩書」でありながらも政治的に「密告した事」そのものの事を直接に批判しているのだ。
「密告は史実である事」をこの事から読み取れる事だ。
要するにこの書はつまり先ず「淡海族の者が書いたものでは無い」と云う事だ。
態々身内の悪口を後世に遺す事は先ずない。
書くとしても「濁す程度」に成るだろうがはっきりと書いているのだ。他にも下記するが今度は雌核に川島皇子を否定しているのだ。
次にこの会議に既に「淡海族が参加している事」であるし、そもそも「記録」に残す必要はない。
「川島皇子」は「施基皇子」と同然に既に賜姓臣下しているのだ。
其れなのに「会議の諸臣」とする中に、「施基皇子の伊勢族」は参加していないのに、「淡海族の者」が参加しているのだ。

これには「疑問」がある。
つまり「川島皇子の子」には、先ず「春日王と三室王と高丘王とする説」もあるが、「春日王」は「施基皇子の第一継嗣」であり違う。
「市原王」は「天智天皇の曾孫」の「安貴王の子・玄孫」であるとし、「安貴王」は「志貴皇子の孫」で「春日王の子」であるとして、「川島皇子の孫」の「春日王の子」であるとしている。
これは矛盾しているが、これは「川島皇子の娘」が「施基皇子の子の春日王」に嫁ぎ、その子が「川島皇子の外孫」と成り、それが「市原王」と成ると云う事だ。
何故この様に成るかと云うと、これは「青木氏の歴史観」によるのだ。
前段でも論じたが、当時は「施基皇子と川島皇子の血縁関係」は、「天皇家」は元より相互に入り混じって「同族重複血縁関係」にあって「妻子孫曾孫」が判別付かない状況の究極の純血血縁に成っていたのだ。
当時としては「純血を護ると云う慣習」から普通の事であった。
例えば「天智の娘」が「兄弟の天武の妻」になる等、妹が姉の夫と血縁するなど、更にその両者の子が血縁するなどの事とが、当たり前として究極の純血を護るシステムを敷いていたのだ。
其の事で何らかの直接血縁で結束を図っていたのだ。
要は、この「当時の高位の血縁の歴史観」の不足で「施基皇子の子の春日王」を「川島の皇子の子」とする誤解を生んでいるのだ。
まぁ間違いではないが「系譜」としては「春日王は伊勢の施基皇子の子」であった。
そうすると、「川島皇子の子」の「三室王と高丘王」の二人と、「川島皇子の曾孫」の「安貴王」は、どういう関係に有ったのかという「疑問」が起こり、これを解決する事で継承権の持っていたとする「川島皇子の後裔の状態」が判る。
何故ならば、これでこの「臣下族と二つの真人族」が観えて来る。
「三室王の子」として「長柄王と久勢王・川島皇子の孫」として、「高丘王」の子としては「吉並王・川島皇子の孫」があるが、何れにも「孫」としては「安貴王・川島皇子の孫」の記述はないと云う事、つまり、これは、上記した様に「当時の伊勢と近江の血縁関係」から観て、これは当時の“「后妃嬪妾の四制度」”から来ていて、「三室王と高丘王」の系は、「嬪妾のルーツの後裔」と成り、「淡海族」として扱われていた所以は、この「安貴王と市原王」は「后妃の系のルーツの後裔」となる。
つまり「宗家」は、この「后妃の系のルーツ」で繋いで行く事に成るのが「高位の氏族の歴史観」である。
故に、「賜姓臣下した神職系」の「川島皇子の淡海族の沙沙木神社のルーツ系」も生まれた所以であるのだ。
「川島皇子の後裔」は、此の様に「賜姓臣下族」と“「后妃嬪妾の制度」”による「朝臣族の二つのルーツ」が生まれていたと云う事にここでは成っているのだ。
とすると、「始祖の川島皇子の氏族の方針」に従わず「三室王・位階は従四位下」と「高丘王・従四位下・左大舎人頭」の「官位」を持つ限りに於いて、“どちらも臣下しなかった事”が云える事に成る。
「川島皇子の賜姓」は、結局、「近江」の「沙沙木神社の地」に定住した「神職系の沙沙木氏族」であって「朝臣族と成った後裔系の事」にある。
「佐々木氏」には、「宇多天皇系の佐々木氏」もあるので注意。
これに依れば、子は「従四位下の官位・公家」を得ている以上は、「三室王も高丘王」も賜姓臣下しなかった事に成る。
「川島皇子の賜姓臣下」では、要するに「臣下した」のは、結局は「父系の沙沙木神社の神職系の子孫」が「神職系子孫の神社名の佐々木氏」を名乗り、子孫を大きく伸ばし事を歴史的史実として新たに意味するのだ。
そうすると、「本命の市原王」は、上記した様に「川島皇子の曾孫」で、「従五位上・安貴王の子」で「官位は正五位下・造東大寺長官」とした場合は、「神職系の沙沙木・佐々木氏」では無い事に成る。
この様に「漢詩集である懐風藻・751年頃」では、「歴史の史実」は「読み込み」によって変わる事に成り、最終は「市原王の後」は前段でも論じた様に絶えた事に成るのだ。
ここでは、「青木氏に関わる歴史観」としては大きく開けた事に成る。

此れだけの「青木氏の事」を「詠み込めている」のは、「漢詩集である懐風藻・751年頃」に付いては、その編者が「絶えた市原王系」では無理と云う事に成り、従ってこれは明らかに「伊勢青木氏の祐筆・神明社か菩提寺の祐筆」かが別の形で書き残したものである事が読み込める。
この「内容の史実の把握」から観て、当時に生きた「伊勢の青木氏」と「近親族の親族であった川島皇子」の「淡海族の者」が描いたとする説では、「編者」は、「大友皇子の曾孫」にあたる「淡海三船と考える説」が有力であるとしたが、又、他にも「石上宅嗣、藤原刷雄、等」ではないかとする羅列説もあるが、これは「当時の漢詩学者」を前提としていて,特別に何らかの根拠があっての説としているものではなく、上記の根拠非弱で史実から確定されないのだ。
つまり、「経緯」どころか「情況証拠」もないと云う事である。
然し、「書かれている内容」は、「施基皇子の大友皇子の子の葛城王の事」であるとするとして、此れはそもそも「施基皇子の存命中・716年没」であるとすると、「淡海者等」は「伊勢を無視して書いたと云う行為の事」に成り、これはそもそもこれは無理であろう。
そもそも「淡海者等としているその前提」は、「漢詩学者である」としているだけのものであって、同然に「施基皇子」も全ゆる記録にもある様に,「天下一の漢詩学者」として目されており、当時、「もっとも有名な詩歌人」でもあったとすると、「自分の家の事」を「淡海の者族」が描くとするのはそもそもおかしいであろうし、又、「伊勢」には「淡海族より多くの漢詩学者」も「祐筆」もいた「大きな氏族の事」でもあった事を歴史観として無視している。
そもそも「当時の奈良期初期に生きた高位の者」は、全て「漢詩学」にも通じて居なければならない環境に置かれていたとする「重要な歴史観」に基本的にそもそも欠けているのだ。
寧ろ、「伊勢の者・50郷士衆」は、「氏族全員が漢詩学者」と云っても良い程の「高学識の氏族」であったのだ。
それがこの「氏族背景」に「求められる教養の前提の賜姓臣下族」であったのだから、「漢詩学者」としてだけで「淡海三船ら」と決めつけるのはこの「歴史観」を無視しておかしい。
寧ろ、「淡海族等」と違って何と云っても「伊勢の施基皇子族」はそもそも「多くの祐筆」を「神明社と菩提寺の神職と住職」に抱える「漢学の学者の集団」であったのだから。
それ故に「自分の家の事」を「淡海族等に書かせる事」はそもそもあり得ない。
これは間違いなく「青木氏の祐筆」が描いたものであろう事が判る。
そもそも何処にも「淡海族等」とも書いていないのだから、それを自らも認めているのだ。
以上の事も読み込めるのだ。
だから、この「会議内容」は信用できる前提にあるのだ。
これを前提にしての「読み込みの意味する処」は次の経緯に繋げられる事に成る。

注釈
上記の「淡海 三船」とは、「奈良時代の後期 722年〜785年」の皇族・貴族・文人であるとし、「御船王」より「臣籍降下」し、「淡海朝臣姓」となる。
「大友皇子の曽孫」で「本会議の葛野王」の「子の池辺王の子」。
官位は従四位下・刑部卿。勲位は勲三等に成るも天平年間に出家し「元開」とす。
「孝謙期 751年30人の諸王」は内蔵の財政難から「真人族」から賜姓降下して「朝臣族」に成る。
この際、勅命により「御船王・?・臣籍降下している」に再び戻った。
そして再び、「淡海真人の氏姓賜姓」で臣籍降下し、「淡海三船・出家している?」と改めたとある。
「式部少丞」を歴任するも、「756年」に「朝廷」を誹謗し禁固刑を受けるが放免されている。
この者が「697年・約60年前の事」に付いて触れると云う事はおかしい。
況して、既に僧と成っているのに「下俗の事」に触れるのはおかしい。
更に云えば、罪人であるのにこの書に触れる事は禁手でありおかしい。
既に、「大友皇子の曽孫」で「池辺王の子・玄孫」の「位置づけ」は賜姓臣下している以上は「始祖川島皇子の淡海族」と成り得る。
何故ならば、前段でも論じたが、「大友皇子」を含め「天智系」は「反乱者の天武天皇・帝紀論」に最終的に凌駕され「天智系子孫」は直前に賜姓臣下していた事で逃れられ、「第七位皇子の施基皇子の伊勢族」と「第六位皇子川島皇子の淡海族」の「二系」に最終的に集約され子孫存続は引き継がれたからだ。
この「反乱者の天武天皇」に潰された「皇太子の大友皇子」と「川島皇子の淡海族」と「施基皇子の伊勢族」は兄弟である以上は、「上記の葛野王に触れる事」のそもそも発想はない。
従って、「敏達天皇の春日王系四門族」のこの「葛野王系後裔の子孫」は「伊勢族」に引き継がれて行く事に成ったのだ。
つまり、故にこの頃からこれは「伊勢族の問題」と成っていたのだ。
「葛野王」は既にこの段階でその「伊勢系の姿勢を示していた事を意味する」のだ。
つまり、「存命中の施基皇子の意思・716年没」を尊重し、それを反映させようとした事に成る。
だとすれば、上記の「注釈の奈良期初期からの流れ」に逆らった「称徳天皇の天皇家」にしてみれば、「正統な継承者」が無くして仕舞っている以上は、最早、「女系化している伊勢のみ」であっても誰でも良かった事になろう。
もっと云えば、この様な「淡海神職系の臣下族後裔」と「衰退した二つの朝臣族」しか無く成っている「淡海族」である以上は、「目途とする朝廷の財政難」と「伊勢の財力の事」と「内蔵大蔵の事」は、別にして、この段階では百々の詰まりは、「系譜上」では「臣下した伊勢しか無かった事」に成る。
云い換えればこの事からすれば、「天皇家系」としての「継承者の選択肢」は最早全く無く成っていた事に成る。
何故ならば、既に「市原王の事件」に示す様に、もう「二つの系の淡海族系に分離した朝臣族」と「臣下した神職系しか無く、記録にある様に何れも「土地の収入」では耐えきれず早くも衰退し始めていたのだ。
前段で論じた様に、この事は「琵琶湖東岸の干拓灌漑・真砂土壌の改善」の「因事菅隷の工事の支援」でも判る事だ。
何故ならば、そもそも“因事菅隷を別の氏族の支援に対して命じて出すと云う事”は、つまりは、最早、その「氏族」に「天皇家と成る力」が既に備わっていないとして、出している事に成るのだからその前提の上にある。
そして、“因事菅隷を別の氏族、つまり、「伊勢青木氏」に支援を命じて出した時期をこれらの事から割り出すとそれは、“「20年の工事期間が掛かった」”と記されている事から割り出すと、少なくとも上記の「葛野王の発言の後」と成り、その「700年頃」か、又は「770年前の743年の前後」か、遅くても「白羽の矢」で強引にこの「因事菅隷」を「伊勢」に押し付け突き付けて来た時期の「少し前の因事菅隷の指示」までの事と成り得る。
恐らくは、この“「中間期の720年前後の頃」”と成るのではないか。
そうすると、「継承者の会議の経緯」から紛糾するも「淡海族」と決まった以上は、「持統天皇」は次の採るべき策は、先ずこの“「継承者」”を安定させる為に、且つ、これを「正当系化して安定させる為」にも、「兄弟の施基皇子・632〜716年の伊勢」を頼る以外には、それの「財を持ち成し得る族」は無い事に成り、「後継者の決定」は飽く迄も「衆議」とはいえ「砂上の楼閣」と既に成り得ていた筈なのだ。

そこで、これ等の“時系列”から検証すると、次の様に成る。
「持統天皇・703年没前」の「会議直前の在位中の697年頃」に、この「目的の因事菅隷」を向けられる者は、「施基皇子」だけと成り、「伊勢」に向けて発したと云う経緯だけと成り得る。
但し、「問題」はこの「持統天皇の命の因事菅隷に基く工事の開始の命令」は、これより「少し後の事・下記」と考えられる。
少なくとも「当事者同士の生前中」が最も好ましく、そうすると「施基皇子の没年716年」より少し前で無くてはこの「因事菅隷」は出し難い筈だ。
この大工事には、史実の通り「不二の友の額田部氏」にも「工事」を頼ま無くてはならないし、その「見積もり」や「測量や工事の準備等」の「諸々の手続き」が必要と成り、「淡海族との同族血縁などの良好な関係を維持しているぎりぎりの経緯の中」で以てしてでなくては、少なくとも行われなかった筈なのだ。
そこで、「川島皇子・657年〜691年」の「孫になる安貴王・694年」が遺されているので、「確実な歴史観の20年の工事期間・記録」を経て終了した事の経緯が検証される。
そしてこの「20年間の工事終了」が、「少なくとも関係悪化の直前・施基皇子没716年」のつまりその“「直前715年頃」”で無くてはならない事に成る。
故に「施基皇子」が生存していたから、こそ「淡海族」とは関係が保てていた事に成るとすると、従って、この「問題」の“「工事の開始」”は、会議の直後の“「700年弱頃・699年頃か」”であって、“「工事の最終の終了」”は「20年間」を経ているので、“「720弱年頃」”とすると全ての上記の経緯は間尺が一致する。
そうすると、ここで「判る事」は、「淡海三船の偏纂説」でみると、「三船785年没年の前」と観ると、既に「淡海族」は既に衰退している途上期の時の事である。
これが「青木氏の歴史観」から検証結果であり、つまり、「伊勢青木氏の祐筆が記述したもの」と観られる。
とすると、この「ネット説」の「三船偏纂説」は「時系列からの検証」では「設定の証」は無理ではないか。
但し、流石に「確証の自信無さ」か、“注釈するとして確定は出来ない”との「添え書き」を加えている。

次にそこで、上記の「これ等の検証の事」のそれを知り得て、「吉備真備」はこの「葛野王の発言を以て事前打ち合わせ」と成り得たと考えられる。
そうすると、この事を「吉備真備」が「学者で家庭教師」であった以上は、未だ「70年程度」しか経たないこの「歴史」に付いて知り得ていた事と成り、この事から「吉備真備」には、「伊勢との打ち合わせ」に於いて、最早、「選ぶ有利な条件が無かった事」が云えるのだ。
「継承者」を醜い数々の政争の中で無くしてしまって、「財を獲得する目途も無く始めた大仏殿建立」から来る果てしない「財政難」に窮していた「朝廷と天皇家」が浮かび上がる事と成り、上記の事も含めて“「伊勢の言い分」に従う以外に無い”と観ていた筈である。
そもそも130年も前に賜姓臣下していたとは云え、「伊勢の取扱い」に「浄大一位の格式にあった面倒な大氏族」であった以上はこの事は間違いない事だと考えられる。

そして上記の「経緯の情報」を知り得ていた上で、これを元にした「吉備真備と伊勢との話し合い」と云う事が行われた事に成った事が判る。
この「漢詩集である懐風藻・751年頃」により、ここまで「読み込みに依る史実」が蘇ってそれに依って「青木氏の歴史観」はより深く鮮明に判って来るのだ。
この「漢詩集である懐風藻・751年頃」から更に判った事が下記に蘇ったのである。

注釈
「始祖の敏達天皇」には「押坂彦人大兄皇子」と「春日皇子」と「大派皇子」と「難波皇子」の「四人の継承者」があり、この「四系」を以て歴史的に“「四門族」”と云われた。
そしてこの“「四門族」”から「天皇」は引き継がれ、そこから「四代目迄一門」を以て“「継承権」を引き継ぐ権利”を有すると「天皇家の禁令」で決めていたのだ。
従って、これに従い「天智天皇」は、この「春日皇子」の丁度、“「四代目の後裔」”と成り、正式に「継承権を持って引き継がれた事」に成る。
故に「押坂彦人大兄皇子」の子の“「芽淳王の子」”の「皇極天皇と斉明天皇」にも引き継がれたのだ。
これの禁令からすると、「謀叛者」と扱われた「大海皇子・天武天皇」には、本来は、「定められたばかりの帝紀」に基けば、この「継承権」はそもそも無く、「大友皇子に継承権」は正式に繋がるが、「天智天皇の弟」の「大海皇子」には元々無く、それが、「継承権無くして反乱」を起こして「天皇の継承権」を奪い、それが大海皇子の皇子たちに引き継がれたものと成るのだ。
要するに、この事を“「帝紀・下記、及び天智天皇が定めた大化規定」”に基づき「持統天皇の継承権会議」では、「春日皇子系で天智系の葛野王」が、この前例に従わなかった事を正論としてで発言しながらも天武系を暗に批判したのだ。

注釈 そもそもこの前提と成ったこの「帝紀」は、「皇室に存在する伝統習慣掟」を「一つの形式」に纏め、「歴代天皇や皇室の系譜」や「決定事項のルールの取扱い」、特に「古事記や日本書紀」の「内容の決まり事」に付いてまでも纏めて書いたものだ。
最も古い「歴史書の一つ」である。
概要したのは、681年に「川島皇子と忍壁皇子」が勅命により編纂したとされるものであると云われ、「皇室の系譜の伝承」を記したもので、その後に「朝廷の基本史料」として扱われる様に成ったのだ。
この「大化規定」とは、これを「天智天皇」が補足し新たに追加したものであって「帝紀」と同然に扱われた。
一般に、この“「帝紀」”は「二つの皇統譜・基準要領・下記」であるとして扱われた。
故にこれに記した事が「基準」にして「朝廷」では決められていたのだ。
「大化の規定」は、例えば「王位」は4世族までとし5世族は王としない。
第7世族以降は位を外し「坂東警備」に配置し、これを「8族」に形成して「坂東八平氏・ひら族」のこの中に入るとした。
「皇子皇女」は第4位までを「真人族」とし、「第6位または第7位以降」は「朝臣族」と成って「賜姓臣下」する。
その格式に応じて、「特別の賜姓」は「特別の諡号の姓」を与え「賜姓」し、その他の「賜姓」には「地名」を採って賜姓する等と定めた。
故に、「上位の高位の賜姓」には、「神木等の神系に用いられるもの」を以て「諡号姓」として与えた青木氏が第一号と成ったのだ。
「青木氏の賜姓」は、この「神木の青木の木」を以て「最高位の名目」で「第七位の浄大一位の施基皇子」に与えたのだ。
ところが「第六位川島皇子」の臣下に対して三段下の「浄大三位であった事」から「皇祖神の子神の神明社」の守護神に比して、神社格の下位の「沙沙木神社」を「氏族の守護神」とする処から「一段下の地名の賜姓」と成ったのだ。
これには「川島皇子の後裔」の「内の2系」は「真人族」として残り臣下しなかった事から「1系」の「神職系のみ」が臣下して「朝臣族」と成った所以である。
この事から「一段下の地名の賜姓を与えられた事」が、何故に「一段下の地名の賜姓」と成っていたのかは不明であったが、上記の検証で新たにその原因も判った事に成る。
これには他に「征夷代将軍や鎮西大将軍の条件等」や外にも多く細かく定められている。
「帝紀」と共にこの「大化の規定」も後に「天智天皇崩御後」も「帝紀」に含まれるものと成ったのだ。
こレらの関係する「青木氏に関わる歴史観」だけでも是非に知って置く必要がある。
又、これに関連して下記の「注釈の歴史観」も持って置くと間違いは起さない。

注釈
他にこの「帝紀」に並んで別格で「皇統譜」とは、天皇と皇族の身分に関する事項を記載した簿である。
形式等は、「皇室皇典」と「皇統譜令」の二つに定められている。
「天皇・皇后に関する事項を扱う大統譜」と「その他の皇族に関する事項を扱う皇族譜」の「2種類」がある。
これは「皇室の身分関係と家族関係と皇統」を公証するものでその規範とする。

そこで是非に解かなければならない「次の疑問」がある
そもそも、だとすると、「施基皇子の死後・716年・84歳」の「伊勢青木氏を仕切っていた「福家で四家の長男・春日」が、そもそも「曼陀羅や過去帳」から、例外なく「80歳以上の長寿系の伊勢・現在まで例外は無い」の中であるのに、この時期に唯一、一人が極めて“「早死」している事”が気に成るのだ。
ところが、この「注釈の導かれていた流れ」の中には、偶然か必然かは判らないが、現象として「天武系の淡海族の流れ」に逆らう様に、忽然とこの“「話・話し合い」”が「天智系の伊勢青木氏の福家のに春日」に持ち込まれて来ていたのだ。
そこでこの「話し合い・するかどうかについて」が、何とか「話し合い」をするとまでに辿り着いた後に、この「話し合いの流れの経緯」がありながらも、「10年」も経っても最終的に「詳細」に付いて「決着が着かなかった事」が経緯として起っていたのだ。
然し、「伊勢側」が敢えてこれに付いて「何故か決着を着けなかった事」が「状況証拠」から割り出せるのだ。
これは、“「朝廷内部の政治的な乱具合」からいつか瓦解する”と観て「時間の引き延ばし策」に出たと観られるのだ、
この事から、何故に、“「春日だけが早死している事に成ったのか”に付いての「伊勢の大疑問」が湧く。
これは是非にも解決しておきたい「青木氏の歴史観」である。
つまりは、確証は取れないが、何故か不思議にこの「死の疑問」と「話し合いの時」が一致している事なのだ。
筆者はこれに付いて考えるに、恐らくは、これは「福家の春日」が、「白羽の矢」に付いての「朝廷内の“政争の具に持ち込まれた事での早死」”ではないのだろうかと観ているのだ。
どういう事かと云うと、これには上記した「状況証拠」だけで「確証」はないが、これは“「長男福家の春日の反対・福家と四家全体」で「朝廷との話し合い」が長引いていた”のを、“「朝廷内のある理由」”があって、是非にも早期に絶対に解決しなければならなく成っていて、その為に“政争の具に持ち込まれた死・仕掛けられた死」”であった可能性があると観ている。
これにより「無理やりに決着」を着けようと、“朝廷から「仕掛けられた死」”ではないだろうかと観たのだ。
もっと云えば、「伊勢の証としての記録」には、「時系列の経緯・状況証拠」が遺こされている限りは、つまり、「祐筆の書」に、この事に“「後裔に疑問」を興させて匂わせる事をこの「書の文章」で計ったのではないか”と云う事だ。
つまり、この「祐筆」は、後々の事に付いて忖度して、この「春日の死」と「この話し合い」とを符号一致させる事では、“「後々の出自の天皇家」を直接に批判する事に成り得ると判断し、忖度した”為に、故に上記した様に「当時の青木氏に良く用いられていた伝統」の、“「表現に特別に強く韻を込めた工夫をした」のではないか”と観ているのだ。
要するに後は、“これを「後裔の判断」に任す”としたのだろう。
当然に「四家のチェック」が入っていたと考えられる。
その「理由」に依れば、先ず第一にその他の「証拠との違う処」は、“「伊勢の内部の事」がここまで書くかと云う程に「余りにも詳細」に記されている事”なのだ。
他の遺された祐筆の書とは違いがあり過ぎる。
下記に示す様に、“「井上内親王の周辺の事」”も「其の死の間際までの詳細な有様・子供と共に平衡に並んで死んでいた事等の表現」が、“ここまで詳細に書き記す事は普通の感覚では先ず無いだろう”と思う程に詳しく描かれている事なのだ。
それは、例えば、“「青木氏の名張の清蓮寺城の一部屋に押しやられて、二人の子供と並んで自殺している事」まで“詳しく描いている事”なのだ。
そもそも普通なら、死なら死、自殺なら自殺として単に書けば済む事では無いか。
これは普通では、“「記録」”としては、ここまでは描かないだろうし、最早、「史実」を此れでは“小説”に仕立てている様なのである。
つまり、この「古来の書物等」が、良く使う“当時者を刺激しない様に憚った、よくやる“韻に韻を込めた記録”であり、それが“「小説型の様」に成っている”事なのだろうが、それだけに「後裔」に、「この事の真相」を、”「唯の事件」として故意に敢えて伝えたかったもの”の発露では無かっただろうか。
況してや、この“「事件」”として、上記した様に不思議に、“例外なく子や孫や曾孫まで伊勢中を逃げ惑った事”があからさまに描かれている。
これは、”「天皇の跡目の問題」”だけとするのにはし少し騒ぎすぎて変だ。
これだけの「逃げ惑うとする事があったとする事」は、普通では先ず幾ら「白羽の事件」と云えど無いであろう。
然し、結果として、「時」を一致してその中の一つに「福家の春日の不審死」があったのではないか。
これは、つまりの処は、“暗に「天皇の跡目の問題」だけでは無かった事を暗示している事に成る。”
その事を「伊勢の祐筆」が当に韻に韻を踏んで物語っているものだ。
例外なく子や孫や曾孫まで伊勢中を逃げ惑った事”が描かれている以上は、彼等にも何らかの災いや恐怖が与えられていた事に成ろう。
「春日の死」と共に、「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷、又は摂関家の藤原氏からの圧力・恐怖」がかかっていたのではないかと云う事だ。
そして遂に「この死の前後の事」は、不確認だが、この「春日の死」と成って現れたのだろう。
それは、上記で論じた様に、「朝廷内で継承権問題」で「際限のない殺戮を繰り返していた事」からも考えれば、この事は、「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷・摂関家藤原氏」からの「圧力・恐怖」があって、況してや「孝謙上皇・称徳天皇の精神的な乱」に依っての「乱政」の「やり口」から考えれば、充分にそれがあり得たと観ているのだ。
それを事前察知して一族挙って逃げ惑ったのではないか。
この時、上記や前段でも論じた様に、既に「伊勢青木氏」には「姉の井上内親王」が入っていて、「伊勢」を内部で仕切っていた「難波との争い」もあってして、「内部を掻き乱していた事」も「一つの逃げ惑う恐怖の表れ」として観ていたのだろう。
要するに、「商い」では「福家の春日」、「政所」では「難波」“と争っていたのだ。
この、「母は県犬養広刀自の娘で藤原氏ではない」で、「姉・井上内親王」有りてこの「妹・称徳天皇」あり”であろうと「伊勢一族の者」は受け取っていたのだ。
つまり、“直ぐにでも何時か自分達にも降りかかって来る”と観ていたのだ。
此の様に「現実に降りかかってきた状況」を観て逃げ惑う事に成ったと観られる。
要するに「天皇家の死を呼ぶ乱」は、何時か自分たちにも降りかかる事もあるとして、警戒していた事に成ろう。
恐らくでは有るが、「男子の天皇の跡目」だけではなく、「追尊王女にも引き込まれる事」や「斎王にされる事」や「十二の女官にされる事」等の方法で、「格式高い子孫存続」の為にも先ず「天皇家族内の嬪妾」にして「天智系の内孫子」にされて、「継承者を作り出す策の懸念もある事等」が過去にもあって、それを察知しての“逃げ惑った”と考えられるのだ。
元々、この策の一つとして「追尊の肩書で縛られたりする事」を嫌って、“「青木氏の女(むすめ)の幸せ」を採られたくない”としたのだろう。
これも少なくとも間違いは無いだろう。
「福家の春日」は、その役目柄として「始祖の施基皇子」が遺したまだ間がない「青木氏の氏是」を護り、それを頑として前面に出て護ったと観られ、その為に先ず「朝廷の刺客」に暗殺されたと観る事が出来るのだ。
然し、「福家の春日」を失ったそれ以後も「伊勢」は頑として動かなかったのだ。
「朝廷の藤原氏や天皇家」は、これまでの史実に物語る様に、この時には、「極度の財政難」であった事から何時かは「朝廷の大蔵と内蔵の財」に耐えられなく成るとして「伊勢側」では先ず“折れて来る“と観ていたとなろう。
それが「1年弱の前の事件」であったし、結局は、朝廷は遂には耐えきれずに「伊勢青木氏絶対有利の条件」の中で、結果として「疑問の1年弱に打ち合わせ」に入ったのだろう
当に「四家の福家の春日」は、「唯一の伊勢青木氏側」の「白羽の矢の犠牲者」と成ったと云えるだろう。
然し、この「伊勢青木氏族にとって最も忌まわしい事件」は、兎に角も伏せられたが、ところが「兄が殺された恨み」は「白壁の心」に遺されていたのだし、「四家からこの後始末を暗に課されていた」と観られるのだ。

さて、もし、ここで「継承選択の目的」が「伊勢の財」とするならば、「青木氏の女(むすめ)」を「淡海族の近江佐々木氏の男子」に嫁がせて、そこで「その子に天皇家を継承させるなどの策」があった筈で、それに依らずとも“「天武系直系の近江佐々木氏の六人以上も多くいる男子を天皇にする事」をも企てる事”の「案・策」も充分にあった筈である。
その事で「福家の春日」は、“白羽の矢の行き先を躱す策”に出ていた事も考えられる。
これが「伊勢の市原王に能登女の入嫁の事件」も「その一つでの策であったと観ているのだ。
然し、この件も“「市原王の自殺事件」”として消え去ったのだ。
果たして、「自殺」で有ったかはこれも「疑問」であり、本来は「近江」に遺るのが普通で、其れなのにまだ「後家制度が無い時期」のこの時期に「伊勢に帰った事」と「後の能登女の無功績」による「疑問の破格の昇進」に付いても疑問視されるのだ。
「伊勢のこの事件の犠牲者」とすれば、「春日で白壁で能登女であった事」に成る。
然し、兎も角も其の様に「白羽の矢の経緯」はうまく動かなかったのだし、「流れ」は結果として遂に「伊勢」に向いて仕舞ったのだ。
そもそも「青木氏の氏是」からしてもこれは反している。
それは、この「770年の即位後」の後の「井上内親王の庶民化」と「同幽閉死事件」も「対抗策の一つ」としてやり返した事であったと観ていて、「残る朝廷の者・摂関家と犬養氏」に対しては、“これでもかと見せ占めて応じた”のだと観る。
それでなくては「外戚系の犬養氏と藤原氏」から仕掛けられる可能性はあったのだし、これに楔を打たなくては伊勢としてならない事に成っていた筈だ。
そもそも、幾ら「后や他戸親王等」がPTSDであったとしても、それも「朝廷内」に幽閉すればいい事の筈であり、それの方が世間に対して必要以上に噂が漏れない様にする「唯一の得策」でもあった筈であるが、其の様にせずに「世間に晒す」か如くに「態々に庶民化」にして、且つ、更に最も嫌っていた「嫁ぎ先の伊勢」に帰して、且つ、それも松阪では無く「田舎の名張」に幽閉する程の厳しすぎると思える処置を採っているのだ。
これも「春日の暗殺に対する弟としての報復策」であったと筆者は観ているのだ。
これは「光仁天皇」として「天皇家と朝廷」に入る以上は、未だ遺る息のかかった「藤原氏や公家や官僚たち」に対して、「施基皇子の遺した50年程経った青木氏の氏是」として、「天皇家」に憚り阿る事無く護り毅然として応じたと観るのだ。
それには先ずは「実家の伊勢青木氏と切る事」であって、「逃げ惑う等の事」や「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷からの圧力・恐怖」や「実家への不慮の事故」が防げる筈と「光仁天皇・白壁と青木氏族」は観たのだ。
そうでなくては「青木氏の氏是を護らなかった事」に成り、「伊勢氏族の中では死に値する大罪」であった。
「始祖の施基皇子716年没」から「50年程度」しか経っていないのだから、「伊勢50郷士衆の周囲の者」も許さず「伊勢の者全て」にこの流れの一連の事は知れ渡っていた筈である。

注釈 この直前に於いて前段でも論じたが、未だ「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」には、「完全な縁者関係以上の相互重婚主義の血縁関係」にあったのだ。
「伊勢青木氏の娘」が、「近江佐々木氏」に嫁げば、同時に「佐々木氏の娘」が「伊勢」に嫁ぐと云う「相互血縁同族関係」を結び、「男子」に於いても良好な関係の同然の関係で事実、維持されていたのだ。
「四掟四門四家の制度を持ち込む前」では、「天智天皇第六皇子の川島皇子・母は忍海小竜の娘で色夫古娘」と「天智天皇第七位の施基皇子・母は越道君伊羅都売」の「兄弟家の相互重複血縁関係」で既にあったのだ。
それが前段でも論じた様に、突然にこの“「市原王の事件」”で「婚姻関係を結ぶ事」が崩れて「相互重複血縁関係」で成り立つ「皇位族の関係」を突然に「淡海族側」から断ったのだ。
これは、ここで「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」と「孝謙天皇」の「天皇家との間」で何かが起こった証拠でもある。
それは次の注釈の事で判る。

注釈 この「市原王」に関しては、前段で論じた人物で大きく青木氏に関わった者だ。
ところがその注目する処は、その「市原王の生誕・青木氏の検証では64歳」に付いてである。
それは一説では、「生誕719年頃から723年頃」と成っていて、「没年」は何故か不詳と成っている。
その直前の「716年」に「伊勢の施基皇子」が「84歳」で没している。
この年を境に「淡海族の近江王佐々木氏」と「春日族の伊勢王青木氏」との関係の「相互重複血縁関係」は突然に崩れたのだ。
その「淡海族・市原王の最高格式」は「二品」にあり、 「両者の相互重婚主義の血縁」に於いて「施基皇子と川島皇子の曾孫」に当たる「安貴王の子」に当たるとし、つまり玄孫の事か。
最終は「市原王」は「正五位下」で、“父より高い位を獲得している事”なのだ。
これには「ある意味」があって、この位に付帯する立場として考えれば、「皇位継承者の筆頭」と成り、これには「思惑行為」としてそれに仕立てようとしていた事が判る。
当時の「伝統的な決まり・三代継承性の規定」であって普通は何かが無くてはこれは起こらいのだ。
そして、更に、何と最高格の「造東大寺長官/聖武天皇の思惑・光明皇后疫病平癒の願い」にまで任じられているのだ。
つまり、「充分な肝いりの思惑があった事」がこれでも判る。

これ等の関わる記録から「白羽の矢の事件」の問題の「市原王の経緯」は次の様に成っている。
739年に「写経司舎人」を務める。
743年に無位から一挙に従五位下に昇格する。
聖武朝では、「写一切経所長官」に任じられている。
続いて「玄蕃頭、及び備中守」に任ぜられている。
746年には以降は「東大寺盧舎那仏像の造営」の「金光明寺造仏長官」と「造東大寺司知事」を歴任する。
最終は「大仏造営の監督者」を務めた。
聖武朝の末の749年に、「聖武天皇の東大寺行幸」に際し「従五位上」に叙せられる。
「750年の孝謙天皇」には、大納言・藤原仲麻呂の派遣で「市原王」は「正五位下」に昇叙される。
然し、ところがここからこの「昇進続きの市原王」に異変・750年が起こる。
「下僚官」であった「佐伯今毛人」が突然に4階の従五位下→正五位上に昇進を果たした。
そして、「高市大国」は2階の従五位下→正五位下に昇叙された。
これに比して、この上官格の「市原王昇進」は1階に留るのだ。
更に酷い事に、「一番の貢献者の市原王」は、「2年後の752年」の「東大寺大仏開眼供養会の出席者」に呼ばれなかったのだ。
そして「760年の光明皇后の崩御」で格下の「山作司」を務めた。
763年に「摂津太夫」に成る。
763年に「謀叛の佐伯今毛人の後任」として、「造東大寺長官」に再任されている。
764年の8ケ月後に「造東大寺司長官」を解任され、担当は天皇の家庭教師の「吉備真備」に成っている。
769年に再び「造東大寺司長官」に返り咲く。
769年後のその経緯は判らなくなっている。

この「時系列」で「目に見えて判る事・物語る事」は、「750年の孝謙上皇」は伊勢に「大納言・藤原仲麻呂の派遣をした。
この事は「伊勢青木氏の後裔」に何かが起こった事を物語っている事に成る。
それは「天皇家の内部」では、「後継者」に付いて「二派」に割れて「方針転換」が起こっていた事だ。
この“「方針転換」”とは、「天皇継承者の白羽の矢の飛ぶ先の変更」と云う事であって、「天武系の直近氏の近江「佐々木氏の市原王」から「伊勢青木氏に向けられ直した瞬間」である。
769年にこの「市原王」に何かが起こった事を意味する。
ところがここでも更に「異変」が起こるのだ。
それは密月で仲の良かった二人の間に、突然に「孝謙天皇と大納言・藤原仲麻呂との政権争い」が起こったのだ。
当初は、“「市原王の排除」”では意見が一致していたのが、「孝謙上皇」は「伊勢」に、「市原王」を推していた「仲麻呂」は、“自らが政権を握り傀儡政権を造る”と云う思惑で動いていたと云う事だが、上記した「帝紀」に従えば「天皇の位」はこの段階で帝紀に従えば、「時期継承」は敏達天皇春日王系の四門後裔の「市原王」では無くてはならないが、突然に自らが傀儡として政権を握ろうとして、それを知りながらも“「市原王」を推すのを突然に止めた”のだ。
当初は「上記の経緯」でその為の昇進をしていたのだ。
この結果は次の様に動いたのだ。
そして、一時期、「天皇の座」は、“「持統天皇の後継者会議の事」”から外れて、先ず「外孫王・淳仁天皇」に据えそこから、遂には、“自らがその座に着く”と云う経緯を造り、その考えの「仲麻呂」に奪われたのだ。
ところがこれを観ていた「仲良し」であった「孝徳天皇の孝謙上皇」は、これを見抜いていたその「家庭教師」であった「吉備真備の意見」を取り入れて、「仲麻呂」を政権から外し、「傀儡の外孫王の淳和天皇」をも廃帝し、自ら「天皇」に先ず再び返り咲き「称徳天皇」として「実権」を握り直して、「先の実権を握っていた藤原仲麻呂」を潰し、そしてその「傀儡天皇」であった「藤原氏の外孫王の淳仁天皇」を廃帝し淡路に流して自ら再び“「称徳天皇」”と成ったのだ。

ここまでは前段で論じた「白羽の矢の経緯」であるが、この「経緯」から物語るものは上記の通り「天武系の最も有力候補者」であったこの“「市原王}”が「天皇に成る為の経緯」として“「政権の内部ではその中間まで働いていた事」”が良く判るのだ。
それが、ここが「時期的」にも、符号一致した形で、「伊勢と近江が突然に血縁し無くなった仲違いの原因」でもあると観ているのだ。
「白羽の矢の影響」に「市原王」は「品位のつり上げ」を餌に一時は振り回されたのだが、この見込みも「藤原の仲麻呂」が出て来て霧消してしまったと云う事だし、「近江佐々木氏との伊勢との関係・天皇継承者問題」もこれで永遠に消えたのだ。
だから、前段で論じた様に後に、これが「近江佐々木氏の青木氏に関する研究」が成された所以でもあろう。

注釈 さて、ここまででは、「伊勢と近江の突然に血縁し無くなった仲違いの原因」には、完全にはならないであろうが読み込みで他にも調べて観ると別の原因もあったのだ。
ところが現実にこの時に、「市原王」に嫁いだ「伊勢の「女(むすめ)・追尊王の能登女」は、「伊勢での記録」としては、「伊勢の習慣」に従って、上記した事から「朝廷から見放された市原王」から突然に離縁して「伊勢」に戻ってきている事に成っているのだ。
この「事件」には、普通であれば淡海族に残る筈の処が、“何かがあってこの様に「離縁」と成っている事に成る”のだ。
それは先に結論から云うと、此れを“「伊勢青木氏の力」では「親族の市原王」を支え切れなかった事”として、「近江佐々木氏」に依って捉えられ、逆に「白羽の矢」では、最早、「女系化し全く継承権の無い130年」も経った色々な上記した経緯で「伊勢」に飛んで行って仕舞った事」が、“「重婚制度」を破るまでに「感情的理由」として発展し悪く受け取られて仕舞った”のだと考えられる。
ここからは「淡海族と伊勢との時系列と経緯」は、同期して無く成って仕舞っているのだ。
この「伊勢青木氏・・持統天皇の因事菅隷」は、その後の「淡海族の貧困・持統天皇」を観て、「賜姓五役としての因事菅隷」で「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」を「額田部氏の土木工事の専門的な力」を得て開始し「20年後」に完成させ、ここに「院屋号の特権」を以てこの「和紙の楮生産」を行える様にしたし、「伊勢」はこの「淡海族の貧困」を遂に解消さしているのだ。
この時は未だこの「持統天皇」は「次の天皇継承族」として「天智系の淡海族」として「目論んでいた事」がこの「因事菅隷」で判り、その「継承者の人物」が「市原王であった事・大仏殿建立などの重職任命」」に成る。
恐らくは、その意を引き継いで来た「天皇家の称徳天皇の動きのへ変遷」には、これにはこの「市原王の能力」のみならず「淡海族の財・貧困にも問題」があった事を示している。
其の後の「和紙での経済的な豊かさ」を得た「淡海族」は、その“「勢い」で「伊勢」から離れて行き疎遠”と成り、遂には「問題の嵯峨期」からは「源氏化」して行ったのだが、この“「勢い」で「伊勢」から離れて行き疎遠”、が称徳天皇には魅力が無く成って行ったのではないか、と観られる。
飽く迄も、伊勢との繋がりに魅力があったのではないか。
そこから「歴史的経緯」は無く成っているのだ。
ところが「伊勢」から云えば、寧ろ、逆であって「淡海族に飛ぶはずの白羽の矢」が「伊勢」に来た為に、「内部」には抑え切れない「氏人の伊勢郷士50衆の不満」の“「伊勢騒ぎ・史実」”が起こって行ったのだ。
この“「四家に対する不満の伊勢騒ぎ」”が起こったのだ。
この事への「不満」には、「淡海族の貧困を救った事」への「淡海族の態度の不満 1」、「伊勢福家へのやり方への不満 2」、遂には「白羽の矢が飛んで来て仕舞った処置の不満 3」と「上記の持統天皇の継承会議の問題 4」が有ったらしい。
つまり、とすると「1の行為」は「3の行為を防ぐ策」でもあった事に成る。
百々の詰まりは、「淡海族へ白羽の矢を向ける策」であったと云う事だが、こっちの「伊勢」に飛んで来て仕舞ったと云う事に成ったのではないか。

注釈 「伊勢」は「因事菅隷」に基づいたこの「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」を「伊勢青木氏」が行い「額田部氏の力」を借りて「20年」も架けて行ったが、それに続けて今度は「伊勢」が「院屋号の占有権」を以て、続いて、「和紙の元に成る楮の生産・殖産」をここで始めて「佐佐々木氏に渡し経済的潤い」を与えてたのだ。
この時に、「和紙の専有家の院屋号」を持つ「伊勢」に対して、どの様に対応したのかが「疑問」で、現在の研究では「楮を植えたが、これが「琵琶湖の真砂の土壌」に余り適合しなかった事から、今度は「楮和紙」からその後に「沈丁花の和紙生産」に切り替えてまでして行ったとされていた。
「近江佐々木氏」はこの「良質和紙の開発」をして「独自の和紙」を造り上げて仕舞っていたのだ。
これが上記の「歴史の史実」から割り出せた事は、「2つの真人族系・後に経済的に行き詰まり真人族では無く最後は朝臣化した」では無く、「賜姓臣下した沙沙木神社を守護神」とする「神職系の佐々木氏子孫」で行われていた事に成る。
ところが「伊勢の持つ紙の占有権」に対してこれを無視した。
そこでこれを食い止める為に「米子」から「西域」にこの「勢い」が移らない様に「米子和紙生産」を中止させて「美濃の寺尾」に「生産拠点」を移動させたのだ。
そもそも「和紙生産」は、「院屋号の青木氏の専売権」を持つもので、その「伊勢」から勝手な行動を採り始め逃れて行ったと云う事だ。
ここで上記の親族関係は完全断絶する事の原因の一つに成ったのだ。
以上の状況に成っていたと「青木氏の資料」には記されているし、「佐々木氏の青木氏の研究論文」にもこの事が匂わせているのだ。
この時、「争いを治める為」に「伊勢」は兎も角も親族である以上はこれを黙認したと成っている。
但し、この時に「琵琶湖東岸」での「米原の楮生産」だけは、飽く迄も「伊勢青木氏の占有権」に入るとした様だ。
其の後に「この理由・前段で論じた」があって、この「米原」から「美濃の寺尾」に楮生産を移しているのだ。
ここで、「米原は交通の要所の地」、つまり、「和紙生産の搬出拠点」でもあるのに、何故、「米原の楮生産」を止めたのか「疑問」である。
これは、態々、「東の美濃域の奥の寺尾」に移している処から考えると、独自路線を取り始めた「淡海族の和紙生産」を先ず此処で一端食い止めて制限し、「院屋号の青木氏の専売権」を無視する発展をここで制限したと観る。
これで「近江和紙の発展の動き」を「東に進む事」を止めて圧力を架けた事に成ろう。
これで「同族の親族」が「和紙」でも「犬猿の仲がより進む事」に成った要因の一つであろうし、これで「方向性を無くした淡海族」は、其の後の嵯峨期には「源氏化に進む事」に成った原因でもあろう。
そして最終は、前段でも論じた様に「猶子現象」が起こり「源氏化の根拠を失う事」に成り、「神職系の佐々木氏」も含めて「二つの朝臣族の淡海族全体」が滅亡する事に成る。
注釈乍ら「後勘」からすると、「上記の時系列」から此の様な経緯を辿った様に観える。
「五家五流の賜姓族」の内の「淡海族と前段で論じた経緯」の「甲斐族と美濃族」は潰れる事に「持統天皇の皇位継承問題での会議」を正当系にしようとした「天武系の存続で図った思惑」が全て無く成る結果と成ったと観えるのだ。

“これで淡海族は独立できる”とし、上記の「白羽の矢の事件の前後」からの「伊勢と近江の親族争い」には、「長年の矛」を収めたと「伊勢青木氏と佐々木氏」ではしている。
その「証拠」に「近江佐々木氏の研究」に依ると、「注釈の通りの工事支援の結果」で「その生活」は潤い、その糧を得て「近江」には「佐々木氏系青木氏」と「近江青木氏」と「近江青木氏系佐々木氏」の「淡海系3氏」が其の後に誕生しているのだ。
この「伊勢青木氏・敏達天皇系春日伊勢族」や「神職系と2つの朝臣系の3淡海族」を悩ました“「白羽の矢の事件」”では、「伊勢青木氏内部」では、「本論の井上内親王の事件」のみならず「淡海族との絡み事件」も含めて「伊勢」には「煩わしい事件」がこの同時期に起こっていたのだ。
そして、この「騒ぎ」は「嵯峨期」でそのピークを迎え続いたとし、そして遂には「仁明天皇・出自元伊勢の孫で嵯峨天皇の子」であるこの「仁明天皇の努力・父と違って桓武派の考え方を持っていた」で要するにここまでとして、その「不幸な騒ぎや事件」は前段で詳細を述べたような経緯で一応は彼の努力で終わらせているのだ。

合せて、前段でも論じた「近江鉱山の鉄生産」も合わせて「因事菅隷」で同時期に開始しているのだ。
これは「白羽の矢の交換条件・打ち合わせ」であった事が「本論の読み込み」で判った。
この「近江での伊勢青木氏が手掛ける鉄鉱山開発・因事菅隷による国有鉱山」が地元のこの「貧困状況下の淡海族」にはどの様に影響していたかは資料がない。
又、「近江佐々木氏の青木氏の研究」でもこの事に殆ど触れていないし、「公的な資料」にも何も論評の様なものは無い。
これはそもそも「秘匿の因事菅隷」に有ったのではないだろうか。
この「伊勢青木氏だけに発せられる因事菅隷・天皇の密命」であれば無い事には一応は掟であった限りにお於いては納得できる。
当時としては「主流の砂鉄」にしても珍しい物であり、それが「山から掘り出しての鉄・鉄鉱石」には、「試掘の事もあり、失敗の事」も含めて「伊勢」では「慎重な対応」をしていた事が読み取れるのだ。
それ故に、これが「白羽の矢の前後の事・打ち合わせの条件」もあって少なくとも「外への公表」だは避けていたと観られるが、上記した「4つの鉱山」は「近江の近場の事」であるので、徹底して黙り続けるのは無理であったのではないか。

注釈 この「鉱山開発に携わる人・工人の山師集団・金山師集団等」に依っては「秘匿の工事」が世間に漏れるが、これは「朝廷」に依って「功績」として「鉱山開発に携わる人・工人の民・200人」等は、「伊勢王施基皇子」の「私有財産として与えられた事」が記録として遺されている。
因みに「伊勢王の施基皇子」には「全2000人の民・工人が与えられた事」が記録として遺されているのだ。
因みに「川島の皇子」は「500人」と記されている。
それだけに「施基皇子とその後裔の功績」は実に大きかった事が云えるし、此の事でもその位置づけは理解出来る。
もっと云うと川島の皇子とその後裔は500人の民を与えられていながら貧していたとする記録には何か違和感が生まれるが、おおよその事はその土壌の事に会って生活の糧を伸ばす余地が無かった事が云える。
だから「天皇」はこれを救う為に「国の問題」として捉えて「伊勢」に「干拓工事の因事菅隷」を発したと考えられる。
この時に「伊勢青木氏」に対して「工学院の院屋号の占有権」が与えられたものと考えられる。
これだけでは「伊勢」には、幾ら「親族の関係」に有ったとしてもそこまでも「近江に尽くす謂れ」はそもそも無く間尺に合わないだろう。
そこで結局は、「天皇」に「その見返り分」として「佐々木氏の近江の地」に対して「鉱山開発の権利」を「条件」として出し、その「権利の裏打ち」として「因事菅隷を発する事」に成り得たと考えられる。
結局は国にとっても「鉄の生産」と云う「殖産を興す事」に成り「大蔵は元より内蔵も潤う事」に成り、その「生産から販売」までの一貫を「伊勢」が担えば、後は「大蔵と内蔵」に「利益が入る事」と成り「濡れ手で粟」と成ったのだ。
故に、当時は「その土地とそこに住む農民も含む民とその殖産業一切」は“「功績」”そのものとして「私有財産」として扱われていたのだ。
それだけに「情報開示の事」では「今の社会」と違って、「ある程度の秘匿」は護られる環境にそもそもあったのだ。
然し、「近江佐々木氏の青木氏の研究」には、こんな事が何も知らない事は無く、研究書はこの事に付いて何も触れていないのは、知らなかったとするとそもそも元より「別の名目化」にして「極度の秘匿の因事菅隷の下」にあった事に成る。
当時としては、それでも「何もしていない様に秘匿でき得る環境レベル」であった事が「因事菅隷論の歴史観」として判断できる。
だとすると当時は、未だ「伊勢青木氏」に対して多くだされていない「因事菅隷の影響」が「相当な力」を世間に与えていたと考えられ、「天皇の令外官・勅命」の秘匿の「天皇の命を受けた事」として、世間に取り分け「全官僚」たちにも恐れ慄く程に何があったのだろうとして「警戒心を与えていた事」に成るだろう。
この時代の遺された少ない「政治の記録」から観て見ると、その様な「史実」が多くあって、“何を密かに命じられていたかは判らない為に余計に恐れられていた事”もあったと考えられる。
「史実の政権争い」で、“「謀叛を企てた」”として暴露され罰せられた史実などは殆どは、この「秘密裏の令外官の働き」に依る「秘密情報からの判明」に依るものである。
何時の時代もそうである様に、取り分け「奈良期から平安期までの政争」には、この「令外官・内密書の勅命」の「秘匿の天皇の命を受けた事からの発覚」であって、これは「皇位の者にとっては常識の事」であった。
それだけに「勅命の皇親族の特別令外官の働き」は恐れられていたのだ。
取り分け誰でも受ける事の無いこの「因事菅隷を受け、且つ格式を持つ立場の令外官」は、周りからこの「二つの大権を持っている事」に恐れられていた事が記されている。
それ故にその「特別令外官の務めの内容」は、この「周囲の謀叛の事」から始まり「院屋号の事の特権」や「鉱山開発等」の「殖産等の全範囲に及んでいた事」に成るのだ。
然し、確かに恐れられていたがこの事はある種当然の事と受け取られていたらしい。

さて、そうすると「上記のこの事」から「読める事」は、一つある。
それは「川島皇子」の「大津皇子の謀叛密告事件」も「天武天皇」に密告した「近江の市原皇子の件」もこの「特別令外官の仕業」であった事も考えられる。
だとすると、この「流れ」から成し知り得るのは当然に「伊勢と云う事」にも成るが、何も資料が無いので確定は出来ないが、然し、「親族でもあった事」からも検証する必要があるが、この件で「損得に触れる者」はとすると矢張り「伊勢」では無かったかと観ているのだ。
何故ならば、この「大津皇子」は「天武天皇の皇子」であってしても、ここに隠れた要素があって実は「母」は「天智天皇皇女の大田皇女」であり、「同母姉に大来皇女」と、その「大津皇子の妃」は「天智天皇皇女の山辺皇女」と成り、要するに「母方は施基皇子の3妹」でとりかこまれていると成る事からであり、「川島皇子」がこの「大津皇子の謀叛として密告した事」は放置出ず、「天智系とその施基皇子系の周囲を弱らせる淡海族の目的」があって、これを企てた事に付いて「施基皇子」はその様に観たのではないか。
何故ならば、それはそもそも“その真偽を確かめた”のは、「秘密裏の令外官の働き」に依る「伊勢の者」であると云う事になる。
「天武天皇」にその「事の真偽の調査」を秘密裏に命じられ、それを必ず報告をしていた事に成るからだ。
「大津皇子」を庇う訳ではないが、その周囲は「全て施基皇子の妹達」であり、「真実の情報」は多く取れその真実は「施基皇子」は必ず知っていた事に成る。
そうすると「施基皇子の出方」は決まって来る。
敢えて「川島皇子」が“「ある目的」で「でっち挙げた報告をした事」”に対して先ずは身構えるであろう。
例え、「天武系の皇子」であったとしても、実の処はその「子孫」は何時か「天智系の血筋を持つと成る事」を意味している事と成り、仮に「大津皇子」が「天皇」と成った時には「継承権」は自然と「施基皇子側の伊勢系」と成る事は必定で、女系であってその意思や気が無くても完全に「施基皇子系に移る事と考えての行動」であったのではないかと観られる。
だから「市原王の件」からも判る様に、「継承権」を望んでいた「川島皇子」は、“「密告という手段」に出て、これを杭止めてこれの「流れ」を「淡海系に来る事」を計った”と考えられるのだ。
然し、この「密告の謀計」は失敗したのだ。
つまり、この事件の「意味する事」は、この時から「淡海系」は未だこの段階からもでも「継承権を狙っていた事」を意味する事に成る。
そこでその証拠を捜索すると、実は、その「証拠」が見つかったのだ。
それは「下記の注釈の事」を配慮すれば「上記の意味する事」が良く物語り証明している。

注釈 ところで“上記した「懐風藻の説の証拠」”に続き、更に続けて「次の重要な記述」が記載されていたのだ。
それは、先ず「大津皇子の事」を「天武天皇の実質の長子」と判っている事なのに“特別に態々記されているのだ。”
この「漢詩集」なのに、その事から外れて「次の記述の事」が態々と書き添えられている事なのだ。
それはこの事から次の事が読みとれる。
この「懐風藻のこの特別記述」から、先ず、その「長子たるに足る人柄」が、敢えてこの「漢詩書集」の「懐風藻」に記されている事なのだ。
これは当に「謀叛に対して反論する意味」から「その目的」で態々我慢できずに書かれたものと考えられる。
当然に当時の「慣習・歴史観」からこれは当に「韻を込めての記述」であって、それ故にこれには「何かの目的があっての事」と考えられ実に歴史的に珍しい事だ。
その韻を読み解くと、先ずその侭を次に引用記述するとしてそれを要約すると次の事に成る。
「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。
壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。
性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。
これによりて人多く付託す。
体格や容姿が逞しく、寛大。
幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。
成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。
その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。
このため、「大津皇子の人柄」を慕う、多くの人々の信望を集めたとある。
以上
重要な事は「以上の内」と同じ事が、何と“「日本書紀」にも「おなじ趣旨の讃辞」が述べられている事であり、つまりこの内容を追認している事であり、確かに「抜群の人物と認められていた事」の様である。
この結果として、「密告に対しての無罪」に対してそれを立証できずに、そもそも既に、その時まで「天皇」に代わって「政務」まで採っていた「24歳の大津皇子・686年」は、“行き詰り自害に追い込まれた”事に成るのだ。
そして、その「後釜」と祭り上げられていた「草壁皇子」もその「3年後に弟の草壁皇子」も「28歳で没す」とある。
この「漢詩書の特別記述」は、「弟の草壁皇子の死」は無関係では無かったと云う事を暗に匂わしている事に成る。
この「川島皇子の密告事件」の「二人の犠牲者」は、「大津皇子と草壁皇子」の「政争の形」に持ち込まれて治まった事」を「意に反した事」と成りて、これを悔いて「弟の草壁皇子」もそれぞれも「没す」と成るのだ。
そこでそもそも、既に、“「天皇に代わって政務まで執っていた大津皇子」が「謀叛と云う事」は無いだろう。
要するに急ぐ事はそもそも無く、「次の座は自分である事」が既に決まっていたのだから疑問だ。
そうすると「謀叛」と成れば「父の天武天皇」に対してであって、「川島皇子の密告」は実に「不自然な史実の行動」と成るだろう。
そして、更にこれに付いて「施基皇子の調査報告」もありながら、それを知りながら“「川島皇子の密告」と「施基皇子の報告」”とを何と天秤にかけて、「川島皇子の密告を信じた天武天皇」にも「相当な愚者」であろうとする疑う余地のある事」を暗に酷評しているのだ。
故に、そこでこれで、「特別令外官の役の立場」で報告していながらも、「無視され防ぎきれなかった施基皇子の立場」は「氏族とその親族衆」に対しても信頼を失い且つ無く成った事に成る。
故に、「686年自殺」に、“続けてその「3年後・689年」に「同母弟の草壁皇子」も「28歳で没すとある。」”とあるのは、ここにも“何かがあった事”を強調して意味させる事に成ったのだ。
だが、これを「証明する資料」が未だ見つからなかったが、そもそも、態々、この事を記録した「懐風藻」がこれに付いて以上の事で“間違いなく何かを物語っている”のだ。
これで「施基皇子」と「686年没の天武天皇」に媚びした「密告者の川島皇子」とは、前段や上記した様に、ここから「犬猿の仲に成った可能性がある事・686年から689年」を物語るのだ。
そして、その10年後のこの事を知っている「697年の持統天皇の継承者会議」で、これが決定的に成ったのだが、この期に乗じて「持統天皇」は、「伊勢に因事菅隷」を以て“「琵琶湖東岸の干拓工事」”を命じて来たのだ。
「施基皇子」は、こんな事があったのに、勿論の事、「伊勢の心」は、“虫が良すぎる”として「妹の持統天皇」にも「川島皇子の淡海族」にも相当に憤慨していた事が判る。
つまり、明らかに書の記述の通り、ここでこの「3つの連続の死」には何かがあった事を意味しているのだ。
「伊勢の福家」が、此れでは、“何かしなければ氏族を治まりを着けられ無く成っていた事も判り、然し、何も出来なかった事”を物語る。
「始祖の施基皇子と福家の春日」の二人の信用は此処で無く成っていた事をも物語る。
この書の物語る事として何とかしなけれは四家は治まらなく成っていた筈だ。
以上としている。
それが次の注釈の経緯と成って現れたと観られる。

注釈 さて、そもそも前段でも論じたが、「天皇の命を受けての行政の太政官」は、「格式上位の皇親族・浄大一位格式・伊勢青木氏」には、絶対に「行政命令」は「太政官」が格下の為に出せない。
そこで、故に「伊勢」より「上位の天皇」が、密かにこの「皇親族・浄大一位の格式」に対して、「行政上の特別令外官の格式の立場」として、「密命・因事菅隷」として「命」を発したのだ。
ここでは「その掛かる費用一切」は「密命」である限りに於いて「特別令外官」が受け持つ。
更にそれは限定されてこの「特別令外官」はだれでもという事には行かない。
「それ相当の組織力」と「密命を果し得る財の持ち主」で無くては務まる事は不可能である。
依って「因事菅隷を成し得る者」は更に極めて限られた者に成り得る。
これが「五家五流」の中でも、「全ゆる殖産を行う事で巨万の富」を得ていた「施基皇子とその後裔とその氏族」だけと成り得ていたのだ。
例え、「活発極まりにない三野王」であったとしても、「記録」から全て「太政官令」に従うものであって、井の中の蛙ではそもそもこの「因事菅隷を受ける事」は絶対に格式無く無理な事であったのだ。
同然に「継承権を狙う淡海族」もである。
そもそも「天皇の密命」である以上は、「資料記録」を遺さないのが「伝統の禁令規律」であるが、奈良期から平安期に欠けて「施基皇子とその後裔とその氏族以外」には、一切の記録や資料からは見つからないのはこの事に依る。
調査すると唯一つ例外があって、{調べた範囲」では、後に「信濃青木氏」が「神明社を通じての質行為」として、“「第二姓の認証制度に携わっていた事」”が「記録」としてあって、正式な時期は確定は出来ないが、「青木氏」を「律宗族として再任した正親町期頃」の「因事菅隷」によるものと考えている。

注釈 前段からも論じている「天皇家の継嗣外者」を「引き取る務め等」も、この「皇親族の令外官の務め・賜姓五役」の一つとして理解されていた様だ。
前段でも論じている様に、“「永代賜姓五役」”として、“誰でも引き取ると云う事でも無かった”様で、「伊勢と信濃」が引き取ったのは、全女系族であって全て「女継嗣外」ではあったが、それが「四掟四門の範囲」、つまり上記した「天智系後裔族」であって、ここでも当に「天武系・淡海族系を避けていた事」が読み取れるし、これに外れた「女継嗣外」は、“「甲斐」”とか“「近江」”に落ち延びて、「その行き方行方知れずの事」と成り得ていた事が記されている。

注釈 “甲斐”は、室町期まで「血縁の独自性を貫き余り継承から外れた皇子皇女を引き取らなかった事」が「記録になる程」に記されている。
「近江」は、その「血縁族の者が落ち延び先」としてあり得たが、要はその「近江族の財の無さ」から一度は立ち寄ったものの、そこから「更に北に引きこもる事・行方不明の事」が起こったと記されている。
この事は「近江佐々木氏の研究記録」からも読み取れる。
それを「賜姓五役」として熟していたのが、「五家五流の青木氏・伊勢と信濃」であって、取り分け「部経済」を誘引して「巨万の財」を成していた「伊勢王の伊勢青木氏の務め」は大きかったのである。
要するに、前段でも論じた様に、「伊勢多気郡」に「彼等を引き取る村の施設と組織・青木氏様の十二司女官制度の設置・役を終えた斎王も引き取っていた」までを構築し、これを「因事菅隷を持つ賜姓五役」として熟していた事が記されているのだ。

さて、この時の「因事菅隷の代償案」として出した「川島皇子の近江地領」のそもそもそこに出した伊勢青木氏が行う「鉱山開発の因事菅隷」は、「天皇しか知らない内密書」で行ったとすると、この「伊勢多気郡の事」も、「天皇」は此の「因事菅隷を使った事」も考えられる。
そして、とすると同然に「白羽の矢を出した孝謙天皇の件」も、“これに有無を言わさぬ様に”の姿勢で、この「因事菅隷に依るものであった事」にも成り、それ故にこの時は間違いなく「女系にして、且つ、伊勢は継承外であった事」から観ると、“「伊勢の財を選んだ白羽の矢」に傾いた”と観る事が出来るのだ。
それの効果は別にして、先ずは「因事菅隷で黙らしたかった事」になるだろう。
そこで、故に、先ず「打ち合わせに入り事」に依り、「ある上記の見返りを求めた事」が判る。
「近江佐々木氏の青木氏の研究書」には無い事は、何せ「本命であった淡海族」が「何も知らなかったとする事」に、これを「裏打ちする意味」を持つ事なのだ。
これが「天皇家の白羽の矢の行き先」を選んでいた「当時者達」に執っては、最早、“「淡海族の天武系列」では無く、今は「伊勢の財」”としては間違いなく逆に映っていたのではないかと観られるのだ。
密かに、これの「見返り」としての「鉱山開発に因事菅隷」が働いていたとすれば、これは「聖武天皇の時」からも内々で検討され働いていた事が判る。
この事が少なからずも「犬猿の仲に成った事」で、「弱体する近江佐々木氏」を「伊勢青木氏」が、何にせよその「弱体衰退化の為の事」として、過去に於いてはそれが「相互重婚血縁族」であっても、それを放置できる程に無関係では無かった事は確かである。
上記する「断絶の原因」の「大津皇子の密告事件」はこの「流れの中」にあったのだ

そこで、当時、“どの様に働いていたかを知りたい”と考えて「歴史観」として研究調査した。
考えられる「事前知識」としては、「天武系の直系近江佐々木氏・市原王の伝統権威・川島皇子の浄大三位の格式」に対して、「130年経過の女系化の天智系伊勢の財と永代浄大一位の格式」の「比較の差」にあって、これに対して「朝廷の対応する考え方」が次第に替えられて行った事に成るだろう。
この「最終上記の考え方に傾いた事」は、つまりは「帝紀に縛られる天皇家・朝廷」の「考え方の大転換・青天の霹靂」であった事に成る。
冠位四十八階位の「明位二階」の「四冠位・大と広」は「天皇の冠位」である。
「天武天皇」は「明広一位」とされる。

注釈 参考として、「判断材料の時系列」は次の様に成る。
「天皇家の継承問問題」で検討された「有利な点」は次の様であった。
淡海族有利の点A
伊勢族有利な点B

A「始祖の天智天皇」は「敏達天皇の春日王系の四門族」のぎりぎりの位置にいた。
A「天武系直系氏の継嗣の市原王」とは「系列内」で、「伊勢」は比較にならない立場にあった。
A「継嗣系」で云えば、「近江佐々木氏」が俄然に有利と成ろう。
A「四門族」で云えば、「淡海族一門の天武系直系族」>「敏達天皇系春日王四門の子の嗣子」と成っていた。本来は正統性から逆であった
A「母系の格式」で云えば、断然に「淡海族一門の天武系直系族」の紀氏
A「天皇系に入る事」を望んでいたのは紛れもなく「淡海族一門の天武系直系族」であって、「望んでいなかった」のは「伊勢」であったのだ。
Aその「白羽の矢」が当たって仕舞った「六男・継嗣外の子供の第七位皇子の施基皇子

B子・浄大壱位」で、その「継嗣外の六男」に相当し、母は「女系で五大豪族の紀氏後裔の嗣」であった。
B「永代浄大壱位・伊勢」>「永代浄大参位・近江」の格式にあった。
B「格式系」で云えば、断然に「伊勢青木氏」>と成ろう。
B「賜姓五役」、「因事菅隷の令外官」、「氏族組織の総合力・伊賀など含めた伊勢王」は、伊勢側にあって「組織力全体」は「伊勢」であった。
B「二系の違う事」は、結局は「伊勢の商い財の存在とその大きさ・院屋号の特権」にあった。

注釈 先ず、この「天皇家の思惑・政争」に上記の様に振り回された「市原王・川島皇子の密告が原因」は、「白壁王(後の光仁天皇)の娘・伊勢青木氏の「女(むすめ)」である「追尊能登女王」を先ず「妻」に迎えている事だ。
これが上記の「A=Bにする為の縁組」か、将又、単なる重婚制度に依るものかは判らないが多分前者であろう。
この「問題」を複雑にした「婚姻の説」には、「上記の注釈」の通り「施基皇子の白壁王」と「川島皇子の安貴王の子の市原王」の二人は、「同世代の叔父と甥の親族関係である事」と、「白壁王の母の紀橡姫」と「市原王の母・紀小鹿」が「紀の同族の叔母と姪の関係」にあってその「紀氏の出身・飛鳥王権五大氏族」である事だ。
後に「上記の昇進事件」では「淡海族の市原王」は「酷いうつ病」と成り、「伊勢」ではこの事が原因して「追尊能登女王」は「伊勢」に戻している事に成っている。

注釈 この時は未だ「後家制度の考え方・伝統的慣習」は女系制度を敷く務も「伊勢青木氏」には無かった。
結局は、この「追尊能登内親王の青木氏」の中での「働き具合」が「問題」である。
「白羽の矢」の「白壁王の考え」に切り替えられる前は、この「中心人物」と成っていたのは「淡海族の市原王」である。
然し、結果として「死を選ぶ事・・763年頃」と成ったが、後にこの「淡海族の市原王」に「嫁・744年頃・11歳」して、「二人の子」を遺して「継承権の犠牲」に成った「追尊能登女王・733年生誕」は、其の後は此の“「淡海族」の中”では無く、元の“「伊勢」”で「青木氏の伝統慣習の下」で過ごし、「入嫁37年後」の「781年・48歳/平均55歳」に死したとされている。
「伊勢」に一度帰した「後・763年・30歳頃」の「追尊能登内親王」は、「7年後」の「770年・白壁王即位」に追尊されて、改めて始めて「光仁天皇の内親王・770年追尊」に叙せられている。
女性としては、これは「破格の昇進」をしたことに成り、同時に「四品・770年」にも先ずは叙せられ、更に6年後の「776年」に「三品」にも昇進し、更には「781年・没直前」には何と「一品」にまで破格の速度で叙せられているのだ。
其れだけの“「功績」”を他の者に比べてこの「能登女」は実はこれで果たしていたのかという「疑問」である。
この「他の兄弟」に比べ“「破格の昇進」”をしたこの「意味する処」は、間違いなく“「大功績があった事」”を意味しているのだが、それが何なのかは「伊勢」では詳細には記されていない。
当然に考えられる事として、この“「特記すべき経緯の中」にその「意味する処」が隠されている筈である。
それは、「市原王との関係にあろう事 1」が先ず解り、且つ、その元に成り、「白壁王が天皇に成った事 2」と、「井上内親王の事 3」の「三つ事に絡んでいる事」は先ず判る。
そもそも“「能登内親王 3」”とする処は、正しくは「追尊能登女の王」であり、飽く迄も正しくは「追尊の格式」である事に成る。
この“「不思議な疑問と成る事」”は、「白壁王」が「青木氏の者」として、「聖武天皇の長女との井上内親王」と婚姻してから、何と“「婚姻の7年後」”に即位している事だ。
この“「婚姻の7年後」に「意味する処」があって、”婚姻後直ぐでは無いのだが、此処に「大きな意味」が隠されている。
これはそもそもその「前の事」であり、「伊勢青木氏の仕来り・独特の仕来り」に沿っているので、「井上内親王」は既に「伊勢青木氏」に嫁した以上は、「王」でもなんでもないし、既に、唯の「賜姓臣下族の伊勢郷氏の六男の嫁」に成っているのだ。
そこで、これは「青木氏の者」としての“「時期の問題」”であり、“「733年生誕の能登・781年没・48歳」”である以上は、「光仁天皇・即位770年即位」とすると、当然に「定め」は“「追尊王の形を執る事」”に成る。
そこで、この時、「母の夫人・高野新笠妃」が、仮に「母説」であるとすると、この「能登女」は、「3人の子の長子・能登女」であり、他に「同母の弟・山部王の737年」と「同母の弟の早良王・750年は」としている説でる。
すると、この事で、その「夫人・高野新笠の生誕等不詳とする処」は、先ず解明できる。
それは、「永代浄大一位の後裔」で「賜姓臣下族の伊勢青木氏」に於いては、「女系制度の女15歳までの入嫁の掟・嫁家制度」がある以上は、「伊賀青木氏族出の夫人・高野新笠の生誕」は“「718年・掟」”である事として割り出せる。
従って、「没年年齢」は、「791年」で、“「81歳没年」”と読み取れる事と成る。
この「読み込み経緯」から、これで「皇族の伝統経緯」から「最低で当時の格式伝統の定め」から、「15歳青木氏への入嫁」は「718年」と成るのだ。
そして、時系列が割り出せた「夫人・高野新笠の母親」として、又「妃」として「791年没年・生誕718年」である以上は、「733年生誕の能登女の子供説」は、「第一子は最高で15歳の時の子」と成り、「737年の山部王の19歳の子説」は、「第二子19歳の子」として設定で来て、「弟750年は早良王の第三子説・32歳」として成り立つ。
そこで、この“「通説ネット説の能登女の24歳の時の子供説」”では、時系列的には無理である事が判る。
且つ、「早良王の第三子説・32歳の説」も、「医学生理学的な面」で「卵子老化」が起こり、且つ、前記した様に、これも当時の「平均寿命50歳説」から考えても相当に「医学的に体力的無理な高齢出産」と成る。
これは「高齢の卵子老化と成る現象・水頭症」が起こり、現在でも医学的も到底に無理である事に成り、何とこれも“「45歳/平均寿命50歳」”に相当するとしているのだ。

「母・高野新笠・748年に15歳青木氏入嫁・伊勢の仕来り」とすれば、「791年は58歳の没」と成る。
この「疑問」の多い「光仁天皇770年即位」で観ると、「青木氏の伝統の掟」に従い「能登女」は、「淡海族市原王」に「15歳・掟で嫁いだ事」に間違いなく成る。
初めて「能登女」は、「追尊王」としては「母37歳の時・母親は748年の子」と成る。
故に「733年生誕から770年」までは、「能登女」は「ネット説37歳の時説」では、未だ「青木氏の中」ではそもそも「追尊」でも「王女」でもないのだ
従って、「748年で母15歳で青木氏に入嫁」で、「770年で能登女」は「733年生誕」であるとすると、「追尊王である事」は、「青木氏の女であった事」を示している事に成り得る。
これが「ネット説37歳の時説に成る」とすると、この「時の人の市原王」に入嫁した「能登王女説」を唱えているその「ネット説」では、肯定してはいないが“「入嫁は757年頃」”としている。
つまり、“「24歳の時説」”としている訳であるが、この説は上記の通り生理医学上では無理があり「大疑問」である。
何故ならば、「伊勢青木氏」では前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の妻嫁制度」と「嫁家制度」を敷き、それに従って「四掟の女系制度」で嫁いでいる。
とすると、この「伊勢青木氏の女系制度」では、従って必ず100%で、少なくとも遅くても“「15歳」”に成ると“「能登女」”は、「淡海族の市原王」に嫁している事に成り、この事は「24歳時説」する「ネット説」は「100%間違い」である。
何故ならば、この当時は前段でも何度も医学的にも論じたが、“「正しい歴史観」”として、飽く迄も“「平均寿命50歳」”であるので、今で云えば「40歳から45歳の子の誕生」と成り、100%で生理的医学的に現在の体外受精方式を使わない限りあり得ずに其れも「3人も出産」もである。
あったとしても体力的に無理であろう。
故に絶対に“「15歳説」”であるのだ。
つまり、この“「24歳説」”から来る「能登王の光仁天皇の子供説・高野新笠の子説」には「論理の崩れが生じている」ので「大疑問」を感じているのだ。
つまり、故に「嫁がせる“能登女”」を、“「光仁天皇の子・高野新笠の子」に先ず仕立て上げて、そこで“「当時の時の人」”の「淡海族の市原王の格式」に合わせたのではないかと観ているのだ。
この事はそもそも「女系化青木氏の制度」である。
つまり、既に、「臣下している氏族の子」のこの要するに“「能登女」”は、「浄橋女や飽浪女や難波女」の「伊勢青木氏の女(むすめ)」の様に、同じ立場にいたのだから、「追尊王」と無理やり仕立てて、更に嫁ぐ際には既に「臣下族」である以上は、「格式上」に於いては、“「白壁の娘」”と態々したのでは無いかと観ているのだ。
「白壁」は「臣下族の四家の六男」であり、「四家の四男」にも成っていない「家人並みの男」であった。
それでも、それに上記の「読み込み検証での経緯」で「白羽の矢」が飛んできたのだ。
要するに、“大疑問の「770年の即位」に対して「748年・15歳」では未だ「天皇の立場」を得ていない時の事なのだ”。
そもそも「伊勢の記録」には、“「逃げ延びた者・第三世族まで」”には例外は欠いていないからだ。
況してや、女系化を成す「伊勢の女(むすめ)制度」では、「赤子や幼児」より全てはこの「伊勢の四家の制度」に先ず入るのであって、それが仮に「高野新笠の子供」や「井上内親王の子供」であったとしても、そもそも特定して嫁がせる制度では無く、一度、まず「氏族の玄孫迄」の生まれてから直ぐに、「女(むすめ)」は「福家」に全員引き取り、そこで統一して「乳母」に依って零歳児より育てられ「青木氏としての女(むすめ)」の「特別教育」を受け、そこから「四掟先に嫁ぐ制度」を敷いていたのである。
同然に逆の事も起っていて「四掟四門の嫁ぎ先」から、今度は「その子孫の後裔」が新しい血を持ち込み、又伊勢に入嫁して入る事が繰り返し行われていたのだ。
この繰り返しの中でこれに従って「氏族内の例外」はなかったらだ。
飽く迄も「伊勢の能登女」で有っても、「一族の伊賀から来た高野新笠」であっても、この制度に従って「伊勢青木氏の女(むすめ)」であったのだ。
そこで「伊勢青木氏の女系の制度」では、「四家制度等」を維持する為に「后妃嬪妾の制度」を敷いて「バランス」を執っていたのだ。
この「女(むすめ)」制度」の中に入れば、「赤子の時」から集められ「福家」に集めて、この「女(むすめ)の養育制度」に必ず入り、「伊勢郷士氏人」の「乳母・めのと」で、例外なく一か所で早くて「9歳から遅くても15歳」になるまで「青木氏」の「女(むすめ)」として教育され育てられるのだ。
その後は、この「女系化制度」に依って「四掟四門の範囲」で「嫁家制度と妻嫁制度」に従って、「嫁入り・15歳掟」と成るのだ。
そこで「四家の中」で生まれた「全ての男子の場合」は、その「赤子の頃」から「母親」から強引に引き離され、「四家制度の中」に入り、そこで「四家の男子」として鍛えられて、「画道、華道、茶道、座禅道、算術」などの「諸道一般の素養」や「学問や商知識」や「武芸一般」や「格式教養」等を、例えば「襖の閉め方・お茶の飲み方・箸の上げ下げまで」を学ぶ事に成っていたのだ。
そもそも、この「厳しい統一制度」に於いては、“「母親」が「自分の子供」として特定する事”、即ち、「高野新笠の子供と特定する事」が、そもそも難しい事の程度で離されて育てられる事が徹底していたのだ。
そうでなければ「族内に全ゆる差と個性」が出て、“統一して青木氏の子供”として“「四掟四家四門を保つ女系制度」”は保てなかったとしているのだ。
飽く迄も、要するに「女子男子」は、「だれだれの子供」では無くて飽く迄も“「青木氏の四家の子」”であるのだ。
この「能登女」も当然の事であって、「高野新笠の子」としてのこの制度の中では確定は困難であった筈である。
敢えて近づく事があれば「福家」から罰せられる程の制度なのだ。
これは「四家四掟四門」に基づいている以上は、この「特別な中国から伝わった制度」では、“「絶対的な制度」”として扱われ、それで無くては差が生まれ、この“「女系制度の四掟四門制度」”は成立しないのだ。
これ等の「奈良期平安期に関わるネット説」は、この「女系制度」の「青木氏の歴史観」を把握しないでの唯単なる「現在風生活習慣説」に過ぎないのだ。
「平安期までの説」はこの範囲の中に間違いなく厳しくあったのである。

注釈 前段でも論じたが、「平均寿命」が「50歳頃」とする奈良期平安期に於いては、女性は「9歳頃から15歳」までを「婚期」とし、これは「当時の初潮」を前提にしていて、医学的にも「平均寿命の低さ」に比例しての仕組みが組み込まれていて、それが「本能的」に「遺伝学的」に時には「環境的」にも順応する仕組みが組み込まれて、主に「寿命」に準じても「早くする人間の生理現象」と成っているのだ。
従って、「女系制度」を前提とする「嫁家制度や妻嫁制度」の中では、最低年齢で「9歳」で、既に「嫁する事の出来る年齢」として、「最高でも15歳まで嫁する事」として上記した様に「古い青木氏の制度」の中で細かく決められて「教育得本・青木氏専用読本」までが製作されていた中で教育されていた。
この「遺された記録」の中では、「8歳の年齢」で既に「関東の秀郷流青木氏に嫁した」とした記録がある。
最高で「15歳」を超えては流石に「四掟四門」には無く「19歳」で「氏族の伊勢郷士」に嫁したとする記録もある。
「能登女」にしても「高野新笠」にしても「美濃」に嫁した「浄橋女や飽浪女」にしてもこの制度の中にあって最高でも「15歳での前提」としていたのだ。
「男子」は「四家制度」では、全て「15歳」が「成人」として扱われ「元服」していて「式」を行っていたとしている。
この「元服式・成人式」が、現在では「七五三の祝い」として遺されているが、「女(むすめ)」の「三と七」は上記の「嫁する年齢の9歳頃から15歳」の“「前年齢」”としての「成長した証」として「祝い儀式」が行われたとしていて、特に「女(むすめ)」の「三歳の祝い」は「病気などに患う事なくに生まれて来た祝い」として行われ、又、「七歳」は「伊勢青木氏」では飽く迄も「嫁する年齢の9歳頃前」の「女性の成人前年齢としての祝い」として、「帯解きの儀式」にされていたものである。
「青木氏の歴史観」としては、恐らくは「律宗族」として長い間の「青木氏で繋いで来た儀式」が世間に広まった儀式である事は想像できる。
これ等が本来は「妻嫁制度や嫁家制度」の中での、「特別な意味ある儀式」として「区切り」をつけて行われていたのだ。
それによると、この時、「子供服」から「着る服・着物」の「帯解きの儀式・成人服に替える式」に変化させる儀式とした。
そこで「女(むすめ)の頭髪・坊主頭であった」から「髪置き・長髪」に変える式としていたのだ。
然し、「男子の五歳」は、「別の意味」で江戸期に付け加えられた「武家の儀式」として加えられたものであって、これが「商人などの経済的裕福な庶民」まで広まったとされるものだ。
「伊勢青木氏の記録」では全く行われていなかった事が読みとれる。
平安期までは「男子の場合」は、「祝い儀式」としては「15歳の元服式のみ」で「五歳祝い」は無かった事が判る。
この意味で、「嫁する年齢の9歳頃から15歳の意味」には取り分け重点が置かれていて“「他の女系制度」”と共に「一つの女系制度的な意味」が強かった事が判る。
所謂、「娘の成長」と云う事より「女系制度」を引く限りに於いて「四家の継承・商いを担う男子」より「氏族の要」として「女系制度的な意味合い」が強かった事が独特の歴史観として云える。
「市原王の能登女の件」は上記の事から「伊勢青木氏に戻ったと云う事」は、そこに「大きな意味・女(むすめ)」を持っていたのだ。
その「意味の違い」では、実際に使われていたのは、遺された記録からそれは「男嗣・男継嗣」であって、「男子」では無く、同然に「女子」では無く、「女嗣・女継嗣」として、飽く迄も「嗣」が使われていたのであったのだ。
現実には「呼称も書物の記載」にもこれらが現実に使われていたのだ。
「青木氏の中」では、結局は「嗣と子の意味の持つ処」が「格式の伝統、即ち慣習仕来り掟の持つ女系の所以」で違っていたと云う事だろう。
この上記した、“「男嗣・男継嗣」であって、「男子」では無く、同然に「女子」では無く、「女嗣・女継嗣」として、飽く迄も「嗣」が使われていた”の「持つ意味」は「全てを物語る意味」として大きいのだ。
「女系の四家の制度」を良く表している「青木氏の独特性の歴史観」を知っておく必要がある。

注釈 そもそもこの「女系制度の採用の経緯」は、中国に於いて「四掟、四門」の中で「男嗣」に於いても「女嗣」に於いても、ほぼ同然の中にあったとされているのだ。
それを奈良期に、この「基本」を「伊勢青木氏」が「施基皇子の賜姓臣下族」と成った時点で「真人族」から離れて「臣下族」として生きて行く上で、飽く迄も「皇族の伝統の呼称」を維持するのでは無く、その前提をこの“「中国の皇族の制度」”の一部を真似て採用したものだとしているのだ。
従って、「賜姓臣下族」であった「皇位族・天皇系」から離れる為にも、徹底してこの「女系化の制度の新たな考え方」を図ったのだ。
上記の「ネット年齢説」では、「高野新笠説も井上内親王説も光仁天皇説」にもこの「青木氏の歴史観」が無視されていて、その説が何と「ネット記載化までされている事」には驚く。
故にそれを唯一、「伝統」として持ち得ていて知り得ている事である故に、ここで「青木氏独自」でこれを訂正しておかなければならないので甚だ面倒である。
この「歴史観の狂い」が出始めた時期の室町期には、それまでの“「賜姓族臣下族」”であったものから、“「律宗族」”と認定され、且つ、「呼称される事」を積極的に進めた「室町幕府と正親町天皇」には、即ち、これには元より「天皇系の権威の復元の狙い・正親町天皇」や「低下しつつあった室町幕府の権威」は、唯一、「天皇家の復権を試みた天皇」と「権威低下を食い止めようとした幕府」が裏の目的として見え隠れしていて、これが「遺された様々な記録」からも判る事なのだ。

注釈 然し、これはそもそも普通に考えても判る事ではないか。
「歴史に興味に持つ者」としてこれは「普通の事」で不思議に思うのだ。
何故ならば、今更論じる事では無ないが、「奈良時代の生活や言葉や習慣や家の伝統慣習仕来り掟」が、そもそも今と全く違う事は、「当然の事」であって、「寿命」も然る事乍ら「医療」も何もかも違う事は誰でも判る。
況してや現在と違っていなければそもそも「歴史」ではない。
だから「その時代ごとの歴史観」が成り立つのだし、時代毎や氏族毎の上記の様な独特の歴史観を紐解かなければならないのだ。
依って「奈良時代」なら「奈良時代に生きた先祖の生き様」は、「伝統」は勿論の事として「習慣」の「言葉や字一つ」とっても違うのだ。
そうすると、この「歴史観の違い」から勉強してこそ「歴史の紐」は正しく紐解けるのだ。
それを“現代感”で割り出してネット説として論じるとは甚だ理解が出来ない。
況してや「ネット説」にその論文を載せて正しいとするは異変としか言い様が無い。
そもそもその「奈良時代」からの「伝統慣習仕来り」を長く引き継いで来た「唯一の氏族青木氏族」が1700年以上に生遺っているのだ。
故に、同じ「文化伝統慣習仕来り掟」が同じである筈がないのだ。
そもそも前段で論じた「鎌倉期の水鏡や吾妻鏡の歴史書」や上記の「懐風藻の説の証拠」を観ている限りは、何れ「歴史書関係書」である以上は、同じ感覚で論じる事では「道理・論理の矛盾」が興ったものであるのだ。
「青木氏」を知り得なくても「伊勢奈良紀州と云う地域・古代国家のあった地域」が幸いにも遺っていれば、そこから足を棒にして使って調べれば判って来る筈の事で、それがそもそも「歴史研究の紐解き」である。
何はともあれ先ずは、「歴史観の紐解き」は「文化伝統慣習仕来り掟」から始めるべきである。
筆者は「青木氏」に限定して始めて遥か50年以上にも上っているが、それが「サイトの基本データー」と成り得ていて、そこから「データーには表せない事」を「伝統シリーズ」として何とか論じて伝える為に“「時系列論」”とは別に「経緯から割り出す“状況諭」”でもこれを論じている。居
そこから上記に論じた“「全て繋がる一連の経緯の事件論」”は、これが織りなす「複雑な状況の歴史観」が「現在感覚」では全く通じないと思っていて、それ故にそれの「時代の差の検証を行う事」が又面白いのだ。

未だ「本論の続き」があるので次の段で論じる。

「青木氏の伝統 80」−「青木氏の歴史観−54」に続く。



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