青木氏氏 研究室
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  [No.274] Re:青木氏と守護神(神明社)−7
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/22(Sun) 08:05:45

青木氏と守護神(神明社)−7

  「皇族賜姓族の生活圏範囲」
勿論、皇族賜姓青木氏5家5流一族はその皇族と云う立場(3つの発祥源)からこの「未勘氏」を発祥させて勢力拡大を図ろうとする行動が制約されていたのです。且つ、従って行動そのものが限定した伊勢と云う領域の範囲に留め、限定した「氏と民」を指定し、同族の賜姓源氏の様な権威を背景とした広域的な勢力拡大(荘園制の集団化)を図らなかったのです。
勢力圏域は5家5流とその一族が定住する「生活圏の範囲」に留めたのです。
藤原秀郷流青木氏も24地方域に限定し「未勘氏拡大」や「荘園制の集団化」の策は「母方族 有品の位:第4位」としても藤原秀郷一族一門の中に於いてもその行動の範囲を厳格に守ったのです。
そもそも荘園に属する未勘氏の多くは、旧来の「姓名」を持ちながらも「名義料」とその「労役の責任」を果たした上でその代償として名義主の「氏名」を名乗ったのです。そして、その主な義務と労役は「兵の提供」と「兵糧の提供」と戦いとなると「合力」する事でした。

「4つの青木氏」は「国」よりも「郡と村」と云う小域に限定した事が、その「生活圏」で結束する「絆」を強めたのです。小さいながらもそれに見合った戦略を採用して結束して戦った事によります。
それと、この「生活」と云う「絆」を強めるために採った経済策「2足の草鞋策」(物造り)を古くから採っていた事が共に生き延びられた原因なのです。
更に云えば、「賜姓族青木氏」にとっては母方で繋がる「血縁性の結合」である「秀郷流青木氏」の存在が色濃くあったでしょう。
その「秀郷流青木氏」には藤原氏の「第2の宗家」と云う確固たる立場があり、彼等の強大な護衛軍を擁していた事が賜姓青木氏に採っては大きな願っても無い「抑止力」となり「安全」を保障されていたからであります。
そして、「賜姓青木氏」が「不入不倫の権」で護られていたとは云えど、「賜姓青木氏」が存在する地理的範囲の周囲には必ず「藤原秀郷流青木氏」が定住赴任していると云う環境も見逃すことが出来ないのです。
恐らくは国策の「融合氏」「3つの発祥源」の元を潰す事は出来ないとした「天皇家の採った戦略」であったと観られます。
平安期に「賜姓青木氏」に与えられた「不入不倫の権」とは別に、安全保障の意味からも「秀郷流青木氏の抑止力」を明らかに大策として採ったものと考えられます。
「嵯峨期の詔勅」に依って皇族関係者は青木氏を名乗るとして民に「使用の禁令」を発したのですが、藤原氏北家の秀郷第3子の千国にはこれを特別に許し、「母方族」として「特別に賜姓」して「青木氏」を名乗ることを許し、更にはその”「官職」と「有品の位」は皇族賜姓青木氏と同じとする”と定めました。
これは明らかに「単純な許可」では無く、「単純」であれば何も官職と有品を賜姓族と同じとする必要性はありませんし、賜姓する必要も無い筈です。青木氏を名乗る事のみ許す事でも充分です。
「賜姓青木氏」と同じ様に「家柄と身分と役職と官職」を藤原氏北家自身が求めていないのに全く同じにした事は「藤原秀郷一門の勢力」を「賜姓青木氏」に「抑止力」として着けて護る目的であったのは明らかです。
つまり、同じ青木氏を名乗らせ同じ仕事をさせる事によって”同族だ”と思わせてその威力を見せ付けて融合氏の発祥源賜姓族に手を出させない事を目論んだのです。
又、天皇家にとっても「親衛隊の威力」を示威する狙いがあります。
この時期は960年頃ですので「荘園の行き過ぎ」に依って起こっていた諸問題が佳境に入った時期でもあります。
後60年至もすれば阿多倍族の九州自治の問題、外国からの難民流入、賎民問題、陸奥安部氏等の動向、各地での動乱、天皇の身辺もそろそろ危なくなってきた時期でもあり、「融合氏」の5家5流の賜姓族の安全保護を図るべき環境でもあったのです。
兎に角にも、朝廷内外に問題を多く抱えながら摂関政治の最盛期でもあり、その中でも「平将門の乱」を鎮めた唯一信頼できる当時の大勢力と成った藤原氏北家筋で周囲(賜姓族)を固める必要もあったのです。 
「不入不倫の権」
しかし、これも充分に「抑止力」として発揮したのは平安期の事であり、「武家政治」「武家社会」を中心とする鎌倉期から室町期にかけては周囲が皆武家であり力を持った為にそうも行かなくなりました。
本来であれば、最も「3つの発祥源」の「融合氏」としての充分な「氏拡大」を図るには、「皇族」と云う立場から考えてその「行動範囲」は極めて制約されていた筈で難しく、むしろ同じ「武家の社会」の中でこの立場(3つの発祥源」)に頼っていた場合は滅びるのは速かったと考えられます。
それだけに「融合氏」やそれに連なる「姓氏」の急激な台頭が起こったと云う事でもあり、「融合氏」が増えたら増えたでその環境は別の意味で難しく成って行ったのです。
そうすれば当然に、それまでに無かった「武家の目」が起こり、鎌倉−室町期には賜姓青木氏一門に向けられる目は、藤原秀郷流青木氏の「後ろ盾」がある事そのものが、他の豪族たちには「畏敬の念」と云うか「専横の目」と云うか”ちらついていた”ものであったと観られのです。
しかし、「武」を以って成り立つ「武家」である以上、例え青木氏に「不入不倫の権」があるとしても潰そうとすれば潰せたと考えられます。それはあくまでも「公家社会の掟」としては成り立つ「物言い」であり、何の「武」による罰則の様な拘束力も有りません。武家にとっては"片腹痛い"と成ります。
但し、その場合、ある意味で「朝敵の汚名」は覚悟する必要がありますが、それは汚名の範囲であり周囲の武家が乱世にてこの範囲を超えていればその汚名も関係は無く成ります。
現に室町期の「下克上」と「戦国時代」には殆どの武家は信長の様に「空虚な権威」として何の躊躇もしなかったのです。
信長だけではなく殆どの豪族は「不入不倫の権」は余り念頭に無かった筈で、言われれば”あっそうか”程度のものであったろうと考えられます。
まして、鎌倉期以降は社会は前記した様に「融合氏」の数では無く「姓氏」の数が主体であり、歴史と伝統のある「融合氏」ではいざ知らず、賜姓族の「不入不倫の権」は左程の「拘束力」は無かったと考えられます。
まして室町期の「下克上」の乱世の中では、5家5流の賜姓族に与えられた永代の「不入不倫の権」を気にしていては「下克上」は論理的に起こらない筈で、「下克上」とは「上の権威」の理屈が通らなくなった社会なのですから、「絵に描いた餅」程度のものとしてしか扱われなかったと考えられます。
其れだけに平安期は兎も角も「朝廷又はむしろ天皇の力」には、鎌倉以降は青木氏を支える力が無く衰退して行ったのですが、この様な社会の中では「3つの発祥源」の青木氏に執って生き残るには秀郷流青木氏一門の「抑止力による武力」と、「自力・自立の経済力」以外には無く、その意味で「2足の草鞋策」の判断が大きく効を奏したと云えます。

「秀郷流青木氏一門の抑止力による武力」+「2足の草鞋策の自力・自力の経済力」+「影の力のシンジケート」
これら「3つの策」は互いに連携した関係を保持し「相乗効果」を生み出していたのです。

「平家の様な生き方」
平清盛も「宗貿易」を試みたのも阿多倍一族一門の「民族氏」の宗家「たいら族存続」を「栄枯盛衰」のたとえの通り強く意識していたのではないかと考えられるのです。
恐らくは「伊勢の隣人」であり「古代伊賀和紙」の殖産で伊勢青木氏と繋がっていた事を考えると、伊勢青木氏が特に「2つの陰の力」と表に見える「自力・自立」で生き延びようとする姿勢を見て「武家・武門」でありながら「武」では無くむしろ「商家」に行き先を強く求めていたのではないだろうか。
その証拠に平家滅亡後、実は各地に飛散し土地を無くした平家族は各地の阿多倍一族一門を頼る事なくその飛散地で「殖産」と「家具・陶磁器等の生産」に大きく関って生き延びているのです。それは家紋から判るのです。
”平家がどの様な生き方をしたのか”を検証する事で融合氏の「4つの青木氏」と同じく生き延びられた原因の本質が観えて来ると思えるのです。
後漢の阿多倍王の6(7)代目末裔平清盛が確実に子孫の為に採った生き残り策「殖産と商い」が滅亡後に生かされていたのかを「織田氏」を通じて検証してみたいと考えます。
同じ激動の時代を生きた青木氏と共通する何かが其処にある筈です。
それがこの時代に必要とした「共通する生き残れた条件」であって真実が見えて来る筈です。

「共通する生き残れた条件」
ここからは少し「たいら族」の生き様を論じたいと考えます。
そもそも「たいら族」は滅亡後、資料と家紋考証から紀州、四国、北九州、岐阜愛知等の山間部に逃げ延び、その地にはこの「殖産と家具・陶磁器等」の名産地が多く遺されていて、その職人家のルーツを家紋と資料で調べると「平家落人」が大変多いのです。
逆に言えば大勢での落人先はこの4地域に成っていて「殖産と家具・陶磁器等」で生き延び逃げ延び通したのです。
例えば、そこでその一つの氏に注目をしたいのです。
この「織田氏」は筆者は「美濃平氏」として観ていますが、「平氏遺族だ」と名乗っている「織田氏」としてその主張している「家紋」(五つ木瓜紋 揚羽蝶紋)を正しいとして検証すると、次ぎの様に成るだろうと考えます。
しかし、「織田氏」には諸説紛々であるので、ここでは先ず「織田氏系譜」の以前のルーツとして「たいら族」として家紋考証で検証します。
その「たいら族の生き様」に青木氏に共通する何かがあると観ているのです。更に、驚くべきか何とこの織田氏が青木氏と深い関わりを持っていたのです。
その意味でもこの織田氏を徹底的に検証してみたいと考えます。

誤解のないようにする為に先に言っておく必要があるのは、諸説をまとめると彼等織田氏の主張は「搾取偏纂」の典型であると云う事です。ところが家紋考証と時代考証ではただ1つの矛盾の無い筋が観えて来るのです。
織田氏の主張
それは次ぎの3つの氏に成ります。
1 先ず最初に尾張で土豪守護代として勢力を高めた時期に名乗った氏は「藤原氏」
2 次ぎに頂点に躍り出た時期に訂正したのは「たいら族」(桓武平氏)
3 現在の各種の調査資料から判明したのは「斯波氏の家臣」

1と2は完全な搾取偏算の典型的な「搾取偏纂の方式」(「貼付方式」「継足方式」「遺子方式」「某方式」「混迷方式」など)を駆使して系譜の中に使用して作り上げているのです。
下記にも証明しますがこの説を少し歴史を勉強したものであれば信じる者は居ないでしょう。

3が正しいところですが、家柄の出世状況をよく見せる為に、後に室町期の系譜には「遺子方式」と「某方式」で搾取偏纂して付け足していて系譜は信用できないのですが、「斯波氏の家臣」であったことだけは最近発見された史実で「下克上」にて伸し上った姓氏である事が判明確定しました。

ところが、これら123の系譜に書かれていない「平安期と鎌倉期末期のルーツ」はすべて不明と成っているのです。
家紋考証から織田氏の行動の節目の年代が観えて来るのです。

例えば”斯波氏の家臣で守護代に成った(1339)”と云う事が正式に解明されたところから色々なことが判明して来ます。この時期は「1339年」と先ず特定出来るのですが、これ等の節目の時期を確定して時代を遡れば平安期と鎌倉末期の事が判明する筈です。
恐らくは平家滅亡の1185年−最終決戦の1190年以降、室町期初期の系譜にあるところまでは少なくとも職人であったと考えられます。(下記)
家紋の考証から割り出しますと共通するキーワードは下記の様に成ります。
織田氏は「五つ木瓜紋」である事は間違いない唯一のところです。

それは現在から考証してこの「五つ木瓜文様」の氏のルーツの傾向が「職人あるいは殖産農業」の従事者の傾向を持っています。又、この木瓜紋の95文様の中の一つの氏には「農兵」であった事も資料と家紋から判っていますので、「五つ木瓜文様」には先ず農兵でもあった事が判ります。
という事はこの家紋の「五つ木瓜文様」は元は武士の可能性が大であった事が云えます。
平安期後、直ぐに足利氏系斯波氏家臣であれば寺の過去帳等のルーツに関するに類するものが存在する筈ですが現在見付かっていないので、直ぐに家臣ではなかった事は確実です。
足利氏の斯波氏が未だ然程大きい豪族では無かったのですから、斯波氏が鎌倉時代を通して次第に力を着けて居た事は事実ですが、北条氏の圧力から未だ自由に家臣を求められる状況では有りませんでした。
この事から家臣になった時期の算定が斯波氏の経歴を調べると出て来ます。
それは(「1280-1300年の間」)下記に考証考証します。
この様な家紋考証・考察を進めて行きますと、元のルーツのところの色々な出自等を探り出せます。
そこで、ただ一つ信頼に値する可能性のある「家紋の考証」から「たいら族」として検証を進めますと、そうすると上記した123の主張と基本が一致する経緯が観えて来ます。

  「家紋からの考証」
先ず、美濃-信濃域の山間部に落延びたグループであるとして(下記証明)、このグループで云えばこの生業にて生き延びたのは「たいら族支流」(下記 美濃平氏 通盛系)ですが、その家紋の「五つ木瓜(織田木瓜)紋」の五瓜がこれを物語るのです。
つまり、判っている史実の越前国織田郷の土豪(織田姓氏家 下記証明)をどの様に観るかに依って歴史評価は異なってくるのですが、上記の1、2は次ぎの「家紋考証」からそれなりの理屈は成り立つのです。
ただそれには根拠とするものには「五つ木瓜」の文様しか無いと云う事に成ります。
結局は問題は室町期のこの文様(「家紋」)の証拠力に関わりますが、かなりの事が判ります。

その主張している家紋は変えようと思えば変えられますが、変えるには全ての縁者や親族の家紋を変えると云う面倒な事が起こりますし、織田姓氏家一党の不明期の鎌倉期の段階では「五つ木瓜紋」の文様(家紋)としては無かったか有ったとしても「口伝状況」程度の筈です。
つまり、滅亡し衰退し隠遁生活の一族一党が生活の糧として「職人あるいは殖産農業」(家紋考証)に携わっている状況の中では、家紋とすべき文様的なものは、最早、「伝統的遺産」に過ぎず、丁度、仕官まで150年の経過期間(下記)を経ていますので、織田本家が「口伝」として遺してきたものに過ぎなくなっている筈です。
そこで、力を取り戻し土豪と成り表に出られる時期は、鎌倉幕府の勢力が低下し、平家一門(下記証明)としても最早、「討伐対象」とは成らなくなった時期は、室町初期の「下克上」のチャンス到来期(1280-1300)と成ります。この時初めて「家紋」と云う「伝統遺産」を表に出せる事に成ります。(下記証明)
では、その表に出られる経緯ですが、平家一門の様な場合は、通常は「職人あるいは殖産農業」に関わっていた場合は次ぎのように成ります。
先ず、「下克上」や戦国時代にはその土地の守護、この場合は尾張の斯波氏(室町期の11国の守護大名・足利氏系 各地に守護代を置く その一つが尾張)と成りますが、家臣は出陣と成りますと、一騎に対して普通は50人程度の兵を宛がわれその騎将は近隣の村から兵農の村民を徴収して来ます。この時、一人または一族一統の単位で「前金何両・・後金何両・・首何両・・手弁当・・」等を契約して揃えます。この事を専門にする斡旋業もいました。
その時、参戦して著しい戦功を挙げた一族一党の農兵には騎馬将や領主守護の信頼を得ます。この事繰り返す事で仕官という道が開かれて来ます。一族一党統等で参加した農兵はその首領が仕官しその首領の下に兵として一族の若者が孫仕官するという形が出来ます。
「美濃平氏」(下記)とも成れば元は武士で戦い慣れたものですから領主側からすれば願ってもない領民であり、守護領主が大きくなれば当然にこの様な優れた一族一党統は召抱えるが常道です。
これが織田郷の「隠遁美濃平氏」(下記証明)であったのであり、通常の農兵もこの一族の配下に仕官して兵の形態が生まれて行くのですが、一族を揃えての実力がありますから直ぐに伸し上がります。
これが尾張守護斯波氏の守護代(織田氏:ある史実の経緯がある)と成ったのがこの織田郷に辿りつきそこで土豪の織田姓氏を名乗った事を意味します。(下記)
その織田氏は次ぎの経緯を持っています。

 「織田氏の経歴の考証」
この「五つ木瓜紋」を家紋としている氏から観ると次ぎのような事が判ります。
先ず、織田氏が守護代になった時期は1339年です。
この事から鎌倉幕府が滅亡する直前の1290−1300年頃に斯波氏に仕官したと見られます。
この時1300年前半に、丁度、越前朝倉氏や今川氏や浅井氏などが斯波氏の守護代に成っています。織田氏はこの間仕官40年で他の守護代と違い度々斯波氏に従って出陣した史実の記録を持っています。この事から斯波氏は織田氏を信頼し可愛がっています。
1339年頃に尾張は「応永の乱」で幸運にも斯波氏は一度に2国(尾張と駿府)が手に入り斯波氏の領地と成り、この時に可愛がっていた織田氏は一挙に守護代に据えられます。
ところが斯波氏の中で「応仁の乱」を境に1467年頃から下克上が起こります。
駿府で今川氏、越前で朝倉氏が謀反します。しかし織田氏は謀反に加担をしません。
斯波氏の守護代の中では下克上を起こさず最も長く255年間も斯波氏を支えます。
しかしその織田氏は1554年を境に下克上を起こします。
斯波氏は領国11国を失い1561年滅亡します。
逆に斯波氏を背景にして織田信長の時に勢力拡大します。
経緯
1185−90年に最終的に三浦半島で平氏滅亡し、離散隠遁後120(150)年程度で斯波氏に仕官し織田氏名乗る。
織田氏の姓氏は越前織田郷より名乗ります。
朝倉氏が1300年頃に守護代になるが織田氏は未だ下級家臣です。
40年間の間に織田氏は記録から戦積を挙げるべく出陣回数が最も多く斯波氏に可愛がられる。
斯波氏は尾張等の2国領地となり急激に勢力拡大(11国になる)を図り家臣が追い付かない。
織田氏を1339年に尾張の守護代に大抜擢する。
鎌倉幕府滅亡し南北朝で国乱れる。1400年頃まで織田氏は斯波氏の中で出陣重なる記録あり。
室町幕府で一族の足利氏系の斯波氏は政治の中心として勢力拡大。 織田氏は力を付ける。
1467年前後から11国の守護代は次々と下克上で謀反 斯波氏は織田氏を使って奪回作戦失敗
斯波氏衰退し1550年頃から1561年まで織田氏は斯波氏を匿う。
織田氏250年以上斯波氏に最も長く仕えた家臣です。ところが戦国大名と成った元家臣と5年間密かに同盟。織田氏1554年斯波氏を名目上追放し尾張の戦国大名と成る。
1561年斯波氏の残所領は織田氏に流れ、斯波氏系の他の戦国大名を凌ぐ。
織田氏は同盟と斯波氏保護を前面に勢力を温存。1561年に2つの同盟を解消し旧斯波氏の家臣の戦国大名の朝倉氏や今川氏を全て潰します。

「120年程度の放浪生活」と「270年程度の家臣の歴史」を持ち、ほぼ「平家滅亡から400年の経緯」を有したことに成ります。

これらの予備知識を背景にして、家紋考証に話を戻して、この時、当然に、守護代とも成れば家紋を必要とされますので、「伝統遺産」として持っていた家紋を引き出して口伝・由来書を持出しある種の手を加えて類似する家紋を作り上げたのです。

この家紋の作り上げる経緯が次ぎの事から起こります。
「120年程度の放浪生活」の中で「家系不明の部分」に上記の1と2の経緯の宛がえが起こったのです。

そこで更に少し織田家に拘ってみます。意外にこの1と2の関りが出て来るのです。
そこで、織田氏の通説を述べて置きますと、次ぎの様に成ります。
"1300年前の1と2は全くの搾取偏纂 1300年の後は越前織田郷の土豪が斯波氏の尾張守護代に(1339)" の通説と成っているのです。
この事から割り出すと、斯波氏の家臣(1300)になるまでの経緯として観て見ると1185年の平氏滅亡離散から凡そ120年の間は不明に成っているのです。
この120年間は家紋考証から観て「殖産-職業人」で糧とし生きて、滅亡より100年位経った鎌倉幕府が衰退始めた頃から一族は農兵をしながら各地に仕官口を探しながら生き延びたと判断出来るのです。
この120年前の滅亡前は次ぎのルーツを持つ氏であったとしているのです。

「通説 滅亡前の織田氏系譜の主張」
1の藤原説は越前越後の藤原利仁−昌仁
2の平氏説は平重盛−資盛−親実
だと云っているのです。

1の藤原説
鎌倉期から室町期までは藤原氏は一時失職離散があったが本領安堵でその後勢力を「関東屋形」や「武蔵7党」等で勢力を持ち直しているのです。
まして、織田氏が云う120年間も一族一門が不明に成ると云う事は氏家制度の中で藤原秀郷一門は古来より融合氏であり藤原氏の独自の菩提寺や春日大社等の氏神で一族一門は詳細に管理されているので不明は全くおかしいし、足利氏(斯波氏)とは陸奥と信濃で秀郷一門は血縁関係にあり家臣になる事もおかしいのです。藤原氏系の足利氏に藤原氏が仕官は矛盾ですし、藤原氏北家であれば仕官の主家側にありますし、利仁流は秀郷流と並んで北家の2代勢力を室町末期まで維持したのです。
第一に利仁流にはこの様な人物は存在しないのです。
又、更に織田氏の時代考証がこの人物では120年位大きくずれています。
更に、越前(権守)に関わった人物は「利仁」の子供や末裔の中での長男の「大束」だけです。
利仁の9人の子供や孫・祖父等にはこの様な人物は存在しないので全くの搾取偏纂です。
要するに酷い主張の論外説です。
この程度の主張でもこの室町期はこれで通ったのです。周囲が皆立身出世の搾取偏纂の主張なのですから”赤信号皆で通れば怖くない”です。織田氏には限らないのですがこれで十分に済んだのです。
この時代の客観的立場から書かれたまともな資料には”後勘に問う”と最後に記述されています。
藤原氏北家筋としたのは「下記の経緯」から織田氏の当時の「考証力の不足」から間違いを起こしたと観られます。間違いではなく分からなかったが正しいと考えます。
そもそも木瓜紋は藤原北家筋の徳大寺氏の文様です。(下記)

2の平氏説は確かにこの人物は存在します。
しかし、親実はも資盛の子説と経盛の子説の2通り併記しているが先祖とするに自信がなく迷った形跡が観えます。これに関わる過去帳や菩提寺、氏歴の産土神か氏神または鎮守神の神社に存在するこのルーツに繋がる根拠は全く存在しないのです。
ただ、上記した「織田氏の経歴の考証と経緯」から藤原氏では全くない事と、この様な上記した「経歴と経緯」を持つ事は「平氏の末裔」以外にあり得ません。
そもそも急に斯波氏の守護代までに成れる実力は平安期に於いて組織的な実力の平家以外にはありません。
ただ藤原説としてあり得ない事が発覚し、口伝の経歴や経緯から平氏説が高いとしたがその特定の人物設定に考証力不足から搾取偏纂をしたのでしょう。
そこで、恐らくは「家紋考証」と「織田氏の経歴の考証と経緯」から”藤原氏では矛盾が大きい為にどうも平氏である”と観て訂正したと観られます。

「平親実」とは、「斎部親実」であり、斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされます。
この人物は貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。平姓は跡付けです。
この越前織田郷の「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)を捉えて、この「覚性」を平資盛のこの「平覚盛」と重ねて同一人物として「平親実」として搾取偏纂したものである事は後に判明しているのです。
故に、「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)は織田氏の祖である事に疑問があるのです。
「覚性」(かくせい)と「「覚盛」(かくもり)の音読みを使って同一人物と見せたのです。

実は、これには大きな史実が遺されているのです。
それは「美濃平氏」なのです。
この美濃には「美濃源氏」と、それに「美濃平氏」が居て元より混在地域でした。小競り合いがありながらもある程度安定した地域でバランスが取れていたのです。「たいら族」の本拠地の伊勢平氏と賜姓伊勢青木氏と同じ様に相反する立場にありながらも隣人付き合いをしてバランスを採っていた様に、美濃も歴史上有名な源平混在の安定地域でした。
そこに前記した常陸、上総、下総から追い出された国香・貞盛の末裔の「たいら族」(関東平氏)が1100年頃に美濃まで引き下がりここに定住したのです。
ところがこの事により「美濃平氏」(現地では「美濃平家」と呼称)とが混在していた美濃地域が勢力バランスが崩れ争いが起こり始めました。
以後、この「美濃源氏(土岐氏系)」と「美濃平氏」(通盛系)は常に勢力争いが絶えない有名な地域となりました。
そこで遂に「美濃平氏」と「美濃源氏」には、次の様な有名な争いの経緯が起こります。
「美濃源氏」は「尾張源氏」に加勢を頼み組んで「美濃平氏」を追い出しに掛かります。
有名な1180年10月「富士川の戦い」に於いて平氏は敗北して一度帰京します。
その直後の11月に「源頼朝、源信義追討の宣旨」が改めて出され、再度の源氏追討使派遣が検討され、その際、「平時忠」が「美濃源氏」を味方につける策で安定化の和睦策を進言しますがこれは容れられなかったのです。するとこれに11月に尾張・美濃の源氏が勢いついて更に蜂起したのです。
その後、「反平氏」の挙兵は畿内にも波及し、10月に「近江源氏」が挙兵します。
しかし、反撃に転じた平氏の軍事行動により先ず近江源氏の反乱勢力は制圧されます。
敗れた「近江源氏」の武将らは美濃へ逃亡して「美濃源氏」と合流します。
「美濃源氏」は「近江源氏」を迎え入れて平氏に対する抵抗を続けます。
1181年1月 平氏は美濃へ攻撃を開始します。
末裔の居る美濃に向けて「平通盛」が「蒲倉城」を落として「美濃源氏」「近江源氏」を制圧し「美濃平氏」を救います。(後にこの城が「美濃平氏」(織田氏)とって重要な拠点となる)
この様な経緯を経て通盛の流れを汲む「美濃平氏」の末裔が再び美濃を制圧したのです。
この有名な激しい戦いで両軍共に多数の戦死者を出しました。
一時は「美濃源氏」の中心人物である源行家を制圧し支流源光長(土岐光長)も討ちとられ梟首されたとの有名な歴史夜話の噂が流布。「美濃奪回・攻略」に成功した平氏は次に尾張制圧を続けます。
この直後に平清盛の死去 出陣は停止延期されますが、しかし、1181年3月に有名な「墨俣川の戦い」を迎えるのです。
この時に「美濃平氏」を救った「平通盛」の守護兵とその末裔はその後も美濃を守り続けますが、遂に1190年この「美濃平氏」は離散する経緯を辿ります。

この時期前、越前は始めは「平重盛」が国主でありましたがこれに代わって「平通盛」は国司で務めていました。しかし重盛死後1176年に通盛が越前守に成ります。
(ここで織田氏が主張する説の間違いを起こしている)
その後、朝廷内の政争ある事件が起こり1179年に平通盛は一時失職しますが、清盛がこれを解決して数ヶ月して戻ります。
その直後に上記1180年の反乱が起こり通盛は越前より美濃源氏制圧に動きます。
1181年の3月に制圧し、以後平家滅亡までの1187年まで越前と制圧した美濃平氏だけに成った美濃を合わせて平通盛が統治します。
この間、下記に示す1150−60年頃から美濃に教盛-通盛の末裔を置き、1176年から越前国司・守護を務めながら1187年までの約40〜30年間程度は美濃に関わっているこ事に成ります。

上記の平通盛の経緯から観ても2の説の「重盛-資盛-親実の説」は確かに越前国主でありましたが京に定住していて、越前との関係は1176年では既に終わっていて、その前から平通盛が国司の実質の管理下にあったので間違っているのです。
越前-美濃の関係からは平通盛が実質の関係者なのです。
まして、もし重盛ルーツであるとすると織田氏は越前の土地の者と云う事に成り「越前平氏」なる一族がいた事になり新たな平氏説が生まれますし、平家滅亡後、鎌倉幕府の掃討も受けずに逃亡もせずに住み付きその土地に穏やかに居た事にも成ります。(越前は知行国で平氏領国ではない)
そして斯波氏にすんなりと仕官した事に成りますが、だとしたら「150年の過去の消失」は起こり得ませんし、織田氏の姓名も生まれない事に成ります。
とそう成ると当然に織田氏の神社、寺社も残っている事に成りますから「150年の過去」を消失する事はあり得ません。
そもそも各地の平氏掃討はそんな生易しいものではありませんでした。殆ど追手を逃れて都から遠く離れた人里離れた山間部を切り開き密かに隠れて住んでいたので生き残れたのです。(「隠れ里」と言う言葉がある位なのです)
紀州の資料に残る平家の村も四国の平家の村と云われる所等(平家の里)はこの様なところです。
”越前に居て越前に”などあり得ないのです。
現実に越前では平通盛は越前国人の全てから長い間反抗されていて”命令を聞かない”と清盛に愚痴手紙を送っている位にこの地の国府の平家役人の政治は上手く行っていなかったのです。
もし、2の説であるのなら平家の部族が居て武力で押さえ込んでいた筈です。
だから後白河法王は越前守を平家一門から外す事件が起きたくらいなのです。数ヶ月後に有名な政変事件を起こして平清盛が圧力を掛けて元に戻させたのです。
そもそも越前は平氏の「知行国」であって末裔子孫が定住する「領国」ではないのです。
知行の為に一定の軍を引き連れての赴任国でそこに赴任したからと云って、”子孫だ”と云うには矛盾であり、普通は知行国は政治的な知行能力があれば一人で幾つもの国を持つ事があり、重盛や教盛などは清盛の傍に居て補佐役で政権を維持する必要から代わりに「国司」を送るのが普通でなのです。
国司とは本来その役目なのです。越前も長い間「知行地行政」を平通盛が代行していたのです。
「たいら族」の平家は中部より以北地域は一時の関東を除き知行地でした。
本論6までのところに記述した様に美濃より以西地域が平氏を含む「たいら族」の領国であったのです。美濃がその最前線です。
「たいら族」の関東に押領使等で赴任しながらも一部には「関東平氏」の地域を作り出していた事も有りますが、その地域の「常陸-上総-下総」には「平将門の乱」はこの地域を領国として作り上げた上で近隣を制覇して更に進めて「独立国」を造ろうと考えた事件なのです。ここには元は一部は藤原秀郷の領国もあったのです。
この様に知行国と領国とでは社会慣習やルーツ的な事も含めて根本的に色々な事が異なる判断が起こるのです。この事を織田氏は系譜を作る時に既に400年前の祖先のルーツを伝え切れていなくなっていた事を示しています。微妙なところですが「たいら族」は承知していたと観られますが、「越前−美濃」と「清盛−重盛」と「教盛−通盛」の違いを間違えてしまったのです。
口伝で「清盛」(きよもり)と「教盛」(きよもり)の違いを間違えたために矛盾が生まれてしまったのでは無いかと観ています。

先ずはこのおだしが主張している2つの説はどこから考察しても矛盾があり、鎌倉幕府の地頭が居た越前から足利氏の斯波氏に越前は変わったのにその間何をしていたというのでしょうか。
重盛ルーツ説は搾取偏纂の疑問矛盾だらけですから通説でもどの様な根拠か不明ですが否定されているのです。
(参考 清盛−重盛 教盛−通盛 教盛は清盛の弟)
しかし、本論の「平通盛」の「美濃平氏」説では無理が生まれません。

「美濃検証」
更に詳しく家紋考証から「美濃検証」を進めます。
本来「たいら族」は「阿多倍−国香−貞盛」から始まり「伊勢平氏」(維衡が伊勢半国司に任じられる)と呼ばれる頃から本拠地の伊賀地方に居て、その勢力は北部に向かいその隣には後に「美濃平氏」の通盛支流末裔が定住し、1100年頃には「関東平氏」は常陸、上総、下総から美濃に引き上げて来ます。「美濃平氏」は「美濃源氏」本流と「土岐源氏」を凌ぐ勢力拡大を図ります。

ここで「美濃平氏」と「美濃秀郷流青木氏」との深い付き合いが浮き彫りに成るのです。
この時期に「美濃平氏」と「藤原秀郷北家一門」との血縁関係が盛んに行われます。
(北家秀郷一門の主要5氏の内3氏の13家13流が発祥します。)
最終、「美濃源氏:行家」の本流は滅亡し「土岐源氏」も圧迫され衰退し、宗家源の頼政の「以仁王の乱」を切っ掛けに最初に攻め落とされた「近江源氏」と合力して最後の決戦を挑むのですが、敗退し遂に遺された3源氏も「近江源氏」と「美濃源氏」と「尾張源氏」は滅亡するのです。
この「美濃平氏」は凡そ美濃には170年間位定住していて、この内1160年の後半50−30年が「平氏の拡大期」でもあり「美濃の拡大期」でもあったのです。
この期間が下記に示す「50-30年」の期間で、この間に藤原氏北家筋とも家紋考証でも見られるように盛んに血縁をしているのです。

「家紋が生まれ使われた時期は何時」
そこで、先ず家紋考証するに際して参考として、そもそもこの文様は御簾の周囲に施した刺繍の布巾「帽額」(もこう)に付けられた文様が独立したもので、木瓜や胡瓜をせん断した模様の切り口とされていますがこれは間違いで、そもそも歴史は中国で「果紋」と呼ばれ、唐の時代に官服として袖口に刺繍してその職位をあらわす文様でした。
これが奈良時代に使用された衣服や車紋や家財道具などに見られる物で、特に保元・平治の頃に多く利用されたのものなのです。資料からこの文様が最初に使われた時期は1156年に観られ「公家徳大寺氏」(藤原氏北家)の車紋に使われたとされています。
とすると、家紋として使われた時期は徳大寺氏の1180年−85年代であります。
この時期は綜紋「揚羽蝶紋」の平家一族が「美濃平氏」(織田氏)の支流まで家紋が定まっていたかは検証する必要があります。
これは象徴紋から家紋として発生した経緯と年代と氏数から明らかに成る筈です。(下記)
そうなると、この家紋が生まれた時期は何時になるのか””この文様を使った時期は何時になるのか”という疑問が湧きます。
当然に「美濃平氏」の末裔が本格的に使った時期は「平家滅亡」後の各地に姓氏が多く発祥した時期と成ります。(平家滅亡前には織田木瓜紋は使用されておらず「五つ木瓜紋」は使用していた事が証明出来ます。)
「織田木瓜紋」としてのその時期は室町期の「下克上」の頃が適切で1300年頃前後からと成ります。

次ぎに資料から越前朝倉氏が1335年頃後半にこの「菱木瓜家紋(3文様)」を正式に使用した記録がありますのでこれから考えると、少なくとも上記の1300年が妥当な時期と成ります。
この間、このグループの「美濃平氏」、つまり、「美濃守備隊の平氏」と「美濃に居た通盛系の平氏(後の織田氏)」等は、「越前−美濃−尾張−伊勢東」のライン域の山岳部(家紋分布)に先ず逃げ延びて、後世から観てこの家紋に関る何らかの職業(殖産と陶器家具等)に関り一致結束して隠れて生き延びた。
ほとぼりの冷めた頃、再び元の武士の力を盛り返して来て農兵をしながら仕官口を探して各地を農兵として転戦して行くうちに、一部の「美濃平氏」は織田(斯波氏)に仕官口が見付かり、その後土地の土豪として定着し農兵から武士に戻ったと観られます。
この時が室町期初期(南北朝期前後)で、仕官口が当時の足利氏であって勢力を拡大していた斯波氏に見出され「美濃平氏」の一族は家臣と成ります。
これは斯波氏の経歴と一致します。
ところで室町期初期から斯波氏は各地に勢力を広めましたが、足利氏系斯波氏の領国間運営は「守護代方式」を11国に採用したのです。
拠って足利氏の急激に増える領国の家臣が大量に必要に成ります。
(斯波氏11国 越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、佐渡)
それも陸奥から始まり九州までに及んできますので1農兵の単位では間に合いません。
(斯波氏は陸奥斯波の地名から名乗った)
そうなると、「即戦力」として平家滅亡の各地に飛散隠遁している平氏に目を付けることに成ります。
この事が「斯波氏の思惑」と「美濃平氏の思惑」が一致していたのです。
「美濃平氏側」からすれば、”斯波氏が兵をどこそこで求めている”と云う噂を聞きつけます。そうすると農兵をしていた美濃の一族は挙って集まります。丁度、その土地が斯波氏の越前で求めていてそこに駆けつけて一族が農兵と成って大活躍をし、その元武士の実力の「即戦力」から「斯波氏の信頼」を一挙に得たということに成ります。
現実に斯波氏の記録から、斯波氏は戦力の中でも「美濃平氏」のこの一団に対して目を付けて便利に各地に連れ行った記録が残っています。つまり、「即戦力」に成ったからです。
その為に守護代になるのが遅かったのです。普通ならそれだけに「即戦力」の実力があったのなら朝倉氏の様にもっと早く1310−20年頃には守護代に成っていた筈です。
しかし、斯波氏にとっては「信頼でき即戦力」となれば勢力拡大著しい時期の斯波氏にとっては喉から手が出る程に必要としていて、守護代として固定させる訳には行かなかったのでしょう。
しかし、斯波氏はその代わり40年後に越前などに比べて尾張の温暖で主要な穀倉地の守護にします。

当時、この様な農兵を集める仕事をする専門の斡旋業が横行していて、「斯波氏」や「美濃平氏」双方からこの斡旋業に繋ぎを求めていた可能性があります。
筆者は考えるには、1300年頃に越前で朝倉氏等が斯波氏の守護代に成っていますが、1250年頃に「美濃平氏」の別働隊(美濃守備隊か通盛末裔隊−3集団の第2集団)が鎌倉幕府が傾き始めた時期の早期に動いて先に仕官口を得たのではないかと推測しているのです。
それは、諸説ある朝倉氏等の家紋がこの木瓜紋類(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜 :四つ木瓜紋は疑問)であるからなのです。同じ文様である事は見逃すわけにはいかない要素です。
そこで織田郷の「美濃平氏」の土豪一族は家紋として関った職業と口伝から「徳大寺木瓜紋」(四つ木瓜文様)から「何らかの経緯−血縁」を経て、案じて「織田木瓜紋」(五つ木瓜文様)に成り、それを使用したと考えられますがその検証が必要ですし、又”案じたのか始めからなのか”も家紋考証で見てみますとこの2つの答えが出て来ます。

「何故木瓜紋にの経緯と理由」
ここで先ず、先に問題は”何故木瓜紋にしたか”の経緯と理由です。
この紋には実はそれなりの確実な経緯と理由があるのです。

その前に本論とは外れますが、参考として次ぎの事を知って置くと更に深い興味が湧いてきます。
「美濃平氏」(織田氏)と因縁浅からず越前朝倉氏も浅井氏も織田氏と同じ木瓜文様類を使用している事です。その「ルーツと経緯」が実に酷似している事なのです。
同じ斯波氏の越前から始まった守護代であった両氏には因縁何かあるのかも知れません。
この朝倉氏は諸説紛々で現在のところ定まっていません。
殆どは上記した様に織田氏と同じで搾取偏纂で織田氏より酷い状態ですが、その諸説の共通点を纏めますと次ぎの様に成ります。
「朝倉氏のルーツと経緯」
大化期頃の帰化人・九州出自・神官は共通の通説で、阿多倍が引き連れてきた北朝鮮系後漢の職能集団の「祀部の末裔」と成り、平安期は九州−伊勢伊賀−美濃域の神官であった。 後に「たいら族」の支配下にあった経緯を持つ事。平安末期は美濃に居た事。 鎌倉期に武士に転身した事。 前身は日下部氏ら3氏(伴氏、紀氏 飛鳥期からの5大氏 3氏とも後付の木瓜紋類 伴氏は九州の弁済使)の枝葉説である事。
この朝倉氏の事を背景に考察すると、少なくとも織田氏は阿多倍一族一門の「たいら族」かその配下の技能集団の出自である事が頷けます。
但し、家紋を「五つ木瓜紋」として考証すると「たいら族」の末裔と成りますが疑問が多いのです。
しかし、考証の前提とする物は家紋しかないのです。
朝倉氏は天皇末裔説と阿多倍一族一門の技能集団の祭祀を司る「祀部」の末裔説の2つに分かれます。主張する家紋3種(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜)から観るとこの家紋は室町期の家紋類ですので織田氏の「五つ木瓜紋」類とは時期が異なります。
朝倉氏はこの矛盾を隠す為に唐突に「四つ木瓜紋」(徳大寺氏家紋)を持ち出しているのですが、阿多倍の技能集団の祀部である事は共通の通説、即ち学説ですから直の「四つ木瓜紋」は室町期中期までは有り得ない家紋と成りますのて搾取偏纂は明らかです。
結局、木瓜紋から観ると、「藤原氏北家の徳大寺氏の末裔」か「藤原秀郷流青木氏」との血縁しかありえませんので、ルーツとしての家紋を観ると、斯波氏の家臣に成った1250年代の朝倉氏の家紋の時代考証が不明不祥なのです。
この考証から見ると家柄は織田氏の方が上である事に成りますが、ドラマや通説などでは数段に朝倉氏の方が上と成っていますが、これは殆ど信用できない天皇説を独自で主張しているからで間違いない祭祀部から観れば(共通説から観れば)織田氏側の方が主君側に成ります。
織田氏と朝倉氏の戦いでは朝倉氏は虚勢を張って肩を怒らし家柄をよく見せての織田氏への態度は、信長がこの事を知っていれば”片腹痛い”と成ります。信長は同格程度に見ていたのでは無いかと観ています。
後勘から云えば家紋考証では”織田氏の方が家柄は上、斯波氏家臣では40年の朝倉氏の先輩””出自経緯からは”織田氏は朝倉氏の主家”と成ります。

朝倉氏の方が配下と云う立場から鎌倉幕府との”しがらみ”が無い為に数段に仕官運動を早めにできた事に成り、50年遅い織田氏は「美濃平氏」の立場を補完する様に遅くなった事が頷けます。
家紋を考慮しないで観てみれば、両氏は斯波氏の経緯から観て”美濃平氏の配下”か”たいら族の配下”と成るでしょう。家紋考証が大きく左右しています。

兎も角も朝倉氏は青木氏とは無関係であるので研究を進めると面白いですが此処までとして、織田氏は青木氏と関係する氏族であり、同じ時代を同じ糧で生き様も似て、生きた氏族で助け合いの絆もあった氏としてこれからも研究を進めます。

話を戻します。
「五つ瓜桔梗紋」の位置付け
この文様が大きな決め手に成るのです。
そもそもこの「五つ木瓜紋」には「7つの酷似文様]があるのですが、それとは別に放置できない極めて又似ている「五つ木瓜紋」が一つあるのです。これが大きな決め手に成るのです。
それは「五つ瓜桔梗紋」です。
桔梗紋は上記した「美濃平氏]と1181年に戦って滅びた「美濃源氏」系支流の「土岐氏」の家紋です。
つまり、既に滅びる前に「美濃源氏」の土岐氏と、上記した北家秀郷一門の3氏の何れかと血縁して「五つ瓜に桔梗紋」が平安期に出来ていた事を示します。
当然に秀郷流青木氏か秀郷流長谷川氏かですが、美濃は青木氏の領域ですので美濃土岐氏とでは地理的に青木氏の方が極めて可能性が高いことに成ります。
そもそも長谷川氏には五つ木瓜紋の単独の家紋はありません。織田木瓜紋のみですのでこの場合は対象外と成ります。また美濃の秀郷流青木氏は特別賜姓族でありますので家柄と有品の位から観て吊り合いは青木氏と成ります。

「美濃の秀郷流青木氏と美濃源氏土岐氏」、「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の2つの関係が「美濃の秀郷流青木氏」を仲介して血縁して互いに血縁により上記した「勢力バランス」を維持していた事を示します。
上記した様にこの様な事が家紋考証から観ると美濃秀郷流青木氏を介して三角形の形でこの美濃の勢力バランスが取れていた原因なのです。

その「五つ瓜桔梗紋」に成る経緯に付いて追記しておきますと、つまり、「五つ木瓜紋」の青木氏が土岐氏と血縁して土岐氏側に「五つ木瓜紋」の青木氏から跡目養子を受けた後にも続けて男系継承の跡目が叶わず両者の家柄(土岐氏が上)から養子側の家紋とせずに「五つ木瓜紋」に唐花部分を桔梗紋にして変紋せずに「副紋方式」を採ったのです。
この方式は藤原氏北家一門の青木氏が家紋掟の仕来りとしてよく使用した方式です。「藤原方式」と呼び24地方で青木氏の本家がどうしても一門から探しても男系継承が困難と成った場合に用いた仕来り手段でした。
宗家本家筋はこの場合2つの方式のどちらかを採用します。一つは上記の方式で、もう一つは主紋をそのままにもう一つの副紋を2つ併用して使用する方式です。
枝葉には夫々本家筋が存在しますが後者を使用する習慣と見られ、前者は宗家筋の傾向を持っています。
(例えば、讃岐藤氏の讃岐の宗家青木氏は「下がり藤紋に雁金紋」、雁金紋は足利氏系花房氏の例 秀郷流賜姓青木氏と賜姓源氏の支流土岐氏は家柄は同格)下がり藤紋の真ん中に雁金紋などを入れて本家筋の変紋を防ぐ方式です。

話を戻して、ところがバランスが崩れたのは常陸等から「関東平氏」が美濃に引き上げてからバランスが崩れましたから、この家紋の血縁時期は1150−60年前後と成ります。
つまり、「五つ瓜に桔梗紋」が存在する限りは「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の血縁は、その家紋は少なくとも1150−60年前後域と成ります。
1181年で決戦が行われ土岐氏は完全に滅亡したのですから、その後の「五つ瓜に桔梗紋」は存在しない訳ですから、その後も5−7年は「美濃平氏」が美濃を支配していたことに成ります。
従って、この家紋は「美濃平氏」が滅亡前(30−40年)に既に家紋として使用していた事を示します。

従って、結論は「美濃平氏」の織田氏に成った時期には既に家紋は持っていた事に成ります。

それを正式に使ったのは1335年前後(1339前)で、「織田木瓜紋」として一部判らない様に修正したのは1339年頃と成ります。

次第に天下を治めるに当たって美濃の「藤原氏秀郷流青木氏」の支流紋そのままにするには「藤原秀郷流青木氏」の支流族としても、「美濃平氏」の支流一族としても、権威として問題があるとして独自性を強調する意味から「五つ木瓜紋」に見えない修正をかけて去勢を張ったと観られます。

その「7つの類似五つ木瓜紋」即ち、「五瓜に唐花線陵紋」類は、3つは織田氏の本家分家一族、残りは藤原秀郷流青木氏2つ、長谷川氏1つ、永嶋氏1つが使用しているのです。
そこで、類似紋の「3つの織田氏の紋」は美濃平氏の「織田氏の3集団」(下記)に一致し、使い分けしているのです。

「30年間の経緯」
以上は職業紋から考証したルーツですが、滅亡前にこの家紋の主の徳大寺氏、即ち、藤原氏北家筋との何らかの血縁関係(上記検証)から美濃平家支流の越前織田郷に1300年頃に定住した一族がこの家紋を落人時代からも密かに伝承していた可能性が極めて高いのです。

そこで、この家紋の主は徳大寺実能を始祖としていますから、徳大寺氏一族との血縁関係があるとして使用したとした場合、その期間上記の約30年の前の間に秀郷一門と同族血縁していたことに成ります。
これをどう観るかですが、ここでも「美濃平氏3分家」までの藤原氏北家筋との血縁が有り得ない事も有りません。
当時の北家筋とは3大豪族の一つですので秀郷一門青木氏であったとする可能性は上記の経緯からも明らかですが、しかし、支流の「美濃平氏」と直接に京の「徳大寺氏」とが血縁をする可能性がありません。それは地理性や時期性や家柄性や戦略性から平家本家を超えて血縁をする事は氏家制度の仕来りから観て皆無ですので、「美濃秀郷流青木氏」と「美濃平氏本家」との血縁は兎も角も「美濃平氏3分家」までの血縁はこの期間内に果たして有り得るのか疑問なのですが確認は難しいのです。
類似紋とすれば先ずは支流までは無いと考えます。本家の類似変紋にあわせて分家筋が更に変えたのだと考えます。
有るのと無いのとでは美濃平氏の考証関係には問題が無いのですが、この「織田氏3集団」のどの集団が斯波氏への仕官口を掴んだのかが変わってくる問題です。

「4つ木瓜」と「5つ木瓜」の仕来り
それには先ず「4つ木瓜」と「5つ木瓜」との違いがあります。
「五つ木瓜紋」は平安後期のもので平安期には少なかった文様でその文様の元は「四つ木瓜文様」に成っているからです。「四つ木瓜」と「五つ木瓜」は変紋による類似家紋で家紋掟によって分家が起こりますとその分家が本家の家紋を引き継ぐことが出来るかは本家の裁量に委ねられます。
その際分家を興す者が「本家の嫡子と妾子との身分関係の有無」、「嫡子と妾子との親密度の有無」に依って家紋継承の有無が決まります。
本家が容認しなければ類似紋か最悪は別紋という事に成ります。支流化の枝葉が広がるに連れてその可能性は広がります。
「四つ木瓜」より「五つ木瓜」に成る事は上記の2つの条件の何れかが適用された事を意味します。
「四つ木瓜紋」にも類似紋の変紋、「五つ木瓜紋」にも類似紋の変紋がある様にその関係度が判断出来ます。
別の氏が類似紋とする場合は氏家制度の中では争いが起こりますので同じ木瓜文様とする場合は争いが起こらない程度に大きく変紋をする事が仕来りとして要求されます。
歴史資料の中で”提訴したが最終戦いで決着と成った”とする史実もあるくらいでした。
この様に類似家紋に無なっている事は当然に身分家柄の関係が低くなった事を意味しますので、徳大寺氏から観れば直接血縁は有り得ない事に成ります。
これらの仕来りに依って既に「五つ木瓜紋」に成っている訳ですから、秀郷一門の中で起こった類似変紋の過程と成ります。そして、この「秀郷流青木氏の木瓜紋族」の支流と「美濃平氏」の支流とが養子血縁して家紋掟の男系跡目を理由に「美濃平氏」側にこの「五つ木瓜紋」の家紋が発祥した事に成ります。
上記した様な分類からその美濃平氏側でも類似変紋した事に成ります。

又、「美濃平氏」の支流一門として当時の京の平安期の最高権力者の一人徳大寺氏とが身分家柄の吊り合いの仕来りから血縁する事はありませんが、念の為にそこで調べました。
実は上記した中継可能な方法で血縁しているのです。上記した仕来り通りに現実が動いていたのです。
秀郷一門主要氏の中で次ぎの一門が血縁しているのです。
次ぎの3氏です。

青木氏  4つ木瓜、丸に4つ木瓜、・五つ木瓜 糸輪に陰木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、
長谷川氏 ・織田木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、四方木瓜、、三盛木瓜
永嶋氏  丸に木瓜、・丸に五つ瓜に唐花
以上3氏です

北家は9氏中7氏が秀郷一門ですから、可能性は極めて大です。
「徳大寺氏」の家紋から13家紋と成ります。
北家筋の徳大寺氏と北家筋秀郷一門との同族血縁をしているのです。それも13家に及びます。

その中で本家筋は青木氏の「四つ木瓜」、長谷川氏は無し、永嶋氏は無し
分家筋は青木氏は「丸に四つ木瓜」、永嶋氏は「丸に木瓜」(四つ木瓜は木瓜と同じ)
支流は青木氏と長谷川氏の「横木瓜」、「丸に横木瓜」

直接血縁の長谷川氏の「織田木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる青木氏の「五つ木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる永嶋氏の「丸に五瓜に唐花」紋と成ります。

(「五つ木瓜」は判別困難の文様が7つもあり「織田木瓜」であるかは不明。「五瓜に唐花」もこの7つの一つで不明)
青木氏だけが徳大寺氏一門の本家との血縁を幾つも重複血縁の血筋を持っています。
ここでこの事から観て次ぎの2つの関係の可能性が高いと観られます。

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)

参考として先ず徳大寺氏とは、北家藤原実能が屋敷に小堂を建て徳大寺と名付け出家しその後徳大寺を氏名として名乗ったものです。(徳大寺氏の経歴は下記)

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
Aの説から、北家秀郷一門の青木氏との同族血縁(6氏)をし、青木氏に跡目を入れたが男系継承ならずして養子先系列の「四つ木瓜紋」の青木氏が発祥となり家紋は「四つ木瓜紋」となる。この「四つ木瓜紋」に分家支流が発祥し、その分家裔が正妻と妾妻との身分差から家紋掟により「五つ木瓜紋」の青木氏を発祥させて生まれた家紋です。
この美濃の「五つ木瓜紋」の青木氏と「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢平氏)一門との養子血縁で美濃の「たいら族」側(美濃平氏)に男系継承ならず家紋掟により養子先家紋の家紋の「五つ木瓜紋」となった。この間30年の期間の出来事です。
しかしその後、「平家滅亡」により美濃−越前付近山岳部に隠遁し職人的糧により生き延びて後、室町期初期の下克上期に再び力を得て越前織田郷の土豪となり勢力拡大を次第に図る。この時、家紋を五つ木瓜紋(5瓜)に戻そうとするが、平家一門であるので敢えて北家紋の「五つ木瓜紋」から一部変紋して美濃平氏系列の独自の「織田木瓜紋」(5瓜紋)とした。そして室町期の公表されている「織田氏の系譜」の人物に入り(最終は斯波氏の尾張守護代)信長の経緯に至る。
以上の経緯が仕来りから間違いなく起こったと考えられます。

青木氏と守護神(神明社)−8に続く。



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