青木氏氏 研究室
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  [No.287] Re:青木氏と守護神(神明社)−19
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/06/11(Mon) 17:34:51

> 青木氏と守護神(神明社)−19に続く。


前段で「自然神」を含む「5つの守護神」の中の一つの「氏神」と「祖先神の神明社」の「総神」が一部に同じと考えられていた事を論じましたが、それをもう少し詳しく論じておこうと考えます。
又、前段で論じた内容の補足や関係する事柄(若宮神社との関係、他神社との関係、佐々木氏との関係)等に付いて論じます。


「氏神」と「総神」の経緯論
そこで、「祖先神」の「神明社」を今まで通称として一部の特定の地域で「氏神様」と呼ばれてきました。
凡そ、最初は「5つある神様」を祭祀する「神社」を総じて「氏神様」と呼んでいたのですが、次第に時代が大きく変化する事に因って「氏の形態」が変わり、その為に呼称は変化を来たし減少し、ある一部の複数の保守的な地域では、中でも以北地方では「神明社」を特定してその様に呼んでいたのです。(前段でその経緯を論じた)
これは一つは、「祖先神」は天皇家の「皇祖神」に繋がる「神」であり、”万系一途に通ずる”の言葉通り国民総じての「神」と崇められていた事からも其の大きな原因でもあるのです。しかし、もう一つは前段の上記してきた「皇祖神−祖先神−神明社」との色々な青木氏との関わりから来る原因もあるのです。

そこで、全国に拡大した神明社の ”「氏神様」の呼称は、何故「氏神様」としたのか、3の「氏神」とはどの様に違うのか”と云う疑問が起こります。この疑問が青木氏を物語る史実なのです。
そもそも、”通称(俗称)「氏神様」”と呼ばれる様に成ったのは、前回までに前段の上記した様に「神明社」は「物造りの神」としても平安の古より民から信仰対象とされ、それを守る青木氏も”「物造りの氏上」(御役−御師)として崇められていた”と論じてきました。
特に、この傾向は鎌倉期の「鎌倉文化」から引き継いだ室町期の「室町文化」の著しい発展で「物造り」は飛躍的に発展しました。その発展に伴ない「民衆の心」も ”より豊かで安寧と安定の維持”を願ってその「心の拠り所」として神明社に求めて来たのです。
そして、その「文化の発展」も武士階級の「下克上と戦国時代」の乱世の中に引きずり込まれる事が起こります。しかしながらも、「文化の発展」も戦乱に反発して根強く引き続きます。
そのしぶとく続く中で ”より豊かで安寧と安定の維持”の「庶民の望」と云う事だけでは無く、戦乱の世の中の反動として庶民の中に「必然的な願望性」が帯びて来たのです。
華やかで雅な「平安文化」等の他の時代の文化と異なり この文化は ”しぶとく粘り強く強い個性の持った文化である”と云えます。
その為かそれを遺そうとする意思や表現力の明文化として、取分け「文化の基礎」となる「紙」が大いに発展し、「紙文化」と呼ばれる位に「紙」が全ての「文化の基本」に成って進展したのです。
この頃の「紙」は「現在の紙の位置付け」では無く、貴重で高額でより「高い位置付け」にあったのです。
前段でも強く論じた様に、その「紙」は更には「5家5流皇族賜姓青木氏」が、庶民の快適な生活の為により進む文化の為に「2足の草鞋策」として一族一門が挙って殖産し主導する「紙」でもあり、その「青木氏」は更に「皇祖神−祖先神−神明社」の主氏でもあり、又「物造りの氏上」と「生活の神の守役」でもあった事から、「神明社」を ”「氏神様」”と室町末期以降に何時しか「尊厳と親しみ」から「民」からその様に呼ばれ様に成ったのです。
その力を以ってして、且つ、前段で論じた特別賜姓族の主要な地域での「祖先神−神明社の建立」と「藤原氏の領主様・氏神様」としての「立場と責任」を同じく果しましたが、この「2つの青木氏」は、「祖先神−神明社」を566も建立し、民の「生活の神」としても崇められ「民の信仰」を一心に集めたのです。
ですから、「神明社」に裏打ちされた守役の「氏上様」の呼称は、「時代の流れ」の「必然的願望性」とも一致し、「崇めと信頼」を背景に著しく高まったのです。
況や「3つの発祥源」の「然るべき立場と責任」を全うしていたのです。

この「氏神様」に類似する守護神の「3の氏神」は、この「下克上と戦国時代」に依って勢力を拡大した「姓氏」の神で、一族一門が一致結束して「一所懸命」の意味の通りの「結束する象徴神」として考えられた「神」なのです。そして、その「姓氏」はその文化の「職能人としての作り手」でもあったのです
つまり、「3の氏神」と「2の氏神様」との出自と呼称は同時期に起こったもので、「3の氏神」は「姓氏」の「下級武士階級の守護神」であり、他方のこの「2の氏神様」は「民の階級」の「総神の守護神」でもあったのです。
この後者の「氏神様−総神」は、全ての守護神の根幹を成す「自然神」に通じ、更には「朝廷と皇室」が行う「国事行事の祭祀」としても「皇祖神−祖先神−神明社」に通ずるものでもあったのです。
ですから、「2つの青木氏の神明社」は他に秘して比べ物にならない程に格別のものであったのです。

それまでの平安期からの「氏」は、次ぎの様に成ります。
1の守護神の大蔵氏や平族等の「民族氏」の「産土神」(阿蘇大社、出雲大社等)、
2の守護神の青木氏の「皇族融合氏」の「祖先神」(神明大社・八幡大社)、
4の藤原氏などの「古代大豪族氏」の「鎮守神」(春日大社等)等が「下克上」で衰退傾向する中で、新しく勃興してきた中小の豪族氏とその配下であった「姓氏」が興した「神」が3の守護神の「氏神」であったのです。

そして、そこで大社を作る事の出来ない「民衆」は「皇祖神の神宮大社−祖先神の神明社」に「心の拠り所」を求めたのです。それが故に、「民衆」はその呼名を「様」を付けて勢いのある「3の氏神」に対して「氏神様」と呼んだのです。この呼称が現在まで引きずられて来たのです。
「姓氏の氏神」と「融合氏の神明社」の「氏上様−氏神様」とが混同されてしまった事に因ります。
むしろ、「姓氏」も元は「職能集団の民」であったのですから、「氏上様−氏神様」と崇め信頼していた「神明社」の「物造りの神と生活の神」を信仰しその行方を信望していた民でもあった処に、前段で論じた様に彼等はその力を互いに集団で結集して「氏」としての独立を果たし、その末にその力で独自の守護神を創造したのです。因って「民の時代」の「氏上様−氏神様」は彼らに執っては守護神としている「氏神」が出来たとしても何ら変わらないのであり、且つ拘らないのです。
2の守護神の「皇祖神→祖先神」の関係と、3の「氏上様−氏神様」→「氏神」との関係とほぼ同じ位置に置かれていたのです。
それは「物造り神−生活の神」の「祖先神」である限りは、「姓氏」となっても「心の拠り所」としては何ら変わらないのです。殆どは「呼称の差」だけなのです。
それだけに「氏神の守護神」は室町中期以降では爆発的に発祥しその「姓氏」が如何に多かった事を意味しますが、逆に「祖先神−神明社」の「氏神様」は1割にも満たない程であった事を意味します。
むしろ彼等に取っては対比的な守護神ではなかったのです。氏神様は氏神様と旧来から崇め信仰し、自らの新しく創造した守護神の「氏神」はあくまでも「氏神」なのです。

明治の混乱も収まり始めた頃の10−15年頃には「皇祖神−祖先神−神明社−青木氏」の存在そのものも忘れ去られ始めた事が伊勢青木氏の記録と口伝から読み取れます。
これは江戸末期から明治初期にかけての「宗教改革」や「廃仏毀釈」などの「権威と伝統の廃棄運動」の原因も否定出来ません。
故に明治期の「8000の民衆氏」の中に「祖先神−神明社」のは最早3%にも満たない氏となってしまった事から「姓氏」のみならず8割以上の庶民までもが「氏神−氏神様」が混同してしまった事に成ります。
一部の伝統を保持していた階層(元は士分の上級武士階級以上−浄土宗階層)では大正15年頃から昭和の始め頃までは覚えられていた事が判ります。
第2次大戦後は完全にその混乱から一層忘れ去られてしまった事に成ります。
この様な伝統や知識等の消失事はより完全に進んで現在に至りますが、科学による近代化が進むに連れて尚一層忘却の憂き目を受ける事に必然的になるでしょう。3%の話どころではありません。殆ど0%と成るでしょう。
故に、人の世は全ての事柄の森羅万象の伝統により繋がっていると考えられる限りは、この「伝統」と云う事を重んじて、ここにその詳細を遺そうとしているのです。平安期の多くの歴史記録の人の努力と同じように何とかせめて青木氏に関わる歴史記録としてだけでもよいとして遺す意義はあると考えます。
そして、この蘇がえさせ様としている「祖先神−神明社の記録」の中に遺そうとしています。

次ぎの「鬼道信仰」も同じ憂き目を受けて資料や記録も一部の学者の範疇にしか遺され無い状況の中で「民衆の知識」としては無くなる中で何とか「雑学の詳細概論」として遺そうとしています。
この「祖先神−神明社」の概論も。これが「青木氏」として「歴史マニアの責任」として。
その中の努力として一見青木氏に無関係かと観られる「鬼道信仰」に関わる事をも青木氏として独自の研究を続けているのです。
恐らくは「鬼道信仰」を追及し議論し研究する出来る「氏」があるとしたら、それは神明社−青木氏以外にはあり得ません。故に「青木氏遺産」として独自の見地から是非に遺す意義があるのです。

「鬼道信仰の雑学概論」
「氏姓」(僅かな氏)が始めて発祥した時期の4世紀以降では4神ですが、4世紀前の神は「氏」の概念が無かった事からすべて各種(7つの民族)の民族は「自然神」を信仰し、その「神の意思」(「神の御告げ」)とする伝達手段を「占い」として用いました。
この「自然神」の伝達手段の「占い」(占道・占術)が体系化して最初は「鬼道」と云うものであって、それは「宗教の原型」にも成ったのです。この「鬼道」で「絶対的な神の意思」を具現化したのです。
これが中国では「占道・占術」−「鬼道」−「道教」−「儒教」へと変化と進化して行きました。
しかし、大和ではこの「鬼道」の使い方が「国情」に左右されて異なった「宗教の変化」を起しました。
3世紀頃から7世紀頃まで大まかには ”この世は「自然の神」の懐に包まれ「万物万能の神」の「意思」がこの世に降り注ぐ” と信じられていました。依ってそれを受け止めてこの世に誰がどの様な方法でどの様に具現化するかによるのですが、ところがこの「自然神の考え方」が「7つの民族」によって異なっていたのです。
特にその「考え方」をこの世に伝える「媒体」に違いがあり、初期には植物や各種の動物(生物)を媒体としていたのです。この「植物・動物媒体」は民族の植物・動物に関わる関係度から千差万別と成っていました。例えば、日本では「在来民」とする「こな族・熊襲・アイヌ」(魏志倭人伝に記載)は「熊」が媒体であった様に、亀、狐、烏、鼠、鹿、蛇、馬、狗等があります。そしてこの信じる神の伝達媒体を国名にしている国が多かった事が「魏志倭人伝」の記載の国名の30国に色濃く出ています。
しかし、「7つの民族」が混在している4世紀頃はこの「自然神」の媒体がこの様に異なっている事からまとまる事が難しかったのです。
そこで、その「媒体」の考え方が進化して「人」として「神の意思」を告げる事となれば「共通の媒体」と成ります。そこで”より真実に明快に確実に言葉で伝わる”と信じられて「自然神」のお告げを表す「鬼道」と云う「占い形式」(祈祷)の体系化した信仰が生まれたのです。
それが「鬼道占術」の特長として、次ぎの様に「具現化の媒体」の違うところが(他の占術とは)次ぎの3つのところにあったのです。
一つは「気候と気象変動」を神の御告げとして読み取る事
二つは太陽の軌道を読み取る「方位学の原型」を採用した事
三つは御告げする伝達人に科学的な刺激を与える脳特性を利用した事
この3つ事が他の占術と異なっていたのです。

そして、このある意味でこの「3つの要素(人、場、時)」を加えた合理的な伝達手段が、人の「食」に大きく関わる繰り返す飢饉(下記)に対応する事が出来たのです。ですから、「鬼道信仰」は飛躍的に信頼され信仰されて行ったのです。
そして、逆にこの{3つの要素]の事が無かったか、或いは低かった事から前段で論じた様に「弥生信仰」に代表されるように他の占術は衰退して行ったのです。
この「3つの要素」が現在でも通ずる様に体系化し具現化した事から、今も「国事行為の形式的行事」として生きているのです。そしてその一部を青木氏は「神明社」と云う方法で伝播させていたと論じているのです。
゜卑弥呼の鬼道」には1000人程の者がスタッフとして存在していた事が判っています。
恐らくは、この「3つの要素」を体系化し具現化する為に、卑弥呼に「3つの要素に対する情報収集や提供」を任務として伝えていた事だと考えられます。
この中には前段で特記した来た九州域や関西域や関東域の「緩やかな政治連合体」からの派遣要員が居て「鬼道」を学んでいたと考えられます。
そして、卑弥呼も中国から渡来した人々からこの元の「中国の鬼道」に要する知識の「3つの要素の学識」を学び周囲のスタッフの人々に教え指導していたと考えられます。
恐らくは卑弥呼はこれを研究して日本の風土に置き換えて自分のものとし、「日本の鬼道占術」としていたと考えられます。

(特記 中国のこの鬼道信仰は道教と進化する以前の形で現在も遺されていて、その中国の研究資料と比較すると基本的なところは一致しますが少し違っているのです。上記の「3つの要素」に重きを置く事の位置付けで差異が認められます。中国の鬼道は人間の複眼の女性の野生本能に重点を置きこの「3つの要素」は副的要素であるのです。特に中国の鬼道信仰を信ずる人々には、神の前で行う「仕種の決まり」に違いがあって、「迷信的な行為」が多いと感じられます。桃の実を撫ぜると神の加護があり御利益があると信じられていますが、日本の鬼道信仰にはその様な迷信的な行為を認めては居ません。
現在のその原型を留めている天皇家が行う国事行為と比べると違和感かあります。)

この「鬼道」の占術の有り様が真に「鬼」の様に立ち振る舞い、人の感覚を無くし、周囲には自然物を飾り火を炊き、丁度、神と人との中間の様な物体に化して無想無念の域から発する印象を言葉にして表現する「占い形式」(占術)が生まれたのです。この時にこの占師は事前に一つ目と二つ目の知識を記憶して三つ目により無念夢想の中で右脳に桃果の芳香性の刺激を与え複眼機能を蘇させて左脳の知識を引き出し御告げとするものなのです。

現在科学から観ると、これにはある程度の医学的根拠があるのです。必ずしも「迷信」と片付けるには問題があり過ぎるのです。それは特に現代人の生態の退化から観ると「迷信」以外の何物でも有りません。
しかし、古来より人間には野生時に持っていた額中央にあった「「複眼」(予知機能)」と云う物があって、それを使って、それをより「強く遺し持った者」が、使用頻度の低くなった「右大脳」を「無心の状態」にして使う事で「野生の予知本能」を強く引き出し、右脳から「ベーター波」を発して「未知」との繋がりを保持する野生の能力なのです。
これを「人の邪念」を取り除いた言葉(人の言葉ではなくなる)としてこの世に伝達する仕組みなのです。
現在ではこの「複眼」は「前頭葉」の進化で「前頭葉脳」と「大脳」が大きくなり大脳の真下の「脳幹」の側に追いやられ「休止状態の脳」となっています。現在でも特に女性に遺されているのです。
それは子供を産み育てるという本能からその野生的な複眼機能がいまだ消えずに遺されているのです。恐らくはこの生み育てると云う行為が続けられる限りに於いて遺される事が考えられます。
ただ、近代化により女性の性(さが)が異なってきた事から一部では消失している女性も増えているのです。合理的に思考する状況が増えた事から男性化して来た結果と成ります。
その証しと云うか相対的に女性ホルモンの低下が観られるのです。

中国の山岳民族の一部に未だこの「複眼機能」が大きく働く民族がいて、この民族が住んでいる地域では未だこの「鬼道」の習慣が宗教として現実に強く残っています。
中国ではこの「鬼道と複眼の関係」の研究論文が発表されていて現在も研究は続いているのです。
この「複眼機能の特性」は強弱はあるにしても「感情主観の女性」にまだ強く残っていて、それは「母性本能との連動」から来ているものとされています。
仏教でもこの「複眼機能」の原理を説いています。(お釈迦様の額中央の瘤はこの複眼なのです)
現在人の顔相の額中央に10ミリ程度のややふっくらとした膨らみを持つ人を時々見かけますし、民族に依ってはかなり強く膨らみを持っている民族があります。
恐らくは整体上遺伝的にナゴリを遺しているのではないでしょうか。
この「複眼」(予知)と同じく同じような働きをしていた「鬼相」(鬼眼・鬼顔)と云うものがあります。
これは逆に「論理主観の男性」によく観られ、額の両目の端からやや斜め逆ハの様に1線上に10ミリ程度に伸びて髪の生え際までふっくらと膨らんだものが見えます。
これはある状況におかれた男性の顔相に今でも現れます。例えば、仏像の「四天王」の顔相や「仁王像」の顔相に見られる様に「鬼の目」の様になりその左右に縦斜めに膨らみが刻まれています。
これがある「目的」に徹した「無心の顔相」なのであり、其の目的は神仏を護る事にありますから、仏教ではこの「鬼相眼」(鬼眼:現在も”おにめに成って”と言葉が遺されている)が「善悪を見通す力」として「複眼」と若干異なりますがほぼ同じ目的を持っているのです。
この「鬼相眼」と合わせて「鬼道」と呼ばれたものと考えられます。
男性の「野生本能」として保持していた「性」からのもので、現在でもこの本能は恐らくはこれは余り退化していない本能機能と見られます。原野にて動物を容赦なく捕獲出来る本能、現在も続く戦いにおいて人を分別を超えて殺傷できる本能はこの「鬼眼」の所以と観られています。
野生の肉食動物に持つ本能に類似するもので、人間のものはその脳の使い方が進化に依って変位したです。(肉食動物の顔相はこの鬼顔(両目の端から逆ハの膨らみを持つ顔相)に全て成っています。)
現在でもこの「鬼顔」が出てきた男性は危険とされる「昔からの言い伝え」が色濃く遺されています。ここから”鬼は怖いもの”と成ったものなのです。
兎も角も、本来はこの「男性の鬼眼」として使えば「女性の複眼」に相当する筈なのです。
仏教でも「複眼」と対比して「鬼相」(鬼眼・鬼顔)に付いても戒めとして説いています。
依ってこれを「鬼道」と呼ばれた所以のものなのです。
古代では決して「鬼」は「悪」と云う扱いではなく、「鬼顔」はむしろ「善」を見通し「悪」を滅ぼす「神通力」を保持しているものとして扱われていて、「悪」の姿はむしろ「美顔」として信じられていたのです。
それが鎌倉期以降に仏教の普及が急速に進んだ結果「鬼」は「悪」として扱われるように成って行ったのです。
「鬼」は人間が神と人間との間に居てその鬼の行動が仏教の教えに合わない事、つまり一部の庶民宗派が「占道」が仏教の教えに合わない事から「悪」とされたものと考えられているのです。
古代では「鬼道」は”悪を払い「善」を招く”「占道」と捕らえられていたのです。

とすると、中国から伝わった鬼道の原型が ”何故卑弥呼にだけ成し得たのか” と云う疑問が残ります。
多くの占師が居たと考えられますが、”何故、卑弥呼なのか”です。
それは、上記の複眼機能が特別に遺されていた事を意味します。この鬼道は3つの要素を組み入れての占術でありますから、それを最も生かすには、この「複眼機能」の強さと有無が左右されますし、左の脳の情報力、つまり、「3つの要素」の「記憶力」を生かすには右の能のベータ波の出す能力の強さが左右します。このベータ波は女性に於いて極めて差異があるのです。母性本能が出ると同時にこのベータ波が強く成るのが女性ですが、その個人差が大きいのです。
卑弥呼はこの条件を兼ね備えていた事がある事で判るのです。
それは卑弥呼が死んだ後に卑弥呼の兄妹の兄が王に成りますが鬼道の占術は殆ど当らず王から引きずり降ろされます。結局は、前段で特記した事なのですが、この史実として「卑弥呼の宗女」がこの卑弥呼の跡目と成り占術が当り緩やかな政治連合体の国は治まりが着く事に成ったのです。間違い無くこの宗女は卑弥呼のこの女性本能の特異な遺伝を引き継いでいた事を意味します。

この様な上記の「鬼道占術」を使って邪馬台国の卑弥呼には、「自然神」の中でこの「複眼機能」を強く持ちその「予知能力」を使って「多種民族」を纏め上げ「連合体」を作り上げたと考えられます。
中国の「鬼道」と根幹で一致していた事から「卑弥呼の占い行為」は「鬼道」と呼ばれたと考えられます。

「気候変動と卑弥呼の経緯論」
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
実はこれには次ぎの様な上記の3つの内の1の経緯の気象が働いていたのです。
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。

実はこれには次のような経緯が働いていたのです。
当時としては絶対に知り得ない知識でありますが、”自然が織り成す何らかの「神の行為」”として軽度に把握していたと考えられます。
現在でも”西風が強く吹く年は天気は崩れ雨に成り水飢饉が起る””食物の成長は裏と表の年があり裏は不作で飢饉が起る”等の事等の言い伝えがありますし、これには完全な根拠がある事は解明されている事です。実は桃や梅等の果物の木、特に野生の果物の木にはその気候の影響を大きく反映して次ぎの年の気候を顕著に反映して確実に読み取る事が出来るのです。他にも田舎に行けば今だこの種の超能力の様な知識として伝わっているのです。
恐らくは、「卑弥呼」はこの「自然の変化」と「気象的な関係」を知識として把握し、且つその「自然の変異」を素早く確実明快に読み取り具現化する超感性能力(超能力)を誰よりも保持していたと考えられます。
そして、この超能力を駆使し合わせて上記する人間の野生本能を誰より高く持ち得ていて、それらのデータを総合的に且つ有機的に瞬時に取り纏め判断出来得た人物であったと考えられます。
卑弥呼の鬼道の祭壇には桃などの自然の恵みの物が配置されていた事が遺跡からも発見されていて、これを1000人のスタッフにこれ等の情報を把握させる事もさせていたと考えられます。
現在の天皇が行う国事行為の毎日行う祭祀行事もこの穀物などから読み取る行為を具現化し形式化したものです。

 「100年の気候周期性」(300年大周期)
この時期に顕著に起っている気象学的変異があるのです。
それは、地球の自転の回転で其の周囲の空気の層が同時に廻るのではなく地球の磁力(引力)に依って反時計回りの回転に対して空気の流れの「ズレ」を起こします。
その時、少しづつドーナツ型(環状)の空気の層の「遅れひずみ」が起こります。
円の形だと円滑に廻るので歪みが起りませんが、この「歪み」が強い時の波と弱い時の波とが起こり、これが連続して「強弱の波」を引き起こして発生します。
ところがこの「強弱の波」であるが為に、その波の僅かな「ズレ」が球の上下側に2つの「輪状環」が起こります。
その波は遂には空気中の浮遊物の影響により5つに成ったり3つに成ったりするのです。
それに依って起こる真円ではない「変形した輪状環」の波の現象と成るのです。
この3つから5つの波の発生が北極側では空気の流れの「位置ズレ」を少しずつ起こします。
この「波の位置ずれ」に対して変化して「変動の周期性」が起こるのです。
其の為に北極南極の冷気の層が赤道に向かって引っ張られて極端に寒暖さのある気候変動が発生する事になります。
真円が最も気候変動の差が少ないことに成ります。この地球の気候変動の大きな差の周期が概ね100年に1回起こるのです。
判りやすく云えば、キリストの頭の上にリングがありますね。あのリングが3つ乃至5つの星の様に成っているのです。その様に頭の上に出来たリングまたは鉢巻の様な「空気の流れの星形輪」が起こります。其の「星形輪」が地球の回転に沿って左に回る周期性を持っていて、その「星形輪」が真円ではなく極端な場合は3角形から5角形の形になります。この為にその角の為に空気抵抗が起こり円滑に廻れなくなり回転に対して「ひずみ」を起こしやすくなり、本来の位置から少しずれるのです。
このズレを修正しないと空気の星形輪状の層は地球から外れてしまいますが「エネルギー保存の法則」により絶対に元に戻ろうとします。
この「最大のズレ」が太陽から受ける熱エネルギーの差と成って現れます。それが「気候変動の寒暖の差」に成って現れます。
このズレが元の状態に戻るのが100年間掛かることに成ります。
これが赤道軌道を中心にして北極側と南極側に顕著に出るのです。
ですから円から最も崩れた時、丁度、3角形に近い状態に成った時が「最大の歪み」に成りますから「寒暖差」が極端に出るのです。これが「寒さの飢饉」と成ります。
そして次第に又5角形に近い状態へと戻り始めたほぼ円状へと近づいて行き寒暖さが少なくなり、次ぎの歪みの時期は「暑さの飢饉」と成るのです。これがほぼ100年周期にあると云う事なのです。
ところがしかし、現在、地球は地球の自重の増加により円運動から多少「楕円状の公転軌道化」を起こしていて、この現象がより顕著に出る様に成っているのです。
星形輪に依ってエネルギーの差が生まれて「寒暖差」が生まれている処に、「楕円状の公転軌道化」が起り始めた為に余計に太陽から近い時、遠い時の「エネルギー差」が起こりますのでこの「2つの差」が更に「寒暖差」が生まれるのです。
「楕円状の公転軌道化」が起ると地球の回転に慣性力の影響が出て「星形輪」が発生しやすく成るのです。そしてこの「楕円状の公転軌道化」でも起こった「周期ズレ」がエネルギー保存の法則で戻そうとして同じ上記した原理で300年に一度の大周期性を持つ様に成るのです。この法則で100年周期の2回までの直しきれなかったエネルギーを3回目で修正する為に大きなズレの吸収性が働くのです。
100年周期で3回起こり最後周期には300年目の超寒暖差が起って大飢饉が発生するのです。
そして次第に元に戻って行きます。

因みに「楕円状の公転軌道化」は地球の重力増の変化により加速性が増した為に起っています。
これは地球上で「人口」のみが自然増を生み出して重力が増しているのです。
他の動植物や鉱物は自然環境の影響を受けてその輪廻で一定と成ります。その増減は地球の回転に影響を与えません。
江戸時代は世界の人口は40億人とされていましたが現在は70億人と成っていて現在は1日に4000人の人口が爆発的に増加しています。
もしこの状態で人口が増加し続けますと地球の回転に加速度がより起こりますので、その加速度に対して地球の引力に依って引っ張られている力とのバランスが均衡する時が必ず来ます。
この均衡が破れる時には人は地球を離れてロケットの様に宇宙に飛んでいく事に成ります。
この限界値が計算上では85億人で均衡とされていますが多少の+誤差が起る筈ですので、100億人以上で飛び出す事に成ります。恐らくはこの直前で地球に回転とそれに伴なう気候変動により食料は不足し激減する事になりますし、地軸が27.8度傾いた形で回転している事により楕円が強く成る事で隕石などの衝突が起こり始めます。その為に人口や動植物等は激減する筈です。
そしてその様な現象で地球重量が元に戻りはじめますが、元の85億人程度の重量と成った時に楕円の公転は元に戻り始めます。
当然にこの時には地球の表面の8割は水で覆われていますので、そうすると加速度が働きますと先ず水が蒸気と成って90−100キロの第1成層圏の宇宙に吸い上げられて行く事に成ります。この結果、乾燥と水不足が起り人間を含む生物が死滅する事には成ります。
従って、これにより再び人口が減少して元に戻るか一切の生物は死滅してまう事に成るかですが、自転公転の上記する「歪み」が再び戻り、生き残った生物は繁殖を起す筈です。
既に70億人と成った現在では灼熱のアフリカ大陸では原因不明の水が消えて無くなる水飢饉が起っています。従って、85−100億人の前には人口増加は止まる可能性がある筈です。
先ず地球の太陽から公転による楕円運動がこれ以上に大きくなると生物は死滅する筈ですから地球と太陽系がバーンアウトするかしないかの勝負に成ります。
然し、重力計算による研究はあるとしてもこれを立証する研究は未だありません。その前に水が「人・生物」ではなく「地球」を救うことに成ると考えます。「人・生物」はその後の話ですね。

話を戻します。これを歴史的な資料で現在から逆算すると丁度、3世紀半後から4世紀前半に掛けてこの300年周期の第1期の「100年飢饉むは起こっている事に成ります。
つまり邪馬台国の時代です。これに依って下記のシナリオが証明されるのです。
これが大体100年に一度の割合で訪れるとされる「気象変動・異常気象」が起こった時期とされ、飢饉により民族間が生存競争で争いが絶えず混乱していたと考えられます。
そこにタイミングよくこの「鬼道」が現れ「占い巫女」であった「卑弥呼」が「複眼の予知能力」と「3つの要素」を組み入れてそれを使って予知した事が確率よく当たり、100年周期の終焉期と一致すると共に、飢饉がより占術予知により避けられ無くなり、其の内、国々では「卑弥呼」の「鬼道」で政治を行う事を民族間で合意し、結局、「卑弥呼の占い」を中心とした「民族間の政治連合体」が生まれたのです。
そして、その結果、その占い師の「卑弥呼」を九州地域5地域の「国の王」と定めたと考えられます。
その卑弥呼の占術予知による北九州域の政治連合の結果、この話が全国に伝わり主な他の20−40の王国の民族もこの「卑弥呼占術予知の鬼道」を招き、複数の「政治連合体」の国王として30程度の国が絡んだ「緩やかな大政治連合体」が出来上がったものと考えられるのです。
恐らくは推理ですが、この時に「卑弥呼」は九州佐賀から連合体の中心付近の奈良大和付近に出張等での移動をしたのでは無いかと筆者説の一つの推理を立てているのです。(3つの仮説 イロハ説)
この大気候変動の大飢饉を互いに逃れる為に良く当る事を前提に「卑弥呼の鬼道占術」を基本とした政治的な連合体であった事から”緩やかなもの”として、比較的に簡単に各地域に起った緩やかな政治連合体の組み合わせ総合の政治連合の国家が出来上がったと考えられます。
当然にその総合の政治連合体の元と成った北九州の政治連合体の邪馬台国(女王卑弥呼)が主導権を握り、合わせて「卑弥呼」を総合の連合国家の「大女王」と決めたのではないかと考えられるのです。
そしてその国の総称も「邪馬台国」としたと考えられます。
(魏志倭人伝の30国の一つの「奴国」は邪馬台国の事)
「30の連合国家」の中には故に、「奴」の付く国(ナ)、馬の付く国(マ或いはマト)、中には「邪馬国」(ヤマトノクニ)とするものが多いのは総称の政治連合体の「邪馬台国」から来ていると考えられます。
北九州域の主導国の奴国(ナノクニ 山門)と関西域の主導国の「邪馬国」(ヤマトノクニ 大和)から「邪馬台国」の総称としたと考えられます。
中国との関係から北九州域の「奴国」に「緩やかな政治連合国家」の「政庁」を置いたと考えられます。
卑弥呼死亡後は関西域の主導国の「大和」にある「邪馬国」が主導権を握ったと観ています。

この「自然神」の信仰は一概に無根拠とされるものではなかったのです。
この「自然神」は消滅して変化したのでは無く、この「自然神」から分離して行ったのです。
従って、現在に於いてもこの「自然神」は遺されているし、上記する「4つの神」の母体と成っているのです。現に、朝廷の祭祀はこれを引き継ぎ全てこの上記した「自然神」による祭祀です。
又、仏教もこの「自然神」を基盤としていますし、日本書紀にも「広瀬大忌神」と「竜田風神」の事が再三に出てきます。(「風の神」、「雷の神」:風神・雷神は鬼の顔と成っています)
中国は多種民族から「鬼道」から「道教」へ、そして「儒教」へと変化して行きましたが、日本はその国情(7つの民族と自然環境)から「神に対する概念(人の思考原理)」は次ぎの様に変化して行ったのです。

「神のフロート図」
「自然神」−「鬼道」−「神道」−「仏教」−「神道・仏教」−「産土神」−・「祖先神」−−「鎮守神」−「氏神」−「4つの神・融合神・自然神」

「民族氏」→(「民族氏」+「融合氏」)→(「融合氏1+融合氏2」)→「融合氏1−5」

上記した「皇祖神の鎮座地の遍歴」はこのフロート図の違いの強弱が各地に未だ顕著にあり、新しく生まれてきた「祖先神」の考え方に見合う土地柄を選んでいたのではないかと考えられます。
つまり「国情(7つの民族と自然環境)」が大きく左右していたのです。「神明社」の各地の分布の数でもそれがよく判ります。(資料参照)

この様に前記した様に「民族氏」から「融合氏1−5」へと政策的変換を遂げた結果、「自然神」から発した信仰は上記する経緯に左右されて「4つの神」が生まれ、それが「氏家制度」の社会を壊し「身分・家柄」の垣根が取れた事に依って何時(明治初期)しか「完全融合」の時が起こり始めて現在に至り、遂には自然神を加えて「5つの神」の混在現象が起こったのです。

明治初期の「維新改革」で「融合氏1−5」が更に「高度な融合現象」と成って、150年後の「平成の完全融合」へと進んだ結果、現在では「5つの神の混在現象」が起こっているのです。
最近では、「自然神」が信仰とは云えずとも「自然の偉大さへの憧れ」に近いものとして認識されてきています。
これは制度的に民の間には完全に垣根が無くなった為に起こっている現象と見ていて「民族の完全融合」の「証」と成るのでは考えているのです。
最早、将来、未来にこれ以上の「融合」が起こり得るのか、「5つの神の混在」がどの様に変化して行くのか興味の湧くところであります。
アジアやヨーロッパの民族人種が帰化する現象が自然増より以上に更に日本に起こるかは、上段で論じて来た種々の政策と共に「民族融合政策」を協力に実行した未来の「中大兄皇子の政治判断」が大きく左右すると考えられます。
故にそもそも上段で論じた色々な歴史的経緯があったとしても、「7つの民族融合」は「5つの守護神の融合」そのものであり、それを主役となって主導して来た「自然神−皇祖神−祖先神−神明社−融合氏−青木氏」でもあるのです。この事無くして現在の完全融合の日本は存在しないのです。

現在ヨーロッパの全ての国で起こっているアラブやアフリカの移民問題が日本においても起こるのか、起こった場合はどうするのか、日本人の特性で「融合氏」が更に進むのか、「民族氏」が「完全融合氏」の中に再び起こるのか、疑問が大いに広がります。
兎に角にも、現在の移民現象は「貧」から「富」への移動であり、日本に於いても「貧」から「富」への移民は「融合」を促すのかは疑問のあるところです。前段で論じた移民の経緯が日本では全く異なっているのです。
”移民をすれば直ぐに融合する”かは別問題で、この「融合」には「其れなりの条件」が伴なうと云う事を論じているのです。
明治以降の後期の朝鮮人との融合は100年経っても余り進まない現状を観ると、「移民の問題」には矢張りこの条件と云うものの有無が左右していると観て疑問を感じます。
アジアからの現在では「看護移民」や「農業移民」がありますが、「文化の高さ」で取捨選別されてと成功していない様です。
恐らくは「民族氏」の「産土神」、古代の「自然神」ならば起こり得たと考えられますが、「融合国民」と成った現在ではその溶け込むハードルが平均化されて高く、他民族には入りにくい環境にあるのではないかと考えられます。これこそが最早、「融合単一民族」の所以であります。
「融合民族」の潜在的に持つ「本能的な拒絶反応」が浮かび上がり働くのではないでしょうか。
大化期から平安期に起こった現象が再び起こるかは前記した「融合の経緯」と「神のフロート図」とその数式が成り立つからこそ融合が起こったのであって、その大変さから観ても現在版の「俘囚スラム」等を生み出す事は間違いないと考えられます。


「自然神の概念論」
そこで、現在版の移民が起こった場合は共通する概念感覚は「自然神」のみにある事に成ります。そこで更に詳細にこの「自然神」をベースとして進んだ「神」はどの様な変化の経緯を辿ったのかを検証を進めます。

  「氏神の変化」
この「4つの神」にはその時代の変化、即ち、「氏融合の変化」に即応してその特徴ある性格を持っているのです。
「時代の変化」と共に「氏の融合」も進み、且つ、「人心」も変化してその「心の拠所」とする「神の形」もそれに合わせて進化してして行ったのです。
従って、この事からも「氏融合の経過」を観る事が出来るのです。
そして、其の事からその「人」の氏が上記する「4つの神」のどの神を守護神にしているかに依ってその人の「氏の出自」が判る事にも成ります。
では、その「4つの神」に付いて先ず個々に検証を進めます。
先ず「産土神です。

「産土神」の定義
その人の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」

先ず其の前にこの「4つの神」の「進化」はどの様な経緯で変化して行くかを検証します。
古代、3世紀−4世紀の当初は全て「7つの民族」の個々の集団で生活圏を構成していました。それ故に集団の首魁を中心としてまとまり、「民族」と云う形だけの定義で集まり、血縁性の不明確な形で「民族氏」を構成していた事から奈良期前には1の「産土神」が主体でありました。

これはあくまでも「7つの民族」が不定不確定に外から「渡来」と云う形で上陸した為に上陸点の付近にその上陸した集団単位で生活圏を競って獲得していました。
その為に同じ民族が同じ場所に集団を形成すると云う事では全てでは無かったのです。
同じ民族の集団が”あちらにもこちらにも”と云う形に成っていました。
この時代は未だ生存に充分な食料や生活環境が整っていませんでした。従ってそれを獲得する為にこの個々の集団の内、「争い」に勝ち得たものがその集団を吸収し奴隷として囲い、大きくなりその集団の首魁の民族を中心とする「民族氏」が出来上がって行ったのです。
丁度、饅頭の様な構造をしていたのです。中身には血縁性が無い人の単位なのです。
依って、「土地」とそこから得られる「食料」が生存の基盤と成っていた事から、其の守護神はその「生まれた人の土地の神」「土地」を「神」と崇め、永代の「自分の神」とする習慣が生まれたのです。
これが「土神」即ち「産土神」なのです。
古代「自然神」を基盤として生まれたこの「産土神」は生存・命を保障するその自然の一つ「土」に対する感謝の心から「神」と崇めたのです。
個人個人が生まれた「土地」が異なる「民族氏」では1の「産土神」と成るのです。
「外国」で生まれていればその「外国の神」が「自分の神」と成るのです。
元々は「小さい集団の集合体」として「民族氏」と成った事から起こる現象です。
特に、中国系渡来人の「神」はその民族の根本的な「思考原理」から、元々この1の「産土神」の考え方にあったのです。「鬼道」から進んだ「道教」は「産土神」の考え方に近いのです。
「渡来人」が多く押し寄せ始めた4世紀後半から7世紀中頃までに、日本に定住し始めた民族中でも中国・朝鮮族が持ち込んだ道教・儒教の「考え方」に対して、それに「自然神」を崇めていた「在来民」はその「物造り」を通じて吸収され影響を受けてこの「土に対する神」の「信仰心」が拡大したのです。
この当時の「物造り」は土地から生まれる産物の第1次産業でしたから彼等の持ち込んだ「物造り」は道教・儒教の「土の恵み」の恩恵を強く受けた思考原理に成っていたのです。

4世紀後半から「100年周期の気候変動」が改善されて行き食糧生産も当時の人口に見合う量まで回復傾向にありました。人は食料を産む「土」と個人が生き残る生存競争による「人・個人」概念の考え方から同時に次第に開放されて行きます。
ここで地域的変化が起こったのです。ここでまず中国地方で起こっていた弥生時代からの銅鐸などを使った「自然神」の信仰が3世紀から4世紀には全国的に広まっていましたが「100年の気候変動」に依って飢饉が起こり「銅鐸を使った自然神の信仰」が信用を失い排斥されて、「産土神」に近い「自然神」の「鬼道の信仰」が今度は全国的に「銅鐸を使った自然神」に入れ替わって広がったのです。
従って、初期は九州域に限定されていた「土・人」の「鬼道信仰」が広域的に信仰基盤が広がったのです。つまり、「産土神」の信仰基盤が広がった事に成ります。

弥生時代からの「銅鐸を使った自然神」古代信仰→「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰

「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰→「土・人」の「産土神」の基盤

しかし、幾ら回復傾向と云っても、当時の人口が450万人と推測されていて、そこに中国から200万人、朝鮮(同盟国の百済崩壊)から100万人が難民と云う形で入国したのです。
これではほぼ倍となった人口に対して生存に適する食料が別の原因で再び不足します。
当然に「自然神」を相対的に崇めると云う形には成りません。
「土からの恩恵」を重視する考え方に偏る事は当然の成り行きであります。
回復傾向であった為に300万人が生産に寄与する事で何とか不足傾向では在りますが生きて行くにぎりぎりの生産量であったと考えられます。
日本書紀には大化期初期には不足していて食料問題に成って居た事が書かれていますので、先ずこの状況であった事は間違いありません。
其れだけに入国民の扱いの問題にしても、入国民の神に対する感覚概念にしても、入国民の食料問題にしても、他の軍事、経済、政治の面からも「改新」を進めなければならない絶対的な環境に在った事に成ります。
その前の4世紀前後の頃はこの状態がやや顕著に現れ、且つ100年周期の気候変動期に入り飢饉が続発し食料不足から民族間の全てで生存競争が起こり纏まらなかったです。
この為に民族間で話し合い「卑弥呼の鬼道」に依って「占いを中心とした政治体制」を作り上げ保ちこの「占い政治」(鬼道)を中心に「緩やかな政治連合体」を形成したのです。

「産土神」の傾向を持った「土・人」の「鬼道による自然神」から、「土・人」の考え方の強い道教の人々が入国して来たのですから、自ずと今度は限定して「産土神」に限定した信仰が進んで行ったのです。
「原始的な自然神」を経て「食料を理由」に変化した「鬼道の自然神」から「人の理由」で「土と人」の「産土神」へと条件が整って大化期前まで感覚概念が変化して行ったのです。

ところが、約100年程度の間に続々と入国して来る300万人の人口増加に依って「民族の集団化」が起こって血縁性の薄い「多くの民族氏」が勃興することに成ります。
この「民族氏」が成長しほぼ淘汰(20−40程度)にされて「民族氏」の熟成期に入り増す。
大化期前後にはこの為に「産土神」を主体として「民族間の思考の違い」が大きく露出して、その為に「民族間の争い」が多発して纏まらなくなったのです。
天智天武天皇は「既存の政治体制」の中に、この「産土神の考え方(「土と人」)」が蔓延する事は”既存の体制維持が困難”と危険を感じ無かった筈はありません。
これを解決する妙案が「融合化」であったのです。それには各々の民族が抱える守護神の考え方を先ずは融合化させねば成りません。
それには融合民族の皇祖神を全体の中心に置き、その分身と成る祖先神を推し進める必要があると考えたのです。当然に、その2つの条件を持ち得る氏を天皇自らの身内から出す必要が生まれます。
それが先ず皇祖神の遷座地の伊勢の青木氏だったのです。それに伴ない19の地域に対して祖先神の神明社の建立を推し進めたのです。然し、次第に時代の変化に対応させる事が出来ず、その力を留保する外戚の藤原一門秀郷の3子にその全役目を背負わせたのです。つまり、外戚の特別の賜姓族であります。それが「祖先神−神明社」なのです。
上記した様に「民族氏」−「占い政治」−「政治連合体」の経緯の中で鬼道信仰の影響を最も色濃く持つ「祖先神」を次ぎに論じます。


「祖先神」
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

上記の「産土神」の蔓延に危機感を覚えこの事を学習していた奈良期の大化期では”「産土神」に基づく考え方、即ち、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」”の考え方では ”良くしても「土神」「単独の神」は「民」を一つにまとめての安寧は在り得ない” と考えたのです。
つまり、”「民」の全ての「共通する神」が無くては国の存立は在り得ない” と考えたのです。

「単独の神」<「共通する神」=「国の安寧と安定」
「土の神」<「自然の神」=「神の恩恵」

この大化期直前に「自然神」の「鬼道」から進化した「神道」と「仏教」との対立が生まれ「仏教」を国の信仰の根幹に据える否かで争いが起こったばかりです。
結局、「仏教」を選んだものの依然として「神道」は基盤と成り続けている現状の中に「産土神」が浸透する事は国体基盤にとって好ましくないと云う背景があったのです。
この時期、「自然神」と「神道」と「仏教」と「産土神」の「4つ信仰」が混在する状況で中でもこの渡来人に依って「産土神」の拡大が目立っていたのです。
そこに「急激に増加した国民」の国情を観て、”これを一つに束ねて安寧な国を構築する”にはこの現状は困難と観たのです。
むしろ筆者は、高い技能を持ち在来民の信頼を得ている増加した国民、即ち帰化した阿多倍の率いる「200万人の技能集団」(200/650 30%)もこの「産土神」と同じ考え方であって、”この「産土神」が国民に蔓延すれば天皇家はおろか、最早、朝廷のあり方自体の存続が危うくなると考えていたのではないか”と観ているのです。その「産土神の考え方」からすれば「共和性の国家」に近い政治体制に成ると考えたのです。阿多倍がこれ等の「集団の首魁」であったとしてもこの「技能集団」は最早、後漢王国が崩壊して(220-618)数百年も支配体制が緩んでいたのです。ただ「同じ漢民族」だとする程度の集結性で、この初期の段階では阿多倍はその「象徴程度の範囲」の経緯であったのです。どちらかと云うと”各技能集団の首魁の指揮に任していた”と考えられます。
その証拠に大化の事件の時に、中大兄皇子軍と蘇我入鹿軍との飛鳥丘で対峙した時、蘇我軍の雇軍の職能集団の首魁の東漢氏は自分の判断で即座に軍を牽く事件が起こりました。この事は普通なら帰化人に左右する事柄です。事と次第では決着戦に成る事も考えられた筈で指揮を仰いだ筈ですが、入国後20年の「阿多倍」は介入しなかったのです。
これはこの段階では「職能集団の首魁」の判断に任していたと考えられます。また20年の混乱状況の中で詳細に指揮する状況は未だ確立されておらず無かったと考えられ、恐らくは敏達天皇の末孫との血縁で准大臣に成り、長男の坂上田村麻呂が朝廷軍の指揮官に成った期間が混乱期からやっと立ち直り一番に阿多倍の指揮能力が高まった時ではないかと考えられます。しかしこの時は最早、天皇家との血縁族と成り得ていたのですから、この時点ではこの共和制の危惧は無く成っていたと考えられます。
ただ、皮肉にも「邪馬台国」のあった北九州域の「自治の要求」問題は逆に高まっていたのですが。

その様なやや進んだ状況の中で、そこで”生まれて来た”のか、否”作り出した”と云った方が適切であったと見られますが、「邪馬台国からの鬼道信仰−産土神信仰」の「2つの問題」を解決する方策、それが「祖先神」なのです。
丁度、「産土神」の「自分の単独神」を「祖先神」の「自分の固有神」に変化させ、それに自分の組する「集団の神(氏の神)」を付け加えて両者の「妥協の産物」と見られる「神」を天皇と朝廷は創造したのです。
勢いづいた「産土神」に「祖先神」を加えた「2つの神」を融合させる事で「民族氏」から脱却し、「祖先神」が求めるそれまでに無かった「氏」の概念を取り入れて、”「7つの民族」が「一つの氏」(融合の氏)にさせる事で「国の安寧」は起こる”と考えたのです。
その政策が”「青木氏」を発祥させて天皇家自らが「融合氏」を作り出して行く”のであって、実に巧妙に政策転換したのです。驚くべき素晴らしい政治判断であったと考えられ、”現在にそのような移民の問題が起ったとしたら果たして現在の為政者はこの様なすばらしい政治判断と政治力を発揮できるでしょうか” 、筆者は断言して無理だと考えます。それだけに大化期から嵯峨期までの天皇能力には素晴らしい政治力があったと観ているのです。
「鬼道」による「自然神」は「朝廷の祭祀」の中には現存として遺しながら、それを強く引き継ぐ「産土神」を完全否定するのではなく、より「融合性」のある「祖先神」の集団性を有する「氏の概念」を創り上げたのです。
その「氏の発祥源」が我等「青木氏」であり、天皇家自らも「天皇家」のみに通ずる「皇祖神」とする神の概念を創造したのです。

「天皇家の皇祖神」→「伊勢神宮」→「神明社」
「青木氏の祖先神」→「神明社」
「伊勢神宮」→「皇祖神」+「祖先神」
「伊勢神宮」→「自然神の祭祀」
「産土神」の「自分の単独神」→「祖先神」の「自分の固有神」

この「関係式の概念」を天皇は「産土神」を意識しながらも社会にその新しい概念を行動で強く示したのです。
その概念を広めるために「青木氏」の育成と「祖先神−神明社」の建立を急いだのです。
これに依って社会の中には次ぎの様な信仰対象が出来上がったのです。

「自然神」+「皇祖神」+「神道」+「仏教」+「産土神」+「祖先神」

以上の「6つの信仰」が大化期には混在する事になります。

しかし、ここにはこの「祖先神」は「全国民」を対象とした「固有神」としながらも、一方では「民の領域」の神(物造りの神 生活の神)だけでは無く、あくまでも特定領域の未だ存在しないこれから生まれる「氏」の「神」でもあったのです。
そもそも平安期までは百姓(おおみたから)はまだ「氏」を構成出来る社会では無かったのです。
(当時は宿禰族を含む皇族以外の良民を「おおみたから」と呼んだ。 良民以外に賤民や奴婢や脾民や囚民などがあった。)
ここに「国の安寧と安定」には「民」の「共通する神」を創造する事を目途としながらも、他方では「融合の氏」の発祥を創造したのです。天皇の考えている事が良く判ります。

ところが、この時期の国民を信仰範囲毎に分けるととして次ぎの様に成ります。

百姓層(おおみたから)は「自然神」「産土神」「仏教」
支配層は「自然神」「産土神」「仏教」
皇族層は「自然神」「祖先神」「仏教」
朝廷は「自然神」「皇祖神」「神道」「仏教」
以上の様に信仰対象は家柄身分制度の中ではこの様に異なって行ったのです。

百姓層(一般の民)は「氏」を構成しません。構成する概念そのものが無かったのが現実です。
むしろ、そもそも大化期前後は、これから「氏」そのものを作り出して行くと云う過程域であったのです。
4世紀後半には「民族氏」で出来上がった地名からの「氏名」がやっと生まれ始めた時期から未だ200年程度しか経っていないのです。
(現在の時間列:時間感覚と異なる 現在では25−50年以下程度感覚)
信仰の対象神が上記の様にくっきりと分けられてはいますが、だからと云ってこの範囲内で信仰すると云う概念では無かったのです。(曖昧思考原理の時代)
そこには「天皇−民」との繋がりを持つ先ずは「優先の社会概念」があって、「天皇が信じる神」は「民の大元の神」とする概念であったのです。

「天皇が信じる神」=「民の大元の神」=「自然神」 (「万系一途の法」の概念の時代)

「天皇-民の共通する神」はあくまでも「自然神」であり、その「自然神」の中に「産土神」や「祖先神」などの神があり、「民」の各自は「夫々の神」を求めながらも天皇が祭祀する「自然神」に通じていると云う概念なのです。
当然に”天皇個人にも「固有の神」(「皇祖神」)がある”とするのがこの時代の概念なのです。

事程左様に、”それが「皇祖神」であり「祖先神」であった”と云う事なのです。
そしてこれを社会構造の政策の中心に置くと云うメッセージなのです。
従って、直ぐに「祖先神」そのものを信仰対象とする事はありませんが、だからと云って ”信仰の対象としない” と云う考え方は現在の考え方であって、当時は上記した様に合理的に物事を割り切ってスパッと思考を固めると云う概念では無く、物事の境目は”「ラップ思考」で考える”と云う概念でした。
”どちらに属する” 場合に依っては”どちらにも属しない” と云う「曖昧思考」が通常の思考感覚だったのです。
「ラップ思考」+「曖昧思考」=大化期の思考原理
むしろ、スパッと割り切って考える方に対して「悪」「邪道」であるとする思考原理だったのです。
従って、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理であったのです。
故に、”その「媒体」として「占術する者」が必然的に思考として存在し、当然にその「伝達手段の占術」が必然的に当然の如くに存在する”と云う事が何の疑いも無く信じられていたのです。
現在でも筆者はこの思考の方が社会構造からして正しいと考えていて、然し、科学が近代化するに従い生活環境が激減している中では「相対の二次元思考」の傾向になると考えられます。
まして現代では上記の「予知能力の複眼」が低下した中では、余計に人は二次元思考と成りがちです。
然し、人は本来は曖昧思考として生まれて来ているのです。

古代の人間の営みの中では、生活には「神の意思」を知るには「占術」は無くてはならないものであったのです。それだけにこの時期の「気候変動の飢饉」は「神の意志」であると捉え、余計にこの「飢饉」で苦しめられる”「神の意思」が何であるのか”を当然の事として知りたがるのです。
それだけにより正しく伝えられる占術を選ぼうとする事に人は必然的に成ります。
それが「弥生信仰」から「鬼道信仰」へと変化した経緯の原因であって、終局は”人が生存して行くには「緩やかな政治連合」へと進んで行かねばならないと”自然的と云うか必然的と云うか「人の発露」の流れの中にあったのです。
そもそも「現在人が考える政治連合体」と、「古代人が考える政治連合体」とは、その過程は質的には大いに異なっているのです。つまり上記で論じた思考原理が異なっているのです。
上記の通りこの時代の”政治的に収束して行く流れの中の一つの必然的な現象”であったのです。
だから、「北九州の緩やかな政治連合体」と「関西域の緩やかな連合体」との「広域の政治連合体」を成し得たのです。
「魏志倭人伝」に記載されている様な「血縁性の無い民族的な古代国家集団」30がこの為に政治的な連合体を構築したのです。「大飢饉の解決」を前提にして「神のお告げ」として。そしてその「御告げの手段」は「弥生占術」から素早く決別し「鬼道占術」に切り替えたのです。
その趙著の無い切り替えの素早さは、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理が働いたからなのです。
これは「宗教的な信念」に依るものではなかったと云う事なのです。
宗教的な事でないが故に、「広域の緩やかな政治連合体」が成し得たのです。
利害は「大飢饉」の事から逃れるを目途として、その「食」を一点にして「鬼道信仰」の「卑弥呼」に賭けたのです。その「心の切り変え」として「銅鐸の破壊」なのです。

当然に、「総称の邪馬台国」の飢饉から「気候変動の300年周期」を経過し脱出した「気候変動」の緩やかな大化期の時期に成った事から、17県民−200万人の後漢の帰化人を受け入れられる食糧事情と成り得ていたのです。当然に、これ等の人口を支え得る全ての分野に進んだ職能を持ち込み、それが一つの補完要素となっていた事は否めません。「食」に対して「生活の質の向上」に対して急激な経済的な変化を遂げたのです。勿論、政治的な質の向上も彼等が持ち込んだ知識で遂げたのです。(冶金技術や木工技術などの上記した事等も現在でも驚くべき基礎技術であるのです。

この「思考原理」に依って6−7世紀の奈良期末期からは「氏家制度」の完成に向ってその対策として「融合氏政策」を推し進めていたところです。
”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理の社会の円熟期には、「緩やかな政治連合体」をより確かな「政治連合体」に発展させるには上記の「人」のあるべき姿を変え「民の構成」を変える必要性が課題として生まれて来たのです。
それは「人のあるべき姿」「民の構成」は「7つの民族」を完結に融合させて一つにする事であり、それには「融合氏の発祥」であった筈なのです。「民族氏の解消」が「緩やかな政治連合体」から「緊密な政治連合体」へと進められる条件であったのです。
邪馬台国の卑弥呼が亡くなり「気候変動の飢饉」が収束に向かい始めた時期のヤマト王権−ヤマト政権−大和朝廷、そして次ぎの時代のステップとして、つまり大和にその主導権が移った時からこの課題に取り組み始めたのです。
(その一つが青木氏−皇祖神−祖先神−神明社−3つの発祥源であった事を本論の主幹点であります。)
前記した様にその取り組みは、 ”天皇の下に「氏」が存在し「姓」が存在し、百姓の下に賤民が存在する” と云う身分と家柄制度を敷いた社会であったのです。
「民の象徴」としての天皇が存在し、その天皇が信仰する「皇祖神」「神明社」に対しては「民」にとっては大本の「民の神」とも成るのです。
皇族系、外戚系の「2つの青木氏」には「神明社」は「祖先神」と成りますが、百姓や支配層の「人民」にも直接は「産土神」を信じながらもその「大本の神」とも捉える思考概念となるのです。
もとより天皇は根本と成る「自然神」を基盤に祭祀し、更には「仏教」を信仰の対象と置いている訳ですから、尚且つ何れにも配慮した中間的な形にした「皇祖神」−「祖先神」の「神明社」を持つ事に成る訳ですから、この「大本の神」とする概念には矛盾が無いのです。
まして、「人民」が一人々に「産土神」を持つ様に、「天皇」も又一人として「祖先神」を持つ事には何の不思議は無いのです。
この「祖先神」の概念は、上記の様に支配層にも配慮しましたが、「氏」の先祖は「仏」である事から「仏教」にも通ずる配慮もしている事に成ります。故に「神仏融合の神」と捉えることが出来るのです。

「祖先神」=「神仏融合の神」

これでは仮に作り出した概念であるとしても「祖先神」に抗する者は出ない事に成ります。
この配慮を考える時、天智・天武の天皇は「大化改新」の驚きを超える膨大な数の改革を行いましたが、この論文に記していないものに次ぎの様なものがあります。
1 「国内の国防システム構築策」(水城・山城・防人・・)
2 「国発展の列島内に網の目の様に廻らしたインフラ整備(駅舎・烽火情報伝達・・)
3 10M以上の広幅の真直線道路(現在より広幅軌道で真直線・現在に劣らない土木工学)
  (高軌道の東山道・高軌道の山陽道・高軌道の東海道・高軌道の南海道・高軌道の西海道等)
4 「貨幣経済・和同開珎」(銅と鉄の生産を本格開始 驚くべき冶金・金属技術)
5 「部による市場経済」(説明済み)
6 「物造りの殖産政策」(説明済み)
7 「仏像などに観られる文化政策」(仏教を使って信仰対象を「仏法」にも求めた)
8 「政治機構の改革」(律令の基盤構築)

以上を個々に調べると現在の土木建築工学で観てもその施行原理は劣らない程で驚くものです。
この様な「物造り」は急に大化期に発展したのでは無く、勿論、阿多倍等が率いる後漢の民の職能集団が持ち込んだものなのです。
この混在する「神」の中で ”彼等の全面的な協力を勝ち取った”と云う事だけでもそれだけでも為政者としては十分な能力です。そしてこれだけの発展とこれだけの政策を何と50年間で一挙に行ったのです。
これだけの実績を持つ為政者は現在までに於いて誰一人いません。先ず、出ないでしょう。
恐らく、民はこの2人の天皇に対するものには「神格的な感覚」を持っていたものと見られ、確かに税に対する不満は日本書紀からも伺えますが、国のリーダーとしては「神格性」が生まれたのではないかと考えられるのです。
恐らくこの大化期のこの「神格印象」が後々まで残ったのでは考えています。その「神格天皇」の下に融合氏として青木氏が発祥したのです。
(その「2つの青木氏」がその立場を認識して守り通したと云う事に成ります。上段でも論じた様に、同じ立場にいた賜姓源氏は八幡社を汚し、荘園制を乱し、当然に上記の立場を汚したのです。)

「自然神」−「神の意思」−「神格化した天皇」−「民の神格対象者」−「国家政治」

「自然神」−「鬼道」−「卑弥呼」−「神のお告げ」−「連合政治」

この上記する「邪馬台国」の「自然神」から来た「鬼道」による「占い政治」の感覚が大化期にまで緩やかに引き継がれて来ました。そこに「2人の天皇」の上記する驚くべき政治の改革実績を成した事で、”「神のお告げ」の正確な伝達能力を保有する「神格的な特別の人物」”と「民」は観たのでは無いかと考えられます。
従って、「人民の不満」は何時の世も大なり小なりあるとしても「ラップ思考」+「曖昧思考」=「大化期の思考原理」が働き、「天皇への不満」と云う形では無く、その下の「為政者・皇親政治族」に向けられていたと考えるのが妥当と観ているのです。
確かに、上記の全国網のインフラ整備だけでも「税と労役」(租庸調)の民の負担は限度を超えている事は確かであり、これに上記の大化の政治改革が成されたとすると「税と労役」では無理であります。
何か特別な政策がこれに付随して計画的に実行されないと出来るもので無い事は明々白々です。

”ではそれは何であったか”と云う事に成りますが、私は前記している様に「部による物造りの経済」と「貨幣経済の導入」の連動策にあったと考えています。
これをよりにこの策を効果的にするには基盤と成る「公地公民」制度を敷く事ですから、その財源的裏付が論理的に完全に組まれていたのです。
そして、その改革に依って「民」に「大きな恩恵」をもたらした事で民は重税に納得したのではないかと考えられます。既に阿多倍一門がもたらした職能を民は教わり潤いを得ていた教訓があり、其処に目に見えるように急激に進歩し変化して行く社会のこの「政治改革の実績」を庶民の前に見せられたのです。
百姓は”生活と社会は良くなる”と受け取っていた筈です。

資料や日本書紀の記述からこの「民の印象」を観て見ると、全国から上記のこの建造されつつある広軌道の「直線幹線」を通って「税」を運び、「労役」の為に「伴造」と共に移動するのに「手弁当」であった事が書かれています。又、「税の耕地面積」を広げる代わりに負担対象者が6歳に下げられた事等を見ると、この「手弁当」と「税負担と耕地面積」に意味が隠されています。
悪く捉えれば”過酷で不満たらたら”と成り、良く捉えれば”社会が良くなる。頑張る”と成ります。
現在の学説は前者ですが、私は後者です。前者であればこれだけの改革は困難です。
一つの改革なら未だしも驚くべき改革とその数が実行されているのです。前者である事は無い筈です。
”社会が良い方向に変わる事を夢見て民は苦しいけれど頑張った”と云うのが現実の映像であったのです。
そして、その「民の不満」の「心の拠り所」の手当策として「自然神」に加えて「皇祖神」「祖先神」−「神明社」を創設・建造して行ったのです。

”いつの世も楽して良く成る”は有りません。奈良期の民がこの条理を理解できない「知力」だったのでしょうか。そんな事は有りません。この「インフラ整備の技術」は「現在の土木工学」と寸分違いが無いのですよ。この学説によくある事ですが、何か別の意味が隠されている気がします。
そもそも日本に8000の氏姓が居るけれど、我々「4つの青木氏」だけがこの「後勘の評価云々の渦中」にいますので、”正しく史実の解析結果を子孫に伝えるべきだ”と考えているのです。

学説・通説は直ぐにトップの責任として説を作り上げているのですが、まして、当時の「社会慣習」や「社会構造」や本文の「5つの神」や「大化期の思考原理」(「ラップ思考」+「曖昧思考」)やこの様な「偉大な政治実績」や「神格性を持つ社会」から観て”異なる”と云う感覚を持っているのです。
むしろ、現在から見てもこれだけの改革を成し遂げられる人物は ”「神」に相当する神人の成せる業”と考えられます。まして大化期です。現在より「神格性の強い社会」の中です。

前記した様に、故にこの「2人の天皇」の「偉大さ」が後の天皇の「桓武天皇・嵯峨天皇」と「後三条天皇・白河天皇」に引き継がれて其の「意思の実現」に立ち上がったのだと観ているのです。
この「2人の天皇」そのものを後の天皇は「神格化」に近いものとして扱っていたと考えているのです。真に「自然神」−「お告げ者・神格天皇」−「天智・天武」であったのです。
これが後々まで「自然神」−「鬼道」−「お告げの卑弥呼」から始まりこの2人の業績により「天皇の神格化」の世論が生まれた原因と観ているのです。

事程左様に、「祖先神」を定めた事には反対者は居なかった筈です。しかし、この50年以降には「民族氏」が勢力を拡大して反抗する勢力が出て来たのです。それが「産土神」を信仰対象とする朝廷外に居た後漢の民の阿多倍一族一門とその職能集団なのです。(前記)

この様に「民族氏」を「融合の氏」にする必要性を感じて「氏融合政策」に主導し体制を変えようとしたのです。依って其の為に天皇家が率先して行う事を決めたのです。
そしてその形成された「融合氏」の「氏発祥源・皇族賜姓青木氏」や、同じく「氏発祥源・賜姓藤原氏」等が各地で発祥するに連れて、「民族氏」の「産土神」が混在する中で新しい「融合氏」はそれぞれの「独自の氏」の「安寧と結束」を願って「氏の神」を定めました。
この為に朝廷は天皇家の「守護神」を決める必要があるとして、上記の「天照大神」を祀る神社を「皇祖神−祖先神」としてそれを「神明社」と定めたのです。
そして、皇族から出た「融合氏」の「発祥源」の青木氏に先ずこれを祭らせ護らせたのです。
この事に依って皇族系族は天皇家の「皇祖神」を「祖先神の考え方」で守護神とした事に成るのです。
この役目を負った賜姓青木氏は「神明社」の「伊勢神宮」、そこから守護王が存在する天領地の19の土地に分霊される様に成ります。
それに連れて「融合」が進み、より強く「2の祖先神」が各地に伝播して「産土神」に対抗する形で変化して行ったのです。
この変化は「守護神」が代わったと云う事だけでは無く、「考え方」そのものが変わって行ったと云う事になるのです。
天智天皇は「融合氏」を増やす事そのものを目的としたのではなく「融合氏」を増やす事で「民の考え方」を変え様としたのです。其の考え方が「祖先神の考え方」なのです。
これに依って「産土神の考え方」から来る「共和の世の形」を防ぎ、この「考え方」を増やして「国の安寧と安定」が図られると考えたのです。
其の為には論理的に次ぎの「2つの事」が必要に成ります。
第1策
先ず一つはそれはその「祖先神の考え方」を持つ「氏」を多く速く作り出す事、”皇族系の純血を護ってきたが最早その場合では無い”として、それを率先して天皇家から出自する事が「融合の政策促進」と「民の合意」が得られると考えたのです。
当然に、皇位継承問題で大蔵と内蔵ともに経済的負担が大きいとする通説の理由は勿論の事、上記の「産土神の考え方」の蔓延で危機感を感じていて「体制維持」が困難と観ていた事も大きく理由の一つとして占めていたと筆者は考えているのです。
これは放置できる問題では明らかに無い筈で彼等の進んだ技能と知識を享受している在来民は「産土神の考え方」になると「天皇家の存在価値」は薄らぎ明らかに低下する筈です。
そこで、皇位継承制度を次ぎの様に変更したのです。
それまでは「第6世族までを順位に応じて次ぎの1から4の権利を有する」としていました。
1 第4世第4位皇子に皇位継承権
2 第6位皇子を賜姓臣下させ近衛府軍に
3 第6世族を「ひら族」にして坂東防衛に
4 第4世族までを守護王位にして配置

これが2番の第6位皇子の「融合氏の青木氏」であり、3番の皇族系の「第6・7世族の融合氏」であり、第4番の各地の天領地の「第4世族守護王の融合氏」なのです。
第6世族で皇族・純血の枠の中に閉じ込め下族を許さなかった制度を大化期には一挙に開放している事が判ります。
決して通説の「経済的負担」だけを主とするものでは無く、「体制維持の危機感」から「融合氏の排出」が国策として必要であったのです。
「経済的負担」とするのならば、第6世族のままで1から4を実行すればよい筈です。何も分ける必要は無い筈です。
現に、「嵯峨天皇」は150年後にある一定の危機が去ったとして、嵯峨期の詔勅・「弘仁の詔」でこの制度を「第4世族」を「第6世族」まで緩めているの事でも証明出来ます。


第2策
第1策を実行した上で、次ぎにはそれの「象徴物」を造り、そこに「民の心(不安定な心)」を引き付ける為の「産土神の考え方」を抑えて「祖先神の考え方」を象徴する物体を造る事に成ります。
つまり、これが「神明社」なのです。
この「神明社」の「伊勢神宮」の元と成った宮社の鎮座地は下記に示しますが、実は元々からこの伊勢松阪には鎮座していなかったのです。
元は「自然神」の祭祀であった事から大和の皇居内に鎮座していたのです。
しかし、崇神天皇が皇居内に鎮座する事は好ましくないとして13の国と81の鎮座地を遍歴させて90年後の天智天武期(670−675年頃)にこの伊勢松阪の位置に定めた経歴があるのです。
とすると、この81もの遍歴は”皇居内の祭祀は好ましくない”とした通説には多少疑問が残ります。
兎も角も遍歴地と国と年数に疑問が出て来ます。
後漢の民が渡来した時期の第1陣は618年を境に100年間と見ますと次ぎの様に成ります。

大量に入国した時期
渡来開始期は後漢から魏に成った時230−35年頃
第1陣は570−80年頃
第2陣は670−80年頃
阿多倍の帰化時期は645年 孝徳天皇期

天智天武期670−675年から逆算すると90年間では580-585年から開始し、675年頃で比定地に定まったと成ります。
経緯
洛陽の東の住していた後漢民が唐に圧迫された隋が東に逃れ後漢の民を圧迫(高句麗遠征)し、隋滅亡期の618年頃前後に後漢の民の大難民と隋建国581年とほぼ一致します。

第1陣の前には隋に圧迫され始めて徐々に難民として上陸した時期は10年程度と見られますが、「後漢」が「魏」に引き継がれた時期235年前後頃にも後漢の民は一部北九州に押し寄せます。

この事から鎮座地の遍歴は何も”皇居内の祭祀は好ましくない””「適地探索」”の通説だけでは無かった事を意味します。
つまり、高句麗遠征に依って「後漢の民」が難民として入国し、上記した国内の「産土神の考え方の蔓延」に対してこの時期から既に懸念されてい他のです。
この対策として大和の近隣国の13の国々と80の地域に「自然神の皇祖神の祭祀宮」を建てて「産土神の蔓延」をこの地域だけには留まる事を狙って押さえにかかったのではと考えられます。
そして、その対策の考え方が引き継がれて天智天武の「伊勢神宮を皇祖神」として正式に決め、上記する「融合氏の国策3策」を展開したのです。
引き続き「皇位継承制度」に基づく1から4の地域を鎮座地として定め、19の地域に「神明社」を建立して、合わせて「100の神明社」の分霊を急いで建立したと考えられます。
この間約30年間で実行したのです。
この説からすると、合わせて「100の鎮座地」の「神明社」を「120年」(30+90)で天領地とされる全ての地域に建立した事に成ります。
これが天智天武の大化期に於いて成された事に成ります。
何と1年に1社の速さです。この時期の建設速度の能力からすると現在でも神社仏閣は1年程度弱と見られますので如何に早い事が考えられます。
通説とするのであればこの様な速さと行動は取らない筈です。
間違いなく「産土神」への危機感を抱いて「融合氏3策」(1)と「神明社建立策」(2)と「祖先神の普及」(3)を懸命に図ったと観ているのです。
何時の世も世の中の事は通説のような簡単な事では動いていない筈です。

ですから、この上記「3つの策」(1〜3)が政策的に連動して行われ、皇族系の「融合氏」が守護を務める全ての地域には、その象徴として「祖先神」の「神明社」を建立して行ったのです。

ですから、「第6位皇子の5つの天領地」と「第4世族内の朝臣族・宿禰族の定住域」と「第6・7世族のひら族の配置した地域」の「3つの地域」には、前段で論じた様に強く「祖先神の考え方」と多くの「神明社」が存在する事に成ります。
「関西全域」と「5家5流の土地」と其の周囲、「坂東域」とに多く観られ、この「3つの地域」の「氏の融合地域」(出羽・新潟等)に確認できるのです。(神明社の分布と資料参照)

しかし、この坂東域は「坂東八平氏」(ひら族)として「融合氏」を拡げます。
更にこの坂東には皇族の者が罪を得た時に配流先と定められていた為に、そこには「配流孫」と云う「融合氏」が発祥しているのです。
しかし、ここには平安中期から末期に阿多倍一族一門が勢力を拡大し「坂東八平氏」の「融合族」は一時衰退するのです。
後に、平安末期にはこの「配流孫」は最初は地域の土豪の氏名を名乗り、「嵯峨期の詔勅」が発布されるに基づき「青木氏」を名乗る事になります。
「多治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」 「真人族島左大臣」の「配流氏の青木氏」の「2つの皇族青木氏」が発祥しています。

前記した様に阿多倍一族一門とその支配下の技能集団の分布が出羽・陸奥の地域まで進出している事から観ても、「産土神の伝播」は西北の広範囲に及び、国土の大占有は元より感覚概念の点でも蔓延していたのです。(前段で内蔵氏−阿倍氏−安倍氏の段で論じた)
筆者は、”関西関東域の範囲で戦略的に固める戦略戦術の作戦を先ず採って、西と北を各個攻撃で潰して行き、そして潰したところから皇族系に近い融合氏を配置し、そこに関西域と同じ様に「神明社」を建立し、「産土神」を排除して「神明信仰」を浸透させる戦略を採った” と観ているのです。
しかし、九州域だけは国内に「荘園制の行き過ぎ問題」が起こり、「土地の私有化問題」も出てしまい、阿多倍一族一門の本領の「関西以西の神明社化」が果し得なかったのです。
蔓延が進み、最早、「九州域の自治」を認めるしか方法は無かった状況であったのです。

「神明社の分布」は全くこの政治的経緯のパターンに成っているのです。
因って、建立できる状況ではなかった事を意味し、兵庫西域から九州全域に掛けて分霊による神明社は見事に全く無しであります。
(詳細は資料参照)

この神明社の分布域は完全に「全ての青木氏に関わる地域」(A)と「皇族系の何らかの縁の地域」(B)にあります。
その分布数も「縁の大小」に比例しています。又、建立時期もその「縁の古さ」に比例しています。

特に分布の低い地域の特長としては、「産土神の地域」と「阿多倍地族一門の地域」を中心とする出雲大社域、厳島神社域(たいら族)、住吉大社域、阿蘇神社域、宗像神社域、熊野神社域、八幡神社域(源氏)、春日大社域(藤原氏)の社領域に一致しています。
この領域には当然の事として「神明信仰」は余り広がらなかった事を物語ります。

「神明社の縁の地」
A「5家5流皇族賜姓族青木氏24氏」
B「嵯峨期の詔勅の皇族系青木氏と配流孫青木氏5氏」
C「藤原秀郷流青木氏24地方119氏」
D「皇族系第6・7世族のひら族 坂東八平氏」
E「上記の歴史的史実の縁の地」
F「一部の近江佐々木氏 始祖川島皇子」

この様に其の出自に依っても「産土神」や「祖先神」に付いても、当然に”その「氏姓」の「信仰対象」が何であったか””その出自地が何処であるか”でもそのルーツがよく判る事に成ります。
当然に、「2つの青木氏」は「独自の神明社」を持っている事に成りますので、この「青木氏の神官職」も多い事に成り、その「多さの分布」もこの「神明社の分布」に比例する事に成ります。

下記の分霊地の神明社には「神官職」と共に、その建造に当たる「職人の襲名青木氏」も必ず存在しているのです。
ただ、この場合は派遣する形を採るので、初期は伊勢を始めとする「5家5流の地」と「武蔵の地域」と成っていましたが、それ以外にも秋田、新潟、等にも定住しているのです。
この「神明社分布」は「青木氏」を物語る指標にも成るのです。

(「民族氏」=「産土神」)→(「祖先神」=「国の安寧と安定」)→(「融合氏」+「神明社」)
「人の単位」→「氏の単位」

上記しましたが、改めて県単位での建立地とその数を重記します。

「神明社の分布」
北海道 2 青森 13 秋田 26+7 岩手 11 山形 15 宮城 14 新潟 55+6
福島 9 栃木 12+2 茨城 8+1 千葉 22 群馬 12+2 埼玉 15 東京 30
神奈川 9+2 静岡 18 長野 13+2 山梨 69+3 岐阜 31 愛知 33 
富山 32+1 石川 1+1 福井 8 滋賀 3 三重 5 奈良 1 京都 2 和歌山 2
大阪 1 兵庫 11 鳥取 0 岡山 1 島根 0+1 広島 2+4 山口 1 徳島 3 香川 1 愛媛 2 高知 4 佐賀 1 長崎 1 熊本 1 大分  宮崎 4 
鹿児島 0+3

以上「566戸数」に成る。

以下も前段で論じたものです。

「分布域の分析」
東山道−東北北陸 6県−105−18.6%
建設地域   戸数   /地域   /全国
青森(陸奥) 13   12.4  2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4  5.8
山形(羽前) 15   14.3  2.8
岩手(陸中) 11   10.5  1.9
宮城(陸前) 14   13.3  2.5
福島(岩代) 9     8.6  1.6

東山道−中部域 6県−145−25.6%
栃木(下野) 12+2  9.7  2.5
群馬(上野) 12+2  9.7  2.5
山梨(甲斐) 69+3 49.7 12.7
長野(信濃) 13+2 10.3  2.7
岐阜(美濃) 31   21.4  5.5

北陸道域 4県−104−18.4%
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7  5.8
石川(能登) 1+1   1.9  0.0
福井(越前) 8     7.7  1.4

東海道域 8県−154−27.2% 
茨城(常陸) 8+1   5.8  1.6
千葉(下総) 22   14.3  3.9
埼玉(武蔵) 31   20.1  5.5
東京(武蔵) 30   19.5  5.3
神奈川(相模)9+2   7.1  1.9
静岡(駿河) 18   11.7  3.2
愛知(尾張) 33   21.4  5.8

畿内域 4県−13−0.2%
三重(伊勢) 5    38.5  0.0
奈良(大和) 1     7.7  0.0
大阪(摂津) 1     7.7  0.0
京都(近江) 2    15.4  0.0
和歌山(紀伊)2    15.4  0.0
滋賀(近江) 3    23.1  0.0

山陽道 4県−19−0.3
兵庫(播磨) 11   57.9  1.9
岡山(美作) 1     5.3  0.0
広島(安芸) 2+4  31.6  0.0
山口(周防) 1     5.3  0.0

山陰道 2県−2−0.0%
鳥取(伯鰭) 1          0.0  
島根(出雲) 0+1        0.0

南海道 4県−11−0.2%
徳島(阿波) 4    36.4  0.0
香川(讃岐) 1     9.1  0.0
愛媛(伊予) 2    18.2  0.0
高知(土佐) 4    36.4  0.0

西海道 7県−13−0.2%
福岡(筑前)1      7.7  0.0
佐賀(筑後)1      7.7  0.0
長崎(肥前)1      7.7  0.0
熊本(肥後)1      7.7  0.0
大分(豊前)1      7.7  0.0
宮崎(日向)4     30.8  0.0
鹿児島(薩摩)0+4  30.8  0.0
         
北海道   0
沖縄    0

(+は分霊に疑問 大化期以降の神明社 県と国の違いあり 建立時期は参拝に影響する為に明らかにしていない調査不能 一部に室町末期と伊勢詣の江戸期含む可能性あり 原則室町中期までの建立物とする 建築様式から判別 祠は含まず 県域と国域は一致せず存在地優先 分霊外と支社外は含まず)

さて、上記でも論じましたが、次ぎに再び「氏神」に付いて追記します。

「氏神」
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

実は上記した経緯の数式には一時突然に変異が起こったのです。
実は現在までの間に、特に鎌倉期にはこの「4つの神」が混同されて同じ扱いや間違いを起こし始めたのです。(上記で論じた)
3つ目の「氏神」は ”「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」” であるのですが、これが「祖先神」から「鎮守神」までもいれて「氏神」と呼称された一時期があったのです。
これは平安期の「仕来り」が崩れ、「民族氏」が1018年以降に他氏との「融合」が進み、「融合氏2」(第2の融合氏)と変化し「融合氏1」との差が見えなくなった事と、多くの品部が「姓氏」と成り、中には「氏」と成って勢力を拡大した事で「氏」の見極めが困難と成った事から同じ扱いと考えられたのです。
「融合氏2」(第2の融合氏)
「融合氏1」(2つの青木氏)
「姓氏」(職能集団 等)
しかし、鎌倉幕府の政策が「平安期の社会体制」を基盤として「武家の体制」を作り上げて行った事から次第に夫々の「神」を守護神とする様に戻って行ったのです。
そして、鎌倉末期から室町期に入ると激しい「下克上」が起こり、「姓氏族」が支配していた多くの「氏族」は平安期の中期の状態まで減少して潰されて行きます。
「民族氏社会」−「氏族社会」−「武家社会」−「下克上社会」−「姓氏族」
逆に家長・家人・郎党であった者等の反乱で「姓氏族」を興した一族が増えて行ったのです。
「姓氏族」から「氏」を興した者が結局、「産土神」や「祖先神」でも家柄身分の差から「守護神」と出来ずに、結局、総称的に呼称されていた「氏神」を「3つ目の氏神」としたのです。
つまり、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」の考え方です。
従って、「氏」としての歴史が無い為に「独善の神」としたのです。
この「姓氏族」が結果として大半を占めた事から既成の事実として「3つ目の氏神」が生まれたのです。
しかし、この「神」は「時代の変化」と共に変化して行きます。

天智天皇に依って賜姓を受けた「藤原氏」は「春日社」を定めました。
当初、奈良期前は「民族氏」であった事から「民族性」が強く、その「信仰の概念」は血縁以前に「人」の単位で考えられ、個人自らの1の「産土神」の「神」としての位置づけであったのです。
しかし、奈良期の大化期からは「融合氏」の初期政策が進むにつれて「氏族社会」(氏家社会)が起り、「人の単位」と血縁の「氏の単位」へと変化する過程の中で、「人の単位」と「氏の単位」とが重複融合された2の「祖先神(祖霊)」の「神」へと変化して行ったのです。以降この過程の変化であったのです。

「人の単位」+「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」

しかし、平安期初期に成ると、「第1の融合氏」が拡大し、それに伴って「人の信仰概念」は「民族氏」を保持する阿多倍一族一門の「産土神」の概念を遺しながらも「人の単位」の考え方が徐々に消え失せて完全に「氏・姓の単位」に移行してしまったのです。

(「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」:氏家制度)

平安中期に成ると「氏の単位」+(「姓の単位」)=氏家制度と成ります。
これが新たに生まれた3の「氏神」(うじがみ)の信仰と成るのです。
但し、民の領域では土地に恩恵を受けて生きる環境から「自然神」−「産土神」が依然として残っていたのです。
そして、平安中期からでは「渡来人意識」、平安末期1020年頃を境に人々から「民族氏的な概念」がほぼ一部(九州南部)を残して消えて終います。
大化期2始まった「氏の融合策」の浸透に依って「姓氏」の初期の発祥も伴い、「融合氏」が「普通の集合体」として「荘園制の拡大」の影響と共に各地に分散します。
そして、その分散が氏の更なる枝葉の「末梢子孫の細分化」が起こり定着します。
その定着地の土地・地域全域に対する愛着から「氏神の考え方」に観られる様に「土地・地域に対する概念の信仰」が強まります。
大元の「氏神」が存在する中で、平安期中期頃から末期にかけて「土地の神」の4の「鎮守神」(ちんじゅのかみ)の信仰が初期の信仰として起こり始めたのです。
そして、平安末期後半には「氏の融合」と同じく、「氏神信仰」と「鎮守神信仰」との「神の共存」と「神の融合」が起り、遂には、「神の競合」も起こる状況と成ったのです。

つまり、「神の共存」と「神の融合」か起ると、「民族氏」の社会の中では「人」であったものが、次ぎの”「人」→「融合氏」”の変化の社会の中では、「氏」は”集団の「氏」→多集団の「氏」”の社会と成り、その中では「人」→「土地・地域」へと変化して行ったのです。

例えば、
「皇族賜姓青木氏」は「皇祖神−祖先神−氏上信仰」の「神明社」伊勢神宮の1つの信仰対象
「藤原氏一門」は「春日社」の「鎮守神」と「祖先神」の2つの信仰対象
が生まれたのです。
これはそれぞれの「氏の持つ特殊性」が左右しているのです。
「皇族賜姓青木氏」は5家5流から成りますが、限定された「小地域」(5)であり「融合氏」と「皇祖神−祖先神」であるが為に、藤原氏の様な「重複の信仰」は不義として成し得なかったのです。
それに引き換え、藤原氏、特に「秀郷流青木氏」は「各地」(24)に氏を融合させ119氏とも成り、枝葉の末梢子孫が生まれたことから「自由性」「特異性」が拡大します。
この為に「各地の事情」を含有して「重複で複数の信仰対象」が生まれたものです。
つまり、その「氏」の置かれた「人と土地」の「環境下」では下記の「4つの信仰対象」が異なり、1や2の「古い神の信仰の温存」や「神の共存」などが起こったのです。
その意味で藤原氏の一部には下記の様に「初期の鎮守神」を守護神とする「春日社」もあるのです。
奈良期から悠久の歴史を持ち最大の末梢子孫を持つ藤原氏北家ならではの事です。
その「鎮守神」の経緯について追記しておきます。

「鎮守神」
「現在住んでいる土地・地域の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、人はその土地・地域に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

鎌倉期以降、「氏神」はそもそも、「融合氏」の枝葉の末梢子孫が各地で生まれ、その土地・地域に根着き、そこに「氏」の守護神と成る「独善の神」を祭祀したものなのですが、更にその「氏」の枝葉の末梢子孫が細分化されて「姓単位」の「土地・地域」に根着いた土豪が生まれたのです。
この多くは「百姓」から身を興して土豪となった者達で、傍ら農業も行うとする今で言う「兼業姓氏」であったのです。村単位の土豪姓が生まれたのです。その為に特に「土地・地域」に拘る守護神を求めたのです。

「姓氏」の種類
「品部」から発祥した「姓氏」(1)
「融合氏」の末梢集団から発祥した「姓氏」(2)
「民族氏」から発祥した「姓氏」(3)
(1)(2)(3)とは異なりこの土豪等が集まり血縁性の無い集団を構築します。
「連合防衛集団」の「姓氏」(4)
以上の「4つの姓氏」が各地で出来上がったのです。

”「氏」でも無く「姓氏」でも無く、百姓でも無い”とする集団が自らの農耕の土地・地域に対して「守護神」を求めたのです。これが元来の「鎮守神」なのです。
ところが、これ等とは異なり藤原一門の「鎮守神」(2)−Aはこの各地に定住した藤原氏の枝葉の末梢子孫が守護神としたのです。確かに藤原氏の各地方の土着の枝葉の末梢子孫であり「土地・地域」の特長も持つ為に藤原氏の役職上も兼ね備えた「鎮守」を併せ持つ守護神が生まれたのです。
秀郷一門では陸奥域に於いて「鎮守府将軍」と成って長い間赴任し、その地域に枝葉の末梢子孫を遺しますが、この関東以北の「鎮守府将軍」系列の枝葉の末梢子孫(2)−Bが「土地・地域」に拘らない本来の「鎮守神」とした「守護神」も存在するのです。
そもそも後には、「鎮守の森の神様」と歌でも歌われる「庶民性」のある「神」なのですが、その性格から各地に分散する「小域の土地」の「鎮守神」と成ります。

(2)−A、Bの元来の「鎮守神」と異なり、(1)(3)(4)にしても多くは藤原一門一族の何らかの大小の血縁性を持つ一部に引き継ぐ「姓氏」でありますので、その縁と絆を下に「元来の鎮守神」に小さい単位の「人・土地・地域・農耕」の「4つの思考要素」を加えた「守護神」を造り上げたのです。
当然に、多くは農耕に携わるそれらの者達は血縁性が有っても「戸籍概念」が元より無かった為に近い範囲の親族・縁者・村人の範囲の「神」とも成る「守護神」であったのです。
この為に「4つの思考要素」の共通点を持つ事からそれらが集まり(4)の小集団の「相互防衛」の連合組織を鎮守社の旗の下に構築する為に独自に「鎮守神」を造ると云う事も各地で起こったのです。

ここで、初めて「自然神」が上記した様に変化して、「融合の最終の結果」は(4)の様に再び「民の神」として「産土神の考え方]に近い”人・土地に根着く「神」”へと戻ったのです。
これ等の枝葉の末梢子孫が後には農業に関わる「庄屋・名主・豪農」と成って「鎮守神」を護っていったのです。所謂、「村の鎮守様」であり江戸期には何時しか「鎮守神」は「農民の守り神」にも成り得ていたのです。

ここに一つ変化が起こります。
姓氏の(1)は「産土神」
姓氏の(2)は「祖先神」
姓氏の(3)は「氏神」
姓氏の(4)は「鎮守神」

(3)の姓氏は「民族氏」が基であった為によりその出自がはっきりしません。そこでかれらはその周囲の神社の氏子として集まり「氏子集団」が結成されていったのです。
ですから、この「氏子集団」には「氏神の氏子集団」と上記する「鎮守神の氏子集団」とが生まれた事に成ります。
特に(3)には、阿多倍一族一門の「民族氏の末裔」と観られる「氏姓族」が多い九州地方と中国地方に限定して存在するのです。
「古い神社」にはこの集団が結成されて「広域の土地地域」を一つのエリヤーとして(3)(1)の「氏神」と成っています。
それらは主なものとして次ぎの大社を創り出しました。
阿蘇大社、宗像神社、出雲大社、住吉大社、吉田神社、宇佐神宮、吉備津神社、厳島神社、等

中には(1234)を全て兼ね備える「神」とするものも有りますが、これ等は歴史的な建立時期が殆ど明確にされていません。恐らくは室町末期から江戸期に掛けての神社と見られますので、正しい検証出来る期間を超えています。
「鎮守神の姓氏族」と観られていても巨大豪族も中には有り、(3)(4)を兼ね備えていて「祖先神」の様に明確に線引きをする事は困難です。これ等の豪族は概ね室町末期からの族であります。
室町末期の「武士」として観た場合は「一所懸命」の言葉通りに判断すると「鎮守神」と考えられます。

  「神明社 祖先神」
さて、「祖先神」とする氏が限定されている中では、当然にそのルーツも明確でありますが、特にこの「祖先神」の「青木氏」に限りその氏の「氏上」と「氏人」(家長、家人、郎党)と「百姓」と「品部の職能集団」等がこの「祖先神」を「氏上の神」として集団で崇める事に成ります。
「神明社」はこの「祖先神」の「4つの青木氏」の「氏の神」なのです。
前段で論じた「2つの血縁青木氏」に「2つの無血縁青木氏」「(2つの絆の青木氏」)が存在すると論じましたが、この「2つの無血縁の青木氏」も「氏人 家人」として主筋の神明社を崇めたのです。
例えば、判りやすい例として先ず一つは信濃皇族賜姓青木氏(神明社)の分家の諏訪族青木氏は、「諏訪神社」を「祖先神」としてその氏一族郎党・諏訪村民がこの諏訪神社(産土神)を守護神としますが、賜姓族の「氏人、家人、郎党」であるので「神明社」が主の守護神と成ります。
その二つ目は「2つの青木氏」にはその「3つの発祥源」の役目を支える職能集団が存在しましたが、この職能集団も神明社を崇めたのです。

(信濃の賜姓族系の諏訪族青木氏・と武田氏系諏訪族青木氏は、賜姓信濃青木氏の分家が2代続きで男系跡目が出来ず女系となり養子先諏訪族の系列に入った氏、その諏訪族青木氏の分家が武田氏から養子を取り同じく男系跡目が叶わず武田氏系列に入った氏が武田氏系諏訪族青木氏 諏訪族は後漢の民の馬部の末裔1400年以上 元は「産土神」 日本書紀記述)

そこで、「神明社」は「氏」と「民」を「安寧と安定」に導いてくれる「神」ではあるのですが、そもそも”「安寧」・「安定」とは何を以って安寧・安定とするのか”と成ります。
当時としてはその社会環境からすると、その答えは生きている者の「安寧」・「安定」とは「子孫存続・生活の安定」である筈です。現在とはこの様に少し違っていた筈です
そうすると”その「子孫存続」と「生活の安定」とは何に依って叶えられるのか”と成ります。
この世の生きている世界に於いてその根幹は「食」を得ずして成せるものではない筈、そうすると人の行動としては”何かを生み出しそれを糧にする事”にある筈です。
それは上記した様に「7つの民族」に依っても上記した様に大化期前はその思考原理が異なっていたのですから、「融合民族」の日本人と成り得た平安期の嵯峨期頃では何になるのかと云う事に成ります。

それが、”古来より天智天皇期の頃から「物造り」にあった”と考えていて、それを”「守護神の神明社」にあるとしていたのではないか”と云う事です。
つまり、だから人は ”「物造り」の祈願を神明社の神に願いをかけていた”と云う事に成ります。
”果たしてそうだったのだろうか”検証してみる事にします。

「部曲(かきべ)」等に依って生み出される産物は当然の事として、この産物だけでは「生活の安定」と云う定義には成りません。そもそも「市場経済」が未発達な物々交換を主体としていた時期の判断としては無理が伴ないます。勿論「生きる」という定義では成り立つ事ですが、これは仏教の範疇です。
そうすると仏教の思考ではないとすると、「神」に祈願するとなると「生活の安定」と成ります。
「自然神」の「自然の恵み」を得て得られる産物から、それを加工する「物造り」(付加価値)、つまり「第1次産業」がこれに連動しなければこの時代の定義とは成り得ない筈です。

「生きる」−「自然神の恵み」(「産土神」)→「生活の安定」−「物造り」(「祖先神」)

そこを天智・天武天皇が考えて「物造り」(付加価値品)を「経済生産の根幹」に据えたのです。
それを「自然神」から生まれた「祖先神」に課せ、「大化改新」の政策の実現の為には当然に物造り(付加価値品)が必須条件でそれは上記の関係式であった筈です。

「皇祖神」として「自然神の祭祀」を天皇家が受け継いで300年、それを”神明社で全て執り行う”と云う形に進化させて構築したのです。「自然神」を根幹とする「鬼道信仰」の「占術の御告げ」の具現化を「物造りの神」として創造して、「自然の恵み」に「付加価値」を付けて「神の恵み」が民に現実のものとして伝わるようにしたのです。ただ御告げで天候に注意して農耕だけをするのではなく、より高い「神の恵み」を「付加価値品」で与えようとしたのです。この政策の為には「豊受大明神」を伊勢大社に鎮座させる必要があったのです。
この様に「五穀豊穣の祈願−(自然神)」と、「物造りの祈願−(祖先神)」の両方を祈祷・祈願する「祖先神−神明社・皇祖神−伊勢大社」を造り上げたのです。
前段で論じた様に、「皇族系の融合氏・祖先神」の「各地の神明社」がこれを執り行う祭祀と一致させたのです。


「五穀豊穣・自然神」+「物造り祈願・祖先神」=「神明社の祭祀」=「自然神・伊勢神宮・皇祖神」
∴(皇祖神・自然神)=(祖先神・神明社)
以上の関係が成り立ちます。

この時期に「祖先神」を創造した時に「皇祖神」との親子関係から「神明社」に於いて「物造りを願う行為」を祭祀の一つとして加えたのです。依って結局は「祖先神」は「物造り」と同様に政策実現の必須条件と成り得たのです。故に「桓武天皇」が以北地方に政策として「20箇所の神明社」を稚友の坂上田村麻呂に命じて建立した事を物語ります。

故に「物造り」(政策 付加価値品)は必ずしも「自然神の農耕の恵み」と云う事には成らないのです。
「農耕の恵み」+「付加価値」=「物造り」

大化期では「自然神−鬼道信仰」をより具体性のある占術だけではない信仰に変化させたのです。
「国家の信仰」としての「祖先神−神明社」で祭祀を執り行う以上は具現化の必要性があったのです。
しかし、一方ではその「鬼道信仰」の形を遺す為に斎蔵の中に阿倍、卜部等の鬼道に関わる職能官僚を朝廷内に作り、平安期には陰陽師なる役職を残したのです。
これは「鬼道信仰」の内容を細分化してそれを担う部署や役職や社種を造り上げたのです。要するに上記した具現化であり政策化であります。その中で最も主点であり重点を置いたのが「皇祖神−祖先神−神明社−青木氏」の役割であったのです。
それは又、上記した天智天武の天皇の鬼道や産土神の考え方から来る危惧の政策実現でもあったのであり、信仰としても占術に頼らないより現実味のある一段上位の信仰を狙ったとも考えられます。
この具現化、政策化だけでは「民の生活」との繋がりに欠けるところから神明社には「生活の神」を付加したのです。
これは「豊受大明神」の御利益には「物造りに依って得られる豊かさ」と「生活の安全安心がもたらす豊かさ」の二つに分けられます。この「2つの具現化」でもあったのです。「鬼道信仰の具現化」に付いてこれ程に深化し尽くされている事に驚きです。
それまでは「生活の安定」=「家内安全・氏の安全の祈願」は、「祖先神」の定義である”「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」”の思考原理から考えると、これは上記の関係式と一致する事と成ります。
「物造りの神」と「生活の神」の「祖先神−神明社」の存在意義の実現にはこの思考原理に真に一致しています。

現在に於いて各神社に於いて普通に「家内安全・氏の安全の祈願」をする習慣・感覚・概念は、次ぎの「時」に起こった習慣であった事に成ります。
「祖先神」と「皇祖神」が創造される前はその根幹は「自然神」であるのですから、特定に「氏」や「民」が「社」を構えて各地で盛んに自由に祭祀し祈願すると云う習慣ではなかった筈です。
それは「特定の場所」、「特定の人物」に依って代理的に一箇所で「鬼道」として「祈祷」されていた習慣であったのです。
依って「祖先神」−「皇祖神」として明確に確立した「仕来り」として、”広域の各所で夫々の祭祀者が「祈祷・祈願」を行う” と言う形式は自然神の限定した特定の場所に於いて行う自然神と異なり「天智天武天皇の決断」に依って起こった事に成ります。
依って、「物造りの政策」の実現は「皇祖神−祖先神−神明社」に特別に委ねた行為であった事に成ります。確かに「物造り」は前段で論じた「自然神の思考原理」からすれば自然の行為の壱物である事は否めませんが、これを発展させた政策として一つのものに確立して「祖先神−神明社」に課せた行為は自然神とは成り得ません。
大化期には自然神から学び、その自然を活用する行為を確立して、それを宗教的理念として、更には政策として、神明社の一つの存在意義として確立させたのです。
当時としては、前段で論じた宗教の位置付けから考えると、異常とも思える宗教目的であったと考えられます。それだけに、「民」は「神明社」に新鮮さを感じ崇め信頼したのです。
そしてそれを各地に建立して行ったのですから、「民」はそれまでの「自然神」の延長の「鬼道信仰」から脱却し ”新たな宗教体が誕生した”として、それを観て「弥生信仰」を見放し「鬼道信仰」へと進んだ様に、更には「神明社信仰」へと「心の切り替え」を果たさせたのです。
この意味で天智天武の政治的な政策目的は最終的には果たせたのです。

(特記 この政策実現に関わったのが日本書紀にも詳しく記載されている青木氏の始祖施基皇子であったのです。日本書紀と青木氏の論文参照)

そしてそれは次ぎの時期から起こった事に成ります。
(神明社の神官に青木氏が多い事もこの事を証明出来るのです)

「大化改新」の政策決定が成された時
「祖先神」が創造された時
「融合氏」が発祥させた時
「賜姓青木氏」が発祥した時
「皇祖神」が発祥した時
「神明社」が建立された時
「武家」が発祥した時
「侍」が発祥した時

「生活の安定」=「家内安全・氏の安全祈願」=「物造り祈願」(付加価値祈願)

天智・天武天皇の改新の政策は以上の数式が成り立つと事を基盤にしていた事に成ります。
そして、これを次ぎの数式の政策数式に創り上げた事に成ります。

「皇祖神」=「神明社」=「祖先神」=「融合氏」→「物造り祈願」(付加価値祈願)+「生活の安寧祈願」


「神明社」の祭祀の様子を観察すると、「農業」とするより「物造りを願う行為」と観られる祭祀動作が名残として沢山確認出来ます。
その一つとして農産物・海産物の「御供え」そのものに限らず、それらの加工品や酒、味噌、醤油、中には木製加工品、鉄金属製加工品、等の地域の殖産物のお供えと祈願行為はこの名残から起こったものである事が判ります。付加価値品の表現なのです。
(「祈祷」と云う言語はこの「鬼道」の言語の変化では無いかと考えられています)

この様に「神明社」に於いては「自然神の祈願」のみならず大化期の政策の「物造り祈願」」(付加価値祈願)の反映が大きく確認出来るのです。
勿論、「生活の安寧祈願」も御利益の一つであります。

この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成り、そこにこの「皇祖神」の支社と祖先神の神明社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。
この「皇祖神」の支社の「神明神社」、又は「神明社」が奈良期と平安期に於いて先ず何処に「分霊」されたのかを記します。(前段で論じた)
これ等はある一定の「括り」がありその内容からまず記述します。

これはなかなか面倒な研究で、規模から観てざっと拾い出してまとめると1万5000位あり、中には祠や併社などがあり、時代性から観てもその殆どが1500年代以後のものが多く所謂「お伊勢参り」の流行から広まったものです。
皇祖神の神明社の「神明信仰」の広まりを観察すると、次ぎの3つに分けられます。

奈良期
先ず第1期は、上記した19人の第4世族の守護地に伊勢神宮の分霊を近畿圏に朝廷は行った時期の奈良期。

平安期
次ぎに第2期は、日本全国を統一した征夷大将軍と鎮守府将軍と太宰大監が東北、九州に掛けて日本全国を統一し其処に民衆の信仰の対象を神明信仰に求めた時期の平安期

この二つの時期(奈良期と平安期)には合わせて他に近畿では「熊野信仰」、北九州では「阿蘇信仰」、「宗像信仰」、宇佐信仰、中国では「出雲信仰」、「厳島信仰」、関西では住吉信仰、広田信仰等も最も盛んに成ったのです。

この「皇祖神の伊勢神宮」と「祖先神の神明社」がありながらそれをそっちのけで、近畿に起こった天皇等が毎年通い続けた「蟻の熊野詣」と称される「熊野信仰」が起こります。
それも熊野神社の身内の勢力争いが原因して衰退し(1180前頃:原因は平家衰退)、結局は元の「お伊勢詣」での「神明信仰」が再び蘇り始めたのです。

次ぎにその蘇りの流行を示す第3期の時期が始まったのです。

室町期、江戸期、明治期
その第3期は時期は更に室町期、江戸期、明治期で分けられます。
最も広く広まった時期は「お伊勢参り」の流行から江戸期で、次ぎは室町文化の反映として室町期、そして、廃仏毀釈の影響を受けての明治期と成る様です。

ところが、この内、「祠関係」の規模の小さいものや「併社関係」を除くと5000以下位に成ります。この5000の「神明社又は神明神社」の内、次ぎの様に成ります。

室町期が2割
江戸期が7割
明治期が1割
程度に分けられます。

当然にこの中から鎌倉期、平安期のものを拾い出そうとするのですが、多くはその由来と創建期が明確にしていないのです。恐らくは、より古の頃からある様に見せかけ権威付ける目的から問いあせても明確にしないのです。
しかし、そこで判らないものに付いては何らかの判別方式を確立する為に調査すると、ある程度の確立で
「鳥居の形式」(A)や「本殿の建物形式」(神明造、大社造、住吉造)(B−1)から判別して観る事が出来るのです。
建物は「延喜式」(B−2)であるか、その「配置形式」の違い(C)や、又、鳥居の形式は「神使」を象ったものですので初期の頃から時代毎に変化しています。この特質を読み取ります。
その建物は主にこの「3つが目的の変化」と「時代の変化」によりデザイン化しているのです。
この3つから判別する事が出来ます。

さて、そうなると、青木氏との関係から時代性では奈良期と平安期のものが意味を持ちます。
上記の「3つの要素」(A、B、C)で調査すると、全国各地の「神明社、又は神明神社」は50程度に絞られてきます。多少のエラーを持つ可能性がありますがほぼ確定します。
この殆どは歴史的に観て、「賜姓青木氏」と「皇族青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の二つに関係する地域又は国に当て嵌まる傾向を持っています。中には青木氏と政治的史実が存在する地域にも観られます。
この青木氏とのある傾向関係が把握できれば良いのでこの範囲で進めました。
これに依って伊勢青木氏を始めとして全青木氏の守護目的の伊勢神宮との繋がり関係がどのように各地に及んでいたかを網羅する事が出来ます。前記した予備知識を基に其の背景を描きながらお読みください。
当然、下記に示す主となる19地域の第4世族皇子王の守護地を含んでの事です。
残り主要な30/80程度が藤原秀郷流青木氏との関係する地域や国に存在します。
中にはある筈の「社や杜」が無いというところも観られますが、恐らく、室町期の下克上、戦国時代、江戸期の一揆や明治期の廃仏毀釈の騒動や第2次大戦で消失したものと考えられます。
この傾向は上記の原因から主に現在の都会に位置する社や杜が存在する森全体が消失したと見られます。
特に、中でも、現在呼ばれている社や杜名は「神明社」とされるところが古い傾向を持っていて、平安期のものには傾向として「神明神社」と成っています。
これには明治期の廃仏毀釈などにより途中で変名している事も覗えます。
その主要な50/80程度の「神明社や神明神社」には多くは伊勢本宮の「分霊社」と成っています。
中には「支社」とするものもあります。江戸期、室町期、明治期のものについてはこの特定が困難です。

この主要な50/80の「神明社や神明神社」の地域との政治的な由来が判り、第4世族以外の皇子の神社の「若宮神社」との関係も判り、当時の神社関係の勢力関係も表す事が出来ます。
「神明社」と「若宮神社」の関係から平安期の「朝廷の政治性」が見えてきます。

そこで、先ず第4世皇子族の「神明社や神明神社」関係を記述します。
その前にそれを面白く理解する為に当時の社会慣習などを列記してみます。

「第4世皇子族の守護地と神明神社」
これらの第4世王の皇子王はそれぞれの生まれた土地の古代地名を採り名乗っています。
多くはその母親の在所を名乗る習慣がありました。
この事に依って土地の豪族(母親)の身分が判り、皇子と王の身分(順位)が確定する制度が敷かれていました。つまり、王名は「守護地」であり「古代地名」であり「身分」である事になります。
当然にそうすると皇子と王には順位があり、その順位に依って守護地は配置されます。
その順位は先ず第1世から第4世までとされています。
中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新を実行する前までは第6世までを皇子王としていました。
改新後は天皇が代わる度に起こる第4世までを皇子王とし、第5世族の皇子王はその時の皇子数のあり様で皇子王とするか臣下して皇子王扱いから外れる仕組みです。
古来はこの考え方が規準と成っていて、上記した様に四角四面に竹を割った様に右左に分けるという感覚は当時の社会慣習から有りませんでした。ゆったりとしていたのです。むしろ、合理的、現実的な慣習が敷かれていた事に成ります。
次にこのままでは序列が出来ませんので、その皇子王には身分の順位が決められていました。
その時の天皇に最も近い者から、先ずは「母親の身分」により決まります。身分が同じであれば生まれ来た順序に従います。

母親の身分は先ず4段階に分けられます。
妻の身分
第1位 皇后:きさき (正妻)
第2位 夫人:つま ふじん
第3位 妃:ひめ、
第4位 嬪:みめ、
第5位 妥女:うねめ (階級外の女官)
以上です。

しかし、現実はこの時代は「完璧な純血性を保持する習慣」ですので、第3親等以内の者が妻に成る事が殆どです。依って同族血縁の弊害の危険を避ける為に皇后から第3位の妻までに子供を設ける事に成っていたのです。
しかし、産まれては仕方がないのでトップに定められますが、この当時は極めて乳児や子供の死亡率が高かった事から、又、血族結婚であり元々問題が多いので育たないと言う事が起こります。
育っても殆ど役に立たない子供と成りますので扱いを敢えて皇子としないか僧侶にした様です。
そこで、優秀で良い子孫を遺す為に、序列外の無血縁の「女官」を選んだのです。
この「女官」と云っても全国の土豪の娘を「人質」に取ります。しかし、この「人質」も殆ど人質ではなく「女官奴隷」としての扱いです。
これは4段階の妻の身分制度が厳然としていた為に宮廷の女人社会の掟から起こっていのたものなのです。
そして、その「女官」もその土豪の身分の序列に従います。子供を産みますと「妥女」と呼ばれる様に成ります。従って、産まれた皇子や皇女には必然的に序列の決定的な身分が定まります。
これにより、天智天武期に定められた皇位継承制度により4世族内で皇子は第1位から第6位までと定めます。
そして後の第7位からの皇子は賜姓などの特別の扱いを受けません。第4位までを皇位継承権を保持しますが、その時の皇子数により第6位も皇位継承権を保持する場合があります。
依って、第6位皇子は皇子数が足りている場合は賜姓を受けて臣下して天皇の護衛団の家柄に入ります。基本的にこの第6位皇子は第4世族までとします。
例えば、青木氏がこれに当ります。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の長男でしたが、当時女性天皇であった事から男子皇子が居なかった事から急遽、最も順位の高い賜姓伊勢青木氏の施基皇子の2世が光仁天皇に成りました。
特例として、第7位皇子の川島皇子も賜姓を受けて近江の佐々木の地名から取って佐々木氏を受けました。(近江佐々木氏も青木氏を研究している)

その4世族の皇子王は次ぎの地域・天領地・主要地の王と成り、此処に「神明社」を先ず建立し「神明信仰」の布教に務めました。
平安時代の国66の国の区割りとは守護地と異なる。

伊勢王(三重県 松阪市 国府)、
近江王(滋賀県 国府)、
甲斐王(山梨県 国府)、
山部王(滋賀県 草津−東近江−守山地方)、
石川王(石川県−福井県 加賀−能登地方)、
高坂王(長野県 更級地方)、
雅狭王(滋賀県 近江−若狭地方)、
美濃王(岐阜県 国府)、
栗隅王(京都府・宇治市 山城国−久世郡地方)、
三野王(長野県 国府 信濃)、
武家王(京都府・但馬国 若狭側地方)、
広瀬王(岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)、
竹田王(大阪府−京都府 竹田地方)、
桑田王(愛知県 豊田市地方)、
春日王(福岡県 春日市地方)、
難波王(大阪府 摂津地方)、
宮処王(奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)、
泊瀬王(奈良県 桜井市−朝倉地方 長谷寺)、
弥努王(愛知県 尾張−信濃側地方)
(三野と美濃と弥努は他の書籍では混同している)
以上19人/66国

これ等の地に神明神社が建立され民の安寧と信仰の基としました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から「神明信仰」を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、普及を図りました。

そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社の大社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)

天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。

この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この「神明信仰」にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の「観音信仰」の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。

この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の「神明信仰」が始まり、後半では熊野神社の「熊野信仰」へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて「五穀豊穣」を願って多く建立されたものなのです。
「神明信仰」は「鶏」が「神使」で「五穀豊穣」の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし「人の癒し」を信仰対象と成っていました。

伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、「観音信仰」の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した「既成勢力の排除」で「観音信仰」の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで「神明信仰」の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその戦いの基点とする処の「丸山城の建設」を行います。
「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
「伊勢青木氏」は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷(伊勢の特別賜姓族の遠戚)は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、青木氏の菩提の浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる「観音信仰」や「阿弥陀信仰」の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。
以上が「祖先神−神明社」関係の補足の概容です。

次ぎは「祖先神−神明社」を論ずる上で見逃してはならない重要な事柄が幾つか存在します。
これらに付いては充分に研究して関する事柄がクローズアップ出来ておりません。これからの研究課題ですが、判ってきている事柄に付いて論じます。

「古代密教との関係」
次ぎは「観音堂」です。つまり仏教との関係のとりわけ「観音信仰」との関係に付いてです。

618年頃に後漢が滅びその時から後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。
その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後漢の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。
そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。
三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って「観音信仰」が彼等に因って始まったのです。
「神明信仰」とほぼ同時期に仏教の「観音信仰」も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に「観音信仰」は広まります。そして、「観音信仰」と「神明信仰」も合わせて同時に伝導されたのです。
この”「2つの信仰」が平行して進む”と云う事は「祖先神−神明社」にとって”どの様な影響を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
そして、その「観音信仰」は青木氏に大きく関わる「古代密教の浄土宗」と発展して行くのです。前段で論じた様に「古代密教の浄土宗」の最初の信者の氏は「青木氏」といっても良い程のものです。
奈良期の仏師で仏教伝導の祖の子孫でもある「鞍造り部止利」の作である「生仏像様」を戴く立場にあった訳ですから「仏教の正式な最初の信者氏」であると云っても過言ではない筈です。

一方では「神明信仰の担い手」、他方では「観音信仰の担い手」と云う立場にあった事に成ります。
両方の担い手であった事は無関係ではなかった筈で大きく相互関係を保持していた事が云えます。

「神明信仰の担い手」+「観音信仰の担い手」=「2つの青木氏」

この「2つの青木氏」が担う「観音信仰」は「古代密教」であるが為に「祖先神−神明社」の様な全国的な建立とまでは行かなかった筈で、「古代密教の浄土宗の分布」が前段で論じた様な「祖先神−神明社」分布には至っていないのです。「2つの青木氏」の主要定住地に分布が限定しているのです。
この事から観ると、「祖先神−神明社」に対する関わり具合は相当とまでは行かなかった筈です。
前段で論じた様な国策としての貢献度としては「祖先神−神明社」程ではなかった事を物語ります。
「古代密教の浄土宗」が庶民の所までは至っていない宗教であったからだと考えられます。
後には3大古代密教の宗教戦争が起こり、鎌倉期には日蓮宗を始めとする他宗から著しい攻撃を受けた事等があり「祖先神−神明社」の貢献度に大きく寄与したとは云い難がたい処があります。

まして、これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の「神明信仰」と蘇我氏の「観音信仰」とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしたのですから暫くは冷却期間があったと考えられます。
(聖徳太子の時−天智天皇)
結局、蘇我氏の「観音信仰」が勝ち、その「観音信仰」の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある「神明信仰」を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、「観音信仰」も朝廷は取り入れ、且つ、「神仏融合の策」をも取り入れて共に発展させ様としたのです。
これも農耕民族の所以です。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも「農耕の神」としても位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)

実は「観音信仰」の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの「鞍造部止利」の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの{観音信仰]をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る「鞍造部]の首魁の「司馬氏」に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に「観音信仰」の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。

「観音信仰」の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて「六堂伽藍方式」として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
「六堂伽藍方式」には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。

次ぎはその毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。
伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
所謂、「六堂伽藍方式」です。

菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった大人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世自治1018を任されます。
朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事経済の3権の一切を任された人物です。
「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に避難民が津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。仁王像のモデルと成った人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。

この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の「阿弥陀如来信仰」が起こり、鎌倉時代からは「毘沙門天信仰」(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。

「観音信仰」→「阿弥陀如来信仰」→「毘沙門天信仰」(四天王信仰)

そこで、前段で論じた様に、この「3大信仰」は「祖先神−神明社」との関わりとして重要なのです。
「観音信仰」の青木氏に対して人物で血縁関係するこの「毘沙門天信仰」(四天王信仰・毘沙門天を「侍の鏡」とされた人物)の大蔵種材(9代目)の祖の後漢の渡来人・帰化人の首魁阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王・高望王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。この桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が特例で天皇を継承しました。伊勢青木氏はつまり、血縁的には光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。
この「3大信仰」は、先ずは「観音信仰」は「初代の融合氏」であるので「初代の信者」であり、「阿弥陀如来信仰」は「古代密教の初代の信者」であり、「毘沙門天信仰」(「侍の鏡」)は「3つの発祥源・侍の祖」であるので上記「血縁関係の初祖」であり、何れも「皇祖神−祖先神−神明社」の青木氏がその根源と成っているのです。

そこで、この「毘沙門天」の祖の阿多倍王の3代目後の末裔の平の貞盛が、独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに親族の立場で鎮圧しました。(藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。)
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。この清盛は敏達天皇の末裔にして上記した様に桓武天皇の末裔でもあります。当然、阿多倍王の子孫とも成ります。
この事から「たいら族」は「桓武平氏」と呼ばれ、「桓武天皇」より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の「坂東八平氏」に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏や安倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルと成ったのもこの一族なのです。
余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時に上記の血縁の経緯から、この伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。(然し、突き詰めると、織田氏も美濃域の「たいら族」の末裔ですので同族争いとなります。反面青木氏は「過去の絆」を守った氏であったのです。)

「権威の象徴の危険」
伊勢には松阪の「神明信仰」と、隣の伊賀地方には「観音信仰」が共存し、伊勢青木氏には「神明信仰と」古代密教の「観音信仰」(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
「毘沙門天信仰」(四天王信仰)も上記の通り「侍の祖」として「祖の立場」にあるのです。
しかしながら、皮肉にも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の「観音信仰」を推し進めた阿多倍末裔子孫に圧迫されて一時衰退します。
(「過去の絆」を守り続ける信念の持った青木氏を同族と血縁関係社が圧迫 非条理なのか)
「神明信仰」(イ)の上にこの「3大信仰」の「信者の氏の祖」(ロ)としての立場があり、「3つの発祥源」の立場(ハ)を保全していて、尚且つ、平安期前後の「3人の天皇」の「親政族」(ニ)としても極めて大きい立場(権威の象徴の立場)に成っていた事等を考え合わせると、律令国家建設の世界としては危険視されて一度政治の立場から、為政者達とは「過去の絆」があっても、どうしても「権威の象徴」を外す必要があって押さえ込まれたと考えられます。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の「観音信仰」と、古代浄土密教の「阿弥陀如来信仰」が対立した事も原因と考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、「観音菩薩信仰」、「阿弥陀如来信仰」の密教の位置づけについて論争が起こりました。恐らくはこの論争と建立競争の宗教戦争の元と成ったのはこの「神明信仰」と「3つの信仰」に関わる「青木氏の立場」が疑問視されたとも考えられます。実はその証拠が遺されているのです。
後に日蓮宗日蓮が、鎌倉幕府の北条執権の問いに対してこの「神明社」−「観音菩薩信仰」−「阿弥陀如来信仰」の「密教浄土宗の背景」(権威の象徴の有様と背景)を痛烈に批判している提出した文書が遺されているのです。
(この事が原因して外国から攻められる事を予言 この文書や発言が原因して罪と成り配流 然し予言当り許される)
この事は、平安の桓武期から「賜姓族青木氏」は押さえ込まれていたが(この「権威の象徴の姿」は政治の世界から排除されたが)宗教界では400年以上も厳然として維持していた事を物語ります。
この事は日蓮の文書からも明らかな様に上記した「権威の象徴の立場」にあった事と「庶民」(百姓:おおみたから)はこの「青木氏の権威の立場」を容認していた事を示します。非難される立場に無かった事を物語ります。言い換えれば崇められ信頼され愛され続けた氏であった事が判ります。
そして、更にこの事から同族の「桓武天皇等の青木氏への圧迫」は、明らかに「親政族」そのものの「政治的形の否定」(「親政族」≠「律令政治」)に対する「政治的立場からの圧迫」であった事を意味し、少なくとも「苦渋の選択」であった事を物語ります。
現に、桓武天皇自身がこの圧迫した青木氏に代わって「神明社建立20」も行っているのです。青木氏全体の存在を否定するのであれば天皇自ら「神明社建立」は行わなかった筈です。
又、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、その桓武天皇の「親政族を否定する政治の有り様」に反対し父子戦争を起す程に、この桓武天皇の朝臣族ではない皇族外の賜姓(たいら族)に対して反発して、再び第6位皇子を源氏として変名し直して「賜姓源氏」として戻したのです。これが嵯峨源氏です。
これでも上記(イ)から(ニ)までの「青木氏の権威の象徴」は否定されていなかった事を意味します。
これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下俗する際に使用する氏名として他の者の使用を禁じたのです。この青木氏が「皇族青木氏」です。
何よりもこの直ぐ後に円融天皇は秀郷第3子の「特別賜姓族青木氏」を発祥させている事はこの「青木氏の権威の象徴」を否定していなかった事に成ります。「否定」と云うよりは「肯定」の「あるべき姿」であったのです。「嵯峨天皇」以降は「親政政治」を3回にわたり採用して政治的効果を挙げたのです。
そもそも天智天武天皇の国策の「3つの発祥源」、「皇祖神−祖先神−神明社」、「(イ)−(ニ)の関係」から「政治の根幹に関わる役目柄」を実行している青木氏に対して政治的に排除する事が論理的に異常であり、その行為は自らの政治を根幹部分で否定している事に成ります。
要するに”桓武天皇は青木氏を圧迫した事は政治的間違いであって、嵯峨天皇は正しかった、間違っていなかった”と考えているのです。
たとえそれが政治的なパフォマンスで「苦渋の選択」であったとしても”行うべき行為では無かった”と観ているのです。現に、民は400年以上もその「青木氏の立場と存在」を容認しているのです。
青木氏の自画自賛になるかも知れませんが、この平安期まで約200年も「過去の絆」を重んじて来たし、「3つの発祥源」を守り続けてきた氏が「親政族」だからと言って政治の場に口出しする氏であるかは判る筈です。
まして、桓武天皇の自らの実家の氏に対してです。はっきり云えば”洞察力が不足する”といいたい所です。前段の”河内源氏と違うのだ”と云いたいのです。
これらの青木氏が自ら「神明信仰」と「古代密教浄土宗」を下に伝導の手段の少ない時代の各地に「神明社」と「浄土寺」を建立し「観音信仰」等をも広げ、四天王の天神様のみを信仰する事」(四天王信仰)の基にも成りそれを広げた氏なのです。(大阪にある四天王寺はこの対象です。)

「若宮神社」
次ぎは「祖先神−神明社」を論ずる際に軽視してはならない重要な事柄です。
それが若宮神社との関係です。
祖先神の神明社、八幡社、そして若宮神社は「祖先神の3大神社」なのです。

次ぎに「第4世族の皇族」の守護神としたと云われているのがこの「若宮神社」です。
「祖先神−神明社」とは実はその関係に於いて重要ですが研究は余り進んでいません。
これはこれに関係する氏や人が少ない所に原因がありますが、ただ「2つの青木氏」にとっては「祖先神−神明社」に関するところからこれを研究する氏は青木氏と佐々木氏以外にはないと考えています。
本来は神明社と共に同じ立場での歴史的経緯を経ていなければならないのですが、史実は確定して居る訳ではなく詳しくは判っていません。
本来は八幡社と共に若宮社も神明社と同じ立場に在った筈で、八幡社は未勘氏族に因って牛耳られた事で史実が判っていますが、この若宮社は実はシンジケートを持っていた事が判っていますので、その働きとしては影の働きをしていた事が考えられます。充分にどの様な皇族としての役割であったかは不明です。又、「不明」である事が本来の姿ではなかったかとも考えられます。

(特記 室町中期以降には裏のシンジケートとして暗躍していた事が資料から判明しています。そのシンジケートは資料の経緯から観て駿河から以西京都までのルートと観られ、東海道線上の神社ルートかと観られます。駿河は皇子王の皇族関係者の配流先であり、秀郷一門の本領域でもあり政治的な重要な地域でありますので、 ”配流者の情報を都の摂関家に送る密命を若宮神社の神官は帯びていた”と考えられる。
鎌倉期−室町中期としては下克上・戦乱の関東域の情報を朝廷に・室町幕府に送っていたとも考えられます。この隠れ蓑として存在していたのではないでしょうか。四国域は4世−5世族の「逃避先・逃げ込み先」として「都の情報」を送っていたとも考えられます。どうも神明社の様なはっきりした役目柄が観えて来ません。
一応表向きは若宮を祭祀する神社であり、本質は神官は都の吉田氏等の神官官僚が勤め情報拠点としての役目を果たしていたのではないでしょうか。下記の分布域から観て更に強く感じるのです。
熊野神社の神職の鈴木氏の様に、全国の吉田氏の分布はこの事から来ているのではないでしょうか。吉田氏の「柏の葉」と「槲の葉」の文様の家紋分析からも頷けるところです。。)

そこでその若宮神社の信頼できる建立地を網羅します。
室町中期以降も例外無くこの若宮神社は「未勘氏族」や「下克上」で伸し上った豪族等に依って「家柄誇張の道具」に使われたのです。

「若宮大社との関係」
参考
若宮神社
・岩手県 盛岡市上太田
・東京都 北区豊島、
・新潟県 三条市柳川新田 燕市雀森家生
・山梨県 山梨市上ノ割 韮崎市
・長野県 塩尻丘入道
・石川県 金沢氏若宮 羽咋郡志賀町
・静岡県 清水区蒲原 熱海市網代 賀茂郡南伊豆町青市 賀茂郡南伊豆町大流 賀茂郡南伊豆町湊
・滋賀県 草津市芦浦町 草津市岡本町 東止江市新堂
・奈良県 桜井市馬場 奈良市(摂社)
・山口県 山口市秋穂一島 大岡市豊浦町棚 防府市佐野
・徳島県 徳島市沖浜町 南佐古二番町 阿南市那賀川町手島 仲多郡琴平町
・福岡県 柳川市西浜武 糟屋郡新宮町 糸島郡志摩町
・大分県 大分市木上
・宮崎県 宮崎市青島
・愛知県 北名古屋市
・岐阜県 飛騨市
・愛媛県 西予市明浜町高山 松山市河野別府 南宇和郡愛南町増田 南宇和郡愛南町手婆 須ノ川 西条市 今治市
・長崎県 佐世保市竹辺町
・京都府 綾部市上野町藤山
・神奈川県 川崎市川崎区大師 
・和歌山県 田辺市湊 伊都郡葛城町
・鹿児島県 鹿児島市
(以上21県は室町期中期以前の若宮神社と観られる資料)

一部調査した上記の若宮神社の事ですが、実は神明系の神社として各地に多いのです。
特に有名な「若宮」とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから天皇家・朝廷と直接に由来する殆どの県にもあるのです。
若宮神社は「皇族系の神社」として「八幡社」と共に青木氏に関わりが有るとして少し研究した事がありますので、(その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが)、「若宮」は皇子或いは皇族の子供の神社と成っている事は先ず間違いないところです。
とすると、ここで問題が生まれます。
それは「嵯峨期の詔勅」から皇族の者が下族する場合は青木氏を名乗ると云う仕来りから青木氏を名乗っている筈です。所謂、「皇族青木氏」ですがところが上記の場所から神社やその神社に関わった関係者に青木氏は全くないのです。これはどの様な意味を持つのでしょうか。
矢張り、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうが、しかし神明社の様にどれほどに関わっていたかはこの様に不明なのです。

「青木氏−神明社」の関わりから調べたところでは、この「若宮」の若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。(何故祠が多いのか不明 意味があると考えられる。)讃岐に続き徳島と静岡がこれに続きます。
この事は「剣片喰族」と「州浜紋」の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域ですので何かかかわりがあると観られます。
これは愛媛・讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には特記するべきほど(1)には有りません。
とすると、讃岐には天皇家の「皇祖神−祖先神」の「神明神社」が不思議なくらいに少ないだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、血縁に依って藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
藤原北家筋の秀郷一門としては前段でも論じた様に讃岐青木氏は特別な発展を遂げますが、この背景を独自に持っていたからであると観ています。
つまり、讃岐は「讃岐青木氏の神明社」より「讃岐籐氏の若宮社」の意向から地元讃岐は「神明社<若宮社の関係」が強かった事を示していると考えられます。
歴史的に見て四国は、政変にて多くの皇族系の皇子筋が頻繁に逃げ込んだ歴史史実がある事を考えると、「讃岐籐氏」との何らかの強い関わりがあると観られます。
当然、若宮の皇子と神社には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等の4つの種類がありますので、中でも讃岐籐氏派がより祭祀したと見られます。
もし、あるとすると、その証拠として、「二条院門跡」の子供等の祭る神社とも成ります。それが「二条院讃岐氏」とどう繋がるのか大いに興味が沸きます。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社かとも観られますのでそうすると更に讃岐と繋がります。

現在、推測の域を越えませんが、神明神社の「皇祖神−祖先神」は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係者や還俗僧)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。(多くは比叡山門跡院に入るが還俗した場合は若宮として四国域に入ったと観られる。)
この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。
(ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く 「祠は」ダミーでは無いかと考えられる。)
ただ、多くは本来の役目柄と異なり変質して「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。
ただ若宮神社には「祠」が多いと云う事には問題がありますが、これはそ「の建造能力」と「維持する能力」とそれを支える「子孫力」とが無かった事から「祠の利用」と成ったとも考えられますが、判り次第レポートします。
現在のところ、この2種を除いて観ると、「第4世族までの皇祖神の神明社の分布」と、「第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布」の2つは、平安−鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。
この事は、天智天皇は第6−7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに「皇祖神−祖先神」の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。
それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
「人、時、場所」について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で関係する部分については更に研究します。
全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。
現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20−30程度内に絞り込めるのではと考えています。
検証の結果は上記の分布表の21県から観ると、多い順では静岡>愛媛>徳島>滋賀>山口>福岡>石川の7県と成りますが、滋賀の都を除いてこの6県は明らかに平安期から室町末期にかけて歴史的な史実から考察すると皇族4世族の逃亡先所縁の地と成っています。
広域で観ると、

地域  県数−社数 社/県 
九州    5−7    1.4
中国    1−3    3
四国    2−11   5.5
関西    3−8    2.6
中部    5−7    1.4
関東    3−8    2.6 
東北北陸 2−3    1.5
の21県と成ります。21県−47社と成ります。

この県−社数のパラメータからすると次のように成ります。
A 関東−中部−都へのラインが出来ている事
B 四国と中国は上記の逃亡先で明確な本命地である事
C 九州は大宰府自治と朝廷の影響地である事
D 関西は朝廷−荘園制の未勘氏族の社である事
E 東北北陸は秀郷一門の勢力地-朝廷の関係地である事

この5つのパターンに明確に判別できます。
この5つパターンから上記で論じた様な若宮社の活動が証明できます。
この事から”「祖先神−神明社」との関係は希薄であった”と考えられます。
表向きは別にして矢張り諜報機関の役目があったと考えられ、且つ皇族の者が政変等に逃げ込む為の朝廷の機関神社であったと考えられます。これが激しい戦乱になる前の室町中期までの役目であったと考えられます。その後は「厄よけの神」に生き延びる為に変わったと考えられます。
以上、神明社に関係すると考えられる若宮神社に付いて雑学として参考に記述しました。

参考 全国各地の熊野神社の神紋は次ぎの様に成っています。
神紋 烏紋(からす)
(神使 三本足のやたがらす紋も使用)
神明大社と若宮神社と関係しているのは熊野大社である。
熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。
必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。
依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。
夫々の神社の歴史的な関係を調べたが、不思議な一点が浮かび上がる。
それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。
東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住してたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この全ての県でも云える事である。
京都は天皇家との関係からのものであろう。
鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
不思議である。現在研究中である。
ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
皇祖神−祖先神の神明神社との関わりからであろうか。
「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。
これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。
この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。
「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。そこで同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。
「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。
或いは、江戸幕府の奨励もあり江戸期の「お伊勢参り」で熊野神社は押されて建て直しのために昔の藤原氏との親交から各地に熊野神社普及を面倒な正式な系列方式としないやり方で試みた事かもしれない。研究している。)

これ等の神社には神紋と言う紋があります。これ等の神職は相互に血縁関係を結び互いに一族化を図り神社、寺社の結束を図っていたのです。
神明社は氏神として多くは賜姓青木氏や賜姓佐々木氏、藤原秀郷流青木氏が神職を務めました。
若宮神社関係は藤原北家一族が神職を務め、藤原氏の春日大社の氏神とを護っていたのです。

結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良伊勢)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。
「柏の葉」と「槲の葉」
上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
この事から神事に御供えするものにこの「槲の葉」を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
「柏の葉」と「槲の葉」は「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。
その由来は古来、神社は旅する人にとって無くてはならない旅の基点の役目と何かの非難の場所とも成っていました。その時、古来の旅の習慣として食事の皿の役目とおにぎりを包む包装紙の役目を持っていました。
特にその手助けをする神社では宿も別の棟を作り簡易宿の提供もしていたのです。これを「・・王子」と呼びましたが、この王子では泊めるだけで手弁当か自炊でした。その為に近隣の氏子の家からおにぎりを造ってもらってこの「柏の葉」と「槲の葉」に包んでもらっていたのです。
その経緯から何時しか「柏の葉」と「槲の葉」が神官文様と成ったのです。

現在でも地元(関西域)の老舗の料理には「柏の葉」と「槲の葉」は料理の皿としてこの名残として使用されていて、奈良期からの古い慣習が一つの形として遺されているのです。「柏の葉」と「槲の葉」は神社と切り離せない物なのです。この事は万葉集や奈良期の歌に多く詠まれています。

(参考 雑学として、銀杏の黄葉、烏瓜の黄葉、むかごの葉、笹、紫陽花の葉等が良く使われていた模様で、特に紫陽花の葉は虫も食べないほどに極めて強い殺菌作用が葉にあり、料理の皿代わりに使われていたのです。現在でも使われているのですが、実はこの葉を人が間違って食べると激しい腹痛を起す程に葉には強いシアン系の毒素を持っているのです。保存剤、冷却材、殺菌剤、冷蔵庫のない時代の知恵で旅には無くてはならないものでした。紀州では「なれ鮨」といって鯖寿司を殺菌性のあるアセ・暖竹笹で巻いて保存し発酵させて保存食にし旅の食料にしたものが現在も残っています。奈良の「柿の葉鮨」も同じです。
これ等の慣習が「姓氏」の家紋にも成っていて、この夫々草木にはこの様な歴史的な意味を持っているのです。その草木の古来の特長を調べるとその姓氏の出自が判るのです。
家紋は必ずそれを家紋とした「歴史的経緯」があるのです。それを知る事は歴史の縺れを解く秘訣なのです。それは必ず「古来の慣習」から来ているのです。この「古来の慣習雑学」を知る事が秘訣です。
草木紋には必ずその草木の古来の由来がありその家紋の根拠と成っているのです。 家紋200選の半分は草木紋です。その100の家紋群が更には江戸初期には遠戚の者等が類似家紋として10倍位に拡がっています。)

従って、神木の「榊」や「青木」(青木氏の「氏木」でもある)と並んで「柏の葉」と「槲の葉」は天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が「柏の葉」と「槲の葉」の紋を神官職紋にしました。
伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。(草木の由来を知る事は氏の出自も判る)
当初は上記の様に「柏の葉」だけではなく「蔓も付けた槲の葉紋」でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。

そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
神明関係の神社は当然に氏社ですので、その仕来りから自らの氏から神官を出すので大変青木氏が多いのです。
伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で綜紋を笹竜胆紋として家紋及神官職紋を「蔓付きの槲紋」としたのです。
吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職官僚でした。
室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
この柏紋を類似変紋して家紋とする氏は、これ等の末裔血縁氏が多いのです。
山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。
多くは江戸初期に旗本や御家人等がこの変紋を使用したのです。
そこで、原型の「三つ蔓柏紋を」家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
古い氏の青木氏には、「二つ葉」と「三つ葉」の「蔓柏紋」があります。

全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。平安期からは特別賜姓族系の青木氏の神官職が出自しましたので、「柏の葉」と「槲の葉」の文様の他に秀郷一門の青木氏の119の家紋の神官職紋が出て来ます。
従って、神職関係の「柏の葉」と「槲の葉」の神官職紋には「2つの青木氏」の血が流れている事が云えるのです。
吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは朝廷内での同じ環境下にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
前段で論じた諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。

当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏北家筋ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。

「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成ります。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。
賜姓族の神明社関係の神社の神職は殆どが青木氏ですが、実は ここで重要な事があるのです。
それは前段でも何度も関係族として論じてきました「近江佐々木氏」が、特別賜姓族の神明社関係の神職の青木氏の中でも多く、特に地域性としては関東以北に多いのです。
566の神明社の神職を青木氏で賄う事には物理的に難しさがあったと観られます。
経緯としては第6位皇子の施基皇子と、特別に賜姓を受けた第7位皇子の川島皇子が近江佐々木の地名から賜姓名を授けられた経緯から、又、「近江青木氏」とも同族でもあり血縁関係があるところから「賜姓青木氏族」として見なされて特別賜姓族の神明社関係の神職に補充されたのではないかと考えられます。
実は「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋の佐々木氏の神職が多いのです。
家紋を蔓柏紋とし「綜紋」を笹竜胆紋とする佐々木氏です。これは近江佐々木氏の系列なのです。
先ず間違いはないと考えられます。
(「近江佐々木氏の研究論文」の「青木氏」に関わる部分で神職に付いて同じ様な論文が記載されている)
この「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。

この事から、特記すべきは「祖先神−神明社」は依って「賜姓青木氏−賜姓近江佐々木氏−特別賜姓青木氏」の関係の連携で進められていた事が良く判ります。
この近江佐々木氏も源平での戦いでは近江で敗戦し美濃にて決戦して近江青木氏とともに衰退しているのです。恐らくは神官職であった末裔が無事に戦いから生き残り再び子孫を拡大させたのです。
また清和源氏木曽義仲と共に戦い敗戦して衰退させています。この事から青木氏側からの研究が難しく成っているのです。

(参考 佐々木小次郎は近江佐々木氏の出自で本家筋の者で家を再興するために旅に出た事は判っています。本家筋は現存 綜紋は笹竜胆紋 この事で良く判ります。)
(注意 宇多天皇系の滋賀佐々木氏がある 別であるがにこの宇多佐々木氏に付いては不明)
この様に近江佐々木氏との関係は神明社のみならず特別賜姓族青木氏と同様に関係は深いのです。

(神明社外のこの関係に付いてはむしろ近江佐々木氏の研究論文とその資料でかなり判別している。)
(神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏  No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)

参考

宗像大社
鎮座  福岡県宗像郡玄海町
祭神 田心姫神 市杵姫神 
神紋  梶の葉
神格  旧官弊社
社数  5000
神職  宗像氏
氏子  菊地氏
神歴  平安中期
関係  藤原秀郷流青木氏

はこ崎宮
鎮座  福岡県福岡市東区箱崎 
祭神  応神天皇 神宮皇后 玉依姫命
神紋  三つ巴
神格  旧官弊社
社数  
神職  
氏子
神歴  
関係  八幡宮

宇佐神宮
鎮座 大分県宇佐市南宇佐亀山
祭神 応神天皇 神宮皇后 比売大神
神紋 旧官弊社
神格 尾長巴
社数 40000
神職 
氏子
神歴
関係 八幡宮総本宮 

さて、参考として青木氏に関わる歴史的な事として「青木氏の立場」から記述しましたが、他社の一般的な学問的で宗教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。
本データーの採集とその検証と研究は各種の同好会の長年の計画的な協力を得てたもので、あくまでも青木氏の歴史的な立場からの研究論文です。

青木氏と守護神(神明社)−20に続く



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