青木氏氏 研究室
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  [No.285] Re:青木氏と守護神(神明社)−17
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/04/10(Tue) 15:34:03

さて、そもそも日本には次ぎの守護神があります。
日本に於ける守護神はその「7つの融合民族」の構成に由来します。
この「7つの融合民族」(◆日本民族の構成と経緯 - 01/21-15:25 [No.117])に付いては研究室のレポートでも詳しく論じていますし本論でも述べています。詳しくはそれを参照して頂くとしてここでは読んで頂いたと云う事で進めます。
この7つの夫々の「民族性」が下記の0〜4を造り上げているのですが、この「民族性」が社会の中で「身分や家柄」を発生させて、加えてその「身分や家柄」から来る「氏の構成」に分類されているのです。
この「氏」(後の「姓氏」も含む)のその立場から来る「生き様」に合わした考え方を生み出し、そこに「守護神の存在」を想像したのです。勿論、これ等は0の「自然神」を根幹としているのですが、この「自然神」に対するその立場からの「多種多様な考え方」が生み出されたのです。
言い換えれば、この時代に於いても「氏の構成」から来る「氏の多様性」と共に「生き様の考え方」(「思考原理」とする)もこれだけもあった事を物語るものです。突き詰めれば、「現在の人」の「生き様の考え方」とあまり違っていない気がします。ただ違いはその「生き様」の中に占める「守護神」の割合です。
前段で論じた様に政治的な事までも「神に占う」と云う習慣であり、次第に時代が進むに連れて低下したとは云え生活の中に溶け込んでいた事は間違いは無く、その氏の行動に大きく左右していた事は間違いはないのです。

丁度、前段でも論じた様に昭和と平成の時代に「氏の構成」から来る「身分や家柄」(士農工商)の縛りが明治維新に解けて150年経ってやっと人々の「自由な交配」が今起っているのです。
その意味では、未だ”この「5つの守護神の考え方」が解けた”と考えられる時期でもあり、そう古い事でもないのです。つまり、この今、新しい「生き様の考え方の自由化」が起っている時期とも云えるのです。
この「考え方の自由化」の時期から約600年以前に遡った事を「祖先神の神明社」として論じているのですが、2000年の日本の歴史から考えると約600年以前から約1600年以前までの1000年の間として、この「瀬戸内」の時代(1000年頃)はその「生き様の考え方」の真っ只中に有った事が云えます。
恐らくは、その「生き様の考え方」の違いが社会の中に「大渦」として渦巻いていた考えられます。
その一つとして、各地の大神社がこの時期に系列の神社を各地に挙って「建立競争」をしているのです。この時期では「熊野神社」の「熊野蟻の詣」(本論付録末尾にデータ添付)と呼ばれた事でも有名で、「姓氏の発祥」とも重なって「自らの氏や姓氏の生き様の考え方の象徴」を荘園制に乗じた勢力拡大に伴なってその領域を各地に広げていった時期なのです。

現在ではその「生き様の考え方」は「個人の自由」として何の不思議も無く容認されていますが、この1000年の後半の「大渦」はその「生き様の考え方の是非」を巡っての争いと成っていたと考えられます。
言い換えれば、この時代の社会の中では、「5つ守護神の自由性」は無く、”どの「生き様の考え方」が「生残れるのかの戦い」”でもあったと考えられます。
従って、「累代の天皇」や「2つの青木氏」の苦闘は、「皇祖神」に繋がる「祖先神の神明社」の有り様として、「生残れるのかの戦い」の中での「祖先神の考え方の創建」であった事が云えます。
つまり、言い換えれば「祖先神の青木氏の考え方」で生残れる事が出来るのかの戦いであったのです。
その為にも、「3つの発祥源の青木氏」として何としても生き残り「祖先神の神明社の建立」を成し遂げなくては成らなかったのです。
油断すれば「祖先神−神明社」と云えどもその考え方として抹殺されていたとも考えられる程であったのです。発祥当初は問題は無かったとしても、この頃は皇族系・賜姓族系として限られた小さい氏の構成の中での考え方と成っていたのですのでありますから、多勢に無勢で多くは「3の氏神」と「4の鎮守神」の環境の中でです。埋没してしまって神明社を建立しても忘れ去られていた事に成っていた筈です。

前段でも論じた様に「祖先神−神明社」の生き残りは「3つの発祥源」の生き残りに成るのです。
その意味で、この「八幡社の問題」やこの「瀬戸内の問題」は根底にはこの「守護神の大渦」(ブラックボックス)に呑込まれる現象でもあったのです。
「神明族」としてはその意味でも「源氏の協力」は是非必要な時でもあったのです。然し、「河内源氏」は「八幡社」に走ってしまったのです。それだけに「2つの青木氏」の「祖先神−神明社の建立」に取っては大きな痛手でその立場は困難であった事が覗えます。
恐らくは、「氏家制度」の厳しい観衆の中では 源氏に対しては ”何にをやってんだ。皇族賜姓族でありながら”の批判が渦巻いていた筈です。一方「未勘氏族側の立場」からすると ”良くやった。 古い体質から脱却して大したものだ。 武家の鏡だ”と囁かれていた事でしょう。だから「武家の棟梁」の呼称が生まれたのですがこれには大きな代償を払った事に成ります。
この意味で、この「5つの守護神」に付いても前段で論じた来ましたが、改めてこの問題を大きく潜ませている「瀬戸内事件」を鮮明にする為に論じます。
ただこの事件に付いては上記の背景(守護神の大渦)が社会の中の根底に渦巻いていた事は特に留意して頂きたいのです。

人は「行動規範」の根底には、この”「生き様の考え方」が無意識の内に大きく左右しているものである”と云う事なのです。その一つの表れが今では無くなった「守護神」と云う事に出て来るのです。
現代人はこの感覚を無くしていますので、通説などを考察すると ”上辺の判断や理解” と成ってしまっていますが、当時の人々の思考の中には無くてはならない「人の芯」の様なもので在ったのです。
その「5つの守護神」の考え方の”「人の芯」のぶつかり合い”がこの「瀬戸内の事件」の背景にあるのです。
(守護神そのものの詳細は下記でも論じます。)
この「0から4の守護神の考え方」は「氏」を考える上で非常に大切な事で、決して思考の中に除外してはならないものなのです。現在では「氏」そのものを同一として論じられていますが、そもそも「氏の考え方の根幹」が異なるのです。
「祖先神の神明社」は”単なる「神明社」ではない””単なる神社の違いだけではない”と云う事なのです。
何度も云う様ですが「生き様の考え方」が異なると云う事なのです。そうなると、当然にそこには”民族の違いの軋轢や争い”が生まれのは必然です。
まして、ここにあたらしく発祥してきた「姓氏」が加わると、同じテーブル上で論じられた場合には、「氏家制度」の中で当事の歴史の出来事を正しく評価判断できなくなるのです。
「青木氏」は「皇祖神」に繋がる唯一の「祖先神の神明社」ですが、神社そのものを論じているのではなく「考え方」の歪を無くて正しく論じて「真の生き様」の掘り下げ遺そうとしているのです。
当然に、その時にはこの考え方に更には「八幡社」が関わってくるのですが、本段ではそれがどの様に関わて来るのかを掘り下げて行きます。
「姓氏と八幡社」と人の根底と成る思考の「5つの守護神」が絡んで来ると論じるのには大変です。
そこで先ずはその「守護神の違い」から論じる事にします。

「日本の守護神」
「守護神の種類 5神」は次ぎの通りです。
0「自然神」(しぜんしん) 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿るものを神とし「否特定の神」

1「産土神」(うぶすながみ) その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

3「氏神」(うじがみ) 「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

4「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

そもそも前段でも論じましたが、0の「自然神」は全ての共通する「守護神の根源」となる「神」で、全ての民の「思考の基準」と成るものです。
ただ、「後漢の民」の帰化人の末裔(阿多倍一族一門)には若干違和感がある筈です。しかし、その違和感もそもそも後漢の帰化人は「道教」を根源としているのですから、「産土神」であっても前段でも論じた様にその「道教の根源」も結局は「自然神」を根源としている事には違いは無い事に成ります。
この「5つの守護神」の中でも特に「産土神」がその考え方としては異質です。然し、この考え方が阿多倍一族一門によってすごい勢いで全国に伝播して行ったのです(前段で論じた 32/66国)。
(この時、職能集団の鞍造り部の首魁の司馬達等に依って仏教も同様に私伝されていたのです。)
中でも関西以西では彼等から「職能の享受」を受けていた民に取ってはこの「産土神の考え方」に当然に牽かれて行ったのです。また牽かれなければその職能の享受と豊かさを授かる事は不可能であった筈です。
それだけにこの「瀬戸内」の事を語る時この「産土神の考え方」を度外視出来ないのです。
その「産土神」の柵のあるところに「祖先神」は兎も角も「八幡社」で「源氏の自分の世界」を構築する事はかなり困難な環境下にあったのです。瀬戸内の事は、血縁で地元に根付いた「讃岐籐氏」であり、彼等の伝統である持ち前の柔軟さからこそ成し得た事であったのです。
まして、当初、清和源氏は「産土神」や「祖先神」ではない「海の神の住吉神社」に傾注していたのです。もとよりそもそも策謀を労しても難しい事であった筈なのです。

「産土神」
先ずは、その1の「産土神」は「瀬戸内」の問題でも「純友神社」に大きく関わって来る重要な要素なのです。依ってここでは先ずは「産土神」に付いて特に掘り下げて論じます。
上記の1の通り、”その人が生まれた「土地の神」を「その人の神」とし、同じ「氏」の者でも生まれた土地が異なれば「その人の神」は異なる”とするものです。
当時の社会は同じ族を成す者等が集まり集団で身を護る習性を持っていたのですから、人は確かに多くの者は集団で住む事に成りますから必然的に同じ神を守護神とする傾向が起こります。
しかし、これらの末裔が時間と共に広がり融合し枝葉化すると、当然にその生まれた「土地と環境」が異なって来ますから、「守護神」と云う意味ではこの場合はある程度の「自由性」を保持している事に成ります。
従って、親と子供が守護神が異なると云う事が起こるのも当然ですから、親や支配者や氏との守護神が異なり考え方が違うと云う事も起こる事に成ります。つまり、「自由性」と「個人性」を強く持つ守護神なのです。
つまり「その人(単独)の神」であって、「祖先神」の様に「氏の神」は「氏」に属する自分であるから当然に「自分の神」は「氏の神」とする「集団性を持つ守護神」では絶対性は無いのです。
依って「産土神」では「祖先神」の様な「拘束性」が無い事に成ります。

「氏の神」=「自分の神」と、「自分の神」≠「氏の神」の考え方の違いなのです。

前者は「氏の神」は「直接的な神」となり、後者は「氏の神」は「間接的な神」と成ります。
そうすると、後者は「自分」と「周囲の者」はある場所に於いて同じに成り、又そうで無い事が起こります。
それは「産土」(うぶすな 生まれた土地)ですから環境が変われば「周囲の者」は必ずしも同じとは成り切りません。
末裔の先祖は当初は「氏の神」=「自分の神」が成り得ていたとしても「人と場所の変化」は勿論の事として「時の変化」に依ってもこの関係は崩れる事に成ります。
「瀬戸内」で生まれたとすると家族・親戚は「同じ神」を信じる事に成りますが、家族構成の範囲である場合が殆どと成ると「氏の神」が「自分の神」と云う事には成り切りません。
前段で論じて来た様に、この考え方の主は、そもそも奈良期に彼等の全ては後漢から来た阿多倍一門の「職能集団」の考え方であり、この瀬戸内の沿岸に住みついた「後漢の民の帰化人」のものであり、且つ、その民を海の上に起こる海事から護る「阿多倍の海の兵能集団」のものでもであるのですから、「民族氏」であり「海部氏」等の様な列記とした「品部の姓氏」(かばねうじ)のものでもあります。
然し、この考え方はこの間、既に600年近く経過しています。

この間にこれ等の「海の兵能と職能集団」が「姓氏」として独立したのが「海部氏」であるのです。
そして「陸」では「陸の兵能集団」の「武部氏」と、「職能集団の陶部」の「陶氏」が「姓氏」として独立して勢力を拡大したのです。
この「海部氏」や「武部氏」や「陶氏」などはそもそも元来の地は「職能集団」であり、武力を持たない集団であったのですから、「姓氏」として成り立ち勢力を持つには「海の兵能集団」と「陸の兵能集団」の協力が不可欠で絶対的必要条件です。
瀬戸内で発祥した日本最初の「品部」から生まれた「姓氏」で、これ等の「姓氏」に成り得たのはこのまさしく「海の兵能集団」(海部)に護られていたからであり、その海から得られる富を背景に勢力を拡大し「姓氏」と成り得たものなのです。
陸の「姓氏」の「陶部氏」も「武部氏」もこの「海の兵能集団」に護られていたからこそ室町期には中国全土を支配する「陶氏族」となったのです。
ただ、互いの部の異なる者達の間には、問題は上記する”産土神の関係がどの程度思考の中に遺されていたか”と云う疑問が湧きます。

「産土神の影響」
「場所の要素」は瀬戸内である事は帰化当初からは同じとすると、「人の要素」は”海族””海部族”として存在しているとこから多少の変化を起していたと観られますが、この族の「産土神」は依然として存在していたと考えられます。しかし、この各海族の「族間」は「海部族」を「姓氏」として「海の兵能族」として生存し維持し互いに相互保護していた事から多少希薄には成っていたとしても存在していた事は確実です。
多少の希薄に成っていた分は、職能関係で ”相互間には「経済的条件の関係」の要素で補われ成り立っていた”事と観られます。
「海部氏」は他の「海族」から身の安全を保つ「武力的な保護」を受け、「海族」はその見返りとして「経済的な保護」を受けて成り立っていたのです。特に上記した様に「産土神の考え方」がこの「相互関係」、即ち、「自由性」と「個人性」−「否拘束性」を持つ事から、この「経済的な相互関係」を強く持つ事が特徴とするのです。各海族の族間の「希薄の分」は「経済的な結付き」で補完されていたのです。
つまり、「祖先神」が持つ「経済的な相互関係」は「当然の義務の事」として優先的に成立するのに対して、「産土神」では「義務の事」は「補助的な要件」として存在するのです。つまり「相互依存の関係」で成り立っていた事です。

経済的な相互関係→祖先神・・義務的要件  「産土神」・・補助的要件(相互依存)

実は、戦略上の常道として、「陸戦力」は海からの攻撃に弱いのです。その弱点を「瀬戸内の兵能集団」が護っていたから「陸での勢力伸張」が可能だったのです。
例えば、ここにその事例があるのです。前段で論じた事ですし、上記の義経が平家水軍を瀬戸内で破った直ぐ後、平家は最終決戦を挑む為に、「敗残兵」を集め水軍を建て直し集めて密かに頼朝の根拠地の鎌倉沖の海に三々五々終結したのです。水軍の持たない慌てた陸戦軍の頼朝軍は弱点を突かれて逃げ始めたのです。ところがこの事を察知した伊豆沖の大島群島の大島源氏の水軍が黒潮を乗り越えて不眠不休で3日で到達したのです。既に頼朝は海から攻められて敗走しているところであってこれが一日遅かった場合は鎌倉幕府は無かった事に成ります。
大島水軍が伊豆沖を通る船の多さに疑問を抱きこれを「察知」した上で、且つ「3日」以内で到達しなければ頼朝軍は滅びると観たのです。そこで来るとは予想もしなかった計算外の平家水軍は今度は船団の背後を突かれて、これを観た勢いついた陸戦軍との挟撃に合い殲滅してしまったのです。
大島水軍が動く事と頼朝軍の掃討は5日と見込んでの「秘密戦略行動」であったと記録されているのです。これが本当の源平の最終結末なのです。

事程然様に、「瀬戸内の海族の背景」が無くしては「陶部氏」にしろ「武部氏」にしろ自らの力ではその勢力の拡大は例え「海の富」があるとしても「姓氏」には成り得ないのです。
この「海の族」即ち「海族」の力が伴っている事が「姓氏としての絶対条件」なのです。それは現在の軍備においても戦略上同じです。
この証拠に室町期には「瀬戸内の兵能集団」は「陶部氏の配下」に入ります。
瀬戸内の「陸の兵能集団」は「武部氏」、「海の兵能集団」は「海部氏」等です。

(注釈  他に奈良期に蘇我氏と戦い滅亡した「兵能集団」として「物部氏」がある。実は「海部氏」と「磯部氏」の職能の境界が不祥で、「海部氏」は兵能と海産物の職人、「磯部氏」は海産物と兵能の職人の両方が記録から出て来る。先ず「海の領域」が異なっていた事ではないか、「海部氏」は外海側 「磯部氏」は内海側 従って「海部氏」は外海から互いに内部で役割分担して兵能役に重点を置いて居たとも考えられ、同様に「磯部氏」は内海であっても職能に重点を置いていたとも考えられる。 恐らくは「海部氏」の場合は家族が海産物の扱いも演じていたと考えられる。時代の変化と共に「生活の糧」の為に区分しなく成ったと考えられる。)

(注釈  前記したが、「武」と「兵」の違い 「武」の”もののふ”は「氏家制度」に依って発祥した武装集団でその「氏の宗家・武家」を主とする組織の支配形態化にある「武の士」を云う。
「兵」の”つわもの”はその集団の首魁の下に兵能職として集合し集団の首魁の直接的支配形態にはなくほぼ「兵能請負形態」に近い軍団の「兵の職人」を云う。
後に「武の士」は「武士」と呼ばれその「武の道」としての規律を養い育成した。下克上が起り主家宗家が逆転した事から江戸時代にはこの「武士」までを「武家」と呼称する様に成った。
「兵の職人」は奈良期に後漢の民の職能集団が帰化してからこの中の兵能の集団が「兵」”つわもの”として職能者として定着したもので、歴史的には漢氏や東漢氏や物部氏がこれに当る。室町期には雑賀集団、根来集団、柳生集団等の兵能集団がある。室町後期には”もののふの武士”と”つわものの兵”が「農兵」も加わり一つに成って行きます。)

この「二つの海と陸の兵能集団」を配下にしたからこそ室町期の下克上では陶部の「陶氏」中国域全域を制覇出来たのです。
この「海部氏」は「海の兵能」と共に沿岸部の末裔一族やその家族集団等が営む「海産物全般」をも取り仕切って販売しその富を得てその船団の輸送力(造船力含む)と武力を使って勢力を拡大したのです。
これ等の意味も考慮に入れて「産土神の純友神社」と云うものの存在はただの”神社”の意味だけでは無い事がよく判り、大いに生活に関わる事でもあります。
そもそもその行動は上記する「思考の根幹」にも通ずるものであって、その「純友神社の存在」の判断は「思考」と「生活」とに直接に関わる事であり、彼等の共通する「集団の象徴」でもあります。
現在、我々が感ずる神社・”お宮さん”のそのものの単純な事では無いのです。
(通説ではこの様な時代考証が無視される傾向がある)
これは上記した様に「祖先神−神明社]も「氏の神」=「自分の神」の関係にあった訳ですから、尚更に同じ以上により強いものであった事に成ります。
そして、この様な事の記録資料が彼等の「産土神」の「純友神社」系を含む神社に所蔵されているのです。
この絵巻などを含むいくつかの所蔵資料を総合する事で「海族」としての「海の族の活動具合」が読み取れるのです。

又、全く同じ時期で同じパターンが美濃から駿河の海域でも起こっており、上記した「駿河水軍」に護られて「海の族」の「磯部氏」が「海部氏」と同時期に中部地方の「姓氏」として勢力を拡大したのです。
又、やや異なるかも知れませんが、前段で論じた「伊勢-信濃の賜姓青木氏」も「伊勢シンジケート」の一つの「伊勢水軍」を背景にしていたからこそ「2足の草鞋策」が成し得たもので、生き残りの大きな背景に成っているのです。
当然に「瀬戸内の水軍」の「産土神」の「純友神社」(仮称)と同じく、「祖先神の神明社」は関西以東のその陸海の「シンジケートの象徴」でもあったのです。
そもそも何処に於いても「氏」の生き残る構成は突き詰めれば同じなのです。”ある物に共通する象徴を求める”と云う人の「本能的習性」があるのです。
勿論、「神明社の特別賜姓族の青木氏」に於いても前段でも論じている様に寸分違わぬ構成に成っているのです。これは最早、「氏家制度の古氏の条理」ともされる絶対条件なのです。
(この判断要素が通説には多く欠落している。)

その彼等の「瀬戸内と云う海域」に祭祀する伝統的な守護神は「瀬戸内の産土神」であります。
対比して「祖先神」は環境には無関係で遠くに居ても「氏の守護神」は「自分の守護神」でもある事に成ります。従って、「瀬戸内の産土神」の環境の中に於いてでも「祖先神−神明社」の存在は「生活の神」「物造りの神」である為に彼等に受け入れられる事が可能と成り得ますので、この「瀬戸内」にも「神明社」が存在している事に成ります。
(その反面、八幡社は上記した問題があり彼等に受け入れられ難い環境にあった)
そもそも前記したように「神明社の存在意義」は「祖先神」と云う括りがあったとしても、「豊受大神宮」を祭祀しているのですから「物造りの神」「生活の神」の「存在意義」があり、「産土神」に限らずどんな「守護神」の中に於いてでも「民の生活の営み」が存在するところには敬愛され信心される事が可能という事に成るのです。これは「産土神」と「未勘氏族が作り上げた八幡神」との融合とは異なるところなのです。

さて、そうすると、「瀬戸内の産土神」を守護神とする環境の中に、「讃岐籐氏」の「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」としての「祖先神の神明社」は少なくとも抵抗無く受け入れられる事を意味しています。
つまり、「藤原純友」の周囲(讃岐籐氏護衛団の秀郷流青木氏)には彼等の「海族」を説得出来得る条件はもとより「思考原理」としても備わっていた事を意味します。
この事は ”純友が海族に成ったとする通説”には「純友−海族」の生きる世界の間には”「大きな隔たり」が存在している”とする前提条件が論理的に付いている筈です。
”解離しているから同じに成ったとする事が変質である”としていて、それを非難されているのですからこの事から考えてもこの「海賊の通説」は全くおかしいのです。

(特記 上記の矛盾考証以外に、伊予住人、伊予三等官、有品官位保持、令外官追捕使、一族讃岐籐氏、特別賜姓族護衛団、瀬戸内利権、瀬戸内血縁族、父は大宰府少弐−上野守国司、藤原北家秀郷一門等のこれ以上無い「絶大な生活環境」を保有する人物であり、一転してこの環境を捨てて「海賊」に成り得なければならな利点が無い。むしろ「瀬戸内海賊」をその環境の一つに加えての「全瀬戸全域の利権」と「血縁絆」をも収めてしまった事による為政者側(朝廷)の「怨嗟」と「危険視」の発露であった。つまりは”出る釘は打たれる”の例えの通りなのです)

然し、「産土信徒」の海族側と「神明社信徒」の同じ瀬戸内に住む「讃岐青木氏」等の純友側には「物造りの神」「生活の神」としての「共通項」が存在していたのです。この「共通項」が触媒と成って海族側の「拒絶反応」が霧散した事を意味します。

「瀬戸内の讃岐青木氏」
「讃岐籐氏」を支えていた「第2の宗家」の「讃岐青木氏」が下記の「融合条件の関係方程式」に大きく関わっていたとしているのです。
「讃岐籐氏」の護衛団は「讃岐青木氏」です。この「瀬戸内の海族団」との交渉に無くてはならないのはこの護衛団です。仮に「海族団側」と談合が付いたとしても「彼等を護る力」が純友側には保障として絶対に必要です。

(特記 丁度、真にこの時期に秀郷一門の「武士の護衛団」は秀郷第3子千国を長として「特別賜姓族の青木氏」として朝廷より「青木氏」を賜りその任務に任じられる。秀郷は「将門の乱」を平定する条件として「2つの条件」を朝廷に提示 [貴族に任じられる事 武蔵下野を領国とする事]。 「公家の藤原氏」に成る事により自ら「秀郷正規軍」はもてない事から千国にその「正規軍」の任務を与え、その「護衛軍」に成った「武家の青木氏」の賜姓を特別に受けて「貴族の護衛団」らしく権威付けた。公家は護身用の武士は持てたが戦い用の武士団は持てない慣習がある。この経緯より「秀郷流青木氏」は939年から940年の発祥と観られる。純友事件の直前に「純友の護衛団」は「特別賜姓族」の名誉と「青木氏」の名籍を獲得して純友は「追捕使の任」と共に彼等を説得する事に勢い付いたと考えられ、同時に「瀬戸内の民」も信頼する条件が生まれた筈です。当初は朝廷も「秀郷勲功」と「祖先神−神明社建立」に配慮した事が「純友任務」にも影響を大きく及ぼしたのです。 余りの影響に「朝廷怨嗟」が生まれた。
この時期の朝廷は「将門の乱の鎮圧」に誰も手を挙げなかった程に信任を落としていた。結局は平貞盛と藤原秀郷の2人が条件付で手を挙げた程であった。体裁を保つ為にやっと経基等の「追討軍」を編成して関東に送ったが既に鎮圧後の対面策であった。)

(特記 上記した様に「特別賜姓族」に任じられた理由には皇祖神に繋がる「祖先神−神明社」の普及建立など幾つかあるが、筆者はその一つとして「朝廷内の勢力争い」の中で北家筋は瀬戸内に勢力を伸ばしていた「讃岐籐氏の純友」を背後からバックアップする意味で、全国の藤原氏北家の中でも最大勢力を誇っていた「讃岐籐氏」のその「護衛団」に「特別賜姓族」とする「権威付け」をさせて事を上手く図れる様にこの期をわざわざ選んだと見ているのです。政治的経緯から観て全国的にもその権威付けの必要性の機運は北家筋としては高かった。「令外官追捕使」の任命もその一つであった。)

「令外官追捕使」の純友にはもとより彼等を護り抜くだけの兵力は与えられていない訳ですから、護衛団の「讃岐青木氏の武力」が絶対的に必要です。
そして何と云ってもこの「讃岐青木氏」はただの護衛団ではありません。
「特別賜姓族」と云う「朝廷のお墨付き」を持っています。「物造りの神」「生活の神」の「神明社」を各地に建立し続けている特別賜姓族です。彼等海族も「物造りの職能集団」の末裔です。
瀬戸内沿岸と山陰までの土豪との血縁による「幅広い血縁族」を有しています。
更には、秀郷一門の116氏の中でもトップクラスの「2足の草鞋策」の「経済力」とそれに伴なう「廻船力」を有しています。
これだけの「裏付と権威」があれば「瀬戸内の海族」に取っては信頼は出来て文句はなかった筈で、武力に依る彼等の「身の安全」の確保と「海産物の販路」の拡大の点に於いても彼等の「生活の安定」に繋がります。一方「讃岐青木氏側」に取っても「瀬戸内の富と利」に大いに繋がる事です。

貴族の「讃岐籐氏」はとりわけ「藤原北家」の「下がり藤紋」の一族は自らが武力を保有せず「秀郷流青木氏」(朝廷より特別賜姓族としての特権を与えられている)を「武力の護衛団」とするのが朝廷より認められた氏であり貴族です。
依って、「瀬戸内の海族」との交渉には、少なくとも彼等には「秀郷流青木氏」(特別賜姓族としての特権を与えられている)が背後にあるとして「純友」を観て居た筈です。
「瀬戸内の令外官の追捕使」として、又、「純友の個人的な信頼」も然ることながら「特別賜姓族としての特権」を背後にあったからこそ交渉に応じたと考えられます。
「純友の個人的な信頼」は直ぐに醸成され得ないし、「令外官の追捕使」はその役目柄から海族側に取ってみれば「敵対の立場」にある訳ですから直ぐに容易に交渉に入れる事は先ず在り得ません。
其処には、何かかれらを交渉の場に入らせた何かが在った筈です。
その背景には”それが「讃岐青木氏」の存在だ”と考えているのです。
この「讃岐青木氏」のこの「瀬戸内の活躍」にあり、四国はおろか山陰までの血縁による広い関係保持が「瀬戸内の彼等」を信頼させたと観ているのです。
安芸や美作の「瀬戸内の沿岸族」との枝葉血縁の中には彼等との血縁もあった事が「讃岐青木氏」の枝葉の家紋分析から考えられるのです。この安芸と美作の瀬戸内の沿岸部には上記した海部氏や武部氏や陶氏等の「姓氏」を始めとする「土豪の集団防衛態勢」が特に起っていたのです。そしてその連合体と「讃岐青木氏」は血縁関係を結んでいるのです。
これが「讃岐籐氏」の特筆する事柄なのであって、”この血縁によるこの深く浸透した人間関係が直ぐに交渉に入れた背景だ”と観ているのです。
更には古来より天皇から信任を得ていて「特別賜姓族青木氏」として「祖先神−神明社」の「物造りの神」「生活の神」を民の為に建立する氏であったからこそ信頼して「瀬戸内の海族」の兵能集団の彼等は話し合いに応じたのです。
何時の世も何も無しには幾ら何でも難しいのは”この世の定め”で、其処には「信頼と絆」とが先ずは醸成されていてこそ交渉事は成り立つものです。
それだからこそ何よりの証拠としてこの「瀬戸内の関係」は時代の荒波の遍歴にも関わらず四度も蘇る事が出来たのです。
突き詰めると、その「思考原理の根幹」は「瀬戸内の産土神」にあったと考えているのです。
この瀬戸内の彼等にはこの「産土神の思考原理」であったからこそ下記する関係式が成り立ったのです。
「産土神の思考原理」が無ければこの談合は成り立たなかったのです。

(特記  前段で「亀甲集団」など論じた様に、「讃岐青木氏」の讃岐宗家の家紋は「下がり藤紋に副紋雁金紋」としている事でも明らかで、秀郷流青木氏116氏の主要紋には亀甲文様を副紋としている青木氏は3つもあり、亀甲紋に限らずその枝葉の支流文様からはこの安芸−美作の土豪や姓氏の家紋を副紋としているものが実に多いことでも判る。 特に平安時代中期頃から用いられた古い文様群であり、「亀甲文様族」は中国地方の全域で「集団防衛態勢」を古くから強いていた事で有名で、それの文様の3つもの「亀甲紋様族」と血縁し、尚且つ、四国側沿岸族の「雁金紋」との血縁をしていることは「瀬戸内沿岸族」と網の目の様に血縁族で結んでいた事が判る。 「雁金紋様類」は瑞祥紋である為に「神紋」としては奈良期からあり、「象徴紋」としては平安初期からあり、「姓氏」としての文様としては四国よりこの平安末期頃に発祥し、問題の「瀬戸内沿岸族」の海部氏一族や海野氏一族や亀田氏一族等がある。海野氏や亀田氏等は「瀬戸内の兵能集団」の「海族末裔」かは確実な確認は取れていないが「武力と経済力の姓発祥条件」から観て可能性が極めて高い。
瀬戸内の兵能集団を獲得して「絶大な武力」を保持し「瀬戸内の利権」と「青木氏の名誉」と「産土神族」を味方にした伊予讃岐の三等官の完全な聖域を超えてしまった)

「融合条件の関係方程式」
海族=産土神
讃岐籐氏+讃岐青木氏=神明社
産土神=共通項(「物造りの神」「生活の神」)=祖先神−神明社
共通項=触媒
「産土神」+「触媒・共通項」+「祖先神−神明社」=「純友神社」

「大蔵氏と瀬戸内海族との関係」
そうすると、讃岐籐氏との「純友神社」として関係が成り立つ事が判ったとして、元主筋に当る九州の「大蔵氏」と彼等の「瀬戸内の海の族」との関係はどの様に成るかの問題です。
当然に確かに阿多倍一門の大蔵氏は主筋であっても、何れも「産土神」である事から考え方に関しては両者とも異なり縛られない考え方に成ります。
当然に、「場所、時、人」の要素は長い間に変異している訳ですから、同じ「産土神」でも異なってしまう事に成ります。まして「産土神」には血縁に関する「家柄、身分、血筋の縛り」が希薄で在りますから、融合する範囲は変異すると、”「産土神」で繋がると云う関係”は希薄に成る事は必定です。
ただ、この「大蔵氏」の場合は他の「3つの守護神」と異なり「産土神」とする考え方には、つまり周囲の土着民の考え方には融合し難い所があった事は現実には九州に於いて史実から観て否めません。
当然、そこで、九州に居ても大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていればそれはそれで主筋として「瀬戸内の民」はたとえ「兵能集団」であるとしても「儀」を護るでしょう。
しかし、そうでなければ時代を経て「瀬戸内」で生まれた者達は「産土神」の考え方から、「瀬戸内」で生まれた異神の「純友」であり主筋としては「身の安全」を護ってくれる「讃岐藤氏」である事に成りますし、彼等の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられれば、大蔵氏の「主筋の儀」を捨てても良い考え方に成ります。

「神明社」の考え方ではそれは不可能で「不儀」と成ります。ですから「河内源氏」の「八幡社の行動」に問題が出てくるのです。「河内源氏」が「産土神」であれば問題はありません。しかし、「皇族賜姓族」である限りでは「祖先神」でありますから永遠に不可能であります。しかし、「河内源氏」の「未勘氏族」とした者達の多くは九州の土豪が多いのです。
つまり、「産土神」の考え方を「思考の根源」に持っている「後漢民の末裔」の土豪なのですから、彼等からすると「未勘氏族全体の守護神」を「八幡社」としてもそこには何等問題は無い事になります。
そうすると、「河内源氏」が守護神の処で「賜姓族の生き様」として問題を起している事に成ります。
だから「未勘氏族」が「国家鎮魂の八幡社」を自らに都合良く「弓矢の八幡社」に変異させて、勝手に自らの守護神であるかの様に吹聴しても何ら問題が無い事に成りますから、自由奔放に全国に広まった事に成るのです。「河内源氏」はこの現象を承知して故意的、恣意的に放置して利用した事に成ります。
その利用した「河内源氏の目的」は「未勘氏族の武士団の形成」にあって、それに依って得られる利益・利得を享受する事にあったのです。それが「瀬戸内の利権」を獲得出来なかった「腹癒せ」と云うか「見返り部分」で、「たいら族」と異なり源氏は「産土神」を守護神とする同民族の「兵能集団」を元から持ち得ていた訳ではなく、「賜姓族」として武力を持つには「未勘氏族の武士団の形成」以外には無かった事に成ります。従って、「武力」を優先する限りは「賜姓族」としての「祖先神」を不義であっても捨てる以外になく成る事に成ります。
これは「河内源氏」がこのジレンマに落ち至っていた事を意味します。当然その結果として、朝廷や天皇から「3つの発祥源」としての勤めを果せなく成る事から排斥や軋轢を甘んじて受けなくてはならない羽目に陥ります。因果応報で在ります。
同じ立場にあった「2つの青木氏」は「3つの発祥源」の立場を護り、このジレンマから脱する為にも「武力」ではなく、前段で論じた「抑止力」とそれを経済的に裏付ける「2足の草鞋策」を採ったのです。
「たいら族」に取ってみれば「武力」に対する苦労は「産土神」を守護神とする「兵能集団」を当初から備わっていた事に成る訳ですから、後は経済的裏付を採る事(宗貿易)で一族一門の発展は直ぐに成り立ちます。故に更には大蔵氏等の一族一門の背景も「官僚の職能集団」として朝廷内にあり、たった5代で太政大臣に上り詰めた事に成ったのです。ここに源氏との大きな違いが在ったのです。「氏発祥の差異」とも云うべき違いです。

(特記 「阿多倍一門」(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏系)は敏達天皇系の女系の血筋と光仁天皇−桓武天皇系(たいら族、阿倍氏系)の女系の血筋を引く賜姓族の出自 大化期より兵能・職能集団が配下にある。「産土神」グループである。
「源氏一門」は嵯峨期以降の累代天皇の第6位皇子の臣下賜姓族 その内、「清和源氏」は例外皇子順位の賜姓臣下族の出自 兵能・職能集団は配下になく、荘園制を利用して「名義貸しの未勘氏族」を組織化して配下に治めた。「祖先神」グループである)

そうすると、今、論じている各地域の「未勘氏族」が九州から関東域まで存在しますから、当然に「未勘氏族」の考え方は「産土神」だけではなくなる事は起こります。
「産土神」では西の分布域は兵庫県の西域までです。ですからそこから東域は「産土神」ではない「未勘氏族」と成ります。殆どは「姓氏の守護神」の「3の氏神」ですから、当然に同じ「未勘氏族」であっても「心の考え方の根源」は異なります。
この事が上記で論じて来た様に地域による「八幡社の建立」の「位置づけと差異」と成って現れてくる事に成ります。
西域では「弓矢」でも東域では「家内安全や身の安全や生活の神や物造りの神や国家鎮魂」と変異し、北域では最早”総神の神明”と成り得てしまうのです。
しかし、因みに中部域の駿河域や信濃域や甲斐域では「産土神」であった阿多倍の職能集団が一度中国地方に配置され再び直ぐにこの「3つの域」に配置移動させられているのです。
「磯部」や「馬部」や「鞍作部」等の関係の職能集団が移り住み「放牧を中心とする開拓」等に従事しています。
前段で論じた様に信濃では彼等は後には日本書紀に出てくる「諏訪族」等と成っています。
当然に「産土神」と成りますが、少し違うのです。確かに「諏訪神」はその「心の思考の根源」は排他的傾向である事では幾らかは明確に産土神の考え方を遺してはいますが、例えば信濃の馬部や鞍作部の彼等の多くは「諏訪神」と成っているのです。つまり、これは「産土の考え方」そのものなのです。
先ずは「生まれた土地の神」を前提に成りますから、恐らくは奈良期にはつまり移動配置時には「産土神」であった事が考えられますが、「産土神」は何時しか「諏訪神」としてその土地の生活環境から「独自の守護神」「諏訪神」を創建して変異したのです。それはここには「阿多倍一門の主筋」が無くなっているからなのです。
彼等の「理解」と「利害」と「安全」が当初より叶えられ無く成った環境下に置かれた結果なのです。
故に「中部域」は「瀬戸内」とは違い、「八幡社」は勿論の事で、全て「別の歩み」を起こしたのです。
この事の様に「時代考証」を良く配慮した上で「純友神社」の「歴史的な民族的な経緯」を論じなくては正しい答えは出て来ないのです。
ですから、その考え方の上で上記の様に「中部域の変身した諏訪神の諏訪社」や「北陸東北域の変身した祖先神の神明社」と同じ様に、「瀬戸内域」の彼等は「産土神」を変身させた「仮称 純友神社」をこの期に建立したのです。
この建立した「純友神社」の意味が「産土神」の考え方と融合して「純友や讃岐藤氏」に対する姿勢が理解出来るのです。
新たに「彼等の考え方」では心から主筋を「純友や讃岐藤氏」に決め、その決心としてその「主筋と守護神」を合致させた事を意味するのです。だから身命を賭して戦い、敗れても乱れること無く何度も再び集結し「瀬戸内」の「海の族」を歴史的に長く護り通したのです。他の地域には観られない独特な産土神の考え方の生き方であります。
そして、その結果が多くの遍歴を受けながらも持ち直して昭和20年までの「瀬戸内の利権」を保守したのです。
大蔵氏500年という長い期間を経てはその意味で九州に住する限りに於いて「氏」とは成り得なかった事に成りますし、又、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられ無かった事は歴史上に於いても史実です。しかし、上記した様に遍歴を得て後に阿多倍一門の伊勢伊賀の宗家筋の末裔の「たいら族」がこの「海域支配」と「生活の基盤」をこの「瀬戸内」に置き、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられた事に依って「産土神の彼等の条件」は全て叶えられ、「たいら族」の支配下に戻る事は抵抗無く当然の結果と成り得たのです。その中でもそこには結果として「瀬戸内の彼等」の「変異し融合した純友神社」が彼等の産土の守護神として祭祀続けられたのです。
何もこれは偶然の事ではないのです。要するに源平で戦った有名な彼の無敵の「平家水軍」なのです。
”元の鞘に納まった”と云う事だけなのです。
そこでこれだけの「産土神の考え方」の中で「儀・義」を通していたこの「海族」の末裔の100年後の「平家水軍」は果たして「海賊」でしょうか。
この「産土神」の「平家水軍」の元は「純友」がまとめた「産土神」の「海の兵能集団」の「海族」なのです。
これ等の行動に「儀」に近い「産土神の考え方」の「一貫性の義」が働いているし、それを100年も持ち続けているのです。そして「たいら族」滅亡後は阿多倍の職能集団の「陶部」の支配下に入った室町期に於いても、その更には室町期末期の「村上水軍」にしても、この「義」に類する「儀」を堅持しているのです。
凡そこの間1400年間です。”これが何処が「海賊」なのでしょうか。”陸の土豪族に勝るとも劣らずであります。
この様に現実にはこの「純友」にまとめられた「海の土豪」は1200年代までその主筋の「たいら族」の支配化に入っていて、「たいら族」滅亡後、その末裔は後の「瀬戸内」を再再編して制した歴史にも出てくる「村上水軍」に成るのです。
この事に関しての出回る通説がこの歴史経緯の「民族的な判断」の欠落で大きな間違いを起こしているのです。

「瀬戸内と大蔵氏」
まして、話を戻しますが、その意味でこの事を熟知する阿多倍一門の次男の同族子孫の「大蔵春実」はこの「純友問題解決」に指名されているのです。
その立場にある「大蔵春実」は「ある意味での見事さの功績」で、天皇から万来の信頼を受け「海賊問題解決」にしては考えられない程の「破格の勲功」であって、それは「錦の御旗」「天国刀授受」と「太宰大監」「太宰大貫主」「対馬守」の役職「瀬戸内の追捕使」の役を獲得しているのです。
現在に於いてでさえも個人に「錦の御旗」「天国刀」等を与えられた者はいないのです。まして、「地方の事件」に等しい問題に対する「一度の勲功」にです。
単なる「地方の事件」であり別に国や朝廷を揺るがす程の問題でもないのです。
その「瀬戸内の海賊の問題」に「国が滅ぶかどうか」で与えられる勲功を周囲に判る様に”これでもか”と云う風にわざとらしく与えているのです。
上記した様にこの「時代の社会の慣習」から「海族と海賊との違い」と「社会の成り立ち」を承知していれば、もし「海賊」とすれば何時の世も社会の巷に起こる単なる「盗人か盗賊」に過ぎない問題です。これに朝廷や天皇や大蔵氏や藤原氏が出て来てそもそも騒ぐ問題ではありません。
何か他に意味を含んだ異常としか考えられない勲功なのです。それも「大蔵春実」だけにです。
つまり、史実を辿れば、元々「経基」が欲していたのは ”「北九州から瀬戸内と南海海域の圏域の確保」”だったのです。勲功は別にしてもそれを「純友」を倒したならば普通ならこの「地域の支配権」を「讒言讒訴の経基」に与える筈ですが、ところがその様にせずにただの「豊後水道」から「紀伊水道」までの「海域の警察権」のみを「大蔵氏」に任せ、「瀬戸内全般の警察指揮官」だけを命じる結果と成ったのです。

大蔵氏は勿論の事、天皇朝廷が上記した「海賊」と看做する「彼等の歴史的な経緯」と「産土神の考え方」と「彼等の主筋との支配関係等」の事と「彼等の不満解消」事等を、彼等の末裔6割を占める官僚が存在しているのですから、この情報は充分継承されて事前にも承知していて判っていた筈です。
従って、事前に「解決シナリオ」は出来上がっていた事は充分に考えられます。それに沿った解決が出来た事に満足して、且つ「向後の憂い」がなくなった事に満足して、一挙に九州自治、北陸の問題、関東の問題も解決に向けて拍車を掛けたのでないかと考えられます。

つまり大蔵氏に「讃岐藤氏の圏域の利権」は与えなかったのです。実態には変化は無いです。
つまり、この事件の決着方法を間違えば「藤原氏」にも「大蔵氏」にも一門の勢力を大きく左右する事であったのです。それだけにこの「海域の利権」(藤原氏)の大きさと「警察指揮権」(阿多倍一門)の重要さが物語るものであったのです。

「瀬戸内の経緯」
ここで大筋の経緯をまとめて論じたいと考えます。この大筋の経緯が「神明社と八幡社」の根幹の判断に大いに関わる事なので取り纏めて論じます。
この「二つの権利」を一時、「純友問題」に代表される様に「讃岐藤氏」が持っていた事に対して、それを獲得する為に清和源氏が合策したのです。何度も前段からも論じますが、中国域の南沿岸部全般は奈良期からの「阿多倍一門とその支配下にある姓族・品部」の無戦に拠って得た支配地域でした。
そこに「讃岐藤氏」が得意とする「血縁手法」で食い込みその圏域を脅かしていた時期でもあったのです。そしてこの「瀬戸内」はほぼ「純友」が圏域に納める事を成し得た丁度その時に、これを契機にこの「圏域の奪取」と「経基の讒言讒訴」が起こり、阿多倍一門の大蔵氏も「圏域の奪還」を図る良い機会と狙ったのではないかと思われます。
しかし、朝廷や藤原摂関家に執っては清和源氏にこの「瀬戸内の圏域」を引き渡す事は政治バランスや経済的打撃等から好ましく無く、結局は朝廷の官僚の6割を占める阿多倍一門の末裔からすると面と向かって政治的に軍事的に藤原氏と対峙する事が得策なのか選択を迫られたものと考えられ、結局は藤原氏と大蔵氏の両者は懐の痛む「痛み分け」で談合したのです。
当然に経基王の野望目論みは排除とする談合がなされたものと観られます。この事により天皇と朝廷の政治的経済的な痛手は無くなります。
当然にこの成り行きのキーマンは九州全域と豊後水道と中国域を制する大蔵氏であり、その出方如何では天皇と朝廷と藤原北家とその主家の摂関家の運命は決まる事にも成ります。
当然に経基王の今後の命運も決まるものであった筈です。
結局は、経基王はこの圏域の野望から排除されその富の獲得の為に禁止されている「荘園制」に走ってしまったのです。
そこで天皇朝廷は先ずキーマンと成っている大蔵氏を納得させる為にも何か特別のものを与えなくては納まらない事に成ります。
そこに先ずこの「事件の勲功」として、「2つの水道域間の警察権」のみを与え、「瀬戸内の圏域の利権」は「純友の捕縛」を条件に据え置きにして「讃岐藤氏」に与え、それ以外に「九州域の自治権の内示」と「破格の勲功」をプレミヤとして与える事で「向後の決着」を図ったものと考えられます。
この事の決着内容に付いて天皇は大蔵氏の姿勢に対して信頼し納得してこの決着案に同意したと考えられます。
場合に依っては「九州自治」から更には「中国自治」にまで主張を広げてくることに成るのではと懸念したのです。
この瀬戸内の圏域を大蔵氏に奪われたら、”瀬戸内を制するものは国を制する”と云われている事から、”中国域の自治まで与えてしまう事に成りかねない”と心配していた筈で、まして独立国を標榜している「将門の乱」と重なると、場合に依っては国は分裂する可能性を秘めていたのです。

この時、前段で詳しく論じていますが、北方域では「蝦夷地での問題」、関東では「平将門の乱」と「たいら族の伸張」、「西では大蔵氏の自治問題」、朝廷内では「藤原氏と阿多倍一門との軋轢問題」と「荘園制の行き過ぎの問題」が起こっており、天皇にとっては「四面楚歌の状況下」にあり、かなり「神経質な環境下」にあったのです。
しかし、歴史的な時系列で観てもこの事件を機会に一挙にこれ等の問題は解決の方向に向かうのです。
恐らくは天皇はこれ等の問題を解決の方向に進めるには ”この時が好機”と捕らえたと観られ、その証拠に前段で論じた「後一条天皇」から引き継いだ「後三条天皇」(藤原氏と無血縁天皇)の命を掛けた「政治的な粛清」に入り「白河天皇」と「その後の院政」がこれを引き継いだのです。
真にこの事件を契機に上記した問題は全て解決して行きます。
勿論、藤原氏系ではない天皇系が誕生したのですから、母方で繋がる清和源氏も摂関家も衰退し排斥されてしまいます。
そして、この期に乗じて東では「たいら族」の貞盛が父の国香を犠牲にしても同族の異端児の将門を討ち果たし、朝廷内で徐々に基盤を築き始めるのです。
それに併せて大蔵氏がこの海域の警察権を保持した事と、朝廷内の大蔵の権限を専有し、朝廷内の軍事の権限では同族の坂上氏が掌握し、内蔵の権限は同族の内蔵氏が専門官僚として占める状況の中で、伊勢伊賀の一族一門の本拠地からは遅れていた賜姓「たいら族」がこの事件を契機に台頭して行くのです。
そして、阿多倍子孫の賜姓を受けた「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、天皇の補佐役を手中にした親族の阿倍氏、そして遅れて賜姓を受けた桓武平氏の貞盛の「たいら族」等は、「瀬戸内の海族」を次第に弱まった讃岐籐氏から一部を奪い反し、「海賊掃討」を理由に帰化以来に戻りその「兵能の職能集団」を再び配下に入れてしまうのです。
これで「瀬戸内の海族」の彼等は本来の帰化当時の本主筋の伊勢伊賀の本拠地の「たいら族」の下に戻ったのです。これが解決の道筋なのです。
殆ど朝廷内は阿多倍一門一族に依って占められたも同然です。院政の一局態勢が確立して思うような制改革が断行できる事に成り懸案事項であった事柄が解決して行く流れに成ったのです。

本来であれば朝廷は「たいら族」のこの行為(海族を支配下に戻した事)を容認する事は藤原摂関家との関係から無い筈です。しかし、この摂関家もこの頃は弱体化していて強く主張する事が出来ない状況にあり、源氏と摂関家の勢力を押さえ込み朝廷の権力(院政)を最大限にする狙いがあり、この為にも大蔵氏への勲功を必要以上に大きして「九州自治」の下地を構築したのです。
そして大蔵氏からその「瀬戸内の圏域」を任せ、それが同族の「たいら族」に移動するかは院政に採ってみれば大した問題では無くむしろ好都合であった筈です。「たいら族」を引き上げ力を持たせ一門体制を確立しようとしたのです。
だから、「大蔵春実」のこの事件の解決に対して「院政の意」を汲み取ったとして上記の様な勲功と成り得たのです。
「大蔵春実」が「国内解決の道筋」を作ったとする満足感が院政にあったのです。
東北の問題も「内蔵氏」、関東の問題も「たいら族」、九州の問題も「大蔵氏」、朝廷の勢力も源氏と摂関家が弱体化させられた事から前の「3つの問題」の同族大元の大蔵氏を取り込めば一挙に解決に向かう事は間違いありません。
この大蔵氏を始めとする阿多倍一門一族の勢力を引き上げてこれを支配すれば源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込めると観たからであり、且つ、彼等阿多倍一門一族の勢力圏は中級官僚にまであり、それを掌握出来る訳ですから、親政族の源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込める事は確実であったのです。
軍事は坂上氏、政治顧問は阿倍氏と成れば全て朝廷と「院政」の周りは阿多倍一門一族で占められた事に成ります。
この態勢が出来上がれば「院政」は”鶴の一声”の政治体制が出来上がる事に成ります。
「大蔵春実」の功績は、事件をきっかけに「院政による政治体制」を完全に構築する事に成った事を意味します。そしてこの後、直ぐに「遠の朝廷」の「太宰大監」の「九州自治」を宣言する事から始めたのです。
これで国が二分する事無く解決に向かうことに成ります。
親政の源氏や摂関家の藤原氏を頼る事では複雑な柵みの中ではこの危機の回避は不可能であり、阿多倍一門一族を朝廷側に取り込む事により前段で論じた様に危機は去り、朝廷・天皇・院政は安泰と云う事に成る訳です。

この先の見えた状況の中で、この期に乗じてこれで「たいら族」は一挙に「圏域と利権」を獲得し「武力と経済力の氏発祥条件」を備わり勢力を伸ばし続けるのです。そして逆にこの圏域と利権獲得に失敗した「河内源氏」は「荘園制の方向」に走り、「白河院」の前段で論じた「軋轢」を受ける事に成るのです。
源氏、取分け「河内源氏」と対比して「たいら族」は真逆の方向へと進むのです。
「河内源氏」は危険な「荘園制」に、「たいら族」はこの「利権の宝庫」の「瀬戸内」を基点として「宗貿易」に進み富を獲得します。危険な「荘園制」に向かった「河内源氏」は朝廷と院政から「軋轢」を受け、一方の「たいら族」は朝廷と院政から「信頼」を勝ち取るのです。どれを捉えても真逆です。
この様に「瀬戸内の海域」には「圏域と利権」が大きく絡み、且つ「政治的な動きの起点」に成っていた地域なのです。
これ等の「瀬戸内の経緯」が「河内源氏」の「八幡社−神明社」の判断に無視出来ない大きく関わる問題なのです。
丁度、この期の直ぐ後に「2足の草鞋策」を敷いた「祖先神の神明社」の「2つの青木氏」も「賜姓族」、「親政族」として影響を受けない訳には行かなかった筈です。
然し、「2つの青木氏」の元締め「伊勢青木氏」と秀郷流の元締めの「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢伊賀の阿多倍一門一族の本拠地「たいら族」と和紙で繋がり、隣国の親密な関係を保持し最悪の状態を免れたのです。

(「2つの青木氏の立場」 この後に起る源頼政の「以仁王の乱」では伊勢青木氏[頼政の孫の三男の京綱が跡目]と秀郷流伊勢青木氏[朝廷に働きかけた形跡あり]は頼政の孫の2人の助命嘆願に成功した事からも明らかです[日向青木氏]。
「伊勢青木氏」は摂津に2店を構え3艘大船で「瀬戸内の利権」を一部「たいら族」から認可を受けての「中国貿易」の記録有り。初期には和紙 後期には総合商社 恐らくは少なくとも伊勢青木氏等5家5流の青木氏は「荘園制の方向」に走っていた場合は「たいら族」は保護し切れなかったと考えられます。
「隣国」で「和紙」で繋がり「商い」で「たいら族」と同じ方向に向いていたからこそ親近感を醸成していたと考えられ、又、政治的にも「朝廷の信頼」を「親政族・賜姓族」として勝ち得ていたのでと考えられ、「たいら族」も擁護し助命嘆願に応じられたと考えられます。
その「象徴の姿」が「皇祖神」の「祖先神−神明社」の「創建と維持」に懸命に働いていた事が、「朝廷と天皇」と時の権力者の「たいら族」と政治家の「摂関家」と官僚の「大蔵氏」から共感を得ていたと考えられます。
それは「親政・賜姓族」が「2足の草鞋策」を採用する事が本来であれば ”親政・賜姓族が何事か あるまじき行為だ”と罵られた筈でありながら「共感」を得ていたのは不思議な事であった筈ですし、”反乱者の孫を助命嘆願など以っての外だ”と成った筈です。
又、「瀬戸内の利権」の一部を譲渡されて瀬戸内に入り「商い」をする事が許されていたのです。
しかし、現実にはこれ等全てが認められているのです。まして「慣例や仕来り」の厳しい社会の中です。
これ等は特別な信頼があったからこそで、それが「皇祖神」の「祖先神−神明社の努力」で在った事が判ります。その「神明社」の「経済的な裏づけ」を取る為の「2足の草鞋策」は容認されていたと考えられます。だから「助命嘆願」の無理も聞き入れ潰さなかったのです。そして生き残れたのです。
「2つの青木氏」はだから天下を2分した「源平の戦い」にも合力していないのです。普通本来であれば源氏側に合力するのが同族である限りは本筋である筈です。
筆者は、「青木氏家訓10訓」や「生仏像様」の処で論じた様に、”世に晒す事無かれ”の「遺戒」がこれらの「氏の姿」、つまり「在様や生様」の全てを物語っていると観ているのです。「意味深い遺戒」と観ているのです。「世に晒す事無かれ」に付いては家訓10訓の10で論じる)

再び話を戻して、そして遂には大蔵氏はこの「2つ水道の警察権」と共に「九州自治の下地」(孫の種材の代で完全自治:1018年)を構築したのです。
この時、讃岐・伊予を押さえていた「藤原氏の圏域」は警察権は大蔵氏に奪われたけれど、結局は元の「海域の利権」は護られ「純友」は終局捉えられ抹殺されましたが、その一族一門は依然として「讃岐藤氏末裔」は抹殺されていないのです。この事は本来であれば朝廷が云う罪状であれば一族一門は罰せられた筈で「純友個人」で行動した訳ではなく「2つの役職」を以って動いた訳ですから免れなかった筈です。
然し、「純友」だけなのです。朝廷のこの罪状の付け方から観てもその目的は明らかに違っていた事を意味しますし、「純友の行為の正当性」も認識して居た筈です。
「純友の非」を敢えて云うとすれば、真に”世に晒す事無かれ”で在ります。
俗世に云う ”河に竿させば流される” ”雉も鳴かずば撃たれまい” ”前に出過ぎれば潰される” ”出る釘は打たれる”の例えの通りであります。”現世は諸行無常”であります。”上手く纏めすぎた”と云うところであったと考えられます。
(関東の争い事を調停役を買って出て懸命になって働いた「平の将門」に付いても同じ)
それが「瀬戸内の利権と圏域」を独り占めの形に成る事を造り上げて、それを恐れたつまり経済的にも然ることながら「海族」の力も手中に入れる事が出来たとすると、最早、”「瀬戸内」に叶うもの無し”であります。この「勢力拡大」を朝廷、源氏、同族の藤原摂関家、阿多倍一門から怨嗟の声が上がり渦巻いた事は間違いない事であります。(この頃朝廷内ではこの体質が渦巻いていた)
それを”この海域の利権を目論んでいる「経基王」に言わしめさせた”とするところであり、要するに”出すぎた”のです。それ程にこの「瀬戸内」と云う地域は、”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉通りで重要な所でそれだけに難しい地域でもあったのです。
この様に重要で難しい地域で、この「海域の利権」を「讃岐藤氏」から奪って仕舞えば、中国地方と四国の対岸では結局は百々のバランス条件は崩れ、とどのつまりは再び「覇権争い」を起こす事に成り、却って「大蔵氏は警察権の務め」が果たせなく成る事に成ります。この瀬戸内問題の「落し処」が重要で在ったのです。

「経基王」に勲功を与えず、考えられない程の勲功を「大蔵氏」のみに与える事は、朝廷は「経基王」の目的を知っていた事を物語ります。それ程にこの「瀬戸内の圏域」は政治的に重要な意味を持ち、朝廷はこの「讃岐藤氏」のこの「圏域の体制」をある程度の範囲で崩したくなく、ここから挙がる「租税の恩恵」と「政治体制」を乱したく無かった事を意味し、そもそも朝廷が「九州自治」で苦しんでいる時にわざわざ源氏に与えて問題を大きくする事はしない筈ですし、その行動で「荘園制」で睨まれている清和源氏(河内源氏)には決して与える事はしなかったのです。まして祖先神の神明族として本来の責務を果たさない清和源氏に対しては尚更であります。(清和源氏の出自と行動に蔑視と懐疑の念が朝廷にあった)
(前段で論じた様に「経基-満仲」はその意味でも「荘園を利用した武家の集団化」を始めて図って朝廷に圧力を掛けていたのです。)
それを天皇と朝廷は政治的にはっきりさせる為にも大蔵氏に破格の勲功を与えて、”これでもか”と清和源氏の「経基王」を押さえ込んだのです。
そもそもこの人選を天皇に進言したのは藤原摂関家であったのです。この時の海賊問題は形の上での処理であってある意味で無傷なのです。
そもそもこの「瀬戸内」を挟んだ四国域と中国域の圏域に絡んだ複雑な勢力バランスで構築された地域を「純友の乱」の処置等で崩す事は出来ない筈です。
更に前段でも論じて来ましたが、そもそもこの中国域は阿多倍一門の32/66国の「たいら族」「大蔵氏族」「陶族」等の一門の圏域でもあるのですから、「大蔵春実」に「警察権」等を与えたとしても何の不思議も無い事なのです。
むしろ「讃岐藤氏」の純友等に「警察権」そのものを与えていた事の方が問題です。先に「有品の制」の官位を与え、且つ任命した「令外官追捕使」に「令外官追捕使」を送り込む事の矛盾をどの様に言い訳するのかが問題に成った筈で、その為には”海賊に成った”とする以外に言い訳が無くなるし、それを天皇が言い訳する事が 出来ないので、「将門の讒訴」の件もあり、又、「経基王」に言わしめる様に仕向けたのです。(瀬戸内の利権を狙っていた経基は関東で失敗した後だけに飛びついたと観られる)
前段で論じた「平の将門の乱」が”独立国(前段がある)を標榜した”として、丁度、この時に起こっていて、「平の国香」や「平の貞盛」の「たいら族」はこの乱を契機に俄かに勢力を拡大し始めた時期でもあります。
依ってこの地域はまだ「たいら族」の支配地域には成っていない丁度その中間域にあって、特にこの海域は「讃岐藤氏の圏域」の中に未だあったのです。
「大蔵氏」に代わって「たいら族」がこの「海域の警察権行使」は難しいところだけに未だ難しい勢力化にあったのです。
この事件を契機にこの瀬戸内全般を「大蔵氏の警察権」として取り戻し「たいら族」が勢力を拡大するに伴い大蔵氏は「たいら族」にその警察権を移して行くのです。
そして「平貞盛」より4代目の「平忠盛」(清盛の父)の代頃からこの「海域の利権」が「讃岐藤氏」と「たいら族」の「2局体制」に成って行くのです。
所謂、この様に「産土神族」と「出雲神族」の中に「春日神族」の「讃岐藤氏」が「血縁的」に「経済的」に食い込んだ微妙なバランスで成り立っている地域なのです。
前段でも論じた「美濃の源平の勢力バランス」と良く似ていて、この「瀬戸内」でも同時期に藤原氏と大蔵氏の勢力バランスの坩堝の中にあったのです。
まして、藤原氏北家は当然の事として「たいら族」と「大蔵氏」はこの様な状況の中では「経基王の伸張」を絶対に許す事は政治的な戦力として無い筈です。ましてこの瀬戸内の坩堝の中に一分家の河内源氏の源氏勢力を入れる事はしない筈です。(入れる事そのもの行為は最早政治ではなく成り政治家ではない)
その後も勲功で大蔵氏が警察権を持ったとしても上記した「たいら族」が伸張して来るまでは暫くは「讃岐藤氏の圏域」であった事は朝廷にとっても”政治的にも、戦略的にも”最も重要な地域である事を物語っているのです。
つまり、「経基王」はこの「瀬戸内の圏域確保」に結局は失敗し、関東に於いても行く先々の所で問題を起こし、結局は行き詰まり、「勢力拡大」に必要とする「財力源」は無く、止む無く「後一条天皇」(1018年)から「後三条天皇」(1068年)までの「荘園に関する禁令と抑制令」を無視して、「荘園制」を逆に煽る「荘園の名義貸し」の「財源・利権獲得」の方へと動いたのです。
これが「経基−満仲−頼信−義家」と続いた経緯なのです。
「瀬戸内の覇権」を狙っていた取分け「経基−満仲」の親子は「海の神の住吉大社」を信心していた事でも判ります。
(「経基王」が「瀬戸内の覇権」に失敗したことから「源満仲」は途中から「たいら族の兵能集団」に対抗して「荘園制の未勘氏族」を摂津から移動して河内で組織化して武家集団を構築したのです。
途中まで出世したが、晩年この為に満仲は朝廷から危険視され無視され軋轢を受ける破目と成り摂津に帰り蟄居する。)

(特記 ) 「源経基の経緯」(八幡社問題と瀬戸内事件の根幹)
武蔵介として赴任(938)し、直ぐに検地を実行しようとして地元土豪の地方官の郡司武蔵武芝に慣例により拒絶された為に争を起した末にその財を略縛した。経基は危険を感じて京に逃げ戻り、逆恨みして仲裁者の平将門等を讒訴。その2月後に平将門は事実無根として告訴、経基は拘禁されるがその更に半年後に朝廷の態度(勲功の評価に対して)に将門は不満を持ち朝廷に圧力を掛けた。その結果、真面目で評判の良い将門は決起して本当に乱を起したので、逆に「怪我の功名」から「経基讒訴」を認められて「有品の制」の最下位の「従五位下」に任じられた。朝廷はこの失敗を経基に官位を与える事で取り敢えず対面を繕った。
(本来、賜姓源氏は有品の制では賜田を受け従四位下に任じられる筈)
(将門は関東の各地で起る「地方豪族と国衙との争事」の「調停者」を積極的に務めた人物であったが、逆に経基に「逆恨み」」を買い讒訴、反乱者とみなされてしまった。この後直ぐに起った事件でも「純友」も将門と同じ「勲功の闘争」を朝廷に起したのです。伊予の三等官で瀬戸内の追捕使として、難しい上記の瀬戸内圏域を纏め上げたが、矢張り将門と同じく勲功に対して評価しなかった。これを「国衙怨嗟」の為に朝廷は勲功否認したので軋轢が発生 「将門の乱」と全く同じ周囲の地方豪族と国衙を追捕使の立場で掃討して朝廷に圧力を掛けたが、矢張り将門の件と同じく「朝廷の怨嗟」で逃げた。
(この「2つの怨嗟の讒訴」は経基が演じた。)
そして経基は「平将門追討軍」に参加するも既に鎮圧済み、仕方なく京に戻り、今度は「純友の行状」を又もや讒訴(941)し、その功から「西国追捕凶賦使」に任じられて、「純友の乱」の平定に向かうが又もやこれも既に鎮圧済み、挙句に果てに豊後の純友の家来「桑原生行」を襲い、これも又その財を略暴したが黙認された。(この略暴行為は歴史上有名な事件)
(「2つの経基讒訴事件」は出陣の際は既に「鎮圧済み」の後に出陣した事に意味がある)
その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には「鎮守府将軍」に昇進するも、後にその出自と上記の事柄等が問題に成り「臣籍降下」の処置を受ける。
(経基も本人資料の中で不満を述べている。藤原氏と阿多倍一門の巻き返しに遇った為。 後に「将門や純友の勲功」に対して正等に評価しなかった事への朝廷の修正[次期の円融天皇]が起った。)
この事は清和天皇の第6位皇子の孫(上記説明 ゜六孫王」の呼称があるが当時の正式記録には出て来ない 未勘氏族による後付)で無かった事から第4世第7位皇子王以下は規定に基づき臣籍降下された事を意味するが、「正規の源姓(賜姓族)」に付いては、発見された摂政の実力者「藤原実頼」の遺した「日記記録資料」から判明し、現在では経基の源姓は「跡付け」と考えられていて、経基王は「嵯峨期の詔勅」(青木氏 源氏)を利用した「非賜姓の源姓族」(清和天皇第9位と12位の皇子が非賜姓源氏族)と見なされた事に成る。つまり、これは清和天皇の賜姓源氏族(第6位皇子)ではなく「狂気の陽成天皇」の皇子で賜姓族外の例外皇子王であった事を意味する。
その後の頼光からは資料からは「賜姓源氏」とみなされた資料が残っている。これは仕えた藤原氏の歴史上の最大実力者藤原道長の執り成しである。
(経基王は上記した”賜姓を強く望んでいた”とする事はそもそも賜姓に関しては規定外の例外王である事の証であり、この事からも判る。依って「蔭位の制」「有品の制」の「賜田」等の扱いの正式確認が取れない。)

(青木氏と源氏の様に「賜姓」であるかどうかは家柄・身分や官位官職や経済的な扱いや世間の扱いは大きく異なったのです。
「嵯峨期の詔勅」に基づく非賜姓の「青木氏」と「源氏」は清和天皇系と陽成天皇と冷泉天皇系が殆どで、この時期の「賜姓」の有無には皇族や世間の目は特に異なっていた。)

(その意味で上記の立場から陽成天皇の皇子の「経基王」は”焦りから来た波乱”に満ちた人生を送り子供の満仲もその経基王の影響を受けて同じ様な波乱に満ちた生き様を示した。然し3代目の頼信の頃からは兄の頼光の勲功と主君の藤原道長の計らいで憧れのやっと正式な「有品の制」の扱いも受けて立ち直りの傾向にあった。)

この過程で「瀬戸内の圏域」を狙っていたこの「河内源氏」は、その為に信心していたそれまでの守護神「海の神の住吉大社」から「荘園本領策」に方針を切り替えてからは、今度は「荘園の神」とも云っても過言ではない「八幡社」にのめり込んでいったのです。
少なくとも3代目の分家の頼信の頃までは時系列的には本来の「国家鎮魂の神」であった事が資料から読み取れるのです。
つまり、この後に「八幡社」が何らかの理由(未勘氏族との絡み)で「荘園の神、武家の神」と次第に変質させられて行く事に成ります。
この「八幡社」(国家鎮魂)が「神明社」の様に管理氏が明確で無かった事からと、朝廷の財政的な理由も伴って荒廃していた事が記録に遺されていて、この修復に「清和源氏の宗家」摂津源氏に対して修復を命じています。
全国の「八幡社」(国家鎮魂)に対してまで修復は財政的に困難であった模様で遂次と進まなかった事が記されています。恐らくは「田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯」−(前段4)の処で論じた様に「賜田」等の禄を充分にその出自から多く受けられなかった「摂津源氏の宗家」に対して、「河内源氏」が「荘園制」を利用して「名義貸し」を行い「武家の組織化」と「財源確保」に走ったのです。
この荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を何時しか「組織化の象徴」(弓矢の神)として宗家に取って代わり利用して八幡社修復を代わったと考えられます。
そして手段としてその「組織化の未勘氏族」(無血縁の非賜姓河内源氏族として)に修復を命じた事から、その結果として本来の「国家鎮魂」から「荘園制の神、武家の神」として勝手に変質させて行ったと観られます。
後勘からすれば上記した発祥時の経緯から「蔭位の制・有品の制」に恵まれず「武力と財源」の無い「賜姓族・神明族・親政族」の「清和源氏」にして観れば、”「宿命の自然の流れ」”とも考えられ、”止むを得ない仕儀”とも考えられます。然し、何度も云う様に「生き延びられる道」は全く無かった事では無いのです。
この「八幡社の経緯の背景」にはこの「瀬戸内の圏域」の大失敗が背景にあったのです。

(「経基−満仲」の経緯と「頼信−義家」の経緯とそれに伴なう「八幡社の問題」があったから各地の神明社の建立がこれ程進み、取分け「産土神」の環境の中でこの難しい「瀬戸内域」での「神明社の建立」が可能と成ったのです。)

「神明社」の「2つの青木氏」は「2足の草鞋策」と秀郷一門青木氏の「抑止力」で生き延びましたが、最終、大蔵氏から「2つの水道域の圏域」を引き継いだ「たいら族」もこの「瀬戸内の圏域」を大いに使って「2足の草鞋策」から更に発展させて前段で論じた「瀬戸内水軍」を使っての「宋貿易」へと進め、その莫大な「財力源」を生み出したのです。「院政」はこの「たいら族」から上がる「潤い」を受けます。
この意味では、「清和源氏の武力の背景と財源の背景」には、上記の「たいら族」に比べて元々リスクが大きかった事は否めませんし、「朝廷への潤い」でもその貢献度は大きく異なっていたのです。
それが阿多倍の一門の一方の関西域を基盤とした伊勢伊賀の後発の「たいら族」が5代で伸張し上り詰めるだけの勢いがあって拡大に繋がったのです。これも「瀬戸内の圏域」のお蔭なのです。

(重要参考 義経は清盛よりこの「宋貿易の経済学」を教えられていたとする資料が遺されている。 
これによると「経基−義家」と引き継いだ「荘園制よる財力源」と、清盛から教授された「貿易による財力源」の考え方の違いが清和源氏の中に起こったのです。
後者を選んだ同じ賜姓族で神明族で親政族の「2つの青木氏」と藤原氏北家筋は生き残り、後者側に主力を置いた「たいら族」と、前者側に主力を置いた「清和源氏」は互いにその考え方の違いから生き残りを掛けて火花を散らし両者共倒れに近い形で滅亡したのです。
しかし、前段で論じた様に、「瀬戸内問題」と同時期に「同族の関東での不始末」を起した「たいら族」は、結局は「源平の緩衝地帯」の「美濃−尾張域」まで後退し、そこで「緩衝」のバランスが崩れ源平の本格的な争いが起こりました。
(美濃−尾張地域は「源氏」と「たいら族」と「秀郷流青木氏」との3氏の緩衝地帯であった)

同じ様にこの「瀬戸内地域」でも、大蔵氏は「讃岐籐氏の圏域」にあった「瀬戸内の問題」を藤原氏との争いを避けて上手く解決し、一時、瀬戸内警察権を大蔵氏の支配下の中に入れて次第に同族の関東問題で弱っていた「たいら族」にそれを移して行きます。
この結果、「たいら族」は関東からこの瀬戸内へと伸張し財力と政治力も確保しながらも美濃−尾張での初戦に続き「瀬戸内の源平の争い」で敗退したのですが、この「瀬戸内のお蔭」から来る「商いと物造りの基盤」から基礎力は生かされて、前段でも論じた「たいら族」の織田氏の「末裔の美濃・尾張」で蘇り復活に繋がったのです。
(全国に分散した阿多倍一族一門の生き方が時代をうまく捉えている。 陸奥安陪氏が犠牲。)
しかし、前者の生き方を採った「八幡社族」の「河内源氏」は遂に復活しなかったどころか近江−木曽−美濃−尾張の戦いで11代{中4代の源氏は生き残る}の源氏一族を滅亡に引き込んでしまったのです。遺したのは名義借りの「無血縁の未勘氏族」ばかりなのです。
この残った源氏の「未勘氏族」が「八幡社」を別の方向へと誘導し「河内源氏」を殊更に誇張し史実と異なる誤った印象を後勘に与えてしまったのです。
「未勘氏族」が別の方向へ誘導していなければ「河内源氏の悪名」は生まれなかったと考えられます。
「河内源氏の義家」はこの「未勘氏族」を「軍事力と経済力」の為に配下にしていた事から止む無くも煽られた事から源氏一門を巻き込み滅亡に追い遣ったと考える事が出来ます。
そして「神明社族」は生き残り「八幡社族」は滅亡したのはここに根源があったのです。
確かに、直接原因は経基王のこの「海域の奪取」の間違いに始まるのですが、間接的には「未勘氏族の八幡社の煽り」(後付論)にあったと考えられます。

”何もこの「海域の奪取」に関わる事なくしても「2つの青木氏」の様に「2足の草鞋策」と「神明社」で生きる道を選んでいれば全源氏は滅亡に走らなくても良かった”と考えられ、後勘として源氏と同族血筋を汲む「4つの青木氏」の立場から観ると 上記の様に時系列的に考察すると”判断の無理が大きく存在していた”と現在でも構成する一人として結論付けているのです。これが「青木氏家訓10訓」に表されているのです。と云うのはこの期にその論者が居なかった訳ではないのです。
現にこの義家の孫の義経は上記した様に遺された資料の文書の一節から観ても青木氏と同じ論者であったのです。
頼朝が鎌倉会議の際に「義経の方向」に舵を切っていれば第7世族の「坂東八平氏」に頼らなくても生き残れたと考えられます。
(舵を切っていれば確かに「坂東八平氏との戦い」に成った事は否めません。秀郷一門を味方に引き込んでいれば同じ関東の勢力図から観て先ず負ける事は無かった筈です。)

「義経」はこの「瀬戸内」の「海域の利権」を「たいら族」から全てを奪取しているのですから最早、何も「坂東八平氏」に頼らなくても「純粋な源氏の力」で「武家の幕府政権」も造れていたのです。
現に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と言われていたこの「瀬戸内」を基盤に「たいら族」は栄華を誇ったのです。
当然に、関東以北に勢力圏を持つ「藤原北家秀郷一門の協力」(平泉・入間・常陸・陸奥越前等)を得ているのですし、資料からも弱体化し衰退していた摂関家も同調していた事が判っている訳ですので、政権の大本は義経は構築していたのです。同じ「神明族、賜姓族、親政族」である「2つの青木氏」も「2足の草鞋策」でこれを補完する事に成る筈です。
(院政側も利用するつもりであった事は否めませんが院政の利害からも義経に同調していた。)
この「義経の戦い」の瀬戸内の海域の成果は「最大の幕府樹立の条件」にも成っていて、義経が目指す「神明社族」としての方向性は決まっていたのです。
ともあれ、全国に「566の神明社」を建立して配置していた事からも「河内源氏の八幡社」や闇雲に「未勘氏族」や第7世族の「坂東八平氏」に頼らずとも「神明族」としてこの「瀬戸内の海域」はもとより全国の「民の心」は掴めていた筈です。
(義経は「八幡」を決して名乗らなかった。頼朝は鶴岡八幡宮を信仰し八幡を主神とした。)

「四国域・中国域」
さて、この様に「瀬戸内の圏域」を挟んだ「四国域・中国域」の「神明社と八幡社の建立時期」に起ったものとして、後勘から観れば「象徴的な事件」が2つも起こっていたのです。
そんな環境の中でも根強く「祖先神の神明社」は瀬戸内の民に招かれて建立されていたのです。この意味は「祖先神−神明社」を理解する上で大きい事であり、特段にその状況を論じたのです。
それ故に、この「事件の背景」からも判る様に河内源氏の深く関わる「弓矢の神の八幡社」のこの地域での伝播は本来無い筈なのです。(氏家制度の環境下では以下の「5つの要素」が不備 )
「産土神」の環境の中で「祖先神−神明社」が認められているとすればこの様な背景を持つ「弓矢の八幡社」が認められるかという問題です。殆ど有り得ないと考えられます。
この時の上記する讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」の「勢力の如何」を物語る事件であったのです。
その意味でこの数字考察には一考しなければなら無い大きな意味を持っているのです。

従って、故に、此処には下記の「5つの要素」
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域性」
E「武力性」
以上の「5つの要素」の条件が影響しますが「祖先神−神明社」に関しては相互に連動して達成構築されているのです。
なかなかこの「5つの要素」全てを連動して構築している氏は少ないのです。

そうすると、「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」が「生活の神明社」を建立し、一方で逆の「弓矢の八幡社」を建立する事が「信義的に可能な行為」であったのかと云う疑問です。

”「弓矢は武士の守護神」とする事であり、ましてや「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」とするものに、「皇祖神」の代わりに「祖先神の神明社」の「特別賜姓族」が建立する事が信義的に可能なのか”と云う信義的な矛盾が生まれます。
この事は関西域・中部域・関東域・北陸東北域でも特別賜姓族と賜姓族の衰退期間に於いて勅命により明確に可能です。
そもそも「特別賜姓」は前段で論じた「3つの国政の遂行」の為に衰退していたこの時期に「賜姓族青木氏」に代わって「勅命での行為」そのものであったのです。

この四国には上記する様に、「讃岐と阿波の2氏」を除き14氏の豪族にはこの「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」の「八幡社」を守護神とするのは「三好氏」の1氏しか存在しないのですから、この三好氏が゜秀郷流青木氏」の圏域をはるかに超えて建立する事は可能かと云う事に成り、”何も源氏に媚して八幡社を建立する事”は無い筈ですし勢力的にも不可能です。

(愛媛9に付いては、「清和源氏の経基と頼信」は若い頃に短期間「伊予」に赴任していますが、未だこの頃は「八幡社」は朝廷の命に基づく「国家鎮魂の八幡社」であった事と、この頃は頼信は「海の神」の「住吉社」を信仰していたので無関係と成ります。
ただ経基王と頼信が赴任していた事もあり源氏性が強い地域であった事は否めませんが、領主と成り得る未勘氏族が無いのです。上記の「純友の乱」での経緯で「河内源氏の勢力圏」をこの地域に伸ばす事が出来なかったのです。)

まして、その環境の中で”「讃岐と阿波の青木氏」が建立するのか”は信義的な面から観て大いに疑問であります。
しかし香川6 徳島3 愛媛9 高知3で建立されているのですから、考えられる事は他の地域で観られる”「八幡社の存在意義」の如何”に関わる事以外に無い事に成ります。
当初、「讃岐、阿波の2氏」により平安期の内に、全てこの21の「八幡社」が「神明社」として建立され、その後の四国に於いてそっくり室町期中期以降に豪族が入れ替わりますが、この時にこの21の「神明社」が「八幡社」に変えられてしまったとすると、鳥居やお社の形式は平安期のそのままでも成り立ちます。
因みに江戸初期の四国の豪族は讃岐3氏、阿波1氏、伊予7氏、土佐2氏の戦国の立身出世の豪族に入れ替わりますし、当然にこの中には「清和源氏頼信系」はありません。
どちらかと云うと室町期中期とはそっくり入れ替わった7割近くは、何らかの直間の縁の藤原氏北家の流れを汲む戦国時代の豪族であります。
しかし、この「戦いの神」の意味合いの強い「弓矢の神」の守護神から、時代を経て源氏が滅亡し「下克上と戦国時代」を経た室町期中期以後は「戦いの神」の影は潜み、”単純に「武士の守護神」としての「総合的な守神」や「武士の魂」だけを守護する神に変異したものとなった”と考えられます。

その為に、この”「後詰めの豪族14」が「神明社の30の内21」を「八幡社」に変えた”と考えられます。
この証拠と成るものが現在発見されないのですが、上記する状況証拠から他に建立できる能力とその義務か必要性を持った氏は讃岐と阿波の青木氏以外にはこの四国域には見付かりません。
「7つの域の神明社と八幡社の関係」は上記する「5つの要素」で特徴ある関係が出来上がっているのですカラ、この四国・中国域の八幡社との関係は「歴史の雑学」の判断の重要な基礎になるデータとも成ります。

「神明社」
従って、此処より「神明社」に付いてより理解力・判断力を深める為に更に研究を進めます。
そもそも「八幡社」が「弓矢の神」を主神とする以上、「河内源氏」は「皇祖神」の「祖先神−神明社」の賜姓族としての義務は無関心であった事が覗えます。
この四国・中国域の圏域も平安末期までのものであり、僅かに鎌倉期のものも含まれている模様で室町期初期の「下克上と戦国時代」へと突入する前兆現象であったのです。
「弓矢の神」に信心する「侍社会の風潮」がここから読み取れます。
恐らくは「祖先神−神明社」の「生活の神」「物造りの神」は「民の信心」と成り、侍階級は「生活の神」「物造りの神」からこの「八幡社」の「弓矢の神」に鎌倉期に向けて浸透して行ったと考えられます。
そこで、これが「第1次の空白期間」の始まりに成った原因点であったと考えられ、次ぎの「4つの経緯」に繋がって行くのです。

(1)上記した様に「祖先神−神明社」と「祖先神−八幡社」の「最悪の事態」の「競合合戦」が無かった事が次ぎのデーターで顕著に表れています。
(2)「神明社−八幡社」の「競合合戦」が無かった事は、「八幡社」が初期には「国家鎮魂」であった事と、後に「特定の氏と未勘氏族の守護神」と変質して行った事(2)は「2つの証拠」でもあります。
このデーターから「賜姓源氏」(河内源氏も含めて)は、同族である「賜姓青木氏」や「特別賜姓青木氏」が行う「3つの発祥源」としての責務と「政治的、戦略的」な「国策の神明社」には、ある程度の理解を示していた事とも考えられます。
(3)「賜姓源氏」が置かれている立場、即ち「たいら族」との「勢力争い」から目を逸らす事が出来ずに「清和源氏頼信系の一族」(河内源氏)だけは「勢力争い」にのめり込んで行った事が覗え、最終は11代の源氏を巻き込む事(4)に成り、遂には滅亡を招いてしまったのです。
(4)「2つの青木氏」が行う「生活の神」「物造りの神」の「神明社建立」域には「弓矢の神」の「八幡社建立」は明らかに避けている事が判ります。言い換えれば「2つの青木氏」が定住する地域には「八幡社の建立」は避けている事にも成ります。これは「同族争い」だけは敢えて避けたと観られます。

「神明社と八幡社の2つの差」
「八幡社の県毎の分布」と「神明社の県毎の分布」のデーターです。
この「2つの差」が表示しています。

「八幡社 354社」 「神明社 566社」に対して%は全体比です。
(八幡社から観たデータはこの表 神明社から観たデータは次表記)

「神明社−八幡社の対比表」
八幡社の分布( 県域分布)   神明社の分布(県域分布) 差 分布域の圏域
1  福岡  39 −11.1%    9 − 1.6%     30  八幡社の発祥地
2  東京  29 − 8.4%   30 − 5.3%    − 1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
3  兵庫  24 − 6.9%   11 − 1.9%     13  清和源氏の発祥地
4  千葉  23 − 6.7%   22 − 3.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
5  愛知  14 − 4.1%   33 − 5.9%    −19  秀郷流青木氏の圏域
6  神奈川 12 − 3.5%   11 − 1.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
7  静岡  12 − 3.5%   18 − 3.2%    − 6  秀郷流青木氏の圏域 
8  岐阜  12 − 3.5%   31 − 5.5%    −19  賜姓青木氏の圏域
9  栃木  11 − 3.2%   14 − 2.5%    − 3  2つの青木氏の圏域
10 大阪  11 − 3.2%   1  − 0.1%     10  賜姓源氏の県域
11 埼玉  9  − 2.6%   15 − 2.7%    − 6  秀郷流青木氏の圏域
12 愛媛  9  − 2.6%   2  − 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
13 鹿児島 9  − 2.6%   3  − 0.5%      6  清和源氏未勘氏の圏域
14 北海道 9  − 2.6%   2  − 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
15 山口  9  − 2.6%   1  − 0.0%      8  清和源氏の圏域
16 和歌山 8  − 2.3%   2  − 0.3%      6  清和源氏の圏域
17 山形  7  − 2.0%   15 − 2.7%    − 8  秀郷流青木氏の圏域  
18 大分  7  − 2.0%   1  − 0.0%      6  清和源氏未勘氏の圏域
19 宮城  7  − 2.0%   14 − 2.5%    − 7  秀郷流青木氏の圏域
20 茨城  7  − 2.0%   9  − 1.6%    − 2  秀郷流青木氏の圏域 
21 香川  6  − 1.7%   1  − 0.0%      5  清和源氏未勘氏の圏域
22 宮崎  6  − 1.7%   4  − 0.7%      2
23 広島  5  − 1.4%   6  − 1.1%    − 1      
24 富山  5  − 1.4%   33 − 5.8%    −28  賜姓青木氏の圏域 
25 岡山  4  − 1.1%   1  − 0.0%      3   
26 島根  4  − 1.1%   1  − 0.0%      3   
27 京都  4  − 1.1%   2  − 0.3%      2  神明社の絶対的神域 
28 岩手  4  − 1.1%   11 − 1.9%    − 7  秀郷流青木氏の圏域  
29 山梨  3  − 0.8%   72 −12.7%    −69  2つの青木氏の圏域  
30 徳島  3  − 0.8%   3  − 0.5%      0  
31 長崎  3  − 0.8%   1  − 0.0%      2      
32 熊本  3  − 0.8%   1  − 0.0%      2   
33 高知  3  − 0.8%   4  − 0.7%    − 1    
34 青森  3  − 0.8%   13 − 2.3%    −10  秀郷流青木氏の圏域
35 秋田  3  − 0.8%   33 − 5.8%    −30  秀郷流青木氏の圏域
36 群馬  3  − 0.8%   14 − 2.5%    − 9  秀郷流青木氏の圏域   
37 新潟  3  − 0.8%   61 −10.8%    −58  2つの青木氏の圏域 
38 福井  3  − 0.8%   8  − 1.4%    − 5  賜姓青木氏の圏域
39 鳥取  2  − 0.5%   0  − 0.0%      2  
40 佐賀  2  − 0.5%   1  − 0.0%      1   
41 長野  2  − 0.5%   15 − 2.7%    −13  賜姓青木氏の圏域
42 滋賀  2  − 0.5%   3  − 0.5%    − 1  賜姓青木氏と源氏の圏域 
43 奈良  2  − 0.5%   1  − 0.0%      1  神明社の絶対的神域
44 福島  2  − 0.5%   9  − 1.6%    − 7  秀郷流青木氏の圏域   
45 沖縄  1  − 0.1%   1  − 0.0%      0
46 石川  1  − 0.1%   2  − 0.3%    − 1  
47 三重  1  − 0.1%   5  − 0.8%    − 4  2つの青木氏の圏域
      A:354 (/354)  B:566 (/566)   (A−B) 


「賜姓源氏」の重要拠点には「八幡社」が、「2つの賜姓青木氏」の重要拠点には「神明社」が建立されている事がこれ程に明確に成っている事に驚きです。
これを「神明社」から観たデータ(下記の表)からも読み取れる事から、上記の表の八幡社データからは「賜姓源氏」の姿勢が読み取れます。
彼等は朝廷が行う国策に逆らいながらも、賜姓族の立場にも逆らいながらも、自らの力で建てたかは別にして「八幡社の建立」を何と「354社」も建立している事は一つの大きな意味を持っています。
彼等にしてみれば、この数字から観れば、確かに皇族ながら「朝廷の意向」を無視し、立場を違えながらも「彼等の主張」をそれなりに持っていた事が判ります。
それは ”時代に即応した「弓矢の神」を普及させる事で台頭する「侍集団の集約」が国策として肝要だ” と主張していた事に成るのではないでしょうか。(朝廷は「公家社会」から「武家社会」の到来を危惧)
然し、矢張りそれが「自らの存続」を危うくさせ、且つ、「侍の力」を強くしてしまう結果を招いたのです。
結局は、この流れは「鎌倉幕府の樹立」と成ってしまうのですが、しかし、天皇側や朝廷側からすると、むしろ、”国全体として「生活の神」「物造りの神」を全面に押し出し、”国民を豊かにする事で「侍の集団の必要以上の台頭」を抑えて安定した「国造り」をするが大事な事なのだ。”と当然に主張するでしょう。
そもそも「侍集団」と云うものが台頭するのは、”その「生活の安定」と「身の安定」に対して不安があるから集団化する”のであって、これは「人間の本能」であります。
それを「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の政治的、戦略的な上記の様な主張となるは必定であり、「源氏側」からすると、「身の安全」を優先にして「武」に頼る主張と成るでしょう。
一見して「二者択一」と観られますが、何時の世も”「武に頼る安全」”は長く続けられる手段ではありません。元来、「武に頼る安全」は「第二次的な手段」であって「第一次的手段」で無い事は衆知の史実であります。
当然に「武」の位置に居ない「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の「神明社」であり、「源氏側」にすれば「弓矢の神」の「八幡社」と成ります。
これを「源氏」は時代性を長く観過ぎた事から ”「第2次的な手段」を「第1次的な手段」と考え違いをしてしまった” と解釈出来ます。
何時の世も「武に頼る安全神話」は例外無くよくある議論です。
然し、「2つの青木氏」は明らかに”何も「神明社」側だから”と云って天皇の推し進める「神明社」に関わっただけではないのです。その証拠はこの時期に作られたと観られる「青木氏家訓10訓」にあると説いています。
この「青木氏家訓10訓」に於いて「2つの青木氏」は「同族の源氏の主張」に賛成していない事をはっきりと物語っているからです。
賛成ではなく否定に近いもの感じます。それはこの「家訓」のみならず1125年頃に「2足の草鞋策」を実行した事でも証明しているのではないでしょうか。
「弓矢の神」の「武の力」に頼らず「経済的な力」、即ち、「生活の神」「物造りの神」に舵を切っているからです。つまり「第1次的な手段」を採用しているからです。然し、「第2次的な手段」も無視してはいないのです。
それは前記に縷縷述べてきた「伊勢−信濃シンジケート」と「藤原秀郷流青木氏、特別賜姓族の抑止力」を使っているからです。
現に、この「武の力」に脅かされた時、この「第1次的な手段」と「シンジケートと特別賜姓族の抑止力」を使って撃退しているのです。(幾つかの史実がある)だから生き延びられたのです。
それを「青木氏家訓10訓」として ”真の生きる様は此処にあり” として子孫に遺したのです。
その「生きる様」は「祖先神の考え方」に沿った”「祖先神−神明社」”に凝縮されているのです。
そして、その結果が上記の表の数字的な証拠として出てきているのです。

今や歴史は「清和源氏の分家頼信系源氏」を「武家の鏡や魂」の様に持て囃されていますが、「2つの青木氏側」から観ると、「最悪の同族氏と八幡社」と観えるのです。
これが「1650年近い悠久の歴史」を持つ青木氏の変わらざる一貫した姿勢であり「生き様」なのです。
凝縮すると、上記した「源義経の主張」と「源頼朝の主張」の差であります。
「源義経」は上記した様に青木氏と同じ道を歩もうと「鎌倉会議」で主張したのです。
”「清和源氏宗家頼光系四家」の様に「祖先神−神明社側」として生きよう”と主張したのです。然し、この考え方は「八幡社」側には生かされなかったのです。
「源義経の主張」は単に空論では無く身近に上記前記する「青木氏の生き様」が見えていたのです。
「たいら族の清盛」さえも「武の力」に対して「安定の社会」に疑念を抱き「宋貿易」を開始しているのです。
資料の記録では ”義経は清盛の教訓・遺訓を受けた”と記録されていますから、当然に前記で論じた様に義経は「伊勢伊賀の清盛」と隣の同族の「2つの伊勢青木氏」の「生き様」も見ていたのです。
義経は「弓矢の八幡社」を「生活の神」「物造りの神」の「神明社」に変えようとしていた事も考えられます。
「商と殖産」に力を入れていた「平泉の都」を頼った「真の根拠」はここにあったのではないかと観ているのです。

そもそもその「侍集団」は、天皇自らの子供を「融合氏」として臣下させて国策としてそれを推進し天皇自らが作り出した政策であります。
その「3つの発祥源」として自らの分身から「2つの青木氏」を作ったのですが、その「2つの青木氏」はその立場を良く護り”良好な国策だ”と見えたのです。
ところがこの「青木氏の親政族」を、「桓武天皇」が完成させた「律令国家の完成に障害」と成るとして「皇族系の賜姓族」を取りやめ、帰化人の大集団の阿多倍族を「たいら族」として賜姓したのです。賜姓したのは阿多倍の孫娘を母に持つ本人の「桓武天皇」なのです。
(伊賀の阿多倍は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶る。 光仁天皇 第6位皇子であった伊勢の施基皇子の長男 青木氏始祖)
「阿多倍」には天皇家と血縁させて大蔵氏等の他「4つの末裔」(民族氏: 大蔵氏、坂上氏、内蔵氏、平族、阿倍氏)を作り出した事が、余りにも大きくなり過ぎて、結果として彼等阿多倍一族一門は青木氏と同じ立場を採らなくなってしまったのです。
挙句は、この「侍集団の統制」が取れなくなって、累代の天皇が危険視していた「行過ぎた荘園制」に結びつき、自らの天皇家の足元さえも危うくさせてしまったのです。その事に気づいた時には”事は遅し”であります。(荘園制の問題は前段で論じた)
藤原一門の血縁を受けていない唯一の「一条天皇」から「後三条天皇」−「後鳥羽上皇」まで必至になって彼等の経済源に成っているこの「荘園制」を潰しに掛かりますが事は最早抑えきれ無く成ってしまったのです。
時系列的に観て見ると、「大化改新」「賜姓制度」「帰化政策」「民族氏政策」「阿多倍と血縁政策」「融合氏政策」「祖先神−神明社政策」「皇祖神-伊勢大社政策」「生活の神、物造りの神政策」「侍集団政策」「弓矢の神政策」「荘園制政策」「律令国家完成政策」「藤原氏摂関政策」「親政族 青木氏排除政策」「源氏賜姓政策」「祖先神−八幡社政策」「たいら族賜姓政策」「九州自治政策」「荘園潰し政策」等、これ等に付随する政策が次々実行されました。
そして、政策そのものは「適時適切」であったと考えられるのですが、「後三条天皇」が身の危険を顧みず「荘園制の制限と中止」を思い切って断行した事でも判る様に、当時の政治的権力者との”しがらみ”から”天皇が「政治的欠陥の有無」を承知しながら「政治的欠陥」を取り除く勇気が無かった事による”と筆者は考えているのです。(前段で論じた)
この発端を作り出したのが「桓武天皇」であって、それを悪化させてしまったのが「清和天皇」であって、それを直したのが「後三条天皇」であったと読み取れます。
(適時適切に特別賜姓の青木氏を発祥させた円融天皇、瀬戸内問題や阿多倍一族一門問題を解決に導いた判断力の一条天皇等の英断が「皇祖神−祖先神−神明社」を遺せたのです。)

この渦中にいて清和源氏は歪んだ政治状況の中で、その立場から「弓矢の神」を”床に油”の如くで勢力を拡げてしまったのです。その勢力を使って「八幡社」を建立して行った事を物語っています。
それは11代の源氏が定住していない地域に多くの「八幡社」がある事なのです。
そしてその由来を調べると、「源氏姓」を名乗る「未勘氏族」が多く関係している事なのです。
データから観て全体の8割程度がこの「八幡社」です。
つまり、データでは354社ですが、”自らの「弓矢の神」としての彼等の主張”とすると、”少し違う”と云えるのでは無いかとも考えます。
その「八幡社の建立」は「未勘氏族」が、”自らの立場(源氏族)を鼓舞し自らの荘園を護ろうとしてのもの”であった事を意味します。それが8割のデータです。
場合に依っては「源氏」が「未勘氏族」に対して「名義貸しの条件」であった事も考えられます。
「名義」だけではその宣伝効果は低い事から「目に見える形」として、その「象徴としての八幡社建立」であったと考えていて、一部の地域の「未勘氏族」の資料の中にそれと観られる記述があるからです。
恐らくは、”「荘園」の周囲にその勢力圏を誇示し縄張り範囲を明確にする目的”で「戦略拠点」を ”これ見よがしに”「名義主からの許可」、或いは「条件」として建立したと考えられます。
むしろこの目的の方が強かったのではないかと観られます。
結局、「源氏」の主張する”時代に合わせた「弓矢の神」”の理屈は、この事(侍集団と源氏姓の名乗り)に反発する天皇家に対する取って付けた「大義名分」であった事が云えます。
ここが「神明社」と実質的に異なる点で「生活の神」「物造りの神」は「民に直結する神」である事から、その「建立の行為」は「天皇の施政に対する国策」に合致し、「3つの発祥源」の立場と責任にも合致する事から信任を得え、尚且つ「民の信望」を深めたからこそ民から自然発生的に「氏上様」の呼称が生まれたと考えられます。

「弓矢の疑問」
そこで、”天皇が「弓矢の神」を推奨する事が政治的にあり得るのか”の疑問です。
確かに、「融合氏」を国策とし、「賜姓族」を臣下させたのは天皇であった事は否めませんが、そもそも天皇は「臣下−侍」の政策が「弓矢の神」まで祭祀する程の目的として実行したのではない筈です。
「侍の神」を祭祀する事は「侍集団」に結びつき、それは同時に天皇家の実権を弱くする事にも成ります。
「侍集団」は、「朝廷軍」(坂上氏等)が既にあり、青木氏の「六衛府軍」の「近衛軍」がありさえすれば政治的には成り立つ範囲で無用であります。
むしろ「侍集団」が闊歩すればするほどに「朝廷軍」と「六衛府軍」を強化せざるを得なくなります。
「侍集団」と「朝廷軍」+「六衛府軍」の勢力バランスは物理的に逆転して朝廷権力、強いては天皇の施政権は低下する事は必定の条理です。
どんな愚脳な天皇でもまして側近(藤原氏)もあればこそ、この程度の条理は即座に判る範囲の知恵であります。つまり、「弓矢の神」「侍集団」はもとより望んでいなかった事に成ります。
そうなれば、必然的にも「源氏」に対して、特に「清和源氏」に、更には「河内源氏」に軋轢が加わる事は目に見えています。
故に「河内源氏」と「未勘氏族」が作り上げた「変質の八幡社」は望まれて期待されていなかった事に成ります。
その証拠に「桓武天皇」は、わざわざ父方の実家先を衰退させた青木氏に代わってでも、「神明社」を天皇の自力で20社も建立しているのです。「弓矢の神の八幡社」は建立していないのです。
(確かに清和源氏宗家に修復は命じている。)
この事は、実の所は「青木氏−神明社」は期待されていた証拠であります。
ここで際立ってくる事は「青木氏の行為」が「賜姓の本来の姿勢」であって、”天皇が望んでいた事の「侍の姿」である事”に成ります。
だから「桓武天皇」の「神明社建立」であって、現実問題として挙がった事として、「賜姓族青木氏」の末裔の数に対して、「神明社建立推進」には不足の状態となり、又「河内源氏」等の「侍集団」の増加に対応する為にも母型族の「特別賜姓族を賜姓」(940年頃 円融天皇 藤原秀郷流青木氏)したのです。
まして、「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は「青木氏族」を増やそうとして賜姓を「源氏」として慌てて立てたとしてもそれが「清和天皇」の頃には「侍集団」を逆に大きく造り上げる始末と成ったのです。
まさしく”火に油”であります。其処に問題と成っていた”「荘園制」が悪用されてしまった”と成れば ”冬の大火事災害”です。
(清和天皇のところでおおくの問題が噴出する)
然し、それも「清和源氏」までの源氏では「2つの青木氏」と同じ道を歩んでいたのです。
中でも「清和源氏」の宗家の「頼光系宗家の四家」は頑なにも青木氏と同族血縁してまでも「同じ道」を歩んでいたのです。
その藤原道長に使え国司を多く務めた「頼光」に付いては「資質剛健」の性格であった事が資料として遺されていて「河内源氏」のような行動を取る人物では無かった事が判ります。
又4代目の「頼政」に付いても「保元平治の乱」後も一人源氏の中でも朝廷内に残り何とか源氏を立て直す事に努力しなかなか昇格出来ずにいたのです。
その時、清盛の計らいでやっと正三位まで遂には上りますが、然し、資料には清盛は彼を酷評しています。この頼政は強く出られない難しい立場であった事からと考えられます。
「源平の戦い」のきっかけと成った「以仁王の乱」を起した事を聞いた清盛は”あの頼政が!”と驚いた事が遺されています。この事から4代目頼政は「頼光」(宗家)に似て資質剛健であった事が覗えます。
恐らくはこれ等の資料から、この「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」側と次男の「大和源氏」側と、三男の分家の「河内源氏」側とを朝廷や清盛等が対比していた事を物語り、この「河内源氏」は清盛等から危険視されていた事が判ります。
全てはこの様に歴史の姿を顧みると、”頼信系の分家が事の道を違えてしまった”のが原因であった事に成ります。
この下記のデータをも含めてより詳しく観てみるとこの事を裏付けています。

「遺戒の意味」
何度も延々と前記から繰り返しますが、「青木氏家訓10訓」はこの”「道の採り方」を間違えてはならない”として ”人のあるべき姿”を、むしろ、進む道を指し示す ”「長」としてのあるべき姿”を説き誡めているのだと考えます。丁度、この頃に「2足の草鞋策」は採られ、家訓の根幹は造られたと考えられます。
「青木氏家訓10訓」そのものが「清和源氏の滅び行く姿」を物語り、それを観て危機感を感じ頼政の孫の京綱とその末裔は「青木氏家訓10訓」としたのではないかと観ています。
恐らくは、この家訓はこの清和源氏の四家の宗家頼光系頼政の孫京綱が「伊勢青木氏」の跡目に入り生き残った事から、この家訓を最初に作ったのではと考えているのです。

(この時かなり緊迫した状況に「2つの伊勢青木氏」は追い詰められていたと考えられます。場合に依っては伊勢手前名張辺り(伊勢は「不入不倫の権」で保護されている)まで攻めてくる事も考えられ、その時は「特別賜姓族の伊勢青木氏」も深く血縁を結んでいる以上は秀郷一門を背景に「たいら族」と一戦を交える事を覚悟していた筈です。然し、さすが「たいら族」は伊賀和紙で青木氏と深く繋がった古い深い絆を配慮して攻めて来なかったのです。それどころか”主謀者の孫の助命嘆願に応じる”と云う前代未聞の態度を採ったのです。)

宗家側は河内源氏の破天荒な生き様を批判していた事を物語るもので伊勢青木氏のみがこの事を証明出来る事なのです。
そして、その「行動の現われ」として「力みのある力」に頼らず、「2足の草鞋策」を採り「特別賜姓族」との極めて親族以上の親密な交わりを採ったと考えています。
そして、賜姓族29氏と特別賜姓族116氏とは結束を強くする戦略構築に邁進したのです。

(参考 特別賜姓族青木氏の賜姓族青木氏に対する援護働き 
前段で論じて来た事ですが、四日市には「賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」の「融合族」が定住している。この助命嘆願の恩義に対して「信長の伊賀攻め」の時、「2つの青木氏」は伊賀一門末裔と民を名張から側面を突いて出て助ける。 然し、信長は「たいら族支流末裔」で伊賀一門もその支流末裔の同族だが血縁の意識は薄らぎ攻めた。 それは「たいら族」は忠盛の時、摂関家に対して伊賀一部の知行を具納した事から血縁意識は薄らいだと考えられる事と、室町幕府初期に元北条氏の執事に対してこの伊賀の知行を味方した勲功により与えたなどの経緯があり薄らいだと考えられる。 美濃−尾張では「源平の戦い」で「美濃の特別賜姓族青木氏」は一部生き残った「美濃青木氏」と「近江青木氏」を残そうとして奔走するが失敗する。又、室町期に美濃−尾張では織田軍に対して「美濃の特別賜姓族青木氏」が仲介を採り「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と一部生き残った「美濃青木氏の末裔」を護った。武田氏滅亡時の諏訪族青木氏と武田氏系青木氏の逃亡を各地で助けた等の一心同体の様な関係の歴史史実がある事に留意。)

前段で論じた「4つの青木氏の結束」はこ「の祖先神−神明社」の強い絆の経緯事から生まれたのです。そして現在に生き残れたのです。
そして、その生き残れた思考の根源はまさしく「祖先神−神明社」にあったと考えているのです。
この「祖先神−神明社の考え方」だからこそ ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」は遺され、護られた、又は護らせたと云えます。
実は、前記しましたが、「生仏像様」の処で書いた ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」はこの「河内源氏の失態」を「青木氏家訓10訓」とは別に「総訓」として言い残したものと解釈しているのです。
恐らくは、清和源氏頼光宗家の4代目頼政の孫に当る青木氏の跡目京綱は分家の行状を観て「誡めの言葉」を「青木氏末裔」に残したと観られます。
つまり、どう言う事かと云うと、宗家側はこの「河内源氏の行状」を強く批判していたのではないでしょうか、しかし、反面では”世に晒された為に道を間違えた”とも観ていて、(”「未勘氏族」に「源氏の棟梁」と煽られた”として) ”世に晒す事の危険や意味の無さ” に疑問を持っていたと考えられます。
現在でも、”世に出る事”が”何か発展に繋がる”と考えれがちですが、当時でも同じであったと考えられ、この事に疑問を持っていた事が判ります。
そもそも、源氏は清和源氏だけでは無く11代もの源氏があり、決して「源氏の棟梁」でも無く「武家の棟梁」でもないし、まして上記した様に「経基王」は賜姓にも問題があり、「賜姓族の源氏」で無い事でもあり、まして、「河内源氏」は三男の分家筋であり、この「呼称の意味」は空虚で世の中の勝手な利益に振り回された事であり、まさしく”世に晒された事”を物語ります。
仮に、「源氏の棟梁」とするのであれば、筋論からすると初代の源氏で最後まで残った「嵯峨源氏」が「源氏の棟梁」である事に成ります。
更に強いて云えば、青木氏を加えた同族16代として見ると、「3つの発祥源」で皇祖神に繋がる「祖先神−神明社」であり、「氏上様」の呼称があり、「御師」の呼称があり、大化期からの「融合氏族」の末裔であるのですから、「青木氏」が「棟梁」である事に間違いはありません。「生仏像様」「笹竜胆の象徴紋」「象徴の青木神木」等を以ってすれば「分家の河内源氏」が”源氏の棟梁”などとする事は極めて論外です。
それどころか、”棟梁族でない”とすれば清和源氏の分家の「河内源氏」が最も無い同族であるのです。
基より青木氏から観れば「遺戒」の通り ”棟梁”とする事には!”以っての外”であります。
この事は当時で在れば「衆知の事実」であった筈で、まして「清和源氏」には上記した様に賜姓と出自に問題を持っていた事も衆知の事で在った筈です。この様な世の中の様子を「嵯峨源氏」や「2つの青木氏」からすると苦々しく思っていた筈です。まして現在と異なり一族一門が集結している氏家制度の中ではこの掟を守る事やこれ等の「情報の伝達」は社会の重要な要素であった筈です。
しかし、つまりは”「源氏の棟梁」”と世の中では勝手に自らに都合良く「河内源氏の未勘氏族」が中心に成って晒されてしまったのです。「八幡社」もこの流れの中での事だと考えられます。
この事を宗家側の京綱は伊勢から河内に向けてつぶさに観ていたのです。
助命嘆願の日向の宗綱と有綱の兄の二人も同じ印象を持っていたと考えられます。研究を進めば日向青木氏にも何か遺しているのかも知れません。
当然に、同じ行動を採っていた「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、極めて親族付き合いにあった「信濃青木氏」にも何がしかの遺訓が遺されているのではと考えられます。この事は青木氏ならではの判る事であります。
伊勢青木氏の宗家にこの「遺戒」の言葉が現在までも長く口伝されている事はそれを明らかに物語っています。大した意味の無い事は「遺戒」として代々に口伝されることは無い筈です。意味の無いものは何時か消えるものです。
このデータを分析してみた時に数字からもその事を物語っている事に驚いたのです。
「神明社−八幡社」の上記の関係表からもこの「生き様」が読み取れのです。

「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」
「源氏の棟梁」の呼称や「八幡社」の弓矢の守護神の事は、強いて云えば、上記で論じた経緯から見ても「河内源氏の頼朝」までのものであって、その後は「河内源氏の未勘氏族」に依って自らの系譜や出自を正当化しようと利用した「源氏の棟梁」や「八幡社」であった筈です。
(「荘園制の名義借り」の「未勘氏族」からすればこの「2つの事」は生き残りのためには止むを得ない仕儀であった事は否めませんが。)
上記に述べた結論より、その為に明らかに「八幡社」を政治的・戦略的な事として利用されたのであって「祖先神−神明社」の「生活の神」「物造りの神」としての普及には明らかに寄与していなかったのです。
青木氏側から見れば、河内源氏は要するに”世に晒された、又は世に晒した”のです。
どちらかと云えば、筆者は”「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」の「2つの事」を使って全国の「無血縁の未勘氏族」に依って世に晒された”とする説を採っています。その理由は上記した様に”この「2つの事」は何れも根拠が無い”からです。
とすると、場合に依っては「源平の勢力争いと決戦の必要性」は無かった事に成りますし、当然に同族賜姓族の源氏と近江青木氏、美濃青木氏を滅亡に追いやる必要性は無かった事に成ります。
「無血縁の未勘氏族」がこの「2つの事」を殊更に利用しなければ生き残れたのです。
それは「無血縁の未勘氏族」が形の上では「源氏の主力戦力」であったからです。義家の時も義経の時も頼朝の時も”イザ衰退”と成ると”蜘蛛の子散らす様に”彼等は霧散したのです。そして、その後はこの根拠のない「2つの事」を喧伝する「後付態度」を示したのです。真に世に晒される事の無責任さであります。
場合に依っては、この「無責任な大きな渦」に青木氏も巻き込まれていた可能性があったと考えられ、そうでなかったのは「秀郷一族一門の抑止力」と「特別賜姓族の青木氏の絆と背後」と「青木氏のシンジケート」があったからなのです。

(注記 「未勘氏族の存在」は専門的に研究している人か書物以外に一般には意外に知られていない。
源氏と云えば河内源氏が源氏だと思われているし清和源氏でも8氏もあるし、まして源氏は11代もあるとは思っていない傾向がある。公的な情報機関のドラマでも「河内源氏」を「源氏の棟梁」としていた程である。「桓武平氏や京平氏や伊勢平氏」として知られている「たいら族」と「皇族第7世族末裔」の「坂東八平氏」の「ひら族」との区別が付かない事とは「不思議の大間違い」です。酷いものには伊勢の秀郷一門の藤原氏の伊藤氏を「たいら族」とした歴史ドラマがあった。
この「2つの事」はテレビ、簡易書物、ネット解説等の情報機関でもこの充分な「時代考証」が出来ていない事が実に多いレベルであり、これが少なくとも青木氏に関係する「通説と云う本質」なのです。)

データから観ても「八幡社の弓矢の神」としても「河内源氏」が純粋に建立したと観られるのは、全体の2割程度弱に過ぎないのです。
後の八幡社は「未勘氏族と荘園制との結びつきの建立」に過ぎない事なのです。
彼等の「弓矢の神」の役目があったとしても国全体では「神明社+八幡社」920社の中で僅かに7%に過ぎないのです。
これでは河内源氏を除く11代もの源氏が氏を成した事として考えても、「祖先神−神明社の建立」に対して賜姓族として、”その責務や目的を充分に果たしていない”と成ります。
その様な果しているとする資料が多くが見付からないのです。
そもそも11代の源氏の内、室町期まで豪族で直系の氏として生き残ったのは「嵯峨源氏」、「宇多源氏」、「村上源氏」、「清和摂津源氏」の4氏(他に醍醐源氏と花山源氏は豪族・直系氏の要件が低く未勘氏族の可能性が強い)に過ぎない事から良く言えば ”賜姓族らしく質素に生きた”、又は、別に言い換えれば、多くは「武力と経済力」の運用の無さが「河内源氏」の様に「適時適切」ではなかった事に成ります。!”その「生き様」に弱さが在った”から「賜姓族源氏の4氏」は”直系子孫を青木氏の様に現在に遺しきれなかった”と考えられます。

「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神−神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
(絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます

「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。


青木氏と守護神(神明社)−18に続く。



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