青木氏氏 研究室
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  [No.211] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 09:47:05
Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋) (画像サイズ: 2232×2118 33kB)

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-27(橘紋)
青木研究員 さん 2006/10/11 (水) 16:45
第26/33番目の紋様である。

この紋様は全部で85の紋様もがある。

家紋200選に選ばれている家紋である。

この橘紋にかかわる青木氏は1つである。

先ずこの橘紋の発祥の由来から述べる。
この橘紋の橘氏は敏達天皇の5世の孫(美努王)の妻の県犬養の三千代が和銅元年(708)に「八色の姓」(皇族の血筋を受けた血縁者の氏を真人族をはじめとして八の階級に分ける制度)により宿禰の姓を賜った。

そして、この時「橘」の氏を名乗った。つまり、「橘の宿禰」族である。

この「八色の姓」とは
真人族(まさと 皇族の第5位までの皇子で皇位継承権を有する身分の族)
朝臣族(あそん 皇族の第6位の皇子で皇位継承権を有しない身分の族 青木氏と源氏 奈良期の臣になりうる氏)
宿禰族(すくね 何らかの縁者や血縁を受けた氏の身分にある族で奈良期の連に相当する)
忌寸族(いみき 渡来系の氏で皇族と血縁を受けた漢氏、東漢氏、直文氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿部氏などに与えた姓。国造や軍事や財政の官職を司る官僚の氏 皇族関係の娘を娶つた渡来系氏)
道師族(みちのし 上記以外の皇族関係族とのなんらかの遠縁の血縁を受けた末裔族 実際にこの姓の氏は存在しない。越の道師などの名が古書に見られる。)
臣族(おみ 道師と同じく又遠縁族で地方の大豪族で娘が何らかの形で皇族子孫を遺した氏であるが現実にこの階級以降は不詳で子孫は存在しない。)
連族(むらじ 臣と同じくして、娘の身分にかかわる中豪族の階級)
稲置(いなぎ 連に同じくして、娘の身分にかかわる小豪族の階級)

以上が天武天皇が定めた身分階級である。

橘氏は第7世の皇族関係者である美努王(みぬおう)妻の子供であるので「宿禰」となる。

この子孫が葛城王と佐為王がこの橘姓を受け継ぐ。

第6世まで皇族関係者として扱われ、第7世以降は臣下するか下族する事になる。関東方面に移される。これが平族(ひらぞく)後の坂東八平氏である。
(本来は天智天皇から第4世以降をもって王を名乗ることを禁止した。)

故にこの葛城王は後に諸兄(もろえ)と変名した。左大臣まで登る。
しかし、この橘氏は藤原一門との勢力争いで潰され排斥されて滅び子孫は極めて少ない氏となる。

後に嵯峨天皇期の令により、僅かに遺したこの一族の末裔が青木氏をなのったものである。平安末期のころである。
この橘氏一族も非常に少ない氏の一つである

この氏は別にある武蔵の武蔵7党の一つの丹治氏(左大臣の島王の青木氏)の「皇族青木氏」を含め身分が下がるが皇族関係者の唯一の賜姓族ではない「皇族青木氏」である。

実際には鎌倉末期までに17人の青木氏を名乗れる皇族関係者がいたがこの二つ以外の子孫の末裔は確認出来ない。僧侶などにて終わった事による原因である。

この橘は橘の葉や花を家紋化したものであるが、家紋の由来は垂心天皇の命を受けて「多遅間毛理」(たじまのもり)が中国に赴き持ち帰ったものである。

この「たじまのもり」が「たじまの花」となり「橘」に変化したものと言われている。

橘はみかんの原木である。別名「左近の桜」という。平安京の紫しん殿に植えられていたためになずけられた。

橘氏の橘紋は江戸期に入って徳川氏の支流や御家人らがこの宿禰族の橘氏の家紋を真似て85もの紋様となつたのである。
橘氏の橘紋の使用は橘氏と青木氏のみである。(第3の橘氏を除いて)
桐紋と同じ様な経緯を辿っている。

しかし、平安期には4大勢力として藤原氏、源氏、平家、橘氏であったが、後に平氏と共にこの橘紋は藤原氏に圧迫されて子孫が抹殺されて遺せなかつた氏としてつたわり、縁起が悪いとして後に使われなくなりこの紋の使用は消えていった。


家紋掲示板にも同文を掲示します。



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