Re: 青木氏と血縁族(家紋)-24(柊紋) 青木研究員 さん 2006/08/31 (木) 23:23 第23/33番目紋様である。
この紋様には全部で40の紋様がある。
この紋様に関わる青木氏の家紋は次ぎの2つである。
第1番目は抱き柊紋である。 第2番目は蔓柊紋である。
この紋様は江戸時代に用いられたものでこの紋様を最初に用いたのは 次ぎの氏である。 下野国の黒羽藩主の大関氏、と近江国の仁正寺藩主の市橋氏である。 他に山本氏、早川氏、林氏がこの家紋を使用している。
特にこの青木氏は大関氏と関係があるもので、この大関氏は武蔵の国の武蔵7党の一つの丹治氏の出であるとされる。
この丹治氏には青木氏が存在する。この青木氏は丹治氏流青木氏である。 丹党はその昔武蔵の国の守護職に任じられた丹治比氏の末裔とされる
この丹治氏は又は丹氏とも云う。 この丹治氏の発祥は、平安中期の左大臣の島が真人族(皇位継承権を持つ第5位皇子までの一族の氏階級 八色の姓制度)となつた。この後この子孫の8代目が武蔵守に任じられている。
第29代宣化天皇(6C前半)の十市王の孫の多治彦王の子供であるとされているが他説もある。 この4代目が丹党と称し後に武蔵7党と成る。 しかし、時代性が合わない。
この丹治氏から分流した青木氏であるとするのは、この左大臣島の子孫とされているので、皇族の者が下俗するときは青木氏を名乗る事に成っていることから、その子孫は青木氏を名乗ったとされる。
しかし、この島は後に朝廷より武蔵の国に配流された史実があり、この時にこの地に住みつき子孫を遺したとされる説もある。後に島は京に戻される。
武蔵の守護説と配流による説とがあるが、武蔵守であるから青木氏を名乗る前提に無い。 配流説が真人族であるが為に史実に基づくものであろうが確定は出来ない。
兎も角も、この島氏の子孫であるとするならば青木氏には異論は無い。
皇族青木氏の一流である。嵯峨期に源氏を賜姓して変名した後に第6位皇子の5家5流の皇族賜姓青木氏とは別の嵯峨期の令による青木氏である。
実質この嵯峨期の令による下俗者や還俗者の青木氏の対象者は17人に及ぶが青木氏を名乗り子孫を遺したのは確認出来る範囲としてこの丹治氏の青木氏だけである。
殆ど、比叡山か門跡寺院などにて僧侶となり末裔を残していない。
この武蔵の国と下野の国とその周辺の国には藤原秀郷流青木氏が存在する。 特に丹治氏の青木氏は同じ藤原秀郷の根拠地の入間郡に住んだとされているが、当時の慣習から見てありえず系譜を作成した時の作者の勘違いではないかと見られる。
この丹治氏青木氏は児玉、秩父、比企、に分布する青木氏であるとみられる。 此処が丹党の土地であると納得できる。
しかし、室町期と江戸期にはこの住み分けは少し壊れている。 鎌倉幕府が樹立してから一族は職と土地を失い多くは離散したので、藤原秀郷一族の鎌倉期以後の住み分けであれば入間郡の存在は考えられる。
この意味で系譜に2つの疑問が残る。
この丹治氏系青木氏が江戸期に同土地の藩主の同丹治氏の系列の大関氏との間で血縁を結んだものとされる。 しかし、この青木氏の家紋に付いては何時に「抱き柊紋」の家紋にしたかは不明で確証が取れない。もとより同紋としていたのかも。
本来ならば「丸付き紋の柊紋」も青木氏の分家として長い間に確実に起こるはずであるが、この丹治氏系青木氏には「丸に柊紋」の家紋の持つ青木氏は無い。1000年間に嫡男だけで分家がなかつたことを意味する。ありえない。 これも疑問の一つである。
賜姓青木ついては「笹竜胆」が綜紋として定められているのであるが、この丹治氏系青木氏は幾つかの家紋類がありどれが綜紋か確証も取れない。
蔓柊紋の青木氏は同土地の者であるがこの丹治氏系青木氏の系列の青木氏で有ると見られるが詳細は不明。江戸期の血縁による氏であろう。 確実なデーターは保持していない。
この柊は葉を図案化したもので葉数で分けられる。 この柊は魔よけの意味を持つものとして珍重された。
堅い木の特長から樫のと同じく昔は武具に使用していた。
又この家紋は家紋掲示板にも投稿します。
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