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  [No.972] 愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/06/20(Fri) 23:53:50

 愛媛県南部(現宇和島市と現西予市の境界付近)で農業を営む一族です。ルーツの一端を知りたく、投稿させていただきます。

 現在は別の姓を名乗っていますが、墓地に残る明治以前の古い墓には『青木』姓と、『左三つ巴』の家紋が刻まれています。
 最も古い墓は寛文7年(1667年)の年号があります。
 客観的に確認できる事実はそれだけです。

 先年、既に亡くなった一族の歴史好きが遺したと思われる文書が見つかり、断片的ではありますが彼が調べたと思われる内容と、一族に伝わる伝承が記されていました。(ただ正式な教育を受けた歴史研究家ではなく、素人の域を出ないものであることは先に記しておきます)。

 内容は以下のようなものです。

 青木家の先祖は藤原氏・藤原兼隆の子孫で、紀伊国龍神村の付近に暮らす一族であったが、南北朝時代に南朝方に味方したことで当地を追われ、同じ南朝の伊予西園寺氏が勢力を持っていた愛媛県南部(南予地方と表現します)に移った。

 戦国時代になると青木兼近なる者が、西園寺公広の配下で『西園寺十五将』の一角・土井清良の家来となった。その名は現在の宇和島市三間町兼近の地名に残るとされる。
 西園寺氏滅亡後は当地で庄屋となり、そこから分家したのが我が家である。

 以上です。
 が、どこまでが本当なのか当方では判然としませんし、調べますと『左三つ巴』の家紋は西園寺氏が使ったもの、ということが広く知られているようです。
 
 知る限り、当家はずっと『田舎の農家』として生きてきたようなのですが、青木姓を名乗り、西園寺氏の家紋を墓に刻んだのは何故でしょうか?

 何かお分かりのことがありましたら、ご教示願えれば幸いです。


  [No.973] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/21(Sat) 11:58:42


元青木さん 今日は 初めまして。
これからもよろしくお願いします
お便りを読ましていただきました。

お便りの中に疑問点がありますので、それを先ず列記して観ます。

先ず元が青木氏であったものが何故変わったのでしょうかね。
農民であった。庄屋であったとしていますが、この辺の変化の事由が気に成りますね。
”西園寺の家来”と云う事なのですが、これには一つ目の問題がありますね。
次ぎに、「藤原兼隆」の子孫と云う事にも問題があります。
青木氏に左三つ巴紋はありませんので、疑問です。

さて、先にこの問題点を検証してみます。
「藤原兼隆」は公家で、関白家で右大臣を司った人物で、紀州には来ていません。
次ぎに、公家から兼隆から青木氏は出ていません。
「左三つ巴紋」の家紋には青木氏は出ていません。

西園寺氏の象徴紋が巴紋である事はその通りですが、巴紋にも91の文様があります。
公家であるので家紋ではありません。象徴紋です。

西園寺氏は公家中の公家ですが、この家来と云うのは疑問です。
公家は武力集団を抱えない事が原則です。従って、家人は居ても武士の家来は無いのが原則です。
源氏や平家を味方に引き入れて身を護る仕組みです。直接の武士の家来を持つ事は禁じられています。もし、持ては公家は認められなくなります。てすから、直接の家来であったとする事には問題があります。
西園寺に直接味方した武家の家来と成った事に成ります。
「西園寺十五将」とは、直接の家来の十五将と云う事では無く、影響力を強く受けた味方した武士と云う事に成ります。
従って、そこらの先祖の表現が誇張されています。


そうすると、「西園寺氏・・云々」と「左三つ巴」は信用できないです。
ここからは絶対にお家の青木氏に辿り着けません。

ところが、氏では無く、地域から観てみると、今度は逆に、お便りは正しいのです。
「紀州国の龍神村」の「付近」は正しいのです。
更に、南北朝時代に南朝方に味方して統治を追われ・・・までは正しい事です。

そこで、この地理からルーツを観てみますと、次ぎの様に成ります。

この龍神村付近に住んだとされる藤原氏は、「藤原秀郷流主要五氏」の一つで「青木氏族」の「進藤氏」の祖と成る人物で、(藤原鎌足より8代目北家の藤原秀郷)この秀郷より4代目の行景はなる者がいました。
この「行景」には、この子孫に藤原脩種−脩俊−好治−治卿−秀世−・・と続きますが、
この脩俊は隠岐国の八嶋冠者の役職を司っていましたが、1185年の源の頼朝が平家討伐のために隠岐から屋島にいち早く同行し、平家を滅ぼすに勲功を挙げました。
この勲功で、紀州若山庄(和歌山)の3千余町を賜り、従五位下に任じられます。
以後2代の将軍の近臣として仕えて出世します。
この一族に同行した護衛役の秀郷流青木氏の分家の一部が龍神村から有田地域に定住しました。
この青木氏が現在の和歌山市と隣りの有田郡湯浅に定住しています。
この子孫が村を形成しましたが、現在はこの地名の青木には青木氏はありません。、北部の和歌山周囲に存在する少ない青木氏はこの末裔とも見られます。

現在、「龍神温泉」に近い所に「明恵温泉」と云うところが、和歌山有田市にあり、その辺一帯は昔、「明恵村」と呼ばれ、「藤原明恵」が定住赴任していた地域で、和歌山でも良く知られた”明恵さん”で、周囲の村民たちに大変に慕われた僧侶でもあったのです。
その近くに青木村が在りました。お家はここに住んでいた事に成ります。
現在は地名だけでありません。
龍神村の地域は平家落人が住んでいたところですから、この龍神村よりやや山を降りた明恵村がその定住地と成ります。

昔の地名では、龍神村でも通りますが、正確には明恵村が正しいのです。
一度、お家のルーツの下に成るこの「明恵温泉」を訪れては如何ですか。
有田市が運営しています。宿泊もできる様に成っています。静かな小さな温泉村です
山郷の風景です。

この「秀郷流青木氏」は、「藤原脩行ー脩種・・」が赴任役務が終わり引き揚げた事に伴い、大半は「武蔵国の領国」に帰りました。
この青木氏の一部が地元に残り、後に紀州の土豪と成り、「南北朝の争い」で近くにいた「楠正成」等と共に戦い敗退し滅亡したと成っていますが、近隣の秀郷一門の青木氏の縁故を頼り、「伊勢の秀郷流青木氏」や「讃岐の藤原秀郷流青木氏」や、「美濃尾張の秀郷流青木氏」などを頼り逃げ延びました。
この事からすると、お家の”龍神説”の部分は正しい時代考証に成っていますので納得出来ます。

お家は、この「讃岐青木氏」を頼った「秀郷流青木氏」である事に成ります。
その後、讃岐付近に定着し土豪と成り、戦乱で、伊予西園寺氏の味方をした土豪である事に成ります。西園寺氏の滅亡で、逃亡せずに「農民」と成って生き延びた「秀郷流青木氏」と云う事に成ります。

「秀郷流讃岐青木氏」は、瀬戸内の経済を背景に宗家の関東一円に勢力を張った秀郷流青木氏と同じくらいの大勢力を張っていました。
同じ一族としてこの勢力の庇護を受けて滅亡せずに生き延びられたと考えられます。
お家は伊予南部と成っていますから、讃岐青木氏の庇護を受けながらも、土豪として独自の動きをした事に成ります。西園寺氏の護衛団の土井氏の家臣と成った事に成ります。
土豪として地盤を宇和島三間町に築いたと観られ、そこで讃岐藤氏の讃岐青木氏の庇護の下に庄屋を務めたと考えられます。

藤原秀郷の宗家一門は公家貴族になりましたので、武力集団を持つ事が出来ずに、一門から秀郷の子の第3子の千国なるものが、護衛団を形成して独立して一門を護りました。
この末裔が、秀郷流青木氏116氏あります。お家はその1氏です。
そもそも、この「青木氏」とは、天皇より「特別賜姓」を受けて由緒ある天皇を直接警護する近衛軍団を編成しました。
この青木氏には、もう一つ天皇皇子の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を天皇より受けた青木氏があり、この「皇族賜姓青木氏」5家5流と、「秀郷流青木氏」116氏とは母方の血縁氏です。
この為に、共に天皇を護る役目を負い各地に赴任する宗家の守護地の護衛に当たっていました。
お家は、脩種の宗家一門として同行して紀州の護衛に当たっていたのです。
お家はその一つですが、但し、家紋の「三つ巴」には問題があります。
この地域から讃岐東部にかけて青木氏の大変多い地域です。
「藤原秀郷流青木氏」に付いては、研究室に長編の論文を掲載していますので、詳細はそちらをお読みください。
また、昔ご親族の青木さんのお便りが、ルーツ掲示板に沢山寄せられていますので、掲示板に検索が在りますのでそれを使ってお読みください。
膨大な資料ですから、慌てず少しずつお読みになる事をお勧めします。何年もかかりますよ。

兼隆の件は100%間違いです。
但し家紋の「左三つ巴紋」には一つの可能性があります。
お墓を室町期末期頃に据えられていますので、武士には従わなくてはならない家系に関する掟がありまして、それが「家紋掟」いうものですが、これに依って、お家は伊予にて二度の男系継承が出来ずに、二度の養子を迎えた為に、女系と成ってしまった家柄となりました。
従って、男系を主流としている「氏家制度の時代」(江戸期前)には「養子先の血筋」と成りますので、家紋は一番目の養子先の家紋に変わったと考えられ、その養子先が西園寺の支流族であった事に成ります。
元の家紋が何であったかは何らかの情報があれば判ります。
ご宗家の本家にその答えがあるかも知れませんね。

元々の秀郷流青木氏の総紋は「下がり藤紋」です。これが上記の家紋掟の仕来りで116の家紋に広がった事に成ります。
ところが、「左巴紋」が青木氏の家紋群に出て来ないのは、明らかに、本来の正規の定住地では無い事から家紋群に出て来ない事に成ります。

この家紋は、実は、秀郷流一門の中の主流族の「結城氏」、「佐野氏」「関東屋形」と呼ばれた大豪族の「小山氏」「宇都宮氏」豪族の支流族の「赤松氏」も使っているのです。

ですから、「西園寺氏からの養子」なのか、上記の一門の六氏の流れを持つ青木氏なのかに成ります。
「脩種の始祖」は「脩行」ですから、佐野氏系青木氏の可能性もあります。
「西園寺氏」か「佐野氏」かの兎も角も今は決定する情報がありません。
「家紋掟」よる「養子縁組」が宗家に無かったかの事に関わります。
無ければ「佐野氏系青木氏」で「本流青木氏」と成ります。

この事で、和歌山から伊予に逃亡した青木氏の証明である事に成ります。
和歌山には、元お家のご親族が少ないですがまだ遺っていますよ。

兼隆は明らかな間違いで、秀郷流青木氏の脩種の系列の血筋を引く青木氏です。



判らない時は、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.974] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/06/21(Sat) 11:50:18

 掲示板等を読ませていただき、菩提寺や宗派の情報も役立つと知りましたので、追加させていただきます。
 地元郷土誌からの転載で失礼します。

 大楽寺(だいらくじ)【宇和島市吉田町河内中】

・山号は金仙山
・宗派は浄土真宗
・創建年代 は1591年
・元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。堂房は、豊前国の宇都宮鎮房の第3子。堂房は、萩森城主・宇都宮房綱を頼って九州より敗走してきたが、房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。そこで、房綱の姉婿である菊池武国を頼って、この地に落ち延びた。

 寺としての格が高く、江戸時代にこの地を領有した吉田藩・伊達家(宇和島伊達家の分家)の殿様も、この寺の前を通る時には乗り物を降りなければならなかったが、寺の住職と歴代仲が悪く、降りはするが罵声を残した、という変なお話も聞いたことがあります。


  [No.975] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/21(Sat) 15:03:03

元青木さん 今日は。
早速のご返事ありがとうございました。

最早、何をか況やですね。
一つの残された疑問も解明しましたね。

菩提寺の宗派の真宗、創建年代、それに宇都宮氏の開基
長曾我部氏に討たれた事等から筆者が持つ資料に一致します。

間違いなく紀州から落ち延びた脩行系の脩種族の秀郷流青木氏である事と、その「左三つ巴の家紋」の疑問も完璧に一致しましたね。
三つ巴の家紋が秀郷一門の6氏の家紋であり西園寺氏の家紋では無かったようですね。
菩提寺の宇都宮氏は全国に大きく分布させた一族であり、この九州豊後に分布した理由も判っています。
更に、筆者に直接お便り頂きました核心に成る情報から、最初にお答えしました6氏の内の一つの流れを組む青木氏である事も一致しました。
この6氏は互いに血縁関係を持っておりました。その系譜の流れも掌握しています。
お家は、明治期の3年の苗字令、8年の督促令の何れかに、絶えた青木氏の代わりに、血筋の受け入た氏名を名乗ったと云う事に成ります。
この事例は秀郷流青木氏が絶えた時に取った良くある事例です。
それは、浄土真宗で判ります。
地方に分布した一族には、秀郷一門の宗派浄土宗が密教であった事から、その流れを組む顕教の浄土真宗に宗派を求めたのです。
上記した、2氏も同じ宗派を他の地で子孫を拡大させた時に採った宗派であるからです。
この事から、元は佐野氏系「・・族」秀郷流青木氏です。「・・氏族」は(匿名)
当然に、宇都宮氏との血縁をも秀郷一門の「関東屋形」として持っている事に成ります。

「藤原兼隆」を除いて完全に問題点は無く成りました。
尚、藤原兼隆の藤原氏は前回にもお答えした通り、あり得ない事で、今回の菩提寺の情報の宇都宮氏と浄土真宗の宗派から絶対に無い事に成ります。
この兼隆の関白右大臣家の藤原一族は、浄土宗です。恐らく、家紋も「上り藤紋」である筈です。
秀郷一門の総紋は「下がり藤紋」です。この家紋は藤原氏では9氏しか使っていません。
従って、お家は、「総紋」を「下り藤門」とし、家紋を「左巴紋」とする一族で「関東屋形族」と呼ばれる青木一族です。場合に依ってはもう一つ副紋として「・・家」と「青木家」との共通する家紋を持っている事もあり得ます。一度お調べに成ってください。
お家は名門中の名門と成りますので、どなたか絶えた青木氏を継承しては如何ですか。
お家の領国の武蔵国の青木氏の菩提寺は「西光寺」と云う浄土宗のお寺が一族の菩提寺に成ります。
現在は、埼玉には戦禍で無く成っているようですが、茨木にはまだ一寺が残っている様です。

>寺としての格が高く、江戸時代にこの地を領有した吉田藩・伊達家(宇和島伊達家の分家)の殿様も、この寺の前を通る時には乗り物を降りなければならなかったが、寺の住職と歴代仲が悪く、降りはするが罵声を残した、という変なお話も聞いたことがあります。

以上の情報からも、良くお家の関係族の立場を物語る事柄です。
一度、本サイトの秀郷流青木氏とその関係族の家柄身分等をお読みに成れば、この事が納得されます。
因みに、徳川家康かその一族の大名と青木氏宗家が在ったとしますと、どちらが土下座すると思いますか。家康です。筆者の家は大正14年まで紀州徳川氏と長い付き合いをしていましたが、会う時は筆者の先祖が上座に座る事に成っていたのです。
徳川氏の方が座るまで頭を下げて置く作法であったと聞かされています。
宇都宮氏でそうであればお家の先祖と宇都宮氏が会うとすればお家が上座に座る事に成ります。

”変な話”では無く、封建社会の中では、当たり前の作法のです。
この情報一つでもルーツの検証は進むのです。
庄屋であったとしていますから、そのような作法が村中でもあったと思いますよ。

ご不明な点がありましたら、ご遠慮なくご質問ください。
では、又お便りください。


  [No.976] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/06/22(Sun) 00:51:24

 迅速かつ詳細、しかも明快なお答えをいただき、心から感謝申し上げます。また当方が歴史にさっぱり疎く、意図せず肝心な情報が小出しになってしまったことをお詫び申し上げます。

 ですがその一方、あまりに気宇壮大なお話を前にして混乱していることも事実であり、失礼を承知の上で馬鹿正直に言わせていただくならば、『どうにも信じられない』という気持ちです。
 親切に教えていただいておいて誠に失礼とは存じますが、無知な田舎者の戯言とお笑いくだされば幸いです。

 当家は本当に典型的な田舎の農家であり、先祖が武士、しかも歴史ある名門の出などと想像したこともありません。家紋が巴紋なのは知っていても、それが右か左かもよく知らなかった、という有り様です(苦笑) 今回、親族の遺した資料が見つかり(実はこれも廃棄する寸前でした)、あらためて古い墓を調べたところ『寛文7年』という古い年号と、風化しかけた左三つ巴の紋があることに気づき、質問をさし上げた、という次第です。
 それがこのような話に発展するとは全く想像せず、目を白黒させております。
 正直、親族にこの話をしても、信じるものはいないことは確実です。

 大変失礼な質問であることは承知の上でお尋ねしますが、『当家の先祖が武士であったこと』、それが『秀郷流青木氏』の末裔であったことは、本当に『確かと認められること』なのでしょうか?
 当地は中央から遠く離れた四国の田舎ですし、どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。
 いえ、こんなことを書くのはご先祖にも失礼とは思うのですが、正直なところ『我が家が武家の家系だなんて、そんなことが本当に起きるのか』という疑問のほうが大きい、という当方の困惑をどうかお汲み取り下さり、『なぜそのように判定できるのか』をいま少しご教授願えれば幸いです。

  
 どうか忌憚のない意見をお聞かせ願えれば幸いです。


  [No.977] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/22(Sun) 11:15:32

元青木さん 今日は。お読み頂けましたか。ありがとうございます。

お家のルーツに付いて、驚かれた事と思います。
当然の事と思いますが、現在は、完全に殆どの青木氏は先祖のルーツを失っています。
従って、過去の先祖の生き様が判れば、その格差の差で整理がつかないのは当然の事です。
多少なりとも、その伝承が生活の中に遺されているのであれば、系統的に想像もつくので、矢張りと云う印象も持つ事に成ります。
しかし、幸いにも偶然にも、お家は肝心な先祖の情報を持ち得ていたと云う事が、ルーツの解明につながったのです。
前回のお便りに頂いた情報、紀州龍神村、墓、家紋、宗派、菩提寺、伊予南部地名、庄屋、宇都宮、農家、「・・氏」、西園寺氏、そして、今回のお便りのお墓の詳細な情報、これだけの情報を持ち得ている青木さんはすくないのです。

そして、この情報が、遺されている「青木氏の歴史史実の資料」に全て合致するものです。
普通は、この様に矛盾なく合致する事は先ずありません。
どれか一つ搾取の情報があると他との矛盾が出てきます。
それは、江戸時代を含む前の時代は、氏家制度の中にありましたので、その社会慣習の取り決めで矛盾が出て来るのです。
例えば、浄土真宗とありますと、この宗派は浄土宗から分派した親鸞の真宗で、3派に分かれていますが、その一派は武家の藤原秀郷流青木氏が入信した宗派で法然の浄土宗の概念を頑なに引き継いだ派に成ります。秀郷一門の宇都宮氏の寺はこれを証明しています。

農民とありますが、農民はルーツと墓の概念が元々無かったのです。
明治以降の自由社会で初めて持った概念です。

そもそも、ルーツを系統的に維持しようとすると、その為の系統の要素が必要ですね。
つまり、先ずは、「氏か姓」が必要ですね。そうでなければ、「・・氏の・・太郎」として記録して行くことは出来ませんね。
でも、農民は、この「氏と姓」を持つ事を許されていませんでした。
次に、この「氏や姓」を整理してルーツの譜を作らねばなりませんね。
当然に、これをするのは、お寺ですね。
しかし、このお寺はこの武士以外の者のルーツを管理していませんでしたし、認められていませんでした。
つまり、武士の「過去帳」の様なものを作る事は出来なかったのです。
「人別帳」と云う1代限りの戸籍簿です。

「過去帳」は「特定の氏」(上級武士)が「自らの氏の寺」、即ち「菩提寺」でしか作りません。
その他の宗派は全て、「檀家寺」です。不特定多数の人によって維持される寺の事です。
しかし、特定の農民を除いてすべての農民はこの檀家寺にさえ入れなかったのです。
明治初期までこの状態が続きました。
明治3年の苗字令8年の督促令によってはじめて苗字を持つ事が出来ました。
やっとルーツをたどる基本要素を持ったのです。
そこから、初めて墓を持ち、家紋を持ち、檀家寺を持ちする様に成ったのです。
それまでは、農民などは「河原の石」(砂岩)を積み上げる程度の墓を持つ程度の事でした。
自然風化が原則です。
「ルーツ」と云う”「概念」”そのものが無かったのです。

お家の疑問の前提は、この「概念の有無」と「士農工商の身分制度」とそれを支える「社会慣習」(慣習、仕来り、掟)の知恵知識が欠落していた事に成りますね。
明治期以降と江戸期以前は社会がまるで違ったのですよ。
この二つの期を境にして常識を含む事柄一切が違っているのですよ。

以上典型的な違いを例として挙げました。
今回のお尋ねを全てご納得出来る様にするには、歴史の全ての知識をご説明しなければ無理かと思います。
その為に、青木氏の本サイトは全国の青木氏の皆さんにこの江戸期以前の歴史の知識を網羅して正しく判断して頂く為に運営しています。

「ルーツ掲示板」や「ルーツ研究室」や「家紋掲示板」や「地名地形データベース」「家紋掲示板」等に区分けして”判断に必要とする情報”を提供しています。
これでも、お家の様に疑問を解消できない難しい特別な領域の不明な歴史の部分もあって、それを研究して情報を提供しているのです。

ですから、恐らくはこのご質問が来ると観ていましたから、研究室やルーツ掲示板をお読みくださいと書き記したところです。

お家のご疑問の解消はこの「サイトの情報」を絶対に読んで頂く必要があります。

本サイトは営利団体ではありませんので、「全国の青木氏族」が自由に集うサイトです。
全世界的なサイトに成っています。
ヤフーHPに審査合格で認可されたサイトでは情報量は段突のトップの歴史のサイトです。
現在では、青木氏外の方のご質問が多いサイトに成っています。

兎も角も、今回のご質問は、納得していただくには、膨大過ぎてお応えしきれませんので、是非サイトの情報をお読みいただきます様に、其の上での個々の質問に何度でもお答えします。


さて、今回の提供して頂いた情報にも極めて重要な情報があります。
それに付いてお応えします。

>当地は中央から遠く離れた四国の田舎ですし、どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。

サイトの情報を読んで頂ければ直ぐに判ることですが、
簡単に、お応えするとして、そんなことは出来ません。
田舎云々は無関係です。
武士以外の者が、明治以前にこの様な事は出来ません。
それに、明治後の農民は花崗岩の墓で作りましたが、武士であった家筋は、仏教の仕来りで”土に帰る”を前提に、風化して消えて行く様に「砂岩」で作られているのです。
お家の墓は明治前のもので朽ちていたと記されていますので明治期前のものです。
「砂岩墓」は、武士の家柄が行う墓形式です。
明治後に風化を嫌って武士も花崗岩の墓にしました。
この時に明治期に、一族が一つにした総合墓と云うものを作りました。
元々上記した様に武士以外が概念が無いのですから持つ事はありません。
明治期の前に農民が持ったとしても、それをお寺が祭祀してもらえませんし、周囲から異常に観られます。
異端児扱いされて先ず生きて行けませんね。
農民の「国抜け」は「斬罪」で村から勝手に出る事は出来ませんので、異端児に成れば終わりです。
「慣習仕来り掟」は絶対に護らないと生きて行けないのです。

明治前であれば、墓を作る事さえも受け付けてくれませんよ。
現在の自由感覚に何でも出来る社会では無かったのですよ。
周囲で社会慣習や掟や仕来りや禁令で出来ない堅ぐるしい社会でした。

明治後ではお話の事は確かに起こりました。
明治かそれ以前かの判定をすれば、直ぐに判ります。
この度の墓の情報がある事はそれを証明しています。
こんなことを勝手には出来ません。お寺が応じてくれませんし、社会慣習や決まりの禁令を破るとして先ず捕まりますよ。

先ずはルーツは過去の感覚の事ですよ。現代感覚では無理、だから歴史を知って過去の事を知ろうとしているのではありませんか。お家はこの判断が欠けています。

>『なぜそのように判定できるのか』

このお答えの前に、決定的な事を申し上げます。
勘違いをされている様ですが、「青木氏」は誰でも使える名乗れる氏名ではありません。
日本全国数ある氏姓の名の中で唯一特別な氏名なのです。
この前提が説明不足でした。
先ず、「青木氏」は「天智天皇」の大化改新での「第4世族」内の「第6位皇子」が名乗れる氏名として決められたもので、天皇から直接「青木」と云う氏名を賜姓される仕組みを作りました
この最初に賜姓されて臣下したのが「施基皇子」で、それが最初の青木氏です。
この時に、「青木氏」は色々な役目を与えられて下族します。
天智天皇は、青木氏を一切の他氏が名乗ってはならないと禁令を出します。
この「青木氏の賜姓制度」は「5人の天皇」によって継承されました。
従って、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の守護王と成って赴任します。
青木氏は皇子であった者が武家として天皇を警護する役目の近衛軍を創設しました。
その青木氏は桓武天皇に依って一時廃止されますが、その子の嵯峨天皇が再びこの制度を再興します。
この時、青木氏を源氏に変更します。そして、「青木氏」は皇族の者が下族する際に名乗る氏名としました。

改めて、「嵯峨天皇」は最高の命令の「詔勅」を発して、一切他の者は「青木氏」を名乗っては成らないとし、その「青木氏」が行う「慣習仕来り掟」を使ってはならないとする禁令を発したのです。
この詔勅と禁令は明治3年まで護られました。

ところが、平安期に青木氏は役目が大変になり、藤原秀郷の第3子の千国にこの青木氏を補佐する様に命じて、青木氏を名乗って良いとしたのです。
この秀郷一門とは母方で血縁しているのです。
身分家柄官位官職職位全て同じのものを与えて「秀郷流青木氏」が別に発祥したのです。
従って、この青木氏を名乗る事は絶対に出来ない氏名なのです。
日本では詔勅と禁令の出た氏は「青木氏」だけです。
農民が青木氏を名乗る等は直ちに斬罪に成ります。
この「青木氏」には、「不入不倫の権」の特権を与えられました。
つまり、保護命令です。

これが青木氏なのです。
筆者は伊勢青木氏です。第40代目の宗家跡目です。
お家が秀郷流青木氏116氏の流れの青木氏です。
この青木氏には4氏の血縁氏があり、その内の一つの佐野氏系の流れの「・・氏」の血筋を引く青木氏です。


今回の提供して頂いた戒名の情報からも判ります。
武士以外は、ルーツや墓の概念が無かったのですから、戒名を持っている事自体が武士なのです。
それも明治前のものである事です。更には、それも8代前の者である事です。
戒名がある事そのものは、檀家寺のお寺があった事を示します。
それをある程度系統的に維持されている事に成り、それは更に苗字か氏を持っていた事にも成ります。
従って、その宗家のお寺には何らかのものがあったからお墓の戒名に成ったのです。
農民は概念すら無く戒名も先ず無かったのです。
お家の宗家の仏壇には戒名帳又は過去帳成る物がある筈ですし、仏壇には、代々の戒名の書いた位牌がある筈です。
8代目の戒名ですので、これは武士であった証拠です。
戒名から観て、普通の武士では無い事が判ります。当然に農民でも無い事に成ります。

そこで、今回の戒名から、ある事が判ります。
武士の戒名でありますが、農民の武士の戒名でもあります。
「院殿居士」がつく戒名が最高ですが、人物や身分や財力などで戒名が変わります。
「居士」「信士」が付いていますので、これらから観ますと、武士で農民程度であった事に成りますね。
つまり、庄屋、名主、豪農、郷士の何れかの身分の者であった戒名です。
この四つの身分の者は先祖は全て武士であるのです。
土地の土豪で地主であった者が村の長に成り指名される立場なのです。

殆どは、郷士です。農民の長であって武士であるのです。
この様な戒名に成ります。戒名の有無の問題です。戒名の内容如何の問題ではありません。
明治を超えた戒名がある事は「武士」である事なのです。
”庄屋”と前回にありました通り、当に庄屋が持つ戒名の程度と成ります。
庄屋であれば、お家の宗家には人別帳の写しや庄屋を示す何かのものがある筈です。
「地主」で「屋号」や刀や紋付や農民に無いものが沢山あった筈です。
それをお探しください。

最も古い戒名の有るご先祖から遡って龍神村に辿り着ける時代考証が必要ですね。
筆者はあくまでもお家のより確かな状況証拠を提示するもので、それを何とか証明するのはお家の作業であり、筆者には不可能です。
その証明物を筆者が過去の歴史知識観から検証するのが務めですから、今回の様に戒名と墓所の証明物の様に検証すれば、後は信じるか信じないかはお家の酌量の範囲です。
その為にも、サイトの基礎知識をまずはお読みくださいと申しています。

今回のご質問の大きな答えは、農民には明治期までその概念とその先祖の作法は無かったものである事が全てを応えていると考えます。
この判断で全ては判る筈です。明治期を中心に江戸期に入る情報が在るかの判断で決まります。
お家の情報はこの江戸期の中にしっかりと入っているのですと云っています。
お家が想像する農民の搾取偏纂は、慣習仕来り掟禁令で、江戸期には罪と成り行われていないのです。
ある時期の下級武士以外を除いては。

最早、お家に確定するには「物的証拠」が無く成っている様ですから、後は「状況証拠」の積み重ねでしかありません。


>『当家の先祖が武士であったこと』、それが『秀郷流青木氏』の末裔であったことは、本当に『確かと認められること』

前回のお応えは先ず100%に近い状態で間違っていないと思います。

ご親族に示されるのであれば、必要な処の青木氏の資料をコピーして参考資料として先ずお見せして、其の上でご説明するのが適切と思います。
或は、本サイトの存在を示し、観て頂くかの工夫が必要ですね。


前回のお家の現代のお名前を日本全国の名前の中から、お家の現在の「・・氏」(匿名部)を状況証拠から当てました。
その後で、「・・氏」の匿名の情報提供がありました。

紀州からこの青木氏が讃岐を含む三か所に逃避した事も史実として掴んでいました。
紀州からこの青木さんがそっくり無く成って地名だけが遺されているのです。

「地名地形データベース」や「青木と云う地名の地図」をお読みください。
そこに記載していますよ。

ルーツ掲示板にもお家と同じルーツの人の尾張と伊勢に逃げた方のお便りが在りますし、研究室にも記載しています。
(藤原明恵や藤原脩行や藤原脩種で検索してください。)

讃岐へ逃亡した青木さんのお便りが無かったのです。

この”龍神村の藤原系の青木氏”のその史実をお家のご先祖が知っていた事が先ず大変に珍しい事です。
昔であれば青木氏のまとめられた資料発見はありませんでしたから、この史実を掴んでいた事は、それは、お家のご先祖に何がしかの口伝が遺されていたからです。
それ以外には、全く無い事に成ります。
現在でも、先ず、この情報の古来の資料を持っていて知っている人は殆どありません。
地元でも、現在消えている史実です。平家の事は知られていますが、紀州に青木村もあった事さえ消えています。
お家のご先祖の何らの口伝が在った事以外には有りません。
これは何よりの証拠です。筆者も驚きました。讃岐に移動した史実は掴んでいましたが、讃岐青木氏の中に埋もれて判らなかった事が正直な事です。
好い史実を掴みました。記録に遺します。ありがとうございました。

更には、そして「・・氏」を2度目お便りの前に掲示板にお答えしています。
こんなことは適格な情報が無ければ、「・・氏」は出来ませんよ。
これだけでも確かな事を示しています。

先ず、サイトの情報をお読みください。
そこで都度、お家の内容との絡みから内容にご質問があればご遠慮なくお尋ねください。

では、お便りをお待ちしています。


  [No.978] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/07/02(Wed) 17:35:18

 ご無沙汰して申し訳ありません。
 詳細なご教授に重ねて感謝いたします。
 その後、歴史音痴ながらも自分でネットなど巡ったりしております。
 その中で、またいくつかの疑問といいますか、ポイントが浮かびましたので投稿させていただきます。

 最初の書き込みで、当家が『藤原氏・藤原兼隆の子孫』との伝承があると書き、副管理人様から「問題がある」とのご指摘を受けましたが、ネット等で調べてみたところ、宇都宮氏がこの『兼隆』をルーツとして伝承されているようです。
 伊予宇都宮氏、さらに『左三つ巴』の家紋から、当家との養子関係が指摘される宇都宮氏だけに、『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。

 またこれもネットの知識ですが、当家のルーツとされる紀州明恵村の青木氏が居住地を追われることになった南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王が宇都宮氏を頼って伊予、さらに九州へと渡られた、ということがあったようです。
 あるいは当家の先祖は、讃岐青木氏を頼って四国へ移動したあと、この南朝方の動きに従って愛媛南部へ移動した、というのは飛躍しすぎでしょうか。
 実は郷土史を調べると、当地には懐良親王がこられた、との伝説が複数残っており(宇都宮氏が居城とした大洲喜多よりはだいぶ南になりますが)、かつては後醍醐天皇の勅願寺もあった、という話もあります。
 当地宇和島市は、かの海賊・藤原純友が根城とした日振島を擁する土地ですが、後には『倭寇』の一派が基地とした地域でもあったそうで(懐良親王も倭寇海賊とはご縁の深い方のようです)、今でも『我が家は白ふんどし(倭寇のことだそうです)の子孫』と名乗る家があったり、古い寺からは東南アジア由来の文物が発見されることがあるそうです。

 また、海側には宇都宮氏の伝承も残り、西予市明浜町には「城主・宇都宮修理大夫正綱のカッパ退治」という伝承があります。「宇都宮正綱」は、下野の宇都宮本家の当主であった、とネットにありますので不思議ですが、伊予宇都宮氏と宇都宮本家との関係の近さを示すのかもしれません。

 素人考えではありますが、今更ながらロマンの尽きぬ話と実感しております。


  [No.979] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/03(Thu) 11:11:44

>  最初の書き込みで、当家が『藤原氏・藤原兼隆の子孫』との伝承があると書き、副管理人様から「問題がある」とのご指摘を受けましたが、
ネット等で調べてみたところ、宇都宮氏がこの『兼隆』をルーツとして伝承されているようです。
>  伊予宇都宮氏、さらに『左三つ巴』の家紋から、当家との養子関係が指摘される宇都宮氏だけに、『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。


愛媛の元青木さん
今日は。
色々お調べに成って居られるようですが、青木氏の事では無く宇都宮氏の事の様ですね。

色々情報を集めるとしても、その「情報の根源」がどの様に成っているかを先ず知る必要があります。
ネット情報は、特に、室町期中期以降から末期の情報では、ある特定の情報源がベースに成っているのです。
それを租借しないと正しい答えは出ません。
租借、つまり、検証が必要なのです。この事は前回にも何度も申しています


室町期末期から江戸初期に掛けて、立身出世したものが「姓族」に成りました。
殆どの武士はこの「姓族」なのです。
その「姓族」が民衆の支配者に成りました。
ここで困った事が社会の中に起こりました。
それは、全ての事に対する「権威」が無く成った事です。
そこで、秀吉や家康の江戸幕府はこの権威づくりに躍起と成ったのです。
先ず、大名に対して「権威づくり」を命じます。
当然に大名は家臣に対してもこの「権威づくり」を命じます。
最終は、足軽までこの「権威づくり」に懸命に成りました。
当然に、「姓族」である為にルーツを持ち合わせていませんでした。
そこで、ある権威を過去に持った「氏族」に繋げる以外には「家の権威」は出来上がりません。
ある権威のあったルーツの系譜と別に権威の在った系譜を繋ぎ合わせて一つの系譜を作りました。
その系譜の真偽如何は別で、先ず作る事が求められました。
この作り方には色々あって、そのような系譜や文面などの「物的証拠」を作り上げる職業が現れました。
主に古い神職や住職が請け負いました。
この「権威付け」は時代が進めば、真偽は真実になる事に成ります。
そして、これを「正しい資料」として「ネット上の情報」として提供されているのです。
多くは「地域的で恣意的な宣伝」を込めて提供しているものもあるのです。
明治初期に成ると、何時しか、武士のみならず「農民」までもが行いました。
「家柄」をよく見せる為に搾取偏纂を多額の金品を使って作り上げたのです。

当然にこれには無理が伴います。慣習仕来り掟等が、「氏族」や「姓族」等では違っているのです。
これは相当歴史を知らないと見抜けない事なのです。
今回のお問い合わせもこの事の明確な現象です。


初期ご質問
さて、そこで、今回のお尋ねはこの典型的なものです。
従って、先ず、”伝承が混じった”とすることには異論はありません。
「氏族」には問題はなく、この時に「全ての姓族」にこの「継承の混濁現象」が起こったのです。
特に、この時期の情報は特に注意しなければならないのです。
摂関家の「藤原兼隆流」と、「藤原秀郷流」の支流血筋として持つ「本家」の宇都宮氏とでは違いすぎます。
この「関東屋形」と呼ばれる一氏の「宇都宮氏」とは、同じ藤原氏北家でも身分家柄官位官職支流族等一切比べものに成らないほどに違っています。
江戸初期によくあった典型的な現象ですが、自分の家柄をよく見せる様に作り上げた事から起こった現象です。
氏家制度では、この様な事は実際にはあり得ません。明らかに搾取偏纂の見本のようなものです。
兼隆流を名乗る者は山ほどあるのです。
家柄をよく見せる為の「権威づくり」に使われた見本のような藤原氏なのです。

”搾取偏纂をしましたよ”と云っている様なものです。
つまり、「兼隆と青木氏」を結び付けたご先祖は ”、私は「第三の青木氏」ですよ” と云っているに等しいのです。
一方で、殆どの人が知り得ない情報の”「龍神村の青木氏」”の事を知っていた事。
他方で、「龍神村の青木氏」を知っているのに、”「脩行系の事」は知らない”と云う大矛盾があります。
明らかに「権威づくりの貼り付け」であった事を物語っているのです。
>どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。
このご指摘を証明する事に成ります。
お墓は1667年の刻みですから、江戸初期の時期のもので、兼隆説ではこの事で「第三の青木氏」の説に成ってしまいます。
この論調には、鎌倉期から時の政権が発する「軍則規定」と「西園寺と宇都宮氏の時代性」に矛盾が出るのです。

幕府は、戦乱で伸し上がった家柄の無い者が殆どであった為に、社会に権威を作り上げて「権威社会」を作り上げようとしました。
全ての家に対して搾取偏纂でも良いから作る様に命じたのです。

その為に、家柄のはっきりしない殆どの「姓族」の者は、平安期の良い家柄を繋ぎ合わせる作業をしたのです。
これをしないと、「黒印状」が交付されない事に成り、家臣としての筋目が定まらない為に俸禄を受けられない事が全ての武士に起こったのです。

特に、元は陸奥域の小豪族であった者が、秀郷一門が陸奥に赴任した時に、現地の土豪との間に出来た血縁族が、秀郷一門が任期切れで関東から戻ってくる時に付き従ってきた一族です。
特に、「関東屋形」と呼ばれる4氏(結城氏等は除く)の3氏はこの末裔です。
お家が拘る「宇都宮氏」の出自は、宇都宮域を秀郷一門の背景で奪い取って勢力を拡大させた陸奥の小土豪からの立身出世の豪族なのです。
この為には、結城氏等を除いた「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」、・「赤松氏」等は、その系譜を藤原氏に求めたのです。
この他にも、足利氏の前身の「花房氏」、「小田氏」などは陸奥から来て大豪族に成った「姓族」です。
例外なく、これらの立身出世して大豪族の系譜には矛盾の持った「権威づくり」を100%しています。
それを見抜けるかはその人の歴史力に関わります。

況して、分家の「伊予の宇都宮氏」は、分家の宿命でより家柄を見せる為に時には、本家以上の「権威づくり」をしたのです。
この宇都宮氏も同様ですし、地域性の宣伝も垣間見れます。見抜けるかどうかに関わります。
本家が秀郷流一門支流族であるのに、それよりもより家柄をよく見せる為に、摂関家の藤原兼隆との系譜と繋いだのです。

恐らくは、「伊予の宇都宮氏」は「氏家制度」の社会でしたから、本家の許可が降りなかった等の何らかの問題があったと考えられます。
”本家の云う事を聞かない”や”献納金を納めない”や”血筋が違う”などのいざこざが当時、分家との間で起こったのです。その為に無理に兼隆と繋いだのです。

更に、お家も、紀州からの落人で地元の武士で無かった事から、全く系譜が在りません。
そこで、どこかで繋がりを創る必要があって、”「伊予宇都宮氏」との間で養子縁組の繋がり”があった様に作り上げたのです。
周りも例外なくが行っているのです。
「呉越同舟」です。観て観ぬ振りをする等の事が横行しました。

お家のご本家筋は伊勢か静岡に逃亡したのですから、到底、系譜を作る事が出来ません。
況して、南北朝では「武蔵の本家」の方針に従わなかったのですから、搾取以外には無かった筈です。
>『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。
このご質問には、答えは、つまり、極めて自然な考え方です。
この室町期中期から起こって、江戸期初期に爆発的に起こった事以外には歴史的に無いのです。
この時に、「伝承の混濁」が起こった事に成ります。
全ての「姓族」はこの時に「搾取の伝承」を公に作ったのです。
「姓族」は元より系統的な先祖の情報を持っていなかったのです。

上記に記した「関東屋形」で ”結城氏等は除く”と書いたのは、彼らの系譜にはこの現象が無かったのです。
宇都宮氏等と違って「氏族」ですから、「伝統的な継承」は持っていたのです。
丁度良い事例があります。

参考として、実は、鎌倉幕府を作った頼朝は、この関東の藤原秀郷一門を味方に引き入れる為にある行動を採りました。
敢えて消えていた由緒ある「結城氏」等の「氏族」らの「氏名」を復活させ、所領を与えて「権威づくり」をしたのです。
この「本領安堵策の復活劇」を二度も反対を押し切って強引に行いました。
有名な事で、この為に、頼朝の「政治的背景」と成っていた「坂東八平氏」に反発されて、トリカブトで暗殺されたのです。
頼朝の源氏子孫は全て暗殺された有名な事件がありました。

日本には、青木氏の様に、ルーツを持つ「氏族」と、室町期中期から発祥したルーツの持たない「姓族」とに別れます。
日本で最初に「姓族」に成ったのは「海部姓」です。
「姓族」には、元々ルーツを系統的に継承する概念が元々無かったのです。
この「姓族」が武士に立身出世して、幕府の命にて江戸初期には、「姓」と「家紋」と「ルーツ」を新たに作ったのです。

その江戸初期のルーツを持つ「氏族」には、正規には「48氏」があります。
それの流れを持つ氏流族が「200程度」でした。
鎌倉幕府と室町幕府はこの氏族を認証しました。
これを「家紋200選」と呼ばれていて有名です。
この248氏の「氏族」には正規の歴史と系譜はあるのです。
この「48氏」のトップに、滅亡せずに「青木氏」が在ったのです。
故に、この青木氏のサイトに過去の歴史などの情報が提供できているのです。
日本には「氏名」と「姓名」を合わせると約8000程度あります。
この10%程度が江戸期には武士であったのです。
その一割の20%程度が平安期から「歴史と系譜」などの情報を継承している事に成ります。
お家が拘る「宇都宮氏」は、この系譜を作らなければならない「姓族」なのです。
この「姓族」はこの一割の20%の「氏族」に歴史を何らかの形を作り上げて繋げようとしたのです。
この「氏族」の更に50%程度は滅亡しています。
この「50%の氏族」に歴史を繋いで置けば問題には成りません。
100%で「姓族」は、この「50%の氏族」の歴史と繋いでいます。
この事を知った上で「ネットのサイト情報」を使うべきなのです。
「ネットでの情報」を使うのであれば、先ずは、この「氏族」か「姓族」の判別が必要なのです。
(更に詳しく判別するには「第三の姓」と「未勘氏」との判別が必要です。「専門の歴史書」が在ります。)

ですから、お家は平安期から「脩行系の歴史と系譜」を正規に持つこの青木氏なのです。
しかし、「氏」と「家紋」と「ルーツ」を持てない事態が、お家に起こってしまったと云う事なのです。
「姓族」と全く同じ条件に成ってしまったのです。
それが「南北朝の結末」です。更に、お家は伊勢等の本流に従わなかったのです。
従っていれば、本流と同じに「氏名」と「家紋」と「ルーツ」などの象徴する事柄は、宗家より許されて元に戻す事が出来た筈なのです。
ところが、お家は、尚も、この本流との行動にも従わなかったのです。
お家にはこの様な「三つの絶対的なハンディ」があるのです。
だから、このネットに描いている事の”繋がりの物的証明”が必要なのです。
「青木氏」と云う「氏族」でありながら、「別の歴史と系譜」を作る以外には無かったのです。

ネット情報を使うのであるのなら、当時の”婚姻関係の仕来り”や「歴史の史実」をもっと先ず知る必要があります。
前回にも書きましたが、「ネット情報」はこの様な検証が出来ていないのです。
この様に「江戸期の搾取偏纂の系譜」を信じての「ネット情報」なのです。
この事を知っていて、敢えて、ある思惑を込めて描いているものもあるのです。
また、お家もその論理の中に入っている様です。

紀州から落ちて来た者に課せられた当時の江戸期の社会の条件をまず客観的に考えてみる事が必要です。

”よそ者、落ち武者、落人”を当時の社会がどの様に受け入れたかの史実を知るべきです。
簡単な例として、あの有名な名家の「平家滅亡」、「清和源氏衰退と滅亡」の逃亡時の生活をお知りに成ると判ります。
お家が主張する”「伊予宇都宮氏」との関係が果たしてあり得るのか”と云う事に気づく筈です。


青木氏には、お家の様な”青木氏の落人を救うシステム”が各地に構築して在ったのです。
先ず一つは、福井県に歴史からはみ出されたこの青木氏を集めて、保護し庇護する組織を持っていました。
次ぎに、近江ー伊勢ー信濃ー美濃ー甲斐には影の3つの「シンジケート」を持っていました。
落人を集めて「影の武力集団」を構築していました。
筆者の「伊勢ー信濃シンジケート」は青木氏等が「二足の草鞋」で営む「商いの運搬」などの保護などを担当していました。
このシンジケートには経済的な支援をしていました。
信長が「伊勢丸山城攻め」の時に、この「青木シンジケート」が「ゲリラ戦」で戦って勝ったのです。
歴史上極めて有名な事件です。歌舞伎にも成った位です。
何度も云っていますが、詳しくは、「青木氏の守護神ー祖先神の神明社」の論文をお読みください。
全国に500社に及ぶ「神明社」がこの「中核の役割」を果たしていたのです。


「江戸初期の系譜偏纂」の令に対して「よそ者」がどの様に証明する「物的証拠」を見つけ出す事が出来るかです。
お家には絶対に無かった筈です。恐らくこれからも全く無い筈です。
在ったとしても、「姓族」が採った「贋作手段」だけです。
江戸社会は、この現象事が特別な行為では無かった為に、当たり前に捉えられていたのです。

筆者はお家が「青木氏」は「青木氏」ではあるが、「家紋」や「氏名」やルーツさえも真面に継承出来なかったと観ています。
だから、その流れの中で匿名としている「・・」の姓名に成ったと観ています。

「氏家制度」の中で、”本家に反した行動を採った者の末路”が、「本家青木氏」と「宇都宮氏」と「秀郷宗家」とその一門がどの様な反撃を加えるかを考えるべきです。
゜秀郷一門の「第二の宗家」の云う事を聞かなかった者の末路は一族の「示し」から決まっています。
それも前回ご忠告した現在感覚では無く、江戸初期の「氏家制度の封建社会の感覚」でお考えください。

次ぎのご質問
>またこれもネットの知識ですが、当家のルーツとされる紀州明恵村の青木氏が居住地を追われることになった南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王が宇都宮氏を頼って伊予、さらに九州へと渡られた、ということがあったようです。
>あるいは当家の先祖は、讃岐青木氏を頼って四国へ移動したあと、この南朝方の動きに従って愛媛南部へ移動した、というのは飛躍しすぎでしょうか。

先ず、上記した様に、「落人の移動」に付いて、簡単ではありませんでした。
飛躍しすぎです。無いと考えます
当時には、「氏家制度の社会慣習」が在ったのです。
上記した様に、お家は先ず”生きる事の問題”が発生していた筈です。
「南北朝の問題」に対して、”氏家制度”の中で”「武蔵宗家の意」”に反して行動したのです。
この事は当時は”どの様な扱いを受けるか”です。
宗家側が”下手な扱い”をすると、今度は自分の立場は無く成る事に成り、一門の統制が採れなくなります。
「氏家制度の統制」も採れません。
まして、逃亡先が讃岐も秀郷一門の中でも二番目に大きい土地柄ですよ。
”「讃岐藤氏」”と呼ばれた土地柄です。
伊予を頼った南朝の「懐良親王」ことは承知しています。
だから、始めから「紀州の青木氏」が讃岐−伊予間に逃亡した事が判っていたのです。

このお家が主張する「伊予の宇都宮氏」がこれを保護したとすれば、次ぎの様な事が起こります。
「宇都宮の本家」は「伊予の宇都宮氏」を容認する事が出来ませんよ。
本家筋は、「秀郷宗家」から、「第二の宗家の青木氏」から睨まれます。
当然に、”何とかせよ”と圧力が掛かります。
「宇都宮の本家の圧力」があったから、親王は止む無く九州に逃亡したのです。
圧力が無ければ伊予に留まっていた筈です。
九州は大蔵氏族の土地柄です。
南朝方の親王が逃れるには四国より尚厳しい環境下ですよ。
ここまでは判っていました。
従って、お家の「青木氏」も、「武蔵の宗家の意」に反したのですから、「伊予の宇都宮氏」にお家が云うその様な扱いを受けるかは疑問ですね。
”先ず無い”と考えます。
秀郷一門の「第二の宗家」の「青木氏の意」に反しての行動をしたのです。
宇都宮だろうが伊予だろうが、「第二の宗家」に逆らって匿う様な事は出来なかった筈です。
匿う事の利益を宇都宮氏に与えるものはお家には何もなかった筈ですし、むしろマイナスの物しかなかった筈です。
従って、良い扱いを受けなかった事は100%確実です。
親王自身さえも九州に逃げているのですよ。
”お家が云う様な扱い”は宇都宮氏側には無かった筈です。
「伊予の宇都宮氏」に取っては何の利益もありませんよ。迷惑だけです。
ここでも「お家の言い分」は作り上げたものである事は間違いありません。
「江戸期の厳令」でしたから、何らかの贋作の物的証拠の書類等を用意しているかも知れませんが。

ただ、助けられる環境・方法が一つ有史来、「青木氏」に在ったのです。
ですから、前回に、「何故、”讃岐青木氏」が助けた”と筆者が書いたかです。
「青木氏のシンジケート」が、この讃岐にもあって、影で働いていたのです。
この事は青木氏であれば全て知っていた筈です。
しかし、お家は強力に「宇都宮氏」説を採っている事は、この事を知らなかったと云う事になります。
つまり、「紀州の青木氏」では無かった事を意味するのです。
「第三の青木」と云う事に成ります。

お家は宇都宮氏に「物的な根拠」のみならず「状況証拠」もない中で拘っています。
筆者は何度も「讃岐青木氏」だと云っています。
実はこれには、助けた明確な理由があったのです。
「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」は、平安期から「武蔵の宗家」に匹敵する以上に歴史的に長く経済的に恵まれていたのです。
その為に、宗家に対して独自の行動を採って来たのは有名なのです。
その有名な事件が瀬戸内で起こった「藤原純友の乱」です。
この前から、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「瀬戸内の経済力」を独占していたのです。
昔から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われていました。
絶大な勢力を瀬戸内で持った「讃岐藤氏の純友」はこの事に巻き込まれたのです。
秀郷宗家の云う事を聞かなかったし、摂関家の云う事も聞かなかったのです。

その勢力を以てしたことから、「甲斐の武田氏系青木氏」が逃亡した時も、「讃岐青木氏」は高知で勝手に保護したのです。
ですから、前の回答に記しました様に、「青木氏の歴史」の中で、「紀州の藤原脩行系の青木氏」が「讃岐青木氏」を頼った事が判っているのです。
ここがお家の言い分とは違う所です。
「伊予宇都宮氏」と結び付けての根拠が成り立つのかをお考えください。
陸奥から出て来て豪族に成った「宇都宮氏」は、秀郷一門の「関東屋形」との繋がりの持つ豪族で、「第二の宗家の青木氏」の支配下にありました。
だから、お家は、可能性が有るかのように見えるところを系譜に「繋がり」を持たしたのです。

しかし、もっと直接的に繋がりがある「讃岐藤氏の讃岐青木氏」では無くて、何で間接的な「宇都宮氏」が出て来るのでしょうか。
紀州から逃亡時はこの「讃岐青木氏」を頼ったのですよ。
お家は「伊予の宇都宮氏」と繋げていますが、氏家制度では、「お家の青木氏と伊予宇都宮氏」ではどの様な関係なのでしょうか。
もし、その論調で行くのであれば、下記にも論じていますが、青木氏である事の疑問の方が大きいのです。

他の二つの本流の逃亡グループも「伊勢青木氏」と「愛知静岡の青木氏」を頼っているのですよ。
「伊予宇都宮氏」であって、何故に「讃岐青木氏」では無いのでしょうか。
この南北朝から江戸初期まで、「落人のお家」が生き残るには「相当な武力」と「経済力」の背景と、「近親関係」が無ければ無理な事です。
何より、落人ですから大義はありません。
何時の時代も、況して、「氏家制度」で成り立っている社会のなかで、「大義の無い者」を助けるには相当なそれを跳ね除ける力を有して居なければなりません。

どの様に信じるかは自由ですが、どの様な「物的根拠」があるのかは判りませんが。

「讃岐青木氏」の勢力圏は愛媛と香川の南部と高知まででした。
”南朝方に従って・・”のところは賛成できません。逃亡者に対しては描きすぎています。
ここにしか「讃岐青木氏」は移せなかったのです。
「高知青木氏」の定住地は、武田氏が滅んだ際に「讃岐青木氏の背景」を借りて奪い取った地域です。
南北朝期には未だ香川と愛媛の国境にしか移動定住する地域は出来なかったのです。
自由に住み着ける時代ではありません。
戦いに負けて逃亡する者は殆どは山奥の山賊に成るしかなかった時代ですよ。
平家の落人も、龍神村の山奥に逃げ延びたのですし。四国の山奥に山賊として逃げ延びたのですよ。
お家の論調には、この普通あり得る状況や環境の配慮が欠落しています。
直ぐに普通に生活して血縁しての論調の中にあります。
「家柄身分」の「つり合い」を重視する社会の中で、直ぐに「宇都宮氏」との血縁であるとする、論調には着いて行けません。

前回にも書きましたが、お家には「国抜けの罪」(打ち首)が働くのですよ。つまり、罪人なのです。
「よそ者」が生きるには、それなりの「保護者」が無ければ生きて行けないのですよ。
そう云う物的証拠が見っかっていますか。


況して、「よそ者」が定住するには、この地域では「伊予の宇都宮氏の背景」では無い筈です。
「讃岐青木氏の背景」があってこそ「定住地」を奪い取れるものでした。
其処からの先ずスタートです。其れが無くしてはそれこそ「山賊」となるしかなかった筈です。
果たして、この背景に「伊予の宇都宮氏」が出来た事でしょうか。その様な史実はありませんよ。
筆者は、「伊予の宇都宮氏」の説には信用出来ません。「江戸期の搾取偏纂」の典型的な結果と観られます。

「讃岐青木氏」は氏名を村名と出来る許された氏で、讃岐には「青木村」を形成してました。
「讃岐藤氏」と呼ばれて、昭和20年まで廻船問屋を手広く営んだ氏です。
東には徳島青木氏の青木村を形成していた定住地です。
四国では讃岐青木氏の援護が無ければ身動き取れなかった筈です。
それには讃岐青木氏にも何らかの特典が無ければ無暗に保護してもらえる事はありません。
そういう証拠や史実を見つけて検証する事が大事なのです。
ネットの情報や郷土史は筆者の経験から青木氏には無理ですよ。
筆者は全く信用していません。
「讃岐藤氏」は「純友のルーツ」です。「藤原純友の乱」の論文を投稿していますので参照してください。

前回のお応えの「関東屋形」の結城氏を除いた4氏の一つが、お家の「現在の姓」に成っている事に付いてもう一度お考えください。
匿名とされているので論じる事が出来ませんが。

第四のご質問
>実は郷土史を調べると、当地には懐良親王がこられた、との伝説が複数残っており(宇都宮氏が居城とした大洲喜多よりはだいぶ南になりますが)、かつては後醍醐天皇の勅願寺もあった、という話もあります。
>当地宇和島市は、かの海賊・藤原純友が根城とした日振島を擁する土地ですが、後には『倭寇』の一派が基地とした地域でもあったそうで(懐良親王も倭寇海賊とはご縁の深い方のようです)、今でも『我が家は白ふんどし(倭寇のことだそうです)の子孫』と名乗る家があったり、古い寺からは東南アジア由来の文物が発見されることがあるそうです。

「藤原純友」は「海賊」では無く、「海部族や塩飽族」等を擁する「海族」です。
「讃岐藤氏」と呼ばれる瀬戸内の利権を制していた大豪族です。
朝廷にその勢力を睨まれて「経基王」に讒言されて、九州に勢力圏を持っていた「大蔵春実」に攻められて潰された讃岐藤氏を率いていた人物です。
大蔵氏は平家とは同族で、平家はこの「瀬戸内の利権」を狙っていたのです。
それを先に同族の大蔵氏が獲得しますが、この利権を最終は平家に渡します。
この為に、貞盛より5代目が清盛が勢力をもったのです。
「経基王」も「瀬戸内の利権」を獲得しようとして讒言してまで働きましたが大蔵氏に奪われてしまいます。

丁度、この時、関東では「平の将門の乱」が起こり、「藤原秀郷」と「平貞盛」が沈めます。

南北朝の「逃亡する親王」と「お家のルーツ」を結び付けようとする考えには無理があると思います。
それに「伊予宇都宮氏」を介在させる論調には上記した様に無理が在ります。
もし、お家がこの論調とすると、そもそも「青木氏」であるとする論処は無く成ります。
室町期の「第三の青木氏」の可能性の方が強く成ります。
江戸の中期に出た「姓の歴史書」に記載されている「第三の青木氏」とすれば矛盾は無い事に成ります。
「落人の青木氏」が辿る経緯ではありません。


>また、海側には宇都宮氏の伝承も残り、西予市明浜町には「城主・宇都宮修理大夫正綱のカッパ退治」という伝承があります。「宇都宮正綱」は、下野の宇都宮本家の当主であった、とネットにありますので不思議ですが、伊予宇都宮氏と宇都宮本家との関係の近さを示すのかもしれません。

「第一の根拠」
お家は、紀州に藤原修行一族の護衛に同行した「秀郷流青木氏」で、「明恵村」の付近の青木村に住んでいた青木氏であると観られます。
しかし、この根拠は、「広域の龍神村」に青木氏が住んでいたとする極めて局所の「青木氏の情報」を持っていた事です。
これは、”口伝でしか伝わらないものである”と観られることからの根拠です。
当地でも知られていない位の消えた「青木氏の情報」です。これが「第一の根拠」と成っているのです。
この根拠が消えれば全ては消えます。
つまり、嵯峨期の詔勅と禁令を破った「第三の青木氏」と成ります。

「第二の根拠」
そもそも家紋も青木氏には無い家紋です。
「左三つ巴紋」では ただ、「関東屋形」と呼ばれる秀郷一門の4氏の内の2氏がこの家紋を持っています。
この4氏とは「秀郷流青木氏」は「第二の宗家」として関わっていた事が繋がりです。
これが「第二の根拠」です。

「第三の根拠」
この家紋が、丁度、紀州の「脩行系の青木氏」が、南北朝で「讃岐青木氏」を頼って讃岐伊予方向に落ち延びたとする情報があった。
そこに、「左三つ巴」紋の伊予宇都宮氏が居た。
「関東屋形」の「宇都宮の宇都宮氏」と「匿名」とする氏の家紋と繋がった。
しかし、この根拠は「左三つ巴紋」が前提と成っています。
だから、これが「後付の家紋」であるとすると「消える家紋」です。

では、「後付の家紋」でないとするためには、次ぎの前提が成り立たねばなりません。
「第一の根拠の明恵村」の付近に「三つ巴紋の青木氏」があるかと云うことが大前提と成ります。
これが崩れれば、「三つの根拠」は全て崩れます。
つまり、別にお家の「青木氏の家紋」があった筈である事に成ります。
この事を前回にご忠告したのです。
この「左三つ巴紋」は「青木氏」には無い事は判っています。
「明恵村の青木氏」のルーツとみられる和歌山の末裔の「6家の青木氏」の「家紋」にはこの家紋はありません。

ですから、上記の経緯から「本来の家紋」も「氏名」も継承出来なくなった事を物語っているのです。
つまり、お家の「左三つ巴」の家紋は明らかに「後付」です。
「宇都宮氏」に繋げるための「後付の家紋」と成ります。
そうすると、「後付の家紋」をベースにすると成れば、「青木氏」では無く、匿名「・・」の姓名にする必要があります。
では、匿名の姓名「・・・」を名乗らずに、その時に、何故、「宇都宮氏」を名乗らなかったのですかね。
何故もう一つの左三つ巴紋の「・・」の方の姓名を態々名乗ったのでしょうか。
もっと云えば、青木氏と元の家紋を名乗らなかったのでしょうか。

宇都宮氏や親王の様に間接的な方向での証明できない疑問の前に、青木氏の疑問の方の解決の方が信頼性は高まると思いますが。

家紋掟によって変紋した可能性は、宗家がお家のご先祖の行動を許したとする前提で成り立つ話です。
然し、許してはいませんね。「青木氏116氏」の中に「三つ巴紋」がないのですから。
上記した様に、伊勢方向に移動した別の本流が居る限り許されたとする前提は成り立ちません。
その証拠に伊勢方向に移動した青木氏には「左三つ巴紋の青木氏」が無いのです。
青木氏全体にも無いのです。
「後付」の家紋で氏名も何代かで継承する事も出来なかった筈です。
「匿名の姓名」に現在も成っている事もその状況証拠です。



お家のご先祖のお一人が伊予に居て「紀州の龍神村」の「青木氏」を何故知り得たのでしょうか。
これが「最大の謎」です。

A お家の先祖の聞き絶えた口伝
B 周囲の讃岐青木氏から聞き伝えの情報

紀州では、讃岐青木氏に庇護を求めて逃亡した情報がある事。
本流と分流の2流で逃亡した事。
青木村は誰もいなくなった事。

Aであれば、本論
Bであれば、江戸期の歴史書の「第三の青木氏」

兼隆説に結び付けた事では「第三の青木氏」に成ります。
有名な佐野氏系の藤原脩行系であった事が知らない事、
有名な摂関家の藤原氏の兼隆に結び付けた事
以上ではBに成ります。

何か、Aに関してのお家の””「お墓の状況」””が何かを物語っている気がします。

兎も角もこれ以外に証拠に成る情報がないかをお調べに成る事をおすすします。

(不確定な「ネット情報」に頼るのではなく、「身の回りの情報」を推理して検証して行く「ルーツ探し」をお勧めします。
それには持っている情報をフルに提供いたします。
何度も云いますが、「ネット情報」は「氏族のトップの青木氏」には無理なのです。
ですから、「青木氏サイト情報」を提供しているのです。)


匿名「・・・」の根拠からも検討して観てください。。
匿名「・・・」関連はBになる要件ですね。
AかBになる重要な要素です。

筆者はAと観ていますが、出て来る情報はBに成っています。

上記の ””「3つのハンディの立場」”” から、更には、””「伊予の地」での行動”” 即ち、”「讃岐シンジケート」をも受け入れられなくなった事情”
この「Aの情報」をもっと探される事を期待します。

”宇都宮情報”は、青木氏に取っては間接の更に間接情報ですし、更には、上記の「江戸期の混濁問題」があり、Aは無理だと思います。
故に、完全にBに陥ってしまったと観ています。

では、ご質問が在れば、お尋ねください。 


  [No.980] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/07/07(Mon) 17:08:32

 詳細なアドバイスをありがとうございます。
 とりあえずネットでの検索はやめ、当家や我が家の情報収集に努めたいと思いますが、なかなか時間も取れず、長期戦になりそうです。
 ただ、地元の身内がいくつかの情報を集めてくれましたので、断片的ではありますがご報告します。

 1.当家の近所に聞き込んだところ、当家には『紋付と武具(鎧と薙刀らしい)があった。明治期まではあったはず。それは青木姓と共に、吉田伊達藩から認められたものであったと聞いた』そうです。
 もちろん、現物は存在しません。残っておれば物証になったのですが。

 2.伝承では当家の本家があったとされるのは三間町ですが、その隣町(伝承の場所と地理的には遠くない)である広見町に、かつて通称『青木庄屋』とよばれる庄屋があり、その末裔を名乗る『青木さん』が昭和30年代、近くで学校の先生をされていたそうです。
 これはその青木さん本人から聞いた方の情報ですので、伝承の場所の近くに青木さんという庄屋があったことは確実と思われます。
 おそらくはまだ血縁の方がいらっしゃると思われますので、お会いできればもう少し詳しいお話が聞ける可能性が出てきました。
 ですので、家紋のことなどはあえて今はうかがわず、いつか『答え合わせ』をしていただければ、と思います。

 3.これは新しい情報ではないのですが、三間町には『結城家』があり(具体的な年数は確認しておりませんが、かなり古くからのお墓を守っていらっしゃいます)、かつては当地の村長を複数回務めたほど勢いのある家でした。そして明治期から当家と縁組が、これも複数回行われています。
 明治に入ってからの話ですので、当家の左三つ巴紋と直接の関係はないと思われますが、副管理人様の文章を読み直していて、あらためて気づきましたのでご報告しておきます。
 


  [No.981] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/09(Wed) 11:24:33

今日は。 元愛媛の青木さん
お便りありがとうございます。
筆者のお答えご理解いただきましてありがとうございます。
ルーツ探究は、現在は伝統が消えて仕舞って、青木氏に関わる資料が無く成って居ますので、なかなか進みません。
これは昭和の時代の欠陥であったと観ています。
社会が、可成り社会主義化して、「伝統」に関わるような事等を云うと周囲から排斥されるなどがあって、伝統品なども持っていることなども大変な時代でした。
その為に伝統と伝統品が消えて仕舞いました。
現在で、「歴史観」が見直されて来て、若者の中でも「伝統」に懐かしさを感じる人が増えました。
しかし、反面、「個人情報保護」が見直され、情報を獲得する事や、情報を公開する事も、最早、不可能に近い状況に成って居ます。
情報が在っても、その裏にはある種の思惑が込められ、搾取情報が横行していて、歴史専門家の様に検証して真偽を確認して、公に情報を提供しているネットサイトは全く少なく成りました。
全国に歴史マニアの色々なグループが互いに連携して情報獲得交換をして何とか、正しい情報を提供できるように協力し合っています。
青木氏は、その中でも、ヤフーサイトでは段突の公認サイトです。
伝統を何とか遺した氏だと思います。

さて、今回のお便りは、3つありましたね。
この何気ない一寸した生活に根付いた情報が役に立つのです。世間の思惑に左右されていないからです。
それは、青木氏が持つ「過去の慣習」に照らしてみると「ダイヤモンド」の原石の様に大きな情報になる事があるのです。

1 「紋付」と「伝統品」(鎧やなぎなた)
2 「青木の庄屋さん」
3 「村長」と『結城家』


この「3つの情報」と、前回のお答えの「お家の情報」の未だ論じていなかった重要な「次の検証課題の2点」を組み合わせると、前回のA又はBの答えが導き出されます。

前回でも、お答えいたしましたが、筆者はAであると観ています。
つまり、「龍神説」から「讃岐藤氏の讃岐青木氏」に、南北朝事件で、本流に合流せずに、一切を捨てて頼った秀郷流佐野氏族の「脩行系の青木氏」であると観ています。
それには、前回のお答えに加えて未だ論じていないある根拠があるのです。

それは、次ぎの二つです。
1 「軍則規定」
これは平安期から決められていたもので、「時の政権」が適時に修正しながら、「武家」と「武士」に課せられた義務があったのです。今で云う社員などの服務規程の様なものです。
これは、互いに「石高」に合してそれに匹敵する「義務と責任」を与える制度で、これを護らせる事で、互いの力関係を維持し、偏りの無い様に厳しく取り締まった制度です。
多くも無く、少なくも無く、丁度良いレベルに保たなければならない制度です。
色々な面に対して詳細に決められていました。(江戸幕府も修正が加えられ維持された。)
さて、そうすると、お家の件でこの事に付いて検証しますと、次ぎの様に成ります。

お家は、「龍神説」から「讃岐青木氏」を頼ったことは判っていて間違いありません。
この時、「讃岐青木氏」と「お家の青木氏」は、果たしてどの様な立場に置かれたかの問題が残されていますね。其れに依って、「宇都宮説」が変わります。
前回でも落人やよそ者の末路を論じましたが、実はこの検証課題が最大の決め手に成るのです。

では、先ず、「讃岐青木氏」から論じます。
(南北朝 1331年から1392年)
南北朝の終わった直後の1397年頃には、ここは「西園寺氏の荘園」で、藤原氏北家筋の「西園寺氏」(藤原氏)が慌てて強引に荘園を自分の領地の様にしてしまった有名な事件が起こりました。
この時、この地域は「讃岐藤氏(秀郷一門)」の支配地域でありました。
「西園寺氏」は、この平安期から居た地元の勢力の秀郷一門の「讃岐青木氏」を「家臣」にしました。この「家臣」に問題があるのです。
しかし、この時、この「軍則規定」で「地元の武士」を家臣にする場合は、「家臣の家臣」、つまり「陪臣」か、更に家臣の家臣の家臣の「倍陪臣」にする事が義務付けられています。
これを身分的には、この昔から定住していた「地元の豪族」は「郷氏」と呼ばれていました。
それと、豪族では無く、「地侍」と呼ばれる武士等は「郷士」と呼ばれていました。
これらは、封入して来た新しい領主の「陪臣」か、殆どは「郷氏」か「郷士」は「倍陪臣」にする様に決められていました。
軍則に従えば、藩主からすると「陪臣」までを家臣として扱われます。

中には、地元のこれらの勢力との折り合いが悪く、この「家臣」にしない事も多く起こりました。
有名な事件があります。
例えば、「山内氏」は「土佐の藩主」として封入しますが、地元のこの郷士や郷氏勢力との折り合いが悪く、結局、戦いの末に、これらの全ての勢力と和睦するとの事で、”藩主と話し合う”を理由に全員もれなく城に入れます。
ところが、突然に城門を占めて、騙し討ちをし、壮絶な戦いをして全員これらの勢力を皆殺しにした事件がありました。
この様に、この勢力をどの様に取り込むかは重要な判断が必要であったのです。
取り込むと、逆にこれらの勢力の発言力が大きく成り、転入藩主側の勢力が小さく成ってしまいます。
この「郷氏」はある程度の私有地を認められた勢力です。
新しい藩主は、この勢力を無視する事が出来ませんでした。
特に、「郷氏」の中でも、最大とされ、且つ、実際に無視できない勢力を持っていて、全国的な秀郷一門の動きに依っては、封入して来た藩主よりも数倍もする勢力も現実に持っていたのです。
その秀郷一門に依って潰された藩主もいるのです。

有名な事では徳川家康が秀吉に依って関東に転封されます。
家康は、関東全体を仕切っていた秀郷一門の勢力を取り込む事に成功して、むしろ三河よりも数倍に成る勢力を取り込んだのです。
家臣と旗本と御家人として全ての秀郷一門の勢力を直参として取り込んだのです。
「軍則規定」を無視して、敢えて逆手に取ったのです。
秀吉は殆どは全国の秀郷一門には反発を受けていたので、この勢力に家康は反発を受けると観ていたのです。ところが、旗本にと御家人にしてしまった事のみならず、秀郷一門を家臣として「直接の政治の場」に用いたのです。
更に、家康は「松平氏」から「権威付け」の為に自らも「藤原氏の系譜」と繋いで「藤原朝臣の氏」を名乗ったのです。

そもそも、伊予と讃岐に入った西園寺氏も宇都宮氏も同じ藤原一門です。
そこで、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は、最大勢力の郷氏勢力を使って、両氏の「陪臣」、或は、「倍陪臣の立場」を確保していたのです。

其処に、お家の佐野氏族の脩行系青木氏の一切を捨てた者等が逃げ込んで来た事に成ります。
公然とは扱えないにしても、お家を「讃岐青木氏」は「身内の者並扱い」にしてたのです。
つまりは、お家は「軍則規定」からは「倍陪臣の形」と成ります。

お家は”「家臣」”と伝えられていますが、「軍則規定」から、まして「逃亡者」ですから、「家臣」の既定の領域には入らないのです。入る事が無いのです。
ここでも正しく伝えられずに「搾取の口伝」が起こっていますね。

何故、「家臣」にしない様に軍則は決めているかと云うと、石高に合わず陪臣以上を雇うと、「謀反」と観られるし、財政が「人件費」で圧迫して藩財政が逼迫しますし、それだけの雇う余裕があるのであれば、石高を下げられる等の理由にもなります。また犯罪者を無暗に匿う事にも成ってしまう事も起こり、「軍則規定」は、厳しくこの点を定めていたのです。
何よりも、藩主は陪臣を雇いすぎると自分の「謀反の嫌疑」を恐れたのです。
藩主は、勝手に家臣の陪臣や倍陪臣などが増える事を嫌い、むしろ減らさせようとして難癖を着けて減らす方向にあったのです。

従って、お家が、西園寺氏や宇都宮氏と直接に付き合える環境には、先ず100%無かったのです。
「よそ者」のお家の前には「讃岐青木氏」が在って、それを飛び越えて直接家臣に成る事は「軍則規定」では起こる事は無いのです。
「上下関係」をはっきりとさせる目的もあったこの「軍則規定」はお家が主張する様な事は、最大の禁じ手でした。
まして、「よそ者」だけでは無く「敗残兵」で「お尋ね者」です。
よそ者が、テレビドラマの様に仕官すると云う事は、先ずこの「軍則規定」があって、あり得ない事なのです。相当に何かの強力な「伝手・縁故」が無い限りは無理でした。
お家の場合は、”讃岐青木氏の影に隠れて生きる事”以外に無理であったのです。
同じ「青木氏」を利用して、身内の様に見せかけて、生きる以外にはなかったのです。
より安全を守る社会の慣習を作らせて護らせる「軍則規定」の縛られていたのです。
現代の様に自由社会の慣習では無かったのです。
武士道はこの「軍則規定の慣習」から生まれたとも言われています。

それには、「石高」に応じて家臣数は決められていたのですから、欠員でも出ない限りは先ず無理な事なのです。

お家の場合は前回で述べました様に、その様な都合の良い条件はありませんでしたから、「軍則規定」から矛盾しているのです。
養子や縁組なども良く調べられる必要があります。
軍則規定のみならず、当時の社会慣習から先ずお家が云う様な血縁は起こりにくいと観られます。
尚且つ、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」を飛び越える事は先ずありません。
家臣説も血縁説も何もかも軍則規定で護られた社会の慣習を遥かに超えています。
お家の立場から、”つくり上げたもの”である事は100%判ります。
家柄をよく見せようとした「搾取偏纂の結果」だと思います。

次ぎに、更にこの搾取偏纂を超えていると観られる事が他にも在ります。
それはお家のお墓の年代が1667年と成って居る事です。
西園寺氏は、長曾我部氏に1584に完全に滅ぼされています。有名な戦いです。
宇都宮氏は毛利氏に伊予攻めで1585年に完全に滅ぼされて完全滅亡しています。
長曾我部氏は秀吉に負けています。
1590年頃には四国は安定し、江戸期には大洲は加藤氏が入っています。
もし、仮に、西園寺氏や宇都宮氏と血縁をしていたとする説にすると、お家は1585年には滅亡しています。
1667年のお墓は無い筈です。お家のお墓は1585年で終わって居る筈です。
そうすると、お家が滅亡して讃岐青木氏は滅亡しないのも理屈に合いません。
「讃岐青木氏」の宗家筋の方からは、本サイトのルーツ掲示板にもお便りをいただいていますが、滅亡せずにむしろ勢力を拡大させています。
次に、兎も角も「軍則規定と社会慣習」から先ずあり得ませんが、仮に血縁した説として、185年間の間に成りますが、四国の戦国時代は1500年の頃からです。
四国は主に宇都宮市の場合は、1519年から1585年ですから、65年の間の婚姻できるとしてもせいぜい30年間程度と成ります。

この間に、「倍陪臣のお家」が「大名の家」とどの様に血縁で出来るかの問題もあります。
「青木氏一門」から青木氏を消されたお家が、何故、「倍陪臣の家」との血縁が成り立つのでしょうか。
それも養子と成りますとあり得ないと云えます。
まして、「宗家の意」に反発をした家が一門の宇都宮氏との血縁は極めて考え難いものです。
お家の宇都宮氏の説は根本からあり得ないのです。
つまり、家柄をよく見せる為に「家紋も家柄も宗派」も何もかも宇都宮氏に「作り上げた説」と成ります。
ところが、「軍則規定」では、この説も成り立たないのです。

次に、今回のお便りのこの「庄屋の件」は、恐らくは伊予の東と讃岐と土佐の東側に勢力を持っていた「讃岐青木氏」だと思います。お家の青木氏では無いと思います。
庄屋は土地の郷氏が成るものです。家紋と宗派を確認ください。
お家が100年程度で「郷氏」に成れる事は100%あり得ません。
お家は「郷氏」では無かったのです。依って「庄屋」に成る事は出来ません。
67年の間には無理です。もちろん「軍則規定」とその「社会慣習」からもあり得ません。

同じく、「村長の結城氏」は「関東屋形の結城氏」ですが、この「結城氏」は秀郷一門の先祖・元祖の氏名に当たり、奈良期から「名家の結城氏」で在った”「古氏」の氏族”です。
京平家にこの「結城」を奪われて追われて武蔵に逃れたのです。
鎌倉初期に、この結城に付いては、頼朝はこの事を知っていて、開幕後、すぐに特別に「本領安堵」と奈良期の名家の「氏名」が復活させた位なのです。
そして、藤原の宗家の「朝光」がこの「結城氏」を引き継ぎます。

結城氏は、「土木工事の官僚の専門家」の氏族で、現在の山口から飛鳥までの「山陽道」はこの氏が設計し建設したのです。
現在でも、その「土木工事の技術」は、何ら劣っている事が無いくらいの極めて進んだ理論的に一致する道路を建設したのです。現在もその道路を使っています。
「土盛り工法の見本」でもあります。

この氏が「関東屋形の首魁」として勢力を持ち関東以北を抑えていました。
その配下には、宇都宮氏や”「赤羽氏」”や九州から来て勢力を持った佐竹氏等があるのです。

ところが、遂にはこの「結城氏」は秀吉と対立します。秀吉にとっては最早無視できない勢力と成ったのです。
秀吉は関東の本拠地は攻める事は出来ないとして、陸奥の結城氏を先ず攻め落とします。
秀吉一番の犠牲を負って超激戦の末に落とします。有名な戦いです。
この時全国から助けに一門が駆けつけます。
背後を攻められる様に成った秀吉は危ないとして無理にせめて一応戦いに勝って一目散に大阪に逃げ帰ります。
本拠地の結城秀郷一門が動いたからです。
勝つ見込みは全く無かったのです。
そこで秀吉はここを家康に押し付けたのですが、上記で書いたとおりの結果と成ってしまったのです。
名門中の名門の結城氏で、秀郷一門の24地域にはこの名門が「名門の家柄」として必ず存在させているのです。秀郷一門のステイタスとして意識させる為にも各地に置いていたのです

さて、この”結城氏は何を意味するか”と云う事なのですが、この地域一帯が「讃岐藤氏 讃岐青木氏」の「勢力領域」であった事を物語っている事です。
云い換えれば、お家は「讃岐藤氏の讃岐青木氏の支配下」にあった事を意味します。
秀郷一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の「庄屋」があった事は、お家が更にこの「庄屋の支配下」にあった事に成ります。
(前回に説明しました様に「龍神説」を採るとお家は100%と「庄屋」に成れる事は無い。)

云い換えれば、決して、西園寺氏や宇都宮氏との血縁族で無い事に成ります。
その様な行為は無かった事を意味します。つまり、家柄をよく見せる為の搾取偏纂であった事を意味します。
「庄屋」や「結城氏」が在る中での生活で、「宇都宮氏」と血縁する事は、「結城氏」や「庄屋」を超える立場である事に成り、「結城氏」や「庄屋」や、はたまた「讃岐青木氏」の中にいる事との矛盾を生み出しています。
筆者は、これは、「江戸初期の権威付の行為」の所謂「後付行為」であった事の説を採っている。

(この時に家紋まで変えたのです。 前の本来の家紋は和歌山の6家の家紋に成る筈です。
明恵地域で、藤原氏の影響を受けていた土地を代表する土豪の家紋の可能性があります。
且つ、それが秀郷流青木氏の家紋の中にあって、秀郷一門の佐野氏族の家紋の中にある事に成ります。「三つ巴紋」では和歌山に繋がらない。故に「元の家紋」は把握できている。)

(「三つ巴紋」にした理由には、この「元家紋」が大きく影響したと観られます。
むしろ、”間違えた”と観ています。そして、極めて良く似た家紋が傍にあった。その為に、その家紋の繋ぎて搾取偏纂し戯曲して合わせたとすれば、上記の矛盾は解けます。”思い込んだ”と云ってよいのではと思います。先ずは「元の家紋」は1400年頃の何かの資料にあると思います。
それ以後はこの三つ巴に全て合していると思います。
先ず、家紋に繋がる情報をお調べください。その後にお教えします。

もし、このBの「宇都宮氏説」を採った場合は、Bの「第三の青木氏」と云う事に成ります。
前回に論じましたこれでは矛盾が解決できません。

村長の時代が何時であったのか、
お家の宗派は浄土真宗の何派であったのか、
庄屋の家紋と宗派は何であったのか、
家紋、苗字帯刀 家紋使用 登城権 墓所 墓形式 仏壇形式、永代供養のお寺 菩提寺の有無
結城氏の家紋と宗派は何であったのか
以上のどれかかが判れば、「結城氏」や「庄屋」との繋がりが判りますよ。

お家のご先祖の青木氏のお墓の刻みが1667年です。
お家は1585年に、既に「倍陪臣の立場」が無く成って居る。
その前に、家臣の範囲であった場合は、お家は滅亡している筈で、生き残ったとすれば、「倍倍陪臣」、つまり、「秀郷一門の郷氏の支配下」に入っていて戦責を逃れられた事に成ります。
普通は「倍陪臣」から武器放棄すれば「掃討難」を逃れられます。
戦いには必ず「敗残兵」の「掃討作戦」が行われます。
織田氏や武田氏等は厳しさで有名で、歴史上に遺っていて、織田氏は「皆殺し」、武田氏は「奴婢売却」であった。戦国時代は奴婢売却が多かった。
この地にそのままに住んで1585年までに生き残った事を意味しますから、生き残ったとして「家臣と陪臣」ではこの地から逃亡しなければならないし、激戦であったし、逃亡は四国と云う島の土地柄から困難で、掃討作戦では逃げ切るのは難しいし、当地に定住する事は到底困難です。
そのこの時の証拠があって、宇都宮氏と西園寺は南に逃亡したが掃討されて完全に根絶やしの滅亡した記録があります。
長曾我部氏は北側は秀吉に依って一切掃討されたが、南の土佐は許されたのです。

何か変だと思いませんか。
そもそもこの両者は藤原一門のど真ん中での伊予讃岐と云う真ん中で負けて滅んだのです
この意味は大きいです。
普通は秀郷一門の勢力圏の中で起こった一門の戦いでは、「一門の抑止力」が働いて勝負には成らないし、滅亡となる様なところまで行きません。
しかし、瀬戸内を背景に「秀郷一門の第二の勢力」を誇り、東域全域には「阿波の青木氏」が勢力を誇っていた中で、「二つの藤原氏」が一度に何の助けも無く完全に滅んだのです。
滅ぶことは先ず無い筈なのですが滅んだのです。
匿う事、助ける事は絶対に出来た筈です。
また、そうしないと身内を見殺しにしたとして「讃岐青木氏の立場」はない事に成ります。

それでも、二つの氏は完全に亡びたのです。
何故なのかです。何か一門の協力を得られなかったと云う事です。
それも、讃岐藤氏や讃岐青木氏が助けないと知っていたから、長曾我部氏も、毛利氏も知っていた有名な事であったから安心して攻めたのです。
この事は前回にもこの二つの氏が宗家側と上手く行ってていなかった事だからです。
今回も、郷氏の讃岐藤氏の讃岐青木氏との関係が悪かった事から来る事だったのです。
これは有名な事だったのです。
仲が良かったとお家が述べていますが、仲が良ければこの様な事は起こりません。

つまり、もうお判りと思いますが、お家は生き残った事は、この「讃岐青木氏の配下」にあったからなのです。つまり、「倍倍陪臣の位置」に居たからそのままに定住地にいて生き残っているのです。
西園寺氏や宇都宮氏の中に無かった証拠です。

そもそも、「倍倍陪臣の位置」とは「半農民」の者が多く、家臣で生活できる石高は250石程度で、「倍陪臣位」からは石高100石以下程度ですから生活できないで、農業もして生き延びたのです。
「農兵」とも云う事もあるが、実態は苗字も家紋も鎧兜も持っていて、戦いが起こると、契約して戦いに出る形を採っていたのです。
この場合は登録して置いて「讃岐青木氏の組支配」が必要な人数を集める等支度を整えて、契約金を渡す仕組みで総支配の指揮の下で出陣するのです。
その土地の藩主から「割り当て」を軍則規定から強制的に与えられるのです。
藩主とこれらの集団と上手く行かなかった場合には、人も集まらないし、戦いも積極的でないし、
直ぐに逃げる等の事が起こったし、元は武士の人が集まらない場合は、農民も駆り出されたのです。

何で、「江戸初期の権威付の行為」の所謂「後付行為」をしたかは、生き残った一人が、鎧兜などから200年前はれっきとした”青木氏を名乗る武士”であった事が伝わっていた事から、江戸初期に武勇伝を作り、和歌山からの逃亡の汚名を消したかった事から起こった事です。
しかし、その後にその生き残りの人物の青木氏はその人物で絶えた事に成ります。

その後、讃岐青木氏の環境の中で、農民に成って200年間、明治期まで過ごして、「江戸初期の後付」の言い伝えもあり、そこで、苗字令によって所縁のある匿名の「関東屋形」の姓の匿名「・・・」を名乗った事に成ります。

農民に成って居た頃の青木氏から、別の関東屋形の武士の「・・・」氏名を名乗りたかったと観られます。

「讃岐青木氏」に関わった「瀬戸内の青木氏」には、農民では無く、船頭に成って居た者も多かったのです。
1582年に甲斐から逃亡して来た甲斐の武田氏系青木氏は、同じように土佐で讃岐青木氏の勢力を借りて土地を奪い、最終「土地の郷氏」に成った青木氏もあったのです。
丁度、四国も戦国の嵐が吹き、西園寺氏や宇都宮氏が危うく成った時期に「甲斐武田氏系青木氏」が、「讃岐青木氏」を頼って逃げて来て、長曾我部氏が勢力を張っていた地域の東域を讃岐青木氏と共に奪い取ったのです。お家と武田氏系青木氏の違いは、敗残兵であったが、武田氏系青木氏の場合は讃岐伊予の本領地に留まらずに土佐の生きるチャンスを求めたと云う事に成ります。
恐らくは、その規模が違ったのではないかと思われます。
讃岐伊予の讃岐藤氏の勢力圏では生きていける規模の軍団ではなかった事に成ります。
そこで、南下して土佐の国境を攻めて生きる場所を作った事に成ります。

(最後には転封して来た山内氏と争いを起こした勢力。甲斐でも山内氏と戦っている。)

この事でもお家は西園寺氏や宇都宮氏に、云々して・・・出来る勢力のレベルでは無かった事が判ります。
 

以上の事がお便りからは判りますが、歴史には、武士の行動規範の基にも成り、服務規程の様なこの様な「軍則規定」の様な事の知識での判断も大事です。
ネット情報はこの様な考証や検証をして投稿していないのです。

では、また、ご遠慮なくお尋ね頂き、またお便りをください。


  [No.991] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/08/26(Tue) 14:26:40

 ご無沙汰しております。
 その後、暇を見つけてはこちらのサイトを読ませて頂いたり、当地域の郷土資料などを閲覧したりしております。
 当家に直接つながる証拠は未だ発見できませんが、少しでも理解を深めたいと試行錯誤しております。

 ところで郷土資料などを閲覧するうちに、愛媛県における青木氏の足跡と思われる情報をいくつか入手しましたので、参考資料として記述させていただきます。

 1.愛媛県今治市に『青木神社』、またその神社があった場所がかつて『青木通り』と呼ばれていた。

   
  青木神社はこちら。現在は今治市の式内神社『姫坂神社』の境内に移設されております。
 hhttps://www.google.co.jp/maps/place/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E ..... ,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x35503a56f515a64b:0x10ce6978d3d2f12?hl=ja

  神社の由来書にはこのようにあるそうです。

 青木神社由緒
一、祭神 少彦名神
一、神徳と沿革祭神 医学の神様として広く信仰さ れている少彦名神様は、太古各地を巡って 医術と医薬の道を指導し大勢の病人を救 済なさった神徳の高い神様であります。
青き(青木)通り(現、北日吉町一丁目)は少彦名 神様のご駐蹕の古跡に小千国造が神籬を 立てて祭祀を行ない、のち社殿を造営され た大そう古い神社であります。江戸時代藩主の祈願所として庶民の信仰 あつく、病に悩む人々特に「咳」の守護神 として祈願と感謝に奉納する草履は相当 の数であったと伝えられています。明治四二年にここに遷座されましたが今 も霊験を頂く祈願者は市内一円から附近 の町村からそのあとを断ちません。」


 「青木通り」は現在の青木神社の位置から南東に少し下がった、現JR今治駅の裏手の辺りですが、現在は住宅地図などを見る限り『青木姓』は見当たらないようです。
 ただ愛媛県今治市はかつて伊予の国府が置かれていたとされる土地(考古学的発掘による証拠は未だ発見されていない)で、また青木氏とゆかりの深いとされ愛媛には2カ所しか確認されない新明神社(この情報も当サイトで勉強させていただきました)が存在する土地でもありますので、青木の足跡と考えて不自然ではないと思われます。

 また同市内には『青木地蔵』もあり、四国88カ所の『番外』と位置づけられ、お遍路用の無料宿泊所が設置されており、地域の人々によって今も世話がなされています。調べてみますと『青木地蔵』は全国にいくつか点在するようです。
 

 ところで、当家の先祖が住んでいたとされる『愛媛県三間町(現愛媛県宇和島市三間町)』は、地域的には『鬼北地区』と呼ばれる地域に属しており、現在そこにはいくつかの町が合併した『愛媛県鬼北町』があります。高知県西南部との境を形成する地域です。
 この鬼北町に、愛媛県におけるもう一つの『神明神社』があることを、他ならぬ当サイトの記事で知りました。


 行政区分では隣町になりますが、当家の先祖が庄屋をしていた、とされる地域から遠からぬ場所であり、注目しております。

 ところでここからは余談といいますか質問になるのですが、愛媛県西南部について調べるうちに、愛媛大学の川島勉教授が書かれた「永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察」なる論文を拝読しました。
 愛媛大学のサイトに全文が公開されております。

 http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/2.pdf

 これによりますと永禄八年以降、土佐一条氏が伊予侵攻を本格化させ、それに『三間の衆』が従っており、この地域が土佐一条氏の勢力下にあったことが分かります。
 歴史についてほとんど興味を持たなかった者ですが、調べますと土佐一条氏は土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向した、とあります。
 最終的には長宗我部氏の傀儡となって消滅するようですが、一時は土佐を二分するほどの勢力を持ち、西園寺氏や大内氏とも婚姻関係を結び、四国西南部に大きな力を振るったようです。

 押しも押されぬ藤原北家、初代は関白までなった人物が下向したとなれば、四国の青木氏も無関係であったとは思えません。また『小京都』とまで呼ばれた都市を建設する財力や、土地を治めるための戦力も、四国の青木シンジケートの協力なしには不可能と思えます。
 また下向に際しては、京都から多くの貴族や武士が随伴したという話もあるようです。
 この時、四国の青木氏はどのように動いたと考えるべきでしょうか。
 我が先祖がなぜこの伊予西南部に移動したのか、その事への手がかりになるのでは、と思い質問を差し上げました。

 例によって中途半端な知識でご不快な点も多々あろうかと存じますが、不出来な青木子孫が不出来ながら努力を続けているのに免じて、ご教示いただければ幸いです。


  [No.992] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/08/29(Fri) 14:47:43

今日は。
お久ぶりですね。
ご苦労されている様ですね。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の讃岐と伊予域では出て来ないと思います。
全て、「讃岐青木氏」の事に成るでしょう。
出て来るとしては、和歌山か伊勢か駿河に成るでしょう。
「脩行系青木氏」の本流が逃げ帰った地域の駿河にお家のルーツの事があると思います。
既に、伊勢と和歌山で筆者が調べたところでは、お家の伝来の家紋は下記にも述べますが、早くも判りました。この事からも、讃岐では無理ですね。

ただ歴史を勉強する意味では無駄ではありません。
その意味で、下記にお尋ねとして論じます。

「青木神社」の件
「少彦名神」は仰る通り医術の有名な神様ですね。
実は、「青木氏」に取っても少なからず関係がある神様なのです。
中国地方での青木氏の末裔が、この「少彦名神」の医術を「神明社」の宮司の子孫として志を通じて、医術をより勉強して得て、更に関西に出て来て有名な医者に成った青木氏が在ります。
そもそも、古来の神社は、”ただ単に神様を祀るだけ”のものでは無く、「神の成せる技」として、”家内安全や平穏無事や病気治癒等”を、実際に行動を興して庇護する役も担っていたのです。
その為には、「国の神」の「皇祖神の伊勢神宮」に代って、「子神の祖先神の神明社」に、この役目を与えました。
全国に神明社を建立させ、この「建立と運営」を「賜姓五役」として「青木氏」に任務を与えたのです。
その為に「青木氏」は「御師」の「総括の立場」にあり、「伊勢神宮の御師の立場」にありました。
この為に、「青木氏」は「御師様、氏上様」と呼ばれ、全国の庶民の為に、朝廷は伊勢神宮の一つの役目として(”神の成せる技”)として、その一つの役目を果たす様に「漢方薬」の「薬師の役目」を与えたのです。
そして、朝廷はこれを「賜姓族の青木氏」の役目として”調薬する役目”を与えたのです。
その「青木氏」は、これを「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」の役目の一つとして、全国に500にも成る神社を配置したのです。
この「神明社の神職」にこの役目を与えました。
そして、”神の成せる業”として、全国に広がる「神明社」を通じて、この「神明社の禰宜の宮司」に「漢方役の医術」と「薬の作り方」や「薬草の見分け方」や「探し方」等を記して、教えて、この大役を担わしたのです。
この「漢方医」としての「全ての技術技能」の「青木氏の御師頭」は、朝廷よりこの「少彦名神の役目」を「青木氏」が変わって背負ったのです。

「医療機関」が整っていなかった「古代の社会状況」の中で、「神を祭祀する神社」にその役目を与えて、全て”「神」の成せる技”として、”病気を治す事”も務めていたのです。
民は「少彦名の神」に祈願し、その結果、「御師の禰宜」から「神の御託宣」として、「漢方薬の調合」を受けて飲み「病気治癒」を果たして、「神の加護」を受けたとして喜ばれ崇拝し信心したのです。

これが、「神明社の神職」が務める大事な役目でも在ったのです。
つまり、”「漢方医」の「御師の薬師」”として、「民」に関わっていたのです。
その「神社」で、”家内安全を祈願する習慣”はこの事から来ているのです。
古来は、多くは「神明社」が担っていたのですが、その内に、平安時代の後半には積極的に「熊野神社」の様な民間の”大きな神社”もこの「薬師の役」を務める様になりました。
その後、平安末期頃には、”朝廷の庇護を受けていた大神社”等の中にも、「神仏習合」で、更には「薬師観音像」を安置して、”病気治癒を祈願する民”には、「神仏の両方からの加護と御託宣」として「漢方薬」を配合して、「医術の役目」を果たしていた「一般の神社」もありました。
この状況は、室町期末期頃まで続きました。
江戸期に成って、宗教改革で衰退しましたが、「八代将軍の吉宗」は幼少の頃に加納氏と共に伊勢青木氏等が親代わりに成って育てた事もあって、この上記の”「御師の事」”をよく承知していて、再びこの「御師のシステム」を復活させ、更には「幕府のシステム」にもこの「御師システム」を敷きました。

現在、「青木氏の伝統シリーズ」の中でもこの事に付いて論じています。
それを示す”「伝統品の薬籠」の論文”を掲載していますが、上記の役を示す「漢方薬を入れる籠」の「伝統品」が「賜姓五役」の「青木氏のステイタス」として代々「氏の伝統遺品」として奈良期から引き継いできています。
現在も遺されています。
これが、「青木神社の由緒」として、今治市にも遺されているものと思います。
この様な事は全国の青木氏に関わる神明社の有るところには、この様な逸話が数多く遺されています。

例えば、NHKの大河ドラマの中で、「近江青木氏の血筋」を引き継ぐ「黒田氏の初代」はこの「薬師の御師」であった事はドラマ化されましたね。
そして、最終は播磨に落ち着いた「神明社の神職」であった事が紹介されました。
ドラマでは、各地の薬草を探す傍ら、更には「神明社」を通じて、「各地の動静」を伝える諜報活動の役をも演じていました。
当にこの通りなのです。

「青木通り」の件
次に「青木通り」の呼称は、明治後に名づけられた呼称だと思います。
「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏」の呼称も含めて、青木氏以外は”青木”に関わる呼称の一切の使用を禁じていますし、その密教に関わる習慣の使用と模写を禁じています。
一つの例として、「以仁王の乱」で「源頼政」の孫は、九州日向国の廻村に配流されます。
本来なら、反乱者として打ち首ですが、親族の伊勢青木氏の嘆願で生き延びて配流と成ったのですが、再び反乱を九州で起こし敗れます。
この時、「廻氏の遺族」は「配流孫」と共に薩摩の大口村まで逃げ延びます。
しかし、追手が追いつき、逃亡先の寺まで来た時に、住職から”伊勢の青木氏の末孫だと名乗れ”と忠告を受けて生き延びる事に成功したのです。
平家軍は「不入不倫の大権」が天皇より「青木氏」に与えられていた為に手出しが出来なかったのです。これが現在の日向青木氏です。
この特例は、明治3年までほぼ護られました。

ですが、上記の事から「神明社」を通じての慣習は許されていましたので、「薬事」の事が遺されているし、「青木通り」の事も含めて、後に「青木神社」も「神明社」から変名したと観られます。
その時期は、江戸初期の宗教令に伴う処置か、”明治初期の廃仏毀釈の嵐”を逃れる為に、「青木氏の守護神」の「神明社」でも破壊は免れる事が何とか出来ます。
しかし、より確実に神社を護る為に、更に強調して印象を与える目的から、”青木”の言葉を使い「青木神社」の呼称に替えたものと思います。
全国の各地の神明社にはこの様にした神社もありました。
つまり、「青木」に関しては、「天智天皇」から与えられた永代の”「不入不倫の大権」”を奈良期からありましたので、人々はこれを護っていました。
今治でもこの「神明社」が遺された事が考えられます。
各地の神明社は、歴史上、”三度の宗教改革の災禍”がありましたが、多くは「廃仏毀釈」等の激しい災禍から逃れられましたが、中には室町期中期以降には、平安期の最盛期との状況と違い、庶民の中では地域によっては、その影響は薄れて破壊されたものもありました。

さて、次ぎはお便りです。
「青木地蔵」の件
>また同市内には『青木地蔵』もあり、四国88カ所の『番外』と位置づけられ、お遍路用の無料宿泊所が設置されており、地域の人々によって今も世話がなされています。調べてみますと『青木地蔵』は全国にいくつか点在するようです。

このお便りは「青木氏の足跡」として考察されていますが、納得できます。
実は、全国に広がる「青木地蔵」なるものには、”謂れ”が在りまして、それを若干披露したいと思います。
この事は、「伝統シリーズ」の論文の中ても詳細に記載していますし、多くの論文にも書いています。
そもそも「青木氏」は、元来、「古代の浄土密教の氏」です。
その「青木氏」は、「皇族賜姓族」として、「賜姓五役」の一つとして、仏教が伝来しない前からの「古代の和魂荒魂」の「宗教概念」を引き継ぎ、仏教伝来後も「古代仏教」を「青木氏の密教」として伝承してきています。
つまり、「二つの宗教概念」を継承しているのです
古代宗教の「和魂荒魂の宗教概念」と「古代仏教の宗教概念」を習合させて、一つの「密教概念」を確立させて伝承しています。
そこで、「和魂荒魂の宗教概念」には、「荒神様の概念」、「古代仏教の概念」には、「毘沙門天様の概念」が在って、この二つを習合させていたのです。
そして、「和魂荒魂の荒神様」には、青木氏等が祭祀する「三宝荒神」と、これを基に発展した庶民が信心する「地荒神」の二つがありました。
この「地荒神様」には「道祖神」、「産土神」が生まれ、庶民の中でも、地侍の様な階級が信心する「産土神」と、この農民等の庶民が信心する「道祖神]が在りました。
この庶民の「道祖神」には、道端に祭祀された「お地蔵様」が在ります。
この「お地蔵様」には、そこで、「元の青木氏」が祭祀する「三宝荒神様」の所縁を以て「青木地蔵」と云う「地蔵像」が作られたのです。
これには、上記の「薬師で病気治療」に「青木氏」が深く関わった事とか、「道祖神」の元の「三宝荒神」の「青木氏」の理由から、特に庶民から敬愛されて「青木地蔵」が祭祀されたのです。
これが庶民から自由自然発生的に生まれた「青木地蔵の所縁」です。
この「青木地蔵」があるところには、「病気治癒の薬師」などを通じて、その地の「青木氏」が庶民から尊敬されていた証拠です。
室町期中期までには、「青木氏」が存在する地域には多くありましたが、戦乱などで消滅する等で江戸期直前には数少なく成りました。
明治期に成ると、この伝統も無く成り、遺されているところも数少なく成りました。
その意味で今治地域は珍しく、恐らくは”讃岐藤氏の讃岐青木氏の所以”でしょう。
瀬戸内に廻船業で絶大な勢力を持っていたこの「讃岐青木氏」も昭和20年頃には衰退して、この様な伝統も消えて行ったものと考えられます。

「四国の神明社」の件
>ところで、当家の先祖が住んでいたとされる『愛媛県三間町(現愛媛県宇和島市三間町)』は、地域的には『鬼北地区』と呼ばれる地域に属しており、現在そこにはいくつかの町が合併した『愛媛県鬼北町』があります。
>高知県西南部との境を形成する地域です。
>この鬼北町に、愛媛県におけるもう一つの『神明神社』があることを、他ならぬ当サイトの記事で知りました。
>行政区分では隣町になりますが、当家の先祖が庄屋をしていた、とされる地域から遠からぬ場所であり、注目しております。

恐らくは、「讃岐青木氏」が護っていた神明社系の神社であって、同じ系列のものであったと考えます。
土佐一条氏の件は歴史上有名ですが、短期間の事件ですし、讃岐青木氏に取ってはあまり関係の無い事件の領域です。


>また『小京都』とまで呼ばれた都市を建設する財力や、土地を治めるための戦力も、四国の青木シンジケートの協力なしには不可能と思えます。
>この時、四国の青木氏はどのように動いたと考えるべきでしょうか。
>我が先祖がなぜこの伊予西南部に移動したのか、その事への手がかりになるのでは、と思い質問を差し上げました。

この件については、前回のお答えでも記述しました。この範囲で動いたものです。
1584年から1585年に掛けて、宇都宮氏や西園寺氏は滅亡してしまいます。
この少し前には一条氏も潰れています。1509年には四国は安定しています。
平安期には「純友の乱」にも観られる様に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、その結果、朝廷や源氏から妬まれて,危険視されて潰されます。
しかし、その後、再び勢力を盛り返し、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」は、この反省から「武力」だけでは無く、「瀬戸内の沿岸勢力」を纏め上げて、その産物を全国に売り捌きます。
且つ、廻船業としても「二足の草鞋策」で「莫大な財力」も築き上げ、四国中国地方全域の中で群を抜いて「影の力」として存在して居たのです。
従って、同じ藤原秀郷の血縁一族の宇都宮氏でも、「讃岐藤氏の協力」が得なければ、この四国では生きて行けなかったのです。
お話の一条氏にしろ長曾我部氏にしろ、四国の豪族は何氏にしろ潰されていますが、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は無傷で生き残っているのです。
この「讃岐藤氏の勢力」を得なければこの四国では生き残れなかったのです。
態々”「讃岐藤氏」”と呼ばれる位に絶大な「影の勢力」であったのです。
この「瀬戸内のシンジケート」を無視できなかったのです。
ですから、「瀬戸内」を制していた為に一切の大名は武器食糧などが入らなくなり何時か潰れて行くのです。
毛利氏でも伊予攻めしても慌てて直ぐに自領に戻ると云う事をした位なのです。
”長居は無用”で「影の力」で潰されるのです。
ところが、「影の力のシンジケート」を持つこの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」等は武力勢力には一切関わらなかったのです。
「讃岐青木氏の一族一門」は、多くは”「土地持ちの郷氏」”として各地に存在して、”影の実力者”として存在して居ました。これは「秀郷一門の戒律」です。
本拠の関東でもこの戒律を強く護りました。
頼朝も、家康も、戦わず臣下させて「一族の勢力」を維持させ護ったのです。
家康などは、わざわざこの「藤原姓」を名乗って、”藤原の朝臣徳川の家康”として官位を受けています。
「幕府」もこのことから開けたのです。
頼朝はバックと成っていた「北条氏等の坂東八平氏の勢力」の反対を押し切って、一切の秀郷一門の本領を安堵して、その勢力を自分の勢力に取り込み、「北条氏の勢力」に全てを委ねる事を避けたのです。
「秀郷一門」はその勢力を結集すれば鎌倉幕府、云い換えれば「坂東八平氏」を遥かに超えていたのです。
しかし、前に出る事はしなかったのです。

”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 然れど 世に憚る事無かれ 何れ一利無し。”の戒律が在ったのです。

秀吉などは、この「全国の秀郷一門の勢力」を怖がって、先ずは「関東の藤原一門」を攻め落とそうとしましたが、本領は無理として、勢力の北の端からの「陸奥の勢力」から潰しに掛かります。
しかし、背後の秀郷一門の動きに危険を感じて、秀吉に依って差し向けられた軍は、大犠牲を払って陸奥の結城氏を急いで無理押しして潰して、慌てて大阪に逃げ帰った位です。

これが全国にある秀郷一門の生き様の戒律です。
「讃岐藤氏の青木氏」は、宗家にはなかなか従わなかったのですが、この「伝統の戒律」の一線だけは護りました。
その宗家との勢力は変わらなかったのです。
つまり、”四国の動き”には関わらなかったのです。

お家の龍神から讃岐に逃亡した「脩行系青木氏」は、この「讃岐藤氏の青木氏」の庇護を受けていましたので、「讃岐青木氏の戒律」に従い、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の勢力圏の伊予の南西域を護る為に配置された事から移動したと観られます。
「土佐一条氏への合力」や「宇都宮氏や西園寺氏」の云々は、「讃岐藤氏」の中の単なる出来事で、短期間の勢力圏の縮図であって、一条氏の歴史から観ても「正式な合力」とまでの行動では無かったと考えます。


お家が主張されている”宇都宮氏や西園寺氏との関係”も、又、この”土佐一条氏との関係”も室町期末期の短期間の中での出来事です。
お家のご先祖の「龍神説」による「脩行系青木氏」の「単独の行動」と云うよりは、庇護下にあった「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の中での「戦略的行動」の範囲であったと観ています。

大きい歴史事と結び付けての”ご先祖”とする考えと観ますが、前回にもお答えしました様に、龍神説からの「佐野氏族脩行系青木氏」とすれば、考えられないシナリオです。
家紋まで「三つ巴紋」にしてまでの論調には矛盾が在ります。
この四国にはお家の歴史観は短期間の範囲ですので、公的な歴史書館の中には遺されていないと思います。

「龍神説」の「脩行系青木氏」であれば、本流と和歌山に遺された一族の家紋は、正しく「丸に州浜紋」を護っていますよ。
氏の象徴である家紋が厳然と子孫に依って護っていると云う事は、お家の歴史感が未だ遺されていると云う事です。
恐らくは、お家が論調している「青木氏の事」は、全て「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の事であると思います。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の家紋は「下がり藤紋」に副紋「雁金紋」です。
お家が論調している「三つ巴紋」は、「讃岐青木氏」には有りませんし、「丸に州浜紋」もありません。
「青木氏」としては無い家紋で、秀郷一門でも、進藤氏系だけです。

兎も角、龍神説の「脩行系青木氏」の「三つ巴紋の青木氏」から来るお家の「青木氏の論調」は考えられません。
「青木氏」には、他の武家と異なり家紋掟には特定の歯止めがあってこの様な事は起こりません。

「龍神説の脩行系青木氏」であれば、和歌山と伊勢と駿河に逃げ帰った本流は、正しく「家紋」を護っていますよ。
つまり、お家のルーツを正しく搾取無く護っているのです。


まぁ、兎も角も、お家ではなく、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は何人も超える事の出来ない「影の力」を持っていたのです。
前回のお答えのみならず各所の論文にもこの事は記述しています。
是非に、青木氏の研究室やルーツ掲示板の論文などを走破してください。
必ずや、お家の青木氏の生き様を導き出す糸口やチャンスが別に訪れる筈です。
龍神から出て来た「脩行系青木氏」の事が解明する筈です。

調査が進んでいない様なので、敢えて念の為に、お家の別のルートの伊勢や駿河に移動した一族や和歌山に遺された一族の家紋をお教えします。全て「丸に州浜紋」です。
和歌山での遺されたお家のご先祖は、支流族とは成って居ますが、和歌山一の豪族に成って居ますよ。
現在でも勢力を広げています。「・・・三」と云えば知らない人はいません。
匿名ですが、超有名な代議士に成って居ます。
地元でも裾野大きく広げた今でも和歌山の旧名家です。
この様に伝統が遺されたところにはお家のルーツの事が発見できる筈です。

この家紋は、四国のお家が云う家紋と極めて特徴が類似しています。
龍神説が正しいとすると、途中でご先祖の誰かが家紋を間違えた可能性がありますね。

兎も角も、四国では、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」との混同は、矛盾が起こり何時までも本当のルーツにはたどり着けませんから避けるべきです。
周囲の青木氏の家紋などを良く見極めてからの論調とされるべきです。

では、龍神説からのルーツ探究をお勧めしますが、ご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.993] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/08/30(Sat) 11:54:21

 いつもながら詳細なご回答をありがとうございます。
 当方としましては副管理人様の情報評価・分析を全面的に信頼させていだたいておりますので、過去に投稿させていただいた『西園寺氏』、『宇都宮氏』等との関係につきましてはもはや一切拘泥しておりません。
 当家のルーツにつきましても、ご教示頂いた方向で間違いなかろうと考えております。

 それでもなお、こうして素人調査を続けておりますのは、ただ伊予西南部の田舎で百姓をしていたとしか理解していなかった当家に未知の過去があったことに対する驚きと、一族について可能な限りのことを知りたい、という好奇心が尽きぬゆえです。
 大きなことを申し上げるようですが、家族愛・郷土愛からのもの、とご理解いただければ幸いです。
 

 同時に、当ブログの青木氏研究に少しでも材料を提供できれば、という気持ちもあり、『青木』と聞けばつい目がいくようになってしまった、という面も否めません(苦笑)

 そこで昨日の今日なのですが、郷土資料から注目すべきものを発見いたしました。
 地元郷土史家による『曽根庄屋青木家-古文書と墓石銘からの郷土史研究』なる史料であります。

 『曽根』は現・宇和島市三間町にあり、当家の墓がある場所からは『丘一つ』越えた地域です。
  最初にご相談しました当家の伝承『三間町で庄屋をしていた』の部分に符号するものですが、一読した結果、副管理人様が既に下された評価・分析の通り、『この庄屋青木家は、当家の先祖ではない』と思われます。
 
 ただ内容は一五〇〇年代に遡る墓石銘・過去帳・他家の庄屋史料を元に、曽根庄屋青木家歴代のつながりを解き明かしたもので、伊予西南部における青木氏の活動を知る上でも良好な史料と思われます。
 以下のURLにコピーを貼らせていただきました。
 ただ、地方の歴史研究雑誌に投稿され公開されているものではありますが、一応は著作権の問題もあろうと存じますので、副管理人様が確認・保存され、お返事を頂いた段階で削除する予定です。
 『原寸で表示する』というボタンを押しますと見やすくなると思われます。


http://shashinkan.rakuten.co.jp/my-page/community/top/c/aokishouya

 『見えない』という場合はご連絡をお願いします。メールアドレス等をお教えいただければデータを送付可能です。

 上記史料に若干の補足を致しますと、曽根青木家の墓・過去帳が納められていた『宗光寺』は『天台宗』の寺であり、史料にあります通り現在は無住となっております。創建年代等は不明です。

 現在、曽根青木家の過去帳を所蔵している『医王寺』は、当家が住む宇和島市吉田町立間地区にあり、同じく天台宗。寺伝等によれば『草創期は不詳であるが、『吉田古記』に「医王寺は、立間大光寺十二坊の一つで、天台宗である」とみえている。戦国争乱の世には堂宇は荒廃し、各宗の僧侶が時に応じて住持するなど、宝灯明滅、宝財・文献の類が散逸したという。応永二二(一四一五)年西園寺氏の配下清原勝円の帰依を得て浄財を募り、上日和尚が中心となり堂塔の再建をみた』とあります。

 また宗光寺を含む一体は中世城郭『岩倉城跡』にあたり、道路建設のコースとなったことから自治体による調査が行われています。
http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/kankobutsu_hoka/hokokusyo/1 ..... yo_157.pdf

 『曽根庄屋青木家』は現状、子孫はおられません。また道路工事に伴い、庄屋青木家の墓は宗光寺の山門内の境内に移され、歴代住職の墓に隣接した場所に集めた形で地元の方々がお世話をなさっているようです。(地元の皆さんの墓地は別の場所です)。

 史料にある『庄屋以前の墓』は、今も岩倉城跡の山中にあります。
 先日、実家の父と共に訪れましたが、竹やぶと雑木が密生し、歩くのも困難なほど凄まじい荒廃ぶりでした。
 微力ながら墓の上の倒木を片付け、倒れた五輪塔を積み直すなどし、手を合わせて参りました。
 やがて土に帰る、という思想からは余計なお世話であったかもしれませんが、ひょっとすればご先祖に何らかの関係があった方々、と思えば放っておくのも忍びなく思った次第です。

 なお、当地を訪れた最大の目的であった『墓石の家紋を確認する』は果たせませんでした。どの墓にも、一つとして家紋が刻まれていなかったためです。
 よって曽根青木家の家紋は不明のままです。

 言うまでもありませんが、浄土真宗である当家と天台宗である曽根青木家とは宗派が違いますし、通字に『正』の字を入れる、といった風習も異なることから、曽根青木家が当家のルーツではない、という結論に達しました。
 恐らくこの曽根青木家は土佐側から、四万十川沿いに移動(愛媛県鬼北地区は、土佐四万十川の源流に当たります)してきた讃岐青木氏の末裔とお見受けしますが、この点は副管理人様の評価・分析をお待ちします。

 一方、 曽根青木家が庄屋となった年代が、当家の初代の没年より後であることから、『庄屋から分家した』という当家の伝承に矛盾があることも明白です。
 副管理人様の分析通り、当家が『庄屋をしていた』との伝承は信用できないものと断定してよいと思われます。

 ただ、丘一つ越えた土地にこれだけ堂々たる青木氏が居住する同時期、当家が『青木』を名乗って暮らしていたとなれば、逆に当家が『青木』を詐称できた可能性はほぼ無くなったのでは、と考えます。
 三間町曽根を含む鬼北地区には江戸期、少なくとももう1軒の『庄屋青木家』があったことも確認されており、当家が彼らの庇護の元で帰農し生きてきた青木氏、という具体的な図式が、逆に見えてきたように思われますが、いかがでしょうか。

 連投となりますが、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
 


  [No.994] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/01(Mon) 12:19:24

今日は。
早速、お便りをいただきました。
ありがとうございます。

さて、長い間、歴史をやっていますと、ルーツ等を調べるには、「特別な感覚」が必要になると感じています。
それには、現在、我々が”当然の思考”と思う感覚は、”歴史観”では全く異なる事が判ります。
それは「思考概念」が昔と今では違っているからで、つい”現在感覚”で観て仕舞うと云う事が起こるからだと思います。
「昔の事」を「今の事」では無理で、[昔の事」は「昔の事」で見ることが必要だからです。
現在感覚では「真の事」が見つからない事が「違和感」と成って脳が受け付けなく成る現象だと思います。
これには、矢張り、何でも良いから”歴史観”の基に成る事を培う事かと思います。
そこで,お家のお便りを観ていますと、次第に、この”歴史観”を獲得できる様に成って来たように感じます。
故に、「青木氏の事」が出て来ると見逃す事が出来なくなる感覚が生まれているのだと思います。
私の経験では、この事が大事な事なのです。
この感覚が、”昔の感覚に入れる現象”の入り口に入った事を示しています。
脳の中に、歴史知識が左脳に入り、歴史に付いて、それを使って右脳が租借する能力が出て来た証です。
これが進めば進む程に、この”歴史観”が深く成って”真の史実”を見つける能力を持てるように成るからだと思います。
簡単に云えば、昔の事は昔の人の目で観る事だと思います。

筆者は、その意味で、お便りには忌憚のないご意見を記述する様にしています。
悪しからご了承ください。

さて、今回のお尋ねのご推理が、この”歴史観”の中に入って来た事を感じています。

そこで、お便りのこの部分の所に注目します。
>”曽根青木家の墓・過去帳が納められていた『宗光寺』は『天台宗』の寺であり、”

実は、「二つの青木氏」には、他氏が絶対に伝承できない「慣習仕来り掟」が特別にあって、この事からこの情報が浮き上がってきます。
前回にも書きました様に、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令」で他氏との区別が出来るのです。
それは、先ず菩提寺の寺名の”「宋光寺」”です。
つまり、何れも「・・光寺」の「仕来り」に従っているのです。
「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺も、「特別賜姓族青木氏」の菩提寺も、例外なくこの「仕来り」に従っています。
これは他氏が真似のできない禁令の一つです。
この「二つの青木氏」の「121氏の菩提寺」は、この「仕来り」の「菩提寺名」を持っています。
(寺名は問題が起こりますので匿名とします。)
つまり、「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」である事がこの寺名で判ります。
この”曽根の讃岐秀郷流青木氏”は、この”青木氏の仕来り”を厳然と護って居た事を示すものなのです。
「青木氏の家柄」で云えば、「本家筋の青木氏」に匹敵する位の「青木氏」である事を物語っているのです。

そもそも「菩提寺」とは、本家筋が中心に成って一族一門の全てを自前の一つの寺で祭祀する寺の事です。
その「青木氏」が、「・・光寺」名の特別の呼称を使っている「菩提寺」を持っていると云う事です。
この情報は絶対に見逃す事が出来ないものです。
この一つで”多くの事”を物語っているのです。
つまり、「讃岐藤氏の讃岐秀郷流青木氏」の中でも「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は家筋が良かった事に成ります。
ここに”何かの意味”を持っています。


更に検証すると次ぎの事が浮かびます。
上記する事に完全補足する様に、次ぎに、宗派が「天台宗」と成って居ます。

本来、「二つの青木氏」は、本来は、「浄土宗密教」か、その系列の「浄土真宗」であります。
古来は宗教に付いては、自由に選べるものでは無く、その家柄身分に依って決められていた習慣でした。
そこで、「青木氏」は、「賜姓族」であった事から、その「賜姓族の役目」(賜姓五役)を全うさせる為に、つまり、「古代の宗教」(和魂荒魂)と「古代仏教」を引き継がせる為に、「古代仏教密教の概念」を引き継ぐ「浄土宗」を指定されていました。
この「掟」からは逃れられません。
ところが、「特別賜姓族青木氏」、つまり「秀郷流青木氏」には、藤原北家筋の中にある為に、「藤原氏北家筋」の「97家」の内の「9氏」の秀郷一門は、この古来からの密教性の強い「浄土宗密教」を引き継ぎました。
しかし、この秀郷一門の9氏の中で ”京の公家族の影響”を強く受けた一族の2氏の内の1氏が、この「讃岐の秀郷流青木氏」であるのです。
ところが、その為に、「秀郷一門」でありながら「讃岐藤氏」(公家族)の流れを引く「讃岐秀郷流青木氏」は、「武蔵の総宗本家」の云う事をなかなか聞かなかったのです。

「讃岐秀郷流青木氏」と書いていますが、昔からの俗称では、”「讃岐青木氏」”と呼称されていたのです。
それだけに、「讃岐藤氏の影響」が強かったのです。
その中でも、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、”「讃岐藤氏」の影響を強く受けている”と云う事なのです。

実は、元は、北家の秀郷は、藤原氏で在りながら、「公家族」のみならず、「貴族」でも無かったのです。
武蔵の「押領使」(警察権と軍事権の両方を持つ官僚)と云う「令外官」の低い身分で在ったのです。
ところが、関東で独立国を創ろうとして「平の将門の乱」が起こります。
朝廷は長い間この乱を鎮める事が出来なかったのです。
そこで、窮地に陥った朝廷は鎮める事が出来る者を募りました。
この時、「藤原秀郷」と共に、同じく「関東の押領使」を務めていた清盛より5代前の「平貞盛」が手を挙げました。
そして、朝廷に対して二人は、これに「二つの条件」を付けたのです。
天皇に注文を付けると云う「前代未聞の事」が起こったのです。
それだけに窮地に陥って居た事を示します。

それは、秀郷の場合は、”武蔵の国を領国にする事””貴族にする事”の「二つの条件」であって、朝廷はこれを渋々認めました。
結局、二人は、この乱を鎮めこの「二つの条件」を獲得します。
ここで、やっと「貴族」と「領主」に成ったとする経緯があったのです。

それ以後、この為に勢力を拡大させた秀郷一門は、朝廷より各地に一族を守護職として赴任を命じられる立場に成ります。
その24の赴任先に配置されますが、この讃岐にも赴任先として配置を命じられました。
そこで、一門に同行しての「護衛役の任務」を担っていた「讃岐秀郷流青木氏」は、「公家族の讃岐藤氏」との同族血縁を進めます。
結果として、「讃岐藤氏」の中に組み込まれて仕舞ました。
「秀郷一門の護衛団の役目」を持つ「讃岐秀郷流青木氏」は、この為に”「讃岐藤氏の讃岐青木氏」”とまで呼ばれる様に成ったのです。
貴族に成った秀郷一門の宗家の中で、讃岐に赴任し護衛団を務めた「秀郷流青木氏」も、血縁でもこの「讃岐藤氏」の「公家族の血筋」を持ったのです。
結果として、身分と家柄が武蔵の宗家の秀郷一門より高く成ったのです。

丁度、この「平将門の乱」と並行して、同時に、西のこの「瀬戸内」でも、勢力を拡大していた「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」が起こったのです。
前回にも書きましたが、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云うことから、途轍もない財力と勢力を握った「純友」を朝廷は警戒して潰しに掛かったのです。
これを九州全土の自治を任されていた阿多倍一門で京平家とルーツを同じくする「大蔵氏」に攻めさせて成功します。
このため、「純友の讃岐藤氏」は衰退します。
しかし、その後、大蔵氏から「瀬戸内」の「管理支配権」の権利を譲られて「瀬戸内」を支配に入れていた平家が潰れて、「瀬戸内の勢力図」が変わっりました。
この為に、「瀬戸内の民」に慕われていた「純友の讃岐藤氏」を慕って「讃岐藤氏」は再び勢力を盛り返しました。
この時、同族血縁化した「讃岐秀郷流青木氏」は、この勢力を下にこの「瀬戸内」で勢力を高めたのです。
この時から、讃岐で、勢力を獲得した「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」との血縁を進め、今度は「武力」だけでは無く、「瀬戸内」を活かした[二足の草鞋策」の財力で盛り返します。
これを推進したのが「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」であったのです。
「護衛団の武力」と瀬戸内の「二束の草鞋策」での「財力」を得た「讃岐秀郷流青木氏」は、今度は「讃岐藤氏」に代わって讃岐を支配します。

それ以後は、以前にも書きましたが、そして、「讃岐秀郷流青木氏」は「瀬戸内の勢力と財力」を背景に自立の生き様を貫いたのです。
直ぐ東隣に同門の「阿波青木氏らの勢力」が在りながらも、自前の生き方を採用しました。
その一つとして、「四国の讃岐藤氏」との関係を深く持った事によるのです。
これが、”「讃岐藤氏の讃岐青木氏」”と呼ばれる所以です。
最早、「武蔵の秀郷流青木氏」よりは「讃岐藤氏の讃岐青木氏」としての行動を採り、民からこの様に観られる様に成ったのです。
他の24地域に分布する秀郷一門にはこの呼称はありません。
四国の秀郷一門の「青木氏」だけなのです。

さて、この「讃岐藤氏」は「藤原氏の公家族」です。
この京のルーツを持つ「公家族の宗派」は「天台宗」なのです。
故に、西園寺氏や一条氏等の公家族は、この「讃岐藤氏」を頼って四国に来るのです。
また、藤原氏公家族(摂関家族)の「名義上の荘園」が四国域に多かったこともありますが、この「讃岐藤氏」(天台宗)の流れをより深く持ったのが「曽根の讃岐秀郷流青木氏」である事に成ります。

処で、上記2氏の中の1氏の「讃岐秀郷流青木氏」の中でも、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が、この「讃岐藤氏の影響」をより血縁的にも強く受けたのです。
故に、公家族が信心する「天台宗」なのです。
宗派を「浄土宗」から「天台宗」に「宗派変え」をするという事は当時の上級社会では、大変な事で、それなりの理由が無く成ては認可は得られません。
その位ですから、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、”宗派変え”が出来るには何度も「跡目」を「讃岐藤氏」から取った事に成ります。

ここに、”何かの意味”の答えが潜んでいると観られます。
これは上記の”歴史観”です。
氏家制度の社会の中での「青木氏」に関わる”「慣習仕来り掟」に矛盾を生じているのです。

そもそも、「讃岐秀郷流青木氏」の宗家本家筋が居る中で、宗家本家の許可なく、「讃岐藤氏との血縁」や「天台宗の宗派変え」や「菩提寺の建立と寺名の使用」や「跡目縁組」等出来る事は絶対にありません。
「讃岐藤氏」の相手の方も、「讃岐秀郷流青木氏」の許可の得ていない関係を持つ事は、「讃岐秀郷流青木氏」との間に”亀裂”を作り出す事が起こりますので控える筈です。
しかし、出来ているところを観ると、考えられる「シナリオ」は唯一つです。
それは、”「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、「讃岐の宗家本家筋]であった。”と云う事に成ります。
しかし、ところが”勢力末端の危険な南域に「曽根の在所」がある事”です。
これは、”宗家本家筋”であれば、戦略上あり得ない事です。
「讃岐秀郷流青木氏一族一門」の中で、”何かがあった”からこの様な、あり得ない現象が起こっているのです。
では、”その「何か」は何なのか”と成ります。
この”あり得る現象”とは、この「氏家制度」の中での「仕来り」にある筈です。

宗家本家の惣領、つまり、”当主に成れる者はその任に値する嗣子を嫡子に定める”とする掟です。

長男が嫡子に成ると云う慣習は江戸初期に家康が定めた武家の慣習です。

室町期以前は、特に賜姓族青木氏の中では、青木家家訓にもある様に、”嫡子はその任に値する者”と定められています。
従って、その任に無い嫡子が居た場合は「廃嫡」と成り得ます。
「曾根の秀郷流青木氏」は、「寺名」と「天台宗」の宗派換えも成し遂げています。

つまり、嫡子として当主と成ったが、瀬戸内から中国地方の島根までも勢力拡大を成し遂げた超大勢力に成った一族一門を統制するには、この当主は、”その任に値しない”と成った事を物語ります。
そこで、これを全うするだけの能力が持っていない「愚能」と見做された「曽根の秀郷流青木氏」の家長は、廃嫡の憂き目を一族一門から受けたのです。
故に、先ずは南域の”曽根”に移動させられたと成ります。つまり、「配流処置」です。
この「愚能」とは、起こる諸問題に一族一門の決定事項に、充分な理解を示さず、常に反意を示し、これでは一族一門は保てないと判断されたのです。
故に、南域の三間域に「配流の憂き目」を受け、そこで反乱を起こしかねない事から、その「行動の見張り」をお家に命じた事に成ります。

更に、後に、この南域を強化する為に、讃岐秀郷流青木氏を頼って逃亡して来た「武装集団」であった「武田氏系青木氏」と共に侵略して奪い、その上で「武田氏系青木氏」に南域の運営を任したと成ります。
「見張り役]を含めて南域の向後の安定化を謀ったと観られます。
(詳しくは、研究室論文の各所に記述していますので参照してください。)

「寺名」は兎も角も、「一族一門の行動規範の概念」が異なる宗派の「天台宗」が、あまりに公家化した為に廃嫡事件が起こった事を示しています。

「浄土宗密教」か「天台宗密教」かの選択は、「青木氏の伝統シリーズ」で論じていますので詳しくそちらをご覧ください。

そもそも、「天台宗密教」と「浄土宗密教」は、根本的に「行動規範の概念」が異なっています。
現在は兎も角も、昔は「宗派の考え方」が即、人々の基本的な「行動規範」であった社会でした。
ですから、「讃岐秀郷流青木氏」の「浄土宗密教」の一族の中に、「天台宗密教」の者がいる事は、日本人の中に外国人が居ると云う事に等しく成ります。
これでは、氏家制度の社会の中では、”一門の統制”は取れません。
当然に、排除される憂き目を受ける事に成ります。

また、「讃岐秀郷流青木氏」と、四国の関係も「青木氏の分布と子孫力」にも詳しく論じていますので参照してください。
「平の将門の乱」と「藤原純友の乱」の関係も論じていますので歴史観を養う意味でも参照してください。
お家のルーツに少なからず関係する出来事です。

そこで、これ等の”歴史観”から、「讃岐の秀郷一門」で在りながらも、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が、「地元の郷土史」などにも出て来るのかは想像がつきますね。
そして、更には、同じく”歴史観”から、何故に、その地域が「讃岐の本領地」では無く、南の「宇和島市吉田町立間地区」にあったかも判りますね。
本領の「瀬戸内の讃岐域」では、同じ一族とは言え生き難い事が云えますし、「天台宗」と成った「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の生き方を貫くには、「浄土宗密教」の「讃岐秀郷流青木氏」の本家の居る所よりは、遠く離れたところが好ましい事は判ります。
本家宗家の側から観ても、”「統制」”と云う観点から「集団」から離すところに移動させる必要が出てきます。
まさしく、”武家の集団の中に、公家の概念を持つ武家が居た”のですから、まとまる訳はありません。
到底、宗派が変われば、思考概念が異なる事から同じ一門の所で同じ行動を採ることは出来ません。
況して、昔はその「宗派の考え方」、つまり概念が生き様を大きく左右した時代でしたから、宗派が違えば行動も違う事から、「讃岐秀郷流青木氏」の本家から観れば、「讃岐」から離して遠く南に定住させられた可能性が有ります。
自ら「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が勝手に好きな地域に移動できる社会制度ではありませんでしたから、宗家本家の支持に従うのが常道です。
最初は”「曾根の讃岐秀郷流青木氏」”も「讃岐の本領」付近に居たと考えられます。
しかし、「讃岐秀郷流青木氏の一族一門本家」の意に従わない事が多くあって、四国の他の勢力と近接する南域に配置させられた可能性が有ります。
そこで、場合に依っては、”「讃岐秀郷流青木氏」の意に沿わない行動”を採る事も良くあって、「見張り」も含めて周囲に”お家”を配置した事が考えられます。
(曽根の秀郷流青木氏は、この処置では済まない事は充分に想像できます。)

では、何故に、1339年頃に「讃岐秀郷流青木氏」を頼って移動して来た「脩行系佐野氏族青木氏」のお家を配置したかの疑問です。
実は、この地域に配置した理由の一つには、”「脩行系佐野氏族青木氏」”の”ルーツ”にあるのです。
この証拠と成る事があるのです。

その前に、「南の讃岐秀郷青木氏の勢力」を補完する為に、「甲斐武田氏系青木氏」が、お家の様に、やや遅れた時期(1582年)に「讃岐秀郷流青木氏」を頼って逃げてきました。
武田氏が滅び「賜姓族武田氏系青木氏」は「讃岐秀郷流青木氏」を頼って来たのは、お家の南北朝期(1392年)のより後(250年位)になると思いますが、これも配置された地域は南域に成ります。

この「讃岐秀郷流青木氏」は、この時、南に移動させて土佐域の南東域を「讃岐秀郷流青木氏」と共に、この域を奪って、ここにこの賜姓族系の「甲斐の武田氏系青木氏」を定住させたのです。
目の届き難い地域は同じ一門でもなかなか命に従わない一族も居る事からも、他の豪族の調略の誘いに乗って反抗する事もあって配置したのです。
頼って来たお家の「脩行系青木氏の配置」も、この「武田氏系青木氏の配置」も皆南側です。
「讃岐秀郷流青木氏」に取っては、南域は他の豪族と身内の一族の反乱が最も警戒することで在ったのです。
「瀬戸内」を護るには”背後”を安定させる必要があり、身内の反逆や他氏の侵略に供える必要があったのです。
その証拠に、この理由から「讃岐秀郷流青木氏」を頼って四国には多くの逃亡者が入ってきましたが、全てこの南域に配置しました。
この意味で、お家のこの地域への配置には、先ずはこの意味の一つが在ったのです。

「天台宗」の「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、宗派違いや家柄等の事もあって、この意味でこの地域に配置されたのです。
この地域に頼って来た大きい勢力を持った「武力集団の武田氏系青木氏」を配置して、更に二重のリング状に固めたのです。
依って、南域は1590年頃を以て小競り合いは在ったにせよ安定に向かいます。
この間に「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と「土佐の青木氏」は何れも「青木村」を形成していまして、関係があった模様です。
戦国期より少し後に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」もお家もほぼ歴史的には同時期に衰退していると観ると何かがあった事が考えられますが、現在の所は正確には判っていません。
お家はこの地域にお墓が在りながらも荒廃している時期(1660年頃)と考え合わすと、1600年頃に「讃岐秀郷流青木氏」の命に従わなかった事もあったのかも知れません。
(「小競り合い」の合力に巻き込まれた。土佐一条氏か西園寺氏か宇都宮氏か長曾我部氏か等の戦いの「小競り合いの前哨戦」かで)
「土佐の青木氏」の衰退や、「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の衰退には、完全には一致はしませんが、しかし、共に、「同地域での戦乱での合力」に何か原因していると考えられます。
その基は「讃岐秀郷流青木氏の意」に従わなかったことが充分に考えられます。
なにせ意に沿わず独自路線を採った「宇都宮氏」も「西園寺氏」も「土佐一条氏」も、全ての関係族は、短期間に「讃岐秀郷流青木氏一門の勢力圏」で滅亡している位です。

では、核心に入ったとこで、何故、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の居る地域にお家が配置されたのかと云う二つ目の理由の事ですが、これは、実はもう一つ”「脩行系青木氏」の本流のルーツ”に関わる事なのです。

それは「秀郷一門の青木氏」の中でも、この「始祖の脩行のルーツ」は、実は系譜では母系で”京の摂関家の血筋”を持っているのです。
秀郷の嫡子の千常より2代目の文行の子供の脩行は、一時、近江国に赴任していて近江の役人(掾)を務めていました。(「掾」とは、国司、介、掾、目の順に役職が異なる。副知事の様な役目)
この時の近江の時に、母方が摂関家から入ります。

途中で、秀郷の三男千国から発した「本流の青木氏」と、同族血縁をして「脩行の末裔」に青木氏の跡目を入れて「脩行系青木氏」を発祥させたのです。
(千国の青木氏は赴任先の地名を付けて呼称するが、文行系はその始祖の名を以て、脩行系青木氏と呼称する仕来りです。)
「秀郷流青木氏」は、秀郷の第三子を本流とするもので、秀郷より4代目の兼行系青木氏が本流と成ります。
しかし、お家はこの兼行の弟の文行の子供の脩行系の青木氏です。
秀郷一門は盛んに同族血縁をし跡目を入れたりして血筋の平準化を図っています。
「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は「讃岐藤氏の公家の血筋」を引く「青木氏」ですが、お家も母方に摂関家の血筋を持つ「秀郷流青木氏」の「脩行系青木氏」なのです。

故に、お家は秀郷一門の24地域とは別枠の、「京の影響」を強く持つことから、「紀州の守護」の護衛団を務めたのです。
故に、紀州の藤原明恵一門は京の公家族です。
お家は、この紀州に赴任した公家を護る役目を受けた護衛団の秀郷流青木氏で、配置されたのです。
恐らくは、お家の「近江掾」を務めていた時の縁での「母方の公家族」は、この「藤原明恵」のルーツに関わっていると観ます。

それでなければ、秀郷宗家の赴任先の護衛団として同行するのに、お家の「秀郷流脩行系青木氏」は、秀郷宗家一門ではない京の公家族の赴任先の護衛団を務めていた事に成ります。
慣例を重視する社会の中では、特別です。
先ずは無い事です。しかし、現実にはあったのです。
他の「秀郷流青木氏」が護衛団として同行した24の赴任地にはこのパターンはありません。
何かの強い所以があったからこそ、実現しているのです。
それは、筆者は、”この「藤原明恵」の家筋がお家の始祖の脩行の女系の実家先で在った”のではと観ているのです。
故に、紀州の守護を命じられた時に、婿先のお家に護衛団を依頼したのではないかと考えられるのです。
それには、「秀郷流青木氏」ではあるが、本流の兼行系では無く、文行系の青木氏であった事の柵の少ない理由から「宗家からの許可」が出たと観ています。



だから、上記した様に「讃岐藤氏」の「公家族」をも頼りに、お家はこの系譜を頼って讃岐に逃げたのです。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏]の「見張り役」として南域に配置された理由にはこの縁もあったのです。

伊勢、駿河に戻った本流は本来の先祖の所に戻った一団であって、恐らくこの時に、意見の違いが起こって居た事が判ります。紀州に残る派もあった事が判ります。

つまり、伊勢派、駿河派、讃岐派、紀州派、の4のグループに別れた事が判ります。

伊勢派は前回にも述べましたが、「皇族賜姓族青木氏」の「不入不倫の権」に護られる事と、特別賜姓族の伊勢秀郷流青木氏も伊勢に定住していましたので、ここに逃げ込めば安全です。

駿河派は「丸に州浜紋」の本拠地です。本家一族に護られる事を期待したのです。

讃岐派は京藤原氏の血筋を持つ本論の「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」とを頼った事に成ります。

紀州派は、居残り派で、恐らく地元の土豪(玉置氏)との血縁を持っていた事から、それらを頼り、中には、その末裔はその豪族の姓を名乗った事に成ります。

これらの3派は、訳ありの支流族と成るので、宗家の意に反して南北朝の戦いに合力したこともあって責任を採って、「丸付き紋」の「丸に州浜紋」と、紀州では「玉置氏」を名乗って生き延びたのです。全て3派は「丸に州浜紋」です。

そこで、何故、「宗家の意志」に逆らって「南北朝の争い」に合力したのかの問題は、この「脩行のルーツ」の母方の所以が在ったからです。恐らくは母方の親族から誘われたのでしょう。
秀郷一門はこの戦いに合力していません。「宗家の戒律」に逆らう事に成るからです。

「讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」の縁を頼ったお家は、この南北朝の問題で、この「合力」を強く主張したのではないでしょうか。
しかし、敗退した。そこで、全面的な責任を取って、少数団で「讃岐青木氏」を頼り、その配置先を後に所縁のある「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に成ったと考えられます。
「讃岐青木氏」もこの「曽根の讃岐秀郷流青木氏」を見張る意味でもお家を南域に配置したのです。
「大きい武力集団」であった場合は、「武田氏系青木氏」の様にその力を使って土佐域に配置したと観られますが、小集団であった事から「南域の三間と立間地区」の配置と成ったのです。

さて、”墓の家紋が無い事”への理由ですが、「青木氏の掟」に依り「宗家の意」に反しての行動を採った場合は、一切のルーツのステイタスが剥奪されます。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」は、墓に家紋が無いとすると、「讃岐秀郷青木氏」の意に従わず、上記した様にペナルティがあったと観られます。
当然に、家紋は当然に一門のステイタスも失いますが、この事が上記した様に”一族の責任”を採ったのです。
つまり、お家にも南北朝の事で当然にこの現象が起こったのです。

「讃岐青木氏の庇護」の下で、農業をしながら、武士であった事から、この地の「郷士」或は「郷氏」に成って生き延びたのです。
生粋の農民では無く「半農の武士」と成って生き延びたのです。
坂本龍馬の様に、有名な「土佐郷士」と呼ばれたか、或は「讃岐郷士」と呼ばれていた事も考えられます。
「讃岐秀郷流青木氏」は、郷氏として何れも歴史上では「四国の戦乱」では「大きな役割」を果たした事で有名です。
中でも山内氏との「土佐郷士」との戦闘は、過激で激戦した事で有名ですね。
何せ、この四国では、「讃岐藤氏であり秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」の、この「郷士や郷氏の協力」を得られなければ戦いには成らなかったのです。
潰れた豪族は、この土地の「武力集団」の「郷士団」の協力を失ったから短期間で滅亡したのです。
逆に、この多くの地域の「郷士団」に対して調略も働く事も強かったも云えるのです。
「お家の郷士」と成って居た見張り役の”「秀郷流脩行系青木氏」”も ”「曽根の讃岐秀郷流青木氏」”も、この「郷士団」を支配下に入れていた「讃岐秀郷流青木氏の意」に反して、これらの「調略」に載ってしまった事が在った可能性も否定できません。
故に、お家の「脩行系青木氏」は、この事から遂には農業に専従し、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は潰されたのです。
お家のお墓が1667頃に荒廃しているところから観ると、何かがあって、「青木氏」を捨て、「郷士」を捨て農業に従事したと推測されます。
「合力」の様な事が在ったとして、せめての「農業」に従事出来たとすれば、「讃岐秀郷流青木氏の意」に逆らっての「小競り合い程度」の「合力」の内容の如何で、許されて「農業」に専従できたと考えられます。
「合力」も何もなければ、「讃岐郷士」の身分で終わっていたと観られます。
恐らくは、お家のお墓の荒廃が1600年前後にあったとすると、少なくとも「郷士の立場」も失う何かがあった事が考えられます。


故に、お家には、紀州での事件もあって、ステイタスも無く成って居る事もあって、最早、頼る事も出来ずに、「讃岐秀郷流青木氏」の許可を得て”農民”となったと考えられます。

恐らくは、途中で何とか家を興そうとしたが、讃岐での長い間に「ルーツの伝統」を失い、龍神から来たと云う口伝だけが遺され、家紋もルーツも郷士も失って仕舞ったのです。
そこで、ご先祖の誰かが間違えた「ルーツと家紋」の矛盾の持つものを作り出してしまったのです。

後に、ご先祖の誰かがこれに気付き、そこで矛盾のある「青木氏」から明治期には苗字令により矛盾の無い様に関東屋形の一氏の「・・氏」に替えたのです。(「・・氏」は依頼により匿名)

その時に消えて忘れられていた「ステイタスと家紋」を、「丸に州浜紋」を間違えてか、周囲の滅亡した豪族の類似する「三つ巴紋」にして、それに合う様にルーツを戯曲して「・・氏」にしたか、或は、その戯曲に合わせて類似する「宇都宮氏等」の家紋をこれまた「矛盾」を含む事を採用して仕舞ったと観られます。

讃岐に移動してから、江戸期までの200年は、「讃岐秀郷流青木氏」の下で「郷士生活」の波乱の中にあったのですが、そして江戸期の安定した200年近い「農民生活」からの「伝統の忘却」が起こったのでしょう。

ここで、お家は、正しくは、元は、過去の柵みを無くせば、室町期には上級武士であって、室町期末期までは「郷士の立場」にあった筈で、家紋は「州浜紋」で、「秀郷流佐野氏族脩行系青木氏」で在ったのです。脩行の母方が摂関家に繋がっている事が読み取れます。
そして、そのルーツは駿河付近に定住していた秀郷一門と成ります。これは間違いありません。
そして、紀州と伊勢と駿河に親族がいる事を意味します。

>なお、当地を訪れた最大の目的であった『墓石の家紋を確認する』は果たせませんでした。どの墓にも、一つとして家紋が刻まれていなかったためです。
>よって曽根青木家の家紋は不明のままです。
>恐らくこの「曽根の讃岐青木家」は、土佐側から、四万十川沿いに移動(愛媛県鬼北地区は、土佐四万十川の源流に当たります)してきた讃岐青木氏の末裔とお見受けしますが、この点は副管理人様の評価・分析をお待ちします。

良い点に目を着けられました。所謂 青木氏の”歴史観”が出て来たようですね
これには、「青木氏の掟」の理由があるのです。
そもそも「青木氏」は、墓などに家紋(正式には青木氏の賜姓族では「家紋」では無く「象徴紋」と云う。)を付ける事が朝廷より古来より許された数少ない氏族です。
そもそも墓は上級武士以外には作れなかったのです。
一般の武士でもせいぜい「砂岩の石」を簡単に加工しての簡単な作りしか認められていませんでした。
庶民は墓所は明治初期までありませんで認められていませんでした。
大抵は土葬でその上に砂岩の石を一つ積み上げる事しかしなかったのです。
現在の様に、禁令が解けたために「花崗岩の墓所」と「家紋を刻む習慣」は明治期に入ってからの事です。
従って、江戸期以前の武士の墓所には砂岩であった為に刻んでも直ぐに消えて仕舞う事が起こったのです。一応はそれなりの武士の家柄では刻みますが20年もすれば消えて仕舞います。

しかし、氏家制度の社会の中では、宗家の意向と威光に従いますので、家紋などが無い事は、本家宗家との間に何かステイタスと伝統の継承が出来ない何かの異変が起こった事を示しています。
これは家紋のみならず、「戒名の院殿居士」の使い方にも関わってきます。
墓のみならず、仏殿の曼荼羅にも関わってきます。

「青木氏」は、上記した様に、「密教浄土宗」ですので、家紋では無く「象徴紋」と呼称され、原則、変紋や副紋はありません。総宗本家と同じ象徴紋を使う事に成ります。
従って、「象徴紋」の使用は厳しく扱われます。
秀郷一門青木氏は、宗家の許可で121紋の中で変化します。
依って、墓石に家紋が刻まれなかった理由は、上記の事が起こった事に依る理由以外には有りません。
「讃岐青木氏」の宗家の意に従わなかった事からステイタスをはく奪された事になります。
墓所も朽ちている処を観ると、何かがあって衰退滅亡して居る筈です。
この時代では「宗家の意」に反しての行動は放置しておくことは先ずあり得ません。

家柄から観ると、家紋は「下り藤紋」で、副紋は讃岐の本家筋の宗家は「雁金紋」ですから、副紋がこの地域の最大豪族の家紋を副紋にしている筈です。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の家柄から、本家筋と同じく副紋方式を持っていた筈です。
意外に雁金紋で在った可能性が高いと観ます。
副紋に「公家紋」を使用している可能性が有ります。
宗派も変えているところを観ると、「讃岐藤氏」の代表家紋の「松紋」(三階松紋等)を副紋としている可能性が有ります。

地域から「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の背後には、「武田氏系青木氏の土佐青木氏」が控えていますので、南から北への移動は無いと思います。
むしろ、上記した様にお家と共に北からの移動です。
「讃岐秀郷流青木氏の戦略上」から背後を固める意味からも北から南への移動と成ります。
南から北への移動は、一族との争いが起こりますので不可能です。
それだけの公家化した勢力は、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」には無かったと考えられるます。
それこそ反逆者で完全に根絶やしの滅亡の憂き目を受けて仕舞います。
恐らくはその後の行動も含めて、「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の「墓」が荒廃しているところから、”根絶やしの憂き目”を受けていた事が考えられます。

そもそも「本家宗家の意」に逆らえば、どの様に成るかと云うと、「讃岐シンジケート」が掟を護る為に必ず「影の力」が動きますからね。何処にも逃げる事は出来ません。
宗家が手を出さなくても、「シンジケート」が処置しますので、滅亡の憂き目と成れば、成るのです。
つまり、お家は、周囲の豪族に合力したとしても、「シンジケートの粛清」を受ける程に、そこまで「厳しい処置」を受けなかった事を意味し、「農民」で生き残れたのです。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」のお墓が荒廃している事となれば、”歴史観”から観れば、恐らくはこの「影のシンジケート」に次第に目に見えない形で末孫までも粛清を受けた可能性が有ります。
独自の菩提寺と天台宗のステイタスを持っているところから、子孫が簡単に自然に絶えると云う事は先ず無い事です。

例えば、ドラマで、”山から山賊が降りて来て、村を焼き払い皆殺しにする”と云う場面がありますが、この様な場合は、”歴史観”から観れば、”「シンジケートの仕置き」”と観るのが正しいのです。
これも当時の「武家社会の掟」の”歴史観”です。
”反対し反抗すれどそれで済む”と云う安易な武家社会では決してありませんでした。
これが”歴史観”です。
「氏家制度の社会」を保つには、保つだけの厳しさもあったのです。

「山賊」等も山に家族を持ち住まいしていますが、「シンジケートの経済的支援」を受けていて、その為に「組織の取締」の云う事を聞きますので、勢力圏の中で無暗に村を襲うと云う事は先ずありません。
”「山賊」”と云えども、元は、地域の土豪であって、勢力争いに負けて潰されて、一族が山に籠った者達なのです。
これを大きい氏族がシンジケートの中に組み込み、「経済的支援」をして、「組織の力」に成って働き生き延びていたのがこの山賊達なのです。
普通は、「山賊」ではなく、「山族」なのです。
”いざ、戦い”ともなればシンジケートに従って参加しますし、「讃岐秀郷流青木氏」の様に「二足の草鞋策」を手広くする場合は、その”運送過程の安全”なども担当する役目を負っていたのです。

(そもそも、「四国の山族」の殆どは、元は「平家の落人」が逃げ延びた地域なのです。従って、そもそも”山賊のシナリオ”は無いのです。
「紀州龍神村」の奥手は、元はこの「平家落武者の村」なのです。「平家落武者の村」として観光地としても有名です。
この村は「十津川村郷士」と呼ばれて、今でも有名で剣道では日本一ですし、山奥村です。これも山賊の歴史観の一つです。)

ですから、無暗に襲えば組織から今度は自分達が潰されます。
これが、”戦国時代の歴史観”です。
この”歴史観”が無ければ昔の社会の在り方を正しく理解して掴む事は出来ません。
「讃岐秀郷流青木氏」の中での「合力」には、単純な合力の意味だけの事では無く、この”歴史観が大いに働く事に成ります。生か死かの選択です。
「土佐一条氏に合力」には、この歴史観を租借する必要があります。
果たして、”本当に「合力」をしたのか”と云う疑問をこの”歴史観”から持つべきなのです。
「郷土史」などは簡単に「合力」と書いていますが、ここに検証として「郷土史」には問題があるのです。検証に必要とする”歴史観”が不足している事が判ります。
でも、滅亡させられずにお家のご先祖は農民として生きていますよね。
そして、「讃岐秀郷流青木氏」は戦後の昭和20年までその勢力を維持していましたから、「郷土史の論説と検証」は変ですね。

そもそも明治10年頃までこの各地の青木氏の「シンジケート」が生きていた事が記録から判ります。
明治初年から10年頃まで続いた一揆などの騒乱にはこの「青木氏のシンジケート」が働き、一揆などの背後からの支援がなされていた事が記録に遺されています。

>ただ、丘一つ越えた土地にこれだけ堂々たる青木氏が居住する同時期、当家が『青木』を名乗って暮らしていたとなれば、逆に当家が『青木』を詐称できた可能性はほぼ無くなったのでは、と考えます。
>三間町曽根を含む鬼北地区には江戸期、少なくとももう1軒の『庄屋青木家』があったことも確認されており、当家が彼らの庇護の元で帰農し生きてきた青木氏、という具体的な図式が、逆に見えてきたように思われますが、いかがでしょうか。

両方共に、全くその通りです。異論はありません。
いよいよ”青木氏の歴史観”が出て来ましたね。
実はこの事をまっていました。
上記しました様に、氏家制度の社会の中での武士から転身して生き延びて行く為には、ある組織の中の庇護の下で静かに生きて行くことが必要なのです。
逆らえば、それなりの覚悟が必要です。
現在感覚では考えられない”歴史観”の必要な事が起こっているのです。
この”歴史観”は、歴史知識をより多く獲得して応用する事だと思います。
それには、青木氏であるので本サイトの論文をお読みください。
必ずや、この”歴史観”が得られます。

この青木氏の歴史観から観て、お家は必ずこの上記した論説の中にあったと観ています。

では、何か判りましたらお便りください。



 


  [No.997] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/09/03(Wed) 15:30:26

 重ねて連投となりますが、新たなデータが入手出来ましたので、どうかご容赦下さい。
 前回ご報告した『曽根青木庄屋』の他にもう一つ、愛媛県西南部鬼北地方にあったという『青木庄屋』の情報です。

 このお家は前回の「曾根の讃岐秀郷流青木氏」庄屋から南東方向(地政学的に言えば『土佐側』)へ数キロほど離れた、ほぼ『隣村』と言ってよい土地に現在も暮らしておられます。
 『鬼北町吉波』という地名です。
 そのご子孫の方とコンタクトが取れ、わずかではありますが(理由はプライバシーにも関わりますのでご容赦下さい)、しかし決定的な証言を得ることが出来ました。

 『家紋は武田菱』。

 そう聞けばもう「武田氏系青木氏の土佐青木氏」の末裔と見て間違いなし、と考えます。土佐南西部に居住した勢力が、この地までその力を伸ばしていたわけです。
 実は事前に、なんとなくそうではないかと思っておりましたが、やはりその通りでした。
 副管理人様の分析をお借りしますと、『背後に「武田氏系青木氏の土佐青木氏」が控えている』とのことでしたが、まさに背後も背後、すぐ隣までその力が迫っていたわけです。
 毎度のご慧眼、恐れ入ります。
 以降、このお家を『吉波の武田氏系土佐青木氏』とお呼びしてよいと考えます。

 ところで、当家が暮らしてきた場所は「曾根の讃岐秀郷流青木氏」から北西方向に数キロ離れております。(正確な数字は住所が特定できてしまいますのでご容赦下さい)
 実はこれを地図上で見ますと『吉波の武田氏系土佐青木氏』の反対側、つまり当家と『吉波の武田氏系土佐青木氏』を結んだ線のちょうど真ん中に挟まれる格好で「曾根の讃岐秀郷流青木氏」が居住していたことになるのです。
 再び副管理人様の分析をお借りして『「曾根の讃岐秀郷流青木氏」を見張っていた』としますならば、いささか出来過ぎなような気も致しますし、当時そんな正確な直線を引ける地図があったとも思えませんので、恐らく偶然とは思います(苦笑)
 が、実際、そのような地理関係にあることは事実であります。

 実は、更にロマンといいますか偶然の一致があります。
 当家が最初に暮らしたとされる場所(現在の家のすぐ裏手になります)から、『青木姓』が刻まれた当家の旧墓地がある向かいの山を望む、その直線上に「曾根の讃岐秀郷流青木氏」と「吉波の武田氏系土佐青木氏」があるのです。
 つまり我が家から先祖の墓の方向を見れば、すなわち二つの青木氏の居住地を遥かに望むことになるわけです(もちろん幾つもの山に阻まれて直接見ることはできませんが)。
 地図でこれを発見して驚きましたが、偶然の一致にしても出来過ぎだろう、と苦笑した次第です。
 ですが、もしやすると我が先祖は、日々の暮らしの中で当家の墓を望むたびに、その先にある『青木』の縁に思いをはせるべく、このような配置をしたのかもしれません。

 いかにもロマンティックな想像で申し訳ありません。
 ただ、亡くなった大叔父が遺したわずかな文書、それも廃棄寸前のところで確認された文章から、わずか数ヶ月で気づけばこんなところまで来てしまったことを思うと、『まるで何かに手を引かれたようだ』と思っても致し方ない、とご容赦下さい。


 それにしても、以前もちらりと思ったことがあるのですが、この『四国西南部』という場所にこれほど多彩なルーツを持つ『青木氏』が居住していることは驚きです。
 あるいは実際に、四国を統括していた「讃岐秀郷流青木氏」にとってこの地は、言葉は悪いですが『厄介払い』の地であった可能性もあるのでは、と思っております。
 土地も海も豊かで、静かに暮らしていくのに不自由こそしない一方、「讃岐秀郷流青木氏」の本拠地からは余りに遠く、多少やんちゃをしでかしたところで影響は少ない。そこに当家や「吉波の武田氏系土佐青木氏」のような逃亡者、あるいは「曾根の讃岐秀郷流青木氏」のような身内のはみ出し者を配置する、『保護』という名の『飼い殺し』にする、そういう目的に適当な場所であったのではないでしょうか。

 まだまだ素人の域を出ませんが、お教えのお陰で多少、四国・伊予西南部の構図が見えて来たような気が致します。
 またご意見・ご批判ををいただければ幸いです。

 
 


  [No.998] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/05(Fri) 07:22:12

今日は。早速、お便りをお読み頂けましたか。

さて、早速ですが、お便りのお説は、何も偶然ではありません。
ご推測は仰る通りの事です。間違いないと思います。
むしろ、配置関係から、この様にした事を証明しているのです。

この事に付いて、古来より、中国の文化の影響を強く受けいて、その原則論が日本の慣習の中に遺ったのです。
現在も田舎に行くとこの原則に沿って処置している慣習の地域が遺っています。
この”ある原則”が讃岐の中にもあったのです。
筆者も、この四国の青木さんを調べた時期が在りました。
「青木氏の分布と子孫力」と「武田氏系青木氏」の中でも、この原則で四国の分布が出来ている事を論じていて、逆にそれが、証明にも成って居るのです。
つまり、前回の”歴史観”の重要な一つです。明治までこの原則が多く使われました。

つまり、この世の”物事の構成”は、この原則に沿っていると云う論理の論説です。
ですから、古来の事で、ある事象が歴史上で見つかったとすると、先ずこの原則に沿っているかと云う事の検証を行います。

況や、この世の「物事の構成」は、”四ー六の関係”にあるとしています。
中国古来の学問の五行説、又は五行思想で、これを後に日本で発展させた陰陽説と組み合わせて出来た思想で、この中の一つに、更に生活の中に取り入れた古来学問のこの「四ー六説」があります。
日本のみならず、思想元の中国でも、現在でも、この「四と六の関係」を「庶民習慣」の中でも取り入れられています。

大変に難しい説で、簡単に云うと、全ては、四の数によって構成されていて、この四の組み合わせから外れるものは、六の数によって構成されていて、この原則を護る事で物事の処置が上手く行くと云う考え方です。
従って、”五はその中間にあって、何れにも属さず、何れにも属す”と云う考え方をするのです。

今回のお便りも、この原則の中にありますね。
「土佐の青木氏」の配置先と、青木村の関係、阿波青木氏との位置関係、等この原則に沿って出来ています。

研究室の論文にもこの事が記述していますので、注意してお読みください。

因みに、皇族賜姓族は「第六位皇子」が臣下した「青木氏」です。
依って、「第・四位皇子」までは「真人族」として「皇位継承権」が与えられます。
そこで、「第・六位皇子」は「朝臣族」として一階級落としての身分として、「侍」として臣下させます。
つまり、「賜姓・五役」を持った「・三つの発祥源」の「賜姓族」です。
そして、「・・王」と呼ばれる「皇族の皇子」は「第・四世族」までとし、「第・六世族」は「無冠の侍」と成って地方に配置されます。
鎌倉幕府を牛耳った「坂東八平氏」はこの「第六と第七世族」です。
この原則に合わない者は「無位無官の僧侶」となるか、「氏」を構成できない「単なる個人の侍」に成るかの「選択原則]が敷かれます。
ここで、では、”「第五番目」はどの類に含まれるのか”と云う事に成ります。
何れにも属せず、何れにも属する”のですから、”幅のある選択”が働くのです。
この場合は、結局は、その「物事の本質」、例えば、上記の事で云えば、その「皇子の本質」ですから,その”皇子としてのあらゆる意味の「価値評価」即ち、「人時場の要素」の配慮によって決まる。”によって決められます。

現在でも、難しい判断の時には、よく使われているのが、この「第五の位置」に属する物事ですね。
まさに「俳句や和歌」は、この原理原則の貴族の遊びで在ったのです。
五は「中間の意」、七は六を超えた「決まりの意」と成ります。
この「原理原則の言葉の組み合わせ」で「一つの情景」を如何に正しくうまく表現するかと成ります。
この言葉の使い方で、この四を原則としての使い方です。
四では、漢字で一つの意味合いを表現する「四字熟語」が在りますが、これで言葉は完成します。
これらは全て、「四の意味」と、「六の意味」と,「五の意味」の数字の使い方です。
これから明らかに離れた「七の意味」も加えての一つにまとめた情景を表現する文化です。
「文化」ですから、あらゆる民(室町期中期までは貴族を除く者を「百姓」と呼称していた。「農民の百姓」の意味は、「士農工商の身分制度」が定められた時からの呼称と成ります。)に浸透していた思考基準です。

さて、「土佐青木氏、−曽根の讃岐秀郷流青木氏−お家の青木氏」の関係は、「第五の位置」に無く、この「四ー六関係」の関係にある事は、”処置をしなければ成らない何かが在った”から、この関係式の処置を戦略的にしたのです。
この上記の[三つの氏」の周囲には、この関係する「四ー六の関係」の諸事が遺されている筈です。

お家に関する「讃岐秀郷流青木氏」の取った処置は、結局は、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に取った処置と異なっているのは、お家がこの「第五の位置」にあったからなのです。
この「四ー六の関係式の思考基準」から、何らかのパラメータ”を考えだし、”見張り役の郷士・農民”で処置したのです。

恐らくは、「お家の本質」、つまり、「人時場」から考えて、存続させるに値する氏、或は、「郷士」であるかの利点数を「讃岐秀郷流青木氏」が配慮しての答えであった事に成ります。
つまり、この「人時場」の「欠点の点数」が「五」に相当した事に成ります。
「六」であれば、”消滅させる憂き目”を受けていた事に成ります。

歴史の推理に迷った時には、この原則を以て判断します。
つまり、これが”歴史観”の”昔の人の目”で見た判断なのです。
思考基準の基が「現在感覚」とは、この様に根本的にお大きく違っていたのです。

ある歴史を持つ厳しい「脩行系青木氏」の「お家の位置関係」は、この関係式に当てはめれば昔の人の目で見て答えを出す事が出来たのです。
当然に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の事も、この「思考基準」で「歴史観」と合わせて読み取る事が出来るのです。

「讃岐秀郷流青木氏」は、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」をどの様にするかは、これで判るのです。
「讃岐秀郷流青木氏」が指揮する、「曽根の讃岐秀郷青木氏」への処置では、宗家の当主は配流する位置関係が最も思惑に対して都合よく行く配慮をするとすれば、次ぎの様な指揮と成るでしょう。

先ず配流先は、讃岐宗家の位置から、この「四ー六」の成り立つ位置関係の所に定め、更に、これを見張るお家との位置関係からも、この「四ー六」の成り立ち位置関係に置きます。
且つ、最も南域に居た「土佐の武田氏系青木氏」の位置関係も、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に、この「四ー六」の関係する位置に逼迫して移動させる処置を採る様に命じる筈です。

何処でも良いと云う事では無く、”指揮する者”とは、「他氏との勢力関係」、「曽根の讃岐秀郷流青木氏の動向」、お家の「見張り役の効果」をよりよく示す位置関係、現状の場所関係、等を命じる事に成ります。
これを受けて、「讃岐シンジケート」などがより詳細に、この「四ー六の関係」から決めて行く事に成ります。

そもそも、この場合は、この「四」とは距離にすれば「一里」です。
一里以内に近づけば、より親密に成り過ぎて、見張り効果を落としますし、二里ともなれば遠すぎて「見張りの役」は働きません。
これを一里以内の円内に納める事で、物事は何事に付けても上手く行くのです。
これをより効果的にするには、「直線の位置」に置くことでしょう。
”くの字”の様にすれば、「時間」と云う要素から「見張り効果」は低下します。
この原則に沿って、「場所」は四万十の川の領域、などで決められて行く事に成ります。
”戦略戦術の決定”として、「三つの氏」のそれぞれの位置関係を決めて行きます。
この場合、最も効果的にするには、大きい武力を持たした武装集団の「土佐の武田氏系青木氏」の位置関係を北に上げる事です。
「曽根の讃岐秀郷青木氏」に対する圧力を高められる事に成りますし、それを実行する能力をも持っていますから都合が良かった筈です。
従って、「土佐の武田氏系青木氏」の定住の位置関係が「青木村」を起点にすれば、北に上がり過ぎています。
明らかに、恣意的に上げたものと考えられます。
お家の「見張り役」は「静の四の見張り役」、「土佐の武田氏系青木氏」の「見張り役」は「動の六の見張り役」と戦略的に役割を判断させていたと観られます。

昔から、そもそも「六稲三略」と云う言葉が在ります。
「指揮する者」は、当時、この「四ー六の関係」から構成した「六稲三略の書」を会得しなければならない仕来りでした。
”物事を処置するに、定まった形式がある”とする「指揮要領の事」を描いたものです。
「指揮する者」は、必ず会得しなければならない「四ー六の関係式の心得」です。
江戸期までの「必読書」でした。
描いている言葉の表現が古いですが、その本質の概念は、現在社会にも通用する”「処世要領書」”だと思います。

お家の「見張り役」からの情報で、土佐の「武田氏系青木氏の武力」が北に押し上げれば掃討できますが、これが南に押し下れば掃討は失敗しますし、「土佐の武田氏系青木氏」の「青木村」の方に食い込んできます。
この好ましい戦術とは成りません。
この「六稲三略」から観ると、「土佐の武田氏系青木氏」の位置関係が青木村を起点にして突出し過ぎていて、「四ー六の関係]から好ましい陣形、配置、位置関係では無い事が判ります。
何かの事変に対応した配置関係にあった事が判ります。
北に押し上げて置いて、圧迫し、後は「讃岐シンジケート」に依って、「四ー六の関係式」から時間を掛けて処置する事に成ります。
この時間の間は、「四ー六の関係式」から、何らかの五の「硬軟の戦略」が採られた筈です。
筆者の持つ資料から、実は、「血縁関係」が採られた事を物語っているのです。
主には、それは家紋です。
「土佐武田氏系青木氏」の中に、「松紋の副紋家紋」の一氏が見つかっているのです。
この「松紋の氏」が拡がりを見せていないところから、明らかに「見張り役」としての「動静」を掴む「硬軟の戦略」(六稲三略)で在ったと観られます。
これが、往来や血縁であろうと観られます。
そこで、場合に依っては、問題と成っている「郷土史」にある「合力」も、この範囲にあり、そもそも「郷土史」が云う「合力」とは、この「範囲の事」で在ったのではないかと考えます。
この「三つの氏の位置関係」から、「戦いの合力」とは、「硬軟の戦略」の中の事では無かったかと観ています。
筆者は明らかに「戦いの合力」と「郷土史」は検証を見誤ったと観られます。
この「三つの氏」に挟まれた中で、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の「戦いの合力」は殆ど無理であると観られます。
その「合力」の前に、一里の中では、「見張り役」の土佐の「武田氏系青木氏」に、あっと云う間に潰される筈です。
まして、公家化した「曽根の讃岐秀郷流青木氏」であり、あり得ない「合力シナリオ」です。
仮に在ったとしても、「小競り合い」の中で終わりますし、「合力の調略」を進めて来た他氏も背後に有名を馳せた「赤兜」の「土佐の武田家氏系青木氏の武装集団」が控えているのです。
下手な動きはしない筈で、「調略」そのものがしない事が判ります。


以上ですが、実は、この「四ー六の関係式」での面白い話が歴史上に沢山あります。
例えば”天智天皇が記録で国家の標準時計を作った”とする記録が日本書紀にあり、調査班がそれを調べていると、これが飛鳥で見つかったのです。
この日本最古の「古時計」は、「漏刻」(水時計)と云うのですが、これにはこの「四と六の関係式」で出来ていたのです。
この一定に流れる水を、4段で一定にした御影石の壺に、サイホンを使って最後に溜まる池の水位で時間を定める方式です。
これには「時守」が、時を知らせる仕組みで「標準時計」を作ったのですが、この発見の決め手に成ったのが、この「四―六の関係式」で出来ていた事なのです。
これほどに、当時は何事もこの「四ー六の関係」を「生活の基本思考」と成っていた事例です。

お家のルーツも凄い着眼点に辿り着きましたね。
前回のお答えは、ロマンでも偶然でもないのです。
恣意的な処置の関係にあったのです
これが歴史マニアの歴史観の所以です。

この「一里関係」つまり「四ー六関係」の中に納まっている事の着眼点が大きなお家のロマンを拡げる基に成り、ルーツのロマンを証明する事に成ります。
「四ー六の事」や時計の事も研究室の何処かに描いていますので読んでください。
青木氏でも、「地名地形データ」でも調査しています。
メニューにありますので参照ください。
距離的な詳しい事はメモリー上から記していませんが、紀州におけるお家の事も「青木村」で書いていますので参照してください。
土佐と讃岐と阿波の青木氏の調査で大枠は掴んでいますので、他の論文も参照してください。
四国全体の中でのお家の位置関係が掴めます。
四国でのご先祖の生き様とそのロマンが拡がります。

今回の様な距離的な事は記述していませんが、論文の中での判断事項として「歴史観」としても良く用いています。
”距離の四ー六の関係式”は、”大事な「歴史観」”です。
是非、今後の歴史観として参考にしてください。
何時か、ご先祖の誰かが作られた由来書を、更に、進めてお家が本文の内容も含めて、「脩行系佐野氏族青木氏」の「平成の検証」として「由来書」を作られて、それを「末裔の方」が何時か読まれてロマンを遺されるのも一考かとも思います。


では、また何か判りましたらお便りください。


  [No.999] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/06(Sat) 07:16:41

さて、早速のお便りありがとうございます。

前回の「土佐の武田氏系青木氏」の情報は、「青木氏の分布と子孫力」の論文等で、既にこの事に付いて論じています。
この情報は青木氏の方でも把握しています。
更に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と[土佐の武田氏系青木氏」との繋がりに付いても、家紋調査での「松紋」の存在が確認出来ていて、血縁があった事が確認できています。
「青木氏の分布と子孫力」の論文の「四国の処」の土佐域の検証のところをお読みください。
詳細は披露する事が出来ませんが、お家のご推測の通りであります。
確認して頂きました事に成りましたが、良くここまで辿り着けました事に実は驚きました。
筆者の情報源は、研究した段階では、”推測した内容”をある四国にある[鉄道マニア」の「歴史マニアグループ」に提供し,それをグループの方に確認して頂く方法での情報で、把握していました。
この様な事でのお家のお便りのお答えに成っています。

何よりも、「讃岐秀郷流脩行系佐野氏族青木氏」の讃岐での存在が確認出来た事は、「青木氏」に取って大きな収穫です。
残留組と伊勢組と駿河組の存在は確認できていますので、残る派一つの讃岐組が判りました。これで「4つの組の存在」がはっきりしました。
はっきり云って、始めはここまで南域に定住していたとは、思いませんでした。
推測では、末裔が生き残り存在するとして、せいぜい、愛媛域の今治か伊予付近と予測していました。
「讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」の勢力図と「お家の立場」(脩行系青木氏)から観て、四万十川流域の北側とは予想もしなかった事です。
「お家の位置関係」を聞いてからは、「讃岐秀郷流青木氏」の中での「宗家ー本家間の勢力争い」があった事は承知していましたが、これほどまでに厳しい内容であったとは考えられませんでした。
確かに、四国は江戸初期1600年前半まで「小競り合い」を含む争いがあった事は判るのですが、「讃岐秀郷流青木氏」の「勢力圏の南域」にまでとは、推理が及びませんでした。
しかし、考えて観れば、山内氏の「讃岐秀郷流青木氏を含む郷士」との争いから考えて観れば、あり得る事だと思いました。
本拠地青木村を東に持ち西に延びた「土佐の武田氏系青木氏の勢力圏」からもあり得る事だと納得いたしました。(西域に伸長し過ぎた帰来はあるが)
この推測不足の一つは、「讃岐秀郷流青木氏」は、「二足の草鞋策」で、瀬戸内全域を基に広島域から島根域の宍道湖まで、「出雲社の亀甲集団」と連携して北に、その財力と武力の勢力を使って、伸ばした事の意識があり、一方の「四国の郷士団勢力」の南西域に伸長する事が得策には成らない地域に押し出していた事が「筆者の発想不足」と成っていました。
しかし、「六稲三略」からの戦略上からは、”大いにあり得る事だ”とお便りを最初に頂いた時に考えました。
「大きく成り得た氏」としての宿命の「勢力争い」から来る処置と判断をし直したものでした。

場合に依っては、「讃岐秀郷流青木氏」は、「陸奥の国の弘前」までその勢力を拡げ、子孫末裔を配置していますので、当初、お家の立場上、弘前の方か、宍道湖に配置された一族に振り向けられた可能性が有る事も推測していました。
その後、調査依頼で得た「連携する歴史マニア」からの情報で、この処置は無い事が判っていました。
問題は、お家の家紋が州浜紋類であるのですが、ステイタスが消失している事から、正しい家紋が判りませんでしたし、思わぬ地域であった事から、実は、充分な「追跡調査」は出来なかったのです。
「郷士」と云う括りで、「土佐の武田氏系青木氏」からの「勢力伸長の方向」から四万十川沿いに、特に、この「三間の山間部域付近」に「郷士団の分布」が有るかの確認をしました。
それは、紀州の龍神村付近にも、前回のお便りにも書きましたが、”山間部には郷士団”が多いのです。
(お家は「土佐郷士」か「讃岐郷士」か「三間郷士」であった筈であるが、江戸期で消えている。)

つまりは、前回のお便りの「シンジケート」も、この様な「郷士団」に依って構成されているのです。
特に、四国、特に山内氏に観られる様に、「幕末の土佐」では、「坂本竜馬」や「武市半平太」にも観られる様に「郷士団の結束」は特に強かったし、各地に分布していたのです。
(郷氏家の当主は皆殺しにあっている。「長曾我部の再興運動」にも利用されて衰退した。)
「小さい郷士団」が多く集まり、更に「大きい郷士団」を構成していたのです。
当然に、そうなれば、讃岐の幾つかの青木氏には、大小はあるにしても讃岐秀郷流一門にしては、讃岐伊予の国の「郷士団」はあった筈です。
(「讃岐秀郷流青木氏」は枝葉を拡げていた一族一門の末端までこの「郷士と郷氏団」で固めていたのです。「土地持ち郷士」が多かった。)
況して、平安期には、紀州と四国は「平家落人の里」として、判っていますので、彼らは「平家郷士団」を山間部で作っていたのです。
紀州の紀伊山脈の山奥の「戸津川村郷士団」の様に、四万十川沿いにも四国遍路でも説明している様に山間部には「平家郷士団」がある筈です。
この事から、確認いたしました。
お家の父上は「通名」からのご推測でしたが、敬服いたしました。
確かに緩い血縁関係を持っていた事が判っています。

そして、広域の山間部域の三間地区には「郷士団の村」が有った事が確認できたのです。
三間の「脩行系秀郷流青木氏」と「土佐の武田氏系青木氏」と、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は兎も角も、この二氏の「郷士」には、更に、前回の「五」の「硬軟の戦略」を採る上でも当面、地域を固める上でも、この「平家の郷士団」との血縁も少なからずあったと観ています。
(「平家郷士団」は多くの姓に成っている。天台宗系の顕教には「郷士又は郷氏の武士」の慣習は原則は無い。青木氏の血縁は同族血縁か、娘の女系で行う習慣にある。)
後は、何はともあれ、お家と「土佐の武田氏系青木氏」との三間での血縁は、勢力は別にして「ルーツの家柄」から観て、同格以上であるので、血縁があったと観られ筈ですが、何かこれを示すものが見つかりませんかね。
例えば、家紋とか、江戸前の「親族の姓」とかから繋がる物があったら良いのですが。
筆者も調べて観ます。

では,何かありましたら又お便りください。お待ちしています。


  [No.1003] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/09(Sun) 08:39:59

今日は.お久しぶりですね。
お元気でしたか。
ルーツの調査を根気よく続けられている様ですね。
「ルーツ探索」は、本当に”根気”が必要で、その根気を続けるには、「雑学の歴史観」が大きく占めていると思います。
この「歴史観」が無ければ、なかなか前には進みませんし、本当の答えに突き当たりません。
ですから、嫌気がさして、止めて仕舞う人が殆どです。
しかし、この「歴史観」を会得すると逆に「歴史の紐解き」が出来て、更にヤル気が出て来るものです。

さて、この度の”お便り”には,この「歴史観」が是非必要と思います。
特に、武家のルーツには、是非知っておいた方が良い「歴史観」です。
特に、「秀郷流青木氏」には、是非知っておかねばならない知識です。

その「歴史観」とは、当にこの”巴紋”の事です。
では、控えていましたが、その説明の意味合いが出てきましたので、ここで敢えて「巴紋」についてより詳しくご説明する事にします。
恐らくは、この情報で、今回のお便りの紐解きに成ると思いますし、又、お父上の疑問も解けるものと思います。

では、その「”巴紋”の歴史観」をご伝授します。

そもそも、「巴紋」は、紋としては「文様紋の部類」に入ります。
「文様類」は、他の「植物紋」などと異なり、「生活の習慣」を一つの自然現象の中の現象を表現して、それを図案化したものなのです。
それだけに、”大きな意味”を持っています。
この「文様類」の中味を知る事は、”先祖の生活習慣”を如実に知る術と成ります。
ですから、この「文様紋」には、次ぎの様な経緯を持っています。
特に、この”巴紋”は「武家」の「文様」としては代表的なものです。
「武家の歴史」を物語るものとして代表的な物なのです。
本来、この由来は武具の鞆(とも。弓を射る時に左手首につける革製の道具)から来ています。
つまり、鞆の形に似ている事から、先ずは、”鞆絵”(鞆の役割を擬人化して絵化したもの 平安期に多く武家の間で好まれ描かれた。)として用いられました。
これが、丁度、”水の渦巻”に似ているところから、”巴の字”がこの渦巻に似ているので、この字が当てられました。
何れも”トモ”、つまり、「水」の持つ意味や、「鞆」(鞆具の役割)の持つ意味や、「巴」(人の基)の持つ意味から来ています。

そこで、水は、”防火”の最たるものですから、平安末期に、”防火のお祓い”として用いられ始めたのです。
その為に、当初は身分の高い「武家の家」の”鬼瓦”に用いられたのです。
その後、”武家の車与”や”衣服の文様として用いられたのです。
これら全ては、当初は”「お祓い」”が目的でした。
そして、この「文様」をこの様に使っている事は、当初はその「武家の家柄」を示すものでした。
そこで、源平時代には「源氏方」が良く用いました。
ところが、院政時代に入ると、西園寺実季の氏が、これを最初は”車の文様”に用いました。
この為に、この「巴文様」が、上級武士の武具の文様などから、今度は、使用した西園寺氏の身分から肖って”家柄を権威づけられる文様”に代りました。
つまり、次ぎの様に変化したのです。
お祓い祈願紋ー家柄誇張紋ー権威の象徴紋―家柄の象徴紋ー結城一族の家柄誇張紋ー八幡宮の神紋

そこで、西園寺氏は、貴族でありながら武家としても立ち振るいましたので、その後、これを西園寺家が、「副紋」の”「家紋」”として正式に用いたのです。
それまでは、藤原氏や皇族賜姓族系の源氏等の貴族系の「高級武士の象徴紋」でした。

その為に、貴族と成った東国武士の藤原秀郷一族一門は、「総紋の藤紋」とは別に、”家柄を誇張する副紋”として、この「巴紋」を盛んに用いたのです。
「家紋」では無く、これを用いている者は、361氏の中の最高の「権威家」である事の誇示する象徴紋で在ったのです。
中でも、”「結城一族」を祖とする「関東屋形」”の「絶大な勢力」を持った「分家一門」が、敢えて、本家筋に匹敵する程の家柄を誇張する為にこの「副紋」を専用的に用いたのです。
そもそも、この「副紋」は、24地域に分布する「藤原秀郷一族一門」は夫々持っていますが、地域に依って異なっています。
中でも、「巴紋」を「副紋」とする者は、一族の中で、秀郷一門の中でも由緒ある「結城族」である事を指し示したのです。
この「巴紋」は、依って「関東屋形の東国一族」を指し示している「副紋」と成ります。
これを「副紋」としている「高級武家」は、一目で関東の秀郷一門の「結城一族」である事を示す事に成ります。
由緒のある中臣氏ー藤原氏より古い奈良期からの歴史の長いトップ級の家柄を指し示す文様と成るのです。
それも”名誉ある「結城官僚族」(ゼネコン)”を示しているのです。
そこで、源氏の頼朝方に味方した藤原秀郷一門は、鎌倉期には、”藤原秀郷流宗家”を引き継いだ「朝光」が、「頼朝」の許可を得て「結城氏の本領」を安堵してもらい、始祖とする「結城氏」を再興します。(平家に奪われていた。)
この後に、この再興した「結城氏」から「関東屋形の氏」が発祥したのです。

つまり、「結城氏」は「藤原秀郷一門の祖氏である由緒ある血筋の家柄」を意味します。
「関東屋形」は分家筋一門ではあるが、祖は宗家に匹敵する家柄として認められていた事を物語る”副紋の象徴紋”であるのです。

中でも、その典型的な戒律を護ったのは「有馬氏」で、「下がり藤紋」を「総紋」とし、「副紋」を「左三つ巴有馬紋」として用いたのです。

そして、更にこの「巴紋の文様」は、「清和源氏」の分家の「頼宣」を始祖とする「河内源氏」が、この文様を、特に武具などの象徴紋に用いた事から、後に、一般の武士には、八幡太郎義家の「清和源氏」を祭祀する全国の「八幡宮の神紋」として用いられていたのです。
武士は、肖って、この源氏の守護神の八幡宮の「神紋の神助」を受けようとして、江戸期初期には一般にも用いられる様に成ったのです。

従って、この「巴紋」は、むしろ、「家紋」の扱いでは無く、秀郷一門以外には、「神助紋」として、秀吉が初めて用いた「五七の桐紋」と同じく、”江戸期の高級武士の副紋扱い”で在ったのです。
ところが、江戸中期以降には、最早、”誰でもが平気で用いる「神助紋」”として、使われる様になりました。

明治期には、農民も苗字を持ち、墓も持ちする様に成って、遂には、「墓の文様」にまでもこの「神助紋」を、「桐紋」と同じ様に、最早、「副紋」の域では無く、その域を超えて、”「家紋」”として平気で用いる様に成ったのです。
(墓は高級武士のみが祭祀する仏教手段でしたが、家紋の刻印は原則的に宗教の戒律で慣習は無かった。江戸期に入って、家康に依って浄土宗が密教を解いて顕教にした事から、この戒律は解けて行った為に、墓所を持ち得る武士階級によって江戸中期頃から用いだしたのです。

そこで、この「巴紋」には、更に知っておかなければらない事が在るのです。
それは、この巴紋91文様の内で、有名で主要な「三つ巴紋」は、「14文様」があって、基本は「左文様」です。

「左」が「主の上格」とされるには、地球の回転に依る磁力の影響で、この地球上のものは全てこの磁力に引かれて、左回転をします。この為に、左が主格としたのです。
この14文様の内で、8文様が「左巴紋」です。
この中で、「左三つ巴紋」は陰紋を除くと、主紋は3つです。
この内、問題としているのは、左は2つです。右は1つです。
この右文様が一つとする理由は、左に対して何かあった場合の副的なものとして使われる事から、一つと成っているのです。
つまり、8文様に何かあった場合は、この一つの右文様が使われる事に成るので、副としての意味から、一つに成っているのです。

さて、ここでこの文様について「歴史観」が必要と成ります。
先ず、上記した様に磁力の影響で「左」が「主格」に成るのですが、”左と右の意味の違い”を知っておくことが必要です。
「左」が主紋です。これを中心に考えます。
つまり、逆に云えば「右」には、”武家のある慣習的な意味”を持っている事なのです。
この事を知っておかないととんだ「判断間違い」を起こすのです。

そもそも、上記した様に、この文様の「三つ巴紋」は上級武家では「副紋扱い」で、作用としては「左」ですが、「右」は「左」に対して、”何らかの謂れ”が在った時に使うものとしての「副的な慣習」でした。

先ず一つは、例えば、「副紋」かこれを「家紋」(本来家紋文様では無い)とする場合には、妾子や嗣子が分家する際に、宗家や本家が「左」の主副紋を許さなかったとか、罪を犯したとか、養子続きの別れであったとか、濃い縁者関係であったとか、良し悪しは別として、”何かの意味や謂れ”を持った時に使用するものでした。あくまでも「副的扱い」でありました。
氏家制度の中で、「副紋」なのに「家紋」としたり、宗家筋、本家筋、主家筋との何らかの違いを示す時に用いられる様になりました。
従って、そもそも、これを”「家紋」”としている事に虚偽があるのです。
(以前のお答えにも、お家の主紋は巴紋ではありませんとするのはこの「歴史観」から来ています。「虚偽の氏」、つまり、家柄を搾取偏纂の虚偽した[明治期の氏」を物語る事に成る。)

次に、本来は江戸初期まで、「左」が主で、「右」は”「副とする武家の慣習」”でした。
例えば、平安時代には、左大臣は右大臣より下の階級扱いでしたし、主は左にするものでした。
ところが、江戸中期以降に、儒教やキリスト教等の外の習慣が多く入り、「右」が主で、「左」が副とする慣習が、下級武士や庶民の中で急激に拡がりました。
「右」が「人間の利き手」であるとする合理的なことから、上級武士や貴族などは「左習慣」を頑なに護りましたが、急激に広まったのです。
この日本の殆どの慣習は、平成の現在も「右」で続いています。
「仏前の仕来り」や来客時等では、主を「左」にする事は、「武家の家筋」であったところでは、未だ続けられている様です。


さて、お便りに依りますと、「讃岐武田氏系青木氏」の墓所には、”「右三つ巴の家紋」が入っていた”とのお便りですが、何らかの”上記の影響”を強く受けた事から来ていると観られます。
「讃岐武田氏系青木氏」では、その逃亡経緯から、「武田花菱紋」が「主紋」で、「家紋」と成り、「左三つ巴紋」は源氏系として「八幡宮の神紋神助」で「副紋」と成る筈です。
既に、”「副紋」では無く、「主紋」「の家紋扱い」と成っている”と云う事や、「右巴紋」と成っていることは、このお家のなかには、間違いなく、「讃岐武田氏系青木氏の家筋」に”何かの変化”が興った事を意味しています。
1765年とすると、この「時代性の影響」を間違いなく受けたと考えられますが、「家紋扱い」として4基もあるところや、「左」には「武田花菱紋」もあるところから、この「讃岐武田氏系青木氏」のお家の家筋には、上記の”何かの変化”があった事が、無視できないところですね。
一応は「左慣習」を護っていますが、主格の「左三つ巴紋」では無く、わざわざ源氏であるのに、「左」を使えない訳でもないのに、「右三つ巴紋」である事から何らかの「八幡宮の神紋神助」以外に何かあると思います。

この”「何かの変化」は何なのか”と云う事ですが、筆者は、”宗教”ではないかとの疑問を持ちます。
それは、「戒名」と「青木・・・ 源・・」と正規の通名を名乗りながら、片方では院殿の無い戒名とするのには何か無理が在ります。
本来、筆者が把握するお家では「讃岐の武田氏系青木氏」は「浄土宗」です。
その慣習は護られています。
しかし、「浄土真宗」です。「浄土真宗」は元来、正規の通名は使いません。「宗派の戒律」です。
更に、浄土宗は「釈」も使わないところから、この4基の一族は他宗派に改宗した可能性が有ります。
「青木氏」は、改宗は厳しい戒律で縛られ、改宗した時は一族から破門ですので、墓所や墓に関する事などの一切の慣習仕来りは使えません。
恐らくは、其処までに行かない事の何かがあった事を意味します。
墓所は完全に別にしての祭祀を強いられていた筈ですし、江戸中期以降にはその掟は緩くは成ったとは云え、墓の祭祀そのものも以後に続けられたかが疑問です。
1765年以前には家紋が刻まれて無い事も、「甲斐の皇族賜姓族」の「武田氏系青木氏」の「賜姓族の青木氏」としては、「象徴紋」であった事から墓所には刻む習慣がそもそも無かったのです。
1765年以降には刻んだのは、この江戸中期以降の左右の時代変化による事から来ていると観られます。
「武田氏系青木氏」には、別の「青木氏の浄土密教」の独自の”「仏舎の習慣」”が用いられていました。
父上が指摘する疑問点はここにあると思います。

つまり、「讃岐秀郷流青木氏」−「秀郷流脩行系青木氏」−「讃岐武田氏系青木氏」には、左右は兎も角も、この同じ「巴紋」が使われているところから、「讃岐武田氏系青木氏」の「三つ巴紋の使用」には、お家等の「本流の副紋扱い」とは別に、源氏方には「八幡宮神紋の神助」との違いがあるのです。

以上の様に、「歴史観」を駆使してみてみると、”そのルーツの成り行き如何”が、はっきりと判別できるのです。
他にもありますが、一般に判り易い例として、「桐紋」や「巴紋」の様な文様には、家紋が同じだからと云って、”一族にある”とは上記の理由にて限らないのです。
依って、以前の筆者のお答えの前提には、この「歴史観の要素の租借」が前提と成ってお答えしています。
この事も「ルーツ探究」には、雑学の「必要な歴史観」なのです。

更に、ルーツの為に色々お調べに成って、無関係であるように観えても、「歴史観」を蓄える事が出来れば、次第に読み取る力も付いてきます。
そうすると、「推測観」が拡大して、より正しい先祖の生き様のルーツに辿り付ける事に成り易く成ります。

お便りの要望により、お便りの内容は秘匿しました。
では、又お便りください。










  [No.1043] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2015/03/27(Fri) 16:14:18

 ご無沙汰しております。
 その後も当家のルーツ探求を続けておりますが、なかなか有力な証拠は見つかっておらず、報告も滞っております。
 が、一方で伊予の郷土資料を巡る中、伊予における青木氏の痕跡とおぼしきものをいくつか発見しましたので、青木氏研究の一助になればと思い報告を差し上げます。よろしくご評価いただければ幸いです。

 ひとつは、以前にも『青木神社』・『青木地蔵』の存在を報告した愛媛県今治市周辺で、かつての『伊予国府(未だに正確な場所が同定されておらず、研究が続けてられている)』に関する資料の中に、『青木里』の存在を確認しました。
 
 hhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/13/2/13_2_138/_pdf

 やや見えにくいですが、この資料の2枚目に国府付近の条里を記した地図があり、その西の端に飛び出すように『青木里』の記述があります。
 調べますと、国府の近くにあったことが分かっております『伊予の国分寺』に残された『寄進の記録』から、国府周辺の条里はほぼ再現されており、『青木里』に関する記述は『国分二寺領坪付断簡』なる文書中に記載されているようです。同文書には年号日付が入っておらず、いつの時代の記録であるのか不明なのが残念ですが、それが書かれた当時、青木里は国分尼寺の寺領であったようです。
 伊予国分寺が長宗我部元親侵攻の際に焼かれ文書群だけが残された、という経緯から、少なくともそれ以前、当地に『青木里』が存在したことは間違いないと思われます。条里のマス目から飛び出す格好で、ちょうど後からくっつけたように存在していることも、青木氏の移動に伴って新設された里なのでは、と想像されます。
 
 現在の当地は『今治市桜井』にあたり、もはや『青木』の地名はなく、また住宅地図などを見ても青木姓は確認できません。先日報告しました今治の『青木神社』が存在した『日吉里』とは、条里のマス目で言いますと一直線に西の端と東の端、という関係になります。
 また歴史的に見ますと、豊臣秀吉の四国征伐後、伊予東部は福島正則に与えられますが、一部が後に摂津藩初代藩主となる『青木一重』に与えられています。この時、彼が領有した『周布郡』は、この青木里のあった地のすぐ西側に接しています。摂津青木家はその後四十年ほど当地を領有しただけでしたが、当時、当地で代官を務めた一色家の末裔がその後も庄屋として根を張り、青木家から送られた手紙や文物を大切に伝えていらっしゃいます。
 あるいは青木一重が当地を与えられたのも、青木氏の縁があったからでは、と想像します。
 
 
 愛媛県内ではもう一箇所、こちらは全く由来がわからないのですが、大洲市に『青木』と『青木谷』の地名を発見しました。こちらは現在も『字』として残っておりますが、近隣に青木姓の在住は確認できません。2つの字は並んで存在し、近くには大洲を領有した宇都宮氏が関東から勧請したという『宇都宮神社』があります。神社の記録にはその際『古跡を再興した』とあり、本来の祭神は不明です。
 青木・青木谷は愛媛有数の大河『肱川』に面した土地で、その対岸には『神明神社(現在の祭神は倭姫)』があり(こちらのHPの神明神社リストには報告されていません)、その近くには『西光寺(現在は曹洞宗、由来は不明)』が存在します。またその2つの寺社が立つ地域は『若宮』の地名で記載されています。さらにそこから南西に下った場所には『青木大明神社』があり、江戸初期〜中期に書かれた大洲藩の記録に『由緒不明の祠』として記録されていますので、少なくともそれ以前の建立と見られます。長く『女神像』が祀られ、女性が出産に際し『男子祈願』をする祠として地域住民に守られていたそうですが、いつごろか像が盗まれ、ごく最近になって立派な神社へと建てなおされたようです。
 面白いことに、大洲の中心部から少し離れた山中にも『神明社』があり、江戸の中期ごろまでは境内を接するようにして『西光寺』という寺が建っていたことがわかっています。現在は社だけで、寺の方はわずかな遺構しか残っていないようです。
 大洲は青木氏の居住地としては認知されていませんが、肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは、と想像しております。
 
 以上、なにぶん素人の雑な調べ物ですので、さぞ粗ばかりと思いますが、一読いただければ幸いです。


  [No.1044] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/29(Sun) 16:30:00

お久しぶりです。

色々とご努力を成されていて感心します。
この度のお便りも楽しんで読まして頂きました。
ありがとう御座います。
今後とも宜しくお願いします。
歴史を好む者に執ってはこの上もない楽しみです。

そこで、「多くの情報」ですので、整理してまとめあげましたのでお読みください。
可成りの緊張感で取り組みました。

そこで、この事は、中々「専門的な領域の歴史観」ですので、判り易くする為に、次ぎの様に、追って論じて行きます。

>『伊予の国分寺』に残された『寄進の記録』から、国府周辺の条里はほぼ再現されており、『青木里』に関する記述は『国分二寺領坪付断簡』なる文書中に記載されているようです。それが書かれた当時、青木里は国分尼寺の寺領であったようです。

そもそも、「国分寺(金光明経寺)」と「国分尼寺(法華経寺)」は「聖武天皇」の「勧奨の詔」に依って全国の国に一つずつ建立したものです。
凡そ、744年頃から759年頃の督促で実現した寺ですから、既に、この時期に「皇族賜姓族青木氏」は「神明社建立」を10社程度を建立して居た事に成ります。
この後には、平安期の「桓武天皇]が20社を806年までに建立していた事が記録されています。
四国は、「秀郷流青木氏」が主体の地域ですが、「秀郷流青木氏」は960年以降の発祥と成りますので、この”「青木里」”なるものは少なくとも「平安期末期以降の処置」と成ります。

これには、理由がありまして、「青木村」の名称に関して、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、「氏名」を使った「村名の使用」を禁じていて、更に、「賜姓族の慣習仕来掟」の模倣の一切を禁じています。
従って、当然に「青木氏の村」の呼称も禁じています。
この「禁令」は、原則、「明治3年」まで護られました。(室町期中期に一度破られた)
もう一つは、「青木村」が使えない事から、「青木里」或は「青木郷」を使った経緯があるのです。
この禁令から「秀吉」がある事を理由(下記)に使ったとされる「青木里」である事が判っています。
そもそも、「豊臣秀吉」は、「信長検地」の意志を継いで、統一した国から直ちに”「秀吉検地」(1582年から)”を行う等をし、この四国は「長曾我部氏の制圧(1585年)」後にこの検地を行っています。
これが「青木里」の”「里」”の元に成り、”「青木」”の根拠は1580年頃に起こっています。
この「秀吉の検地」は、「信長検地」と異なり,税の納入方法、村単位の改革、土地の区分け方法、計算方法等を換えて統一性を持たせて改革をしました。

(「居住集団の単位」は、古来より「名」、「村」、[惣]、「庄」、「郷」、「里」があり、秀吉は「税の納入単位」をこの「村の単位ごと」にまとめて「納税する仕組み」を造りました。
地域に依っては、「名」でするか、「村」でするかは、その地域の「人口」とその「散在」の状況に依って変えました。
秀吉は特に、「惣」を無くし「「里]を加えて、内容を換えて五種で行う様に改めました。
但し、「町」に匹敵する「字]は[村]では無く、且つ、江戸期からの事であるのです。
そして、その「責任者」を定めて「名主 なぬし」や「村主 すぐり」や「庄屋 しょうや」の「乙名 おとな」等の「役柄の呼び名」で運営させました。
この時の単位が敷かれてその「郷里制」が遺っていた事に成ります。)

この秀吉が決めた単位の「里」の事を地域や地方では「日吉里」と一時呼ばれ,「申告制」から「石高制」へ移行を実行しました事を意味してその様に呼ばれたのです。

四国をほぼ統一した「長曾我部氏」も土佐だけ独自の検地を行う等をしましたが,結局は「秀吉検地」で行われています。
この事から、この「青木里」は、秀吉の最盛期の室町期末期の呼称と成ります。
その証明として、今回、それがお家の情報の中にも記述されています。


>伊予国分寺が長宗我部元親侵攻の際に焼かれ文書群だけが残された、、当地に『青木里』が存在したことは間違いないと思われます。条里のマス目から飛び出す格好で、ちょうど後からくっつけたように存在していることも、青木氏の移動に伴って新設された里なのでは、

この「青木里」は、「嵯峨期の詔と禁令」に依って”「青木村」”を使えない事から、秀吉に依って「青木里」にした事は判っています。
”「長宗我部元親侵攻」”の頃の直ぐ戦後期と成ると「秀吉の処置」と成ります。

徳川幕府も、室町期末期から勃興氏が社会を支配した事から、”「権威」”が崩れ秩序の荒廃が起こりました。
慌てて、今度は家臣に対して”「権威」”を作り出す為に「ルーツ」を作成して提出する様に命じ、この結果に対して「大名格」には「黒印状」を発行する条件としたのです。
この「政令処置」が家臣まで及ぶことに成りました。

江戸初期に起こった家紋群が爆発的に40倍程度に急激に増えたのはこの事から来ています。
幕府の令によって、ルーツの持たない立身出世した家臣等は、搾取、模倣、類似に依って、何でもかんでも兎に角「ルーツ」を作り出し、提示して、大名や一般武士の命と成る”「黒印状」”を獲得したのです。
ところが、今度は、逆にこの行為が社会に蔓延して、本来の目的とする「権威の獲得」が出来なく成って仕舞ったのです。
そこで、この「青木氏の村名」の”「青木村」”の様に、又、”「青木里」”の様に、その「権威]や「家柄」や「名声」を利用する為に「類似性のもの」が横行して”「権威」”と云うものが保てなくなる現象事が社会に蔓延したのです。
慌てた幕府は、そこで、この事を受けて、今度は一転して”「権威」”を保つ為に「類似村名」や[類似家紋」等に対して、”「権威あるものに対する類似性の禁止」”に出て、その「使用の禁止令」を発しています。

以上の事から徳川氏は、多くの「秀郷流青木氏を家臣団」に抱えましたが、”「青木村の権威」”に関しては一切手を出さなかった事は判っています。

では、徳川氏でなければ豊臣秀吉と成りますが、これには、「青木里」を使った経緯として、秀吉には、「青木氏に関わる根拠」が有るのです。
「秀吉」は「信長の意志」を継いで「蒲生氏郷」(伊勢秀郷流青木氏)に「伊勢攻めの三乱」の始末を実行させた際に、「権威」の無かった秀吉は「豊臣家の家柄」をよく見せ様としました。
この時に、「嵯峨期の禁令」を破って「秀吉の青木氏」を「豊臣家」の中に「青木氏」を発祥させ、「北の庄八万石」を与えて「青木氏の親族」を豊臣家の中に強引に創り上げたのです。
そして、”「従兄弟」だ”と発表したのです。
「伊勢三乱の始末」には「蒲生氏郷」を介して「伊勢青木氏との詰めの交渉」がありました。
この時に、[伊勢青木氏の譜」を利用して、類似の名で豊臣家の中に「青木氏」を発祥させたのです。

(蒲生氏郷と交渉に当たった伊勢青木氏の当代の名に類似させて、「青木紀伊の守一矩」と成りました。)

その後に、この末裔に、”「青木里」”を造らせてその親族を配置した経緯があるのです。
それが、「秀吉の四国征伐」の後に成ります。

(この”「秀吉の青木氏」は豊臣家滅亡で、徳川家康に依って除封されてその痕跡を抹消するべき処置を講じて潰されて滅亡します。

一部この末裔が、福井に逃げ込んだとする説もありますが、秀吉信望の歴史家の偽説で、詳細は「伝統シリーズ」で論じる事に成っています。)

従って、「青木氏の移動」は「青木里」である限りは無いのです。

お家の推理の「青木里の新設」は”「くっ付けた新設」”である事は正しいのですが、”「青木氏の移動」”では無く、「秀吉の青木氏の末裔の配置」なのです。
ですから、「徳川氏に依る除封とその処置」を受けた事から、この「青木里」は直ぐに消えたのです。(徳川氏の除封禄に記載)
 
>現在の当地は『今治市桜井』にあたり、もはや『青木』の地名はなく、また住宅地図などを見ても青木姓は確認できません。
>先日報告しました今治の『青木神社』が存在した『日吉里』とは、条里のマス目で言いますと一直線に西の端と東の端、という関係になります。

このお便りは、上記の事(「徳川氏に依る除封とその処置」)を物語っています。
「青木里」は「除封処置」の末に消えたのです。当然に、「青木姓」はありません。
「今治の青木神社」は「嵯峨期の禁令」に関わっていて、この「禁令」を歴史上で破ったのも朝廷の「執政の太閤」と成った事により、その立場を利用した秀吉ただ一人です。
「青木氏」を発祥させた事を根拠にこの様な事をしたのです。
これは「秀吉に依る神社」であって、依って、「日吉里」なのです。(日吉は秀吉の幼名)
故に、「青木里」と「日吉里」の条理の位置関係にあるのです。


>豊臣秀吉の四国征伐後、伊予東部は福島正則に与えられますが、一部が後に摂津藩初代藩主となる『青木一重』に与えられています。この時、彼が領有した『周布郡』は、この青木里のあった地のすぐ西側に接しています。
>摂津青木家はその後四十年ほど当地を領有しただけでしたが、当時、当地で代官を務めた一色家の末裔がその後も庄屋として根を張り、青木家から送られた手紙や文物を大切に伝えていらっしゃいます。
>あるいは青木一重が当地を与えられたのも、「青木氏の縁」があったからでは、と想像します。

さて、ここで,「摂津麻田藩の青木氏」は、実は、「武蔵七党」の一つで,丹治党の「丹治氏系青木氏」です。
この「丹治氏系青木氏」は、「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「青木氏」で、「皇族の者」が下族した等の時に名乗れる氏名として「嵯峨天皇」に依って定められました。
この「丹治氏系青木氏」は、「平安期の丹治彦王」の「現地孫」で、「丹治彦王」は罪を受けて、坂東に配流と成ります。
この時に現地の「武蔵七党」との間に出来た子供が、かなり後に成って「青木氏」を名乗ったのです。
この「丹治氏系青木氏」は、同じ地域に平安中期から「秀郷流青木氏」が定住していた為に、坂東の小土豪が互いに護り合う組織を作ったのです。
これが「武蔵七党」で、この七党の中でも丹治氏が一番力を持つていてリードしていました。
この中で、「丹治氏系青木氏」は乱世を活かして「立身出世」を夢見て,各地を移動して、信濃、甲斐、美濃と移動して行きました。
”「国衆」”と呼ばれる「傭兵軍団」で、信濃では「国衆」として働き、より勢力の持った豪族に移って出世のチャンスを狙っていたのです。
信濃の「国衆」になり、後に武田氏の「国衆」と成り、この武田氏も滅亡し、最後は美濃に移動します。
そこで、徳川氏と豊臣家の戦いが始まり、様子をうかがって、勲功のチャンスを建てる為に戦いの最中にきわどいところで「徳川方」に味方して、戦況は徳川方に傾くと云う勲功を上げました。
その結果、この「丹治氏系青木氏」は、先ず「摂津の麻田地域」の1万石を与えられ、武蔵の故郷と全国に「国衆」として散っていた一族一門を呼び寄せたのです。
これが、「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」です。
その後、「飛び地領」として、「弟の末裔」には「伊予の周布郡」の一部が与えられ、更には,「河内の地」も合わせての4000石も与えられます。
これが、伊予の「丹治氏系青木氏」の摂津麻田藩の一族の短期間の所領なのです。

「周布郡」と隣の「青木里」とは、直接的な関係はありません。
要するに、徳川氏が、「秀吉の青木氏」の領有していた「小さい土地」をこの「丹治氏系青木氏の弟 親族一統」に勲功として分け与えたものなのです。 
別系ですので直接的には、お家の「青木氏」とは”「青木氏の縁」”では全く関係はありません。
結局、「周布」の「福島正則の転封」等で、江戸期初期には郡制を大きく変えてこの「土地の整理と所領の整理」を行いました。
「大洲」も豊臣政権時では、戸田氏でしたが、これも徳川時代には除封とその処置を受ける事に成ります。
江戸期には加藤氏−蒲生氏−最終、支藩を含めて「伊予藩」(松平氏 郡制も変わり四郡に統一)のものに成りますので、「周布」に関しては無関係と成ります。

さて、興味のある事は、この代官とされる一色家は、伊勢から美濃、尾張に掛けて子孫拡大をした氏ですが、元は、「一色」とは、「伊勢王の施基皇子」の”「シキ」”を採って名付けられた地名です。
この「シキの地名」は、伊勢に最も多く、員弁桑名等から美濃、尾張に掛けて多くあります。
この「一色家」は、色々な説がありますが、磯城や志岐や志基等の地名が多くあります。
この地名から名乗ったとされるのですが、どの「ルーツ」とされるかは問題なのです。
恐らくは、この「一色氏の末裔」は、「二つのルーツ」があって、1−「伊勢青木氏」に関わるルーツと、2−同じ時期の従兄弟に当たる「天武天皇の皇子」の同名の「磯城皇子」のルーツの末裔の「二つ」の何れから出自していると観られています。
基本的には、同族血縁を繰り返していますので、どちらとも言い難い処ですが、伊勢より東寄りはその所領から、「磯城皇子]を始祖とする「一色氏の青木氏族」である事ははっきりしています。
依って、「一色氏」から「青木氏」を名乗る事は「嵯峨期の詔勅」で可能です。
これが、筆者の研究で、僅かに遺された室町期末期の美濃の「伊川津の青木氏」と観られます。

この「磯城皇子の子孫」も「嵯峨期の詔勅」で「青木氏」を名乗る事が出来るのです。
美濃には、「伊川津七党の青木氏」が在りますが、この「磯城皇子の末裔」の「一色氏の青木氏」ではないかと考えられています。
この付近には、「一色氏」と同じ様に、「施基皇子の青木氏」と「磯城皇子」の「嵯峨期詔勅」で名乗った「青木氏」と「一色氏」とが混在して判別が付きません。
更には、ここには「州浜紋の秀郷流青木氏」や、「片喰紋の秀郷流青木氏」等も定住していますので「青木氏の括り」では判別が付きません。(家紋分析で判別可)

そもそも「ルーツ」は同族ですし、仕事も同じであったのですから、当時の純血の慣習から「同族血縁」している事は充分に有って、判別そのものの意味も無いくらいに成っているのです。
歴史家の中でも,混在して論じている人もある位ですが、根本的には天智と天武の違い差があります。
その意味で、筆者は本来の始祖の一色氏のルーツは、「皇族賜姓族伊勢青木氏」の伊勢側にあるとして分類しています。
その後に、「施基皇子の末裔」と「磯城皇子の末裔」が何度も血縁を重ねながら二つのルーツを持つ一色氏は東域に分布して行ったと観ています。
「五家五流」の中の「美濃の青木氏」は、美濃の「土岐氏系青木氏」と共に、「源平の富士川の乱」で死滅しましたのですが、お便りの「一色氏」は、この一部遺された「磯城皇子系の一色族の青木氏」であると考えられるのです。

「青木家」から送られたとする手紙先とは、恐らくは「伊勢青木氏」か「伊川津の青木氏」かの「青木氏」であると考えられますが、「伊勢青木氏系の族」は四国に移動分布していませんので、極めて少ないとされる美濃か尾張に分布している衰退した「青木氏族一色氏」の「磯城皇子系」の「一色氏系青木氏」と考えられます。

確率は低いですが、場合に依っては、滅亡したとされる「一色氏」と同族血縁した「土岐氏系青木氏の傍系」が遺っていてその「青木氏」であるかも知れません。
いつの時代の手紙か判りませんが、実に「青木氏」としては興味深いところです。

ですから、”「一色氏」が「青木氏」と関わっているところでは”とするお家の推理説はその通り正しいのです。

ただ、四国には少ない「麻田藩の丹治系青木氏」と、この一色氏の手紙先の青木氏と、お家の大洲の「近江脩行系青木氏」と、「讃岐秀郷流青木氏」と、「土佐の武田氏系青木氏」と、「阿波の秀郷流青木氏」と「利仁流青木氏」とが存在したのです。
基本は、「讃岐秀郷流青木氏」ですが、上記しました様に何の不思議もない「一色氏系青木氏」を発祥させていたかも知れませんね。

「大洲」には、推測の域を全く超えませんが、あまり「子孫拡大」が図れなかった事から、”「青木」”と云う地名だけを遺したとも考えられます。
実は、同じ事がお家のご先祖の赴任地の紀州の地にも起こっていますよ。
お家の「ご先祖の跡の有田郡域」にはお家が引き上げた事に依って「青木の地名」だけが遺っていますよ。(地名地形データ参照)


>愛媛県内ではもう一箇所、大洲市に『青木』と『青木谷』の地名を発見しました。
>近隣に青木姓の在住は確認できません。2つの字は並んで存在し、近くには大洲を領有した宇都宮氏が関東から勧請したという『宇都宮神社』があります。神社の記録にはその際『古跡を再興した』とあり、本来の祭神は不明です。
>青木・青木谷は愛媛有数の、大河『肱川』に面した土地で、その対岸には『神明神社(現在の祭神は倭姫)』があり(こちらのHPの神明神社リストには報告されていません)、

然し乍ら、大洲市の「青木と青木谷」の地名では、「秀郷流青木氏の所縁の地」に因んでつけられた可能性が有ります。
この地名は、定住地であった可能性が低い事からサイトには載せていませんが、「讃岐秀郷流青木氏の所縁の地」である可能性が有ります。

恐らくは、「関東屋形」の「秀郷流の宇都宮氏」の「宇都宮神社」は、本来は「春日社」となる筈ですが、神社名を「宇都宮]としているところが、検証するべきところかなと考えます。
「四国宇都宮氏」を敢えて誇示する処から、名付けたと考えられます。
本来は、徳川時代までは、「宇都宮氏」が独自で神社を建立する事は許される事では無い事で、誰でもが勝手に神社を建立する事は出来なかった時代です。
この建立権は奈良期より、特定に朝廷か幕府の許可を得た限定した「高位の氏」にのみに与えられた権利です。

(「宗教」と云う事から乱立すると宗教に依って国の政治が左右される危険性があって限定された。)

「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の青木氏」の「二つの青木氏」は、この権利を以て神明社を500社にも上る程に建立しているのです。秀郷一門にも「春日社の建立権」を与えられています。

従って、「宇都宮氏」が「神社を建立する直接の権利」は、秀郷一門と云えど、「傍系族」である事から権利は本来ありません。
然し、乱世の時に、「宇都宮」として敢えて禁令を破り建立したのですから、「武蔵の宗家」から「勝手な行為」として観られ、氏家制度の社会の中では「厳しい軋轢」を受ける事は必定です。

そこで、「春日社」では無く、「宇都宮神社」として建立したのです。
故に、宗家から見放され、攻められても援軍を送る事無く、「最長100年程度の存続」しか許される事は無かったのです。
況して、直ぐ傍には、「讃岐秀郷流青木氏」が、東域に阿波にも「秀郷流青木氏」が居たのですから、それらの力を借りれば潰される事は無かった事は明明白白です。
そこを「長曾我部氏等の豪族」に見透かされ、然し、潰れ滅亡したのです。

以前のお答えにも論じましたが、”「氏の存続が短い」”と云う事は、何か氏に「存続]に欠かせないものが無かったから「短い」のであって、それは、「自らの力で解決できない能力」でありながら、それを読み間違えて突っ張った結果の現れです。
「戦国」とはそんな甘いものでは無かった筈です。故に”「戦国」”でした
何かの大きな庇護が無くては生きて行けない時代でした。

恐らくは、「讃岐秀郷流青木氏」は、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われたほどに、「瀬戸内の経済力」を以てして、「武蔵の宗家」に本家の「讃岐藤氏」と共に対抗して「武蔵の総宗本家」の意向に付いて云う事を聞かなかったのですが、この「生き方を真似た事」に依って読み間違えたと観られます。

故に、”祭神が不明とする”とか、「倭姫」と云う神を作り出す以外には無かった事に成ります。
これが、歴史観から観て明らかにその証拠です。

この「神明神社の祭祀」は、「祖先神」ではありませんし、「天照大神と豊受大神」を祭祀するものではありませんので、「正規の青木氏」が建立した社では無く、且つ、系列社でも無い事から記載していません。
又、時代性も信頼出来得る範囲の設定よりも大部後の建立ですので、記載はないのです。
「神明社」が正規の呼称で、「神明神社」は系列かそうで無い場合が多いのです。
この「神社」は正規の建設形式を持っている社でしょうか。
「祠に近いものを神社」としているのではないでしょうか。
江戸時代と明治初期には、禁令がある為に「祠」を多くつくられました。
「神社の建築形式」には、「大社造]や[住吉造」や「神明造」等があって、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」は、奈良期の古来より「神明造」と云う一定の神明社形式を持っています。
これで、その神社がどの系列の何時の時代のものかが判定できるのです。
尚、筆者が調べた範囲では「国の神社庁」の中には見つけられませんでした。
つまり、「青木氏の神明社」から観て、検証外の社である事に成ります。

>近くには『西光寺(現在は曹洞宗、由来は不明)』が存在します。またその2つの寺社が立つ地域は『若宮』の地名で記載されています。
>さらにそこから南西に下った場所には『青木大明神社』があり、江戸初期〜中期に書かれた大洲藩の記録に『由緒不明の祠』として記録されていますので、少なくともそれ以前の建立と見られます。
>大洲の中心部から少し離れた山中にも『神明社』があり、江戸の中期ごろまでは境内を接するようにして『西光寺』という寺が建っていたことがわかっています。
>大洲は青木氏の居住地としては認知されていませんが、肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは、と想像しております。

さて、上記に「秀郷流青木氏の所縁の地名」と書きましたが、それは、この問題に答えが出ているのです。

それは、「西光寺」と「若宮」です。
「西光寺」は「秀郷一門と秀郷流青木氏の菩提寺」(浄土宗)です。
「檀家寺」ではありません。
「菩提寺の定義」は、氏独自で氏の先祖だけを祭祀する寺で、建立から神職まで独自の氏の力で全てを取り仕切る寺の事です。
つまり、「達親形式での密教系の寺」です。
その対照的な寺が「檀家寺]で、「顕教」です。
祭祀する仏も異なり、「密教系の菩提寺」は「大日如来」を「宇宙仏」とします。
そして、「如来」が直接その身に教えると云う形式です。
「顕教の檀家寺」は、「曼荼羅仏を宇宙仏」とし、それを「釈迦」が言葉に変えて仲介するとする形式です。
元より、「顕教の檀家寺」はあらゆる民が集まって寺を運営し、全ての民を祭祀する寺の事です。
「二つの青木氏」は、この「密教の菩提寺」ですが、「特定の寺(皇族賜姓族の菩提寺の寺名を危険である為に匿名にする)」を持っているのです。

この”「西光寺」(正式呼称は”せいこおじ”)”が近くに存在する事は、秀郷一門が近くに定住して居た事の証明に成ります。
その為に、「何らかの所縁」があった事に成ります。どの様な[所縁]かは次ぎの事で判ります。
「神明社」が有って、「西光寺」があると云う事は、「秀郷流青木氏]で、それも「伊勢系か近江系の青木氏」である事を示しています。
つまり、この二つをステイタスとする一門の氏は「伊勢系と近江系」しかないのです。
そこで、元々は、「秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓青木氏の神明社建立」を「円融天皇の命」に従い、建立とその運営を補完する役目を担いました。
その中でも、「春日社」では無く「神明社」を「守護神」としたのは、「関西系の秀郷流青木氏」(関西系は近江と伊勢に秀郷流青木氏が定住していた。)なのです。
その中でも、「皇族賜姓青木氏」と血縁を深く持った「近江と伊勢秀郷流青木氏」が中心に成って祭祀したのです。
「京藤原の公家の血筋]を特段に持つ「秀郷一門」で、「青木氏系に繋がる氏」としては「近江の蒲生氏系青木氏」と「藤原脩行系青木氏」の二氏に限ります。

(以前にもお答えしましたが、お家の「藤原秀郷流の脩行系青木氏」は、”「近江掾:国司の次ぎの下位」”と成って赴任し、北家族の公家との同族血縁に依って末裔が発祥しそこに定住した末裔である。)

さて、ここで、もうお気づきと思いますが、お家は、以前お便りで、「秀郷流青木氏」の中でも「近江系の州浜紋の脩行系青木氏」であるとお答えしましたが、この「西光寺」と「神明社」はその証です。
さて、そこで、四国伊予と土佐と讃岐と云うキーワードで観ると、矢張り、この二氏が関わっているのです。
上記しました様に、この時期の伊予藩は加藤氏から蒲生氏へ、そして最終は松平氏に移りました。
然し、加藤氏の後を引き継いだ近江から来た「伊予の蒲生氏」(忠智)は[跡目断絶の憂き目」(7年間)を受けたのです。
当然に、この藩主と成った「伊勢三乱」を担当した「蒲生氏郷」の孫「蒲生忠智」には、「蒲生氏郷」の「祖父の兄弟」が母方の「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を一族の「梵純」が継いでいますので、この「青木氏」が同族家臣として同行してきている可能性もあります。
(期間が短い為に、この青木氏はこの伊勢に引き揚げている)

次ぎは、お家も南北朝を契機に、この讃岐から伊予にそして土佐に移動してきました。
この事から考えると、この「二つの要件」を叶えるのは”「お家」”だけと云う事に成ります。
つまり、「西光寺」はお家の菩提寺であった可能性が有ります。

「讃岐秀郷流青木氏」が、この遠い地に菩提寺を構える可能性は低いと考えられますので、後はお家の菩提寺と観る以外にはありません。

「蒲生氏」も子孫は、7年間では遺していないのですから、「お家の菩提寺」であった事が頷けます。

さて、次ぎは「若宮」の地名ですね。
実は、この”「若宮」”は秀吉が用いた「宮」なのです。
つまり、「秀吉のキーワード」なのです。
豊臣家以外にのこの「若宮のキーワード」を使う事は出来ません。
「秀吉」は、「蜂須賀小六の配下」であった時に、「今宮神社」の「シンジケートの一員」として働いていた事があるのです。
その為に、政権を執った時に、この「今宮神社」を保護し、荒廃していた全国に分布する「今宮神社」を立て直しました。
そして、難波にこの「今宮神社の総社」を建立したのです。
この「今宮神社」の「今宮シンジケート」を使って、全国の「諜報活動」をしたのです。
それは、この「今宮神社」は、戦乱期に衰退し、生きる為に影で「諜報組織」を造り生き延びたのです。
これに付いて「有名な事]が在ります。
織田信長は武田氏との決戦で鉄砲を入手しようとしましたが、初めは入手できませんでした。
これを聞きつけた家臣と成っていた秀吉が、この「尾張の元締め」の「今宮神社」に引き合わせたのです。
当時誰でもが欲しい程に鉄砲は入手出来なかったのです。
この「鉄砲」は、この「今宮等のシンジケート」からでは無くては入手出来なかったのです。
それを知っていた秀吉は、古巣の「尾張の今宮神社」に渡りを着けました。
そして、その結果、信長は、鉄砲を造り、且つ、この「鉄砲の傭兵軍団」の「雑賀族」と会う事が出来たのです。
「今宮神社」はこの雑賀族3000人の軍団も紹介したのです。
それで、武田氏に勝つ事が出来たのです。
この事から、「今宮神社」は「豊臣家の保護」を受けてに大きく成ります。
ところが、秀吉は、この「今宮神社」だけでは間に合う事が出来なくなり、下部組織に「若宮神社」を造ったのです。
四国には、公家が多く逃げ込みましたが、この「若宮神社」に「秀吉の庇護」を受けて、戦乱から逃げ込みました。
この付近に、「若宮の地名」がある事は、元はここに「若宮神社の痕跡」があると考えられますが、秀吉は、この「大洲」の”「神明社と西光寺の環境」”を利用して、「四国の情報」を適格に入手する為に利用したと観られます。

「神明社と西光寺」は、「神明社」のシンジケートを使った「青木氏の諜報機関」でもあったのです。
「西光寺」も秀郷一門の[秀郷流青木氏」が定住している所の全国に建立していたのですから、同じ様に、「大きい氏の菩提寺」も城郭の役目を果たし、神社共に「同じ役目を持っていましたので「情報機関」として入手する事は出来ます。
ここに、「若宮神社」を建立する事に依って、神社間の連携でと共に、「神明社」からも「西光寺]からも情報を入手できる事に成ります。
況してや、「水運の要衝」ともすれば、申し分のない地域と考えられます。

表向きは、「若宮神社」は、「公家皇族等の避難地」として「高位の人」を集める事で、その役目をより補完したと観られます。
然し、「豊臣政権」は、短期間で終わりましたので、結果として背景を失った神社は廃墟と成ったと観られます。

依って、お説の通り、お家はここに一時期住んでいた事が考えられます。 
恐らくは、この秀吉に依ってこの「若宮の目的」から、お家の「州浜紋の近江秀郷流脩行系青木氏」の存在が左右して、思うような「重要な活動」が出来ず、邪魔と成る為に排除されたのではないでしょうか。


さて、少し違っている事が在ります。
それは、「青木大明神社」は、「祠」である事と、「明神社」は「神明社」では無く、大阪の「豊うけの神」を祀る「稲荷社系の社」です。
大阪の淀川の沼地から発祥した日本書紀にも出て来る最古の「稲荷信仰の原型」と成った社です。
この「とようけの神」は、「五穀豊穣の神」としての「庶民の神」で、後に「伊勢神宮」の「外宮の豊受大神」として祭祀される様に成った奈良期初めの庶民の「極めて古い社」です。
「神明社」ではありません。

秀吉は、ここにも、この「青木の地名」を採って、「若宮神社」をカモフラージュする社として大阪の「庶民の大明神社」をここに持ってきた事が考えられます。
これが彼の有名な大阪の「住吉稲荷神社が前身」です。
秀吉は、この「稲荷神社」を保護し、政治的にも庶民を誘導する意味からも積極的に利用しましたので、「徳川時代」に成って、各地で起こった様に、上記した様に「強い印象」を持つ「秀吉の遺跡」を理由に取り壊されて、「祠」で遺したと考えられます。
まして、この伊予は、「多くの郡」がありましたが、治政を良くする為に「四郡系列」に統一されて、「松平藩」に成りましので、余計に「秀吉の遺跡」が痕跡が無い様に取り潰された可能性が有ります。
そして、「若宮神社」を排除して、昔の「藤原秀郷流青木氏」の「神明社と西光寺」の状態に戻したと観られます。

(「秀郷流青木氏」は、幕府の御家人、旗本と成り、「幕府の主な官僚軍団」と成りました。
特に、「御三家の紀州藩」では、「初代頼宣」は余りにも「伊勢の秀郷流青木氏」と、「伊藤氏等の秀郷一門」を大量に家臣団として採用しました事から、幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられて軋轢を受けた事は有名な事です。)


これらの事から鑑みて、「四国南域の大洲」には、一時期、お家の「神明社と西光寺」があって、そこを一族の”「所縁の地」”としたと考えられます。

依って、筆者は”「所縁の地」”と記述したのです。

従って、上記の通り、
>”肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは”  
とするお説は、当に史実を突いたもので、正しい推理であると考えます。


お家のお住いの地からしてもこの水運の要衝から観ても、納得出来ます。

筆者は、以前土佐に移動した武田氏系青木氏の事で、論文にもしていますが調べた経緯があって、
この「四国の青木氏」に付いての謎の一端が解けて来た事を感じます。
筆者は、「史実の積み重ね」と「状況証拠の積み重ね」を重んじて、余り「郷土史」を前提とする論調は採って居ませんのが、可成りの確率で頷けるとこがあります。

是非、今後も、歴史観を以てご努力を続けられる様に頑張ってください。


確証データはありませんが、「史実の状況証拠の積み上げ」で「反論の余地」はあるのかと云う位に思っています。

大変に良く調べられたと感じ入っています。
歴史観が出て来た賜物ですね。



一読いただければ幸いです。


  [No.1046] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2015/04/09(Thu) 17:21:17

 いつもながら迅速かつ丁寧な御返事、ありがとうございます。
 おかげさまで今治の『青木里』については合点がいきました。

 ですがもう一方、大洲の『青木』『青木谷』、及び『西光寺』『神明神社』については、これまで調査していたのが主に宇和郡以南であり、北部の大洲・喜多地域はまったく視野に入っていなかったため、これが我が家のルーツにつながるのでは、という副管理人様のご指摘に非常に驚いております。

 ただ、そのご指摘でひとつ気になるのは、仮説通り大洲の『西光寺』が当家の菩提寺であったとするならば、これまでの『本来の家紋である州浜紋のステイタスを忘却した結果、現在の左三つ巴紋に変化した』、という推定に疑問を生じます。一族の情報センターである菩提寺には、必ず家紋の情報も伝わっていたはすでず。
 この疑問の追求はいったん置かせていただくとして、改めて大洲・喜多郡地域に目を向けますと、大変興味深い情報を発見することができました。
 その情報を元にしますと、当家が紀伊の青木村から四国へと落ち延びた当家が、現在の伊予・宇和郡に至るまでの経緯について、ひとつの仮説を構築することができるのです。
 ただ、その中には副管理人様に分析・評価を頂いたこれまでの分析に反する部分も出てまいります。自分なりに『頂いた分析には反するけれども、このように考えるのが最も自然ではないか』と判断するものではありますが、当然ながら歴史の素人による調査・仮説ですので、失礼を承知の上、これまで以上に厳しいご批判を頂ければ幸い、と前置きさせていただきます。

 話がやや広域に渡りますので、できれば愛媛県の地図をご用意頂いた上でお読み下されば幸いです。
 
 さて、前回のご報告で大洲に『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』が存在するとご報告しました。
 やや分かりにくい点もあったかと思いますし、書き漏らした部分もありますので、今一度、この点をご報告させていただきます。

 大洲市は愛媛県有数の大河『肱川』が流れる盆地に広がる街です。川は南から北へ、大きく蛇行しながら流れており、『青木』『青木谷』の地名は町の北側、川の流れで言えば下流域の『五郎』に残っております。藩政時代に当地を領有した大洲藩・加藤家(米子から転封)の記録には『五郎村』とあります。

hhttps://goo.gl/maps/HXjEj

 上記のネット地図を閲覧いただければ、肱川の北側に細い川が注いでいるのをご確認いただけると思います。その辺りが『青木』『青木谷』です。そのすぐ東側に伊予宇都宮氏が下野から勧請したとされる『宇都宮神社』、さらに東側に『城願寺』という寺も見えると思いますが、ここが伊予宇都宮氏の菩提寺です。長宗我部氏の侵攻時に破壊され荒廃していたものを、藩政時代に復興したとされます。東側に等高線の盛り上がった丘がありますが、そこが伊予宇都宮氏が最初に居城とした(後に現在の大洲城の原型となる城を建てた)城跡とされます。
 『青木』『青木谷』が、宇都宮氏ゆかりの地に囲まれて存在しているのが分かると思います。
 『神明神社』『西光寺』は、『青木』『青木谷』から肱川を挟んだ南側の『若宮町』にあります。上記ネット地図でも位置が確認できると思われます。『神明神社』は、肱川にかかる橋を渡った大洲市役所・喜多小学校のすぐ東側、『西光寺』はそこから東に500メートルほどの場所にあります。『西光寺』については寺伝で『本来は別の場所にあったが、肱川の反乱で何度も被害を受けたため、当地に移動した』とあり、現在は『曹洞宗』ですが、本尊は『阿弥陀如来』です。
 まずは大洲市の中心部に、以上の地名と遺跡があることをご承知ください。
 そして、ここから南へ5キロほどの山中に『貫小屋』という集落があり、そこに『神明神社』があります。ネット地図にも『神明神社』が確認できます。さらに現地の地誌に、この神明神社と敷地を同じくする西光寺という寺があったが、今は手水鉢と墓地の一部、仁王経の版木、木像などが伝わるのみで、墓地の年代から江戸中期までは存在したと思われる、との記述を発見しました。この貫小屋の『神明神社』と『西光寺』については、藩政時代の記録に記載がなく、当時には既に忘却されていた可能性があると思われます。
 まだ現地調査などはできていませんが、いずれ訪ねてみようと思っております。
 
 さて、思いがけず大洲の地に『神明神社』『西光寺』が二組、発見できたわけですが、実は地図を広げて視線をさらに上流へと移しますと、もう一か所、『西光寺』が発見できるのです。

 大洲市の東隣り、肱川に注ぐ支流『小田川』の流域にある『内子町』に『西光寺大師堂』なるお堂が存在します。当地の地誌によると正式名は『金栄山西光寺』(堂にはその扁額も掲げられている)で、『西光寺の廃寺跡』と記述されているのです。お堂の建物自体は江戸前期のものとされ、四国遍路の道中にあることから、遍路の宿泊・お接待所として長く利用されてきました。別の地誌には『西光寺・真言宗寺であった』ともありますが、四国遍路の宿泊所として『大師堂』と呼ばれたことから曲解された可能性があると考えます。
 残念ながら、当地には『神明社』『神明神社』を見つけることはできませんでした。当地・内子町は『喜多郡(宇和郡の北、『北郡』から変化したともいう)』に属し、江戸期が大洲藩領でしたが、その記録にもありません。
 ただ、堂が立つ土地は現在も『五百木(いよき)』といい、藩政時代は『五百木村』でありました。『青木』が古くは『うぉーき』、『あうぉーき』と発音されていたと、当サイトで教えていただきましたので、『青木(あおき)=五百木(いよき)』と変化した可能性はないか、と考えます。もしそうであるならば、同じ大洲・喜多郡に三つ目の『青木氏ゆかりの地』があることになります。

 さらにこの内子町の地誌を読んでおりますと、大変興味深いことがわかりました。
 この地には『南北朝の戦いの後、伊予に移動した楠木正成の末裔によって拓かれた』との伝承があるのです。
 昔ならば『どこにでもある落人伝説』と一笑に付したかもしれませんが、当家のルーツ調査で判明・推定された事柄を総合すると、あながち見過ごせない情報です。

 以下、その伝承を記述します。
 『河内国水分の土豪楠正成の二男正儀は、父討死の時幼少(8歳)で千早城に住していた。その嫡男正秀も千早城に居住して再起の機をうかがっていたが、南朝の盛運も次第に傾き、正盛父子は残党を従え、明徳3年(1394)南北朝和睦以後、伊予の国に渡ったという。伊予には宮方、土居、得能の旧交の人びとがおり、父子をいたわり敬い、喜多郡の山村に居を構え、近隣を横領した。菊水の紋所は、楠と知れることを恐れ且つ先祖の名を憚り、紋は三ツ橋と定め、姓を河内として家を残した。後の五十崎(いかざき)竜王城河内駿河守吉行は実に正盛八代の孫である。吉行は曽根城の客将で、天正7年7月14日(1580)の竜王城攻めに加わり、戦功によって竜王城主となり、14年間在城した』。
 また別の伝承では、『楠正成の裔孫・楠正之進正敏、応永の末頃嗣子・正賀等の一族を率い、河内の佐山(狭山)から喜多郡中居村(内子町大字河内)に移住したという。姓氏の橘楠木を憚りて「河内」を称へ、二代正賀になり中居村を河内村と改め、菊水寺を建て、楠氏を河内氏と改める。正賀は正敏の子で正成四代の孫。正賀八代の孫、河内駿河守吉行は、曽根の客将で大功があり、諸将が協議して竜王城主となる』とあります。
 『内子町河内』の地名と河内家は現在も存在し(五百木の北方山中)、『菊水寺』も現存します。2つの伝承は、この菊水寺と河内家を中心に伝わったもののようで、河内家では自らの一族を『伊予楠木家』と称する一方、讃岐に落ち延びた一族(『木地家』と称したそうです)を『讃岐楠木家』と呼び、明治頃の記録では互いに交流を持っていた、とあります。
 以上の『楠木正成末裔伝説』の信憑性については、ひとまず問いません。
 しかしながら、これらの伝承が内子の地に『南北朝の戦に関わって移動してきた何者か』が存在した残滓ではないか、と推定することは十分に可能と考えます。さらに当地に『西光寺』、そして可能ならば『五百木地名』の痕跡があることを加えますと、次の推論が浮かび上がってきます。

 この内子の地こそ、紀伊から伊予に落ち延びた当家が、最初に移り住んだ土地であったのではないでしょうか。

 この推論を補強する根拠として、さらに二つの条件を挙げます。
 ひとつには内子が山中の盆地であり、敗残の身が隠れ住むに適していることです。大河・肱川とは川でつながっており、少なくとも江戸期の記録では川伝いに小舟が行き来できたとありますので、下流との物流も確保されていました。
 今ひとつは、当地を含む大洲・喜多郡地域が『紙の産地』であったことです。
 当地は今も和紙を生産していますが、これは大洲藩時代に再興されたもので、本来の喜多和紙は江戸初期までにほぼ廃れていました。(同じく紙生産の廃れていた隣の宇和島藩が、土佐から人材を入れて再興したのを真似、大洲藩も土佐和紙を取り入れ再興したと藩政時代の記録にある)。
 しかし廃れる前、本来の喜多和紙の生産記録は古く、正倉院の東南院文書に「天暦四年(九五〇)一一月二〇日 伊予国二百戸、うち温泉郡五十戸、風早郡五十戸、喜多郡百戸、租・庸・調・中男」とあるそうで、その量は喜多郡二七二〇張、温泉郡と風早郡が共に一三六〇張。当時から開けていた風早、温泉両郡の二倍を納めています。
 当家が伊予逃亡の際に頼った讃岐藤氏が、この紙の生産・販売に関わっていたことは確実とみてよい、と考えます。とすると、落人である当家を隠れ住まわせ、同時に生活の道を与える土地として、この喜多郡内子の地は非常に好条件ではないか、と考えるのです。(ちなみに当地では紙のほか、ハゼの実を原料とした『和ろうそく』を生産し、藩政時代は非常に栄えました)。

 推論を続けます。
 当地に定着した当家はその後、小田川を伝って肱川の下流域へと、2度目の移動を行います。移動した時期がいつであったか、また移動先が残る2つの『ゆかりの地』のうち、大洲の『青木』『青木谷』か、あるいはやや上流域の『貫小屋』のどちらであったかは現在のところ不明です。
 ですが、あえて推論するならば、まず先に最も下流域の『青木』『青木谷』に移動したのでは、と想像します。地図で見てもお分かりの通り、肱川河岸にある非常に便利な土地で、上流と下流の物流を抑えるのに最適です。最初に住み着いた内子エリアはもちろん、この肱川は本流を土佐国境に発しており、土佐との物流も盛んでした。かの坂本龍馬が土佐を脱藩した際に使ったルートがまさにこれであり、地元では『龍馬脱藩の道』として顕彰されています。
 内子に逃げ延びて住み着いた当家は一時、大きく伸長し、大洲の地に『神明神社』と『西光寺』を建てて根を張った、と想像します。内子・五百木村から直線距離にして12キロほどですが、曲がりくねった川を下ったとすればその数倍の距離の移動でした。

 ここまで考えて、やはりどうしても無視できないのは『伊予宇都宮氏』の存在です。
 伊予宇都宮氏は、九州の豊前宇都宮氏6代頼房の三男・豊房が元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられて大洲に城を建てたのを始まりとし、最後の豊綱が天正13年(1585年)に没するまで八代を数えた、とされます。
 伊予宇都宮氏が実際に大洲に勢力を張ったのがいつになるのか、正確にはわかりませんが、当家が大洲・青木の地に根を張った時期と、ほぼ間違いなく重なると思われます。
 前述のとおり、彼らの居住区がほぼ重なっていたことも間違いありません。

 さて、ここで当家と伊予宇都宮氏の関係について、今一度、再評価すべきと考えます。

 当家と伊予宇都宮氏との関係については、こちらにご相談して間もない時期に、副管理人様より否定的な分析を頂いております。ですが今回、『当家の大洲における居住歴』が推定されたことにより、同説を改めて検証する必要があるのでは、と考えるのです
 もちろん当家が『青木』『青木谷』にいつか居住し、いつそこを去ったのか、それを知る確たる史料は無いため、かならずそこで接点を持った、とは言い切れません。
 ただ、ここで思い出されるのは当家の家紋『左三つ巴』。そして、家伝に混じり込んだ宇都宮氏由来の伝承(藤原北家・藤原道兼)です。さらに、現在の檀家寺『大楽寺』が、宇都宮氏の再興による寺(元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。堂房は、豊前国の宇都宮鎮房の第3子。堂房は、萩森城主・宇都宮房綱を頼って九州より敗走してきたが、房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。そこで、房綱の姉婿である菊池武国を頼って、この地に落ち延びた)という点にも、改めて注目できるのでは、と考えます。
 さらに当家が大洲の地に『西光寺』を持っていたとするならば、少なくともその時期までは家紋等のステータス管理も行われていたはずで、忘却や取り違えは考えにくいと思われます。となりますと、当家の家紋は武家の仕来りに従い、正しく『左三つ巴』に変更された、と考えるのが自然ではないかと考えるのです。

 ここからは推論というより、単なる想像となりますのでご容赦下さい。

 内子から大洲へと伸長した当家は、そこで伊予宇都宮氏と縁を結びます。前回の副管理人様の御回答で、伊予宇都宮氏が『讃岐藤氏の生き方を真似た事に依って読み間違えた』と分析しておられましたが、まさにそのようであったと想像します。『青木』『青木谷』に隣接する『宇都宮神社』には、下野の宗家からは失われたとされる『日光山並当社縁起』 が伝えられ、文明九年(1477)に宗家の下野宇都宮氏十六代正綱が奉納したと署名があります。奉納の真偽は置くとしましても、伊予宇都宮氏が本家との関係を強調し、『伊予の宇都宮』を標榜せんとした形跡が随所に見られるのです。(大洲・喜多郡には『宇都宮神社』が多く建てられ、内子・五百木にも建っている。『仁平3年(1153)に下野国より勧請』という、かなり『?』な社伝がある)
 当家は、この伊予宇都宮氏の野望に『乗った』のではないかと想像します。フィクサー・スポンサーのような存在だったかもしれません。
 しかし、結果としてこれは失敗します。
 大洲は北の河野氏、南は西園寺氏、土佐からは長宗我部氏と、まさに四面楚歌の状況に追い込まれます。土佐の一条氏と縁を結んだこともあったようですが、結局はどちらも滅びてしまったのはご承知のとおりです。
 当家が大洲南方の山中、『貫小屋』に三度目の移動をしたのは、この時期ではなかったかと想像します。居住地の移動というよりは、ステイタスとしての神社と寺を、護りやすい山中に移動させた、というところではないでしょうか。ここまでは、まだ当家もステイタスを維持できていたことになります。
 ですが宇都宮氏が滅び、当地が豊臣秀吉の支配地となって、状況はさらに悪化します。
 特に天正15年(1587年)、伊予大洲を領有し伊予南域を支配した戸田勝隆の時代、当家のような郷士は、相当に迫害された様子が伺えます。戸田氏は今も、当地では非常に評判の悪い人物でして、『そこまで悪くもなかった』という説がある反面、司馬遼太郎氏などは『暴君説』をとっていらっしゃいます。
 この時代、どうやら多くの郷士の菩提寺が破壊されたり、土地の簒奪も起こりました。これに対して激しい反乱も起こりましたが、戸田氏はさらに強烈な締め付けで対抗し、泥沼のような状態になったことがうかがえます。(逆に戸田氏断絶の後、大洲・宇和島藩に入った加藤・伊達の両家は、土地の郷士に対して非常に気を使った形跡がある)。
 その戸田のお膝元で、当家がそのまま居続けることは不可能でした。
 戸田氏の大洲入りが天正15年(1587年)、当家が今の土地に来て、初代が亡くなったのが寛文7年(1667年)。その間80年。
 
 その間、当家はゆかりの地を追われ、讃岐藤氏の支援も受けられず、今度こそ『神明神社』『西光寺』のステイタスも失い、伊予のさらに南域・おそらくは『三間郷・曽根青木家』が勢力を持っていた土地に逃げ込みます。
 この『曽根青木家』については別に調査を進めており、彼らが三間の土地において、ある大きな動きを起こしていたこと。そして当家とはやはり『近江の縁』があったと思われることなどが推定されています。それについても、いつかご報告できればと思っています。
 ともあれ、曽根青木家の勢力下といえども讃岐藤氏の影響から逃れることはできず、また菩提寺を失ったからといって曽根青木家と同じ天台宗に改宗する、という選択肢もなかったと思われる当家は、辛うじて宇都宮氏に縁を持つ現在の『大楽寺』で檀家となるのが精一杯だった、と想像します。
 そしてどうにか現在の地に落ち着いた当家は、『左三つ巴紋』と『青木』の名だけをステイタスとして伝え、伊予南域の農家として生きてきた、そのように想像するのです。

 相当に勝手な妄想も含まれますし、内子・大洲の現地調査も未だ果たせておりませんので、副管理人様のお叱りを受ける部分もあろうかと思いますが、今のところはこれで精一杯というところです。
 長文となりましたが、よろしく評価・ご批判を頂ければ幸いです。
 
 


  [No.1047] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/04/15(Wed) 13:43:18

今日は。
お元気でしたか、
でも大変ルーツ探究にご努力されている処を観ますと、無駄なご挨拶に成りますね。

さて、今回のお便りを楽しみながら読まして頂きました。
実の処,「歴史観」が持たれ、ポイントを突かれていられる様に感じました。
概ね、賛成です。
「ルーツ]には,必ず「歴史の荒波]に揉まれて「大きな幾つもの変遷」が伴っています。

全て平坦では無かった事が痛感します。
況して、「青木氏]には、他氏と異なりその立場上から荒波の上に載っている様な「変遷」を受けています。
それだけに、一筋縄では行かず、「膨大な歴史観]を以て検証しなければ正しいルーツに辿り着けないと云う「宿命」があります。
そして、ご先祖の「生き様」がぽっかりと浮かん観えて来なければ「本当のルーツ」にまで辿り着けないし、推論も建てられないと考えています。
それだけに面白くロマンでもあります。
何時か,ご子孫がこの検証結果を観て、”心の癒しと成るロマン”を感じられる事を与えられます。
其処に、「変遷」=「伝統」が生まれるものと考えます。
これ無くして、「伝統」は維持されて行けないと観ています。

今回のお便りは、当にその「究極のルーツ検証」の処に来ていると考えられます。
では、早速、筆者の論調を記述します。

お便り一説
>仮説通り大洲の『西光寺』が当家の菩提寺であったとするならば、これまでの『本来の家紋である州浜紋のステイタスを忘却した結果、現在の左三つ巴紋に変化した』、という推定に疑問を生じます。一族の情報センターである菩提寺には、必ず家紋の情報も伝わっていたはすでず。

お家の場合は,”菩提寺に家紋の形跡が遺っていた”とする推理は、違うのです。
何故ならば、次ぎの事から残っていないとするのが普通です。


その前に結論から先に述べます。

イ ”「顕教」”には”[密教]”で無い限り、そもそも、”「過去帳の概念」”がありません。

ロ 又、「浄土宗]で無い限りありません。

ハ あったとしても、「税」に関する一時的に使用する戸籍の”「人別帳の台本」”のみです。

ニ 「人別帳]は、”「系統性」” は全くありません。

ホ それも ”「台帳」” であって、”「譜」”では無く、「お家の特定個人」では無く、”「村の村主」”が管理するものです。

ヘ 且つ、”「人」”に関する事が無いのに、”「家紋]”に対する継承などは当然に、到底、あり得ません。



では、その「根拠」を次ぎに述べます。

そもそも、この[西光寺」そのものも例外なく「大きな変遷」を受けています。
下記にお家が論じられている様に、本来は、「西光寺」は密教系の秀郷一門宗家と秀郷流青木氏の菩提寺です。
従って、「密教浄土宗」である筈なのです。
ところが、江戸時代初期以降は家康に依って、「密教]を排除して全ての寺は「顕教」に変えられる令が出されました。
然し、なかなか「悠久の歴史」を持つ「青木氏の立場」からはこの「伝統」を換えて顕教に直ぐに変えられない家柄でした。
根本的に、前回にも論じましたが「密教と顕教]は「祭祀する仏」と「その概念」が異なっています。
然し、「世の荒波」と「変遷」を強く受けた「全国の青木氏」の中では、お家の様な、「氏存続の憂き目」を受けた時の立場では、この「西光寺の密教」も「密教]では居られないと云う現象が起こります。

そこで、先ず、江戸期以前の歴史的な事象については、「浄土宗系の浄土真宗、曹洞宗」と「真言宗」の影響を強く受けて、「青木氏」が存続する地域に依っては、「浄土真宗の西光寺」、「曹洞宗の西光寺」、「真言宗の西光寺」の三つ形が生まれる事に成ったのです。
それは、つまり「地域と時代の要素」が強く働いています。
「秀郷一門の青木氏」は、24の地域に赴任してこの「影響」を激しく受けたのです。
「赴任地の地域]に依っては、[密教浄土宗の寺]があるかと云う問題です。
「高位の氏」しか宗派とする事が出来ない宗教で、「氏の単独の密教」ですから、「青木氏の定住地」にしか「密教系の浄土宗」は無い筈です。
つまり、「赴任地」には無い事が前提です。
当然に、仮にその赴任地に「菩提寺」を建立しても、「浄土宗僧侶」は氏家制度の中で生きている限りは「一門の宗家」から廻して貰わなくてはなりません。
そこで、平安期の赴任期間は、「四年を前提]としていますが、「赴任地」が何時変わるかも知れない事に成り、そこに菩提寺を建立する事は先ず出来ない筈です。
そこで、秀郷一門は、次ぎの対策を打ち出しました。
それは,「浄土真宗」への入信を一時的に赴任先では認める事にしたのです。
「浄土真宗の親鸞」は、「法然の弟子」ですが,「法然」を裏切って「顕教」としたことから、武士から民迄を含む信者を各地に持っていました。
ですから、殆どの地に存在する事に成ります。
然し、赴任期間を終えると「武蔵」に帰る事で、元の「密教浄土宗」に戻る事が出来たのです。
ただ、現地に遺された「現地孫」は「真宗」を宗派としても良い事に成っていました。
この現象が平安期中期970年頃から起こりました。

有名な「平安期の密教論争」、「鎌倉期中期の顕教宗派の信者争奪戦」、「室町期中期で起こった曹洞宗と真言宗の争い」、「江戸期初め下級武士に依る勃興族が信心した曹洞宗の台頭」等で、「西光寺」が「密教」は元より「顕教」でも「浄土宗」では居られなくなったのです。

「時代の影響」に依っては、「浄土宗の西光寺」が、「浄土密教系」の二つの「浄土真宗の西光寺」「曹洞宗の西光寺」と、一つの「真言密教系の西光寺」が生まれたのです。

「地域の影響」に依っても、中でも、この四国は「真言宗の遍路の国」であり、且つ、ここには、「讃岐と阿波」は「赴任地」でありますが、讃岐域を除いて「密教」の本来の「青木氏の定住地」ではありません。
依って、讃岐以外に「浄土密教派の寺」は原則的にはありません。

そこで、「氏の菩提寺」の「西光寺」を建立しても、浄土宗本山から浄土宗系僧侶を配置され得ません。
そうすると、結局は、一族から先ず認められている「浄土真宗」を先ず考えます。
次に「曹洞宗」を考えます。最後は「真言宗」と成ります。
ここに、況して、「浄土真宗」と「曹洞宗」の少ない「真言宗のメッカの地」である事から、「真言宗の西光寺」が生まれるのです。
この経緯に付いては研究室でも論じていますのでお読みください。

上記の様な事から、四国に於いては、この宗派での検証を前提とする事には大きな問題があるのです。
況して、お家は、紀州から一族が、「南北朝の路線争い」から二派に別れ、「宗派と家紋継承権」を無くしての「四国への逃避行」でしたから、この「宗派と家紋」に関する前提は「検証考」から外さねばなりません。
この事は、前回の回答でお答えしています。

とすると、「お家の菩提寺」を建てる事は可能ですが、上記の通り、「密教系浄土宗」、或は、「顕教の浄土真宗の寺」を作る事は出来ません。
つまり、根本的に「宗教概念」が異なる宗派と成りますので、ルーツやその他の「慣習や仕来りや掟の継承」での「寺」では無く成ります。これが「顕教の前提」です。
研究室や、以前にも書きましたが、「顕教」には密教で無い限りそもそも「過去帳の概念」がありません。
あったとしても、「税」に関する一時的に使用する戸籍の「人別帳の台本」のみです。

「人」に関する事が無いのに、「家紋]に対する継承は当然にあり得ません。
況してや、お家は、「州浜族の逃避族」ですから、この前提の中に無いのですから、又「伝統の継承」は認められていませんから無理です。

「菩提寺」としても「顕教の寺」に成る事に成ります。
依って、お家の「人の検証」はおろか「検証の家紋の前提」は根本的に無理なのです。
先ずこの事を配慮してください。

更に、次ぎの事も配慮を重ねてお願いします。
「巴紋の経緯」としては次ぎの様に前回に記しました。

前回の巴文様の筆者記述
>お祓い祈願紋ー家柄誇張紋ー権威の象徴紋―家柄の象徴紋ー結城一族の家柄誇張紋ー八幡宮の神紋

「巴紋]は、以上の様な特徴を得て特別な経緯を辿りました。
「巴文様」は,古来より「人の原型」を表すものとして,「勾玉」等と共に,「神聖なる物」、「高位なる物」として崇められて来たものなのです。
自然神の「神助紋」として三世紀の頃より用いられて来たもので、従って、これを用いる者は高位の特別に限られた者しか使う事が出来ない文様と成りました。
これを独占的に用いたのが、日本の最大勢力を誇った「北家筋藤原氏一門9氏」だけであって、これを使える氏として社会の中で、絶対的に認められて来たのです。
「特定の氏の神助紋」として、そして、「特定の氏の象徴紋」として、何時しか、「賜姓藤原氏の守護神」の「春日社」と、「賜姓源氏の守護神」の「八幡宮」の「神紋」として用いられる事に成ったのです。

前回の巴文様の筆者記述
>そこで、「公家西園寺氏」は、「貴族」でありながら「武家」としても立ち振るいましたので、その後、これを「西園寺家」が、「北家筋の藤原秀郷一門」の「親助紋」、「象徴紋」、「副紋」であったものを敢えて「公家武家」に成る事で ”「家紋」”として正式に用いたのです。

「西園寺氏」が用いる事には全く問題はありません。
「公家」は本来は、「武家」が用いた「氏家制度」の中での「上下の系列を指し示す方法」としての「家紋」に関しては、元来はこの習慣はありません。
あくまでも「象徴紋」です。
「西園寺氏」や「一条氏」や「北畠氏」等の「北家筋の公家」が、南北朝の末期から「武家化」した事から、この「象徴紋」を「家紋化」して用いた物です。

前回の巴文様の筆者記述
>それまでは、「北家藤原氏一門」や「皇族賜姓族系の源氏」等の貴族系の「高級武士の象徴紋」でした。
>その為に、貴族と成った東国武士の藤原秀郷一族一門は、「総紋の藤紋」とは別に、”家柄を誇張する副紋”として、この「巴紋」を共に盛んに用いたのです。
>「家紋」では無く、これを用いている者は、361氏の中の最高の「権威家」である事の誇示する「象徴紋」で在ったのです。

お家の「近江系秀郷一門の二氏」(蒲生氏と蒲生氏系伊勢魚木氏と、脩行系青木氏)は、この「巴紋様」を用いたのです。
さて、そこでお家は、「脩行系青木氏」ですから、州浜紋ですが、これは使えません。
では、使えないお家は、「家紋」又は「象徴紋」をどうしたのかと云う事に成ります。
武士が家紋を持たない事は、庶民に成った事に成りますので、必ず伊予讃岐に逃避したとしても持たなければなりません。

筆者は、「家紋掟」の仕来りに従い、次ぎの三つのどれかに従った筈と考えます。
1は、「丸付き紋」です。
2は、「陰文様紋」です。
3は、「類似紋」です。

この事からお家が採った答えが出るのです。

州浜紋に対する検証
1は、上記した事からこの文様の持つ権威から、「巴紋」の場合は「丸付き紋」は禁紋とされていました。
従ってこれは絶対に使えません。
2は、「宗家の承認」が必要で、「陰紋の使用」は「主家の親族」が「家臣の身分」に落とした時に使用する文様と決められていました。
「巴紋」の陰紋も1と同じく禁紋です。
3は、「巴紋」に関しては、上記の特別な文様である事から、原則、禁紋でしたが、「藤原氏の勢い」が低下した江戸期初期に成って、「類似家紋」が増えました。
江戸期前では、この「類似家紋」は許可を得た分家筋以外には、一般的に用いられていません。
爆発的に増えたのは「勃興氏の台頭 姓族」で江戸期初期からです。

「州浜紋」は、「類似家紋」を含めて、43紋がありますが、この43の「類似家紋」は、元の文様とは原則的に別物として扱われました。
依って、宗家の認可は必要ありません。

とすると、お家の取るべき手段は唯一つです。
3の類似家紋だけです。
ここで、「どの程度の類似性」を持たせるかは問題です。

そこで、「伊予と土佐域」で用いられた「類似家紋」が、実はあるのです。
それは通称では、後の江戸期中期の頃にある経緯があって、”「光琳州浜紋」”と呼ばれていました。
この紋の本来の呼称は「土佐州浜紋」と呼ばれます。
主に土佐地域に分布したもので、俗に「光琳派族」と呼ばれるものです。
恐らくは、この「土佐州浜 光琳州浜」が、お家の「讃岐秀郷流青木氏」を頼った時のお家の「御本家筋」であると考えています。
これには、厳格に「青木氏の州浜族の慣習仕来り掟」を護って来た事を意味しています。
この事は詳しく研究室の「伝統7−8」の論文に記載していますので参照してください。

念の為にポンイトとしては次ぎの事を記述しています。
「土佐派大和絵」
そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事したとある。
E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとある。
F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」(1434年)に師事したとある。

この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
「青木氏」等が、この青木氏族の「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。
しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、土佐出身の者等で「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。

以上がその一節です。

さて、この「四国青木氏族」の「土佐州浜紋様」(通称 光琳州浜紋)は、次ぎの氏族が継承しています。
その人物は、”「土佐光信」”と云う者で、この光信の「土佐一族」は、元は平安期末期のご先祖が務めていた役職で、室町期中頃(江戸初期まで)までは「朝廷絵師」(朝廷絵所領職)を務めていた事があって、筆者の「伊勢青木氏」とは、同じ朝廷の「紙屋院の役」であった事ともあり、且つ、「絵−和紙の関係」から、実に懇意に長く親交していた一族なのです。
(筆者の家の記録と口伝がある。)

(「伊勢青木氏」は「二足の草鞋策」で「和紙の殖産と販売」を営み、この「朝廷絵師の絵所領職」を援助した。)

お家のご先祖が書かれた絵を筆者の家にはありますよ。
実は、筆者の先祖の多くは、この「土佐一族」(土佐光信の租)から「紙屋長兵衛の嗜み」として代々専属に「大和絵の墨絵」を習っていて、「祖父と父親」は、親交は元より、態々、土佐まで出向き、「朝廷水墨画の南画」を会得し修行しました経緯を持っていました。
平安期から元々親交のあったこの一族が、紀州に居て「南北朝戦乱」に巻き込まれ、一派は州浜の故郷に帰り、もう一派は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り、更に「現地孫の一派」は紀州に遺りました。

この事は、「伊勢の二つの青木氏」は当然に知っていて、何らかの通信手段を持っていた事から、江戸中期に成っても代々、その一族に「大和絵の師事」を受けていた事を物語っています。
ところが、他の画法が人気を得て、その結果、古式豊かなこの「大和絵の衰退期」が訪れます。
この時も、又「伊勢青木氏」が[大和絵」を継承するこの「土佐州浜族」を経済的に援助して「大和絵]を遺す事に務めました。
遂には、自らがこの「大和絵の技法」を継承する事が「賜姓族五役]の元来の務めであるとして、「伊勢青木氏]の祖父は、自らがこの役目を果たそうとして、明治35年に土佐に渡り、又、若い父親も大正3年頃にこの土佐州浜の大和絵派の族の下に留学をしています。

この「州浜派大和絵」は、上記しました様に、他にも「紀北地方の巨勢の元祖巨勢派」が近くにあり、且つ、京などにも2派の別派がありましたから、何も土佐まで行かなくても師事は可能でした。
然し、親交のあった「土佐」を敢えて選んだのです。
これは、深く親交の合った「大和絵の技法」を直接会得した「脩行系青木氏の師匠」の方が居たからこそ、その師匠を敢えて頼ったのです。

つまり、この事は、端的に云いますと、「土佐のお家のご先祖]の「ご本家筋(土佐州浜族)」には、「朝廷の大和絵の絵所領職」を務めた方がおられたと云う事です。
お家のご本家です。「筆者の伊勢青木氏」が、直接、お家のルーツの「ご本家]を確認している事を意味します。

祖父と父は終局、この「大和絵」の影響を受けた「水墨画の南画絵師」の継承者として明治期に関西域に優明を馳せ、遂には、天皇家自らが「絵所領職]として伝承して来た事から、「天皇」から直接召し出されて、朝見し、その時に,この「大和絵の南画水墨画」を大正期初期に献上しています。
この「天皇家からのお返し (天皇家の宝)」として、「日本最古の藤白墨」を「紀州徳川氏」を通じて賜ったのです。
これらの記録と資料とこの時に献上した複製画は遺されています。
研究室にこれらの事が記述されています。参照ください。

この様な事は、お家のご先祖が記憶消失をしていますが、「伊勢青木氏」では何とか「諸々の伝統」を遺して来ている為に、判っているのです。
故に、厳しく「錯誤忘却」と書き記してお家を「ルーツ探究の本筋」に戻そうとしての事でした。

既に、お家は南北朝から、600年以上もたっているのですから、最早、「州浜紋]か、或は、通称、「土佐州浜紋様」(光琳州浜紋)に戻してもよろしいのではありませんか。

”今更”と云う考え方もあるとは思いますが、根拠なしの論理矛盾を起こしている「巴紋」も良いとは思いますが、家紋の知る者が観れば、「搾取偏纂の第三の青木氏」と観られるところですね。

(別の家紋を持つ青木氏からお尋ねが有って、「墓石に刻む家紋」として元の青木氏の家紋に戻された方も居られます。雑談掲示場に記載)

その事で、筆者は、「お家のお便り」を頂いた時には驚きました。
サイトのお便りにお答えしていると、この様な驚く事は他にもありましたが、度々不思議な事が起こるのですね。
「筆者の検証」では、この「絵の存在」から、紀州に居た頃からの付き合いがあった事は、更には口伝で祖父より伝わっていましたから、間違いはないと観ています。
何故ならば、「伊勢の秀郷流青木氏」とは、研究室でも論じています通り、同族血縁を繰り返し「四日市殿」と呼ばれる「青木氏融合族」まで発祥させているのです。

以前にも、論じましたが、「近江系秀郷一門の蒲生氏」(伊勢三乱に活躍)は,この「伊勢の秀郷流青木氏の跡目(梵純)」に入っています。
「近江系の脩行系青木氏」も同近江で全くの同族でもあり、当然に当時の「純血の慣習仕来り」から「蒲生氏」との血縁もあった事に成りますので、「脩行系のお家のご先祖」とは、「筆者のルーツ」とも「間接的な血縁族」と成ります。

従って、「絵の存在」と「絵の師」でもあり、「伊勢と接する地」と「伊勢秀郷流青木氏」と「近江蒲生氏」とから鑑みると、少なくとも「紀州の有田の青木村」に居た頃の以前からの「付き合い」があった事は判っています。
お家とは「南北朝以前の祖との付き合い」と成ります。
四国に移動しても、筆者の上記しました資料からは、続けて祖父の代まで付き合いをしていた事を物語ります。
お家とは、血縁があったかは現在の処完全に掴み切れませんが、下記に記しますが充分にあったと考えられ完全に否定は出来ないと考えます。

ですから、実の処、この答を当初から出さなかったのです。
お家の「ルーツ探究の進捗度」を待っていました。
「お家のルーツ探究」には、今回のお家の推理のお便りからも、結局は「家紋」が大きく左右するところまで来ましたので、お答えを出す事にしました。

「巴紋」に拘っておられるようですが、讃岐に移動したお家の「ご本家の本当の家紋」は、後に、この「州浜紋」の事を江戸中期頃に「光琳州浜」と呼ばれた「類似家紋」です。
(参考 一門の総紋は下り藤紋)
そもそも、この「土佐州浜文様」は、”「類似」”と云うよりは、最早、「州浜文様」の「中央の丸み」が少し大きいだけで殆ど変りません。

これは、他の論文でも論じていますが、他の類似家紋と異なって、「賜姓族の二つの青木氏」等の「高位の一族一門」が、「本家筋の純血性」を護る為に、又「家紋」を変化させない為に、且つ、その出自をはっきりさせる為にも用いる手法です。

この事からも、この「州浜紋」の「土佐の州浜一族」をはっきりとさせる為に用いられた「土佐州浜紋 通称、光琳州浜紋」からも証明できるのです。

この様に本来は、「紀州北部」と「愛知」より以東の「駿河」迄分布する「州浜紋」ですが、この経緯からも少し離れ瀬戸内を越え「伊予ー土佐」の讃岐国境の山間部にも分布しているのです。

この「類似家紋」が、この様に呼ばれたのは、もうお判りと思いますが、「土佐光信の三筆」からでた「琳派」として江戸中期に有名に成った事から呼ばれたものです。
この「三筆の先祖」が古来より「朝廷絵師」であったが、江戸中期に、別の系列一派の光琳派を築いた「尾形光琳」、「乾山、「本阿弥光悦」等で有名に成った一派です。
(土佐光信の光と琳とを雅号とした)

つまり、お家の「脩行系青木氏の先祖」は、南北朝以前には「大和絵 朝廷絵所領職」を務めていたのです。

くどい様で、失礼とは思いますが、敢えて今回のお便りは、大変に青木氏に関する「歴史観」と、推論を構築する「歴史技量」が極めて高く成ったと感じていて、「地理性」までも使う様に成っています。
そこで、更に、その歴史観等を高めて頂く為に、敢えて次ぎの事を忌憚なく書き記します。

以上の事は、前回のお答えの中でも書き記しましたが、「家紋」に付いても、上記しました様に”「逃避行」”ですので、「巴紋の前提」が間違っています。
もう一度、良くお読みください。

そこで、お家は全国8000ある中で、現在は20にも満たない「氏族」です。
その他は、全て「慣習仕来り掟」の異なる「姓族」です。
「氏族」は、最大時は200にも成りこの関連族が400にもあったものが、下剋上戦国時代とで滅亡し、40程度に成り、遂には江戸期には20程度に成って仕舞いました。

この朝廷より認可された「氏族]は、
「家の象徴紋」(姓族では家紋)を持ち、
「氏の総紋」を持ち、
「流派の副紋」を持ち、
「守護神の神紋(神助紋)」を持ち、
[菩提寺の寺紋」を持ち、

以上の文様を持っているのです。

朝廷より認可されていない室町期中期より勃興した「姓族」は「家」の区別をするだけの「家紋」しか持ち得ていません。

お家は、藤原氏の北家9氏の秀郷一門361氏の中の青木氏族の近江の州浜紋族の脩行系青木氏の「氏族」であるのに、”「巴紋」は「家紋]だ”と拘っておられ、何度違うとご指摘をしているのに、「姓族の家紋」と主張されているのが、疑問です。

20の中に、”好むと好まない”とに関わらず、居るのですから、当然に、この数少ない「氏族の歴史観」の中で「正しいルーツ」を探究しようとすると、引き込まれざるを得ないのです。
そう云う、”良し悪し”は別として、どの様なイデオロギーをお持ちか判りませんが、この「氏族」の「慣習仕来り掟]の持ったご先祖を持ったことに原因があるのです。

「氏族」でありながら、「姓族の家紋」に拘られるのは自由ですが、本サイトにお尋ねの際には、「正しい論調」が出来ない事に成り得ます。
以上の事に念を押しておきたいと考えます。



この”「巴紋」”は、秀郷一門の使用する”「神助紋]”で、「象徴紋]で、[副紋]ですので、「家紋」としての考え方は出来ないのです。
お家が秀郷一門である事を放念されていられる様ですが、少なくとも、秀郷一門では出来ません。

そもそも、”「巴紋」”は、「皇族賜姓族青木氏の柏紋」に相当する「秀郷流一門」の「神紋で象徴紋で副紋」なのです。
つまり、神明社の柏紋=春日社の巴紋 という数式が成り立つのです。

この「二つの青木氏」、取り分け、前回のお答えにも書きました様に、秀郷一門の「近江系の青木氏の二氏」はこの「仕来り」に縛られ、且つ、この「伝統」を頑なに護っていたのです。
故に、この二氏は、「宮廷貴族の血筋」を濃く持ち、他の一門とは異なっていて、これが、特別に、”「脩行系」”と呼称されている所以なのです。
お家のご先祖は、「秀郷一門と脩行系」と云うこの二つの事に縛られているのです。
論調が違ってきますので、ご放念されない様にお願いします。


従って、お家がこの「巴文様」を家紋とする場合は、「秀郷一門の神職系青木氏」と成る事に成ります。
然し、お家は,お便りより、「神職系の青木氏」では無い事が判ります。
何故ならば、「浄土宗」では無い「西光寺」を建立しているからです。

秀郷一門の「神職」は、秀郷一門の守護神の「春日社」か「神明社」で、お家の場合は、上記した様に、「近江系二氏」ですので「神明社」の”「神道」”なのです。
「墓所のある寺」は持ち得ません。
ここでも、矛盾する事に成るのです。

これだけ矛盾すれば、室町期末期と明治初期の「第三の青木氏」と云う事に成って仕舞います。
お家の場合は、墓所を江戸期には持っていた事から、室町期末期のルーツを持たない「勃興族」の「第三の青木氏」と云う事にも成って仕舞いますよ。

ご先祖が、”紀州の地から出て来た青木氏”と云う事を述べられているところから、南北朝の時代にこの知識を先ずは「普通の姓族や氏族」が持ち得る知識ではあり得ません。
お家のご先祖が、何らかの伝統を持ち得ていて、その記憶からこの伝承を述べられた事である事は判ります。
依って、お家は、「四国の讃岐青木氏を頼っての逃避行の歴史史実」からも「州浜紋の脩行系青木氏」と断定しているのです。この二つ「知り得ない情報」からです。
(筆者側の記録と資料がありますが)

「巴紋の経緯」として、江戸初期から中期にかけて「立身出世族の勃興氏 姓族」と「第三氏の明治初期」に、幕府の権威創権の督励で、これを「家紋扱い」にして仕舞ったのです。
従って、お家がこれを「家紋」とする事の論理矛盾が起こり間違えているのです。

そして、「伊予宇都宮氏」が何故にこの「巴紋」を家紋扱いにしているかをお考えください。
「巴紋」を副紋として使っている大名は藤原一門以外にも他にも沢山ありますよ。

北家筋と秀郷一門を除いて、全国に戦国時代と江戸時代を含めて何の血縁関係の無い「20の姓族」が同紋の「左三つ巴紋」を使っていますよ。
この事をどの様にお考えですか。

これを「家紋」とする以上は、お家はこの「江戸期初期の勃興姓族の青木氏」か「明治初期の第三の青木族」と云う事に成って仕舞います。
はっきりとした”「論理矛盾」”がお起こるのです。

お家は、先ず間違いなく「紀州有田の青木村」から逃避した「州浜紋の秀郷一門」の「近江の脩行系青木氏」であると観ています。
依って、「巴紋」とする事は、このお家の「ルーツ検証」は、大きな矛盾を含んでいて根本的に成り立たなくなります。

更に、そもそも、この「巴紋文様」は、秀郷一門の一族の中での慣習では、”「何らかの所以」”を持つ者が一時的に用いるべき「便宜的特別な文様」であると書きましたが、お家は、”「州浜紋が使えない立場」”に「南北朝の結果」で成りましたから、この”「何らかの所以」”の立場にありました。
江戸期前には少なくとも、「氏家制度」のこの「慣習の仕来り」の中でのものでした。

「錯誤や忘却」では無いとすると、「何らかの所以」の時に、この一時的な場合に使用する「巴紋」を用いて、遂には、「錯誤か忘却」で、「家紋扱い」にして仕舞ったと論じています。
だとすれば、「神職」ではありませんが、「秀郷一門の慣習」に沿っていない事に成ります。

実は、今回のお家の「地理的な考察」のお便りから”「錯誤忘却」”が起こった理由が出ているのです。
下記にその理由を示しますが、「巴紋」に拘る為に未だ気が付かれていない様です。

筆者が、”錯誤とか忘却”の「意味合い」としたのは、先ず、この「慣習(家紋化)」が忘れられかけた江戸期の中で、この使えない「州浜紋」に酷似する文様を用いて「家紋」(家紋では無い)としたと観ていたのです。(上記しました様に判っていたのですが)
秀郷一門である限りは、この「仕来り」に縛られているのです。
あくまでも、お家は一族から「離れての逃避行」なのです。

そうで無ければ、お家は、全ての検証は崩れて、恐らくは、「勃興族」でも無く成り「第三の青木氏」と云う事に成って仕舞います。
現実に、「巴紋の第三の青木氏」は多いのです。

下記のお説もこの前提にあっての論調と成ります。

お便り
>その情報を元にしますと、当家が紀伊の青木村から四国へと落ち延びた当家が、現在の伊予・宇和郡に至るまでの経緯について、ひとつの仮説を構築することができるのです。
>さて、前回のご報告で大洲に『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』が存在するとご報告しました。
>大洲市は愛媛県有数の大河『肱川』が流れる盆地に広がる街です。
>『青木』『青木谷』です。

『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』の存在は納得いたします。
「伊予宇都宮氏」の「宇都宮神社」、さらに東側に『城願寺』の「伊予宇都宮氏の菩提寺」と『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』の存在の位置関係は理解しました。

「お家の逃避行の経緯」
筆者の検証としては、先ず、「南北朝の戦い」で、紀州のお家の一族の意見が二派に分かれます。
この時、敗退した「楠木正成の赤坂村の末裔の逃避行」が起こり、この末裔と同行したかは別として、共に「讃岐藤氏の秀郷一門」を頼って、「瀬戸内の讃岐」に着き、そこで、暫く保護の下で居た、
その後、落ち着いたところで、伊予側の護りとして配置され、更に南域に移動した。
ここで、一族をある程度繁栄させ力を着けたところで、「菩提寺と神明社」を建立した。
この時、「秀郷流讃岐青木氏」の保護の下で、「乱世の時勢」を読み込み、同門の「宇都宮氏」や「西園寺氏」等に味方して合力し、遂には,「菩提寺や神明社」を建立できるまでの「最大の繁栄」を遂げた。
この時、世話に成った「秀郷流讃岐青木氏」(瀬戸内の経済力で中立主義)の云う事を聞かず、「地理的な要素」もあって「長宗我部氏の北侵」の「防御ライン」を築くべく「宇都宮氏や西園寺と共に防御の味方」をしたことから敵とみなされ、「長曾我部氏」の四国統一戦に巻き込まれ、宇都宮氏や西園寺は滅亡した。
しかし、お家は、それでも「讃岐秀郷流青木氏の背景」(長曾我部氏が讃岐秀郷流青木氏を敵に廻す事は長期戦と成った場合、その経済力差で敗退を意味する恐れがあった。)もあって、お家は九死に一生を得て救われ滅亡に至るまでには成らず、結局は逃れられたのですが、お家も衰退した。
(ここで「錯誤忘却の理由」が起こった)
其処に、秀吉の四国征伐が始まり、「長曾我部氏」は土佐一国の勢力のみと成ります。
この時、中立を保って勢力を温存した「讃岐秀郷流青木氏の保護」を再び受けて「大洲地域の南域」の護りに入りお家は何とか勢力を持ち返します。
然し、秀吉の時代に成り、再び、戸田氏らの秀吉方の攻勢で窮地に陥り、結局は秀吉の「青木氏の配置」などでお家が邪魔と成り、一応の「郷士の立場」を得ていたにも関わらず排除されて、ご先祖の墓所のある現在の土地に移動して、そこで山を切り開き農業に勤しだと云う事に成ります。
この時、お家の一族に「逃避先の違い」(意見の違い)が起こったのです。

大洲域を留まり菩提寺を護ろうとする者(分家筋)
秀郷一門の保護下に入る為に讃岐側に移動する者(本家筋)、

恐らくは、この時に、お家の分家筋が墓所を建てるのに「郷士の身分」であった事を示す為に自分の家の家紋を思い出そうとした。
時も過ぎ農業をする事から、「記憶消失」と「伝統の消失」で「錯誤忘却」から、何とかうすら覚えに記憶していた「州浜紋の類似」から、或は、先祖が一時的に用いていた「巴紋」を思い出して「家紋」として用いて仕舞ったと観られます。


この経緯で、お家の一族が次ぎの様に成りました。
「大洲町」派(分家 伝統不継承)
「土佐町」派(本家 伝統継承)

では、”この現象が何時起こったのか”と云う問題が出ます。
0 讃岐秀郷流青木氏の支配の時(1392年)
1 長曾我部氏の侵攻の時(1585年)
2 戸田氏の軋轢の時(1595年)
3 秀吉の検地の時(1597)
4 徳川氏の領地配分の時(1642年)

以上で、これ以外には「移住の事件性」は無いと考えられる。

  土佐町の土佐光信 (1434年)

正式には「土佐州浜紋」と呼ばれ、通称、「光琳州浜紋」を継承していた「土佐郡土佐町の土佐光信」は、既にこの1434年の時にはこの地に定住し、一族を繁栄させていた事に成ります。
お家は1392年に讃岐に入っていますから、既に、それから42年経過しています。
1から4は「その後」と成りますから、お家は、先ず最初は、「讃岐秀郷流青木氏」からこの地に配置された事に成ります。
「長曾我部氏の経緯」と絡めて、検証しますと、次ぎの様に成ります。

その後の経緯
ところが、「長曾我部氏の台頭と侵攻」で「讃岐の西側」の「伊予土佐の国境付近」が危険に成り、大洲域が特に危険が迫り、そこの護りを固める為に配置されます。
この時、国境の讃岐側は本家筋が護り、お家の分家一族が伊予土佐側に廻され、そこを護った事に成ります。
ところが、お家の「土佐州浜一族」は、ここで、同じ地理性を持った者の西園寺氏や宇都宮氏と連携して「防御網」を構築して繁栄を遂げ、守備域を拡大して「菩提寺と神明社」を建立するまでに勢力を高めました。

ところが、「長曾我部氏」がいよいよ侵攻が進み、西園寺氏や宇都宮氏が滅亡したが、「讃岐藤氏」と「秀郷一門」の「北からの援護」で「長曾我部氏の侵攻」を牽制し、お家は何とか生き延びた事と成ります。
然し、「秀吉の四国征伐」が始まり、この「長曾我部氏」も遂に「秀吉の侵攻の支配下」に成り、土佐一国に抑え込まれる。
結局、この時、「大洲域」で生き延びられると思った時に、「戸田氏の圧迫」を受けて、更には、「秀吉の検地」などの「軋轢と家臣の配置」とで、「西光寺と神明社」を捨てて、元の配置された地域の「大洲の東域の国境沿い」に逃げ込んだと成ります。
更には、徳川氏の伊予と土佐のと讃岐の「領地配分と郡制改革」で、「郷士」で有ったにも拘らず、土地を失い農業をして暮らし、安定した江戸期に入ります。
そして、この「旧守備の地」で生き延びたと成るのではないでしょうか。

この時に、農業した事に依って、「武士の慣習と伝統」を何時しか失います。
ところが、この「戦いや変遷」に遭遇せず「讃岐域に近い土佐郡」の「ご本家筋」では、1から4の事に見舞わられずに安定した繁栄を遂げ、その結果、「州浜紋の伝統」を失わずに「名門の武家」として済んだ事に成ります。(伊勢青木氏が実地に確認)

然し、ここで、”何で、ご本家が名門の「青木氏」を捨て、地名の「土佐姓」を名乗ったのか”と云う疑問があります。(ここから青木氏の資料から検証)

筆者の検証では、明治期まで「筆者の家との古来からの付き合い」のあった事から、この情報では、「土佐州浜族」は、「旧来の大和絵の朝廷絵師」で「絵所領職」でもあった事から、再び多くの弟子を抱えられる程に勢力を盛り返します。
家康もこの奈良期からの「日本古来の大和絵」を好み、「絵所領職の家柄」と「絵技法」を保護され、江戸幕府から「旧領安堵の処置」(記録)を受けます。
そして、「可成りの伝統のある郷氏の旧領地」を確保しての「地主の武家」で「格式高い庄屋格の身分」であった事が「伊勢青木氏」に伝わっています。

ところが、この事を考えると、このご本家は1495から1500年頃に子宝に恵まれず、土地の者を養子に取り、それに嫁を取った事で「青木姓」は絶え、地名を採って「土佐姓」をそれ以後(光信の時)に名乗った事に成ります。
この時、絶えた「青木光弘の子」でありながら、「土佐の地元の土豪」の「土佐広周の子」として育てられます。これが、「土佐光信の所以」です。
この段階で、何とか変遷に会いながらも「青木氏」を継承出来た「大洲の分家筋のお家」と、「青木氏」を継承出来なかった「土佐村のご本家」との関係は無く成っていた事を示します。

この時、ご本家は、”「家」”そのものは維持している事から「家紋と伝統」はそのままに維持した事に成ります。

ここで、実は、驚くべき凄い証拠が遺されているのです。
「土佐州浜紋一族」の「所以」を「江戸幕府も認める物」が「土佐光信」に遺されています。
それは、二つあります。

一つは、光信が態々、「土佐州浜紋族の家」の「ルーツ」を後世に遺し明確にする為に、書いたものです。
それは、秀郷一門の神助紋(下り藤紋の総紋に匹敵する)を”「巴紋の文様」”を「大和絵技法」で極めて正確に色彩豊かに描いた「象徴紋絵」があるのです。
これは、公的に「極めて有名な絵画」です。
恐らくは、これは「公的に成っている」ところから、「徳川氏」(家康か)から描くように依頼されたものでは無いでしょうか。
家康は、征夷大将軍になる時に、三河の土豪の家柄であって低い事から、幕府を開く為の格式の「征夷大将軍」の称号が朝廷より得られなかった時期があって、この為に、関東の秀郷一門を全て家臣に加えて「御家人」の家柄にして,江戸幕府の上級官僚集団にしたのです。
この事に依って,この「藤原氏の家柄」を「自分のルーツ元の家柄」であるとして、「家臣の中心」に据えて、「征夷大将軍の格式」を獲得しました。
これで朝廷は仕方なく認めて、幕府が開けられる様に成った有名な経緯があります。
この為に、ご本家の「土佐州浜一族」の「土佐三筆」にこの「藤原一門の象徴紋の神紋の巴紋」を態々描かしたする説もあります。

次ぎは、この「土佐州浜紋族の通名」が、秀郷一門の通名では無く、「伊勢青木氏の通名」と同じであると云う事です。
これは何を意味しているかと云う事です。
筆者の「伊勢青木氏の通名」は、「信」か「光]を用いる事に成っていました。
三代前までこの慣習が護られてきました。
土佐州浜のご本家筋もこの「光」と「信」のどちらかを使っています。
つまり、これが「紀州でのお家」との間で、血縁関係があった可能性を物語っています。

この「光]と「信」は、「皇族賜姓族五家五流青木氏の通名」と成っていて、これは、平安期に同族で血縁関係を持っている「賜姓源氏の清和源氏の本家筋の始祖の頼光系四家」が用いていた通名にも成っています。
平安期末期からの累代の先祖と、祖父や父が現地で学んだ事が「血縁の有無」を物語ると考えます。
この「通名」が同じ一族一門でなければ、同じと云う事には成らないのですが、同じなのです。
これが、お家の「土佐州浜紋族の経緯」です。


依って、”「巴紋」”が「土佐州浜紋族」の「土佐信光三筆」によって書かれた「巴紋絵」は「西園寺氏の巴紋」と同じだからとして ”お家と「親族」だ”とする推論は危険すぎます。
(他氏には「巴紋」の「同紋の姓族」は、20もある)
お家の場合は、「土佐州浜紋」なのです。
「類似文様」でありますが、「西園寺氏の象徴紋」と異なっているのです。

更に物理的には、「長曾我部氏の防御ライン」を張った事から「関係保持の血縁」をしたとしても、短期間に「巴紋」に成り得る事は不可能です。
何故ならば、先ず、お家の「ある家紋」があったとして、この[家紋」が仮に「巴紋」に変化するには、お家に男系跡目の嫡子に恵まれず、「西園寺氏」から養子を迎えたとし,その養子にも嫡子が出来ず「二代続きでの養子」を迎えると成った場合に、「最初の養子先」の「西園寺氏の系列」に組み込まれて、家紋は「養子先の家紋」と変化します。
この時、初めて「西園寺氏の家紋」(象徴紋)に成ります。
但し、「西園寺氏」が認めた場合に限ります。
この間、年数的に約最低で20年は擁する事に成ります。
つまり、80年の1/4ですから、そこまでにお家の勢力は成り得ていたのかと云う問題があります。

血縁するには家柄には問題はありませんが、お家の勢力拡大に至るまでの期間に関して検証をする必要があります。無理です。
「宇都宮氏」と「お家の家柄」の差も問題です。
宇都宮氏は確かに「関東屋形」と呼ばれた一員ですが、秀郷一門からすると「傍系族」に過ぎず、況して、「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏」であり、「近江系の脩行系の青木氏」です。
家柄がお家の方が衰えたとはいえ遥かに上です。
況して、お家は分家筋であり、「土佐村の本家筋」を差し置いて「伊予宇都宮氏」と血縁するかの疑問もあります。
又、家紋も消失し「神助紋の巴紋」です。
共に巴紋の立場ではありますが、何か血縁と成る証拠が見つから無い限り疑問です。

筆者は合力はしたものの無かったと観ています。
それは、「秀郷流青木氏の背景」をあくまでも護る必要が無ければ、「長曾我部氏」は何の脅威もお家に感じなかった筈です。
お家は、「西園寺、氏宇都宮氏、一条氏」は悉く滅亡しているのですよ、そして生き残っているのです。
そして、お家だけが生き残っているのですよ。
矛盾を感じませんか。この何れかと血縁していれば、お家も一族と見做されて「長曾我部氏」に徹底的に潰されて滅亡していますよ。
「長曾我部氏の戦い方」はご存知と思いますが、先ず一族末孫まで存続は何れの地に居ても無理です。
でも、生きていますよね。何故なのでしょうか。
その答えは一つです。


更に、問題は、血縁するとした時のお家の家紋設定が何であったかの問題です。
「家紋」の無い家との血縁は、決して「公家族の西園寺氏」であろうと宇都宮氏であろうと致しません。
「伊予の宇都宮氏」は宗家から無視されていたのですよ。真面な家紋などは使えません。
依って、上記した慣習に沿って止む無く使えるのは「巴紋」なのです。
血縁したとするには「土佐州浜紋」か上記した「見極めの類似家紋」でなくてはなら無い筈です。

お便り
>現在は『曹洞宗』ですが、本尊は『阿弥陀如来』です。

この事は、上記しました様に、四国に於いては、充分にあり得る事です。
むしろ,そうで無くてはお家のルーツが成り立ちません。
又、「四国の真言宗」の中での「曹洞宗」と云う事から、お家の盛隆期とも一致しています。

「密教浄土宗」は「宇宙仏」は「大日如来仏」です。
浄土宗系の曹洞宗は、中級と下級武士を多くの信者としていましたので、「二つの浄土宗系の宗派」でありますので、正しい事に成ります。

そもそも、「如来」とは、”宇宙仏が天から来た”とする「仏の意味」ですから、「密教の前提」とする”「如来]”と云う意味でも合致しています。
三代格の仏(如来、菩薩、王天)の「阿弥陀仏の如来」は正しいのです。

地理と位置関係については、納得出来ます。
つまり、お家は、この位置関係から、上記しました様に、身を護る為に、「長曾我部氏の台頭」に対して西園寺氏や一門の宇都宮氏との防御関係を持った事には充分に納得出来得る事です。
「讃岐秀郷一門の背景」がありながらも、ある意味で中立を保っていた「讃岐秀郷流秀郷一門の援護」が充分に期待できないところから、先ずは、対抗しなければなら無いところから止む無く、合力した事が頷けます。
大洲市の中心部にある地名と遺跡があることも合わせて頷けます。
「合力関係」が成立する「地理的関係」も成立しています。

お便り
>さて、思いがけず大洲の地に『神明神社』『西光寺』が二組、発見できたわけですが、実は地図を広げて視線をさらに上流へと移しますと、もう一か所、『西光寺』が発見できるのです。

前回にお答えしました様に「神明社」であれば別としても、「神明神社」については納得出来ませんが、二組の「西光寺」の存在に付いては、「神社」とするところからも、実は「時代性」について江戸期頃と観られますので、どちらか一つが「お家の西光寺」と考えられます。

それには、この「西光寺」に関しては、「ある事情」があって「時代性」が大きく左右しているのです。
実は、この「西光寺」には、陸奥域まで秀郷一門の定住地には必ず存在するのですが、江戸期に建立された「西光寺」もあるのです。
何故、この「秀郷一門の菩提寺西光寺」が江戸期に掛けて多くあちらこちらに建立されたかと云う問題ですが、これには明確な理由があるのです。

これらには殆ど「真言宗」が多いのです。
四国域には、特にこの「系列の西光寺」が実に多いのです。

それには、次ぎの様な訳があるのです。
江戸期に成って配置された「勃興族の大名」等が、「自らのルーツ」をよく見せる為に「藤原一門の出自」として見せかける為に、勝手にこの「西光寺」が建立されたのです。
何故、「西光寺」かと云いますと、「讃岐藤氏」と「讃岐秀郷一門」がこの四国に平安期より定住していて、多くの末裔子孫を現地に広げているからなのです。
お家の情報からと地理的条件から江戸期初期に近い事が頷けます。

何故ならば、秀郷一門は、「浄土宗又は浄土真宗の菩提寺の西光寺」を既に持っているのですから、江戸期に成って態々建てる事は先ずありません。

それは、次ぎの事で証明できるのです。
この江戸期前の頃の墓所の「青木氏の仕来り」では、当代より三代までを遡って祭祀し、50年過ぎる毎に、「五輪の塔」の「累代先祖墓」に移す「仕組み」に成っています。
従って、子孫が増えても「墓所」が必要以上に増えない様にして「菩提寺の範囲」を護った「仕来り」が有ったのです。
つまり、あちらこちらに「西光寺」が増えない様に仕組まれていたのです。
江戸期以上は、戦国と違って「石高の範囲」で「子孫の拡大」を押えられますから、「氏の勢力」は拡大はしません。当然に使用の墓所は増えません。

四国の「藤原秀郷一門はこの仕組み」の中にありますから、増えたとするには、「家柄搾取の勃興氏」の「他宗の西光寺」と成ります。
その為に「西光寺」に対応する宗派があり得ない「顕教の真言宗」が多いのですが、この事から藤原氏のものでは無い事が頷けます。

そもそも、高野山に行かれると判りますが、室町末期から江戸期に掛けての殆どの大大名が挙ってこの「真言宗のメッカ」に墓所を建立し、「檀家としての立場」を作り上げたのです。
これは「家柄」をよく見せる為に採った策でした。
殆どの家柄は江戸期初期の権威保全の他の督励に依る影響を受けた「搾取偏纂行為」です。
それが、下記のお便りで証明できるのです。

従って、四国のみならず、全国的にも、「真言宗西光寺」は、「本来の西光寺」とは異なります。
放念される事をお願いします
「神明神社」は、兎も角も、このお家が定住していた大洲外の「西光寺」に付いて時代性をご確認されるとこの疑問が解ける筈です。

お便り
>大洲市の東隣り、肱川に注ぐ支流『小田川』の流域にある『内子町』に『西光寺大師堂』なるお堂が存在します。
>当地の地誌によると正式名は『金栄山西光寺』(堂にはその扁額も掲げられている)で、『西光寺の廃寺跡』と記述されているのです。
>お堂の建物自体は江戸前期のものとさ、・・・。
>別の地誌には『西光寺・真言宗寺であった』ともありますが、四国遍路の宿泊所として『大師堂』と呼ばれたことから曲解された可能性があると考えます。

これは推理が当たっていません。
”曲解”ではなく、上記の理由から来ているのです。
「地誌」が正しいのです。

お便り
>残念ながら、当地には『神明社』『神明神社』を見つけることはできませんでした。
>当地・内子町は『喜多郡(宇和郡の北、『北郡』から変化したともいう)』に属し、江戸期が大洲藩領でしたが、その記録にもありません。


喜多郡は、依って、上記しました様に、お家の経緯からも、見つける事は出来なかったのは正しい事なのです。
「お家の定住地」は、上記の経緯でどの時期かは、そのポイントは「大洲の地の北端域」にあると観ます。
上記した筆者の伊予と土佐の歴史観に付いては,「花菱紋の武田氏系青木氏」との「棲み分け」から、現在の高知県の中央北域の現在高知市の以北の国境の土佐郡土佐町と観ています。
ここを中心にお家の本家筋が定住分布したと観られます。

そうすると、伊予と土佐の国境沿いに沿って分布した事に成りますが、「土佐の国境の大洲最以北域の分布」と「土佐郡土佐町から喜多郡域までの分布」の二つに成ります。

「時代性」では、秀吉に追われての逃避で、「讃岐寄り」の「土佐郡域」までの山中にお家が本家筋に近い国境の地域が逃げ込んだです。
一部のお家が逃避中にこの大洲の国境域の山中に逃げ込んだです。
恐らくは、現在も分布しているところから、この国境沿いに大洲から喜多郡を経て土佐郡までの地域に逃げ込んだと考えられるのです。
ここで江戸期にお家の子孫を分布させたと成るのではないでしょうか。
依って、その「先祖の伝統」が「本家筋」との間で消えて、「大洲域の末裔」に伝統が消えたので、家紋を間違えて仕舞ったとなると観ています。
「土佐の光信の子孫」では家紋を維持していた事で判ります。

「西光寺」と「大師」は根本的に異なっていますので、上記しました様に、「江戸期の西光寺」については、根本的に青木氏とは別としてお考えに成る事が必要です。
江戸期の家柄誇張等の搾取偏纂の別物です。

従って、歴史的な意味として、青木氏に執っては内子町は関係ないと観られます。
当然なから、この地に正規の神明社と一部の系列を除いて神明神社はこの地域には無いと考えられます。
依って、喜多郡域の神明社の存在は無理と観られます。

特に、四国に於いては、特別で、江戸期には、「遍路」の宣伝の影響を強く受けて、歴史的に青木氏のデータと成り得ません。
前回にも論じましたが江戸期までのものとしてお考えください。

お便り
>ただ、堂が立つ土地は現在も『五百木(いよき)』といい、藩政時代は『五百木村』でありました。『青木』が古くは『うぉーき』、『あうぉーき』と発音されていたと、当サイトで教えていただきましたので、『青木(あおき)=五百木(いよき)』と変化した可能性はないか、と考えます。もしそうであるならば、同じ大洲・喜多郡に三つ目の『青木氏ゆかりの地』があることになります。

”あおきの呼称の変化”とする推論は、少し行き過ぎと観られます。
それよりも、”五百”に意味を持っています。
真言仏教では、五百は、盧舎那仏の宇宙仏の言葉を伝える釈迦の弟子として「顕教の仏の数」を云います。「五百羅漢」と云って、通常では昔、この僧侶等の事を”羅漢さん”と呼称されていました。
そこから、この「弘法大師の辺路の所縁」からこの地名が付けられたものと観られます。

本来、「木」は古来より、三世紀ころからの「自然神の対象」として、崇められていて、「真言宗」はこの「自然神の概念」の傾向を強く持っていますし、「毘沙門天」等の「三宝信仰の仏像」も真言宗は祭祀しています事から、その伝統が地名に使われて、「羅漢さん」と「木」を組み合わせて出来た地名では無いでしょうか。
現在でも、神社では「楠木や青木や榊や毘沙木」がこの神木化しています。
大きい古い木で、虫の着かない様な樹木は古来より、「神の宿る木」として、崇められてきました。

「自然神」は日本古来の最古の宗教です。卑弥呼が使っていた占いはこの自然神です。
「卑弥呼の時代」からあります。
奈良期には、「和魂荒魂」、平安初期には「三宝信仰」等全てこの自然神からの出自です。
「青木氏の祖先神の神明社信仰」もこの系列です。

お便り
>この地には『南北朝の戦いの後、伊予に移動した楠木正成の末裔によって拓かれた』との伝承があるのです。
>以下、その伝承を記述します。
>『内子町河内』の地名と河内家は現在も存在し(五百木の北方山中)、『菊水寺』も現存します。2つの伝承は、この菊水寺と河内家を中心に伝わったもののようで、河内家では自らの一族を『伊予楠木家』と称する一方、讃岐に落ち延びた一族(『木地家』と称したそうです) 以上の『楠木正成末裔伝説』の信憑性については、ひとまず問いません。
>しかしながら、これらの伝承が内子の地に『南北朝の戦に関わって移動してきた何者か』が存在した残滓ではないか、と推定することは十分に可能と考えます。さらに当地に『西光寺』、そして可能ならば『五百木地名』の痕跡があることを加えますと、次の推論が浮かび上がってきます。
>この内子の地こそ、紀伊から伊予に落ち延びた当家が、最初に移り住んだ土地であったのではないでしょうか。

お家が最初に移り住んだ土地は上記しました通り、当初から判っています。
「土佐州浜紋」で証明できます。
放念される事を期待します。

次に、上記しました様に、「楠木正成の末裔伝説」は、紀州赤坂村の記録にはありませんが、あり得る事かも知れませんが、殆ど「江戸期の搾取偏纂」ではと観られます。

楠木氏は元は、室町期の1300年代の「鉱山職人の出自」で、その鉱山の銀産出で一山当てた者で、その者が紀州赤坂村に住み着いて、その金で、身分を買い、土地の土豪と成ったものです。
一時、「伊勢青木氏の伊勢シンジケート」の一員でした。
この者が良く勉強し、学識を高めて、南北朝の時に南朝が窮地に陥っていたところをこの学識の事を知った南朝は、藁をも掴む気持ちで呼び出したものなのです。
現在で云えば、「一発屋」と云う処でした。
土地の土豪連中をこの金銭で集めて、3000人程度集団を造り、山城に籠ったのです。

この時、これを軍事と経済的に支援したのが「伊勢シンジケート」でした。
山の山間部でゲリラ活動をして、「相手の食糧」を絶つと云う不戦勝利の戦法を採ったことから、10万と云われる大軍であることから、直ぐに軍が飢えが起こり2000人が死に至り、極端に戦力が低下して一時的に勝っただけなのです。
この事を知っていた九州に逃れた足利氏は、今度は青木氏のシンジケートから離れ「平地での実戦」に出たのです。当然に勃興族の金でなった土豪は負けます。

この「楠木氏」は「姓族」で、お家の様に秀郷一門州浜族と云う大豪族での氏族ではありませんから、それほどに逃げなければならない氏の大きさは元来より持っていませんでした。
正成は死んだ後は周囲は、蟻の様に離散してしまいました。
現地に居られなくなった楠木氏は周囲からの脅威から八方離散で逃げ延びるしかなかったのです。
依って、極めて「信憑性」は低いと観られます。

「西光寺」も「五百木」も上記しました様に、論外にするべきことです。
むしろ、これは、お家の事を利用した搾取偏纂では無かったでしょうか。

お便り
>さらに二つの条件を挙げます。
>今ひとつは、当地を含む大洲・喜多郡地域が『紙の産地』であったことです。
>当地は今も和紙を生産していますが、これは大洲藩時代に再興されたもので、本来の喜多和紙は江戸初期までにほぼ廃れていました
>当家が伊予逃亡の際に頼った讃岐藤氏が、この紙の生産・販売に関わっていたことは確実とみてよい、と考えます。とすると、落人である当家を隠れ住まわせ、同時に生活の道を与える土地として、この喜多郡内子の地は非常に好条件ではないか、と考えるのです。(ちなみに当地では紙のほか、ハゼの実を原料とした『和ろうそく』を生産し、藩政時代は非常に栄えました)。

さて、内子については、多少疑問が残ります。

ただ、「和紙」と「ハゼの蝋燭」には同意しますので論じます。
「松阪商人」の一つで、青木氏と血縁関係を持っている「射和商人」と云う有名な豪商団体がありまして、この豪商がこの和紙と蝋燭の商いを各地にしていました。
「青木氏の松阪商人」も総合商社として行っていたのですが、この伊勢青木氏の援護を受けた「射和商人」も紀州ー伊勢の名産として青木氏が多く住む「土佐域」「讃岐域」に広めた可能性が室町期末期から商業記録では観られます。

この事は伝統シリーズ等でも論じています。

「和紙」の日本最古は、東大寺の記録でもあります様に、「伊勢和紙」で、715年に「楮和紙」での「試作ー生産ー殖産ー興業」とほぼ925年頃まで「伊勢青木氏」に依って開発と販売が行われました。伝統シリーズで論じています。
これは各所に記録として残っています。
この時、「伊勢青木氏」は、朝廷の「紙屋院と云う役」を務め、興業で「紙屋」と云う称号で朝廷で余った「和紙」を市場に出す事の「朝廷許可」を得て、「二足の草鞋策」を始めました。
当時の経済は「部制度」と呼ばれるもので、「職能集団方式」で「全ての殖産」で作られた物は、一度、朝廷に収め、必要な量を朝廷に残し、余った物は市場に出す仕組みでした。
この権利を開発者でもある「伊勢青木氏」が獲得したのです。
そして、この権利を、一族の他の「四家四流の皇族賜姓青木氏」に貸与して、「五大産地」として繁栄させました。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の「楮和紙」は1000年以上の歴史を持っている事は公の記録に記載されています。
この「伊勢の楮和紙」は、伊賀地方から紀州南部までに広めて手広く殖産をしたのです。
伊賀を故郷とする「平の清盛」も宋貿易の逸品にする程に優れた紙質でした。
室町期には、「紙文化の室町文化」が起こりましたので、「五家五流の青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」は250万石と云う「巨万の富」を獲得しました。

この時、お家も紀州に居ましたから、又、青木氏とは親交を深めていましたから、「伊勢楮和紙」は知っていた筈です。
江戸初期には、家康は、この「楮和紙の生産方法」を「伊勢青木氏」から伝授を受け、全国各地に生産拠点を移しました。

従って、お家が讃岐に移動してからもこの「和紙の生産」に関わった可能性は否定できません。
筆者の「商業記録」や「青木氏の譜」からは出てきませんが、「伊勢青木氏」から指導員を出した可能性はあると思います。
この「射和職人」が「土佐村」に移動して指導したと考えられます。
「土佐村のお家の御本家」は、上記しました様に、「大和絵の絵所領職」の役処があった事や、「紙屋院の役」を務めた「伊勢青木氏」との「深い親交」から観て、「楮和紙の生産」は「土佐村」でも行っていたと充分に考えられます。
この「ご推理」は当たっていますね。

「土佐村」から「西域の山間部」に分布したお家の一族から観れば、充分に考えられる事です。
尚、この楮は、山間部の様な処に良く生息する植物で、紀州と良く似た土地柄ですので、且つ、後に「幕府の奨励」もあって、生産した事は充分に有り得ます。

次に、驚くなかれ、「ハゼの蝋燭」は、明治期まで、何と「紀州北部から横に伊勢の北部」に掛けて、「蝋燭の最大生産地」でした。
「楮和紙」と同じく歴史的な「紀州伊勢域の名産品」です。
現在でも、「紀州北部の東域」には、未だこの「ハゼの蝋燭」は生産されていますよ。
紀州北部の山を観てください。特に、秋には「ハゼの紅葉」で山一面は真っ赤ですよ。
ハゼの木が無いところは無いくらいですよ。
これも明治期まで盛んに生産されていまして、筆者の幼少の頃まで近隣では未だ生産が盛んでした。
大変なご推理です。

お家の「土佐州浜紋一族」が住む「大洲から土佐村までの山間部」では、お説の通りと考えます。
間違いはないと考えます。
「山間部」で生き延びるには、何処でもそうですが、耕す田畑では一族を養ってゆくことは無理です。
何かの殖産をしなければ無理である事は充分に判っていた筈で、恐らくは紀州に居た時の知識と伊勢唐、上記しました「青木氏との関係」からお家の推理は絶対的条件としてあった事が頷けます。
先ず間違いはないと思います。
確か前回のお便りに「郡代の一色氏」の「青木氏からの手紙」や「一色氏の存在」は何かと繋がっている可能性が有りますね。

お便り
>当地に定着した当家はその後、小田川を伝って肱川の下流域へと、2度目の移動を行います。移動した時期がいつであったか、また移動先が残る2つの『ゆかりの地』のうち、大洲の『青木』『青木谷』か、あるいはやや上流域の『貫小屋』のどちらであったかは現在のところ不明です。
>ですが、あえて推論するならば、まず先に最も下流域の『青木』『青木谷』に移動したのでは、と想像します。 内子に逃げ延びて住み着いた当家は一時、大きく伸長し、大洲の地に『神明神社』と『西光寺』を建てて根を張った、と想像します。内子・五百木村から直線距離にして12キロほどですが、曲がりくねった川を下ったとすればその数倍の距離の移動でした。

最初、内子町に逃げ延びたとする推理説は若干賛成できません。
この当時、「讃岐藤氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の勢力範囲が、未だこの域までのものではありませんでした。
これは、武田氏系青木氏等の事でも判る様に、伊予側に迄勢力が進捗していませんでした。
「純友の乱」以降、一時衰退してその勢力は衰退します。
そして、再び、讃岐を中心に莫大な「瀬戸内の経済力」を背景に室町期までにその勢力を張ったのですから、内子説はちょっと無理ですね。

上記しました様に南北朝期末期には、讃岐と土佐の国境の山間部の土佐郡土佐村(土佐市ではありません)に住んでいた事が判っています。
それと、「時代の経緯」と秀郷一門の勢力圏の差があります。
お家は、土佐村から大洲域までの国境山間部の分布です。

お便り
>ここまで考えて、やはりどうしても無視できないのは『伊予宇都宮氏』の存在です。
>伊予宇都宮氏は、九州の豊前宇都宮氏6代頼房の三男・豊房が元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられて大洲に城を建てたのを始まりとし、最後の豊綱が天正13年(1585年)に没するまで八代を数えた、とされます。
>伊予宇都宮氏が実際に大洲に勢力を張ったのがいつになるのか、正確にはわかりませんが、当家が大洲・青木の地に根を張った時期と、ほぼ間違いなく重なると思われます。
>前述のとおり、彼らの居住区がほぼ重なっていたことも間違いありません。
>さて、ここで当家と伊予宇都宮氏の関係について、今一度、再評価すべきと考えます。

上記しました様に、西園寺と宇都宮氏との関係は、大洲域での事では、「長曾我部氏の侵攻」に対処して合力した事は否定はしません。
筆者も同じ考えです。
ただ「当家」と云う前提が、どの範囲ではあるかは判りかねますが、上記しました様に歴史的に「お家の分家」と云う定義では、あり得ます。
然し、ご本家は南北朝期からの歴史的伝統を明治期まで何とか維持していますし、秀郷一門がいきなり勢力圏外の伊予の大洲域や内子付近に何故、送り込むのでしょうか。あり得ません。
もし、お家の説としますと、「讃岐藤氏と讃岐秀郷流青木氏の勢力」は、讃岐と瀬戸内と伊予と土佐北部と、片喰族の秀郷流青木氏の阿波の国とで、本土四国を勢力圏に収めていた事に成ります。
本流は瀬戸内を越え北側の本島の安芸の国から日本海に伸びたのです。
これは全く歴史的に間違っていますよ。

戦国時代は、土佐は「長曾我部氏の勢力範囲」から観ても、又、伊予は「河野三氏一族」と後に西園寺氏の支配と成りますから、「讃岐藤氏と讃岐秀郷流青木氏」はここまで勢力を持ち得ていませんでした。

然しながら、「伊予の宇都宮氏」と立地関係に於いてお家の関係は確かに短期間の中でのほんの一時的な関係で認められますが、そもそも、宇都宮氏の伊予での勢力図は歴史上の範囲に載って来ない範囲ですよ。
上記した様に、伊予は河野三氏と長曾我部氏と西園寺氏の範囲です。

「青木村や神明神社」があるからと云って、ここは同じ「菩提寺名」や「村名」を持つ「讃岐青木氏の定住地」でもあるのですよ。全てお家とは成りません。
以前も今回も何度も「神明社」と「神明神社」は必ずしも一致しないと申し上げています。

「西光寺」も、その宗派と時代が異なれば、「秀郷一門の菩提寺」とは限らないと申し上げています。

その家柄と経緯と由来にあった宗派で無ければ同じと云う訳にはゆきません。
「西光寺の浄土宗」か「浄土真宗」は、「秀郷一門」、「曹洞宗」は、お家の様な紀州からの移動族の様な場合に於いては、「浄土宗系の曹洞宗」と成ると説いています。

余りにも、史実と歴史観に結びつかない推論として、「宇都宮氏との結び付き」を作り上げようとするのは疑問です。
何度も云いますがそもそも「青木氏」では「巴紋」は家紋ではありませんよ。

お便り
>当家と伊予宇都宮氏との関係については、
>もちろん当家が『青木』『青木谷』にいつか居住し、いつそこを去ったのか、それを知る確たる史料は無いため、かならずそこで接点を持った、とは言い切れません。
>ただ、ここで思い出されるのは当家の家紋『左三つ巴』。そして、家伝に混じり込んだ宇都宮氏由来の伝承(藤原北家・藤原道兼)です。さらに、現在の檀家寺『大楽寺』が、宇都宮氏の再興による寺(元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。
>房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。
>さらに当家が大洲の地に『西光寺』を持っていたとするならば、少なくともその時期までは家紋等のステータス管理も行われていたはずで、忘却や取り違えは考えにくいと思われます。となりますと、当家の家紋は武家の仕来りに従い、正しく『左三つ巴』に変更された、と考えるのが自然ではないかと考えるのです。

このお考えは、上記しました様に、「三つ左巴」紋は「家紋」では無いと云う事です。
お家は「土佐州浜紋」です。
更に、前回からも「お家の西光寺」は、家紋やルーツ名やお家の伝統を系統的に維持する態勢の無い「曹洞宗の宗派の顕教系の西光寺」だと申し上げています。
逆に、故に「お家の菩提寺」だと申し上げているのです。

「密教浄土宗」のみが、この「ルーツを継承する仕来り」を持っていて、後は、”顕教だ”と何度も申し上げています。
もう一度前回からのお便りを良く租借してお読みください。何度も論じています。

その他は「人別帳」で、「寺の経営」も庶民全般から浄財を集めて「檀家方式」に依る運営です。
「浄土宗」は、「福家に依る達親方式」です。

依って、ルーツは愚か家紋などは論外です。

念の為に、そもそも、「家紋」として持ち得たのは、朝廷が認めた高位の「氏族」であって、朝廷が認めていない室町期中期からの勃興族の「姓族」では江戸期に成ってからですよ。
そもそも、元よりのその概念が「姓族」には無かったのです。

家紋化したのは江戸初期ですが、家康が作り上げた「権威造成」による「姓族の習慣」ですよ。
家康が嫡男が家を継ぐと決めた時からのきっかけで「家紋化」が積極的に起こったのです。
この区別を是非つけて頂くようにお願いします。

依って、このお説には、同意しかねます。

お便り
>内子から大洲へと伸長した当家は、そこで伊予宇都宮氏と縁を結びます。前回の副管理人様の御回答で、伊予宇都宮氏が『讃岐藤氏の生き方を真似た事に依って読み間違えた』と分析しておられましたが、まさにそのようであったと想像します。『青木』『青木谷』に隣接する『宇都宮神社』には、下野の宗家からは失われたとされる『日光山並当社縁起』 が伝えられ、文明九年(1477)に宗家の下野宇都宮氏十六代正綱が奉納したと署名があります。奉納の真偽は置くとしましても、伊予宇都宮氏が本家との関係を強調し、『伊予の宇都宮』を標榜せんとした形跡が随所に見られるのです。(大洲・喜多郡には『宇都宮神社』が多く建てられ、内子・五百木にも建っている。『仁平3年(1153)に下野国より勧請』という、かなり『?』な社伝がある)

この事に付いては、同感で間違いはないと考えます。
ただ宇都宮氏との血縁の有無には時代性から観て困難です。

お便り
>当家は、この伊予宇都宮氏の野望に『乗った』のではないかと想像します。フィクサー・スポンサーのような存在だったかもしれません。
>しかし、結果としてこれは失敗します。
>大洲は北の河野氏、南は西園寺氏、土佐からは長宗我部氏と、まさに四面楚歌の状況に追い込まれます。土佐の一条氏と縁を結んだこともあったようですが、結局はどちらも滅びてしまったのはご承知のとおりです。
>当家が大洲南方の山中、『貫小屋』に三度目の移動をしたのは、この時期ではなかったかと想像します。居住地の移動というよりは、ステイタスとしての神社と寺を、護りやすい山中に移動させた、というところではないでしょうか。ここまでは、まだ当家もステイタスを維持できていたことになります。
>ですが宇都宮氏が滅び、当地が豊臣秀吉の支配地となって、状況はさらに悪化します。
>特に天正15年(1587年)、伊予大洲を領有し伊予南域を支配した戸田勝隆の時代、当家のような郷士は、相当に迫害された様子が伺えます。戸田氏は今も、当地では非常に評判の悪い人物でして、『そこまで悪くもなかった』という説がある反面、司馬遼太郎氏などは『暴君説』をとっていらっしゃいます。

この事も上記しました通りで、同感で、間違いない事だと考えます。
戸田氏は「秀吉の命」を受けての行為であって、「追い出し」と「自然滅亡」を期待しての措置であったと観られます。
ただ、無暗にやりますと、「秀郷一門の郷氏の反発」を受けて「自らの存在」を悪化させますので、弱らせて追い出すの程度を目標としていたと考えられます。
例えば、上記しました様に、「長曾我部氏」が採った様に、「秀郷一門の勢力」を気にしてお家を潰さなかった事、又、大内氏の様に、騙して集めて門を閉めての「郷士集団の皆殺し」と云う事にも成り、後の治世に悪影響を及ぼしたこの二の舞を踏みます。

お便り
>この時代、どうやら多くの郷士の菩提寺が破壊されたり、土地の簒奪も起こりました。これに対して激しい反乱も起こりましたが、戸田氏はさらに強烈な締め付けで対抗し、泥沼のような状態になったことがうかがえます。(逆に戸田氏断絶の後、大洲・宇和島藩に入った加藤・伊達の両家は、土地の郷士に対して非常に気を使った形跡がある)。
>その戸田のお膝元で、当家がそのまま居続けることは不可能でした。
>戸田氏の大洲入りが天正15年(1587年)、当家が今の土地に来て、初代が亡くなったのが寛文7年(1667年)。その間80年。

戸田氏の事は、同意します。
「大内氏の皆殺し」が良い例ですよ。

ここで、間違いを起こしています。
何度もお答えしていますが、お家の様な秀郷一門以外の土着では無い「郷士」以外は、そもそも「菩提寺」を持つ事はあり得ません。
「姓族」ですよ。持つ事はあり得ません。
「多くの郷士」は間違いです。
何度も云いますが、「菩提寺」と「檀家寺」は根本的に違います。
宗教概念もシステムも経営も管理方式も何もかも違います。
「姓族」と「氏族」は、根本的な「慣習仕来り掟」が違うのです。
「顕教の姓族」の「家紋」と、「密教の氏族」の「象徴紋」が違うと何度も述べています。
この事から租借していただきたいものです。

お便り 
>その間、当家はゆかりの地を追われ、讃岐藤氏の支援も受けられず、今度こそ『神明神社』『西光寺』のステイタスも失い、伊予のさらに南域・おそらくは『三間郷・曽根青木家』が勢力を持っていた土地に逃げ込みます。
>この『曽根青木家』については別に調査を進めており、彼らが三間の土地において、ある大きな動きを起こしていたこと。そして当家とはやはり『近江の縁』があったと思われることなどが推定されています。それについても、いつかご報告できればと思っています。
>ともあれ、曽根青木家の勢力下といえども讃岐藤氏の影響から逃れることはできず、また菩提寺を失ったからといって曽根青木家と同じ天台宗に改宗する、という選択肢もなかったと思われる当家は、辛うじて宇都宮氏に縁を持つ現在の『大楽寺』で檀家となるのが精一杯だった、と想像します。
>そしてどうにか現在の地に落ち着いた当家は、『左三つ巴紋』と『青木』の名だけをステイタスとして伝え、伊予南域の農家として生きてきた、そのように想像するのです。

このお説には同意いたします。間違いはないと思います。
「三つ巴紋」は賛成できません。
「三つ巴紋」をどの様に信じるかはお家の自由ですが、史実は異なっています。
「土佐州浜紋」が明確に有りますので、史実に外れる歴史観には理解ができません。
「青木氏」については上記しました通りです。

ただこの南域から東域にかけては多くのお家とは異なる青木氏が存在しますし、青木村も正式に持ち得ていますので、間違われない様にしてください。
調査の際には、お家の「土佐州浜一族」は、「曹洞宗」である事を前提にしてください。
「密教」としながらも、その概念は顕教の曼荼羅仏を宇宙仏とし、釈迦を伝道仏としている訳の分からない天台宗と真言宗があります。
この事もなかなか知識を獲得するのも難しいですが、頑張ってください。
青木氏には欠かせない知識です。

大変、長文に成った様ですが、是非、他氏とは全く異なり、「青木氏」としての特異な慣習に縛られた多くの「歴史観」を是非ご理解頂きます様に。

家紋や象徴紋は、特異な分野であり、なかなか高度な知識を獲得するのは難しいですが、少しずつでも良いですが、何とかご理解ください。
「青木氏」には絶対に欠かせない歴史観です。

今回は大変な量のご質問でしたので、より判り易く成る様にご説明したつもりでですが、その為にお便りが遅れました。
然し、そのご推測が以前より一段と高まり、その洞察力が高く成った事に驚かされました。
お家のルーツは一応は大まかには判っていましたが、そのルーツ周辺をよりご理解しての事に成る様に、留めていました。

更に、御研究される事を期待します。其れには青木氏が持ちます「歴史観」を是非収得される事を期待します。この歴史観が無ければなかなか正しいルーツに辿り着けず矛盾を多く含んだものと成り得ますので、これを是非サイトからのお願いとします。


筆者も出来るだけ丁寧に詳細にはっきりとお伝えする事を旨としてお便りをしています事を御理解ください。

では、以上の事でご質問やご不明な点がありましたら、又、何か新たに判りましたらお便りください。
お待ち申し上げています。


  [No.1048] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2015/04/23(Thu) 14:57:32

 お返事を拝読いたしました。いつもながら鋭いご指摘に冷や汗の有様です。
 前々回のお返事で『大洲・喜多地域』という新しい視点が加わったため、あわてて飛びついた挙句に出来上がった投稿でしたので、いつにも増して拙い部分も多かったと反省しております。当家の四国における移動経路、及び家紋については十分に納得いたしましたので、どうぞご寛恕いただければ幸いです。

 ところでお返事をいただいた後、すぐにお礼とお詫びの書き込みをするのが筋と心得ておりましたが、今日まで遅れてしまったのには理由があります。
 実は、故郷において現地調査を続けている父から、三間の『曽根庄屋青木家』付近において全く新しい情報を掴んだ、という連絡があり、その調査報告を待っておりました。

 以下、ご報告させていただきます。

 以前ご報告した『曽根庄屋青木家』(天台宗・宗光寺を菩提寺とし、現在は家系の絶えた青木家)が存在した『三間町曽根』、その住宅地図を入手・捜索しておりましたところ、『青木姓』を名乗るお家がもう一軒、旧庄屋青木家のごく近くに現在も暮らしておられることが判明しました。
 三間町曽根の近郊には、我が家が明治期に縁組した親戚(こちらは青木氏族系の歴史的背景等のない縁組と考えております)がありますので、さっそく紹介していただき、父が訪問して参りました。

 その結果、当家のルーツに直接つながる、非常に興味深い事実が数多く判明しました。

 新たな『青木家』は、旧庄屋青木家跡から歩いて数分という距離にあり、父も当初は『曽根青木家の末裔であろう』と考えていたのですが、現地でお尋ねすると意外にも『違う』というご返事。
 驚いて詳しお話をお聞きしたところ、古い伝承などはほとんど残っていないものの、まず次の事実が判明しました。

 1.現在残っている家は分家で、本家はすぐ近くにあったものの家系が絶えている。
 2.かつての本家は非常に勢いのあった家で、家の裏山など広大な土地を所有していた。
 3.近くに『曽根旧庄屋青木家』が存在していたことは知っているが、あちらとは『別の家』と認識している。
 4.『立間青木家』のことは全く知らなかったし、伝承もない。
 
 そして最も注目すべき証言が次のものです。

 4.家紋は『左三つ巴』。

 これには父も仰天したそうですが、無理もありません。我が家と同じ『左三つ巴』を持つ青木家が、山一つ越えた三間町曽根に存在していたのです。しかも『曽根旧庄屋青木家』のごく近くというのですから、驚きも当然でしょう。
 以降、こちらのお家を仮に『三間左三つ巴青木家』と呼称させていただきます。
 父がこれまでの調査結果等をお伝えしたところ、先方は驚くと同時に『今になってそんな歴史が判明するとは』と非常に喜ばれ、現在も裏山にあるという本家・分家の墓地を見せていただくことになりました。草を刈ったり、文字が読みやすいように墓石を磨いたりと、大変なご協力をいただいたそうです。

 以下は墓地の調査結果となります。

 1.『三間左三つ巴青木家』の初代と推定されるものは『丸石』。元は五輪塔であった可能性もある。
 2.2代目と推定される墓は『天和二年(1682)』の年号だけが判別でき、墓の主や宗派等は不明。
 3.3代目と推定される墓は『釋 ◯ ◯』。
 4.分家の初代は『安永8年(1779)』。
 5.明治期まで『青木姓』を刻んだ墓はない。家紋も確認できず。また『三間旧庄屋青木家』の墓のような格の高い戒名も確認できない。

 以下、墓石が点在しているのですが、並びの順があちこち飛んだり、あるいは無くなっていたりするものもあり、完全な復元は未だできておりません。

 ただし一点、これまでの調査と合わせて非常に興味深いことが確認できました。

 3代目と推定される墓には『釋』の文字があり、我が家の墓と同じく『浄土真宗』の形式をとっているのですが、そのすぐ隣に女性のものと思われる墓が立っており、これが戒名の頭に大日如来を示す『ア』の梵字が入っていることから、『天台宗』のものと思われるのです。
 二つの墓は、配置から考えてご夫婦のもの思われるのですが、夫が浄土真宗・妻が天台宗と違う宗派で埋葬されるということがあり得るのか、いささか奇異に思えます。
 しかも『三間左三つ巴青木家』の墓を見ていきますと、4代目以降の墓はすべて『ア』の梵字が入った天台宗形式となっているのです。
 そこで父が『お寺はどこか』とお尋ねしたところ、なんと『宗光寺』というお返事。やはり天台宗、それも『曽根旧庄屋青木家』の菩提寺であったのです。
 以前ご報告した通り、現在は宗光寺が無住であるため、『曽根旧庄屋青木家』の過去帳は立間・医王寺にあります。そしてこの『三間左三つ巴青木家』も現在、医王寺の檀家となっている、その事情も同じです。(実際には医王寺も跡継ぎが修行中のため、さらに遠い宇和町の寺にお世話になっている、とのこと)。

 墓地については以上ですが、あともう一点『昔この裏山に神社があった』そうです。残念ながら『何神社』かは不明で、実は近年、お家を改装した際、神社の納め札と思われる文書が大量に見つかったのですが、調べずに焼却してしまったと。
 あるいは『神明神社』ではなかったかと思われますが確証は得られず、非常に残念です。

 現在のところ判明している客観的事実は以上です。ここからは推論となりますので、また分析・批判をお願いできれば幸いです。

 まずは何よりも『家紋が左三つ巴』であること。
 また我が『立間青木家』の初代が亡くなったのが寛文7年(1667)ですから、『三間左三つ巴青木家』の丸石の残った墓を初代、年号のある最も古い墓を2代目(天和二年(1682))と推定しますと、『最初に伊予南域へ移動してきたのが初代、その後、2代目の時に分家した』と考えて矛盾はありません。
 すなわち、この『三間左三つ巴青木家』こそ、伊予南域における我が家の本家筋、と考えられるのです。

 また墓とお寺の情報から、この『三間左三つ巴青木家』が『曽根旧庄屋青木家』と非常に近い関係を結んでいたことは明白とみられ、おそらく3代目当主の妻で天台宗の墓に葬られた女性は『曽根旧庄屋青木家』の方と思われます。そこから一家を挙げて天台宗に改宗していることからも、その関係の近さがうかがえます。
 『曽根旧庄屋青木家』とはやや距離を置き、宗派も一貫して浄土真宗であった『立間青木』とは一線を画して生きた一族であったようです。

 そうなりますと、当家に伝わっていた『三間の庄屋から分家した』という伝承も、あながち見当はずれではなかったことになりますし、以前の副管理人様のお返事に『曽根旧庄屋青木家と縁組があったのではないか』との推定があったことも思い出されます。それが別な、しかも意外な形で証明されたことになります。

 あくまでも推定の段階ですが、こんな四国の片田舎でも、波乱の歴史の中でそれぞれに独自の道を選びつつ、長い長い命脈をつないできた足跡がたどれることは驚きであり、感動です。また『曽根旧庄屋青木家』と『天台宗』については、さらなる広がりも予想されておりますので、そちらをご報告できる日も楽しみでなりません。

 報告は以上となります。あるいは見当はずれの点もあろうかと思われますが、これまで通り厳しいご指摘を頂ければ幸いです。


  [No.1049] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/04/24(Fri) 09:41:55

お元気でしたか。
良くお調べに成っていて驚きます。

今回のお便りには、若干疑問点があって、お答えに窮するところがあります。

では早速、感じるところを述べますが、もう一度、検証して観られる事をお勧めします。


>以前ご報告した『曽根庄屋青木家』(天台宗・宗光寺を菩提寺とし、現在は家系の絶えた青木家)が存在した『三間町曽根』、その住宅地図を入手・捜索しておりましたところ、『青木姓』を名乗るお家がもう一軒、旧庄屋青木家のごく近くに現在も暮らしておられることが判明しました。


上記の事は「明治期の事」の様に観られますので、次ぎの事に注意すべきです。

この推理には、次ぎの「江戸期前の慣習の租借」が欠けていると観られます。
明治期前までは、つまり、”「棲み分け」”と云う慣習がありました。
同じ所に別の出自の青木氏が住むと云う事はありません。
他氏は、兎も角も、少なくとも「青木村」を形成できる権利を持っている「青木氏」に関してはありません。
一族で無いのに、「別の青木氏」が”近くに住む”と云う事は本来はありません。
あるとすれば、それは、「明治期の苗字令」に依って名乗った「第三の青木氏」である事に成ります。
以前にも記述しましたが、離れては、江戸期末期に掛けて起こった「武士の家の名義買い」がありますが、本件の場合は、これでは無いと観られます。

明治3年と8年に庶民には、「苗字」を持つ事を義務付けられましたが、なかなか進まず、結局は、8年後迄ずれ込みました。
そこで明治政府が採った「最後の唯一の手段」は、「周囲の郷士や郷氏の氏名」を半強制的に名乗らせると云う手段に出ました。
その時に、「青木氏と農業や職能での関わりのあった者」等に近くに住んでいた庄屋等の「青木姓」を名乗らせると云う事が起こったのです。
全国各地の青木氏が定住していた地域には、一夜にして「青木姓」が興ったのです。
この時、姓と共に墓所と家紋も持つ事に成りました。同じ家紋を使うと云う事が起こりました。

もう一点は、明治期の家の繁栄は、「氏家制度」でなくなり「社会体制」が異なった事と、「地租改正」で農民に実際に土地を無償供与で下げ渡された事とで、「地主の態勢」が明治9以降に裏腹に変化していますので、土地の大小は氏や家の大小を物語るものでは無く成りました。

このお話が明治期の事であれば、ルーツの探究から除外すべきです。

「曾根青木氏」又は「立間青木氏」とは,ルーツの違う「姓」の人が傍に住んでいたとすると、この「明治期の第三の青木さん」であると観られます。(前回に述べました)

「家紋」は同じとするも、明治期では判断材料とは成り得ません。
この青木さんとの判断材料は、「宗派」と「伝承の有無」と「明治初期の戸籍」と成ります。
未だ、何年も経っていないのに”「過去の伝承」が全くない”と云う現象ですが、そんなに「伝承」は急には消えません。
「家紋」に関わらず「神助紋 左巴紋」のみならず同紋を、中には”「藤氏北家総紋」”をも使うと云う現象が茶飯事に起こりました。
「左三つ巴紋」がお家の家紋とすると、全国各地にお家の親族が居た事に成りますね。
然し、「脩行系青木氏」が全国各地にもれなく存在すると云う事は先ずはあり得ません。

高野山や比叡山等や大きな春日神社に行ってください。
神社、祠,寺の掃天、神社の幔幕、神職の背、僧侶の袈裟の裾等にまでもこの「紋所」を入れていますよ。
明治には、其れも「墓所」にもこの「神助紋の紋所」を平気で使うと云う事も起こりました。
これ全部お家の御親族なのでしょうか。

>1.『三間左三つ巴青木家』の初代と推定されるものは『丸石』。元は五輪塔であった可能性もある。
>2.2代目と推定される墓は『天和二年(1682)』の年号だけが判別でき、墓の主や宗派等は不明。
>3.3代目と推定される墓は『釋 ◯ ◯』。
>4.分家の初代は『安永8年(1779)』。
>5.明治期まで『青木姓』を刻んだ墓はない。家紋も確認できず。また『三間旧庄屋青木家』の墓のような格の高い戒名も確認できない。

”「家」には「伝承」が無いのに「墓」にはある”と云うのも疑問ですね。
兎も角も「墓石の石種」を確認してください。「花崗岩での慣習」は明治期からのものです。
徳川時代前は宗教的概念に依って「砂岩」が主流です。
年代に付いては、明治期に「虚偽の搾取偏纂」が横行しました。
全体に疑問を持ちますね。
「青木氏」には、前回にも述べましたが、”三代までを祭祀し、50年ごとに累代の先祖墓の墓石に移す慣習”がありますが、この内容では、変ですね。
この慣習は護れていませんね。
お家が土佐郡土佐町から西の伊予に移動してから、既に、江戸初期まででも260年、天和迄でも350年も経過しています。
6代も済んでいますから全て「先祖墓」にある筈ですよね。
そもそも、どの様な慣習であったのでしょうか。
”家紋や戒名が無い”と云う事はどういう事を意味するのでしょうか。
その意味する処は唯一つです。

>3代目と推定される墓には 「釋」が刻まれていた。
>そうなりますと、当家に伝わっていた『三間の庄屋から分家した』という伝承も、あながち見当はずれではなかったことになりますし、以前の副管理人様のお返事に『曽根旧庄屋青木家と縁組があったのではないか』との推定があったことも思い出されます。それが別な、しかも意外な形で証明されたことになります。の文字があり、我が家の墓と同じく『浄土真宗』の形式をとっているのですが、そのすぐ隣に女性のものと思われる墓が立っており、これが戒名の頭に大日如来を示す『ア』の梵字が入っていることから、『天台宗』のものと思われるのです。
>二つの墓は、配置から考えてご夫婦のもの思われるのですが、夫が浄土真宗・妻が天台宗と違う宗派で埋葬されるということがあり得るのか、いささか奇異に思えます。
>しかも『三間左三つ巴青木家』の墓を見ていきますと、4代目以降の墓はすべて『ア』の梵字が入った天台宗形式となっているのです。
>そこで父が『お寺はどこか』とお尋ねしたところ、なんと『宗光寺』というお返事。やはり天台宗、それも『曽根旧庄屋青木家』の菩提寺であったのです。


「三代目の墓石」が未だある事が疑問ですし、三代目の時代の墓所の墓石に、浄土真宗の「釋」がある事にも疑問が残ります。
密教系、取り分け「浄土真宗」は、この時代には、ある事情があって「仏像の本尊」を置かずに、「仏画」を以て「本尊」としたのです。
況して、そもそも「路傍の石」「河原者」と云う言葉がある様に、「庶民」は墓所を持つ概念がありませんでしたので、庶民から武士までを信徒とする「顕教の真宗」で、差別して「武士」だけに先祖を殊更に祭祀する教義は持ち合わせていませんでした。
むしろ、「武士階級の墓所」には、真宗は「戒め」として特段に厳しかったのです。
その一つとして、先ずは「墓石種」を是非確認ください。
「家の伝統」が無いのに、「釋」等を刻印するのも疑問ですし、「墓石の刻印」や「墓石の数」(個人墓も無い)も同様で、「真宗」は止む無く武士には「祭祀の慣習」をより厳しく護らせました。
それで答えが出ます。


上記した慣習から記述されている事に付き、「お便り」に矛盾があって論じる事は難しいのですが、「夫の墓」と「妻の墓」が異なる事は、他氏には無い「青木氏の慣習」としてあり得ます。
(浄土真宗ではあり得ない慣習 矛盾)

一つは、「青木氏の慣習」として「女墓」です。
「本家」が行う慣習で、「累代の妻」の「戒名と俗名」が書き記された「別の横隣」等の処に設けられた「平面の墓石簿」の事です。
この慣習は、「嵯峨期詔勅の禁令」で「青木氏外」では使えない「浄土密教の慣習」で明治3年まで護られました。

二つは、「妻の出自」が、「家の出自」より高い場合に、「妻の出自の墓」を別に設け、何時しか、「妻側の姓」を嗣子の誰かに継承させる事を前提に、後に名乗った者に継承させる墓として用います。

特に一般的に、家柄の高い「妻の出自先」に「跡目断絶」等が起こった場合に、この「墓所」を設ける慣習がありました。
その為に宗派が違うと云う事が墓所に起こり得ます。

然し、この事で「天台宗」が「妻の出自先」であった事が判りますが、若干、「密教浄土宗の慣習」とにズレがありますが、これには「平安期の特令」があって、「皇族出自者」で「門跡者」や「斎王」に類する者が、「氏」を興した場合にはこれを認めるとしていて、この「門跡者」の殆どは「天台宗」に入信しましたので、「天台宗の女墓」があり得るのです。

この「女性」はいずれにしても、「皇族出自者」であった事に成り得ます。

この何れかの現象が起こった事を物語っています。
然し、突然に「女墓の慣習」は起こりません。
「女墓の戒名」とその「仏数」を観れば、これに相当するかは判別が付きます。

>『曽根旧庄屋青木家』の過去帳は立間・医王寺にあります。
>そしてこの『三間左三つ巴青木家』も現在、医王寺の檀家となっている、その事情も同じです
>『曽根旧庄屋青木家』とはやや距離を置き、宗派も一貫して浄土真宗であった『立間青木』とは一線を画して生きた一族であったようです。


先ず兎も角も、下記の事は何度も云う様ですが、[真宗」は「顕教」であるので、「寺」が同じであるから云って何の意味もありません。
「顕教の意味」が理解されていない様に思いますので、窮します。
又、合わせて「菩提寺」と「檀家寺」とは違いますよ。お家が云う「菩提寺」とは「檀家寺」の事ですよ。
根本的に運営形式が異なっています。
又、「過去帳」と「人別帳」とも異なっていますよ。お家が云うのは「人別帳」の事ですよ

「曾根と三間と立間の三つの青木家」は「何らかの血縁関係」を持ちながら、「独自の路」を歩んだ事は頷けます。
どちらが本家であったかは、その「伝統の継承如何」に関わり「財産の大小」は必ずしも一致しませんが、「独自の路」ともなれば、尚更の事に成ります。
宗派的には、「伝承」としては、「三間」(本家)と「立間」(分家)の「浄土真宗」が、ご本家筋一統、「曾根」の「天台宗」が、女系化した分家筋と、先ずは観るのが妥当と考えられます。
そして、「家の勢い」は曽根筋となるように観られます。
然し、ここで、仮に、「女墓」があったとすると、「曾根」が慣習的には「ご本家筋」と成りますので、真宗の「三間のご本家筋」は宗教的には本家筋であるので、矛盾が出ます。
更に、「土佐郡の土佐州浜の総本家」は何であるのかと云う疑問も出ます。
伊予側に移動定住した分家筋が、江戸期初期(最初の伊予の墓の年代の1670年頃まで)のあるところまでは知っていた筈で、「土佐郡の総本家筋」をさて置いて、「本家の動き」をするのかと云う疑問が起こります。
それだけに、「大きな末裔力」を伊予で作り上げたのでしょうか。
「三つの青木氏の宗派や墓所の内容」などが分かれている処を観ると、”「伊予本家」”を作る程では無かった事を物語っています。

何か疑問を感じます。


この内のどれか「一つの青木氏」が上記した様に違っている事に成りますね。

土佐郡の土佐村が紀州から讃岐に移動した「土佐州浜紋」の最初のお家の家筋、そこから国境に沿って伊予迄伸びた分家筋、その分家筋が江戸期に成って、三派に分かれ、上記の様な系譜を作ったと考えられます。
特に、「三間」「立間」「曾根」には血縁関係を持ちながらも「独自の路」を歩みその繋がりは薄らいだと観られ、その「三流」に「栄枯盛衰」が起こっていた。
そして、江戸期以降は、「土佐の土佐州浜の総本家」とは、「土佐」は土佐で{青木氏の断絶」が起こり、「家の伝承」はするものの「土佐姓]を名乗る事が起こるが、「青木氏の伝承」は護り通し、紀州からの「絵所領職」の「古来からの役目」を果たし、「独自の伝承」を遂げて、完全に伊予筋とは絶縁状態に成っていた。
と観られます。

今回のあるお便りから鑑みて、お家が伊予側に移動時には、そんなに距離が無い事から、未だ「土佐郡土佐村での慣習」が伝わっていたと考えられます。
しかし、”何で「土佐州浜紋」が伝わらなかったのか”と云う疑問が矢張り残りますね。
ここに、”「神助紋の左三つ巴紋」を使わなくてはならない何かが起こった”と考えるのが普通ではないでしょうか。
「錯誤忘却」としていた事も含めて「紋所の検証」が必要ですね。


今回の「推理のお便り」の「お父上のお便り」には、”「青木氏の慣習」に沿った検証が成されているのかな”と云う事が起こっています。
初代や二代目や三代や四代の墓石の普通の墓所が、現在も遺っていると云う事には疑問があります。
四国は、「宗派の総本山」ではありませんので、何か変ですよ。

本来であれば、「五輪の塔の累代の先祖墓」に移していると観られますし、特に、浄土真宗や天台宗や真言宗からの慣習から観ると、一寸変ですね。
ある一つの事が予測できますが、今回は確定は出来ませんので論調は避けます。

又、もう少し歴史観を用いて矛盾を解く調査をされた上で、疑問や不明点などが何かありましたらお便りください。




  [No.1052] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/15(Fri) 14:48:12

今日は。 そうですね。お家の「ルーツ探し」は随分と進んだと思います。
お家の御努力の結果であります。ただ纏められる事が必要ではと思います。
可成り一部に深く入り過ぎた帰来もある様で,そうなると、「ルーツ探し」は、古来の詳しい慣習などの歴史観が必要に成ってきますので、本当のルーツの史実を押える事が難しく成る筈です。
それは其れで、当サイトの持つ「歴史観」をご利用される事が本サイトの本命ですが、前回のお便りにはこの域に入っています。

そこで、ご依頼のあった件に関してはサイトルールに反しますので、個人情報に関わらない範囲で、青木氏の方が読んで頂いて「歴史観の養成」に成る様に書かして頂きます。

お家のルーツの内容には、「歴史観の養成」に成る事が多く含まれていて、全国の青木氏のご先祖の生き様を正しく引き出すには最高の情報と成り得ます。
依って、多少ご迷惑とも成りますがお家の御先祖の「ルーツ探し」や「ご先祖の生き様」を描く事にも成り得ますので、敢えて投稿欄を使わさせて頂きます事をお許しください。

[ルーツ探し」
>当家の「ルーツ探し」におつきあいをお願いしてからそろそろ1年が経とうとしております。

「青木氏」は数少ない「氏族」として「姓族」と違い「特異な慣習」に宿命的に縛られて生きてきましたので、それだけに難しいのです。
今回の調査のポイントと成った「墓所の件」、「墓所の石質」の件、「住み方」の件、「地域の件」等々とそれに伴う「時代性の遍歴」等々が大きく左右してきます。

前回のお便りには、忌憚なく申し上げれば、この事の「租借」が不足していたと思われます。
明治期に起こった「苗字令」などに依って起こった[遍歴」も充分に配慮しなくてはなりませんでした。
そもそも、「人の起こす諸行」は「正」だけではありません。
ある時期に於いて「いつの世」も疑うような「悪」も平気で行われたのです。
其れが一人で興すのであれば未だ良いのですが、周囲が当然の様に麻痺して当たり前の様に平気で行われると云う事もこの明治期では起こったのです。
それは、例えば、「江戸期の士農工商」の「封建制度」の締め付けから解放された「庶民の安堵感」からの末路でした。
これは、何も明治初期に関わらず、江戸期初期にも、室町期初期にも、鎌倉期初期にも、平安期初期にも例外なく起こっています。つまり、「時代の変化点」で必ず起こっています。
この事を「聖武天皇の言葉]を借りれば、「百姓(百民)の性(さが)」と云うものでしょう。
従って、この”時代の初期の検証”には「充分な歴史観」で以て租借せねばならないのです。
取り分け、「青木氏の先祖の生き様」を観る為の「ルーツ探し」には是非必要な事であります。

「軍監」
さて、前回の「三つの地域の青木氏」には、この判別が必要でしたが、老婆心ながらもう一つ欠けている歴史観があるのです。
前回まで論じて来た様に、お家が「讃岐秀郷流青木氏」を頼って「四国西域の配置]に着きましたが、この時には、”お家だけの行動”と云う事には、当時の「氏族の武家の慣習」としては成らなかったのです。
それは、必ず、「お家の青木氏」に「見張り役」としての「讃岐秀郷流青木氏」が付き従っていた筈です。
当時の重要な「軍事的慣習」です。これは「戦国期の習い」です
全ての戦いの戦略内容を研究されると判ります。
これは現在でも形は変えても同じです。
「管理監督監査役の軍監」です。
つまり、このお家が調べられた地域の「三つの青木氏」には、前回の「第三氏の青木氏」は当然としても、「軍監役の青木氏」(讃岐秀郷流青木氏)も必ず居た筈なのです。
これを欠かす事は絶対にありませんでした。
「監査される方」もどれだけ頑張ったかを正当に評価してもらえる絶好のシステムであったから、それに依って「勲功の評価]も違ってきますし、”非常事態”が起こっても正しく宗家に伝わる事にも成って、援軍などの処置が容易に採られる等、双方にとっても是非に必要であったのです。
では、その「軍監役」は誰なのかと成りますが、この「軍監役の青木氏」は当然に讃岐から廻された者であります。
この「讃岐の軍監役」には「一族の仕来り」から「平安期からの伝統」を頑なに維持していますから、周囲の[青木氏]との間にはこの「伝統さの違い」が出ている筈です。
例えば、その「軍監役」が居ついた地域の「墓所の内容差」等の「伝統」等が際立って違っている筈です。
筆者は、衰退したかは別として、前回の「三つの地域のお話」には、一つはこの「軍監役の青木氏」が介在していたと観ています。
そうすると、お家のお便りの「推論の論理性」が合ってくると観ています。

前回にも何度も申し上げましたが、先ずは「墓所の構えの慣習」は勿論の事、「墓所の石質」を詳しお調べに成る事をお勧め致しました。
もう一度、「墓構え」は然ること乍ら良くお調べください。
これには、譲れない「氏族の仕来り」(氏の概念)が有るのです。
それを簡単に次ぎに述べます。詳しくは研究室の論文をお読みください。
次ぎの、「三つの石質」を使う事が定められているのです。

「墓石」
一つは、「砂岩」です。
「浄土宗の仏教的密教概念」である”「自然に帰る」”と云う事から、「個人墓」から50年後には「累代の五輪の塔」への「移り」は、最後には”「砂岩」が解けて自然に帰ってゆく過程”を作り上げているのです。
庶民の土葬の様に直ぐには「土」には帰らずに50年毎に解けて土に帰ってゆく一つの過程を描いている事なのです。
つまり、この「五輪の塔」の間には、「現世」と「彼世」を往来する「形の持たない人」(仏)と成るのです。
(浄土密教の考え方です。顕教はこの考え方を採りません。)
これが「仏」が「現世」に来るお盆の行事なのです。
ですから、「石質」は「砂岩」とするのです。
研究室でも詳しく論じていますのでよくお読みください。
上記の様に、この「五輪の塔」には「密教浄土宗の宗教概念」が入念されています。

次ぎは、「泥岩」です。
この石には多くの字句を刻みます。依って、この字句が消えない様にする必要があります。
「硬質の泥岩」には幾つかの種類がありますが、色の着かない「泥岩」が用いられます。
「色」とは、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」と云う風に、「色」は「現世」を意味します。
「色付きの石質」を使う事は、現世を強調する事を意味しますので、「現世」と「現世」に成りますので仏教では法度なのです。但し、紫は例外です。紫は宗教の色です。
この「無色」、つまり、「自然が示す色」の「泥岩」で以て「三代の墓石」を持ちます。
これを累代毎に繰り返して行きます。
「仏」と成った者は,直ぐには「彼世」の者とは成らず、50年の期間中は「現世」との往来が出来るまだ「形」を消しただけの「人」と成り得て、この期間を過ぎると「真の仏」と成り得て「五輪の塔」に移り、そこから子孫を見守る事に成ります。
祭祀の時期には「彼世」から来てこの「五輪の塔」に移動し子孫と会し会話し見守るのです。
これが「宇宙仏の大日如来」の「密教の持つ宗教概念の基本」です。
これを現在的に云えば、要するに「五輪の塔」は「電信電波塔」の様なものとして考えられていたのです。

注釈
(人は、邪念を取り除く事が出来れば、脳波からベータ波が出て、「形を消した人」との間で会話が出来るとした概念 ベーター波は現在の論理 現実に母性本能は赤子との間でこの右脳から出るベーター波で交信している。女性は原始脳を使って同時に二つの事を「連想する能力」を持っているのはこの事から来ている。)

ですから、「三代墓」の石質は、「形を消した人の立場」にありますから、「砂岩」とは違って「自然の力」では解けてはならないのです。
「形」のある時は「俗名」とし、「形」を消した人には「戒名」と区分けして、その「形を消した人」には一定の身分に分けて「戒名」(「院殿居士」に更にこれに「徳名」も添えられる)でも変えられたのです。
現在はこの慣習は消えていますが、当時は「俗名」「戒名」にも仏教的にこの格式に応じたものを持っていたのです。
これらの「形の有無の人」の「有り様」の「仏教的意味合いの性質」を持ったこの「泥岩の石質」が選ばれたのです。

更に、「碧石」或は「青石」です。
セメン質(石灰質)のこの「青石」には、「二大墓」の墓石に書かれない人、例えば、各種の妻や妾等のその家に子孫を遺す事に関わった女性の者の「墓石」として、これらの者の俗名と戒名と享年とを書き記するした「簿石盤」が墓所の横に設けられる「仕来り」が有りました。
家の番頭の様な献身的に家に献じた人を褒め称える為に建てる「碑」などはこ青石(藍石)を使われるのもこの慣習から来ています。
この「青石」にも、詳しくは論じる事を避けますが、「仏教的意味合い」に合ったものを持っていました。
中でも、決して、「仏教的意味合い」から「色付き」は用いられませんでした。
「青藍色」は「空の色、即ち、天色」と同じとして「自然の色」と見做されていました。

これら「三つの石質」は「宗教的概念」があって,その概念の根拠は「河原の石」にあるのです。
この「河原の石」は「現世と彼世の間」の間の環境を物語る一つのものとして考えられていたのです。(宗教的に川が持つ意味)
特に「密教浄土宗」、取り分け「和魂荒魂の古代信仰の影響」の受けた「古来密教浄土宗」はこの概念が色濃く残っているのです。
詳しく論じる事は別の機会にするとして、簡単に云えば、民が河原の付近に土葬する習慣と、その墳土の上に河原の丸く成った「砂岩」を載せるのはこの事から来ているのです。

従って、「讃岐秀郷流青木氏」の様な場合には、この古来からの「宗教的な慣習仕来り」にあり、この様なところが随所にあった筈なのです。
この「墓石の仕来り」は特には「墓所」にはよく見られたところです。
依って、「古い墓所」にはこの形跡が遺っているのですが、これらの知識を以って見れば”違う”とすぐに判別できます。
中でも「石質」は「墓所の構造」以外よりも顕著に出ています。
「花崗岩の墓石」は、「浄土宗」は平安期からこの上記の「仕来りの傾向」を色濃く引き継いでいますので、特に宗教的概念からも当初は忌み嫌われていた事からも「明治期の慣習」に依るものなのです。
(密教顕教共にこの仕来りがあった。)
故に、「江戸期中期以降の墓所」や「明治期の墓所」と違って、はっきりしています。
前回のお便りの一つはこの一つだなと思いました。
お家の父上も、お便りの中で、異変を感じられていたようですね。

「狛犬の翁」
>三間地域で庄屋をつとめたもう一つの青木氏・『吉波の武田氏系青木氏』と狛犬の・・の件です。

恐らくは、「村主とその村人との関係」が深かった事から、「苗字令」に伴い「青木氏」を名乗ったと思われ、その恩義で、その[狛犬の翁」たちは何とか自分たちの「生きた絆証」を一つの「真面な形」にして遺そうとしたのではないでしょうか。
実は、この「武田氏系土佐の青木氏」の宗家もお家と同じく「讃岐秀郷流青木氏」の保護の下で戦い生き延びて来た一族です。
現在は衰退し跡目が無くてその宗家末裔は遺されていない事が判っています。(研究室にも記述)
恐らくは、このお話では納得できるところがあって、甲斐から来た人々が結束力が強く宗家本家を盛り立てて、一時、江戸期まで”「青木村」”までを形成して生き延びて来た事は判っています。
この「お話の翁」にしても「狛犬の件」にしても、恐らくは何とか自分たちのその「生きた絆証」(村主と村人との絆の関係)を遺そうとしたことだと思います。
まず間違いなくこの事に関わっていると思います。

「左三つ巴文様」
> 今回、新たに発見された『三間左三つ巴青木家』もまた、『曽根庄屋青木家』に関係した同様の一家ではなかったかと想像します。あるいは伝えられる狛犬の翁のように神社の世話をする一家で、故に青木姓を名乗った際に『左三つ巴』紋を選択した、とも考えられます。

上記の事からも先ずお便りのお説は当たっていると考えます。
「第三氏の青木氏」であろうと、上記の「墓所の仕来り」等に従って「生きた絆証」を遺そうとした「秀郷流青木氏」であろうと、何れも「生きた絆証」(「村主と村人」との「絆の関係」)を遺そうとしたお話では無いでしょうか。


「春日神社」
>実は『昔神社があった』とされる裏山には、『左三つ巴青木家』から見て山のちょうど反対側にもう一つ、今も神社があります。隣の集落の人びとによって守られているその神社は『春日神社』であります。

この「春日神社」は、「秀郷一門の守護神」ですから、その四国に於いて、「春日神社」を創建し管理維持するには、正規に「神職の配置」を受けなくてはなりませんし、一門から「春日神社の認可」を受ける必要があります。
だとすると、お家だけでは難しいと観られ、この「守護神の建立」は、経緯から、その「創建の財力」や「維持管理費の財力」、又、「建立する宮大工などの職能集団の協力」を得なければなら無い訳ですから、それができるのは、上記した「軍監役の青木氏」の下で創建されたものでなくてはならないと考えられます。
つまり、この隣の集落の地域にはこの「軍監役の青木氏」の本家筋が住んでいた事に成りますね。
そして、元を質せば、お家達も秀郷一門ですから、形上ではこの神社の氏子組織に加えられていたのではないでしょうか。
だから、「狛犬の翁」のお話も含めて、通じるものが出来るので、村人も「苗字令」の下で「絆の形」を遺す手段として、以前より文様の有り様を記述しています様に、所謂、「左三つ巴紋」であったのだと思います。氏に関わった人の明治期のこの「文様の使い様」は間違っていません。
(「巴紋の持つ意味」を捩じらないで正しく評価すべきで観えるものも見えなくなります。)

一族とそれに付随した民も「絆」を基に、この「文様の有り様」の「古来からの秀郷一門の氏の仕来り」に従ったと観られます。


>我が家はもちろん、曽根青木、吉波青木など江戸期に庄屋をつとめ、比較的伝統を守りやすかったと思われる家の墓地でも、この仕来りは守られておりません。

さて、「仕来り」が護られていない事に関して、そのお家の前提が「第三の青木氏」では無いと定めた上での論調ですね。
確かに「第三の青木氏」でなくても、この慣習に従えない事は他にも沢山あります。
お家の様に、宗家筋とは離別して別行動で紀州から讃岐に移動し、更に四国では「土佐州浜紋」の本筋とは、更に別行動を採り、更には、「家紋や慣習仕来り掟」なども「錯誤忘却」しているお家であるとすれば、果たして、この「墓所の仕来り」は護り得たでしょうか。
何で、「絆の第三氏青木氏」と同じ状態と成ってしまっている「家紋」や「家の慣習仕来り掟]も判らなくなっているお家が、何で墓所の様な「面倒な仕来り」を護り得たでしょうか。
そもそも、何で土佐郡の土佐村に「土佐州浜紋の本筋」があるにも関わらず、忘却し何で「墓所の仕来り」だけは護れたのでしょうか。護れなかった筈ですではありませんか。
二度も本筋と「離別の状態」であったお家が「墓所の仕来り」を護れたでしょうか。不可能です。

「墓所の構造」をまず検証する前に、最早、その答えは出ているのではないでしょうか。

前回にもお答えしました様に、墓所のある場所にしても,慣習外の幾つも墓石がある事や、ご指摘しました墓に刻まれた年代の矛盾も、「歴史観」に沿う整合性がなく矛盾が目立ちます。
矛盾が在るのにどんどんと「自己の前提」を正として「ルーツの検証」を進めるには先ず無理が在るのではないでしょうか。
「ルーツ探究」と「先祖の生き様」には、これを解決しながら徐々に進めて先ず解決される事でしょう。
では、はっきりと申し上げます。
お家は前回までのお答えと、上記の事と合わせてその経緯の激しく著しい事の結果、「錯誤忘却」が完全に起こり、この結果、今回のお便りの様に、要するに、江戸末期から明治期に行った”「後付”の行為」の結果であるのです。

前回にも、それとなしに暗示させてお答えしました様に、明治期には、「家柄誇張のブーム」が起こったのですが、この時にこの様な行為が、特に、農民と同じ様に成って仕舞った”「格式」を忘却したお家の様な過去に「其れなりの家柄」をお持ちの家筋の人々が行った行為なのです。

ですから、何度も「錯誤忘却」と申し上げています。
ただ、「過去の家筋」は「州浜紋の近江脩行系秀郷流青木氏」で、紀州から南北朝の騒乱で、「讃岐秀郷一門」を頼ったお家であると申し上げています。
そして,お家のこの様な「錯誤忘却」の様な事では無く、一切の「青木氏の伝統仕来り掟」と「朝廷職務」までもを明治期までに護り通した本筋の「土佐州浜紋の青木氏」がありますよ。と云っています。
では、お家の前提と成っている”江戸期には庄屋”と云う事が証明されていますでしょうか。
明治期には,前回にも申し上げましたが、地租改正等で、庄屋が庄屋で無く成り、逆転して「庄屋」で無かった者が力を持ち得て”「庄屋」”として振る舞う現象や、「家柄誇張」の為にその勢いから”「庄屋」”と吹聴して庄屋に成り切った者が明治初期には沢山起こったのです。

筆者のお付き合いしていた深い親交のあった庄屋の家の「小作人」でしたが、地租改正で得た無償の広大な土地を利用して酒造りを営み成功して、土地を無くした「元庄屋」は余りに衰退し土地に居られなくなり他の地に移動して仕舞った結果、この力を得た「元小作人の者」が「庄屋」を振舞うと云う事が起こったのです。
現在もこの家は「製酒業]を手広く営み、元庄屋家の広大な家と土地を買い取り、今でも家柄を誇張し搾取して「庄屋気取り」で居ます。
今では何と”「庄屋」であった”と吹聴している有様です。
この様な事は各地でお起こったのです。
その為にこの逆転現象で庄屋などが明治期に結束して各地で動乱を起こした位なのです。
有名な5年も続いた「伊勢動乱」や紀州や信濃などでも激しい反対運動が起こりました。
然し、この偽庄屋のことは昔を知っている一部の我が家などはそうでは無い事が判っています。
ですから、以前のお便りにも何度も書きましたが、前提を「庄屋」とする以上は、先ずそれを証明すべきところから始めるべきではありませんか。
「庄屋]であれば、要するに”歴史伝統を深く持つ「庄屋」”であるのですから、「伝統」を遺しているのが「庄屋」ですから、それを証明する「物的証拠」や「伝統継承の慣習仕来り掟」等が最近まで少なくともあった筈ですよね。
其れだから”「庄屋」”なのですからね。

「神助紋」を「家紋」と云うほどに無い訳ですから、又、物的証拠も無い訳ですから、後は、「「明治初期の戸籍簿」をご覧に成れば、「お家の明治初期の家筋身分格式の事」が簡潔に書かれていますので、それを確認するべき事から始める事ではありませんか。(戒名でも判ります。)
同じ「神助紋」を「第三の青木氏」が「絆青木氏」として使用していますよ。
この事をどの様に思いますか。「錯誤忘却」でなくては説明はつかないと思いますが。

今回、お便りのあった「武田氏系青木氏」と土佐郡の「土佐州浜紋の青木氏」とは、同じ様な戦乱の荒波に揉まれたながらも、衰退は本家筋は衰退はしましたが、この「青木氏の慣習仕来り掟」を現在までも護り通していますよ。
「錯誤忘却」はありません。

四国には、次ぎの青木氏が定住しています。
1 讃岐に、「下がり藤紋に雁金紋」の「讃岐秀郷流青木氏」

2 土佐に、「花菱紋」の「武田氏系青木氏」

3 阿波に、「片喰紋」の「秀郷流青木氏」
4 阿波に 「剣片喰紋」の「秀郷流青木氏」
5 阿波に 「藤原利仁流青木氏」

6 讃岐全域と土佐北と伊予東には、「第三の絆青木氏」(讃岐秀郷流青木氏の絆青木氏)、

7 土佐北東に 「土佐州浜紋」の「脩行系秀郷流青木氏」
8 伊予東ー土佐国境に 「脩行系秀郷流青木氏」

9 「秀吉の青木氏」が「第三の青木氏」に混在している可能性が有る。

1から5まではその「ルーツの論処」は明確に成っているのです。

お家が失い錯誤した事を、維持して来た「武田氏系青木氏」を述べられる時に気づくべきでした。

そこで、お父上が四国の青木氏の云々をお調べに成っていてお便りに述べられていますが、四国の青木氏については、上記通り詳細を承知していますので、ご質問頂くなどしてご利用ください。
研究室やHp左メニューにも論じていますので、ご覧下さい。

>裏山の五輪の塔とオカルト話

お便りの「五輪の塔のオカルト話」は、どこの「青木氏の定住地」でも良くある話ですが、根拠が無いにしても面白いですよね。
然し、意外にこの中に「青木氏」を物語るものが潜んでいて、それが引き金に成って一つの[先祖の生き様」を浮き彫りにする事が出来る事が在ります。
筆者もいろいろと調べているとこの様なお話に出くわす事が実に多く、その事で重要な史実のキッカケを掴んだ事もあります。
情報を集める際には、色々な種類のマニア集団の方の協力を仰ぐ事が在りますが、この時は、この様なお話も逃さないのが解明の秘訣なのです。

特に、明治期は、ある種の「社会的な反動ブーム」が有って、それが元である種の恣意的な思惑を込められていて「純真性」が欠如して、「伝統伝説」と成り得ない事に成るのであまり参考にはならないのです。
江戸期中期前のこの様なお話には、恣意的な思惑が少なく純真性が豊かで有って、ある種の意味を持っている事が多いのです。
金太郎や桃太郎や浦島太郎などもこの様な地方豊かな話からそれを基にした形での童話と成っているのです。
この度の「明治期のオカルト話」はその意味で参考には成り難く、ただ当時の恣意的な社会的反動ブームの影響を受けていて、例えば家柄誇張などの為に,この様な作り話を仕立てて恣意的にその様な口伝を遺して強引に搾取行為で家柄をよく見せてしまうと云う事が殆どです。
ただ、この「オカルト話の結末」は、「お家の推論」は当たっています。
まず間違いは無いと観ます。
この時期の典型的な「搾取のオカルト話」ですね。
恐らくは、このお話も、意味が無かった訳ではなく、そのような搾取を目的とした恣意的行為の意志を持っていた事を証明しています。
つまり、「お墓の慣習」が継承されていないのに、「お家の伝統」が悉く消失しているのに、墓所の位置,構造、石質等の諸々の事が護られずに、先祖の個人墓を並べているなどは,恐らくはこの過去の消失した家柄を呼び戻そうとした恣意的行為であった事は間違いなく、偶然にもお便りでそれを証明した事に成ります。

「二つの青木氏の定住地」では、態々、この様な無茶な事は余り見つかりません。
他の研究室の論文をお読みに成ると判りますが、「青木氏の伝統」では、その立場上から華々しい行為やパホーマンス絶禁の事柄できつく戒められていた事柄です。
「青木氏の人家の品格」は華美を避け質素を旨とするものです。
(研究室論文に詳細記載)
その為の「習慣と仕来りと掟」が有って、「嵯峨期の青木氏の習慣や仕来りや掟」の「模倣行為」を禁止していて、明治期の初期まで護られて来ています。
その意味からも、四国の「青木氏」でのお家のお便りには違和感を覚え当初から疑問に思っていた処です。
筆者も、「四国の青木氏」を綿密に調査した事が在りますが、”何故、この様な事が起こったか”と云うと、ここに、厳密に云うと、他の「青木氏の定住地」から江戸期までに「四つの青木氏」が本来の「二つの青木氏」の中に,逃避して入り込んだ結果であると観られます。
その為に、余りの苦難からも「伝統や慣習、仕来り、掟」の継承が不可能と成り、消失し、その結果、「錯誤と忘却」の末に「搾取誇張」が起こってしまったと考えられます。

お家の場合を含むこの「逃避の青木氏」は「第三氏の青木氏」とは異なり元を質せば、列記とした「家柄や伝統]を持ち得ていた事があって、そこから、「過去の家柄」を思い出して取り戻そうとした行為の結果であると観られます。
其処に、「無理」が伴ったのです。
お家も頑なに訂正せずに「左三つ巴文様」などを「家紋」としている事のそのものがその典型的な行為です。
今回のお便りの「絆」を継承した「第三青木氏のお話」とその「左三つ巴紋の家紋扱い」はそれを証明しています。

お家の追伸にありました様に、「青城や仰木や葵木や青儀や青樹や蒼樹や藍木」等の姓が周囲にある事は、明治初期に周囲に可成り大きく「絆の第三青木氏」が発祥した事を物語る証拠です。
青木そのものを使う事は憚られるとして、「青木氏」に関わった「絆の村人」は上記の様な「あおき姓」を名乗ったのです。(研究室参照)

直接、「青木」を名乗った者は、「村主等の青木氏」と何らかの「直間的な関係」が深くあり名乗る事を許された者で,この「第三の青木氏」は「血縁青木氏」に対し「絆青木氏」と呼ばれ、「青木氏の定住地」には必ず存在します。
例えば、「青木氏の職能集団」であった「青木氏部」の人達が名乗りました。
従って、この事からこの「青木氏」が周囲に存在する事は、「青木氏部」が周囲にあった事に成り、返して云えば,四国で云えば、”「讃岐秀郷流青木氏の本家筋」”が周囲に居た事を証明する事にも成るのです。
この「職能集団」がどんなものであったかは兎も角も、周囲には神社や仏閣なども建立させられる事が可能な環境であった事にも成ります。
と云う事は、何度も申し上げています”「神助紋」”の「左三つ巴紋」を使える「第三の青木氏」が周囲に居た事も示しています。
恐らくは、「第三の青木氏」を名乗る時に主家筋から秀郷一門一族に「絆」で深く関わった事を示す為にも「青木氏や神助紋の使用」を、むしろ「主家筋」から「許可された」では無く「依頼された」事が起こった事を示しています。
つまり、お家のお便りの「狛犬の翁」の一寸したお話も,この事を「逸話」として遺そうとした事を物語っています。
逆に、「狛犬の翁」のお話は、今までお答えで論じて来た事の内容、況や「第三の青木氏の存在」と「讃岐秀郷流青木氏の存在」と「左三つ巴紋」と「守護神と菩提寺」等の事を物語る「環境]があった事を物語る事に成るのです。

この事は研究室でも詳細に論じています。

「絆の第三青木氏」では無い「州浜紋の近江脩行系秀郷流青木氏」が「左三つ巴紋」を家紋としている事は「絆の第三青木氏」と、一切の「伝統や慣習仕来り掟」を失って仕舞った事で、全く同じ事に成ります。
寸分違わない「見分け」が就かない事に成っている訳ですから、「錯誤忘却」だと申し上げています。
明治初期の戸籍簿で”庄屋”を確実に証明できなければ、お家は「絆の第三青木氏」と云う事に成り、これを覆す一切の証拠は無い事に成ります。
(”庄屋”であれば何らかの「伝統と慣習仕来り掟」などは現在でも遺されている筈)

今回の「青儀」の存在の情報の事で、お家の事が浮き彫りに成っています。

今回のお便りにも在ります様に「狛犬の翁」たちの「絆の第三青木氏」の「左三つ巴文様」の「家紋の使用」は、「藤原秀郷流青木氏の氏の巴文様」の「神助紋の意味合い」からも使用には問題はないのです。
慣習仕来りを同じくしたお家に問題があると申し上げています。
あくまでも「錯誤忘却」なのです。
無理に家柄を証明しようとしての明治期に起こった様に、再び、証拠に基づかない同じ「作り上げの行為」は避けるべきです。
当に、今も「人の業の成せる技」に填まっているのではありませんか。
お家は、「州浜紋の近江脩行系秀郷流青木氏」である事には間違いは無いのです。
足元の「小さな伝統」も消失ていて「錯誤忘却」しているのに、無理に掘り下げても出て来る事はお家の場合は先ず無いと思いますよ。
既に、土佐に「土佐州浜紋の青木氏」が「青木氏の伝統」を継承していると申し上げています。
この意味をご理解ください。

「祈祷師」や「山伏」と「五輪の塔」の経緯はお家が推理される事は間違いないと思います。

「お家」にしろ「第三の青木氏」にしろ、「五輪の塔」や「狛犬の事」に関わらず、その家柄などを誇示できるものを使ってのパポーマンスの末路であるでしょう。
明治期にはこの現象が「一種のブーム」であったのですから、四国も例外は無かったと観られます。
人誰しも何時の世もその”さが”から考える事は同じです。
特にお家は、家紋なども含む「伝統」と「慣習仕来り」の「忘却」の中にあって、何とか「過去の先祖」の「呼び起こし」には、「第三氏の絆青木氏」と違い大変な思いを持っていた事が伺えます。

さて、「墓の構造」のお問い合わせ依頼には、残念ながら本サイトを超えての直接のお答えはルール上する事は出来ません。
構造の前に「石質」で充分に決まりますよ。
お答えが無くても大方の推理も付きます。
江戸初期から現在まで365年として「砂岩」であるとすると、先ず可成り朽ちている筈で苔むしている状態で手入れなしでは年代なども判らなくなっている筈です。
柔らかい「砂岩」の性質上から割れて破壊が起こっている筈です。
仮に、「五輪の塔」なる物がお家の御先祖の累代先祖墓であったとして、放置されていたとするならば、或は土中に在ったとするならば、到底、「砂岩」では無理な話です。

恐らくは、お家が推理するパホーマンスがあっての事であると思います。
依って、全て明治期から使用された「花崗岩(御影石)」では無いでしょうか。

更に、いくつもの「墓石」があったとするならば、365年の江戸初期のものと明治期のものとは違っていて、「石質」は同じと云う事には成らない筈です。
ご依頼の「墓所の構造」の検分に関しては宗派に依っても違っています。
お家が「浄土宗」では無くて、「浄土真宗」か「曹洞宗」かの宗派であったとすると、特に「仏ごとの墓石の慣習」は「顕教]であるので原則ありません。
特に、真言宗の中での真宗や曹洞宗であるとすると、真宗は前回にも述べましたが、「厳しい仕来り]であったので「個人墓」では無く「先祖墓」だけです。
更に、この累代先祖墓も宗派概念からも無く、五輪形式のものではありません。
「仏像」も極めて限定的に認める物で原則禁令です。主に「仏画」を使用します。
この事からも、「五輪の塔」は明治期のものである事が判ります。
とすると、「石質」は「花崗岩」です。
「武士階級」や「庄屋身分」であるとして、「お家の仏壇」には「仏画」をお持ちですか。
この「宗教仏画」が無ければ、江戸期には「五輪の塔」も無かった筈です。
如何ですか、お便りにはその形跡の「雰囲気」が無いところから、「仏画」は無いのではありませんか。
あるとして、その「仏画」に何を書いていますか。
これでも判りますよ。(詳細は研究室で論文として論じている。)

以上、ご理解ください。
庄屋の件も是非、明治期初期の本家筋の戸籍簿をご覧ください。
もう少し、前のめりに成らず一つ一つを証明しながら進む事をお勧めします。

個人情報に関わる事は避け、青木氏全員にその歴史観を持ってもらう為に,敢えて基本的な知識を論じています。今回もその様にしましたのでご了解ください。