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  [No.775] 静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋 一泰   投稿日:2011/05/15(Sun) 21:51:26

はじめまして。

自分が、先祖のことに興味を持ったのは、父親からうちの先祖は、九州の出で、島津家(藩)の御用達の仕事をしていたと言うことを子供の時に聴いたときでした。

それから、数十年たち、流れで先祖供養をしてもらうことになり、その祈祷師の方が、因縁を払う前に、侍の先祖が見えるね。その人は鷹狩りが好きな方だった。お払いを始めるとき、『えっ、長嶋家。烏帽子(達烏帽子)を被った人見える』と言ってました。その後、見えてきた色々な話を聴き、色々調べてみようと思いました。

<先祖供養された時に見えたもの>
・中国か韓国の格好の人が山道を登っている光景(弁慶の様な格好にも見えた)
・立烏帽子を被った公家の先祖
・牛若丸が弁慶と戦うときに被ってしたような布の付いた帽子(虫垂衣を付けた市女笠)を被った女性
・僧兵
・白い馬に乗った鷹狩りが好きな髭を生やした先祖
・代継問題により、不幸になった豪勢な簪をたくさんつけた側室、子(因縁の原因)
・城壁の前で頭を下げる家老風の上下姿の侍
・山並を望む城(愛知県や静岡県の風景ではない)
・自分にそっくりの丈の長い袴をはいて本を読み廊下を歩く侍(変わった丁髷)

<自分が現在調べたもの>
家紋:丸に根笹(丸に若根笹)本家も同じ。
現在の本家となる愛知県新城市にきたと思われる先祖:長嶌太吉。
この先祖の妻が文化11年生まれであることから、太吉は文化から文政生まれ?生年月日不詳。
祖父の祖母が、養子を迎える時、長嶌から長嶋となったこと。
この時の養子は、杉浦幾次郎の次男源吉であったこと。
本家は、こけら屋という仕事をしていたこと。

現実離れした情報と貧困な情報しかありませんが、分かる範囲で教えていただけますか。


  [No.776] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/16(Mon) 11:40:17

愛知の長嶋さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。

さて、長嶋氏又は永嶋氏は青木氏と大変関りのある氏で室町末期まで藤原秀郷流一門の主要5氏として末裔を大いに遺して来ました。元は親族です。これらの事は研究室の永嶋氏のレポートに詳しく記述していますのでお読みください。

そこで、提供頂きました情報から次ぎの事が云えると思います。

情報では、昔九州の薩摩地方の長嶋さんであって、祖父の祖母から明治初期の事と見られますが、愛知に移動したと推測します。薩摩地方で居た時は「こけら屋」を営んでいたとされていますが、今で云う建築業ですね。昔、新築改築した時に屋根や周囲の塵や埃や残材などをきれいにする職業で装飾や新築祝いなどの準備一切を手掛けていた様です。

さて、そのお家が明治前60年くらいの文政の頃から「ナガシマ」の姓名を持っていたと成っていますので、武士であった事を示しています。(江戸時代前は農工商は姓を持っていませんでしたので)
明治初期に長嶋さんに変えたと有ります。姓を変える事が出来るのは庶民の苗字を持ったのは明治3年から8年の苗字令と督促令の間で可能でした。一致していますので考証は江戸前は武士であったとして、ではそもそも長嶋氏永嶋氏は関東から三重長島までの間に分布する氏で「関東屋形」と呼ばれて鎌倉期から室町期に最大勢力を誇った氏です。
その永嶋氏が何故九州かと云いますと、鎌倉末期に元寇の役が起こります。九州に蒙古が攻めてきたのですが、この時、藤原一門北家の秀郷一族一門は九州に出陣します。
この時、九州の大豪族の大蔵氏とその末裔の肝付氏が勢力を張っていました。肝付氏は南九州を大蔵氏は全体の統治と北九州域を担当する九州を2分する大豪族が存在していました。
この一族ルーツは大化期に帰化した後漢の民で阿多倍王らに率いられた200万人の職能集団が帰化してきましたがその宗家一族です。後に天皇家と血縁します。そして発祥したのが賜姓坂上氏と賜姓大蔵氏と内蔵氏で、その大蔵氏から南九州を任された一族が後に朝廷の5大官僚の一族伴氏と血縁して肝付氏を発祥させたのです。詳しくは研究室にレポートしていますのでお読みください。

この2氏と出陣した永嶋氏が当地で血縁をして大蔵氏系永嶋氏と肝付氏系永嶋氏が生まれます。
肝付氏は最終室町期末に島津氏と戦い肝付氏は負けます。しかし、肝付氏は旧領の薩摩大隈隼人を貰い受けて島津氏の家臣となり代々家老を務めます。
もし、お家が永嶋氏か長嶋氏であればこの2つの内のどちらかの「ナガシマさん」の末裔と成ります。明治期に長嶋氏に変更したのはこの元の由緒ある氏名に戻したと観られます。
「長嶌」氏は数度の激しい有名な戦いの時に島津氏から追求を逃れる為に一時隠して変えたのではないでしょうか。それを明治初期に戻したと観られます。
江戸期までは肝付氏系長嶋氏は島津氏薩摩藩の家臣で有って明治には失職しますが、この時に「こけら屋」の建築業(今で云う内装業)を営んで明治前後から島津氏に出入りしていた事ではないでしょうか。

どちらかと云うと大蔵氏系永嶋氏よりは肝付氏系長嶋氏であると考えます。
肝付氏の大昔のお話一つ 713年に朝廷の云う事を聞かない肝付氏は朝廷軍と大隈で戦い勝って1018年まで自治を続けてきたすごい氏です。
永嶋氏も藤原北家筋秀郷一門で「関東屋形」と呼ばれたくらいの室町期の関東の最大豪族です。これ等の事はレポートとしていますのでお読みください。

お家は、阿多倍一門の大蔵氏(日本一の最大豪族)から出た肝付氏(一時中部九州から南九州に勢力基盤 島津氏に室町期中期から勢力拡大で押される)と、日本一の武蔵を拠点として藤原北家秀郷一門の永嶋氏との何れも大化期からの古い血筋を持つ家柄であります。

その家紋ですか゛、根笹紋は桜井氏と仁木氏が使用した家紋です。
桜井氏は松平の処流で明治期に三河桜井の地名から桜井氏を名乗る。
仁木氏は信濃足利氏の末裔が三河に住み着き地名から仁木氏を名乗る。
江戸期の新しい家紋です。どのような関係が有ったかは判りません。

長い歴史の中で御家の九州の長嶋氏は桜井氏か仁木氏の何れから養子を迎えたが男系嫡子に叶わず家紋掟の仕来りにより男系先の養子先の家紋に変紋した事に成ったと観られます。
大蔵氏系肝付氏と藤原秀郷流永嶋氏に付いてはレポートをお読みください。膨大な資料ですのでゆっくりと楽しんでお読み頂き判らないところなど有りましたらご質問ください。ルーツのことや先祖の生き様等が詳しく判りますよ。
提供されました情報から以上の事が読み取れます。更に詳しい事は情報をお探しになりお尋ねいただければお答えいたします。

では、お待ちしています。


  [No.779] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋 一泰   投稿日:2011/05/16(Mon) 21:44:30

早速のお返事ありがとうございます。
肝付系の長嶋氏とは、驚きです。大蔵氏系肝付氏と藤原秀郷流永嶋氏に付いてはレポートをゆっくり読み楽しませていただきます。

 自分なりに少し気になっている点が1つありまして、鎌倉時代から鹿児島県にある長島を支配し、堂崎城を居城としていた天草八氏の一に数えられていた長島氏のことです。
 長島氏は大蔵氏の一族であったこと、室町時代末期になると肥後人吉の相良氏が長島に勢力を伸ばし始め、天文23年(1554年)7月、圧力に耐えかねた城主長島鎮真は当城を放棄、薩州島津家を頼って出水に逃れたというところです。この長島氏どういったルーツを辿り、どんな家紋だったのでしょうか。
 情報をお持ちでしたら、教えていただけますか。


  [No.780] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/17(Tue) 18:16:34

長嶋さん 今日は。
ご返事お読み頂いたようですね。
さて、では早速ですが、今度のお尋ねにお答えします。

そもそも、九州の長嶋さんに関しては、お答えする資料が無いのです。
実は私の資料ではなく、”九州には遺されていない”という事が一つと、当然にもう一つはこれも研究されていないと云う事なのです。

この2つの事はある理由があって遺されていないのです。
端的にお答えすると江戸時代の薩摩藩と幕府の関係からなのです。
ご承知と思いますかが、徳川幕府は江戸初期から薩摩藩に対して極めて警戒していたのです。その為に薩摩には多くの隠密を送っていました。
薩摩藩としては何か弱みを握られないようにする為に色々な工夫をして守ろうとしました。
例えば、家計図は弱みを握られた場合芋蔓式に関係者を割り出されてしまいます。拠って必要以上に遺さないようにしたのです。
極端な例として薩摩弁には主語を出来るだけ無くして話す事や人称を逆にして話す事や言葉を判らない様に別の言葉に変えて話す事等を徹底して講じたのです。
特に、長嶋氏は肝付氏の血縁族で島津氏からも血縁を結んでいますから余計に警戒をしたのです。
大まかなところは遺されていますが、「出自」とするところは見つからないのです。

そこで判る範囲でお答えします。
先ず、家紋ですが、この肝付氏の永嶋氏、長嶋氏は家紋は主に「三雁金」紋です。通名は断定は出来ないですが「兼・」と「種・」です。
大まかに次ぎの三つに分けられます。
1 出自明確 本宗家筋  17氏とその支流
2 出自不明 支庶流筋   5氏とその支流
3 出自不明 同族明確筋 12氏とその支流

今回お尋ねの永嶋氏、長嶋氏又は長島氏に付いては次ぎの傾向を持っています。
1は永嶋氏、2は長嶋氏、3は長島氏として分類が概略出来ます。
1の永嶋氏は大蔵氏系列に見られます。通名は主に「種・」
2の長嶋氏は両方に見られます。「通名]は主に「兼・]
3の長島氏は肝付氏系列に見られます。「兼・」か無し

2の支流には「丸に桔梗紋」も観られる。
お尋ねの堂崎城の件は3の分類に入ります。

これは一族一門の家筋を明確にしていた仕来りであったと観られます。
関東の藤原秀郷流永嶋氏では永嶋と長嶋を仕来りとして採用しています。長島氏は未勘氏か第3氏です。関東結城の秀郷流永嶋氏の総宗本家は綜紋「下がり藤]紋で34氏とその家紋類があります。(家紋はレポート参照)
九州の永嶋氏は元はこの34文様の家紋群のどれかに成りますが不明です。
「三雁金]紋は信濃足利氏の元祖の陸奥花房氏の家紋です。
元寇の役で現地で血縁して後、男系継承が叶わず養子先(足利氏系列)の家紋が引き継がれた事に成ります。 
御家のご家紋の根笹紋には辿り付けません。
根笹紋は愛知尾張三河一帯の家紋群ですので、現在地に定住された時に家紋掟により変紋を余儀なくされた可能性があります。大元は研究が届いていない為に不明ですが江戸期前後の元は「三雁金」紋であった可能性がありますが、現在では特定は出来ません。

以上ですが、何か有りましたらご遠慮なくお尋ねください。


  [No.781] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋 一泰   投稿日:2011/05/19(Thu) 23:56:02

お返事ありがとうございます。

福管理者さんの説得力のあるお答えに関心するばかりです。
現在は、青木氏研究は膨大な資料なので福管理者様のお答えと照らしながら、家紋の掟、藤原氏秀郷流永嶋氏から読ませて頂いてます。


また、5点ほど疑問が出てしまいまして、直接、ご先祖と関連してくるのかという所なんですが。

1.明治前60年くらいの文政の頃から「ナガシマ」の姓名を持っていたので武士であった事を示すとのこと  でしたが、武士であってもこけら屋を営んだりすることがあるのでしょうか。

2.『江戸期までは肝付氏系長嶋氏は島津氏薩摩藩の家臣で有って明治には失職します』とのお答えがあ  りましたが、肝付氏系長嶋氏は、どのような家格にあったのでしょうか。

3.薩摩から愛知に来たご先祖の長嶌太吉の15〜20歳前半のあたりに、薩摩藩の誰かが主導となって  血判のもと同士となり成し遂げようとしていた出来事があったのでしょうか?どうも、それに太吉さんは  関係しているようなんですが。

4.肝付氏、肝付系長嶋氏と備中高松城城主、岡山藩、高松藩と男女問わず関係している人物が存在す  るしますか。

5. 『根笹紋は愛知尾張三河一帯の家紋群ですので、現在地に定住された時に家紋掟により変紋を余儀   なくされた可能性があります。』とのことですが、地域の有力者との関係で根笹に変えざる終えなかっ   たということでしょうか。また、薩摩にいたときの紋を出すとまずいこともあったのでしょうか。

突拍子もない質問もありますが、よろしくお願いします。


  [No.782] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/20(Fri) 15:25:51

今日は。静岡の長嶋さん。

ご返事をお読みいただけましたか。ありがとうございます。
では、早速ですが、ご質問5つに付いてお答えいたします。
何れも歴史に興味をお持ちに成っている方の納得の行くご質問と思います。

先ず、1番目のお答えです。
お答えは、薩摩藩に出入り、或いは御用達の商人は全て武士で商人です。
つまり、「2足の草鞋」策です。
この当時の商人は100%と云って良いほどに武士の出身か武士なのです。特に薩摩藩では尚の事です。薩摩藩は交易を中心に経済的な財政基盤を作り上げていたから強かったのです。
この為には国内の産物を捌く者が必要です。家臣に商に長けたものに命じて商いをさせ認可を与えて商家を作らせてその利益から権益を上げる仕組みを作り上げていたのです。そうする事で国内の産物は他国に捌け、且つ、捌ければ造る者は潤い働き甲斐が出ます。この様にして経済活動のサイクルを作り上げていたのです。しかし、武をモットーとする武家では出来ません。その為に商いの長けた者にこの捌くと云う仕事をさせたのです。当然認可制にし御用達にし且つ家臣であれば藩は自由に商いの大小によっては更に開墾も手がけられ結果として特産物を作りだす事も出来る訳です。
他国に売りさばく、他国から生活必需品を仕入れる等の事が伴うわけですから、その商いの裏づけも必要と成ります。他国の藩主との繋がりも必要と成ります。
当時は国内の産物は藩が税の対象として利権を持ち取り仕切っていましたから、勝手気ままに他国に売り捌けません。売買を放置すれば国内の需要を賄えない事も起こり得ます。
これはどこの藩も同じ事ですから、藩の横の政治的関係も必要です。
要するに藩主が大株主であればオーナーで出資者であれば担保が成立します。
それに当時は大量の物品の搬送には海賊や山賊など横行していましたので、これに対応する能力が必要です。武家であればそれを守る武力を持つ事(家臣)が許されますし、藩も後押しする事が出来ます。
また、予めその様な集団に対してシンジケートを作り上げておけば別の他国のシンジケートとの繋がりも作り上げられます。北海道から鹿児島までの搬送となれば幾つもの国を超えてこなければ成りません。海でもその海のテリトリーがあり海賊が圏域を握っていましたからそれとの繋がりも持つことが必要です。海賊山賊と云っても手下は別にしてもその元締めは武士か元は武士です。
この様なシンジケートを作らせこれに経済的な支援を裏で行うには藩は表に出られませんので、家臣の商人にさせるのです。藩御用達の範囲の商人で豪商と呼ばれた商人を調べると全て武士か元武士です。
そして、その殆どはかなりの身分の重臣で有名な氏の末裔武家です。
これには、廻船業の商人等の多種多様な商いも作る必要があります。
本サイトの讃岐藤氏の青木さんも昭和20年頃まで続いた全国を駆け巡った古い歴史を持つ瀬戸内廻船業の青木さんも居りますよ。
青木氏にはこの24地方に青木氏がありますが、その主家の多くは豪商でもあります。
参考までに例として、実は、私の先祖も明治35年まで950年間続いた伊勢松阪の商家で「2速の草鞋」でした。NHK大河ドラマに3つのドラマに筆者の商家が出てきました。(伊勢松阪青木紙屋長兵衛)
織田信長の唯一の敗戦は次男信雄を総大将とする伊勢攻め丸山城の戦いで筆者先祖の青木氏はこの商家と言う立場と伊勢−信濃シンジケートを使って勝ったのです。
庶民の商人ではこの様に合理的で物理的な行動は無理がありますので出来ないのです。せいぜい可能な範囲としては小売程度の商いの範囲です。

2のご質問と重なりますが、薩摩藩に出入りしていたとする長嶋さんも、典型的な薩摩藩の武家商人であった筈です。紋付袴姿の武家で家臣であるからこそ出入りが許されていたのです。
時代考証の間違いの多いテレビドラマではありません。「武士の商人」と「シンジケート」と「藩の利権」は当時の現実の世界です。これら3つは良悪の問題ではなく「氏家制度の経済システム」です。これでは庶民の商人は入れ切れませんね。
問題は肝付氏の家臣か島津氏の家臣かの問題ですが、出入りが可能とすると島津氏の家臣であったのだと考えます。
まして肝付氏とも成れば島津家の筆頭家老で明治維新に西郷隆盛と一緒に歴史の舞台で筆頭指揮を執った家柄ですよ。その肝付氏の一族ですから当然にその背景とする裏付けを持っていなければ600年以上の家柄を保つことは出来なかった筈です。肝付氏を一族一門が経済的に裏で支えていたのです。
その肝付氏一門として家老職から認可も出せるし必要不可欠な業に対して「こけら屋」建設業を営んでいたと考えられます。命じていたとも云えるのです。
少なくとも肝付氏とは強く結びついていたと考えられます。昔の商人は「こけら屋」としていますが、主な商いは一応「こけら屋」であって、表向きで別に「広範囲な商い」を上記のような立場から必要に応じて臨機応変にしていたのです。
私の先祖は和紙を扱う主業でしたが現実には総合商社で有ったようで大船3隻を有していて外国貿易もしていたようです。私はお家は建材業を主に建築業、内装業を手がけていたと考えます。
藩から要求に応えて手広く商いをしていたと「こけら屋」の屋号から察する事が出来ます。
一種の建築関係の総合業であったと思います。昔は今の様に専門業的なものは少なかったのです。

肝付氏の事に付いては阿多倍一門一族のレポート関係を幾つも記載していますのでそこをお読みください。概略は大蔵氏系の肝付氏は島津氏よりは家柄、身分、歴史などは数段上の氏で618年頃中国後漢の民の国16国は隋が滅びて後漢は崩壊しますが、その頃より阿多倍王とその父阿智使王が北九州に17県民200万人を引き連れて日本に難民と成って帰化して来た一団で、瞬く間に九州全土と関西以西32/66国を無戦制圧してしまいます。645年頃には薩摩大隈にその集団の首魁阿多倍王と父阿智使王は移り住みます。その後、700年前頃に伊勢国伊賀地方を賜姓青木氏から割譲して国を与え半国司に任じて住まわせます。ここから全土32国に指揮を執ります。
(阿智使王は「史部」を司り朝廷の事務官僚の元締めをしていました)
この7代末裔が「たいら族」桓武平氏の平清盛です。
阿多倍王には敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘を娶り准大臣と成り、3人の子供が産まれ長男は有名な坂上田村麻呂で坂上氏、次男は大宰府の太宰大監の大蔵氏で1018年「錦の御旗」を歴史上唯一個人に与えられ「遠の朝廷」と命名された九州全土の自治を認められる。三男は内蔵氏で陸奥一帯の歴史上の豪族は殆どこの末裔で阿倍氏等があります。
奈良-平安期は朝廷の政治組織「三蔵」で成り立っていましたが、その内の「大蔵」と「内蔵」を担当、「斎蔵」は藤原氏、官僚の6割は阿多倍王のこれ等の子孫です。日本書紀にも何度も出てきます。
肝付氏は天皇の前で銀杏の木の下で相撲をして見せたとあります。それほどの氏です。
1018年に九州全土の自治を任された賜姓大蔵氏は肝付氏などの末裔を育て上げこの肝付氏は朝廷官僚豪族伴氏と血縁します。
そして南九州を主家から任されて働きます。この肝付氏は「弁済使」で力を発揮し「税」等の政治力に長けていたのです。資料に多く残る事なのです。
ですから、室町期の新興勢力の島津氏と戦って最終には負けますが島津氏はこの管理能力を認めて潰さずに一国元の大隈国を与えて家老に取り立てます。地元には住民との1000年程度の歴史と絆を持っていますから潰すと内乱に成りますので、むしろ前回にお答えした40近い姓氏を活用して一族一門を取り立てて薩摩の内乱を鎮めたのです。その中の一つが長嶋氏ですがこの一門は商才に長けていたと云われます。
主家の肝付氏が重臣筆頭家老に成ってから大いに島津氏の有名な経済的背景を築いたのですが、裏で長嶋氏が支えていたのです。
長嶋氏は肝付氏家老の縁戚であるので勘定方組頭程度であろうと考えますが、「お目見え程度」ではないでしょうか。其処まで詳しくは判りませんし其処までの詳しい資料は遺されていないと思います。

3のご質問ですが、ありましたよ。
西郷隆盛の血判事件です。この事件には肝付氏も間接的に連座しています。
大河ドラマで演じられていますがこの時の事だと思います。
サイトは島津氏の事は青木氏と長嶋氏外の事ですので「あつ姫」等のドラマをご覧ください。
”太吉さんが血判に関わっていた”と云うことがお判りに成るのであればその資となるものから調べられる筈ですね。まして、血判と云う尋常ならざる事を承知しておられるのであればその血判事件は知っている事に成りますが。意味が良く判りません。

4のご質問ですが、青木氏サイト外の専門外の事ですので十分にお答えする訳には行きません。
肝付氏もサイト外ですが、私の妻の実家は鹿児島で島津藩の下級武士であったところからも承知している内容なのです。大蔵氏系永嶋氏に関わる事は永嶋氏とは青木氏とは室町末期まで縁戚関係にありましたので研究して承知していることに成ります。残念ですがあまり他氏は青木氏の様に研究は進んでいないと思いますがインターネットなどで調べられる事をお勧めします。(真偽は別として搾取偏纂が多い)

5のご質問ですが、”地域の有力者との関係で根笹に変えざるを終えなかったと云う事でしょうか。また、薩摩にいたときの紋を出すとまずいこともあったのでしょうか。”のご質問ですが、
このお答えは明治維新前は奈良期まで氏家制度の中でありましたから、家紋を使用する様に成ったのは平安末期からで40氏程度の氏から徐々に用いられるように成りましたが本格的には鎌倉期に入ってからです。「氏家制度」を維持する上で社会の慣習としての仕来りをこの家紋と云うもので「氏家」を明確にして行ったのですがこれを取りまとめられたのが「家紋掟」であります。
この家紋掟に関して詳しくはレポートしていますのでお読みください。また氏家制度の内容の根幹の融合氏政策が天智天皇から取られて来ましたが現在これに関する論文を投稿中ですのでそれをお読みください。
ご質問はこれ等に大いに関係してくる歴史的な雑学の範疇に入りますので、青木氏サイトにはレポートしていますのでお読みください。

情報提供は前回のものを越えていませんので何とも言い難いのですが、判断するものがありません。
前回にもお答えしました様にこの「三雁金紋」は別に薩摩の長嶋氏の独自の家紋ではありません。
花房氏の家紋です。花房氏は陸奥の氏で藤原秀郷流青木氏と大いに関係する氏でありますので承知しているものです。後に信濃に定住し信濃足利氏の前身の氏と成ります。信濃足利氏は青木氏と血縁関係にありますので承知しているものですが、お尋ねのご質問は薩摩とは無関係です。長嶋氏の氏名はこの地域には元の藤原秀郷流永嶋氏が居ますので疑われる事は無いと思われます。
むしろ家紋氏名を出した方が信濃域の周囲にはこの家紋が多く存在しますので問題が少ないと思いますが。ただ青木氏とは四国の青木さんとはある事件から血縁していますので四国にも三雁金紋の姓氏は存在します。三雁金紋の存在する所には足利氏との内部事件が絡んで逃げ込んだ経緯があります。

根笹紋は雑学上では薩摩との関係は全くありません。
この根笹紋は前回のお答えにも書いています通り2氏の家紋です。これも薩摩とは問題ありません。
この根笹紋の出来た或いは用いた経緯は松竹梅の縁起から用いられたもので竹の笹はずい祥的文様として用いられたもので江戸の旗本や御家人が江戸初期に氏を証明する手段として家紋が必要に成ったので用いたものです。
特に松平氏系桜井氏と信濃から移動してきた仁木氏が駿府三河付近に子孫を残したので増えたものです。
家紋を変えたかどうかの判断も他の情報が無くては何とも言い切れません。
たとえば宗派等、檀家寺、あるのであれば菩提寺、寺にある過去帳、明治維新の戸籍簿、ご宗家か本家の土地柄や江戸期の静岡での職業や地理の静岡との関係性を見出す必要があります。
そこから、又ご先祖が分かって来ると思います。薩摩との繋がりも見えてきます。

推測の域を脱しませんが、島津藩から何らかの目的で静岡に移動を命じられそこで商業活動をしたのでは。そして60年後明治維新に成ってしまった。
明治維新前は氏家制度ですので全ての者は国に所属するものですから、勝手に移動定住は出来ません。国に縛られています。これを犯せば「国抜け」といって一族斬罪です。
何かの理由があって移動して来た事に成ります。「こけら屋」が大きく左右していると判断します。
恐らくは、島津藩の事情から静岡の建材に関わっているのではないでしょうか。移動して移動先で血縁出来ているのですから、移動に関する許可書が出ての事です。移動の認可理由が何であったかと成ります。
血縁する相手が無宿者では根笹紋の歴然した家柄ですから血縁はしないでしょう。

その為にはと成ると、上記した様に「政治と権力」に関わる必要があります。或いは桜井氏から情報収集を図った。その為に松平氏系の桜井氏に近づき血縁をして縁戚として使命を果たそうとしたと観ます。本家か分家に養子を桜井氏から入れたが男系継承が叶わず養子方の家紋の根笹紋と成ったと観ます。
仁木氏も同じ推測が成り立ちます。信濃檜杉の材木です。仁木氏はこの利権を持っていた可能性が家柄から考えられます。桜井氏と仁木氏とは駿府において血縁関係があります。
当時薩摩藩はガラス細工や工業製品等の藩独自の生産工場を作ろうとしていましたので材木が必要であった筈です。又、江戸幕府とも対立が始まった頃で情報収集も兼ねて島津藩は動いたと考えるのが普通ではないでしょうか。当時は情報収集は系列の商人から得る事が多く又その目的でも武家商人の役目を担っていました。その役目も太吉さんが担っていたと考えます。
島津家御用達「こけら屋」と静岡と根笹紋と商人となれば繋がるキーワードは材木と徳川氏の膝元であれば情報収集と成りますね。

ルーツはこの様な仮定をつくりそれを一つ一つ証明して潰して行くのですが、それには「情報」と氏家制度の「雑学」(歴史史実)を獲得することから始まります。

以上、青木氏サイトの知る範囲でお答えをしましたが、何か今回のお答えでご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.783] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋 一泰   投稿日:2011/05/26(Thu) 21:06:11

明確なお答え、ありがとうございます。

1.薩摩藩に出入り、或いは御用達の商人は全て武士で商人の「2足の草鞋」で、 そのため薩摩藩に出   入りしていたとする長嶋さんも、典型的な薩摩藩の武家商人であり、紋付袴姿の武家で家臣であるか   らこそ出入りが許されていたこと。
2.島津藩から何らかの目的で愛知東三河に移動を命じられそこで商業活動をし、そして60年後明治維  新に成ってしまったという推測。
3.島津家御用達「こけら屋」と静岡と根笹紋と商人となれば繋がるキーワードは材木と徳川氏の膝元であ  れば情報収集と成りますね。

非常に分かりやすく納得し、ちょっとドキドキしてしまうお答えでした。


長嶋氏の家紋は肝付氏と同様に「三雁金紋」であり、養子などの血縁にて根笹紋に変紋したのではと云うことですが、静岡県浜松、また長野にも近い愛知県東三河新城に移り住んでからは、同じ町の杉浦氏から養嗣子を向かえているくらいです。
杉浦氏は、桓武平氏三浦氏流らしく、三河にも移り住んでいるようです。この杉浦氏が、松平氏系桜井氏と仁木氏と血縁があり、養子を取る前の家紋があることが判明すると良いのですが、今後の課題です。

質問ばかりですみません、『肝付氏を40近い姓氏の一族一門が経済的に裏で支、その中の一つの長嶋氏が、この一門は商才に長けていたと云われます。』とのことですが、長嶋氏は薩摩史等で名前が出てき、商才に長けていたことも解っていた事実のでしょうか?


  [No.784] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/27(Fri) 13:34:57

長嶋さん 今日は。

さて、だんだんとルーツのご理解が進んできましたね。
研究室のレポートをお読みいただけると更に深く専門的な雑学が得られてテレビのドキュメントやドラマ等に対して又違った興味が湧いてきますよ。”いやこの時代考証や設定に矛盾があるな”とか”嘘だな”とか観えて来ます。”この時代考証よく描けているな”とか違った面白みが出てきます。
是非お読みください。今回のご質問もより深くご理解頂けると思います。
そうする事で今回のご質問もお判りになると思います。

前回にもお答えしましたが、お家の大元は大蔵氏ですが、この「大蔵」平安期の政治機構「三蔵」の一つで朝廷の財政全般を取り仕切る役職です。だから日本政府の10年ほど前までは「大蔵省」といいましたね。これはこの「大蔵」から来ているのです。
この大蔵の氏は後漢の阿多倍王の次男が務めていた役職で、それで「大蔵」と云う氏名を天皇から賜姓を受けた氏です。参考に三男は「内蔵氏」の賜姓を受けましたが、「内蔵」とは天皇家の財政全般の運営を任された役職です。
念の為に「斎蔵」とは朝廷と天皇家の祭祀全般を司る役職で藤原氏が務めます。「斎蔵」は政治もその一つとして、だから摂関家は藤原氏なのです。政治とは”正しい形に取りまとめ納める”と云う語源があり、これを「政所」(まんどころ)と云い、家庭の台所の細々した色々な「しがらみ」のある中で、より正しい姿に取りまとめる事が家庭の仕事で女房が勤めていたところから「政治」と云う言葉が生まれたのです。
「斎蔵」はその様な事から「祭り事」と云われるようになったのです。

この語源の意味からすると、常識として「正しい」とするのが「政治」ではなく、「しがらみ」を「解きほぐす事」が政治なので、それが常識とする事と違っていても政治の場では正しいのですがね、現在の政治家は少し違っている気がしますよね。
現実の世の中、常識的に正しい事ばかりでは納まりませんよね。そうあっては欲しいですが、そう甘くありませんよね。

さて、余談は別として、この「財政運営知識」を持つ「大蔵氏」は後漢から連れてきた17県民の配下の職能集団200万人(180の部)の中の「経済知識」に強い専門的な人材の集団を抱えていて、この「後漢の民」が「朝廷の経済運営全般域」を専門家としてこれを担当していたのです。
当時の官僚の6割以上はこの帰化した「後漢の民」の専門職能技能集団でした。
この「部制度」といいますが職能技能集団を180のグループに分かれていてこれを「・・部」と呼んだのです。総称して民部・部曲(かきべ)と呼びます。
ですから、朝廷の経済運営を取り仕切っている大蔵氏は前回のお答え通り九州の「太宰大監」として全ての「自治政治」を任されたのです。
任された初代で「大蔵種材」と云う人物がいましたが、「仁王さま」のモデルにもなった人物で、「武術全般」にも長じ、「政治と経済知識」にも長じ、「学問」にも長じ、人間的にも「錦の御旗」を天皇から受けるくらいの人物で、九州全域からの民にも慕われた超実在人物でした。この配下に代々経済的な専門職脳集団の「済部」と「史部」等が控えていたのです。
大蔵氏の氏上の首魁本人がそうでなくても家臣配下に専門家集団を控えていたのです。
奈良時代から平安時代の「経済運営」は全てこの大蔵氏支配下の帰化人の「後漢の民」が行っていたのです。他の職能集団180部も日本の第1次産業を起こしたのはこの「後漢の民」なのです。
特に北九州は最初の上陸地でもあり、この第1次産業の「鉄や陶器」などが多いのはこの事から来ているのです。「鍛冶部」「陶部」と呼ばれます。(部制度については研究室にレポートしています。)
つまり、「大蔵氏の本拠地」にです。ですから、お家は「後漢の民」の首魁の血筋が流れているのです。
中国民族の中で、中国の文化・経済を作り上げた最も「優秀な漢民族」の血が流れているのですよ。
そして、その末裔の宗家大蔵氏から中部から南九州を任された一族の「肝付氏」は同じく大蔵の中の実務の一つ「弁済使」が専門なのです。
「弁済使」とは朝廷の「税」の実務全般を担う役職で「大蔵」の根幹を占めているのです。
現在では商務担当ですね。
「税」とは「農税、商税」の管理運営です。真に商業です。商業の振興を図る仕事です。
その大蔵氏と肝付氏の居た永嶋氏と長嶋氏なのです。お家の先祖はその氏名の通りその商税のプロ集団なのです。この経済商務専門家を多く家臣に抱えていたのです。
そもそもこの「大蔵」は財政全域の意味を成し、「肝付」とは「肝」は人間を構成する工場を指しますが、国で云えば「税」は国の運営の工場域ですし、「付」の語源はその位置や役目を指しますから語源からもその職務を意味しているのです。
「大蔵」の中の「税」の氏からその氏名としたのです。後にこれが地名にもなったのです。真に肝付氏の氏名がそのものが体を現しているのです。40の末裔の多くは主家の下にこの税に関する仕事をしていました。

筆者の妻の先祖はこの税の取り立て役をしていたのですが、その地には必ず、「別府」、「別所」と云う地名があります。この「別府」、「別所」はこの「現地の事務所」があったところなのです。
北九州の別府温泉はこの朝廷の税等の管理事務所があったところで九州各地にこの名が残っています。
現在で云うと大蔵省-財務省の各地の税務署の事です。
当然に「税」だけでは成り立ちませんからそれをより効率よく捌かなくては意味を成しません。
ですから、片方で「税の管理運営」ともう片方では「商の管理運営」が必要です。
これには簡単には行きませんね、上記した「政所のしがらみ」がありますからね。
商ともなれば「経済の知識」も必要ですし、「横の繋がり」、・・等専門家で無くては到底無理ですね。
ですから、島津氏は肝付氏がこの貴重な知識の「有能な集団」を抱えていた事を見逃さなかったのです。
肝付氏は帰化から1000年以上も繁栄して生き延びてきたのですから、島津氏は国を富ますには「武力」より肝付氏の「商力」を重視していたのです。
その後、島津氏は明治期までのこの伝統的な方針に切り替えたのです。ですから、幕末まで幕府を倒す力があったのです。工場を立て、密貿易をしていたくらいですよ。
これ全て肝付氏の「商」、「弁済使」の職能集団によって支えられていたのです。
だから敵であった肝付氏一族を家老職のトップにしたのですよ。本来常識なら有り得ない事ですがこれも「政治の政所」です。

前記しました様に朝廷の藤原氏が行う「斎蔵」の「経済運営」と、「経済の政治政策運営」に反対して8世紀前半頃に朝廷軍と大隈で戦うくらいの肝付氏の根っこからの経済専門家集団なのですよ。
その肝付氏40の姓の中で長嶋氏は私の持つ研究資料から肝付氏の商業分野(交渉役・営業役)を担っていたとされています。その中の建築業関係の総合商社を担っていたのです。

実は種を明かしますと、この事について何故建築業関係の商いを担っていたかと言う事ですが、その元はお家の片方のルーツの常陸下総の秀郷一門永嶋氏にあるのです。
血縁した秀郷一門の永嶋氏は元は「結城氏」を名乗っていたのです。もうお判りに成ると思いますが、秀郷一門の中で永嶋氏の官職の役目は「土木建設業役」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)なのです。名は体を現すの如くです。
その専門的な知識をもった指揮官のお家の家柄なのです。
昔は今のように民間がそのノウハウを持っていて工事をすると云うのではなく、その様な特徴を持ったノウハウの持った家臣団の氏がいてその氏主がその配下家臣の指揮をすると云う社会形態でした。
例えば、大化期に天智天皇は大土木工事(例えば道路)を行いましたが、そのノウハウは現在でも驚くべき技術が駆使されているのです。これはそれを行う役職の氏が継承し研究していたのです。
恐らく血縁の際に家臣団の中にこの集団の末裔が付き従ったのです。だから最後まで「2足の草鞋策」を採るほどに「こけら屋」(土木建築関係の総合商社)さんの「家の伝統」を護ったのです。

お家は根っこからの700年くらい続いた伝統と由緒ある「土木建築業」の家柄なのですよ。
島津氏の家臣の範囲ではないのです。氏家制度の中では家柄からすると両方の氏からも島津氏より数段上です。大蔵氏、肝付氏、永嶋氏どちらも上で永嶋氏は第2番目朝臣族、大蔵氏と肝付氏は第4番目の連族です。島津氏は姓氏族ですのでありません。

では"何故伝統ある「結城氏」を名乗り続けなかったのか"です。
下総結城は「たいら族」に奪い取られてしまったのです。平清盛の5代前に奪われたので地名とも成っていた由緒ある家柄を示す「結城」を名乗る事が出来なくなったのです。そこで移動先の地名から永嶋と名乗ったのです。何としても結城を遺したいとして常陸にも「常陸結城」の地名を残したのです。
しかし、この「結城」を1192年に鎌倉幕府の時に藤原秀郷の宗家筋の朝光は頼朝に合力した勲功で先祖伝来の「下総結城」を本領安堵され取り戻したのです。
そして永嶋氏の宗家から「結城氏」を再び立てて名乗ります。この結城氏は永嶋氏と共に勢力を拡大し陸奥にも結城氏の末裔を送り陸奥の結城氏となり室町期の大豪族に成ります。

肝付氏の40の中でも常陸の藤原秀郷一門の主要5氏の一つで「関東屋形」と呼ばれた大豪族ですから、長嶋氏は肝付氏の中でも上位の位置にいた事は判りますし、天下の大蔵氏の永嶋氏と親族でもありますから、推して知るべしで肝付氏=長嶋氏の経済専門集団と建築専門集団とが結び付き「2足の草鞋策」をを営んだのです。むしろこの二つが結びつけば「商い」をしない方がおかしいのです。「こけら屋」はこの事を意味していたと考えます。氏家制度の中ですから。
上記した由来などのこれらの事は他にも多くの資料から読み取れるのです。

もそも、「氏家制度」の社会の中ではこの様にその「氏」にはそれぞれの特徴を持っていたのです。
平安期末期では「氏」、つまり、「融合氏」は80程度から200程度へと広がりましたが、その「氏」の発祥はその特徴の基に生まれているのです。大蔵氏も上記しました様に「大蔵」という特徴を持っています。
この「大蔵氏」は元は「民族氏」なのです。そしてその信じる神は「産土神」(うぶすなかみ)です。
青木氏や藤原一門は「融合氏」で「祖先神」が神なのです。これは「氏」です。

しかし、日本には「姓氏」という「氏家制度」の社会の中では一段氏より下の集団なのです。
平安時代に「氏」として認められた「融合氏」「民族氏」の配下・家臣であった者が室町期の下克上や戦国時代に立身出世して主家の「氏」を倒して発祥した一族を「姓族」と称し集団を「姓氏」と称したのです。
(研究室にレポートしています。)そしてこの奈良期-平安期に承認された「氏」は全て職能域を保持していて、承認されていない「姓氏」にはその特徴を持っていません。
藤原秀郷一門の361氏は全てその「氏名」と「永代襲名」と「永代官職名」でその「氏」の職能の判断が付くのです。例えば氏名では斎藤氏は斎蔵つまり祭祀を専門とする家柄、右衛門佐と官職が付けば天皇家を護る近衛軍(六衛府軍)の長官、「民部」と付けば職能集団を管理監督する民の警察軍という風にわかるのです。しかし、1000もの姓族には当然に主家ではありませんのでこの特徴を持ちません。
「大蔵氏」や「肝付氏」の一族一門はこの「氏」に当たり、その氏でも「民族氏」の集団に属します。
藤原氏は「融合氏」です。
お家は「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」なのでこの両方の氏の立場を持っている事に成ります。

日本には「氏」は200程度(下克上で80程度に)、「姓氏」は1000程度以上もあるのです。他7000は明治期の苗字例に基づく姓の人々です。
「氏名」と「姓名」とがあるのはこの事から来ています。
肝付氏は「民族氏」ですが「融合氏」の永嶋氏が血縁しています。「姓氏」ではないのです。全ての事柄に特徴を持っているのです。
「氏家制度」の中での「氏」の集団で上記した特徴を持っていて後から付けたものではないのです。
後付は「姓氏」と成りますが、ご質問は現在思考の姓氏からの発想思考であり、「氏家制度」を理解する発想思考では無いのです。大蔵氏族肝付氏系長嶋氏は「氏」なのですから元からそのその才を特徴としていて専門家臣団を控えているのです。記録有無の話ではないのです。

氏家制度では「氏」は8つの身分に分けられ、姓氏は1つ、これ以外に庶民は4つに分けられ、庶民ではない賎民も4つに分けられます。1023年以降は賎民は無くなります。
この中で社会が構成されます。
今論じているのは上位から2から3つ目位のところの氏の事を論じています。

「2足の草鞋策」の「こけら屋」の意味もここにもあると思います。
その一つとして前回のお答えした日本書紀にもその肝付氏の行動が記述されています。江戸末期、幕末の薩摩藩の活動の中にも読み取れます。
前回書きましたが一度あつ姫の小説をお読みください。活躍ぶりから読み取れますよ。
藩主に肝付氏が経済のことで進言した事などが書かれています。
島津藩については専門外ですので詳しくは分かりませんし、その資料は前々回にお答えしたとおり少なく研究は進んでいないと思いますが。
しかし、肝付氏の長嶋氏までの範囲は大蔵氏に関係する資料から判ります。
少なくとも長嶋氏までは商業の専門集団であったことは判っています。だから何度も云いますが、「こけら屋」なのですよ。さすがにあらわに「商業屋」とは云えませんね。
ご先祖の屋号の「こけら屋」の意味がまだご理解されていないようですね。
筆者の先祖は「紙屋」ですが、「紙屋」であって「紙屋」ではないのです。
前回にお答えしましたが、商業には政治つまり政所が関わっているのです。
小売業ではいざ知らず国の財政を動かす政治・政所商業なのです。だから「こけら屋」だと思いますよ。「氏家制度」の「武家社会」の中での「商いの位置づけ等」を思考される必要が「こけら屋」にはあると考えます。
「こけら屋」でのキーワードはこの場合は島津氏或いは肝付氏の中の資料に成ります。あるかどうか判りません。

念の為に、肝付氏の主人が何も経済の専門家でなくても家臣団にその様な多くの専門家がいれば肝付氏はそのプロ集団なのです。「氏家制度」の社会です。現在の様な「自由契約社会」ではありません。
つい現在社会の思考で氏家制度の社会の「有り様」を思考してしまいがちですが、明治前の社会機構の「有り様」は「氏家制度」の歴史雑学で観察思考する必要があります。

さて、家紋の件ですが、研究室のレポートをお読み頂けると「歴史雑学の観察思考」が深まり恐らくはご判断が付くと思います。室町以降の「家紋の位置づけ」はその「氏の伝統」を意味するものです。ですから簡単に変えるなどの事は先ず簡単に起こりません。
そうすると現実に変わっているのですから、氏家制度の中では掟があったのですから、その歴史雑学の思考の範囲で考察する必要がありますね。
8つある事に成りますから、お家の場合はこの8つの事の内どれかが江戸末期60年前に何かが起こっている筈なのです。絶対に当時の慣習の中で。
それは、絶対に桜井氏-仁木氏に関わる筈だという事です。
杉浦氏が江戸末期の60年の氏なのですか。
前回末尾で書きましたお家の伝統に関する過去帳や明治維新の戸籍簿や戒名などから変紋に関わったことが出てきますよ。”養子を迎えれば氏の中はどの様に変わるか”を雑学として読み取りそれを一つ一つ潰す事で観えて来ますよ。要するに「政所」なのですよ。
例えば、ご先祖の戒名などは大きく変わりますよ。「政所の仕来り」がありますので。例えば更に杉浦氏が根笹紋でなくても8つのうちの一つ養子に継承させてくる事もありますよ。家の釣り合いとかで。
一度その伝統の可能性の中でお調べください。

その際に雑学でもご質問がありましたらお尋ねください。
(ただ島津氏の中の事は青木氏外ですので)


  [No.789] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/08/12(Fri) 13:28:08

> お久しぶりです。

このサイトで教えていただいたことを参考にして、されにルーツ探しを行っていました。
なかなか、難しいですね。
本家菩提寺勝楽寺のある川路地区『宗門人別御改帳』の明治以前から江戸時代中期まで遡りの調べたのですが、太吉、妻たいの名前が見あたりませんでした。
その時一緒に調べるのを手伝っていただいたお年寄りの方の先祖がその土地で庄屋をしていたそうなんですが、そう言えば長嶋家はどっかから来たというのを聞いたことがあると言ってました。
川路村戸籍簿(明治9年記録)も見たのですが、それにも長嶋姓はありませんでした。この地区には、夏目、滝川、菅谷姓が多い地区でした。

そこで、武家商人として『2足のわらじ』で愛知の新城という土地に来ていたとすると、菩提寺は薩摩と言うことになり、川路地区『宗門人別御改帳』なかったのでしょうか。
勝楽寺にある本家の現在確認した一番古いお墓が、太吉さんのものでした。
他の藩から来て、住んでいた人は『宗門人別御改帳』には載らないものなのでしょうか?
基本的なことですみません。


  [No.790] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/08/12(Fri) 20:59:09

長嶋さん 今日は。お久しぶりです。
色々とルーツの事をお調べに成っている様ですね。なかなか上手く行きませんよね。
ルーツ探求は歴史雑学を極めて必要とする作業です。
現在の感覚では絶対に出て来ません。それは氏家制度と身分制度の社会であった事からで、現在感覚では矛盾が生まれ、その結果、間違えた方向へと探求の道を選んでしまうと言う事が起こるからなのです。

さて、勝楽寺の「人別帳」には ”江戸中期までには、太吉、妻たいの名前が出て来なかった”と云う事ですが、これには次ぎの3つの疑問または雑学上の間違いを起しているようです。

1 先ず「人別帳」は通常、庶民、平民の戸籍簿に当るもので、武士はこの「人別帳」には載りません。庄屋が村毎や郡毎に居る農工商の民を税を統治管理する事から書き記したもので、主に庄屋が管理し村の寺等に保管して管理していました。「人別帳」は「戸籍簿」としてはその役割の中の「系統性」がありません。
代々の氏の系統性を主体として管理されたものではないのです。そもそも庶民は姓や氏を構成していませんので、つまり「姓名」や「氏名」は持っていませんので元々系統性のある物は出来ません。
武士と庄屋、名主、豪商、豪農は元は武士であった事から苗字帯刀を許されて「姓名」や「氏名」を持っていますので「過去帳」でも戸籍管理されていたのです。(庄屋は人別帳にも記載する慣習)
お家は先ず長嶋氏で武士ですので「人別帳」の方には記載されません。

2 お家は鹿児島が管理地に成りますのでこの川路村にはありません。
明治前は”人は土地に拘束されます””その土地と領民は領主が統括しますので、鹿児島の人は鹿児島に過去帳があるのであって、明治前60年前に移転してきたとしても此処のお寺には「過去帳」として記載する事は出来ません。当然に「人別帳」も。
明治3年以降であれば体制が変わりましたので川路村の役場の戸籍簿に記載されます。
しかし、お家の場合は載せるには鹿児島から移さなくては成りません。急に川路村に降って沸いたようには戸籍を作る事が出来ません。
つまり、明治3年以降にお家の戸籍を鹿児島から移していない事を意味します。移していれば明治の戸籍簿に”何処から移転”と記載されている筈です。
特に明治初期のものには、寺から役場に管理が移りましたが、この事の経緯が詳しく記載されているのが特徴なのです。士分、平民の別も記載しています。

3 次ぎに”太吉、妻たいの名前”ですが、武士である事から幼名と俗名では管理されないのが普通です。武士は年齢に応じて、成人になるに従い幼名から俗名が付き、成人すると武士名の・・左衛門頼光とかに変わります。「過去帳」にはこの武士名が記載されます。
武士は基本的に4つの名を持つのです。後は戒名です「・・院・・殿・・左衛門居士」。・・院は官職が、・・殿には氏名が読み込まれます。この様に過去帳は武士名と戒名を記載します。
”妻たい”の名は武士の身分、つまり名家か上級武士に依っては別のものに記載されます。
お家の長嶋氏は鹿児島では女墓制度の慣習を引き継いでいたかは判りませんので何とも居えませんが、「院殿居士」を持つ家柄であったなら過去帳にも女過去帳にも記載されている筈です。いずれにしても川路村には無い筈です。

4 60年と云う年数から此処に移転してきた時の理由です。
薩摩藩の仕事から移転して来たとすると、赴任移動に伴なう「手形」しかありませんので、川路には戸籍、人別、過去帳等もありません。明治3年に成っていませんので鹿児島以外に人別にしても過去帳にしても無い事に成ります。
そこで”本家菩提寺・・”としている事なのですが、お家は薩摩の長嶋氏です。武士です。菩提寺が川路にある事は絶対にありません。
そもそも「菩提寺」の意味を間違えられていると思います。
恐らくは「檀家寺」と勘違いされている様です。
「菩提寺」は薩摩長嶋氏だけを祀る寺で氏の本家、分家、分流、分派、中には縁戚の全体で長嶋氏の管理運営する専属の寺の事です。
江戸末期には管理運営に大変な経費がかかりますので、相当な身分つまり大大名等が持つ事ができました。従って菩提寺運営をするには宗派が同じとか氏は異なるが流れが同じとかで他氏と共用する寺も多く殆どでありました。場合に依っては肝付氏や大蔵氏や廻氏や前記した40族に連なる氏との共用で菩提寺を運営していたのです。
依って、薩摩以外の所には「菩提寺」はありません。「移転」そのものが「菩提寺」では無い事に成ります。
お家の様に60年前に移転したとすると間違いなく「檀家寺」となり、この場合、長嶋氏が何宗かに依りますがその宗派が川路になければやむなく他宗の檀家寺に「仮寺」として済ませ、「本寺」は鹿児島薩摩と言う事になります。藤原秀郷一族は全てこの方式を採りました。それが真宗でした。
兎も角も大蔵氏系肝付氏族長嶋氏と成りますので過去帳などがあるところは、主に肝付氏の大隈地方のその本宗派の寺に成ると思います。或いは天草市に成るかも知れませんが。

「2足の草鞋」はあくまでも武士であって身分の高い方を選定する習慣です。
この場合は戒名などもその宗派に依って作り方が異なりますので、先ず少なくとも薩摩長嶋氏の総宗本家の宗派の確認が必要です。
普通で考えれば曹洞宗か浄土宗かに成ります。お家のご本家の仏壇の形式からでも大方は判ります。
というのは宗派が異なれば祭祀する仏様が異なるからで、その仏様の構成が宗派で異なるために仏壇の形も異なってくるのです。
お家の常陸・下総の長嶋氏の宗派は元は古代密教の浄土宗であります。大蔵氏と血縁し大蔵氏系となった長嶋氏が大蔵氏ではなく長嶋氏を継承している限り、長嶋氏の宗派を継承しますので古代密教と成ります。

ご質問1
そこで、武家商人として『2足のわらじ』で愛知の新城という土地に来ていたとすると、菩提寺は薩摩と言うことになり、川路地区『宗門人別御改帳』なかったのでしょうか。

このご質問ですが、上記しました通り、「菩提寺」は薩摩にある事は間違いありません。
川路地区は「本寺」ではなく「移動の便宜上の仮宗派の仮寺」で、その後、明治になった事から「檀家寺」として続け、その土地でのご本家が出来た事からそのままに檀家寺をつないできたものです。
依ってこの川路の「本家」では無く「宗家」の方にある事を意味します。更にその上を「総宗本家」と呼びます。
川路に移動後ご本家が出来たのですから、川路に戸籍が無い事から薩摩が「宗家」となります。
つまり、何らかの理由で明治初期の3年の苗字令の時に川路に本籍を移さなかった事を意味しますので薩摩のどこかに戸籍がある事に成ります。
その後に現在地のどこかに移したことも考えられます。ですから先ずは薩摩の長嶋氏の宗家(薩摩の本家)をお探しに成ると良い事に成ります。
ルーツはこの「本家」で調べなくては成りません。お家は江戸末期で、且つ、移動して来ていますので、薩摩の「宗家」の本家筋が何処にあるのかを先ずは調べなくては成りませんが、大切な事はルーツ探求には下から上へ調べ上げて行く事は枝葉に成っていますので不可能です。ですから、出来る限り上から下に探す事が必要です。先ずは薩摩からと成ります。
そのためには現在の宗派ではなく元の宗派をご確認ください。浄土宗で古いお寺である筈です。
薩摩の肝付氏族長嶋氏を名乗っていますので、大蔵氏の一族が元の長嶋氏を誰かが引き継いだことに成りますので、元の宗家の宗派は古代密教の浄土宗と言う事に成ります。

薩摩に於いて古代密教の浄土宗の出来る限り古いお寺をお調べに成る事です。
その時代は鎌倉時代の末期の元寇の役(1280年−1285年)の前後に、常陸−下総の長嶋氏系一族と血縁していますので、その50年から100年後(1330年−1385年)の前後に薩摩長嶋氏が発祥していることに成ります。(この時同じ一門の長谷川氏や青木氏や進藤氏も大蔵氏と血縁している。)
その後、1495年−1510年にこの長嶋氏は肝付氏と共に薩摩の配下に入ります。その直前には長嶋氏は「天草市新和町」付近を支配する五氏の豪族となり次第に勢力を拡大して行きますので、その支族(分家 長島氏)として天草の豪族の宮路氏と共に肝付氏を背景に長島氏が薩摩長島まで勢力を張って行ったのです。
この長島氏姓を呼称する(長嶋氏)は肝付氏と共に今の鹿児島県の長島地方を領有する様に成ります。
しかし、結局、勢力拡大で島津氏と長い間争う事に成り衰退し敗退します。この時、一部の長嶋氏は長島の近くの「阿多」にも移り住みます。
(地名の「阿多」は大蔵氏の始祖の大隈の首魁阿多倍王の阿多 伊勢北部伊賀地方も伊勢青木氏より半国割譲して阿多倍王に与える)
つまり、分家の長島氏は天草−出水の長島から阿多付近まで 本家筋長嶋氏は大隈から阿多までの勢力図であった事になります。
(「長島氏」は元は常陸下総の「長嶋氏」の系列で「伊勢長島一門」の長嶋氏ルーツ系です。
永嶋−長嶋−長島とこの「3つで永嶋族」を地理的にも判別する様にしていました)
この事から薩摩長嶋氏のお家のルーツの宗家は、第3番目の鹿児島県の天草に近い長島と、近くの阿多にも子孫はある事にも成りますが、菩提寺も同じ事が云えます。
(出水長島、薩摩阿多、薩摩大隈、薩摩肝付の何れかに。 天草出水長島は考え難い)
依って次ぎの何れかになるのかを確定する必要があります。

1 元々の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の総宗本家筋なのか
2 元の長嶋氏から長島氏にしたのか、
3 長島氏から長嶋氏に戻したのか、
4 伊勢長島系(長嶋氏族)の長島氏を本家はそのままに継承しているのか

注 大蔵氏との血縁時は長嶋氏です。始祖は「大蔵種秀」(1280−1285)で、その子の「頼種」の長嶋弥六が引継ぎ大隈に移動し、その祖祖父大蔵種有の弟大蔵種嗣系の大蔵氏から大隈長嶋氏に跡目に入った種嗣の孫の種親−曾孫の種武と引き継がれた事に成る。

ですから、お家の長嶋氏は正式にはこの種親−種武(1330−1385 室町初期 大隈国)から引き継がれているのですが、伊勢長島の長島氏の名跡を分家が引継いだと見られここから天草出水長島に広がっています。

ここから菩提寺の過去帳で江戸末期までお調べになるとルーツが判明することに成ります。
(青木氏との関係で研究したところここまででこれ以降の資料は持ち合わず困難です。)

推測 
大蔵氏との血縁時は伊勢の長島氏は高位の大蔵氏が血縁先である事から家柄身分をあわす事から長嶋氏を名乗った。そしてその後、伊勢の長島の名跡を分家等が引き継いだ。
この時、長嶋氏流と長島氏流が拡がった。長嶋氏は大蔵氏系肝付氏族として大隈に、この後、長島氏は長嶋族として天草隣の長島に勢力を拡大した。(大隈長嶋氏も隣の阿多まで広げた)
此処までは史実です。
その後、大隈の宗家の長嶋氏に跡目が欠けて長島から人を入れ跡目を継承したか。長島の分家筋の本家の者が島津氏の御用達に成った事から身分をあわすために分家筋の長島の名乗りを宗家の長嶋に戻したか。大隈長島本家が御用達を務めたか。
従って、大隈の長嶋氏が総宗本家筋、天草長島の長島氏が分家本家筋に枝葉が拡大したのでルーツはこの2つにある事になります。
(肝付氏の方からも下総結城の宗家名跡を継ぎ永嶋氏を名乗った一族が居る)。

さて、この何れに菩提寺があるかの問題ですが、天草長島氏には菩提寺を運営する能力に疑問があり、且つ、総宗本家ではないので菩提寺を作る事は立場上で困難であったと考えられます。
支所的なものはあったと考えられます。或いは伊勢長島の伊勢神社を祭祀する事はあるかも知れませんが宗家菩提寺は仕来りから大隈にある事に成ります。
当然、そうなると菩提寺宗派は浄土宗密教と成ります。守護神は一族一門の総宗本家の肝付氏は「産土神」ですが、長嶋氏を名乗っていますので「鎮守神」と成ります。菩提寺のあるところに必ず「鎮守神」がある事に成ります。この2つの条件が備わっている事に成ります。

この付近に上記年代の一番古い浄土宗寺にあると思います。
場合に依っては天草にある事も考えられますのでここからお調べになられることをお勧めします。
古い天草の長島氏か島津時代の薩摩の長島氏か長嶋氏に成る事も考えられます。
或いは大隈に。長島氏の中で常陸の名家の長嶋氏の氏名を継承した可能性が大でありますが、又は、常陸の総宗本家の名家の長嶋氏の氏名を継承して島津藩の「こけら屋」(長島氏は過去に敵対した事があるので御用達に成るのには問題がある)を務めた事も考えられます。
この場合は後者か肝付氏の大隈の土地のお寺の可能性があると思います。

当時の氏家制度と身分慣習と一般の義理の慣習から私はこの説も高いと見ます。
つまり、島津氏の身分に合わせて元の名跡の長嶋氏を名乗る事は当時の身分制度からよくある事です。
当然に氏家制度の中では分家が本家や宗家に対して許可無くこの様な行為に出る事はありませんので、名乗ると成ると本家筋或いは宗家筋がある事ですし先ず許さないと思いますので名乗れません、そうなれば総宗本家の許可が必要と成ります。
依って、名跡の長嶋氏を名乗る以上は本家筋、宗家筋の枝葉と成る筈です。
この天草の土豪の長島氏一門では菩提寺は運営管理する力は無い可能性もあるので、同時に氏神社も合わせて寺社2つの存在を確認する必要があります。

そもそも川路に”何故ルーツの後が無いのか、何故戸籍を移さなかったのか”の疑問が生まれます。
それはもう次ぎの様に答えが出ています。

菩提寺が薩摩にあると云う事、
菩提寺を一門で管理運営する力があった事、
その力は「こけら屋」であった事、「2足の草鞋」を持つ事はその経済力が十分にあり、島津藩「御用達」であるほどの豪商であった事、
島津家に負けじと劣らずの有力名門氏であった事、
江戸期に長嶋氏を名乗れるほどの本家筋であった事。
九州一の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の名門中の名門である事。
伊勢長島の系列の長島氏でありながら常陸の名跡長嶋氏を名乗っている事

平安末期から鎌倉期と室町期を経て江戸期まで一貫して日本有数の血筋を引き継いで来たのです。
天皇家の血筋を引く大蔵氏と藤原氏の両方の氏です。姓ではありません。

これだけの条件が揃っているのも氏も珍しいもので、「菩提寺」を有している事は間違いありません。
だから、移さなかったのです。だからもとより川路地域一帯にはないのです。
移す事の事態がおかしいのです。

ですから、お調べに成る時は宗家筋から下へと進められるようにしてください。
かなり宗家に近い筈です。それは宗家そのものが他国に移動する事は絶対に氏家制度からありえませんから。菩提寺があるとすると、当然に当時の慣習から一族一門の「氏の守護神」を持っている筈です。
大蔵氏と肝付氏は「産土神」を「主神」とし、長嶋氏は「鎮守神」を「主神」としています。
このどちらか或いは両方の「守神」を持っていますので菩提寺と共にお調べに成るとどちらかから糸口が出てくる筈です。

ご質問2
他の藩から来て、住んでいた人は『宗門人別御改帳』には載らないものなのでしょうか?

江戸期以前では上記の通り住む住まないでは無く「人別帳」には武士は乗りませんし勿論他国者は乗りません。

鹿児島の宗家を確認して其処の長島氏か長嶋氏の菩提寺を定め其処から下ってください。
先ず天草市から潰して行ってください。そして大隈市へと確認してください。
宗派は浄土宗で、或いは次ぎに曹洞宗か真宗でお調べください。
お寺が決ればあとはルーツが開けてきます。この時は長嶋氏の守護神もある筈です。

参考
兎も角も、ルーツ探求には、”推理推測を立て、それを調べて推理推測に辿り付けるか”が面白いところです。辿り付けた時の喜びが忘れられません。
先ずは上記末尾に記しました推理推測が必要で、これなくして先ず辿り付けないでしょう。
それ程に歴史資料が整っていなく忘れ去られてしまっているのです。一度忘れ去られると大変な努力が必要です。先ず個人の領域までたどり着ける程に遺されていないので不可能です。
遺跡を推理し掘り起こすと同じです。今回のご努力も一つの前進ですね。

参考
鎌倉期から江戸時代は難しい為に100%に近い状態で系図や系譜を搾取偏纂をしてルーツを作り上げています。昔は今ほどに資料文献が進んでいなく社会がそれ程系譜が遺されるほどに進んでいないのに系図や系譜があるのがおかしいのです。余程の氏でなくては個人の領域間での資料を残せる訳はありません。とりわけ鎌倉期から江戸期初期までは下克上と戦国時代ですので、100%に神社や寺社等も消失しているのです。残せる氏も下克上で潰されているのです。
系図や系譜を後生大事に盾にしている氏も居るようですが1465年間一人で生き抜いた人でもいるのでしょうかね。どのようにして系図を書いたのでしょうか。一人の人が誰かに頼んで書いて貰う以外にありませんよね。その書いた人個人のルーツ何で知っているのでしょうかね。個人でなくても判らないのが普通なのに。誰かが勝手に家柄を良く見せるために搾取偏纂したもので歴史が経つと本物に見えてくるのがこの世の不思議。
お家の件でも未だ100年も経つか経たないかでもう判らなくなっているのですよね。

信用できる系図系譜資料は必ず”・・年代に誰々記する”と書き、”真偽は後勘に問う”と書いています。
ですから、薩摩の長嶋氏に付いてもこの資料に騙されないように充分に注意してください。
先祖が没する度に寺が客観的に書き足して行くために信頼性が高く「過去帳」が最も信用が出来るのです。その中に戒名がありこの戒名が真偽を物語る資料なのです。寺が3つの要素が読み込まれているのです。真実を保つためにです。その過去帳は菩提寺を有する氏の寺と成ります。あるいは氏の神社にも遺されているのです。この2つが噛合えば間違いはありません。
薩摩長嶋氏の資料が何処に残されているかは歴史的発見です。まだ誰も長嶋さん全体を調べてはいないようですが。

青木氏はその立場上から掘り起こせばまだ遺されていて、筆者や縁戚の佐々木氏と藤原秀郷の宗家が調べていましたので両方から探求する事で全体像が判ってきました。45年間苦労しました。
一番苦労して無駄な時間を費やしたのは搾取偏纂の資料でした。
ヤフーのブログ審査によれば個人では最大にルーツ解明が進みその資料の膨大さとその真偽は日本一であると云う話も伝えられています。ヤフー登録審査では日本の歴史研究学者5人の審査を受け25倍の厳選で歴史部門の登録が叶いました。
今のところ長嶋氏の件では縁戚としての青木氏が一番に情報把握していると見ていますが。
兎も角も頑張ってください。そのためにも何でもご協力いたします。
最近テレビでも最近富に歴史番組が多いですが俗説通説を使っていますので極めて間違いが多いですよ。


参考
そこで上記の説明の推理からこの条件が成り立つのかを調べました。
インターネット情報
出水郡長島
浄土宗 寺なし
真宗 発願寺、善照寺、真楽寺、光蓮寺
曹洞宗 善門寺、長光寺、広昭寺

大隅町
真宗 妙円寺、称讃寺、浄光寺

肝付町
浄土宗 玄忠寺
真宗 西岸寺、西方寺、円通寺

以上菩提寺があると思われる場所の寺ですが、この中にあるのではないでしょうか。
寺の由緒と建立時期を菩提寺の有無を個別に電話で調べる必要がありますね。
しかし、傾向としてなかなか寺は由緒と建立時期を明かしません。
傾向としては真宗が多いのは菩提寺の可能性も、ただ一つの肝付町に浄土宗寺がありますね。ここ気に成りますね。

重要
九州には実はそもそも浄土宗が氏の構成から極めて少ないのです。
浄土宗はある特定の身分家柄の入信する密教である為に九州にはその特定の家柄身分の氏がないに近い状況なのです。
主に真宗か曹洞宗が主です。
長嶋氏と清和源氏頼光系宗家頼政の配流孫日向廻村と薩摩大口村に分布した青木氏の古代密教浄土宗の菩提寺がある程度です。
あるとしても江戸初期家康が出した浄土宗の督励推奨令により大名クラスが曹洞宗や真宗から浄土宗に宗派変えした姓氏が殆どの土地柄なのです。
氏としては大蔵氏系一族一門が主体で後は室町末期から「姓氏」が立身出世した武士階級なのです。
ですから平安末期から室町中期までは大蔵氏と血縁した長嶋氏以外の藤原秀郷一門と青木氏くらいなのです。
特に南九州は特に少ないのです。あるのは江戸初期以降の寺と言う事に成るのです。
中でも大蔵氏系の一族が住む肝付を含む大隈国にあるのは特異で不思議なくらいなのです
(理由は青木氏のレポートの中に詳しく記述)
なぜかと云いますと、天皇家と血縁した大蔵氏は中国後漢の民で阿多倍王に率いられて入国帰化した200万人の首魁が定住していたところなのです。
有名な坂上田村麻呂はこの阿多倍王の長男で大蔵氏は次男です。
ですから恐らくは大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の菩提寺である可能性が高いと成ります。

注意
長嶋氏の菩提寺であっても記録は消えている可能性があります。
最近各地で消えている現象が起こっているのです。資料が無くなったり菩提寺の氏の墓が核家族化して分散して無くなったりして判らなくなっているのです。当然に核家族化で一族の墓も移してしまいます。
宗家本家支流分派の制度も全く無く成っていますので伝統が消えているのです。
また住職は世襲制から配属制に変わりましたので伝統の継承が無くなりました。
また、江戸期の督励推奨令が密教方式から檀家寺としたため菩提寺の意味合いは全ての寺にはありません。過去帳もその目的が全く無くなりましたので菩提寺の氏であるなどの意味合いも無く成っています。
過去帳も戦いでほとんどが消失しているのが現状です。
この事が影響しているのです。

この確認には上記した「由来と創建時期」です。後は過去帳と墓所から長嶋氏を見つけ出す事ですね。
大隈の役所と長島の役場に資料がある可能性もありますね。
兎も角も神社も調べれば共通する何かが出てくるかも知れません。
出水長島には伊勢神社が4社もありますね。伊勢長島 矢張り長島氏の三重県のルーツの場所ですね

大隈国の大隈にはただ一つ「鎮守神社」がありますから長嶋氏の守護神の神社の可能性があります。
(藤原氏は春日大社ですが、大蔵氏系肝付氏族長嶋氏は春日大社ではなく元の鎮守神を祭ることに成ります。)これは「浄土宗」と一致していますし、「大隈国の肝付」には矢張り「伊勢神社」がありました。
3つの条件が真に一致していますので上記の推理に何かあたりそうですね。

では、何かお判りに成った時、または判らない時やご質問がある時には是非お便りを下さい。


  [No.791] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/08/15(Mon) 08:10:24

福管理人さん。
貴重な情報ありがとうございます。
また、更に貴重な追加情報ありがとうございます。どのように表現して良いか分からないぐらいです。
感謝しております。

週末、サイトを見て、凄く感動し、自分もインターネットを見て浄土宗、曹洞宗のサイトから天草、長島、出水、鹿児島市内、肝属を検索してみました。
沢山のお寺がヒットし、これを元に探してみようと思い、とりあえず、お礼のメールを思いメールしました。
『旧薩摩藩領では、明治初めの廃仏毀釈のやり過ぎのため、藩主菩提寺も含めて領内の寺が一時期は1つも残らず全滅した』とのこともあり、なかなか道のりは、長そうですね。
でも、自分の先祖のルーツが重要であることを感じ頑張らなければと思っています。

夏休みを利用し、鹿児島へ行こうと思っていますので、この情報を生かして何かつかめればと思っています。黎明館でも色々と情報が得られたらと思い立ちよろうと思っています。

良い経過が、報告できれば幸いです。
また、色々と相談を致しますがよろしくお願いします。


  [No.792] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/08/18(Thu) 23:34:33

福管理人さん、今日は。

家紋について教えていただきたいのですが、月輪に豆雁金を持つ長嶋氏は存在するのでしょうか。
自分の友人で色々見える人がいて、長嶌太吉という字を見ていたら、『月に囲まれた噴水のような形をした鳥の絵が見え、その絵(紋)が描かれた陣笠を被った人が見えてきた』とのことでした。この人は家紋に関する知識はほとんどありません。
僕も長嶋家のことを調べていて、このサイトで肝付系長嶋家が三雁金紋であることを教えていただき、雁金紋を調べるようになり、最近インターネットで月輪に豆雁金を見たのですが。
こんな変な質問で、お気を悪くされたら済みません。


  [No.793] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/08/19(Fri) 08:11:34

今日は 静岡の長嶋さん 

毎日、暑いですね。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、この家紋に付いては判りません。

この雁金文様は鎌倉時代に頼朝より土佐坊昌俊が授かったものですが、その後多くの武士がこの文様の変紋を使うように成りました。凡そ53の文様があります。
その多くは江戸初期に農民などが戦国時代に武士を志して立身出世して江戸期に正式な家臣として取り立てられた者が、「姓」を形成する事になり苗字と家紋を慌てて持つ様に成りました。
この53の家紋の多くは江戸初期のもので「姓氏」の使用する家紋群です。中には有名な信濃真田氏の支流も使っているようですが、この月輪に豆雁金紋はこの時期のものです。雁金紋は主に四国と中部地方に分布する文様です。
依って、秀郷一門の名跡の長嶋氏の末裔がこの家紋を使う事は論理的に有り得ません。
藤原氏系長嶋一門の家紋は34から成り立ちますが、これに九州大蔵氏系長嶋氏の家紋を入れると38から40程度と成ります。34の長嶋氏の文様はサイト研究室の中ほどにあるに「 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係」のところにレポートしています。ご覧下さい。
江戸期に使用したこの家紋とは時期が異なる為にルーツが異なっています。従って無関係です。
仮に有るとして、苗字と家紋を江戸期に勝手に使ったものですから恐らく「第3氏」の「姓氏」(かばねうじ)と成りますので、長嶋氏の「氏」(うじ)とはそもそもその出自出所が異なっています。
歴史の雑学として、「氏」と「姓」との2つがある事をご承知ください。氏名と姓名です。
長嶋は氏名の方です。この判断を観てすればこの月の輪は長嶋氏とは異なる事が直ぐに判ります。
氏家制度の中では血縁の慣習は「家柄」「身分」と「吊り合い」を前提として原則進められましたので、長嶋氏にとってはこの文様は、少なくとも江戸中期のころにこの氏家制度が後退しましたが、この頃までには無いと考えます。江戸初期からしますと150年程度と成りますので3代か4代程度の姓氏に成っている程度ですのでまだ到底長嶋氏との血縁までの子孫数はないと考えられます。
まして、九州の長嶋氏となると先ずは無いと成ります。
現在家紋は8000程度ですが、氏としての家紋は凡そ1200程度でその中でも「家紋200選」と云うものがありまして、その中にある家紋は主要家紋と成ります。サイト研究室にレポートしています。
九州長嶋氏の三雁金紋はこの中に有ります。
前回レポートの内容も踏まえて少しづつ歴史の雑学をお持ちになられればより判断が着き易くなると思います。サイトにはこの雑学がたくさんありますので是非お読みください。

また何なりとご質問ください。以上です。


  [No.801] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2011/11/12(Sat) 23:58:30

福管理人さん、お久しぶりです。
地道ですが、ご先祖探し継続しています。

9月中旬鹿児島に足を運び、旅行を兼ね調べてきました。
3日間ということで、肝付町、鹿児島市、姶良市と訪ねることとしました。
菩提寺は浄土宗の玄忠寺(旧内之浦町)、不断光寺(鹿児島市)を当たることとしました。
鹿児島県は廃仏毀釈が激しく、殆ど浄土宗の寺は、廃寺となっていましたが、ほとんどが不断光寺の末寺で運誉上人により、1590年代に創建されており、廃仏毀釈の時、不断光寺に集められたのではと考えたからです。
しかし、玄忠寺は、住職不在の代行で、不断光寺は空襲等で市内の資料は残ってないとのことでした。

結局、収穫としては、
1.鹿児島市史3の寛永13年 薩州鹿児嶋衆中屋敷御検地帳より、長嶋次右衛門が新堀より上に住ん  でいたこと。
2.鹿児島御城下明細図 文政4年(1821)より、長島勘右衛門が西田橋通りの南に住んでいたこと。
3.鹿児島絵図(文政前後) 天保13年(1842)より、長島姓はなく、勘右衛門が
4.旧薩藩御城下絵図 安政6年(1859)より、長島姓は存在しなかった。
ということでした。

ここから、長嶌太吉は妻りわが1815年生まれであることから、1800から181数年の生まれと推測でき、天保12年にりわと結婚しているため、3.のときはすでに愛知県新城市川路にきている。
このようなことから父親が20歳で太吉が生まれたとすると3.のときは年齢は50〜60代、4.のときは70〜80となり、この流れから、もしかしたら長島勘右衛門が父の可能性があるかもしれない。
ということで何も進んでない状態です。でも、これが積分変化であり、この繰り返しで何か変化が起きてくるかもと前向きに考えています。

ところで、阿多倍と敏達天皇のひ孫(芽渟王の娘)が結婚して、長男筋が坂上、次男筋が大蔵、三男筋が内蔵ということでしたが、
1.阿多倍の妻の具体名は、判っているのでしょうか?
 続群書類従第5上の皇胤系図で芽渟王から繋がる娘は皇極(齋明)天皇で、他にはないのですが、阿多 倍王と結婚したのは、系図に出てこない娘なのでしょうか?

2.阿多倍の3兄弟のことも色々書かれていて、志努(坂上)、爾波伎(大蔵)、山木(山猪)(続群書類従第7の大蔵氏系図には山本)これらについてもご存じでしたら教えていただけますか?

 よろしくお願いします。


  [No.802] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/13(Sun) 15:34:22

長嶋さん 今日は

さて、鹿児島にご訪問されたのですね。
鹿児島はなかなか歴史資料が見つからないですよね。
でも大変な情報を掴みましたよ。

私の妻の実家の調査の時にも感じました。恐らく江戸初期前後と末期の薩摩藩に対する軋轢が強くあって歴史的な物に対する資料文献を隠蔽抹殺したと考えられます。言葉までも変えたくらいですからね。
そこで次ぎの事の推理は私も賛成です。
浄土宗の玄忠寺(旧内之浦町)、不断光寺(鹿児島市)
廃仏毀釈で浄土宗寺は廃寺、不断光寺の末寺
運誉上人により、1590年代に創建、
不断光寺に集められた。
そして、1234の事から「長島勘右衛門」がルーツ源であろうとする説も納得します。

と言うのは、長嶋氏(長島氏)は他氏と異なり中部以北では「関東屋形」と呼ばれ、秀郷一門の中でも最も勢力を高めた藤原一門361氏の中でも名門中の名門で江戸末期まで名籍族でした。
従って、九州大蔵氏系肝付氏族長島氏は薩摩に於いても別格の名籍であった事は間違いありません。
本家分家で構成されていて江戸末期まではある程度はっきりしていたと観られます。
ですから、あちらこちらに未勘氏族や第3氏族の長島氏が居たとは考えられません。特に奈良期から保守性の強い国で護られて来たのですから、先ずこの環境は存在したと見られます。
また薩摩には、保守環境からこの名籍を勝手に名乗る未勘氏族と第3氏族が生まれない環境でもあった事から極めて少ないのです。
依って本家分家は別としても、ルーツの可能性は極めて高いと考えられ、先ずご先祖であったと観られます。年代的にも納得できます。次ぎの長嶋氏の経緯からも納得できます。

九州長嶋氏の経緯
薩摩の長島氏の位置付けから考えて、寛永13年(1637年頃)の新堀の長嶋次右衛門、文政4年(1821)の西田橋通の長島勘右衛門は本家分家は別としてもルーツ源である考えます。

そもそも関東の長嶋氏は”「元寇の役後」”と記されているので1285年頃に九州大蔵氏と血縁し、大蔵氏系永嶋氏が発祥しています。
その後、青木氏の資料と家紋分析からこの永嶋氏が南九州を統括していた大蔵氏系肝付氏と室町期中期頃1400年前頃に血縁していて九州薩摩大隈の長嶋氏(長島氏)が誕生したとされています。
そして永正3年1507年頃に勢力を高めてきた島津氏と先ず長嶋氏が前線の高山城で先ず戦い始め、天正8年1581年頃に545年間を通した肝付氏と共に南九州を支配していたが敗退します。
この後、肝付氏と永嶋氏の長嶋氏はその直後に始祖の故郷の薩摩国阿多に移動し、阿多地方と大隈地方を与えられ島津氏の家臣となります。
尚、その後の慶長5年1600年の関が原の戦いで本家筋は戦死し衰退したと記されています。その後に末裔を承襲するとありますので、分家筋が残ったことを意味します。
「1590年代に創建」は島津氏の家臣と成った直後に建立した事に成りますので浄土宗の菩提寺を統一した事に成ります。その後に関が原が起こって本家筋が衰退し、1637年の分家筋の長嶋次右衛門が宗家を引き継いだことに成ります。
つまり、恐らくは長嶋氏は国を阿多と大隈に成った事から改めて肝付氏とは別に菩提寺を建立したことに成ります。そして新堀の長嶋次右衛門の分家筋が本家と成った事に成ります。
そこで1637年から1821年の間、つまり1と2の間の期間(184年間)の検証が必要に成ります。

この年数は長嶋氏の代数から考えて4乃至6代と成りますが、この時代は江戸末期までですから戦いもありませんので4代と観ますと、長嶋次右衛門から長島勘右衛門までの間には本家を継いだ分家筋に大きな変化は無かったと観られます。
又、一門の「右衛門」の「襲名」が継承されているところを見ると当時の慣習から同家と見られます。
分家の分家、分流、分派が「襲名」を名乗る事は出来ませんので同家の本家筋と成ります。
更に長嶋次右衛門の”次”の意味は本家筋を継承した時に使われる当時の慣習で”継ぐ”の意味を持っています。例えば本家の嫡子の長男が亡くなり次男などが本家の後を襲名した時に使われるものです。
筆者の家も本家筋の嫡子が亡くなり本家を次男が継いだのですが、”作次左衛門”名乗っています。これは当時の慣習です。”次男”の意味も長男が無く成った時に継ぐ者の意味なのです。
最近は本家分家の仕来りが無くなったために”二男”と書きますが本来は”次男”なのです。
関が原の戦いで本家の嫡子嗣子が亡くなり、結局、次ぎの分家の者が本家筋を継いだ時に使われる襲名形式の武家の法掟です。
この形式を使っている事から相当な武家の名籍の家柄を意味します。
次に長島勘右衛門の”勘”の字ですが、これも一つの意味を持っています。
未勘とか後勘とか使いますが、この”勘”は”後の定められた人”または”長男や嫡子の後継ぎ”の意味があります、
例えば「勘介」と云う名は「介」は「長官」に対して次に継ぐ者で「次官」を意味します。
平安時代の官僚の官位4段階(守、介、擾、目)のトップの「国司」の次ぎの代行して実際に政治を執り行う者を「・・介」と云います。国司の上が守護王ですが、守護は朝廷の仕事がある為に領国の管理を国司に委ねるのです。国司は2乃至4年程度で別のところに赴任するので不在時の実務はこの「・・介」が執り行う仕組みです。その官僚組織の呼び名のひとつです。現在でも同じ意味で使われていますね。
つまり勘介は家の主人の親に対して次に家を継ぐ嫡子だとしてこれを明確にしていた慣習名です。
と云う事は、長島勘右衛門は本家に成った分家が何代か後に、例えば4代として本家を継いだ長嶋次右衛門から観ると、先ず2、3とあって”4代目を夜叉孫の直系の”嫡男”が継ぎましたよ、本流の者が継ぎましたよ”と云う事を意味しています。「次」と使えばそれが本流と成った時に何時か「勘」と応えるのが慣習です。”最早本流ですよ”と世に宣言するのが慣わしです。
この事からも長島勘右衛門と長嶋次右衛門は同家の後継ぎ者である事が判ります。
尚、依って長嶋次右衛門から長島勘右衛門までは養子縁組などの変化は無く直系による男系跡目で引き継いできたことを意味します。
当時の武家筋の慣習雑学からこの様に判断が付きます。

さて、長嶋氏または長島氏は南九州を支配していた肝付氏一族の出自を分類すると3つに分けられます。
1 出自は明らかで本宗から排出した氏族 17氏
2 支流庶流に属しているがその出自は明確ではない氏族 5氏
3 同族の出自である氏族 12氏
4 不明な氏族 8氏
お家の長島氏または長嶋氏は3の12氏のトップに位置しています。
通名は一般に「兼・・」を使う慣習に成っています。室町期
この通名の「兼」は平安時代の5大官僚の一つ「伴氏」の通名で伴兼貞の子供の兼俊が大隈国肝属郡の「弁済使」(税などの管理管轄を取り扱う高級官僚)となって赴任し大蔵氏と肝付氏とも血縁をした事から、この一族は「通名」として兼を使う様に成ったのです。
家紋は三雁金紋が多い。

解明を進めなければ成らない問題は1842年から1859年までの長島氏の記録がない事に付いてどのように観るかと成りますね。
幕末ですが、これはお家の静岡の移動と関連するのではないでしょうか。
幕末に商いをしていたが静岡の移動は前回の推理に一致するのではないでしょうか。
静岡の移動で長嶋氏の記録は商いを中心とした家系になったことから消えているのではないでしょうか。九州長島氏は筆者の資料からは永承していると成っています。
この研究した資料は大正の初期の頃ですので大正時代までは現存している事を証明します。明治期には鹿児島には維新戸籍簿から確認出来ていたのではと考えます。維新戸籍簿は長島勘右衛門の本家筋のものに成ります。
と云う事は静岡の移動は本家筋の誰かが移動したことを意味します。
幕末の薩摩藩の事情を考えた場合は前回の筆者の推理になるのではないでしょうか。
このことを物語る何かの情報を掴む事で解決するのではないでしょうか。
一寸した事でも意外に繋がりますよ。雑学で。

次ぎのご質問ですが、
奈良時代から大化期に掛けて天皇家には「純血」を前提として現在から観ると「近親婚血縁」を繰り返していました。当時は天皇家の中では異母兄弟は姉妹は他人として考えられていました。
従って、この範囲での近親婚は当時の慣習としては当り前でした。
ただ、近親婚には遺伝的な「免疫性低下」とか「劣亜子」「優子」が隔世遺伝で産まれ子孫を遺す事には問題がありました。その為に、妻を4段階に分けて上位2位(后:きさき、妃:ひめ)までは近親婚とし、良い子孫を遺す事ができなかった場合に備え、同族の第3位の妻(嬪:みめ)の子供から皇族身分を継承させる仕来りです。更に、駄目な場合は別枠の第4位の「采女」(うねめ)つまり、妾子ですが、この子供から皇子順位を上げて行く仕組みです。
妥女は地方小豪族の娘を人質に女官隷として取りますので近親婚の弊害は無く成ります。
同族の第3位の妻(嬪:みめ)は大豪族の娘を第3位妻として取り入れますので同族ながらも血縁性では低く成ります。
そして、この上位3位までの子供は天皇家から外れてその母方にて育てられます。
妥女の子供も母方にて育てられますが、男子の場合は一定年齢に成ると天皇家に引き取られて皇子として育てられます。そこで皇子順位は母の身分の順にて決められます。
皇子順位が第4世内で第6位皇子に成った場合は臣下するか門跡の僧侶と成ります。第5世以下の皇子となった場合は侍として関東の守護警護として配置されます。第4世内の皇子は天領地の守護王として配置されます。
女子の場合は母方に預けられますが、上位2位までは皇女として扱われ天皇家外に血縁する事はできません。近親婚乃至は同族婚と成ります。血縁出来ない場合は斎王に成ります。
第3位と第4位と成った女娘は皇女が無い場合は皇女の列に加えられますが、そうでない場合は皇女外として扱われ皇族外と成ります。
この様に皇女と決められた以上は皇族外の者との血縁は純血範囲を守る為に皇族外の者との血縁は出来ません。
依って、ご質問は阿多倍一族は帰化人ですので、皇女との血縁は出来ないです。
ですから、”芽淳王の「女」”と成っているのです。「・・の皇女」とは記されていないのです。
つまり、第4位の妥女の子供を娶った事になり系譜上に現れない皇女では無い事を意味します。

次ぎに阿多倍に付いての事ですが、ご説明すると本一冊文にもなると思います。
そこで青木ルーツ掲示板や青木氏氏研究室の検索を使ってお調べください。
詳しくレポートしていますので、そちらをお読みください。
そこで 長男の「忘?直」(?は奴の下に手の漢字)で坂上氏で「阪上田村麻呂」が初代で朝廷軍の長官です。後漢から引き連れてきた阿多倍の職能武装集団の(漢氏や東漢氏の)自前の軍を持って陸奥を征討した初代の征夷大将軍です。これに対して天皇の親衛軍の六衛府軍を指揮していたのが青木氏です。皇族賜姓青木氏5家5流と秀郷一門の特別賜姓青木氏116氏がこれを務めました。
(「・・直」の直:”あたい”は官位身分です。)
次男の大蔵氏は「山本直」で朝廷の財政を担当していたもので九州の大蔵氏です。
三男が「波木直」で内蔵氏で天皇家の財政を担当していたのです。この一族は東北北陸奥州一帯に定住した豪族で末裔には阿倍氏や安部氏や清原氏等が末裔として有名です。
この阿多倍の子孫には「たいら族」で平清盛の太政大臣があります。
この阿多倍は伊勢国北部伊賀地方を伊勢青木氏(筆者の祖)より半国割譲して住んでいた。
ここが「たいら族」の故郷です。この阿多倍の孫娘の「高野新人」が伊勢青木氏の始祖の施基皇子の長男の光仁天皇の妻で桓武天皇の母親です。
阿多倍の事で読まれて判らないところはお尋ねください。

以上がご質問のお答えですが、お便りの情報は大変にルーツ解明が進んだと思います。
ルーツ解明はちょっとした事が当時の慣習などの雑学で判明します。


  [No.803] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/11/13(Sun) 22:24:46

福管理人さん、お返事ありがとうございます。

※芽渟王の女についての質問に対する分かりやすいお答え有り難うございました。
※大蔵氏に繋がる次男山本直については、ネットを見ていると山本、山本ではなく山木、爾波伎 と様々な記載があり、どれが本当なんだろうと疑問に思っていたので良かったです。


鹿児島での収穫からそこまで分かるのかと思い感動しました。また、
自分の推測が福管理人さんに賛同されたことも嬉しかったです。
長嶋家についてのお答えをドキドキしながら読ませていただきました。
その中で6点について個人情報的に問題なければ史料を教えていただけることは可能でしょうか?無理なお願いで済みません。

1.永嶋氏が南九州を統括していた大蔵氏系肝付氏と室町期中期頃1400年前頃に血縁してい  て九州薩摩大隈の長嶋氏(長島氏)が誕生についての経過。
2.永正3年1507年頃島津氏と長嶋氏が高山城で先ず戦い始めたということ。
3.敗戦後肝付氏と永嶋氏の長嶋氏はその直後に始祖の故郷の薩摩国阿多に移動したこと。
4.慶長5年1600年の関が原の戦いで本家筋は戦死し衰退したことについて。
5.長嶋氏が肝付氏一族の出自を分類で、同族の出自である氏族12氏について。
6.九州長島氏の大正時代まで永承していると成っていることに関する資料について。

6.についてですが、愛知県新城市川路に移った長嶌太吉高祖父は明治5年に亡くなられていて、本家に残る謄本は太吉から長嶋(旧姓杉浦)源吉への戸主変更として旧戸主への記載のみです。多分、謄本作成時には亡くなっており、鹿児島から籍も移されていないため、大正時代まで現存していたのではないのでしょうか。


  [No.806] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/15(Tue) 10:10:51

お便りのお答えお判り頂けましたか。
これでお家の長嶋氏のご先祖の生き様がより鮮明に成って来ましたね。
何よりで九州旅行は意味がありましたね。
私も青木氏の研究で色々と経験をしましたが、この様な積み重ねでデーターを集め推理し解析して少づつ前に進めて来ました。
貴方様の推理も要点を突いてなかなかの推理と感じ入りました。
さて、そこで更にお尋ねに成られましたのでこちら一層熱が入ります。

先ず、資料の件ですが、この史料関係は、筆者の南九州の歴史調査資料、大蔵氏の研究として個人提供された資料等であり、添書は完全な個人情報であり公開は出来ませんので特に大蔵氏と肝付氏関係は法に基づき公開する事は出来ません。
大蔵氏と肝付氏側が全面公開していませんので無理です。残念ですが信じて頂く以外にありません。
そこはお任せいたします。
さて、そこで、1から6のご質問ですが、応えられる範囲でお答えいたしましょう。
1の質問
前置き
青木氏の研究室の阿多倍に関するレポートにこれらの事は散在して記述していますのでそれをお読みになると大蔵氏の事が掴めます。散在して記述しているのは本サイトは青木氏である事と一括してまとめてレポートしますと法に抵触しますので、散在方式を採用しています。
もしネット上でも大蔵氏のレポートがあると思いますのでそちらをご利用ください。
ただ本目的の為に纏められた研究資料では阿多倍から大蔵氏までのレポートはないと考えられます。青木氏ならではの研究だと思います。
参考 研究室に本お答え内容は各所に記述していますのでお読みください。
主なレポート
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係

大蔵氏系譜の添書に書かれている内容から判明します。
大蔵氏の系譜で阿多倍より15代目に当る人物で長門権守で太宰大監で岩門少卿の「種輔」なる人物から種貞−種有−種資−種秀と来ます。この「種秀」が大蔵氏より母筋方実家先の永嶋氏(長嶋氏)の跡目を興しています。この人物が始祖と成ります。
そして、種秀−頼種から種有の弟の種嗣−義種−種親と来まして種親が頼種の跡目を引き継ぎます。
つまり、親戚筋より跡目を継がしたのです。
種親−種武より永嶋氏(長嶋氏)は継承されて行きます。 
種有で大蔵氏と血縁 元寇の役後 1285年頃
種秀で永嶋氏(長嶋氏)を相伝 大蔵氏系長嶋氏 1335年頃
種武で永嶋(長嶋)太郎を継承 北九州菊地氏と血縁 1365年頃(確認)

種親−種武(1330−1385) 室町初期 大隈国と前回に記しましたが更に確認して1365年頃が正しいと観ました。

此処より肝付氏系譜に繋がる。
種武の子(不祥)が肝付氏と血縁 1400年頃
兼行−兼貞−兼俊−兼重−秋兼−兼尚−肝付氏
兼重の弟の兼成−兼幸−「兼久」・・兼続26・・兼道29 1581年島津氏に敗北
兼成は大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と血縁 1410年頃
兼久が長嶋氏を継承し発祥 1507年頃 永嶋氏から長嶋と変名
兼道29が「関が原の戦い」にて死亡 1600年 (29は肝付氏代数)

以上が大蔵氏系譜と添書の年代、肝付氏系譜と添書の年代から繋ぎ合わせて検証するとこの時系列が出来ます。ただ大蔵氏の1400年頃と肝付氏の1410年頃は一致しないが添書のずれがあるとは観られますが不明です。(秀郷一門の資料より内容から観て関係する血縁内容が配慮されるので一部菊地氏の系譜添書を検証の為に参考にした)
 
23456は2つ系譜添書に書かれていて年代等は他の資料県史などと考察して検証したものです。
添書は出せませんのでご不信な時は県史などで確認してください。

5に付いても同様ですが、折角ですからその一族12氏を記述します。
この12氏は肝付氏と同族ですので、長嶋氏と幾つかの氏との血縁関係にある可能性があります。
長嶋氏を更に調査するには12氏からこの血縁氏を割り出しその氏のデータを採取すれば更に詳細に掴めると思います。長嶋氏は青木氏族の1氏ですがこの領域までは青木氏では困難です。
肝付氏の同族12氏
長嶋氏、薬丸氏、波見氏、小城氏、内之浦氏、榎屋氏、窪田氏、慶田氏、富山氏、二方氏、中村氏、山口氏(第2の枝葉氏は更に広がっていると観られます)

この内、幾つかは長嶋氏から母方筋の名籍を継ぎ「姓氏」が発祥したと考えられます。
丁度、大蔵氏の永嶋氏や肝付氏の長嶋氏の様に同じ継承で「部屋住み」が母方筋の名籍を継いだと同じ様にです。
詳しく調べてみないと判りませんが、この同族は家紋分析から長嶋氏の支流一族ではないかと観られます。
大蔵氏は「三撫子紋」が主紋ですが、撫子の変紋と雁金紋(九州)の変紋はもとより関東の永嶋氏の主要紋類の「丸に桔梗紋」、「扇紋」が第2枝葉まで極めて多い事から考察できるのです。
(長嶋氏の主家は三雁金紋)
本来、美濃、尾張、三河、遠江地域一帯に分布する家紋群であります。
秀郷一門の特に室町期の永嶋氏の家紋群が分布する地域のこの家紋群が日本南端の南九州にある事は如何に大蔵氏系一族一門との血縁が強く勢いあった事が判ります。
主に永嶋氏と長嶋氏がこれ等の名籍を嫡子外の嗣子の「部屋住み」に興させて行ったかが判ります。

6に付いてのご意見ですが、謄本と云うのは愛知の事ですか。
鹿児島大隈での現存と成っていますので、愛知ではないのです。
上記12氏にも成る長嶋氏がお家のご先祖の本家の勘右衛門さんだけの家だけでは無い筈で分家分流分派の傍系の支流一族も存在している筈です。
添書には”肝付の長嶋兼道なる者が島津義弘に従い朝鮮に赴き、軍功ありしが、慶長5年に遂に戦死しその本承は亡する”とあり、其の跡目は今尚ほ承襲して鹿児島にあり”と記されています。
別のところに添書には”その肝付氏族長嶋氏は他の諸氏同様に鹿児島にその系譜を伝えている”とあります。
本家筋の一部が愛知に移動したか、本家が愛知に移動したか、傍系支流が残ったかの何れかですね。
本家筋には鹿児島に戸籍を残したという事に成りますね。
上記の何れかが3つの資料から残っている事は確かです。

そもそも545年もの経歴を持ち官僚の血筋も持つ家柄にありながら肝付氏は資料が少ない事が検証探求が難しく成っています。恐らくこれは「廃仏毀釈」や「寺請制度の令」や「寺社上知令」で寺に保管していた資料が無くなったのではと考えられます。

長嶋さんの1から6までの様な纏められた資料は日本全国に於いてもありません。何れの氏にしてもこの範囲は全て研究領域です。添書内容などに関わる研究領域は法に基づきますますし公的に成っているものはめったにありません。そもそも長嶋氏自身の事に付いて青木氏の様にまとめられていないのですよ。
本お答え内容は添書や系譜や其の他の資料等の個人資料などを提供して頂き関係族として筆者を含む青木氏の関係者と極めて著名な数人の歴史研究家が長年にて研究したもので青木氏外には無い筈です。「青木氏族」に提供する目的と前提で管理人さんが本サイトを立ち上げられて公開しているものです。

以上、今までのお答えから資料を求められるのであれば、鹿児島の遺された「県史」や「地理考」等を求められて推理を働かせて調査をお願いします。

その際に調査方法や調査した内容に付いてのご質問にはお答えいたします。ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.810] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/11/27(Sun) 21:22:44

福管理人さん、有り難うございます。
お礼のお返事が遅れて済みません。
ネット、高山郷土史、喜入郷土史を見て色々と調べていました。
福管理人さんのお答えには心躍るばかりです。

種武の子(不祥)が誰で、1400年頃肝付氏と血縁これが、誰なのか、興味を引くところです。

大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と1410年頃、血縁している兼重の弟、兼経(兼成)(五郎九郎)
については、兄兼重が大きすぎるためか余り記載がなく、今後更に調べて行行ければと思いました。

長嶋兼道では、記載はないが、肝付兼道(兼護)として関ヶ原の戦いで亡くなっているとの記載があり、良兼が肝付本家を継ぎ、兼道自体は長嶋を名乗ったが、良兼の後、肝付本家を継ぐこととなったため、名前が出てこなかったのかなと推測しました。

兼久も肝付本家をついでおり、後継に譲り、長嶋を名乗ったのでは、とか勝手に想像を巡らせていました。

しかし、ひとつの結論としては、肝付本家の継いでいる人物が、長嶋を名乗っていると言うことから、肝付家と長嶋家は同等に近い位置にあると確信しました。

喜入郷土史より関ヶ原後、肝付家は本家継承ができなくなり、初代は伊集院家より、養嗣子として入った兼三以降は、本家継承に関わってこない分家兼連の兄弟兼光子孫が再興し現在に至っていることが分かりました。

問い掛けして頂いた謄本ですが、現在こちらで愛知に移住してから長嶌太吉から繋がる本屋から入手できた物で、戸主を太吉から養嗣子長嶋源吉に変更した時のものです。長嶌太吉についての記載は前戸主の欄にしか記載がものです。


  [No.811] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/28(Mon) 20:20:01

静岡の長嶋さん 今日は。
大変ご努力されている様ですね。
推理を働かして少しづつ前に進めて行くとほぐれた糸が解きほぐれてきます。
これが楽しいのですよね。推理が当った時の嬉しさはスポーツの勝利の楽しみと同じですね。

お家のルーツ解明の問題としては、今は不祥の誰が肝付氏と血縁したのか、何故不祥に成っているのか、この処を解明する必要が有りますね。
肝付氏は大蔵氏族ですから、大蔵氏側にヒントがあるのか、肝付氏側にヒントがあるのかと云う事の解明ですね。
何か事件性が感じるのです。肝付氏の長嶋氏の元祖が不詳に成っているのは何故か。後ははっきりと判っているのに。
何か問題を起して廃嫡処分等に成った事が考えられ、この時代は戦国時代でこの廃嫡が多く起っていたのです。
1継承者がこの時代を切り抜ける為の能力が無かった場合
2継承者が何かの理由で大蔵氏か肝付氏の何れかの人物にある場合
3事件を起して系譜から抹殺された場合
等が考えられます。
私は2の場合が強いと考えています。
この時代だけに背景に1と3も原因していたと観ています。

”兄兼重が大きすぎるためか”のお家の推理は当っていると観ます。
私と同じ考えです。
そこで、系譜の成り立ちを添書と良く見比べながら、この間ある推理説に付いて見直しで調べておりましたが、系譜に一箇所疑問のところを発見しました。それが次ぎの通りです。
次ぎの推理ではこの「不祥」とする点が解決します。

肝付氏側から見た場合
”「兼重」の1子の「周防守秋兼」を宗家の「肝付兼尚」の娘に養子に出し宗家の跡目とする”とあり、”この「兼重」の弟「兼成」の1子の「左衛門尉兼幸」を・「赤子」の時から養子に迎えて養い後に嗣子にした”としていますから、分家の自分の子供を、既に嫡子のある「兼尚」の宗家に出してその娘に養子とし同族血縁で跡目を継がし、跡目の無くなった自分は弟の部屋住みの「兼成」の「子」の「兼幸」を「子供」の頃から育てて養子にし自分の分家の跡取にしたと言う経緯があります。

上記の添書の”子供の頃から”と云う字句が問題です。
つまり、”始めの頃からこの宗家に対する戦略を練っていて実行した”と云う事を意味します。
それだけに「宗家に対する危機感」を有していて何とか「肝付氏」を護ろうとしていた事に成ります。
当然に現状の立場を保守しようとして宗家筋からは猛烈な反発が出る事は必定です。
その危機感は、「島津氏の台頭」と「宗家の無能」であったと観られます。
恐らくは、宗家筋から観た場合は分家筋からは「乗っ取り」と成るでしょう。かなりの内紛があった事に成ります。
故に「兼俊−兼重」側からは「系譜の不祥処置」や「長嶋氏(永嶋氏)の出自」で事態を納めようとしたと考えられます。現実に確固たる人物の跡目を据える事で”事態は一時納まった”と成ります。
但し、もう一つの危機の「島津氏台頭の件」は保守派と強行派との対立が再燃し、「高山城の戦い」で強行派の通りに火蓋は切られます。結局は「親子対立」の様相を呈する事に成ってしまったのです。
これでは、この時点で「兼俊−兼重」の立場は「悪者」「裏切り者」として扱われて無くなってしまう事に成ります。”系譜を消される”とは成らないが「不祥処置]は免れないでしょう。
後の肝付氏の一族一門からは逆恨みが「口伝」として伝えられていた事を物語ります。
事前に「兼俊−兼重」は島津氏との間で「裏工作」をしていた事が覗えます。
その証拠に「肝付氏敗退」では島津氏は肝付氏を阿多地域と肝付の領国を与え家老に抜擢したのです。そして、血縁関係を結んだのです。
これは島津氏が明らかに初期の「兼俊−兼重」の「血縁関係などの裏工作」を信じていた事に他成りません。下記に記す戦いの経緯でも兼久の高山の初戦から兼続26まで勢力を戻していますから島津氏は手を引いていた事に成ります。結局、29代で決着を就けて敗退するのです。

「兼尚」には妾子の嗣子が一人居た事が判っていますが系譜には「某」(不祥)としか出てきません。
添書には”若年にて早世”とあります。
恐らくはこの時代の厳しい武家の慣わしから「亜子」であった可能性があり、または「亜子」として扱われた場合や、廃嫡され場合に依っては充分に抹殺された可能性が高い事が考えられます。
「亜子」で無くても嫡子に価しないと観られた場合、或いは困難と観られた場合には抹殺されるのがこの時代の名門宗家の仕来りですから、当然にこの系譜の様に系譜上には「某」として扱われ「若年早世」とか書かれるのが「慣わし」です。
恐らくは545年以上も長期間一族を維持して来た事には、乱世に置いては並大抵の事では維持できません。同族結婚を主体とした「民族氏」の大蔵氏族ですから隔世遺伝で必ず「弊害子」が出てくる事は間違いは無く、その為に「妾子」を多く作るようにしている訳ですから、同族結婚からの弊害(亜子)が起っていた事が考えられます。
この宗家の「兼尚」も多少其の傾向を持っていた事が考えられ、宗家跡目としての力量に疑問が有って、分家本家の「兼俊−兼重」が一族の実権を握っていた事でそれを物語ります。
つまり、宗家の「兼尚」の存在が完全に無視されています。
此処では「兼俊−兼重」の宗家の代理として実権を振るっています。
それならば戦国の世の慣わしからすれば自分「兼俊−兼重」が宗家の跡目と成るのが当り前の慣わしです。然し、分家の侭に実権を握っているのです。

だから、此処が重要なポイントで、故に肝付氏ではなく「永嶋氏−長嶋氏」を名乗ったのであり、そうする事に依って、”一族一門の反発や不満を押さえ込んだ”と観られます。
”分家が本家を乗っ取った”とする本家側の勢力を交したのではないでしょうか。
重要なのは、「兼重」と「兼尚」の関係と、「兼成」−「兼幸」の養子の問題の事件性です。
この系譜が変です。
何故、「兼俊−兼重」は宗家を思うままにこれ程の実権を握っていたのかが先ず疑問です。
この4人の何れかが大蔵氏との長嶋氏(永嶋氏)の名籍を継いだ血縁者である可能性があります。
もしそうだとすると、「継承者不祥」の問題は解けます。
その4人の中で”最も可能性の高い人物は誰か”と成ります。
実権的には「兼重−兼成−兼尚−兼幸」と成るのではないでしょうか。
それに「秋兼」は妾子ですが、宗家の跡目にした事も変です。
本来であれば宗家の跡目となると正妻の嫡子と成ります。
恐らくは弊害子の出ない妾子で総宗本家を立て直す戦略に出たと考えられます。
故に「秋兼」は妾子でありながら、且つ分家でありながら、”周防守の職位”を得ており、「兼幸」は”左衛門尉の官位”と、本流宗家が継ぐ官位官職を持っています。既に宗家分家は逆転していた事と、「兼尚」に官職が無い事はそれ相当の宗家の能力が無い事を認めていて朝廷や幕府は認めていないことを物語ります。
実権は明らかに分家側にあり朝廷と幕府はこの状態を認めていた事を意味します。つまり本家にしか与えられないものが分家筋に与えられていた事から既に本家としての機能を果たしていた事に成ります。
更に、「兼俊と兼重」にも与えていない所からこの二人は別扱いとして分家であり、肝付氏とは異なる立場、つまり長嶋氏(永嶋氏)であった事に成ります。
子供の2人が与えられている事はこの二人は長嶋氏(永嶋氏)の出自でありながらも上記した宗家の跡目に入り肝付氏の宗家の身分と成った事で官位官職を得た事を意味します。

更には単純には官位官職は与えませんから、宗家としての実力能力が認められての事ですから、この実権を握れるには「兼尚」を抑えられる同族の中でも身分家柄で上位にある者と大蔵氏の背景を強く持っている物と2つと成ります。
もちろん実力も備わっての事ですから、「兼重」かその親である「兼俊」の「兼俊−兼重」の背景があります。
さすれば総宗本家の大蔵氏の背景があり何よりの宗家を牛耳るだけの実力の背景と成りますと「兼俊」か「兼重」と成ります。
もしこの2人とすれば説明がついている事ですから「系譜不祥」は解決します。
この系譜の添書に書き入れる必要が無い事に成ります。十分に「読み取れる人物」として考えられるに依って、後日”系譜を作った時に編者は書き入れなかった”と云う事に成ります。

「兼俊」か「兼重」かの問題ですが、年代数から観ると親の「兼俊」と考えられます。
実力を出せるのは「兼尚」の年代にあわせると「兼俊」の子供の「兼重」と成るでしょう。
兎も角も「兼俊−兼重」が長嶋氏(永嶋氏)の継承者と考えます。
もしこの肝付氏の中にもう一人の人物を入れるとすると、当時の平均年齢から見ると年数的に多少無理と成ります。
また、「兼俊」が長嶋氏(永嶋氏)の名籍を継ぎ肝付氏一族の中で発言力と実力を発揮するには先ず基盤を構築せねば成りません。直ぐに分家「部屋住み」の者が肝付氏宗家に発言するには一族一門は黙っていません。
そうなるとその基盤を基に何時の世も優秀であれば2代目の分家筋が強く成るのが必然で条理です。
一族一門を束ねる度量と器の人物が招き入れられるが戦国の名籍の条理ですから、そうなると「兼重」がその道を歩んでいますから考えられるシナリオですので矛盾は少ないし、「兼重」が分家である事から一致します。
仮に、ある人物が長嶋氏(永嶋氏)を継承したとして、系譜上に乗らない添書に乗らない人物とは戦国の時代での考えられるのはただ一つは一族一門の裏切りによる廃嫡です。
当然に系譜からはその系譜の編集者の個人的考えで名誉ある名籍の系譜から抹殺する事が起こるのがこの戦国の武家の系譜です。
では、「部屋住み」が長嶋氏(永嶋氏)の名籍の分家を興したのに裏切り行為で系譜末梢と成ると、当時、争いの火種に成っていて台頭して来た島津氏との関係です。
現実に其の後(兼久)に高山城で火蓋が切られています。

島津氏と政略結婚で平和裏に進めようとする派閥と戦いで決着を就けようとする派閥との争いと成ります。
迫り来る島津氏の勢いに対して、一族一門は協議を重ね戦略を如何するかの激論を交されていたと考えられます。
この時の兼尚の押さえ込みと兼重らの宗家の跡目問題等はこの時に起こっていた事件ではないかと考えられます。

そして、推理の域を越えませんが、「兼俊−兼重」派は平和裏に政略結婚を勧めて収めようとする派に成り、宗家に跡目に入れた子供の秋兼との間で意見の対立が起ったのでは無いでしょうか。
結果は宗家の戦い派が主導して行った事に成ります。
そのために肝付氏の系譜には長嶋氏(永嶋氏)の継承者が不詳扱いにされたのではないでしょうか。
然し、「不祥」扱いにしても添書から観れば”継承者は誰であるかは一目瞭然に判る様にしていた”と考えられます。編集者は引き継がれて来た「事件性のある口伝」をこの様に”工夫して系譜上に遺した”と考えられます。

恐らくは、545年もの続く名籍であり大蔵氏や藤原氏からすればからすれば800年くらいの超名籍ですから平和裏は少数派に成ると考えられます。
然し、実際はこの戦いから肝付氏は衰退を起します。

文書ではこの後にすぐに、”永正3年八月、島津忠昌(忠久より11代)当城(高山城 山元城)を抜かむとして攻め来る。城主肝付河内守兼久(長嶋氏の元祖)は密に志布志城主新納忠武に援を乞う。忠武不意に島津の営を襲う。忠昌利あらず、同十二月兵を収めて鹿児島に退く、・・・云々。と有ります。
又、二十六代の河内守兼続は「日向」(諸邑・諸県)を併せて兵勢盛なり。二十九代の左馬助兼道に至り、徐々に勢い衰え僅かに高山(一邑)のみを保つ至り、天正八年遂に島津氏に属して薩摩阿多に移る。その後・・・云々。”と有ります。

”邑”は村の意 「邑、村、郡、県」 長嶋氏(永嶋氏)の親族が集まって集団を形成していた証拠の地名が明記されていて、その地名は何と”一”と”諸”で一族の家柄を物語る地名にしています。”一つ”と”全て”ですから「分家」と「本家」か、「裔」と「祖」か等の意味として取れます。この意味からすると、日向は現在の地名が”諸県”で昔は”諸邑”なので「祖」であるとして「永嶋氏」で、高山の一邑は「末裔」(分家)の「長嶋氏」と読み取れます。現実に史実はその様に成っていますので、上記した異変の様子を明らかに物語ります。

この戦いでも新納氏は島津氏を裏切り攻めています。この様に肝付氏は大変な時期に成っていたのです。
この事から一族一門の意思を統一する為に長嶋氏(永嶋氏)の継承者は抹殺された事も考えられます。
むしろ、「長嶋氏(永嶋氏)の継承」も肝付氏を名乗る事を拒まれて自ら大蔵氏系永嶋氏から伊勢族の長嶋氏(永嶋氏)の名籍を後に名乗った事も考えられます。
故に、廃嫡で生き延びた末裔が長島氏、長嶋氏、永嶋氏、長嶌等の名乗りが興ったとも考えられます。
第3氏でない限り「氏の呼称」の乱れは何かを物語って見逃す事の出来ない要素と云えます。
中でも阿多では長島氏、肝付では長嶋氏、肝付との国境の大口付近から日向までは永嶋氏と成ります、
お家の静岡に移動した人は長嶌氏を名乗っているのも、後に本来の長嶋氏に戻したのもこの経緯から来ているのかもしれません。

鹿児島を離れ愛知に移動した事と商いに従事した事で「長嶌氏」とした可能性がありますね。
それを次ぎのお家の養子の方の時に明治維新にも成った事なので肝属の長嶋氏に戻したと考えられますね。上記する鹿児島の肝付氏の厳しい慣習が外れた事で戻したのではないでしょうか。

戦国時代に伝統あり超名籍の「氏呼称」の字句を変えるのはこの様な異変によくある事象なのです。
ただ名籍が歴然として永嶋氏から継承されて肝付氏の膝元に遺されている訳ですから、この場合は誰かを廃嫡された継承者の人物に代わって跡目を肝付氏一族一門は継承させている筈です。
これが、「兼俊」か「兼重」に成ると観ている訳です。
この2つの推理説の何れにしても「不祥」であって「不明」ではないのです。
何れにも、「兼俊」か「兼重」が無理なくマッチングします。

つまり後勘から観ての前者説や後者説にしても系譜編纂時の編者の思惑が働いていることを意味します。
実は、系譜偏集者不明です。 普通は書き記しとして”編集者”と ”後勘に問う”とか”後勘に備う”のが系編集の際の最後の字句が決まり事です。 手紙で「長嶋・・」と書き「敬具」とか「草々」と記す様に。
この決まりの印が無いのも変ですし、編集者が書き記し難かったと観られ、この事からも長嶋氏に「氏呼称」の乱れがあった事が明らかに覗えます。
事件性として「氏呼称」に最後まで尾を引いていた事が判ります。

そこでこの2つの推理説の確証的なものを探すために大蔵氏から検証したのですが、「種武」ですがこの「種武」周辺に何か疑問に成る点が出てこないか探っていましたが出てきません。
と云うのは、大蔵氏は南の一族の宗家が弱体して島津氏に侵蝕される事は戦略上好ましく無い事から種武の永嶋氏を分家側の跡目に入れて肝付氏の宗家の建て直しに差し向けた事が強く考えられます。
だとすると大蔵氏に何かの痕跡が残っている筈です。
案の定、有ったのは矢張り北と東の一族の強化策に出ているのです。
むしろ、大蔵氏は末裔の北九州の大豪族の菊地氏との関係に重点を置いている傾向が添書から読み取れます。
大蔵氏は南の同族の肝付氏と北の同族の菊池氏との戦略的な強い血縁関係を築こうとしていた事が読み取れます。当然に南の肝付氏も問題を持っていたのですから強化策を取ったと観るのが自然です。
そのキーの氏と成ったのが長嶋氏(永嶋氏)と菊地氏で有った事が読み取れますが、中には中部地域の佐伯氏や佐竹氏等とも血縁関係を深めています。
長嶋氏(永嶋氏)継承に関する人物は「種武」のみしか出てきません。
恐らくは肝付氏の中でも宗家(兼尚)より分家筋の「兼俊−兼重」の実力者を選んでいる筈です。
菊地氏も添書で観ると戦略的には何かある様で宗家筋は選ばず同様のようで実力者を選んでいるのです。

前回のお答え
種武の子(不祥)が肝付氏と血縁 1400年頃
兼行−兼貞−兼俊−兼重−秋兼−兼尚(−肝付氏) 
兼重の弟の兼成−兼幸−「兼久」・・兼続26・・兼道29 1581年島津氏に敗北
兼成は大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と血縁 1410年頃
兼久が長嶋氏を継承し発祥 1507年頃 永嶋氏から長嶋と変名

種武の子=兼俊→分家肝付氏の跡目 肝付氏の通名名乗る
兼俊→永嶋氏 肝付氏系永嶋氏の祖
兼俊−兼重−秋兼→肝付氏の跡目宗家
   −兼成−兼幸→肝付氏系永嶋氏の跡目
   −兼重−兼幸−兼久→肝付氏系長嶋氏の祖   

以上の跡目劇があった事に成ります。

次ぎに長嶋氏と肝付氏の名乗りの件ですが、長嶋氏は肝付氏から母方筋または養子先筋の名籍を部屋住みが名乗ったのですから、要は肝付氏なのです。何れを名乗るかはその場の状況に依ります。
兼久が肝付氏で名乗っている場合と、永嶋氏で名乗っている場合とがあります永嶋氏からすれば長嶋氏ですし、肝付氏を論じている資料では肝付氏を名乗る事に成るでしょう。
但し、本流筋のみの事です。傍系筋は出来ない慣習です。

例えば、藤原秀郷一門の長嶋氏や永嶋氏は例えば「長嶋・・」と名乗りますと、それは正式には「藤原・・」と名乗るのです。「藤原朝臣長嶋の・・」「藤原朝臣斎藤の・・」と名乗ることにも成ります。
肝付氏系長嶋氏であれば「長嶋・・」は「肝付・・」と名乗る事が許されているのです。
しかしこれも支流一族傍系は名乗れません。あくまでも本流の総宗本家−宗家−本家−分家の範囲での名乗りです。ですから、長嶋氏は肝付氏の宗家に跡目を入れる本流ですから、「肝付氏第・・代長嶋の・・」と成ります。ただ藤原氏を名乗る事が出来るかですが、九州長嶋氏の前に大蔵氏永嶋氏があり更には大蔵氏がありますので、藤原氏からは本流ではなく傍系と成りますので無理と成ります。
前回のお答えにも長嶋氏と書かずに肝付氏の代数を書き記しましたのはこの意味を持たすためです。

今回は以上の様に「不祥」としているのところの検証で更に見直しの調査をしていましたが、矢張り上記の「2つの推理説」しか出て来ませんが、自信はあるのですが「兼俊−兼重」の私説は超えませんでした。

これからの確証資料の発見が期待したいのですが、長嶋氏からは資料の遺産が少ない為に難しいかも知れませんね。
家紋分析からも試みましたが無理でした。
後は島津氏からの考察以外には無いと考えられますね。

ではまた何か有りましたらお尋ねください。


  [No.812] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/12/16(Fri) 00:26:21

福管理人さん、有り難うございます。
仰る通り推測し、少しづつ糸が解きほぐれ手来るたび、嬉しくなります。
これも、福管理人さんと出会う縁があったからと感謝しています。

 自分の御先祖様が、漢王朝の皇帝を輩出し、渡来し、阿智王の子、阿多倍王は茅渟王の娘と血縁を持ち、次男山木の子孫が、大蔵を賜姓し、隅広が大蔵の祖となる。その後大蔵氏は九州に定着して行き、鎌倉時代の元寇後、藤原秀郷一門の長嶋氏と血縁し、大蔵氏系長嶋氏生まれ、長嶋種武の不詳の子が肝付本家と血縁を持ち、宗家に関わってきた。
こんな凄いことはないです。
長嶋兼道が、関ヶ原の戦いで戦死後、本家は100石の藩士となったとあるが、長嶋次右衛門ー○ー○ー○ー○ー長島勘右衛門と受け継いできたとすると感動します。

その時代背景、大蔵氏としての戦略、肝付氏、島津氏の勢力争い、様々な因子を考慮すると福管理人さんの推理、なるほどと思いました。

また、ご意見を伺いたいので、宜しくお願いします。
1.高山町郷土史の肝付氏の系図を見ますと兼重の父は兼市となっていますが、福管理人さんの文を読んでいると兼重の父が兼俊と取れたのですが、兼市が変名し兼俊となったのでしょうか?

2.大蔵種秀の不詳の子が肝付兼尚ということは考えられないのでしょうか?
これについては、最初にメールした時に『城壁の前で頭を下げる家老風の上下姿の侍』といった先祖供養時の情報を記載しましたが、何の因果か、さらに遡って、大蔵氏の供養をすることとなったのです。馬鹿なと思って、聴いて頂いて良いのですが、その供養をして下さった巫女さんはこんなことを言ってました。
・楼船に乗って、黒い服を着た皇帝と呼ばれる人座っており、傍に二人の女官が扇を持ち立っている姿。
・その子孫が皇族の妾の娘と血縁を持ち、大蔵氏となり、その子孫が長嶋だよ。
と驚いてました。
色々と話して下さった中に、福管理人さんの返信して下さった文章を読んでいて、ぞぞっと寒気がしたのです。
供養をする前から言っていたのですが、お城が見え、殿様とお姫様がいて、
その中で家老衆の中、筆頭家老的存在で、その人達に指示する家老がいて、その人、長嶋さんの先祖だよ。お姫様は、その人の娘だよ。と言ってたんです。これは、返信して頂く前の話です。
そこで、筆頭家老→肝付兼尚、殿様→肝付秋兼、お姫様→兼尚の娘、そして兼尚または父兼藤が肝付氏と血縁を持った長嶋種秀の不詳の子なのでは、と推測したのです。
兼藤の『藤』もきになりまして。

3.関ヶ原の戦いで、長嶋兼道が戦死して、その後肝付本家は衰退したが、実質的に兼幸で肝付本家は終焉を迎えた。その後肝付本家は100石取りの藩士として存続した。とネットを見ていると記載されているのですが、武家商人となったためと考えたらよいのでしょうか。
そして、世の中の安定した江戸時代でも石高をみて、すべて判断されてしまうのでしょうか?

よろしくお願いします。


  [No.813] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/12/16(Fri) 10:16:31

長嶋さん 今日は 

さて、早速ですが、
1番目の問題ですが、兼俊-兼重と兼市−兼重に付いて
私の資料源は肝付氏宗家の系譜そのもので、これに添書が付いていまして其処から検証しながらその系譜の信憑性を確認しています。
世間に出ている系譜はこの添書なるものが普通は出ません。事件に発展しますので付かないのです。
郷土史はどの資料かが判りませんが、兼市なる人物が出てくる可能性は色々な事が考えられますが、先ずその前提は何なのかです。”何故永嶋氏を肝付氏に入れてきたか”と云う事が前提に成る筈です。要するにこの時代の背景です。
「島津氏の台頭」と「肝付氏の衰退弱体」と九州での「大蔵氏基盤の強化」です。
前回のお便りにも書きましたが、戦国時代の最優先の課題戦略です。
それには政略血縁が用いられるのがこの時代の常道です。この前提は崩せません。
そうなると肝付氏の宗家の兼尚が弱体であった事が添書から史実として判ります。
ここに永嶋氏を直に跡目に入れると肝付氏となり永嶋氏は消えてしまいます。
史実、肝付氏系長嶋氏派は3家に成って拡大しています。
仮に後で永嶋氏と長嶋氏の継承を末裔がするとして「時代性」が後ろにずれて一致しません。
結果として、戦略的に肝付氏の宗家・本家筋目の分家筋に入れて永嶋氏・長嶋氏を継承させる事に成ります。長嶋氏が残る前提では無理と考えます。
兼俊はこの肝付氏宗家筋の分家の跡目に入り、先ずは肝付氏の通名を名乗った事に成ります。
この時に兼市なる人物が存在していたとすると、
1 兼俊が実父 兼市は養父(或いはこの逆)
と成ります。
兼俊の実子の兼重を養子の形で宗家に育てさせていた。その後は前回の説に成ります。
兼市は肝付氏の宗家筋の系譜には出て来ませんので、同一人物の可能性もありますが、2つの通名を使う可能性は低いと考えられます。長嶋として跡目を継承するのですから。
兼重が子供の中でも優れていたので事実は肝付氏宗家を動かすに至った程の人物であったのですから、一時、長男ではない兼重を分家に養子に出していたが育ち方から観て宗家を動かせる人物として戻して跡目を取らした。そして肝付氏宗家を側面から動かして立て直した。それだけに宗家は弱体化していた。
2 宗家系譜の思惑と、宗家筋からの系譜の思惑の違い
この時の状況が前回でも書きましたが宗家との間にゴタゴタがあった。
よって2の系譜偏纂に違いが出た。
と観ます。要はその前提です。

次ぎに100石ですが、この石高では武家では生活は困難です。普通最低で農業をしながら200石前後です。この石高は扶持米と観ます。
宗家に血縁のある家が商人などに成り出入りする時はそれに対して扶持米を出します。恐らくはお家は長嶋氏で血縁族であり「出入許可」の「御用商人」で「元家臣」で「経済的な事」を荷っていた時に出す「礼扶持米」のものです。
この石高の事でお家がどの様な立場にあったかが良く判ります。
以前のお便りの「こけら屋」の役目が証明できています。
普通の「出入り商人」では無い事が判ります。5人扶持程度かと思います。
 
肝付氏宗家本家が島津氏の明治維新まで有名な家老ですし、島津氏の家臣と成った時は長島の阿多地域と大隈の肝属郡の元の領国を本領安堵されていますので、肝付氏系長嶋氏としての家臣にしては100石は間違いです。何かの理由があります。遠戚分家筋の長島氏か長嶋氏の間違いではありませんか。

そこで、郷土史に付いて、郷土をよりよく見せる為に搾取とまでは行きませんが郷土の為に偏纂が実に多いのです。それはその編集の前提が搾取偏纂した氏の資料を基に編集されている事から起る間違いなのです。100%と信頼を置くかは自由ですが都度検証する必要があります。

次ぎに江戸時代は石高をその人の家の身分家柄の前提と成っています。
武士は上記した様に200石程度以上でこの石高では極貧です。これ以下は足軽程度です。共に半農半漁の生活と成ります。これが武士の基準と成ります。
青木氏のレポートでも各所にこれ等の事に付いて記述していますが、当時の平侍のレベルです。
例えば、柳沢吉保は徳川氏に仕官した時の石高は150石でした。その実父らの生活の様子が記録されていますが極貧で内職と農業でカバーしないと生きていけないレベルです。

100石のお便りはその意味でここから「扶持米」である事が判ります。普通当時は100石が扶持米の石高の基準でした。この時代から「2足の草鞋策」の「こけら屋」を採っていた可能性もあります。
商人ですと家族5人分として5人礼扶持米程度を与えられます。その関係する内容にも依りますが。
例えば、藩の勘定方は武士には弱いので豪商などの指導を藩は依頼します。この時に家臣ではないので扶持米として顧問料として出します。
お家は「こけら屋」として長嶋族としてその呼称から藩の勘定方の相談役か藩の年貢の裁役の商人や経理の実務や雑務請負などその一切を荷っていた事が云えます。今で云うと経理士か税務士か財務士等のコンサルタントの役目として指導していたと考えられます。
大きな藩はこの様な商人の指導を受けて藩財政の切り詰めをしていたのです。

因みに、筆者の先祖は「2足の草鞋策」で伊勢松阪の紙問屋の豪商でしたが、8代将軍吉宗が伊勢松阪で紀州徳川家の家老の加納家で育てられ、この加納家と加納屋と筆者先祖とは何度も血縁関係にありそのために吉宗を育てたのです。そのために吉宗が将軍に成った時に依頼されて江戸に赴き享保改革を勘定方として実行し、紀州藩に於いても勘定奉行として采配を振るったのです。
この時に家臣ではないので礼米として「十二人扶持」を受けたと記録されています。
この様に礼扶持米の制度があったのです。御用商人は石高ではなく地位と利権が大きい事が云えます。
藩の御用商人や豪商はすべて元は武士、或いは「2足の草鞋策」を執っていました。

お家の「2足の草鞋策」の始めた時期を特定すると更にルーツの詳細が判って来ると考えます。
100石はその情報かと観ます。

追伸 三河国珀海郡渡村に長島仁左衛門なる人物が江戸末期にいた事が判りましたが、お家のルーツ関係する人ではありませんか。

ちょっとした事がこの様に細部までご先祖の様子が判って来ます。
また何か判りましたらお便りください。


  [No.823] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2011/12/27(Tue) 00:48:33

福管理人さん、ありがとうございます。

種武の不詳の子が兼俊の推測の件、100石が扶持米である件よくわかりました。

『三河国珀海郡渡村に長島仁左衛門なる人物が江戸末期にいた事が判りましたが、お家のルーツ関係する人ではありませんか。』の提供情報ですが、調べてみました。

結論から言いますと私の家とは関わりなさそうです。
高祖父長嶌太吉の墓には、太吉、りわ、もう一人、戒名:玅雲如用禅定尼という女性が一つの墓跡に入っていて、その方は、天保13年12月21日卒であるためです。このときには、三河国南設楽郡信楽村川路(愛知県新城市川路)に住んでいることになります。

三河国碧海郡渡村は愛知県岡崎市渡町であり、渡城趾に長島氏家譜という石碑があります。
ネットで渡城を調べると
※「仁安二年に熊野新宮別富十九代行範は平氏を拝領し、鳥居法眼と呼ばれた。行忠の代に故あって三河に移り、名を渡里傳内忠氏と改めた。八世忠景は渡利新左衛門と称して新田義貞に仕えるも、新田氏衰運の後、渡利村に戻り、鳥居藤左衛門と名を改めた。忠景七世の重央には男子が無く、伊勢長島城主福島家の弟の忠則を養子とし、後、長島姓を名乗る」とありました。

※1167年「承久の乱」の後、平氏を祖とする鳥居中務が紀州熊野を追われ、移住して城を築いたことに始まる。天文年間(1532〜1554年)、17代忠吉は松平宗家7代清康、8代広忠に仕え、その子元忠は家康に仕え、1590年家康関東移封に伴い、下総国矢作城4万石へ移った。その後、鳥居氏は代々当地に残り、本家は〔途中、嫡子が無く、養子姓を名乗り〕長嶋氏に改め、分家〔隣宅〕は鳥居氏を名乗った。現在は長嶋氏宅に土塁が残り、入口に城址碑、隣宅には鳥居氏発祥地の石碑が立つ。

とありました。実際、その場所に行ってみましたが、家譜の内容は前者の通りでした。

ついでに岡崎図書館で、長嶋家に養嗣子に入った、長嶋源吉(旧姓杉浦)について調べていたところ、長嶋家御用日記という岡崎藩御用達の長嶋藤八という人物が見えましたが、文政の時に帯刀と名前を授かったとの記載があったためこれも関わりないことがわかりました。

源吉については岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』との記載がありました。また、明治9年鍛埜村に杉浦源兵衛がいて源吉の兄と推測しています。子孫らしき方も定住しているような様子です。
もし、明治3年に太吉長女とめと杉浦源吉が結婚しているため家紋の掟で三つ雁金紋から丸に根笹に変紋したその後、明治以降に嫡男ができているが、家紋の掟についての知識がなく、家紋を戻さなかったのではないかと考えられないでしょうか?高祖父太吉は明治5年に亡くなっています。
そのためには、杉浦の家紋が根笹であればですが..





『肝付氏系長嶋氏派は3家に成って拡大』とのことですが、種武の不詳の子であろうと推測される兼俊の筋、大蔵氏系長嶋氏と血縁した兼成の筋、もう一筋は何方になるのですか?


  [No.824] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/12/27(Tue) 11:08:43

長嶋さん 今日は。

お便りありがとう御座います。

さて、三河の長嶋氏の追記の件は判明しましたね。

見つける事も必要ですが、潰すことも歴史の検証には絶対必要ですね。

確か、伊勢の長嶋氏の調査の時に記憶ではありましたので追記いたしました。記憶が定かではありませんでしたが判って良かったです。熊野氏子衆の中で源平のどちらかに組むかで争いが起こりましたが、この時に平家側に味方する事を主張したグループが一門から何人かが外れました。
確か長嶋に移動した事は判っていまして鈴木氏のレポートにも書きました。
そうですか、長嶋から三河に移動していましたか。
然し、御家とは全く疎遠ではありません。お家は永嶋族の伊勢長嶋氏の名籍を引き継いでいることに成りますので、大蔵氏との血縁時は伊勢長嶋氏から入ったことに成りますからね。

”何故、お家が江戸末期に三河や愛知の移住なのか”の疑問1は現在のところ「商いの説」が有力と成っていますが、私にはそれたけではない気がするのです。
当時の慣習から青木氏も同じなのですが、矢張り伊勢の長嶋氏の「何かの所縁」があって移動定住していた事も考えられるからです。
永嶋氏は伊勢までその勢力を伸張してきましたので、九州で長嶋氏を名乗った以上は名籍の宗家筋を頼る事は充分にあり得た事だと思います。
青木氏も同じ事が起こっていますから。
まして、「長嶌氏」から「長嶋氏」にこちらで養子になられた方が変更していますよね。何故変更したのでしょうか。疑問2です。
養子には色々な養子の形があります。
お家の養子の形がどの形なのかが原因している気がします。
そこを解明すると元ルーツ名籍源の伊勢長嶋氏にたどり着くのではないでしょうか。

その意味で何か繋がっている気がしましたので前回のお便りとしました。

商い以外に移動した事と変名した事のこの2つの疑問1と2は何かで結び付いていると感じます。
突然に南九州から幕末から維新に掛けてに三河、静岡、愛知に移動するのは無謀であり何かの縁を頼ったと見るのが普通ではないでしょうか。

次に3つのルーツの件ですが前々回11/15にお答えしていますが、兼久です。
殆ど肝付氏の本家の長嶋氏にこの時は成っていますが、添書では兼久は突然に長嶋氏に1506年頃に変名しています。この流れです。最早、肝付氏そのものの長嶋氏と云うところですね。

(この時が最も肝付氏が弱体化して体をなしていなく完全に長嶋氏が代替して支えていたので兼久は長嶋氏を全面に押した時期であった。そしていよいよ島津氏との高山城の戦いに入った。この時は肝付氏では家臣は最早誰も付いてこない為に戦えなかったと観られる。史実、時系列的に最も弱くなっている。だから島津氏が攻めて来たのです。)

兼俊、兼成、兼久の3つのルーツが後に拡がった事に成りますね。
兼久の元の長嶋氏へ名乗り変えは前後経緯から凡その原因は判りますが、お家の由来としてこのあたりもはっきりとさせて後世に伝え置く必要がありますね。
宗家肝付氏に跡目を入れているので元を正せば同じルーツに成りますが。

実は、次ぎの様に考えているのです。
この事と前記の2つの疑問には何か伊勢長嶋氏の何かの意向の様なものがあったのではないでしょうか。商いを通じて繋がりを伊勢宗家と持っていた或いは持ったと考えているのです。
肝付氏=長嶋氏と成っている絶大な勢力事から島津氏の幕末の政治的駆け引き上から繋がっていたと観ています。小さい長嶋氏ではないのですからね。島津氏に執っては肝付氏=長嶋氏なのですからね。
つまり肝付氏は「名義の家老」、長嶋氏は「陰の家老」なのですからね。商人に成った経緯はこの辺にあると見ています。幕末の島津氏の状況を反映していると観ているのです。動きやすいですよね。
そして、伊勢長嶋氏は関西では実力者の家柄、その力を利用しない訳はありませんよね。
藩の代行の商人であれば。
意外に西郷隆盛と繋がっている事もありますね。彼はそのような仕事を肝付氏(長嶋氏)と相談しながら動いたのですからね。その肝付氏は長嶋氏ですからね。西郷隆盛は長嶋氏と相談していた事に成る筈です。彼は江戸と京でその面識を広めているのですからね。
お家も西郷隆盛と同じように幕末を暗躍していた事も考えられます。
だから、伊勢長嶋は見逃せないのです。

この根拠は2つありまして、一つは「長嶌氏の変名」と「100石の扶持米」です。
前回お便りの時のこの「扶持米」で納得できました。
”何故、長嶌氏に変えて活動していたのか”と云う疑問です。
薩摩の長嶋氏は、肝付氏=長嶋氏ですから、暗躍する時は”薩摩藩の「影の家老」が動いている”と目立ちますし、商人に成ったので変えたが維新に成り元に戻したと考えられます。
「100石の扶持米」はただ藩に関係すると云うだけでは貰えません。少なくとも元家臣である事です。
相当に藩との関わりが無くば受けられないものなのです。まして藩の財政は危急しているのですからね。
そしてその額は下級藩士200石以下の額とするのが、慣習でその関わり内容に依っても異なりますが100石は相当の関わりを持っている事を意味します。通常はあまり公表しないものなのです。
貰う方は100石の額には大した意味を持っていません。「扶持米」を受けていると言う事の意味があるのです。つまり、「扶持米」を受けていて100石も受けていたとすると、上記する様な「影の役目」を荷っていた事を意味します。大きな藩はこの「影の人物」を多く抱えて暗躍するのです。これが当時の兵法戦略なのです。「影の家老」として幕末には暗躍していたのです。
当然にこの「扶持米と偽名」は一対に成っています。お家はこれに「こけら屋」の呼称を使っているのです。
先ず間違いはないと考えます。

>明治3年に太吉長女とめと杉浦源吉が結婚しているため家紋の掟で三つ雁金紋から丸に根笹に変紋したその後、明治以降に嫡男ができているが、家紋の掟についての知識がなく、家紋を戻さなかったのではないかと・・。

この件ですが、お家の判断が正しいです。
実は明治維新後この家紋掟が緩くなったのです。
家紋掟は江戸期以前は武士の慣習でしたが、維新3年と8年の苗字令に基づき庶民は苗字と家紋と寺を持ちました。国民の九割がこの家紋を持ったために武士階級の仕来りは完全に崩れました。
現在でも家紋は変わらないと思っている人が殆どです。家紋に限らず寺の仕来りやお盆や正月や仏壇や墓の仕来り等も全て九割の家では守っていないようです。
この事は武士階級の仕来りでしたから当然の結果ですが、大体家紋で元が武士であるかは判りますが、私の知る範囲では武士の家であった家紋は厳格にこの仕来りを現在も守っているようです。昭和の初期まではこの習慣もある程度知られていました。
この事で元が武士であったかは判ります。
江戸期中期以前は色々な資料から観ても厳格に守られていたようです。崩れ始めたのが江戸中期後の幕末の頃からです。武士の力が弱くなって行った時代からです。
特に戒名を見ると一目瞭然です。これはお寺がこの仕来りを今でも厳格に守ってきたためにこの仕来りで判断出来るのです。いろいろと掲示板でお便り頂くとこの矛盾が見えますのでよく判りますよ。
家紋と宗派と土地で殆ど判別できます。

次ぎに根笹紋は以前の書きましたように仁木氏と桜井氏の家紋ですが、明治以降墓は泥岩から大理石に変わって行きましたので墓に家紋を刻む習慣が起りました。消えないと言う事からですが、杉浦氏の墓所を確認されたら如何ですか。墓でなくても杉浦氏の多く集まる村や地域の墓所でも良いと思います。
地域的に桜井氏の様に根笹紋の多い所ですから可能性は高いと考えられますね。

上記の2つの疑問と家紋の疑問の3つを解明するか或いはその可能性の高い推論をストリー性を持たして纏めて後世のルーツの根拠として書き記して置くと良いのではないでしょうか。後世の者にとってはこの様な雑学史実でもロマンに結び付き何か心温まる遺産に成るのではないでしょうか。
筆者は人間は「知恵」と云うものを持った以上「何がしかの伝統」を持たなくては心を安寧にし癒す事は出来ない動物であると信じています。持論の「知恵−知識−伝統」の理論として。

その為には青木氏氏のサイトはご協力を惜しみません。

では又お便りをお待ちしています。


  [No.825] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/01/16(Mon) 22:29:00

今日は、福管理人さん。

長嶋家に養嗣子に入った旧姓杉浦源吉高祖父について調べていますが、なかなか上手く進まないものですね。同じ『源』のつく方のものを訪ねたのですが、繋がりはありませんでした。しかし、杉浦姓の集まった集落なので、いろいろお話は伺えることができました。また、『杉浦源吉』の名が掘られたお墓も見つかりましたので、次に繋がる事ができました。お墓には2つの戒名〇〇院〇〇〇〇居士、〇〇院○〇〇〇大姉があり、明治初期の卒、御影石のものでした。家紋が掘られてなかったのが残念でした。
本家に以前源吉の関係のものといって訪ねている事を聞いているので、そこからも何か解ってくるかもしれません。杉浦氏の関係、岡崎市渡町の長嶋氏、から伊勢長島家との繋がりも出てくるかもしれませんね。あと、松平久松長島家がネットにあり、そのお家も気になっています。

ところで、前回のお話で、『兼久』辺りのところもしっかりと検証しておくことが重要であるとのアドバイスを頂いたのですが、
1.ネットや高山郷土史をみていて、気づいたのですが、永嶋から長嶋に変名した『兼久』は1473年生〜1523年卒、『兼連』が1471卒と記載されており、親子ではないように思われたのですが、この辺りの情報は正しいのでしょうか?

2.また、長嶋を名乗っていた『兼道』が、関ヶ原の戦いで戦死し、嫡男『兼幸』は「慶長15年、島津家久が尚寧を連れ上洛、兼幸も家臣として同行する。ところが帰国途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は船と運命を共にし溺死した。享年20。兼幸は結婚しておらず、そのため子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって完全に断絶してしまった。」とネットを見ていたら記載がありましたが、この辺りは如何なものなのでしょうか?

3.そして、肝付系長嶋氏の『兼道』筋が途絶えたとしたら、寛永13年薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳にある『長嶋次右衛門』は、『兼久』の『兼興』以外の子、『兼親』、『兼洪』の筋、追放された『兼亮』の子の可能性も考えられるのでしょうか?

また、藤原秀郷主要5氏のレポートの長谷川氏のところで、大蔵氏と結城系長嶋氏の血縁についての仮説が報告されていましたが、
1.大蔵種資の娘と『種秀=重房』が血縁し、『種頼』にも嫡男が無く、種頼の娘と大蔵種親を養嗣子として迎え、女系の掟で大蔵系長嶋氏が発生が有力なのでしょうか?

2.結城系永嶋氏で、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
『行光』以降に−房重−重忠−重国− 永嶋から長嶋となり、最初に長嶋とした『重行』の『重』を通り名となったのでしょうか?

3.また、伊勢に移住し、伊勢長嶋氏は何方からなのでしょうか?

質問ばかりですみません。よろしく、お願いします。


  [No.826] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/01/17(Tue) 13:52:47

>長嶋家に養嗣子に入った旧姓杉浦源吉高祖父について調べていますが、なかなか上手く進まないものですね。同じ『源』のつく方のものを訪ねたのですが、繋がりはありませんでした。しかし、杉浦姓の集まった集落なので、いろいろお話は伺えることができました。また、『杉浦源吉』の名が掘られたお墓も見つかりましたので、次に繋がる事ができました。お墓には2つの戒名〇〇院〇〇〇〇居士、〇〇院○〇〇〇大姉があり、明治初期の卒、御影石のものでした。家紋が掘られてなかったのが残念でした。
>本家に以前源吉の関係のものといって訪ねている事を聞いているので、そこからも何か解ってくるかもしれません。杉浦氏の関係、岡崎市渡町の長嶋氏、から伊勢長島家との繋がりも出てくるかもしれませんね。あと、松平久松長島家がネットにあり、そのお家も気になっています。

一つ判りました。それはお家の杉浦源吉さんの御先祖は武士であった事です。
それは明治の始め頃に戒名が「院殿居士・大姉」である事です。普通の武士でもこの「院殿居士」の戒名はなかなか付けられませんし相当に金を積まないと付けて貰えません。
特に女性の戒名が大姉と成っていますのでご先祖を読み取る事が出来ます。
戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。
墓石ですが御影石は明治後の風習で使われる様に成りました。
それまでは泥岩か砂岩の墓石でしたので立てられた方が大分後に成って立てられたことが判ります。
家紋が刻まれていないとの事ですが、普通は「院殿居士」を刻んでいるので家紋は刻みますが既に明治半ばには家紋の伝統が忘れられていた事が判りますね。
杉浦氏のご本家の家紋を調べられると良いと思います。源吉さんはご本家ではない様ですので。
ご本家の墓石の先祖累代の墓石の下に刻まれている筈です。

>ところで、前回のお話で、『兼久』辺りのところもしっかりと検証しておくことが重要であるとのアドバイスを頂いたのですが、
>1.ネットや高山郷土史をみていて、気づいたのですが、永嶋から長嶋に変名した『兼久』は1473年生〜1523年卒、『兼連』が1471卒と記載されており、親子ではないように思われたのですが、この辺りの情報は正しいのでしょうか?

この辺が難しいのですが、武家社会の本家筋では実子が子供と云う事にはならない場合が多いのです。本家を継ぐと云う事では実子が無ければ縁者や妾子から迎えて跡目を作ると云う努力が最大の勤めです。別の氏から養子を迎えれば家紋も変わりますからなんとしてもあの手この手を使って縁者遠縁から迎える努力をします。場合に依っては本家に子供を出しても分家に跡目が無く成ってでも本家筋を保ちます。ですから場合に依っては本家筋の跡目の問題では父親が2人も3人も居る事が起こります。現に兼重の時にはその現象が起こっています。嫡子が妾子では妾子の汚名を消す為に色々な細工もしますので父親が多く出てくる事に成ります。中には兄弟が親の位置に来る事もあります。
名籍であれば有るほどこの現象が起こります。永嶋氏−長嶋氏−長島氏−肝付氏と渡っていますから父親とする者が複数で出てくる事は充分に起こります。「兼連」なる人物がどの父親なのかを特定すると更にルーツが紐解けてきます。ルーツを探る場合は父親は一人と云う考え方は捨てるべきですね。出てきた父親を探る事でルーツは開けて行くのです。
従って、「兼連」をお調べに成る価値はありますね。

>2.また、長嶋を名乗っていた『兼道』が、関ヶ原の戦いで戦死し、嫡男『兼幸』は「慶長15年、島津家久が尚寧を連れ上洛、兼幸も家臣として同行する。ところが帰国途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は船と運命を共にし溺死した。享年20。兼幸は結婚しておらず、そのため子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって完全に断絶してしまった。」とネットを見ていたら記載がありましたが、この辺りは如何なものなのでしょうか?

上記の通り、「断絶」の定義を何とするかですが、肝付氏は元々永嶋氏−長嶋氏から跡目を入れての物ですから、その後も幕末後も肝付氏は養子を取り継承されていますから「血筋」で絶えたする定義は名籍では難しいと考えます。そんな定義でくくれば全ての家は絶えていますよ。そのネットは現代感覚で過去を評価すると云う間違いを起していますね。過去の評価は過去の感覚で評価する必要があります。それが「歴史」なのです。ネットの評価はこの間違いを良く起しているのです。今から観た評価が殆どです。明治以降の契約社会と氏家制度の社会とは評価する基準がもともとが違うのです。
「過去の感覚」はそれなりの雑学勉強が必要ですそれで評価するべきです。
もう一つのネットの「歴史」の間違いは、”ある範囲の全体の「時系列の流れ」の中でその「事象」を観ていない”と云う間違いです。3つ目の間違いは「通説」を正として論評している所です。通説は常に正しいとする前提ではありません。この3つの事を念頭に「ネットの論評」を読む必要が有ります。

>3.そして、肝付系長嶋氏の『兼道』筋が途絶えたとしたら、寛永13年薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳にある『長嶋次右衛門』は、『兼久』の『兼興』以外の子、『兼親』、『兼洪』の筋、追放された『兼亮』の子の可能性も考えられるのでしょうか?

2の通り名籍は何処で途絶えたとするかは難しい判断です。長い間でこの様な跡目のやり取りをしているのですから完全に純潔を保って来たとする家は無いと考えます。天皇家でも平安中期まではこの「純潔方式」を採用してきましたが、結局は名籍の最高位でもやりくりで跡目を継承して来ています。
幕末の肝付氏は娘に長嶋氏外の縁者遠縁から養子を取って継承していますから血筋や実子で名籍を完全に繋いでいると云う感覚は違うと思います。名籍宗家では以外の子供であっても実子であるかは別の問題です。

>また、藤原秀郷主要5氏のレポートの長谷川氏のところで、大蔵氏と結城系長嶋氏の血縁についての仮説が報告されていましたが、
>1.大蔵種資の娘と『種秀=重房』が血縁し、『種頼』にも嫡男が無く、種頼の娘と大蔵種親を養嗣子として迎え、女系の掟で大蔵系長嶋氏が発生が有力なのでしょうか?

種資と種秀は兄弟ですが、種資に子供が居なく弟の種秀が跡目を継承し息子の頼種が先ず跡目を継承します。しかし頼種も僧侶と成った事から伯父の孫の種親に跡目を譲ったのです。
種親の父親の義種は塩頭氏に養子に入っています。その養子先から長嶋氏の跡目に入ったのです。
この場合系譜上からは父親は義種、頼種、種秀もいる事に成ります。
女系ではありません。

>2.結城系永嶋氏で、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
>『行光』以降に−房重−重忠−重国− 永嶋から長嶋となり、最初に長嶋とした『重行』の『重』を通り名となったのでしょうか?

少し違います
兄の「行重」が永嶋氏 弟の「重行」が長嶋氏 しかし「重行」はその後に秋山氏に養子に入ります。依って長嶋氏は兄の次男の「吉清」が継承します。その後に「豊重」(永嶋氏)−「重行」−「豊行」(長嶋氏)−「行勝」−「豊兼」−「豊信」(長嶋氏)
この「豊信」の弟が永嶋氏を継承します。・・・
「重」が通名ではありません。「豊」です。
長嶋氏の前に長島氏があります。長島氏を最初に名乗ったのは「行重」の父の「行長」です。

>3.また、伊勢に移住し、伊勢長嶋氏は何方からなのでしょうか?

伊勢の長嶋氏は元は長島氏で後に長嶋氏に戻します。
最初の「長島氏」は始祖は「・行長」です。・・その後、各地の同族から跡目に入っています。
長島弥五郎重正の子の重国−重宗が長嶋氏を名乗り、弟の「行重」が伊勢長島を継承します。
そもそも伊勢は秀郷第7世孫 「・成行」−家綱−有綱−有房(広高)−有長−有家−家高(・永嶋氏)−寛安−寛利−利武−・・
「成行」が始祖です。九州に長島と長嶋と永嶋の3つの名乗りがあるのは此処から来ています。
長島は伊勢から発祥しているのです。故に南九州では3つの長島氏の跡目の呼称があるのです。

以前にも記述しましたが、ご本家に遡ってお調べにならないと応えは出て来ません。杉浦氏はご本家の家紋です。戒名が見付かっていますからご本家に到達できる筈ですのでお調べください。伊勢の長島氏とは直接のつながりは無理だと思いますが何かある筈です。

ここからが推理を働かせて頑張ってください。家紋変更、氏名変更、何故静岡の土地の3つですね。


  [No.827] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/01/19(Thu) 22:36:03

福管理人さん、ありがとうございます。
福管理人さんのアドバイスを参考に少しずつですが糸をたぐっていこうと思います。
また、ネット情報は当時の時代背景を考え、しっかり見極めてみます。
すみません、また2点教えていただきたいのですが、

1.『戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。』
とのことですが、なぜその文字を使ったかとか調べられる書籍、戒名の付けるための辞典
で良いものがありましたら教えて頂けますか?

因みに、戒名を下記に示してみました。

 妻 りわ 戒名:南延如善信女(文化15年−明治31年卒)
長嶌太吉 戒名:本庭英心信士(?−明治5年卒)
 不明   戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年卒)
<太吉高祖父の墓石には、右より3名の戒名が刻まれています。>

長嶋(旧姓杉浦)源吉 戒名:本姓良源信士(弘化元年−大正2年卒)
  妻(太吉娘) とめ 戒名:春嶺妙旭信女(嘉永2年生−明治32年卒)

源吉父  戒名:紫金院釋清光淨智居士(?−明治9年卒)
源吉母  戒名:最勝院釋希有妙昂大姉(?−明治13年卒)

2.大蔵氏が女系の掟ではなく、長嶋氏を名乗らなければならなかった理由を教えていただけるでしょうか、また、嫡流として大蔵氏を名乗っている末裔も見えられるのでしょうか?

よろしくお願いします。


   


  [No.828] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/01/20(Fri) 11:26:22

>1.『戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。』
>とのことですが、なぜその文字を使ったかとか調べられる書籍、戒名の付けるための辞典>で良いものがありましたら教えて頂けますか?

>因みに、戒名を下記に示してみました。

> 妻 りわ 戒名:南延如善信女(文化15年−明治31年卒)
>長嶌太吉 戒名:本庭英心信士(?−明治5年卒)
> 不明   戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年卒)
><太吉高祖父の墓石には、右より3名の戒名が刻まれています。>

>長嶋(旧姓杉浦)源吉 戒名:本姓良源信士(弘化元年−大正2年卒)
>  妻(太吉娘) とめ 戒名:春嶺妙旭信女(嘉永2年生−明治32年卒)

>源吉父  戒名:紫金院釋清光淨智居士(?−明治9年卒)
>源吉母  戒名:最勝院釋希有妙昂大姉(?−明治13年卒)


長嶋さん 今日は。

さて、早速ですが、戒名の件ですが、戒名は俗世でのその人の「生き様」を表現したものが彼の世の名前となります。戒名は寺が付けてくれるものですが、檀家寺や菩提寺で「院殿居士」が最高の戒名で「院」が付きその「院」の中に「殿」が付き「居」が付き最後に全員に「士」が付きます。
例えば、源吉さんの父親の戒名は「院」が付いています。「院」はその人の「一つの世界」を築いた事を意味します。俗世で平たく言うとその「生き様」としてどんな職業にしても立場にしても"一つの道を究めた"事を意味します。源吉さんの父親は「紫」と「金」の道や世界を切り開いた事を意味します。
そうすると、この「紫」が持っている語意と成ります。「紫」は最高のその「道の階級」を意味します。
例えば、「紫綬褒章」の文化勲章がありますがその道を極めた人に授ける勲章ですね。
色では最も最高の色を言います。僧侶の袈裟の色では「紫衣」です。
次ぎに「金」です。「金鵄勲章」です。または金メダルです。
この「紫と金」で「地位と名誉」を修得した人ということに成ります。例えば政治家や高級官僚や実業家などであった事を意味しています。
そのような「院」につまり世界に俗世では生きていた事をこの3つの文字から分かります。
次ぎは「殿」の部分ですが「殿」は「院」の中の更に「小単位な世界観」を意味しています。
源吉さんの父親は「殿」がありませんが「殿」の部分には清、光、が書かれています。
これは「院」の内容をより具体的に説明したもので、その「生き様」の成した「地位と名誉」は清く照り輝くものであったとしています。
つまりあくどく「地位と名誉」を獲得したものではなく、つまり「資質剛健」の生き様であったとしています。
次ぎに「浄、智」ですが、その「資質剛健」の生き様は「浄」と言う字は奈良時代の階級の中の上から2番目の階級を意味します。この「浄」は貴族か皇族でも上位に位置するものが授かるもので「大」と「広」に分けられ更にそれぞれを2つに分けられます。
仏教では人として社会に対して「最高の功績」があった人が授かる「尊い字句」の意味合いを持っています。
源吉さんの資質剛健のレベルは最高のレベルであった事を説明しています。そして、「智」はその知能、知識の「智」であって、仏教での「智」は人としての「本来あるべき行い」の語意を持つ字句です。
"人格者(智)であった"と言っています。
このことから源吉さんの父親の寺は菩提寺であった可能性が極めて強い事が伺えます。
「資質剛健」と「浄智」の語の裏意は「立派な武士」であったと言っているのです。
"その武士は上級な「官僚」ではなかったか"と観られます。
つまり、「立場のある家柄」から婿を取った事を意味します。

長嶌太吉 戒名:「本庭英心信士」に付いては普通の戒名ですが菩提寺ではなく檀家寺であった事が判ります。
静岡の地元で昔は「庭」は豪族で奈良期の第7世族の皇族であった「坂東八平氏」の一つの「大庭氏」の事でその流れを汲む事を匂わしている戒名と観ます。
商いから何か関係を持っていたことが考えられますし、この戒名からこの源吉さんの実家との養子縁組に九州から出てきた太吉との間に「何か意味」がある事が分かります。
現在の戒名と違い昔はそのルーツがその人の彼の世のステイタスをも意味させていたのです。戒名にはその事を必ず読み込んでいた慣習がありましたのでそこに着目してもルーツを紐解くことが出来ます。
但しその人の履歴管理をしていた菩提寺と成ります。
太吉さんは詳しくは南九州の菩提寺がなくなっている事になりますからこの「庭」しかありませんね。
英と心はその人の「生き様」または「人となり」を主に表します。「英」の心を持った人言う事になります。
「活発な人」と言うことではないでしょうか。太吉さんの奥さんは"「善」の如くての人であった"「心根のよい人」であった事になると思います。
根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。

特に戒名の辞書でなくても広辞苑などからでも分かります。
その「字の語意」と「歴史雑学」と「仏教雑学」を組み合わせればその「周囲にいた人」が理解できる内容にして読み込んでいるのです。源吉さんの実家の本家に辿り着けば「周囲にいた人」の話が聞ける事もありますよ。墓石にこれだけの戒名がありながら家紋がない事から消えているかもしれませんが。外部の者から観てもこれだけの事が判りますからね。
これだけの寺での戒名があるところから観ても家紋もあった筈ですね。

>2.大蔵氏が女系の掟ではなく、長嶋氏を名乗らなければならなかった理由を教えていただけるでしょうか、また、嫡流として大蔵氏を名乗っている末裔も見えられるのでしょうか?

前回でも記述しましたが、大蔵氏が長嶋氏を名乗らなければならない理由は沢山ありますが、多くは部屋住みの者、つまり嗣子の中で嫡子外の者が「別分」がないときに宗道に入る必要がありますが、この時に「別分」があり大蔵氏外の家を興す必要に迫られた時、特に嗣子の中でも妾子の場合は大蔵氏を名乗れるかどうかは宗家の許可が必要になります。分家筋の妾子の場合は「別分」などに不利が多いので母方や養子実家先の縁の氏を実家先に頼んで後見人になってもらい援護を受けて名乗り興す事に成ります。その者が優秀でなければこのチャンスもなくなりますが。
恐らくは元は永嶋氏でその流れの中で長嶋氏-長島氏が発祥した事が判ります。
名乗る以上はその経済的、軍事的に裏づけが必然的に必要ですから大蔵氏から得られなければ実家先からの援助が必要となりますし、その力を借りて周囲を戦いで切り開く必要が出てきます。
いろいろなパターンがありますので一概には言えませんが前回のお答えしましたが、大蔵氏の場合は大蔵氏の九州での戦略的意味合いと永嶋氏の勢力伸張の背景から一族の中での分家筋の跡目の両方が絡んだことであると系譜添書から判ります。何もなければ分家筋では他氏の跡目の口もそうあるわけではないので宗道となるでしょう。宗道から戻ることだってありますからね。
大蔵氏の場合は同族の肝付氏との関係強化も大いにあった事と考えられます。島津氏の伸張からの背景が強かったと考えられます。添書から観ると菊池氏等との関係を同時期に更に行っていますからこの同族固めの背景があったと考えられます。特にこの時期は肝付氏は弱体化していましたからね。


大蔵氏は正常に枝葉を大きく今でも広げています。永嶋氏や長嶋氏や長島氏には大蔵氏を名乗っている事はありません。逆ルートですからね。よほどの事でなくてありませんね。大蔵氏の枝葉は大きいですからのこの中に跡目がなくなる事はありませんでしょうし、名乗る以上は経済的、軍事的な背景が必要になってくる訳だし大蔵氏の枝葉一門が黙っていませんね。
ルーツは1本ではありませんよ 枝葉で広がっているのですからね。永嶋氏、長嶋氏、長島氏でも同じですよ。

杉浦氏の本家から何かつながりが読める事が判りますね。
太吉さんの家紋は前記した根笹紋の2氏かこの大庭氏の根笹紋から来ている事もありますね。
太吉さんの父親か誰かかも知れませんが。
一度調べられたらお便りください。


  [No.829] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/01/22(Sun) 21:52:40

福管理人さん、ありがとうございます。


・杉浦氏の本家から何かつながりが読める事が判りますね。
・太吉さんの家紋は前記した根笹紋の2氏かこの大庭氏の根笹紋から来ている事もありますね。
からも調べてみます。

『根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。』
太吉高祖父の奥さんの旧姓は『牧野』といいます。なので、大庭氏との関わりは無いかと思われます。
りわ高祖母の父は、戸籍には牧野喜平との記載がありました。

気になっているのは、 太吉さんを真ん中に右にりわさん、左に禅定尼さんが墓石に掘られているのですが、不明の戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年12月卒)です。

巫女さんの話によると、この方が、御簾越しでは話すような、位の高い方で、太吉さんを慕い、飛び出してきたとのことでした。その巫女さんに対し『お主らとは、身分が違うのじゃ』をおっしゃられたそうです。太吉さんの店で女将をし、病気で身を引き尼となり、亡くなったとのことでした。
その店には、口を布で覆った錦糸の入った袴を着た武士が出入りする姿も見えたそうです。
りわさんとは、子を残すために結婚しているねとのことでした。
これをどう考えるかは、解りませんが、自分としては、糸口になればと思っています。

太吉さんとりわさんは、亡くなる年、天保13年3月に結婚してます。(りわ27歳、娘とめを34歳で生んでいる)

本家から数十メートルのところに智教院という尼寺があったそうです。明治に廃寺となっているのですが、昭和の初めまで、尼さんが守っていたそうです。


長嶋(旧姓杉浦)源吉は、本姓ではなく本性でした。すみません。 
戒名:本性良源信士(弘化元年−大正2年卒)

「坂東八平氏」の一つの「三浦氏」から「和田氏」→「杉本氏」→「杉浦氏」となっているのでそちらとの繋がりで、大庭氏と言うことはないでしょうか?

鹿児島市史の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」寛永13(1636)年に長嶋次右衛門という方が、新堀より上に住んでいた記載について、以前触れましたが、鹿児島県史料集「薩陽過去帳」32頁、芝の皿子町にあった大円寺(江戸)のものに、肝付次右衛門(戒名:露巌良体居士)元禄11(1698)戌寅年七月卒がありました。やはり、長嶋姓ではないので、同一と考えるのは難しいですよね。
鹿児島県史料集「薩陽過去帳」には、92頁に肝付十右衛門(戒名:円山了覚居士)明和6(1769)巳丑年9月卒、『右衛門』では亡いのですが、肝付吉兵衛(戒名:活獅龍騰居士)元文2(1737)年11月卒我の記載されていました。
鹿児島城下絵図 文政4(1821)に長島勘右衛門とともに肝付五右衛門という方も住んでいるので、そちらの関係なのかななんて考えたりもします。肝付家の添書にはこの方々は存在しているのでしょうか?

よろしければ、教えてください。


  [No.830] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/01/23(Mon) 11:44:15

長嶋さん 今日は。

さて、早速ですが、ご質問にお答えします。


>根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。』
>太吉高祖父の奥さんの旧姓は『牧野』といいます。なので、大庭氏との関わりは無いかと思われます。りわ高祖母の父は、戸籍には牧野喜平との記載がありました。

大庭氏の件ですが、少し歴史雑学から違っていますよ
「庭」には仏教用語としてほかにいろいろな意味を持ちますが、この場合は大庭氏の事を暗示しているのではと観ています。
そこで、大庭氏は奈良期から平安初期に掛けて発祥した数少ない珍しい「氏」の一つで、皇族は奈良期初期までは天皇が代わる度に広がる皇族を第6世までを皇族として制限していました。大化の改新で第4世族までとしました。従って、第7世族以降の元皇族は、臣下して「武家」を形成して坂東の守護に配置される慣習に成っていました。これらの「臣下族」に対して「ひら族」(平族)と賜姓して皇族から一挙に切り離したのです。
この「融合氏」(青木氏のレポート参照)は20−40くらいしか平安初期にはありませんでした。これが「坂東八平氏」(第7世族以降の賜姓の臣下した武家族の平族の事 桓武平氏の「たいら族」とは異なる)この「坂東八平氏」の一つが「大庭氏」の「氏」です。一段下の「姓氏」ではありません。

例えば、秀郷一門の「藤原氏」は361氏ありますが、佐藤氏や伊藤氏や工藤氏や斎藤氏等色々ありますが、これ等は「藤原氏」と云う「氏」で括られ、この下に「姓」が発祥して枝葉の末裔が広がります。
以前書きました様に肝付氏も42氏にも枝葉末裔は拡がっていますよ。
日本にはこの広がり方には幾つかのパターンがあります(研究室のレポート参照)
現在、「氏」と言っているのは殆どは「姓氏」の事です。氏名、姓名がある様に氏が大きくなると姓氏も生まれて来ます。
「姓氏」にも藤原氏の様な縁者の「姓氏」と阿多倍一門の様な配下の職能集団の「姓氏」もあります。(海部氏等)
「坂東八平氏」の様な「皇族血縁族」の「氏」の枝葉末裔の「姓氏」もあります。
因みに、その中でも本サイトの「青木氏」が「氏の発祥源」なのですが、「青木氏」は「第2世族」の「第6位皇子」の「賜姓臣下族」の「武家の発祥源」で、その為に「姓氏」を発祥させない唯一の「融合氏」の「基氏」なのです。
大庭氏はこの数少ない「氏」の「氏名」(姓名ではない)です。
この「大庭氏」から数多くの「姓氏」が鎌倉期以降に枝葉末裔が出ています。
お家が云う「牧野氏」もこの「大庭氏」の枝葉末裔の「姓氏」であるかも知れませんね。
牧野氏の枝葉を調べると判りますよ。例えば、鎌倉執権の北条氏もこの枝葉末裔です。
太吉さん関係者か源吉さん関係者がこの大庭氏に繋がる何かを持っていたとしたら、一つのストーリーが生まれる可能性があります。

それは幕末九州長島氏か長嶋氏か永嶋氏であって商人としてこの地域に島津藩の者として来て活動するには長嶋氏等を名乗る事は三河は松平氏の膝元で危険であり商人として来ているのですから名乗りは変える必要があり、「綜紋」の「三雁金の家紋」も危険です。この結果、70年近くの間に忘れ去られた可能性があり、そこで維新後その危険性が無くなり3年8年の「苗字令」によりもとに戻すことを源吉さんは決断したが、長嶋氏は元に戻せたが家紋は不明か消失したために源吉さんの実家先の家紋か太吉さんの奥さんの実家先の家紋を使用したと考えられます。その家紋先が地元名籍の大庭氏に繋がる家紋を採用した方が得策だと言う事に成ったのではないかと観られます。肝付氏一族一門長嶋氏の綜紋は三雁金紋ですが、お家の長嶋氏の家紋が果たして「綜紋」を引き継ぐ宗家筋であったか証明するものがなく判らなかったし、まして「商家」に成っている以上は「家紋消失」と考えて「根笹紋」にして源吉さんルーツか太吉さん奥さんのルーツの長嶋と根笹の2ルーツ名乗り変えをしたと考えられます。
いずれにしても戒名から長嶋氏宗家筋などを示すものは「菩提寺等」ではなく「院殿居士」も無い等戒名にはそれを超えるものは見当たりません。まだ時代の慣習は10年もたっていないこの時期にこの戒名ですので無理だと思います。宗家筋の者で祭られる過去管理をしていた菩提寺に戒名付けや分骨や永代供養などの作法習慣もしていない事になるので源吉さんが採った手続きは納得できる行為と見ます。
このためには源吉さんは太吉さんの戒名には「庭」にし、自分の戒名にもそれを読み込んだとすると納得できます。

>気になっているのは、 太吉さんを真ん中に右にりわさん、左に禅定尼さんが墓石に掘られているのですが、不明の戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年12月卒)です。
>太吉さんとりわさんは、亡くなる年、天保13年3月に結婚してます。(りわ27歳、娘とめを34歳で生んでいる)

「・・禅定尼」とは主に未婚の子供・幼児の女子に付ける戒名の判別用語です。「妙」と云う幼名の故人と見られます。
つまり、生まれて間もなく死んだ、或いは死産や水子に付ける戒名です。一つの墓石を造りここにこの様な人を集めて祀る墓石です。何処の氏にも設けるものです。最近はこの風習は無くなり全て「・・家先祖累代の墓」の一つの墓石に集めて弔う傾向があります。
以前は墓所の片隅にこの墓石を設けて分けて弔う習慣がありました。

>「坂東八平氏」の一つの「三浦氏」から「和田氏」→「杉本氏」→「杉浦氏」となっているのでそちらとの繋がりで、大庭氏と言うことはないでしょうか?

その可能性も否定出来ません。詳しい事はご本家の「周囲の人」が知っている筈です。


>鹿児島市史の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」寛永13(1636)年に長嶋次右衛門という方が、新堀より上に住んでいた記載について、以前触れましたが、鹿児島県史料集「薩陽過去帳」32頁、芝の皿子町にあった大円寺(江戸)のものに、肝付次右衛門(戒名:露巌良体居士)元禄11(1698)戌寅年七月卒がありました。やはり、長嶋姓ではないので、同一と考えるのは難しいですよね。

長嶋氏は肝付氏が基氏ですので、その人の肝付氏の本流の流れに近い人、本家筋の人の場合は長嶋氏を名乗らず、上格の肝付氏を名乗る事が慣習に成りますので、難しい判断と成ります。
まして前回で肝付氏は長嶋氏と同格に成るほどの家格ですので、基氏を名乗る事が強いと考えられます。何せ長嶋氏は藤原秀郷一門の関東の族ですからね。大蔵氏の民族氏の強い南九州では、実質血縁では同格に成っていても、氏から観たら関東から見たらトップの氏の格ですが、九州の大蔵氏の圏域では1段か2段も下に成る氏の格と観られます。
従って、名乗りは本家筋の者は肝付氏を名乗る事に成るのは必然です。
例えば、斎藤氏としますと齋藤氏は秀郷一門のトップクラスの家格ですが、イザ公の場で名乗るときは齋藤では迫力がありませんから、藤原氏を名乗る事に成ります。
従って、昔は「藤原の朝臣 齋藤の・・」で氏と身分官位官職家柄全部を名乗る事に成っていたのです。簡単に「藤原の・・ 斎藤の・・で御座る」と。

史料がどちらを選ぶかによると思います。上記した様に「氏」とするか「姓」とするかの扱いの問題ですので同一であるかを調べる必要があります。
青木氏の様に枝葉末裔がない氏もありますが、藤原氏や大蔵氏や肝付氏等の「氏」は大きな枝葉末裔の「姓」を持っていますので、注意が必要です。
資料の意味合いに依って何処の処を名とするかはその資料の目的に依ります。
検地帳では検地の目的からは戸籍と税の関係ですから長嶋氏と成りますね。
史料集だと逆に肝付氏と成りますね。
日本の歴史は氏などの慣習に関しては深く入り組んでいますから何時の場合も必ず歴史に関してはその資料の内容如何に依りますのでそこを考察される必要がありますね。

>鹿児島県史料集「薩陽過去帳」には、92頁に肝付十右衛門(戒名:円山了覚居士)明和6(1769)巳丑年9月卒、『右衛門』では亡いのですが、肝付吉兵衛(戒名:活獅龍騰居士)元文2(1737)年11月卒我の記載されていました。
>鹿児島城下絵図 文政4(1821)に長島勘右衛門とともに肝付五右衛門という方も住んでいるので、そちらの関係なのかななんて考えたりもします。肝付家の添書にはこの方々は存在しているのでしょうか?

添書では肝付氏の本流に関わった人が記載ありますが、この幕末の時代の所に関しては筆者は添書には詳しくはありません。
戒名が異なる事が一つの判別手段ですので、昔は上級武士以上は寺や神社が戸籍や経歴管理を担当していましたので法名や寺等から判別する事が必要です。
上記の2人の人物は戒名から観て肝付氏でも支流・傍系の枝葉末裔の人で別人ではないかと見られます。

歴史を紐解く事は丁度、クイズだと思います。周りにある要素と自分が持つ雑学を駆使してどの様にクイズを解くかを頭を働かせるものだと私は思います。
”「周りの要素」をより多く集め、「自分の雑学」を如何に広げるか”にかかって来ますね。

現在では氏も姓も同じものと観られていますが、昔の氏家制度の中でははっきりと社会習慣の中では区別されていたのです。契約社会の現在感覚で過去の社会を観る事は大した意味を持ちません。
「氏」には出所の違う色々な特長を持つ「氏」、「氏」では無く「姓」も出所や特長の違う「姓」があります。
これ等の雑学は青木氏のレポートに記述していますが、ルーツを紐解く場合に於いてはこの雑学の介添えや習得が無ければ殆ど紐解く事は困難です。
青木氏に関しての範囲からですが、この雑学は研究室等に記述していますので是非に参考にしてください。
今もシリーズで雑学の論文を投稿しています。
では又お便りください。


  [No.831] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/01/24(Tue) 22:35:37

福管理人さん、ありがとうございます。

坂東八平氏、資料の意味合いに依って何処の処を名とするかはその資料の目的による長嶋氏、肝付氏の表記の違いの解説、今後、御先祖様、ルーツを紐解いていく中で参考に行きます。
また、戒名によっても、宗家筋なのか、支流・傍家なのかということが解るのですね。

今回のお答えで2つ疑問に思ったのですが

→源吉さんは太吉さんの戒名には「庭」にし、自分の戒名にもそれを読み込んだとすると納得できます。
 
太吉:本庭英心信士
源吉:本性良源信士

源吉さんの『本性』の部分が読み込んでいると言うことでよろしいでしょうか? 



→ 「・・禅定尼」とは主に未婚の子供・幼児の女子に付ける戒名の判別用語です。
つまり、生まれて間もなく死んだ、或いは死産や水子に付ける戒名です。一つの墓石を造りここにこの 様な人を集めて祀る墓石です。何処の氏にも設けるものです。最近はこの風習は無くなり全て「・・家先祖累代の墓」の一つの墓石に集めて弔う傾向があります。

「位号」の表わす意味は、以下の通りです。
成人男子:大居士・居士・大禅定門・禅定門・清信士(善士)・信士(清浄土)など
成人女子:清大姉・大姉・大禅定尼・禅定尼・清信女(善女)・信女(清浄女)など
男の子供(十五歳くらいまで): 童子・大童子・禅童子など
女の子供(十五歳くらいまで):童女・大童女・禅童女など
男の子供(四、五歳以下): 幼児・嬰児・孩児など
女の子供(四、五歳以下): 幼女・嬰女・孩女など

禅定門・禅定尼
 仏門に入ったとの意味があり、禅定とは心静かに瞑想して、真理を見極めること、あるいは悟りの状況そのもの指す。戒名で禅定門がつけられるのは禅宗だけではなく、女性に対しては禅定尼がつけられる。また、禅門・禅尼、大禅定門、大禅定尼という呼称もある。
戒名のランクの中ではその位置付けは難しく、居士・大姉の下、さらに信士・信女の下にされることもある。特に禅宗系寺院以外ではこの傾向が強いようだが、禅宗系寺院でも禅定門・禅定尼が再下位になることもある。しかし、大禅定門・大禅定尼となると院殿号と併用されることが多い。
融通念仏完においては禅定門、禅定尼の位号がけられるのみで、戒名におけるランクは全くない。
禅定尼
在家のまま仏門に入り剃髪した女性。出家せずに、在俗のまま仏教に帰依した人。

などから、檀家寺勝楽寺が曹洞宗で、禅宗系であるため、墓石を見た時、成人女子と考えたのですが、未婚の子供・幼児の女子に使う『童女』を使わず、『禅定尼』も使われるのですか?


  [No.832] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/01/25(Wed) 12:15:09

長嶋さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。

さて、先ずは次ぎのお尋ねですが、
>太吉:本庭英心信士
>源吉:本性良源信士
>源吉さんの『本性』の部分が読み込んでいると言うことでよろしいでしょうか? 

前回お答えいたしました様に この戒名に関しては ”「周囲の方」”が”どの様な経緯の情報”を持っているかによります。
仏教には長い間の慣習があって、且つ宗派がありその慣習に関する考え方が異なります。
とりわけ、密教3宗と其の他の宗派との間にはこの慣習の取り扱いが大きく異なります。
特に、禅宗系は異なっている様で「物事の解釈」に禅門的な判断を要求されます。
筆者には苦手な難しい宗派のひとつです。
そこで、第3者から観た場合の感想を述べたのですが、私は読み込んでいると観ます。
恐らくその当時の「周囲の方」は「本庭」と「本性」とで何かを理解する情報を持っていたと観ています。それは何であるかは第3者には判りません。
ただ、今までお伝え頂いた内容を咀嚼しますと、前回の一つのストーリーが出来上がるのではないでしょうか。(筆者であればこのストーリーの確証をより近づける為の調査をする事に成りますね。それには大庭氏や杉浦氏の家紋の繋がりを詰める事にしますが。 そこで出てくる答えが一つの方向が生まれ、その方向が「本庭」と「本性」の意味(仏教的な語意)が判らせてくれると観ています。それには一つ推理を立てています。)
禅宗である事から尚更ですね。禅問答的な要素が強いのでそれが何であるかは第3者の私には判りません。お家のご先祖の中で何かを意味していると観ます。この戒名が「院殿居士」であればそれだけ情報を読み込む事になり第3者でも何がしかの意味合いを読み込む事が出来ますがそうではありませんね。
つまり故人のより詳しい情報を読み込むとすれば必然的に「院殿居士」の方法と成って来る訳です。
戒名そのものはオープンな情報というよりは限定された範囲での情報です。
従って、太吉さん源吉さんの戒名はその情報がより周囲の方の範囲に委ねられる傾向が強く成ると云う事ですね。
ですから、「周囲の方」と前回よりお答えしています。然し、その周囲の方も最早故人と成られていると考えられますので難しい事かなとも思います。その様な事が起るために由来書や系譜添書や忘備禄や口伝や家訓などの方法を昔は使ったのですが、現在ではその慣習は殆ど無く成っていますね。
お家にも無いようですので。
青木氏のサイトも青木氏族に関する総括的な情報を掘り起こして遺そうとしているのですが。
長嶋氏にもあったらよいのですがね。

>などから、檀家寺勝楽寺が曹洞宗で、禅宗系であるため、墓石を見た時、成人女子と考えたのですが、未婚の子供・幼児の女子に使う『童女』を使わず、『禅定尼』も使われるのですか?

前記しましたお答えに繋がりますが、禅宗なのでかなり厳しく慣習を護る傾向がりますね。
前回お答えした前提は墓石が別にあると判断してのお答えでしたが、どうも違っている様ですね。
一つの墓石に刻まれている様ですね。
別の墓石の一つにこの様な本筋でない未婚などの故人をまとめて書き込んで行く方法です。
相当な家柄でなくては、長嶋さんが禅定・・の事に付いて書かれていますが、その内容に従うと成りますと、墓所の面積は、墓石の数はいくつあっても足りません。
庄屋や大地主などの家柄でこそ出来る事です。依って仏教が定める通りの慣習や決め事には普通は出来ません。
提供された戒名から観て、この様な人を別の墓石にしているのかと思いましたが、それもせずに全てを二つの墓石にせずにこの様な故人も一つの墓石にまとめて刻まれている様ですね。
普通は墓石はその家の本ルーツの「跡目の人」の墓石を3代まで3つの墓石(祖父の代)に分けます。その一つの墓石が50年経つと累代の墓石の5輪の墓石に移します。これ以外に「跡目の人」以外の故人に纏わる人は「別の墓石」を造り其処に葬ります。これを代々繰り返して行くのが普通の共通する仏教の慣習です。跡目以外の分家を興す人は別に墓所を設けますが、跡目の人でない人や分家を起せない人や起さない人は必ず出てきますからその家の墓所の何れかに納める必要が起こります。それが特に昔であれば未婚の人、未成人、幼児、水子までの多くの人が出来ますが、傾向として女性という事に成る傾向があります。この様な人を祭祀する墓石が必要に成ります。
中には「女御墓」を別にして祭祀する家柄もあります。大きな長い平たい墓石に全ての女御の戒名を書き足して行く方法もあります。歴史が長く成る宗家本家墓方式です。
お家はこれを無くして一つにしたと云う事ですね。今ではその方式が進み最早戒名も書かない「先祖代々の墓」として一つにまとめて全て納める方式ですがこれが殆どですね。

この世の何でもそうですが、決められた慣習通りにできる事等は滅多にありませんね。ネットなどで調べると通り一辺の答えとなり実態の慣習の内容どおりの事は書き記していませんね。
そこが僧侶やその種の人に直に聞く等すると実態は見えてくると思います。
「童女」や「禅定尼」等別にしていたら墓石ばかりになって仕舞いますよね。現実には無理です。
普通の実態は別の墓石を設けて跡目人以外は其処にまとめて祭祀するのです。然し、それをもしなかった墓所となっているのですね。源吉さんか次ぎの跡目の人が現代風に近い方式にしたのです。
この様に墓所の形式をどの様に反映しているかを知っている事でもどの様な筋目のお家かが判るのです。墓の構えでも判るのです。
従って、墓石の状況や戒名の状況 宗派などでも太吉さんの筋目が宗家や本家や分家や分流や支流や分派等や支流や傍系の違いまでが判ります。
今回のお答えは其処から導き出したお答えで ”これ以上は超えない”とお答えしたのです。
ルーツは宗家に本家にたどり着かないと無理です。宗家や本家が昔からの慣習を継承する義務を負っているのですから、故にそこに情報があり「周囲の人」もその関係者という事に成ります。
前回お答えしました様に契約社会と氏家社会の違いです。慣習や考え方は異なっているのです。
長嶋さんの鹿児島のルーツは「本庭」と「本性」を紐解く事で、何故静岡に着たのか、何故根笹紋なのか、何故長嶋氏に戻したのか、のこの「3つの事」が判ると思います。又は判らない事を理解する答えに成ると思います。半分は出ていると観ます。
筆者の範囲で考証したストーリーも併せてお考え下さい。

ではお調べになって不明な点などありましたら又お便りください。


  [No.833] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/01/28(Sat) 12:57:48

福管理人さん ありがとう御座います。

禅定尼さんは太吉さん、妻りわさんとともに1つの墓石に戒名が刻まれています。
左:玄少雲如用禅定尼 中央:本庭英心信士 右:南延妙善信女とそして、
左側面に天保十二年十二月廿一日、
右側面に奥:明治五年四月十七(?)日、手前:明治三十一年八月廿六日
と掘られています。
説明不十分で申し訳ありませんでした。

これから少し、福管理にさんのご意見を参考に、「本庭」と「本性」、杉浦氏、牧野氏、根笹紋との関連について調べていきたいと思います。
とりあえず、檀家寺、岡崎を含む三河地区を中心に図書館で郷土史を見てみようと思います。

推測ですが、長嶌太吉さんの正式名を推測してみました。

長嶋太郎右衛門兼吉

長嶌→長嶋、『太』から長男何では、『太郎』、鹿児島市史に記載のあった『長嶋次右衛門』、鹿児島城下図(文政)に記載のあった『長島勘右衛門』に共通する『右衛門』、肝付氏の通り名『兼』を『吉』と合わせ
『兼吉』。

ホントに長嶋太郎右衛門兼吉なんて、出てきたらなんて期待し、色々探してみたいと思います。

色々調べた結果で、気になること、疑問な点がありましたら、質問させて頂きますので、
よろしくお願いします。


  [No.834] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/01/28(Sat) 19:05:31

長嶋さん 今日は。

なるほど、面白い推理ですね。

私は前回のストリーから維新前から幕末にはこの静岡、愛知の松平氏の中では危険で難しかったのではと観ています。薩摩の者が敵地に居る事になりますからね。

まぁ いろいろとご質問等があれば遠慮なくお尋ねください。


  [No.839] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/03/10(Sat) 16:15:59

福管理人さん、今日は。
お久しぶりです。

仕事が忙しくなり、なかなかその地に足を運び調べることができず、杉浦家本家からの長嶋家の紐解きは難航しています。
長嶋(旧姓杉浦)源吉さんが立て直した墓地には戒名のみで家紋がなく、鍛冶屋地区の杉浦家墓石の家紋は、現時点で九曜:4、丸に橘:1でした。
源吉さんの父親:杉浦幾次郎(紫金院釋清光淨智居士)が、仁木氏か桜井氏からの養子で『丸に根笹』に変紋したと云う可能性もあるのかなと考えていました。

しかし、日本家紋協会から発行している家紋と姓氏(愛知県版)杉浦家の項に、家紋『丸に根笹』、出自『桓武平氏三浦氏族』→『坂東八平氏三浦氏族』がありました。ここから、源吉さんの養嗣子による長嶋家の変紋の可能性も出てきました。


また、太吉さんの妻りわの牧野家についても調べてみました。
家紋と姓氏(愛知県版)で牧野家は、家紋『五段梯子』、『丸に蔓柏』、『丸に三つ柏』、出自は、全て『三河・清和源氏族』で、家紋『丸に根笹』はありませんでした。
しかし、思わぬ副産物が出てきました。
それは、牧野りわさんはもしかしたら薩摩から来たのではないかと推測し、家紋と姓氏(鹿児島県版)をみると牧野の項があり、残念ながら家紋『丸に蔓柏』、『丸に三つ柏』、出自は、藤原氏族と家紋『丸に根笹』はありませんでした。

ここからなのですが、鹿児島士人名抄録を調べたところ、牧野(対馬介)維という人物が記載されており、子孫に牧野喜平次という人物が出てきたのです。
その方でネット検索すると
大久保利通年(1830(文政13).9.26)の日記に下記記載あり。
「八ツ前牧野氏被訪碁打相企三番打、拙者勝負マケいたし候」
嘉永元(1848)年正月4日午後二時前に牧野喜平次(50歳代)が大久保宅を訪れ、
囲碁を打ち、大久保(17歳)が負けた。出典:重要文化財 大久保利通関係資料
ということでした。

戸主:長嶌太吉から長嶋源吉に変更となる謄本の養母:長嶌りわの項目に下記の様に記載されているのです。
天保十二年三月廿日 牧野喜平○亡父喜平長女入籍スル
時代背景的には一致するのですが、喜平次と喜平で一文字足らないのですが、同一の可能性も考えられすのでしょうか?

福管理人さんのご意見をお伺いしたいので、宜しくお願いします。


  [No.840] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/11(Sun) 10:25:59


静岡の長嶋さん 今日は。

お忙しい中でルーツの探求を熱心にされている事に敬服します。

さて、早速ですが、次ぎのお尋ねに付いてお答えします。

>源吉さんの父親:杉浦幾次郎(紫金院釋清光淨智居士)が、仁木氏か桜井氏からの養子で『丸に根笹』に変紋したと云う可能性もあるのかなと考えていました

この件に付いては以前のお便りで推測としてお答えしましたが、この可能性が非常に高いと観ています。

実は、先日、筆者の地域の寺の住職が代わり新しい住職が浄土宗知恩院から赴任してきました。
この方は、元はサラリーマンでリタイヤーして僧侶となり郷土の愛知と静岡の寺を担当して経験があり、70歳くらいの方で、この方の話によると愛知と静岡共に檀家の中に杉浦氏と云う方が大変多く家紋が根笹紋類の杉浦さんであったと云う事でした。
実はこの住職も家の家紋も「丸に根笹紋」で某氏と云う方なのですが、桜井氏の末裔に当たるとの事で印象に残っていて杉浦氏と親しくお話した事があるとの事でした。
その杉浦氏は旧家で森林を所有する土地の地主で大きな門構えのお家で元は庄屋で武士であったとの事でした。恐らくは住職に詳しく聞きましたところではこの杉浦氏は郷士であったと思います。
住職のご先祖も三河松平氏系桜井氏に辿り着くとの事で杉浦氏も同じ先祖ではとのお話でした。
源吉さんの父親杉浦幾次郎さんのルーツの祖先に当たると観られます。
戒名の「紫金院釋清光淨智居士」は相当な家柄でないと江戸期末期頃では付けて貰えない筈で又一般の人が付ける習慣が未だ無かったし相当な金額を積まないとこの戒名は持てません。
特に、住職にもお聞きしたところ同じ意見で、紫、金、清光、浄智は仏教的な位置づけが高く最高の家柄の者でないと使わないとの事で、紫は色では最高位で家柄・立場が上位であった事、金は主に経済的に恵まれていた事、清光は仏教では最高位の清廉潔白を意味し優れた人物や家筋に成る事、浄智は平安時代にはこの浄は「八色の姓制度」では最高位の品位を示しますので、上記の愛知の根笹紋の杉浦氏の立場に相当する位の戒名です。
恐らくはこの愛知の杉浦氏は丸付き紋ではない根笹紋であるところから宗家かどうかはわかりませんが本家筋の枝葉の杉浦氏であると観られます。
幾次郎さんは丸付き紋の根笹紋ですので分家筋の系列に成る杉浦氏であると思います。
住職も丸に根笹紋でしたので、同じルーツの杉浦氏の枝葉に当たるのでしょう。

太吉さんの婿の源吉さんは実家先の家紋の根笹紋に跡目の男系嫡子が生まれなかったことから家紋の変紋を余儀なくされ「地元の根笹紋」にした事に成るのでしょう。
しかし、氏名は長嶋氏に明治の苗字令を利用して長嶋に変名届けをした事を意味すると観られます。
ここには、三雁金紋と長嶌氏の2つを消し去った何かの経緯が潜んで居るようです。
松平氏系桜井氏と島津氏系長嶋氏、雁金紋と根笹紋、薩摩と地元美濃、の中で源吉さんは選択を迫られたと観られます。何れも家紋200選に選ばれる程の家筋です。難しい選択です。
明治維新、跡目問題から養子でもあり源吉さん親族の多い地域の選択をしたのでしょう。
故に新たに作った墓所には家紋を刻まなかったです。普通武家では刻みますが敢えて避けたのです。
その為には周囲に多い伊勢長嶋氏の長嶋姓(元々は太吉さんは伊勢長嶋氏系の九州の大蔵氏系永嶋族長嶋氏である事も含めて)にすることが適切と判断したのでしょうが、その代わりに家紋は家紋掟の慣習に従い地元の実家先の家筋の家紋にしたのでしょう。
故に杉浦氏のではなく長嶋氏の墓所には根笹紋を遠慮したのでしょう。
そしてバランスを取ったのでしょう。
又、長嶌氏から長嶋氏に変えた事により墓所は新規の別のものとの考えもあったとも考えられます。
根笹紋の伊勢長嶋氏が同じ地理的要素により武士の血縁の釣り合いが取れますので伊勢美濃よりに多く住んでいた事も考えられます。

>時代背景的には一致するのですが、喜平次と喜平で一文字足らないのですが、同一の可能性も考えられすのでしょうか?

徳川時代には家康は武家の家の嫡子は長男とすると決めましたが、この事から、長男と次男の差は大きくなり扱いも極めて異なり部屋住みの言葉まで生まれました。
この時の習慣により、「次」は名の後ろに「次」を付けて名乗る習慣が生まれました。この習慣は平安時代から室町期まで氏の家柄の中では持ちられて来ましたが江戸期には一般の武士も家康の令で一般化したのです。そして江戸末期から明治にかけて「・・次」「次・・」として一つの名として庶民まで位置づけとして用いられるようになったのです。
長男の場合は「太郎の太」、次男の場合は「次郎の次」として使われました。
平安時代は「八幡太郎源義家」「鎮西八郎源為朝」「九郎判官源義経」などの様に名乗る場合は特別に位置づけを明確にしていたのです。それが「太」「次」と省略して行ったのです。
「太」「次」は名の前後にどちらに付けるかは原則自由で、源太郎とか太吉、太郎兵衛の様に。
「喜平次」と「喜平」とはこの慣習の意味で同じです。武士には特に氏や姓を継承する習慣がありましたのでこの慣習は大事なので、これと対比して武士外の名とは氏継承の慣習がありませんのでたいした意味は無く、名そのものとして使われていました。
喜平さんは武士の出であれば「次」は立場の意味は持ちます。武士であれば喜平次も喜平も同じです。「後付」と云うつけ方です。「前付」と「後付」との違いは主に家柄で決めます。「氏族」は「前付」と「姓族」は「後付」の違いです。(長嶋氏は「氏族」)
次を付けるかどうかは記録する人か編集する人の差によるものと考えられます。
他に長男の場合は「大」「長」「衛門」「兵衛」「右」「嫡」、次男では「介」「助」「継」「捨」などが使われました。 
ただ牧野氏の件は女系に成りますので家紋と姓の関係の変化は無関係です。
ルーツには余り関係しませんが太吉さんの妻は鹿児島である事には間違いありませんね。
問題は養子にも色々な形がありますが源吉さんの養子の形がどんな形かによりますね。
源吉さんが後に離婚されたとの事を伺いましたがそれと養子の形が「長嶋氏と根笹紋」に影響しているのでせはありませんか。


それにより杉浦氏の家紋の根笹紋の根拠となるのではと考えます。
太吉さんは元杉浦氏の源吉さんとは材木関係で知り合った可能性が高いと考えます。

以前のお答えの繰り返しになりますが、個人名探求だけではなく時代の経緯と生活の背景も合わせて考える必要があると思います。
一度お調べになる必要がありますね。

では又お便りをお待ちしています。


  [No.841] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/03/15(Thu) 00:21:22

福管理人さん、どうお礼を言ったら良いかわかりません。
また根笹の杉浦家とご縁がある方が、福管理人さんの菩提寺の御住職さんとして赴任されるなんて、
不思議なことです。また、ご先祖様にも感謝です。

副管理にさんの言うように、もっと時代背景、その時代、地域の生活などについても知識を今後増やしていくよう努力していきます。アドバイスありがとう御座います。

豊川市中央図書館で『三河』という書籍より以下の記載がありました。
額田郡
杉浦氏:和田八郎五郎政重、延徳年中、信忠(安祥松平家長親嫡男、三男信定が桜井松平祖)に仕え、杉浦と改む。父大八郎五郎政次、信忠、清康(信忠嫡男)に仕え、参州六名の内、入吉郷を賜うと云う。

この杉浦氏の子孫が、根笹紋の桜井松平氏と養子を迎え入れ、根笹紋の杉浦氏が生まれたのですね。

源吉さんの父幾次郎さんは『次』あるところから,次男で、丸に根笹となった可能性も考えられますね。
杉浦幾次郎さんと長嶌太吉さんが、材木関連の仕事で知り合い、次男である源吉さんが太吉さんの長女とめと結婚し、長嶋家に養嗣子に入ったのですかね。

巫女さんの話では、太吉さんは宮大工としての腕もあったとのことです。
新城市川路の近くには、徳川家の東照宮がある鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、宝飯郡一宮町には砥鹿神社があり、藩からの仕事とは別に、その寺院の修復等にも太吉さんは携わっていたのではと思ったりもします。

源吉さんは、とめさんと一緒のお墓に入っているので、離婚はしてないと思います。
太吉さんのことでは、でも離婚はしてないと思います。
太吉さんは、墓石に三名の禅定尼さん、太吉さん、りわさんの戒名が刻まれていて、禅定尼さん供養を巫女さんにしてもらったときに、御簾越しでの対面する位の女性で、太吉さんは殿様より奥方のところに出入りしており、そこで知り合ったとのこと。
身分が違いすぎるため一緒にはなれないため、太吉さんのもとへ来たく、家を飛び出して、こちらに来たとのことです。
女性の位が高いため、太吉さんには藩の上のものから情報は来てきたと思われます。そんな世間知らずの人が、一人で旅などできるはずがないと思うので。
その後、太吉さんのお店で女将をしていたが、髪の抜ける病気となり、尼(坊主ではなく、白い布を被っている)となり、身を引き、天保12年(墓石の記載)なくなったそうです。
太吉さんもその方と一緒になるつもりであったそうです。
その方が、亡くなる年(天保12年)に、牧野りわ(牧野喜平の長女)と結婚しています。
巫女さんは、『太吉さんは、氏を残すためりわさんとは一緒になったねと』言ってました。


牧野喜平次 情報としては、

1. 琉球關係文書
   天保三年  一七 島津家編輯所圖書  中小姓 牧野喜平次 足輕

2. 旧薩藩御城下絵図 安政六年
   住居:上之平馬場の北 島津伯耆(佐多島津家)の西 160坪

なので、この方は下級武士の出のようです。その後160坪の家に住んでいるため出世しているのかなと考えました。

喜平さんと喜平次さんが同一であれば、りわさんは,上記の位のある女性の御付として、来たのかななんて想像もしました。

また、牧野氏は三河地区に多い氏名であり、りわさんの戒名が、南延妙善信女の『南』にも三河ではなく薩摩から来たよという意味があるのかなとも思いました。

だらだらと、空想をしてしまいすみません。

伊勢長嶋氏も根笹紋のお家が多いのですね。


  [No.842] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/16(Fri) 17:01:13

今日は。
今回も貴重な情報が提供されましたね。

ご推理はあたっていると思います。

そこで、ご質問にお答えします。
巫女さんの言い分も以外にその傾向があったと考えられますね。
問題は太吉さんの立場がどの様に源吉さんにまたは杉浦氏に評価されていたかですね。
これには当事の慣習が大きく影響するので家紋や姓などの事には変わってきます。


>源吉さんの父幾次郎さんは『次』あるところから,次男で、丸に根笹となった可能性も考えられますね。杉浦幾次郎さんと長嶌太吉さんが、材木関連の仕事で知り合い、次男である源吉さんが太吉さんの長女とめと結婚し、長嶋家に養嗣子に入ったのですかね。

先ず、間違いないと考えます。
「丸に根笹紋」の杉浦氏は前回のお答え通りにほぼ確定出来ていると考えますので、当事の慣習から次男は殆どが婿養子に入ります。
太吉さんに男女の子供が居なくて跡目養子を取りそれに嫁を取ったとするのではなく、太吉さんの長女の”とめさん”に婿養子を取ったとすると家紋は源吉さんに子供が出来なかった場合は家紋は一時源吉さんの実家の家紋を一時採用します。しかし男子の子供が産まれると元の家紋に戻りますが男子が出来なかった事から一時採用の家紋が常紋となり「丸に根笹紋」の杉浦家の氏の系列に入ります。
この時、姓は太吉さんの長嶌氏には戻さず杉浦氏系列の氏と成った事もあり、苗字令の時期の事もあり杉浦氏系列の長嶋氏か枝葉の伊勢長嶋氏系列かに変名したと観られます。
この長嶋氏は薩摩の長嶋氏なのか杉浦氏系列の枝葉の中の長嶋氏を名乗ったのかは判りませんが、何れにしてもどちらも伊勢長嶋氏系列である事から、源吉さんは周囲の杉浦氏の縁戚関係者の納得と了解を得るにはこの方法しかないと考えて長嶋氏にしたと考えられます。
当事は未だ家柄の吊り合いが大変重視される時代で杉浦氏の中に入るには本家宗家の事前了解が必要であったのです。松平氏枝葉の杉浦氏の様な名家の家筋であればこの位の慣習は護られていた筈でその代わり仕事や生活の生業などの便宜も受けていた時代です。
勝手に系列の中に入る訳には行かない慣習制度でした。まして、太吉さん-源吉さんの”商いの関わり”があり杉浦氏との大きな繋がりの中にあって仕事が出来ていたと考えられますので、丸く両氏の間を収めるにはこの方法しか無かったと考えられます。今と違い社会に大きく縛られていたのです。

現実に前回のお答え通りに伊勢長嶋氏と美濃尾張の杉浦氏との血縁族の丸に根笹紋の伊勢長嶋氏系列の姓が美濃-員弁-桑名-長島に繋がる地域には分布しているのです。
私は杉浦幾次郎さんの「丸に根笹紋」は松平氏族杉浦氏系列の中でこの分布域の血縁を受けているのではないかと観ています。その根拠は支流を意味する丸付き紋なのです。
杉浦氏本家筋は丸なしの根笹紋が三河より東より付近に分布し、丸付き紋は伊勢よりの西付近に分布しているからなのです。長嶋氏の本流族34氏には根笹紋と丸に根笹紋はありませんが、長嶋氏の枝葉支流や分流に存在します。

当事は勝手に国を超えての血縁は難しく相当な氏姓でなくては出来ませんでした。それは「国抜け」の制度に縛られていたからです。それぞれの各国の人口のバランスを採り石高を安定させる為にも必要な制度であったのです。勝手に移動や血縁を許してはいなかったのです。維新までは。
その事を考慮すると太吉さんと源吉さんの定住地から考えるとこの制度の中でやりくりをする必要があった筈です。太吉さんは薩摩人で源吉さんは地元の者とするとこの養子縁組の中には上記した「氏の仕来り」や「社会慣習」や「国抜けの制度」や「移動制度」などの諸々の制度が絡んでくるのです。
特に、江戸末期の幕府は騒乱を抑える為に移動や定住や住民証明(血縁など)には3重の許可が必要で「役所」と「所属の寺」の証明と「氏の本家」のお墨付きが必要に成っていたのです。
もっと細かく言うと庄屋や村役の届けも必要で任別帳に関わることもあり簡単な事ではなかったのです。
それだけに騒乱の基となる「国抜け」に対しては幕末は宗教改革や一揆や倒幕と相まって極めて厳しく取り締まったのです。この事は有名な事です。
この条件をクリヤーするには源吉さんの苦労は杉浦家と云うものを背負っていてその苦労は目に見えています。納得できる届けや許可や話し合いが必要であったのです。現在の自由社会ではありません。
そういう事から源吉さんの配偶者のとめさんが養女と観ていましたので、離婚かと判断していたのですが違っていたようですね。済みませんでした。
実は源吉さんが長嶋氏を名乗る背景には”とめさん”が養女である可能性がある訳ですが、実子であるとすると婿養子の源吉さんは長嶌氏を名乗る必要が出ます。
しかし、婿養子の源吉さんが太吉さんが亡くなられた後に嫡子がいない訳ですから杉浦氏の系列の家紋を使った事は杉浦氏に戻る事は選択肢の一つに成っていたのです。
江戸期の慣習では、養子が義父母がなくなった時点で姓を杉浦氏に戻す事が許されるのが普通ですので、現実に杉浦氏の家紋に変えているのですからその行動は採った事は事実ですので慣習から観て少し変です。しかし、それをしなくて本来の長嶌氏ではなく長嶋氏にしたところに意味があります。
前回のお答えの通り中間を採ったと云う事に成ります。

(家柄吊り合いを採る為には実子であるとすると”とめさん”を一度他家に養女に出し、又戻す事が必要。 実子のままであれば太吉さんが亡くなった後で源吉さんが杉浦氏を名乗ることが出来る。そうしないと杉浦氏側は桜井氏系の名籍の家柄立場上世間に対して家柄を下げた事に成り納得しないから、普通は婚姻は認めない筈 幾次郎さんの戒名からでも家柄を誇示している 太吉さんとの戒名の違いの差も物語りますので家柄の吊り合いの差は杉浦氏との間で現実に間違いなく起こっていた事を示す。) 

養女とすると長嶌氏に縛られる事なく長嶋氏か杉浦氏にする事に別に問題はない事に成ります。
だから家紋は「三つ雁金紋」ではなく杉浦氏の「丸に根笹紋」としていて、その代わりに姓は長嶌氏ではなく長嶋氏にして源吉さんの”新しい家”を作り上げた事を意味します。これで杉浦氏を納得させられます。
現実に太吉さんの家紋は「三つ雁金紋」では無かったか判らなくなっていたかを意味します。
「三つ雁金紋」で長嶋氏であれば直ぐに大蔵氏系薩摩肝付氏族長嶋氏と判り、根笹紋の杉浦氏とは家柄の吊り合いは取れていますので、むしろ「丸付き紋」である事から太吉さんの方が上と成ります。
しかし、太吉さんは長嶋氏ではなく長嶌氏であった事と家紋も不明な状況であった事を意味します。
源吉さんが丸に根笹紋に変え、長嶋氏に姓を変え、墓石に家紋を刻まなかった事から杉浦氏の方が格上と判断されていた証拠です。戒名からも判断できます。

そもそも、江戸期の武家の慣習では婿養子は先代が亡くなると養子先か実家先かの姓を名乗るかは選択の一つですが、この場合は養女と実子とで異なる事に成ります。
江戸期以前では他家の娘をどこか家筋の良いところに先ず養女に出しそこから別の氏のところに出すのが慣習です。これは血縁は家の吊り合い、つまり家柄や家筋を重視してバランスを採るのが目的で必要条件でした。低い家と高い家との血縁をする場合は先ずこの作業の手続きを踏みます。これは男女同じです。つまり、長嶌氏と杉浦氏はこの地域では杉浦氏が家柄は数段上にあります。
薩摩ではないのですし長嶌氏で長嶋氏では無い事から源吉さんの杉浦氏が上と成ります。
そうすると太吉さん側は娘のとめさんを杉浦氏側に家柄を合わす事から何らかの手立てが必要です。
手立てなしでは源吉さんは婿養子であっても実家先の発言力が増し替わってきますし、太吉さんが亡くなられた後には何らかの杉浦氏側に合わした変更をする権利が生まれます。
それが今回の家紋と姓の変更と墓所の家紋なしの処置をしたものと考えられます。
慣習ではこれが普通で問題は無いわけですから、それを家紋も姓も杉浦氏のものにしなかったのは源吉さんの配慮であったと考えます。

長嶌氏から長嶋氏にしたのはこの吊り合いを重んじた普通の行為であったと考えられます。
薩摩ではこの様には行かなかった筈です。それは長嶌氏にあったと考えられます。
薩摩の大蔵氏系肝付氏族の長嶋氏の家柄はここでは証明する事が出来なかった事を意味します。
源吉さんはそれを太吉さんが亡くなられた後にこの事を実行したと観られます。
この時に薩摩の三つ雁金紋の長嶋氏なのか伊勢の丸に根笹紋の長嶋氏なのかは判別が情報が無いので付きませんが、それは太吉さんの妻りわさんの牧野氏に関わってくる事で義母のりわさんの知識が左右している事に成ります。

どうも情報では美濃の牧野氏ではなく薩摩の牧野氏である事からの流れから観て、源吉さんはその事を義母から聞いていて薩摩の長嶋氏に戻したとも考えられます。この事から吊り合いが取れて姓は長嶋氏、家紋は杉浦氏の丸に根笹紋としたのでは無いでしょうか。ただ当事としては武家筋の墓には家紋を入れるのが普通で入れない方が士族としては変ですが、本来であれば杉浦氏に戻しても問題はなかった筈ですから、長嶌氏から長嶋氏にしたことから家紋だけ杉浦氏ものは避けた又は配慮したと考えられます。
太吉さん・源吉さん、杉浦氏、りわさん、とめさん、の関係者に取って不満の無い解決をした事を意味します。前回にご指摘しました様に、当事としては「慣習」とはこの様に結果を大きく左右させるものであったのです。慣習雑学は歴史には絶対条件です。結果は全て変わりますよ。

青木氏のレポートにはこの様な雑学が多く書き込んでいますので是非お読みください。
雑学をまとめた書籍はのものは少ないのでルーツの探求には苦労しますよ。

ではまたお便りください。いつでも雑学でもご協力を致します。


  [No.843] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/03/18(Sun) 19:04:46

福管理人さん、こんにちは。

当家の家紋が、なぜ丸に根笹かということについて、解決することができ、本当に感謝いたします。
後は、大蔵氏族肝付氏系長嶋氏に関わる書き物があれば、最高なのですが、難しそうですね。
でも、諦めず色々と調査してみます。

自分に情報について、伝達不足の部分もあり、申し訳ありません。
謄本等で分かる範囲について、再度お伝えさせて頂きます。

長嶌太吉:1800初頭(文化?)生妻りわより推測、1872(明治5)年卒
妻) りわ:1815(文化15)年生(牧野喜平長女)、1898(明治31)年卒
1841(天保12)年に結婚。りわ26歳。(江戸時代の結婚適齢期14〜17からするとかなりの晩婚)

長女)長嶌とめ:1849(嘉永2)年生、1899(明治32)年卒
養嗣子) 源吉:1844(弘化元)年生(杉浦幾次郎次男)、1914(大正3年)卒
          →幕末寄合格に(岡崎市史より)
1870(明治3)年に結婚。源吉26歳、とめ21歳。長嶌→長嶋に変名。母りわ55歳より太吉50〜60歳。
1872(明治5)とめ結婚2年後、太吉亡くなる。
杉浦幾次郎:1876(明治9)年卒、妻:1880(明治13)年卒

墓石
杉浦幾次郎、妻:戒名のみ家紋無し(墓石は御影石で、立て直した可能性、杉浦源吉の名あり)
長嶌太吉、りわ、禅定尼:戒名のみ家紋無し(砂岩)
長嶋源吉、とめ:戒名のみ家紋無し(砂岩)

長嶌太吉→長女:とめ             
           |        長男(夭逝) (長男・次男戦死)
      養嗣子:源吉→長男 →次男    →三男     → 長男 (川路に移住後の本家)
                   |
                   →三男:(1900生)→長男(1938生)→長男:自分
                                      
→「氏の仕来り」や「社会慣習」や「国抜けの制度」や「移動制度」などの諸々の制度が絡む。
特に、江戸末期の幕府は騒乱を抑える為に移動や定住や住民証明(血縁など)には3重の許可が必要で「役所」と「所属の寺」の証明と「氏の本家」のお墨付きが必要に成っていたのです。
もっと細かく言うと庄屋や村役の届けも必要で任別帳に関わることもあり簡単な事ではなかったのです。
それだけに騒乱の基となる「国抜け」に対しては幕末は宗教改革や一揆や倒幕と相まって極めて厳しく取り締まったのです。
この条件をクリヤーするには源吉さんの苦労は杉浦家と云うものを背負っていてその苦労は目に見えています。

これは、あくまで僕の推測なのですが、
この縁談については、商売関係で知り合いより、太吉さんが幾次郎さんに持って行ったのではと推測しました。
太吉さんは『太』が付いていることから、仮の名前であるとしても、嫡男であり、長嶋家を後生に繋いでいかなければと云う義務感を持っていたと考えたからです。
上記の国を跨いだ間での結婚に太吉さんが、『二足の草鞋』として薩摩藩の裏の仕事をしていたとするのであれば、太吉さんの仕事自体が、福管理人さんがご指摘した危険を伴うものに関わっていると考えられますので、太吉さんからのアドバイスがあったのではと考えました。
そして、そういう仕事をしていたのであれば、時代の流れに対しては敏感であったでしょうし、幕府崩壊、明治政府の設立に関して、また政策についても太吉さん薩摩藩の所属であることからある程度も情報を持っていたのではと推測しました。
そして、、結婚については、明治以前にある程度決まっており、様子を伺いつつ、明治になってから行ったのでは、それは、結婚時源吉26歳、とめ21歳にも現れているのかのと推測しました。

太吉さんから源吉さんへの戸主変更の謄本には以下の記載もあり、
源吉の欄:明治・・・當町字新城平民杉浦幾次郎二男養嗣子
太吉妻りわの欄:天保・・・當町字新城平民牧野喜平○亡父喜平長女・・・
福管理人さんが指摘していた対策なのかなとも考えました。


  [No.844] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/03/15(Thu) 21:56:31

福管理人さん、今晩は。
源吉さんの離婚はしてないと思いますという曖昧な返事をいたしましたが、謄本上、離婚はしておらず、
大正2年に隠居ときさいされたました。また、墓石には大正3年に亡くなっていることが刻まれていました。
追加情報としてお伝えいたします。。

ところで、お便りを拝見していて、少し気になったのですが、以前のお便りには、大蔵氏族肝付氏系長嶋氏ということでしたが、今回は島津氏系長嶋氏とありました。同じと考えてもよろしいのでしょうか。


  [No.845] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/19(Mon) 09:48:11

>提供情報
>長嶌太吉:1800初頭(文化?)生妻りわより推測、1872(明治5)年卒
>妻) りわ:1815(文化15)年生(牧野喜平長女)、1898(明治31)年卒
>1841(天保12)年に結婚。りわ26歳。(江戸時代の結婚適齢期14〜17からするとかな>りの晩婚)

>長女)長嶌とめ:1849(嘉永2)年生、1899(明治32)年卒
>養嗣子) 源吉:1844(弘化元)年生(杉浦幾次郎次男)、1914(大正3年)卒
>          →幕末寄合格に(岡崎市史より)
>1870(明治3)年に結婚。源吉26歳、とめ21歳。長嶌→長嶋に変名。母りわ55歳より太>>吉50〜60歳。
>1872(明治5)とめ結婚2年後、太吉亡くなる。
>杉浦幾次郎:1876(明治9)年卒、妻:1880(明治13)年卒

今日は。

早速、お便り頂きました。

さて、今回お便り頂きました情報は前回までの私の推理の範囲に全て入り年代考証は完全に成立します。
恐らくは明治15年頃までのことであると観て情報がその範囲の中に来れば先ず間違いないと考えていましたが完璧です。
幕末から明治かけて戦後処理といいますか維新整理といいますか社会の中には大きな変化が起こりました。維新一揆や社会慣習の変化や幕末整理や契約社会の庶民の手続きや宗教改革や苗字令や督促令やもろもろの事がこの頃を境にして一度に変化します。特に家と云う概念が氏家制度崩壊で大きく変わろうとしている時代ですが未だ武家社会の中ではこの慣習が一辺になくなるのではなく苗字令がきっかけで片方では変革が押し寄せ片方では依然慣習を護ろうとする傾向にありました。
ですから、その一度に立場がなくなった揺れ動く武家社会で密命を持つ太吉さんの2足の草鞋の中ではどの様にすれば良いのか判断に困る状況であった筈です。この範囲での太吉さんと源吉さんとその家族や縁戚関係者の行動があれば前回までの推理が成立する筈と観ていました。
それと源吉さんには男子が居られた様ですね。男系継承できているのですから跡目がなく変紋とする根笹紋の変更は必要無かった事に成りますので、しかし、墓の紋所の問題など情報でも明治3年頃に根笹紋・長嶋氏に変更した事は前回のお答えの事になってしまいます。これも推理が成立しています。
杉浦氏の影響力もまだ充分にあった事等も納得できます。時代考証も維新を中心にして前後20年に全て納まることに成っています。極めて短期間の中で考証されています。

次ぎに薩摩から静岡までの経緯の推理も無理がなくなりますし、今回、お家が推理された内容も全く同意します。その通りだと思いますしそれしかないのではないかと観られます。
お家のご先祖の生き様が手に取るように私には観えて来ます。かなり時代に翻弄されてご苦労されたと見られます。

次ぎに維新戸籍簿に関してですが、先ず「平民」と書かれていましたがこれも今までの推理を実証します。それは江戸時代にご先祖の戸籍をお持ちでありますから武士でありながらも士族と成らずに平民と記されている事は「2足の草鞋」を証明する最もなものです。この時代は多くの商人は殆どが元は武士か「2足の草鞋策」でした。武士では食べてゆけないという事が幕末から維新後に起こっていたからなのです。そこで維新3年の苗字令8年の督促令の時にこの武士の2足の草鞋を採っている家は届けとして平民として届けたのです。「こけら屋」は大変重要な意味を持っています。
それは杉浦家と長嶋家も同じですので、この事も両家が商いで繋がった何よりの証拠に成ります。
これほどに推理が無理・矛盾・疑問なく填まる事はなかなか少ないですね。

次ぎに大蔵氏系薩摩肝付氏族長嶋氏の件ですが、島津氏の表現は採っていませんで薩摩と表現しています。
肝付氏族の長嶋氏は以前回答いたしました様に最終は日向(永嶋氏)と大隈(長嶋氏)と長島(長島氏)の3つの家に分流していますので、この中の大隈地区の肝付氏の地元の長嶋氏である事を意味しています。
肝付氏が島津氏の配下に入り血縁関係を持ちましたので、島津氏族としても問題はないと思いますが、島津氏とするとこの3つの全体をさす事に成りますね。島津氏の配下に入った時代の表現は後期の表現となりますね。

今回のルーツ探求でお家のご先祖の生き様が手に取る様に観えて来ますね。
これもご先祖の供養ですね。丁度お彼岸でもありますからご先祖のお導きかも知れませんね
人として産まれて長嶋氏に縁があって育ち、そして本来あるべき人としての本質の行動を今採られているいるのだと思います。喜怒哀楽に惑わされずに静かな心根に敬服します。

これからも大いに伝統を掘り起こしてください。
その為には平安期中期には元同族であった青木氏サイトはご協力いたします。


  [No.846] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/03/20(Tue) 22:24:10

福管理人さん、ありがとうございます。

早速、実家へ帰り、お墓参りをしてきました。
自分は、お褒め頂くほどの人間ではなく、この様にご先祖様、ルーツ探しへとこれほどまでに向かわせて頂けたのは、この青木氏氏サイトの福管理人さんの史実、時代背景を加味した雑学からの論理的な回答のおかげです。このサイトに出会えたことを感謝しています。
また、先祖供養を進めて頂いた方にも感謝しております。
自分が今生きているのは、ご先祖様が後生へと子孫を残してきたなので、できる限り、掘り起こせて行ければと考えていますので、今後とも御教授宜しくお願いいたします。

一つお願いがあるのですが、青木氏氏研究室の青木氏家訓を読ませて頂いているのですが、
ご迷惑でなければ、原文をお教え頂けたら、表装して残し、当家でも子孫のために伝えていければと考えています。宜しくお願いします。


  [No.847] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/21(Wed) 09:28:12

>一つお願いがあるのですが、青木氏氏研究室の青木氏家訓を読ませて頂いているのですが、
>ご迷惑でなければ、原文をお教え頂けたら、表装して残し、当家でも子孫のために伝えていければと考えています。宜しくお願いします。


静岡の長嶋さん 今日は。
本サイトでは青木氏のご先祖の生き様を掘り起こしそれを理解し先祖への尊敬とその生き様の伝統をより後世に残そうとしています。管理人さんの尊いご好意により世界的なサイト運営をしてもらっています。
世界の青木さんからもお便りが届いています。中には世界的な歌手で俳優の方からも海外から届いています。またブラジルなどに移住された方からもお頼りも頂いている状況です。
平安期には同族であった長嶋さんのルーツ探求にお役になれて良かったと思っています。

さて、ご依頼の件ですが、現在「青木家 家訓10訓」はこの家訓には「添書」がありましてそれをより掘り下げて解りやすく現在風に編集して家訓8まで添書解説の投稿が出来ています。
この添書解説の原稿は既に若い時に編集して出来上がっているのですが現在風に見直して更に9、10も投稿したいと計画しているのですが忙しくてまだ出来ていません。
現在は、青木氏と神明社との関係の投稿に力を注いでいますのでもう少しお待ちください。

そこで、この家訓10訓の原文をお出しすることは出来ません。
それには青木氏のステイタスの”生仏像様”と同じく、”世にさらす事なかれ”の「戒め」がありまして「生仏像様」は写真で、「家訓」は現在風にしてこの「戒め」を何とか守っています。

この家訓の原文は「漢文」で、それを江戸初期位に「口伝の形」したものを更に「現在風」に判りやすくしたものです。
特にこの家訓には一族のものが統一して同じ理解の下にする為に又解りにくい言葉での「添書」がありまして、それを更に編集して現代風にして投稿しています。
原文そのものを投稿しても誤解を招くだけですので、室町期風の「口伝の形」を現在風形の「口伝の形」ままに{家訓10訓}として投稿しています。
よって現代風の「口伝形」でお使いください。その際は是非後世の者が間違いなく理解できる為にも添書もお付けください。私はこの添書が大事な事と考えています。

現在、「青木氏と神明社の関係」も投稿していますが、これも若いときに研究したものを編集しなおして投稿していますので、これが終われば次ぎに9と10の家訓の添書解説を投稿する予定です。
年末頃になると思います。

ご依頼に添える事ができませんで申し訳ありませんがご理解ください。

では、またお便りをお待ちしています。


  [No.851] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/06/09(Sat) 12:54:08

福管理人さん、お久しぶりです。
なかなか進みませんが、ご先祖捜し継続しています。
肝付兼久から長嶋次右衛門(肝付次右衛門?)への繋がりを調べています。
※次右衛門と繋がりあり→〇、繋がりなし→×と記載する。

1.兼久の子
長男:肝付兼興→兼続… →〇
次男:肝付兼親(兼執)叔父兼親に謀反の兆しがあったため、兼続は兼親及び其の妻、
   二男子、兼親の母を誅した。との記載あり。→×
三男:肝付兼洪 頴娃家の養子となる。→×
女:八代名和伯耆守武興妻→×
女:不明

2.兼興の子
長男:肝付兼続→良兼・兼長・兼吉・兼勝・兼樹・兼亮・玄宅・兼道(兼護・兼盛)・女3人
   →〇
女:入来院重続妻→×
女:島津貴久初室→×

3.兼続の子
長男:肝付良兼→女2人:伊地知縫殿介重昌妻→×、左馬頭兼道妻→×(兼道を参照)
次男:兼長→12歳早世→×
三男:兼吉(山城入道永秀)→〇
四男:兼勝→〇
五男:兼樹→兼〇→兼弘 妻:薬丸孤雲の娘、鹿児島・佐土原両島津家家臣→〇
六男:兼亮 此子孫長崎江有之由候→×
七男:玄宅 大慈寺僧→×
八男:兼道→兼幸→兼康(新納忠秀の長子を養子)甚右衛門→兼親(甚右衛門)→
   …経兼→兼幸→兼峯(肝付十右衛門:円山良覚居士 江戸死去)、治兼→…
   →×
女:祢寝重長室→×
女:肝付刑部入道江月室
女:頴娃九郎兼有室→×

以上より、肝付兼亮は、子孫長崎のため除外し、肝付兼樹を有力とし、兼吉、兼勝に絞り、調べています。悪戦苦闘していますが、ついつい夢中になってしまいます。


  [No.852] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/05/24(Thu) 23:31:26

福管理人さん、お久しぶりです。

はじめに、青木氏家訓のレポート完成を楽しみにしております。また、青木氏と守護神のレポートについても、阿多倍について触れられているので楽しく読ませて頂かせています。

今回も個人名探求から始まっており、時代の経緯と生活の背景も合わせて考える必要性についてアドバイス頂いている事もあり、進歩のなさをさらけ出してしまっているのですが…

現在の課題となっている1つ、関ヶ原の戦いで戦死した肝付(長嶋)兼道から鹿児島県史3の『薩州鹿児嶋衆中屋敷御検地帳』に記載のあった長嶋次右衛門への繋がり、そして長嶋次右衛門から『鹿児島城下明細図』文政期にある長島勘右衛門までの繋がり、つまり江戸期の大蔵氏族肝付系長嶋氏の検証でした。手がかりとなるものが揃ってきたので推測をしてみました。

以前、鹿児島県史料 旧記雑録追録1〜8などからしらみ潰し捜し、関連があるのではと考えた人物を下記にしまします。
・鹿児島県史料集 薩陽過去帳 P32 元禄11年7月卒 戒名露巌良体居士:肝付次右衛門
・追録1 P224 慶安5年 御犬之従馬場材木衆次第不同 :肝付早右衛門
・追録1 P392 万治2年 鹿府万治高帳 高弐百三拾八石七斗 :肝付甚右衛門
・追録2 P796 宝永5年 :肝付三右衛門
・追録6 P476 安永4年 御代初犬追物稽古:組手之事 次手組 :肝付郷右衛門
・奄美大島在島役人一覧 万治2年 喜界島・大島検地奉行となり、万治3年上国:肝付三郎兵衛
・奄美大島代官記集 元禄2年  附役 :肝付三右衛門

最近、高山郷土史を見ていたら
P165に兼護以降の肝付氏の系図を掲げる事にするとあり、

18兼護(兼道)−19兼幸(早死19歳)−20兼康(甚右衛門:新納忠秀長子)−21兼親(三郎兵衛、甚右衛門)−22年兼−23経兼−24治兼−25兼群−26兼命−27兼明−28兼施−29兼寛−30兼亮−31兼冬

長嶋次右衛門=肝付次右衛門(1615?〜1698)
肝付甚右衛門兼康(1597〜1673)
肝付甚右衛門兼親(1613〜1693)

肝付(長嶋)兼道−娘(新納忠秀長子養子:肝付兼康)−長男:肝付兼親、次男:長嶋次右衛門
という推測です。
可能性としてはあるのでしょうか。

あと、2つ伺いたいのですが、
1つ目は、通り名についてで、例えば、肝付兼続と肝付秋兼、大蔵義種と大蔵種親の様に後に来る場合、先に来る場合がありますが、規則というのがあるのでしょうか。
2つ目は、例えば江戸期で名前に〇〇右衛門とつく家は、代々〇〇右衛門と考えて良いのでしょうか。

宜しくお願いします。


  [No.853] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/06/10(Sun) 08:41:50

静岡の長嶋さん 今日は。お元気ですか。

お便り遅れました。申し訳ありません。
実は鹿児島に旅していましたのでお便りが出来ませんでした。

矢張り薩摩の雰囲気と人の顔かたちと人柄と伝統的な習慣が違う事が強く感じました。
それは関西付近との比較ですが、その事からすると”薩摩のルーツ探求は難しいな”と思います。
何か感性が働かないと云うかピンと来ない気がします。
以前にも研究している時に感じていたことなのですが、矢張りこれは自然環境から来るものだと感じました。人間の感性はその長く住む自然環境に大きく左右されていると云う事だと思います。
丁度、桜島が噴火して火山灰が毎日10センチも積もる様な環境では温暖な関西の様には往かないなと思います。

>肝付(長嶋)兼道−娘(新納忠秀長子養子:肝付兼康)−長男:肝付兼親、次男:長嶋次右衛門
>という推測です。
>可能性としてはあるのでしょうか。

>あと、2つ伺いたいのですが、
>1つ目は、通り名についてで、例えば、肝付兼続と肝付秋兼、大蔵義種と大蔵種親の様に後に来る場合、先に来る場合がありますが、規則というのがあるのでしょうか。
>2つ目は、例えば江戸期で名前に〇〇右衛門とつく家は、代々〇〇右衛門と考えて良いのでしょうか

さて、先ず、第1のお尋ねですが、可能性は高いと思います。
薩摩域には他の県と一つ違う習慣があるのです。
それは世襲または後継ぎの件です。
それは江戸期から”嫡子は長男”と家康が徳川氏の家光の世継ぎ事件の事で決めた事から以後そうなったのですが、薩摩は矢張り反骨の精神が強く、713年の朝廷に反骨した事件から江戸期までの歴史経緯から見てもでも判る様にまたもや違うのです。
嫡子は一応は長男としますが、実際は末子が多い事なのです。
肝付氏の氏の波乱に満ちた歴史的な経緯からして、前のお説のように 次男:長嶋次右衛門の扱いが違っていたと考えます。むしろ薩摩と云う地理性と環境性と古来の民族融合性からして合理的であると考えられます。特に産土神を主神としていた阿多倍一門大蔵氏系の子孫とすると、この末子の継承は納得出来ます。
太平洋民族とベトナム系民族と後漢民族と土着縄文民族の主要4融合民族の遺伝子が織り成す個性は”嫡子は末子”は”なるほど”と頷けます。
未だこの気風が色濃く残されていた江戸期では 次男:長嶋次右衛門の扱いは違っていたと考えます。

次ぎの第2のお尋ねの一つ目ですが、「通名」ですが、これには若干の決まりがあります。
それは「前付」の場合は、原則は「前付」です。
但し、世襲が働く場合で、妾子の場合で、跡目を受ける場合には原則は「後付」と成ります。
跡目を受けない場合は「後付」か別名を受けます。この様に嗣子の順序の仕来りは働きます。
但し、鹿児島の様に上記の「末子の扱い」が起った場合は「前付」と成ります。
跡目が養子や遠戚から跡目を入れた場合は、養子の場合は「後付」、遠戚の場合は「前付」と「後付」の両方の何れかに成っています。
つまり、世襲時の状況が違う場合で、氏家制度ですので、親族間の協議と思惑(本家の意向)に依っても変わる事に成ります。
普通は「前付」であったのに次ぎの跡目が「後付」に成っていた場合は先ずは妾子か養子か親族間協議・思惑(評価が低かった)事の意味と成ります。
ですから、幼名を使うのですが、成人に成った時の状況を配慮した跡目と非跡目、正子と妾子、長子と末子、婿養子と跡目養子、本家と分家で通名をかえることを考えます。
鹿児島の場合はこの長子と末子の変化が他県と異なる事が起こります。

次ぎの二つ目のお尋ねですが、これには2つのものがあります。
一つは江戸期中期から明治期に起ったもので、この官職名の世襲名は高額の金品を天皇家に納めてもらうものとがあり、武士階級でお金があれば名乗れる「一代限りの世襲名」です。
天皇家の収入源と成っていました。
江戸時代の奉行クラスか大名かは自分に箔を付ける為に、この一代世襲名を名乗りました。
歌舞伎で有名な遠山の金さんがそれに当ります。遠山左衛門尉下時定・・。

次ぎはこの慣習が無視されて終いには江戸末期から明治期に掛けて庶民が通常の名前として勝手に名乗ってしまったものです。右衛門や左衛門などで勝手に名乗った習慣名です。これで天皇家の収入源は激減します。その様に江戸幕府の末期で仕組んだと考えます

この3つの判別が必要です。殆どは青木氏一門と藤原氏一門以外の武士であれば一代限りの官職名です。
この場合に印鑑などを作った場合には仕来りとして返却する義務がありますが、あまり護られませんでした。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一門の長嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏等の青木氏族には、奈良時代−平安時代から天皇の親衛隊としての役柄(六衛府軍の指揮官)としての天皇を護る親衛隊の朝臣族の家柄であるのです。
藤原氏は外戚朝臣族ですので、永代の従四位の有品の位を持っています。青木氏は朝臣族であるので有品の位は最高位は宗家で永代の正三位ですが多くは従三位か従四位と成っています。

つまり宮廷の3門を守護する役目であり、その役目柄の官職が、左衛門、右衛門、正衛門に「佐」に上下の2階級、「尉」の上下の2階級に割り振られていて合わせて十二階に成っています。
この官職名を名乗れるのは世襲制で永代と成ります。
この官職を名乗れるにはその家柄が従四位以上の貴族階級並の身分である事に成ります。
従って、この条件に合致する家柄であれば跡目を受けた者が永代に名乗れる事に成ります。
これを永代で名乗れるのは極めて限られてきますが、青木氏系と藤原氏系と特別指定公家と成ります。

平安時代に北面武士、西面武士と呼ばれたものです。
後三条天皇時代とその後に政治の大改革(荘園制の廃止)を実行したので天皇の身の危険が高まって北面武士を隣室に置いた事で更に増えました。
元は大化期から天智天皇を護衛する役として皇族賜姓青木氏が臣下して武家を構成して侍と成って担ったのが最初の役目です。
これ等の事は青木氏の神明社の所に詳しく論じていますのでお読み下さい。
これらは「有品の制」又は「蔭位の令」によって定められています。

さて、お家がこの従四位上下以上の官職を永代で受けている長嶋氏であれば「・・右衛門」は正規の右衛門と成りますが、そうでない場合は一代限りか勝手に江戸中期以降に名乗った官職である事に成ります。

長嶋氏は青木一族ですので本来は名乗れる家柄と成りますが、宗家筋か跡目筋かで従四位上下以上の官職を得ている家柄であれば名乗れる筈です。

江戸期のものと成りますとこの処を調べる必要があります。
因みに結城長嶋氏一族本家は直系ですので名乗れますが、大蔵氏系と成りますと調査が必要です。
そうでなければ正規外の右衛門と成りますね。殆どはこの名乗りと成ります。
一代限りなのに無視して名乗り続けた事が起りました。然し、これは上記の事から簡単に判別が出来ます。系譜から何時から名乗っているのかでも判ります。
江戸期以上は正規外と見て間違いありません。
江戸期には朝廷の機能は全くなくなりましたし、天皇家を経済的に押さえ込みましたので、六衛府軍の組織は全くありませんので正規外です。室町期までは細々と保たれていましたのでありましたが。

ただ阿多倍一門の大蔵氏宗家筋は敏達天皇系の賜姓族ですので、親衛隊ではありませんし外戚筋に当りますので朝臣族ではありません。但し、従四位か従5位の有品の位はありましたが、大蔵氏宗家ではその可能性はありますが、その更に永嶋氏系の肝付氏の長嶋氏ですので本来は無い筈です。
逆につける事でその家柄の程度と虚偽の姿勢が読み取れます。

以上と成りますが、これらの詳細な事は本サイトの青木氏の論文の各所に論じていますので検索を使ってお読みください。
「有品の制」又は「蔭位の令」か「右衛門か左衛門」でルーツ掲示板か研究室の検索でお願いします。
更に調べる事が増えましたね。ゆっくりと少しづつで頑張って下さい。

では、又お便りください。お待ちしています。


  [No.854] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/07/02(Mon) 22:52:54

福管理人さん、有り難うございます。
鹿児島旅行お疲れ様です。羨ましい限りです。
私も、9月の初めに計画しています。今回は、初日は阿多倍王、阿智王ゆかりの物に出会えるかなと考え、湧水町から韓国岳周辺、旧隼人町を廻り、2日目は肝付町を訪れ、肝付氏代々の墓と高山城、3日目に鹿児島県立図書館で書籍を読みあさろうかと思っています。
運の良いことに、旅行の前の週は、奈良で講習会を受けることになり、足を伸ばし明日香村を散策し、於美阿志神社等も訪れる事としています。

『右衛門』件、非常によく分かりました。
江戸初期の長嶋次右衛門、江戸末期の長島勘右衛門どちらとも『右衛門』を名乗っていたので、この間の方々を繋ぐキーポイントになるかなと思い、伺った次第です。
結論としては、この間の方々が『右衛門』であったとしても偶然と考えるのが、自然で、可能性としては、代々ある程度の地位についており、武士階級でお金があれば名乗れる「一代限りの世襲名」か、一代限りなのに無視して名乗り続けたと言うことで理解しました。
『通り名』の「前付」と「後付」も理解できました。親族間の協議と思惑(本家の意向)については、現在から考えると少し驚かされますが、家を守る重要性を感じました。鹿児島県史料の系図を見ていても、様々な想像ができ、楽しく見ています。

ところで、『青木氏と日本書紀』を拝見していまして、気になる部分があり、下記に示させて頂きます。
<抜 粋>
入国経緯
第1次(前期)としては、隋が後漢を含む朝鮮半島を征圧する為に東征したが失敗し、そのために隋は弱体化して、結局、後漢と共に唐に618年に滅ぼされる。この時の2度の圧迫(隋唐)で難民が生まれ、その時、第1次(前期)は、先行して、後漢(高句麗)の漢氏(東漢氏)、司馬氏、秦氏、陶部氏、鍛冶部氏、等が先ず入国(582年頃前後)したとあり、渡来人の秦人、秦人部、秦部等(弓月君始祖)の秦氏の一部族だけでは約7053人居たと記録(宣化、欽明天皇期頃の記録:570-580年)にある。
この数字から観ると、従って、新羅百済の朝鮮系の渡来人を入れると、「部」の技能組織は、記録から調べると40−50程度と観られ、590−630年の間には40−50万人は入国していたと見られる。
第2次(後期:最盛期)としては、次に唐に圧迫(616-618頃)された後漢も滅亡し、618年前後頃か難民で入国、孝徳天皇期(650頃)が頂点となり、以後下降(670年頃)となり、後漢民の終わりは710年頃で200万人とある。(全難民は250-280万)

の部分です。この『後漢(高句麗)』は、後漢=高句麗と理解して良いのでしょうか?
高野新笠が武寧王の子孫とか遠戚と云うこともヴィキペリアなどにも記載があり、青木氏サイトでは、高野新笠は阿多倍の子孫の記載もあり、阿智王、阿多倍王は百済王朝と関連があるのかな?と素人考えを持ったのですが。
晋から唐代の後漢と高句麗の関係を教えて頂けますか。宜しくお願いします。


  [No.855] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/07/03(Tue) 12:57:50

今日は。静岡の長嶋さん
歴史を知る事は伝統を知る事であり、伝統を知る事は先祖を知る事であり、先祖を知る事は我を知る事の現れだと思います。
現在はこの伝統が薄らいでいる事が気に成ります。
余りにも喜怒哀楽に人生の目的を求め過ぎたことだと思います。
その為に仏教では厳しく誡めている「刹那主義」が蔓延り、恥も外聞も無く”その日その日の生活を楽しめばよい”等と実しやかに発言する人が多く成りました。
その日その日を楽しむ事は継続性のある「伝統」を軽視する事に成り、当然に先祖を軽視する事に繋がり何時しか自らを否定しなくてはならないことに成り付きます。
その為に若者の自殺行為が多くなるのですし、行き詰まると犯罪に走る事にも成ります。
次回の論文は家訓の9番目の論文に入りますが真にこの事について戒めているのです。
と云う事は、青木氏族にもこの様な刹那思考の蔓延った時期があった事を物語ります。
恐らくは、生きる事も侭成らなかった平安中期から室町期の下克上と戦国時代の時期に生きることの難しさが起りこの刹那思考が蔓延った事を意味しています。
弱い人間として観ると、色々な方法があると思いますが、私は、一番に自然に、自らを律し自らを保つには歴史を知る事から始まると考えています。
この様な事を考えて歴史探訪をされるとより一層深いところの先祖を知る事に成ります。
それが歴史の羅列だけでは無く「真の伝統」を知る事に成るのではと考えます。

さて、余談は過ぎましたが、前回のお答えにご理解いただきましたか。ありがとう御座います。
では、今回の2つのご質問にお答えいたします。
先ずは最初のお尋ねですが、
後漢=高句麗の件ですが、この検証には次ぎの「3つの要素」で考えなくては成りません。
一つは「人」の括りです。
二つは「場所」の括りです。
三つは「時」の括りです。

一つ目の「人」の括りではここでは「人種」或いは「民族」と云う事に成ります。
「後漢」の人種は「漢民族」と成ります。
高句麗は「漢民族」なのかという事に成りますが、明らか正確には違います。
純粋な漢民族ではありません。光武帝が征圧して興した東国の中には朝鮮族まで含みますが、統治時代に血縁して融合民族が生まれましたが、三国志に書かれている純粋な漢民族ではありません。
この「後漢」と云う括りに歴史的な経緯から判断に難しさがあります。
筆者はむしろこの「後漢」に付いては「後漢国」と云うよりは「後漢人」と捉えて論じる必要があると考えています。
国として考えるとこの歴史的な経緯が複雑で間違いが起りやすいのです。
確かに、高句麗は中国系朝鮮人の括りに入りますので、歴史的な経緯からすると後漢人との血縁族と成ると思いますが、光武帝から21代目末帝の献帝まで石秋王の子供の阿智使王と孫の阿多倍王は東国域に分布した後漢人であります。しかし、この時には最早、国としての括りではありませんでした。
漢人の三国志の中に住む後漢人です。この中国の東域には後漢人の三国志の通り小国が乱立し遂には統一して献帝の傀儡政権の魏が起こります。阿智使王や阿多倍王はその乱立した民族の王朝族の末裔として扱われていたのです。(900年代の後漢・こうかんと間違う)
故に後漢人として括るのであれば東国の西よりの域に定住した人種と見るべきです。
依って、純粋な「高句麗国」又は「高句麗人」という事ではありません。
論文中の「後漢」の表現は全て「人」の括りでご理解して頂きたいのです。必ずしも国としての括りではありません。

二つの「場所」として、論じれば、国として括れば「高句麗」はその西域の一部である事に成ります。
上記の通り「人」を括りとして論じていますので厳密な「場所」を特定した国の括りではありません。
後漢の場合は三国志から観ても「国」の括りでは論じる事は歴史的経緯より誤解を生み且つ論じる事はかなり難しいと考えます。(後漢難民17県民を配慮して目安として表記したものです。)

三つ目の「時」の括りとしては光武帝より献帝−石秋王−阿智使王−阿多倍王までは「国」と同じく「時」も論じるには同じ危険を潜んでいます。
以上の様に、「歴史的経緯」、つまり、「三国志の内容」から「人」の括りで論じる事が大切で必要であると考えます。

全て、歴史に限らず仏教や禅宗の教えにもある様にこの世の森羅万象はこの「3つの要素の如何」(三相)を考慮して初めて正しい結論を導き出す事が出来ると解いていますし、又、私も全く同じ考え方を持っていますし、この考え方が「青木氏家訓10訓」にも成っていますので正しい判断要素だと信じています。
「後漢国」、「後漢人」、「後漢期」と限定すればその限定した括りで思考判断すれば良い事に成りますが、「後漢」とした場合は、この「3つの要素」を幾らかの比率での意味あいを以って表現している事に成ります。依って「阿多倍」のことを論じる場合は「後漢」として表記し「人」に重点を置いた意味あいの表現方法と成ります。
当然に、「後漢国」「後漢人」とする場合は、「後漢国」は光武帝から献帝前の期間での国として明らかに存在した状況をさす事に成ります。「後漢人」は光武帝から阿多倍までの人の状況をさす事に成ります。
これ等の事を理解して頂く為に、青木氏の研究室には個々に分離して論文を記載しています。それをご理解頂いた上での「後漢」の表現と成っています。青木氏に関わる事としてこれ等の説明を一つにまとめた中でして表現し論じる事は物理的に困難ですので、全て「後漢」としています。

(注釈 実は、科学系の論文と違い文系の論文はこの様な微妙な表現があり、筆者の苦手とする処でサイトの全ての論文ではいつも何回も見直して修正編集を繰り返す始末です。つい”判っているだろう”と頭の中で無意識に思ってしまって不祥に成ってしまうのですが、一般の人として”後で読み直すと何を書いているのか判らない”と云う事が異たる処で起こり修正編集する始末です。技術系論文はわかっているだろうとする基本的な事は省くが常道で、判らない人は調べて技術力を高めるが論文の目的ですので癖が付いてしまっているのです。上記、下記のご質問のお答えも「三国志」の事が関わりますので、済みませんが書き込むと大変な長分に成って仕舞いますので、時期を見てお読みください。)

さて次ぎは二つ目のご質問ですが、上記の論調手法に従っています。
敢えて大まかには日本の帰化人は「7つの民族」の「融合の比率」から判断して大きく国に関わった帰化人は3つになると考えます。(詳しくは研究室に)
その内の二つはこの後漢と朝鮮の地域からの帰化人と成ります。
後漢は2期に渡ります。
朝鮮も2期に渡ります。
この二つの帰化人が良く同じとして間違われるのですが、別なのです。
朝鮮系は主に南朝鮮半島域の百済国の崩壊によるものですが、第1期は応神王(応仁王)が大阪湾に5世紀はじめに大船団で入国し岸和田の泊まりから上陸して、当時、関西の国を5族でのヤマト連合国家を形成していましたが、先ずその一つの「紀族」と「巨勢族」を攻め滅ぼし、紀伊半島の新宮から奈良盆地に入りました。そこで盆地の状況から補給路が絶え、他の3つの族との戦いで苦戦します。
そこでそのままでは全滅する恐れから休戦を実施し、この5つの族との話し合いを行い、結論としてこの朝鮮族を含めた6つの族に大王を定め、これに朝鮮族の応神王が初代連合国家の大王と成ってヤマト王権を樹立させます。
そしてこの応神大王がこの5族との血縁族を造りヤマト王族が成立したのです。
これが正式な天皇家の初代の王であり後に天皇と呼称した人物です。
この時に、正確には判明していませんが全難民は50万人程度(1018年頃まで)ではなかったかと言われています。
ボートピープルとして入国した難民の朝鮮人には第1期と第2期の帰化人が入国しています。
この第1期とも云われている物部氏や蘇我氏部等氏が王権内で後に力を持ちます。
間違いを起している問題はこの第2期の入国期と後漢の第1期の入国期がある程度の範囲で重なっていた事にあると判ります。
ただ問題は入国主な地域です。朝鮮族は一つは船で下関に渡りまた船で瀬戸内を通り大阪湾に入り、そこから関西に移動して来て定住しています。
しかし、後漢は福岡に入り其処から先ず南下し九州全土に流れ定住し、その後に中国地方域までで止まっています。一部は信濃甲斐に移動させられていますが、先ず地域が異なっています。
次に朝鮮族は上記の様な経緯から関西に大和に3世紀頃の元より繋がりや所縁のある所に移動定住しています。又、後漢の帰化人の様に正式な帰化の申請をしたと云う経緯が見付かりません。
つまり、「時人場所の経緯」が全く異なっているのです。他にも組織で入国した後漢族と無組織で入国した朝鮮族との大まかな違いなど沢山ありますので、その判別は簡単です。
この事からも下記のご質問のお答えの一部と成ります。(「武寧王」の件は余りにも時代考証の稚拙説)
無秩序で入国し帰化した人種は1018年頃を境に一挙に無くなりますが、大蔵種材による九州自治(「遠の朝廷」と云う称号を与えられ「錦の御旗」を個人として受ける)の大宰府の太宰大監の時から武力によってこれ等の海族のような行動を採る無法入国者をブロックします。ここで徐々散発的に発生していた後漢と朝鮮人の入国は終わります。

さて、ヤマトの国に大いに関わる有名な「武寧王」は「百済国」の第25代の王(在位:502年 - 523年)ですが、「武寧王」は若い頃大和に長く人質として滞在して、その時に生まれた子供が「淳陀」と云いますが、日本の古い書籍には良く出てくる人物で、そのまま定住したこの末裔子孫が「高野新笠」だとする説があるのですが、これは阿多倍が勲功として青木氏が支配する伊勢北部伊賀地方を半国割譲して薩摩大隈の隼人(大隈も半国割譲)からここ伊勢に住み着きます。この子孫と淳陀子孫だとして混同している説ですが、何の証拠もありません。百済と後漢の違いです。
百済は新羅・高句麗に圧迫、後漢は隋・唐に圧迫ですが、これらの経緯の違いがよく間違われています。
結論は現在では全く別で、上記した現在確定している帰化人の内容から別のものである事か判っています。この「武寧王説」を主張している事にはある種の思惑が介在しています。
又、日本書紀などに記載されている資料と伊勢の地理的な事や阿多倍がここに住み着いて「大蔵氏」や「たいら族」(国香−清盛の5代)を発祥させた事の史実として確定していますので明らかに異なっています。桓武天皇期にはこの阿多倍王の別名の高望王(高尊王 朝廷命は平望王)に勲功を与えた史実もありますし、「高」の字句の使い方からも「高野新笠」は孫娘と成っています。この「高野新笠」は伊勢に住んでいた事も判っていますので、それと伊勢青木氏の始祖の施基皇子の長子の光仁天皇と同じ隣の伊賀北部に住む「高野新笠」が血縁して桓武天皇が生まれていますので、まだこの様な史実が判明しない頃の造り上げた推測説で現在では間違い無く「淳陀」の末裔とは成りません。「淳陀」は飛鳥と成っていますので地理的にも違っています。
(桓武天皇は平安遷都 伊勢は天智天皇期の皇祖神遷座決定地 光仁天皇は桓武天皇の父で伊勢の住人 桓武天皇の母は高野新笠 高野新笠は伊勢の高望王の孫娘 歴史経緯も明らかに違います)

この様に上記の「3つの要素」を明らかにして行くと「・・説」がどの様な説であるか、またどの様な思惑と背景で説が出来ているかは判って来ます。
青木氏と阿多倍子孫とは伊賀古代和紙でも繋がっていますし、源平の初戦の「以仁王の乱」の時にもこの縁続きの所縁で主謀者の源頼政の孫の2名(宗綱と有綱)の助命嘆願がかなえられ日向に配流しています。(頼政の孫の三男京綱は伊勢青木氏に跡目相続として入る 宗綱子孫が日向青木氏)
歴史的な事は現在判明していてこの「武寧王の説」は上記の2つの帰化の史実の不祥期に論じたもので思惑は別にしても古過ぎます。
「高野新笠」の事は青木氏と大いに関わりのある人物として青木氏のみならず、血縁族の他氏でも研究されていて「高野新笠」の事も研究が尽いています。
(研究室の個別の論文を参照 「晋から唐代の後漢と高句麗の関係」に付いては「三国志」と「後漢書」をお読み成れば良くわかります。)

恐らくはお家はインターネットのところでこの珍しい古説を観たものと考えますが、インターネットでの歴史解説の説には過去の資料の良悪は別としてそれを根拠に論じていますし、思惑背景が介在させています。そして室町期中期以降の資料には時代背景から、これらの資料にはこの良悪の思惑如何が挿入されていますので先ず用いる際には注意が必要です。
氏や団体が遺した思惑の入ったこの時期の資料を正として殆ど論じています。その為にはこの「3つの要素」と「3つの手段」で充分に検証して用いる事と又信じられる事をお勧め致します。

追伸
さて、前回のお答えに書き込まなかった事があります。それは大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の右衛門、左衛門の世襲名を一代限りか永代かを調べるには、上記の「3つの要素」を基本でお調べに成ると良いと思います。
と云うのは、一代限りの世襲名であるとしても長嶋氏には永代として使用できるある時期である特別な根拠があるのです。
前回のお答えで述べると誤解を招く事になるとして記述しませんでしたが、先ず一番最初にこれを名乗った人物は誰なのか、何時なのか、何処で名乗ったのか、そしてそれがどの様な理由、目的、手段の3つの要素の何故なのかを確認する必要が出て来ます。
そこで前回には敢えて記述しませんでしたが、先ず世襲名の基本をご理解頂いたので、そこで私は、この手法で以前に調べた事として次ぎの事を改めて今回記述します。

「九州永嶋氏の発祥出自の環境」
先ず最初に名乗った人物には、大蔵氏から母方の跡目の永嶋氏を名乗った時、つまり、永嶋氏を名乗る以上は関東の藤原氏の北家の名籍で、且つ「関東屋形」と呼ばれた氏に相応しい家柄を示す官職を付ける必要が出てくる筈です。ただ名乗れば良いと言う訳には氏家制度の中では行きません。名乗る以上はこの行為が絶対に必要です。名乗る特別な理由が必要で在った筈です。
昔の人が大事にした人間としての行為の「大儀明文」です。その場合は「家柄身分の誇張」が氏に執っては絶対に必要です。特に九州全土を統治している大蔵氏には欠かせない事であります。
日本最大名籍で日本最大最古の大豪族の大蔵氏から氏を興すのですからそう簡単ではありません。
それに相応しい身分と家柄が必要です。それには母方の永嶋氏にも勝るとも劣らずの永嶋氏と長嶋氏が持つ最大官職を名乗る事が必要です。大儀を作る以上は取って付ける訳には生きませんし、その名乗る理由と目的とそれに相応しい手段がはっきりしなくてはならない筈です。
つまり、まずは”この名籍の大蔵氏に執ってもそれに見合うものは何か”です。
朝廷が承認した正式な名籍の皇族の血筋を引く大蔵氏族にも欠けているもので「武家」としてただ一つありました。それは、「六衛府軍大将・近衛将軍」です。それは天皇に継ぐ最大権力者です。
前回のお答えの三門を守る「近衛軍の長官」です。十二階の階級に分けられた「北面武士の長官」です。
平安中期前は「武家」の長の「3つの発祥源の青木氏」の最高官職であったものが、平安後期の後に武家では無く、一時、公家の藤原氏北家摂関家に引き継がれたのですが、これが武家にとって何物にも代えられない最大の権威です。(「たいら族」が台頭して来た時期)
ここから「征夷大将軍」や「鎮守府将軍」や「鎮西将軍」(征西将軍)などが任命される仕組みでしたが、長嶋氏・永嶋氏は永代のこの「鎮守府将軍」の家柄です。又阿多倍の次男の大蔵氏の兄の長男坂上氏は「征夷大将軍」の家柄でもあります。当然に大蔵氏から何等かな理由で永嶋氏を継承する以上はこの二つのどちらかに近い官職を継承する必要があります。そして且つ大蔵にとって名誉である事が必要です。
然し、どんな場合でも「朝廷の勲功」による「任命」が無くては勝手に官職やそもそも氏までも名乗る事は出来ません。
そして、「朝廷」も任命する特別な根拠無しには出来ません。ではこの時期にどの様な根拠があったのでしょうか。
何かが在った筈です。大きな理由が在った筈です。(大蔵氏に大事件がありました)
当然に従って、秀郷一門からの任命は、本来無い筈の大蔵氏支流一門の形と成りますが、そこに本家筋の「永嶋氏」を名乗る以上はそれにふさわしい世襲名の官職を名乗る必要が出て来ます。
「氏家制度」の社会の中で「八色姓制度」の縛りがある以上は名乗る根拠が必要で、勝手に大蔵氏が朝廷の認可なしでは氏もこれに伴なう官職も名乗る事は絶対に出来ません。
しかし、では史実は名乗っている訳ですから、それが誰で、何時であったのか、どんな理由で、どんな目的で、どの様なやり方かで大きく変わってきます。
この時期は平安末期−鎌倉期に重なる複雑な時期とも成ります。
恐らくは支流であった事から一代限りの世襲名を朝廷に申し込んだ筈です。或いは朝廷側から任命した筈です。この事で当然に名籍の出来事ですので、朝廷の中で激しい政治的な駆け引きがあったと考えられます。然しながら、朝廷も大蔵氏もその申請認可には拒絶する根拠はありません。
朝廷は、「官僚の首魁の大蔵氏」−「斎蔵の首魁の永嶋氏」の関係の事は承知している筈ですので、認める必要が出て来ます。
(この時期は江戸期の誰でも金のある者が幕府に申請して後に朝廷からもらえるものではなかった。)
そうすると系譜・添書から絞り込むと、「種秀」か「種親」か「種武」かの3人の誰かと成ります。
そうするとここで、「種輔」より3代目の「種直」(大蔵氏族原田姓を名乗った)が太宰大監であった時に、阿多倍の末裔の同族の「たいら族」の「清盛」にその立場を奪われた大事件がここで起っています。
その直後の「種秀」ですので、朝廷は代々九州全土の自治を治めていた名籍の大蔵氏を怒らす訳には済まなく成ります。恐らくは、怒らせると朝廷は成り行かなくなります。
なぜならば、九州全土と陸奥域を相手に戦いとなる事は必定です。両方から最大勢力に挟撃されては太刀打ちできませんし、この時期、藤原氏、源氏、平家はこれに対抗する勢力は全くありませんでした。
後白河天皇(この事件の後すぐに譲位する)と朝廷は「たいら族」を引き上げ、且つ大蔵氏の財力の一部を吸い上げる為にこの様な裁定を清盛に強引に命じたのです。(清盛も武家の勢力を高めるには瀬戸内の権利を大蔵氏の後押しで掌握した時からこの事は期待していたのです)

(その同族の大蔵氏は税を全九州自治を名目に殆ど納めていなかった。記録から主要国1国の1/5程度 この有名な事件で「たいら族の清盛」は「宗貿易」を始め財力を蓄えたのです。その太政大臣まで上り詰めた最大のきっかけでした。)

この事件を朝廷が納めるには、犯罪も犯していないで奪われた大蔵氏の官職「太宰大弐・太宰大監」に匹敵する官職を与える必要に迫られたと観られます。
藤原北家一門の中から藤原氏北家筋の秀郷一門の永嶋氏を名乗らせる事と、太宰大監に匹敵する官職を例外的に支流一門として与えて治めようとしたと考えられます。
同族ではある「たいら族」の清盛もこの時期まだ大蔵氏の反乱は清盛の勢力(国数、石高、貿易財力の全てに1/10位の勢力)の及ぶ範囲ではありませんから戦いだけは何とか避けようとして動いた筈です。
然し、九州の「太宰大弐」の官職が「たいら族」発展の為に絶対的に必要に迫られていたのです。
(史実から現実に動いた 現実に同族の衰退事も嫌った史実あり)
それに見合うものとして「六衛府軍」の長の「3つの将軍」に継ぐ「右・左衛門佐上」を与えたと考えられます。
これを直接大蔵氏には与える事は仕来りにより出来ず「朝臣族の身分」の賜姓青木氏か秀郷流青木氏の藤原氏ではなければ成りません。その手段が名籍の筆頭の「永嶋氏」の氏の血縁授与なのです。
これが秀郷一門の支流(宗家の永嶋氏系譜添書より政略血縁あった)である為に仮に一代限りであったとしても家柄身分の系列として永代を名乗る事は「蔭位の令」に従い可能と成り不思議ではありません。
上記の事件の経緯から永代を天皇家の仕来りから正式には困難であっても暗黙で認めたと考えられます。暗黙で認める根拠は充分にあります。
これが大蔵氏宗家から別の氏を興して名籍の永嶋氏を名乗った経緯でもあります。

(これは平安末期の朝廷内での大蔵氏−藤原氏の関係での政略血縁と観られる。「跡目養子」か「嫁入り」かは現在不明だが一般的仕来りからは永嶋氏からの「跡目婿入り」が原則です。このどちらかで意味合いは異なるが 大蔵氏系の意味合いが強い事から「嫁入り」ではないかと考えている。 鎌倉期に興った永嶋氏から長嶋氏の継承は伊勢長嶋氏からの「跡目婿入りで継承」である事は状況判断から判る事から平安期のこの件では宗家永嶋氏からの「嫁入り」ではないかと観ています。)

では、”この3人の内の誰か” 事件性から観て添書から読み取れる人物は「相伝の種秀」>「太郎兵衛の種親」>「種武」となりますが、「種武」は菊地氏と血縁しているので低いと成ります。
添書より明らかに「兵衛」を最初に名乗ったのは「種親」です。
しかし、添書では「種秀」は「相伝」とありますので、「種秀」の子供の妾子の「頼種」は僧侶となり世継ぎの子供が居ませんので、「兵衛」の祖父の弟「種嗣」のその孫の「種親」に「永嶋氏の跡目」を継がせていますし、添書からその「兵衛」を名乗った最初の人物と成ります。
そしてこの時期は平安末期で平家全盛期と完全に時代考証は一致します。
これ以後は鎌倉期の「肝付氏−長嶋氏の発祥」に繋がる境目です。
この間65-80年の3代から4代以内の間です
(別のレポートで論じている朝廷外の関係から再び平安末期の「大蔵氏−永嶋氏」の関係から鎌倉期の「永嶋氏−長嶋氏」を名乗る時にも繋がる根拠は存在した。)
つまり、それ以外には大蔵氏と九州永嶋氏の系譜添書には「兵衛」は居ません。(九州大蔵氏にも)

これでお判りに成ると思いますが、本来、世襲名の無い筈の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の世襲名の名乗りの元継承は大蔵氏系日向永嶋氏の「相伝の種秀」と「兵衛の種親」との2人と成ります。
その後は以前のレポートの通りの世襲した直系氏孫(肝付氏族の長嶋氏)がこの「兵衛の官職」(「左衛門佐上」)を引き継いだと観られます。この引継ぎには従って上記の「永嶋氏継承の経緯」より問題は無い事を意味します。

念の為に「種秀」の父「種有」と祖父「種貞」は「右馬允」の官職を引き継いでいました。
突然に父や祖父の官職より数段の上の名誉ある官職に成っています。これには何かあったことを意味するのです。
更には大蔵氏は代々「従5位下」で、永嶋氏は代々「従四位下」の有品の身分差があり、四位以上が公家貴族に成れる仕来りですから永嶋氏の方が上です。(この2回の身分立場の差の扱いは実に大きい)
ですから、本来は大蔵氏族は「官僚族」の「五位」ですので「右・左衛門佐上」には成り得ない身分です。
其処に永嶋氏を血縁で継承させる事で実質大蔵氏を引き上げたのです。
曽祖父の「種輔」は最高の官僚職の太宰大監、長門権守、岩門少卿の官職を持っていましたが、曾孫が更に武家の最高の名誉を得た事を意味するのです。
これは「公家貴族族の摂関家藤原氏北家」に対して「官僚族の大蔵氏」が身分的に並ぶ立場と身分を朝廷内に得た事を意味します。
「太宰大弐」等の立場は失ったが、この直ぐ後(大蔵氏系永嶋氏発祥後 「右・左衛門佐上」任命)に官職を清盛に奪われた前任の「大蔵種直」(原田氏)の弟の「大蔵種俊」(三原氏)に「太宰大監」(長門権守、岩門少卿も)の立場を再び本領と共に安堵されます。
これはつまり、「右・左衛門佐上」の武家としての「官僚族の大蔵氏」は「最高権威を獲得した事」で「貴族公家の藤原北家筋と並ぶ位置」まで上昇したし、「藤原氏と縁続き」に成り”「失った物無し」”の結果が残ったのです。
これらの対応策は、恐らくはこれは同族(阿多倍一門−清盛5代前同族)の大蔵氏を護る「たいら族」清盛の一連の策略であったと考えられます。
「宗貿易」をするにしても九州域の協力を得なければ貿易する品物も調達する事は出来ません。
何しろ阿多倍一門の組織は「物造りの部組織」であり、つまり、「品部の協力」無しでは成り立ちません。
まして、先祖の大蔵春実の時に「純友の乱」(海族問題)が起こりますが、この時に大蔵氏は瀬戸内全域と九州海域の警察権(瀬戸内令外官追捕使)を正式に獲得しています。そして同時に「大蔵春実」は同族「たいら族」をこの瀬戸内海域に導いていて安芸−播磨守護にして、且つこの域の問題の海族を配下にもしてもらっているのでこの恩義が清盛にあります。”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われる程のこの海域の警察権を持つ大蔵氏を敵に廻しては「たいら族」発展の基礎となる「宗貿易」どころか「太宰大弐」等の官職さえも名前だけのものと成り得ます。大蔵氏族の協力無しでは成り立たないのです。
だから、大蔵氏の永嶋氏継承策が完了すると同時に「大蔵種俊」に本領安堵したのです。
当然役職上、この指名権利は「太宰大弐」の清盛にあります。朝廷は当然に清盛の指名ですから任命せざるを得ません。清盛(たいら族)は「瀬戸内の一連の恩義」がこの同族の大蔵氏にあります。
つまり、これは明らかに「たいら族」の「清盛の一連の策謀」だったのです。
そして同族の大蔵氏の反発も避けて、大蔵氏の身分を引き上げて大蔵氏の九州一帯の勢力を高め、藤原氏北家筋と縁続きに成り一族の安定を図り、且つ一族一門の争いも避け、更に互いに両立する為にも「宗貿易」からの利益を共有したのです。同族2氏が共に発展する道を選んだのです
確かに「種俊」にこの戻す本領安堵の権力は、この時、既に朝廷内では清盛だけにあって、「(保元)−平治の乱」の「信西」(藤原氏南家)の死亡後(1160)に藤原氏摂関家から「たいら族」清盛に朝廷内の実権(後白河院政)は完全に移っているのです。

「大蔵氏系永嶋氏発祥」(1155−1159)にはこの様な経緯があったのです。そしてそれをある歴史的経緯の引き継ぎで大蔵氏系肝付氏族長嶋氏が発祥したのです。それが「・右衛門・・」なのです。

(この時の摂関家の長は有名な凡庸人物 上記した一時期の異例の公家の「近衛大将」に祀り挙げて飾り物になった人物でここから政治を推し進める能力が低下して摂関家は衰退した。変わりに清盛の実権は高まった。)
(「青木氏と守護神(神明社)]の論文にも詳しく論じています。)

この「3つの要素(人時場)」と「3つの手段(理由目的手段)」を組み合わせてそれで答えを導き出して行く方法で調べ上げて行くとこの様にこの時期の「永嶋氏の生き様」が見えて来て結論が出てきます。
お家のご先祖の本当の生き様がプロネタリュウムの様に映し出され見えて来るのです。
筆者が思う大事な事とは、この「生き様」を描きあぶり出す事ではないでしょうか。その上でお家の独自の系譜が出来上がるべきと考えますが。
他の青木氏に関わる論文も青木氏族としてもあわせてお読みください。
そうすると色々な事が見えてきますよ。
これが前回のお答えです。

この様に「3つの要素」と3つの手段」を以って、インターネットなどの一つの資料だけに余りに頼らず、「歴史的経緯」とあわせて調べてルーツを割り出してください。注意する事はインターネットの資料には必ずエラーとバイアスを持っています。このエラーとバイアスをどのように扱うかは個人の自由ですが、老婆心ながらご注意申し上げます。
要するに、「3つの要素」と「3つの手段」でエラーとバイアスを小さくして、その事の「繋がり」を導き出す事が大切です。
ネット上等の情報はあくまでも相対的な短編的な情報で必ずしもお家の情報とは絶対に成り得ません。そんな個人事はネット上等では表現と論じる事は現在では法的に不可能だからです。
ましてエラーとバイアスを持っているのですからね。ネット上等では陥りやすい欠点です。
あくまでもデータの一つです。まして現在では個人情報保護で個人事と氏の事を書く事は違法と成っていますから余計に無理と成ります。
大蔵氏と永嶋氏の添書や特別な系譜を調べたから出来た個人事で、今回の筆者のお答えもお家のものとなっていますが、ネット上等では不可能なのです。より個人事に近づけるには「3つの要素」と「3つの手段」の組み合わせで個人事になる筈です。
実はこれも科学系の間違いを起さない論文の絞込みの手法です。(このことも詳細は研究室に記載しています)

では又判らない事が有りましたらお尋ねください。


  [No.858] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/08/12(Sun) 00:21:17

副管理人さん、有り難うございます。
副管理人さんの仰る通りです。僕は、東京オリンピックの辺りの生まれなので、古き良き日本は語れませんが、寂しい世の中と感じます。主観的に物事を考えるのは良いのですが、それが、過剰となり、自己中心となりすぎているように感じます。相手を思いやったりする心が欠落してきている人が多いように思えます。残念なことです。
『仁』、『義』、『忠』の心を自分に時々問いけて、自分を確認しなければと思うこともあります。
 『後漢=高句麗』、高野新笠と武寧王のお答えよく分かりました。
献帝または霊帝から阿智王へと続く系図を見ていると諸説があり、
霊帝→延王→石秋王→阿智王・・・
献帝→石秋王→阿智王・・・
漢高祖→石秋王→康王→阿智王・・など
僕なりの素人的推測で、献帝から後漢王朝嫡流は、永嘉の乱309年劉秋が家族共々匈奴の将軍に殺害され途絶えたと言われているが、難を逃れ、朝鮮半島(帯方郡あたり)に渡り、国を立ち上げた。そして玄孫である阿智王の代で、618年頃、息子阿多倍王、17県の民とともに、日本へ渡ったのではと考えたのです。
そこで、309年から618年が問題となり、国を立ち上げは多くの国の集合体である馬韓で、後に百済となり、百済王族との血縁もあり、百済衰退と共に、先験的に日本に退避した。そうすると、阿多倍王の子孫高野新笠と百済王族武寧王との遠戚も繋がるという推測し、質問させて頂いたのです。
献帝→不詳の太子(延王?)→劉康(康王?)→劉瑾→劉秋(石秋王?)・・→阿智王→阿多倍王
あくまでも、推測でこれから何か分かっていければと考えています。

また、追伸して頂いた大蔵氏族肝付系長嶋氏の『右衛門』の世襲名が、一代限りか永代かについて、なるほどと感動してしまいました。やはり、その一部の狭い視野で物を見るのではなく、「人」「場所」「時」の手法、その時代の背景をもとにした手法、今後、ルーツを紐解いていく中で凄く参考となりました。それに、仕事をしていく中での、ものの考え方にも応用していけることであり、その点においても感謝いたします。
インターネットの情報については、鵜呑みにせず、バイアスの確認も行い、上手くフィルターにかけ、参考にしていくようにしていきます。有り難うございます。

また、4つの質問をお願いします。
1.篤姫の小松帯刀(肝付尚五郎)が被っていたような陣笠とは違い、もっと平らな形の陣笠を被り、城に入る事のできるような人は、藩に於いてどのぐらいの地位にあるのかを調べようと思ったのですが、あまり良い資料が見つからなく、詳しく分かる書籍、図鑑をご存じですか。
2.『温故に身を寄せずんば、身を徹し償い奉り、次右衛門ここ二代、三代とめい(名?命?)を尽くす』を副管理人さんでしたら、どう理解致しますか?

3.例えば、2.から感じたのですが、歌舞伎などで〇代目中村、史料などで系図を見ていると肝付甚右衛門→肝付甚右衛門と云ったように、何代か、名を受け継ぐことがありますが、これを受け継ぐ理由とか、何代続けるとか制度では規則があるのでしょうか。
以前、長嶋次右衛門→長島勘右衛門について
『分家の分家、分流、分派が「襲名」を名乗る事は出来ませんので同家の本家筋。
長嶋次右衛門の”次”の意味は本家筋を継承した時に使われる当時の慣習で”継ぐ”の意味を持っています。
次に長島勘右衛門の”勘”の字ですが、これも一つの意味を持っています。
未勘とか後勘とか使いますが、この”勘”は”後の定められた人”または”長男や嫡子の後継ぎ”の意味があります。
つまり勘介は家の主人の親に対して次に家を継ぐ嫡子だとしてこれを明確にしていた慣習名です。
と云う事は、長島勘右衛門は本家に成った分家が何代か後に、例えば4代として本家を継いだ長嶋次右衛門から観ると、先ず2、3とあって”4代目を夜叉孫の直系の”嫡男”が継ぎましたよ、本流の者が継ぎましたよ”と云う事を意味しています。「次」と使えばそれが本流と成った時に何時か「勘」と応えるのが慣習です。”最早本流ですよ”と世に宣言するのが慣わしです。
この事からも長島勘右衛門と長嶋次右衛門は同家の後継ぎ者である事が判ります。
尚、依って長嶋次右衛門から長島勘右衛門までは養子縁組などの変化は無く直系による男系跡目で引き継いできたことを意味します。』のお答えを頂いたのですが、
長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→(長嶋次右衛門→)長島勘右衛門
って事も考えられるのかなと思いましたので。

4.阿多倍と安部氏のレポートでところが、『この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています。』の記載があります。この阿倍という地名が現在のどの辺りか分かれば
今回、の鹿児島旅行では、肝付町と霧島連山周辺へ行こうと考えている為、その辺りにも足を運ぼうと思います。自分で調べてみましたが、探すことができませんでした。宜しければ教えて頂けますか。

いつも質問ばかりで申し訳ありませんが、また宜しくお願いします。


  [No.859] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/08/13(Mon) 16:42:26

静岡の長嶋さん 今日は。お元気ですか。

暑くなって、原稿の整理もなかなか進みません。
暑いのが弱いタイプですので、頭が都合良く回転しません。

何とかそのルーズに成った頭を働かして、少しづつで整理を進めています。

さて、そんな中でお便りありがとう御座いました。

私見にご理解いただきありがとう御座います。
日本が或いは社会が近代化が進めば進む程に、社会が個人に与える責任はよりシビヤーに成り、より個人の能力を要求されます。それは私たち年代の者よりお家の様な年代の方、さらには現在の若者とその近代の進んだ高い能力で維持していく国は社会は人間の限界に近い能力を要求して来ます。
そうでないと、社会も個人も生きて行く訳には行きません。
当然そうなると、個人はその与えられた限界の能力を発揮しようとしてより個人資質を追及し無ければならなく成ります。そうなると、必然的に「個人性」が強く成るのは人間の脳の性です。
その端的に表していて原因の一つとしてあるのがコンピータです。(情報量の整理分析能力の負担)
私達の時代ではなかったのですから、より「近代の能力」を要求されているかが判ります。
かなりの負担増と成っている筈です。
従って、現代の個人性、利己的な態度は個人の意思や資質に関わらず等しく出てくるのも仕方のない事だと思い一理あります。現在の社会現象にこの事が出て来ます。
私は社会が要求している結果であってその「必然的な歪み」として社会現象にあらわれているのであって、日本人の根底にある潜在的な資質まで変化させたものではないと考えています。
当然に、「伝統」等が位の一番に無視されてくる筈です。
潜在的に変化していないのであれば、今は伝統に理解を示されなくても何時か過去のその伝統に目を向けてくる筈だと考えています。(この世は輪廻)
現に我々現在の者が過去の人から観ればより個人性が強くなったと観られている筈ですから、今、理解が示されなくても今その「伝統の記録」を遺しておく責任があるのだと考えています。
歴史を見れば、同じ様にその事を繰り返しています。ただ、「伝統の記録」が少ない所を観れば、今から観れば「伝統の記録」を残す努力を過去は少し怠っていたとも観られます。
お家にしても、私にしてもその努力を今していると見ています。(幸いCpがあります)
潜在的な資質が余り変化していない証拠に東北の震災の時の日本人のとった態度です。
日本人には脳に大きな衝撃を与え遺伝子的な資質を引き出したのだと観ています。
今のオリンピックの日本人の興奮度でも見ると良く判ります。
「伝統」に目を向ける余裕が全てに少なくなった、又はないのだと思います。
私は、[青木氏と守護神(神明社)]のところでも論じましたが、明治から150年の身分階級が無くなり、「自由な血縁融合」が起こっている100年以上経った今が、日本人の融合が完全に興った時期で、新しい日本人が生まれて来て、「雑種融合」の利点の「優秀性」が今の若者に出てくる時期だと観ているのです。
個人性と自由性を大いに発揮し、その裏では民族性の高い態度を示している事として、オリンピックがそれを物語っています。私たちの時代には何か一つの事に拘り頑なところがありました。
それが取れて開放されたと見ていますので、これからは局所的にではなく日本人と日本が広い意味での進化を遂げる時期と観ています。確かに伝統のようなものが無く成っていて寂しい気がしますが、これは一時期仕方がないとも思えます。兎に角は反面で昔に比べ相対的に今が”柔軟性が生み出され民族が優秀に成っている”と観ているのです。
それだけに記録を遺したいと考えます。

さて、本題のご質問やご意見に入ります。
後漢の件ですが、お答えご理解頂けて幸いです。
確かにこの件では諸説がありますが、本説は研究が進んで2つくらいだと中国や韓国は観ています。
私はその内の一つだと観ています。
諸説には、夫々の利害や思惑がこめられた説や小説性をこめた面白半分の説が多く、歴史の経緯性から納得し兼ねる説が多いのです。これは中国も日本も同じですが、特に共産国は個人性は学説の決定には個人性は認められませんので特に別です。政治性が働きます。
また、その様なわざとらしい学説が政府筋の御用学者から出るのです。これは日本も有り得ます。
特に国を跨る内容には思想的、国益的な思惑が挿入された説が多く排除しなければ成りません。
この後漢も中国を中心に韓国そして日本と絡んでいます。
以前に韓国と日本の歴史認識の問題が出て話し合いましたが物別れに終わりました。
実はこれに絡む事として、最近、韓国で大変な発見がありまして、日本の天智天皇と天武天皇の秘書をしていた百済の僧で学者の者が毎日の日記を書いていたものが見つかったのです。
きわめて詳細にきっちりと朝廷の出来事や行事仔細を詳しく書き記した物です。
これには天智天皇の皇子の賜姓や臣下時の事も記載されていて象徴として仏像を送ったこと(青木氏に関わる事等)や日本書紀に書かれている事等が記載されていたのです。
これにより「日本書紀」に書かれている事の信憑性が見直され、かなり史実である事が証明されたのです。書籍の題名は「日本世記」と呼ばれていまして、百済に帰ったこの秘書が持ち帰ったのです。それがこの子孫が見付かりその家から発見されたのです。
この内容から武寧王と阿多倍らの関係がある程度判明していまして、末裔親族を含めて親交は考えられるとしても血縁的な関係は無かったものと解釈されています。
特に「武寧王」の日本での行動は比較的はっきりしていて、その末裔は日本人に成っています。
この当時の帰化人の首魁や亡命者は一定の所に住まわせる事になって居ました。一つは近江と伊勢西北部に住まわせました。「武寧王」と「阿多倍王」とは近隣に居た事は史実ですが、阿多倍王は「高尊王」や「高望王」(朝廷では「平望王」とした)と呼ばれていてその行動ははっきりしていますので、「武寧王」とのラップは不可能です。
阿多倍王はかなり高齢(100歳位)であった事が記録から判っています。
この阿多倍の末裔の次男系列の大蔵氏の太宰大監の大蔵種直(原田の次郎太夫種成 平安末期)が半国領の伊賀北部の名目上の主権を平族と共に朝廷に返上しています。(納税の義務を果す)
この事からのも「武寧王」の関係説は消えます。
特に阿多倍の父の「阿智使王」は朝廷の「史部」(ふみべ)の首魁を司っていて、朝廷の出来事の全ての記録を管理していたので、「武寧王」との関係にもこれ等の記録から作った日本書紀には記載されているのです。大蔵氏の添書にも史部の首魁であったのですから必ず記録として、もし関係があれば出てくる筈です。
日本書紀編集には舎人親王がこれ等の後漢帰化人の史部の官僚50人ほどを指揮して作った事がわかっています。そして、この状況を天武天皇と妻の持統天皇はこの事を嘆いて、”日本人の官僚をこれ等に付けて勉強させて育てる様に”と命令している事が日本書紀等にも記されています。
この事が確かに上記した様に、阿智使王と阿多倍王は大隈の半国割譲と伊勢の半国割譲を受けて伊勢北部伊賀地方に住んだ事が判っていて、阿智使王は高齢に成って退き、薩摩大隈に帰り、後に西鹿児島と熊本の県境の「阿倍」と云うところに移動しています。
ここはお家の3家流の一つ「長島地区」の直ぐ隣です。
(ご質問の件)
この様な事から、「武寧王」と「高野新笠」の関係説は難しいと考えらけれますし、後漢と三韓の馬韓の百済の関係も発見された韓国や中国の歴史史実からこれを覆す事は困難と観られます。
確かに、考えると面白い推理と思いますが。この様な歴史的根拠に基づく事が必要です。
大事な事は推理して頭に締まって置く事です。歴史に関わらず。根拠に基づけば、何か時にひょっと気がつき頭から出てくるものです。不思議です。それを一つづつ潰してゆく事が大事なことだと思います。
私も歴史のみならず論理的根拠に基づき仕事の事でもこの事に徹しました。

次ぎは陣笠の件ですが、書籍は敢えて判りません。この様な雑学は書籍ではなかなか得られません。
例えば、郷士や郷氏で、庄屋や名主等が苗字帯刀と羽織袴を許された者は昇城でできる事に成っています。中には歴史の記録から百姓でも家紋を許された者は昇城が許された事が記録に載っています。
この場合の多くはその手形や許可書のようなものとして、代表的なものとして特定の「家紋使用」が許可され、その場合の家紋の多くは「七三の桐紋」の使用を許されます。
その城主そのものも将軍や関白等からこれを与えられ、これを城主は更には家臣や農民や豪商に与えて特別の権利を付与する一つの仕組みです。上から与えられない城主は自分で自分の家紋に似せたものを与える事をしますが、他の藩には適用しないのです。その様に扱われないのです。
城主も同じの仕組みの中にありますので、将軍などの上位の身分の人に会う時はこの家紋が効を奏します。(この桐紋を与えられた農民は墓も作る事が出来ました)
因みに、筆者の先祖の祖父の代まで紀州藩の殿様の座る位置より上座に座りましたし、座布団の仕様も許されました。「武家発祥源」の扱いでこの様な作法があり、この場合は青木の者が座るまで殿様は座らない事等の「武家作法掟」がありました。(お茶の出し方などの全ての所作を定めたもの)
筆者の先祖は紀州藩の5代藩主で8代将軍と成った吉宗を伊勢で育てたことから、もう一人の本育親の伊勢加納氏(伊勢青木氏と血縁関係)で紀州藩の家老(将軍家の吉宗御側用人)であった者と共に直接会える事が出来ました。
青木氏の本家筋は家紋の綜紋が「笹竜胆紋」ですので、将軍よりも上位の家柄ですので、上位の座に座る事が出来たのです。天皇家と青木氏だけです。この事が歌舞伎にも成っています。信濃青木氏の事が歌舞伎にも成っていますし、同じ様な事件として、他に特に信長の事件と4代徳川将軍との事件が在ります。3事件ともにこの「高位武家の仕来り」を知らなかったのです。
例えば、高位の人を迎える場合、白馬に乗ったままで白の紋付袴の礼服で迎える等、出陣などの場合は馬の上で出陣酒を武将と酌み交わす仕来りがあり、「馬上盃」と云う特別な盃で行う等、高位来客時は高瓶でそのまま差し出す等の所作が決められていたのです。
更には、この青木氏の分家子孫には「布衣着用」で大大名扱いと成り、将軍と言葉を交わすことが出来ました。この様な仕来りがありました。(武家諸法度・公家諸法度等)
例えば、青木氏の末裔や縁者の場合はその藩に届けておけば昇殿や昇城の登城許可が下りました。
そもそも「五三の桐紋」は天皇家の祭祀式紋で、天皇家は財政難からこの祭祀紋の使用の許可を出したのです。鎌倉期から続いていたもので、因って直接「五三の桐紋」を使う事は避けて、これに似せて「七三の桐紋」として権威を持たせたのです。特に秀吉は大いにこの仕来りを使いました。
ですから、青木氏等の事は別として、「郷士」や「郷氏」や「名主」や「庄屋」や「下級武士」や「農民」や「豪商人」等は、先ず一つはこの「七三の桐紋」を持つかどうかです。

次ぎに、藩には「・・組」で構成されています。この組頭は組の代弁者として昇城が可能です。
問題は殿様にお目見え出来るかは別です。(家老職と側用人だけであとは取り次ぎによる)
念の為に、朝廷では従四位から昇殿出来ますが、天皇に会えるのは、発言するには正三位からです。
将軍以外は昇殿や天皇に会える事さえもできません。
後は、武家の社会では大名の大小にもよりますが、「半農武士階級」では戦いで大きな手柄を立てた者で特別に姓を与えられた者には昇城が許されていました。
さて、この様な記録をまとめ上げた書籍はあるのでしょうかのご質問ですが、私は全て色々な記録から得た知識です。書籍にしても売れないのでは。その専門協会の論文や研究資料ではあると思いますが。
これ等を雑誌や単行本や雑談形式での書物にしているものは中にはありましたが限定販売や非売品です。殆どはこの類です。(上記の事は研究室などに全て記載)
そもそも、昔は、書籍に依ってその「規則等の伝承」が行われたのではなく、つまり、マニアルのように者が無かったのです。ではどの様にして伝承したのかと云うと、それはその専門の者或いは氏や家があってその氏や家が極秘に親から子、子から孫へと代々「口伝」で教え込み伝承してその職責を果していたのです。ですから、マニアルのような物があってもそれが「氏や家の生活の糧」に成るのですから外には決して出しません。門外不出なのです。
例えば、忠臣蔵の吉良家です。吉良家はこの役目を担った家であってこの事が原因で浅野家は揺さぶられて失敗してしまったのです。
従って、大名に成るとこの様な専門の者を探し出して何とか抱えるのです。見つけられないと浅野家のようになって仕舞います。このシステムは奈良期から始まったのです。その元は阿多倍一門が率いるこれが「部制度」です。180位の組織で成り立っていました。江戸の末期まで維持されました。
青木氏や藤原氏等の古い氏は自らの家には幾つもの部の組織を置いていたのです。今回ご質問の阿多倍の父の阿智使王は真にこの「史部」の首魁でした。

「青木氏と守護神(神明社)」等の論文にはこの事が詳しく記載しています。是非、全体的に少しづつでも良いですからお読みに成ってください。そうしないと、ルーツ探求などには正しい答えは出ませんよ。
本サイトは100%営利ではありません。ヤフーより歴史カイゴリーではお墨付きを貰いその情報量は日本一段突との事です。否営利な為に某公的な放送機関からも特別に管理人室に情報集めに毎日来ています。そこから情報を得て既に4度関連放送がありました。時代考証などのための知識集めとしても利用されています。ディレクターの方が多い様ですね。ご質問の問い合わせも一度ありました。
実は管理人室にはカウンターが幾つか付いているのです。
恐らくはお家のご質問のこの文章も見ていると思います。

現在感覚で”何でも書籍”は歴史には間違っていると思います。そして、仮に有ったとしても上記で書いた様に全てをその書籍に根拠を置く事は危険です。読み取る事は是とします。然し、「現在書籍本」には其処には「色々な思惑」が介在しているからです。少ないのは純粋な研究書や営利に走らない雑誌から出来る限り取捨選択して雑学を広げる事です。

この極秘の門外不出の書き記したものを集めて本にするにはなかなか難しいのです。発掘と経済的なことから書籍にはなり難いのです。

次ぎのご質問ですが、『温故に身を寄せずんば、身を徹し償い奉り、次右衛門ここ二代、三代とめい(名?命?)を尽くす』の件ですが、「温故知新」”古を温め、新しきを知る。”温故、即ち「伝統」や「先祖」の御蔭を受け生かされている自分、つまり「氏家制度」の中で「一族一門」に支えられて助けられ、又、助けする一族の共助社会の御蔭で自分が生かされている。その社会の中で、一生懸命に働き尽くし「氏」を支えて来た。その中でも、「一族の長」としてその伝統、功績、名誉、家を引き継ぎ、累代にその責務を滞りなく果たして来た。と云う事だと思います。
つまり、真意は”「次右衛門」と云う「重い世襲名」を代々長い歴史の下に大変に苦労して引き継いでここに至った自分。”要するに「次右衛門」に全てを物語る大きな意味を持たしています。
大蔵氏系肝付氏族の藤原氏長嶋氏の悠久の家柄、身分、名籍、伝統、習慣を汚れなく護ってきた満足感をこの一説の文章に表現しています。
この文章を知るか知らずか、「次」に対して後にこの文章を末裔は捉えて「勘」と応えたと観ています。
これ以後に直系が続くと「次」と「勘」を含めて、長男の「長」や三男の「三」等その時の状況に相応しい字を世襲名の先頭に付ける事にして選びます。総宗本家筋である事を意味しています。
「縁者養子」や「婿養子」や「跡目養子」等の場合は、その都度、清とか嘉とかその人物の最もたくみにした字を選びます。主に俗名のものが多い様です。

この文章は「身を徹し」と「償い奉り」に大変な意味を持たせています。
大変に苦労した事を表現しています。
昔の文章は、現在の直接表現と異なり、奥ゆかしさを主としてその意を如何にして持たせるかによる間接表現です。歌、短歌、俳句はその表現方法の手段です。
従って、この意味からも、温故、身、寄せる、徹し、償い、次右衛門、ニ代三代の言葉を上手く選び真意を悟らせる方法ですので、上記の様な事に成ると思います。
昔の文章は決して直接表現は採っていません。それは奈良期の昔からある「4と6の規則」に基づいています。5は何れにあるのかはその者の知る範囲だとする考え方です。
日本人に根深くある今でも時には出てくる考え方です。

歌舞伎などで〇代目中村、史料などで系図を見ていると肝付甚右衛門→肝付甚右衛門と云ったように、何代か、名を受け継ぐことがありますが、これを受け継ぐ理由とか、何代続けるとか制度では規則があるのでしょうか。

さて、歌舞伎や落語の様な世襲芸名とは根本的に違います。
それは、人気家業との違いです。人気家業だから昔の芸人の名を継ぐ事はありますが、それは芸と人気の前提にあります。別の氏のものでもその世襲は引き継ぐ事がありますので別のものですね。
武家の世襲名は家柄、身分、名籍など、又財産などの物を引き継ぐ為の一つの世間への宣言手法です。
根本的に意味が違っています。手形みたいな物です。
その代数はその「世襲」が続く限りです。理由は家柄、身分、名籍など、又財産などの物を引き継ぐ理由がなく成った時に辞めるのです。筆者の家も明治35年の祖父の代で辞めました。
因みに、945年も続いた家業と1365年も続いた名籍もこの時点で社会的にも困難と成った事に因ります。松阪の大火の火元でした。社会に対して大変な迷惑を掛けた事から1365年の名籍を名乗る事を中止したのです。5万石程度の土地等の全財産を賠償に当てたのです。
それまでは、長兵衛でした。正式な世襲名は代々「正三位青木民部上尉長兵衛信定」でした。中には「上尉」のところが「上佐」の人もありましたが、全体としてこの世襲名でした。(信定のところは代々別の名と成る。)
私には、この場合から観て、実質は名籍など残ったとしてもその「財産」が裏打ちされていると考えています。人気手形と財産手形の差と云う所でしょうね。

次ぎのご質問です。
”長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→(長嶋次右衛門→)長島勘右衛門
って事も考えられるのかなと思いましたので。”
の件ですが、真にこの通りです。
この為には先ずこの「勘右衛門」の次ぎがどの様に成っているかを調べる必要がありますね。
長嶋と長島の違いは3家3流の何れかの縁者養子があって長島系の中に組み込まれた事も有り得ます。つまり、血を絶やさない為にも縁者養子を向かえたが嫡子が生まれず遠戚別家の長島家系の中に組み込まれたが、その後に嫡子が産まれたが、ルーツはそのままにあっても長島家の「勘」であるので勘右衛門とした事に成ります。
日向の永嶋氏、肝付の長嶋氏、長島の長島氏の3家の間の家名の変化を起したことを意味します。
この場合は肝付と長島との間の呼称の問題で、その長島勘右衛門の子供が嫡子の継承があれば長嶋氏に戻す事は可能です。元は長嶋氏なのですから。「家紋掟」でその様に成ります。
この時に家紋の変化が一時興っていて嫡子が出来た時点で戻した筈です。
次ぎの「勘右衛門」の後の事がどの様に成ったのかで決りますのでお調べに成ると良いと思います。
この場合、問題は明治以降の新体制でどのように扱ったのか、それには上記した様に裏打ちの財産の有無も働いてきますね。無く成っていれば長島で続けたことも有り得ますし、明治以降で維新戸籍簿で変更が出来なかったことも有り得ます。
人気芸人の世襲名とは違いますので、武家の「家紋掟」に従っています。

この点に絞ってお調べに成ると良いのではないでしょうか。以前の情報から察するに財産の裏打ちと明治維新の後者の説になるのではないでしょうか。

阿多倍と安倍氏のレポートでところが、『この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています。』の記載があります。この阿倍という地名が現在のどの辺りですか

このご質問ですが、西鹿児島の熊本の県境付近で出水郡長島の直ぐ南下側の中ほどにありました。
昨年来の全国的な総合市町村合併に因って消えた様です。鹿児島大口村の九州唯一の青木村は何とか残った様ですが、全国の青木村も無くなったものが観られます。歴史的な意味の持つ村名が消えるのは寂しい限りです。現在の阿久根市と出水市と薩摩郡さつま町の中間の所にありました。
出水郡の島の長島町の長島は残っていますが、島隣の長島も無く成っています。
確かに合併に成りやすい地域所です。他の全国の阿倍氏と安倍氏に関わる阿倍村も多く無く成っています。「青木村」もそのために地名地形データとして遺しています。私が研究し始めた時から観るとかなり無く成っているのです。

以上です。
兎にも角にも、以前の情報からも大方の推測は尽きますが、「勘右衛門」の次ぎの人の成り立ちをお調べに成る事をお勧め致します。

では又、判らない時はご遠慮なくお尋ねください。


  [No.863] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/09/15(Sat) 10:52:17

福管理人、お久しぶりです。
先週末から鹿児島旅行してきました。
韓国岳登山口にある六観音御池:六観音の像を祭る仏堂のあった豊受神社と岩屋霧島神社湧水町栗野:地蔵供養塔、
霧島市:隼人塚、韓国宇豆峯神社
志布志市:臨済宗大慈寺、肝付兼続之墓
肝付町:高山城跡、大来目神社、臨済宗道觧榕、良清検ψ、盛検ヲ侘付代々福ヲbr>鹿屋市輝北町:加瀬田城跡(肝付兼隆供養塔)
ただ、訪れるだけでしたが、とても満足する旅でした。
福管理人さんから、教えて頂いた、阿倍には場所の確定ができず、今回は断念しました。
今回は,その時期ではなかったのかもしれません。

『次右衛門』の継承、阿多倍王、武寧王との血縁関係の有無について有り難うございました。長島勘右衛門の次の人つまり三河国川路村長嶌太吉の成り立ちが鍵を握っている人なんですね。ここが分かれば、何故『長嶋→長島→長嶌』となり、長女『長嶌とめ』と『杉浦源吉』が明治3年に入籍し、長嶋に改名した意味も見えてくるのですね。

今回旅行で、また、長嶋の名と出会うことができました。
『長嶋早右衛門尉』という方です。
鹿児島県史料 旧雑録拾遺伊地知季安著作史料2 46頁
『寛永軍徴巻十四ノ下』 寛永15(1638)年2月1日 
此日蒲生衆廿八人出足して、先鹿児島に参越す。覚 ・・・長嶋早右衛門尉殿
また、
鹿児島県史料 旧記雑録追記1 224頁
神社仏閣調 慶安5(1652)年8月21日
御犬之従馬場材木運衆次第不同・・・・・肝付早右衛門殿

寛永13(1636)年 鹿児島衆御検地帳 新堀上:長嶋次右衛門
元禄11(1698)年 薩陽過去帳(32頁)肝付次右衛門(元禄十一戌寅年七月卒 露厳良体居士)
ここで、次右衛門と早右衛門が親子とすると
上記の長嶋次右衛門=肝付次右衛門か、長嶋早右衛門=肝付早右衛門=肝付次右衛門(家督継承にて改名)という可能性が出てきました。

福管理人さん、また質問なのですが、
伊勢長島氏に長島〇之進かねみつ(金光?)と云う方はいるのでしょうか?
宜しくお願いします。


  [No.864] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/09/15(Sat) 20:08:17

> 福管理人、お久しぶりです。
> 先週末から鹿児島旅行してきました。
> 韓国岳登山口にある六観音御池:六観音の像を祭る仏堂のあった豊受神社と岩屋霧島神社湧水町栗野:地蔵供養塔、
> 霧島市:隼人塚、韓国宇豆峯神社
> 志布志市:臨済宗大慈寺、肝付兼続之墓
長嶋さん 今日は。 お帰りなさい。
暑いですね。
鹿児島も大変暑い様で、大変でしたでしょう。
来週、法事で私も出かけます。

さて、「・・右衛門」に付いては太吉さんの鹿児島の事がもう少し判れば改名の経緯が判るのですがね。鹿児島の太吉さんが幼少の頃に住んでいた所がわかれば良いのですがね。その寺や神社から何か出て来る筈ですがね。

>伊勢長島氏に長島〇之進かねみつ(金光?)と云う方はいるのでしょうか?
>宜しくお願いします。

さて、伊勢長島には「2つのナガシマさん」の流れがありますがこの2つの中にはお尋ねの方は居ません。
伊勢は長嶋氏と永嶋氏ですが、桑名郡と多気郡と一志郡であります。
何れにも光の付く人は居ません
多気郡と一志郡は具(とも)が通名ですので、恐らくは近い親族と見られます。北畠氏との縁者系ですね。
桑名郡の長島の長嶋氏は代々伊勢長嶋殿と呼ばれ有名で僧侶で願澄寺の住職系です。何れも信長に抗したのですが滅びました。
この2氏ともに元は親族と成ります。
系譜と戒名からは「光」は出て来ません。お尋ねの人は存在しません。「光」を通名としている長嶋氏はありますが関東の佐野氏系長嶋氏です。

確かに伊勢長嶋氏の中に長嶋武右衛門貞国なる人物が居ます。
そもそも、 この「・・右衛門」は関東の佐野氏系長嶋氏の世襲名にも多いのです。

実は念入りに調べて行くと、今回次ぎの様な事が判ったのです。
この貞国なる人物が途中を経由して関東武蔵国平方郷に移り住んだとあります。(子孫は現存している)
この者の一族の寛永の頃から続いた戒名には光を読み込んだ人物が5人も居ますし・・右衛門が3人も居ます。
そして幕末の頃の戒名には光以外に緑と林と木を読み込んだ故人は4人居ます。
前半は院殿居士の武士の戒名 江戸末期頃の戒名は武士出身のある程度大店の商人階級の居士です。太吉さんもこの戒名でしたですね。
ところが、幕末の太吉さんの頃の男子の戒名がありません。
安政4年の大姉の女性の戒名だけです。その前の男子は養子の長嶋銀蔵さんと成っています。
何か変です。その後明治の中頃以降に飛んでいます。そして明治以降はこの一族は養子が多い事です。

この幕末に跡目の男子が死亡以外に一族から何かの理由で籍を抜いた事を意味し、墓には入れなかった事を意味します。

この人物にも気にかかりますね。
この一族と太吉さんとの繋がりです。時代は考察する中にあります。

太吉さんが来たという「鹿児島」と云う前提ですが、見方を変えて、伊勢長嶋系であるが為に、この者が江戸期に鹿児島から長島に来て住み、その後、静岡等の長嶋氏の定住地を経由して関東に移り住んだと記していますので、この様に考えられるのてすが。
その時に子孫の一人の太吉さんがこの静岡近辺に来た時にこの地に留まったと云う推理もありますね。留まる以上は一族との決別と言う事でその為に姓の字を変えたとする説です。
一族の意思に反し、何らかの商売(材木)をしていてそれを守る為に留まったとする説に成ります。
この貞国と云う者は鹿児島薩摩藩の意を得ての伊勢−静岡−埼玉の移動の遍歴を繰り返したと考えられます。この地域の共通点は「長嶋」と「材木」です。

伊勢の長嶋、駿河の分家筋の長嶋、武蔵の本家筋長嶋
伊勢の吉野杉、駿河の檜、そして武蔵上野の材木 

遠戚を頼って、「材木の商い」で移動していった。鹿児島は火山帯である為に良い材木はない事からの買い付けで移動定住していったと推理出来ます。

またご質問が有りましたらお尋ねください。


  [No.871] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/10/02(Tue) 07:27:25

静岡の長嶋さん 今日は。 お元気でしたか。お便り読まして頂きました。
ありがとう御座います。

さて、お便りの文面に付いては何とも云えませんが、肝付と伊勢とはつながりがある事は否定出来ませんが、「伊勢」と云う土地柄は全国66国の中では特別で京都と同じく雅な特長を持っています。
ですから、お便りのような事は環境から云っても有りうる絵柄ですね。
「伊勢長嶋殿」と呼ばれた人物も僧侶で信長の生き様に仏心から反発して全てを捨てて戦った人物です。伊勢長嶋氏は元来、悠久の歴史を持ちますが、基本的には青木氏と同じく戦いを排除した家柄でした。藤原秀郷流青木氏の伊勢青木氏と同じく一門の伊勢長嶋氏も同じ流れを持つ一族ですから同族血縁を主体とした氏家制度の中では血縁はしていると考えます。従って、その生き様は秀郷流伊勢青木氏と皇族賜姓伊勢青木氏とは血縁関係を持っていますので伊勢長嶋氏もこの三氏の血縁関係はあったと考えられます。
とすると、この伊勢長嶋氏も雅な絵柄の生き様をしていた筈です。伊勢に住まいすれば無骨な武士の生き様は不可能ですし、そのような家筋と血縁する事も出来ない筈です。
また、生きて行く事も排除されて出来ない筈です。
だから、僧侶の「伊勢長嶋殿」なのであり周囲から特別な呼称で尊敬されていたのです。人を導いていたのです。
この人物の生き様に酷似していますね。
さて次ぎは土地柄から、お説の場所に付いては、同じようなところが伊勢にありますよ。
有名な場所で古来から名跡でした。伊勢丸山と云う土地です。
ここは、そのような地形から、信長はここに伊勢征圧の海側から攻める前線城を築こうとして2つの伊勢青木氏と戦います。「丸山城の戦い」と云う有名な戦いで信長の戦歴中、実戦で負けた戦いは此処だけです。
2つの青木氏が勝ったのです。その有名な事件が歌舞伎にも成っている「信雄蟄居」と「滝川一益蟄居の事件」で信長烈火の如く怒り息子の信雄を家来の面前で殴り飛ばした事件です。この為に信雄は織田氏の中で唯一生き延びた織田氏です。
その有名な場所に酷似しています。
伊勢長嶋攻めで伊勢長嶋氏も信長に負けます。この一つが上記の「伊勢長嶋殿」の戦いなのです。
一連の3つの「伊勢攻め」です。

人物と場所と生き様とその映像がよく似ていますよ。

印象の領域ですの範囲でしかお答えできませんが、以上の通りです。


  [No.872] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/10/02(Tue) 22:13:34

福管理人さん、早速のお答え有り難う御座います。

非常に参考になりました。

前回のお答えでは、伊勢長嶋様は桑名郡の方でしたね。
願澄寺というのは、今も存在しているのでしょうか?

メールした情報から、自分なりに調べ、朝熊山の金剛證寺と丸山の金剛證寺の奥の院として建立された庫蔵寺に焦点を絞ったのですが、伊勢丸山はその地域で宜しいのでしょうか?
丸山城をネットで見ると伊賀となっていたのですが。

そして、その庫蔵寺、または金剛證寺の住職となられた伊勢長嶋氏はいるのでしょうか?

実は、先週、休みが取れ、丸山の庫蔵寺を訪れてみました。住職さんが気さくな方で、色々とお話しをさせて頂きました。これといった、収穫は得られませんでしたが、自然にあふれ、猿、猪、狸を冬に備えた食糧調達のためか出会い、おまけの付いた旅でした。


  [No.873] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/10/09(Tue) 09:44:20

今日は。 

秋が深まってきました。
歴史探訪には最高の季節ですね。

これからの寺探訪には最高の季節です。
前もっての雑学で寺めぐりはより一層面白い探訪と成りますね。

さて、私も昨日まで鹿児島に滞在し帰ってきました。
前回のお便りの「阿多」と「阿倍」に付いても調べました。
「阿多」は現在も存在しますが、「阿倍」も今でも南薩摩のこの地区では「阿倍地域」として地名は無くなりましたが、小さい地区の年寄りの住民の中では、「4つ位の部落の総称」として人々の会話の中では使われている言葉で残っている様です。
「阿多」は残っていますのでマピオンか何かで確認してください。「阿多地区」の道路を通り土地の話を聞きましたが、一人の85歳の老人は”中国から来た先祖”と言う言葉を、昔は地区の年寄りの言葉に挙がっていた様ですが、今はその様な「言伝え」が消えているとの事でした。
阿多−阿倍の関係の話も村同士の所縁の話が昔はあった様で、阿多には「村主様」(すぐり様)が居た話があったとの事です。「阿倍」は現在は「阿部」と言う字に成って「阿部さん」が多い地域が未だある様です。「阿部」と「阿倍」と違うのですが、混同されて阿部に変わってしまった様です。
「阿部」は阿の職人で、「阿倍」の配下ですが同じ呼称なので何時しか間違われたのでしょう。
地名のもつ意味もこの様に消えて行くものですね。

次ぎの質問ですが、「伊勢長嶋殿」は桑名郡です。ただ注意しなくては成らない事は今の地形や地名や郡や県や国は大昔からその範囲等が大きく変化していますので、現在風に地名を追っても答えは出ません。
「伊勢丸山」の呼称にも、この「伊勢」の呼称の言葉には特別な意味を持っていて、朝廷より特別に禁令を発して使われていたので、現在風の地名呼称とは異なります。この事は論文で論じていますが、上記した様に「阿多」や「阿部」の様にいくつかの「総称」で使われている事もあるのです。

つまり、昔の歴史的経緯のある「地名」は「地名」そのものではなく、ある「意味」を持っているのもあるのです。
青木氏や藤原氏北家筋等を除く殆どの氏名は慣習や嵯峨期の禁令から地名から名乗るものとされて来ているもので、従って、其処の地名にはその「氏の歴史」が染み込み「地名の歴史」と成っているもので現在の地名とは違うのです。
と云う事で「歴史の地名」と「現在の無意味の地名」とは異なっている事をご承知ください。
最近、残念な事ですが「町村合併」によりこの「歴史のある意味のある地名」や「総称地名」が無く成っています。「総称地名」の慣習は殆ど消えています。
昔の地名呼称には「地名」そのものでは無く、「総称名の地名」もあるのです。
これは「氏家制度」から来る仕来りです。
歴史の「地名呼称」はその雑学でしてこれも歴史雑学として認識してください。
ですから、探しても無いと言う事、見付からないと云う事が起るのです。
その時は、地形や地名や郡や県や国 地名か総称地名かの確認が歴史の雑学として必要です。
お便りから観て、お家は地名に付いて「現在と古との慣習の違い」を混在している様に思われます。
昔の地形図の雑学が必要です。
「丸山」は従って、「伊勢丸山」が正しいのです。
「伊賀」は現在では伊勢国北部伊賀地方と成りますが、伊勢は大きく地形や地名や郡や県や国に歴史的変化を起こしていますので、広域伊賀の地名として考えてください。そして、この伊賀もその勢力図で時代で変化しています。呼称の「伊勢」も一時期3つに分かれて歴史が変化しています。
「総称の伊勢」と「地名の伊勢」とその「地名の伊勢領域」が時代で異なっていますのでこれを判別しながら地名を観る事が必要です。
特に「青木氏の守護神」の論文でも書いていますが、伊勢には「伊勢・・]と云う地名が現在でも多いのですが昔も多かったのですが、この呼称方法には意味を持っていたのです。
「丸山」はこの地形状から「津」と「松阪」と「伊賀」の三角州一帯の海側部を云います。
この州が昔は伊賀の近くまで三角州に伸びていた事から「伊勢丸山」と「伊賀の丸山」と成っていて、この州には長い広い松林があったのです。現在でもこの地域には地名の松の付いた地名が多くあります。
この名残ですが現在とは全く異なっています。

最初、信長は海側の「丸山」のところは失敗に終わりましたので、伊賀を攻めてお家のお便りの云う後の丸山城に成ったのです。
インターネットの全ての情報をよくご利用の様ですが、この辺の雑学の知識と説明はネットでは不足していますので注意してください。
それと前記にも書きましたが、「ある種の思惑 つまり、学説、主義の引導と洗脳」等を潜めていますのでこの点も考慮に入れてご利用される様にする必要があります。
特に地方機関のネット説明にはその前提と成る資料の「真偽の如何」と「土地の宣伝」を目途として書いている物が殆どで例外がない位です。それはそれとして信じて其れなりに使うことには反対する意思はありませんが、趣味でマニアで歴史をより正しく理解し楽しむとすると云う事ではこれ等を除外しての利用と成ります。青木氏での論文はこれらを取り除く努力を繰り返しています。
特に、「青木氏」も「藤原氏の長嶋氏」も「日本最大の歴史的な経緯」を保持し、他に悠久の歴史を持っている氏ですので、この「ある種の思惑」に左右されない探求が必要です。
この思惑が入れば何が何か判らなく成り、矛盾の多く孕んだストリーや生き様が出来て仕舞います。

次ぎは、”朝熊山の金剛證寺と丸山の金剛證寺の奥の院として建立された庫蔵寺・・”のご質問ですが、ここは歴史的に3氏に依って建立修復されて、名目「伊勢神宮の鬼門寺」として建立されたもので、伊勢に関係する寺としては承知していました。
然し、そもそも、上記の通りから考察すると、ここは最初は隣の高野山の弘法大師(空海)に関係する寺で、高野山の密教修業の修験場でした。ところが、真言宗から時代の変化の影響を受けて、その後に元は禅宗寺で、現在は臨済宗です。ですから前回のお答えとは全く無関係です。
この寺関係には、現在でも修験者や禅僧の歴史的な行事として残っています。
上記の通りですので全く意味合いが「伊勢丸山」とは違います。
そもそも、この「伊勢の鬼門寺」と言う説も建前論で、実際は「伊勢」の土地に皇祖神の伊勢神宮にこの様な寺を建てるには禁令に対して憚られ世間から非難されます。そこで、この様な建前を付けて「伊勢」を護る寺だとして「高野山金剛峰寺」に似せて「金剛・・」としたのです。この建立時期として1650年頃の年代ですので、この「伊勢」の仕来り慣習が弱まった時期に建立されているのです。

次ぎに「願澄寺」は信長に徹底した掃討作戦で焼き討ちに合いましたので無く成っています。
「2つの伊勢青木氏」を除く2つの平安期からの名籍の「伊勢長嶋氏」や「伊勢北畠氏」は滅亡し、衰退していますので、氏の「菩提寺の寺」を管理維持する力が無く成っていますので寺は元来無く成っているのです。
そもそも昔の「菩提寺」の寺の維持方法は、明治以降の現在の「檀家寺方式」ではありませんので其処のところの雑学が違っています。「菩提寺」と「檀家寺」との認識の混同が起こっていますよ。
その中でも特に「伊勢長嶋氏」は独自の「独善の菩提寺」を持った氏です。そして其処に菩提寺の一族の住職が世間から尊敬されていた人物であって「氏の長」でもあったのです。
平安期の昔は朝廷の許可を得て高位の特定の氏しか寺社を建立する権利を有していませんでした。この事でも誰でもが「菩提寺」を持つ事は出来ませんでした。
つまり一般の氏が勝手に寺社建立は出来ない慣習でした。
従って、その「菩提寺」などを持つ氏が滅亡し衰退すれば、必然的にこの菩提寺の「寺の維持」は殆ど無理と成ります。「廃寺」と成って消えて行くのみです。
従って、他の建立する権利を有していない出来ない氏は、後は何処からか廃寺に成った寺などを見つけて来ては、「修復」などの理由を前提として建立する以外には方法が無く、上記の「金剛證寺」等にしても現実に明確に3氏によるこの方法を使っています。
そもそも、寺を自由に建立する権利を誰にでも与える事は宗教集団とその信者の力が強く成る事を恐れる「政治的な禁令」でした。この「禁令」は内容を変えて明治期まで続きます。
この問題事件は頻発して平安期から起こっているのです。
現在でも同じで頻繁に「宗教事件」が起こっていますので法律で規制されています。

ご質問の根拠のこれ等に関してはこの雑学が欠けています。
ネット情報は、これ等の情報が書かれていず、また現在的な感覚で間違って説明しているものが殆どですので、この雑学を考慮すると話が逆転したり矛盾する事に成るのです。
青木氏の論文にはこの事を書いていますのでお読みください。現在、「青木氏と守護神」でその事を詳細に論じています。故に、藤原秀郷流青木氏族の一氏の九州大蔵氏系肝付族の伊勢長嶋流長嶋氏としてもこの事もルーツ探求の上で上記の事も含めて知っておく必要があると思います。

以上ですが、特に地名には「歴史の有無」の呼称、総称地名、地形や県や国等の区分けの違いがありますので注意が必要です。
特に「地形の変化」が興味がありますよ。この「地形の変化」が地名の変化に大きく繋がっています。
友人にこの「地形の変化と歴史の関係」を趣味として研究している人もいるくらいです。
話をよく聞きますが面白いですね。何か歴史方程式がある様ですよ。

では又お便りを下さい。


  [No.877] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/12/29(Sat) 11:41:07

福管理人さん、お久し振りです。

今年もあと僅かとなりました。世間は師走、日本の中で大移動が起きていますね。

このサイトと巡り会い、一人ではなかなか進まないルーツ探しが、福管理人さんの史実、考え方など、様々と貴重なご意見を頂き、感謝しています。

前回のお答えで、地名には意味があり、歴史を調べていく中で、重要な材料であることがよく分かりました。
安土桃山期から江戸期の大蔵氏族肝付系長嶋氏について、確定ではありませんが、進展しましたのでご意見を頂きたくメール致しました。

現在肝付宗家の残された系図として、
・・・兼続−良兼−兼道(兼護)−兼幸・・・
と兼道後妻の関連、税所家と新納家が宗家再興し、最終的に肝付系の検見崎家が養子に入り、現在に至ってり、肝付氏を受け継いでいます。

その、系図として、
肝付兼続の子として、追放された肝付兼亮、肝付兼樹がいます。
そして、
肝付兼樹−不詳の子−兼弘(鹿児島・佐土原両島津藩の家臣として仕える)
とあります。
肝付兼道に兼幸以外に子がいて、若くして、兼樹の所へ養嗣子となった。
これが不詳の子事、肝付幸之丞兼継であるようです。
兼樹、兼継は、同じ大蔵氏族いるの天草へ逃れ、そこで武家商人となった。
ここで、二足の鞋策が始まります。
そして、兼継の息子、肝付兼弘が、家老の地位にある肝付氏分家を頼り、薩摩・佐土原藩家臣となった。
この肝付兼弘が肝付次右衛門兼弘であり、初代長嶋次右衛門であったようです。
つまり、長嶋次右衛門兼弘となります。
そして、
長嶋次右衛門兼弘−次右衛門兼定−次右衛門兼勝−次右衛門兼忠−次右衛門兼光
−長島勘左衛門兼直−長島勘右衛門兼次−勘右衛門兼吉(長嶌太吉)と続いたようです。
勘左衛門兼直は養嗣子のようです。

そこで、伺いたいのが、
1.兼定−兼勝−兼忠−兼光−兼直−兼次−兼吉は、意味のある名なのでしょうか。
2.次右衛門−勘左衛門−勘右衛門の変化にも意味があるのでしょうか。

宜しくお願いします。


  [No.878] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/12/30(Sun) 11:49:48

長嶋さん今日は。
お久しぶりですね。今年もくれますが、お元気でしたか。
仰る通り色々ありましたね。少し国民は悲観的に成っている様ですが、何時の世も為政者の人柄や考え方が世情に影を落とします。何も仕事が出来る出来ない、と云うよりはその人間の人としての出来具合に左右されるようです。歴史の史実が物語っています。
青木氏を研究していると「長の資質」に左右されている様です。
でも、私は悲観していないのです。歴史的に観ると、現在明治初期より民が開放されて150年の今の日本人は「7つの民族」が本当に完全に融合した時期だと観ています。
諸外国は日本人ほどに「民族の融合」が進んだ国はないのです。必ず諸国の民族は「種の屯」を固守する習癖を持っていてそこから開放されないで進んでいます。ところが日本人は歴史を見ると一度「屯」を起こしますがある時期を過ぎると、この人族の「屯」を開放する不思議な癖を持っているのです。
その為に雑種化が起こり考え方などもこれに合せて融合させるのです。結局、雑種化が優秀な人種を造り上げます。
そして、今やっと江戸期の士農工商の身分制度で融合差別から開放されて明治期の維新に入り「7つの民族」が丁度今「屯の開放期」に入っているのです。これからは優秀な人材がどんどん出てくると思います。筆者の時代のころからを観ると、今の若者は優れていると観ています。
比較対照として、尖閣の中国人の態度や竹島の韓国人の態度を見ると良く判ります。日本国民の「民度」が極めて上がっていると見ています。中国系が20%程度、韓国系が35%程度も融合民族の日本人なのですよ。然し、彼等とは違っています。ノーベル賞でも中国、韓国と比べても歴然と違う事が判ります。
彼等には今だ「屯」−「融合」のサイクルが起こっていないのです。彼等には直ぐ理性を無くし野生動物と同じくカーとする性癖が残っています。
昭和の始め頃にはまだ日本人にはこの野生本能が未だ中国や韓国の様にあったから神風なぞという馬鹿げた考えに陶酔するという性癖から逃れられなくて第2次大戦という大失敗を起したのです。
然し、100年後の現在は逆に日本では更に融合化が起こっているのです。今が最大の融合期のピークだと観ています。だから民度が上がっているのです。
そして、人として優れた為政者に変わればこの融合力のファンダメンタルを持っているのですから、。必ず日本は蘇ります。安倍氏に代わる事で、景気が良くなると云うよりは、この「融合力」のファンダメンタルを蘇させる事が丁度今出来るかと言う事として観ています。彼もその様に云って論調の基盤としています。
全く賛成できます。
そうする事で景気を始めとして+サイクルのスパイラルが起ると観ているのです。
今、「青木氏と守護神(神明社)」で青木氏から観たその論調を展開しています。
8000もある氏姓の中で、この現象を歴史的に顕著に起こしてきた氏は長嶋氏や長沼氏等の「青木氏族」しか無いと見られます。

さて、話が長くなりましたが、ご質問に入ります。
その前に、総理の安倍氏は中国後漢の阿多倍一門の阿倍氏系安倍氏ですね。陸奥国豪族のあの安倍一族の出自で源の義家に滅ぼされ過酷な運命を辿ったあの有名な安倍氏です。ルーツを後漢にたどり着く安倍氏には必ず成し遂げてもらいたいと考えています。中国人知っているのでしょうかね。中国人も皮肉ですね。

ご質問の通名の件ですね。
実は、意味があるのです。
大蔵氏系肝付氏族長嶋氏も大化期には親族であったのですよね。
「兼・・」で繋いで行く場合、「・・」の部分には前の人の「・・」にある種の意味が繋がる字句を持ってくる事が慣習です。それはその時のその家の状況に応じて「・・」を選択する事に成ります。
古来より、仏教的な意味合いがあって、其処に願いを込めます。その為に「三相の理」がその家の発展に大きく左右されていると云う考えが仏教にはあるのです。
「三相の理」は禅問答でも良く使われていました。
「人の理」「時の理」「場の理」です。この何れかがその家の現状の継承しなければ成らない「理」であると説いています。特に古代密教の浄土宗はこの説で「・・」を選択します。これは確固たる情報手段がないころに用いられた古の慣習なのです。
元は賜姓族が用いたのが始まりです。大蔵氏も賜姓族ですが、これが後に分家方式が起こりこの通名が中級武士以上にも用いられる様に成ったのです。元は仏教的なお祓いの意味合いも強かったのです。
 兼定−兼勝−兼忠−兼光−兼直−兼次−兼吉で観てみますと、通名は俗名や幼名と違い子供にそのものに期待する字句ではなく家の状況を託すものであるのです。
例えば、「定」があって「勝」が来ています。肝付氏の歴史の時系列・経緯を観て見ないと正確な事はいえませんが、「時の理」として安定していた状況をより拡大して戦いに勝利する様に、成る様にと、「願い」や「戒め」や「方針」として付けたものとも考えられます。
その「字」の語源や語意を用います。「勝」は「優れる」の語意もありますので「勝利」「勝つ事」は優れる事により「勝利」「勝つ事」になる訳ですから恐らくはこの様に付けたと考えられます。
次ぎの「忠」は前の「勝」に対して「人の理」を配慮して内部の混乱などが起こる事を予想してこれを沈静させるべく子供に託した「忠」と観る事も出来ます。

「直」「次」「吉」「勘」「介」「主」「守」「輔」「資」「工」「修」「理」「斎」とかの「跡目・世継ぎの状況」を指し示す字句でその字句一つに意味を持っています。
これらは、他にも沢山ありますが、「人の理」の官位、官職の字句です。
「人の理」を用いるか、「時の理」を用いるか、「場の理」を用いるかはその家の慣習状況に因って変わりますが、菩提寺の住職がその家の状況を観て客観的に寺の住職が付ける仕組みでした。
菩提寺はその氏の者が住職を務める仕来りでしたので氏の住職が名付け親の役目を果していたのです。そうしなければ氏家制度の氏の中で同じ通名が出来てしまうからで寺の親族の住職がこれを管理していたのです。
従って、当初は菩提寺を独自で持つ特定の氏の慣習でしたが、室町中期頃から上級武士、江戸期に入り中級武士、江戸中期では下級武士までも勝手に使う様に成ったのです。
昔は菩提寺が博学をベースとしていましたので、その氏の歴史関係や戸籍や系譜等を取り纏める役目と情報管理の保管等を果たしていたのです。
その氏の官位官職は全て把握していたので上記の字句をつけたのです。
因みに、「直」は”あたい”と呼ばれ官職で、例えば、古いところでは、後漢人の軍事職能集団の「東漢直」(やまとのあやあたい)があります。漢氏や東漢氏は蘇我氏の軍事職業軍事集団でした。
勿論、大蔵氏と坂上氏と内蔵氏と山本氏等の親族等はこの「直」の「永代官職位」を持っています。
これに肖って付けたと考えられますが、場合に依っては一代限りの官職を獲得したと云う事があります。
この場合は、「人の理」から「兼直」からは次、吉等の「一代限りの官職位」を獲得したとも考えられます。
この状況から観ると、「時の理」から「人の理」に途中から変わっています。
兎も角も、菩提寺や時代性や家の歴史経緯の関係を観て判断すると良いと思います。「官職の状況」を期待して付けたと観られます。
長嶋さんは今は表の情報を集められていると観ていますが、これからはこの様な裏の情報を研究される事をお勧めします。そうでないとこれ以上は進まないし正しいルーツにたどり着けないと考えます。
大蔵氏系はこの「直」と「輔」とかをよく使っています。「兼直」から氏が安定していた事からこの官職位を付けたことも考えられます。
一度この先祖の時の状況をお調べになるとその時の先祖の生き様がよく判ってきます。
筆者は研究の基礎は寺にその解明する糸口があると観て俗名や戒名や通名や世襲名や官位官職をベースに紐解く事をしました。(表に出ている情報には信用出来ない思惑が潜められています。)
それは特定の氏や家などの情報は「菩提寺」がその管理の役目を果たしていたからです。
インターネットや書籍などに記載されているのはあくまでも「氏の外枠のもの」であって直接の自分家の内容とは限りません。よほどの本筋としての資料や証拠が遺されていないと確定は困難です。
この様な揉め事が江戸期に起こって戦いと成った事が各地で多く起ったのです。あくまでも自分の直の家筋は菩提寺にしかないのです。その様な習慣だったのです。菩提寺が無ければそれで終りです。
檀家寺は人別帳ですから履歴は取りません。
そもそも氏を構成する室町期中期前の家筋以外にはこのルーツの概念がそのものが無かったのです。
凡そ200氏程度です。故に、江戸期の姓氏には本来ないのですが、なんとかルーツを造るために搾取が横行して系譜を強引に作り上げたのです。未勘氏族が多いのはこの為です。造り上げた物には当然に慣習からの矛盾が生まれるのです。
そして、その見分ける事が出来る一つがこの通名や世襲名です。

「人、時、場」の夫々3つに関わる「・・」が書ききれませんが沢山あります。「人の理」からでも上記の様に沢山あります。この「・・」と「氏家のその時の経緯」とでこの人物の大まかな事が判ってきます。「人」から来たのか、「時」から来たのか、「場」から来たのかはその経緯で判る筈です。その3相の何れであるかの事を判るだけでも生き様がわかってきます。この慣習は江戸期中ごろから誰でもが使って付ける慣習に成りましたが、本来はある一定の身分の者が宗教的な意味合いで用いていたもので、その慣習は今でもその慣習が遺されていて特定の人に戒名として院殿居士をつけてその人の生き様を読み込む風習が遺されています。

次ぎは世襲名ですが、これも上記と同じです。
左衛門や右衛門はある特定の氏しか世襲名として使えなかったのです。
朝廷より信頼される賜姓族で主に朝臣族や宿禰族がこの役目を果たしていました。
青木氏を第一として藤原氏、次ぎに源氏や橘氏や平氏の賜姓族でした。
阿多倍一門は近衛軍ではなくて自らの物部の兵の職能集団を率いた朝廷軍でした。
左衛門右衛門はこれは宮殿と皇族の身辺警護の近衛軍の官職名です。
普通は左衛門などの後ろにこの階級が付くのが本当の呼び名です。
青木左衛門上佐信定とかと成ります。この様に後ろに付いているのが本当の名です。
江戸初期では最初は幕府からの推薦で朝廷に金品を渡し一代限りの官職名をもらいましたが、中期以降は誰でも勝手に使う様に成りました。
大蔵氏は賜姓族でしたのですが、肝付氏がこの役にあったかは疑問ですが、本来は意味を持つものでした。兎も角も本家筋が使うこの世襲名の前に「次」と「勘」を使うのには意味があり、「次」とか「継」とかくると、婿養子や跡目養子や貰養子等が入るとこの状況を明確にする為に「次」又は「継」が附けられます。
ところがこの「次」から3代続きで養子がなければ、その時点で一応その男系血筋が整った事に成りますので、その時点で”血筋は整いましたよ”として世間に宣言として「勘」をつけるのです。
(昔は「勘」に対して整っていない場合は「未勘」と云う言葉を使われました。)
この様に、その状況に因って前にその状況を意味する字句を持って来るのが慣習です。
その字句でその時の世襲状況が判る様に成っているのです。「万」とか「作」とか「本」とか「継」とか「兵」とかです。
次ぎに左衛門と右衛門には大した意味がありません。
「左」を主として「右」の格式と成りますので、ここで継承に何か状況を下げる事があった筈です。
例えば、格式で下にある分家から跡目をいれた等の事です。
ご質問の2件はその時の家の状況を何らかの形で物語るものに成っているのです。
家の歴史の時系列と合せて観れば直ぐに判る様に成っていて、昔は菩提寺に行けばそれが判ったのです。従って、檀家寺ではなく菩提寺がないお家ではこの慣習は本来無い筈です。江戸中期以降の民の慣習と成りますので意味を持たなく成ります。

以前より、菩提寺を重点的にお調べになる様にお勧めしましたが、昔のルーツはこれ無では無理と考えます。そもそも菩提寺の役目はその氏等の関連する現在の市役所の役目をしていたのですから、其処に殆どの史料関係が遺されていたのです。

事程左様に、歴史的な事件などの経緯を時系列的に纏めて、それと菩提寺の資料等と付き合わせる事で何かが判って来ます。そのような努力無では生のルーツがでないと思います。
そして、それを文書や物語化して後世のロマンとして伝統として遺して上げれば後世の人の心の巾や深さが高く成ると考えます。
そうすれば、私達より優秀な融合で生まれた子供達に大きな心の影響を与えるのではないでしょうか。それが私たちに与えられた務めであると思います。
筆者はその意味で青木氏に限定してその務めを果たそうとして研究して投稿しています。
幸い中学生や高校生が本サイトの投稿を多く呼んで頂いている事がカウンターではっきりと判っています。
長嶋さんも纏められましたら是非物語風にしてでも青木氏サイトに投稿してください。室町期まで「青木氏族」として続いた長嶋氏ですからね。(青木氏と永嶋氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏の5氏の青木一族)
(青木氏より大きい氏の悠久の歴史を持つ永嶋氏が自らの氏書を纏めていないのが不思議ですね。青木氏と佐々木氏が長嶋氏の事を調べているのもこれまた不思議ですね)

では、又お便りください。お待ちしています。


  [No.879] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2013/01/01(Tue) 20:48:52

福管理人さん、明けまして、おめでとう御座います。
福管理人さんの仰る「7つの民族」の融合期で、優秀な人材が続々と現れ、今後の日本の復活に期待したいです。期待するだけでなく、自分もその一人として何らかの役に立てられる幸いなのですが。

矢張り、菩提寺が重要なのですね。
鹿児島に関しては、空襲、廃仏毀釈で菩提寺を見つけ出す事は、中々厳しいと思われるのですが、大蔵氏関連で天草、肝付氏の菩提寺、兼続の墓がある志布志市の大慈寺から洗うのも良いかもとは考えていました。
通り名の兼〇の〇の部分は、家の状況に応じているのですね。
家を受け継ぐため、名前に使命が託され、また戒名はその人の事が示され、歴史ある家柄であるほど、命名という物の重要性を福管理人さんのお答えを頂き感じました。

実は、今回のお答えをもらう前、自分なりに、勘左衛門兼直−勘右衛門兼次−勘右衛門兼吉の所を考えてみていたのですが、
以前勘右衛門の『勘』は、その系統を認められた時に付けられるという事を伺っていたので、養子なのに『勘』が付けられたので養子と言っても、何れかの次右衛門の子から男系で繋がっているため、『勘』を付け、また、兼直の『直』も直接の繋がりを持つという意味の『直』を付け、養子であるため、『右衛門』から『左衛門』に変えたのかなと自己流に推測していました。そして、兼直に嫡男が生まれたため、次に繋がるという意味で『次』を付け、兼次とし、次右衛門兼弘から継続されていた『左衛門』から『右衛門』に戻し、勘右衛門兼次としたのかなと想像していました。
『吉』については、長嶌太吉は『太』が付くので、長男で、『吉』は勘右衛門兼吉の『吉』から付けたのかなぐらいしか思い浮かびませんでした。

福管理人さんから、大きな使命を頂き、身も引き締まる思いですが、ある程度のめどが付いたら、青木氏サイトに長嶋氏について纏め投稿できればと思います。
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長谷川氏との関係の部分でも説を読ませて頂いていますが、大蔵氏と藤原秀郷流結城系長嶋氏の血縁した部分が、これからの課題ですね。


  [No.880] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/01/02(Wed) 09:28:51

長嶋さん 今日は。
おめでとう御座います。本年も宜しくお願いします。

さて、早速のご返事読ませて頂きました。

「個々のルーツ」をより正しく検証するのは、矢張り「菩提寺の確定」に尽きると思います。
ただ、一つアドバイスとして、この「菩提寺」の定義として、”自らの氏だけを祭祀する”としての「独善の自営寺」と成りますが、その家筋により室町期中期以後の場合に置いて、「下克上」が起こりましたので。この「菩提寺」を失ったとする氏がいて「下克上」で母体が弱体化して「菩提寺」を持て無く成った氏が起こりました。この場合は、その寺は近隣の「檀家寺」に定めますが、元より自営独善寺でしたから「浄土宗」の場合は「密教」でしたので周囲に浄土宗寺が無い場合があります。
其処で、「真宗」に切り替えた事が24地方等で起こっています。特に藤原一門の青木氏族にはこの「真宗」の氏が各地に多いのはこの事から来ています。当然に大蔵氏系肝付氏の長嶋氏は真にこの対象の氏に当ります。
九州鹿児島はこの「密教の浄土宗」が殆ど無く、もし浄土宗となればより「自営独善の寺」でなければなら無く成りますが、大化期からの悠久の歴史を持つ肝付氏は元は朝廷の五大官僚族の伴氏との血縁族ですので、慣習上は「古代密教の菩提寺」であった筈です。ところが島津氏との戦いで破れこの「古代密教の菩提寺」は先ず焼失した筈です。
当然に、島津氏は江戸初期の徳川家康の「浄土宗の禁令解除の督奨令」までは浄土宗ではありませんでしたから、肝付氏は浄土宗を維持する事は不可能になっていた筈です。家臣と成ったものが藩主以上の格式の浄土宗を維持し、又負けたのですからこの寺そのものを維持する事は慣習として困難であった筈です。まして家臣に成っていて密教の浄土宗を維持する能力あったかが疑問です。
そうすると、次には「真宗」とする慣習が秀郷一門の血筋を受け継いでいれば絶対的に出て来ます。
鹿児島には浄土宗派は4寺しかありません。高級武士や大名に許されたこの浄土宗寺での確認作業と真宗の確認が必要ですね。
室町中期以降の島津氏に敗退した以降の菩提寺として確認が必要です。
次ぎに、この島津氏に敗退前、即ち、室町期中期前の肝付氏の地元の日向域での浄土宗の菩提寺の確認が必要です。ここには室町期中期以降の肝付氏族永嶋氏3氏の一つの中ほどの永嶋氏と、元からの北よりの大蔵氏系永嶋氏と、日向南よりには肝付氏族長嶋氏が存在していましたので、この3地域の浄土宗と真宗の確認が必要です。南よりの地域の可能性があります。
もとよりこの地域の2つの宗派は少ない筈ですから、調べる事は可能です。
ではその検証の特長とは、「人、時、場」の何処にポイントを肝付氏族長嶋氏の場合は置くかという事に成ります。歴史的経緯から、その寺を菩提寺にするかは、「時>人>場の条件」が成立する事だと思います。前期と後期に別けて、「時」は長嶋氏の発祥期頃、「人」は初代か最大勢力の人物期頃の人、「場」は上記した様に前期と後期に別けてその時代の変革期の定住地と成ります。
これらが、3つ条件が良く矛盾がすく無く合った時に、可能性が最大と観るべきと考えます。
確定は歴史的経緯から鹿児島、宮崎は困難と見られます。可能性の確率ですね。
私は、室町期中期を境に宮崎から鹿児島に移した可能性があると考えます。(島津氏の影響)
そして、この時に浄土宗から真宗に宗派変えをしたと観ます。変えなければ無理な状況に追いやられたと観ます。以前の書きました永正3年頃で 兼重−兼成−兼幸の頃の前後の高山の頃で、天正8年に元の高山を領地として貰い宮崎から鹿児島に移りますので、この「2つの時代期、国の場所、当主の人物」の頃が寺を左右する事が起こっていますので可能性があると見ています。
このいずれかの前期は浄土宗か後期は真宗として観ます。三雁金紋を中心に。
元の勢力域を堅持していた兼成−兼幸の頃と 最大勢力は旧来の地の日向域を確保した兼続と、最低勢力は全てを失った兼道が境に成っています。この3ポイントか菩提寺を決める時期と見ます
兼幸のころか、兼続のころか、鹿児島の兼道かと成りますね。
お家の長嶋氏としては兼続の頃かなと思います。
兼幸は肝付氏の印象、兼道が長嶋氏の印象、兼続は肝付け長嶋氏の両方の期の印象となるでしょう。
菩提寺は氏に取って最も大事な事なので、この3期のところで決めていると考えます。

「真宗」を檀家寺として長く菩提寺役として使っている可能性がある筈です。
浄土宗は江戸期に島津氏の宗派変えをしていますので、4寺しかなけれは島津氏のものと考えられます。元は浄土宗族としても主君と同じと云う訳には行きません。兼道の時に真宗に変えている筈です。
尚、真宗と同じく浄土宗系の時宗もありますが、最後に見つからない時には調べられると良いと思います。

菩提寺は当時の慣習からどの様な時期に定めるかは時代が動いていますので上記の判断が必要です。

兎も角も、論理的に調べてください。

この様な調べた事を書きながら、その当時の時代の変異や経緯を添えながら添書として系譜を作り上げる事で物語が出来上がりますので、子孫として完全な由来で無くてもその生き様を求めると思いますので”より確率の高い論処で”主観を交えながら纏められると良いと思います。
完全な事は現在では特に肝付氏族長嶋氏の場合は困難ですね。
今までの事だけでも纏めれば子孫にとって面白い相当な由来書が出来ていると観ますよ。
最後は元のところの菩提寺の論処だと思いますよ。筆者のお家の論処も書き添えて造り上げれば、肝付氏族長嶋氏の始めての「平成由来書」が出来上がるのではないでしょうか。
そして、その場合、青木氏族として本サイトに投稿して下さい。
サイトもそれでこそ大化期から元は最大氏でしたから、「日本一の氏の最大サイト」と成ります。現在もヤフーによれば最大との話があります。努力はしていますが今だ永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏の青木氏族まで充分に手が廻りません。
現在もお家のご質問で掲示板には長嶋氏の方もカウンターから観ても見て居るようですよ。
何時か物語風に纏められて投稿して戴くとありがたいですね。

それには青木氏本サイトがご協力致します。

追伸 前回のお答えの左衛門の階級が判りました。
兼重の弟の兼成の子供を養子として永代の左衛門尉兼幸です。


  [No.902] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/10(Fri) 18:16:51

静岡の長嶋さん 今日は。お久しぶりです。
お変わりありませんか。

さて、お尋ねの件ですが、お尋ねの内容は削除しますので。
お応えとは何とも云い難いですが、強いて云えば、以前に類似するルーツ長嶋氏がいるとのお応えをしました。
そのお応えに史実が若干類似するところもあります。
伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている一族がいます。
ただし、この貞国の一族は未勘氏族と言われている族で、後に、岐阜、静岡を経由して武蔵国の平方郷に移住したとされる一族で、この平方郷で子孫を広げます。ただこの一族は養子縁組が多く男系継承は傾向的に難しかった様で系譜を観ると、完全な女系の系譜と成っています。
この系譜のある途中で、岐阜か静岡のどちらかに男子を何らかの理由で遺して来た為に、この男系のルーツが出来なくなって行ったような系譜を持っていたようです。

全て院殿居士の法名からかなりの高い相当な財力のある身分の家柄であった事が判ります。
女子も院殿の最高の法名を持っています。何かを物語っています。
ところが、この伊勢長島の長嶋氏の分家と成っている初代貞国の時代が、初代にしては伊勢長嶋氏とは時代が違いすぎています。
どこからか移動して来たしっかりした伊勢で分家を興すくらいの「長嶋族」では無いかと推理出来ます。そうなると伊勢長島の長島ではなく、戒名から観て正規の長嶋を名乗っているので薩摩肝付からと成ります。
恐らくは何らかの理由で薩摩から、この宗家筋を頼ってやって来た一族で、伊勢長島に定住出来たと考えられます。先ず何処の馬の骨か解らない者に長島に勝手に住まわせ、分家を作らせる事はしない筈です。
そして、新たに分家を興させています。普通は新たに分家を興させる事は先ず氏家制度の中ではありませんので、伊勢に薩摩長嶋の別のルーツを持つ一族として分家を許可したものでなければ分家を興すことは出来ません。(関西と関東の永嶋族の危機に陥った宗家結城の後方支援か、又は経済的な交流、買い付けか)
ここから枝葉を多少拡げた後に、何らかの理由で他の長嶋族が定住している地域に、この一門が岐阜−静岡−武蔵と移動定住したと成ります。(その理由下記)

この移動定住は、結城の結城一族永嶋氏と陸奥の結城永嶋氏を室町の信長-秀吉の時代に一族を後方支援する為に、伊勢長島から夫々の永嶋氏が居る地域の援護をしながら派遣された一門ではないかと考えられます。結局は、領国の武蔵平方で最終留まったと見られます。
この伊勢から派遣された後方支援は陸奥まで派遣されています。本隊は敗退して最終伊勢に戻っています。(後にいせ永嶋氏も信長−秀吉に潰される 陸奥の結城永嶋氏と結城の永嶋氏宗家も負ける。)
この平方郷には大きな墓所3基が残されています。この女系に成った長嶋の平方の裔は現存するが、岐阜と静岡の末裔は不明です。
この貞国で始まった伊勢長島の長嶋氏は本来は長嶋氏でありながら、途中から平方郷では宗家筋の永嶋氏を名乗っています。名乗るには宗家から跡目を入れた事以外には考えにくく、ここにも何か理由があります。
この一族の長嶋氏がお話の内容と似ている処があります。

では又何か有りましたらお便りください。


  [No.906] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2013/05/12(Sun) 19:10:16

福管理人さん、お応え有り難うございます。
毎日忙しく、仕事をさせて頂かせてもらっています。体力だけはある様で、御先祖様に感謝という所です。

以前、下記の様に出てきた長嶋武右衛門貞国さんですね。

『確かに伊勢長嶋氏の中に長嶋武右衛門貞国なる人物が居ます。
そもそも、 この「・・右衛門」は関東の佐野氏系長嶋氏の世襲名にも多いのです。
実は念入りに調べて行くと、今回次ぎの様な事が判ったのです。
この貞国なる人物が途中を経由して関東武蔵国平方郷に移り住んだとあります。(子孫は現存している)
この者の一族の寛永の頃から続いた戒名には光を読み込んだ人物が5人も居ますし・・右衛門が3人も居ます。
そして幕末の頃の戒名には光以外に緑と林と木を読み込んだ故人は4人居ます。
前半は院殿居士の武士の戒名 江戸末期頃の戒名は武士出身のある程度大店の商人階級の居士です。太吉さんもこの戒名でしたですね。
ところが、幕末の太吉さんの頃の男子の戒名がありません。
安政4年の大姉の女性の戒名だけです。その前の男子は養子の長嶋銀蔵さんと成っています。何か変です。その後明治の中頃以降に飛んでいます。そして明治以降はこの一族は養子が多い事です。
この幕末に跡目の男子が死亡以外に一族から何かの理由で籍を抜いた事を意味し、墓には入れなかった事を意味します。
この貞国と云う者は鹿児島薩摩藩の意を得ての伊勢−静岡−埼玉の移動の遍歴を繰り返したと考えられます。この地域の共通点は「長嶋」と「材木」です。』

この伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている未勘一族と当家の長嶋と関連する可能性はあるのかもしれないですね。
肝付(長嶋)兼道→肝付幸之丞兼継(肝付兼樹の養子)→肝付次右衛門兼弘(初代長嶋次右衛門兼弘)→次右衛門兼定→次右衛門兼勝→次右衛門兼忠→次右衛門兼光と続き、兼光の代で嫡子がいなく、長島勘左衛門兼直が養嗣子となり、そして勘左衛門兼直→勘右衛門兼次→勘右衛門兼吉(長嶌太吉)となります。養嗣子の勘左衛門兼直は助貞という名もあるようです。
この『助貞』は気になります。
長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。
長嶋武右衛門貞国が、肝付兼樹、兼亮からの系統なのか、当家の次右衛門からの系統なのか分かりませんが…。
また、大蔵氏系長嶋氏と言う事もあるのでしょうか?
大蔵氏系長嶋氏の長嶋種武は菊池氏と血縁を結んでしますし、その他にも大蔵氏と菊池氏の血縁も見受けられます。
九州の長嶋氏で『違い鷹の羽紋』を持つ長嶋氏は菊池氏との血縁の関連からかなと推測し、岐阜、三重などにも『違い鷹の羽紋』の長嶋氏があるので長嶋武右衛門貞国との関連性を推測したのですが。
また、長嶋武右衛門貞国は安土桃山期の方なのでしょうか?それとも江戸初期の方なのでしょうか?

また、上記の数点について教えて下さい。宜しくお願いします。


  [No.907] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/13(Mon) 14:48:14

御質問1
>長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
>そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。
>長嶋武右衛門貞国が、肝付兼樹、兼亮からの系統なのか、当家の次右衛門からの系統なのか分かりませんが…。
>また、大蔵氏系長嶋氏と言う事もあるのでしょうか?
御質問2
>大蔵氏系長嶋氏の長嶋種武は菊池氏と血縁を結んでしますし、その他にも大蔵氏と菊池氏の血縁も見受けられます。
>九州の長嶋氏で『違い鷹の羽紋』を持つ長嶋氏は菊池氏との血縁の関連からかなと推測し、岐阜、>
>三重などにも『違い鷹の羽紋』の長嶋氏があるので長嶋武右衛門貞国との関連性を推測したのですが。
>また、長嶋武右衛門貞国は安土桃山期の方なのでしょうか?それとも江戸初期の方なのでしょうか?

静岡の長嶋さん 今日は。

さて、この「武右衛門貞国」なる人物の詳細が掴めません。
結城永嶋氏は平安期1000年頃の発祥で、その後「関東屋形」としての大豪族として伊勢長島まで勢力を伸ばしたのは鎌倉期末期から少なくとも室町期の初期の頃で、この人物の末裔(2)と観られる一族が伊勢長島で「分家」(説2)を伊勢で興したのは推測として安政4年の前くらいと系譜からの変異で推測します。

この人物の伊勢長島の末裔(1)が岐阜と静岡に移動していますので、その時期は信長−秀吉の時代の少し前と経緯から計算されます。
その分家の末裔(2)の長嶋氏の末裔が、その後にこのルートを頼って移動して行く事に成ります。
この末裔(1)の移動経緯の原因は、「宗家の結城永嶋氏」の信長−秀吉の軋轢から、全国の永嶋一族一門が対抗する為に後方支援に廻った歴史的経緯があります。
この時に、「九州の永嶋一族」と「肝付氏の長嶋氏」も後方支援に廻ったものと考えられます。
この後方支援に廻った時の「肝付氏族長嶋氏」(説1)か「安政の頃の肝付氏族長嶋氏」(末裔2 説2)の何れかが、伊勢長島で「元祖貞国」の「分家」を興したかは不明なのです。

つまり、この結城を始めとする「永嶋氏の家」から鎌倉末期の「元寇の役」で九州に派遣され定住し、「大蔵氏系永嶋氏」から「大蔵氏系肝付氏族長嶋氏」(宮崎の永嶋氏、肝付の長嶋氏、阿多の長島氏)まで血縁を拡げますが、恐らくこの過程で「宮崎の永嶋氏」から「肝付の長嶋氏」に成った時に、「伊勢長嶋氏」からこの「肝付氏族長嶋氏」に「跡目」を入れた実家先が、「伊勢長嶋氏」のこの「武右衛門貞国」の家からであったと考えられます。
だから、一族でありながら「永嶋氏」から「長嶋氏」に変化しているのです。
そして、再び、武蔵で永嶋氏に変名しているのです。
故に、「初代」と記述しているところから、つまり、元祖は「武右衛門貞国」としているのであって九州の人物では無く、「肝付氏族長嶋氏」の伊勢長嶋氏の「元祖」、又は「実家先の先祖」を表現しているのです。決して「武右衛門貞国」が肝付氏から来たと云う事ではありません。

そして、「何かの理由」でこの実家先に「肝付氏族長嶋氏」の一部が戻って、この実家の分家の分家として表現しているのであってここで興したと観ています。(説1と説2)
筆者はこの両方が興って、説1で分家、説2でここを頼った。そして、末裔1の移動先の岐阜と静岡に子孫を遺し、そこを頼って末裔2が移動して行ったと推理しています。
その移動過程で、幕末安政の頃にその末裔2の一部が静岡に何らかの理由で留まったと見ています。
その移動理由は幕末の薩摩藩の「買い付け」にあったと考えられ、それ故に実家先の移動先の伊勢長島と岐阜と静岡の移動経路を再び辿った事に成ったと考えられます。
筆者は「貞国の分家」は「説1」が興したと考えます。
これを肝付から来た「末裔2」が頼ったし、移動したと見ています。その最終は矢張り末裔(1)の武蔵の平方に辿り着いたと考えられます。

仮に、お家がこの末裔(2)の者の一人であったとして、それが静岡で留まった末裔では無いかと見ているのです。
岐阜と静岡にも長嶋氏が存在するのは、元々の伊勢長島の本家長嶋氏と、末裔(1)の長嶋氏が存在している事に成り、この時に末裔(2)の一部の者が何らかの理由(木材買い付け)で残留した事に成ります。

故に、仮にお家の先祖が薩摩を出たとして静岡で留まってしまって、家紋も宗派も法名も家柄もルーツも姓も伝統も何もかも途絶えてしまったとも考えられます。
ところが筆者が書き記し出来る程度に、武蔵平方郷に辿り着いた末裔は厳然と必要な伝統を引き継いで現存しているのです。

以前の最初からのお答えからも、これらの情報を先ず調査して確認して、矛盾無かった場合に、肝付氏族長嶋氏の末裔であるとすべき事を提案し忠告しています。
以前これ等の情報は何度も申し上げていますが全く頂いていません。
初回から提供いたしました全ての資料と記録はお家を限定として申し上げている訳ではありません。
「一つの氏の経緯」を申し上げています。それがお家であるかは判りません。
ところが、この証拠を裏付けることも無しに、独自に先行してルーツとして決め付けて発言も「下記ご意見」の様に投稿されていますが、その事は自由ですが、根拠無くサイト発言とサイトの回答を利用される事は、サイト運営上好みません。念のために、筆者と青木氏氏サイトは確定はしていませんのでご留意してください。

実は、ところが、最近の筆者の調査では、この「肝付氏長嶋氏の末裔」と観られる家筋が肝付の付近に現存されていて存在が確認されています。この家の家紋や宗派や家柄や姓も伝統記録や法名や過去帳も全てが矛盾無く持ち合わせています。恐らくはこのお家が本家末裔と考えます。
この本家筋が見つかった以上は苦情が出ることも起こりますので、是非、提示する必要な情報を無視されること無く是非にご提供ください。

(以前提供しました系譜の下記の「ご意見」の系譜の部分に対しては、お家である事の証拠は何も有りません。更に本件もお答えすれば追認した事を意味しますので、お宅の常套手段のやり方に異議があります。)

今回も含めて、薩摩からはこの様な「長嶋氏の末裔」の定住移動が筆者の資料から分析すればあったとしているのです。上記の様な事柄を確認された上での「末裔2の残留者」と確定できるものです。
既にただ一つの戒名だけの提供がありましたが、この事からも上記の「末裔1」と「末裔2」の戒名がその相当な家柄等を示す伝統ものを完全に持っていますので、その意味からしてお家が「末裔2の残留者」の者とするには大きな疑問が残ります。その様に以前お答えいたしました。
従って、他の筆者が提示する情報を是非提供いただいた上でのお答えしたいと思います。恐らくは戒名からも大きな疑問がありますが答えが出ると思います。

因みに、この「末裔1」の平方での家紋は変名して「長嶋氏」ではなく「永嶋氏」で「立沢瀉紋」です。
この沢瀉の文様は三重東、愛知から静岡にかけて拡がった文様ですので、これが平方にある事はこの地域から移動してきた事を物語ります。
元は何であったかは不明で家紋掟に依って変紋したと観られます。
参考として大蔵氏系永嶋氏一門の「三雁金紋」から変紋しています。
肝付氏族長嶋氏にはいくつかの家紋群があります。この中にあるかの問題も含んでいます。

何度も申し上げていますが、上記の様な情報を確認していただければ、他に持ち合わす資料から「末裔2の残留者」のお家である事が確認出来るのです。
今回は元祖とその歴史的史実の経緯を提供いたしましたが、お家に確定している訳ではありません。
今のところではお家はその戒名からは疑問です。(末裔1と末裔2は疑問矛盾は少ないですよ)

質問2に付いては質問1でお答えはできていると考えます。

ご意見
> この伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている未勘一族と当家の長嶋と関連する可能性はあるのかもしれないですね。
> 肝付(長嶋)兼道→肝付幸之丞兼継(肝付兼樹の養子)→肝付次右衛門兼弘(初代長嶋次右衛門兼弘)→次右衛門兼定→次右衛門兼勝→次右衛門兼忠→次右衛門兼光と続き、兼光の代で嫡子がいなく、長島勘左衛門兼直が養嗣子となり、そして勘左衛門兼直→勘右衛門兼次→勘右衛門兼吉(長嶌太吉)となります。養嗣子の勘左衛門兼直は助貞という名もあるようです。
> この『助貞』は気になります。
> 長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
> そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。


  [No.908] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2013/05/13(Mon) 17:15:57

福管理人さん、早速のお応え有り難うございます。

福管理人さんの仰るとおりですね。
軽率でした。宗家の方にもご迷惑ですね。
ルーツを確定していくためのヒントの資料として、提供していたのですからその通りだと思います。

静岡の長嶋ですが、薩摩から来たのは三河国川路なので、正確に言うと愛知となります。
東海道の吉田宿(豊橋)から伊那街道で北上していくと、川路という地区があります。
鳳来寺山(鳳来寺、東照宮)への巡礼・参拝の地、また飯田へと繋がる街道となっていたそうです。
そこに太吉に移り住んでいます。現在、その周辺で長嶋を名乗る物は内の一族のみというなります。
この地域では、菅谷、夏目、滝川、牧野と言った名前が目立つ地域です。
静岡県というよりも、愛知県に位置していますので、この点も訂正とさせて頂きます。

今後ともなにか質問の内容に注意して、行いますので宜しくお願いします。


  [No.909] Re:長嶋さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/14(Tue) 11:01:08

長嶋さん 今日は。

さて、早速ですが、ご理解いただきありがとう御座います。

この様なサイトを運営するに関して最も注意を払わなくては成らない点で、取り分け長嶋氏は名門中の名門です。「氏の伝統」が消えつつある中でも秀郷一門の長嶋氏は宗家の内ではまだその「氏の伝統」は「慣習、仕来り、掟」の中で守られています。

「青木氏族」の「秀郷一門主要5氏」として、福岡、長崎、香川、広島、徳島、神奈川、埼玉、千葉、栃木、新潟、青森、茨城、では厳然として宗家筋が現存しています。鹿児島、熊本、宮崎も現存している事が判りましたので、青木氏としては特に注意を払っています。
これ等の宗家筋が系譜等に於いてもどの様な「歴史的な経緯」を持っているかを研究しています。

「慣習、仕来り、掟」を守ると云う事が現在に於いてどれだけ大変な事かも理解できます故に、その「ルーツの伝統」をあやふやにする事には心理的な抵抗を持っている筈です。
この感情は同じ立場にある青木氏としても理解できますので、より正等にルーツを明確にして行く事には吝かではありませんが、個人の思惑は自由としても、正確さと明確さをサイトとしては守りたいと考えます。

この点をご理解頂き今後ともに御投稿をお願いします。

追伸
よく判りました。
ご質問頂いた事にお答えして、それに伴う情報に確証があれば、本サイトとしても確証付けるものがある為にその範囲ではサイトでの公表は当然の事として問題ない訳であり、無い状況の中では自己判断の確定したような公表は前伸の通り問題を持ちます。

確定し得る情報を持ち合わせない場合のご質問は、そのご質問の範囲で留めて戴く事が筋目かと考えますので、その要領をお守り頂けるのであればサイトとしては何の問題も有りません。


  [No.963] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:杉浦 道生   投稿日:2014/05/13(Tue) 15:07:16

源吉については岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』との記載がありました。また、明治9年鍛埜村に杉浦源兵衛がいて源吉の兄と推測しています。子孫らしき方も定住しているような様子です。       投稿日:2011/12/27(Tue) 00:48:33

上記の子孫らしき方 は私の事のようです。 杉浦源吉は私の四代前の先祖になります。除籍などで分かっている事は、源吉の父親は杉浦右ェ門、母親は りた。源吉の妻は たい。源吉の命日は明治9年7月21日。杉浦源兵衛は源吉の長女(きい)の入り婿です。西尾の牧野金兵衛の次男であります。除籍では養嗣子と記載されています。3年前に私の父親が亡くなり(15年前より旧額田町の老人福祉施設に入居しておりましたので実家は長らく空家状態でした。)長男は横浜に、次男の私は岡崎市牧御堂町に在住
しており、実家は週に2〜3日猫と鯉の餌やりに訪れています。我が家のお墓は一番右に源吉の銘の墓があり、源吉以降の3代もその墓に入っています。源吉の墓というより先祖代々の墓となっています。
前後の文面から察するにどうも長嶋様のお探しの杉浦源吉さんではないような気が致しますが、ご質問下されば分かる範囲でお答え致します。牧野家の事が記載されていましたが西尾の牧野家と関係があれば何らかの繋がりがあるか・・ですね。
 私も先祖の事は色々調べてはおりますが非常に難航しています。
杉浦源兵衛の義理の息子の実父が日周上人という日蓮宗の僧侶で、後に身延線の内船寺の住職になられた方のようですが、戸籍上は父親は春日井の長谷川勘四郎となっておりますが 全く確認が取れません。知っていそうな方は全員お亡くなりになっていて遅々として進まずです。


  [No.964] Re:静岡の長嶋です。
     投稿者:長嶋です   投稿日:2014/05/13(Tue) 21:53:46

杉浦道生さん、はじめまして。

貴重な情報ありがとうございます。
岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』
については、幕末は、一般に黒船来航の1853年7月8日(嘉永6年旧暦6月3日)辺りからと考え、杉浦家
から長嶋家(当時は長嶌)に養嗣子となった源吉は、弘化元(1844)年12月20日生で大正2年に亡くなっ
ています。このことから、20歳ぐらいで寄合格になったのかなと思っていました。
妻は長嶌太吉の長女:とめとなります。

道生さんの御先祖様の源吉様とは年齢的に親子の関係となるため、仰るとおり別人のようですね。
また、岡崎市史の杉浦源吉とは違うことが分かっただけでも収穫です。


自分で岡崎市鍛埜町を訪れ、源吉さんが親のために建てたお墓にたどり着きました。
その墓石には杉浦源吉の銘が側面にあり、両親の戒名が書かれ、父親は明治9年、母親は明治13年に亡くなったことが記録されていました。
もし、事実であれば、長嶋家の養嗣子となった長嶋源吉が杉浦源吉と記したのは杉浦家の墓石だから旧姓としたのでは、と推測しました。
ここを立証できればと思っています。
また地元の方にそのお墓の持ち主について伺った所、『お墓の横の家の者で、そこの方は医者をしていた。先代は東京から養子できて医者をしていたが、昨年(2010)
亡くなった。現在孫が一人で住んでいる。』そしてもともと家は『昔は、現在木が生えているところに家があったが、下に建て直した』との事でした。
お墓については、その方(昭和初期生まれ)が子供の頃から今の位置に在ったと話して下さいました。
こちらも、ここで情報が切れています。これも何かの縁ですね。
今後とも何か良い情報がありましたら宜しくお願いします。


  [No.1005] Re:静岡の長嶋です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/24(Mon) 10:23:24

静岡の永嶋さん お久しぶりでね。
良くお調べに成っていて、感心します。
現在は、伝統が消え失せ、個人情報の制限でなかなか調べられないのが現状です。
お調べに成る方法や方向は、その氏に依っても異なりますので、推論をたててそれを立証して行くことの効果は千差万別の結果と成ります。
その意味で、納得され理解が得られます。
それを補足する意味で、お尋ねの「歴史観」は絶対条件に成り、この「歴史観」に依っては、推論の問題点を解決し得る可能性が有ります。
そのより「高い歴史観」が、より「ルーツの確証」を高める結果と成り得ます。
静岡の永嶋さん特有の検証方法かと考えます。
或は、この様な検証方法も現代に於いてはあり得るかも知れませんね。
それには、この様な結果を整理して取りまとめて記録に保管する事が必要ではないかと思われます。
筆者は、ルーツとは、丁度、”壺の「化石」の再生品を作る工程と同じではないか”と考えています。
”壺の「化石」”の「破片」には、完全に複する事が出来るものと、出来ないものがあります。
出来ないものは,その”足りない部分の破片”を”推論付けて作り”それを”接着する事”に成ります。そして、その”推論漬けた破片”がより「現実の壺」に近く見えるものであれば,それは価値を作り出した「歴史的な壺」と成ります。
その壺の”複した破片”が多い壺と成れば、「歴史的な壺」の価値は低下してしまいます。
ルーツも同じで、当然に判らない解明できない部分が起こります。
しかし、この判らない足りない部分を、より”史実に基づいた高い歴史観”で推論付けて繋げは、それは其れで「ルーツ」と成り得ます。
その”繋げる部分の史実に基づいた歴史観”に基づいた”信頼度の如何”が左右する事に成ります。
その「左右」は、それを”観る者の納得度”に任される事であると思います。
そもそも「ルーツ」に限らず、この世の如何なるものも、この「摂理」に従っているのではありませんか。

その事に依って、将来、子孫が何時か、我が家の「ルーツ」に興味を持ち、その記録を読んだ時、そこに子孫の「先祖の歴史観」が蘇り、ルーツ記録の目的は達成されると考えます。
「ルーツ探究]は、必ずしも100%史実でなければならないと云う定義は成り立たないと考えます。
その割合は個人の判断の領域で有る筈です。10%なのか90%なのかは別としてです。
しかし、0%は小説の領域と成りますので、ここでは、ジャンルが異なりますので、これは否定される筈です。
何故ならば、現代の様に、記録が保存される時代ではなく、少ない記録資料の中から「ルーツの探究」が行われるのですから、”推論部分の領域”もあり得る訳ですから、この部分を整理して、この「歴史観の前提」を書き記し、記録されれば、それはそれなりの「先祖記録」と成り得ます。
そして、それが後の「子孫」が読んだ時に、それが何とも言えない”ルーツロマン”と成って記録に遺ると考えます。
筆者は、むしろ、この様な部分がある事が、「全体のルーツ記憶」として、「脳」に遺されるものと考えます。「脳の海馬」の「印象力」が強く起こる事に成るからだと思います。
ただ「若い子孫」が読んだ時に限りますがね。
その為には、「作者の推論部分」を”物語り風”に仕上げるのも一考かと思います。
筆者もこの様な形で、より「歴史観の背景」を論じて、その「推論の部分の信頼性」を高める様に「青木氏」を論じています。
後は読者の裁量の範疇です。100%では無くては読まない信用しないでは、読んで頂けなくてもよしとするところです。

さて、そこで、ご質問です。
極めて良いご質問と判断します。

1.史実的に上記の事(内容秘匿)をどう思われますか?

上記しました様に、全くの想像域とは云い難い事だと思います。
当時の社会性から観て、「史実」を基にした当時の「歴史観」からも、”あり得る事である”と考えます。
”史実的”には、その領域が100%とは云い難いにしても、筆者が経験を通して総合的に観る「歴史観」からは、当時の「薩摩の環境」からは、当時の「薩摩の永嶋氏の環境」から観ても、60%からのその程度の「史実性」を持っていると観ます。
つまり、”あり得る領域にある”と判断します。
と云うのは、そもそも、「薩摩」には、お家の始祖の一つと成った「伴氏」ー「肝付氏」ー「大蔵氏」ー「永嶋氏」ー「長嶋氏]ー「長島氏」から「島津氏」に移るまでの経緯と、室町期末期から江戸期にまでの経緯の中では、ある「特別な事情下」にありました。
この”「事情下」”が薩摩の持っている「特有の歴史観」で在ります。
これは”歴史を調べる者”に執っては、必ず知っておかなければならない「重要な歴史観」なのです。
それは、そもそも、歴史的に「薩摩」は、全体の豪族の大名の中でも、当時のどの政権からも、「特別な事情」によって、”特別に警戒されていた地域”であったのです。
この「警戒感」は、”長い歴史”を持っているのです。
それは「飛鳥時代にまで先ずは遡ります。
他の論文でも、論じています様に、九州は奈良時代に「後漢の帰化民族200万人」が九州に上陸した時から始まっています。無戦で制圧されます。
そして、その「後漢の帰化民族」の首魁(阿多倍王)は,大隅の隼人に定住し、その首魁の父親(阿智使王)は、「阿多」に定住して「九州全域の根拠地」とします。
この時、奈良期の朝廷は、この帰化民族の一団に対して、朝廷の命に従う様に命令を発しますが、云う事は長い間、聞かなかったのです。
そこで、朝廷は2度も大遠征軍を差し向けますが、敗退してしまいます。この戦いは713年から723年に繋がります。
そこで、勝ち目がないと判断した朝廷は妥協してこの一団と和睦します。
そして、官位と本領地と官職とを与えて飛鳥に出て来るように促します。
一団側も納得して、「薩摩大隅隼人」の半国割譲と、「伊勢国北部伊賀地方」に領国を半国割譲して与えられ、敏達天皇の芽准王の孫娘を娶らせます。
そして、准大臣とし、その生まれた3人の子供に賜姓して朝廷の3役処(3蔵)の内の2蔵の役処を与えて、「朝廷の官僚団」を構築させたのです。
これが、桓武天皇と兄弟の様に育った側近中の側近の「征夷大将軍の坂上田村麻呂」です。
次男は、朝廷の財政を担当した大蔵氏、天皇家の財政を担当した内蔵氏です。
この大蔵氏が九州全土の自治を任され、「錦の御旗」を与えられた「遠の朝廷」と呼ばれた「太宰府大監」です。
そして、伊賀に定住した阿多倍王の本家の子孫は、賜姓を受けて「桓武平氏」を名乗ったのです。
これが、5代後の太政大臣「平清盛」です。
これらの一族が九州に基盤を作り、一時は「独立騒動」が起こります。
朝廷は悩みますが、この一族は九州は愚か朝廷内部までも牛耳り、衰退するどころか益々勢力を増し云う事を聞かなくなってしまったのです。
その為に、この事があって、室町期まで薩摩域は警戒されていて諜報活動が盛んであったのです。
室町期には、遂に、肝付氏が薩摩氏に負けて、その勢力は島津氏に引き継がれますが、豊臣政権時に、秀吉はこれに警戒して特に薩摩に膨大な隠密を送り込みます。
徳川時代に成っても、この「隠密状況」は変わらず、益々、強化されたのです。
それに対抗した「薩摩藩」は、「逆の隠密」を送り出し幕府の動静を探ります。
「薩摩藩」は、この対策の一つとして、隠密に情報を読み取られない様にする為に、「言葉」に変化を与えたのです。
一つは、言葉の代名詞を出来る限りに云わない事、
二つは、言葉を”来る”の意は、”行く”と云う風に逆にする事にします。
三つは、親族の関係をはっきりさせない為に、全ての年上の男女には、”兄、姉”と呼んで特定を避ける言葉を作り上げたりしたのです。
更に、各地に”逆の隠密”を送り出したのです。

「士農工商の姿」に化けて「情報収集」を行ったのです。
このシステムは奈良期から明治維新の薩摩藩の衰退期まで続けられました。
この役目は、家臣の中でも信頼のおける者に委ねたのです。
お家の長嶋氏の幕末のご先祖は、「二足の草鞋」で「薩摩藩御用調達商家」を営んでいました事からも、筆者は以前のお便りで、その仮の姿を「材木商」と推論付けました。
恐らく、この「商い」を通じて、このこの”密命を帯びていた隠密”であったと観ているのです。
(下記にもその根拠明記)
この様に、他の藩にも沢山の密命を帯びた家臣としても入り込んでいた事が考えられます。
「家紋類」から観て、その「統括(御師)」を担っていたとも観られます。
ですから、この推理から説明のつく納得出来るご先祖と成ります。
幕末から明治の中頃までのご先祖は、静岡や戒名や長嶋氏の通名などの有無が判断材料と成ります。
他の事もこの推論の論理で検証すれば、説明出来る論調のルーツが出来る筈です。
つまり、お家の場合は、室町期までの事は史実で成立しますが、江戸中頃から明治中頃までの間の繋ぎの推論をたてる事が必要と思います
それは、判り易く言えば、「逆隠密の役目」を負っていた事から、ルーツの解明が出来なくなっていると観ていて、それで説明が付きます。
悠久の歴史を持ち、室町期まで史実で完全に説明が付いているのに、突然に消えると云う事は、当時の「武家の慣習」からも”おかしい”と観られます。
”消えた”と云うよりは”消した”と云った方が良いと観ます。
それは、”消した”の必要性は、「諜報活動」をする「逆隠密」であった筈です。
「西郷隆盛」も斉彬に命じられて京都と江戸でこの「諜報活動の役目」を果たしていたのは有名な事です。
斉彬後の”投獄の憂き目”は、この面倒な役柄を暴かれて、幕府に何ぐせを付けられたくなく、隠すために抑え込む為に投獄されたと観ています。
歴史マニアではこの事は定説です。
恐らくは、”幕府隠密”に依って調べられ、幕府から 睨まれて”暴かれていた”のです。
次期藩主はこの恐怖に耐えられなかったと観られます。
投獄理由は、”斉彬の名跡を継いだ弱腰の藩主を詰った事”に成っていますが、そんなことで「島流しの投獄」は無い筈です。
同じくお家の幕末から明治期に生きたご先祖の”太吉さんもこの役目を帯びていた”と観ています。
恐らくは、長嶋氏の中でも、ご商売をしていた親族のご先祖も含めて、お家のご先祖はこの役目を密かに代々帯びていた可能性が高いと観られます。
依って、お尋ねの「史実性」では、提供の情報から観て、全く無視できる範疇では無く、むしろ、信頼出来得る60%程度のものを持った推論と判断します。

次に、2のご質問です。
次右衛門兼弘が長寿の場合、次右衛門を継げず、早右衛門のままで終わることもあるのでしょうか?

お答えは、次ぎの二つの事の差違に依って変わりますが、普通にあり得ます。

先ず、その二つの事とは、一つは、「襲名」によるもの、二つは、「通名」によるものです。
そもそも、「襲名」とは、その「家」や「個人」が特別な格式、特別な身分、特別な階級、特別な名誉、特別な技能、特別な役目、等を持ち合わせている事。
これを継ぐ者もこれに値する場合に於いて、永代に継承する場合に於いて、世間に宣言する手段です。

「通名」とは、「氏の格式」を統一して継承する場合で、一族一門の中でその出自を明確にするための判断手段として用いるものです。
藤原秀郷一族一門等の361氏もある家柄では、どの藤原氏であるかの細部までの判別が必要で、この手段として用いられました。
この為に、[地名」と「身分」と「官位官職」と「家紋」と「副紋」と[通名」と「俗名」とで細部の細部まで判る手段を用いていました。
これには、「襲名」の様な「特別な宣言性」を持っていません。あくまでも「判別を目的」とするものです。
従って、このご質問は、あくまでも「通名」ですので、「右衛門」が継承されていますので、問題はありません。
「襲名」の場合は、別に既に「通名」等のものを持っています。

武家の名は、正式には、例えば、筆者の家であれば、平安時代であれば、「浄大一位正二位青木朝臣左衛門上佐信定実千代」と名乗る事に成ります。
代々の「襲名」は「青木長兵衛」でした。これで、世間は、豪商で皇族名跡の「伊勢青木氏」の当主だなと一括して総じて判る事に成ります。
(民部上佐:警察をも兼務して 左衛門の中でも上席責任者であった事を示す。)
さて、お家が云うのは、「襲名」を意味しているのか、「通名」を意味しているのかは判りませんが、「通名」であれば問題はありません。
「襲名」で在ったとすれば、上記した役目柄を暗に藩中に宣言した事にも成ります。
ただ,ここで、付け加えて、一つ間違いを起こしています。
「・・右衛門」は名ではありません。
本来は、”高位の武家”(公家に対して武家の意)であれば、これは「官職名」(役職名)で、俗名の名ではありません。

江戸初期頃から、官職の持ち得ない多くの武士は、これを名乗り、遂には庶民までもが”「名」”として名乗る慣習が生まれる様に成ってしまったのです。
お家はこれを「名」として理解していますが、本来、「永嶋氏」であれば、「名」ではありません。
名跡の家柄を示す氏名の官職位です。

次に、この「右衛門」「左衛門」には、永代に名乗る事が出来る「右衛門」「左衛門」なのですが、江戸期から金品を朝廷に献納して、一代限りでの「朝廷の官職名」の「右衛門」を授かり名乗る事が出来る「右衛門」「左衛門」も在りました。
しかし、次第に誰でもが、何時しか庶民までもが勝手に名乗る事が起こってしまったのです。
お家の「右衛門」は、この永代なのか、一代限りなのか、勝手に名乗ったものなのかは判りません。
九州の長嶋氏は、関東永嶋氏とは違って、永代ではない事は判りますが、お便りの経緯から江戸期の一代限りでもなさそうなので、本来の右衛門ではないと観られます。
つまり、”継承事”の云々ではないと思います。

尚、この官職位に、”次”とか”早”とか”正”とか”宋”とか”総”とか「覚」とか添られている事は、”正規の「右衛門」”では無く、江戸期のものの一般化した慣習です。
朝廷から正規に付与される「右衛門」を名乗るには、憚られおこがましく恐縮するところから、正規の「右衛門」に、次ぐものとして「次右衛門」「総右衛門」とか「正右衛門]とか「早右衛門]とか「覚右衛門」とかとして、「・・右衛門」として、違うもの、別のものとして、名乗り始めた物なのです。
また、藤原秀郷一門の「氏の仕来り」では、全て例外なく俗名の前の部分を変更して、「通名」としています。
後ろの部分の場合は、支流分家筋の一部の場合に起こっています。
この場合、身分では色々なものがありますので、「妾子」ではと観られます。
秀郷一族一門には、官職位の部分の変更は資料から確認できません。
お家の場合は、既に、「通名]として、「兼」が使用されています。
従って、正規かそうでないかは別として、後は世襲氏の[襲名」と成りますが,既に「右衛門」が継承されています。
「次右衛門」でなくても、「早右衛門」として名乗っています。
つまり、「襲名」と[通名」を名乗っていますから、懸念の事は、既に成立しています。
つまり、上記した様に、”次”とか”早”には、「襲名的な意味」を持っていません。


参考に、この「右衛門」と[左衛門」と「民部」とかは、皇居警備軍の近衛軍の役職位で、これを更に、佐と尉とに分け、更に、これを上と下に分けて官職位の組織を作り上げています。
これに、「兵衛」の官職位が付きます。
これには,「青木氏」や[藤原氏]や[源氏」の[朝臣族」の家筋が当たります。
つまり、「賜姓族」です。従って、本来は、この氏以外にはこの官職を使う事は禁令なのです。

皇居は、正面は三門、裏は二門とし,正面の真ん中を高位の順に正門として、左門、そして、右門とします。
ここを護る者が獲得する官職で、この中から、天皇の隣の部屋に24時間で詰める詰所が在って、24時間の身辺警護の護衛官を交代で務めます。
最高の身分の者で豪傑の者が務めます。現実に歴史的な豪傑の人物が成っていた事が判っています。
この身辺護衛官は、護衛に限らず、天皇の相談役も非公式で務めます。
これを”「北面武士」”と呼ばれ「最高の名誉の職」です。
(「西面武士」として、皇族系外の「桓武賜姓平家」が務めた事が在ります。)
これらの氏の家には「永代権」が天皇から授与されているのです。

次ぎのご質問です。
3.本家、分家により血、家を繋ぐために、男女共、養子、養女となることは封建の世の中では普通の事なのでしょうか

お答えから、”極めて普通”です。
むしろ、これ無くして、「武家」の家や血筋は保てませんでした。

但し、これにも「高位の家筋」が継承する「慣習仕来り掟」から来る条件が在りました。
このご質問では、その定められた「氏の慣習仕来り掟」により異なりますが、「賜姓族」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いています。
特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っています。
特別な血族維持の概念です。
従って、各地の秀郷一門の関東の永嶋氏一門もこれに従っています。

この根本的な考え方は、次ぎの通りです。
一族の子供は、「孫の領域」までを、”「子供」”として扱います。
区別して「孫」を敢えて「孫」とはしません。
祖父の親から観て、「孫」は、純然として「子供」として扱われます。
従って、祖父の者は、「孫の領域」までの養育の総括責任を持つ事に成ります。
つまり、”息子と孫までを子供”としての位置づけをして、”息子である子供”は、成人期までを祖父の親が育て、成人後の”息子の子”は、その”息子の嫁”が育てるとする概念の”特別な仕来り”を持っています。
”「息子の養育」は、結婚の段階を経て、「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採ります。
従って、「嫁」は、「自分の子供」と、さらに「夫に成った息子」の「子」を育てる訳ですから、「嫁」は「嫁」では無く、「実娘」に相当する「娘」としての位置づけられます。
その「娘」と成った「嫁」は、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採ります。

つまり、”孫域までの子供”は、”区別のない「嗣子」”と成り得るのです。
本家分家に関わらず、氏の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”は、「本家の跡目」を継承すると云う事にも成るのです。
又、当然に逆の事も起こります。
継承としては、「嫡子」は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みです。
これを宗家筋が、決定し、行う仕組みです。
結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのです。
時には、この事に依って、其処に「争いの種」が起こります。
これを乗り越えての「氏家制度」の「嫡子」であり、一族一門の「頭領」と成り得るのです。
乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成ります。
それには、「嗣子」と「嫡子の子」は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのです。

何故、この様な慣習仕来り掟に成るかと云うと、これは「賜姓族」とする特別な立場にあったのです。
「賜姓族」である限りは、賜姓族を護り続ける為には、「純血」を保ち、如何なる事が在っても永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのです。

この争いを無くすために、家康は江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて争いの無い様に決めました。
一般武士はこれに従いましたが、しかし、現実には、高位の武家では、あまり護られなかったのです。
この時より、一般武士の家では、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は薄れ、又は無く成りました。

例えば、吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供です。
「妾子」より更に、下の子供で本来は継承権は無かったのです。
しかし、吉宗はその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのです。
この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施した器にしたのは、「伊勢青木氏」と[信濃青木氏」と「伊勢加納氏」(紀州藩下級家臣でお付きの家臣 後に「二足の草鞋策」を青木氏から受けて加納屋を営む)です。
何れも「二足草鞋の豪商」でした。この財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は勘定方に、「加納氏」は側用人と成って吉宗を支えました。
この様な例がある様に、この跡目の継承手段の領域の中では、「養子,養女」は最大の手段として扱われました。
特に、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われます。

この様に、”嫁ぎ先での子供”までを跡目とするには、男子だけでは戦いなどによって継承しきれない事が起こるからです。
それと、「浄土宗の密教概念」に従っている事に依ります。
本来、”人は女性によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ています。
(現実に人遺伝子は女性に依って引き継がれている。)
この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を概念として持っていたのです。
「武家社会」が強く成った事から、「男性化」にますます成ったのです。

つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成ります。
今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で嗣子に成り得て、分家本家を問わず跡目にする事が出来るのです。
故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にありません。
この場合は、従兄弟の範囲では「養女」としての扱いでは形式上採用しません。
これは、「孫」までを「氏の子供」としているからです。
この何とか”血筋のある者”としての「曾孫」の「養女」ですから、「養子]を他氏から迎える事に成るのが殆どですが、中には、上記の従兄弟までの嗣子に、この「養女」を嫁がせる事にも成ります。
他氏の血筋を入れて、「同族血縁の弊害」をなくしたのです。
態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしました。
全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。

(特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)
「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成りますので、出来る限りは他氏の血を入れる事が必要ですが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わる懸念を持つ事に成ります。

この様に、家保全の安全策として、「嗣子」に幼女のころから他家から「養女」として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われました。
そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのです。

但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従います。
江戸初期からは、一般武士の家では、孫は孫ですし、養子養女は血縁性の無い考え方となりました。
この「仕来り」より外れた場合は、「曾孫]からは「子供の定義」の「仕来り」を外れますので、男女に関係なく「養子」としての扱いに成ります。
特に、女子の「養女」とする場合は、直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れには、明らかに「子供の定義」から外れますので「養女」と成ります。
この養女方法が積極的に行われたのです。
この場合、迎え入れた「養女」の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられます。

「養女」の「嫁」は、もとは「養女」なので、上記した「慣習仕来り掟」から「実子の子供」の扱いなのですから、この「娘の定義」から、上記の子供定義が成り立つのです。
「嫁」とする場合は、他人定義に成りますのでこの定義は成り立ちません。

嫁いだ娘の子供が男子の場合は、嫁ぎ先の氏との関係が関わってきます。
(「嫁ぎ先」にとっても「嗣子」に成るので難しい問題に成る。)
しかし、嫁ぎ先では、嫡子外では、問題ない事から、現在で云う「孫」までを「跡目」に入れる事が出来ます。
嫡子外の多くは、「部屋住み」と成り、上記の様な縁組が無ければ「僧侶」などに成る以外に無かったのてす。
しかし、嫁いだ娘の男子の子供を跡目に入れられる場合は、嫁ぎ先の跡目の問題も在って、実家先が家柄身分で上位にある事が必要です。

何故ならば、嫁ぎ先の下位の家筋は、上位の嫁の息子の子供が、上位の家筋の当主に成るのですから、結局は、下位の家筋が、上位の家筋の血筋の基に成る訳ですから、願っても叶っても無い事に成ります。
結果としては、嫁ぎ先の氏が、上位の氏の「発言権」が増す事に成ります。
場合に依っては、その家を牛耳る事にも成ります。
従って、積極的に、嗣子を嫁の実家先に送り込んだのです。
この「慣習仕来り掟」は「純潔」「家柄」「身分」を護る為に、つり合いが取れる様に一族一門の「同族血縁」の中での血縁関係が前提と成っています。
従って、「第4世族の遠縁」までの血縁に留める様にして、外の血を入れて「同族の弊害」を何とかします。 多くはこの範囲で高位の上級武士は血縁関係を結びました。

従って、「家紋」はこの定義の中で変化します。
上記の子供の範囲で血縁関係が行われれば、家紋は変化しませんが、この範囲からは外れた場合は一時的にその代だけは変紋を余儀なくされ、養子に男子が生まれた場合は、その子供の男子に元の家紋が引き継がれます。
再び、又、女子だの子供となった場合は、「女系」と成りますので、「男系の原則」から、系列は「養子先の系列」に入ります。従って、家紋も全く別の養子先のものと成ります。
全く、別の家筋から、要するに「養子」を迎えた場合はこの定義で処理されます。
「養子先の家紋」になり男子が生まれなければ、「養子先の家筋」に組み入れられて、「元の家紋」は引き継げません。血筋が切れて仕舞った事に成る訳です。

例えば、「武田氏系青木氏」と呼ばれるのは、この事から起こっている訳です。
甲斐の「賜姓族の青木氏」の分家の者が、上記の範囲の男子の跡目が切れて、地元の豪族の武田氏からやむなく、「青木氏外の血筋」の縁外から「他氏の養子」を迎えたのですから、この「養子」に男子が生まれなければ、この時、一時、「養子先の家紋」に成ってしまいます。
そして、続けて、養子を迎えたとなると、これで、家筋を基に戻せなかったので、「武田氏系の青木氏」が生まれた事に成ります。

藤原秀郷流青木氏には「116氏」に成っているのはこの事から起こったのです。
この事は、「氏家制度」の中での事での事で、「封建制度」は無関係です。
本家が一族の血縁関係を護る為に、監視し管理しているので、本家筋の云う事に従わなくては成りません。
この一族一門が作っている「慣習仕来り掟」の中でしか生きる事しか出来ません。
この中から外れる事をすれば一族から外されますから、経済的基盤が根底から無く成り、周囲の社会慣習から外されますので生きて行くことは出来ません。
この奈良期から続いた「氏家制度」は、上記の「慣習仕来り掟」の中で図られます。
お家の長嶋氏が、この「慣習仕来り掟」に従ったかは検証する必要があります。
家紋の変化から観て、この「慣習仕来り掟」は無かったと観られます。
資料からは、関東の長嶋氏、永嶋氏はこの「慣習仕来り掟」の中で家筋が維持されています。
(藤原秀郷一門の青木氏の場合、皇族賜姓族を補佐する為に、「特別賜姓族」と成った時点で、朝廷に対して、一門の総宗本家の第三子を青木氏の跡目に入れてこれを絶対的に継承する事を宣言しています。)

そこで、次ぎのご質問ですが、3のご質問を物語る事に成ります。

4.当家の家紋については兼光までは『対鶴に若松』で勘左衛門から、当家の家紋は『顔合わせ三つ結び雁金』のようです。肝付町永島家の家紋『中輪に三つ口合せ雁金』も少し気になると言っていましたが…。『顔合わせ三つ口合せ結び雁金』と言うのもあるのでしょうか?

このご質問のお答えは、”在ります”です。

この「家紋の変化」は、上記した事から「跡目」が「養子先の家紋」と成り、変化して行ったのです。
上記に記した様に、一族の「慣習仕来り掟」の範囲では、血縁関係は保てなかった事を意味します。
可成りの「他氏の血筋」が入っていて、「同族血縁の範囲」から間違いなく外れています。

そもそも、「家紋」には、主要紋として「家紋200選」と云うのが在ります。
この家紋が、この中には無いのですが、しかし、「顔合わせ三つ結び雁金」は、「雁紋53紋」の中にあります。
ところが「顔合わせ三つ口合せ結び雁金」はありません。
又、「対鶴に若松」も54紋の中にはあります。
しかし、この”むかいの鶴に若松紋”から、「結び雁金紋類」に変化した事は、上記した血縁の「血筋の変化」が起こった事に成ります。
従って、この事から、この段階で「正統の長嶋氏の血筋」が先ず無く成った事が云えます。
この「対鶴に若松紋」は、つまり、「舞鶴文様」は、53紋の中の主要紋ですが、「顔合わせ紋」は主要紋ではありません。
従って、九州の「大蔵氏族」に関係する地域の「土豪の家紋群」です。

「舞鶴紋」は大蔵氏に関係ありませんが、しかし、「顔合わせ三つ口合せ結び雁金」は「類似紋」の変紋です。
そして、恐らくは、縁者、妾子、本家が本家筋から、「家紋引継ぎ]を許されなくて、つまり、正統の「顔合わせ三つ結び雁金」を継ぐことが出来なくて、この「類似紋」を作り上げたと考えられます。
そもそも、”「口合わせ」”と云う文様は、「三つ雁金紋」の他の文様に、この図柄が使われていますから、これを「顔合わせ文様」に用いて「類似紋」を作り上げと思います。

そこで、「顔合わせ三つ口合わせ結び雁金」(口=嘴)は、調べたところによると、特定の限定地域に僅かに存在する事は判りました。

恐らくは、正統の「顔合わせ三つ結び雁金」との間に何かが在ったのでしょう。
よく、分家筋や縁者や遠縁の者がこの様な「類似紋」を使いました。
また、地域の一族の判別をする為に、「類似紋」を作りました。

しかし、江戸初期に「家紋200選」に対して、判別がつかない様な「類似紋」を厳しく禁止しています。

この事から、家紋群の中に無い事は、つまり、”雁の嘴を合わせる紋は違う紋だ”として、この禁止令を潜り抜けた可能性が有ります。
恐らくは、上記した何らかのお家の血筋関係の跡目の問題に何かあった事が考えられます。

「顔合わせ三つ結び雁金」が元紋ですが、そもそも、「雁紋」の元は土佐の「土佐ノ坊昌俊]が「源頼朝」から治承の乱の時に送られた家紋が始まりです。
多くの旗本や大名が使って53紋に成っていますが、元の「三つ雁金紋」は基紋は「花房氏」(陸奥から秀郷一門の縁者として足利に定住して豪族と成った花房氏で信濃足利氏の本家始祖と成ります。後に潰される。)が使った文様です。
「三つ雁金紋」は、「大蔵氏」を始めとして北九州に分布する家紋群です。
当然にお家は、「大蔵氏族永嶋氏系長嶋氏」ですので、「三つ雁金紋」の変紋の「顔合わせ三つ結び雁金」は少なくとも無関係で無い事に成ります。
「対鶴に若松紋」よりも、「三つ雁金紋」類の「変紋」の方が、九州薩摩の長嶋氏に関係する家紋類として納得できます。
ですから、本来であれば、”逆の変化”を起こす筈です。
つまり、「兼光」さんの処で何か起こっている筈です。
何故、逆なのかです。
ここに何かお家の家筋に大きく影響した事が起こった事を示しています。

「顔合わせ」は「類似文様」ですが、基本紋の「三つ雁金紋」「対鶴」「若松」では、次ぎの事に成ります。
基紋の「雁金文様」は「海野氏」 (瀬戸内 讃岐青木氏の副紋)
「三つ雁金文様」は「大蔵氏系」 (北九州 肥前青木氏の副紋)
「結び雁金文様」は「寺田氏系」 (関西以西 真田氏副紋)) 
「若松文様」は「松尾氏系」    (讃岐藤氏 江戸期の全国的分布)
「対鶴文様」は「日野氏系」    (中部以西 旗本代表家紋 江戸期初期)
以上と成ります。

この事から、上記の”逆の変紋事も含めて、次ぎの事が云えます。
先ず、「広範囲の地理性」を大きく持っている事が判ります。
且つ、「広範囲性の氏性」を持っている事が判ります。
家筋、血筋としては、名跡「長嶋氏」を外れて、「一般武士の範囲」にあります。
何故,この様な中部域の家紋群が九州南端の長嶋氏に家紋として用いられてる事が納得が行きません。
武士には、「国抜け」と云う「国策禁掟」が在ります。
何かの繋がり無くして、この様な家紋に成る事は先ずはありませんし、家紋が変化するのですから、氏家制度の中では「長嶋氏の宗家」が許さないと起こり得ません。

上記で論じた様に、何とか、必死に家紋を維持しようとする慣習であるのに、余りに変化が大き過ぎます。
それも逆です。(壺の化石の再生品の形成に不適合の何か矛盾の様なものがある。)

これらの文様が何らかの関係で合して出来た家紋ですが、依って、お家の長嶋氏の家筋の変化が極めて大きかったかを示しています。
凡そは”どの程度の家柄”であったかも判断が付きますが、これは何なのでしょうか。
(仮説として、仮姿に変えて「藩命」で外に出る以外にはこの様な事は起こらない筈です。)

明治期には、その特命の継続の範囲で、太吉さんは「西郷隆盛」か「大久保利通の配下」にあって、諜報活動をしていた事が考えられますね)
考えられる事として、これらが示す一つとして、”何らかの役目”或は、「特命」を持っていた事の証でしょう。
故に、一般武家とは異なった移動の行動の「静岡」ではないかと考えます。

以上です。

では、秘匿をご要望でしたが、又お便りください。
この事からも、上記のご質問のお答えの根拠に成ると思います。

以上の事柄の歴史観を参考にしてください。


  [No.1006] Re:静岡の長嶋です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/26(Wed) 15:14:39

お便りのご質問

1.肝付家の家紋を見ると『尻合わせ四つ結び雁金』、長島(長嶋)、肝付町永島氏は『顔を合わせ雁金』、そして宗家はもともと『対い鶴』と顔を合わせている。『結び』、『尻合わせ』、『雁金の数』には肝付氏族としての何かルールがあるのでしょうか。

2.伴氏から分かれた肝付氏以外の氏族も『鶴紋』が使われています。伴氏は『鶴紋』に関連はないのでしょうか。

3.『通名』についてですが、隠密の『総括(御師)』の立場であれば、規則を守りつつ、他者に対して分かりにくくする必要性もあるのでしょうか。


先ず[対鶴」にはそもそも7つの文様から成り立っています。
その内の一つは、全く別の系列の氏の家紋です。
その6つの「対鶴」文様は、「家紋構成」から観ると、4つが「一族紋」で、その基紋は、次ぎの通りです。
1「対鶴紋」で、宗家の家紋で一族の”「総紋]”です。この「総紋」は宗家しか継承出来ません。
2「喰い合い対鶴」は、本家と本流の分家筋紋で使えるものです。
3「対鶴に若松紋」は、「副紋」の形式で主紋として使用してその1の支流筋紋です。
4「糸輪に喰い合い対鶴」は2の更に分家筋文様と成ります。

元々、「対鶴文様」は、”「古来の慣習」”があって、これを組み込んだ「家紋構成」から観て、本来は、一つが、嘴を開き、一つは嘴を閉じる事が文様としては「慣習仕来り」と成っています。
従って、総宗本家が引き継ぐ「総紋」とは別に、この古来の「喰い合いの文様」の2つが正規の文様と成ります。
「対鶴」の基本文様の間に、「若松文様」が入ると云う事は、これは「副紋形式」の一つですが、本家分家筋の中で、「若松文様」の氏族の流れを持つ分家筋を示しています。
4の糸輪は、丸紋に類する文様で、この「丸付文様」は、「分家筋の表現方法」です。
従って、2の「対鶴」の分家筋と成ります。
そもそも、”「鶴の顔合わせ」”の文様が「対鶴」の基本形式です。
これを「嘴の位置関係」で、変化を付けて、本家ー分家のどの家筋のものかの判別をしています。

依って、お家の「対鶴紋」は、「顔合わせ文様」と、「嘴を合わせ文様」と、古来の「嘴の開閉文様」と、「丸付紋糸輪文様」の4つ使い分けているのです。

これがこの氏が持つ「慣習仕来り掟」の「統一概念」を滲ませたもので、この「家紋のルール」に成ります。
「総紋」を引き継ぐ宗家本家の「対鶴紋」は、この3つをもった文様と成ります。
この3つの何れかを変えて、「一族の位置関係」を判別できる仕組みに成っています。

そもそも、「結び」や「尻合わせ」は全く別氏の文様で、「鶴」にしても「雁」の文様にしても「数」も別氏の文様と成ります。

何れの「家紋」も、「家紋」というのは、その「家紋」の「宗家筋」が引き継ぐ「基紋」(「総紋」)を基本とするので、「基紋」から外れる内容の文様は、別氏の文様と成ります。
これは宗家本家が監視管理しています。
何れにも外れるものが一族から出ない様に監視していて、勝手に換える事や、勝手に作る事があった場合は、「追放の憂き目」を受ける事に成ります。
従って、宗家や本家に許可を求めて「基紋」から外れる事はありません。
別氏が、類似紋を使用した場合、廃止を求めて戦いに成った例が多くあるのです。

例えば、平安期末期に、「青木氏」では、「上田氏」が「滋賀青木氏」を、勝手に「青木氏の氏名」と「総紋」を使用して、戦いと成り、元の「近江青木氏」が負けると云う事が起こったのです。
(安土初期にも再燃するも、又、秀吉立ち合いの下でも負ける。)
但し、この例外の手法があって、そこで、血縁関係で他氏の血筋が入り、「純血」から薄れるような事が在った場合は、「副紋方式」を使います。
(但し、前回の”子供の定義”で、”「跡目」が変わらない範囲”で「純血方式」を採っている氏)

この「副紋方式」には、幾つかの方法が在りますが、「藤原北家秀郷一門」が良く使う手法は、「基紋」の中に、他氏の血縁状況の家紋を組み入れた家紋に変紋する事は許されています。
(参考、研究室の家紋掟等の詳細を参照)
藤原秀郷流一族はこの「副紋方式」を採用しているが、それでも長い間の跡目問題で361氏にも成っています。)

この場合は、藤原秀郷一門の24地域にも成る各地域の本家筋には、例えば、一族の氏の様な361氏にも成る大きい氏の場合に用いられます。
これで一族の同族血縁の弊害を無くす判別手段とも成り、一族の位置関係を判別手段と成ります。

小さい氏には、そこまでの、基紋以外の類似紋以外にルールはありません。

そこまでのルールにするには、藤原氏の様な超大氏族の枝葉末端を持つ一族一門でなくては「鶴紋全部」までも一族家紋とする事は不可能です。

そもそも、「鶴紋」は、室町期末期に公家の日野氏が、室町期末期に島津氏の副紋として使われたもので、その後に日野氏が独占的に使用する様に成ったものです。
その後に「家紋」と成ったもので、46文様も在り、この文様は、基紋としては 12紋に成ります。
つまり、氏としては12氏が用いていた事に成ります。

「鶴」は、平安期から、”延命長寿の吉兆”の図柄とされ、「古来の慣習」の内容を大きく含んでいます。
そこで「対鶴」文様には、この吉兆に”「仏教の阿吽」の意”が入っているのです。
この「家紋の作意」には、戦いで明け暮れていた室町期末期の時代に、一族が、”「延命長寿」”と”「一致団結」”とに恵まれ、且つ、それぞれの”「家の役目」”を果たして、”長く存続”が出来る様に願った意を持つ文様です。
これを「他の鶴の図柄」に変えると、その意味合いが変化してしまいます。
その意味でも、「類似紋」の範囲で留める仕来りなのです。

「鶴」の発祥紋の家紋は、「日野鶴の丸紋」(家紋)と「島津鶴の丸紋」「島津氏の副紋」で、何れも「戦旗紋」として使われました。
後は「後発の氏」の「類似紋類」(10)に成ります。
この中に「対鶴」があり,前回のお答えと成ります。

そこで、家紋にはある一定の構成を持っていて、「江戸初期の類似紋禁令」で、これを「ルールの基盤」として出来ているのです。
そもそも、「家紋」としての文様が、使われたのは室町期からの事で、元は藤原氏や青木氏の様に「高位の武家の象徴紋」から来ています。
室町末期からは、下剋上や戦乱に依って興った「勃興氏]が家紋化して、江戸期には、全ての武士が苗字と家紋とを用いて、「氏の一族性」を誇示する様に成ったものです。
「氏の一族性」を誇示するには、基本に成る「基紋」を定め、それを「総紋」とするのです。
「総紋」を持つ氏と成ると、相当に大きい「枝葉末孫」を持っている事に成ります。
当然に、「副紋」は、「枝葉末孫]を持つ更に大きい氏と成ります。

その基と成ったのが、江戸初期に発祥した「旗本と御家人」からで、これを真似て他の武士も苗字と共に「家紋」を持つ様に成ったのです。
この「家紋」の「ルール」と「判別方法」の規制は、主に「江戸初期の禁令」から来ています。

従って、上記した様に、「基紋」が構成した時点の”祖の氏の出自状況”が基本と成っていますから、なかなかその氏の出自や慣習事を知らないと、更に家紋に慣れないと判別は難しいものです。
これには「古来の慣習」、 例えば、「鶴文様」であれば、[嘴の開閉」等の知識(古来の文様の仏教知識」が基に成っています。
(古来の生活概念の歴史観の知識が必要)
例えば、「鶴」には、”昇り、降り、喰い、立つ、舞い”等の「基本形」があります。
それには、ある意味の持つ「古来の慣習や仕来りや掟」が、大きく宗教的で仏教的な意を含んでいるのです。
その基は、そもそも、「高位の身分の象徴紋」から来てる為に、その身分階級の中で生まれた「生活慣習」が家紋に反映されているのです。
多くは「神道や仏教」などの「日本の宗教的概念」から出たもので、昇、降りの意味、立つの意味、喰いの意味、舞いの意味などは、この「古来の生活慣習]のものから来ています。 
従って、「悠久の歴史」と「高位の武家の身分」を持つ九州の豪族の「肝付氏」には、この「古来の生活慣習の意味」を一族の文様に大きく反映されているのです。
「島津氏等」は、室町期中期からの「勃興氏」であり、「戦時の氏の思惑」などの大した意味が在りませんが、「副紋や類似紋」のものは少ないのです。
比べものに成らない「氏の歴史」を持つ「肝付氏」に取っては、この「古来の慣習」では比べものに成りません。
当然に「氏族の基本ルール」として、その中の一族一門の氏族には、働いているのです。
その”動く象徴の文様”が、その「氏の伝統」となり、それを総括して表す「家紋」と成りますが、「肝付氏」には、この内容が多いのです。
当然に、後発の九州の超豪族大蔵氏の「雁金文様」にもある事に成ります。

依って、同様の考え方で、この「基紋]から外れる「雁金文様類」は全て肝付氏のものでは必ずしもありません。

地方の超豪族の肝付氏は「青木氏]と並ぶ位に奈良期からの氏族です。
そこに、「朝廷の五大官僚族」の藤原氏と並ぶ”「伴氏」の血筋”を「肝付氏」は持っているのですから、島津氏とは比べものに成らない「古来慣習」で縛られていたのです。
家紋を観れば、この氏の「古来慣習」、即ち、「伝統の内容」が判るのです。
前回にもお答えした様に、「地域の慣習」も含めて、それが「一族の象徴紋」であった家紋に反映されているのです。
更には、この「肝付氏」は,後漢の民族とその首魁の血筋と生活慣習も持ち合わせているのですから、夫々の文様の違いには大きな意味を持っていたのです。
この様に、その氏の「慣習仕来り掟」は、全国でもトップにある青木氏以上にあるかも知れません。
これを述べると「家紋学」に成ってしまいますので、ここまでとします。

雁紋の「結び」や「数の違い」に成っている事は、「基紋」から外れていますから、別氏の家紋です。
前回のお答え通り「雁文様類」は、「53文様」あり、多くは江戸初期に武士に成った者の家紋類と、明治初期の民衆が苗字に伴い家紋を持った時の文様類です。
明治期の家紋と江戸初期の家紋は、兎も角も、大きく分けると、室町期初期からの武家5氏に分けられます。

基紋の雁金紋類
三つ雁紋類
二つ雁紋類
結び雁紋類
雁の複合紋類
以上に分けられます。

この5つの氏の文様が、嘴や顔合わせや尻合わせ等の類似紋で判れます。
本家分家支流と別れ、20程度に「雁文様」が占めています。
この範囲で家紋にその「氏の意味」を持たせています。

全体の53文様から次ぎの様に分けられます。
基紋の雁文様は5文様
二つ紋類は8文様
三つ紋類は10文様
結び紋類は15文様
複合文様類は15文様

以上53文様に成ります。

次ぎは2のご質問ですが、先ず、”伴氏から別れた肝付氏”とするのは間違いです。
そもそも、「伴氏」は、奈良地域を基盤とする「古い氏族」です。
役目柄で、九州にその一族を差し向けたのであって,そのために地元の肝付氏との血縁をして、「現地の末裔」を遺したのであって、その一族は奈良に帰っています。

そもそも、「伴氏]は「奈良期の高級官僚」で、「弁済使」の役目(税務官僚)を専門とする官僚族で、恐らくは、その祖は「後漢の阿多倍」が引き連れて来た「職能集団の事務方の部」の氏族の筈です。
この頃は、未だ「家紋」はおろか、取り分け「象徴紋」そのものと云う概念は未だありませんでした。
その最初に持ったのが、「皇族賜姓族」で「朝臣族」で「臣下族」の「青木氏」ですが、天智天皇から「賜姓」と共に、初めての「朝臣族」の[賜姓族」を示すものとして、且つ、初めて「臣下族」を示すものとして、与えられたのが始まりです。
況や、初めての「象徴文様」で、皇族の出自族の「臣下族」(天皇を護る護衛侍)として「象徴物」としての「大日如来坐像」と、その「笹竜胆紋」が与えられたのです。
(笹竜胆紋には、「類似紋」は無く、奈良期からの禁令です。依って、本家分家方式は採用していません。福家方式です。前回のお答えの通り「同族血縁による子供の方式を採って家紋の変化を無くしている。)

それ以後に、「高位の氏族」は、「象徴紋」を与えられて持つ様に成りました。

この基は、後漢の帰化した朝廷の官僚と成った職能集団が、「官服の袖元」に、「中国の役人の役務慣例」に従って、その「職能の判別」と、「職能の位階」を示す文様として用いていました。
例えば、武田氏系青木氏の「唐花菱紋」などはこの流れの文様です。
「足利氏系青木氏」の「二引き両紋」もこの「職能の位階」を示す文様で在ったのです。

従って、「伴氏」には、始めから「鶴紋」が在った訳では無く、「鶴」とは別に成りますし、室町期の時のこの伴氏は既に衰退していましたので、正規の家紋は無いと思います。

その後の「伴氏」の血筋を引く現地の末孫の者が、何らかの文様(役目柄の唐文様)を仕立てたと観られます。
「鶴」には限らないと考えます。

「伴氏」は、元々は飛鳥ですので、現実に記録から役務が終われば飛鳥に帰っているのです。
関西の奈良を中心には、真偽は別として、その主流としてのその流れを組む氏族(役柄を示す唐文様)は多くあります。
九州では、その役務滞在の結果として、北九州にその現地末裔を遺したもので、その位置づけは「傍系族]と成ります。
その血筋を強く持ったのが、「日向の肝付氏」であると云う事で、その役目柄から、最も「伴氏の血筋」を引いている事に成ります。

関西の「伴氏の末裔」の家紋が、どの様な「系統性」を持っているかは、氏として大きく衰退したので、正確には判りませんので述べられません。
恐らくは、九州の現地の「遺流孫の末裔」ですので、本流ではありません。
依って、むしろ、「氏族」としての「伴氏」の生き残りは、九州では「肝付氏系」に所属する事に成りますので、肝付氏と同じ類似家紋となっていると考えるべきです。
(「大蔵氏」とも血縁をしている。)

平安時代の後期には、九州に「伴兼貞」の子の「伴兼俊」が末裔の血流の肝付氏を遺した事に関わります。
この「現地末孫の傍流」が「肝付氏」を通じて、ベースとして「雁金文様」を、中には古の祖の家を現地に興して「舞鶴文様」などの末裔が引き継いでいる事にも成るでしょう。
(お家の「兼」の大元の通名は、この「伴氏の兼」から肝付氏を介して長嶋氏に来ている事でも判るのです。)

3のご質問ですが、
「諜報活動」を主務とする場合は、総括の御師(おし)と云えども、家筋を明確にする事は先ずありません。消す事が基本です。
(江戸幕府では、隠密の御師の柳生氏などが”柳生忍者”として暗躍した。)
在ったとしても、”おし”の場合は、「二足の草鞋」の様に、同一人物が別人に成りすますと云う手口を使いました。配下は藩士も判らない様に完全に消します。
「忍者」の様に、飛び跳ねるの務めは無いにしても、人との付き合いの広い「商人」などに化けていた筈です。
もし、暴かれたとしても、藩に類を及ばない様にします。
西郷隆盛の若い時の様に、明確にする「調略の役目」もありましたが、主に調略を主務とする班と、情報を操る班の二つに分けられています。総括をしていた西郷は前者です。
この両者が連絡を取り合い、「調略役」からの指示命令を待つ事に成ります。
お家は後者の御師役であった可能性が高いと観られます。
大久保氏暗殺までの期間(明治11年まで)に、この「役目柄」として働いたのではないかと観られます。
これによりお家の生活環境は一変している筈ですから、お家のこの時期の明治11年頃の家の中での変化がこれを証明して居る筈です。
つまり、大きな変化のあった「太吉さんの頃」ではないでしょうか。

以上です。

可成り、歴史観が深く成ってきましたね。
この様な歴史の知識を深めて、お家流の推論を証拠立てる事が必要ですね。

今回も、お便りは秘匿とします。お答えだけのご返事ですが、また、ご質問があれば、お尋ねください。


  [No.1014] Re:静岡の長嶋です。
     投稿者:長嶋さん   投稿日:2014/12/19(Fri) 08:27:01

「親番号エラーの為に代理投稿」

投稿に中国の何らかの漢字エラーが入っていますので、修正しました。
又、このためか文章が途切れています。


福管理人さん、今日は。
肝付氏から分かれた氏族の家紋と初代肝付兼俊の兄弟の氏族の家紋を調べてきて、自分なりに考えてみました。これは、あくまでも鹿児島を訪れて得られた情報、インターネット、家紋に関する書籍にて調べた情報となります。
<対象氏族>
1)肝付氏:宗家、分家の区別無く肝付姓の家紋
2)肝付氏族:名前を変え、宗家より分かれた氏族の家紋
3)伴から分かれた初代兼俊の兄弟で肝付以外の名を名乗った氏族の家紋
  <対象家紋>
鶴紋、雁金紋を対象とし、対象氏族3)の氏族に見られた鶴紋、雁金紋以外も含めました。

1)鶴紋
a:2羽、b:1羽、c:3羽
(a−1)対の鶴、(a−2)対い鶴喰若松、(a−3)丸に対の鶴
(b−1)鶴の丸、(b−2)降り鶴丸
(c−1)影糸輪に三つ光琳鶴

2)雁金紋
(d):三羽頭合わせ、(e):三羽尻合わせ、(f):三羽顔合わせ結び、(g):三羽尻合わせ結び
(h):三羽その他、(i):四羽尻合わせ結び、(j):二羽、(k):一羽、(l):一羽結び
(d−1)頭合わせ三つ雁金、(d−2)嘴合わせ三つ雁金、(d−3)中輪に嘴合わせ三つ雁金
(e−1)尻合わせ三つ雁金、(e−2)丸に尻合わせ三つ雁金
(f−1)頭合わせ三つ結び雁金、(f−2)嘴合わせ三つ結び雁金
(g−1)尻合わせ三つ結び雁金、(g−2)丸に尻合わせ三つ結び雁金
(g−3)太輪に尻合わせ三つ結び雁金、(g−4)三つ追い結び雁金
(h−1)三つ雁金、(h−2)三羽飛び雁金
(i−1)尻合わせ四つ結び雁金
(j−1)丸に向かい嘴合い雁金、(j−2)隅切り平角に二つ雁金
(k−1)丸に雁金、(k−2)石持ち地抜き雁金
(l−1)丸に結び雁金

3)梅・梅鉢紋
(m−1)丸に梅鉢、(m−2)丸に梅の花

4)木瓜紋
(n−1)丸に木瓜、(n−2)石持ち地抜き木瓜、(n−3)丸に四方木瓜

5)銀杏紋
(o−1)丸に三つ銀杏

6)梶紋
(p−1)丸に立ち梶の葉

<結果>
肝付氏:9種(a−1) ・(2)、(b−1) ・(2)、(d−1)、(e−1)、(g−2) ・4)(、i−1)

救仁郷氏、検見崎氏:対象家紋無し
北原氏:1種(d−1)

前田氏:1種(d−1)

岸良氏:1種(d−1)
野崎氏:3種(a−1)、(d−1)、(h−1)
津曲氏:8種(b−1)、(c−1)(d−1)、(e−1)、(f−1)、(g−1) ・3)、(h−2)
波見氏:1種(d−1)
河南氏:1種(n−3)
小野田氏:2種(f−1)、(k−1)

三俣氏:対象家紋無し
鹿屋氏:1種(l−1)

橋口氏:5種(d−1)、(j−1)、(k−1)、(l−1)、(m−1)

山下氏:1種(d−1)

河北氏:対象家紋無し

頴娃氏:対象家紋無し・(−3)、(k−1) ・(−2)、(f−2)

3)初代兼俊の兄弟
萩原氏:4種(d−2)、(e−2)、(j−2)、(m−1)
安楽氏:8種(a−1) ・(3)、(d−1)、(k−2)、(l−1)、(m−1)、(n−3)、(o−1)
和泉氏:2種(n−1) ・(2)
梅北氏:4種(b−1)、(m−1) ・(2)、(p−1)

<考察>
肝付氏の宗紋は、高山町史に記載されている向かい合わせの鶴紋が図形化され、肝付氏の守護神として郷土の産土神、また大隅一円の宗社として崇敬されている四十九所神社に対の鶴紋があることから、対の鶴紋と仮定し考察した。
今回の調査で鶴紋は肝付氏、野崎氏、津曲氏、橋口氏、長嶋氏、安楽氏、梅北氏で見られた。鶴紋のうち対の鶴紋は、肝付氏、野崎氏、津曲氏、橋口氏そして、伴兼貞の三男俊貞の安楽氏で見られた。この対の鶴紋の氏族は肝付氏から分かれた野崎氏、津曲氏、橋口氏の本家が現存すると考えられる。
肝付氏で対の鶴紋2種、鶴の丸紋2種であり、肝付を名乗った分家が宗紋の対の鶴紋から変紋し、鶴の丸紋、対い鶴喰若松紋となったのではと推測する。
当家の対の鶴若松紋について考察する。この紋は対の鶴紋からの変紋方式を取ったものであり、青木氏研究室の家紋の掟に「変紋方式は、宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。」とある。
当家長嶋氏は兼道と禰寝重長の娘の子(肝付幸之丞兼継)が肝付兼樹の養子となり、その子肝付次右衛門兼弘が長嶋を名乗っている。兼道は宗家を継いでいるため、対の鶴紋と考えられる。しかし兼継は兼道の正室の肝付良兼の次女、後妻税所篤弘女の子ではないため、変紋となる対象となり、対い鶴喰若松紋から発生した。または、兼樹は兼亮の兄にあたり、天正三年(五年とも)、兼亮と共に出奔となっているため、宗家から対の鶴紋の使用は許可されることはない。従って、兼樹から対い鶴喰若松紋が発生し、兼樹の養子となった兼継もこの紋を継承したと推測できる。
肝付氏の対い鶴喰若松紋は『戦国大名探究』サイトの肝付氏家紋より引用しており、
(参考資料:薩摩島津氏=三木 靖/三州諸家史・薩州満家院史/内之浦町史/吾平町誌ほか)と掲載されており、家紋引用資料が明確となれば、上記の立証の手がかりとなると思われる。
救仁郷氏、検見崎氏、三俣氏、河南氏、河北氏、頴娃氏では、鶴紋、雁金紋を現時点で探し出すことができなかった。
肝付氏を含む肝付氏族の12氏が三つ雁金紋で、うち9氏が顔合わせ三つ雁金であり、また、宗紋の対の鶴紋も顔を向かい合わせていることから、この紋が肝付氏族の基本紋ではないか、そして雁金紋を副紋として使用したのではと推測した。
肝付氏の雁金紋を見ると基本紋と仮定した顔合わせ三つ雁金以外は、尻合わせ三つ雁金、丸に尻合わせ三つ結び雁金、三つ追い結び雁金、尻合わせ四つ結び雁金と尻合わせであり、分家となり顔合わせから尻合わせとなったのではと考えた。
津曲氏にも尻合わせ三つ結び雁金、太輪に尻合わせ三つ結び雁金が見えるが、太輪に尻合わせ三つ結び雁金は、尻合わせ三つ結び雁金の津曲氏から囲い紋がついたと理解でき、尻合わせは分家肝付氏との血縁により発生したのではないでしょうか。
江戸期以前の肝付宗家は、萩原氏との二代兼経妻、兼経次男兼春が萩原氏の嗣子、兼石女が萩原兼世妻、兼元室に萩原兼綱娘、兼連簾中に萩原兼長娘の5名で血縁があった。また、  萩原氏は岸良氏、津曲氏、鹿屋氏、波見氏、救仁郷氏、剣見崎氏、河南氏との血縁もあり、萩原氏は肝付氏族を繋ぐ役割を果たしていると推定した。家紋から丸に梅鉢が見られることから、梅北氏との血縁も推測できる。
萩原氏から嘴合わせ三つ雁金、橋口氏から丸に嘴向かい雁金がみられ、永島氏の中輪(丸)に嘴合わせ三つ雁金、また、当家の嘴合わせ三つ結び雁金との位置づけを解明するヒントになるのかもしれない。また、宗家の対の鶴紋は顔、嘴を向け合っており、顔をお互いに向けていない顔合わせ三つ雁金より嘴合わせ三つ雁金の方が、大元の紋に近い印象を受けた。
肝付氏族における雁金紋は、雁金の数3>2>1と数が減るほど血の繋がりが薄くなり、加えて、顔合わせ>尻合わせの様な変紋、結びの有無の部分変紋、丸付き、石持ち地抜きの様な影紋などにより本家→分家→支流→分流→分派の位置づけを示したのではと考えた。
津曲氏は、鶴紋3種、雁金紋6種、橋口氏は、鶴紋1種、雁金紋4種、梅北氏との血縁と推測する丸に梅鉢紋が見え、大きな氏の拡がりを見せている。
津曲氏の雁金紋は雁金の数3羽の中で変紋しているおり、上記の推測が正しいとすると津曲氏は肝付氏族との血縁が濃い所で変紋していると推測できる。一方、橋口氏の雁金紋は、雁金の数2羽、1羽に変紋しており、肝付氏族との血縁が薄くなっていると推測できる。
鹿屋氏を見ると、調査した対象紋は丸に結び雁金のみで、主要肝付氏族ある三つ雁金から規則に基づき現在の家紋に変化したとすると肝付氏族としての血の繋がりは薄くなっていったのではと推測した。

次に初代兼俊の兄弟を祖とする萩原氏、安楽氏は、和泉氏、梅北氏について調査した家紋より考察する。なお萩原氏については、上記にも示しているため省略する。
安楽氏、梅北氏から鶴紋がみられ、これらの氏族は肝付氏と同様に鶴紋を宗紋としたのか、それとも鶴紋を持つ両家の分家が女系で、肝付氏、野崎氏、津曲氏、橋口氏の本家より養嗣子が入り、養子先の家紋に変紋したと推測する。
安楽氏は、大きな氏の拡がりを示した氏族であると考えられるが、拡がった氏族には女系で他家の家紋に変紋している血脈が多く感じた。もし、和泉氏が木瓜紋、梅北氏が梅紋または梅鉢紋であるとすれば、両家との血縁もあると推測できる。
安楽氏は、対に鶴紋、丸に対に鶴紋があり、鶴紋が本家の宗紋であれば、丸付きは本家から分かれた分家の紋とも考えられる。
梅北氏は名前からも梅紋、梅鉢紋が家紋または肝付氏での考察のように鶴紋が宗紋で副紋を梅、梅鉢紋と推測できる。
安土桃山期の島津氏との戦での敗退、江戸初期での肝付氏宗家の衰退により、初代兼俊の兄弟を祖とする萩原氏、安楽氏、和泉氏、梅北氏との繋がりがどうなったのか、また江戸期の肝付氏族を統括していた氏族は何処なのか疑問に残る所であり、各氏族本家での統括と移行していった・・・・


以上、エラーログより復帰させた。(福管理人)


  [No.1015] Re:静岡の長嶋です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/12/19(Fri) 10:20:46

>安土桃山期の島津氏との戦での敗退、江戸初期での肝付氏宗家の衰退により、初代兼俊の兄弟を祖とする萩原氏、安楽氏、和泉氏、梅北氏との繋がりがどうなったのか、また江戸期の肝付氏族を統括していた氏族は何処なのか疑問に残る所であり、各氏族本家での統括と移行していった・・・・

静岡の長嶋さん 今日は。
随分、お調べに成りましたね。

今回の投稿がエラーに成っていて、文章の中に、中国漢字と中国が多く入っていました。
また、ソフトに親番号を削除される現象や文章を途中削除されていました。
何らかの攻撃を受けた可能性が有ります。
取り敢えず、修正を試みました。

さて、お家の「大蔵氏族永嶋氏系長嶋氏」と観られる氏族の末裔は奈良期からの氏族と成りますので、その系譜や伝統が消えていると思います。
青木氏としては、日向青木氏の調査の関係から、永嶋氏や大蔵氏の関係を調べ上げた内容で資料を確保しています。
青木氏では、肝付氏の本家筋とその系譜と出自場所、更には、末裔の分布図と地名などの資料を持っています。
しかし、青木氏から観たもので、青木氏に関わる要素を調べる為に、その継承されている「伝統」等を調査する目的で研究し得たものです。

長嶋さんの様に、系譜を中心に成っているものではありませんので、肝付氏の中まで深く入り込む事は出来ていません。

又、その資料の基と成った処がどうも違っている様です。
ただ、感じる処は、その使われる資料の基が、江戸期の資料を前提と成っていますので、この期の資料には、搾取偏纂が殆どです
「搾取偏纂」でも良いから、江戸幕府が強制に近い形で強力に督励した経緯を持っています。
江戸期の武士は、殆どは、室町期の立身出世の下での姓族で系を持っていませんでした。
そこで、権威が無く成る事を恐れ社会が乱れる事を防止する為に、幕府は、「黒印状」なるものを発行してました。
その全ての「武士の家筋の根拠」を搾取偏纂でも良いから作らせたのです。
その「黒印状」を入手できなければ、「武士」「家」を認めなかったのです。
生きる糧を失います。
特に、大名にはこの家柄を良くする様に指導しました。
そこで、大名も家臣と成る者にもこの事を強制したのです。
それでなくては大名としては家臣の出自が無い者を家臣にしている事に成り、武士を雇っていない事に成ってしまって幕府から,大名の立場を疑われる事に成ったのです。
大名は、自らの系譜を出身地等何とか理屈に合う様に作り上げ、それを家臣にも藩主のルーツに合う様に強制をすると云う事が起こったのです。

さて、そうすると、大蔵氏族永嶋氏系肝付氏長嶋氏の肝付氏は、日向の奈良期からの由緒ある家柄でその出自が明確に成っている大蔵氏と共に、九州唯一の数少ない「氏族」です。
室町期に、遂に肝付氏は、何度も勃興して来た姓族の島津氏と戦い、遂に敗退して、一郡を与えられて島津氏の家臣と成って滅亡を免れて、伝統は遺せました。
しかし、この時、島津一族はこの華々しい伝統ある肝付氏を妬み、ひどい軋轢を受けて一時衰退をします。
九州では唯一と云って良い程のトップの家柄と藤原秀郷一門の永嶋氏の文句の附け様も無い家柄を、今度は、幕府の隠密から得た情報で「強い追求」を受けて、島津氏の家柄づくりに肝付氏の血筋を入れて取り込みました。
その時に、「家老」扱いにして、肝付一族は島津藩の中で再び勢力を勝ち得ます。
この時に、お家も共に、勢力を得たのです。

その衰退期の肝付氏の経緯はかなりひどくて宮城と薩摩の中間の山岳地にて生き延びた事が判っています。
この時の状況は隠されていて明確に成っていません。
この復興した地点からの肝付氏族の永嶋氏の出自元ははっきりします。
筆者も、持ち合わせていますが日向青木氏との関係からのものです。
日向青木氏は、薩摩大口村と薩摩青木村で黒田藩の傭兵として、郷士として2流に成って生き延びました。
この時に、同じ地域の山岳部の南域に肝付氏が入植した事が判っていて、何らかの関係を持ったと観られます。
お家の永嶋氏は、以前のお答えの通りです。

「ルーツ探究」には、「系譜」のみ成らず、「歴史観」を伴った探究が必要ではないかと思います。
何れにしても、探究の目的が違えば異なりますが。
兎も角も、地方などの「資料」を前提とする限りには「検証」をお勧めします。
今のままでは、「地方資料のコピーの寄せ集め範囲」で終わっている様に感じます。
以前からの繰り返しに成りますが、”お家のものである”とする前提は無く不足に成っていると思い気に成ります。
但し、前回にも述べましたが、それはそれで良いとしていれば問題はないと考えます。

では又、お便りください。