静岡の永嶋さん お久しぶりでね。
良くお調べに成っていて、感心します。
現在は、伝統が消え失せ、個人情報の制限でなかなか調べられないのが現状です。
お調べに成る方法や方向は、その氏に依っても異なりますので、推論をたててそれを立証して行くことの効果は千差万別の結果と成ります。
その意味で、納得され理解が得られます。
それを補足する意味で、お尋ねの「歴史観」は絶対条件に成り、この「歴史観」に依っては、推論の問題点を解決し得る可能性が有ります。
そのより「高い歴史観」が、より「ルーツの確証」を高める結果と成り得ます。
静岡の永嶋さん特有の検証方法かと考えます。
或は、この様な検証方法も現代に於いてはあり得るかも知れませんね。
それには、この様な結果を整理して取りまとめて記録に保管する事が必要ではないかと思われます。
筆者は、ルーツとは、丁度、”壺の「化石」の再生品を作る工程と同じではないか”と考えています。
”壺の「化石」”の「破片」には、完全に複する事が出来るものと、出来ないものがあります。
出来ないものは,その”足りない部分の破片”を”推論付けて作り”それを”接着する事”に成ります。そして、その”推論漬けた破片”がより「現実の壺」に近く見えるものであれば,それは価値を作り出した「歴史的な壺」と成ります。
その壺の”複した破片”が多い壺と成れば、「歴史的な壺」の価値は低下してしまいます。
ルーツも同じで、当然に判らない解明できない部分が起こります。
しかし、この判らない足りない部分を、より”史実に基づいた高い歴史観”で推論付けて繋げは、それは其れで「ルーツ」と成り得ます。
その”繋げる部分の史実に基づいた歴史観”に基づいた”信頼度の如何”が左右する事に成ります。
その「左右」は、それを”観る者の納得度”に任される事であると思います。
そもそも「ルーツ」に限らず、この世の如何なるものも、この「摂理」に従っているのではありませんか。
その事に依って、将来、子孫が何時か、我が家の「ルーツ」に興味を持ち、その記録を読んだ時、そこに子孫の「先祖の歴史観」が蘇り、ルーツ記録の目的は達成されると考えます。
「ルーツ探究]は、必ずしも100%史実でなければならないと云う定義は成り立たないと考えます。
その割合は個人の判断の領域で有る筈です。10%なのか90%なのかは別としてです。
しかし、0%は小説の領域と成りますので、ここでは、ジャンルが異なりますので、これは否定される筈です。
何故ならば、現代の様に、記録が保存される時代ではなく、少ない記録資料の中から「ルーツの探究」が行われるのですから、”推論部分の領域”もあり得る訳ですから、この部分を整理して、この「歴史観の前提」を書き記し、記録されれば、それはそれなりの「先祖記録」と成り得ます。
そして、それが後の「子孫」が読んだ時に、それが何とも言えない”ルーツロマン”と成って記録に遺ると考えます。
筆者は、むしろ、この様な部分がある事が、「全体のルーツ記憶」として、「脳」に遺されるものと考えます。「脳の海馬」の「印象力」が強く起こる事に成るからだと思います。
ただ「若い子孫」が読んだ時に限りますがね。
その為には、「作者の推論部分」を”物語り風”に仕上げるのも一考かと思います。
筆者もこの様な形で、より「歴史観の背景」を論じて、その「推論の部分の信頼性」を高める様に「青木氏」を論じています。
後は読者の裁量の範疇です。100%では無くては読まない信用しないでは、読んで頂けなくてもよしとするところです。
さて、そこで、ご質問です。
極めて良いご質問と判断します。
1.史実的に上記の事(内容秘匿)をどう思われますか?
上記しました様に、全くの想像域とは云い難い事だと思います。
当時の社会性から観て、「史実」を基にした当時の「歴史観」からも、”あり得る事である”と考えます。
”史実的”には、その領域が100%とは云い難いにしても、筆者が経験を通して総合的に観る「歴史観」からは、当時の「薩摩の環境」からは、当時の「薩摩の永嶋氏の環境」から観ても、60%からのその程度の「史実性」を持っていると観ます。
つまり、”あり得る領域にある”と判断します。
と云うのは、そもそも、「薩摩」には、お家の始祖の一つと成った「伴氏」ー「肝付氏」ー「大蔵氏」ー「永嶋氏」ー「長嶋氏]ー「長島氏」から「島津氏」に移るまでの経緯と、室町期末期から江戸期にまでの経緯の中では、ある「特別な事情下」にありました。
この”「事情下」”が薩摩の持っている「特有の歴史観」で在ります。
これは”歴史を調べる者”に執っては、必ず知っておかなければならない「重要な歴史観」なのです。
それは、そもそも、歴史的に「薩摩」は、全体の豪族の大名の中でも、当時のどの政権からも、「特別な事情」によって、”特別に警戒されていた地域”であったのです。
この「警戒感」は、”長い歴史”を持っているのです。
それは「飛鳥時代にまで先ずは遡ります。
他の論文でも、論じています様に、九州は奈良時代に「後漢の帰化民族200万人」が九州に上陸した時から始まっています。無戦で制圧されます。
そして、その「後漢の帰化民族」の首魁(阿多倍王)は,大隅の隼人に定住し、その首魁の父親(阿智使王)は、「阿多」に定住して「九州全域の根拠地」とします。
この時、奈良期の朝廷は、この帰化民族の一団に対して、朝廷の命に従う様に命令を発しますが、云う事は長い間、聞かなかったのです。
そこで、朝廷は2度も大遠征軍を差し向けますが、敗退してしまいます。この戦いは713年から723年に繋がります。
そこで、勝ち目がないと判断した朝廷は妥協してこの一団と和睦します。
そして、官位と本領地と官職とを与えて飛鳥に出て来るように促します。
一団側も納得して、「薩摩大隅隼人」の半国割譲と、「伊勢国北部伊賀地方」に領国を半国割譲して与えられ、敏達天皇の芽准王の孫娘を娶らせます。
そして、准大臣とし、その生まれた3人の子供に賜姓して朝廷の3役処(3蔵)の内の2蔵の役処を与えて、「朝廷の官僚団」を構築させたのです。
これが、桓武天皇と兄弟の様に育った側近中の側近の「征夷大将軍の坂上田村麻呂」です。
次男は、朝廷の財政を担当した大蔵氏、天皇家の財政を担当した内蔵氏です。
この大蔵氏が九州全土の自治を任され、「錦の御旗」を与えられた「遠の朝廷」と呼ばれた「太宰府大監」です。
そして、伊賀に定住した阿多倍王の本家の子孫は、賜姓を受けて「桓武平氏」を名乗ったのです。
これが、5代後の太政大臣「平清盛」です。
これらの一族が九州に基盤を作り、一時は「独立騒動」が起こります。
朝廷は悩みますが、この一族は九州は愚か朝廷内部までも牛耳り、衰退するどころか益々勢力を増し云う事を聞かなくなってしまったのです。
その為に、この事があって、室町期まで薩摩域は警戒されていて諜報活動が盛んであったのです。
室町期には、遂に、肝付氏が薩摩氏に負けて、その勢力は島津氏に引き継がれますが、豊臣政権時に、秀吉はこれに警戒して特に薩摩に膨大な隠密を送り込みます。
徳川時代に成っても、この「隠密状況」は変わらず、益々、強化されたのです。
それに対抗した「薩摩藩」は、「逆の隠密」を送り出し幕府の動静を探ります。
「薩摩藩」は、この対策の一つとして、隠密に情報を読み取られない様にする為に、「言葉」に変化を与えたのです。
一つは、言葉の代名詞を出来る限りに云わない事、
二つは、言葉を”来る”の意は、”行く”と云う風に逆にする事にします。
三つは、親族の関係をはっきりさせない為に、全ての年上の男女には、”兄、姉”と呼んで特定を避ける言葉を作り上げたりしたのです。
更に、各地に”逆の隠密”を送り出したのです。
「士農工商の姿」に化けて「情報収集」を行ったのです。
このシステムは奈良期から明治維新の薩摩藩の衰退期まで続けられました。
この役目は、家臣の中でも信頼のおける者に委ねたのです。
お家の長嶋氏の幕末のご先祖は、「二足の草鞋」で「薩摩藩御用調達商家」を営んでいました事からも、筆者は以前のお便りで、その仮の姿を「材木商」と推論付けました。
恐らく、この「商い」を通じて、このこの”密命を帯びていた隠密”であったと観ているのです。
(下記にもその根拠明記)
この様に、他の藩にも沢山の密命を帯びた家臣としても入り込んでいた事が考えられます。
「家紋類」から観て、その「統括(御師)」を担っていたとも観られます。
ですから、この推理から説明のつく納得出来るご先祖と成ります。
幕末から明治の中頃までのご先祖は、静岡や戒名や長嶋氏の通名などの有無が判断材料と成ります。
他の事もこの推論の論理で検証すれば、説明出来る論調のルーツが出来る筈です。
つまり、お家の場合は、室町期までの事は史実で成立しますが、江戸中頃から明治中頃までの間の繋ぎの推論をたてる事が必要と思います
それは、判り易く言えば、「逆隠密の役目」を負っていた事から、ルーツの解明が出来なくなっていると観ていて、それで説明が付きます。
悠久の歴史を持ち、室町期まで史実で完全に説明が付いているのに、突然に消えると云う事は、当時の「武家の慣習」からも”おかしい”と観られます。
”消えた”と云うよりは”消した”と云った方が良いと観ます。
それは、”消した”の必要性は、「諜報活動」をする「逆隠密」であった筈です。
「西郷隆盛」も斉彬に命じられて京都と江戸でこの「諜報活動の役目」を果たしていたのは有名な事です。
斉彬後の”投獄の憂き目”は、この面倒な役柄を暴かれて、幕府に何ぐせを付けられたくなく、隠すために抑え込む為に投獄されたと観ています。
歴史マニアではこの事は定説です。
恐らくは、”幕府隠密”に依って調べられ、幕府から 睨まれて”暴かれていた”のです。
次期藩主はこの恐怖に耐えられなかったと観られます。
投獄理由は、”斉彬の名跡を継いだ弱腰の藩主を詰った事”に成っていますが、そんなことで「島流しの投獄」は無い筈です。
同じくお家の幕末から明治期に生きたご先祖の”太吉さんもこの役目を帯びていた”と観ています。
恐らくは、長嶋氏の中でも、ご商売をしていた親族のご先祖も含めて、お家のご先祖はこの役目を密かに代々帯びていた可能性が高いと観られます。
依って、お尋ねの「史実性」では、提供の情報から観て、全く無視できる範疇では無く、むしろ、信頼出来得る60%程度のものを持った推論と判断します。
次に、2のご質問です。
次右衛門兼弘が長寿の場合、次右衛門を継げず、早右衛門のままで終わることもあるのでしょうか?
お答えは、次ぎの二つの事の差違に依って変わりますが、普通にあり得ます。
先ず、その二つの事とは、一つは、「襲名」によるもの、二つは、「通名」によるものです。
そもそも、「襲名」とは、その「家」や「個人」が特別な格式、特別な身分、特別な階級、特別な名誉、特別な技能、特別な役目、等を持ち合わせている事。
これを継ぐ者もこれに値する場合に於いて、永代に継承する場合に於いて、世間に宣言する手段です。
「通名」とは、「氏の格式」を統一して継承する場合で、一族一門の中でその出自を明確にするための判断手段として用いるものです。
藤原秀郷一族一門等の361氏もある家柄では、どの藤原氏であるかの細部までの判別が必要で、この手段として用いられました。
この為に、[地名」と「身分」と「官位官職」と「家紋」と「副紋」と[通名」と「俗名」とで細部の細部まで判る手段を用いていました。
これには、「襲名」の様な「特別な宣言性」を持っていません。あくまでも「判別を目的」とするものです。
従って、このご質問は、あくまでも「通名」ですので、「右衛門」が継承されていますので、問題はありません。
「襲名」の場合は、別に既に「通名」等のものを持っています。
武家の名は、正式には、例えば、筆者の家であれば、平安時代であれば、「浄大一位正二位青木朝臣左衛門上佐信定実千代」と名乗る事に成ります。
代々の「襲名」は「青木長兵衛」でした。これで、世間は、豪商で皇族名跡の「伊勢青木氏」の当主だなと一括して総じて判る事に成ります。
(民部上佐:警察をも兼務して 左衛門の中でも上席責任者であった事を示す。)
さて、お家が云うのは、「襲名」を意味しているのか、「通名」を意味しているのかは判りませんが、「通名」であれば問題はありません。
「襲名」で在ったとすれば、上記した役目柄を暗に藩中に宣言した事にも成ります。
ただ,ここで、付け加えて、一つ間違いを起こしています。
「・・右衛門」は名ではありません。
本来は、”高位の武家”(公家に対して武家の意)であれば、これは「官職名」(役職名)で、俗名の名ではありません。
江戸初期頃から、官職の持ち得ない多くの武士は、これを名乗り、遂には庶民までもが”「名」”として名乗る慣習が生まれる様に成ってしまったのです。
お家はこれを「名」として理解していますが、本来、「永嶋氏」であれば、「名」ではありません。
名跡の家柄を示す氏名の官職位です。
次に、この「右衛門」「左衛門」には、永代に名乗る事が出来る「右衛門」「左衛門」なのですが、江戸期から金品を朝廷に献納して、一代限りでの「朝廷の官職名」の「右衛門」を授かり名乗る事が出来る「右衛門」「左衛門」も在りました。
しかし、次第に誰でもが、何時しか庶民までもが勝手に名乗る事が起こってしまったのです。
お家の「右衛門」は、この永代なのか、一代限りなのか、勝手に名乗ったものなのかは判りません。
九州の長嶋氏は、関東永嶋氏とは違って、永代ではない事は判りますが、お便りの経緯から江戸期の一代限りでもなさそうなので、本来の右衛門ではないと観られます。
つまり、”継承事”の云々ではないと思います。
尚、この官職位に、”次”とか”早”とか”正”とか”宋”とか”総”とか「覚」とか添られている事は、”正規の「右衛門」”では無く、江戸期のものの一般化した慣習です。
朝廷から正規に付与される「右衛門」を名乗るには、憚られおこがましく恐縮するところから、正規の「右衛門」に、次ぐものとして「次右衛門」「総右衛門」とか「正右衛門]とか「早右衛門]とか「覚右衛門」とかとして、「・・右衛門」として、違うもの、別のものとして、名乗り始めた物なのです。
また、藤原秀郷一門の「氏の仕来り」では、全て例外なく俗名の前の部分を変更して、「通名」としています。
後ろの部分の場合は、支流分家筋の一部の場合に起こっています。
この場合、身分では色々なものがありますので、「妾子」ではと観られます。
秀郷一族一門には、官職位の部分の変更は資料から確認できません。
お家の場合は、既に、「通名]として、「兼」が使用されています。
従って、正規かそうでないかは別として、後は世襲氏の[襲名」と成りますが,既に「右衛門」が継承されています。
「次右衛門」でなくても、「早右衛門」として名乗っています。
つまり、「襲名」と[通名」を名乗っていますから、懸念の事は、既に成立しています。
つまり、上記した様に、”次”とか”早”には、「襲名的な意味」を持っていません。
参考に、この「右衛門」と[左衛門」と「民部」とかは、皇居警備軍の近衛軍の役職位で、これを更に、佐と尉とに分け、更に、これを上と下に分けて官職位の組織を作り上げています。
これに、「兵衛」の官職位が付きます。
これには,「青木氏」や[藤原氏]や[源氏」の[朝臣族」の家筋が当たります。
つまり、「賜姓族」です。従って、本来は、この氏以外にはこの官職を使う事は禁令なのです。
皇居は、正面は三門、裏は二門とし,正面の真ん中を高位の順に正門として、左門、そして、右門とします。
ここを護る者が獲得する官職で、この中から、天皇の隣の部屋に24時間で詰める詰所が在って、24時間の身辺警護の護衛官を交代で務めます。
最高の身分の者で豪傑の者が務めます。現実に歴史的な豪傑の人物が成っていた事が判っています。
この身辺護衛官は、護衛に限らず、天皇の相談役も非公式で務めます。
これを”「北面武士」”と呼ばれ「最高の名誉の職」です。
(「西面武士」として、皇族系外の「桓武賜姓平家」が務めた事が在ります。)
これらの氏の家には「永代権」が天皇から授与されているのです。
次ぎのご質問です。
3.本家、分家により血、家を繋ぐために、男女共、養子、養女となることは封建の世の中では普通の事なのでしょうか
お答えから、”極めて普通”です。
むしろ、これ無くして、「武家」の家や血筋は保てませんでした。
但し、これにも「高位の家筋」が継承する「慣習仕来り掟」から来る条件が在りました。
このご質問では、その定められた「氏の慣習仕来り掟」により異なりますが、「賜姓族」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いています。
特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っています。
特別な血族維持の概念です。
従って、各地の秀郷一門の関東の永嶋氏一門もこれに従っています。
この根本的な考え方は、次ぎの通りです。
一族の子供は、「孫の領域」までを、”「子供」”として扱います。
区別して「孫」を敢えて「孫」とはしません。
祖父の親から観て、「孫」は、純然として「子供」として扱われます。
従って、祖父の者は、「孫の領域」までの養育の総括責任を持つ事に成ります。
つまり、”息子と孫までを子供”としての位置づけをして、”息子である子供”は、成人期までを祖父の親が育て、成人後の”息子の子”は、その”息子の嫁”が育てるとする概念の”特別な仕来り”を持っています。
”「息子の養育」は、結婚の段階を経て、「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採ります。
従って、「嫁」は、「自分の子供」と、さらに「夫に成った息子」の「子」を育てる訳ですから、「嫁」は「嫁」では無く、「実娘」に相当する「娘」としての位置づけられます。
その「娘」と成った「嫁」は、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採ります。
つまり、”孫域までの子供”は、”区別のない「嗣子」”と成り得るのです。
本家分家に関わらず、氏の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”は、「本家の跡目」を継承すると云う事にも成るのです。
又、当然に逆の事も起こります。
継承としては、「嫡子」は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みです。
これを宗家筋が、決定し、行う仕組みです。
結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのです。
時には、この事に依って、其処に「争いの種」が起こります。
これを乗り越えての「氏家制度」の「嫡子」であり、一族一門の「頭領」と成り得るのです。
乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成ります。
それには、「嗣子」と「嫡子の子」は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのです。
何故、この様な慣習仕来り掟に成るかと云うと、これは「賜姓族」とする特別な立場にあったのです。
「賜姓族」である限りは、賜姓族を護り続ける為には、「純血」を保ち、如何なる事が在っても永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのです。
この争いを無くすために、家康は江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて争いの無い様に決めました。
一般武士はこれに従いましたが、しかし、現実には、高位の武家では、あまり護られなかったのです。
この時より、一般武士の家では、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は薄れ、又は無く成りました。
例えば、吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供です。
「妾子」より更に、下の子供で本来は継承権は無かったのです。
しかし、吉宗はその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのです。
この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施した器にしたのは、「伊勢青木氏」と[信濃青木氏」と「伊勢加納氏」(紀州藩下級家臣でお付きの家臣 後に「二足の草鞋策」を青木氏から受けて加納屋を営む)です。
何れも「二足草鞋の豪商」でした。この財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は勘定方に、「加納氏」は側用人と成って吉宗を支えました。
この様な例がある様に、この跡目の継承手段の領域の中では、「養子,養女」は最大の手段として扱われました。
特に、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われます。
この様に、”嫁ぎ先での子供”までを跡目とするには、男子だけでは戦いなどによって継承しきれない事が起こるからです。
それと、「浄土宗の密教概念」に従っている事に依ります。
本来、”人は女性によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ています。
(現実に人遺伝子は女性に依って引き継がれている。)
この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を概念として持っていたのです。
「武家社会」が強く成った事から、「男性化」にますます成ったのです。
つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成ります。
今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で嗣子に成り得て、分家本家を問わず跡目にする事が出来るのです。
故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にありません。
この場合は、従兄弟の範囲では「養女」としての扱いでは形式上採用しません。
これは、「孫」までを「氏の子供」としているからです。
この何とか”血筋のある者”としての「曾孫」の「養女」ですから、「養子]を他氏から迎える事に成るのが殆どですが、中には、上記の従兄弟までの嗣子に、この「養女」を嫁がせる事にも成ります。
他氏の血筋を入れて、「同族血縁の弊害」をなくしたのです。
態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしました。
全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。
(特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)
「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成りますので、出来る限りは他氏の血を入れる事が必要ですが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わる懸念を持つ事に成ります。
この様に、家保全の安全策として、「嗣子」に幼女のころから他家から「養女」として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われました。
そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのです。
但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従います。
江戸初期からは、一般武士の家では、孫は孫ですし、養子養女は血縁性の無い考え方となりました。
この「仕来り」より外れた場合は、「曾孫]からは「子供の定義」の「仕来り」を外れますので、男女に関係なく「養子」としての扱いに成ります。
特に、女子の「養女」とする場合は、直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れには、明らかに「子供の定義」から外れますので「養女」と成ります。
この養女方法が積極的に行われたのです。
この場合、迎え入れた「養女」の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられます。
「養女」の「嫁」は、もとは「養女」なので、上記した「慣習仕来り掟」から「実子の子供」の扱いなのですから、この「娘の定義」から、上記の子供定義が成り立つのです。
「嫁」とする場合は、他人定義に成りますのでこの定義は成り立ちません。
嫁いだ娘の子供が男子の場合は、嫁ぎ先の氏との関係が関わってきます。
(「嫁ぎ先」にとっても「嗣子」に成るので難しい問題に成る。)
しかし、嫁ぎ先では、嫡子外では、問題ない事から、現在で云う「孫」までを「跡目」に入れる事が出来ます。
嫡子外の多くは、「部屋住み」と成り、上記の様な縁組が無ければ「僧侶」などに成る以外に無かったのてす。
しかし、嫁いだ娘の男子の子供を跡目に入れられる場合は、嫁ぎ先の跡目の問題も在って、実家先が家柄身分で上位にある事が必要です。
何故ならば、嫁ぎ先の下位の家筋は、上位の嫁の息子の子供が、上位の家筋の当主に成るのですから、結局は、下位の家筋が、上位の家筋の血筋の基に成る訳ですから、願っても叶っても無い事に成ります。
結果としては、嫁ぎ先の氏が、上位の氏の「発言権」が増す事に成ります。
場合に依っては、その家を牛耳る事にも成ります。
従って、積極的に、嗣子を嫁の実家先に送り込んだのです。
この「慣習仕来り掟」は「純潔」「家柄」「身分」を護る為に、つり合いが取れる様に一族一門の「同族血縁」の中での血縁関係が前提と成っています。
従って、「第4世族の遠縁」までの血縁に留める様にして、外の血を入れて「同族の弊害」を何とかします。 多くはこの範囲で高位の上級武士は血縁関係を結びました。
従って、「家紋」はこの定義の中で変化します。
上記の子供の範囲で血縁関係が行われれば、家紋は変化しませんが、この範囲からは外れた場合は一時的にその代だけは変紋を余儀なくされ、養子に男子が生まれた場合は、その子供の男子に元の家紋が引き継がれます。
再び、又、女子だの子供となった場合は、「女系」と成りますので、「男系の原則」から、系列は「養子先の系列」に入ります。従って、家紋も全く別の養子先のものと成ります。
全く、別の家筋から、要するに「養子」を迎えた場合はこの定義で処理されます。
「養子先の家紋」になり男子が生まれなければ、「養子先の家筋」に組み入れられて、「元の家紋」は引き継げません。血筋が切れて仕舞った事に成る訳です。
例えば、「武田氏系青木氏」と呼ばれるのは、この事から起こっている訳です。
甲斐の「賜姓族の青木氏」の分家の者が、上記の範囲の男子の跡目が切れて、地元の豪族の武田氏からやむなく、「青木氏外の血筋」の縁外から「他氏の養子」を迎えたのですから、この「養子」に男子が生まれなければ、この時、一時、「養子先の家紋」に成ってしまいます。
そして、続けて、養子を迎えたとなると、これで、家筋を基に戻せなかったので、「武田氏系の青木氏」が生まれた事に成ります。
藤原秀郷流青木氏には「116氏」に成っているのはこの事から起こったのです。
この事は、「氏家制度」の中での事での事で、「封建制度」は無関係です。
本家が一族の血縁関係を護る為に、監視し管理しているので、本家筋の云う事に従わなくては成りません。
この一族一門が作っている「慣習仕来り掟」の中でしか生きる事しか出来ません。
この中から外れる事をすれば一族から外されますから、経済的基盤が根底から無く成り、周囲の社会慣習から外されますので生きて行くことは出来ません。
この奈良期から続いた「氏家制度」は、上記の「慣習仕来り掟」の中で図られます。
お家の長嶋氏が、この「慣習仕来り掟」に従ったかは検証する必要があります。
家紋の変化から観て、この「慣習仕来り掟」は無かったと観られます。
資料からは、関東の長嶋氏、永嶋氏はこの「慣習仕来り掟」の中で家筋が維持されています。
(藤原秀郷一門の青木氏の場合、皇族賜姓族を補佐する為に、「特別賜姓族」と成った時点で、朝廷に対して、一門の総宗本家の第三子を青木氏の跡目に入れてこれを絶対的に継承する事を宣言しています。)
そこで、次ぎのご質問ですが、3のご質問を物語る事に成ります。
4.当家の家紋については兼光までは『対鶴に若松』で勘左衛門から、当家の家紋は『顔合わせ三つ結び雁金』のようです。肝付町永島家の家紋『中輪に三つ口合せ雁金』も少し気になると言っていましたが…。『顔合わせ三つ口合せ結び雁金』と言うのもあるのでしょうか?
このご質問のお答えは、”在ります”です。
この「家紋の変化」は、上記した事から「跡目」が「養子先の家紋」と成り、変化して行ったのです。
上記に記した様に、一族の「慣習仕来り掟」の範囲では、血縁関係は保てなかった事を意味します。
可成りの「他氏の血筋」が入っていて、「同族血縁の範囲」から間違いなく外れています。
そもそも、「家紋」には、主要紋として「家紋200選」と云うのが在ります。
この家紋が、この中には無いのですが、しかし、「顔合わせ三つ結び雁金」は、「雁紋53紋」の中にあります。
ところが「顔合わせ三つ口合せ結び雁金」はありません。
又、「対鶴に若松」も54紋の中にはあります。
しかし、この”むかいの鶴に若松紋”から、「結び雁金紋類」に変化した事は、上記した血縁の「血筋の変化」が起こった事に成ります。
従って、この事から、この段階で「正統の長嶋氏の血筋」が先ず無く成った事が云えます。
この「対鶴に若松紋」は、つまり、「舞鶴文様」は、53紋の中の主要紋ですが、「顔合わせ紋」は主要紋ではありません。
従って、九州の「大蔵氏族」に関係する地域の「土豪の家紋群」です。
「舞鶴紋」は大蔵氏に関係ありませんが、しかし、「顔合わせ三つ口合せ結び雁金」は「類似紋」の変紋です。
そして、恐らくは、縁者、妾子、本家が本家筋から、「家紋引継ぎ]を許されなくて、つまり、正統の「顔合わせ三つ結び雁金」を継ぐことが出来なくて、この「類似紋」を作り上げたと考えられます。
そもそも、”「口合わせ」”と云う文様は、「三つ雁金紋」の他の文様に、この図柄が使われていますから、これを「顔合わせ文様」に用いて「類似紋」を作り上げと思います。
そこで、「顔合わせ三つ口合わせ結び雁金」(口=嘴)は、調べたところによると、特定の限定地域に僅かに存在する事は判りました。
恐らくは、正統の「顔合わせ三つ結び雁金」との間に何かが在ったのでしょう。
よく、分家筋や縁者や遠縁の者がこの様な「類似紋」を使いました。
また、地域の一族の判別をする為に、「類似紋」を作りました。
しかし、江戸初期に「家紋200選」に対して、判別がつかない様な「類似紋」を厳しく禁止しています。
この事から、家紋群の中に無い事は、つまり、”雁の嘴を合わせる紋は違う紋だ”として、この禁止令を潜り抜けた可能性が有ります。
恐らくは、上記した何らかのお家の血筋関係の跡目の問題に何かあった事が考えられます。
「顔合わせ三つ結び雁金」が元紋ですが、そもそも、「雁紋」の元は土佐の「土佐ノ坊昌俊]が「源頼朝」から治承の乱の時に送られた家紋が始まりです。
多くの旗本や大名が使って53紋に成っていますが、元の「三つ雁金紋」は基紋は「花房氏」(陸奥から秀郷一門の縁者として足利に定住して豪族と成った花房氏で信濃足利氏の本家始祖と成ります。後に潰される。)が使った文様です。
「三つ雁金紋」は、「大蔵氏」を始めとして北九州に分布する家紋群です。
当然にお家は、「大蔵氏族永嶋氏系長嶋氏」ですので、「三つ雁金紋」の変紋の「顔合わせ三つ結び雁金」は少なくとも無関係で無い事に成ります。
「対鶴に若松紋」よりも、「三つ雁金紋」類の「変紋」の方が、九州薩摩の長嶋氏に関係する家紋類として納得できます。
ですから、本来であれば、”逆の変化”を起こす筈です。
つまり、「兼光」さんの処で何か起こっている筈です。
何故、逆なのかです。
ここに何かお家の家筋に大きく影響した事が起こった事を示しています。
「顔合わせ」は「類似文様」ですが、基本紋の「三つ雁金紋」「対鶴」「若松」では、次ぎの事に成ります。
基紋の「雁金文様」は「海野氏」 (瀬戸内 讃岐青木氏の副紋)
「三つ雁金文様」は「大蔵氏系」 (北九州 肥前青木氏の副紋)
「結び雁金文様」は「寺田氏系」 (関西以西 真田氏副紋))
「若松文様」は「松尾氏系」 (讃岐藤氏 江戸期の全国的分布)
「対鶴文様」は「日野氏系」 (中部以西 旗本代表家紋 江戸期初期)
以上と成ります。
この事から、上記の”逆の変紋事も含めて、次ぎの事が云えます。
先ず、「広範囲の地理性」を大きく持っている事が判ります。
且つ、「広範囲性の氏性」を持っている事が判ります。
家筋、血筋としては、名跡「長嶋氏」を外れて、「一般武士の範囲」にあります。
何故,この様な中部域の家紋群が九州南端の長嶋氏に家紋として用いられてる事が納得が行きません。
武士には、「国抜け」と云う「国策禁掟」が在ります。
何かの繋がり無くして、この様な家紋に成る事は先ずはありませんし、家紋が変化するのですから、氏家制度の中では「長嶋氏の宗家」が許さないと起こり得ません。
上記で論じた様に、何とか、必死に家紋を維持しようとする慣習であるのに、余りに変化が大き過ぎます。
それも逆です。(壺の化石の再生品の形成に不適合の何か矛盾の様なものがある。)
これらの文様が何らかの関係で合して出来た家紋ですが、依って、お家の長嶋氏の家筋の変化が極めて大きかったかを示しています。
凡そは”どの程度の家柄”であったかも判断が付きますが、これは何なのでしょうか。
(仮説として、仮姿に変えて「藩命」で外に出る以外にはこの様な事は起こらない筈です。)
明治期には、その特命の継続の範囲で、太吉さんは「西郷隆盛」か「大久保利通の配下」にあって、諜報活動をしていた事が考えられますね)
考えられる事として、これらが示す一つとして、”何らかの役目”或は、「特命」を持っていた事の証でしょう。
故に、一般武家とは異なった移動の行動の「静岡」ではないかと考えます。
以上です。
では、秘匿をご要望でしたが、又お便りください。
この事からも、上記のご質問のお答えの根拠に成ると思います。
以上の事柄の歴史観を参考にしてください。