青木ルーツ掲示板
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  [No.806] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/15(Tue) 10:10:51

お便りのお答えお判り頂けましたか。
これでお家の長嶋氏のご先祖の生き様がより鮮明に成って来ましたね。
何よりで九州旅行は意味がありましたね。
私も青木氏の研究で色々と経験をしましたが、この様な積み重ねでデーターを集め推理し解析して少づつ前に進めて来ました。
貴方様の推理も要点を突いてなかなかの推理と感じ入りました。
さて、そこで更にお尋ねに成られましたのでこちら一層熱が入ります。

先ず、資料の件ですが、この史料関係は、筆者の南九州の歴史調査資料、大蔵氏の研究として個人提供された資料等であり、添書は完全な個人情報であり公開は出来ませんので特に大蔵氏と肝付氏関係は法に基づき公開する事は出来ません。
大蔵氏と肝付氏側が全面公開していませんので無理です。残念ですが信じて頂く以外にありません。
そこはお任せいたします。
さて、そこで、1から6のご質問ですが、応えられる範囲でお答えいたしましょう。
1の質問
前置き
青木氏の研究室の阿多倍に関するレポートにこれらの事は散在して記述していますのでそれをお読みになると大蔵氏の事が掴めます。散在して記述しているのは本サイトは青木氏である事と一括してまとめてレポートしますと法に抵触しますので、散在方式を採用しています。
もしネット上でも大蔵氏のレポートがあると思いますのでそちらをご利用ください。
ただ本目的の為に纏められた研究資料では阿多倍から大蔵氏までのレポートはないと考えられます。青木氏ならではの研究だと思います。
参考 研究室に本お答え内容は各所に記述していますのでお読みください。
主なレポート
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係

大蔵氏系譜の添書に書かれている内容から判明します。
大蔵氏の系譜で阿多倍より15代目に当る人物で長門権守で太宰大監で岩門少卿の「種輔」なる人物から種貞−種有−種資−種秀と来ます。この「種秀」が大蔵氏より母筋方実家先の永嶋氏(長嶋氏)の跡目を興しています。この人物が始祖と成ります。
そして、種秀−頼種から種有の弟の種嗣−義種−種親と来まして種親が頼種の跡目を引き継ぎます。
つまり、親戚筋より跡目を継がしたのです。
種親−種武より永嶋氏(長嶋氏)は継承されて行きます。 
種有で大蔵氏と血縁 元寇の役後 1285年頃
種秀で永嶋氏(長嶋氏)を相伝 大蔵氏系長嶋氏 1335年頃
種武で永嶋(長嶋)太郎を継承 北九州菊地氏と血縁 1365年頃(確認)

種親−種武(1330−1385) 室町初期 大隈国と前回に記しましたが更に確認して1365年頃が正しいと観ました。

此処より肝付氏系譜に繋がる。
種武の子(不祥)が肝付氏と血縁 1400年頃
兼行−兼貞−兼俊−兼重−秋兼−兼尚−肝付氏
兼重の弟の兼成−兼幸−「兼久」・・兼続26・・兼道29 1581年島津氏に敗北
兼成は大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と血縁 1410年頃
兼久が長嶋氏を継承し発祥 1507年頃 永嶋氏から長嶋と変名
兼道29が「関が原の戦い」にて死亡 1600年 (29は肝付氏代数)

以上が大蔵氏系譜と添書の年代、肝付氏系譜と添書の年代から繋ぎ合わせて検証するとこの時系列が出来ます。ただ大蔵氏の1400年頃と肝付氏の1410年頃は一致しないが添書のずれがあるとは観られますが不明です。(秀郷一門の資料より内容から観て関係する血縁内容が配慮されるので一部菊地氏の系譜添書を検証の為に参考にした)
 
23456は2つ系譜添書に書かれていて年代等は他の資料県史などと考察して検証したものです。
添書は出せませんのでご不信な時は県史などで確認してください。

5に付いても同様ですが、折角ですからその一族12氏を記述します。
この12氏は肝付氏と同族ですので、長嶋氏と幾つかの氏との血縁関係にある可能性があります。
長嶋氏を更に調査するには12氏からこの血縁氏を割り出しその氏のデータを採取すれば更に詳細に掴めると思います。長嶋氏は青木氏族の1氏ですがこの領域までは青木氏では困難です。
肝付氏の同族12氏
長嶋氏、薬丸氏、波見氏、小城氏、内之浦氏、榎屋氏、窪田氏、慶田氏、富山氏、二方氏、中村氏、山口氏(第2の枝葉氏は更に広がっていると観られます)

この内、幾つかは長嶋氏から母方筋の名籍を継ぎ「姓氏」が発祥したと考えられます。
丁度、大蔵氏の永嶋氏や肝付氏の長嶋氏の様に同じ継承で「部屋住み」が母方筋の名籍を継いだと同じ様にです。
詳しく調べてみないと判りませんが、この同族は家紋分析から長嶋氏の支流一族ではないかと観られます。
大蔵氏は「三撫子紋」が主紋ですが、撫子の変紋と雁金紋(九州)の変紋はもとより関東の永嶋氏の主要紋類の「丸に桔梗紋」、「扇紋」が第2枝葉まで極めて多い事から考察できるのです。
(長嶋氏の主家は三雁金紋)
本来、美濃、尾張、三河、遠江地域一帯に分布する家紋群であります。
秀郷一門の特に室町期の永嶋氏の家紋群が分布する地域のこの家紋群が日本南端の南九州にある事は如何に大蔵氏系一族一門との血縁が強く勢いあった事が判ります。
主に永嶋氏と長嶋氏がこれ等の名籍を嫡子外の嗣子の「部屋住み」に興させて行ったかが判ります。

6に付いてのご意見ですが、謄本と云うのは愛知の事ですか。
鹿児島大隈での現存と成っていますので、愛知ではないのです。
上記12氏にも成る長嶋氏がお家のご先祖の本家の勘右衛門さんだけの家だけでは無い筈で分家分流分派の傍系の支流一族も存在している筈です。
添書には”肝付の長嶋兼道なる者が島津義弘に従い朝鮮に赴き、軍功ありしが、慶長5年に遂に戦死しその本承は亡する”とあり、其の跡目は今尚ほ承襲して鹿児島にあり”と記されています。
別のところに添書には”その肝付氏族長嶋氏は他の諸氏同様に鹿児島にその系譜を伝えている”とあります。
本家筋の一部が愛知に移動したか、本家が愛知に移動したか、傍系支流が残ったかの何れかですね。
本家筋には鹿児島に戸籍を残したという事に成りますね。
上記の何れかが3つの資料から残っている事は確かです。

そもそも545年もの経歴を持ち官僚の血筋も持つ家柄にありながら肝付氏は資料が少ない事が検証探求が難しく成っています。恐らくこれは「廃仏毀釈」や「寺請制度の令」や「寺社上知令」で寺に保管していた資料が無くなったのではと考えられます。

長嶋さんの1から6までの様な纏められた資料は日本全国に於いてもありません。何れの氏にしてもこの範囲は全て研究領域です。添書内容などに関わる研究領域は法に基づきますますし公的に成っているものはめったにありません。そもそも長嶋氏自身の事に付いて青木氏の様にまとめられていないのですよ。
本お答え内容は添書や系譜や其の他の資料等の個人資料などを提供して頂き関係族として筆者を含む青木氏の関係者と極めて著名な数人の歴史研究家が長年にて研究したもので青木氏外には無い筈です。「青木氏族」に提供する目的と前提で管理人さんが本サイトを立ち上げられて公開しているものです。

以上、今までのお答えから資料を求められるのであれば、鹿児島の遺された「県史」や「地理考」等を求められて推理を働かせて調査をお願いします。

その際に調査方法や調査した内容に付いてのご質問にはお答えいたします。ご遠慮なくお尋ねください。



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