青木ルーツ掲示板
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  [No.790] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/08/12(Fri) 20:59:09

長嶋さん 今日は。お久しぶりです。
色々とルーツの事をお調べに成っている様ですね。なかなか上手く行きませんよね。
ルーツ探求は歴史雑学を極めて必要とする作業です。
現在の感覚では絶対に出て来ません。それは氏家制度と身分制度の社会であった事からで、現在感覚では矛盾が生まれ、その結果、間違えた方向へと探求の道を選んでしまうと言う事が起こるからなのです。

さて、勝楽寺の「人別帳」には ”江戸中期までには、太吉、妻たいの名前が出て来なかった”と云う事ですが、これには次ぎの3つの疑問または雑学上の間違いを起しているようです。

1 先ず「人別帳」は通常、庶民、平民の戸籍簿に当るもので、武士はこの「人別帳」には載りません。庄屋が村毎や郡毎に居る農工商の民を税を統治管理する事から書き記したもので、主に庄屋が管理し村の寺等に保管して管理していました。「人別帳」は「戸籍簿」としてはその役割の中の「系統性」がありません。
代々の氏の系統性を主体として管理されたものではないのです。そもそも庶民は姓や氏を構成していませんので、つまり「姓名」や「氏名」は持っていませんので元々系統性のある物は出来ません。
武士と庄屋、名主、豪商、豪農は元は武士であった事から苗字帯刀を許されて「姓名」や「氏名」を持っていますので「過去帳」でも戸籍管理されていたのです。(庄屋は人別帳にも記載する慣習)
お家は先ず長嶋氏で武士ですので「人別帳」の方には記載されません。

2 お家は鹿児島が管理地に成りますのでこの川路村にはありません。
明治前は”人は土地に拘束されます””その土地と領民は領主が統括しますので、鹿児島の人は鹿児島に過去帳があるのであって、明治前60年前に移転してきたとしても此処のお寺には「過去帳」として記載する事は出来ません。当然に「人別帳」も。
明治3年以降であれば体制が変わりましたので川路村の役場の戸籍簿に記載されます。
しかし、お家の場合は載せるには鹿児島から移さなくては成りません。急に川路村に降って沸いたようには戸籍を作る事が出来ません。
つまり、明治3年以降にお家の戸籍を鹿児島から移していない事を意味します。移していれば明治の戸籍簿に”何処から移転”と記載されている筈です。
特に明治初期のものには、寺から役場に管理が移りましたが、この事の経緯が詳しく記載されているのが特徴なのです。士分、平民の別も記載しています。

3 次ぎに”太吉、妻たいの名前”ですが、武士である事から幼名と俗名では管理されないのが普通です。武士は年齢に応じて、成人になるに従い幼名から俗名が付き、成人すると武士名の・・左衛門頼光とかに変わります。「過去帳」にはこの武士名が記載されます。
武士は基本的に4つの名を持つのです。後は戒名です「・・院・・殿・・左衛門居士」。・・院は官職が、・・殿には氏名が読み込まれます。この様に過去帳は武士名と戒名を記載します。
”妻たい”の名は武士の身分、つまり名家か上級武士に依っては別のものに記載されます。
お家の長嶋氏は鹿児島では女墓制度の慣習を引き継いでいたかは判りませんので何とも居えませんが、「院殿居士」を持つ家柄であったなら過去帳にも女過去帳にも記載されている筈です。いずれにしても川路村には無い筈です。

4 60年と云う年数から此処に移転してきた時の理由です。
薩摩藩の仕事から移転して来たとすると、赴任移動に伴なう「手形」しかありませんので、川路には戸籍、人別、過去帳等もありません。明治3年に成っていませんので鹿児島以外に人別にしても過去帳にしても無い事に成ります。
そこで”本家菩提寺・・”としている事なのですが、お家は薩摩の長嶋氏です。武士です。菩提寺が川路にある事は絶対にありません。
そもそも「菩提寺」の意味を間違えられていると思います。
恐らくは「檀家寺」と勘違いされている様です。
「菩提寺」は薩摩長嶋氏だけを祀る寺で氏の本家、分家、分流、分派、中には縁戚の全体で長嶋氏の管理運営する専属の寺の事です。
江戸末期には管理運営に大変な経費がかかりますので、相当な身分つまり大大名等が持つ事ができました。従って菩提寺運営をするには宗派が同じとか氏は異なるが流れが同じとかで他氏と共用する寺も多く殆どでありました。場合に依っては肝付氏や大蔵氏や廻氏や前記した40族に連なる氏との共用で菩提寺を運営していたのです。
依って、薩摩以外の所には「菩提寺」はありません。「移転」そのものが「菩提寺」では無い事に成ります。
お家の様に60年前に移転したとすると間違いなく「檀家寺」となり、この場合、長嶋氏が何宗かに依りますがその宗派が川路になければやむなく他宗の檀家寺に「仮寺」として済ませ、「本寺」は鹿児島薩摩と言う事になります。藤原秀郷一族は全てこの方式を採りました。それが真宗でした。
兎も角も大蔵氏系肝付氏族長嶋氏と成りますので過去帳などがあるところは、主に肝付氏の大隈地方のその本宗派の寺に成ると思います。或いは天草市に成るかも知れませんが。

「2足の草鞋」はあくまでも武士であって身分の高い方を選定する習慣です。
この場合は戒名などもその宗派に依って作り方が異なりますので、先ず少なくとも薩摩長嶋氏の総宗本家の宗派の確認が必要です。
普通で考えれば曹洞宗か浄土宗かに成ります。お家のご本家の仏壇の形式からでも大方は判ります。
というのは宗派が異なれば祭祀する仏様が異なるからで、その仏様の構成が宗派で異なるために仏壇の形も異なってくるのです。
お家の常陸・下総の長嶋氏の宗派は元は古代密教の浄土宗であります。大蔵氏と血縁し大蔵氏系となった長嶋氏が大蔵氏ではなく長嶋氏を継承している限り、長嶋氏の宗派を継承しますので古代密教と成ります。

ご質問1
そこで、武家商人として『2足のわらじ』で愛知の新城という土地に来ていたとすると、菩提寺は薩摩と言うことになり、川路地区『宗門人別御改帳』なかったのでしょうか。

このご質問ですが、上記しました通り、「菩提寺」は薩摩にある事は間違いありません。
川路地区は「本寺」ではなく「移動の便宜上の仮宗派の仮寺」で、その後、明治になった事から「檀家寺」として続け、その土地でのご本家が出来た事からそのままに檀家寺をつないできたものです。
依ってこの川路の「本家」では無く「宗家」の方にある事を意味します。更にその上を「総宗本家」と呼びます。
川路に移動後ご本家が出来たのですから、川路に戸籍が無い事から薩摩が「宗家」となります。
つまり、何らかの理由で明治初期の3年の苗字令の時に川路に本籍を移さなかった事を意味しますので薩摩のどこかに戸籍がある事に成ります。
その後に現在地のどこかに移したことも考えられます。ですから先ずは薩摩の長嶋氏の宗家(薩摩の本家)をお探しに成ると良い事に成ります。
ルーツはこの「本家」で調べなくては成りません。お家は江戸末期で、且つ、移動して来ていますので、薩摩の「宗家」の本家筋が何処にあるのかを先ずは調べなくては成りませんが、大切な事はルーツ探求には下から上へ調べ上げて行く事は枝葉に成っていますので不可能です。ですから、出来る限り上から下に探す事が必要です。先ずは薩摩からと成ります。
そのためには現在の宗派ではなく元の宗派をご確認ください。浄土宗で古いお寺である筈です。
薩摩の肝付氏族長嶋氏を名乗っていますので、大蔵氏の一族が元の長嶋氏を誰かが引き継いだことに成りますので、元の宗家の宗派は古代密教の浄土宗と言う事に成ります。

薩摩に於いて古代密教の浄土宗の出来る限り古いお寺をお調べに成る事です。
その時代は鎌倉時代の末期の元寇の役(1280年−1285年)の前後に、常陸−下総の長嶋氏系一族と血縁していますので、その50年から100年後(1330年−1385年)の前後に薩摩長嶋氏が発祥していることに成ります。(この時同じ一門の長谷川氏や青木氏や進藤氏も大蔵氏と血縁している。)
その後、1495年−1510年にこの長嶋氏は肝付氏と共に薩摩の配下に入ります。その直前には長嶋氏は「天草市新和町」付近を支配する五氏の豪族となり次第に勢力を拡大して行きますので、その支族(分家 長島氏)として天草の豪族の宮路氏と共に肝付氏を背景に長島氏が薩摩長島まで勢力を張って行ったのです。
この長島氏姓を呼称する(長嶋氏)は肝付氏と共に今の鹿児島県の長島地方を領有する様に成ります。
しかし、結局、勢力拡大で島津氏と長い間争う事に成り衰退し敗退します。この時、一部の長嶋氏は長島の近くの「阿多」にも移り住みます。
(地名の「阿多」は大蔵氏の始祖の大隈の首魁阿多倍王の阿多 伊勢北部伊賀地方も伊勢青木氏より半国割譲して阿多倍王に与える)
つまり、分家の長島氏は天草−出水の長島から阿多付近まで 本家筋長嶋氏は大隈から阿多までの勢力図であった事になります。
(「長島氏」は元は常陸下総の「長嶋氏」の系列で「伊勢長島一門」の長嶋氏ルーツ系です。
永嶋−長嶋−長島とこの「3つで永嶋族」を地理的にも判別する様にしていました)
この事から薩摩長嶋氏のお家のルーツの宗家は、第3番目の鹿児島県の天草に近い長島と、近くの阿多にも子孫はある事にも成りますが、菩提寺も同じ事が云えます。
(出水長島、薩摩阿多、薩摩大隈、薩摩肝付の何れかに。 天草出水長島は考え難い)
依って次ぎの何れかになるのかを確定する必要があります。

1 元々の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の総宗本家筋なのか
2 元の長嶋氏から長島氏にしたのか、
3 長島氏から長嶋氏に戻したのか、
4 伊勢長島系(長嶋氏族)の長島氏を本家はそのままに継承しているのか

注 大蔵氏との血縁時は長嶋氏です。始祖は「大蔵種秀」(1280−1285)で、その子の「頼種」の長嶋弥六が引継ぎ大隈に移動し、その祖祖父大蔵種有の弟大蔵種嗣系の大蔵氏から大隈長嶋氏に跡目に入った種嗣の孫の種親−曾孫の種武と引き継がれた事に成る。

ですから、お家の長嶋氏は正式にはこの種親−種武(1330−1385 室町初期 大隈国)から引き継がれているのですが、伊勢長島の長島氏の名跡を分家が引継いだと見られここから天草出水長島に広がっています。

ここから菩提寺の過去帳で江戸末期までお調べになるとルーツが判明することに成ります。
(青木氏との関係で研究したところここまででこれ以降の資料は持ち合わず困難です。)

推測 
大蔵氏との血縁時は伊勢の長島氏は高位の大蔵氏が血縁先である事から家柄身分をあわす事から長嶋氏を名乗った。そしてその後、伊勢の長島の名跡を分家等が引き継いだ。
この時、長嶋氏流と長島氏流が拡がった。長嶋氏は大蔵氏系肝付氏族として大隈に、この後、長島氏は長嶋族として天草隣の長島に勢力を拡大した。(大隈長嶋氏も隣の阿多まで広げた)
此処までは史実です。
その後、大隈の宗家の長嶋氏に跡目が欠けて長島から人を入れ跡目を継承したか。長島の分家筋の本家の者が島津氏の御用達に成った事から身分をあわすために分家筋の長島の名乗りを宗家の長嶋に戻したか。大隈長島本家が御用達を務めたか。
従って、大隈の長嶋氏が総宗本家筋、天草長島の長島氏が分家本家筋に枝葉が拡大したのでルーツはこの2つにある事になります。
(肝付氏の方からも下総結城の宗家名跡を継ぎ永嶋氏を名乗った一族が居る)。

さて、この何れに菩提寺があるかの問題ですが、天草長島氏には菩提寺を運営する能力に疑問があり、且つ、総宗本家ではないので菩提寺を作る事は立場上で困難であったと考えられます。
支所的なものはあったと考えられます。或いは伊勢長島の伊勢神社を祭祀する事はあるかも知れませんが宗家菩提寺は仕来りから大隈にある事に成ります。
当然、そうなると菩提寺宗派は浄土宗密教と成ります。守護神は一族一門の総宗本家の肝付氏は「産土神」ですが、長嶋氏を名乗っていますので「鎮守神」と成ります。菩提寺のあるところに必ず「鎮守神」がある事に成ります。この2つの条件が備わっている事に成ります。

この付近に上記年代の一番古い浄土宗寺にあると思います。
場合に依っては天草にある事も考えられますのでここからお調べになられることをお勧めします。
古い天草の長島氏か島津時代の薩摩の長島氏か長嶋氏に成る事も考えられます。
或いは大隈に。長島氏の中で常陸の名家の長嶋氏の氏名を継承した可能性が大でありますが、又は、常陸の総宗本家の名家の長嶋氏の氏名を継承して島津藩の「こけら屋」(長島氏は過去に敵対した事があるので御用達に成るのには問題がある)を務めた事も考えられます。
この場合は後者か肝付氏の大隈の土地のお寺の可能性があると思います。

当時の氏家制度と身分慣習と一般の義理の慣習から私はこの説も高いと見ます。
つまり、島津氏の身分に合わせて元の名跡の長嶋氏を名乗る事は当時の身分制度からよくある事です。
当然に氏家制度の中では分家が本家や宗家に対して許可無くこの様な行為に出る事はありませんので、名乗ると成ると本家筋或いは宗家筋がある事ですし先ず許さないと思いますので名乗れません、そうなれば総宗本家の許可が必要と成ります。
依って、名跡の長嶋氏を名乗る以上は本家筋、宗家筋の枝葉と成る筈です。
この天草の土豪の長島氏一門では菩提寺は運営管理する力は無い可能性もあるので、同時に氏神社も合わせて寺社2つの存在を確認する必要があります。

そもそも川路に”何故ルーツの後が無いのか、何故戸籍を移さなかったのか”の疑問が生まれます。
それはもう次ぎの様に答えが出ています。

菩提寺が薩摩にあると云う事、
菩提寺を一門で管理運営する力があった事、
その力は「こけら屋」であった事、「2足の草鞋」を持つ事はその経済力が十分にあり、島津藩「御用達」であるほどの豪商であった事、
島津家に負けじと劣らずの有力名門氏であった事、
江戸期に長嶋氏を名乗れるほどの本家筋であった事。
九州一の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の名門中の名門である事。
伊勢長島の系列の長島氏でありながら常陸の名跡長嶋氏を名乗っている事

平安末期から鎌倉期と室町期を経て江戸期まで一貫して日本有数の血筋を引き継いで来たのです。
天皇家の血筋を引く大蔵氏と藤原氏の両方の氏です。姓ではありません。

これだけの条件が揃っているのも氏も珍しいもので、「菩提寺」を有している事は間違いありません。
だから、移さなかったのです。だからもとより川路地域一帯にはないのです。
移す事の事態がおかしいのです。

ですから、お調べに成る時は宗家筋から下へと進められるようにしてください。
かなり宗家に近い筈です。それは宗家そのものが他国に移動する事は絶対に氏家制度からありえませんから。菩提寺があるとすると、当然に当時の慣習から一族一門の「氏の守護神」を持っている筈です。
大蔵氏と肝付氏は「産土神」を「主神」とし、長嶋氏は「鎮守神」を「主神」としています。
このどちらか或いは両方の「守神」を持っていますので菩提寺と共にお調べに成るとどちらかから糸口が出てくる筈です。

ご質問2
他の藩から来て、住んでいた人は『宗門人別御改帳』には載らないものなのでしょうか?

江戸期以前では上記の通り住む住まないでは無く「人別帳」には武士は乗りませんし勿論他国者は乗りません。

鹿児島の宗家を確認して其処の長島氏か長嶋氏の菩提寺を定め其処から下ってください。
先ず天草市から潰して行ってください。そして大隈市へと確認してください。
宗派は浄土宗で、或いは次ぎに曹洞宗か真宗でお調べください。
お寺が決ればあとはルーツが開けてきます。この時は長嶋氏の守護神もある筈です。

参考
兎も角も、ルーツ探求には、”推理推測を立て、それを調べて推理推測に辿り付けるか”が面白いところです。辿り付けた時の喜びが忘れられません。
先ずは上記末尾に記しました推理推測が必要で、これなくして先ず辿り付けないでしょう。
それ程に歴史資料が整っていなく忘れ去られてしまっているのです。一度忘れ去られると大変な努力が必要です。先ず個人の領域までたどり着ける程に遺されていないので不可能です。
遺跡を推理し掘り起こすと同じです。今回のご努力も一つの前進ですね。

参考
鎌倉期から江戸時代は難しい為に100%に近い状態で系図や系譜を搾取偏纂をしてルーツを作り上げています。昔は今ほどに資料文献が進んでいなく社会がそれ程系譜が遺されるほどに進んでいないのに系図や系譜があるのがおかしいのです。余程の氏でなくては個人の領域間での資料を残せる訳はありません。とりわけ鎌倉期から江戸期初期までは下克上と戦国時代ですので、100%に神社や寺社等も消失しているのです。残せる氏も下克上で潰されているのです。
系図や系譜を後生大事に盾にしている氏も居るようですが1465年間一人で生き抜いた人でもいるのでしょうかね。どのようにして系図を書いたのでしょうか。一人の人が誰かに頼んで書いて貰う以外にありませんよね。その書いた人個人のルーツ何で知っているのでしょうかね。個人でなくても判らないのが普通なのに。誰かが勝手に家柄を良く見せるために搾取偏纂したもので歴史が経つと本物に見えてくるのがこの世の不思議。
お家の件でも未だ100年も経つか経たないかでもう判らなくなっているのですよね。

信用できる系図系譜資料は必ず”・・年代に誰々記する”と書き、”真偽は後勘に問う”と書いています。
ですから、薩摩の長嶋氏に付いてもこの資料に騙されないように充分に注意してください。
先祖が没する度に寺が客観的に書き足して行くために信頼性が高く「過去帳」が最も信用が出来るのです。その中に戒名がありこの戒名が真偽を物語る資料なのです。寺が3つの要素が読み込まれているのです。真実を保つためにです。その過去帳は菩提寺を有する氏の寺と成ります。あるいは氏の神社にも遺されているのです。この2つが噛合えば間違いはありません。
薩摩長嶋氏の資料が何処に残されているかは歴史的発見です。まだ誰も長嶋さん全体を調べてはいないようですが。

青木氏はその立場上から掘り起こせばまだ遺されていて、筆者や縁戚の佐々木氏と藤原秀郷の宗家が調べていましたので両方から探求する事で全体像が判ってきました。45年間苦労しました。
一番苦労して無駄な時間を費やしたのは搾取偏纂の資料でした。
ヤフーのブログ審査によれば個人では最大にルーツ解明が進みその資料の膨大さとその真偽は日本一であると云う話も伝えられています。ヤフー登録審査では日本の歴史研究学者5人の審査を受け25倍の厳選で歴史部門の登録が叶いました。
今のところ長嶋氏の件では縁戚としての青木氏が一番に情報把握していると見ていますが。
兎も角も頑張ってください。そのためにも何でもご協力いたします。
最近テレビでも最近富に歴史番組が多いですが俗説通説を使っていますので極めて間違いが多いですよ。


参考
そこで上記の説明の推理からこの条件が成り立つのかを調べました。
インターネット情報
出水郡長島
浄土宗 寺なし
真宗 発願寺、善照寺、真楽寺、光蓮寺
曹洞宗 善門寺、長光寺、広昭寺

大隅町
真宗 妙円寺、称讃寺、浄光寺

肝付町
浄土宗 玄忠寺
真宗 西岸寺、西方寺、円通寺

以上菩提寺があると思われる場所の寺ですが、この中にあるのではないでしょうか。
寺の由緒と建立時期を菩提寺の有無を個別に電話で調べる必要がありますね。
しかし、傾向としてなかなか寺は由緒と建立時期を明かしません。
傾向としては真宗が多いのは菩提寺の可能性も、ただ一つの肝付町に浄土宗寺がありますね。ここ気に成りますね。

重要
九州には実はそもそも浄土宗が氏の構成から極めて少ないのです。
浄土宗はある特定の身分家柄の入信する密教である為に九州にはその特定の家柄身分の氏がないに近い状況なのです。
主に真宗か曹洞宗が主です。
長嶋氏と清和源氏頼光系宗家頼政の配流孫日向廻村と薩摩大口村に分布した青木氏の古代密教浄土宗の菩提寺がある程度です。
あるとしても江戸初期家康が出した浄土宗の督励推奨令により大名クラスが曹洞宗や真宗から浄土宗に宗派変えした姓氏が殆どの土地柄なのです。
氏としては大蔵氏系一族一門が主体で後は室町末期から「姓氏」が立身出世した武士階級なのです。
ですから平安末期から室町中期までは大蔵氏と血縁した長嶋氏以外の藤原秀郷一門と青木氏くらいなのです。
特に南九州は特に少ないのです。あるのは江戸初期以降の寺と言う事に成るのです。
中でも大蔵氏系の一族が住む肝付を含む大隈国にあるのは特異で不思議なくらいなのです
(理由は青木氏のレポートの中に詳しく記述)
なぜかと云いますと、天皇家と血縁した大蔵氏は中国後漢の民で阿多倍王に率いられて入国帰化した200万人の首魁が定住していたところなのです。
有名な坂上田村麻呂はこの阿多倍王の長男で大蔵氏は次男です。
ですから恐らくは大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の菩提寺である可能性が高いと成ります。

注意
長嶋氏の菩提寺であっても記録は消えている可能性があります。
最近各地で消えている現象が起こっているのです。資料が無くなったり菩提寺の氏の墓が核家族化して分散して無くなったりして判らなくなっているのです。当然に核家族化で一族の墓も移してしまいます。
宗家本家支流分派の制度も全く無く成っていますので伝統が消えているのです。
また住職は世襲制から配属制に変わりましたので伝統の継承が無くなりました。
また、江戸期の督励推奨令が密教方式から檀家寺としたため菩提寺の意味合いは全ての寺にはありません。過去帳もその目的が全く無くなりましたので菩提寺の氏であるなどの意味合いも無く成っています。
過去帳も戦いでほとんどが消失しているのが現状です。
この事が影響しているのです。

この確認には上記した「由来と創建時期」です。後は過去帳と墓所から長嶋氏を見つけ出す事ですね。
大隈の役所と長島の役場に資料がある可能性もありますね。
兎も角も神社も調べれば共通する何かが出てくるかも知れません。
出水長島には伊勢神社が4社もありますね。伊勢長島 矢張り長島氏の三重県のルーツの場所ですね

大隈国の大隈にはただ一つ「鎮守神社」がありますから長嶋氏の守護神の神社の可能性があります。
(藤原氏は春日大社ですが、大蔵氏系肝付氏族長嶋氏は春日大社ではなく元の鎮守神を祭ることに成ります。)これは「浄土宗」と一致していますし、「大隈国の肝付」には矢張り「伊勢神社」がありました。
3つの条件が真に一致していますので上記の推理に何かあたりそうですね。

では、何かお判りに成った時、または判らない時やご質問がある時には是非お便りを下さい。



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