福管理人さん、お久し振りです。
今年もあと僅かとなりました。世間は師走、日本の中で大移動が起きていますね。
このサイトと巡り会い、一人ではなかなか進まないルーツ探しが、福管理人さんの史実、考え方など、様々と貴重なご意見を頂き、感謝しています。
前回のお答えで、地名には意味があり、歴史を調べていく中で、重要な材料であることがよく分かりました。
安土桃山期から江戸期の大蔵氏族肝付系長嶋氏について、確定ではありませんが、進展しましたのでご意見を頂きたくメール致しました。
現在肝付宗家の残された系図として、
・・・兼続−良兼−兼道(兼護)−兼幸・・・
と兼道後妻の関連、税所家と新納家が宗家再興し、最終的に肝付系の検見崎家が養子に入り、現在に至ってり、肝付氏を受け継いでいます。
その、系図として、
肝付兼続の子として、追放された肝付兼亮、肝付兼樹がいます。
そして、
肝付兼樹−不詳の子−兼弘(鹿児島・佐土原両島津藩の家臣として仕える)
とあります。
肝付兼道に兼幸以外に子がいて、若くして、兼樹の所へ養嗣子となった。
これが不詳の子事、肝付幸之丞兼継であるようです。
兼樹、兼継は、同じ大蔵氏族いるの天草へ逃れ、そこで武家商人となった。
ここで、二足の鞋策が始まります。
そして、兼継の息子、肝付兼弘が、家老の地位にある肝付氏分家を頼り、薩摩・佐土原藩家臣となった。
この肝付兼弘が肝付次右衛門兼弘であり、初代長嶋次右衛門であったようです。
つまり、長嶋次右衛門兼弘となります。
そして、
長嶋次右衛門兼弘−次右衛門兼定−次右衛門兼勝−次右衛門兼忠−次右衛門兼光
−長島勘左衛門兼直−長島勘右衛門兼次−勘右衛門兼吉(長嶌太吉)と続いたようです。
勘左衛門兼直は養嗣子のようです。
そこで、伺いたいのが、
1.兼定−兼勝−兼忠−兼光−兼直−兼次−兼吉は、意味のある名なのでしょうか。
2.次右衛門−勘左衛門−勘右衛門の変化にも意味があるのでしょうか。
宜しくお願いします。