青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.842] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/16(Fri) 17:01:13

今日は。
今回も貴重な情報が提供されましたね。

ご推理はあたっていると思います。

そこで、ご質問にお答えします。
巫女さんの言い分も以外にその傾向があったと考えられますね。
問題は太吉さんの立場がどの様に源吉さんにまたは杉浦氏に評価されていたかですね。
これには当事の慣習が大きく影響するので家紋や姓などの事には変わってきます。


>源吉さんの父幾次郎さんは『次』あるところから,次男で、丸に根笹となった可能性も考えられますね。杉浦幾次郎さんと長嶌太吉さんが、材木関連の仕事で知り合い、次男である源吉さんが太吉さんの長女とめと結婚し、長嶋家に養嗣子に入ったのですかね。

先ず、間違いないと考えます。
「丸に根笹紋」の杉浦氏は前回のお答え通りにほぼ確定出来ていると考えますので、当事の慣習から次男は殆どが婿養子に入ります。
太吉さんに男女の子供が居なくて跡目養子を取りそれに嫁を取ったとするのではなく、太吉さんの長女の”とめさん”に婿養子を取ったとすると家紋は源吉さんに子供が出来なかった場合は家紋は一時源吉さんの実家の家紋を一時採用します。しかし男子の子供が産まれると元の家紋に戻りますが男子が出来なかった事から一時採用の家紋が常紋となり「丸に根笹紋」の杉浦家の氏の系列に入ります。
この時、姓は太吉さんの長嶌氏には戻さず杉浦氏系列の氏と成った事もあり、苗字令の時期の事もあり杉浦氏系列の長嶋氏か枝葉の伊勢長嶋氏系列かに変名したと観られます。
この長嶋氏は薩摩の長嶋氏なのか杉浦氏系列の枝葉の中の長嶋氏を名乗ったのかは判りませんが、何れにしてもどちらも伊勢長嶋氏系列である事から、源吉さんは周囲の杉浦氏の縁戚関係者の納得と了解を得るにはこの方法しかないと考えて長嶋氏にしたと考えられます。
当事は未だ家柄の吊り合いが大変重視される時代で杉浦氏の中に入るには本家宗家の事前了解が必要であったのです。松平氏枝葉の杉浦氏の様な名家の家筋であればこの位の慣習は護られていた筈でその代わり仕事や生活の生業などの便宜も受けていた時代です。
勝手に系列の中に入る訳には行かない慣習制度でした。まして、太吉さん-源吉さんの”商いの関わり”があり杉浦氏との大きな繋がりの中にあって仕事が出来ていたと考えられますので、丸く両氏の間を収めるにはこの方法しか無かったと考えられます。今と違い社会に大きく縛られていたのです。

現実に前回のお答え通りに伊勢長嶋氏と美濃尾張の杉浦氏との血縁族の丸に根笹紋の伊勢長嶋氏系列の姓が美濃-員弁-桑名-長島に繋がる地域には分布しているのです。
私は杉浦幾次郎さんの「丸に根笹紋」は松平氏族杉浦氏系列の中でこの分布域の血縁を受けているのではないかと観ています。その根拠は支流を意味する丸付き紋なのです。
杉浦氏本家筋は丸なしの根笹紋が三河より東より付近に分布し、丸付き紋は伊勢よりの西付近に分布しているからなのです。長嶋氏の本流族34氏には根笹紋と丸に根笹紋はありませんが、長嶋氏の枝葉支流や分流に存在します。

当事は勝手に国を超えての血縁は難しく相当な氏姓でなくては出来ませんでした。それは「国抜け」の制度に縛られていたからです。それぞれの各国の人口のバランスを採り石高を安定させる為にも必要な制度であったのです。勝手に移動や血縁を許してはいなかったのです。維新までは。
その事を考慮すると太吉さんと源吉さんの定住地から考えるとこの制度の中でやりくりをする必要があった筈です。太吉さんは薩摩人で源吉さんは地元の者とするとこの養子縁組の中には上記した「氏の仕来り」や「社会慣習」や「国抜けの制度」や「移動制度」などの諸々の制度が絡んでくるのです。
特に、江戸末期の幕府は騒乱を抑える為に移動や定住や住民証明(血縁など)には3重の許可が必要で「役所」と「所属の寺」の証明と「氏の本家」のお墨付きが必要に成っていたのです。
もっと細かく言うと庄屋や村役の届けも必要で任別帳に関わることもあり簡単な事ではなかったのです。
それだけに騒乱の基となる「国抜け」に対しては幕末は宗教改革や一揆や倒幕と相まって極めて厳しく取り締まったのです。この事は有名な事です。
この条件をクリヤーするには源吉さんの苦労は杉浦家と云うものを背負っていてその苦労は目に見えています。納得できる届けや許可や話し合いが必要であったのです。現在の自由社会ではありません。
そういう事から源吉さんの配偶者のとめさんが養女と観ていましたので、離婚かと判断していたのですが違っていたようですね。済みませんでした。
実は源吉さんが長嶋氏を名乗る背景には”とめさん”が養女である可能性がある訳ですが、実子であるとすると婿養子の源吉さんは長嶌氏を名乗る必要が出ます。
しかし、婿養子の源吉さんが太吉さんが亡くなられた後に嫡子がいない訳ですから杉浦氏の系列の家紋を使った事は杉浦氏に戻る事は選択肢の一つに成っていたのです。
江戸期の慣習では、養子が義父母がなくなった時点で姓を杉浦氏に戻す事が許されるのが普通ですので、現実に杉浦氏の家紋に変えているのですからその行動は採った事は事実ですので慣習から観て少し変です。しかし、それをしなくて本来の長嶌氏ではなく長嶋氏にしたところに意味があります。
前回のお答えの通り中間を採ったと云う事に成ります。

(家柄吊り合いを採る為には実子であるとすると”とめさん”を一度他家に養女に出し、又戻す事が必要。 実子のままであれば太吉さんが亡くなった後で源吉さんが杉浦氏を名乗ることが出来る。そうしないと杉浦氏側は桜井氏系の名籍の家柄立場上世間に対して家柄を下げた事に成り納得しないから、普通は婚姻は認めない筈 幾次郎さんの戒名からでも家柄を誇示している 太吉さんとの戒名の違いの差も物語りますので家柄の吊り合いの差は杉浦氏との間で現実に間違いなく起こっていた事を示す。) 

養女とすると長嶌氏に縛られる事なく長嶋氏か杉浦氏にする事に別に問題はない事に成ります。
だから家紋は「三つ雁金紋」ではなく杉浦氏の「丸に根笹紋」としていて、その代わりに姓は長嶌氏ではなく長嶋氏にして源吉さんの”新しい家”を作り上げた事を意味します。これで杉浦氏を納得させられます。
現実に太吉さんの家紋は「三つ雁金紋」では無かったか判らなくなっていたかを意味します。
「三つ雁金紋」で長嶋氏であれば直ぐに大蔵氏系薩摩肝付氏族長嶋氏と判り、根笹紋の杉浦氏とは家柄の吊り合いは取れていますので、むしろ「丸付き紋」である事から太吉さんの方が上と成ります。
しかし、太吉さんは長嶋氏ではなく長嶌氏であった事と家紋も不明な状況であった事を意味します。
源吉さんが丸に根笹紋に変え、長嶋氏に姓を変え、墓石に家紋を刻まなかった事から杉浦氏の方が格上と判断されていた証拠です。戒名からも判断できます。

そもそも、江戸期の武家の慣習では婿養子は先代が亡くなると養子先か実家先かの姓を名乗るかは選択の一つですが、この場合は養女と実子とで異なる事に成ります。
江戸期以前では他家の娘をどこか家筋の良いところに先ず養女に出しそこから別の氏のところに出すのが慣習です。これは血縁は家の吊り合い、つまり家柄や家筋を重視してバランスを採るのが目的で必要条件でした。低い家と高い家との血縁をする場合は先ずこの作業の手続きを踏みます。これは男女同じです。つまり、長嶌氏と杉浦氏はこの地域では杉浦氏が家柄は数段上にあります。
薩摩ではないのですし長嶌氏で長嶋氏では無い事から源吉さんの杉浦氏が上と成ります。
そうすると太吉さん側は娘のとめさんを杉浦氏側に家柄を合わす事から何らかの手立てが必要です。
手立てなしでは源吉さんは婿養子であっても実家先の発言力が増し替わってきますし、太吉さんが亡くなられた後には何らかの杉浦氏側に合わした変更をする権利が生まれます。
それが今回の家紋と姓の変更と墓所の家紋なしの処置をしたものと考えられます。
慣習ではこれが普通で問題は無いわけですから、それを家紋も姓も杉浦氏のものにしなかったのは源吉さんの配慮であったと考えます。

長嶌氏から長嶋氏にしたのはこの吊り合いを重んじた普通の行為であったと考えられます。
薩摩ではこの様には行かなかった筈です。それは長嶌氏にあったと考えられます。
薩摩の大蔵氏系肝付氏族の長嶋氏の家柄はここでは証明する事が出来なかった事を意味します。
源吉さんはそれを太吉さんが亡くなられた後にこの事を実行したと観られます。
この時に薩摩の三つ雁金紋の長嶋氏なのか伊勢の丸に根笹紋の長嶋氏なのかは判別が情報が無いので付きませんが、それは太吉さんの妻りわさんの牧野氏に関わってくる事で義母のりわさんの知識が左右している事に成ります。

どうも情報では美濃の牧野氏ではなく薩摩の牧野氏である事からの流れから観て、源吉さんはその事を義母から聞いていて薩摩の長嶋氏に戻したとも考えられます。この事から吊り合いが取れて姓は長嶋氏、家紋は杉浦氏の丸に根笹紋としたのでは無いでしょうか。ただ当事としては武家筋の墓には家紋を入れるのが普通で入れない方が士族としては変ですが、本来であれば杉浦氏に戻しても問題はなかった筈ですから、長嶌氏から長嶋氏にしたことから家紋だけ杉浦氏ものは避けた又は配慮したと考えられます。
太吉さん・源吉さん、杉浦氏、りわさん、とめさん、の関係者に取って不満の無い解決をした事を意味します。前回にご指摘しました様に、当事としては「慣習」とはこの様に結果を大きく左右させるものであったのです。慣習雑学は歴史には絶対条件です。結果は全て変わりますよ。

青木氏のレポートにはこの様な雑学が多く書き込んでいますので是非お読みください。
雑学をまとめた書籍はのものは少ないのでルーツの探求には苦労しますよ。

ではまたお便りください。いつでも雑学でもご協力を致します。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー