長嶋さん 今日は
さて、早速ですが、
1番目の問題ですが、兼俊-兼重と兼市−兼重に付いて
私の資料源は肝付氏宗家の系譜そのもので、これに添書が付いていまして其処から検証しながらその系譜の信憑性を確認しています。
世間に出ている系譜はこの添書なるものが普通は出ません。事件に発展しますので付かないのです。
郷土史はどの資料かが判りませんが、兼市なる人物が出てくる可能性は色々な事が考えられますが、先ずその前提は何なのかです。”何故永嶋氏を肝付氏に入れてきたか”と云う事が前提に成る筈です。要するにこの時代の背景です。
「島津氏の台頭」と「肝付氏の衰退弱体」と九州での「大蔵氏基盤の強化」です。
前回のお便りにも書きましたが、戦国時代の最優先の課題戦略です。
それには政略血縁が用いられるのがこの時代の常道です。この前提は崩せません。
そうなると肝付氏の宗家の兼尚が弱体であった事が添書から史実として判ります。
ここに永嶋氏を直に跡目に入れると肝付氏となり永嶋氏は消えてしまいます。
史実、肝付氏系長嶋氏派は3家に成って拡大しています。
仮に後で永嶋氏と長嶋氏の継承を末裔がするとして「時代性」が後ろにずれて一致しません。
結果として、戦略的に肝付氏の宗家・本家筋目の分家筋に入れて永嶋氏・長嶋氏を継承させる事に成ります。長嶋氏が残る前提では無理と考えます。
兼俊はこの肝付氏宗家筋の分家の跡目に入り、先ずは肝付氏の通名を名乗った事に成ります。
この時に兼市なる人物が存在していたとすると、
1 兼俊が実父 兼市は養父(或いはこの逆)
と成ります。
兼俊の実子の兼重を養子の形で宗家に育てさせていた。その後は前回の説に成ります。
兼市は肝付氏の宗家筋の系譜には出て来ませんので、同一人物の可能性もありますが、2つの通名を使う可能性は低いと考えられます。長嶋として跡目を継承するのですから。
兼重が子供の中でも優れていたので事実は肝付氏宗家を動かすに至った程の人物であったのですから、一時、長男ではない兼重を分家に養子に出していたが育ち方から観て宗家を動かせる人物として戻して跡目を取らした。そして肝付氏宗家を側面から動かして立て直した。それだけに宗家は弱体化していた。
2 宗家系譜の思惑と、宗家筋からの系譜の思惑の違い
この時の状況が前回でも書きましたが宗家との間にゴタゴタがあった。
よって2の系譜偏纂に違いが出た。
と観ます。要はその前提です。
次ぎに100石ですが、この石高では武家では生活は困難です。普通最低で農業をしながら200石前後です。この石高は扶持米と観ます。
宗家に血縁のある家が商人などに成り出入りする時はそれに対して扶持米を出します。恐らくはお家は長嶋氏で血縁族であり「出入許可」の「御用商人」で「元家臣」で「経済的な事」を荷っていた時に出す「礼扶持米」のものです。
この石高の事でお家がどの様な立場にあったかが良く判ります。
以前のお便りの「こけら屋」の役目が証明できています。
普通の「出入り商人」では無い事が判ります。5人扶持程度かと思います。
肝付氏宗家本家が島津氏の明治維新まで有名な家老ですし、島津氏の家臣と成った時は長島の阿多地域と大隈の肝属郡の元の領国を本領安堵されていますので、肝付氏系長嶋氏としての家臣にしては100石は間違いです。何かの理由があります。遠戚分家筋の長島氏か長嶋氏の間違いではありませんか。
そこで、郷土史に付いて、郷土をよりよく見せる為に搾取とまでは行きませんが郷土の為に偏纂が実に多いのです。それはその編集の前提が搾取偏纂した氏の資料を基に編集されている事から起る間違いなのです。100%と信頼を置くかは自由ですが都度検証する必要があります。
次ぎに江戸時代は石高をその人の家の身分家柄の前提と成っています。
武士は上記した様に200石程度以上でこの石高では極貧です。これ以下は足軽程度です。共に半農半漁の生活と成ります。これが武士の基準と成ります。
青木氏のレポートでも各所にこれ等の事に付いて記述していますが、当時の平侍のレベルです。
例えば、柳沢吉保は徳川氏に仕官した時の石高は150石でした。その実父らの生活の様子が記録されていますが極貧で内職と農業でカバーしないと生きていけないレベルです。
100石のお便りはその意味でここから「扶持米」である事が判ります。普通当時は100石が扶持米の石高の基準でした。この時代から「2足の草鞋策」の「こけら屋」を採っていた可能性もあります。
商人ですと家族5人分として5人礼扶持米程度を与えられます。その関係する内容にも依りますが。
例えば、藩の勘定方は武士には弱いので豪商などの指導を藩は依頼します。この時に家臣ではないので扶持米として顧問料として出します。
お家は「こけら屋」として長嶋族としてその呼称から藩の勘定方の相談役か藩の年貢の裁役の商人や経理の実務や雑務請負などその一切を荷っていた事が云えます。今で云うと経理士か税務士か財務士等のコンサルタントの役目として指導していたと考えられます。
大きな藩はこの様な商人の指導を受けて藩財政の切り詰めをしていたのです。
因みに、筆者の先祖は「2足の草鞋策」で伊勢松阪の紙問屋の豪商でしたが、8代将軍吉宗が伊勢松阪で紀州徳川家の家老の加納家で育てられ、この加納家と加納屋と筆者先祖とは何度も血縁関係にありそのために吉宗を育てたのです。そのために吉宗が将軍に成った時に依頼されて江戸に赴き享保改革を勘定方として実行し、紀州藩に於いても勘定奉行として采配を振るったのです。
この時に家臣ではないので礼米として「十二人扶持」を受けたと記録されています。
この様に礼扶持米の制度があったのです。御用商人は石高ではなく地位と利権が大きい事が云えます。
藩の御用商人や豪商はすべて元は武士、或いは「2足の草鞋策」を執っていました。
お家の「2足の草鞋策」の始めた時期を特定すると更にルーツの詳細が判って来ると考えます。
100石はその情報かと観ます。
追伸 三河国珀海郡渡村に長島仁左衛門なる人物が江戸末期にいた事が判りましたが、お家のルーツ関係する人ではありませんか。
ちょっとした事がこの様に細部までご先祖の様子が判って来ます。
また何か判りましたらお便りください。