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  [No.1006] Re:静岡の長嶋です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/26(Wed) 15:14:39

お便りのご質問

1.肝付家の家紋を見ると『尻合わせ四つ結び雁金』、長島(長嶋)、肝付町永島氏は『顔を合わせ雁金』、そして宗家はもともと『対い鶴』と顔を合わせている。『結び』、『尻合わせ』、『雁金の数』には肝付氏族としての何かルールがあるのでしょうか。

2.伴氏から分かれた肝付氏以外の氏族も『鶴紋』が使われています。伴氏は『鶴紋』に関連はないのでしょうか。

3.『通名』についてですが、隠密の『総括(御師)』の立場であれば、規則を守りつつ、他者に対して分かりにくくする必要性もあるのでしょうか。


先ず[対鶴」にはそもそも7つの文様から成り立っています。
その内の一つは、全く別の系列の氏の家紋です。
その6つの「対鶴」文様は、「家紋構成」から観ると、4つが「一族紋」で、その基紋は、次ぎの通りです。
1「対鶴紋」で、宗家の家紋で一族の”「総紋]”です。この「総紋」は宗家しか継承出来ません。
2「喰い合い対鶴」は、本家と本流の分家筋紋で使えるものです。
3「対鶴に若松紋」は、「副紋」の形式で主紋として使用してその1の支流筋紋です。
4「糸輪に喰い合い対鶴」は2の更に分家筋文様と成ります。

元々、「対鶴文様」は、”「古来の慣習」”があって、これを組み込んだ「家紋構成」から観て、本来は、一つが、嘴を開き、一つは嘴を閉じる事が文様としては「慣習仕来り」と成っています。
従って、総宗本家が引き継ぐ「総紋」とは別に、この古来の「喰い合いの文様」の2つが正規の文様と成ります。
「対鶴」の基本文様の間に、「若松文様」が入ると云う事は、これは「副紋形式」の一つですが、本家分家筋の中で、「若松文様」の氏族の流れを持つ分家筋を示しています。
4の糸輪は、丸紋に類する文様で、この「丸付文様」は、「分家筋の表現方法」です。
従って、2の「対鶴」の分家筋と成ります。
そもそも、”「鶴の顔合わせ」”の文様が「対鶴」の基本形式です。
これを「嘴の位置関係」で、変化を付けて、本家ー分家のどの家筋のものかの判別をしています。

依って、お家の「対鶴紋」は、「顔合わせ文様」と、「嘴を合わせ文様」と、古来の「嘴の開閉文様」と、「丸付紋糸輪文様」の4つ使い分けているのです。

これがこの氏が持つ「慣習仕来り掟」の「統一概念」を滲ませたもので、この「家紋のルール」に成ります。
「総紋」を引き継ぐ宗家本家の「対鶴紋」は、この3つをもった文様と成ります。
この3つの何れかを変えて、「一族の位置関係」を判別できる仕組みに成っています。

そもそも、「結び」や「尻合わせ」は全く別氏の文様で、「鶴」にしても「雁」の文様にしても「数」も別氏の文様と成ります。

何れの「家紋」も、「家紋」というのは、その「家紋」の「宗家筋」が引き継ぐ「基紋」(「総紋」)を基本とするので、「基紋」から外れる内容の文様は、別氏の文様と成ります。
これは宗家本家が監視管理しています。
何れにも外れるものが一族から出ない様に監視していて、勝手に換える事や、勝手に作る事があった場合は、「追放の憂き目」を受ける事に成ります。
従って、宗家や本家に許可を求めて「基紋」から外れる事はありません。
別氏が、類似紋を使用した場合、廃止を求めて戦いに成った例が多くあるのです。

例えば、平安期末期に、「青木氏」では、「上田氏」が「滋賀青木氏」を、勝手に「青木氏の氏名」と「総紋」を使用して、戦いと成り、元の「近江青木氏」が負けると云う事が起こったのです。
(安土初期にも再燃するも、又、秀吉立ち合いの下でも負ける。)
但し、この例外の手法があって、そこで、血縁関係で他氏の血筋が入り、「純血」から薄れるような事が在った場合は、「副紋方式」を使います。
(但し、前回の”子供の定義”で、”「跡目」が変わらない範囲”で「純血方式」を採っている氏)

この「副紋方式」には、幾つかの方法が在りますが、「藤原北家秀郷一門」が良く使う手法は、「基紋」の中に、他氏の血縁状況の家紋を組み入れた家紋に変紋する事は許されています。
(参考、研究室の家紋掟等の詳細を参照)
藤原秀郷流一族はこの「副紋方式」を採用しているが、それでも長い間の跡目問題で361氏にも成っています。)

この場合は、藤原秀郷一門の24地域にも成る各地域の本家筋には、例えば、一族の氏の様な361氏にも成る大きい氏の場合に用いられます。
これで一族の同族血縁の弊害を無くす判別手段とも成り、一族の位置関係を判別手段と成ります。

小さい氏には、そこまでの、基紋以外の類似紋以外にルールはありません。

そこまでのルールにするには、藤原氏の様な超大氏族の枝葉末端を持つ一族一門でなくては「鶴紋全部」までも一族家紋とする事は不可能です。

そもそも、「鶴紋」は、室町期末期に公家の日野氏が、室町期末期に島津氏の副紋として使われたもので、その後に日野氏が独占的に使用する様に成ったものです。
その後に「家紋」と成ったもので、46文様も在り、この文様は、基紋としては 12紋に成ります。
つまり、氏としては12氏が用いていた事に成ります。

「鶴」は、平安期から、”延命長寿の吉兆”の図柄とされ、「古来の慣習」の内容を大きく含んでいます。
そこで「対鶴」文様には、この吉兆に”「仏教の阿吽」の意”が入っているのです。
この「家紋の作意」には、戦いで明け暮れていた室町期末期の時代に、一族が、”「延命長寿」”と”「一致団結」”とに恵まれ、且つ、それぞれの”「家の役目」”を果たして、”長く存続”が出来る様に願った意を持つ文様です。
これを「他の鶴の図柄」に変えると、その意味合いが変化してしまいます。
その意味でも、「類似紋」の範囲で留める仕来りなのです。

「鶴」の発祥紋の家紋は、「日野鶴の丸紋」(家紋)と「島津鶴の丸紋」「島津氏の副紋」で、何れも「戦旗紋」として使われました。
後は「後発の氏」の「類似紋類」(10)に成ります。
この中に「対鶴」があり,前回のお答えと成ります。

そこで、家紋にはある一定の構成を持っていて、「江戸初期の類似紋禁令」で、これを「ルールの基盤」として出来ているのです。
そもそも、「家紋」としての文様が、使われたのは室町期からの事で、元は藤原氏や青木氏の様に「高位の武家の象徴紋」から来ています。
室町末期からは、下剋上や戦乱に依って興った「勃興氏]が家紋化して、江戸期には、全ての武士が苗字と家紋とを用いて、「氏の一族性」を誇示する様に成ったものです。
「氏の一族性」を誇示するには、基本に成る「基紋」を定め、それを「総紋」とするのです。
「総紋」を持つ氏と成ると、相当に大きい「枝葉末孫」を持っている事に成ります。
当然に、「副紋」は、「枝葉末孫]を持つ更に大きい氏と成ります。

その基と成ったのが、江戸初期に発祥した「旗本と御家人」からで、これを真似て他の武士も苗字と共に「家紋」を持つ様に成ったのです。
この「家紋」の「ルール」と「判別方法」の規制は、主に「江戸初期の禁令」から来ています。

従って、上記した様に、「基紋」が構成した時点の”祖の氏の出自状況”が基本と成っていますから、なかなかその氏の出自や慣習事を知らないと、更に家紋に慣れないと判別は難しいものです。
これには「古来の慣習」、 例えば、「鶴文様」であれば、[嘴の開閉」等の知識(古来の文様の仏教知識」が基に成っています。
(古来の生活概念の歴史観の知識が必要)
例えば、「鶴」には、”昇り、降り、喰い、立つ、舞い”等の「基本形」があります。
それには、ある意味の持つ「古来の慣習や仕来りや掟」が、大きく宗教的で仏教的な意を含んでいるのです。
その基は、そもそも、「高位の身分の象徴紋」から来てる為に、その身分階級の中で生まれた「生活慣習」が家紋に反映されているのです。
多くは「神道や仏教」などの「日本の宗教的概念」から出たもので、昇、降りの意味、立つの意味、喰いの意味、舞いの意味などは、この「古来の生活慣習]のものから来ています。 
従って、「悠久の歴史」と「高位の武家の身分」を持つ九州の豪族の「肝付氏」には、この「古来の生活慣習の意味」を一族の文様に大きく反映されているのです。
「島津氏等」は、室町期中期からの「勃興氏」であり、「戦時の氏の思惑」などの大した意味が在りませんが、「副紋や類似紋」のものは少ないのです。
比べものに成らない「氏の歴史」を持つ「肝付氏」に取っては、この「古来の慣習」では比べものに成りません。
当然に「氏族の基本ルール」として、その中の一族一門の氏族には、働いているのです。
その”動く象徴の文様”が、その「氏の伝統」となり、それを総括して表す「家紋」と成りますが、「肝付氏」には、この内容が多いのです。
当然に、後発の九州の超豪族大蔵氏の「雁金文様」にもある事に成ります。

依って、同様の考え方で、この「基紋]から外れる「雁金文様類」は全て肝付氏のものでは必ずしもありません。

地方の超豪族の肝付氏は「青木氏]と並ぶ位に奈良期からの氏族です。
そこに、「朝廷の五大官僚族」の藤原氏と並ぶ”「伴氏」の血筋”を「肝付氏」は持っているのですから、島津氏とは比べものに成らない「古来慣習」で縛られていたのです。
家紋を観れば、この氏の「古来慣習」、即ち、「伝統の内容」が判るのです。
前回にもお答えした様に、「地域の慣習」も含めて、それが「一族の象徴紋」であった家紋に反映されているのです。
更には、この「肝付氏」は,後漢の民族とその首魁の血筋と生活慣習も持ち合わせているのですから、夫々の文様の違いには大きな意味を持っていたのです。
この様に、その氏の「慣習仕来り掟」は、全国でもトップにある青木氏以上にあるかも知れません。
これを述べると「家紋学」に成ってしまいますので、ここまでとします。

雁紋の「結び」や「数の違い」に成っている事は、「基紋」から外れていますから、別氏の家紋です。
前回のお答え通り「雁文様類」は、「53文様」あり、多くは江戸初期に武士に成った者の家紋類と、明治初期の民衆が苗字に伴い家紋を持った時の文様類です。
明治期の家紋と江戸初期の家紋は、兎も角も、大きく分けると、室町期初期からの武家5氏に分けられます。

基紋の雁金紋類
三つ雁紋類
二つ雁紋類
結び雁紋類
雁の複合紋類
以上に分けられます。

この5つの氏の文様が、嘴や顔合わせや尻合わせ等の類似紋で判れます。
本家分家支流と別れ、20程度に「雁文様」が占めています。
この範囲で家紋にその「氏の意味」を持たせています。

全体の53文様から次ぎの様に分けられます。
基紋の雁文様は5文様
二つ紋類は8文様
三つ紋類は10文様
結び紋類は15文様
複合文様類は15文様

以上53文様に成ります。

次ぎは2のご質問ですが、先ず、”伴氏から別れた肝付氏”とするのは間違いです。
そもそも、「伴氏」は、奈良地域を基盤とする「古い氏族」です。
役目柄で、九州にその一族を差し向けたのであって,そのために地元の肝付氏との血縁をして、「現地の末裔」を遺したのであって、その一族は奈良に帰っています。

そもそも、「伴氏]は「奈良期の高級官僚」で、「弁済使」の役目(税務官僚)を専門とする官僚族で、恐らくは、その祖は「後漢の阿多倍」が引き連れて来た「職能集団の事務方の部」の氏族の筈です。
この頃は、未だ「家紋」はおろか、取り分け「象徴紋」そのものと云う概念は未だありませんでした。
その最初に持ったのが、「皇族賜姓族」で「朝臣族」で「臣下族」の「青木氏」ですが、天智天皇から「賜姓」と共に、初めての「朝臣族」の[賜姓族」を示すものとして、且つ、初めて「臣下族」を示すものとして、与えられたのが始まりです。
況や、初めての「象徴文様」で、皇族の出自族の「臣下族」(天皇を護る護衛侍)として「象徴物」としての「大日如来坐像」と、その「笹竜胆紋」が与えられたのです。
(笹竜胆紋には、「類似紋」は無く、奈良期からの禁令です。依って、本家分家方式は採用していません。福家方式です。前回のお答えの通り「同族血縁による子供の方式を採って家紋の変化を無くしている。)

それ以後に、「高位の氏族」は、「象徴紋」を与えられて持つ様に成りました。

この基は、後漢の帰化した朝廷の官僚と成った職能集団が、「官服の袖元」に、「中国の役人の役務慣例」に従って、その「職能の判別」と、「職能の位階」を示す文様として用いていました。
例えば、武田氏系青木氏の「唐花菱紋」などはこの流れの文様です。
「足利氏系青木氏」の「二引き両紋」もこの「職能の位階」を示す文様で在ったのです。

従って、「伴氏」には、始めから「鶴紋」が在った訳では無く、「鶴」とは別に成りますし、室町期の時のこの伴氏は既に衰退していましたので、正規の家紋は無いと思います。

その後の「伴氏」の血筋を引く現地の末孫の者が、何らかの文様(役目柄の唐文様)を仕立てたと観られます。
「鶴」には限らないと考えます。

「伴氏」は、元々は飛鳥ですので、現実に記録から役務が終われば飛鳥に帰っているのです。
関西の奈良を中心には、真偽は別として、その主流としてのその流れを組む氏族(役柄を示す唐文様)は多くあります。
九州では、その役務滞在の結果として、北九州にその現地末裔を遺したもので、その位置づけは「傍系族]と成ります。
その血筋を強く持ったのが、「日向の肝付氏」であると云う事で、その役目柄から、最も「伴氏の血筋」を引いている事に成ります。

関西の「伴氏の末裔」の家紋が、どの様な「系統性」を持っているかは、氏として大きく衰退したので、正確には判りませんので述べられません。
恐らくは、九州の現地の「遺流孫の末裔」ですので、本流ではありません。
依って、むしろ、「氏族」としての「伴氏」の生き残りは、九州では「肝付氏系」に所属する事に成りますので、肝付氏と同じ類似家紋となっていると考えるべきです。
(「大蔵氏」とも血縁をしている。)

平安時代の後期には、九州に「伴兼貞」の子の「伴兼俊」が末裔の血流の肝付氏を遺した事に関わります。
この「現地末孫の傍流」が「肝付氏」を通じて、ベースとして「雁金文様」を、中には古の祖の家を現地に興して「舞鶴文様」などの末裔が引き継いでいる事にも成るでしょう。
(お家の「兼」の大元の通名は、この「伴氏の兼」から肝付氏を介して長嶋氏に来ている事でも判るのです。)

3のご質問ですが、
「諜報活動」を主務とする場合は、総括の御師(おし)と云えども、家筋を明確にする事は先ずありません。消す事が基本です。
(江戸幕府では、隠密の御師の柳生氏などが”柳生忍者”として暗躍した。)
在ったとしても、”おし”の場合は、「二足の草鞋」の様に、同一人物が別人に成りすますと云う手口を使いました。配下は藩士も判らない様に完全に消します。
「忍者」の様に、飛び跳ねるの務めは無いにしても、人との付き合いの広い「商人」などに化けていた筈です。
もし、暴かれたとしても、藩に類を及ばない様にします。
西郷隆盛の若い時の様に、明確にする「調略の役目」もありましたが、主に調略を主務とする班と、情報を操る班の二つに分けられています。総括をしていた西郷は前者です。
この両者が連絡を取り合い、「調略役」からの指示命令を待つ事に成ります。
お家は後者の御師役であった可能性が高いと観られます。
大久保氏暗殺までの期間(明治11年まで)に、この「役目柄」として働いたのではないかと観られます。
これによりお家の生活環境は一変している筈ですから、お家のこの時期の明治11年頃の家の中での変化がこれを証明して居る筈です。
つまり、大きな変化のあった「太吉さんの頃」ではないでしょうか。

以上です。

可成り、歴史観が深く成ってきましたね。
この様な歴史の知識を深めて、お家流の推論を証拠立てる事が必要ですね。

今回も、お便りは秘匿とします。お答えだけのご返事ですが、また、ご質問があれば、お尋ねください。



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