福管理人さん、こんにちは。
当家の家紋が、なぜ丸に根笹かということについて、解決することができ、本当に感謝いたします。
後は、大蔵氏族肝付氏系長嶋氏に関わる書き物があれば、最高なのですが、難しそうですね。
でも、諦めず色々と調査してみます。
自分に情報について、伝達不足の部分もあり、申し訳ありません。
謄本等で分かる範囲について、再度お伝えさせて頂きます。
長嶌太吉:1800初頭(文化?)生妻りわより推測、1872(明治5)年卒
妻) りわ:1815(文化15)年生(牧野喜平長女)、1898(明治31)年卒
1841(天保12)年に結婚。りわ26歳。(江戸時代の結婚適齢期14〜17からするとかなりの晩婚)
長女)長嶌とめ:1849(嘉永2)年生、1899(明治32)年卒
養嗣子) 源吉:1844(弘化元)年生(杉浦幾次郎次男)、1914(大正3年)卒
→幕末寄合格に(岡崎市史より)
1870(明治3)年に結婚。源吉26歳、とめ21歳。長嶌→長嶋に変名。母りわ55歳より太吉50〜60歳。
1872(明治5)とめ結婚2年後、太吉亡くなる。
杉浦幾次郎:1876(明治9)年卒、妻:1880(明治13)年卒
墓石
杉浦幾次郎、妻:戒名のみ家紋無し(墓石は御影石で、立て直した可能性、杉浦源吉の名あり)
長嶌太吉、りわ、禅定尼:戒名のみ家紋無し(砂岩)
長嶋源吉、とめ:戒名のみ家紋無し(砂岩)
長嶌太吉→長女:とめ
| 長男(夭逝) (長男・次男戦死)
養嗣子:源吉→長男 →次男 →三男 → 長男 (川路に移住後の本家)
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→三男:(1900生)→長男(1938生)→長男:自分
→「氏の仕来り」や「社会慣習」や「国抜けの制度」や「移動制度」などの諸々の制度が絡む。
特に、江戸末期の幕府は騒乱を抑える為に移動や定住や住民証明(血縁など)には3重の許可が必要で「役所」と「所属の寺」の証明と「氏の本家」のお墨付きが必要に成っていたのです。
もっと細かく言うと庄屋や村役の届けも必要で任別帳に関わることもあり簡単な事ではなかったのです。
それだけに騒乱の基となる「国抜け」に対しては幕末は宗教改革や一揆や倒幕と相まって極めて厳しく取り締まったのです。
この条件をクリヤーするには源吉さんの苦労は杉浦家と云うものを背負っていてその苦労は目に見えています。
これは、あくまで僕の推測なのですが、
この縁談については、商売関係で知り合いより、太吉さんが幾次郎さんに持って行ったのではと推測しました。
太吉さんは『太』が付いていることから、仮の名前であるとしても、嫡男であり、長嶋家を後生に繋いでいかなければと云う義務感を持っていたと考えたからです。
上記の国を跨いだ間での結婚に太吉さんが、『二足の草鞋』として薩摩藩の裏の仕事をしていたとするのであれば、太吉さんの仕事自体が、福管理人さんがご指摘した危険を伴うものに関わっていると考えられますので、太吉さんからのアドバイスがあったのではと考えました。
そして、そういう仕事をしていたのであれば、時代の流れに対しては敏感であったでしょうし、幕府崩壊、明治政府の設立に関して、また政策についても太吉さん薩摩藩の所属であることからある程度も情報を持っていたのではと推測しました。
そして、、結婚については、明治以前にある程度決まっており、様子を伺いつつ、明治になってから行ったのでは、それは、結婚時源吉26歳、とめ21歳にも現れているのかのと推測しました。
太吉さんから源吉さんへの戸主変更の謄本には以下の記載もあり、
源吉の欄:明治・・・當町字新城平民杉浦幾次郎二男養嗣子
太吉妻りわの欄:天保・・・當町字新城平民牧野喜平○亡父喜平長女・・・
福管理人さんが指摘していた対策なのかなとも考えました。